第一話 水晶の手

 

  一

 

 スクリーンでは警官隊が仮面の怪盗を追っていた。時価八十億とも言われるルビー『九月の涙』を盗み出した男だ。警官隊は拳銃にショットガンにスナイパーライフル、更には機関銃まで持ち出して容赦なく撃ちまくる。が、全ての弾丸を超スピードで華麗に躱し、怪盗が高笑いした。

「無駄だよ。国民の血税でこんな無能共を雇っているなんて、とんだ喜劇だね。ハハハハハ」

 そのまま去ろうとした怪盗の足元が大爆発を起こした。警官隊が駆けつけた時には巨大なクレーターが残るだけで、怪盗もルビーも欠片すら見当たらなかった。悠然と現れた探偵はリモコン装置を握っていた。怪盗の逃げる場所を予測して大型爆弾を仕掛けておいたのだ。

「今回の事件も実に、簡単でした」

 長い髪を優雅に掻き上げ、探偵はニヒルな笑みを浮かべてみせた。

「ふむ」

 大路(おおじ)幸太郎は頷いてポップコーンをつまむ。

 しかし、怪盗は生きていた。今度は戦争中の二大国のトップを拉致して一つの部屋に閉じ込め、一対一の殺し合いを強要したのだ。「無駄に戦死者を増やすよりも手っ取り早いよね。ハハハハハ」と仮面の怪盗が高笑いした。室内に水が流れ込み早く決着をつけないと溺死するため、高齢の指導者達が必死で殴り合う。その様子は全世界に生中継されていた。

 が、いきなり中継画面が閃光で覆われ、何も分からなくなった。

 探偵が携帯式ランチャーで戦術核ミサイルを発射して、怪しいエリア一帯を吹き飛ばしたのだ。無関係の犠牲者が大勢出ただろうが、「今回の事件も実に簡単でした」と探偵はいつもの笑みを浮かべた。

「ふむ」

 大路はポップコーンをまとめて喉に流し込むと、続いてコーラを飲み干した。と、入ってきたばかりの奇特な観客が自分のポップコーンとコーラを差し出してきたので、「これはどうも」と大路は笑顔で受け取った。

 怪盗と探偵の仁義なき対決は泥仕合の様相を呈し、最後は素手の殴り合いとなった。ただし怪盗の拳は鋼鉄製で、探偵は指輪に毒針を仕込んでいた。双方ボロボロになって疲れ果て、互いを睨む目に敬意が宿り始めた頃、上空のUFOが放った光線が二人を消し炭に変えた。ちなみにUFOの伏線は一切なかった。

「ふうーむ」

 大路は嘆息し、また通りかかった客からコーラを受け取って一気に飲み干した。

 エンドロールの後、墓の下から怪盗と探偵が這い出してくるところまで見届けて、大路は映画館を出た。振り返って映画のタイトルを再確認する。『スーパーウルトラミラクル怪盗VSアルティメットデンジャラス探偵』であった。

 大いなる決意を込めて、大路は頷いた。

「よし。探偵をやりましょう」

 大路幸太郎の外見的年齢は四十才前後だった。百九十センチを超える長身で体も太いが迫力はない。福々しい丸顔で常に穏やかな微笑を浮かべているのと、体の方もマッチョではなく見事な肥満体であったからだ。動きはゆったりしており、ちょっとした仕草に上品さがあった。特注品のスーツはある程度伸縮可能だった。

 先月買っておいた宝くじを売り場に持っていくと、ミニロトというもので一等四千万円が当たっていた。売り子の中年女性は気絶しそうになっていた。支払期間は今日からだったのですぐ近くにあった銀行で現金に替える。口座を作って預金するよう勧められたが大路はにこやかに「手提げ袋を頂けますか」と言った。

 札束を無造作に紙の手提げ袋に詰めて、大路はのんびりと街を歩いた。三分ほどで最初に見かけた小さな不動産屋に入る。

「ん。部屋を探してんのかい」

 気難しそうな老人が迎えた。大路は取り敢えず手提げ袋をひっくり返し、カウンターに札束をぶち撒けた。

「探偵事務所をやりたいのでビルを売って下さい。多少訳ありの物件でも構いませんよ。いやむしろ、その方が面白いかも知れませんね。よし、今あなたが思いついたところにしましょう。明日から早速使いますから、諸々の手続きをお願いしますね」

 微笑を向けられて、老人は目を白黒させながら「う、ああ、うん」と言った。

 

 

  二

 

 翌日の昼、大路幸太郎は自分のものとなった建物を見上げて満足げに頷いた。

「うむ。いいですね。ちょっと寂れた感じも私好みです」

 裏通りに面した三階建てのビルだった。最初の持ち主であった金貸しの夫婦が殺されて以降、「出る」という噂だったらしい。しかしビルに染みつく陰惨な空気は大路が内見に来た時には霧散しており、何年も放置されていたのに埃のない一階フロアのデスクには中身の入った湯呑みが置いてあった。

「何がどうなってんだ……」

「良い幽霊さんではないですか。やはりここにします」

 呆然とする不動産屋に、湯気の立つ煎茶を頂きながら大路は答えたものだ。

 さて、玄関の上には今、探偵事務所の看板が輝いている。昨日のうちに依頼した看板屋が超特急で完成させたものだ。躍動感溢れる毛筆体の『大路ミラクル探偵社』という看板。本当にこれでいいのか何度も確認されたが、大路は自信たっぷりに「これでお願いします」と答えた。ちなみに正式な会社としての登録はしておらず、モグリの探偵社である。

 事務所として使うのは一階の広いスペースになる。最初からあった四つのデスクに二つの三人掛けソファー。左端の衝立で仕切られた向こう側に流し台があり、大型の冷蔵庫やオーブンレンジ、電気ポットなども揃っていた。新品ではないが充分使える感じだ。茶葉は新しいものを大路が補充しておいた。昨日の煎茶が何処から来たのかは考えないことにしている。

 トイレは階段のそばにある。二階と三階にもあるので取り合いになる心配もない。二階にはキッチンと浴室もあり、三階は物置部屋と複数の寝室があった。まあ三、四人が余裕を持って居住可能だろう。たまに視界の隅に人の気配のようなものを感じることがあるが、別に悪さはしないので大路は気にしていなかった。

 という訳で大路は特上寿司を五十人前、ピザを二十枚、色々とサイドメニューもつけて出前を注文しておいた。おそらくやってくるのは三人だが、大食漢がいるかも知れない。余ったら全部大路が食べるので問題はなかった。

 三人と推測したのは、デスクが四つあるからだ。

「ああ、そうだ」

 大路は事務所内に戻ると白い紙にマジックで「社員募集中! 未経験者も歓迎!」と書いた。玄関のガラス戸にテープで貼りつけておく。

「よし。後は待つだけですな」

 呟いたところに寿司屋の出前が到着した。十枚の寿司桶は取り敢えずデスクに重ね置きしてもらう。

「毎度ありがとうございます。これからパーティーですか」

 配達の男が尋ねると、大路は穏やかな笑みを浮かべた。

「そうなんです。どんな参加者が現れるのか楽しみですよ」

 配達の男は怪訝な顔をして去っていった。

 一緒に頼んだ高級日本酒を開栓しながらソファーに座ると、ローテーブルに淹れ立てのお茶が置いてあった。

「ふむ……。頂きましょう」

 日本酒の瓶を置いて湯呑みを手に取る。ゆっくり、ゆっくり、飲み干して空の湯呑みを置くと、ドアの近くに一人の男が立っていた。いつの間にか、音もなく入ってきたのだ。

「いい酒だな。匂いで分かった」

 男が太い声で言った。

「ええ、良いお酒ですよ」

 平然と大路は答えた。

 訪問者は三十代前半に見えた。身長は百七十センチほどで平均的だが、その肉体は筋骨隆々として異様に鍛え上げられていた。安物のTシャツ越しに大胸筋や腹筋の割れ目が分かってしまうほどだ。赤銅色の肌はただ日に焼けているというのとは何か違う、金属に近い艶があった。カーゴパンツとサンダルも安物で、髪もボサボサ、頬顎には不精髭が伸びているが、何故か不潔な印象は薄い。

 山賊みたいな悪い笑みが似合いそうな、粗削りな造りの顔は、今は目を半眼にしてじっとローテーブルに置かれた一升瓶を見つめていた。それから視線を大路に移し、黙って歩み寄る。

 動きに隙のない、武芸者の佇まいであったが、大路の目はそもそも節穴なので気にしていなかった。

 腕組みして正面から、左右から、しゃがんで下から、じっくりと大路を観察してから、立ち上がって男が尋ねた。

「コー・オウジか。『無手勝』の」

「ここでは大路幸太郎と名乗っています」

 澄まし顔で大路は答えた。

「社員募集中となってたが。仕事は探偵ということでいいのか」

「ええ。色々楽しい依頼が舞い込むんじゃないかと思っています。映画を観て思いついたんですよ」

 男は片眉を上げ、呆れ半分、面白がり半分といった表情になった。

「あー、あの映画か。スーパーウルトラなんとか探偵っていう」

「スーパーウルトラミラクル怪盗バーサス、ええっと、なんとか探偵です」

 大路の記憶力はあまり大したことがなかった。

「この星は委員会の管理下だろ。派手なことをやらかすとまずいんじゃないか」

「その辺りはまあ、なんとかなると思いますよ」

「あんたが言うなら多分そうなんだろうな。俺はローゲン。オアシス会だ」

「ああ、今オアシス会は大変みたいですね」

 世間話をするみたいな大路の軽い反応を、男は探るような目で見据えている。

「厄介事に巻き込まれるかも知れないが、こんな俺でも社員の資格はあるかい」

「ありますよ。あなたがここに辿り着いたということは、うちの社員になるということなんですから」

「そりゃ、ありがたいな。……で、報酬は、どんなもんになりそうかな。それ次第では俺は土下座するしあんたの靴だって舐めるし、一億年くらい奴隷になっても構わんがね」

 男は真顔でそんなことを言った。

「うーん。私は奴隷というのは好きじゃないんですよねえ。お互いに楽しくやっていきたいので」

「なら奴隷はやめとこう」

「報酬はまあ、適当です」

「適当か……」

「まず雇用期間中はここに居住可能で、飲食も買い物も私持ちでご自由にどうぞ。それから、私が探偵業に満足したら、あなたが欲しいものを何か一つ差し上げますよ。勿論、私に出来る範囲で、ですけれども」

「あんたが出来る範囲なんて相当だろ。だが、俺の望みも相当だし、オアシス会全体の望みでもある。俺自身、まだ会ったこともねえんだけど、うちの会長を見つけたい。もし叶うのなら、だが」

