第四話 超時空浮気調査

 

  一

 

 霧のような灰色の闇の中に、鋼源十郎ことローゲンはいた。

 何も見えない。ただモヤモヤとしたはっきりしない何かが広がっているようだった。足裏に地面の感触はない。ならば落ちているのかというとそういう感覚もない。宙に浮かんでいるのか、それとも水中にいるのか、静止しているのか、移動しているのか、何も分からない。

 明確な体の感覚がなく、腕がどちらを向いているのか、足が何処にあるのかも分からない。足先が遥か彼方にあるような感じがしたり、右手と左手が融合しているような感じがしたり、体の中心に頭があるような感じがしたりした。時折温かさや冷たさ、何かが触れる感覚や痒み、痛みなど、様々な感覚の欠片が何処かに生じてはすぐ消えていく。

 全てが不確かで曖昧な、灰色の闇の中で、ローゲンはただボンヤリと過ごしていた。

 チリチリと生じては消える感覚の中に聴覚もあった。ブツ、ブツン、ザザ、と、ただの雑音のようであったが、ずっとそれを聞いているうちに、声らしきものも混じってきた。

 「アアアア」とか「ロアアア」とか、「アアアアロロロ」とか、そんな意味不明の声であったが、暫く続くと言葉のようなものに変わってきた。

 ……ナニ……

 何。ローゲンは問いかけようとしたが声にならなかった。発声には口と喉と肺が必要だが、そのどれか、或いは全てがないのかも知れない。

 ……ナニ……ヲ……

「何だ」

 今度は声が出た。肉声なのかそれとも思念なのか自分でも分からなかった。雑音の中の相手の声も、音として発せられているのか、ローゲンの魂に直接届いているのか、区別がつかない。

 ……ナニヲ……ノゾム……

「何を望む、だって。俺に聞いてるのか」

 ……オマエハ……ナニヲ、ノゾム……

「そんなこと聞いてどうすんだよ」

 意識はまどろんだまま、刺激に対してローゲンの芯の部分が本能的に反応し始めていた。挑発されたら即ぶん殴るような、喧嘩っ早い部分が。

 暫くの間、沈黙、というか雑音と「アアアロロロ」という意味のない声が続いた後で、また言葉が届いた。

 ……サンコウニ……スル……

「参考にするってか。自分の望みを決めるために。アホがっ。そんなのは人に聞かずに一から自分で考えろよ。大事なことだろうが」

 また沈黙。

 やがて再開された声は弱々しげだった。

 ……ワカラナイ……ワカラナイ、カラ……ヒトニ、キク……

「しょうがねえ奴だな。まあ教えてやるが、自分の望みはちゃんと自分で考えて決めろよ。いいか、俺の望みは最強の男になることだ。四千世界最強、且つ史上最強だ」

 ……サイキョウ……

「だがそれにはもっと先、いや、根源がある。何故俺が最強を目指しているかというとな、かっこいいからだ。つまり俺の究極の望みは、かっこつけて生きることだ」

 ……カッコ……ツケ……

「巷にはかっこつける方がかっこ悪いなんて意見もあるがな。『かっこつけたつもりなんてないんだけどなあ、やれやれ』なんて言ってさりげなくかっこつける奴がいるが、ああいうのはヘナチョコ野郎の嘘っぱちだ。真っ正直に、堂々とかっこつけるのがいいんだよ。分かるか」

 ……ワカラナイ……

「分かれっ」

 鋼は自分の怒鳴り声で目が覚めた。

 

 

  二

 

 その日の依頼人は陰気な男だった。顔色は悪く、何か持病を抱えていそうな痩せ具合だった。年齢は四十才前後だろうか。きちんと折り目のついたスーツを着ていて、それなりに高給を貰っているサラリーマンという印象ではあった。

 陰気なところに親近感を抱いたのか風原真がじっと凝視しているのにも気づかず、高月日比郎(こうづきひびろう)という依頼人は言った。

「妻が浮気をしているようなんです」

「ふむ……。息抜きも終わって、そろそろおかしな依頼が来る頃だと思っていたのですが……」

 大路ミラクル探偵社所長・大路幸太郎はプックリした二重顎を意味深に撫でた。

 横浜で四神会のカイストとやり合ってから八日が経っている。その間、普通の浮気調査や普通の高級自動車窃盗や普通の殺人事件を解決したが、おかしな依頼はなかった。

「おかしな依頼、ですか」

 高月が怪訝な顔をする。

「ええ、おかしな依頼です。つまり……あなたの依頼は実はおかしな依頼である可能性が高いと思います」

 大路は自信満々に告げ、高月は相手の真意を確認しようとするかのように眉を上げたり下げたりした。それから事務所内の他の所員を見回した。鋼源十郎は机に足を投げ出して日本酒を手酌で飲んでいるし、水上麗羅は机に世界地図を広げ、その上に糸を通した針を垂らしてダウジングらしきことをやっていた。既に何本かの針が地図に突き刺さっている。風原は瞬きもせず真剣な目でこちらを睨みつけている。思わず「うっ」と呻いて高月は大路に向き直った。

