一
日本全国の無作為に選ばれた百三十万世帯に、同じ内容の往復ハガキが届けられた。
アンケートに答えた者には抽選で素敵なプレゼントが当たるという、その質問事項はただ一文だった。
救いますか、滅ぼしますか。
何を救う、或いは滅ぼすのかという説明はなかった。『救う』と『滅ぼす』のどちらかに丸をつけるだけで、選んだ理由を書く欄もない。
多くの者は悪戯と考えて無視した。面白半分で適当に選んで投函する少年もいた。何か哲学的な意味があるのだろうかと考え込む大学生もいた。プレゼント目当てに取り敢えず出す主婦もいた。ビールを飲みながら書く中年男がいた。本の栞代わりに使って数日後に気づいて出すOLもいた。どちらにするか三才の孫に選ばせる老人もいた。
往復ハガキは日本だけでなく地球上のあらゆる国の住民に届いていた。宛先はやはり無作為ながら、人口に応じておよそ百人に一人に届くように計算されていた。それぞれの地域の言語で、やはり質問はただ一つ、『救いますか、滅ぼしますか』。多くの者は無視した。一部の者がテレビでサッカーを観ながらアンケートに答え、畑仕事の後に答え、迫害に耐えながら答え、勉強の合間に答え、刑務所の中で答え、ダイスを振って答え、捕虜を銃殺した後で答え、首を吊る前に答えた。
世界中のポストに投函された返信用ハガキは東京都・八津崎市に集められた。
宛先は『地獄坂研究所』となっていた。
八津崎市の黄泉津通りから脇道に入り、更に回り込むと狭い裏路地になる。人気が少なく閑散とした場所で、古い廃屋や焼け落ちたままになったアパート跡、単なる瓦礫の上にテントを張っただけの住居などがある。巨大な刃物で斜めに断ち切られたようなビルもあった。露わになった屋内をカーテンで仕切って生活しているようだ。
断ち切られたビルの向かいに広大な畑があった。キャベツや大根、白菜など種類は様々だが全て野菜だ。案山子として磔の骸骨が幾つも立っている。僅かに残る靭帯や折れた骨の断端などは非常にリアルだった。まるで、本物の骸骨のように。
畑は厳重に鉄条網で守られ、『野菜をぬすんだやつは殺す』という立て札には『ぜんぶおれのもの。ステイミー勝橋』という台詞が追加されている。
野菜畑の隣に緑色のビルがあった。壁面がナスやキュウリなどの蔓野菜で覆われているのだ。四階建てで、それぞれの階から看板が横に突き出していた。四階は『黒贄探偵事務所』という下手な字の看板で、汚れ具合からはこれが最も古いものだろう。三階の看板は赤い字で、『紅本亜流羽探偵事務所 お気軽にご相談を』という文句の横に薔薇の花が描かれている。二階の看板は『剣里火探偵事務所』というシックな彫金だ。そして一階の小さく地味な看板は、弱々しい字で『草葉陰郎事務所 享年三十一』となっていた。
玄関の扉が開き、太った男が欠伸しながら現れた。晴れているのに青い雨合羽を着ている。
「俺は野菜の手入れで忙しいってのに、大将はまだ寝てやがる。仕事も来ねえし大丈夫かね。肥料代も馬鹿にならねえってのによう」
男はなめらかで瑞々しい肌をしていた。動くたび、ゼリーのように肉が揺れる。逆立った疎らな髪も一緒に揺れていた。
肥料の入ったバケツを重そうに抱えて畑に歩きかけた時、男はふと郵便受けに目を留めた。滅多に使われないらしく埃でコーティングされたその中に、何かが入っている。
男は蓋を開けた。『黒贄礼太郎様』という宛名の往復ハガキだった。
「ふうん、仕事の依頼かね……これ、なんて読むんだ。おっ、プレゼントがあんのか」
男は用心深く周囲を見回し、誰にも見られていないことを確認すると雨合羽のポケットからマジックペンを出した。適当に丸をつけ、返信用ハガキの『黒贄礼太郎』となっている部分を横線で消し、新たに『ヌライミーふじしよし』と書き加えた。
「プレゼント〜プレゼント〜俺は神〜」
男は鼻歌を歌いながら表通りのポストへ向かった。
返信用ハガキの選択肢欄は、『滅ぼす』に丸がつけてあった。
二
半透明の建造物が灰色の虚空に浮かんでいた。幅は数百メートル、入り組んだ構造は二十階層から三十数階層に及ぶだろう。本来は中庭を囲むUの字型の筈が、際限なく建て増しされ異形と化している。全景を見渡した者がいれば建築者の歪んだ心性に寒気を覚えるかも知れない。
ただし、そんな余裕のある者がこの地獄坂研究所にいる筈もなかった。
壁も床も半透明だが建物内部は薄暗く、無表情な黒衣の所員が廊下を行き交っている。正面玄関に両開きの大扉がある。鋼鉄製の分厚い扉は内側からははっきり見えるが、外側からは霧がかかったように曖昧としていた。
玄関ロビーは待合用の長椅子が幾つか並んでいた。中年の男が一人座っていたが所員達は無視して前を通り過ぎる。かなり待たされているのか男は衰弱して見えた。隅にはミイラ化した死体が転がり、放置されている。
