一
霧のような灰色の闇の中に、大路幸太郎ことコー・オウジはいた。
地面の感触がないのだが浮遊しているような軽さはなく、沈むような重さでもない。漂っているのか、その場に静止しているのかも定かではなかった。
温かい感覚。冷たい感覚。こそばゆい感覚。痛み。痒み。そんな様々な感覚がチリチリとオウジを撫でてはすぐに消えていく。
ノイズ。「アアア」や「ロオオ」などの声のようでもあったし、ただの雑音のようでもあった。或いは幻聴かも。聞こえているのか。それとも、頭の中に直接響いているのか。全ては判然としなかった。
オウジは灰色の闇の中で、ただボンヤリとしていた。
そのうち、「ア」や「ロ」や「アアロロ」などばかりだったノイズが、言葉らしきものを生み始める。
……ニヲ……
……ナニヲ……ノゾ……
……ノゾ……ム……
「何でしょう」
オウジは闇に問いかけた。
……オマエハ……ナニヲ……ノゾム……
ノイズ混じりながら、なんとか聞き取れる言葉になった。
「お前は、何を、望む、ですか」
オウジは確認するが、返ってくるのはノイズばかりだ。
「お答えしてもいいのですが、まずはあなたが何者か、教えてもらえませんか」
混沌とした灰色の闇の中で、オウジの意識は曖昧になっていたが思考力は比較的保たれていた。三百億年生き抜いた強烈な自我のお陰だろうか。
……ナニモノ……カ……ワカラナイ……
「では、名前だけでも聞かせて下さい」
……ナマエ……ワカラナイ……
「ふうむ……。分からないのなら仕方がありませんね。私の望みは、ハッピーエンドです」
オウジは正体不明の何かに対して律義に答えた。
……ハッピーエンド……トハ……ナンダ……
「そう聞かれそうな気がしていました。ハッピーエンドとは、幸せな結末です。途中に色々と苦労したりひどいことが起きたりしたとしても、最後には満足して幸せになるのです。必ずしも登場人物の全員が幸せになる訳ではありません。そういうのは現実には不可能ですからね。しかし、ひとまず主要人物達は納得の出来る結末を得る。それが、私の望むものです」
……シアワセ……ナットク……ワカラナイ……
それから暫くノイズが続いた末、また言葉が届いた。
……ワカラナイ……ガ……アリガトウ……
「どう致しまして」
灰色の霧が薄れていき、真の闇になった。
コー・オウジは改めて眠りに沈んでいった。
二
風原真は給湯スペースで、ワークトップに並ぶ空の湯呑みに困惑していた。いつの間にか何者かによって淹れられたものが各人の席に置かれ、飲んだ後は風原が洗ったりするのだが、その湯呑みは再利用されるのではなく毎回新たな湯呑みが供給されるのであった。
今、同じデザインの空の湯呑みは百個以上ひしめいていた。増え過ぎるので数日ごとに三階の物置に運んでいたが、数ヶ月後には置き場所がなくなりそうだ。
風原は頭を押さえ、「人が増殖するんだから、物が増殖するのも普通なのかな」と自分を納得させようとしていた。彼は先週の虹夢島のトラウマがまだ尾を引いていた。
「そういえば、風原さん」
大路所長がふと思い出したように呼びかけて、風原は慌てて衝立の陰から顔を出した。
「は、はい。何でしょう」
「私はこの探偵の仕事に満足したら、所員の皆さんにそれぞれ何かプレゼントしようと思っているんです。それで、まだ風原さんにはリクエストを聞いていなかったと思いましてね」
「はあ……。プレゼント、ですか」
風原が益々困惑顔になった。
「で、でも、給料は充分貰ってますので。初日にいきなり先払いで百万とか、その、そんなに役に立ってないので、申し訳なくて……」
「風原さん、あなたは役に立っていますよ。細かいことは分かりませんがきっと役に立っていますし、今後物凄く役に立つこともあると思います。それはそれとして、お金とは別に何か欲しいものはありませんか」
「お金とは別の、欲しいもの、ですか……。僕は……」
風原は俯いて考え込んだ末、自信なさげに言った。
「僕は、まともになりたいです」
「ふむ。まとも、ですか」
「僕は、皆さんみたいなカイストになりたいと思ってるんですけど、その前にまずは、人間としてまともになりたいです」
「まともとはどのような基準で、どのように区切るかによるでしょうね。人間にも色々いますが、犯罪を犯すことなく働いて生活費を稼いでいるならまともと解釈しても良いと思いますし」
「基準とかはよく分かりません。けど、人の役に立てて、失敗しないで、周りの人が行方不明にならないで、知らないうちに増殖したり人を殺したりしないで、ちゃんとした人として幸せになりたいです」
「まともな奴でも失敗はするもんだけどな。まあ増殖はしないだろうが」
ウイスキーをストレートで飲んでいた鋼源十郎がコメントしたが、風原の耳に届いたかは不明だ。
「分かりましたっ」
大路が叫んで立ち上がり、風原に歩み寄ってその両肩に優しく手を置いた。
「あなたがまともっぽく幸せな人生を送れるように、私がサポートしましょうっ。まあ私が満足してからの話ですけれど」
「あ、ありがとうございます……」
風原は顔をクシャクシャにして涙を拭っていた。その涙は血の色をしていたが、大路は何も言わなかった。
魔法陣らしき図の中心に水晶の手を置いて何やらやっていた水上麗羅は、所長達を胡散臭そうに一瞥し、すぐに水晶の手に視線を戻した。
呼び出しのチャイムが鳴る。風原が慌てて事務所のドアを開け、「どうぞ」と客を招き入れた。
「失礼します」
礼儀正しく挨拶して入室したのは二十代前半の女だった。整った顔立ちだが化粧は薄く、髪もほつれ気味で疲れた様子を滲ませていた。
「まあ、どうぞどうぞ」
大路はソファーを勧め、自分も向かいに腰を下ろす。カタン、と音がしてワークトップに新たな湯呑みが中身入りで置かれたため、風原は盆に乗せて所長と来客へ運んだ。
女は礼を言いつつ、自分の机で平然と飲酒している鋼を見た。それから、不気味な水晶のオブジェを睨んでいる水上を見る。一瞬ドアの方を振り返ったのはこのまま逃げることを考えたのかも知れない。が、彼女は覚悟を決めて或いは諦めて、ソファーに座った。
「私が所長の大路です。今回はどんなご依頼ですかな」
人を安心させるような柔らかい微笑を浮かべ、大路が尋ねる。
「あの……おかしな依頼、だとは思うんです。ですが、本当のことで……ここはどんな依頼でも受けて下さるという噂で……」
「おかしな依頼、いいですね。是非ともお聞かせ下さい」
大路が巨体を乗り出してやる気を見せる。逆にちょっと引き気味になりながら、女は言った。
「あの……私の息子を、捜して欲しいのです」
「ふむ、人捜しですか」
ボテン、と音がしたので風原が給湯スペースを覗く。器に複数個の饅頭が盛られていたので、それを盆に乗せてローテーブルまで運んだ。饅頭は無から生じた訳ではなくバスケットにオヤツとして確保されていたものだが、では誰がそれを買ってきたのかとなると知る者はいなかった。
「息子さんはいつ、どのような状況で行方不明になったのでしょうか」
大路は尋ねつつ、客より先に饅頭に手をつける。
「息子が失踪したのは三ヶ月前です。やるべきことがあると言って……。詳しいことは話してくれませんでした」
「手掛かりになりそうなものはありませんか。息子さんの交友関係とか、借金を背負っていたとか」
「いえ。……息子はまだ……失踪した時点では、生後七日でしたので」
鋼と水上が女に目を向けた。
「生後七日で、やるべきことがあると言って失踪……そういうのもあるんだ……」