「詳しいことを教えて頂けますか」

 大路が促した。

「はあ……。妻の美紗とは結婚して六年になります。職場恋愛……先輩として色々指導していたのがきっかけです。結婚してから妻は専業主婦で……うまくいっていると思ってたんです。年は一回り離れてましたし、まだ子供もいなかったけれど、愛し合っていると……」

 俯く依頼人を穏やかに見据え、大路は次の言葉を待った。

「異常を感じたのは一ヶ月ほど前です。妻の化粧が少し濃くなって、ちょっとした仕草が色っぽく、なって……。料理を手抜きし始めたとか、態度が冷たくなったというほどではないんです。でも、いつもは私が帰宅すれば職場のことを聞いてくるんですよ。それが、急に私に興味がなくなったみたいに……」

「高月さん。奥さんがもし本当に、浮気なさっているとしたらの話ですが、相手の方に心当たりはありますか」

「いえ、全く。美紗の交友関係は私と被っているところが多く、今のところ友人知人に怪しい印象はありません。習い事やパートにも行ってませんし……。ああ、ただ、謎の言葉を呟いている時がありました。はっきりとは聞き取れなくて、尋ねても誤魔化されてしまったのですが、パパロ、何たらとか……。店の名前か何か、とも思ったのですが、調べても分からなくて……」

「なるほど、よく分かりませんが分かりました。お引き受けしましょう」

「……。よろしくお願いします」

 高月は微妙な顔をしながらも頭を下げた。

 依頼人が去った後、鋼が言った。

「なんか弱そうな奴だったな」

「ふむ。まあ、鋼さんから見ると大抵の相手は弱そうでしょうが、そういう意味ではないんですよね」

「ああ。魂が欠けてる奴があんな感じだよな。欠けてるっていうか、ダメージ負ってる奴だな。殺し合いでひでえ滅多打ち食らって死んだら、転生しても暫くはダメージが残ってるよな。手足が欠けたままだったり傷痕が残ってたり、頭がパーになってたりさ。今の奴は一般人だったが、前世のダメージを引き摺ることは普通にあるもんな」

 水上が後を継いだ。

「魔術を使い続けて疲弊している状態にも似てるわね。後は、何かに寄生されている時、かしら。それが妻の浮気に関係しているかは謎だけど」

「あの、ぼ、僕も、魂が欠けてるんでしょうか」

 風原が何故かそんなことを言い出したので、鋼は苦笑して首を振った。

「お前は違うと思うぞ。多分。……いや、うーん、風原は風原で、別の問題があるような気がするな」

「では、早速調査しましょうか。所長がおかしな依頼と言うんだから、手を抜く訳にはいかないわね」

 針が刺さったままの世界地図を畳み、水上が薄く微笑んだ。

 

 

  三

 

 高月の自宅は世田谷区の住宅街にあった。小洒落た一軒家でまだ新しく、依頼人の財力が窺える。

 依頼の後は真っ直ぐ帰宅したようだ。それに少し遅れて探偵社の三人は到着し、水上が家の周囲に使い魔の烏を配置した。更に黒猫を庭に侵入させ、屋内の様子を探る。水上は使い魔の視覚と聴覚を共有可能で、更に使い魔をアンテナ代わりにして壁の向こうの状況まで高精度で探知することが出来た。

 高月と妻の美紗は当たり障りのない会話をしていた。美紗は確かに自分から夫に話しかけることは少なく、何か別のことを考えているように視線を外しがちだった。

「ふうん。でもそれだけじゃあ浮気を疑うには足りねえなあ」

 水上の状況説明を受け、鋼はそんな感想を述べた。

 三人は高月家から百メートルほど離れた道端にいた。隠蔽結界で囲んでいるため通行人に見咎められることはない。鋼はリラックスして塀際に寝転がっていた。風原は所在なげにキョロキョロしていた。