 慎重にそれを口にした男に対し、大路はあっさり頷いた。

「いいですよ」

「い、いいのか。……そんな安請け合いして大丈夫なのか」

「逆なんですよ。それが叶う時期になったからあなたはここに来られた、ということなんですよ」

 大路の言葉に、男は一瞬ブルリと身を震わせた。

「はー、なんか、あんた凄いな」

「では採用ということで。さて、次の方どうぞ」

 大路は一升瓶を男に手渡し、ひっそりと入室していた女に告げた。男はソファーに座って早速ラッパ飲みを始める。男からは死角であったが来訪者には気づいていたらしい。

 女がその場で名乗った。

「ラミア・クライス。Bクラス、魔術士。特に組織とのしがらみはないわ。で、あなたは『無手勝』コー・オウジということでいいのね」

「ええ。ここで活動する間は大路幸太郎で行くつもりですが」

「初めまして。伝説に会えて嬉しいわ」

 女は薄く笑みを浮かべてみせたが、冷たい声音には感情が篭もっていなかった。

 女の年齢は二十代前半に見えた。ソバージュにした長い黒髪は腰の辺りまでかかり、化粧は薄く、肉感的な唇の血のような赤さが妙に際立っていた。顔立ちはかなりの美形であるが、何処か陰鬱な雰囲気をまといつかせていた。浮かべた笑みも相手によっては冷笑や嘲笑と感じるかも知れない。

 漆黒のワンピースが女の雰囲気によく似合っていた。ベルトを締めた腰は細く、逆に胸は豊満でグラビアアイドルのような体型だ。だが男二人はそういうものを見慣れているので惑わされたりはしない。

「報酬は適当ということだけれど、後から決めてもいいのかしら」

 女は尋ねた。それまでのやり取りをある程度聞いていたらしい。

「いいですよ」

「なら、ゆっくりと考えさせてもらうわね。ここに住み込むつもりはないから、通勤でもいいのよね」

「いいですよ。この国の携帯電話を配ることにしましょう。通信用の使い魔をお持ちならそれでもいいですよ。あまり派手なものでなければ」

「使えるわ。それから、そちらは戦士よね。Bクラス」

 話を向けた相手は酒を飲んでいる男だ。

「ああ、いかにもそれっぽいだろ。そっちもいかにもだけどな」

 女の冷たい視線を気にする様子もなく男は答えた。

「ふむ。私が司令塔で、社員が戦士と魔術士。バランスの良いパーティーですが、もう一人くらい欲しいですね。うーむ」

 いつの間にか増えていた湯呑みを女に手渡し、大路が唸る。女は飲酒中の男と同じソファーに座ったが、男から目一杯離れていた。

「探偵やるんだろ。なら探知士か検証士が欲しいよな」

 所長より先に寿司をパクパク食べながら男が言う。

「私がある程度出来るわ。本職よりは落ちるけど」

 女はお茶を少し飲むが、寿司には手を出さない。

「ここは、そうですね。おかしなことをするメンバーが欲しいところですね」

「グハッ。遊び人かな」

 大路の言葉に男が笑い、女は形の良い眉を少しだけひそめた。

 と、呼び出しのチャイムが鳴る。これまでの二人より行儀が良さそうだ。

「はーい」

 大路が立ち上がって自分でドアを開けた。

「こんにちは、ニコニコピザです。ご注文の品をお届けに上がりました」

 若い男が大きな箱を抱えて立っていた。

「ふむ。まあ、こちらにどうぞ」

「失礼します」

 青年の制服の背には具で笑顔を作ったピザの絵がプリントされていた。同じ絵がついた箱をデスクに乗せて開き、LLサイズが収まった薄い容器を次々に取り出していく。

 代金を告げ、それから青年は不安そうな顔をした。大路が至近距離でじっと観察しているし、ソファーに座る二人も黙ってこちらを見ていたからだ。

「ええっと、すみません。何か……」

「まずは支払いです。釣りは要りません」

「は、はあ……。どうもありがとうございます」

「ところで、探偵業に興味はありませんか」

「えっ」

「ありますよね。うん、あなたならきっと良い探偵になれますよ」

 大きな手を青年の肩に置いて、自信満々に大路は告げた。

 青年は二十才を少し過ぎたくらいに見えた。痩せていて、やや顔色が悪く、気弱で陰気な雰囲気があった。ただ、その伏し目がちな瞳は殆ど瞬きをせず、妙に硬い光を帯びている。

「え、その……僕なんかが、お役に立てるでしょうか」

 いきなりな勧誘に青年が揺れ動くのを見て、二人の社員は目を見開くことになった。

「いや、いいのかよ。一般人だろ、そいつ」

「いいんですよ。彼がこのタイミングで来られたということは、社員になる運命なのです」

「運命……あ、あの、僕は……このバイトも今日で辞める予定だったので、ここで働かせてもらうのはいいんですけれど……その……」

「よしっ、決まりですね。ではこの四人で始めましょうか。大路ミラクル探偵社結成を祝して乾杯しましょう」

 青年は店舗に戻る暇も与えられず引っ張り込まれた。またいつの間にか追加されていた湯呑みを持たされ、皆で乾杯する。

「乾杯っ」

「乾杯っ」

「乾杯」

「か、乾杯、で、いいんですよね」

 大路はにこやかに、鋼は一升瓶で、水上は無表情に、青年は自信なさげに確認を求めながら乾杯した。

「では、改めて自己紹介をしておきましょうか。私は大路幸太郎、この探偵社の社長、いや所長の方がなんとなくかっこいいですね。これから明るく楽しい探偵業を満喫しようと思っています」

 新たな仲間達を見回して大路が言った。

「ちなみに期間はどのくらいを想定してるんだい」

 ラッパ飲みの合間に男が大路に尋ねる。

「そうですねえ。すぐに満足してしまえば三ヶ月くらいですが、まあ他にやりたいことがなければ今世くらいは探偵で過ごしてもいいんじゃないかと思っています。ですので長くて百年くらいですかね」

 青年が面食らった顔をしているが、他の二人も意外そうだ。

「ふうん。あんた、普通に年食うのか」

「食いますよ。基本的に健康体ですが、老化に逆らうのは意識的に我力を使うことになってしまいますから」

「……なるほどね。『無手勝』とは、そういうスタイルで……」

 女が呟きながら考え込んでいる。

「じゃ、俺の番かな。委員会の目があるし、俺もこの国風に名乗っておくか。源十郎……よし、鋼(はがね)源十郎にしとこう」

「ああ、あなた、ディンゴ団なのね」

 女が嫌そうな表情で指摘すると、鋼源十郎はニヤリと笑ってみせた。

「ついでにちょっとした芸でも見せとこうかい。自己紹介だからな」

 鋼がそう言って、あっという間に空になってしまった一升瓶をローテーブルに置いた。手を離し、それだけで、何もしない。

「ふうむ」

 大路が寿司を食べながら分かったような顔で唸る。女が手を伸ばし、一升瓶の首に軽く触れた。

「えっ」

 青年が声を洩らした。

 瓶に縦の線が入ると、四つに割れて花が開くように倒れたのだ。真上から十字に切られたように、均等に四分割されていた。余計な破片もなく綺麗な断面だ。

「見えたかい」

 何も持っていない両手をヒラヒラさせ、鋼が仲間達に尋ねた。日本酒を一升飲んでもまるで酔った様子がなかった。

「腕の動きまでね。武器は見えなかったわ」

 女がまたちょっと嫌そうに答える。

「ええっと、何が何だか。空手の瓶切りじゃ、ないですよね……」

 青年が戸惑い顔でコメントし、最後に大路が自信満々に告げた。

「はい、全く見えませんでしたよ」

「あ、見えなくていいんだ……」

 青年が安心したように呟いた。

「種明かしはいずれ、な」

 鋼はそう言って次の一升瓶を開栓した。更にはピザの容器も開けて一人でどんどん飲み食いを進めていく。

「なら、私の番ね。そうね……水上麗羅(みなかみれいら)にするわ。芸は、さっき話した使い魔を見せておこうかしら」

 水上麗羅は何かを包み込むように緩く両掌を合わせ、数秒して開くと小さな黒い鳥が乗っていた。それが羽ばたいてデスクの端に止まった時には、普通の大きさの烏になっていた。

「まあ、こんな感じね。同時に使えるのは十数羽程度で、本物の群れに紛れ込まれることも出来るわ」

 彼女の声でその台詞を発したのは烏の方だった。

「なるほど、役に立ちそうですね」

 大路が頷くと、烏はデスクから飛び立って水上の掌の上に戻った。羽を畳むと輪郭が変わり、烏は黒い子猫になっていた。ミィィと可愛らしい声で鳴いてから体を丸め、水上が両掌で包み込む。

 数秒後、手を開くと何もなかった。

 青年は目を真ん丸に見開いて、彼女の手とデスクを何度もキョロキョロと確認していた。そこに大路が声をかける。

「では、あなたの番ですね」

「えっ。は、はい……。僕は、風原真(かざはらまこと)です。あ、『風原真にします』って言った方がいいんですか、これ」

「いえ、本名ならそれでいいんですよ。それで、何か自分の特徴とか、人と違った点はありますか」

「特徴ですか。……僕は、特に取り柄もなくて……頭も悪いし暗い性格だし、人とうまく話せないし、要領が悪くてよく怒られるし、それに、運も悪いんです」

 段々俯きがちになっていく風原に、大路は穏やかな声音で尋ねた。

「運が悪いというのは、例えばどんなことですか」

 完全にうなだれて顔が見えなくなった状態で、風原は呻くような声を絞り出した。

「その……僕の周りの人は、よく行方不明になるんです。急にいなくなって……二度と戻ってこないんです。今バイトしてるピザ屋の副店長も行方不明になって、それで、僕は気味悪がられて、クビに……」

「素晴らしいっ」

 大路が大声を出したので風原はビクリとしたし、鋼はピザを噴き出しそうになりぎりぎりで堪えた。水上は目を細めて風原の様子を観察していた。

「やはりあなたは私が見込んだ通りの人材です。予定調和の状況にきっと混沌をぶち込んでくれるでしょう」

「は、はあ……。よく分かりませんが、頑張ります」

 顔を上げた風原は、泣き笑いのような奇妙な表情になっていた。

 鋼が言った。

「ところで所長。あんたも何かちょっとしたデモンストレーションをやってくれねえかい。俺達がここに集まったのもあんたの力の一端だとは思うが、出来ればもっと分かりやすい奴を見てみたい」

