第六話 髑髏

 

  プロローグ

 

 午前一時の住宅街を、ぐったりと疲れた顔で男は歩いていた。背広で書類ケースを提げた姿は残業帰りのサラリーマンといった風情だ。年齢は五十代の半ば程か。禿げかかった頭頂部をバーコード状に左右の細い髪が補っている。

 立ち並ぶマンションの窓は大部分、既に明かりが消えている。男は冷たい風に身を震わせながら、長い溜息をついた。

 通り道に面したコンビニから洩れる光が男の横顔を照らした。男は立ち止まって淀んだ瞳を向け、やがて静かな店内へ足を踏み入れた。

「いらっしゃいませ」

 レジに立っていた店員が元気良く挨拶した。

 疲れた自分との対比に気づいたのか、男は自嘲的な笑みを浮かべた。

「見ない顔だな。大学生って年じゃなさそうだけど、正社員かい」

 雑誌を立ち読みする気力もなく、直接弁当の棚に向かいながら男は店員に声をかけた。

「いえ、バイトです。本業でなかなかお金が入りませんので」

 にこやかに答えた店員の身長は百九十センチを超えていた。自分で切ったものらしく髪は左右非対称だ。年の頃は二十代の後半から三十代の前半といったところか。彫りの深い端正な顔立ちに蝋のような白い肌は、何処となく不吉な印象を与える。気怠げな瞳と口元に自然と浮かぶ微笑が特徴的だった。

「今は不景気だもんなあ。俺もこの年になって散々こき使われてるよ。単身赴任でさあ、これから夕飯さ」

 幕の内弁当を一つ選び、男はレジまで持っていった。

「生きるってのは、なかなか大変なことですねえ」

 しみじみと言いながら、店員はバーコード読み取り機を掴んだ。先端が下に向かってカーブした、コードの付いた電動カミソリのような機械だ。

 ピッ。

 黒贄が機械の先端を弁当のバーコード部分に当てた。液晶の表示板に四百八十円と表示される。

「くろ……くろにえって言うのかい。珍しい名字だな」

 財布を取り出しながら男は店員の胸にある名札を覗き込んだ。

「いえ、くらに、です。よく間違えられるんで困っているんですよ」

 黒贄礼太郎は弁当を脇にやると、無造作に男の首筋を掴んだ。

「な、何だ、おい」

 男が驚いて抗おうとしたが黒贄の腕力は絶大で、男の身を屈めさせてその頭を台の上に載せた。

 細い髪の筋が横に走る頭頂部に、黒贄はバーコード読み取り機を当てた。

「やめろよ、何の冗談だ」

 男が手をバタバタさせて怒鳴る。

「ふうむ」

 黒贄は液晶の表示板が無反応なのを見て首を傾げた。

「おかしいですな。ピッと言わない」

 黒贄の顔は、真剣だった。

「きちんと押し付けないといけないのですかな」

「お、おい、やめいででででえっ」

 黒贄は構わずに、読み取り機の先端を男の頭にぐいぐいと押し付けた。

 ゴキゴキ、と、嫌な音がした。

 読み取り機は、男の皮膚と頭蓋骨を突き破って脳内まで減り込んでいた。黒贄の手首までがガッポリと埋まった。脳の欠片がはみ出して、男の眼球が飛び出した。

「ありゃりゃ」

 痙攣する男の体を黒贄は呆然と見下ろしていた。

「おーい黒贄、どうした」

 控え室から欠伸をしながら出てきた店長が、レジの光景を見て立ち竦んだ。

「すみません、お客さんが死んでしまいました」

 黒贄は情けない顔になった。

 店長は忌々しげに口を歪めて言った。

「全く役立たずだな。今日の分のバイト代はなしだ」

「はあ」

「死体は裏に捨ててこい」

 動かなくなった死体の首筋を掴んで、黒贄は自動ドアを出ていった。裏のゴミ捨て場に回りながら黒贄は寂しげに嘆息した。

「生きるってのは、本当に大変なことですなあ」

 ゴミ捨て場には既に五つも死体があった。

 

 

  一

 

「た、たた、助けてくれ」

 全身が沈み込みそうな柔らかいベッドから転がり落ちた男は、これまた足首まで埋まりそうな絨毯に膝をつき、顔を恐怖に引き攣らせながら哀願した。男の体は丸々と際限なく肥え太り、はだけたパジャマの胸元から渦を巻く剛毛が覗いている。

 そんな男を正面から見下ろす女の瞳には、男に対する嫌悪感と、憐憫のような翳りが共存していた。女は二十五、六才に見えた。身長は百七十センチ程で、モデルのように見事なプロポーションを薄手のコートで覆っている。靴は一見フォーマルだが動きやすさを重視しているのかトレッキングシューズだ。艶やかに光を反射するショートカットの髪は、うなじから喉元にかけて切り下げるように斜めに揃えられている。すらりと通った鼻梁に隙のない目元、白い肌に対照的な真紅の唇は、ガラス細工のような美しさと脆さを内包していた。

 寝室の扉は女の背後にあり、開け放たれたそこからは、点々と淡いライトで照らされた廊下が見えていた。

 廊下の床に、二人の男が倒れていた。屈強な肉体を地味なスーツで包んだ男達の手には拳銃が握られている。それを発射するチャンスを彼らが持たないことは、床に広がっていく血溜まりが証明している。

 断末魔に顔を凝固させた護衛達の喉は、ぱっくりと深く裂けていた。

 寝室の絨毯に、ゆっくりとしたペースで赤い水滴が落ち、小さな染みを作る。

 それは、女の右手に握られた刃から滴り落ちていた。長さ十二センチ程の、菱形の薄い刃だ。刃先に接する二辺の縁は剃刀のように鋭く砥がれ、新しい血が付いている。手前の二辺は角の近くを除いて砥がれておらず、その部分を女の右手が掴んでいる。黒い皮製の手袋は、触覚を鈍らせないためか指の半ばまでしか覆っておらず、繊細な白い指先が見えている。菱形の手裏剣の、鋭い刃先の反対側には小さな丸い穴が開いており、釣り糸のような透明な糸が通してあった。それは注意して見ないと気づかない程に細かった。

「おおお、お願いだ。命だけは助けてくれ」

 男は額を絨毯に擦り付け、女の方へとにじり寄ってきた。引き締まったふくらはぎへすがりつこうとするのを女は素早く躱し、疲れた声で言った。

「悪いけど、私も生きていたいの」

 鋭く小さく、風が鳴った。

「カフッ……」

 目を一杯に開いて顔を上げた男の、二重顎の下、やや左側に、菱形の刃が深々と突き刺さっていた。手首から先だけの動きで、女は刃を投げたのだ。

 男は喉の違和感の原因を確かめようとするかのように、両手を震わせながら自分の首に近づけた。女が軽く手首を動かすとあっけなく菱形の刃が抜けて、魔法のように女の手の中に戻った。どうやら菱形の刃と女の手は透明な糸で繋がっているらしい。

 男が自分の喉に触れた時には、ぱっくりと裂けた傷口から血が噴き出していた。刃は男の左頚動脈を完全に切断していたのだ。両手を自分の血で染めながら、男の瞳から意志の光が失われていく。

 血溜まりの中に前のめりに沈んでいく男を、女は何処となく寂しげな眼差しで見つめていた。

「スコルピオン。片付いたか」

 女の背後から、太い男の声がした。

「ええ。そっちはどう」

 特に驚いた様子もなく振り向いたのは、女は男の気配に気づいていたのだろう。

 その男はゴリラのような筋骨隆々たる体格を誇っていた。坊主頭に近い髪に、突き出た頬骨。昏い瞳は酷薄な色を帯びている。

 男の右手には、血塗れの蛮刀が握られていた。ノースリーブのシャツには大量の返り血が付着している。

「全部始末した。生きている者はこの屋敷にはいない。ガソリンも撒いてある」

「そう」

 女は俯いて、瞳の翳りを隠した。

「では行きましょう、アキレス」

 女はポケットからティッシュペーパーを一枚出して、菱形の刃の血を拭った。指を軽く曲げると、刃はコートの袖の中へ自然に収まった。

 二人は階段を下りて玄関へと向かった。男は蛮刀を血の付いたままベルトに差し込み、マッチ箱を取り出した。一本に火を点ける。

 ガソリンの匂いの充満する広間を通り抜け、女が先に玄関を出ると、男は燃えるマッチ棒をガソリンで濡れた床に放り投げた。忽ち炎が広がっていく。

 二人は早朝の靄の中へ出た。すぐ側に灰色のセダンが停まっていた。女が運転席に、男が助手席に乗り込んだ。

 女がエンジンをかけて出発した時、玄関から炎と煙が洩れ始めていた。

「今夜の仕事は簡単だったな。拍子抜けしちまったぜ」

 走る車の中で男は言いながら、蛮刀を外して座席の下に置き、血の付いたシャツを脱いだ。燃え上がる屋敷は背後へ消える。

 男の胸や腹の数ヶ所に、小さな金属片が埋まっていた。男が大きく息を吸って力を込めると、全ての金属片は前に迫り出して零れ落ちた。

 それらは、潰れた鉛の弾だった。

 男の皮膚には傷一つ残っていなかった。

「あーあ、喉が渇いたな。喫茶店とか寄ってくか」

 座席を後ろに倒して背中を預けると、男は言った。

「こんな時間に開いてる店なんてないわよ。シャツを絞ってみたら。血が一リットルくらいは出るんじゃない」

 素っ気なく女は応じる。

「へっ、よく言うぜ」

 男は蛮刀の血を脱いだシャツで拭う。

「後ろに魔法瓶があるわ。コーヒーが入ってる」

「じゃあ、貰うぞ」

 男は腕を伸ばして手探りで銀色の水筒を取り、代わりにシャツを後部座席に放り投げた。コップ兼用の蓋に中身を乱暴に注ぎ込む。

「熱いわよ、多分」

 前を向いたまま女が告げる。

「構わねえよ」

 男は中身を一気に飲み干した。が、その後で粗暴な顔が苦しげに歪む。

「さ、砂糖の入れ過ぎだろ。お前が甘党とは知らなかったぜ」

 そう言いつつも、男は二杯目を注いでいる。

「文句は言わないでよね」

 女はちらりと横目で、男がコーヒーを飲んだことを確認し、すぐに視線を戻した。

 男は二杯目を飲み干した後で蓋を閉め、水筒を後部座席へ戻した。

 セダンは薄い靄に包まれた街を静かに進んでいた。まだ人影も殆どない。

 黙々と運転を続ける女の横顔をのんびりと眺めつつ、両手を頭の後ろで組んだまま男が言った。

「なんだか浮かねえ顔だな、スコルピオン」

「私ね……」

 交差点を曲がりながら、女は少し躊躇った後、先を続けた。

「最近、よくあの場面を思い出すのよ。二年前だったかしら、県知事の屋敷に押し入った時のこと」

「ああ、ありゃあ大掛かりだったな。カメレオンもナイトハンドもいた。そうそう、あのブラックソードもいたな。痛快だったよなあ、襲撃予告しておいて、百人近い警官隊を殺し捲ってよお」

「……。県知事の孫もいたわよね。戸棚の中で震えてた。五、六才の女の子で、丁度、私が攫われた時と同じくらいの年頃だった」

「ああ、そんなのがいたっけな」

 気楽に答える男に、女が初めて鋭い非難の視線を向けた。

「私が頼んだらブラックソードは、見逃してもいいって言ってくれたわ。ブラックソードが出て行った後で、それをあんたは殺したのよ、アキレス」

 男は皮肉に唇を歪めた。

「ハッ。ブラックソードは甘ちゃんなのさ。あんな化けもんのくせしやがってよお。皆殺しがスケルトン・ナイツの鉄則だ。幾ら助けたくってもしょうがねえだろ」

「あんたは笑いながらあの子の首を刎ねたわ」

 女の目には涙が滲んでいた。しかしすぐに前へ向き直ると、女の顔から激情は去り、急速に瞳が冷えていく。

「そうだったっけな。ん。おい、方向が違うんじゃねえのか」

 窓の外に流れる景色を見て男が聞いた。車は街を抜け、海沿いの崖の上を走っている。

「いいえ、こっちで合ってるわ」

 女は答えた。

「そうかな」

「私、組織を抜けるわ」

 突然の女の言葉に、男は目を丸くして身を起こした。

「何だって。本気か」

 男の目は、信じられないと言っていた。

「本気よ」

「馬鹿か。そんなこと出来るわきゃねえだろ。これまでの仲間が束になって追ってくるぜ。逃げられる筈がねえよ」

「あんたはどうするつもり。一緒に抜ける気はある。それとも……」

「そりゃあ、お前を縛り上げてボスの所に突き出すさ。俺はまだ死にたくねえしよ、結構この仕事を気に入ってるんだぜ」

「あんたならそう言うと思ったわ」

 女の口調には侮蔑の響きがあった。

「だがその前に、お前の体の味を試してみるのもいいな。車を停めろよ。どうせお前の尻尾じゃあ、俺の皮膚は破れねえぜ」

 男は下卑た笑いを浮かべ、座席の下に置いていた蛮刀を手に取った。

 だが男はすぐ、不思議そうに顔をしかめた。蛮刀を握る右手が、小刻みに震えている。

「私が武器に毒を塗ることがあるのは当然知ってるわよね」

「で、でも、おまえろ……」

 男の呂律が回らなくなってきた。

「さっきのコーヒーの中にも強力なのを混ぜておいたわ。幾らあんたの皮膚が硬くても、胃袋はまともでしょ」

 女の声は飽くまで冷静だった。

「ころ、くろらら……」

 ゲブッ、と、男は大量の血を吐き出した。振り上げた右手から蛮刀が落ちる。その顔の胸の腕の皮膚が、どす黒い色に変わっていく。

「この辺の潮の流れは速くてね、死体はなかなか見つからないそうなの。それで出来るだけ時間を稼ぐつもりよ」

 岸壁にぶち当たる波の音が、遥か崖下から聞こえている。

 男の充血した眼球が、前に迫り出して転がり落ちた。眼窩から血と脳漿が噴き出して、口から溢れるものと共に座席を濡らす。

「私は自由を掴んでみせるわ」

 悲壮な決意に口元を引き締めて、女は言った。

「ゴボァッバッ」

 このまま動かなくなると思われた瀕死の男が、突然運転席の女へ飛びかかった。だがそれよりも早く女はドアを開けて、時速六十キロで走るセダンから飛び出していた。

 運転者のいなくなった灰色のセダンはガードレールを突き破って宙へ躍り出た。五十メートルの高さから放物線を描いて落下し、荒れた海面に叩きつけられる。

 揺れながら少しずつ沈んでいくセダンを、破れたガードレールの近くに立った女は暫くの間見守っていた。その瞳に感情の色はない。

 女は、無傷だった。

 セダンが完全に沈んだのを確認して、女は靄の中へ消えた。

 