「風原、ちょっと頼まれてくれるかい」

 鋼はポケットからクシャクシャの一万円札を出して風原に手渡した。

「張り込みにはあんパンと牛乳が定番だ。スーパーかコンビニで三人分買ってきてくれねえか」

「分かりました」

 風原は張り切って駆け去っていった。

「世話焼きね。一般人相手に」

 水上が言った。カイスト二人は何日も飲まず食わずでも問題なく活動出来るのだった。また、同じものを三人分にしたのは連帯感を抱かせるためもあったろう。

「仲間だからな。それに、向上心のある奴は嫌いじゃない」

「幾ら向上心があっても一般人は死ねば終わりでしょ」

「本人はカイスト志望らしいぞ。ああいった奴の千人に一人か一万人に一人でも、俺達の後輩になるってんなら歓迎してやりたいね。ああそれから、一般人を舐めるなって俺の師匠達は口を酸っぱくして言ってたぜ。糞度胸と覚悟があればAクラスをビビらせることだって出来る。たまにとんでもない化け物が一般人のふりして紛れてることもあるしな。『蜘蛛男』とか」

 『蜘蛛男』フロウ、または『気まぐれフロウ』は自分の血で作った糸を操り凄まじい殲滅力と暗殺力、そして迷惑力を誇る怪物だ。内包する我力量はカイストの強さの目安であるが、フロウの我力は非常に少なく、一般人と区別がつかないらしい。

 フロウの名を聞いて水上は眉をひそめたが、それから意外そうな目で鋼を見た。

「あら、あなたの師匠はディンゴだけじゃないのね。ディンゴ団でしょ」

「オアシス会は今、相当強くないとセカンド・オアシスから出ることが許可されねえんだよな。短期間で色んな師匠や先輩方にメタメタに鍛えられたわ。だからゴキブリ並みにしぶとい自信があるぜ」

「ゴキブリねえ……。ま、委員会に捕まったら無限牢行きだものね。オアシス会は正式に宣戦布告はしてないけれど、小競り合いにはなってるんでしょ」

「ああ。正直、『歪め屋』が事務所に来た時は驚いたぜ。奴は俺がオアシス会だと分かってて見逃した気がするがな。所長の御威光のお陰かな」

「『無手勝』コー・オウジを敵に回して勝った者はいないという話ね。逆なんでしょうけれど。勝てる者はそもそも『無手勝』と出会わない、出会っても戦う気にならないんでしょう」

「……ああ、こっちは出会っちまったな」

「職務質問ね。彼はいつも挙動不審だものね」

 水上が薄く苦笑した。

 買い出しに行った風原が、巡回中のパトカーに見つかって警官から職務質問を受けている。風原は二百メートル以上離れており、角を曲がって見えない位置にいたが、二人の鋭敏な聴覚は状況を把握していた。風原は隠蔽結界から出たので普通に人から見られてしまう。夜の十一時過ぎで、よそ者が一人でうろついていれば泥棒と疑われてもおかしくなかった。

 風原は免許証を出して、しどろもどろながら正直に探偵だと説明して益々警官を不審にさせていた。

「助け舟を出してやれよ。使い魔の烏に襲わせるとか」

「無難に意識を逸らさせることは出来そう……」

 水上はそこで黙り込み、振り向いて鋼の表情を確認した。

 片眉を上げて鋼は頷いた。

「……消えたな」

「消えたわね。その瞬間は、知覚出来た」

 水上が尋ね、鋼は首を振った。

「いや。いつの間にかって感じだ。時間が飛んだみたいだ」

「それとも、飛んだのはこちらの意識の方かも」

 風原を職務質問していた警官が消えたのだ。パトカーも、同乗していたもう一人の警官も同時に消えていた。風原は呆然と突っ立っていた。

「ああ、また、消えた。行方不明になった……」

 風原の虚ろな呟きが聞こえた。

「なるほどな。これが行方不明か」

「要因は何かしらね。何かしらのストレスか、本人が相手を脅威に感じた時、か……」

「『無手勝』がスカウトしたメンバーだ。一般人じゃあないのかもな。魔術士としては研究対象にしたくなったか」

「興味はあるわね。ただ、私は今水晶の手の調整で忙しいの。それに、他人を相手にするのはあまり好きじゃないのよ」

「ふうん。人間嫌いか」

「嫌いっていうより、苦手、かな。結局自分がコントロール出来るのは自分自身だけでしょ」

「あー、ある意味完璧主義なのかね。知らんけど」

 鋼は寝転んだまま適当に返した。

「一般人はすぐ死ぬし、カイストでも道が分かれたり相手が墜滅したり、ね。なら最初から独りだって割り切った方がいい」

「ま、生き方考え方は人それぞれさ。口出しする気はねえよ」

 暫くして風原がコンビニの袋を提げて戻ってきた。元の場所が分からず迷っていたのを烏に誘導させたのだ。

「すみません、遅くなりました」

「ご苦労さん。別に遅くはなかったぞ。あんパン、ちゃんとあったか」

「コンビニ二つ回って、三個揃えました。牛乳パックも三個あります」

「よし、完璧だな。釣りは取っとけ」

「ありがとうございます。あの……僕は、役に立ちましたか」

「ああ、役に立ってるぜ。割とな」

 鋼が答えると、風原は心底安心したような笑顔を見せた。水上は表面的には平静を保っていた。

「じゃあ、乾杯するか」

 三人は道端で片手にあんパン、片手に牛乳パックを持った。

「大路ミラクル探偵社の仕事に、乾杯っ」

 鋼が自然に音頭を取り、牛乳パックを差し出して軽く触れ合わせた。風原はニコニコしていたし、水上は微妙に嫌そうだったがそれでも参加した。牛乳を少し飲んでから、三人はあんパンをモシャモシャ食べた。

