第五話 暗殺とドライブ日和

 

  一

 

 霧のような灰色の闇の中に、水上麗羅ことラミア・クライスはいた。

 足に地面の感触はなく、かといって浮かんでいるのか落下しているのかも分からず、何も見えず、聞こえもしない。

 ただ、感覚のほんの小さな欠片のようなものが、時折彼女を掠めていく。何処かに何かが触れる感覚。熱さ、冷たさ。痛み、痒み。雑音。小さな光点。赤、白、黒。しかしはっきりした形になる前にすぐに消え去っていく。

 そんな何とも知れぬ闇の中で、ラミア・クライスはボンヤリと過ごしていた。

 そのうち、聴覚を刺激するノイズに、「アアアア」や「ロロロ」など声らしきものが混じり始める。

 更にその中に、言葉らしきものが生まれる。

 ……ニヲ……ゾ……ナニヲ……

「何」

 ラミアは聞き返す。

 ……オマエハ、ナニヲ……ノゾム……

 ノイズ混じりながら、なんとか聞き取れるレベルになった。ただ、これが本当に音声として聞こえているのか、思念として直接魂に届いているのか、ラミアには分からない。

「何を望む、ですって」

 ……ナニヲ、ノゾム……

「放っておいてよ」

 ……オマエハ、ナニヲ、ノゾム……

 はっきり拒絶したつもりだったが、声は同じ問いを繰り返している。

「望みを言えば叶えてくれるっていうの。そんな訳ないでしょ」

 怒りを込めて告げると、一旦声がやんだ。無数の感覚の欠片は相変わらずラミアを撫でていき、「アアア」とか「ロアアアロ」などの声がBGMのように流れていく。

 そのうち、また雑音が言葉を生んだ。

 ……ワカラナイ……

「はあぁぁ」

 呆れと共に吐いた溜め息は灰色の闇に吸い込まれた。

「まあ、いいでしょう。無駄だろうけれど教えてあげる。私の望みはね、言ってしまえば大半のカイストと同じ。確かなものを手に入れること。永遠不変の、消えない何か。ずっとそれを、求めているの」

 ……タシカナ、モノ……

「でも確かなものなんてない。どうせ皆消えていく。私以外皆、消え去ってしまう。物も人も、積み上げた力だって何かの拍子にあっさり消えていく。所詮、人は独りで……それでも私は……自分だけでなく……誰か……」

 灰色の闇の中で、ラミア・クライスの思考は取り留めなくなり、現実では決して言わないことを口走っていた。

 ……ナニヲ、ノゾム……

 声が同じ問いを発した。

「私は……独りで……でも、もしかしたら、誰か……。誰かに、いて欲しい。私を認めてくれる、私を見ていてくれる、誰かに、ずっと。……でもどうせ消えていくんだ。分かってる……所詮人は独りで……」

 ……ワカッタ。ヤッテミル……

 水上麗羅は目を覚ました。都内に借りているマンションの一室で、室内には闇が満ちていたが彼女には全て見えていた。

 彼女はベッドの上で、独りだった。

「嘘つき」

 思わず呟いたが、目が覚める前のことを忘れてしまったので、何故そんな言葉が出てきたのか自分でも分からなかった。

 

 

  二

 

「ふむう。今は六月でしたね」

 何やらオカルト系の雑誌を読みながら大路幸太郎が言った。

「そうだが。何かあるのかい」

 鋼源十郎が尋ねる。

「ノストラダムスという予言者の話ですよ。一九九九年七の月、この星に恐怖の大王というものが降ってきて、物凄いことが起こるらしいのです。つまり来月です。どんなものが降ってくるんでしょう。楽しみですね」

「ふうん。月でも降ってくるんじゃね。委員会が管理を放棄してさ。最終兵器発動でこの星の人類滅ぼしとこうかってね」

「えっ。月が落ちてくるんですか」

 風原真が驚いて大声を出した。居合わせた他の乗客達の視線が集まる。大路も鋼も平然としているし、水上麗羅は他人のふりをしていた。

 大路ミラクル探偵社の四人は地下鉄の列車に乗っていたのだ。

 鋼が答えた。

「割と落ちてくるらしいぞ。委員会が撤退する時に嫌がらせで落としたりするし、敵が破壊工作で落とすこともある。そうなったらまあ、この星の人類は絶滅だな。さすがの俺も月を宇宙まで蹴り返すのは無理だ」

「うーむ。月だとありきたりのような。恐怖の大王がもっと面白いものであればいいですね。期待しておきましょう」

 列車が国会議事堂前駅に到着したため、大路は雑誌を閉じた。人込みと共に駅から吐き出される。

 地上で仲間達が適当にキョロキョロしていると、水上がレンガ造りの建物を指差した。

「あれね」

「なるほど。……ふむ、上品な屋敷ですが、一国の支配者の居城としては豪華さが足りない気もしますね」

「この国は民主主義だから。それに、王は別にいて、こっちは宰相の仕事場ね」

「なるほど。ところで、キャンピングカーが欲しいと思いませんか」

「えっ。唐突……ね」

 水上は立ち止まった大路の視線を追う。マイクロバスをベースにしたキャンピングカーが信号待ちで停車していた。側面に軽い凹みはあったがボロいというほどでもない。

「ふうん。何処でも寝泊まり出来るのはいいが、俺はこの国の運転免許持ってないぞ」

「私も持ってませんよ」

 大路は他のメンバーを見る。風原も首を振った。

「僕は原付の免許だけです」

「私は一応大型まで持ってるけど……」

「なら決まりですね。水上さん、預けていたトランクを下さい」

 水上が亜空間ポケットからトランクを取り出すと、大路はそれを抱えてキャンピングカーまで歩き、助手席側の窓ガラスをノックした。

「んー。何だ」

 運転手が窓を開ける。くたびれた顔の中年男だった。

「こんにちは。良いキャンピングカーをお持ちですね」

「何だよ。それがどうした」

「一億円で売って頂けませんか」

 大路がトランクを開け、みっしりと詰まった札束を見せた。

「売ったっ」

 男は即答した。

「ありがとうございますっ。では、水上さん、後はお願いしますね」

「え、ま、まあ、手続きとか、済ませたら合流するから」

 大路はトランクを水上に渡して首相官邸へ向かった。キャンピングカーを脇に寄せ、持ち主は妻と離婚して子供も取られて云々と自分語りが始まったが、水上は上っ面の微笑を浮かべつつ聞き流していた。