風原が感心したように呟いている。
大路はニコリと笑って言った。
「なるほど。確かにおかしな依頼ではありますね。生後七日の時点で、息子さんはどのような状態でしたか。外見的には何才くらいになっていたのでしょう」
女は意外そうな顔をした。
「信じて下さるんですか。知り合いも警察も、他の探偵社に相談した時も、皆冗談だと思って笑うか、怒り出すばかりでした」
「いえいえ、業界ではよくある話ですので。出来るだけ早く活動出来るように、幼年期・少年期を飛ばして一気に成人の体になってしまうんですね。加速成長という技術です」
「あっ、はい、その加速成長という言葉、息子からも聞きました。……あの、どういう業界なんでしょうか」
「息子さんがあなたに説明しなかったのでしたら、私からもご説明すべきではないと考えます。ご依頼の内容は、息子さんの捜索でしたね」
「……そう、ですね。……捜索を、お願いします」
女は翳りのある顔に苦渋の表情を加え、頷いた。
「では、捜索の手掛かりとして最も重要なことをお尋ねします。息子さんは名乗りましたか。親御さんのつけた名前ではなく」
「そのことも、ご存知なんですね。……孝志は……息子は、自分のことを、オスライルと名乗っていました」
俯いて、寂しげな声音で彼女は答えた。
鋼が片眉を上げ、水上と視線を交わす。どちらも無言だった。
大路は欠片の動揺も見せず、穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「分かりました、お引き受けしましょう。ただ、息子さんはご自分の意志で出ていったと思われますから、無理矢理連れ戻すのは難しいでしょう。私達が出来るのは息子さんを見つけ、お母さんからの伝言をお伝えすること、そして、現在の息子さんの状況をお母さんにご報告すること。そのくらいになると思いますが、よろしいですか」
「はい。よろしくお願いします」
依頼人の名は相沢弥生といった。息子に伝えるメッセージや連絡先などを聴取する。彼女が妊娠中に夫は事故死しており、今は一人暮らしなのだそうだ。
最後に彼女はもう一度「よろしくお願いします」と頭を下げて去った。
それから少しして、鋼が何か言いたげな視線を水上に向けた。
「委員会の監視なら、ビルの中の様子までは覗けないようにシャットアウト出来てるわ。ただ、依頼人側が既に監視されてる可能性はあるわね」
「そっか。まあ、今口封じされてないんだからこの先も大丈夫なんだろうな。多分」
「……さて。お二人はオスライルのことを知っているのですか」
客が手をつけなかった饅頭を全て食べ終わり、大路が尋ねた。
「あー、やっぱ所長は知らなかったか。オスライルってのは絶対正義執行教団のメンバーだ。まだBクラスだが、それなりに有名な筈だぜ」
水上が後を継ぐ。
「つまり今は四神会の所属という訳。やるべきことがあるというのは、侵略か破壊工作か。たまたまこの星に転生しただけで、もう別の世界に移動してる可能性もあるけれど、うちに依頼が来たということは、まだこの星にいるってことかしら」
最後の台詞の意味は、達成可能な依頼しかここには来ないという大路への信頼であった。
「あの……委員会というのは何なんですか。この前もチラッと話に出てたので、気になってたんですけど」
遠慮がちに風原が質問した。
「委員会ってのは、文明管理委員会のことだ。一言で言うと、世界を支配する闇の組織だ」
鋼が凄く簡単に説明すると、風原は目を何度も瞬かせた。
「はあ……。アメリカじゃなくて、ですか」
鋼は苦笑する。
「ああ。委員会はそのアメリカも裏から支配している」
「はあ、恐ろしい組織なんですね。それで、四神会というのは何なんですか」
「そうだな、委員会の横暴に反旗を翻した寄せ集めの組織だ。暫くは頑張ってたが、もうそろそろ負けそうでな。今はゲリラ戦とかテロがメインになってるな」
「はあ。テロですか。テロって……良くないですよね」
「そうだな。良くねえな」
短く返す鋼はつまらなそうな顔をしていた。
三
同日の夜十時過ぎ、横浜の繁華街と倉庫街の中間にある一角にタクシーが停まる。
「釣りは要らんぞ」
そう言って助手席から降りたのは鋼源十郎だった。後部ドアが開き、少し経ってから風原真が降りる。
タクシーが去り、鋼はゆっくりと周囲を見回した。街路樹や電柱に烏が止まっている。裏の通りにもいて計八羽、一つの建物を囲むように配置されているのは水上麗羅の使い魔だった。
六階建てのそのビルの看板は、『剛間総合開発事業』となっていた。まだ明かりが点いている。
「まあ、暴力団ってのは大っぴらに暴力団ですって名乗りはしねえわな。一応建前はまともな企業のふりをしてる訳だ」
風原に説明すると、鋼はさっさと玄関のガラス戸を開けて入った。風原はスポーツバッグを抱えてついていく。
「んー。何だ、あんたら」
受付のカウンターの後ろで、小さなテーブルを挟んで二人の男が酒を飲んでいた。その片方が赤ら顔を嫌そうに歪めて問いかける。
「私立探偵だ。質問があって来た」
鋼が答えた。
「あのなあー。時間を考えろよ。明日来い明日」
もう一人の男が怒鳴ってきて風原は首を竦めた。鋼は平然と返す。
「夜の方がいいと思ったんだよ。死体を運び出すなら暗い方がいいだろ」
「何。てめえ……」
男達の目が剣呑な光を帯びる。
「冗談だよ。多分な」
鋼はニッと笑ってみせたが、その顔は牙を剥き出す猛獣にも似ていた。
「オスライルって男のことに聞きに来たんだ。痕跡を辿ったらここに繋がってたんでな。まず上に話をしてみてくれや。お互い血を見ずに済むなら、それに越したことはねえからな」
挑発的な台詞に二人が激高せず顔を強張らせたのは、鋼から滲み出す強烈な威圧感のせいだった。風原はただキョロキョロと屋内を見回していた。
男達は改めて来客を観察する。鋼は何も持っていない。バッグを持つ風原は気弱そうに見える。
「ちょっと待て」
片方が言って、受付の電話機で上に連絡を取り始めた。
「……はい。変な奴らで。探偵と言ってますが。……おい、オスライルだったか」
向き直って確認してくるので鋼は頷いてみせた。
「はい、オスライルって奴のことを聞きたいそうです。妙な雰囲気の男で、堅気じゃないと思います」
「そっかあ。俺は堅気じゃなかったのか」
鋼は面白そうに呟いていた。
受話器を置いた男は咳払いを一つして、鋼に告げた。
「上がってこいってよ。俺が連れていく」
「そうかい、頼むわ。……風原はここで待っててくれ」
「えっ」
「荒事になるかも知れんからな。そこのおっさんと仲良くお話でもしててくれ」
そう言って鋼が指差したのは案内しない方の男だ。相手は噛みつきそうな表情で「俺はまだ三十五だ」と言った。
「はあ……。よろしくお願いします」
風原が丁寧に一礼したので、男は妙な顔をした。
案内役の男と鋼が奥のエレベーターへ歩いていく。残された方の男と風原はぎこちない雰囲気になった。
「あー、えーっと……その……暴力団って、やっぱり暴力が好きなんでしょうか」
「ああっ、舐めてんのかてめえっ」
男は瞬時に激高した。風原は頭を抱えてその場にしゃがみ込む。
「すみませんすみません、暴力は、良くないと思うんです」
「お前……一発食らわせたろか」
男が拳を振り上げる。風原は涙目になって言葉を続けた。
「暴力を振るうと、行方不明になってしまうんです」
男は慌てて拳を止めた。
エレベーターに乗り込むと案内の男は五階のボタンを押した。