「そうね……。私も見てみたいわ」

 水上が賛同した。二人が大路に向ける視線には期待と、僅かに挑戦的な色合いが含まれていた。この男がどのように反応するか、見届けてやろうとでもいうような。

「いいですよ」

 大路はあっさり了承し、スーツのポケットに片手を突っ込んだ。

 取り出したのはサイコロだった。大小合わせて十個ある。

「たまに使うんですよ。退屈で何をするか決めたい時なんかに」

 大路の顔からは冗談なのか本当なのか判別がつかなかった。

「これを今からまとめて投げますが、全て一の目になります」

「ふうん。あんたのサイコロ操作の腕前が凄いとか、グラサイってことはないのかい」

 鋼が突っ込んだ。

「では全て六の目が出ることにしましょう。風原さん、お願いします」

「えっ。僕が投げるんですか」

 戸惑う風原の手にサイコロ十個を握らせ、大路はニッコリ笑って告げた。

「大丈夫、なんとかなります。責任は私が取りますからね」

「はあ……。じゃ、じゃあっ、頑張りますっ」

 風原はサイコロを握った腕を壁に向かって力一杯振り上げてから、さすがに勢い良く叩きつけるのはまずいと気づいたのか、腕を下ろして恐る恐る床へ放った。

 十個のサイコロが回りながら落ちていく様子を、鋼源十郎の目は正確に捉えていた。

 バラバラな回転と軌道。一部は高くバウンドし、一部は床にぶつかるとそのまま滑るように転がっていき、一つはストンと床についてそのまま止まった。その上面に見える目は六。

 他のサイコロの目も次々と六を示して止まる中で、高くバウンドした最後のサイコロが六を上にして止まりそうなのを見切り、鋼が口を尖らせてフッと息を吹いた。

 空気の塊が正確にサイコロに命中して再び高く跳ねさせた。水上は面白そうに唇の端を僅かに上げ、大路は干渉に気づいたのかどうか、とにかく平然としている。

 その時、床が激しく揺れた。いや床だけでなくて壁も天井も。デスクやローテーブルがずれ、吊られた照明も揺れる。建物外の遠くで車のクラッシュ音や物が壊れるような音も聞こえた。誰かの悲鳴も。

「っと、地震ですな」

 大路は安定感があり過ぎてソファーからびくともしなかった。風原は慌てて床に伏せる。鋼は目を見開いて床を見ていたが、すぐに酒瓶を置いて事務所を飛び出していった。

 十秒ほどで揺れは収まり、大路は軽く息をついた。

「ふう。この国基準で震度四というところですかね。地震の多い国ということでしたが、いやあ、すぐ収まって良かったですね」

「賽の目」

 水上がポツリと呟いた。

「全部六ね」

「そうですね」

 大路は頷いた。止まっていたサイコロも地震のせいでまた転がったりしていたが、結果的に、十個全てが六の目を出して止まっていた。

「地震はこの辺りだけだったらしいな。被害はそこまでなさそうだ」

 戻ってきた鋼が呆れたような顔で大路を睨んだが、その瞳には怖れの色も混じっていた。

「賽の目一つに、そこまでやるか」

「具体的な方法は私自身が選んでいる訳ではないのですが、宣言したことは、実現しなければなりませんからね」

 大路は変わらぬ微笑を湛えていた。

 風原は四つん這いの状態で、低い声でボソボソ唱えていた。

「そうか、分かったぞ。これはいつもの妄想なんだ。僕は辛い現実から目を背けて自分に都合のいい妄想を創り出してるだけなんだ。だからこんな美人のお姉さんとか魔法とか出てくるんだ。現実の僕は相変わらずどうしようもない無能で、また誰かに怒られて知らない間にその人が行方不明になるんだ。だからリセットしなきゃダメなんだ。一旦寝て頭をリセットしなくちゃ……」

 大路は床に散らばったサイコロを回収し、ポケットに戻した後で風原の肩を叩いた。

「あっ。はい」

「風原さん、大丈夫です。これからもどんどん凄いことが起きますから、すぐに慣れますよ」

「は、はあ……。ありがとうございます」

 風原は立ち上がり、何故か礼を言った。

「では、存分に食べて下さいね。食べ終えた頃には最初の依頼が来るんじゃないですかね、多分」

 それから主に大路と鋼がパクパク食べ、風原は自分が持ってきたピザを遠慮がちに齧った。水上は殆ど手をつけず、茶を少し飲むくらいだった。

 そうして十五分ほどで特上寿司五十人前とLLサイズピザ二十枚が食い尽くされると、開通したばかりの黒電話機が鳴り始めたのであった。

「よし、最初の依頼ですね。楽しみです」

 大路が満足げに茶を飲み干した。

 

 

  三

 

 時を少し遡り、場所は銀座に移る。

「大路ミラクル、探偵社、ねえ。フン、随分とふざけた名前だ」

 坂井は新聞の丸々一面を使った探偵社の広告を見て、鼻で笑ってしまった。イラストも写真もない文字だけの広告で、その内容も薄い。「おかしな依頼、困難な依頼も歓迎します!」という大文字のキャッチコピーが目立つばかりだ。実績のことは何も書かれておらず、更に下に「社員募集中」とあっては不安にさせられるばかりだ。

 新聞社に随分金を払っただろうに、こんな広告を見て依頼する客がいるのだろうか。坂井には想像出来なかった。

 坂井泰昌は五十六才、宝石店プレシャス・サカイの社長だった。三十代で自分の店を開き、今は関東圏内に三つの支店を持つ。経営状況は良好だが、実際にはもっと大きな収入源があった。表沙汰には出来ないし、それなりにリスクとコストを払う仕事だ。しかし今更手を引く訳にもいかず、坂井自身もやめるつもりはなかった。

 コーヒーを飲みながら新聞を読み進めていると、ドアがノックされた。

「どうした」

 表に詰めて接客対応している従業員が顔を出した。

「社長、すみません。おかしな客が来てまして。外国人だと思うのですが、オークションの品がどうとかって。うちはオークションなんてやってないって言っても、責任者を出せとしつこいんです」

「……。分かった。俺が出る」

 坂井は鏡に向かってネクタイを整える。綺麗な禿げ頭で目の下の大きな涙袋が紫色がかった悪相だが、坂井自身は上品な顔だと思っていた。社長室を出て表の店舗エリアへ歩く。

 安物から高級品まで多くの宝石とアクセサリーを展示した本店の店舗には二人の従業員と一人の警備員、そして客が一人いた。従業員達がホッとした様子で坂井を振り返る。警備員は隅に立ってまだ静かに見守っていた。

 客の男の年齢はおそらく三十代だろう。が、見ているともっと若々しく感じられたり、その落ち着き具合から老成して見えたりもする。二十代後半から五十代まで、どの年齢であってもおかしくなさそうだった。

 男は黒いスーツの上に、春にそぐわない厚めの黒いロングコートを着ていた。黒い髪を肩の辺りまで真っ直ぐに伸ばし、白い肌に整った顔立ちだ。鼻が高く日本人の顔の造りではないが、だからといってどの国の出身とも推測し辛かった。瞳は濃い緑色で、坂井が現れた瞬間からずっとこちらを見据えていた。

 坂井は嫌な予感を覚えた。裏稼業のリスクがやってきたのかも知れない。だが逃げる訳にもいかないので男に歩み寄り、丁寧に頭を下げた。

「お客様、私は当店のオーナーで坂井と申します」

「坂井さんですね。私はペドゥーサです」

 口の中の水分が多そうな、やや湿った声音で男は名乗りを返した。イントネーションにも違和感のない流暢な日本語だった。

 その声を聞いた瞬間、坂井は背筋がゾクリとした。よく分からないがとにかく危険という直感があった。スーツの胸ポケットに手を入れ、名刺入れを出すついでに小型の呼び出し装置のスイッチをオンにする。

「こちらをどうぞ」

 渡した名刺を受け取りながら、ペドゥーサという男の口元は嫌な笑みを浮かべていた。

「それで、ペドゥーサ様はオークションに関する品をお求めということでしたか。申し訳ありませんが、当店はオークションのような催しは行っておりません」

「坂井さん。建前はいいのですよ。私は『水晶の手』を受け取りに来たのです」

 水晶の手。その品名を聞いて坂井の直感は確信に変わった。三日前に仕入れた、いわくつきの品。あの吸い込まれそうな、一点の曇りなく澄みきった水晶。実物大の、誰かの右手首をそのまま象(かたど)ったような。血みどろの部屋で見つかった。呪われているのではないかと噂された。しかしあれは美しい。手放したくなくなるほどに。

「不必要に波風を立てる気もありません。まずは見せてもらいましょうか」

 ペドゥーサの声が頭に響いた。ペドゥーサの緑色の瞳が坂井の目を射抜いていた。瞳の中心、黒い穴がえらく小さく、針先のように小さくなっていた。坂井は額の中心に鋭い痛みを感じた。針で差されたような痛みが、額を貫いて頭の中まで潜り込んでいくような……。

 水晶の手など、そんなものはない。坂井はそう言おうとしたが言葉が出ず、体も動かなかった。いや、彼の口は勝手に違う言葉を紡ぎ出していた。

「こちらです。どうぞ」

「ありがとう」

 不思議そうな顔で見守る従業員達を置いて、坂井の体は勝手に踵を返し、店舗の奥へペドゥーサを導いていった。

 廊下を進んで突き当たりのエレベーター。中に入り、階数のボタンは押さずにその下の鍵穴へ専用の鍵を差し込み回す。二人を乗せた箱は表示されている地下二階を過ぎてもまだ動いている。

「ところで、坂井さん。水晶の手についてどれだけの情報をお持ちですか」

 ペドゥーサが尋ねる。その声音には無知な者に対する優越感が滲んでいた。

 坂井の口が勝手に動いて事実を吐き出していく。

「いえ、大したことは。ただ、親交のある組がありまして。連絡がつかなくなった債務者の部屋に組の者が踏み込んだ際、見つけたそうなんです。室内は血と肉片が散らばっていて凄いことになっていたそうですが、あの品だけは汚れ一つなく部屋の真ん中に置かれていたとか。私はその売却を頼まれたのです。調べてはみたのですが、あのような美術品については何も情報がなく。作者の銘もありませんでしたし」

「ふふ。美術品、ですか」

 ペドゥーサはさもおかしげに笑い声を洩らした。箱が停止し、二人はエレベーターを出る。天井の隅の非常灯だけが点った薄暗い廊下。坂井は壁のスイッチを押して照明の電源を入れる。

 地下八階の廊下は一直線で、その先に保管庫があった。中にあるのは表で扱う宝石や貴金属類ではなく、非合法な手段で手に入れた品や有力者からの預かり品だった。

「あれは、魔道具です。作者は『神工』レオバルドーで、銘はなくても私達の業界では非常に有名な品ですよ」

 足取りが重くなってきた坂井より先に、ペドゥーサは知識を披露しながら進んでいく。

「正暦百八十九億年、『剣神』ネスタ・グラウドによって右手首を切り落とされた『究極の黒魔術師』ザム・ザドルが、レオバルドーに依頼して作らせたのが水晶の手です。ああ、正暦はここでは通じませんね。今から四百十八億年前の……」