 結局何事もなく夜は過ぎた。風原は所長から渡された寝袋で眠った。

 

 

  四

 

 翌朝、高月日比郎は車で出勤した。隠蔽結界に立つ三人に気づくことなく前を通り過ぎていった。

 夫を見送って邸内に戻ると、美紗は改めて化粧を重ね始めた。鼻歌など歌って上機嫌だ。それから掃除、洗濯。一段落ついたらテレビを観ている。

 特に何処かに電話するとか、電話がかかってくるようなことはないが、何かを期待しているような浮ついた様子だと水上は報告した。

 風原に朝食のクリームパンと牛乳を買ってこさせて三人で食べていると、美紗が外出の用意を始めた。午前十一時。

 派手ではないが、ちょっと買い物に出かけるのとは明らかに違う服装だった。化粧にも色気がある。タクシーを呼んだりせず徒歩で移動しているので三人も歩いて追う。水上による隠蔽処理は結界よりは効果が弱くなるが、極端な動きをしない限り相手に見つかる可能性は低い。もし風原がおかしなことをして見つかったら、置き去りにして二人だけでひっそり追跡することになるだろう。

 高月美沙は公園の横を過ぎ、商店街のやや寂れた裏通りの小さな喫茶店に入った。自宅から徒歩で十五分しか経っていない。

「えらく近いとこで浮気してんだな」

 鋼が呟いた。

「どうする。入るか」

「まずは近くで様子見ね。入るかどうかはそれから決めましょう」

 という訳で三人は喫茶店の斜め前に立った。大きな窓があり内部はほぼ丸見えとなっている。

 が、美紗の姿は見えなかった。

「奥に行ったみたいだぜ。単なる待ち合わせじゃなかったみたいだな」

 鋼が面白そうに言った。

「入りましょう。隠蔽処理は切るから、出来るだけ自然に振る舞ってね」

 水上が仲間達に告げると、風原が自信なさげに尋ねた。

「あの、自然って、どんなふうにやればいいんですか」

「……。余計なことを喋らず、いつも通りにしていればいいわ」

 それで三人は喫茶店に入った。水上は黒のワンピース、鋼はTシャツにジャージで、風原は大学生っぽいシャツにズボンだが丸めた寝袋を小脇に抱えた状態だ。そんなちぐはぐな三人を客達は興味深げに見つめたが、鋼が堂々と見返すので慌てて視線を逸らした。

 水上の足元から小さな灰色の鼠が床を駆けていった。生成したばかりの使い魔だ。カウンター客の靴の横を通って死角に入り込んだ。

 三人は空いていたテーブルにつき、やってきた店員に鋼がアイスコーヒー三つを注文する。勝手に決められて水上は眉をひそめたが、「俺が奢る」と鋼が宣言したため文句はつけなかった。

「さて、やっぱりいねえな。トイレでもない。この奥だが、なんか妙な感じがするぜ」

 待つ間に店内をざっと見回し、鋼が言った。一応いつもより小声だ。

「……。今、奥に行かせた使い魔との接続が切れたわ。誰かの結界に入ったみたい。気づかれたかどうかは……分からないわね」

 表情を変えずに水上が報告する。

「マジかあ。あんたの使い魔、ちょっと弱過ぎじゃねえか。こないだの横浜でもあっさり消されてたし」

「使い魔に戦闘力は求めてないから。使い捨てに出来る偵察要員としては有用だと思うけど。それとも未知の領域に体を張って飛び込む勇者がいるのかしら」

「勇者ごっこは好きだぜ。どっちにしてもこの状況じゃあ飛び込むしかねえだろ」

「あなただけじゃぶち壊しにしそうだから、私もついていくけどね」

 刺々しい会話の間、二人は微笑していた。風原は二人が笑顔なので自分も真似してニコニコしていた。

 店員がアイスコーヒーを運んでくると、鋼はすぐさま一気に飲み干して、店員に尋ねた。

「トイレはどっちだい」

「あちらです」

 店員が奥の方を指差した。男女共用らしいトイレのドアが見える。そのそばに別のドアがあったが従業員専用となっていた。

「ちょっと行ってくる」

 クシャクシャの一万円札をテーブルに置き、鋼はトイレに消えた。

 少しして、コーヒーを飲み終えてから水上が立ち上がった。

「私もちょっとトイレに。ここで待っていて」

 風原に告げ、水上はトイレに去った。

 何分かしても二人は戻ってこず、風原は所在なげな顔をして、チビチビとアイスコーヒーを飲んだ。

 