「なんかあのキャンピングカー、今回で潰しちまいそうな嫌な予感がするんだがな……」

 鋼が片眉を上げて呟くと、大路が小首をかしげて返す。

「そうですかね。私はあの車が後々のクライマックスで大活躍してくれそうな気がしますよ」

「所長がそう思うんなら、そうなるんだろうさ」

 官邸の正門には守衛が立っていた。どうもピリピリした雰囲気であったが、大路はにこやかに声をかける。

「こんにちは、大路ミラクル探偵社の大路と申します。榊原さんという方に呼ばれて来たのですが」

「大路様ですね。ちょっとお待ち下さい」

 連絡を取るためだろう、守衛の一人が詰め所へ歩きかけたところで別の声がかかった。

「私が榊原です。お待ちしていました」

 二秒前までいなかったスーツ姿の男がそこに立っていた。鋼が口をすぼめてピュィッと口笛を吹いた。榊原という男の疾風のような移動を見ていたためだ。

 榊原は三十代後半に見えた。やや痩せ型だが凛とした佇まいで、相当の武道経験を感じさせる。きちんと折り目のついたスーツを着て、垂らした前髪のせいで右目が隠れていたが、よく見ると黒い眼帯をしているのが分かる。

「あんたよく動けんなあ。その右目の傷、後ろまで貫通してるだろ」

 後ろまでというのは、頭蓋骨を貫いて後頭部まで抜けているという意味だった。鋼の指摘が正しければ榊原は脳にも重いダメージを負っている筈だが、彼は表情を僅かにも動かすことなく大路に一礼した。

「ようこそお越し下さいました。こちらへどうぞ、こ案内します」

「あー、後から私の仲間がキャンピングカーでやってくると思いますので、その時は入れてあげて下さい」

「ではそのように。さて、こちらです」

 榊原は守衛に視線と頷きだけで指示して、三人を連れて邸内に進んだ。それなりの権限を持っているようだ。

 玄関を抜けると赤い絨毯の洒落たホールだった。榊原はそのまま階段を上る。途中ですれ違う職員達は彼に頭を下げていた。広い邸内で風原は居心地悪そうにキョロキョロしていた。ちなみに彼は古いリュックサックを背負っていたが、中に何が入っているのかは知らされていなかった。

 榊原が立ち止まったドアの表札は『総理執務室』となっていた。

 ノックするとすぐに「どうぞ」と返事が来る。張りのある、自信の感じられる声だった。

「失礼します」

 執務室は隅の棚に歴代総理由来の品が飾られていたが、それ以外は質素なものだった。

 頑丈そうな机の向こうに五十代の地味なスーツの男が待っていた。

「よく来て下さいました。私が佐久間龍臣です」

 現職の内閣総理大臣・佐久間龍臣は立ち上がると穏やかな微笑で一行を迎えた。過剰な愛想笑いはせず、来客の目を真正面から順に見据えていく。

「初めまして。私が大路ミラクル探偵社の大路幸太郎です。こちらは私の有能な部下達です」

 大路に紹介されて鋼が軽く頷き、風原が「あ、はい」と深く頭を下げた。

 執務室には秘書らしき男がいたが、佐久間が「お茶の用意を頼む」と告げると一礼してから出ていった。

 ドアが閉まるのを待って榊原が言った。

「改めて挨拶しておきます。私はカサラギ、Bクラスの戦士です。ここでは榊原と名乗り、五年前から佐久間総理の第三秘書という肩書きで護衛を務めています。わざわざ足を運んで頂いて申し訳ありません。この場を離れる訳にはいかなかったものですから」

「ああ、カイストの方でしたか。委員会の管理下でも、カイストが政治家や国王の護衛を務めることは黙認されているようですね。では私も一応名乗りを。カイストとしての名はコー・オウジです」

 瞬間移動みたいな登場を見ても大路はカイストだと気づかなかったらしい。彼の感覚や思考力は実際のところ、一般人の平均並みだった。

「なら俺も、鋼源十郎ことローゲン。Bクラスの戦士だ」

 鋼も自己紹介を追加する。風原は自分も名乗るべきか悩んでいる様子だったが、先に榊原が「どうぞ」と客用のソファーを勧めつつ話し始めたので、余計なことを言わずに済んだ。

「護衛のみで社会に余計な干渉をせず、大衆の前で派手に力を見せなければ、委員会からクレームは特にないようですね。監視はされているのでしょうけれど。大国ではカイストの護衛がいないとすぐに指導者が殺されます。敵対国がカイストを雇って暗殺チームを差し向けてくることもありますので」

「ふうん。で、あんたの傷はそのせいで、今回の依頼もそれって訳かい」

 真っ先にドッカと腰を下ろした鋼が榊原の右目を指差し、彼は頷いた。

「そうなります。今回の襲撃者はBクラスが二人以上で、私だけでは対応困難と判断して貴社に依頼した次第です」

「ふむ。ということは今回の依頼内容は暗殺阻止ですか。いいですね、探偵らしくなってきました」

 大路は探偵という職業を勘違いしているようだったが、誰もそのことを突っ込まなかった。

「襲撃者の素性は割れてるのかい。どんな奴か分かってる方が対応しやすいんだが」

 鋼が尋ねた。

「ガルーサ・ネット経由で検証士に依頼して、三人は判明しています。Bクラス錬金術士のアルアラケム・エルヌ、Bクラス戦士のザトゥ・ルメル、Cクラス戦士のミスマー・ブルネン。この三人です。ちなみに、『無手勝』様が探偵社をやっておられるという情報もガルーサ・ネットで知りました」