 と、ペドゥーサが急停止した。チリチリと何かが焦げる音が聞こえ、彼は一歩下がって振り返る。

 黒いロングコートの胸の高さに、水平の灰色の線が出来ていた。壁に仕掛けてあったセンサーつき熱線照射装置の仕業だった。もう五センチ踏み込んでいれば肉が焦げ、更に十センチ進めば致命傷になっていただろう。話に夢中になっていた割には、ペドゥーサの反応は見事なものだった。

「なるほど、ちゃんと防犯対策をしていたのですね。大切なものを保管するなら当然のことですよね」

 ペドゥーサの声音はむしろ優しかったが、顔はそうではなかった。

 さっきまで微笑さえ浮かべていた整った顔が、グシャリと歪んだ。憤激と狂気に満ちた表情は異様な皺が浮き上がり、百才の老人のようにも見える。あからさまな憎悪の放射を食らって坂井はヒィッと細い悲鳴を洩らし、更には下の方も少し漏らしていた。

 一瞬で元の顔に戻り、ペドゥーサは告げた。

「いけませんね。私を先に歩かせたのはそういう意図があったのですね。もっと深く刺しておくべきでした」

 ペドゥーサの瞳の中心がまた小さくなる。同時に再び鋭い頭痛が坂井を襲った。さっきよりも更に痛く、深く……。

 痛みは次第に治まったが、それまで動きを遅らせるなど、命令に僅かに抵抗出来ていたものが、何も出来なくなっていた。

「防犯装置を全て切りなさい。私に不利益となるような行為は禁じます」

「承知致しました、ペドゥーサ様」

 坂井は恭しく一礼し、エレベーターのそばに戻って壁の足元近く、一見コンセントに見える場所に鍵を差し込んだ。カチリ、と音がして天井に緑のランプが点灯する。安全となった印だ。

「では、私より先に行きなさい。それで、話の続きをしましょうか。水晶の右手首はザム・ザドルの義手として作られたのです」

 この男は親切心で話しているのではなく、自分の知識をひけらかしたいだけのようだ。

「しかし切られた手首自体は十万年もすれば生えてきたので、ザム・ザドルにとって水晶の手は用済みになってしまったのですね。倉庫に保管されていたところを、まあ、あまり大事には扱っていなかったのでしょう、弟子の一人がこっそり持ち出したのです。義手とはいえ『神工』が『究極の黒魔術師』に合わせて調整したものですから、非常に高い魔力親和性を持つ魔道具となった訳です。その分扱いも難しいのですがね。持ち出した弟子は制御に失敗して自滅し、水晶の手は別の弟子に回収されました。それがまた別の弟子に殺されて奪われ、また制御に失敗し、別の魔術士が拾い、また奪われ、というように数多の魔術士の手を渡り歩いてきたのです。その一般人の債務者が何故持っていたのかは分かりませんが、あまり平穏な経緯ではなかったでしょうね」

 話の内容は坂井にはよく分からなかったが、不吉であり危険なものという認識は強まっていた。闇オークションを主宰しているとたまにおかしな者達が紛れ込んでくることを、坂井は知っていた。坂井自身が関わったケースでは、不作法な身元不明の客を組の者達が四人がかりでつまみ出したら、後になってその四人が首を切られて死んでいるのが見つかった。他には噂だが、主催者も参加者もほぼ全員殺されオークション会場が内臓の海と化したこともあったらしい。一人の男が笑いながら、素手で人々の内臓を引き抜いていったのだとか。このペドゥーサという男も、おそらくそういう者達の同類なのだ。

 死の予感に怯えながらも体は勝手に動き、銀行の金庫室のように頑丈な鋼鉄の扉に触れていた。二つのダイヤルを回して目盛りを合わせ、二つの鍵を差し込んでロックを解除する。カタン、と、音がして、ゆっくりと扉が開いていく。

「さて、水晶の手が本物かどうか……おおっ」

 ペドゥーサは感嘆の声を上げ保管庫に入っていく。盗品の絵画や宝石類、ショーケースに飾った美術品達。預かっている品を除いて坂井の所有する品だけでも時価総額二百億を超えるだろう。

「ああ、これは……」

 そんな大切な宝達に囲まれて、保管庫の中央に水晶の手は飾ってあった。強化ガラスのケース内、シルク表面のクッションに支えられ、掌を上に向けた状態で。ペドゥーサの言う通り右手で、手首の関節部から四、五センチほど根元側まであり、そこで平らな断面を晒している。爪の形や皺、更には指先には指紋まで読み取れてしまう精緻な造形だがゴチャゴチャした感じはなく、照明を浴びてぬめるような輝きを帯びていた。美しいのに、同時に不吉な感覚が見る者の魂を震わせる。破滅の深淵に引っ張られるような暗い魅力があった。

「本物だ。間違いない。ああ、こんなことが。未だCクラスの身にこんな恐ろしき幸運が降ってこようとは」

 ペドゥーサは興奮した様子でケースを外し、水晶の手を取り出した。震える手で愛おしげに掻き抱く。

 大切な品が奪われるのを、坂井は冷めた諦念を持って見つめていた。儲けをふいにしたし、朝牙組の組長からは賠償を請求されるだろうが、まあまだ立ち直りの可能な程度だ。

 ここでペドゥーサによって口封じに殺されなければの話だが。

 ペドゥーサが急に振り向いて、坂井に尋ねた。

「坂井さん、水晶の手を、オークションに出品する予定だったのですよね。この価値は幾らくらいになると見積もっていたのですか」

「はい。最低でも一千万、うまくすれば一億くらいにはなるかと……」

「ふふ。ふふふ。随分と、安く見積もっていましたね。カイストの魔術士であれば、この惑星一つを丸ごと購入出来るくらいの金を、喜んで差し出したでしょうね」

「はあ……」

 知らない用語もあったし、話が大き過ぎて坂井には実感が湧かなかった。ただ、頭の奥から何かが抜けるような感覚があった。自由の利かなかった体が元に戻ってきたようだ。ペドゥーサが喜びのあまり気を緩めて、坂井に掛けていた催眠術か何かが解けたらしい。

 黒スーツの内側に水晶の手を収め、ペドゥーサが言った。

「ところで私が水晶の手の出品を知ったのはあなたが裏で配っていたオークションカタログを読んだからなんですが、他にも読んだ魔術士がいるかも知れません。私はさっさと退散させてもらいますが、坂井さんのご健勝を祈っていますよ」

「は、はあ、ありがとうございます」

 坂井はよく分からないので取り敢えず礼を言った。ペドゥーサは一人で保管庫を出て去っていく。

 ボンヤリとそれを見送り、エレベーターの階数表示が上がっていくのを認める。秘密の地下階からは専用の鍵を使わないとエレベーターが動かなかった筈だが、坂井にはもう自分の知識に自信がなくなっていた。

 だが、呼び出し装置のことを思い出す。ペドゥーサと会った時にこっそりスイッチを入れたから、そろそろ朝牙組の荒事師達が店に到着している筈だ。トラブルになった時に駆けつけてくれる取り決めだった。

 いや、でも、あの不気味な男に暴力団の組員程度が何か出来るだろうか。諦念と不安とほんの僅かな期待を抱いて、坂井は戻ってきたエレベーターに乗り込んだ。

 一階に着いて扉が開くと誰かの悲鳴が聞こえた。僅かな期待はゼロになり、それでも坂井は店舗エリアへ歩く。

 店舗の入り口近くの床に、どす黒い粘液らしき水溜まりが三つ、出来ていた。ペドゥーサの姿はない。

「社長っ、人がっ、人が、溶けて……」

 坂井を見つけた従業員の一人が泣きながら訴えてきた。

「ペドゥーサという男がやったのか。あの外国人だ」

「そうです、あの外国人です。ヤクザっぽい人達が来て、あの人に触れたら、全身がドロドロになって……」

「床を掃除しておけ」

 坂井はそれだけ言って社長室に戻った。ペドゥーサは去った。警察を呼ぶのは無駄だし、水晶の手と闇オークションのことを話さなければならなくなる。朝牙組に頼んでも死人が増えるだけだろう。ならば、泣き寝入りするしかないか。被害は水晶の手と組員三人だけ。致命的なダメージではない。

 いや、星を丸ごと買えるだけの価値があるとペドゥーサは言っていた。なんとか取り返す手段はないか。何か……。

 そこで坂井は、探偵社の新聞広告のことを思い出した。困難な依頼も歓迎する、となっていた。だがおかしな術を使う危険な男を相手に、探偵に何が出来るのか。だが、ミラクル探偵社だそうだ。もしかしたら……。

 坂井は新聞広告のページを開き、電話機に手を伸ばした。

 

 

  四

 

 大路幸太郎は受話器を取って朗らかな声で告げた。

「はい、大路ミラクル探偵社です。依頼ですね、引き受けましょうっ」

「えっ」

 相手の男は数瞬絶句した後で、興奮気味に尋ねてきた。

「まさかっ、もう依頼の内容が分かってるのかっ」

「いえ、分かりませんので説明をお願いします」

 冷静に大路は答え、また少しの間沈黙があった。

「……あ、ああ。私は宝石店を経営している坂井という者だ。銀座のプレシャス・サカイ、知ってるかね」

「存じませんがなんとかなります。それで、ご用件は」

「盗まれたものを取り返して欲しいんだが。おかしな男が催眠術みたいなもので私を操って、大切な品を奪っていったんだ。ついさっきだ」

「なるほど、怪盗の仕業ですか。面白そうな依頼ですね」

 大路は無神経な感想を述べ、質問を続けた。

「怪盗の素性について何か手掛かりはありますか。外見的特徴とか」

「外国人だと思うがはっきりしない。魔術師とかどうとか話していた。ああ、ペドゥーサと名乗っていた」

 大路が水上麗羅を見やる。受話器から洩れる声を聞き取っていたらしく、彼女は思案する様子もなく即答した。

「無名ね。勿論Aクラスではないし、Bクラスの上位にもいない。なのに委員会の管理世界でやらかすなんて、精々がぎりぎりBクラスに引っ掛かる程度じゃないかしら」

「ふむ……。それで、坂井さん。何を盗まれたのですかな。あなたの心とか、ああ、これは聞かなかったことにして下さい」

「……美術品だ」

「どのような美術品でしょう」

 そこで電話の向こうの坂井は黙ってしまう。

「おや、どうなさいました。何か説明し辛いことでも」

「……いや、別に問題はない。水晶で出来た手首のオブジェだ」

「ふむ」

 大路がまた水上麗羅を振り返った。

 その時、彼女は目を見開いて立ち上がっていた。ガク、ガク、ブルブルブルとその体が震え始め、風原はギョッとしてそれを見ている。

「水晶の手だそうですが、欲しいですか」

「ほ、欲しい。もし本物だったら、いえあなたに届いた情報なんだからきっと、本物、よね。そのためだったら何でも、とまでは言わないけれど大抵のものは差し出す覚悟があるわ……」