「死体を運び出すなら、とか言ってたよな」
男が嫌な笑みを浮かべて鋼に話しかける。
「うちは死体置き場が地下にあるんだよ。でかい冷凍庫になってるから腐る心配もないんだぜ」
「そうかあ。便利でいいな」
鋼もニヤリと笑みを返した。あまりに平然としているので、逆に男の方が俯いてしまった。
五階に到着し、ドアが開くとそこはフロア全体が一つのスペースになっていた。正面に高級デスクが一つと、他にはテーブルと椅子やらソファーやらが適当に配置されていた。この場にいたのは八人。多くは荒事が得意そうな面構えをしていた。
鋼はテーブルにこれ見よがしに置かれている日本刀と拳銃を一瞥し、表面上は申し訳なさそうな顔をしてみせた。
「これから出入りだったのか。悪い時に邪魔しちまったな」
「お前、何処のモンだ」
高級デスクの向こうから一番偉そうな男が尋ねた。
「俺は大路ミラクル探偵社の鋼ってモンだ。あんたが組長さんかい」
「いや、社長は今ご不在だ。俺は副社長の菱峰という。……ミラクル、か。随分とふざけた探偵社だな」
偉そうな男は四十代後半で、強面ではなかったが冷たい目をしていた。人が殺されるところを幾度となく見てきたような目だ。他のラフな格好の男達とは違って彼だけが高級なスーツを着ていた。
「本当にミラクルだから仕方がないのさ。で、副社長ってことはつまり、若頭か」
「そういう肩書きは今はどうでもいいだろう。それよりだ」
菱峰は唇の片端だけを僅かに上げて薄い笑みを浮かべた。ソファーでテレビを観ていた男達が立ち上がり、ゆっくりと鋼を囲むように動いていく。案内してきた男はエレベーターの前に立ってニヤニヤしていた。
「オスライルをなんで捜してる。正直に話してくれれば余計な手間をかけずに済むんだが」
「客に依頼されたからなんだけどな、探偵は守秘義務って奴があるんだろ。喋る訳にはいかないな。ただ、別にオスライルの敵じゃあないんだ。消息を知りたいのと、伝言を預かってるくらいでね」
「ふうん。だがお前の言うことが本当かどうかは分からんよな。やっぱり体にも聞いてみた方がいいかも知れん」
菱峰のその言葉と同時に、男達が背後から鋼の両肩を掴んだ。
鋼はまるで動じなかった。屈強な手に押さえられながら、むしろ朗らかな表情になっていた。
「そっかあ。拷問かあ。折角道具出してんだから、使わないと勿体ないもんな」
「ハッタリだと思ってるのか。おい、指の一本でも折ってやれ。詰めるのはその後だ」
「そうか、どの指がいい。取り敢えず小指にしとくか。ところで、オスライルってどんな奴だった。日本人に見えたか」
自分で左手を前に出し、小指を立ててみせると鋼は尋ねた。
菱峰は答えず、男達に軽く顎で指示をする。一人が鋼の小指を握り、一気に力を込めた。
「あれっ。折れないなあ。パワーが足りないのかな。もっと筋トレした方がいいんじゃねえか」
鋼はからかうように言った。小指は実際、微動だにしていなかった。それを男が両手で握り込み、顔を真っ赤にして体重までかけて折ろうとするが、やはり動かない。逆に鋼が自分から小指を動かすと、グルングルンと振り回されて男は五メートルほど吹っ飛んでいった。
囲んでいた男達が息を呑む。鋼が見回すと、彼らは思わず数歩下がった。肩を掴んでいた男達も手を離す。
「次は詰めてみようか。刀抜きなよ」
鋼が言った。
菱峰は眉をひそめて鋼を睨んでいたが、やがて男達のうち最も体格の良い男に告げた。
「伊坂、やってみろ」
「……はいっ」
言われた男は両手で自分の顔を叩いて気合いを入れると、テーブルの日本刀を掴んで鞘から引き抜いた。刀は一級品ではなかったが、刃欠けや錆もなくきちんと手入れされていた。
「このままでいいか。それともテーブルに手を置いた方がいいか」
鋼が尋ねた。
「そのままでいい」
伊坂という男は日本刀を両手で握り、中段に構えた。長年剣道をやってきたようで、堂に入った構えだった。
「それで話戻すけどよ。若頭、あんたオスライルって奴とどんな話したかちゃんと覚えてるかい。もしかして、名前くらいしか覚えてないんじゃないか。それと、オスライルを捜してる奴が来たら引き留めろ、と指示されてるだけとか。ちょっと思い出してみちゃくれねえかな」
日本刀を前にしても平然として、鋼は菱峰に問いかけた。
菱峰は一瞬面食らったような表情になって目を瞬かせた。それから数秒、改めて目を細め、彼は伊坂に命じた。
「やれ」
伊坂は頷くと、精神を集中するようにゆっくりと息を吐いていく。鋼は小指を立てたまま動かず、それを見守っている。
息を吸い、また吐きかける途中でヒュッ、という鋭い呼気を発して伊坂は動いた。素早い踏み込みに、見事にコントロールされた横一文字斬りだった。
「うっ」
伊坂は驚きに目を見開いて固まっていた。正確に鋼の左小指を切り飛ばす筈だった刃は、その小指の側面で止まっていた。
寸止めにしたのではない。刃は小指の皮膚に触れているが、切れていない。一ミリも凹ませてさえいない。皮膚が異常に硬いのか。いや、刃がぶつかるような音もしなかった。超絶的な達人であれば刃の速度を見切って同じ速度で指を引けば、切られずに止めることも出来たのかも知れない。だが鋼は小指を元の場所から動かしてはいなかった。
「こういうのを見るのは初めてか」
鋼の声は優しかった。遥か年下の後輩に話しかけるみたいに。
「我力防壁って言ってな。刃物でも弾丸でも通さねえんだ。ムチャクチャに気合いを入れたら、お前のような一般人でも薄皮一枚くらいは切れたかも知れんがな」
伊坂は顔をしかめ、長い息を吐いたがその呼吸は震えていた。それから黙って日本刀を引き、鞘を拾って納刀するとテーブルに戻した。そのまま床に正座する。彼なりの、降参の意思表示のようだった。
「次は銃を試してみるかい。弾を打ち返す曲芸をやってみせてもいいぜ」
鋼が人差し指でデコピンするような仕草を見せた。
「いや、もういい」
菱峰が言った。他の男達も毒気を抜かれ、鋼から更に距離を取った。
「そうか。で、オスライルなんだが、どうだい、何か思い出せるかい」
「それだよ」
菱峰は皺の寄った眉間を指先でトントンと叩いた。
「その名前を聞いた時、なんかそいつが大事な知り合いで、守らないといけないような気がしたんだ。だが、よくよく考えてみると、俺はそんな奴のことを知らない、覚えてない。おい、お前らの中でオスライルって奴を知ってるのはいるか」
若頭の問いに、その場にいた男達は首を横に振った。いや、伊坂ともう一人だけが手を上げた。
「頭(かしら)、俺はそいつと会ったような気がします。その時は頭と一緒にいたような気が……でも、それだけです。そいつの顔も、いつ会ったのか、どんな話をしたのかもまるで思い出せません」
「お、俺も同じです」
伊坂が答え、もう一人が困惑顔で同調した。
「そっかあ。で、どうだ。何か分かったか」
鋼が問いかけた視線は、高級デスクの菱峰ではなく、その背後に向かっていた。「えっ」と男達の誰かが声を上げた。
いつの間にか菱峰の後ろに女が立っていた。隠蔽処理で存在を消し去っていた水上麗羅。タクシーにも同乗していたし、エレベーターで一緒に移動した。鋼が時間を稼ぎつつ記憶を刺激するための言葉を投げている間、彼女はずっと菱峰の頭に手を触れて情報を吸い出そうとしていたのだった。
彼女は冷めた目で首を振った。
「ダメね。記憶をいじられ……」
その時、天井で何かが動いた。
四
嘗てフランスの数学者であり物理学者、ピエール=シモン・ラプラスはこう言ったという。