監獄のようなフロアがあった。何十もの密閉された個室にはそれぞれ老若男女が閉じ込められている。仰向けになり全身を震わせている男もいれば、体積を膨張させ肉玉と化した女もいる。人間かどうかも分からない毛むくじゃらの生き物もいた。それぞれがカメラで動静を記録されていた。
透明なカプセルが立ち並ぶフロアがあった。中で冷凍保存されているのは人間や異形の怪物達。太い触手がもつれ合った巨大な怪物には径四十メートルもの特製カプセルが使われていた。
様々な兵器が保管されたフロアがあった。銃器の占めるスペースは少なく、後はレーザー照射装置や大型ミサイル、電子機器の詰まった二足歩行アーマーなど最新の科学兵器が並ぶ。空飛ぶ円盤のようなものや用途の不明な異形の機械群もあった。
病原菌や化学兵器を収めたフロアもあった。エボラ297〜318、ペスト182〜632、HIV336〜886、インフルエンザ666など、病原体名に番号の振られた容器が棚に並んでいた。化学兵器はマスタードガスからサリン、VX、更には『無空』まで揃っていた。
別のフロアには対照的に魔術器具が集められていた。様々な地域と時代ごとに整頓されている。マヤ・アステカ文明の生け贄用祭壇。中世ヨーロッパの魔術書にそれぞれの悪魔を表した紋章、そして魔法陣。処刑された罪人の手首を加工した呪物・栄光の手。ブードゥー魔術に使われる人形や、藁人形と五寸釘もあった。壁には密教のマンダラもあった。
不気味な静けさに満ちた建物内で、動きのあるフロアもあった。端の部屋では通常の十倍の大きさの虎と、丈が五メートルもある大猿が闘っていた。その隣の部屋では同じ顔をした男が数十人、それぞれの台に横たえられていた。緑色の液体を注入され、肉体が膨張していく様子をカメラで録画されていた。別の部屋では女を瞬間的に凍らせてからハンマーで粉々に砕き、破片をロボットアームが拾い上げ綺麗に組み立てていた。更に別の部屋では数百条のレーザー光線が鋼鉄の板を切り裂いていた。震動が伝わってくるが壁が黒いため内部の見通せない部屋もあった。
別のフロアには手術室が並んでいた。苦痛に泣き喚く男を所員達が切り開いて機械を詰め込んでいく。老人の脳を取り出して無数の神経を電極に繋いでいる。縦に真っ二つにした人体を培養液に浸け、それぞれが元通りに再生して二人に増殖していく。女の口の中に砂のようなものを流し込んでいるが、既に五百リットルは入ったというのに女の腹は全く膨れていなかった。
最下層には死体置き場があった。潰れた死体、破裂した死体、溶けた死体、その他訳の分からない死体が並べられ解剖を待っている。検証を終えた死体は真ん中の穴から建物の外へ捨てられる。元は人であった残骸が、灰色の虚空を何処までも落ちていく。
動力室らしき場所もあった。球形の炉や釜のような炉、蒸気を噴き出す箱などがそれぞれの原理で稼動している。
上のフロアには情報処理部もあった。大型のコンピュータが互いに連結し、カメラやセンサーが収集した膨大な実験結果を分析していく。操作する所員達は無表情で動きも淀みなく、彼ら自身がコンピュータであるかのようだった。
そして、研究所の最上層に、玉座はあった。半透明の床に赤い絨毯が伸び、高い段の上にそれは設置されている。王が見下ろすべき臣下の席は存在せず、統治すべき民もない、孤高の玉座。黒と赤、金と銀の装飾であったものは何度も破壊と修復を繰り返されたようにいびつになっていた。
デコボコの玉座に男が腰掛けている。彼もまた黒衣であったが、他の所員と異なるのは静謐な、しかし確かな悪意を湛えた底知れぬ闇を纏っていることだ。漆黒の髪と漆黒の瞳。髭はなく、血色に乏しい肌は何処か人工的な印象を与える。年齢は四十代であろうか。
あらゆる対象を嘲弄する冷酷な瞳は今、左手に持つ一輪の花を見据えていた。ピンク色のカーネーション。
男は慎重に右手を伸ばし、薄い花びらの一枚を摘まんだ。両手とも黒い手袋を填めている。
「救う」
男は呟きつつ花びらを引き抜き、床に落とした。
「滅ぼす」
男はもう一枚、花びらを抜いた。
「救う」
男はまた花びらを抜いた。
「滅ぼす」
またまた男は花びらを抜いた。
「救う。滅ぼす。救う。滅ぼす。救う。滅ぼす。救う。滅ぼす。救う。滅ぼす。救う。滅ぼす。救う。滅ぼす。救う。滅ぼす……」
男は真剣な表情で次々に花びらを抜いていった。やがて、「救う」を抜いたところで花びらは残り一枚となった。
男は目を見開いて、暫くの間最後の花びらを見つめていた。震える手でそれを摘まみ、そして嘆息するような「滅ぼす」の声と共にそれを抜いた。
「……。そうなのか。滅ぼすのか。それでいいのか」