 

  二

 

 狭い裏通りは昼間にも関わらず薄暗く、陰鬱な静寂に支配されている。吹き付ける冷たい風には微かに血の匂いが混じっていた。

 薄手の黒いコートを羽織った女は、油断なく周囲に気を配りながら足早に進んでいた。どうやらこの場所を訪れるのは初めてらしい。女の履くトレッキングシューズは殆ど足音を立てなかった。女の右手は黒い革製の手袋が指先以外を覆っている。

 前へ傾斜するように切り揃えられた髪。冷たい美貌には不安の翳りがある。

 女の目の前を丸々と太った鼠が通り過ぎ、脇腹に火傷痕のある痩せた猫がそれに続いた。猫が鼠を捕らえた瞬間、瓦礫の中から飛び出してきた数十匹の鼠が猫の全身に食らい付いた。捻れた叫び。鼠の群にたかられてもがく野良猫を女は寂しげに眺め、すぐに目を離した。

 女が歩きながら素早く背後を振り向いた。視線の先には誰もいなかったが、女の目は鋭く細められていた。

 女が軽く右手首を振った。袖の中に隠れていた菱形の刃が滑り出て、女の手の中に収まった。

 コツ、コツ、と、後方で足音が聞こえた。二人か、三人か。

 女は振り向かず、代わりに足を速めた。刃を握る手に余計な力が篭もり、それを自覚したのか女はすぐに力を緩める。

 倒壊しかかった古い建物の間を女は走った。スプリンターのような見事なフォームだった。スカートの下からストッキングに包まれた引き締まった足が覗く。

 背後の足音も、ペースが速くなっていた。女の足はかなり速かったが背後の者達はそれを上回っているようで、足音は次第に近づいている。

 女はふと顔を上げた。前方に比較的まともな形状を保ったビルがある。四階建ての最上階に『黒贄探偵事務所』と下手糞な字で描かれた看板がかかっている。

 女は小さく安堵の息を洩らし、ラストスパートに移った。入り口の扉を押し開けると蝶番が軋みを上げる。

 一階はゴミが転がっているだけで何もないフロアだった。女はそれを確かめるとすぐに階段を上がった。

 二階も同じ、三階も同じだった。ただ、次第に増えていく床の赤い染みと、濃くなってくる饐えた匂いに女は眉をひそめた。

 静かに階段を駆け上がり、女は四階に辿り着いた。殆ど息を乱していない。

 血臭と腐臭は耐え難い程に強くなっていた。フロアは壁によって仕切られている。正面のドアには『黒贄礼太郎探偵事務所』と表札が付いている。

 札の下に色褪せた貼り紙があった。電灯のない暗がりの中、女は顔を近づけてそれを睨んだ。

 貼り紙には『受付時間は午前十時から午後六時までです。それ以外の時間帯には探偵として応対出来ない場合があります。』とあった。

 女は腕時計を見た。アナログの時計だが、パネルの下部にはデジタルの小さな液晶画面が付いている。

 時計は、午前九時五十六分四十五秒を示していた。

 女の顔に逡巡が浮かんだ。ドアの隙間からは光が洩れている。探偵は中にいるのだろう。しかし女はドアノブに触れようとして手を止めた。屋外よりも強い冷気がフロアに蟠っている。

 女はドアをノックして、奥へ声をかけてみた。

「依頼があるんだけど。入ってもいいかしら」

 返ってきたのは沈黙だけだった。奥で動く気配もない。中に探偵がいるのかどうか疑い始めたらしく、女の顔を不安が広がっていく。

 と、ビルの玄関を開ける蝶番の軋みが四階まで聞こえてきた。数人分の足音が階段を駆け上ってくる。

 十時になる前に、気配は四階まで到達するであろう。

 女は決断した。ドアをもう一度ノックして、女は奥へ声をかけた。

「急いでいるの。入るわよ」

 女はノブに手をかけた。静かに回し、ゆっくりとドアを引いた。やはり錆びている蝶番が軋む。

 ブン、と、唸りを上げ、ドアの隙間から何かが凄い勢いで迫ってきた。上方から弧を描いて降ってきたそれは金属部分が二十センチ程の長さの熊手だった。太い三本の爪は丁度女の目の高さを狙っていた。

「あっ」

 女は咄嗟に上体を反らした。尋常でない反射神経だった。熊手はぎりぎり女の顔の前を掠っていった。髪の毛が数本持っていかれた。避けるのが一瞬遅ければ女の顔面に熊手が根元まで突き刺さっていたことだろう。女はそのまま床に倒れたが、左手で体を支えて尻餅を免れた。

 開け放たれた事務所の入り口に、上から逆さにぶら下がった男の顔が覗いていた。整髪料を使っていない髪が重力のため逆立ったように見える。男の顔は光の加減でよく分からないが、異様な笑みを形作った口元の陰影だけが認められた。礼服を着た男の右腕が大型の熊手を握っていた。逆さにぶら下がる自分の体を支えているのか左手は見えない。

 突然の攻撃に対し女の右手が閃いた。風を切って菱形の刃が飛び、男の首筋に突き立った。

「ありゃ」

 男の体が落下した。頭から床に落ちてゴキリと嫌な音がした。大の字になって仰向けに倒れる男の首は妙な角度に曲がっていた。女が右手首を軽く振ると、男の喉元深く突き刺さっていた菱形の刃が女の掌に戻った。ぱっくりと開いた男の傷口から血が溢れ出す。

 立ち上がった女は半ば呆然として、男の側に近づいていった。男の見開かれた目は、既に凝固したまま動かなくなっていた。

「なんてこと……」

 絶望を噛み締めるように呟く女の背後で、数人の重い足音がこのフロアに到達した。

 振り向きざまに放った菱形の刃は、硬い響きと共に甲冑によって撥ね返された。

 上がってきた三人は暗い灰色の金属によって全身を覆っていた。関節部は連続した短い体節によって構成され、昆虫のような無気味な姿となっている。フルメットになったマスクで、硬質ガラスのゴーグルの奥に男の目鼻が見えた。男達はそれぞれに、篭手を付けていても扱えるようにカスタマイズされた自動小銃を構えていた。殺気が女の全身を叩く。

 女は素早く身を翻して事務所の中へ逃げ込んだ。立ち続けの銃声。通りに面した窓のガラスが割れ、数々の仮面を飾った壁に穴が開いていく。

 フルアーマーの男達が事務所に踏み込んだ。女は机の陰に身を屈めた。菱形の刃が魔法のように宙を跳ね、先頭の男の持つ銃身に亀裂を入れた。再び発砲した時その自動小銃が破裂し、先頭の男がメットの下から苦痛の声を洩らす。右手の指が二、三本、金属の篭手ごと吹き飛んでいた。

 だが他の二人は冷静に机の横に回り、女に銃口を定めていた。窓から飛び出そうと膝を落とした女は、しかし、飛び出す前に蜂の巣にされると判断したらしく動きを止めた。女は四階の高さから無事に着地する自信があったのだろうか。

「動くなよ、スコルピオン」

 男の一人が篭もった声で告げた。

「畜生、この尼、俺の指が……」

 銃を破裂させた一人が、右手を押さえて憎々しげに呻いた。

「こんなに早く捕まるとは思わなかったわ」

 溜息をついて女は言った。諦めたように俯く女の瞳は、実際には光を失ってはいない。

「ポイズンテイルを床に落とせ。ゆっくりとだ」

 言われた通りに女は右手を開き、菱形の刃を床に落とした。小さな音が静かな部屋に響く。

 男達の注意が右手に注がれている間、自然に垂らした女の左の袖から同じ形の刃が滑り出て掌の中に収まった。

「これから私をどうするの」

 女は尋ねた。

「ボスの所へ連行する。どうなるかは分かっている筈だ。脱走者が処刑されるのを、お前も何度となく見てきた筈だからな。しかもお前は仲間を殺している。覚悟を決めておいた方がいいぞ」

「覚悟ならいつでもしているわ。五才の時からね」

 女は冷笑した。

「あげげげげ」

 唐突に発せられた奇妙な声に、女と二人の男は振り向いた。

 さっきまで指を押さえて呻いていた男が顔を大きく仰け反らせていた。

 顎の下の金属部分の細い隙間に、三本の爪が食い込んでいた。男の頭越しに背後から右手を伸ばし、大型の熊手を握っているのは、戸口に倒れていた筈の礼服の探偵であった。百九十センチを超える長身の探偵の首は、まだ斜めに傾いでいた。喉の傷の出血は止まっているものの、開いた部分から赤い肉が見えている。

「忍法を使ってしまいました」

 探偵がにこやかに言った。もがく男の首がミリミリと音を立てる。

「いでごえええええ」

 銃を持っていた男達も、隙を窺っていた女も、ただただ唖然としてその光景に見入っていた。

「必殺忍法、死んだふり」

 探偵が宣言しながら熊手を引いた。ブヂッ、と音がした。

 男の被っていたフルメットが、脱げたのではない。

 男の首が、メットごと、引きちぎれたのだ。信じ難い探偵の腕力だった。男の胴体から血が噴き出して天井を濡らす。

「な、何だこいつは」

 二人の銃口が探偵に向けられた。フルオートで撃ち出された弾丸は、大部分が甲冑を破って仲間の死体に突き刺さる。幾つかは探偵にも当たったが、彼はびくともしなかった。

「まあまあ落ち着いて」

 探偵は穏やかな口調で告げながら、男の死体を一人に向かって投げた。避ける暇もないスピードで相手を捉え、纏めて壁にぶち当たる。骨の折れる音がした。

 探偵が駄目押しに魔性の疾さで飛びかかった。男が死体と一緒に倒れる前に探偵の熊手が横殴りに襲った。爪がフルメットに引っ掛かり、男の頭がぐるりと回った。回り過ぎた。男のメットは中身ごと、真後ろを向いていた。

「な、なな……」

 最後の男は探偵に銃を向けていたが、既に弾丸は尽きていた。弾倉を抜き、ベルトに装着されていた予備に手を伸ばした時、女の左手が閃いた。鋭い刃は男の篭手の隙間を貫いて、手首に突き刺さっていた。