「悪魔よ、我に初期値を与えよ。されば未来のあらゆる事象を計算してみせよう」
世界が一定のルールによって、即ち物理法則によって動かされているのならば、全ての事象は計算可能であり予測可能という訳だ。
しかしニュートン力学で現象が説明可能と信じられた時代は遠く過ぎ、現代ではカオス理論や量子力学が研究されている。それでも、地球の文明においては未だ世界の法則を全て解明するには至っていない。
では、カイストの『業界』ではどうだろうか。四千世界が成立して六百億年以上経過し、世界の法則は『ほぼ』解明され、未来の事象は『ほぼ』予想可能だと学者達は言う。
物理化学法則だけでなく、生物の脳内の情報処理と行動決定。脳の活動とは別の、魂に由来する精神の動き。世界の法則を歪めてしまう我力の干渉。それらの複雑怪奇なプロセスまでカイストの学者達は数値化し、法則を見つけ出し、計算式を設定した。そしてカイストの絡む事象においてもその法則と計算によって『大体』予測可能となった。
しかし、どうしてもその予測は完璧にはならず、多かれ少なかれ結果には揺らぎが生じる。どれだけ短い時間・限定された空間のプロセスでも『ほぼ』『大体』以上にはならなかった。世界に法則は間違いなく存在する。だが、その法則から外れた不確定な要素もまた間違いなく存在するのだ。
無限に広がる、全てを含む混沌。その広大な海に奇跡のように生まれた小さな小さな秩序の舟が四千世界だ。しかしその舟の中にも混沌の海水は染み込んでいる。
学者達はそれを『混沌の領分』と呼んだ。
『無手勝』コー・オウジは自分では何もしない。ただ願うだけだ。だがその願いは何故か混沌の領分を動かし、『ほぼ』『大体』定められていた結果をほんの少し、ずらすのだ。そのほんの少しのずれが積み重なると、物語の結末を変えることになる。
剛間総合開発事業のビルには結界が張ってあった。カイストが侵入した時や、オスライルという言葉を誰かが唱えた時に術者が感知出来る仕掛けだ。そして短時間で到着した襲撃者は隠形の技術と魔術的な隠蔽処理を併用し、誰にも見られず気づかれず五階のフロアに侵入した。
カイストである二人にも感知されず天井を逆しまに這い、まずその位置取りが『ずれ』た。組員の一人がたまたま天井を見たため、その視線に当たらぬよう三センチ右へ寄ったのだ。一般人に直視されたからといって気づかれる恐れはなかったが、襲撃者は万が一を考慮するタイプだった。
男達を意図的に挑発しているのがBクラスの戦士で、隠蔽処理で姿を隠してリーダーらしい男から情報を読み取っているのがBクラスの魔術士であることも、襲撃者は看破していた。後はどのように始末するか、だ。
戦士はまだ若い。ちょっとした動作の粗さに、周囲への注意配分の不効率からそれは察せられる。一千万才にも達していない、いやもしかするともっと若いかも知れない。だが、真正面からの勝負になれば手間がかかりそうな、奇妙な予感が襲撃者にはあった。
魔術士もやはり、若い。一億才には達していない筈だ。魔術士は戦士よりも早く多才な術を習得しがちだが、そもそもの地力が育たなければ原始的な腕力に押し潰されることになる。自分ならすぐに始末出来る、と襲撃者は見立てたが、逃してしまえば余計な情報を読み取られたり搦め手の妨害を受けたりするリスクもある。
どちらを先に始末するか。この時点の襲撃者の中では四割対一割で戦士だった。だが残りの五割は、両者を同時攻撃するという選択肢だった。
なのに四の方を選んだという判断は、後から幾らでも尤もらしい理由を挙げることは可能だろうが、究極的には襲撃者自身にも分からない、『混沌の領分』の出来事であった。
天井に張りついた状態からの、左手の剣による斬撃。彼ほどの達人でも殺気を完璧に消すことは出来ず、隠蔽処理と隠形は解除される。だが、相手に避ける暇はない筈だった。
三センチ。
ほんの三センチ、最適な間合いから離れていたことが、相手の異様に広い視野に捕捉され、刃が届く前に反応される僅かな猶予を生んだ。
ガギィンッ、と硬い金属音が響いて男達は目を剥いた。だがその時には既に十合以上の攻防が交わされていた。
まず首筋への刃を防いだのは、その首から浮き出た金属塊だった。皮膚から生えたぎりぎりのところで刃を弾いたが、もう少し遅くても皮膚が浅く裂けただけで弾いただろう。刃に毒が塗っていなければ大した負傷にはならない。
まあ実際のところ、毒が塗ってあったのだが。
「誰だてめえっ」
鋼源十郎は圧縮音声で叫びつつ振り返り両手から天井へ向けて剣を伸ばした。凄まじいスピードであったが、掌から剣を生やすのは握っていた剣を振るよりは当然遅くなる。襲撃者は天井を蜘蛛のように這って余裕で躱し、二本の剣は切っ先で天井を少し削った。
襲撃者は灰色の全身タイツみたいな恰好をしていた。頭から指先・爪先までナイロンに似たなめらかな生地に覆われている。恐ろしく痩せていて、手足は細長い。露出しているのは顔の両目部分だけで、その目は剃刀のように細く鋭く、機械のように冷徹に鋼を観察していた。左右の手にシミターに似た曲刀を握っていた。同じ形状だが二センチほど刃渡りが違うのは、相手の見切りを誤らせるためか。エッジには黒い液体が塗られていた。毒の強度は不明だが、カイストである鋼でもあれで斬られれば死を覚悟しなければならないだろう。足裏の一部が天井に触れるだけで張りついていた。これは重力無視や空間座標確保の技術を習得していれば容易なことではある。
天井を素早く移動しながらの曲刀の攻撃。それを掌から伸ばした剣で弾く。と、鋼が慌てて上体を反らす。その顔があった場所を死が通り抜けていった。男がかぶったタイツの口の辺りにごく小さな穴が開いている。男は口から毒針を吹いたのだ。鋼は上体を反らした勢いで右足を蹴り上げた。サンダルの底を破って三本目の剣が伸び、しかしそれもタイツ男に躱される。
「あぅっ」
ヤクザの一人が声を上げてぶっ倒れた。鋼が避けた毒針が服を貫いて皮膚に刺さったのだ。カイストをも殺す毒は瞬時に全細胞の活動を停止させ、ピクリとも動かない。声を上げた時には既に死んでいたかも知れない。
その頃には水上麗羅も襲撃を認識して動き始めていた。最初に自分を囲む防御結界を強化し、次に亜空間ポケットから攻撃魔術のカードをつまみ出す。その右手の近くでキンッと金属同士がぶつかり合いどちらもすっ飛んでいく。
「防御に集中しろっ、こいつ強えぞ毒を使うっ」
鋼が圧縮音声で警告した。どさくさ紛れに水上を狙った毒針を鋼の投げた金属片が弾いたのだ。それは鋼の右手首から生み出したばかりのもので、径五センチほどの円盤だった。
超高速の刃の応酬が五十合を過ぎ、突然灰色タイツが派手に動いた。それまでは天井を這う必要最小限の移動であったが、窓の一つへ向かって跳躍したのだ。逃走か。鋼の意識がそちらへ向きかけ、視界の隅で立ち上がっていたヤクザの一人の異常に気づき叫ぶ。
「糸だ伏せろっ」
その男の首筋に斜めの切れ目が走っていた。
視認困難なほどに細いワイヤーがいつの間にかフロアに張り巡らされていたのだ。タイツ男の動きだけに気を取られていれば一気に引き絞られた鋼線によって全身を輪切りにされていただろう。
水上は自分で確認する暇を惜しみすぐ床に伏せた。鋼は伏せながらも、窓を破って飛び出していくタイツ男から目を離さず、同時に両手の剣を四方に振ってワイヤーの切断を試みる。更に首筋から頭部、肩と腰から体幹を囲むように曲がった刃を伸ばしたのは見えない糸を触覚で感知するためだった。