 ガルーサ・ネットはカイストにサービスを提供するカイストの組織だ。四千世界の全てに支店を持つが、地球にも東京とローマに出張所があった。

「ふうむ」

 大路は分かったような顔で顎を撫でるが、何も分かっていないのは明らかだったので鋼が発言した。

「ザトゥ・ルメルはこの間会ったばかりだ。旋風輪ってプロペラみたいな武器を使う。まだ委員会に捕まってなかったとは驚きだな。他の二人は知らん」

「アルアラケムが我力強化した銃弾を、ミスマーが狙撃用ライフルで撃ち出したようです。恥ずかしながら通常の弾だと思って見切りを誤りました。ザトゥは補助としてついていただけのようですが、次は直接襲ってくるかも知れません」

 通常の弾丸はカイストの体を覆う我力防壁を突破出来ない。それはカイストが銃器で撃ち出しても大抵そうなってしまう。物理的な攻撃、特に飛び道具においては自身の筋力を乗せたものでないと我力を帯びにくいのだ。

 ただし、物品に我力を浸透させ長期間留めさせる特殊な能力者がいれば別だ。彼らは強化士と呼ばれるが、錬金術士も同様の技能を使えることが多い。

「また、他のカイストが追加されている可能性もありますね。検証士には相手方のアジトの追跡まではさせていません。危険ですから」

「ああ、痕跡を辿っていったらトラップだったってこと、あるよなあ」

 つい最近のことを思い出して鋼は頭を掻く。

「で、向こうの依頼人は分かってるのかい。そっちを先に殺しちまう手もあるぞ」

「既に分かっており自白もさせています。ただし、報酬は先払いしており、キャンセルは出来ないそうで」

「ふうん。カイストの契約は後払いの方が多いが、敵に依頼人が始末されるのを防ぐために先払いにすることもあるな」

 鋼が言う。

「依頼人は他国の人間ではなく、民主経世党の議員でした。つまり、与党内の醜い派閥争いという訳です」

 それまでやり取りを見守っていた佐久間総理が自嘲気味に語った。

「ふうむ。同じ党内でも暗殺とは、この国も意外と殺伐としているのですね」

 大路が妙に感心した様子で頷いている。風原はリュックを抱えてソファーの端に腰掛けた。大路が横に広いので、風原は狭苦しそうだ。

「私は内外から色々と恨みを買ってましてね。忖度なしの公平な発言を心がけていますので」

 佐久間総理は苦笑してみせた。

「新聞やテレビでよく言われてるよな。『ぶっちゃけ総理』とか『カウンター暴露総理』とか。国民は喜んでるみたいだが」

 鋼が一日中酒ばかり飲んでいる訳ではないことが判明してしまった。大路は手に持ったオカルト雑誌に目をやり、黙って折り畳んで表紙を隠した。

「私はただただ公平で正直でありたいだけです。昔からそう公言してきましたし、そんな私を国民の皆さんが支持して投票して下さったのですから、突き進むだけです」

 彼の名言或いは迷言録は新聞や雑誌でもしばしば取り沙汰されている。国連の警告を無視して隣国を侵略した国の宰相に「正当性なく力で奪い取った訳ですから、貴国が弱った時に力で奪われても良いということですよね」と言ったとか。自分の党の議員の汚職した証拠を集めて記者会見で公開した際に、「こんな腐った党は解散しろ」と放言してきた野党議員の汚職の証拠を翌日に記者会見で公開したとか。「パチンコはギャンブルだが三店方式で誤魔化しているだけだ」と堂々と言ったとか。

 誰にでも見境なしに噛みつく訳ではなく、国政に関わること以外は突っ込まれた時にカウンターで刺し返すことが多いため、『カウンター暴露総理』という綽名を貰っていた。近年は他国の首脳も彼と会談したがらず、記者会見でも藪蛇な質問をしないようピリピリした空気になっているそうだ。

「あー、確かに各方面から命を狙われそうだよなあ。痛快ではあるが」

「守り甲斐のある人ではありますね」

 榊原が微笑した。

 ドアがノックされ、先程の男がお茶を運んできた。

「探偵社の方がキャンピングカーで来られました」

「ああ、お通ししてくれ」

 榊原が告げ、また男が一礼して出ていく。

 のんびりした仕草で茶を一口啜り、大路が言った。

「それでは、今回のご依頼は佐久間総理大臣の暗殺阻止、ということでよろしいですね。ところで、正式な依頼人はどなたになりますか」

 佐久間総理が手を挙げた。

「私です。榊原の伝手を頼って、私の責任において私が依頼するという形にさせて下さい。ああ、勿論カイストの存在は大っぴらにするつもりはありません。幾ら私が『ぶっちゃけ総理』でも、地球を滅ぼしたくはありませんからね」

「ふむ。ではお引き受け……」

 大路が言いかけるのを烏の鳴き声が遮った。榊原の目が鋭くなる。窓の外側に舞い降りてきた烏が使い魔であることを看破したのだ。

「ちょっと待って。室内に何かいるわ」

 烏が水上麗羅の声で警告した。

「あれは私の部下の使い魔です。水上さん、何かとは何でしょう」

 警告があった時点で鋼は大路を庇うように前に立ち、榊原は両手に透明なガラス板のようなものを持って佐久間のそばに移動していた。

「あまり危険なものではないと思うけれど……ちょっと待って今着くから」

 その三秒後にドアがノックされ、水上が一人でスルリと入ってきた。

 鋭い目つきで執務室を見回し、それから左手で片目を覆い、再度見回す。

「遠くから覗いている、訳ではないわね……。魔術士の使い魔でもない。存在感が薄いけれど……確かにいる……」

「え、もしかしてこの中とか……」

 風原がリュックサックを開けようとしているが、水上は指差したのは左隅の棚の方だった。

「そこね」

 歴代総理由来の品や他国から贈られた記念品やらが飾られた棚。皆が注目していると、そのうち、棚の前の空間に薄い影のような、半透明のホログラムのようなものが浮かび上がってきた。人の形をしているようだが輪郭はボヤけており、姿もはっきりしない。幻のようにフワフワ浮かんでいる人影っぽい何か、だった。