「あがあっ」

 蹲る男の前に探偵が立った。左手を伸ばして男のメットを掴む。

「いでで」

 メットが脱げ、三十代の男の顔が現れた。右頬には銃弾が掠めた古い傷痕が残っている。

 男は膝をついたまま、泣きそうな顔で探偵を見上げた。

 探偵は斜めに傾いだ顔で、にっこりと微笑んでみせた。

「わーい」

 三本の爪が男の頭頂部に突き刺さった。探偵が力を込めると、鉄の爪は男の頭蓋骨を破り脳と顔面を破壊して引き戻された。男は仰向けに崩れ落ち、二度と動かなかった。

 追っ手が全滅したことに、女は取り敢えず安堵の息をついた。

 その顔が凍り付いたのは、探偵が、男達に対するのと同じ眼差しで、女を見つめていたからだ。

「なかなかお美しい」

 熊手の爪に引っ掛かっていた眼球を引き抜いてから、探偵はうっとりと言った。

「あ、あなた、探偵よね。私は、仕事の依頼に来たのよ」

 女は後じさりながらも、強い口調で反論した。両手に菱形の刃を握っている。

「はい、探偵です。黒贄礼太郎と申します。通称クラちゃんです」

 黒贄礼太郎は優雅に一礼した。

「ただ、残念ながら、まだ受付時間にはなっておりません。ですので自由にさせて頂きます。いえいえ、心配は不要です。すぐに終わりますからね」

 黒贄は血みどろの熊手を振り下ろした。その瞳が殺戮への歓喜に輝いている。

 熊手の攻撃を間一髪で躱しつつ、女は反撃する代わりに自分の腕時計を睨んだ。

 女は勝ち誇った顔を上げた。

「もう十時二分よ。勤務時間になったのだから、仕事しなくちゃね」

「むむ」

 黒贄は左手を上げて、傾いだ顔の前に腕時計を持っていった。

「ううむ、確かにそうですな。仕方ありません、話を伺いましょう。どうぞお座り下さい」

 熊手を下ろし、ソファーを勧める黒贄の顔は、玩具を取り上げられた幼児のように口を尖らせていた。

 女はカバーの破れたソファーに腰を下ろしたが、両手は用心深く刃を握ったままだ。

「いやあ、散らかってしまいましたな」

 黒贄は三つの死体を拾い上げ、窓から外の通りへ無造作に投げ捨てていった。入り口のドアを閉めて自分の椅子に座る。

「さて、改めて、いらっしゃいませ」

 黒贄は自分の頭を両手で掴んで持ち上げた。ゴキリ、と、不気味な音がして、傾いでいた首が真っ直ぐに戻る。

 黒贄の行為を黙って見守っていた女が、躊躇いがちに言った。常軌を逸した出来事の連続に、女も動揺しているらしい。

「あの、さっきはごめんなさい。その喉の傷のことだけど。でも、あなたがいきなり襲ってきたから……」

「いえいえ、構いませんよ。この手のことは日常茶飯事ですので」

 黒贄は首を振った。その動きに傷が捩れて中身が覗く。黒贄は引き出しを開けてホッチキスを取り出すと、傷口の皮膚を寄り合わせて痛そうな顔も見せずに挟んでいった。小さな金属によって三ヶ所で固定された皮膚は微妙にずれていた。

「あなたは不死身なの」

 女の問いに、黒贄は椅子に背を預け、眠たげな眼差しを返した。

「さあ、どうでしょうかねえ。確かにこれまで死んだことがないので、こうして人生の厳しさを味わっておりますが」

 女は狐につままれたような顔になったが、やがて気を取り直して言った。

「自己紹介を忘れていたわ。私は組織では、スコルピオンと呼ばれてる」

「ははあ。ご名字とお名前は何処で区切ればいいのでしょうね。スコル・ピオンさんとか。それともスコ・ルピオンさんですかな」

 本気とも冗談ともつかない黒贄の言葉に、女は苦笑した。それでも、冷笑以外に初めて見せた笑みだった。

「いいえ、これはコードネームよ。綽名みたいなものね。本名は角南瑛子だけど、二十年間、その名で呼ばれたことはないわ」

「ふうむ。それで、ご依頼は」

「私を守って欲しいの」

 角南瑛子が言うと、黒贄は髭のない顎を撫でた。

「すると、あなたは何者かに命を狙われている、ということですかな」

「私は暗殺組織を抜けてきたの。スケルトン・ナイツといって、裏の世界では有名な組織よ。骸骨騎士団とかSKとかも呼ばれてるわ」

「ほほう、スケルトン・ナイツですか」

 黒贄が嬉しそうに身を起こした。

「知っているの」

「いえ、全然知りませんな」

 無邪気な黒贄の答えに、瑛子は嘆息した。

「暗殺組織としては日本で一位、世界でもトップクラスに入ると思うわ。構成員は二百人を下らないでしょうけど、正確な人数は私にも分からない。金を積まれれば誰でも殺す組織よ。たとえ相手が首相でも、三才の幼児でもね」

「ふうむ。金で殺人を請け負うとは頂けませんな」

 黒贄が顔をしかめる。

「あなたもそう思うの」

「そりゃ当然です。殺人は、無償であることに意味があるのです」

 尤もらしく頷く黒贄に、瑛子は暫し絶句した。

「それで、続きをどうぞ」

「……。構成員の全員が、ナイフや銃器に熟練しているし、何の躊躇いもなく人を殺せるわ。中でも二十人近くいる幹部クラスの暗殺者は、特殊な能力を持っている者も多いわ。二年前に県知事の屋敷を襲撃した時、百人の警察隊を全滅させたのは、私を含めてたったの七人だった」

「ほほう、あの県知事の……」

「知ってるの」

「いえ全く」

 平然と答える黒贄に、瑛子はきっと柳眉を逆立てたが、すぐに氷の美貌を取り戻して続けた。

「私は五才の時に人身売買業者に攫われて、組織に売られたの。他にも同じようにして施設に収容された子は何人もいたわ。人殺しのための、血の滲むような訓練をさせられて、ついていけない子は殺された。私は生きていくために、出来るだけ感情を持たないように努めてきたし、組織の命令に従って大勢の人を殺してきた。それでも私は、ずっと組織を抜けることを考えていたわ。監視役の相棒を殺して、それを実行に移したのが三日前よ」

「ふうむ」

 黒贄は首を傾げた。

「あなたは何故、組織をお抜けになったのですかな」

「簡単なことよ。人殺しが嫌いだから。それと、組織のためじゃなく、自分のために人生を生きてみたかったから」

 瑛子の瞳に、光を求めて闇の中で足掻く者の熱望が宿っていた。

「ははあ。人殺しはお嫌いですか」

 黒贄は珍しいものでも見るような顔で瑛子を見た。

「まあ、趣味嗜好というのは、人それぞれですからねえ」

「あなたは人殺しが好きみたいね」

 瑛子は赤い唇を僅かに歪めて言った。

「皮肉なものね。人殺しをしたくないために組織を抜けて、人殺しが好きな男に護衛を頼むなんて」

「それで、スケルトン・ナイツの皆さんがあなたを追ってこられる訳ですな。それを私が守ると」

 瑛子は頷いた。

「そういうこと。組織は一枚岩でないといけないから、裏切り者は絶対に許さない。私を殺すために次々と暗殺者達を差し向けてくるわ。私一人じゃ太刀打ち出来ないから、強い味方が欲しいのよ。あなたの噂は前から聞いていたから」

「警察に保護を求めるというのは如何でしょうかな」

 殺人鬼とは思えぬ黒贄の提案に対し、瑛子はとんでもないといったふうに首を横に振った。

「無理ね。警察が腐っていることはあなたも知っているんじゃない。犯罪組織に密告して金をたかるような奴らが大勢いるし、警察官で殺し屋をやっている者もいるわ。それにスケルトン・ナイツは政府関係者にもコネが多いから、私が警察に出頭すれば、その日の内に拘置所で殺されるわね」

「ううむ」

 黒贄は顎を撫でながら低く唸った。

「どうしたの。相手が日本最大の暗殺組織と聞いて、怖気づいたの」

 尋ねる瑛子の目に非難や侮蔑はなく、ただ諦めの色が浮かんだ。

「いいえ、そうではありません。私が恐いものは副流煙と生活苦だけです」

 黒贄はきっぱりと言った。

「ただ、私は殺すのは得意ですが、人を守るというのはなかなか苦手でして。これまで何度か護衛の依頼を受けたこともありますが、私が敵を殺すのに夢中になっている間に依頼人が殺されたり、私が敵を殺すのに夢中になり過ぎて思わず依頼人まで殺してしまったり、依頼人は助かったけれど発狂してしまっていたりと、なかなか思わしい結果が得られていませんので。それでも宜しいのでしたら頑張ってみますが」

「お……お願いするわ」

 瑛子の口調は信頼や安心とは程遠かった。

「それで、報酬は頂けるのでしょうかな。いつまであなたをお守りすればいいのか分かりませんし、なかなか報酬の算定は難しいですが」

 瑛子はコートの内側に隠れていたポーチから財布を取り出した。中から一万円札の束を出して、机の上に置いた。

「七十三万あるわ。それが私の全財産」

「ほほう。充分過ぎますな」

 黒贄が目を見開いた。

 女は曖昧な微笑を浮かべ、言葉を続けた。

「それから、私」

「ほう、あなたですか」

 黒贄はまじまじと女を見つめ直した。ちょっと困ったような顔になる。

「いや、それは、冷蔵庫に入れておけば二ヶ月くらいは持つかも知れませんが。私にはカニバリズムの趣味はないですし」

「誰が食料にしろと言ったのっ」

 女は思わず立ち上がって怒鳴っていた。

 黒贄は驚いて目をパチクリさせる。

「ありゃりゃ。とすると、何に使えと仰るのですかな。殺す訳にもいかないとなると、ううむ、困りましたな」

 首を捻る黒贄に、瑛子は呆れ顔で言った。

「あなたは思考回路が相当歪んでるわね。取り敢えず、私を側に置いてくれればいいわ。この汚い部屋を掃除してあげるし、料理も作ってあげる。あなたが望むなら、夜のお相手もしてあげるわ」

「つまりは居候ということですな。まあいいでしょう。お受けします。ただ、あなたはもう少し、ご自分を大事になさった方がいいですな」

 穏やかに告げる黒贄に、瑛子は吹き出していた。

「あなたは言うことがバラバラね。滅茶苦茶なことを言うかと思うと、急に真面目なことを言う。何処までが冗談で何処までが本気なのか分からないわ」

「実はねえ、それは私もなんですよ」

 黒贄はにっこり笑って答えると、札束をポケットに収め、代わりに上面に穴の開いた箱を取り出した。

「では、ひとまず一枚だけ選んで頂けますかな。必要に応じて引いてもらうことにしましょう」

 穴の奥に、折り畳まれた紙片が積もっている。瑛子は不思議そうな顔をしたが、菱形の刃を袖の中に収めると、黙って右手を入れ、一枚を選び出した。

「ふうむ。六十三番ですな」

 受け取った紙片を開いて読み上げると、黒贄は鍵の掛かっていた左のドアに進んだ。二つの錠を外して一人で奥へ進む。

 やがて戻ってきた黒贄は、鈍い銀色に輝く金属バットを握っていた。六十三と書かれた紙が貼られてある。

「それは……」

「ご存じないですかな。金属バットというんですよ」

 呆気に取られた瑛子に、黒贄はニコニコしながら教え諭した。

「いや、そうじゃなくて、それを何に……」

「これはねえ、野球に使うんです」

 黒贄はバットを構えて軽く素振りをした。出鱈目なフォームだったが、そのスピードによってひしゃげた空気が凄まじい唸りを上げ、風圧で瑛子の髪が揺れた。

「もしかしてそれで……」

「ああ、楽しみだなあ。カキーンカキーン」

 黒贄は満面にとろけそうな笑みを湛えながら素振りを続けた。

 カシャリ、と、下の通りから聞こえた微かな金属音に、瑛子は眉をひそめた。

「ちょっと今」

「え、何でしょう」

 黒贄が素振りをやめるのとほぼ同時に、ガラス窓の破れ目から野球ボール程の大きさの物体が部屋の中へ転がり込んできた。

 机の下をくぐってソファーの前に止まったそれは、野球のボールではなく、深い緑色の手榴弾であった。

「逃げ……」

 身を翻そうとした瑛子の前を黒い影が掠めた。次の瞬間、充分な待機時間をおいて投擲されていた手榴弾が爆発した。古い机とソファーが天井まで浮き上がり、破片が八方に飛び散った。壁に飾られた仮面達が落ち、窓ガラスは完全に消滅した。間髪入れずに投げ込まれた追加の手榴弾が次々と爆発した。七個目の手榴弾が爆発し終えた時、部屋は瓦礫の山となっていた。

 やがて朦々たる塵埃を泳ぎ分けて、黒贄礼太郎の悲しげな顔が現れた。立ち上がると、巨体の陰になっていた瑛子に声をかける。

「大丈夫ですかな」

「ええ。あなたは大丈夫なの」

 瑛子は足に破片が掠った程度だった。

「それはもう。しかし困りましたな。家具を新しく拾ってこなければなりません」

 平然と窓に向かう黒贄の背は、礼服が破れてズタズタになった肉が露出し、一部骨も見えている。

 黒贄が窓から外を覗くと、十数名の人影が薄暗い裏通りに立ってこちらを見上げていた。半数近くが先程の男達と同じフルアーマーを装着している。既に何人かは玄関を通りビル内に侵入しつつあった。

「まだ生きているぞ」

 男達の驚愕の声を無視して、黒贄は顔だけはにこやかに怒鳴りつけた。

「こらー君達ー、そんな狭いとこで野球なんかしちゃ駄目だぞー」

 彼らの返事は無数の銃弾だった。黒贄は素早く頭を引っ込めて、部屋の隅で不安げに立つ瑛子に言った。

「ちょっとお仕置きをしてきますので、ここで待っていて下さい」

 黒贄の額には、銃創が小さく口を開けていた。瑛子は何も言えず頷いた。金属バットを握って部屋を出る黒贄の後頭部に、弾丸の突き抜けていった大きな穴が開いていた。

「ああ〜男なら〜狙うはホームラン〜」

 黒贄は悠然と階段を下りていった。自動小銃を構えて駆け上がるフルアーマーの男達とは、三階から二階へ下りる途中で鉢合わせになった。銃弾の嵐が黒贄を襲い、百発近い弾丸がその体を貫いた。だが黒贄は悦楽に瞳を潤ませて彼らの真っ只中へ飛び込んだ。