 

  五

 

 水上による隠蔽処理を済ませると、二人は静かにトイレから出て誰にも気づかれることなく従業員専用のドアを開けた。

 奥は廊下になっていて、倉庫や休憩室の入り口が見える。廊下の突き当たりにまたドアがあり、そこは『店長以外立入禁止』と貼り紙がしてあった。

「標的の痕跡はそっち。で、そのドアを抜けたら使い魔が消えたわ。攻撃されたか、単に接続が切れて自壊したかは不明」

 突き当たりを指して水上が小声で説明した。

「ふうん。じゃ、開けてみるか」

「ロックはさっき外してるから」

 二人はドアに近づき、鋼がノブに触れてゆっくりと回した。水上は目を細めて異常がないか見極めようとしていた。

 慎重にドアを数ミリだけ引いて止め、鋼は水上を振り向いて尋ねた。

「これ、結界かぁ」

「……。別空間になってるわね。Bクラス以上の結界士か魔術士。……ああ、でも、気持ち悪い……これは空間が、歪んでる……」

 水上は吐きそうな顔になっていた。

「入るのやめとくか」

 静かにドアを閉め、鋼が問う。

「いや……ちょっと待って」

 水上は宙に右手を伸ばし、自前の亜空間ポケットからカードを取り出すと発動させた。充分な時間と魔力を注いで用意した強力な隠蔽魔術が二人を包む。互いの姿も透明になって淡い輪郭しか見えないくらいだ。

「これでいいわ。行きましょう。なるべく声も立てないで」

 鋼は黙って頷いた。再びドアノブを回し、隙間がぎりぎり通れるくらいになるまで開くと、スルリと身を滑り込ませた。水上も続き、また静かにドアを閉める。

 薄暗い、洞窟のような空間が広がっていた。岩を削って作った階段が緩やかなカーブを形成して下へ伸びている。ここから奥までは見通せず、二人は階段を下りていく。壁面もある程度なめらかに加工してあるようだ。

「やっと揃ったか」

「遅いぞイレブン。正午の約束だったろうに」

「仕方なかろう。こちらの世界とは時間の流れが違うのだ」

 男達の声が聞こえてきた。二人が階段を下りる動きは更にゆっくりと慎重になる。

「では、まずは乾杯といこうか。パパローナ・トリッツァントッ」

「パパローナ・トリッツァントッ」

 謎の言葉を唱えて彼らは乾杯した。グラスを打ち合わせる音はしない。

 男の声が十二、そして女の声が一つだった。女は高月美紗のものだ。

 男の方は、推測される年齢や力強さに違いはあるが、声質は全員妙に似通っていた。

 階段を下りた先、曲がり角の陰から二人は僅かに顔を覗かせた。

 そこは広間になっていた。中央に大きな円卓があり、均等な間隔で配置された十三脚の椅子に面々が腰掛けていた。

 一番手前側の椅子に座るのは高月美紗で、とろけるような笑みを浮かべて男達を見渡していた。

 男達はそれぞれ異なった服装をしていた。しかし顔立ちは依頼人である美紗の夫・高月日比郎に似ていた。依頼人より年を取っていたり、頬に古い傷痕があったり、やさぐれた雰囲気だったり、やつれていたりしたが、日比郎の兄弟やクローンと言われても疑わないだろう。

 十二人の男達は隣とはガラス板のようなもので仕切られていた。それは空間の境界でもあるようで、それぞれの男達の背景は不毛の荒野だったり、鬱蒼とした森の中であったり、漆黒の闇であったり、薬剤入りの瓶が並ぶ研究室みたいな屋内だったりした。