虚ろに呟く玉座の男は、地獄坂研究所長・地獄坂明暗だった。
「それでいいのか。滅ぼすのか。しかし……滅ぼすのか。いや、それとも救うのか。虚しい。分からない。虚しい。分からない。虚しい虚しい次だ」
地獄坂は花を捨てて左手を横に伸ばした。後方にひっそりと控えていた所員が次の花を差し出した。それまで微動だにせず、呼吸もしていないように見えた男だ。
花占いの新たな対象は桜だった。細い茎から折り取られた一輪を地獄坂は受け取り、まじまじと顔を近づけて観察した。
「救う、滅ぼす、救う、滅ぼす……救う」
花びらはあっという間になくなってしまった。最後の一枚を、地獄坂は再び全身全霊を込めた真剣さで抜き取った。
「そうか。救うのか。救う、か。しかし……どうなのだ。分からない。虚しい。虚しい虚しい。虚しい虚しい虚しい」
地獄坂が壊れたレコードのように同じ台詞を繰り返し始めた時、後ろの所員が無表情に告げた。
「素粒子連鎖崩壊実験の結果が出ました」
「うむ。どうだった」
坊主になった桜を捨てて地獄坂の背筋が伸びた。
「一万回の試行のうち、百パーセントの崩壊に達したものが一万回です」
つまり、完璧ということだった。
「良かろう」
地獄坂は立ち上がり、部屋を出た。玉座の周りには数千枚の花びらが散らばっていた。所員はまた人形のように動かなくなった。
研究所内の廊下を地獄坂が歩く。所員達と何度もすれ違うが、彼らは所長である地獄坂に会釈すらしない。意思や感情を禁じられたかのように。
中央の透明なエレベーターを使い、地獄坂は下のフロアへ移動した。コンピュータの密集する管理区画の一つ下、円筒形の培養槽が並ぶフロアだった。数は千を超えるだろう。透明な液体に人間の生首や大脳が浮かび、無数の細いコードが神経に接続されている。脳の一部しかないものもあった。意識があるのか、生首はゆっくり瞬きしたり室内を眺めたりしていた。何やら口を動かしているのは助けを求めているのだろうか。しかし声は届かず、万が一所員の耳に入ったとしても彼らの行動に何の影響も与えないだろう。それぞれの培養槽にはコンピュータが取りつけられ、所員が精密動作のマニピュレーターで脳にゼリーを注入したり新たな液体を加えたりしていた。
培養槽の前面にはラベルがついていた。中に収められた者の名前と、『記憶復元率』という言葉の横に数字。百パーセントのものも幾つかあったが、六十から八十パーセントのものが多かった。それでも大したものだ。収めた頭部や脳は、殆どが死後かなりの時間を経て回収されたのだから。
培養槽の間を地獄坂は歩き、やがて奥の一つの前で立ち止まった。妙に大きな生首だった。いや、髪形のせいで大きく見えていただけだ。
爆発したようなアフロ・ヘアーの黒人の生首。ラベルには『サンク・ピーターセン 記憶復元率 93.6%』となっていた。
生首は目を開けて地獄坂を見返していた。この境遇にある者としては意外なほどに冷静で、知的な瞳は侮蔑を投げている。
地獄坂は培養槽付属のパネルに手を伸ばし、音声スイッチを入れた。それを見ていた生首は液体の中で気だるげに口を動かした。
「パイプが欲しいのう。なければ葉巻で我慢してやるがの」
音声はパネル横のスピーカーから発せられた。
地獄坂は無視して生首に告げた。
「サンク・ピーターセン。君の素粒子連鎖崩壊理論だが……」
「プロフェッサーと呼びたまえ。プロフェッサー・ピーターセンじゃ。それと、あれをわしはジャッジメント・デイと名づけておった」
元エクリプス五人衆・プロフェッサーが大いなる威厳と誇りを込めて主張した。だがまたもや無視して地獄坂は続ける。
「君が研究中断のまま放置していたあの技術を私は完成させたよ。亜空間での検証作業を完了した。連鎖反応は減衰なしに真空を超え、世界に存在する全ての素粒子を消滅させる」
「ふむ。それはまた馬鹿なことをしたのう」
プロフェッサーは両眉を上げあからさまに嘲笑した。地獄坂は無表情に返す。
「馬鹿とは聞き捨てならないな。科学者ならば究極の理論、究極の技術を求めるものだろう」
「研究には目的というものがある。殺戮兵器を作るにせよ、効果の落とし所を考えねばならん。制御不可能で、敵だけでなく世界そのものを消滅させるような代物に価値はないわい。亜空間とやらに敵を誘い込んで使用するならともかくのう」
「敵を殺すなどという、そんな瑣末なことにこの技術は使わない」
「ほう。ならば使い道は……」
プロフェッサーは暫く黙って地獄坂を観察していたが、やがて侮蔑の視線に憐憫まで加えて言った。