「ああ、これは。何度か見たことがあります」

 怯える様子もなく佐久間総理が言った。

「官邸に住み着いた幽霊じゃないかと思っていました。特に悪いことが起きる訳でもないので放置していましたが」

「幽霊は割といますからね。うちにもお茶を淹れてくれる方がいますよ。給料も払っていないのに、ありがたいことです」

「えっ」

 大路がお気楽に語り、風原はギョッとしている。

 それから改めて人の形の影を見据え、「うーむ」と唸った後で、大路は言った。

「『救い』さん、ですよね」

「えっ」

 驚きの声を上げたのはカイスト達だった。

「これが。初めて見る……」

 思わず丁寧語を忘れて榊原が呟いた。

「前回の依頼から確かまだ、一億年は経っていませんよね。まさかとは思いますが、榊原さんをけしかけて間接的に依頼しようとした訳ではないですよね」

 大路にしては珍しいことに、少し怒っているように見えた。

 光の加減と目の錯覚でたまたま現れたような、実体のない儚い影が、ユラユラと揺らめいた。

「今回、私達は何も働きかけてはいません。ただ、見守っていただけです」

 小さな小さな声が告げた。弱々しい女性の声のようであり、幼児の声のようでもあった。年老いた男の声が混じって聞こえる部分もあった。そして、執務室にいた者達はその微かな声を聞き取ったが、風原真だけは聞こえなかったようでボンヤリと影を見守っていた。

 大路は軽く息を吐いた。

「信用しましょう。あなた方が嘘をつくとは思えませんから。ところで、その時々であなた方は自己紹介を変えますよね。『悲劇の残滓』とか『敗者達の心残り』とか。今回はどんなふうに名乗りますか」

 大路の問いに対し、やがて小さな声が答えた。

「欺かれた者達のささやかな祈り、です」

「なるほど、佐久間総理を応援しておられるのも分かりました。あなた方の依頼はあんまりささやかじゃない時もありましたけどね」

 大路は苦笑した。

「……あなたとはいずれまた。後三十万年で一億年経ちますので。失礼します」

 そう言い残して、ユラユラとした半透明な人影は薄れて消えていった。

「存在を感じなくなったわ。本当にいなくなったかは分からないけれど」

 水上が報告する。

「もう少しで一億年ですか。早いものですねえ。……ああ、お待たせしました。暗殺阻止の依頼、お引き受けしましょう」

 大路が佐久間総理に告げると、彼は頭を下げた。

「感謝します。ところで、質問してもよろしいですか。今の『救い』というのは何者だったのでしょうか」

「色々な解釈がありますけれども、分かりやすく表現するなら、『力なき者達のための、力なき者達の集まり』です。悪いものではありませんが、残念ながらあまりにも力不足なので誰かに頼み事をするくらいしか出来ません。ここにいたのはおそらく、強者相手にも忖度しないあなたに共感して応援していたのでしょう。別にあなたを直接操ったり守護したりしていた訳ではないんじゃないですかね。弱いので」

「『力なき者達のための、力なき者達の集まり』、ですか。それが『救い』、と……。大路さん、また少し余計な質問をよろしいでしょうか」

「どうぞ」

「榊原からあなたのことはある程度聞いています。偶然を操作する強大な力を持っていて、あなたが参加した側の陣営は必ず勝ってきたと。その気になれば世界のありようを変えられるかも知れない力だと。ハッピーエンドを好む善人だと。……ならば、その強大な力を駆使して、世界を良くしようとは思わないのですか。万民が幸福に暮らせるような世界を実現しようとは思わないのですか」

 佐久間総理が大路の目を真っ直ぐに見据えて問いかける間、榊原は微妙に苦い表情をしていた。彼はもう答えを知っていたのかも知れない。

 鋼は面白そうに大路の横顔を眺め、水上は少なくとも表面的には興味なさげに別の方を向いていた。

 大路は善良な一般人の疑問に対し、柔らかく包み込むような微笑を浮かべ、話し始めた。

「ずっと昔のことになります。今から三百億年ほど前、私の力が急成長して『幸運王』とか『無手勝』とか、『節目のカイスト』とか呼ばれてもてはやされるようになった頃ですね。あなたと同じようなことを主張してきた人達がいたんですよ。絶対正義執行教団という組織で、まあ真面目に狂った人達ではありましたね。それから『救い』もいました。私もその時はノリノリで、やってやろうと思った訳なんですが」

「……どうなったのですか」

 佐久間が先を促す。

「取り敢えず一つの国を丸ごと幸福には出来ましたよ。すぐにやめましたけど」

「どうしてですか。折角幸福に出来たのなら……」

「幸福にはなったのですよ。脳内麻薬が無制限に分泌されて、彼らはただただ多幸感を味わいながら何も食べず、身動きすることも忘れて死んでいきました。幸福というのは実に、簡単なことだったんですねえ」

「……それは……」

「教団は同じような実験をしたことがあるそうです。住民を脳味噌だけにして最低限の生命維持装置を取りつけ、副作用のない麻薬を延々と流し続けてみたそうです。大成功だったらしいですよ。殆どの住民が死ぬまで幸福を感じていたそうです」

「そんな幸福に、何の意味が……」

 佐久間総理は苦々しく顔を歪めた。

「そう思いますよね。私もそう思います。教団の人達も『救い』もそう思ったようです。まあ、教団はその後も同じような実験を続けていたようですがね。という訳で、私は万民の幸福などというものは望まないことにしました。世の中には程々に悪いことがあり、程々に良いことがある。そのメリハリが大切だと私は考えています。そして結末がハッピーエンドなら、それでいいのではないでしょうか。その後にまた新しい物語が始まるのでしょうけれど」

 佐久間総理は暫く黙って考え込んでいたが、やがて、深呼吸を一つして、改めて大路に頭を下げた。

「あなたの答えに納得出来た訳ではありませんが、お答え下さりありがとうございました。私は私なりに試行錯誤を続けていきます」

「いいと思いますよ。色々やってみるのは若さの特権ですからね」

 外見上は佐久間より若い大路幸太郎は、ニッコリと笑ってみせた。

「なるほどねえ。一般人にも割と犠牲者が出る理由が分かった気がするな」

 鋼の呟きを聞いて佐久間総理は顔をしかめた。

「あの。この依頼はなるべく民間人に犠牲者を出さずにお願いしたいのですが」

「あー、依頼人のご要望ですからね。そのようにしてみましょう」

 大路は何故か残念そうな顔で答えた。

 

 

  三

 