 また、円卓の中央には奇妙な凹みがあった。人を一人寝かせられそうな形をしており、そこから放射状に十二本の溝が男達へと伸びている。

「それで、美紗さん。オリジンはきちんと薬を飲んでいるかね」

 研究室っぽい背景の、白髭を生やした術士らしき男が尋ねた。

「はい。スープに混ぜて毎日ちゃんと飲ませています。味も匂いもないお薬で助かってます」

 美紗が答える。

「では、そろそろ我々とオリジンとの同調率は問題ないレベルに達するだろう」

「予定通りだな。念のため猶予期間を置いて、七日後に儀式を行うことで良いか」

 氷の壁を背景に持つローブの男が他の面々に確認する。彼はテーブルに置いた砂時計に常に触れていた。魔道具のようだ。

 そして、この男が十二人の中で最も強い気配を持っていた。もしかすると神の領域・Aクラス相当の。

「問題ない。が、美紗がオリジンをここに連れてくるのは難しいのではないか」

 長い剣を椅子に立てかけた男が言う。美紗の隣の席にいた男が片手を挙げた。

「私が連れてこよう。怪我をさせないように気絶させ、車で運ぶ」

 男はおかしな背景を持っておらず、エプロンを着けた一般人の服装をしていた。喫茶店の店長かも知れない。

「これで、とうとうパーフェクト日比郎さんが完成するんですね」

 美紗が夢見るような表情で言った。

 砂時計を持つ男が答える。

「能力と人格が統合されるまでは少し時間がかかるだろうがね。また、文明管理委員会にも注意が必要だ。この星は委員会の管理下だから、派手に動くとすぐに粛清部隊がやってくるだろう」

 別の男が言う。

「委員会か。こっちの世界線では奴らは壊滅してるがね。オアシス会に滅ぼされた」

「そっちは二千万年後だったか。現実世界では委員会はまだ四千世界最大の勢力だ。無限牢も稼働している」

「ああ、無限牢には用心せねばならん。少なくとも統合されるまでは自重しなくてはな」

「さぁて。統合されちまったら俺はどのくらい残るのかな。一パーセントも残るかぁ」

 投げ遣りな声に他の男達が注目した。薄汚れた狭い部屋を背景にした、やさぐれた雰囲気の男だった。皆のグラスにはまだ酒が残っていたが、この男だけは一気に飲み干してしまい、更に自前の酒瓶から次を注いでいた。

「そう言うな、ナイン。我々は元々同じものだ」

「不確定な未来の、オリジンから派生した可能性に過ぎない。現実のオリジンに統合されて初めて確定される」

「不満ならば儀式で勝ち残れば良いのだ。尤も、挫折したお主ではその可能性は億に一つもないだろうが」

「おそらく勝者はスリーになるだろう。自我の主体も彼になるが、まあ、それは仕方のないことだ」

「スリーがいなければこの奇跡は叶わなかったのだからな。どんなカイストも時を遡ることは不可能だ。だが、スリーは不確定の未来から引き返すことでそれを可能にした」

「幻であった我々が『実』を得るのだ。そして今も、美紗を愛する心だけは変わらない」

 店長らしい男の言葉に美紗が頬を染めた。彼は高月日比郎より若く見えたが、落ち着いた物腰に強者の雰囲気をまといつかせていた。

 ナインと呼ばれた男は疲れた溜め息をついた。

「まあ、いいさ。俺も別にお前らが憎い訳じゃあない。統合されて欠片になっても美紗を愛することを誓おう。パパローナ・トリッツァントに懸けてな」

「そうだな。遺恨は残さない。パパローナ・トリッツァントに懸けてっ」

「パパローナ・トリッツァントに懸けてっ」

 男達がグラスを掲げて次々に叫んだ。

「ところで」

 闇を背負った陰気な男が言った。

「鼠が入り込んでいるな」

「何っ、委員会か。トゥエルブ、このうつけ者がっ」

「いや私は目をつけられるようなことは……」

 店長っぽい男が反論する。十二人の男と美紗の視線がこちらを向き、水上はピクリと反応しかける。鋼は冷静で動かずにいた。下手に反応すると隠蔽が一気に解けることを理解しているのだ。

「えっ、鼠ですか。何処に」

 反応した者は階段の上にいた。「えっ」と鋼と水上も思わず声を出して振り向いた。

 異空間との境界、立入禁止のドアを抜けて立っていたのは風原真だった。丸めた寝袋を脇に抱え、何も分かっていないポカンとした顔をしていた。

 声を出したため隠蔽が解けた二人を見て、風原がまた「えっ」と言った。

 そしてズルンッ、と風原の足が滑った。

「うわあああああ」

 風原が階段を転がり落ちてきた。どんどん加速して物凄いスピードになり、反射的に避けた二人の横を通り過ぎて円卓へ向かう。

「美紗さん危ないっ」

 店長らしき男が美紗を庇い高速回転風原に巻き込まれた。骨の砕ける音がして、風原とくっついたまま隣の席へ吹き飛んでいく。

「いかん止めろっ」

 パキーンッ、と席同士を隔てるガラス板が割れてグネリと空間同士が混じり合う。隣の席の男が慌てて立ち上がるがそこに二人分の回転肉がぶち当たった。男の首がおかしな方向に折れ曲がり、そのまま回転に呑み込まれる。