「あーカキーンカキーン」

 黒贄は両手で握った金属バットを乱暴に振った。フルメットの首が潰れて宙を飛び、自分の頭を胴体に減り込ませた男が倒れる。

「うわっ、こいつはおおおおお」

 男達は銃撃を続けながら後じさる。気持ち良さそうに弾丸のシャワーを浴び、黒贄はバットを持って迫る。

「あーカキーン、ツーベースヒットだ」

 黒贄の突き出したバットが甲冑ごと男の胸を貫き、その後ろの男の頭を潰した。

「カキーンカキーン、スリーベースだ」

 壁に叩き付けられた男のゴーグルが破れて眼球が飛び出した。その顔面へ更に黒贄がバットの先端を突っ込んだ。フルアーマーの男は最後の一人になっていた。慌てて弾倉を取り替えようとする男の首筋を黒贄の左手が掴んだ。

「あわわ、た、たす……」

「必殺の魔球、スーパーウルトラミラクルボールだ」

 黒贄は男を掴み上げたまま一階まで下り、玄関へ向かって片手で投げた。扉をぶち破って派手にバウンドしながら通りを転がる男の手足と首は異様な方向に捻じ曲がり、奇妙な灰色のオブジェと化した。

「実は私は〜野球はあまり〜好きじゃない〜」

 歌いながら通りへと出た黒贄を、黒服の男達の構える拳銃やサブマシンガンやショットガンの銃口が出迎えた。だがそれは火を噴かず、雑魚達とは異なる容姿を持った二人の男が、黒贄の正面に立っていた。

「名前を聞いておこうか」

 黒いマントに身を包んだ男が言った。男は黒贄と同じくらいの身長だが、その首は黒贄より二回り以上も太かった。逆立った髪は炎に似て、やや赤みを帯びた顔は狂猛な殺意と自信に満ちている。マントの異様な膨らみは、その中で何か特殊な武器を隠し持っているのだろうか。

 マントの男の隣に立つ男は、対照的にひっそりと地味な雰囲気を漂わせていた。伏目がちの昏い瞳は何も語らない。黒いセーターを着ていたが、その両袖は細く垂れている。即ち、この男には両腕が存在しないのだ。

 黒贄は、血みどろの体で一礼して答えた。

「黒贄礼太郎です。明るく楽しく歌って踊れるナイスな探偵です」

 マントの男は獣のような笑みを見せた。

「俺はアシュラだ。横のこいつはナイトハンドという」

「黙れ。迂闊にキーネームを口にするな」

 両腕のないナイトハンドがアシュラに鋭い視線を向けた。アシュラはそれを平然と受け流す。

「いいじゃねえか。どうせすぐ死ぬ男だ」

「全くもってその通りです」

 黒贄がにこやかに言った。

「すぐに亡くなる方々のお名前など、伺っても仕方がありませんよねえ」

 裏通りの空気が凍り付いた。銃を構える男達の一人が唾を飲み込んだ。

 ススッ、と、ナイトハンドが黒贄を回り込むように歩き出した。両腕はないが隙のない動きだ。細められた目は、じわりと溶け出すような殺気を放っている。

「じゃあやってみろよ」

 アシュラが歯を剥いた。マントの裾が揺れ、銀色の煌きが覗く。

「では早速」

 黒贄は躊躇を知らなかった。勢い良く踏み込みつつ金属バットをアシュラの脳天目掛けて振り下ろす。金属同士が激しくぶつかり合う音と共に火花が散る。マントの中から現れたアシュラの太い左腕は青龍刀を握っていた。金属バットを青龍刀で防いだアシュラは、右手の大鉈で黒贄の首筋を襲う。そのアシュラの顔が驚愕に歪んだ。黒贄のバットが青龍刀を弾いて尚もスピードを減ぜず、アシュラの頭に迫っているのだ。ガキン、と、重い音が響いた。バットと頭の隙間に割り込んだのは、柄も鉄で出来た大鎌だった。それでも金属バットは鎌を押してアシュラの頭を叩いた。

「チイッ、このっ」

 アシュラのマントの中から短槍が延び、黒贄の左胸を貫いた。それでも黒贄は怯まずにバットの先端をアシュラの顔面へ突き出した。危うく届きそうな瞬間、黒贄の体勢が崩れてバットの軌道がずれた。特大の銃声が轟いて黒贄の体が後ろに吹っ飛んだ。

 マントを脱ぎ去ったアシュラの両肩には、それぞれ三本、計六本の腕が付いていた。右の腕は上から大鉈、長さ一メートルの短槍、ショットガンの引き金を、左腕は青龍刀、大鎌、ショットガンの銃身を握っていた。

「便利な体をお持ちですな」

 腹部に大穴を開けながら、感心したように黒贄は言った。

「こいつ、不死身なのか」

 アシュラの顔は緊張に引き攣っていた。

「ナイトハンド、手伝えよ」

 黒贄の背後に五メートル以上の距離を置いて立つ相棒へ、アシュラは声をかけた。

「もうやっている。この男の筋力は凄まじいぞ」

 ナイトハンドの額には脂汗が滲んでいた。

 黒贄が振り向いてナイトハンドに言った。

「私の足を掴んだのはあなたでしたか。念力とは素晴らしい」

 キュウッ、と、黒贄の口の両端が高く吊り上がり、悪魔的な笑顔に変貌した。気怠かった瞳の奥で今、極大の黒い狂気が渦を巻き始めていた。

 ナイトハンドの声はまだ冷静さを保っていた。

「今度は頭と心臓を狙う。お前はこの化け物を足止めしろ」

「分かった」

 アシュラが五種類の凶器を構えて突進した。黒贄が狂笑を湛えたまま金属バットを振り被って反撃に出る。

 

 

 外の狂騒に耳を澄ましながらも、角南瑛子はその場に立ち尽くしていた。右手には菱形の刃を握り、左手には最初の襲撃でフルアーマーの男達が使っていた自動小銃を下げている。まだ弾が残っていることは確認してあった。

 右手の刃には、紫色の液体が塗られていた。

 瑛子は通りで行われている戦いの様子が気になっているらしかったが、流れ弾に当たることを恐れてか窓には近寄らず、右のドア近くの壁際で気配を殺している。

「よおっ」

 突然、窓の上から人影が逆さに顔を覗かせた。瑛子は驚く暇も惜しんで素早く右手を振った。神速で放たれたポイズンテイルはしかし、窓を抜け何もない空間を通り過ぎた。相手も素早く顔を引っ込めたのだ。瑛子が指を動かして微調整すると、極細の糸で繋がった菱形の刃は方向転換して窓の上の気配へ向かった。

 何を感じたのか目を細め、瑛子は右手を引いた。戻ってきた刃は重く、全体にベッタリと透明な粘液が絡み付いていた。瑛子はそれを認めると、刃を自分の手に戻さずに床に落とした。自動小銃を構えて音を立てないように後ろへ下がる。

「ハハッハッ」

 窓から部屋の中へ、痩せた男が凄い勢いで飛び込んできた。瑛子は反動に耐えながら小銃を連射した。侵入者は虫のような動きでシャカシャカと床から壁、そして天井を回り込むようにして四つん這いで走った。銃弾は男の動きについていけずに全てぎりぎりで外れた。銃弾が尽きるのを確認すると男は天井を跳ねて瑛子に飛びかかった。瑛子の左手から銀光が閃き、男はウッと呻いて飛び退った。

「尻尾をもう一本持ってたのか。珍しい蠍がいたものだ」

 部屋の隅に立つ瑛子の反対側の隅で、天井に貼り付いた男が言った。男は胴体に比べて手足が異様に細く、長かった。靴は履いておらず素足だ。黒ずくめの服装で、男の長い蓬髪は顔の前に垂れ下がっている。細面の顔に、目だけが特に大きかった。その左頬を斜めに切り裂いた、出来たばかりの傷を男は長い舌で舐めた。

「スパイダー」

 瑛子は男のコードネームを口にした。

「毒を塗っているようだが、俺には効かんぞ」

 男の口が笑みを作ると、その端に鋭い牙が見えた。

「こっちも毒蜘蛛だからね」

 開いた口から透明な涎が垂れていく。ゆっくりと、ゆっくりと、滴っていくそれは、恐ろしく粘質な代物だった。

 

 

 至近距離からショットガンの銃撃を受けたが、黒贄のスピードは緩まなかった。最上段からバットを振り下ろす黒贄の足を、長い柄の鎌が引っ掛けた。

「おおっと」

 体勢を崩した黒贄の腹を短槍が貫き、肩に大鉈が食い込んだ。アシュラの足元に倒れた黒贄がバットを上に振った。

「カキーン」

「ぐむうっ」

 アシュラの眼球が裏返った。金属バットはアシュラの股間をまともに叩き潰したのだ。膝をついて動けぬアシュラの頭に、立ち上がった黒贄がバットの先端を真上から突き下ろした。バットは後頭部を貫いて口から血と脳漿を絡み付かせながら突き出した。アシュラは六本の腕を広げて地面に突っ伏したまま息絶えた。

「な、何故だ」

 ナイトハンドは低く呻いた。彼の顔を大量の汗が覆っていた。肌の艶が失せ、一気に十才も年を取ったように見える。

「とっくに心臓は潰れている筈だ。何故、生きていられるんだ」

「スポーツマンは体が丈夫でないといけません」

 黒贄は言った。血に飢えた瞳は次の獲物であるナイトハンドを見据えていた。ナイトハンドは苦痛に顔を歪めながらも、最後の見えない攻撃に移った。黒贄の後頭部に開いた穴から、脳の一部が飛び出した。

「わーい」

 黒贄は構わずにナイトハンドへ突進した。

「ひいっ」

 ナイトハンドは身を翻して逃げようとした。だが、精神力を消耗した彼に出来たのは、足をもつれさせることだけだった。

「カキーン」

 黒贄が両手でバットを振った。ナイトハンドの頭がひしゃげ、血と脳の破片を撒き散らしながら胴体からすっ飛んでいった。

「私はスポーツマンじゃないですけどね」

 黒贄は血みどろの変形したバットを下げて付け足した。

 残った数人の黒服達は、幹部が二人死んだことで気力が萎えたのだろう、我先にと逃げ出した。金属バットを振り被ってそれを黒贄が追う。

「カキーンカキーン。キャハーッ、カキーン」

 裏通りの襲撃隊は全滅した。

 

 

「足掻いてみせてくれよ、スコルピオン。そうでないと面白くない」

 天井からスパイダーが言った。彼は両手足の先に付いた粘液を使って、出っ張りのない天井に正しく貼り付いていた。

「言われなくてもそうするわ」

 瑛子の左手からポイズンテイルが閃いた。スパイダーは天井を移動して素早く躱しつつ、口を尖らせた。粘液の噴霧を、刃はすぐに反転してぎりぎりで避けた。

 瑛子はスパイダーへ向かって自動小銃を投げ付けた。スパイダーが右手を振ると、粘液が鞭のように伸びて銃を捕らえた。その隙を狙って再び飛来したポイズンテイルは、スパイダーの首筋を切り裂く筈であった。

 だがスパイダーは軽く首を動かすと、菱形の刃を歯で咥えて捕らえていた。ドロリと口から出た粘液が刃を包む。

 瑛子はポイズンテイルを諦め、逃走に移った。事務所の出入り口へ向かって走る瑛子の右足を、べチャリと生温かい粘液が捕らえた。彼女は足を抜こうとしたが、粘液は足首からトレッキングシューズ、そして床までを覆い、完全に接着されていた。

「終わったな」

 スパイダーが天井を跳ねて、瑛子のすぐ前に着地した。瑛子の左足がスパイダーの顎へ向かって飛ぶ。その足首をスパイダーは両手で掴み、掌からも分泌される粘液で包み込みながら無理矢理に床に固定した。それでも瑛子は抵抗をやめなかった。屈んだスパイダーの首に右の手刀を振り下ろすが、あっけなくその腕を掴まれた。押し倒され、右腕を床に接着される。左腕も粘液で固定され、瑛子はなす術を失った。

「お前の血はどんな味がするかな」

 スパイダーが口を開けた。彼の犬歯は三センチ以上の長さがあった。スパイダーの口腔内は血のように赤い。

 その時、破れた窓から巨大な塊が飛び込んできた。黒い礼服を赤く染めた黒贄礼太郎であった。地上から跳躍して直接四階の窓に届いた黒贄の筋力は尋常ではない。ギョッとして振り向くスパイダーの目の前を、黒贄の体はゴロゴロと無様に転がって壁に激突した。

「いらっしゃいませ。お出迎えもせず申し訳ない」

 金属バットを持った黒贄が立ち上がった時には、既にその両足は透明な粘液で固定され、スパイダー本人は充分な距離を取っていた。

「大した奴だ。アシュラもナイトハンドも殺したのか」

 スパイダーの声には紛れもない感嘆が含まれていた。

「あなたも急いで追いかけないと、あの世で離れ離れになってしまいますよ」

 黒贄が金属バットを投げた。頭を沈めてぎりぎりで避けたスパイダーの上を過ぎ、バットは壁に突き刺さった。

「じゃあお前が代わりに行ってくれるか。伝言を頼んでおくから」

 軽口を返し、スパイダーは両手を振った。糸を引いて粘液が伸び、黒贄の両手を壁に繋ぎ止めた。

「血を吸うのはお前からにしよう、ハハッ」

 スパイダーが哄笑しながら走り寄った。黒贄の体をよじ登り、首筋に牙を突き立てたその時、何かがスパイダーの側頭部を叩いていた。

 それが何だったのか、スパイダーには分からなかっただろう。いや、自分が死んだことすら気づかなかったかも知れない。それは一瞬でスパイダーの頭部を完全に破壊して、骨と肉と脳の破片を飛散させていたからだ。