「無事か」
ワイヤーの斬撃が通り過ぎた後で立ち上がり、鋼が問う。左手の剣を見て唇を歪めたのは、剣がワイヤーを切断したのではなく、ワイヤーが剣を半ばほどで切断していたためだ。
「まあ、ね」
水上は慎重に身を起こしつつ答える。鋼は割れた窓に駆け寄り外を覗こうとしてすぐに飛び退いた。毒針が通り過ぎて天井に突き刺さる。
剛間組の男達は全滅していた。菱峰は高級デスクと椅子ごと胴を斜めに断ち切られ、首から上もなかった。他の組員も二つから四つ程度に分解されている。
日本刀を振るっていた伊坂という男は正座から立ち上がろうと片膝立てた姿勢で、頭部と胸部を輪切りにされていた。なめらかな断面から血が溢れ出すのを見て鋼は僅かに顔をしかめるが、感傷的なコメントはしない。
「あれがオスライルじゃあないと思うが、追うしかないよな」
「その前にここ、結界で閉じられてるわ。攻撃型の焼灼結界か……いや、これは空間ごと圧縮して中身を潰すタイプね。術者はかなりの熟練者。外に置いていた使い魔も大半があっさり消されたみたい」
「ふうん。で、我が探偵社の有能なる魔術士さんとしてはどうするんだ」
鋼が尋ねながら剣先で窓の外を突いてみる。さっきまでは普通に街の景色と夜空が見えていた。今は暗闇だけで、突いた先に妙な抵抗があって剣が進まなかった。
水上は美しい顔に暗い笑みを浮かべた。
その少し前から、風原は受付の男とバッグの話をしていた。
「おい、それ、何が入ってんだ」
風原が持ってきたスポーツバッグのことだ。それなりの重さがあり、風原は床に置かずにずっと持っていた。
「それは、あの、僕にも分かりません」
風原はキョドキョドしつつ正直に答えた。
「ならなんで持ってるんだよ」
「その、所長に持っていくように言われたので」
「でも中身は分からないんだよな」
風原の頼りなさに、男はまた少しイライラし始めていた。
「はい。鋼さんが使うのかと思ってたら置いていかれました。あ、鋼さんというのはさっき上がっていった人です」
「……ならさ。開けてみろよ」
「えっ、開けていいんですかね」
「開けるなとは言われてねえんだろ。というか最初に何が入ってるか聞いとけって話だよ。チッ。今からでも中身、確かめてみろよ」
「そうですね……。確かめても良さそうですね。ありがとうございます」
少し考えてから、風原は礼を言った。言われた方はまたイライラしているのだが、風原に伝わっているかどうか。
風原はスポーツバッグを置いて、上についているジッパーを端から慎重に開けていった。真剣な顔で中身を覗き、「あっ」と慌ててジッパーを閉じる。
「何だ。何かヤバいものか」
うまく覗けなかった男が尋ねる。
風原は泣きそうにも見える表情で、男に言った。
「なんで……なんでこんなものが入ってるんですかね。……タマネギでした」
「タマネギか。何だそりゃ」
「タマネギです。なんか中身がゴロゴロしてると思ってたんです」
「なんでタマネギなんだよ」
「僕にも分かりません」
「ちょっと見せてみろ」
男がジッパーを開けていく。と、赤いものが見えてきた。
「あっ」
「あれっ」
二人が同時に叫び、風原がまた慌ててジッパーを閉じた。
「ニンジンじゃねえか」
「ニンジンでした。でも、さっきはタマネギだったんです」
風原は目を見開いて、全身を小刻みに震わせていた。その動揺ぶりを薄気味悪そうに見て、やがて男は言った。
「もう一度開けてみろよ」
「い、いいんですかね。今度はどうなるか……」
「最初が見間違いだったかも知れねえだろ。ちゃんと確かめろ」
「ちゃんと……そうですね。ちゃんとしないと。よし、開けます」
風原は意を決し、改めてジッパーを開いた。
「ああ……」
風原は、顔を歪め、呻き声を絞り出す。
スポーツバッグ一杯に収まっているのはジャガイモだった。
「ああ、やっぱり、これはもしかして、僕の妄想……あっ、そうか。カレーを作る予定だったんですかね」
と、風原が顔を上げると男はいなかった。周囲を見回すがここにはもう、誰もいない。
「あ、ああ……また、行方不明に……」
もう一度バッグを見る。黄土色のジャガイモばかりで、タマネギもニンジンも見当たらない。
「もう一度、もう一度開けたらどうなるんだろう。……ちゃんと、確かめないと」
風原は呟いて、ジッパーを閉め、また開いた。
瞬きを忘れ、声を出すことも出来ない。彼はただ、泣いているような怒っているような顔で、バッグの中を睨んでいた。
そこにはタマネギでもニンジンでもジャガイモでもなく、ドロドロとした訳の分からないものが詰まっていた。
「……。カレーのルーかな」
風原は呟いて、ジッパーを閉じた。
上の方からゴシャ、と重い音が響いたのはその時だった。
「あっ。鋼さんは……。行ってみないと」
風原はバッグを抱えて走り出した。ボタンを押してもエレベーターが反応しないため、仕方なく階段を駆け上がっていく。
五
ビルの三階より上を包む黒い球体の側面に、ピシュリッ、と、亀裂が走り、開いた切れ目から二人が飛び出してきた。
鋼源十郎と水上麗羅。自然落下よりも素早く降りるその姿の二メートル上に数本の毒針が向かい、全てが剣によって弾かれた。
「幻術はバレバレだったみたいだな」
無事に着地して、鋼がからかうように水上に言う。落下中を攻撃される可能性を考え、自分達の姿を二メートル下にずらして見せる幻術を使っていたのだった。
「結界からの脱出は私のお陰でしょ」
水上は冷たい表情で反論する。
「あんたが無理だったら俺が自力で切り開いたさ」
圧縮音声のやり取りのすぐ後に、剛間組のビルを包んでいた黒い球体は猛烈な勢いで縮んでいき空白だけを残した。中にあった鉄筋コンクリートの建材や家具や死体は何処に行ったのか。六階建てだったビルは三階の床と壁の一部を残し、そこから上は消滅していた。削れて支えを失った壁が倒れてゴシャリと音を立てた。
ビルの末路を確認するより先に、鋼は正面に立つ二人の男とその周囲を観察した。
「ここもビルがあったよなあ。消しちまったのか」
ビルの隣の敷地だが、八階建ての別のビルがあった筈だ。それが二階程度までの外壁だけを残して中身が消失し、幅三十メートル×十五メートル程度の更地になっていた。コンクリートの基礎部分が抉り取られたような断面を晒して残っている。
「うむ、親切心じゃよ。平地の方が戦いやすかろうと思ってな」
しわがれ声が答えた。灰色タイツ男の横に立つ、ボロボロのローブを着た老人。指で押せば崩れそうな土気色の乾いた肌に、少ない白髪がユラユラと風に揺れている。白目部分の見えない、黒いガラス玉のような目が鈍く光っていた。両手共ローブの袖に隠れ、何を持っているのか分からない。
誰が見ても魔術士だと判断するような老人だった。それも、かなりタチの悪いタイプだ。
こちら側のビルにも人はいただろう。何十人か、或いは百人以上。彼らがおそらく悲鳴を上げる余裕もなく消されたことを、鋼達がわざわざ非難することはない。言っても無駄だからだ。
その代わりに鋼は尋ねた。
「四神会か」
「そちらは委員会ではなさそうじゃな」
「今は私立探偵やってるんだ。オスライルの消息を確かめて、伝言を届けたいだけなんだがね。依頼人については守秘義務があるから言えねえが」
鋼の言い分を相手方が信じてくれるなら、わざわざ殺し合う必要はなかった。ただし四人の間には相変わらず冷ややかで緊張した空気がわだかまっていた。
魔術士の老人は言った。