「これは明らかに間違っているわ」

 キャンピングカーの中で水上麗羅は憤慨した様子であった。

「何がでしょう」

 ピザの一切れを丸めて口の中に収め、大路が尋ねる。

「車の冷凍庫にあったピザを折角温めたのに、どうして出前でもピザを頼んだの。別のものを頼むべきだったのでは」

「いやあ、なんとなくピザが食べたい気分だったのです」

「総理の夕食の誘いも断って、ね」

「そうです。キャンピングカーでの食事を試してみたかったのです」

 大路は全く悪気のない笑顔であった。

「まあ、いいんじゃね。所長と俺は幾らでも食えるから無駄にはならんだろ」

 ソファーにだらしなく背を預け、缶ビールを飲みながら鋼が言った。

 キャンピングカーにはダブルベッド一つとベッド代わりにも出来るソファーが二つ、小型のキッチンに冷蔵庫、テレビ、トイレとシャワールームなど一通りの設備が揃っていた。快適に暮らせるというほどではないが、ひとまず数日過ごすには支障ないレベルだ。

 もう一つのソファーに行儀良く腰掛けて、風原は黙ってチビチビとコーラを飲んでいる。俯きがちな暗い顔を見て、大路が声をかけた。

「風原さん、どうしました。いつもより元気がないようですが」

 実際のところいつもの風原と大差ないのだが、取り敢えずは合っていたようだ。彼は顔を上げ、思い詰めた表情で大路に尋ねた。

「あの、所長。質問があります」

「何でしょう」

「あの、総理大臣の部屋にいたあれは、人間ではないんですよね」

「そうですね。人間ではなく、生物でもありません」

 大路が答えると、風原は緊張が解けたみたいに大きく息を吐いた。

「安心しました。やっぱり人間はきちんとした形をしているものですよね」

 三人は風原が何にどう悩んでいたのかよく分からなかったが、突っ込むのはやめておいた。

「……で、仕事はどんなふうに片づけるの。向こうが何人いていつ襲ってくるかも分からないなら、ずっと総理に張りついておくしかないけれど」

 冷凍ピザを消費しつつ水上が問う。今キャンピングカーは官邸の敷地内にあり、周辺を結界で覆って使い魔も配置している。しかし、総理は夜は公邸で寝るし昼間は国会にも出る。公務であちこち飛び回ったりもする。それにキャンピングカーでついて回るのも大変だろう。

「そうですねえ。じっと待っているのも退屈ですし、長引くとだれますしね。今夜のうちに片づけてしまいましょうか」

「暗殺グループを片づけるのか。なんか暗殺阻止って、総理が大衆の前で演説してるところを見張って、狙撃される総理をぎりぎりで押し倒して助けたり、狙撃手を寸前で狙撃したり、なんて感じじゃないのかね。映画なんかでは。……まあ、所長がそれでいいんならいいけどさ。総理の護衛ってよりは、暗殺グループ暗殺って感じだな」

 鋼の突っ込みに大路は少し考える。

「ふむ……。では、今夜のうちに暗殺グループが襲撃に来て、それを迎撃して一気に片づけるというのはどうでしょう」

「おっ、そいつはいいな。で、このキャンピングカーが活躍する余地はあるのかねえ。水上、あんた我力防壁を車の表面まで拡張出来るか」

 カイストは自分の持つ武具をリアルタイムに我力で覆って戦う。我力で覆われた剣を盾で弾けるのは、盾もまたその時に我力で覆われているためだ。そうでなければ盾は鋼鉄製だろうがあっさり切り裂かれてしまうだろう。そして、自身の触れたものを何処まで自分の武具と認識して我力を広げられるかは個人差があった。

 水上が眉をひそめた。

「防御結界で包むことは出来るけれど、戦士の本気装甲ほどの強さは無理ね。何日か時間をかければ装甲自体に我力強化を施せなくもないわ。でも、本職の強化士には劣るし、今夜のうちにやるんでしょう」

「んー、なら、俺が乗ってる間、前半分、いや前三分の一は防御するわ。ちょっと集中が切れると防壁も切れちまうからあまり頼りにされても困るけどな」

「話は決まりましたね。では、食べ終わったら出発しましょうか」

 大路がのんびり言った。

 

 

  四

 

 地中に設けられた小さな亜空間に彼らは潜んでいた。

 亜空間は現実空間を模してあるが法則と要素がある程度簡略化されており、現実の生き物が長居すると色々と不調を起こす可能性がある。しかしカイストならば我力で持ち堪えるし、製作者の技量が高ければ滞在可能時間を更に伸ばすことも可能だ。

 錬金術士アルアラケム・エルヌが簡易避難所として作ったここは、本人なら年単位、Bクラスのカイストなら一ヶ月以上は滞在可能だった。ただし、一辺八メートルほどの箱型で、中央部に立つ鉄製の梯子と最低限の錬金用設備以外には何もなく、明かりは机の上のランプだけだ。トイレもないが、カイストなら排泄がほぼ不要なので問題なかった。精神的な要素を別にすれば、だが。

「おい、アルアラケム。そろそろ出来たか」

 灰色の壁際で寝転がり、指を通した旋風輪を高速回転させていたザトゥ・ルメルが不機嫌に問いかけた。二メートル近い巨体に古傷だらけの顔。赤い髪を三つ編みにした長い房には鉄芯が入っていた。首を斬られることを僅かでも遅らせるための工夫だ。

「そろそろだ。余計な声をかけるな気が散る」

 机の上の装置を睨みながらアルアラケム・エルヌが答える。風圧のない囁くような声。白衣を着た禿げ頭の男で、眉も髭もないのは作業中に毛髪が混入するのを防ぐためか。指は長く、細い。弱火で煮詰めていた瓶の液体に、攪拌棒で掻き混ぜながら慎重に別の液体を加えていく。

「……うむ」

 暫く攪拌を続けた末、アルアラケムは火を消した。ある程度冷めるのを待ってから、予め用意していた円筒形の容器に液体を流し込んでいく。

 その容器は両端に蓋がついており、内部は隔壁によって仕切られていた。既にもう一方には中身が満たされていた。

「この投擲弾は着弾の衝撃で二つの薬品が混ざり合い、半径三十メートル以内ならBクラスでもほぼ確実に殺せる筈だ。主体は破壊力ではなく毒物で、細胞の活動を停止させる作用を持っている。一般人の確殺距離も同程度になるな。この爆弾の利点は、一般人には普通の爆発と見分けがつかないことだ。委員会の管理下でも誤魔化しが効きやすい」