 黒贄の右手にへばり付いた凶器は、無理矢理に引き剥がされた、木製の壁の一部分であった。

 崩れ落ちるスパイダーの死体を見下ろして、黒贄は言った。

「やっぱりご本人が直接会いに行かれた方が、いいと思いますよ」

 黒贄は左手も両足も、壁と床ごと引き剥がした。コンクリートの欠片が零れる。

 瑛子が息をついた。

「これでひとまずは安心かしら。スパイダーの粘着液は、水に溶かせば落とせるわ」

「そうですか」

 だが黒贄は動かなかった。彼はじっと、手足を床に固定された角南瑛子を見つめていた。

「どうし……」

 どうしたの、と聞こうとして、瑛子は絶句した。

 黒贄の深い瞳の中に、抑えようとしても抑えきれぬ殺戮の歓喜が、今も尚、渦を巻いていたのだ。

「やはり、あなたには、大変、そそられますな」

 壁の一部がへばり付いた右手を上げて、黒贄は言った。スパイダーのものであった血が滴り、瑛子の顔の横に落ちた。

「報酬は、お返ししますから、ねえ」

 瑛子は必死に手足をもがかせて、それが決して床から離れないことを再確認する結果となった。

 黒贄が床に膝をついた。右手を振り下ろせば、丁度瑛子の顔面に届く位置だった。

 逃れられぬことを悟った瞬間、瑛子は全身の力を抜いた。その顔から焦燥と恐怖は消え、口元に自嘲の笑みが浮いた。自分が依頼した相手に殺されるという皮肉故か、それとも自分の幸薄い人生に対するものであったのか。

 彼女は目を閉じて、迫る死の瞬間を待った。

 だが、五秒経っても、十秒経っても、その瞬間は来なかった。

 三十秒待って、瑛子が目を開けた時、黒贄は振り被っていた手を下ろし、寂しげな顔で彼女を見つめていた。

「どうしたの。私を殺すんじゃなかったの」

 瑛子は尋ねた。

「いえ、それが、殺せません」

 黒贄の瞳から、先程の熱狂は失せていた。

「そんなふうに覚悟を決められてしまっては、殺人鬼としては殺す訳にはいきませんな。ですからあなたには、私から一つ言っておきたい」

「何」

「そんなに簡単に希望を捨ててはいけませんよ。人生を諦めさえしなければ、その先に良いことが待っているかも知れませんからね」

 真面目に語る黒贄に、瑛子はプッと吹き出した。

「あなたって変な人ね」

「それはもう、殺人鬼ですから」

 黒贄は微笑して立ち上がった。

「ではちょっとお待ちを。このベタベタを溶かしてから、あなたには洗面器を持ってきましょう」

 瑛子に告げて、黒贄は背を向けた。その後頭部からはみ出したものに気づいて、瑛子は躊躇いがちに言った。

「あの……大丈夫なの。脳が見えてるけど……」

「では、見ないで下さい」

 黒贄はにっこりと笑顔を返し、隣室へと消えた。

 

 

  三

 

 四十分後、黒贄礼太郎と角南瑛子は人気のない通りを選び、尾行されていないことを確かめつつ目的の隠れ家に辿り着いた。古い二階建てのアパートで、入居者がいないのか草は伸び放題で、木造の壁の一部が剥がれていた。抜け落ちた瓦が庭に散乱している。

「まあ、あなたの事務所よりはましかもね」

 瑛子が控え目な感想を述べた。

 黒贄が大曲刑事に電話して勧められた場所だった。警察内部にスパイが多数いることは大曲も知っており、重要な証人を保護するために時折彼が用いている場所だという。

「そりゃ勿論、俺の出世のためだがね。他の奴らとはやり方が違うだけさ」

 大曲は電話口でうそぶいていた。

「その大曲って刑事は信用出来るの」

 電話を終えて黒贄が説明すると、瑛子は尋ねた。

 黒贄は首を捻った。

「まあ、良い人だとは思いますが。ただ、私の知っている刑事さんは大曲さんだけですからねえ。他の刑事さんは皆、良く知り合う前にお亡くなりになってしまわれるので」

「あなたが殺したんでしょ」

「そうとも言いますな」

 黒贄は澄ましたものだ。

 アパートに近づいた二人は、亀裂の入った狭い通路を進んで一○六号の表札を認めて立ち止まった。

「ここですね。郵便受けの中に鍵があるそうですが」

 錆の浮いた郵便受けを開いて黒贄が中を覗き込む。鍵は内壁にガムテープで留めてあった。

 中は六畳の台所と、同じく六畳の和室になっていた。まずまずの広さだが、その代わりボロい。天井は二階を通り越した雨漏りの痕が染み付いている。和室の畳は長年の酷使によって凹んでいた。窓は分厚いカーテンによって光を閉ざされている。

「電気は通っているわね」

 電灯のスイッチを入れ、瑛子が言った。だが用心のためすぐに消す。

「おおっ、冷蔵庫があるぞ」

 特大のスポーツバッグを床に下ろすと、黒贄が興奮した様子で冷蔵庫に駆け寄った。

「おおおっ、食料だ、食料だ」

 保存を第一に考えてかレトルト食品や缶詰が大部分だったが、冷凍庫部分には肉も入っていた。

「嬉しそうね」

 呆れ顔で瑛子が言う。

「いやあ、この一週間何も食べてなかったもので」

「探偵ってそんなに儲からないの」

 黒贄の後ろから覗き込み、瑛子も冷蔵庫の中身を確認した。

「ガスも通っているなら料理してみてもいいわね」

「おお、それはありがたい」

 両手を合わせて拝む黒贄に、瑛子は苦笑していたが、ふとあることに気づいて目を見開いた。

「あ、あなた……」

「え、どうかしましたか」

「き……傷が消えてるわ。頭にも大きな穴が開いてたのに。服も、元に戻ってる。いつの間に……どういうこと」

「それは聞いてはいけないことになっているんですよ。なかなか難しい事情がありまして」

 黒贄は諭すように答え、それでこの話題は沙汰やみになった。

 肉が自然に解凍されるまでには時間がかかるので、瑛子は米を炊いてレトルトカレーを温めた。

「私は五人分程お願いします」

 涎を啜りながら黒贄は頼んだ。

 二人は台所の小さなテーブルで向かい合って昼食を食べた。

「なかなかおいしいですよ」

 収まる皿がなく鍋に注いだカレーを大きなスプーンで掻き込みながら、黒贄が褒めた。

「そう、ありがとう。レトルトだけどね」

 瑛子は美しい眉を軽く上げてみせた。

「あなたは人生が楽しそう」

「そうですか。まあこれでも、生きていくというのはなかなか大変ですけどね」

「でも自分の人生を生きているように見えるわ。やってることの是非は別にして」

 瑛子は疲れた吐息を洩らした。殺し合いの中で張り詰めていた糸が緩んだ時、彼女は慣れぬ土地で迷子になった少女のように見えた。

「両親の顔は思い出せないわ。幼い頃の記憶は、殺した人々の血で塗り込められてしまった。私は自分の意志を持つことを許されず、組織のために人を殺し続けてきた。自分が何者なのか、私は分からなくなるの。私の人生って一体何なの。私は、何のために生まれてきたのだろうって」

 寂しげに語る瑛子に、黒贄は優しい視線を投げた。二時間前に笑いながら敵を殺戮した時の血に狂った瞳とは、全く別の色を帯びていた。

「自分が何のために生まれてきたのか、知りたいのですか」

 黒贄が柔らかな口調で問うた。

「ええ、知りたいわ」

 瑛子はテーブルに両肘をついて腕を立て、重ねた手の甲の上に顎を乗せた優雅な仕草を見せた。

「ならばお答えしましょう」

 黒贄は自信満々に胸を張り、彼には似合わない尤もらしい口調で言った。

「あなたは、私にご飯を作ってくれるために生まれてきたのです」

 瑛子はプッと吹き出した。

 腹を抱えて笑い転げる瑛子を、黒贄は好ましげに見守っていた。

 一頻り笑い続けた後、滲んだ涙を拭いながら瑛子は言った。

「じゃあもしかして、私が生まれてきたのは、あなたにキスするためもあるのかしら」

「勿論それも含まれています」

 頷いた黒贄の唇に、立ち上がって身を乗り出した瑛子の唇が触れた。

 二人は五秒程で離れた。角南瑛子の潤んだ瞳と、黒贄礼太郎の吸い込まれそうに深い瞳が、互いを真正面から見つめていた。

「カレーの味がしますな」

 黒贄が微笑して言った。

「あなたは優しい人ね。一言余計だけど」

 瑛子は少女のように無垢な笑顔を返した。

 外は静かだった。唯一の光源である台所の窓は曇りガラスで、外側には鉄の格子が填まっている。

「さて、今後のことなのですが」

 忙しくスプーンを動かしながら黒贄が言った。

「最初に申し上げたように、私は守るよりも殺す方が得意ですし、逃亡生活も面倒なので、ここは一気に片を付けた方が簡単だと思いますね」

「と言うと」

 先に食べ終わった瑛子が先を促す。

「あなたがスケルトン・ナイツの本拠地をご存知なら、私が一人でそこを訪問すれば済むことです。あなたはその間、ここにいればいいでしょう」

 黒贄が持ってきた特大のスポーツバッグには、マシェットと呼ばれる長大な鉈と、幅広の斧が収まっていた。番号くじを入れた箱は爆発に巻き込まれて消失し、仕方なく黒贄はオーソドックスな凶器を選んできたのだ。マシェットには九番、斧には一番の紙片が貼られていた。

「随分と自信があるのね。今日の戦いぶりを見れば、当然とは思うけど。でも、スケルトン・ナイツは甘くないわ」

 瑛子は言った。

「襲撃部隊の全滅を知って、幹部連中が召集されているでしょうし、ボスの神羅万将は正に怪物よ。幾らあなたがタフでも、一寸刻み五分刻みのバラバラにされて生きていられるかしら」

「さあ、どうでしょう。まだ試したことがありませんので」

 黒贄に恐怖というものは存在しないらしい。

「今夜の内に大曲さんが来られるそうですし、皆でもう一度考えてみましょう」

「その刑事を信用するしかないわね」

 瑛子は溜息をついた。

「ただ、言っておきますが」

 黒贄の瞳に、硬質な意志の光があった。

「スケルトン・ナイツを壊滅させるまであなたは安心出来ませんし、私は必ず実行するつもりです」

「……。そう。ありがとう」

 瑛子の顔を掠めたものは、歓びであったのか、それともただの諦念であったのか。

「夕食はもう少しましなものが出来ると思うわ。楽しみにしていて」

「それはありがたいですね」

 最後の一口を食べ終えて、黒贄は頭を下げた。

「食器は私が洗っておくから」

「そうですか。私は道具の手入れが終わったら何もすることがないので、昼寝をしようと思います」

 この状況においてもまるで緊張感を持たず、黒贄は言った。

「ただ、一つ重要な問題がありますな」

「どうしたの」

「先程押し入れの中を確認したのですが、布団が一組しかないのです」

 真面目な顔で話す黒贄に、瑛子はまた吹き出した。やがて蠱惑的な笑みを浮かべて立ち上がり、黒贄の首に両腕を絡めてみせた。

「一緒に使えばいいんじゃないかしら」

 その後、夕食までに布団の上で繰り広げられた熾烈な戦いについては、筆舌に尽くし難いためさておく。

 

 

  四

 

 夕闇の忍び寄る午後六時。角南瑛子はフライパンの中身を掻き混ぜていた。冷凍庫にあったグリーンピースと一緒に分厚く切った肉を焼いている。炊飯器からは湯気が上がっていた。他のおかずは缶詰の秋刀魚と赤貝だけだ。