「どうせ生みの親じゃろう。念のため殺しておけと何度も言ったのに、あやつは拒否しおった。今からでもやっておくべきじゃろうな」
鋼は歯を剥いて狂暴な笑みを見せた。
「なるほど、親切な爺さんだな。ここでちゃんと自分を殺しとけってアドバイスくれるなんてよ」
グッ、グッ、と、老人は濁った笑い声を洩らした。
「委員会が駆けつけるまで数分の猶予はあるじゃろう。奴らは分かった上でここに手出しせず監視しておった。わしはネグロ・デ・モルタ。こやつはミライアじゃ」
灰色タイツ男は無言だったがピリリ、と小さな殺気が老人へ伸びた。勝手に名を暴露されたのが嫌だったらしい。
「俺はローゲンこと鋼源十郎だ。いや、逆だな。ところで名前をメモしてもいいかい」
「ダイイング・メッセージにするのか。探偵じゃからの、グッ、グッ」
馬鹿なやり取りを無視して水上も「ラミア・クライス」と本名を名乗る。
「ふむ。双方、魔術士と戦士のコンビになるの。どうじゃ、魔術士同士と戦士同士で別々にやり合わんか」
鋼が頭を掻きながら首を振った。
「いやー、無理だろ。あんたら信用出来ねえもん。『あっと、流れ弾がああ』とか言って横から攻撃するだろ、多分な」
「信用がないのは寂しいことじゃのう。……ではそろそろ始めるかの」
「それもダウトだ。とっくに始まってるんだろ」
鋼が笑顔で答え終わる前に背後から曲刀が襲った。鋼と水上の首を同時に狙う二本の刃を振り向きざまに鋼の剣が弾く。言葉の応酬を鋼に任せて準備していた水上が、左手で亜空間ポケットからダガーを抜いた。長さ二十センチほどの刃に彫り込まれた複雑な紋様が、ザワザワと蠢いて周囲に伸び広がっていく。棘の生えた黒い蔓は増殖しながら素早く水上自身を囲んでいき、繭のように包み込んでしまう。通常の防御結界だけでは不足と判断してのもの。はみ出した蔓は更地の空間を覆い尽くすように広がり、ミライアはその隙間をくぐったり曲刀で切り落としたりした。蔓は味方である鋼を自然に避けて動き、また、鋼に当たっても柔軟にしなるだけでダメージは与えないようだ。
隣に立っていたミライアの虚像は塵と化して崩れ、魔術士ネグロ・デ・モルタの足元の水溜まりに吸い込まれた。それはボロボロのローブの両袖から滴り落ちたもので、黒い水溜まりはネグロを中心に音もなく広がりコンクリートの基礎も土も覆っていく。ミライアとやり合っている鋼の足元まで到達し、鋼は「おっと」と飛び上がって何もない宙を踏んだ。空間座標確保。物質でなく空間それ自体を意識して足場にする技術だった。だが踏んだその足がグニャリと沈み鋼は顔をしかめる。見えない力で下に引っ張られているようだ。黒い沼と化したそこに呑み込まれればどうなるか。おそらく楽しいことにはならないだろう。
水上を包む棘つき蔓は沈んでいない。常に新たな蔓が湧いて彼女を支えているようだ。繭の中から彼女の声がした。
「侵蝕結界の変則型ね。強力な溶解作用があるわ。それから、中に何かいる」
「こんな汚え水で飼ってるとか、ペット虐待じゃねえか」
鋼は冗談を飛ばしながらミライアとの打ち合いを続けていた。相手は鋼と戦いながらも水上へ毒針を吹いたりするので、彼女を守れる位置取りに気を配っている。こっそり踵から生やして足の振りで投擲した円盤がネグロへ向かうが、標的に近づくごとに強くなる引力によって結局ネグロの足元に沈んだだけだ。
「おお、危ない危ない。こんな近距離で戦士相手はかなわんのう」
喋る間にネグロの体が沼に沈み始めた。腰まで浸かっても止まらない。このまま本体を隠してしまうつもりらしい。水上から伸びた蔓もネグロを捕らえようとしていたが、沼に引かれて沈んだり、水面から撥ねる黒い飛沫に溶かされたりしてうまくいかなかった。
蔓が微細に蠢く繭の隙間から、僅かに迷いと焦りを含んだ水上麗羅の目が覗く。その目がネグロ・デ・モルタの黒々と光る目と合った時、魔術士同士の戦いは別の次元にシフトした。
内界戦、と呼ばれる特異な戦闘様式がある。魔術士同士、特に精神操作に携わる術者で起こるものだ。両者の合意によって起こすことも可能だが、稀に一瞬の偶然、たまたま目が合ったとか、台詞がかぶったとか、同種の魔術がぶつかり合ったとかでも起こり得る。
それは互いの精神を連結して戦場と化し、どちらかが破滅するまで陣地を奪い合う凄惨な勝負だった。ここでの敗北は死亡だけでなく、精神に不可逆なダメージを追うリスクがあるのだ。
「お主の右手、亜空間ポケット内で水晶の手を掴んどったじゃろう。勿体ぶらずにもっと活用すべきじゃったの。それとも制御に手こずっておったのか。ここでは道具を使えぬぞ。全ては自分の地力のみよ」
荒野の真ん中でミイラが言った。水晶の手の存在を看破したのは結界を破られた時であったろうか。ミイラはボロボロの衣をまとって木の柱に縛りつけられ、胸に金属の杭が刺さっていた。うなだれた頭部に金の王冠が乗っている。枯れた精神と自傷自罰、それでも残る虚栄心を象徴したものか。ネグロ・デ・モルタの内的世界がこれだった。
草原の中心にそびえる巨大な蕾は沈黙している。固く閉じられてまだ咲く気配を見せず、現実に似て周囲を棘のある蔓で守られている。そして、毒草に肉食植物に毒虫に毒蛾。一見のどかな草原であったが、悪意と罠に満ちているのが水上麗羅ことラミア・クライスの内的世界であった。
「『暗黒塔』の魔道具には、昔はわしも憧れておったものよ。今となっては自殺道具にしか見えんが。使いこなすために自分をザム・ザドルに近づけるのじゃからの。……ほれ、もう食い込まれてしもうたぞ。判断が遅かったの。これでもう無傷では逃げられんぞ」
荒野と草原が接する境界で、荒野の乾いた土から這い出した骸骨達が草原に踏み込み、領土獲得を宣言するように骨の杭を打ち込み始めたのだ。
内界戦を途中で抜けることは不可能ではない。外的刺激でトランス状態を解除されたり、肉体が重大な損傷を負った時などは自然中断があり得た。しかし、内側から無理矢理中断させるのは危険だった。特に劣勢なままで抜けると食い込まれた領域が引きちぎられるだろう。
棘つきの蔓が素早く伸びて骸骨達を捕らえ、粉々に砕いていく。破片は土に染み込んで肥料になるようだ。境界のそこかしこで骸骨と蔓が争い始める。打ち込まれた杭を蔓が引き抜くが、その間に別の場所が杭で区画される。区画されたエリアの草が次第に枯れていき、荒野に同化していった。
「無駄話が長いわね、糞ジジイ」
巨大な蕾が言った。取り繕っていた現実とは違い、内界では口調が多少荒くなっている。
「その余裕、内界戦に慣れてるって様子ね。これまで無数の魔術士を食い殺してきたんだろうけど、自分が食われるリスクも分かってるの。その自信満々な態度が崩れて泣き叫ぶところを見届けてやるわ」
「ウギャーッ」
いきなりミイラが頬が割れるほど口を開け大音声で叫んだ。衝撃波が荒野と草原を揺らし、蔓や毒虫達が数瞬縮こまる。ミイラが笑った。
「グハッ、ハッ。うむ、そちらは慣れておらぬようじゃの。お主が怯んだ隙にまた少し食い込ませてもろうた」
際限なく生み出される骸骨は休まず侵略を進めていた。蔓がすぐに迎撃して拮抗状態を取り戻すが、領土は削られたままだ。
「一般人がAクラスを刺し殺す『カイエンス・パラドックス』はまあ極端な例じゃが、弱者が強者を殺すことはさほど珍しくないのう。わしも油断はしとらんよ。無理はせずじっくり着実に食らうつもりじゃ」