「委員会に気を遣ってんのか。カイストやってんのにビクビクしながら生きにゃならんとは、哀れなもんだ」

「私はお前と違ってまだ委員会に指名手配されていないからな。捕獲される時は私を巻き添えにしないでくれよ」

 アルアラケムは平然と返し、ザトゥは鼻を鳴らした。

「フン。今の委員会は手当たり次第になってるからな。自分だけ見逃してもらえるとは思わん方がいいぞ」

「……。これはお前が使え」

 アルアラケムが完成した投擲弾を無造作に放り投げ、ザトゥは慌てもせず受け止める。もう片方の手は旋風輪を回したままだ。

「これで準備OKか。強化弾は十発だったな。今度は外すなよ、ミスマー」

 片膝立てて眠っているように見えたミスマー・ブルネンは、薄く目を開けた。

「外さん。外した時は俺が死ぬ時だ」

 ミスマーはスーツ姿に革靴で、目つきがやたら鋭いこと以外は一見普通のサラリーマンだった。肩に立てかけていた狙撃銃はこの惑星の大量生産品をカスタマイズしたもので、装弾数はきっちり十発だ。まだ剣よりも銃が強いという信仰を捨てきれずにいるCクラスで、後々試行錯誤の末に銃を捨てることになるか、自分で銃弾を我力強化する強化士になるのか、まだ未来は定まっていない。或いは圧倒的多数のCクラスと同じく、芽が出ぬまま消えていくことになるのか。

「ミスマー。おさらいしておくが、弾丸は前回のものより更に強化してある。空気抵抗、重力、コリオリ力は全て無視して構わん。通常弾と使い勝手が違うことを忘れるな」

「分かっている。感謝する」

 ミスマーは頷いた。

「それにしても、強化に随分と時間を食ったもんだな。俺の知ってる錬金術士はそんな古臭え器具なんか使わず、手で触ってるだけでチョチョイと強化してたぜ」

 ザトゥがアルアラケムに嫌味を投げる。彼らは暗殺依頼を受けて臨時に結成した仲間ではあったが、円満な関係とは言い難かった。ザトゥはすぐに片づくものと考えて気楽に受け、アルアラケムは超常現象的な暗殺にならぬよう狙撃役としてミスマーを誘った。一キロ以上離れた場所からの狙撃であろうが、弾丸による暗殺であれば委員会を刺激せずに済むだろう。そして、我力強化された銃弾に耐えるBクラスの護衛がいることは予想外だった。彼らがもっと慎重に下調べをしていればこんなことにはならなかったろうに。せっかちに突撃を主張するザトゥをアルアラケムがなんとか抑え、泥縄ではあるが更に強力な銃弾を作ることにして四日が経過していた。

「仕方のないことだ。私達術士は戦士の瞬発力を超えるために時間をかけるのだから。道具については人それぞれだな。自分の中にシステムを組み込むのは便利で手早いがリスクもある。それから、私は長年の本拠地を襲撃されて転生したばかりで、愛用の道具も素材も触媒もごっそり失った。また一から揃え直しだ」

 アルアラケムは無表情に愚痴り、それから重要な情報を追加した。

「ちなみに私の肉体は爆薬化してあり、死亡と同時に起爆して辺り一帯を消し飛ばすようになっている。委員会の捕獲対策だが、いざという時に巻き添えを食わないよう気をつけるがいい」

 文明管理委員会がカイストを捕獲する際は生きたまま捕らえるか、殺してすぐのうちに特殊な機械を使って魂を捕らえている。追い詰められたら捕獲部隊ごと自爆するつもりなのだろう。

「あのなぁ、そういうヤバいことは最初に言っとけよ」

 ザトゥが顔を歪め怒気を露わにするが、殴ったりすることは控えた。旋風輪の回転を止めて畳み、のっそりと立ち上がって言う。

「じゃあ、いつ殺りに行く」

 ミスマーが腕時計を確認した。

「この亜空間の時間の流れが現実と差がないなら、今は午後七時過ぎだ。まだ官邸にいるか。それとも自宅に帰っているかな」

「時間のずれはない。標的のスケジュールを詳しく調べてはないからな。今回は相手を舐め過ぎたし、杜撰過ぎた」

 アルアラケムが言った。彼らは強者であるが、その自負心故に一般人を侮る傾向があった。委員会の管理下であろうと、要人の護衛にカイストがいる可能性も考慮しておくべきだったのに。

「まずは外に出て状況を確認しよう。官邸に標的がいるならすぐ襲ってもいい。探知士がいればもっと着実に動けるのだろうが、いないから仕方がない。悠長にしていると相手方が新たなカイストを雇うかも知れんからな」

「いいぜ。護衛のカイストは俺が始末してもいい。ミスマーが外したら俺が標的も始末しちまうがな」

「それでいい」

 ミスマーが答え、空間の主であるアルアラケムが梯子を上り、天井の丸い蓋に手をかけた。マンホールの蓋に似せたそれが亜空間の出入り口で、現実世界と繋がるアンカーの役割を持っていた。

 ロックを外して蓋を開けると現実世界の空気が流れ込む。これまで亜空間で我慢していたらしく、ミスマーが嬉しそうに大きく息を吸い込んだ。

 蓋の上は首相官邸から二キロちょっと離れた、寺の裏にある墓地だった。空は夕暮れの赤から黒に変わりつつあった。

 静かな墓地である筈が、すぐ近くに車の低いエンジン音が聞こえる。アルアラケムがそちらへ首を向けると眼前に大型のタイヤが迫っていた。

 顔面からタイヤに押し潰されてコキャリ、とアルアラケムの首がねじれ折れた。戦闘が得意でない錬金術士でもBクラスだ、我力防壁で身を覆っており単なる物理攻撃では傷一つ負わない筈だった。