「魔術士って奴はこれだからなぁ」

 鋼が馬鹿馬鹿しそうに目を逸らして吐き捨てた。

「え、今何でもするって……」

 風原が虚ろな目で呟いている。

「分かりました。あなたにあげますよ」

 大路はあっさり告げて、電話の向こうの男が「えっ」と言った。

「今、変なことを言わなかったか」

「ああ、坂井さん、残念ですがこの依頼は受けられないようです。わざわざお電話ありがとうございました」

「待てっ、ま、待ってくれっ。ちゃんと金は出す。百万円でどうだ」

 鋼が苦笑し、水上が怒りの混じった冷笑を浮かべる。彼らは水晶の手の価値を知っていた。

「ふうむ。まあ、最初に引き受けると言ってしまってましたね。ではこうしましょう。我が探偵社が水晶の手を回収する。そして坂井さんが百万円の報酬を支払う。それが出来なければ契約は不成立ということで」

「わ、分かった。それで、よろしく頼む」

「お任せ下さい。では、早速仕事を始めますね」

 大路はそう告げて電話を切った。

「依頼人も気の毒にな。死ぬんだろ、そいつ」

 これで終いとばかりに一升瓶の中身を飲み干して、鋼が言った。「えっ、死ぬんですか」と風原がまた驚いている。

「死ぬかどうかは分かりませんが、報酬は支払えなくなるでしょうね」

 そして大路は所長として最初の指令を発した。

「水上さんは現場の宝石店に急行してペドゥーサの痕跡を探り、追跡して下さい。鋼さんは同行し、障害があれば適当に排除して下さい」

「適当に、ね」

 鋼が片眉を上げる。

「ええ、適当にやっていればうまくいくと思いますよ」

 大路が喋り終わる前に水上は姿を消していた。スルスルと滑るように、凄いスピードで事務所を出ていったのだ。

「じゃ、行ってくるわ」

 鋼もやはりシュルリと異様な素早さで出ていった。

 事務所には大路と風原が残された。

「あ、あの……。僕は、何をすればいいのでしょうか」

 風原が尋ねると、大路はニッコリ笑って言った。

「まずはピザの代金を持ってお店に戻りましょう。その制服も返却した方がいいでしょうね」

 

 

  五

 

 受話器を置いた坂井は長い溜め息をついた。

 応対した探偵社の男はおかしな態度だったが、妙に自信ありげだった。うまく水晶の手を取り返してくれればいいし、もし探偵が溶かされて黒い水溜まりになっても坂井が損をする訳ではない。電話では成功報酬ということになったのだし。

 さて、溶けて死んだ組員の件は朝牙組に報告せねばならないだろう。水晶の手も組から預かったものだから責任を問われるだろうが、ペドゥーサが語った天文学的な価値を伝えなければ、得体の知れない呪物を預かったせいでこちらが被害を受けたという形に話を持っていけるかも知れない。その上で組にばれずに取り返すことが出来たのなら、とんでもない儲けを得られるかも……。

「おい」

 荒っぽい声にギョッとして坂井は顔を上げる。

 社長室に誰かが入り込んでいた。従業員ではない。ドアを開閉する音もしなかったのに。

 大きな男だった。身長が二メートルくらいありそうで、更に体の厚みも凄い。贅肉ではなく筋肉がパンパンに張っているのがジャケットの上からでも分かった。

 男の顔は古傷だらけで、その多くは刃物による傷と思われるが、左こめかみから左頬にかけては火傷痕のようなものもあった。赤髪を左右数束ずつ太めの三つ編みにしており、先端が胸の辺りまで垂れている。髪の色と頬骨の高さからは西洋人っぽいが、何処となく人種が掴みにくいところもあった。あのペドゥーサみたいに。

「ど、どなたですか。何ですか、いきなり入ってきて……」

 坂井は勇気を振り絞ってなんとかそれだけ言った。まともな客が店舗エリアをすり抜けて社長室まで来る筈がない。

「水晶の手首だ。あるんだろ。出せ」

 プロレスラーみたいな肉体を揺すって男は睨みつけてくる。どうやらこの男はペドゥーサが言っていた、オークションカタログを読んだ同類らしかった。ということはおかしな力を使ってくるかも知れない。

 既に坂井とは一メートル半しか離れておらず、その太い腕で殴られたら即死してもおかしくなかった。

「いやそ、それは、あの、もう」

「おい、のろま。一センチごとに刻んで欲しいのか」

 男の右のこめかみに青筋が浮き上がってきた。怒気がほぼ物理的な圧力となって坂井を叩く。本気で怒っている。男が怖いからうまく喋れないというのに理不尽な話だった。

 いつの間にか男の右手が奇妙な形の金属を握っていた。長さ三十センチほどの曲がった棒。前半分が緩く湾曲していた。

 男が親指を当ててクイと力を込めると、金属棒に見えていたものが扇子みたいにスライドして開いていった。鎌みたいな刃が六本、プロペラみたいに広がってカチン、と音を立てて固定される。中心部に丸い穴があり、そこに男は人差し指を通した。軽く指を振るとフォーンと音を立てて六本の刃が凄いスピードで回転し、坂井の目では見えなくなる。

 ああ、これは、いかん奴だ。坂井はすぐに悟った。脅しではなく、この男はすぐにでも坂井の体の何処かを切り落としてみせるだろう。最初は指か、耳か。だが坂井は大急ぎで叫んだ。

「ぬすっ、盗まれましたっ。いや奪われましたっ。おかしな男っ、ペドゥーサという、おかしな男です。ほんの五分ほど前ですっ。本当ですっ。信じて下さいっ」

 放射されていた圧力が瞬時に消え、男は探るような目で冷静に坂井を観察していた。怒っていたのはポーズだったのかも知れない。

「ペドゥーサか。どんな奴だ」

「おかしな男でした。外国人みたいな、でも日本語喋ってて。おかしな術を、催眠術みたいな、そ、それから、組の者が、そいつに触れたら、溶けて死んだそうです」

「そいつが何処に行ったか分かるか」

「分かりません。申し訳ありません。後はもう何も分かりません。本当です。許して下さい」

 全身が勝手にプルプル震え、股間が濡れているのを坂井は自覚していた。折角乾きかけていたのに。

 何秒くらい、坂井を観察していただろうか。男はチッと短い舌打ちをして、踵を返した。

「魔術士か。今から追って間に合うか……」

 男が社長室を出ていき、坂井は助かったと思った。五体満足で、ひどいこともされずに済んだ。

 と、部屋が傾いていく。いや、坂井が傾いていくのだ。フラついたか。机に手をつこうとしたが体が動かない。いや、体の感覚がない。

 机が近づいて視界一杯に広がり、額にゴツンとぶつかって、それが坂井の最期の感覚になった。

 男が踵を返した時には既に、坂井の首は切断されていたのだ。

 

 

  六

 

 その数分後、水上麗羅と鋼源十郎は銀座のプレシャス・サカイに到着した。ガラス戸越しに見える店舗内は、従業員達がオロオロしているだけだ。

「まだ警察も呼んでねえのか。……だが血の匂いがするな」

 鋼が言った。

 水上は黙って目を細め、入り口周辺を見回している。

「足跡は見つかったかい。気配じゃもう分かんねえな。一キロ以上は離されたか」

「……あった。魔術士の痕跡。隠蔽処理をしているけれど大したことないわ。まだBクラスの域には達していないわね」

 水上が上向けた右掌に、灰色の靄のようなものが滲み出してきた。フッと息を吹きかけると一旦拡散し、再凝集すると細い紐状になって宙を漂い始める。その紐は宝石店の玄関から歩道を左へ続いていた。魔術士の痕跡を我力で強調したものだが、一般人の目では捉えられないだろう。

「なら楽勝かい」

「いえ……。別の痕跡もあるわね。戦士、我力の強さからはBクラスだと思うわ。魔術士の後……店を出たのは数分前ね」

 水上が新たに浮かんできた別の紐を指差した。魔術士の通ったラインより太いが動線がグネグネと行ったり来たりしている。迷った末に、魔術士とは別の方向へ去ったようだ。

「なるほど。ああ、今店員が警察に電話してるな。依頼人の坂井は死んだらしいぞ。恐ろしいくらいにうまく回ってるな」

 鋼が肩を竦めた。入り口の自動ドアは閉まっているが、店舗内で従業員が喋る声を聞き取っていたらしい。

「じゃあ、早速追跡しましょう」

 水上が魔術士のラインに沿って駆け出し、鋼もそれについていく。どちらも時速百キロを超える異常なスピードで人込みをすり抜けていくが、驚く者はいなかった。水上は自身に隠蔽処理を施して他人から見えず意識されない状態となっており、鋼は気配を消して人の視線の外をうまく移動していた。

「あっ、戦士が追ってきたぞ」

 駆けながら鋼が言う。振り向いて視認した訳ではないが、猛烈な勢いで近づく気配を察知していた。

「あなたの隠形が下手だったんでしょ」

 やはり駆けながら水上が冷たく睨む。

「という訳でそいつの相手は俺がするから、追跡の方は任せた」

「了解」

 水上はさっさと先へ行き、鋼はゆるりと減速して立ち止まる。泰然と振り返った時には既に相手の大男は二十メートルまで近づいていた。周囲の迷惑を考えない大男の猛速移動に巻き込まれ、通行人が訳が分からないといった顔でぶっ飛んでいく。

 鋼源十郎は軽く両腕を上げて大男に呼びかけた。

「おいおい、落ち着けよ。まずは話でも……」

「死ねっ」

 大男が凄い勢いで右腕を叩きつけ、ガギンッ、と金属音が撥ねた。鋼が左掌で攻撃を弾いたのだ。

「何だそりゃてめえ、暗器か」

 防がれたのが予想外だったのだろう、素早く距離を取って大男が問いかける。

「そっちも妙な武器使ってんなあ。旋風輪って奴か」

 そんなことを言いながら鋼は何も持っていない左手をヒラヒラさせる。

 大男が右手に持つ武器は、薄い金属片の先が鎌状に緩く曲がったものが六本、プロペラの羽根のように開いたものだった。中心の輪に人差し指が通って軸になっている。弾かれて勢いを失っていたがすぐに回転速度を取り戻し、ウゥーンという唸りが完全な無音となった。