 台所の電灯は点けてある。そこまで神経質にならなくてもいいだろうとの判断だった。今のところ外では何の動きもなかったし、いずれ大曲がやってくるだろう。

「おはようございます」

「あら、起きたのね」

 眠たげな声に、瑛子はクスリと笑って振り向いた。その眉がひそめられる。

 台所に入った黒贄礼太郎は、右手に幅広の斧を握っていたのだ。

「どうしたの」

「いえ、どうしたという訳でもありませんが、何だか妙な感じですね」

 黒贄の口元から、いつもの面白がっているような笑みは消え、彼は不思議そうに室内を見回した。

「嫌な予感がします。こんなことは滅多にないのですが。私の勘は身を守ることよりも、相手を殺すことの方によく使われるもので」

「敵が近くにいるの」

 瑛子の顔が緊張に引き締まる。彼女は椅子にかけてあった薄手のコートを急いで着た。

「さあ、どうでしょうか。でも、油断しない方がいいですね」

「夕飯はどうするの。もう大体出来てるけど」

「食べましょう」

 黒贄は力を込めて答えた。

 皿を並べていた時に、玄関のドアを一度ノックする音がした。瑛子の動きが止まる。

 それは弱い音であったので、或いは風に飛ばされたゴミが、ドアにぶつかっただけかも知れない。

「ちょっと離れていて下さい」

 黒贄は小声で瑛子に告げ、斧を握ってドアの前に立った。

 ドアには小さなレンズの覗き窓がついている。黒贄は身を屈めてそれを覗き込んだ。いつもと違って慎重で、まともな行動だった。

 レンズの先には誰もいなかった。

 黒贄は瑛子の方を振り向いて肩を竦めた。瑛子はひとまず安堵の息をつくが、その緊張は拭えない。

 少し待って、黒贄はロックを外しドアを開けて顔を出した。周囲を見回すが、外は冷たい風が吹き抜けるばかりだった。

「誰もいませんな」

 ドアを閉めて鍵をかけ、黒贄が言った。

「心配し過ぎかしら。そう簡単に居場所が見つかることはないわよね」

「さあ、どうでしょう」

 黒贄は釈然としない様子だった。

「嫌な予感が消えません。が、まずは食事を頂きましょうか」

 黒贄は斧を置いてテーブルについた。

「そうね。温かい内がおいしいし」

 瑛子は茶碗に飯を装いながら、ふと首を傾げた。

「でも今の場面、何処かで見たことがあるような気がするわ。確かカメレオンが……」

 愕然として振り向く瑛子に、早々と赤貝に箸をつける黒贄が顔を上げた。

「あ、まだ食べちゃ駄目でしたかな」

 黒贄の首を、赤い線が水平に走っていた。線に沿って、微妙に光を反射する銀色の小さな煌きが連なっていた。

「おりょ」

 黒贄が自分の首に触れようとした。その手が届く前に、黒贄の首がぐらりと後方へ傾いた。ぱっくりと開いた断面は首の全層を見せていた。黒贄が不思議そうに眼球を下に向け、慄く瑛子を見た。

「カメレオンッ」

 瑛子は引き攣った叫びを上げて右手を振った。黒贄のすぐ後ろを狙った神速のポイズンテイルは、しかし空を切って壁に突き刺さった。頭部との繋がりを絶たれた黒贄の左腕が後ろに振られた。メチッ、と、肉のひしゃげる音がして重い気配が横に吹っ飛んだ。銀色の煌きが何もない筈の空間を揺れる。

 黒贄の頭が胴体から離れ、床に転がり落ちた。生首となった黒贄の顔は、何が起こったのか分かっていない惚けた表情で、目を開けたまま凝固していた。胴体から血が噴き出した。黒贄の胴体は、右手にまだ箸を握っていた。

 壁から引き抜かれた菱形の刃が、銀色の光を散らす気配へ飛んだ。しかしそれは空振りに終わり、逆に見えない鞭が瑛子の右手首を切り裂いた。それは手首の内側を深く抉り、屈筋腱と神経と血管の大部分切断していた。血飛沫が撥ねる。

 瑛子は苦痛に顔を歪めながらも、左手で右手首の傷を押さえるのではなく反撃することを選んだ。左手からもう一枚のポイズンテイルが飛ぶ。しかし刃と左手の間の空間を銀色の煌きが走り抜け、糸を切断した。すっぽ抜けた刃は方向転換出来ず、奥の部屋の天井へ突き刺さった。

「無駄だよスコルピオン」

 何もない空間からひねくれた声がした。それでも瑛子は左手でフライパンを掴んで投げようとした。その左手首が正確に切り裂かれ、握力を失った彼女はフライパンを取り落とした。

「残念だったな。良い医者に治療してもらえば神経は繋がるかも知れんが、もう二度とポイズンテイルは使えんだろうさ。いや、どうせ今夜死ぬのだから意味がないな」

 銀色の煌きが濃くなり、やがて人間の形を取った。煌きが消えた時には、そこに灰色のスーツを来た男が立っていた。

 彼は自身の体を透明化させ、黒贄がドアを開けた隙に中へ潜り込んだのだ。

「刑事が密告したの」

 瑛子の問いに、カメレオンは笑って首を振った。

「刑事のことなど知らんよ。これは一部の幹部しか知らん極秘事項だが、構成員の体には超小型の発信機が埋め込まれているのさ。お前が幾ら偽装工作をしようが無駄だった訳だ」

 瑛子は唇を噛んだ。両手の利かなくなった彼女には、もうなす術がない。

「やれやれ、この男はとんだ化け物だったな。腕が折れたぞ」

 カメレオンの右腕は力なく垂れ下がっていた。白髪頭の、無数の皺に覆われた顔はそれでも痛みより悦楽を示していた。彼の左腕には黒い鞭が握られていた。太さが数ミリしかないそれはまんべんなくガラスの粉が擦り込まれており、触れた部分で肉を切り裂くことが出来るのだ。使い方次第では、黒贄の首を落としたように骨も。

「まあでも、首と胴体が離れて生きている奴なんていないよな」

 椅子に座ったままの黒贄の胴体は、出血がほぼ止まっていた。カメレオンが横から乱暴に蹴り付けると、黒贄の胴体はぐにゃりと床に倒れた。

「それにしても、組織を抜けようなんて、血迷ったことを考えたものだな」

 カメレオンは瑛子に向き直り、嘲笑するように言った。

「そうかしら。私は自分の人生を生きることにしたのよ。たとえそれが僅かな時間に過ぎなくてもね。あなたは一生を組織のために捧げてそれで満足なの。それで自分の人生を生きたと言えるの」

 両手から血を流れるに任せ、瑛子は強い口調で反論した。それは死を前にした断末魔にも似ていた。

「何を勘違いしている。人生とはそんなものだ」

 カメレオンは昏く笑った。彼はポケットから携帯電話を出して、登録された番号にかけた。

「来い」

 彼が電話機に伝えたのはその一言だけだった。

 やがて多数の足音が近づいてきた。ドアをぶち破ってフルアーマーの武装した男達が踏み込んでくる。捕らえられ、両腕を縛られる間、瑛子は血溜まりの中で動かぬ黒贄礼太郎を見つめていた。

 幹部らしい、額に第三の目がある醜い男が言った。

「勿体ないな。俺の女にしたかったが」

 瑛子は何も言わず、男の顔に唾を吐きかけた。

「威勢だけはいいな」

 三つ目の男がヘラヘラ笑いながら拳で瑛子の顔を殴った。口が切れ、折れた歯を吐き出したが、瑛子は悲鳴一つ上げなかった。

「では、ボスの所へ連れていけ。今夜は良いものが見れそうだ」

 カメレオンが陰湿に唇を歪めた。フルアーマーの男達が瑛子の両脇を抱えて連行していった。

 アパートには誰もいなくなった。ドアの壊れた出入り口から冷たい風が入ってくる。

 数分の静寂の後、床に伏した黒贄の胴体が、ヒクリと動いた。

 右手が箸を離して、血溜まりの中、ゆっくりと、床の上をまさぐっていく。

 自分の生首を探すように。

 

 

  五

 

 スケルトン・ナイツの本部へ向かって角南瑛子を乗せて進むのは、黒と金で装飾された霊柩車であった。内部は本来の構造と違って意外に広く、両側には長椅子が据え付けられている。

 瑛子は右の中央に座らされ、その両側を武装したフルアーマーの男達が固めていた。向かい側にはカメレオンや三つ目の男が座っている。霊柩車の前後は黒いベンツが数台走っていた。

 霊柩車が出発してから二時間近くが過ぎ、瑛子は俯いたまま押し黙っていた。三つ目の男に殴られた左頬が青黒く腫れ上がっている。両手首の傷は簡単に包帯が巻かれていた。

「棺桶がないわね」

「そりゃそうだ。お前には棺桶など必要なくなるからな」

 瑛子と彼らとの間で交わされた会話は、最初のそれだけだ。

 カメレオンと三つ目の男と猫背の小男は楽しげに談笑を続けていた。アパートを出る時に分かったことだが、小男はずっと屋根の上にいたらしい。フルアーマーの男達は幹部の前で緊張して畏まっている。

 霊柩車がガタガタと揺れ始めた。舗装されていない山道に入ったのだ。瑛子の顔が強張ったが、彼女は涙も流さず、助けを求めて哀願することもなく、呪詛の叫びに狂うこともしなかった。

 やがて霊柩車は滑らかな道へ戻り、すぐに停止した。

「着いたぜ」

 三つ目の男が言った。

 後部の扉が開かれ、男達に腕を掴まれて瑛子は外に降りた。

 満月が、彼らを静かに見下ろしていた。

 緑に囲まれた緩やかに傾斜する敷地内に広大な山荘がそびえていた。木造の三階建て、窓には何故か鉄格子が填まっている。

「懐かしいか、スコルピオン。お前もここで訓練を受けた筈だ」

 カメレオンが言った。

 瑛子は黙っていた。

「訓練生達にも裏切り者の末路というものをしっかりと教えておかねばな。ボスはもうおいでになっている」

 鋼鉄製の大扉が内側から開いた。所々で壁に据え付けられた電球が陰鬱に廊下を照らす。黒服の男達が頭を下げる。三つ目の男が先頭になって、瑛子を奥へと運んでいく。外観と違い殺風景な内部は鉄筋コンクリートであった。

 暫く進むとホールへと出た。正面に黒板があるのは何らかの講義やプレゼンテーションに用いるのだろう。数十の椅子は折り畳まれて脇へ立てかけられ、ホールには百人近い主に黒いスーツを着た男達と、五十人前後の子供達が整列していた。子供達の年齢は小学校低学年と思われるものから十七、八才まで様々だ。成年に近い者達はこのようなことに慣れているのか、瑛子を見る顔にもうまく感情を隠していたが、まだ幼い者達は緊張と怖れに震えながら泣きそうな顔で瑛子を見上げている。彼らのそんな表情と、顔や腕の無数の生傷に、瑛子は寂しげな微笑を見せた。

 ホール正面の少し高くなったステージに、男達が台を設置しようとしていた。二メートルを超える高さのフレームに、鎖で手枷がぶら下がっている。

 その横に中型のドラム缶が置かれていた。中に詰まった焼け石の熱気が陽炎を作り出している。そこには大型のやっとこのような器具が幾つも突っ込まれていた。

「処刑はここで行うが、まずはボスがお待ちだ」

 カメレオンが言って、幹部連と数人のフルアーマーだけが瑛子を連れて更に奥へと進んだ。薄暗い廊下を歩き、両開きの扉を開け、カーテンを押し分けて、彼らは黒い静寂の待つ一室へ足を踏み入れた。

「待っていたぞ、スコルピオン」

 抑揚のない声が瑛子を迎えた。

 正面の壇上に、中世の王族が座るような豪奢な玉座が据えられていた。張り詰めた空気の中、居並ぶ十人近い幹部達がその前を微動だにせず直立している。幹部の内には、体に獣毛を生やしていたり頭の両側に顔があったり体の輪郭が歪んでいたりする者もいた。

 玉座に座る男・神羅万将は、能面のようにのっぺりとした顔を持つ痩せた男だった。その名はおそらくは森羅万象をもじった偽名であろう。白い肌には艶もなく、唇も薄く、細い目は無感動に正面だけを向いている。ゆったりとした白い衣を纏っているが、特に装飾品らしき物は着けていない。きちんと真ん中で分けられた髪は肩のすぐ上で軽く外側にカールしていた。

「もうスコルピオンじゃないわ。角南瑛子よ」

 壇の前に引き立てられて、それでも敢然と胸を張り、瑛子は言った。カメレオン達は他の幹部の横に並ぶ。カメレオンは右腕が折れているが、治療よりも首領の側に控えていることが重要なことであるらしい。彼らの顔は緊張に引き締まっている。