 だが、キャンピングカーの前輪タイヤは我力を帯びていたのだ。

「おい、なんか轢いたぞ」

 遠ざかっていく男の太い声が聞こえ、アルアラケム・エルヌの意識はそこで途切れた。

 首がちぎれかかった状態で錬金術士が落ちてくるのを見てザトゥは「うひゃうっ」と奇声を上げた。瞬時に戦闘モードに切り替わった彼がやったのは、全速力でアルアラケムの横をすり抜けて亜空間から飛び出すことだった。

 ミスマー・ブルネンも慌てて後に続こうとした。まだスピードが人間の域を出ない彼であったが、まだぎりぎり間に合ったかも知れない。アルアラケムの生死を確認しようと視線を向けさえしなければ。

 そのごく僅かな動作の遅延が運命を分けた。彼が出入り口から上半身だけ抜け出した時、下から閃光が襲った。ミスマーの肉体は両前腕だけ残して消滅した。

 

 

  五

 

 錬金術士が長い時間をかけて我力を染み込ませた肉体爆弾は、亜空間内部を粒子レベルまで粉々に破壊し尽くした後、ただ一つの出口から噴出した。マンホールに合わせて綺麗にベクトルが修正され、直径九十センチの白い柱が地上から遥か上空まで垂直に立ち上がった。もし死んだのが地上であれば寺を丸ごと吹き飛ばして幾人もの死者を出しただろうが、天を貫く白い柱は何の被害も出さずに三秒ほどで消え、目撃した東京の人々に感動を与えただけだった。ちなみに、大路が読んでいたオカルト雑誌の次の号に『東京の空に立ち昇った謎の白い柱』という記事が載ることになる。

「見た顔が飛び出してきた。暗殺グループの隠れ家だったみたいだな。今潰したけど」

 通り過ぎた後方を自分の目で確認しつつ鋼源十郎が言った。

「なるほど、これは必然だったのね。私の運転が下手な訳じゃなかったのよ」

 キャンピングカーを運転する水上麗羅が上ずった声を出した。顔が微妙に引き攣っている。大路の指示通り適当に周辺をドライブしていて、くしゃみした拍子にハンドル操作を誤り寺の塀をぶち破って墓地に侵入してしまったのだ。今のところ墓石をぶち壊したり墓参りの客を轢き殺したりはしていないので、後で謝罪して塀の修理代を払えば許してもらえるだろう。多分。

「いやはや、刺激的なドライブですねっ」

 大路は楽しげに笑っていた。風原も自分の失敗ではないのでニコニコしていた。

 水上はこの国の運転免許を取得していたが、日頃運転はしておらず車も持っていなかった。なんとなく欲しくなり大型免許を取った時はかなり頑張った。その後は当然大型車両を運転などしなかった。実際のところ、彼女は運転が得意ではなかった。数百万年生きてきても苦手なものはずっと苦手なのだ。

「っと、奴が武器投げてくるぞ避けろっいや俺が出る」

 鋼は圧縮音声で告げ助手席から飛び出した。マイクロバスを守りきれるほど我力防壁を広げられないと瞬時に判断したのだ。左カーブしつつあった車から降り、音もなく飛来する旋風輪を右手から伸ばした剣で弾いた。が、斜め後方に逸れた回転武器は車両の後部左上二メートルほどを斜めに削り取っていった。窓ガラスと鉄板が一緒くたにスコンと綺麗に切れてずり落ちていく。そこから風原のびっくりした顔が見えた。

「チッ、やっぱり買った日にぶっ壊れるんじゃねえか」

 鋼は舌打ちし、暗殺グループの生き残りと対峙した。

「ところでさぁ、今あんたら総理を暗殺しに行こうとしてたよな。そうだよな。ちょっと買い物に、なんてこたないよな」

「チィッ。またお前かよ」

 質問には答えず、ザトゥ・ルメルもまた苦い顔で舌打ちした。既に新たな旋風輪を取り出しており、左右の手に一つずつ高速回転させている。左足を僅かに引き摺っているが、前回鋼の刃で割り砕かれた脛骨がまだ完治していないようだ。或いは、そう見せかけたブラフの可能性もある。

「こっちもそう言いたいぜ。強盗の次は暗殺業か。多才で羨ましいねえ」

 両手から長剣を伸ばし、鋼が皮肉る。

「なんでこの場所が分かった。検証士対策で囮のアジトにトラップと通報装置が用意してあったんだが。アルアラケムの奴が幾らヘボでも、侵入されれば分かった筈だ」

「いやあ、そういう地道な調査はやってなくてな。適当にドライブしてたら轢いちまっただけだ」

 鋼の言葉を冗談だと思ったのだろう。ザトゥはチッとまた苛立たしげに舌打ちすると、歯を剥き出して狂暴な笑みを見せた。

「お前のネタは割れてんだ。あん時みたいにはいかんぞ」

「そういう台詞は何千回も聞いてきたが、それで勝率が下がったりはしてねえんだよなあ」

「そりゃ経験が足りねえんじゃねえか。せめて十万回くらいは言われてねえとよ」

 若さを嘲る言葉に、鋼も獣のような笑みを返した。

「十万回も言われてる頃にはAクラスになってそうだな。おやぁ、経験豊富なのにまだBクラスの奴がいるぞぉ」

「ぶち殺すっ」

 ザトゥが顔を真っ赤にして突進した。ここまでのやり取りは圧縮音声のためコンマ三秒も経っていなかった。

 後方のキャンピングカーを庇う必要があるため鋼が不利か。だが攻撃は最大の防御とばかりに自ら迎撃に駆け寄っていく。ザトゥが左足のせいで足運びが遅いことも見越していたかも知れない。

 ザトゥが旋風輪を二つとも投げつけてきた。どちらも剣で弾こうとするが寸前、宙を跳ねるような異様な軌道変化で飛び越されてしまう。絶妙なひねりを加えた投擲によりコントロールされた旋風輪はキャンピングカーへ向かっていた。咄嗟に鋼は後方へ跳んで再度剣を振る。一つはうまく弾き、もう一つは掠っただけだが車を逸れてくれそうだ。

 だが、鋼の注意力がそちらに割かれた隙にザトゥは別のものを投げていたのだ。金属製の円筒。投げた後でザトゥ自身は素早く下がろうとしている。危険物の予感に鋼の体毛がゾワリと逆立つ。