 それぞれが熟練の強者の筈だが、他の男達も慌てふためくばかりで具体的な対処が出来なかった。ガラス板で仕切られた不確定な未来の空間という制約があり、外部に干渉するのが困難なのだ。唯一時空魔術士の助けで実体化していたトゥエルブは最初の犠牲者となっている。逃げようとした時空魔術士・スリーも数人分の回転肉に巻き込まれ潰れた肉塊と化した。バリンバリンと仕切り板が割れ、男達が次々と回転に呑み込まれていく。混じり合った異空間は薄れて消え、ただの洞窟内の広間に戻る。

 大人数を巻き込んだ回転肉だが、どんどん巨大化する訳ではなく、致命傷を負った者は仲間に吸収されて消えていく。本来はちゃんとした儀式として行う予定だった殺し合いと勝者による敗者の吸収が進行しているのだ。

「あはは、何だぁこりゃあ」

 酔いどれ男が笑いながら立ち上がったところで、回転肉から生えた剣に脳天を割られ吸収された。十二人分全てを巻き込み終えた回転肉はゴロゴロと転がって壁にぶち当たり、漸く止まった。

「アイタタ……」

 吸収とは無関係の風原は腰を押さえながらなんとか立ち上がった。どうやら一人にまとまったらしい男は寝袋に入ってしまい足だけが見えていた。

「え……何これ。何これ……」

 放心して呟く高月美紗に水上が人差し指を向け、弱い魔術を飛ばして一瞬で気絶させた。

「いや本当、何これ」

 水上も呆れ顔になっていた。

「何ですかね、これ。……あれっ」

 風原は何かに気づいたように顔を上げると、ポンッ、と、寝袋だけ残して消えた。

 

 

 店内に戻ってきた二人を、風原は不思議そうに見ていた。

「その寝袋、どうしたんですか。僕の持ってるのと似てますけど」

 人が入っていそうな寝袋を抱えた鋼に風原は尋ねた。彼の足元に同じ寝袋が丸めておいてある。

「さあな。仕事は一段落ついた。帰るぞ」

「え、もう終わりですか。僕って何もしてないような……」

 戸惑う風原の様子をじっと観察してから、鋼は苦笑しているような困っているような顔で言った。

「いや、なんか訳が分からんくらいに役に立ってたぞ。本当に、訳が分からんくらいにな」

 水上は黙って嘆息していた。

 

 

  六

 

「驚きましたよ。たった一日で調べがつくなんて」

 連絡を受けて事務所を訪れた高月日比郎は微妙な顔をしていた。結果を知ることの不安が三割、残りの七割はいい加減な調査をしているのではないかという探偵社への疑念のようだ。

 それに気づいているのかどうか、大路所長はニコニコして言った。

「うちの所員は優秀でしてね。それで、高月さん、パパローナ・トリッツァントをご存知ですか」

「何ですかそれは。……ああ、美紗が呟いていたのは、その言葉だったような気がしますね」

「それ以外には心当たりはないでしょうか」

 高月は首をかしげる。

「いや、ないと思いますが……ん、いやまさか……うん、ない、と思いますよ」

「そうですかね。例えば中学生の頃なんてどうでしょうか」

「えっ。どうしてそれを。美紗が話したんですか。いや、私は美紗にもそんな話をした覚えは……」

「また聞きの情報になってしまうのですが、パパローナ・トリッツァントというのは中学生時代にあなたが考えた、ご自身の真の名前だそうですね。最強の超人であり超能力者になるのだと。ああ、別に馬鹿にするつもりはありません。少年時代にはこういうことを考えるものですからね」

 赤面する高月に対し、大路の目は穏やかで優しかった。

「その、それで、そのパパローナ・トリッツァントと、依頼に関係はあるんですか。私が依頼したのは妻の浮気調査で……」

「ふむ、そうですね。では、結論から申し上げましょう。あなたの奥さんは浮気していませんでした」

「そ、そうでしたか。……でも、それとパパローナ・トリッツァントとは……」

「奥さんは、パパローナ・トリッツァント計画に協力していただけです。そしてこれはあなたご自身の計画なのですよ」

「私の……。いや、訳が分からない」

 高月は混乱した様子で首を振った。自分の机にいた鋼や水上も、黙っていたが同感の視線を送っていた。

「お聞きしたいのですが、あなたが体調を崩されたのは何年前でしょうか。体調だけでなく、以前に比べて意欲の低下というか、心のエネルギーの低下もあったと思います」

「確かに……昔より疲れやすくなったというか、気力が湧かなくなった感じは、ありますが。……三年ほど前からでしょうか」

 高月は真面目に考えて答える。

「ではその頃に、奥さんがこんなことを言っておられませんでしたか。『強い男が好き』みたいなことを」

「えっ。……うーん……そう言われると……。テレビでボクシングの世界タイトルマッチを放映してたんですよ。一緒に観ていた時に、美紗がそんなことを言ったような気も……。でも私は元々運動が苦手で、殴り合いの喧嘩をしたこともないんです。だからそういう強さに憧れはあっても最初から諦めていますよ」