「てめえ。まだ若造っぽいが、余裕見せてるつもりか」

 外見的な年齢差はあまりないのだが、若造と言ったのはそういう次元の話ではなかった。戦士としてのちょっとした姿勢や動作、隙の濃淡から読み取ったものだ。大男は歯を剥き出し、左手にも同じ武器を出して回し始めた。リーチが短く扱いが難しいと思われるのに、大男は随分と熟練した様子だった。

「あのなあ、ここは委員会の管理下だぜ。派手な騒ぎは起こさない方がいいと思うんだがな」

「なら水晶の手首を大人しく渡せや」

「いやあ、俺達もそれを追ってたとこなんだが。というか戦士があんなもん手に入れてどうすんだよ」

「うるせえな。高く売れるだろ」

 喋っている間に大男が急接近した。左右から少しずらしたタイミングで高速回転のプロペラが襲う。鋼は慌てず両手で迎撃する。素手に見えるのにやはりガキンと弾く。大男はもう驚きもせず執拗に攻撃を繰り返し、鋼は平然と捌いていく。両者の動きは異常に素早くなり、通行人からはぶれて歪んだ残像として見えていた。立て続けの金属音と風圧、そして漂う重い緊張感に、人々はよく分からないままその場を避けていく。

「そういえば旋風輪の使い手にザトゥ・ルメルって奴がいるらしいな」

 鋼が言った。高速戦闘の最中にゆっくり喋っていられないため高周波の圧縮音声となっている。

「ほう、俺もなかなか有名になったもんだ」

 旋風輪を振るいながら大男ザトゥ・ルメルが笑う。彼もやはり圧縮音声だ。

 鋼もニヤリと笑って告げた。

「ああ、なんか俺の知り合いからの評価だと、『弱い者には強く、強い者には弱い』ってさ」

「カッ」

 瞬間、ザトゥ・ルメルの形相が憤激に歪んだ。右手から旋風輪が離れ鋼の首筋へ飛ぶ。手首と指一本の筋力だけを使ったトリッキーな奇襲だが充分にスピードが乗っていた。

 鋼は上体を傾けてそれを躱した。放たれた旋風輪は首の横を通り過ぎ、鋼はそれを機に一気に距離を詰める。ザトゥは新たな旋風輪を出して開こうとしていた。

 ギャギィンッ、と鋼の首の後ろで高い金属音が鳴った。トリック攻撃の失敗にザトゥが舌打ちする。避けられることを前提に放った旋風輪はUターンして背後から鋼の首を切断する筈だったのだ。それが技量によるものか、魔術的な操作によるものかは定かではなかった。

 背後からの斬首へ誘導するためのザトゥ・ルメルの動きと、それを読みきった上での鋼の動き。一瞬に凝縮された攻防の後、鋼が後ろに跳んで距離を取った。

「てめえ、武器を、体内に隠してやがるのか」

 ザトゥが怨念を込めて唸る。左足のズボンが裂けて血が流れていた。脛骨が真っ二つに折れており、もうこれまでのような動きは出来ないだろう。

「そういや名乗ってなかったな。俺はローゲン。ここでは鋼源十郎で通すことにしてる。親しみを込めて鋼さんと呼んでくれてもいいんだぜ」

 鋼の右のサンダルの底から、銛のように鉤のついた刃が生えていた。サンダルに仕込まれた武器ではなく、彼の足の裏から皮膚を貫いて伸びたものだった。ザトゥの脛骨を割って更に抉り砕いた刃は、音もなく引き戻されて消えた。

 旋風輪を手で弾いたのもその都度掌から生やした刃によるものだ。背後からの攻撃を防いだのも、首の後ろを包むように実体化させた鋼板の仕業だった。

 鋼源十郎は、体内に好きな形で鋼鉄の塊を実体化させ、体のどの部位からでも生やすことが出来るのだった。探偵事務所で一升瓶を十字に割ってみせたのも、十字形の刃を瞬時に生成して斬ったという単純な話だった。このため彼は五十キログラム以上の鉄分を常に体に蓄えていた。

「さて、取り敢えず足は封じたが、あんたをきちんと始末するのは時間がかかりそうだなあ」

 気楽な口調ながら、鋼の目は油断なくザトゥを見据えていた。ザトゥは巨体をやや屈め、両手の旋風輪を高速回転させている。一見防御態勢だが、逆転の大技を狙っている気配があった。互いに殺し合いには慣れている。手足の一本や二本失ったところで勝敗が決したとは考えない。

 と、一羽の烏が飛んできて近くの街路樹の枝に止まった。

「手助け求む。現在乱戦中」

 烏を模した水上の使い魔は小さなしゃがれ声で鋼に告げた。鋼がそちらに意識を向けた瞬間、溜めていた力を解き放ちザトゥ・ルメルが超速低空タックルで突進してきた。それをサイドステップでぎりぎり躱しざま、鋼の右手から五十センチも伸びた剣がザトゥの右膝の腱を切り裂いていた。これで両足共負傷したことになる。

「じゃ、そういうことで」

 鋼は追撃せず素早く駆け去っていく。旋風輪によって彼の右太股が裂けて血を流していたが、傷は浅かった。烏も高く飛び立っていった。

「野郎、覚えてろよっ。必ずぶっ殺してやるからなっ」

 ザトゥは圧縮音声で捨て台詞を投げつけた。鋼は振り返らず軽く片手を上げて応じ、消えた。

 常人の目には捉えられぬ高速戦闘を終え、そこには地面に這いつくばる大男だけが残された。両足から血を流し、奇妙な武器を両手に持った男を通行人達は不思議そうに見守っていた。

 ザトゥ・ルメルは憤怒の形相を平静なものに切り替え、何事もなかったかのように立ち上がる。旋風輪は畳んでポケットに戻し、首を切り損ねて落ちていたものも回収した。

 五メートルほど離れて中年のサラリーマンが立ち止まり、口を半開きにしてザトゥを見ていた。

「見世モンじゃねえっ。その目ん玉抉り取るぞ」

 ザトゥが凄むとサラリーマンは「は、はいっ、すみません」と謝りながら腰を抜かしてその場にへたり込んだ。

 舌打ちを一つして、ザトゥ・ルメルは足を引き摺りながらその場を去った。

 

 

  七

 

 水晶の手を追う者は更に二人いたのだ。

 どちらも闇オークションの情報は知らなかった。一人はただ、近辺にカイストを発見すると、こっそり魔術的な紐づけをして浅く監視していただけだ。自身にとって脅威、または餌となる可能性がある者に対し彼は注意を怠らなかった。

 そしてペドゥーサが異常な興奮状態に陥ったことから探知の感度を強め、水晶の手の入手を知って彼自身も狂喜することになったのだ。

 もう一人はペドゥーサでなくその魔術士を監視していた。過去に因縁があり、長い間密かに追跡して機を窺っていたのだ。そして標的の精神高揚に気づいて情報をたぐり、彼もまた歓喜の雄叫びを上げた。

 前者は使い魔である翼開長八メートルの大鷲の背に跨りアジトを出発した。隠蔽処理で一般人にもカイストにも見つからないように努めつつ、なるべく大鷲を急がせて東京の空を飛行する。

 後者もまた隠蔽処理を使ったが自分の足で移動した。彼は加速歩行を習得していた。自身が踏んだと意識した空間に肉体を固定する空間座標確保に、重力無視と空気抵抗無視を実現すれば慣性を利用して何処までも加速することが可能になる。世界を渡り超遠距離を移動することのあるカイストにとって、これが使えるかどうかで活動効率に随分と差が出るのだ。彼は戦士ほど加速力がなく超高速移動に対する反射神経もないためスピード限界は音速未満であったが、標的に追いつくには充分だった。

 大鷲に乗った魔術士は上空からペドゥーサを視認する。銀座から南東、築地方面へ歩いていた。黒いロングコートの男。ニヤニヤ笑っているのを自覚しているかどうか。隠蔽処理の不完全さに魔術士は失笑する。所詮は格下、どうにでも料理出来ると判断し、標的が人の少ない場所に移動するまで様子を見ることにした。

 だが、そこで別の追跡者がいることに気づいたのだ。

 黒服の女、魔術士。一般人に気づかれない程度の軽い隠蔽処理で足早にペドゥーサを追っている。おそらくはこちらと同格のBクラスだが、まとう魔力の整い具合はまだ未熟さも感じられる。そのまま追いついて水晶の手を強奪するつもりのようだ。欲望を抑えきれぬ焦りが女の表情に滲んでいる。それをまた未熟として魔術士は嘲笑ったが、フードの下の自身の顔も同じ表情をしていることには気づかなかった。

 今女を攻撃する必要はない。女がペドゥーサを殺し水晶の手を奪って安心したところを攻撃しても良い。ひとまずは見失わないよう紐づけを行うことにして、魔術士は大鷲の背から人差し指を女に向けた。ごく微小な魔力が形を成し、小さな羽虫に変わる。使い魔は標的に触れるとその肉体に溶け込んでマーカーの役目を果たし、術者による探知が容易となるのだ。

 が、魔術士が攻撃でない行動に移った瞬間は、待ち構えられていたのだ。

 やはり隠蔽処理で空中に立っていたもう一人の魔術士が拳銃を発砲した。長銃身のリボルバーから撃ち出された弾丸は大鷲に乗る怨敵へ飛んでいく。

 Bクラスのカイストならばほぼ全員が我力防壁で肉体を覆っている。物理的な攻撃を遮断する見えない壁は、通常の刃物や弾丸を跳ね返す。それを貫いて相手にダメージを与えるには、攻撃側も我力を帯びていなければならなかった。戦士ならば武器や拳に我力をまとわせ、魔術士は火炎や雷撃や呪いに我力と同義の魔力を含ませる。だがそれらは攻撃者から離れるほどに威力が減衰するため工夫が必要となった。武器としては投げナイフより弓矢が弱くなり、更にクロスボウ、銃器となるほどに難しくなっていく。特に銃器については弾丸に使い手の我力が殆ど乗らない、というのが定説であった。

 しかしそれを覆す、我力強化というものが存在した。物品に我力を込めて、それを出来る限り長く定着させる技術。魔術士というより強化士や錬金術士の領分となるが、その魔術士は習得していた。鉛玉とその内部に含まれた猛毒に、彼は事前に長い時間をかけて我力を注いでいたのだ。