「生き残るような特質を備えた個体が生き残り、子孫を増やす。それが生物の基本じゃ。集団活動が基本となるホモ・サピエンスにおいては、指導力・カリスマ性が重要な特質であることも確かじゃろう。故に人は人の上に立ちたいと望む。その本能は副次的に別の欲望を孕んでおる。大きなことをして皆に賞賛され、崇められたいという欲望……即ち、自己顕示欲じゃな」
地獄坂は眉一つ動かさずそれを聞いていた。
「じゃが、肥大した自己顕示欲は大き過ぎる角と同じじゃ。角は大きなほど賞賛されるもの。オオツノシカは自分の体長をも超える巨大な角を持っておったが、その重量のため水を飲む際に転倒して溺れ死ぬこともあったというの。結果、オオツノシカは絶滅してこの世にはおらん。まさに本末転倒と言うべきかの。人間は、そうならぬだけの知能を備えておる。幼児期の自己顕示欲は教育と経験によって調整され、成人する頃には社会に適応しつつうまく欲望を満たすための行動モデルを獲得する。大概は、のう」
自己顕示欲を語るなら幼児期は早過ぎるかも知れない。少年期、くらいが妥当であったろう。だがプロフェッサーは敢えて『幼児期』と言った。辛辣に、嘲るように。
「地獄坂よ、お主は幼児期を脱しておらぬただの餓鬼じゃ。わしも散々人を殺したが、総体としては人類に貢献したと思っておる。お主の技術は剽窃ばかりでオリジナルは何もなく、結果的に人類を滅ぼすなら生物としても本末転倒じゃ。肥大化したプライドを持て余し、自己顕示欲に振り回されるだけの幼稚な男よ」
「反論は二つある」
地獄坂は冷淡に告げた。
「幼稚さには人間の根源的で純粋な欲望が含まれている。それを否定し笑う者は、単に挫折したに過ぎない」
「ふむ。もう一つは」
「私にとって最も重要なのは自分の欲望を満たすことだ。つまり、結果的に人類や世界が滅ぼうが、私の知ったことではない」
「フン。迷惑極まりないことじゃな。とっとと自殺するが良かろう。その方が人類もお主自身も救われるじゃろうて。お主のような屑に協力する気はないわ」
「協力だと。ハハハ。ハハハハ」
初めて地獄坂が笑った。無表情で、全く楽しさの感じられない笑い声だった。
「私は誰の協力も求めない。実行者は私一人でなければならないからな。所員は脳を削った私のクローンかアンドロイドだ。技術も知識も全て力ずくで奪い取る。君の知識も脳から直接抽出したもので、君の意思が介在する余地はない。技術の完成を君に教えたのは単なる私の自己満足だよ。もう君は不要だ」
地獄坂はパネルの『廃棄』となっている赤いボタンを押した。培養槽内の液体に緑の色彩が加わり、プロフェッサーの生首が急速に溶解を始めた。
「パイプをくれんか……」
プロフェッサーの最期の台詞がスピーカーから洩れ、後は雑音だけになった。
小さくなっていく生首に背を向け、地獄坂はエレベーターへ歩いた。と、急に立ち止まって振り返る。
プロフェッサーが最期にどんな表情を浮かべたか、確かめようと思ったのだろうか。
だが、培養槽は既に空になっていた。
地獄坂は向き直り、エレベーターで別のフロアに移動した。誰にともなく呟く。
「私は屑ではない。私は偉大な存在だ」
相槌を打ってくれる者はいない。
地獄坂が足を運んだのは怪物同士を戦わせていた実験区画だった。
大部屋の一つに地獄坂は入った。そこは床一杯に肉塊が散らばっていた。裸の人間のようだが大きさや形状が何処か異なっている。片方の肩から三本の腕が生えていたり、背中に顔があったりした。しかしそれらは全て、なめらかな断面を晒してバラバラになっていた。合計すると百人分を超えるだろう。
「ドクター地獄坂」
部屋の中央に立つ男が笑顔で挨拶した。白い服には返り血一つなく、右手に日本刀、左手に鉈のように分厚い長剣を握っていた。男は異形の群れをただ一人で殲滅したらしい。
「調子は上々だ。生前の私が弱かったとは言いたくないが、スピードもパワーも十倍くらいになった気がするよ」
金髪に青い瞳の色男は元エクリプス五人衆のダンディーだった。左手の長剣を収めて満足げに自分の顎を撫でる。
「何より嬉しいのはこの美貌が戻ったことだな。復活させてもらってドクターには感謝している。目的が何かは知らないが、是非とも協力させてくれないか」
「断る」
地獄坂は無表情に右手を向けた。プギュッ、と、見えない力によって一瞬でダンディーの全身が潰れ、厚さ一ミリの肉絨毯と化した。
「君はただの実験材料だよ。データが得られれば後は不要だ」
既にダンディーには聞こえていなかったろう。ビチビチと、まだ僅かに再生の足掻きを続ける絨毯を放置して、地獄坂は部屋を出ていった。黒衣の所員が歩いてきて報告した。
「返送されたアンケートハガキが一千万枚に達しました」
「そうか」
地獄坂は頷いた。
「集計結果はバックアップも残さず完全に廃棄しろ。ハガキも廃棄だ。以降届いたものも全て廃棄しろ」