「おかしなことを言うな」

 神羅万将は独り言のように喋った。

「お前に名前など存在しない。お前は組織のために作られた道具であり、ただの殺人機械だ。心など持つことを私は許しておらんぞ」

「あんたの許可なんか要らないわ。私は私よ。自分の意志で生きる」

 瑛子は叫んだ。世界中にその声を届けようとするかのように、力強く。

 幹部連は、黙って二人のやり取りを見守っていた。機械のように表情を消し去って。

「とんだ不良品が出来てしまった」

 神羅万将は怒る訳でもなく、まるで表情を動かさずに呟いた。

「二度とこんな質の悪い道具が出来ないように、製造工程の段階からきちんと手を入れておかねばならぬ」

 瑛子は口を開いて何か言おうとした。だがその瞬間白い線が彼女の顔を掠め、その動きを止めた。

 その右頬が深く切り裂かれ、形の良い耳が完全に上下に分断されていた。恐ろしく鋭利な切り口だった。

 瑛子は悲鳴を上げなかった。歯を食い縛って彼女は耐えた。傷口から血が溢れ出し、顎を伝って落ちていく。

 神羅万将の額に、長い槍のような物が生えていた。肌と同じ色をしたそれは五メートル以上も直線的に延びていたが、すぐにスルスルと引き戻され、額の皮膚に吸収された。

 能面のような顔が不気味に蠢動していた。まるで皮膚の下で、無数の虫が踊っているように。

「処刑の用意は出来ているか」

 何事もなかったように神羅万将が尋ねた。扉の近くに立っていた黒服が深々と頭を下げた。

「ははあ、準備は整っております」

 神羅万将がゆらりと立ち上がった。

「では、そろそろ始めることにしよう。今回は熱したペンチで少しずつ肉をちぎり取っていく処刑法だ。百回済むまで殺してはならんぞ」

「神羅万将」

 角南瑛子は、世界有数の暗殺組織スケルトン・ナイツの首領に言った。

「くたばれ」

 凡そ上品とは呼べぬ言葉に、幹部達は色を失った。恐る恐る彼らが見上げた先で、当の神羅万将は無表情に立っていた。

「ク。ク」

 薄い唇の間から、不気味な笑い声が洩れた。

「道具が勝手に喋る。ク。ク。ク」

 彼の顔と、露出した両手の表面が、モコモコと波立った。

「連れていけ。面倒だが私も同席しよう」

 神羅万将が命じた時、部屋の外で男達の騒ぐ声が聞こえてきた。

「どうした」

 幹部連の内、感覚の鋭敏らしい数人が眉をひそめる。

 扉が勢い良く開いて、拳銃を握った男が飛び込んできた。

「大変です。妙な男が入ってきて……」

「人数は」

 首領の問いに男は顔を歪めた。

「そ、それが、一人です」

「馬鹿か。殺せば済むことだ。わざわざそんなことで報告に来るな」

 神羅万将の声に、僅かに苛立ちが含まれていた。

「それが、銃が全く効きません。今、構成員が総出で迎え撃っていますが、斧と鉈を持って、す、凄い勢いです」

 瑛子は何も言わなかったが、その顔に希望の色が浮かんでいた。ただの安堵とは異なるそれを横目で見ながら、神羅万将は呟いた。

「全く、役に立たん道具ばかりだ」

 部屋の外の喧騒が恐慌に変わっていた。銃声に混じって男達の悲鳴がすぐ近くに聞こえてくる。幹部連中がそれぞれの武器を構えた。猫背の小男がナイフを握り、出入り口へ向かって恐るべきスピードで跳躍した。

 カーテンを引き裂いて、刀のように長い鉈が出現した。それは空中の小男の脳天から股間までを両断し、拳銃を構えた男の頭まで割っていた。死体がベチャリと床に叩き付けられ幹部達のどよめきが上がる。鋭い目をした男がライフルを構えた。銃声。破れたカーテンを絡み付かせて現れた長身の男の胸に大口径のライフル弾が風穴を開けたが、男は平然と立っていた。

「こんちはーっ」

 叫ぶ男の右手には幅広の斧が、左手にはマシェットが握られていた。どちらの凶器も何人の肉を切ってきたのか血塗れだ。男の礼服には無数の弾痕が残り、自分の血と返り血とで赤く染まっていた。男の首に水平な傷が走っていたが、それは裁縫用の木綿糸で乱暴に縫い止められていた。

「皆さん初めましてーっ」

 男は黒贄礼太郎であった。彼の目はいつもの眠たげなそれではなく、凄まじい光を放っていた。歓喜ではなく、憤怒の。

 その喋る内容に関わらず、黒贄は、怒っていた。瑛子の頬の傷を認めて更にその炎は強くなった。

 続けてライフルの男が発砲した。黒贄の額に穴が開き、後頭部から骨と血と脳が飛び散った。だが黒贄は両手の武器を振り被ってそのまま部屋に飛び込んだ。

「何だ、何故っ」

 カメレオンが左手で鞭を振った。それは再び黒贄の首に巻き付いたが、透明化する暇もなくマシェットに切り落とされた。三つ目の男の額にある目から発せられたレーザー光線が黒贄の胸を焼いた。だが黒贄はびくともしなかった。

 不死身の侵入者に驚く男達の隙を衝いて、瑛子が出口へ向かって駆け出した。神羅万将の顔面と両手がさざめいた。その三ヶ所から目にも留まらぬスピードで伸びたのは、数十本の白い槍だった。

 その大部分が貫いたのは瑛子の背中ではなく、彼女を庇って前に出た黒贄の胸だった。槍が背中から突き抜けて瑛子を襲う前に、黒贄の斧とマシェットが槍を叩き折った。槍の半数が、折られる前に素早く退いていった。

「殺せ」

 無表情に神羅万将が命じた。我に返った幹部達が動き出した。

「走りなさい。でも気をつけて、まだ敵は残っています」

 幹部達の刃と爪と銃弾を一手に引き受けながら、黒贄が瑛子に告げた。

「良く生きてたわね。どうやってここに」

 駆けながら瑛子が聞いた。そのすぐ側を後ろ向きに走りつつ、黒贄が答える。

「少し遅れてから走ってついていきました。やっぱり車に徒歩では追いつけませんね」

 黒贄は笑った。銀色の煌きが迫り、黒贄の顔を斜めに切り裂いた。黒贄が斧を投げると何もない筈の空間に血飛沫が飛んで、見えない気配が後方の幹部達に叩き付けられた。

 ホールは血の海だった。そこにいた者の半数近くは既に死んでいた。黒贄は空いた右手で男の死体を引っ掴み、瑛子の前に翳した。無数の銃弾が死体を貫いた。瑛子の左太腿と右の脇腹を銃弾が掠めたが、彼女は呻き声一つ洩らさなかった。

 ホールから玄関までは死体だけだ。銃声の中、マシェットを振って男達の首を撥ねながら黒贄が叫んだ。

「先にお逃げなさい」

「あなたは」

 喧騒の中、瑛子が叫び返す。

「私はもう少しここで楽しんでいきます。別に、奴らがあなたを傷つけたことの仕返しをする訳ではないですよ。殺人鬼は私怨で動いてはいけないのです」

 ホールの出口を塞ぎ、黒贄が瑛子に微笑んだ。その目は言葉とは違う内容を語っていた。背後に向かって放り投げた死体が、銃撃する男達を叩き潰す。

 瑛子は、何ともいえない表情を見せた。

「子供達は殺さないで。あの子達は、昔の私だから」

「分かりました」

 黒贄はホールへ向き直りざまにマシェットを振った。それは獣人の首を太い腕と一緒に完全に切断していた。

 瑛子は玄関へ向かって走った。

 その足元で、ガタン、と、不気味な、音が、した。

 黒贄は瑛子の方を振り向いた。礼服の背中を無数の銃弾と刃が襲う。

 瑛子は、廊下にいなかった。

 廊下の床に、五メートル四方の穴が開いていた。

 黒贄の顔が、凄まじい恐怖に歪んだ。マシェットを振り捨てて彼は落とし穴の縁に走った。

 底知れぬ深い穴を落下していく、角南瑛子の姿が見えた。

「瑛子ーっ」

 黒贄が叫んだ。彼は初めて彼女の名前を呼んだ。黒贄は自ら穴の中へ飛び込んでいた。

 落ちていく瑛子の目が、黒贄の方を見た。その顔は絶望から諦念へ、そしてある種の歓びへと変化していった。

 穴の壁を蹴って下向きに跳躍した彼は、自由落下を続ける瑛子の体を両腕に抱き止めた。

 落とし穴は信じられない程深くまで続いていた。二人は頭を下にして何処までも落ちていく。黒贄はその先に、垂直に突き出した無数の棘を認めた。白骨死体の先客が幾つか刺さっている。この高さから落ちて、瑛子の体を守れる筈がない。

「すまない」

 瑛子の頭を胸に抱いて、黒贄は呻いた。

「いいのよ」

 目を閉じて瑛子が答えた次の瞬間、二人は鋼鉄の槍衾に叩き付けられていた。無数の尖った先端があっけなく二人の体を貫通し串刺しにした。滲み出した血が棘を伝い、床を濡らしていく。

 遥か上方から穴の底を覗き込み、誰かが呟いた。

「落とし穴を使うのは三十年ぶりか」

 抑揚のない声は、神羅万将のものだった。

「死体は引っ張り上げますか、ボス」

 別の誰かが尋ねた。

「いや。腐るがままにしておけ」

 静かに蓋が閉じられて、真の闇が訪れた。

 

 

  六

 

 スケルトン・ナイツの構成員達は後始末に取りかかっていた。ホールから死体の山を運び出し、床や壁の血を拭っていくが、なかなか血痕は落ちなかった。濃い血臭は今も屋内に漂っている。今夜の処刑劇のために集められた構成員の約半数が、たった一人の殺人鬼の手にかかって殺されたのだ。若い訓練生も、黒贄に近寄った者は全員死んでいた。

「早くしろ、餓鬼共」

 三つ目の男が、雑巾で床を拭いている少年の横腹を蹴り付けた。おそらく腹いせの意味が強かっただろう。まだ十才くらいの少年は腹を押さえて転げ回った。顔色が真っ青になっていくのは内臓が破裂したのかも知れない。

 髪を針鼠のように尖らせた男が言った。

「全く、大変なことになったな。こんな被害を蒙ったのはスケルトン・ナイツの歴史でも初めてのことじゃないのか」

「立て直すまで、俺達幹部は大忙しって訳だ」

 三つ目の男が忌々しげに応じた。

「あの……」

 八才くらいの少女が、幹部達におずおずと声をかけた。三つ目と尖った髪の男が振り返る。

「何だ」

「下から、変な音が聞こえてきます」

「下ってのは何処だ」

 尖った髪の男が聞くと、少女はホールの外を指差した。玄関への廊下の途中。落とし穴の位置。

 尖った髪の男と三つ目の男は、互いの顔を見合わせた。

 二人の幹部は落とし穴の縁まで進み、蓋の上に耳を寄せた。

「何も聞こえんな」

 尖った髪の男が言った。

「いや……。何か声がするぞ。開けろとか言っているようだが」

 男達の間に緊張が走る。

「奴が生きているのか」

「スラッシュ、兵隊を呼んで来い。急いでだ」

 三つ目の男が尖った髪の男に告げ、耳を更に強く蓋に押し付けた。

「いや……開けろ、じゃないな。アケロペ、と聞こえる。どういう意味だ」

 やがてぞろぞろと男達が集まってきた。何人かは急いでフルアーマーを装着しようとしている。数十の銃口が、落とし穴の蓋に向けられる。

「ボスには伝えるか」

 尖った髪の男が問うと、三つ目の男は顔をしかめた。

「俺達だけでやろう。また無能呼ばわりされるのが落ちだ。……いや、伝えて来い」

 黒服の男が奥へ駆けていく。

「声が近づいてくるな。何を言ってるんだ。アケラベって何だ。呪文か」

 既に幹部連も落とし穴の周囲に揃っていた。幼い訓練生は遠巻きにそれを見ていた。

 重苦しい緊張が、その場を支配していた。

 三つ目の男は蓋の上に、ぴったりと頭を付けていた。

「何と言ってやがる。アケロ……」

「アケロパニャー」

 分厚い鋼鉄の蓋が突然ぶち破れ、下から人間の手が現れた。それは三つ目の男の頭を掴んで強く引っ張った。ブヂブヂ、と、嫌な音がした。

「うおっ、レッドアイ」

 三つ目の男の頭が引きちぎれて蓋の下へと消えた。男達の銃を構える手に力が篭った。尖った髪の男が両手にナイフを握り、鋭い目の男がライフルを構えた。レッドアイの首から洩れる血が蓋と床を濡らしていく。

 蝶番が逆方向に捻じ曲がる不気味な軋みを上げ、ゆっくりと、蓋が上に、開いていった。

 のっそりと穴から這い出した黒贄礼太郎に、誰一人、攻撃を仕掛けることが、出来なかった。そうさせない圧倒的な何かが、その時の黒贄にはあった。

 黒贄は礼服を脱いで帯代わりにして結び付け、角南瑛子を背負っていた。白いワイシャツは無数の穴と裂け目が出来、真っ赤に染まっていた。

 黒贄は、息を詰めて見守る男達の前で、静かに帯を解き、瑛子の体を床に横たえた。

「死んでしまった」

 ポツリと、そう、黒贄は呟いた。

 瑛子の服は血で染まっていた。その首筋にも、鉄の棘が貫通した傷が開いていた。

「もう、動いてくれないんだ」

 瑛子の目は閉じられていた。血に塗れていたが、安らかな、何処か満足げな、死に顔だった。

 黒贄の顎の先から、液体が滴り落ちて、瑛子の顔を濡らした。

 それは、透明な液体だった。

「もう、ご飯を作ってくれないよ。もう、キスもしてくれないよ。何を言っても、返事もしてくれないんだ」

 黒贄の口調は飽くまで静かであった。だが、彼を取り囲む男達の膝は、小刻みに震えていた。何を感じているのか、彼らの殆どは恐怖に顔を歪め、今にも悲鳴を上げて逃げ出しそうだった。

「僕は、泣いてなんかいないよ。これは、涙じゃないよ。殺人鬼は、泣いてはいけないんだ」

 黒贄がゆらりと立ち上がり、右手の指を、自分の顔の左側に突き立てた。皮膚が破れ、メチメチと音を立てて、剥がれていった。表情を隠そうとするかのように。

「僕は別に、復讐をするんじゃないんだ。だって、殺人鬼は、私怨なんかで、人を殺しちゃいけないんだから。でもね、誰が、彼女をこんなふうに、したのかな」

 ライフルを構えていた鋭い目の男が、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「だーれーかーなー」

 黒贄は左手も使って、皮膚と肉の間に指を差し入れ、完全に自分の顔を、引き剥がした。

「アケロパニャー」

 血みどろの人体標本と化した黒贄の口から、力の抜けるような声が洩れた。

 その瞼を失った瞳の奥に、無限の宇宙空間にも似た冷たい闇が覗いていた。

「どうした」

 ほぼ同時に、ホールの奥から神羅万将の抑揚のない声が聞こえてきた。

 それが合図となったように、男達は一斉に発砲した。彼らがいつも行う、相手を事務的に殺害するための正確な射撃ではなく、まるで得体の知れない恐怖から逃れようとするかのような、出鱈目な攻撃だった。