 カイスト殺しの弾丸は七百五十メートルの距離を一直線に飛び、狙い通り怨敵の背中に命中した、と見えた次の瞬間五メートルも横を通り過ぎた。

「何っ。幻術か、いや空間歪曲か」

 銃撃者は呻き、すぐに二発目を撃つがそれもまた外れた。

 大鷲の魔術士が驚いて振り返る。

「カラナーかっ、こんな時にっ」

 隠蔽処理は積極的な行動に出ると解けてしまう。銃撃者カラナー・ペルは標的から認識された。

「ズロボッフェン、とっとと死んどけっ」

 見当をつけて更に四発撃つが全て外し、カラナーは加速歩行で突撃した。慎重に一旦退却するより、この際殺ってしまおうという判断だった。水晶の手を取り損ねるのが惜しかったせいもある。

 騒ぎのせいで水上麗羅が上空の魔術士に気づいた。大鷲に乗ったローブとフードのズロボッフェンと、宙を駆けてくる黒ずくめのカラナー・ペル。少し遅れてペドゥーサも気づく。二人して空を見上げ、それからペドゥーサが水上を見た。二人はまだ百メートル以上離れており、他にも大勢の通行人がいた。水上は目を逸らして知らぬふりをしようとしたが、ペドゥーサもそこまで鈍感ではなかった。浮かべていたニヤニヤ笑いが消え、皺だらけの渋面と化す。

 ペドゥーサはすぐに人の密度の高いところへ滑り込んだ。今更隠れるのは無理だから肉の盾にしようとしたのだろう。実際水上は一瞬躊躇したが、上空から降った雷撃がペドゥーサを含む二十人ほどをまとめてぶっ飛ばした。それから僅かに遅れて火の玉が落ち、三十メートル四方を焼き払った。商業ビルのショーウィンドウが軒並み割れ飛び、炭化した街路樹が崩れ落ちる。水上が眉をひそめた。ただしそれは一般人に被害が出たことへの非難ではなく、派手な騒ぎを起こして文明管理委員会を刺激しないかという懸念だった。

「ぐむ……」

 ペドゥーサは生きていた。格下のCクラスとはいえある程度の魔術防御は備えている。コートは焦げてボロボロになり肌も火傷を負っていたが、彼は必死に四つん這いで逃げようとした。

 水上の左手は刃渡り二十センチほどのダガーを抜いていた。華奢な刃には複雑な紋様が刻まれており、長い歳月で自身の魔力を馴染ませたそれは凶器ではなく魔術補助道具だ。更に右手人差し指と中指で宙を掻くと、一枚のカードが指の間に挟まっていた。亜空間ポケットから取り出したもので、予め術式を封じておいた使い捨ての攻撃魔術だった。戦士と違いアクションに時間を要する弱点を、補う手段の一つ。

 右手をペドゥーサに向けカードに魔力を流そうとした瞬間、雷撃の閃光が視界を覆った。ノーダメージだが彼女を包む防御結界が一気に三割ほど消耗した。すぐに結界への魔力供給を強めて修復を試みつつ、カードを上空の攻撃者へ発動した。径三ミリメートルに収束させた破壊光線が空を裂いて伸び、大鷲に乗った魔術士を真っ二つにする筈が、その斜め上を通り過ぎていったことに目を見開く。

「女っ、気をつけろっ。このジジイは雷や火に紛らせて見えない攻撃を使うぞっ」

 空を駆けるカラナー・ペルが水上に警告を飛ばしてきた。水上はズロボッフェンの方へ注意を向けるが、その隙にカラナーが拳銃を発砲してきた。我力強化された猛毒弾は防御結界を貫くと、ぎりぎり肩の上を掠めていった。

「ちょっ」

「うるせえっ、どうせ競合相手だろ、死んどけっ」

 カラナーが怒鳴る。水上が死を免れたのは丁度ズロボッフェンの雷撃が命中してカラナーの狙いが狂ったためだ。カラナーは火傷を負ったが見ている間にも少しずつ傷が治っていく。

 水上はまだ照射を続けていた光線をカラナーの方に向けた。カラナーが懐から袋を出して中身の粉末をぶち撒ける。快晴だった空が、カラナーの周囲だけ黒く塗り潰されていく。光線は闇に呑み込まれて命中したのかどうか分からなくなった。封じていた光線を使い切ると水上はすぐ新たなカードを数枚抜いて同時発動させる。系統が異なり相互干渉しない防御魔術で見えない攻撃に対処したのだ。

 三者がやり合っている隙にペドゥーサは建物の中へ逃げ込もうとしていた。水上は新たに抜き出したカードを発動させ無数の茨を伸ばす。捕獲用の茨は素早くペドゥーサへと滑っていったがやはり上空からの雷撃と炎によって焼き焦がされた。

 空の黒い領域から何かが落ちた。無造作に放り投げられたように見えたそれは濃密な死の気配をまとっていた。直径三十センチほどの金属球。使用者であるカラナー以外、範囲数百メートルの生物を殲滅する魔術爆弾だった。防御結界を貫通して格上のAクラスでもない限り確実な死を与えるカラナー・ペルの切り札で、製作に十万年かけた代物だ。その攻撃範囲にはいきなりの乱戦に唖然として突っ立っている通行人や建物の中にいる人々がいた。起爆すれば死者は少なくとも数千人、下手すると一万を超えるだろう。

 水上は不吉な予感に顔色を変える。その背後から野太い声がかかった。

「来たぜ。ペドゥーサって奴は何処だ」

 鋼源十郎が到着したのだった。使い魔の通信で助力を呼びかけてから二十三秒。それを早いと取るか、遅いと解釈すべきかはすぐに分かる。

「あれをなんとか出来るかしら」

 水上が空中の球体を指差し圧縮音声で問いかけるのと、鋼が何かを投げるのがほぼ同時だった。体内で生成した直径十センチほどの鉄球を、コンパクトなフォームで投げつけたのだ。

 見事なコントロールとスピードで一直線に飛んだ鉄球は、落下途中の金属球に命中して真上に弾き返した。一秒弱の間に四百メートル以上も上昇し、そこで爆発した。瞬間、どす黒い色彩が空に膨れ上がり、その後静かに縮んでいく。地上は殲滅範囲から外れ、一般人の死者は出なかった筈だ。

「随分と無茶したわね」

 水上が呆れ顔になっていた。鉄球をぶつけた衝撃でそのまま爆発してもおかしくなかったのだ。

「運が良かったんだろうさ」

 鋼は適当なことを言った。

 魔術爆弾の殲滅範囲には大鷲の使い魔に乗ったズロボッフェンがいた。どす黒い死が縮んで去った後の空間に大鷲はいなかったが、何かに跨る姿勢のままのローブとフードの老人が留まっていた。攻撃動作はせず小刻みに宙を移動している。

「チッ、幻術かよ。いつの間に……」

 カラナーが舌打ちした。

「ペドゥーサはそっち、建物へ消えたわ。地下鉄かも」

 水上が鋼に伝えつつ、新たにカードを出してカラナーへ光線を放つ。それを躱しながらカラナーもズロボッフェンの本体を探す。魔術的な紐づけは混乱の中で精度が下がっていた。

 鋼が建物へ駆ける。ショーウィンドウが破壊され壁の焦げたデパートの入り口。焦げた死体の破片が地面に散らばっていたが鋼は気にしない。

 入り口のすぐそばに地下鉄への階段もあった。その階段下の踊り場に、這い上がってきた人影がいて鋼は目を細めた。

「やられたわい、未熟者が……」

 未熟者とは相手のことか、或いは自分自身を嘲ってのことか。乱戦に乗じて空中に使い魔と虚像を残し、こっそり地上に降りてペドゥーサを追ったズロボッフェンであった。

 灰色のローブに何本もの裂け目が生じていた。一本はフードにもかかっている。刃物によるものではなく粗い切り口の隙間に、ドロリとしたどす黒い何かが覗いていた。

 ベラリ、と、ズロボッフェンが内側からめくれ返った。黒い粘液のようなものが飛び散り、鋼は咄嗟に下がって躱す。

「あーあ、何だこりゃ」

 踊り場には粘液の塊が広がり、ズロボッフェンの名残りはローブの切れ端だけとなっていた。踊り場の床が、飛散した粘液のついた壁や階段がグズグズと溶けていく。

 地下から大勢の悲鳴が聞こえていた。鋼は粘液を踏まないように壁を蹴って下り、地下鉄の構内へ入る。

 築地駅は地獄絵図と化していた。改札口周辺だけでなく見える範囲で二百人以上がバラバラの肉塊になっていたり半ば黒い粘液となって溶けかけていたりしていた。

「た、助けて、足が溶ける」

 鋼の近くに倒れていた男は右膝から下が溶けており、どす黒い粘液は更に太股へ侵蝕しようとしていた。鋼が右腕を振ると、瞬時に伸縮した刃は男の太股を粘液ごと切り離した。

「う、うぎゃああっ人殺しいいっ」

 男は今度は鋼を見て叫び始めた。

「早く止血した方がいいぞ」

 鋼は忠告してやるが、わざわざ止血してやるほど親切でもなかった。怪我人や死者の間を駆け、改札口を通り抜ける。被害の分布具合からペドゥーサはホームに向かったと思われた。

 が、鋼は全速力で改札口を引き返し地上へ逃げ走ることになった。その後を追うようにして黒い光が衝撃波を伴い広がっていき、天井も床も死体も負傷者も粉々に砕いていった。

 崩落寸前の階段を跳んで地上に戻ると水上も逃げているところだった。通行人の悲鳴と建物の倒壊音が響く中、すぐ追いついて一緒に逃げる。百メートルほど駆けたところで二人は振り返った。

 地下鉄築地駅を中心にして、半径百メートルほどのクレーターが出来ていた。地上にあったビルは崩れ落ち、中に人がいたことを考えると犠牲者は何千人に及ぶことか。

「もう一人の魔術士はどうした」

 周囲を警戒しながら鋼が尋ねる。

「逃げたみたい。取り敢えずは。手傷は負わせたけどまだ余力があった筈」

 水上は答えてから疲れた溜め息をついた。

「ペドゥーサも逃げたっぽいが。多分電車に乗っていったんじゃねえかな。メチャクチャやっていきやがった」

「水晶の手を使ったんでしょうね。手に入れたばかりですぐ使うなんて、馬鹿な真似を。暴走や自爆を起こしてもおかしくないのに」

「で、どうするんだ。追うか」

 鋼は逃げる際に拾っていた路線図の紙を開く。

「少し距離を置いて追跡しましょう。今は調子に乗ってて危険だけど、すぐに消耗して潰れると思うわ」

 水上は答えた。

 

 

  八

 