草原からは毒虫達が前線に集まってきていた。骸骨に毒は効きそうにないが、無数の虫に隙間なくたかられて、少し経つとポロポロと崩れ落ちていく。毒蛾は宙を舞いながら鱗粉を撒き散らし、視界が濁り始めていた。
対する骸骨は続々と土の中から這い出て参戦するが、それぞれは大して強くもない人海戦術のようだ。武器は持っていても誰かの大腿骨だったり骨を組み合わせた盾だったりした。草原に打ち込む杭も、杭を打つハンマーも骨だ。
「ただ、のう、わしらが内界でやり合っておる間、現実の方はどうなっておるかのう。わしの体は沼に沈めたし、使い魔に護衛を任せておるから良いのじゃが。あの若僧にお主の体を守る余裕があるかどうか」
内界戦の時間経過は様々だが、かなりの長期戦であっても現実では数秒しか経っていないようなことが多い。だが、数秒でも意識が飛んで無防備となるのはカイストの戦いでは致命的だった。
「キャハハハハハハハ」
巨大な蕾が揺れて突然甲高い笑い声を発した。さすがにネグロは動揺しない。
「二対二の勝負だと思ってたのかしら。だとしたらおめでたいことね」
「ふむ……。近辺に他のカイストはおらぬと思うたが。ブラフでもなさそうじゃし、少々急ぐとするかの」
ミイラが枯れ枝のような右腕を振って何かを投げた。それは自分の体から引き抜いた一本の肋骨だった。前線に着地するとみるみる大きくなり身長十メートルを超える巨人の骸骨となる。雑魚の骸骨達が五十体ほど寄り集まって巨大な鎌となった。巨人はそれを掴むと草原に踏み込んで、凄い勢いで横薙ぎに草を刈り始めた。
「火を放てばもっと効率が良かろうが、生憎わしの内界はそう出来てはおらぬ。お主の方も、植物と虫では骨相手にはやりにくかろうがのう」
磔のミイラは更に肋骨を投げ続け、計八体の巨人が前線で暴れることとなった。
「虫にも色々あるでしょ、ボケジジイ」
鱗粉で見通しの悪くなった場所に巨人が侵入すると、数秒後に足を砕かれて転倒することになった。草に隠れて接近し、脛骨を一噛みで砕いたのは全長二十メートル近い大ムカデだった。転倒したところに太い蔓が絡みついて動きを封じ、無数の虫がたかって少しずつ齧っていく。大ムカデはシュルシュルと草の間を這って次の巨人へ向かっていた。
また、草原から荒野へも侵略が試みられていた。枯れ草が丸まったような塊が荒野に転がっていき小さな種を撒き散らす。種は素早く芽を出して草となり、乾いた土を草地へ変えていく。それを骸骨が踏み潰したり骨の鍬で掘り起こしたりして枯らしていく。
荒野を草原に変えるより、草原を荒野に変える方が早い。戦線は大体拮抗していたが、一度奪われた領地を取り返すことは難しく、少しずつ草原は食い込まれていった。巨人の骸骨は全て倒したが、特にネグロがダメージを負った様子はなく、侵攻速度も鈍っていない。迎撃に注力させるための見せ札であったのか。
「さて、現実ではどれだけ経ったかのう。一秒か、二秒か。グ、グッ、助けが入るまでにお主がしのげるかどうか」
煽ってくるミイラに蕾は答えない。煽り返すだけの余裕がないのか。
「お主の中心の蕾じゃが、花が開いたらどうなるんじゃろうな。最後の切り札が現れるのか。いやいや、必死に隠しておった脆弱で臆病な本心が露わになるだけではないのかのう」
やはり蕾は答えない。ただ、その尖った先端が斜め上を向いていた。虚ろに晴れ渡った荒野の空を。
「何っ」
ミイラもまた空を見上げ、驚きの声を上げた。王冠がずれるが落ちそうで落ちない。
ネグロ・デ・モルタの心象風景である筈の乾いた空を、丸いものが幾つも落ちてくる。艶のある、巨大なタマネギが。
続いて空を突き破って数百本の巨大なニンジンが落ちてきた。更にはゴロゴロと転がるように巨大なジャガイモが。
「どうなっておる。お主の隠し玉か。いや、違うな、いきなりわしの領域にウゲアアアアアアッ」
ミイラが恐怖の声を上げたのは、野菜が落ちてきた空の破れ目からドロドロとした得体の知れない何かが侵入してきたからだ。形のない、色彩もはっきりしない、生命体なのかどうかも分からない何か。
悪意も善意もなく、ただ、目もないのにそれに見られていることを感じて、荒野を攻める絶好の隙なのにラミア・クライスも動くことを忘れていた。
急に骸骨達が撤退を始めた。元の領域に帰ると土の中に潜り込み、打ち込まれた骨の杭も勝手に抜けていく。荒野と草原の境界に黒い隙間が生じ、みるみる離れていった。両者のトランス状態が解除され、内界戦が自然中断しようとしている。
「仕切り直しじゃな、小娘よ」
去り際にミイラが王冠に触れ、軽く持ち上げてみせた。
その少し前、動きのなくなった水上を庇いつつ鋼はミライアと戦い続けていた。手足の先から、時には肘や膝や背中からも臨機応変に刃を伸ばし更には手裏剣みたいに飛ばし、毒塗りの刃と毒針を防ぐ。一撃でも食らえば致命傷になり得る攻撃をなんとか捌いていた。
「もしかして、こんなこと考えてねえか。『こいつ、意外にしぶといぞ』ってな」
防戦一方ながら鋼は笑う。彼の戦い方は変則的であり、動きを読みにくいが隙も多い。しかし、攻撃が当たりそうな瀬戸際で異常な集中力を発揮し、ぎりぎり、一、二ミリ程度の差でしのぐのだ。水上に向かう攻撃については大路による『混沌の領分』の加護があったかも知れないが、少なくとも自身の命に関わるところでは鋼の実力といえた。
ミライアは喋らない。沼の引力は仲間である彼にも働いているようだったが、ミライアはそれを前提にして計算された動きをしていた。タイツの二つの穴から覗く瞳はやはり冷徹で、感情の欠片も示しはしない。
そんなぎりぎりの攻防を続けるところに、誰かの足音が届く。元の剛間総合開発事業のビルの階段を駆け上がる音。壁と天井が吹き飛んだ三階に到達すると一旦立ち止まり、それから隣のこの更地側へ近づいてくる。
三階フロアの端から黒い沼と化した戦場を見下ろすのは、スポーツバッグを抱えた風原真だった。
それに気を取られるほど鋼はやわではない。だが意識のほんの僅かな部分が風原に向き、その分だけ自身と水上を守るための集中力に欠けが生じた。ミライアはそれを逃がさなかった。
曲刀と手から生えた剣の交錯。その曲刀を触れるか触れないかの距離で追った毒針を、鋼は躱すことが出来なかった。腹部に鉄板を浮かせようとしたが間に合わず、針が皮膚に刺さった瞬間全身が硬直する。
確実なトドメを与えるべく横殴りの曲刀が鋼の首筋を襲った。これまでの慎重な攻撃とは違い、深く宙を踏み込んでの強襲だった。
そこで急に鋼が猛烈な勢いで後転したのだ。
曲刀を躱しつつ、右足裏より生えた剣がミライアの顎下から切り裂こうとする。ミライアも首を反らして避けようとしたが、剣が途中から更に伸びた。
「実は俺、毒にはかなり耐性が出来てんだよな」
首から脳天まで真っ二つに割られ、沼へ落ちていくミライアに鋼は告げた。それから改めて隣のビルを見上げ、風原に尋ねる。
「何やってんだ」
「え、何か、協力しようと思って……」
風原はバッグをひっくり返して中身を沼へぶち撒けているところだった。タマネギ、ニンジン、ジャガイモ。それから何か得体の知れないドロドロしたものを見たような気がしたが、鋼は見なかったことにした。
「ブバッ」
黒い水面から魔術士の顔が浮き上がってくる。折角なので攻撃すべく駆け寄ろうとして、鋼より早く到着した者がネグロを引き上げ回収保護した。
「チッ、予備脳持ちかよっ」
鋼が吐き捨てた。苛立ちは自分の詰めの甘さに対してのもの。