 瞬間、黒贄の体が爆発したように見えた。無数の弾丸によって肉を削られ血飛沫が周囲に撥ね飛んだ。腹部が破れ傷だらけの腸がはみ出した。恐慌に駆られて連射された弾丸は向かい合わせに立つ仲間達の体も傷つけていた。

 筋肉が削れ骨の見える顔で、黒贄が言った。

「アケロパニャー」

 黒贄の姿が霞んだ。手始めに落とし穴の向こう側に立つ男達の只中に飛び込んで、先頭の男の頭を素手で引きちぎりその隣の男の首を手刀で叩き折った。

「うわわわわっ」

「化け……」

 悲鳴が廊下を埋めた。黒贄は男の腹に手を突っ込んで内臓を抉り出し、別の男の目に突き入れた指でそのまま頭蓋骨を分解した。逃げようとする男達に凄まじい勢いで死体を投げ付けて、倒れた男達の頭を次々に踏み潰した。落とし穴の玄関側にいた男達十数人が全滅するまで七秒しかかからなかった。

「殺せ」

 静かに神羅万将が命じた。

「アケロパニャー」

 黒贄が奇声を発した。今や彼の全身で、爆ぜた肉が露出していた。落とし穴を軽々と飛び越えて迫る黒贄の頭を鋭い目の男のライフルが撃ち抜いた。脳が散った。だが黒贄のスピードは衰えず、ライフルの男の首を引きちぎった。

「この……」

 尖った髪の男のナイフが閃いた。黒贄の首筋と右腕が深く裂けた。平然と繰り出された黒贄の拳を後ろに跳んで避けたが、密集した他の雑魚達に遮られて退路を失った。

「アケロパニャー」

 黒贄の右手が尖った髪の男の胸を突き抜けて、更に後ろの男の頭を砕いていた。狂ったように撃ち出される銃弾は、黒贄の体と尖った髪の男の死体と他の仲間達の体を肉塊へと変えていく。ナメクジのように天井にへばり付いていた男が音もなく黒贄に向かって落ちてきた。男の握り締めた細長いダガーは黒贄の頭頂から顎の下までを貫通した。

「アケロパニャー」

 黒贄は左手を上げて男の両腕を纏めて掴んだ。引き抜いた時に刃が黒贄の頭蓋骨を更に削ったが、それは黒贄にとって何の意味も成さなかった。男の体ごと左腕を振り回し、四、五人の男達の頭を腕を胸を叩き潰した。尖った髪の男の残骸を投げ付けられて二人が首と背骨を折って死んだ。太った男が口を窄めて霧状の液体を吹きかけた。それは黒贄を含めて数人の体にかかり、煙を上げて肉体を溶かし始めた。

「アケロパニャー」

 黒贄の残った衣服が顔の肉が胸の肉が腕の肉が溶けて、骨が露出してきた。それでも黒贄の動きは変わらなかった。左の手刀で男の膨れた腹を突き破ると、透明な液体が溢れ出して男自身の体を焼いた。黒贄の左手は肉を失って完全に骨だけになった。

「アケロパニャー」

 他の雑魚達は我先にと逃げ始めた。白い閃光が踊り、逃げようとした者達の全員がズタズタの肉塊となって崩れ落ちた。

「馬鹿め」

 敵前逃亡する部下達を殺したのは、神羅万将の槍と化した皮膚だった。

 黒贄は屍の山を踏み越えて、ホールに入った。

 ホールは、泰然と立つ神羅万将と、その前に並ぶ二人の幹部と、隅で震えている幼い訓練生達だけになっていた。

「アケロパニャー」

 黒贄が奇声を発しながら神羅万将に向かって躍りかかった。二人の幹部の内、屈強な体格をした男が手首を折り曲げて両腕を黒贄に向かって上げた。両前腕から発射されたのは小型のミサイルだった。高速で迫るそれらを黒贄の両手が掴み取っていた。だが弧を描いて飛来した輪状の刃物が黒贄の左腕に食い込み、骨だけの指がミサイルを取り落とした。床が爆発した。

「アケロパニャー」

 黒贄は右手に持ったミサイルを、サイボーグである屈強な体格の男へ投げ返した。咄嗟に盾にした左腕が爆発して金属の破片が散る。もう一人の幹部は頭に二つの顔があった。チャクラムと呼ばれる輪状の刃を握り、素早く黒贄の横へ回り込みながらそれを投げる。一枚が黒贄の首に、もう一枚が背中に減り込んだ。次のチャクラムを取り出そうと懐に手を入れた時、すぐ側に黒贄が迫っていた。二つの顔の男は横に飛び、忍者のように壁を駆け上がった。その首を切り落としたのは黒贄の投げたチャクラムだった。

「アケロパニャー」

 ほぼ髑髏を剥き出しにした顔で、黒贄は言った。左腕を失ったサイボーグの胸部が開いた。獣じみたスピードで迫る黒贄に四条の熱線が伸び、あっけなくその胸と腹を貫いた。残った肉が焼け、ちぎれた肝臓が胴体から滑り落ちる。

「アケロパニャー」

 黒贄は倒れもせず、減速もしなかった。サイボーグの前に立った黒贄は両手でその頭部を挟み込んだ。ベキャッ、と鋼鉄の頭部が潰れて脳がはみ出した。

 崩れゆくサイボーグの体ごと、数十本の白い槍が黒贄の体を貫いた。単なる直線的ではなく微妙に方向を変えながら伸びる槍は、黒贄の全身の肉を更に削り取っていった。

「困ったものだ」

 神羅万将は能面のような顔を崩さず、何でもないことのように言った。彼は衣服をはだけ、のっぺりした上半身を曝け出した。

「私の体を血で汚さねばならぬとは」

「アケロパニャー」

 二人の魔人は、この状況にそぐわない言葉を交わした。

 黒贄の体は、ズタズタになった内臓の欠片と薄い筋肉が残っただけの、骸骨に近かった。これで生きているのが不思議だった。

 その黒贄が先に動いた。真正面から異常な速度で神羅万将へ向かって突進する。

 神羅万将の全身の皮膚が盛り上がった。先程の倍以上、百本を超える槍が、全身針鼠の如く黒贄へ向かって神速で伸びた。

 その全てが、狙い違わず黒贄の体を貫いていた。

 ベキベキ、と、音がした。

 それは、黒贄の肋骨や右腓骨や左上腕骨や右尺骨や骨盤や頭蓋骨の一部の砕ける音であった。

 それは、神羅万将の槍を模した皮膚が、黒贄の力によってその過半数を折られる音であった。

「ぐおおう」

 神羅万将が唸った。彼の武器は同時に彼の肉体の一部であり、あまりに大量の槍を折られ過ぎた。引き戻された槍が皮膚に同化するにつれ血が滲み出していく。

 その時には既に、黒贄が目の前にいた。荒涼とした冷たい風が黒贄の瞳の中に吹いていた。

 骨だけの右手が、神羅万将の腹部に突き刺さった。

「ぐぶうっ」

「アケロパニャー」

 黒贄は右手を突き刺したまま、更に上へと動かした。腹が胸が縦に裂け、顎の下から抜けた。大量の血が噴き出した。

 だが神羅万将の皮膚がもう一度蠢いた。数十本の槍が黒贄を襲う。一本は黒贄の左目を貫いて後頭部から抜けた。

 それに構わず、黒贄の右手が神羅万将の顔を掴んだ。能面のような顔に初めて怒りと恐怖が走る。

「アケロパニャー」

 黒贄は力を込めた。神羅万将の顔が左右に潰れ、眼球が飛び出した。鼻と口から血が噴き出した。眼窩からは脳も。

「アケロパニャー」

 黒贄はもう一度言った。神羅万将の手足は痙攣を始めていた。黒贄は指が伸ばされたまま動かぬ左手を横に振った。それは神羅万将の首筋に食い込み、肉を裂き、骨を叩き切り、完全に切断してのけた。

「アケロパニャー」

 黒贄は奇声を続けた。神羅万将の潰れた生首を床に叩きつけ、更に左足で踏みつけた。生首の厚さが一センチになった。

「アケロパニャー」

 最後の奇声と共に、黒贄は両手を神羅万将の胴体を走る縦の傷に差し入れた。両腕を横に広げると、日本最大の暗殺組織スケルトン・ナイツの首領神羅万将の胴体が、完全に二つに裂けた。

 左右に分かれた胴体を投げ捨てて、薄い肉の絡まった骸骨となった黒贄は、暫くの間、その場に立ち尽くしていた。

 ホールの隅では、幼い訓練生達が恐怖のあまり泣きじゃくりながら、かといって逃げることも出来ず寄り添い合って蹲っていた。

 黒贄の髑髏の顔が、ふと、彼らの方を向いた。

「ヒイッ、た、助けて」

 十才くらいの少女が悲鳴を上げた。少女を、その中では年長の部類に入る十五才くらいの少年がしっかりと抱き締めた。

「大丈夫だ。大丈夫だから」

 少年は自らの震えを止めることも出来なかったが、それでも少女を安心させようと諭していた。

 子供達を見下ろす黒贄の右目に、さっきまでの冷たい色は消えていた。

 黒贄は無言で背を向けた。まだ震えている彼らを残して、黒贄はホールを出ていった。

 静かに屋敷を出る黒贄の腕の中に、安らかに目を閉じた角南瑛子の死体があった。彼は残った右目で彼女の顔を眺めながら、山荘を去った。

 

 

  七

 

 黒贄礼太郎は、いつまでも、角南瑛子の死体を部屋に横たえていた。

 瑛子の死体が腐乱して蛆が湧くようになっても、黒贄は暇があれば彼女を眺め、時折その体を優しく抱き締めるのだった。

 瑛子の死体が肉を失い、ただの骨になっても、黒贄はいつまでも、彼女を眺め続けていた。

 

 

  エピローグ

 

 住宅街の中にあるコンビニエンスストアには、いつの時間帯にも何人かは客がいる。特に学生が登下校する朝と夕方は客で溢れ、雑誌の区画は立ち読みする学生達でぎゅうぎゅう詰めだ。ただし彼らの多くは立ち読みするだけで、何も買わずに出ていくが。

 レジで大量の客をこなして一息ついた黒贄礼太郎に、同じくバイトの大学生が声をかけた。

「クロさんも、そろそろコンビニの仕事に慣れてきたんじゃないですか」

「そうですな」

 黒贄はちょっと寂しげな微笑を浮かべて答えた。水色の制服は彼には不似合いだ。

「本業で仕事がなくても、こうやって地道にやっていれば生活費だけは稼げますからね。ただし、何度も言いますように、私はくらに、なので、クロさんではなくクラさんです」

「いいじゃないですか、クロさんで」

 若い同僚は気軽に言った。別に黒贄も怒っているふうではない。

「でも、クロさんは探偵でしたよね。探偵ってそんなに儲からないんですか」

「何故か、儲かりませんねえ」

 黒贄はしみじみと溜息をついた。

「関係者の方々が、ちょっとした拍子に死んでしまってねえ。なかなかお金が払われないのです」

「へえ、大変ですね」

 などと喋っている間に、若い女性客がスナック菓子を持ってきた。

 バーコード読み取り機を当てて液晶の表示板を確認し、黒贄はにこやかに言った。

「二百四十四円ですね」

 客は五千円札を一枚出した。

 黒贄は受け取って金額を入力し、九千七百五十六円を返した。

「ありがとうございましたー」

 客が出ていった後で、同僚が黒贄に言った。

「クロさん、今の客って、五千円札じゃなかったんですか」

「え、何でしょう」

 黒贄が怪訝な顔で聞き返す。

「いや、客が出したの五千円札でしたよ。クロさん、一万円札と思ってお釣りを出し過ぎたんじゃないですか」

「ありゃりゃ、そうだったんですか。どうしましょうかねえ」

 そう言っている間に、さっきの客は待っていたスポーツカーの助手席に乗り込み、到底追いつけない距離へ消えていた。

「ありゃあ」

「おい、黒贄」

 二人のやり取りを聞いていたらしく、向こうで商品を整理していた店長が言った。

「なら五千円、お前の給料からさっ引くから」

 黒贄の顔が、泣きそうに歪んだ。

「うえーん」

 制服姿のまま、黒贄はコンビニを飛び出していった。

「クロさん……」

 心配そうに呟く若い同僚に、店長は何でもないように言った。

「大丈夫だよ。どうせお腹が空いたら戻ってくるさ」

 一時間後、黒贄礼太郎は申し訳なさそうに戻ってきた。ただし、その制服には血が付いていた。

 翌日コンビニに着いた朝刊の一面に、昨日街で暴れ回った殺人鬼の記事が載っていた。水色の制服を着た謎の殺人鬼は、手斧を振り回して二百七十三人を殺害したということだった。

 

 

戻る