結果を知りたくないなら何故わざわざアンケートを取ったのか、などと所員が尋ねることはない。ただ従うのみだ。
「待て、プレゼントが当たることにしていたな」
少し考えて、地獄坂は意思なき所員に告げた。
「ランダムに百枚選んで、それぞれの住所に戦術核ミサイルを撃ち込んでやれ」
命令を受け所員は離れていく。半透明の薄暗い研究所を見渡して、地獄坂明暗は呟いた。
「決めた。世界は滅ぼすことにしよう」
三
シベリア北部、酷寒のツンドラ地帯にその秘密施設はあった。地上には小さな天体観測所があるだけだが、床一枚を隔てたその下はロシア軍による厳重な警備が敷かれている。IDカードに虹彩認証、古典的な合言葉も経て四つの検問を抜け、エレベーターで地下百二十メートルまで直行する。
二十名の警備兵に見守られ、科学者達のいるモニタールームを通り抜けて、その太った男は実験室に足を踏み入れた。分厚い鋼鉄と鉛の壁で覆われた巨大な部屋。
中央のオブジェを見上げていた男が振り返り、来客に一礼した。
「ようこそお越し下さいました。研究責任者のマリオ・クロトーネです」
尖った鷲鼻を持つ黒髪の男で、白衣の下にセーターを着込んでいた。年齢は四十才前後と思われる。ロシア語はあまり流暢ではなかった。
「科学技術省長官のウラジミール・ゴドコフだ」
太った男は差し出された手に応じ、力強い握手を交わす。しかし亡命の研究者に向ける視線は冷たかった。ゴドコフは六十代であろう、酒焼けした赤鼻はクロトーネと対照的だ。
「この研究所が開設されて半年になるが、進展があったということだったな」
「はい。ビデオ映像は見て頂けたと思いますが」
「二つとも見た。実物も残っているかね」
「ええ、こちらです」
クロトーネはモニタールームから横の通路へと案内する。ゴドコフと二人の側近、警備兵達がついていく。
「私がこの研究を始めたきっかけは、世界中の偶像には普遍性があるのではないかと思いついたことです。太古の土偶から神像、仏像まで、宗教や民族は違っても何か共通点があるのではないかと。勿論、その中にはイエス・キリスト像やマリア像も含まれます」
廊下を歩きながらクロトーネが説明する。
「手当たり次第にスキャンしてデータ化することから始めました。全てを平均化して3DCGにしてみると、あまりピンと来るものはないのです。そこで明らかに異質と思われる像を除外しつつ、レーザー造形装置で実際に彫り出す試行錯誤を繰り返すうちに……」
「木像が喋り出したと」
「いえ、その時の素材はアクリルでした。喋ったというより僅かに唸った程度でしたが。残念ながら撮影した映像はフェイクだと言われ、どの学術誌も相手にしてくれませんでしたね。他の宗教と一緒くたにするなとバチカンからも随分非難されました。ロシア政府には拾って頂いて感謝していますよ」
「我々は宗教などにこだわりを持たない。求めるのは実利だ。どれほどの実利が得られるかは君次第だがね」
ゴドコフの素っ気ない口調にクロトーネは苦笑する。大きな扉に突き当たり、警備兵の一人が開錠した。鋼鉄の扉の厚みは五十センチほどもあった。
部屋は薄暗かった。管理者はそれらが光の下に晒されることを怖れているのだろうか。空調の低い唸りに混じり、何処かでカツンカツン、という硬い音が聞こえる。クロトーネが壁のボタンを押すと保管庫の明かりが点いた。
長いテーブルの上に強化ガラス製のケースが並んでいた。二メートル四方、空のものが多いが一部には倒れた木像や石像が収まっている。人間に近い一メートル半程度の丈で細かな装飾もなく、特徴のない顔は男女の区別も定かではなかった。両腕を広げた像や、胡坐に緩く印相を組んだ像もある。
「先月のものがこちらです。もう動きませんが」
クロトーネが示したのは白い立像だった。やはり手彫りでなくレーザーで彫り上げたのだろうか。薄い衣を纏い、両腕は自然に垂らしている。顔立ちはやや女性的だ。人種的特徴は失われ、半眼の視線が男達を見下ろしていた。
「シラカバの木です。全く同じデザインでメタルや石膏も作りましたがそちらは駄目でした。喋り始めたのは造形の完成後十七分のことです。四十三秒喋り、二時間後にも十六秒だけ喋りました。以降は全く動きません」
目を細めてケースの中の立像を眺め、やがてゴドコフは呟いた。
「これが『我を崇めよ』と言ったのか」
「いえ正確には『我を称えよ』です。ラテン語です。意味のある言葉はそれだけでした。或いは、解読出来たのは、と言うべきかも知れません」
「ただの木像が喋ったとはな。やはり信じられん」
ゴドコフは冷たく嘆息する。
「こちらをご覧になれば信じて頂けると思います」
先導するクロトーネの瞳は、熱病に浮かされたような怪しい輝きを帯びていた。