 円筒は鋼の剣の間合いの外を通り過ぎようとしていた。鋼は右手の剣を掌から切り離して円筒へ飛ばすが、それをザトゥが投げた新たな旋風輪が弾いた。

「おいなんかヤバいのがっぐしっ」

 キャンピングカーに警告を飛ばす途中で鋼は急に鼻がムズムズしてくしゃみをした。円筒を止めようと左手の剣も飛ばしたのだがそのせいで狙いが外れてしまう。

「っくしゅっ」

 運転する水上の鼻がまたムズムズして、くしゃみした拍子にハンドルを逆に切ってしまう。左に曲がりつつあった車体が真っ直ぐに戻り、飛来する円筒の前に切り落とされた後部を晒すことになった。そこにはまだリュックを抱えて驚いた顔で鋼達を見ている風原がいた。カイストの投擲した円筒のスピードは時速八百キロを超えており、常人では避けるどころか見えもしなかっただろう。

「えぷしっ」

 だがその時には、風原の鼻が急にムズムズしてくしゃみをした拍子にリュックのジッパーが下りて口が開いていたのだ。

 半径三十メートルの範囲を殺し尽くす円筒容器の毒爆弾は、リュックの中にスポンと入り込んだ。爆発も起きず、衝撃で風原の胴が潰れることもなかった。魔法のように爆弾は消えてしまった。

「何だそりゃっ」

 ザトゥが叫んだ。

「えっ、あれっ。何かリュックに入ったみたいです」

 そこで風原がリュックの口を大きく広げて中を見ようとした。

 運転中の水上麗羅はそれを見なかった。大路幸太郎は車内で前を向いていた。鋼源十郎はザトゥから目を離せずそれを見なかった。

 それを見たのは風原真とザトゥ・ルメルだけだった。

「なっ……」

 ザトゥが絶句して固まった。その隙を逃がさず右手から剣を生やして鋼が襲った。何本ストックがあるのかまた旋風輪を抜こうとするが間に合わない。後ろに下がったもののザトゥの腹は切り裂かれていた。はみ出してくる腸を押さえつつ、踵を返して逃げようとする。カイストの戦士は腹が破れたくらいで動きが鈍らない。

 だが、ザトゥの鼻が急にムズムズして強烈なくしゃみ発作に襲われた。我慢したがそれでまた動きが遅れ、左膝を深く切られてザトゥは倒れた。

「ほい、詰みだな」

 その背を踏みつけ、三つ編みの下の首筋に長剣を当てて鋼は告げた。もうザトゥが何を試みようが首を裂く方が速い。それから鋼は不思議そうに言った。

「なんか生け捕りになっちまったな。所長ーっ、どうする。やっぱりきちんと殺しとくかい」

 キャンピングカーへ呼びかける。

「さっさと殺せよ」

 俯せ状態でザトゥが吐き捨てた。カイストは死に慣れているのでかっこ悪く命乞いなどはしないものだ。

 キャンピングカーはウネウネ蛇行してから停止し、のんびりと大路が降りてきた。

「ふうむ。本来はきちんと殺して依頼完了とすべきなんでしょうけれど、生け捕りになったということは何か意味があるんでしょうね。うん、委員会に引き渡しましょう。ザトゥ・ルメルさんでしたね。あなたは委員会に指名手配されているみたいですが、そう悪いことにはならないんじゃないですかね。まあ、私がそう思っただけですけど」

 大路が喋っている途中でゴリュ、と小さな音がした。ザトゥが口の中で自分の歯を折ったのだ。無防備に姿を現した弱そうな気配のリーダーに、振り向きざま歯を吹き出すつもりだったのだろう。相手が我力防壁を持っていなければ歯一本で頭が破裂する。

 だがザトゥの動きを感じ取った鋼が容赦なく首の肉に刃を食い込ませ、彼は諦めた。横を向いて歯を吐き出し、それからゆっくりと首だけで振り向いて、大路に問いかける。

「誰だてめえ。偉そうにしやがって、お前にそんな権力があるってのかよ」

「私は大路ミラクル探偵社の所長・大路幸太郎です」

 ニコニコして大路は答えた。

「オオジ……ミラクル……オウジ……」

 少し考えた末、ザトゥは目を見開いた。

「コー・オウジかっ。あの『無手勝』の」

「じゃ、取り敢えず手足折っとくわ」

 鋼が容赦なく手から鋼鉄のハンマーを生やしてぶっ叩き始めた。

「……はーっ、くしょん」

 大路は鼻がムズムズしたので大きなくしゃみをしたが、特に何も起こらなかった。

 

 

*** 総理大臣暗殺未遂事件 業務記録 ***

 

・依頼人:佐久間龍臣。五十四才。現職内閣総理大臣。

・依頼内容:カイストの手で暗殺されそうなので阻止して欲しい。

・経過と結末:依頼の四日前に強化された銃弾によって総理が狙撃され、護衛の榊原(カサラギ)が身を挺して防いだものの重傷を負った。榊原は検証士に依頼して暗殺グループの素性と依頼者を確認。その後暗殺の阻止を我が社に依頼した。

 当日購入したキャンピングカーで暗殺者の迎撃に出発。丁度良く暗殺者達と遭遇し、敵の二人は死亡。残る一人を捕縛して、委員会に引き渡した。結果、暗殺計画を阻止することに成功した。

・報酬:百万円。また、破壊した寺の塀の修繕費については必要経費として依頼人が払ってくれることになった。

・今回の被害:一般人に怪我人も死亡者もゼロ。依頼人の意向であった。

・今回減った体重:十五キロ。くしゃみにかなり消費されたと思われる。

 

・各所員の感想(個別提出)

 鋼源十郎:あっけなく一日で片づいてしまった。所長の力に馴染んで段々自分がアホになっていくような気がする。

 水上麗羅:私の運転が下手だった訳ではないのです。買って初日でしたし。修理してちゃんと乗りこなせるようになっておきます。

 風原真:僕はどうしてリュックサックを持たされていたんでしょうか。

 

・所長としてのコメント:「なんだかドライブしてたら解決しました」と報告したら総理は困った顔をしてましたね。

 

 

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