ネグロを片腕に抱えたミライアは、真っ二つになった頭部がベラリと左右に倒れて脳の断面を晒していた。それでもまともに動いている。
カイストは長い年月をかけて様々な異能を身に着けるが、それには生命維持の能力も含まれる。通常の物理攻撃を弾く我力防壁はBクラスの大半が習得しているものの、カイスト同士の戦いとなればやはり傷を負ってしまう。そこで自然治癒を百倍以上に促進させたり、手足の欠損を再生させたりする技術も戦う者の多くが習得している。局所の血管を極度に収縮させ出血を止める技術も合わせて、一般人なら致命傷となるようなダメージでもカイストなら平然と生き延び、戦い続けられる。
しかし、脳と心臓は殆どのカイストにとって急所のままだ。克服するためには人間という種の範疇から少しばかりはみ出す必要がある。例えば心臓を複数持ったり、心臓が破損しても全身の血管をうまく操作して血液を巡らせたりするようなことだ。そして脳の場合は、やはり頭蓋内以外に予備の脳を置くのが手っ取り早いだろう。それほど大きくなくても取り敢えずは支障がない。カイストなら脳の機能を魂で直接補助出来るからだ。
頭部を空にして胴体に大脳を配置する者もいるが、ミライアの場合は頭部のメイン脳に加え、予備脳としておそらく体幹の脊髄に近い場所に配置しているのだろう。メインの脳が破壊され、予備脳に意識を切り替えるまで僅かにタイムラグが発生することが多い。ミライアの頭部を真っ二つにしてすぐ鋼が追撃を加え肉体をバラバラに引き裂いていれば、勝負は決まっていただろう。それをしなかった鋼を経験不足と断じることも出来るが、そもそも予備脳持ちの戦士はカイストでも稀なのだ。強くはなりたいが、種としては人間のままでいたいという者が多いために。
ミライアはネグロを抱えて素早く後退していく。分かれた頭部の左右の目は虚ろに固まっていたが、熟練の戦士なら視力に頼らずとも問題なく動けるものだ。ネグロの足が離れると更地を覆う黒い沼は急速に退いていった。パシャリ、と水面から黒い触手が顔を出すがすぐ引っ込んで二度と現れなかった。
現実に帰還した水上が棘つきの蔓を伸ばして敵を追う。と、細い光線が閃いて蔓を瞬時に切断した。
「動くな。おかしな真似をしなければこちらも攻撃しない」
抑制された、しかし強靭な意志を感じさせる男の声だった。
いつの間にか敷地の隅に一人の男が立っていた。彼の背後の空間に縦長の黒い楕円形が浮かんでいる。おそらくは別空間へのゲート。遠く離れた場所へ瞬間移動することは熟練の魔術士にとって不可能ではないが、必要な準備や条件は多い。おそらくゲートの向こうは小さな亜空間で、一旦その中に退避して、アンカーを取りつけた別の場所へ亜空間ごと転移、そして亜空間から現実空間に戻るという手順を取っているのだろう。オスライルを追うカイストの侵入を感知して、ミライア達が短時間で到着したのはそういうことだった。
同じ方法で後から到着した男は鍛え抜かれた見事な肉体を持っていた。外見的には二十代前半だろうか。顔の造作は悪くないのだが、長く逆境で戦い続けてきたような、ひたすらに厳しい顔をしていた。武器は持っていないが両手の指先が蛍のように淡く光っている。今光線を放ったばかりの右手人差し指を除いて。彼の師匠『光の王』ハイエルマイエルほどの連射性能や破壊力はないが、大抵のBクラス相手なら瞬殺出来るだろう。
「あんたがオスライルかい。今世では相沢孝志」
「そうだ」
鋼の問いかけに、オスライルは正直に頷いた。
「随分と育っちまってるが、取り敢えずは元気そうだな。あんたの母ちゃんが心配してるんだが、家に帰るつもりはないのかい。生後七日で家出とか、早過ぎだろ。三十年くらい親孝行してからでも良かったんじゃねえか」
尋ねながら鋼は水上を守る位置取りをして、両前腕と側頭部、首筋などを守るように鉄板を生やし覆っていった。それでオスライルの光線を防げるかは不明だが、少なくとも僅かに切断を遅らせるくらいは出来るだろう。
「やるべきことがあるから、帰ることは出来ない。それに、どうせ傷つけるのだ。ならばその傷は浅い方がいい。……ネグロやめろ」
オスライルはネグロに右手を向けて警告した。ボロボロの袖が動いていたので何か攻撃魔術を使おうとしたようだ。
「面倒臭い男よ。効率を無視しおる」
ネグロが文句を言いながらミライアと共にオスライルの後ろに回り込んだ。すぐにでもゲートに飛び込める態勢だ。
「教団の方針なら仕方ないのかも知れねえが、この星であんま悪さすんなよ。母ちゃんが悲しむぞ」
「私は総体として、正しいと信じることを実行するまでだ。そこに感情は割り込ませない」
「そっかあ。それから、そこの糞魔術士があんたの母ちゃん始末するとか言ってたから、どうにかしとけよ」
「分かった」
オスライルは表情を変えずに頷く。
「最後に、母ちゃんからのメッセージを預かってるんだが、受け取ってくれるかい」
繭の中から水上が手を出すと、封筒が握られていた。鋼がそれを取り、手首のスナップだけでオスライルへ放り投げる。回転することもなく真っ直ぐに飛んだ封筒をオスライルは左手で受け止めた。
「後で読ませてもらう」
オスライルが言うと、仲間達は素早くゲートに飛び込んで消えた。オスライルは鋼達から視線を外さぬまま後退して、背中からゲートに消えた。黒い楕円が小さくなっていき、豆粒ほどの大きさになり、完全に見えなくなった。
コンクリートの基礎まで溶けてしまい一段低くなった更地に、鋼と水上が残った。防御態勢を解いて短くなった蔓はダガーの刃に戻り、水上は息をついた。
「仕事完了かな。帰るか」
腹に刺さったままだった毒針を抜いて、鋼が言った。
「あ、あの。あのー、すみません」
上部が消失したビルから風原が声をかけてきて、二人は振り向いた。
「どうした」
「あの、僕は、ちゃんと仕事したんでしょうか。カレーの材料を落としただけなんですけど」
「カレーの材料って」
水上が尋ねる。
「タマネギとニンジンと、ジャガイモと、カレールーです」
「……仕事をしたわね。ちゃんと役に立ってたわ」
少し考えてから水上が微笑してみせたが、その笑みはやや引き攣っていた。鋼は気まずそうに無言を保った。
*** オスライル家出事件 業務記録 ***
・依頼人:相沢弥生、二十三才。会社員(育休から復帰予定)。
・依頼内容:生後七日で家出した息子・孝志を捜して欲しい。
・経過と結末:依頼人に付随する情報を掘り起こして痕跡を辿り、横浜の剛間総合開発事業(剛間組)を訪問すると、四神会のカイスト二人から襲撃を受けた。その後、四神会の一員となっているオスライルも到着したため、帰宅の意志の有無を確認し、依頼人からのメッセージを渡した。剛間組は委員会の追跡を断ち切るためのトラップであったらしい。委員会の捕獲部隊が到着したのはオスライル達が撤退して二分後であった。
・報酬:育休割引で三万円。
・今回の被害:剛間組のビルにいた十四人と隣のビルにいた推定五十七人の一般人が戦闘に巻き込まれて死亡。また、風原によると剛間組の組員一人が行方不明となっている。
・今回減った体重:十一キログラム。
・各所員の感想(個別提出)
鋼源十郎:次はちゃんと勝ちたい。
水上麗羅:ノーコメント。
風原真:あのスポーツバッグは一体何だったんでしょうか。カレーを作る予定だったんでしょうか。
・所長としてのコメント:四神会とは今後も絡みがありそうな気がしますね。
スポーツバッグは三階の物置にあったものです。中身は確認していませんでしたが、役に立ったのなら何よりですね!