保管室の最奥部。その端のケースにだけ黒い布がかけられている。
カツン、カツン、と硬い音が聞こえる。部屋に入った時から続いていた音だ。
クロトーネが黒い布を引き下ろすと、ゴドコフの目が初めて驚愕に見開かれた。
黒檀の彫像はバラバラになって転がされていた。弾丸の跡らしき小さな穴が百ヶ所以上に及び、破裂した胴は手榴弾かグレネード弾でも食らったのだろうか。小さな破片もケースの中に収められている。
そのちぎれた右腕が、カツン、カツン、と内側からケースの壁を叩いているのだった。関節の可動部は設けられていないのに、人間のようになめらかな動きだった。弾丸によって出来たささくれが揺れている。
指の欠けた手には、ベッタリと血がこびりついていた。
「これが三日前のものです」
クロトーネが告げた。
「うむ……。確かにフェイクではなさそうだ。とすればこれは、とんでもない事態だ。襲われた職員はまだ意識不明ということだったな。ビデオでは派手に頭を殴られていたが」
ゴドコフは少し後ずさりしていた。
「このケースは防弾の強化ガラス製ですから心配無用です」
保証はしたが、クロトーネ自身も必要以上にケースに近づこうとはしなかった。
「こっちの像は結局何も喋らなかったのかね」
「はい。こちらも慌てていまして。警備兵が撃ちまくって、ああいう状態になってしまいましたので」
クロトーネが指差した先に木像の顔がある。それは胴から外れ、殆ど原形を留めていなかった。
「元通りにかけておいてくれ」
黒い布を兵士に渡し、クロトーネは客を連れて保管室を出た。
「同じ素材で同じものを作ってみたのですが、こちらはまるで動きませんでした。念のためまだ撮影は続けています。平均化の材料とする像データの取捨選択、ポーズ、大きさ、素材の選択など正直なところまだ手探り状態です。もしかすると一つにまとめるべきでなくカテゴリー分けが必要かも知れません。いつまでかかるか分かりませんが、少しずつ成果は得られています」
一行は実験室に戻った。中央に立つオブジェは、全長六メートルの石膏製立像だった。祈るように両手を胸の前で組み、僅かに俯いた顔はアルカイック・スマイルを浮かべていた。髪は彫られておらず見事な禿げ頭だ。
夢見るような表情で立像を仰ぎ、クロトーネは言った。
「このサイズの像を作るのは三度目になります。今度は進展があれば良いのですが。完成後一時間四十分が経過、まだ望みはあります」
科学技術省長官ウラジミール・ゴドコフは顔をしかめ、やがて、苦い声で問うた。
「一体これは……クロトーネ君。一体この現象は、何だと思うのかね。この研究の終着点は、何処にある。……一体、我々は、何をしている」
「飽くまで仮説に過ぎませんが、太古の昔から人間は、神の本質を直感していたと思うのです。偶像は多少なりとも神の真の姿を捉えているのではないかと。私達の目的は、神の完全な姿をこの世に作り出すことです。それによってひょっとすると、彫像の中に神を呼び込むことが出来るのではないかと。あの喋る像、人を襲う像に入り込んだのが神だと仮定してですが」
「像に取り憑いたのが本当の神だとすれば、どうなる」
呻くようにゴドコフは尋ねる。
「神との対話が可能になります。それが創造主と呼ばれるものか、それとも高次元の霊であるのかはまだ分かりませんが。うまくいけば、預言者モーセのように神の力を借りて奇跡を起こすことも不可能ではありません。更に……これを口にするのは恐れ多いことですが……もし万が一、像に封じ込めた神を支配することが可能なら、私達は、世界の覇者になれるでしょう」
語るクロトーネの瞳は、畏怖と欲望の入り混じった不気味な熱を宿していた。
ゴドコフの顔は青ざめていたが、彼の瞳もまた興奮に彩られていた。
「興味深いが、残念だ。これを抹消せねばならぬとは」
「何。誰だ」
ゴドコフは驚いて周囲を見回した。いるのは側近とクロトーネ、警備兵達。モニタールームの科学者達。皆の怪訝な視線が自分に集まっていることに、ゴドコフは漸く気づいた。
「今のは、私が言ったのか」
恐る恐る、クロトーネが頷いた。ゴドコフの何も持たぬ両手が水平に上がり、本人も意外そうにそれを見た。
銃声。そばにいた警備兵二人の額に穴が開いた。あっけに取られるクロトーネの胸を弾丸が貫き、白衣を赤く染めていく。慌てて他の警備兵が自動小銃を構える。頭を抱えて伏せる科学者達。クロトーネは膝をつく。
「ち、違う。これは私じゃない」
叫ぶゴドコフの顔面に腹に弾丸がぶち込まれていく。血を噴いて倒れかけたゴドコフを掴み支えたのは、その太った体躯から滑り出した別の人影だった。
人影は黒ずくめだった。黒い着物に黒い頭巾、黒い足袋。黒い瞳が油断なく気を配り、右手のオートマチック拳銃が確実に兵士の額を撃ち抜いていく。爆発。エレベーターの扉が吹っ飛んで、近くの兵士をグチャグチャに潰した。いつの間にか爆弾が仕掛けられていたらしい。