「どうもその時、あなたの魂は諦めなかったようなのです」

「えっ。魂……」

「あなたの魂の一部がですね、愛する妻のために強い男になろうと本体から離れて、十二個の欠片になって飛び立ったのです。そして何万年、何億年もかけて強さを身に着けた」

「え、ええ……」

 自信満々に語る大路に対し、高月は胡散臭いものを見る目になっていた。

「そして未来で強者となった十二人のあなたの欠片のうち、一人が時空魔術を習得して、自分の同類達を連れてこの時代に戻ってきたのですよ。魔術にも色々ありますが、厳密な意味で時間を巻き戻して過去に戻ることは不可能です。物質的には巻き戻せても、魂については無理なので。しかし、不確定な未来の時空魔術士であるあなたは、過去に戻るのではなく未来から現在に戻ることでそれを可能にしたのです。まあ正確には不確定の未来と現在を接続した状態であったそうですが、とにかく、あなたは凄いことをなさいましたね。お見事です」

 戸惑っている高月に大路は惜しみない拍手を送る。鋼も水上も真面目な顔で拍手し、それを見た風原も追随して拍手した。

「い、いや、何を言ってるのか、さっぱり分からない」

「私も専門家からの受け売りですのでよく分かっていないのですが、とにかくですね、未来から戻ってきたあなたの欠片達は、あなたに合体融合する予定だったそうです。奥さんの希望通りの、最強でパーフェクトな高月日比郎さんを完成させるために。ああ、真のお名前はパパローナ・トリッツァントさんということになりますかね。一ヶ月ほど前に奥さんは欠片から接触を受け事情を説明され、あなたと欠片達との同調率……シンクロ率を高める薬をあなたにもこっそり飲ませていたとか。あなたは起源であり出発点ですが、長い年月の経過で欠片達は多少なりとも変質していますから、合体融合可能になるために準備が必要だったそうです」

「いや、その、やっぱり、訳が分からない。あ、頭がおかしくなりそうだ……」

「という訳で改めて、奥さんは浮気はしていませんでした。あなたの望みを叶えるために協力してらっしゃっただけです。いやはや、愛故の奇跡ですね。では鋼さん、あれをお願いします」

「了解」

 鋼が立ち上がり、給湯スペースに転がしていた中身入りの寝袋を抱えてきた。高月の前のローテーブルに乗せ、ジッパーを少し開けてみせる。

 高月日比郎と同じ顔が現れた。白目を剥いて、頬や首筋がピクピクと痙攣している。あちこち骨折して内臓と脳にダメージを負っていたが、まだ生きてはいた。

「ま、どうぞ」

 絶句している依頼人に、鋼が恭しく差し出したのは刃渡り二十センチほどのダガーナイフだった。自分の体から生成したもので、柄の部分も一体化した金属製だ。

 ニコニコして大路が告げた。

「あなたがトドメを刺せばパーフェクト・パパローナ・トリッツァントの完成です。さあ、奥さんを喜ばせてあげて下さい」

「パパローナ・トリッツァントッ」

 所員達が声を合わせて高らかに唱えた。

 高月は涙目になって実行した。

 

 

*** 超時空浮気調査 業務記録 ***

 

・依頼人:高月日比郎、四十一才。大手電機メーカー社員。

・依頼内容:妻の美紗が浮気をしているかどうか調べて欲しい。

・経過と結末:高月美沙を尾行して喫茶店から謎の空間に潜入。そこで依頼人と同じ顔をした男達を発見した。会話を聞き取り情報を得ていたところで『事故』が起こり男達は融合、最後に残った一人も瀕死となった。気絶させた高月美沙から情報を引き出して補完し、依頼人に事情を説明して夫婦の願いを叶えさせた。

・報酬:十万円。

・今回の被害:未来の高月日比郎が十二人死亡したが、不確定の未来の存在であり最終的には依頼人に融合したためノーカウントとしたい。

・今回減った体重:多分八キロぐらい。

・各所員の感想(個別提出)

 鋼源十郎:今回は訳が分からなかった。本当に訳が分からなかった。

 水上麗羅:こんな裏技で時間を巻き戻すとは驚きです。時空魔術と言えば、虹夢島の怪現象を思い出しますが、関連は不明です。『事故』については訳が分かりません。

 風原真:なんか寝袋が増えてますね。

 

・所長としてのコメント:パパローナ・トリッツァント!

 

 追記:依頼人はあの翌日に会社を乗っ取ったとか。お幸せに!

 

 

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