 風原真は原付を運転してニコニコピザの店舗に戻った。

「ただいま戻りました」

「遅かったな」

 店長は冷たい声を返した。怒ってはいない。最初から風原に期待していない顔だった。

「すみません」

 風原は言い訳せず、ピザの代金を渡す。

「次は何処に配達ですか」

「いや。今日は上がれ」

「えっ。えーっと、五時までの予定だったんですが。それで、僕は、今日で最後なんですけど」

「もういい。最後の日に、また何かおかしなことが起きても困るんでな」

 他の店員達が風原を見ている。蔑む視線と、怯える視線の二種類。蔑むのは風原が鈍臭くミスばかりするからであり、怯えるのは彼を叱った副店長がその日の勤務時間中に失踪したからであった。

「あー。あ、はい。すみません。これまで、お世話になりました」

 風原は伏し目がちにそれだけ言って頭を下げ、店舗を出ていった。

「……ああ。ダメだなあ。ちゃんと、頑張らないと。次のとこでは今度こそ、まともに……あっ」

 五十メートルほど歩いて風原は立ち止まった。

「制服返さないと」

 振り返るとニコニコピザの店舗が消えていた。他の建物が並ぶ中で、そこだけが空き地になっていた。ロッカーには風原の私服を預けていた筈なのに。今は何もない更地だった。

 近くに通行人は大勢いたが、別に驚いたりする様子もない。元からピザ屋など存在しなかったかのように。驚いているのは風原だけだった。

「……ああ。ピザ屋でバイトしてたなんてのは、僕の妄想だったのかな」

 ピザ屋の制服を着たまま風原は再び歩き出した。

「新しいとこは、妄想じゃないといいなあ。探偵だって。社長は優しそうだったし。いや、所長だったかな。あんな綺麗な人もいたし。クビにならないように頑張らないと。探偵って、何をすればいいんだろう。配達じゃあ、ないよな……」

 ボソボソ呟いて自分の世界に浸っていたため、遠くで轟音が聞こえたことにも、人々がざわつき始めたことにも気づかなかった。地下鉄への入り口を見つけて階段を下りていく。日比谷駅。事故でどうしたとか何かアナウンスが聞こえ、雰囲気がおかしかったが風原は気にせず改札を通った。駅員は他の客への説明に必死で風原を見逃した。

 ホームには風原以外誰もいなかった。

「僕も何か特殊な超能力とか使えないといけないんだろうか。一升瓶を素手で割ったり、地震を起こすような」

 電車が到着したが、いつもとは違っていた。表面が黒く汚れていたり変形していたりするし、幾つか割れた窓もあった。それに、編成車両数が少ないというか、一両しかないような……。

 風原は首をかしげながらも、車両が停車してドアが開いたので取り敢えず乗り込んだ。

 乗客は一人しかいなかった。他は、床の所々に黒い粘液っぽいものが広がっている。

「おや、こんな列車に良くもまあ、乗り込めるものですね」

 ペドゥーサが言った。黒いロングコートはボロボロで、国籍不明の整った顔も今は熱病に浮かされたように歪み、脂汗を流していた。ギラついた目は実際に燐光を帯びていたが、その光は不安定に明滅していた。

 風原はペドゥーサを見る。それからその背後、後ろの車両がないのに貫通扉が開け放しになっているのを見る。それから振り向いて、狭い運転席に立つ運転士を見る。彼は斜め後ろに上体が傾いたまま固まっていた。

 改めてペドゥーサの方に向き直って、その両手が握り締めるキラキラしたものに気づいた。

「あ。水晶の手……」

 ペドゥーサの顔色が変わった。

「発車しなさい。ここで降りるつもりでしたが、もう少し先にしましょう」

「承知しました、ペドゥーサ様」

 運転士が言ってハンドルを操作した。昇降口のドアも開いたままで列車が動き出す。

「あなたは一般人のようですが、どうして水晶の手を知っているのですか」

「えっ。どうしてって……。なんか新しい職場の人が言ってたんで」

「職場というのは、ピザ屋ですか」

 風原の制服を見てペドゥーサが苦笑する。そのちょっとした表情筋の動きだけでボタボタと汗が落ちた。

「いえ。探偵社です。ピザの配達に行ったらいきなりスカウトされたんです。僕なんかが探偵なんて難しい仕事、ちゃんとやれるんですかね……いや、でも、頑張らないと」

 ペドゥーサの目が怪訝そうなものになり、それから、粘質な殺意に変わっていった。風原を脅威に感じたというよりは、取り敢えず不確定要素は殺しておこうという判断のようだ。

 が、ペドゥーサは突然水晶の手を左前方へ向けた。黒い帯のようなものが水晶の指先から凄い速さで伸びて窓枠ごとガラスを切断した。一秒半の放射で車両の左側面が七割方横薙ぎに切り裂かれた。金属が軋み擦れる悲鳴。

 溶解魔術の放射を終え、ペドゥーサはブベッと黒い血を吐き出した。

「初心者が使いこなせると思ったのか。今の攻撃をもう二、三回絞り出しただけで多分死ぬぞ、お前」

 男の声がした。列車の前の方から。運転士はロボットのような姿勢で操作を続けており、他に人影はない。もしかすると列車の外側に張りついているのかも知れない。

「なら試してみましょうか。その一般人はあなたの手下ですか。肉の盾にもならないでしょうね」

 ペドゥーサの瞳孔が針の穴くらいに細くなり、ギョロリ、ギョロリと見回している。

「いや、全く関係ないぞ。俺はフリーの魔術士でカラナー・ペルだ。お前が俺より先にズロボッフェンを始末しやがったんで、ちょっとムカついてるんだ」

「そんな複雑な人間関係のことなど私には知ったことじゃないですよね。……で、かかってこないんですか」

 ペドゥーサが見えない相手を挑発する。

「えっと、僕は、タテなんですか」

 ポカンと突っ立っていた風原が、唐突に言った。

「タテ……縦……」

 両足を揃えて直立姿勢となり、両腕を真っ直ぐに上げる。自分の体で縦を表現しようとしたらしい。

 風原の奇行に、ペドゥーサは虚を突かれたように固まった。次の瞬間空気が動いた。声がしていた車両の前からではなく、ペドゥーサの左後方で。声は実体のない囮だった。

 だがペドゥーサが振り返りざまに水晶の指先から黒い帯を放ち、空間を斜めに薙いだ。座席とフレームと壁の鉄板が裂けていく。

 何もない空間から、ドロリ、と黒い粘液が溢れ出した。隠蔽処理が解けて黒ずくめのカラナー・ペルが姿を現す。胴体が斜めに輪切りとなっており、一緒くたに切られた右腕がボトリと落ちた。それは毒塗りの小さなナイフを握っていた。

「調子に……」

 輪切り部分で胴がずれながら、彼は何か捨て台詞を吐こうとしたようだが、黒い帯の追撃を食らい頭から股間まで縦に割れた。

「よし。これで、これで水晶の手は、私の……」

 ペドゥーサは滝のような汗を流し、失った水分のためか魔力のためか顔がしぼんできていた。それでも歓喜と共に両手に握る大切な魔道具を見下ろす。

 その水晶の手を風原の手が掴んでいた。

「あ、すみません。これ下さい」

 風原が言った。

 ペドゥーサの顔が混乱と憎悪にねじれ、何かしようとした瞬間車両を凄まじい衝撃が襲った。

 操られた運転士は判断力を失っていた。複雑怪奇に管理された東京の地下鉄網で何も考えず進んでいればどうなるか。次の駅で停車していた列車に減速なしで追突したのだった。

 グシャリと車両が歪み潰れペドゥーサと風原は宙を舞う。二人同時に「あっ」と声を出した。動揺から魔力が逆流し、ペドゥーサの頭が爆裂した。

 

 

  九

 

 サイレンが鳴り響いている。救急車と消防車、それからパトカーだ。

 それらは崩落した築地駅方面へ向かっていた。大勢の人々が心配そうに見守っている。

 鋼源十郎と水上麗羅は、地下鉄霞が関駅への入り口を眺めている。その屋根の上には使い魔の烏が一羽止まっている。築地駅から西へ四駅進んだ場所だが、先程凄いクラッシュ音が響き、地上にもその震動が伝わっていた。

「『無手勝』ってさあ、もうちょっと穏便に事を運ぶもんだと思ってたんだがな」

 ボサボサ頭を掻いて鋼が言った。

「巨人の目には、一般人なんて蟻みたいなものかもね」

 水上の感想は皮肉なのか、諦念なのか。

「しっかし、コー・オウジの頭の中はどうなってんのかね。何処をどう計算してこんな結末に持っていけるんだ」

「案外、何も考えてないんじゃないかしら。いえ、多分、そうね……具体的な進行は全部無意識の領域任せで……」

 水上はそこで無駄話をやめた。階段を上って霞が関駅の入り口に風原真が姿を現したからだ。

 ピザ屋の制服はあちこち汚れたり破れたりしていたが、本人は大した怪我はしてなさそうだ。水上の視線は風原が持つ水晶の右手首に注がれていた。傷一つない、いや傷ついても自己修復機能があるという破滅の魔道具は魅惑的にきらめいていた。

「あ、えーっと、これ、どうぞ」

 風原が差し出したそれを、水上は震える手で受け取り愛おしげに掻き抱く。

「お疲れさん。ちゃんと役に立ったじゃねえか」

 感無量で動けぬ水上の代わりに、鋼が風原へ労りの言葉を投げた。

 

 

*** 水晶の手強奪事件 業務記録 ***

 

・依頼人:坂井泰昌、五十六才。プレシャス・サカイの社長。

・依頼内容:プレシャス・サカイ銀座本店でペドゥーサという男に強奪された水晶の手を取り返して欲しい。

・経過と結末:所員がペドゥーサを追跡し、水晶の手を狙う他の者達の邪魔が入ったものの、水晶の手の回収に成功した。

・報酬:残念ながら依頼人死亡のため報酬の百万円は支払われず。仕方なく水晶の手は我が探偵社の所員が預かることとなった。

・今回の被害:一般人の死者はプレシャス・サカイ店舗で四人、地下鉄築地駅周辺と構内で魔術戦に巻き込まれまたは崩落によって二千七百人以上(まだ正確な人数は把握出来ず)、地下鉄霞ヶ関駅の列車追突事故で七十四人。負傷者は千百人以上。

・今回減った体重:四キログラム。

 

・各所員の感想(個別提出)

 鋼源十郎:もうちょっとなんとかならなかったのか。いや俺は駒だから、やれと言われればやるけどさ。

 水上麗羅:念願叶って今はとても幸せです。とても良い会社だと思いますので今後も全力で貢献させて頂きます。

 風原真:あのー、僕はこれまで何処に住んでたんでしょうか。分からなくなってしまいました。

 

・所長としてのコメント:最初に扱った事件としてはまずまずの滑り出しではないでしょうか。生存者がいて良かったですね!

 

 

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