緊急警報が鳴り響く。フロア中の警備兵が駆けつけて自動小銃を撃ちまくる。巻き添えで穴だらけになるゴドコフの側近達。黒ずくめの侵入者はゴドコフの死体を盾に使い応戦する。死体を貫通して何度か弾を食らうも、侵入者は平然と撃ち返している。弾倉が空になった時には十五人を射殺していた。着物の懐から別の拳銃を抜く。
「むっ」
黒ずくめの男が低く唸った。横っ飛びに伏せた後を暴風が薙いでいく。ゴドコフの死体が巻き込まれ真っ二つに裂けた。
六メートルの立像が襲いかかってきたのだ。右腕の一撃はゴドコフだけでなく鋼鉄の壁を削り抜いていた。ただの石膏像が。
「うわああっ。やっぱり、嫌な予感がしてたんだ」
泣き喚く科学者の上半身を、強化ガラスをぶち抜いた巨大な足が四散させた。兵士達の更なる動揺。侵入者を撃つべきか動く石膏像を処理すべきか迷っている。
兵士を射殺しながら黒ずくめの男が懐から新たな武器を抜いた。東南アジアのクリスに似て、ジグザグに湾曲した両刃の短剣だ。刀身には紋様が彫られている。
石膏像がボールでも蹴るように兵士を蹴り上げた。悲鳴を上げる暇もなく、勢い良く天井にぶつかり頭も胴も潰れる。落下した死体を石膏像が更に踏み潰した。足に張りついた死体は像の次の一歩で前に飛び、別の兵士に激突する。天井と地面に大きな血の染みが残っていた。
巨大な石膏像は今も曖昧な微笑を浮かべていた。だがその目が動き、黒ずくめの男を見る。
ブオンッ、と空気をひしゃげさせ石膏像の右拳が飛ぶ。姿勢を低くしてぎりぎりその下をくぐりつつ、黒ずくめの男が短剣を振った。ギョギッ、と硬い響き。石膏像の手首に大きな亀裂が入っていた。
「ヌオオオオオ」
石膏像が叫び声を上げた。水中を伝わるような低い声音だ。アルカイック・スマイルが歪み憤怒の表情に変わる。その両目を狙って黒ずくめの男の拳銃が火を噴くが、潰れた鉛玉が弾かれるだけでダメージは与えられない。石膏像が右手を振り上げた拍子に、亀裂が広がって手首がちぎれ飛んだ。勿論血は流れず、断面には空洞が覗くだけだ。
黒ずくめの男が破れ窓を抜けてモニタールームへ飛び込んだ。ついでとばかりに生き残っていた科学者の首を刎ねる。追ってきた石膏像がモニタールームに上半身を突っ込もうとしたところで、天井から舞い降りた別の人影が後頭部に短剣を突き立てた。
その男もまた黒ずくめだった。体格も武器も、着物についた血の染みまで最初の男と同じだった。まるで瞬間移動したかのように。いや、最初の男は石膏像の正面に立って見返している。同じ男が二人いるのか。
「ヌエエエ」
石膏像が叫んだ。黒ずくめの男は短剣を抉り抜きながら像の背を蹴って跳んだ。巨大な腕による振り向きざまの一撃は宙を掻く。
ベシッ、と石膏像のなめらかな後頭部に亀裂が広がっていった。頭頂部を伝い、憤怒の顔面まで縦に裂いていく。像の叫びは「エ゛エ゛エ゛エ゛」に変化した。
石膏像はそれでも左拳を握り締め、一歩を踏み出した。足が鋼鉄の床についた衝撃で、裂けた顔面が小刻みな震動を始めた。像がよろめく。二人の兵士が隅で震えている。
二歩目を踏んだ瞬間、バギョンと頭部が割れて左右に転がり落ちた。首を失い、六メートルの石膏像がゆっくりと倒れていく。憑き物が去りただの立像に戻ったのか、床にぶつかるとバラバラに砕け散った。
黒ずくめの男は油断のない足運びで歩く。モニタールームからもう一人の黒ずくめが戻ってくる。
二人の男は正面から重なり合い、一人になった。短剣も拳銃もそれぞれ一つに融合する。
呆然と見ていた兵士二人をあっさり射殺して、関係者は全滅した。
いや、まだマリオ・クロトーネは生きていた。血溜まりの中で仰向けに倒れ、時折弱々しく血を吐いている。致命傷であろうが、奇跡を見届けた彼の顔は何処か満足げでもあった。
「偶像は神を探る試みであると同時に、神を創る試みでもある」
黒ずくめの男が喋った。良く通る、野性味のある声音。感情を抑えた冷徹な瞳がクロトーネを見下ろしていた。
「コンピュータを使うアイデアは良かった。だが時期が悪かったな。俺の依頼人によると、もう一年遅ければ標的にならなかったそうだ」
クロトーネを即死させなかったのは、それを告げるためだったのだろうか。神に触れることを目指した男は何か言おうとしたが、口の端から血を零しただけで目を閉じ、動かなくなった。
黒ずくめの男は再びモニタールームに向かった。
「緊急用のデータ抹消機構がある筈だな」
独り言を呟きながらパネルを見渡し、目的のボタンを見つける。カバーを開き押すと、全ての端末が煙を吹き始めた。黒ずくめの男は懐から円筒形の装置を出し、テーブルに立てる。上部をひねって引くと、側面のデジタルパネルが光って『60sec』と表示した。押し戻してカウントダウンを開始させる。
「さて」
黒ずくめの男は懐から封筒を取り出した。黒塗りで中が見通せない。白文字の日本語で『秘密研究施設からの脱出法 必ず時限爆弾を作動させてから開封して下さい』と書かれている。唯一の通路であるエレベーターも破壊されており、まともな方法で地下百二十メートルから脱出するのは無理だろう。
黒ずくめの男は封を破って中の便箋を開き、目を見開いた。
『根性で頑張れ。 洲上天心』となっていた。
黒ずくめの男は円筒形の時限爆弾を確認する。既に残り三十秒を切っていた。
「糞っ垂れ」
黒ずくめの男は悪態をついた。
ツンドラの雪原上空でステルス飛行艇を駆っていた地獄坂明暗は、天体観測所を消し飛ばして光の柱が噴き上がるのを見た。強烈な光を浴びても地獄坂は目を細めはしない。続いて衝撃波が襲う。反重力機構を用いた全長八十メートルの円盤型飛行艇が激しく揺れる。クローン或いはアンドロイドの所員達も流石によろめいたが、地獄坂は司令室の床に直立して微動だにしなかった。
飛行艇の挙動が持ち直すまで三秒。その頃には光の柱は白い雲に変わり、巨大なキノコ状になって成長していく。
所員が報告した。
「水素爆弾の爆発です。五メガトンの威力と推定されます。爆心地は二キロ前方、地下百三十メートルから百五十メートルです」
「抹消されたか」
地獄坂は低く呟いた。欠片ほどの人間性も感じさせない、闇色の声。
「これで三度目になる。私が食指を伸ばす対象をどうやって察知しているのか。所員にスパイがいる筈もないが」
地獄坂の冷酷な視線を受けても、意志を持たぬ所員達は無表情に自分の作業を続けている。
「或いは、向こうに超能力者でもついているのか。まあ良い。今ある技術だけで充分に目的は果たせる。可能性のある技術を、奪わずにはいられなかった。それだけのことだ。研究所に戻るぞ」
地獄坂は言った。
操縦士は命じられるまで直進を続けていた。ステルス飛行艇はUターンして日本へと向かう。みるみる加速して音速を超え、亜空間の格納庫に帰還するまで十五分もかからなかった。
四
日本の首都である東京には、その内部に八津崎市という独立した市が存在する。都のほぼ半分の面積を占めながら、日本の中枢としての機能は全く果たしていない。税金がないため人の流入は多く、大企業が便宜的に本社を置くこともある。ただし、何処から給料が出ているのか定かでない市警察はあまりにも力不足で、毎月人口の約一割が増減するというその『減』の理由は殆どが殺人であった。
そんな超犯罪都市の人気のない裏路地にある、野菜畑に囲まれ蔓野菜に覆われた四階建ての探偵ビル。三階を占める紅本亜流羽探偵事務所で、四人の男がテーブルを囲んでかるた取りをやっていた。
奥の席に座る少年が気だるげに札を読み上げる。
「いつでも何処でもすぐ契約」
「ほい。あ、違ってら」
左の席の太った男がテーブルに並んだかるたの一枚を叩き、間違いに気づくと渋い顔で戻した。その札は棺桶に収まった死体の絵に『(し)死んで嬉しい契約者』となっていた。
「じゃあこれですな。っと違いました」
右の席にいる黒服の男が自信満々に手を出したが失敗した。長い舌の男がもう一人の男の肩に手を置く絵で、『(こ)交渉は舌先三寸で』となっていた。
「……。これです」
手前の席、屋内なのに傘を開く男が陰気に指差した。『(い)いつでもどこでもすぐ契約』の絵札はトイレの窓から上半身を乗り入れ書類を見せる男が描かれていた。
「はい当たり」
少年が右腕を伸ばし、人差し指の爪で絵札を弾いた。それは傘を差す男の前、獲得した絵札の山に見事に乗って停止した。
「お手つきの二人は一回休みね」
面倒臭そうに仕切る少年はこの階の主である紅本亜流羽だった。探偵の筈だがまだ十五才前後に見える。詰襟の学生服は何処の学校でも使えそうにない真っ赤な代物だ。細身で刃物のように鋭い印象を与える美貌に、その冷たい瞳はあらゆる対象を見下しているようでもあった。
小さな襟章は、蛙と猫が一本の剣で串刺しにされた精緻なデザインであった。
「ふうむ。全然勝てませんな」
腕組みして嘆息する黒服は、四階の事務所の主である黒贄礼太郎だった。テーブルのかるたは残り二十枚ほどなのに、彼の手に入れた札は三枚しかなかった。
黒贄の年齢は二十代後半から三十代前半に見えた。立てば身長は百九十センチを超えるだろう。筋肉隆々という訳でもないが骨格はがっしりしている。普段着にしているらしく略礼服はヨレヨレで、肘部分はテカついている。ネクタイはしておらず、ワイシャツには所々に赤い染みが残っている。自分で適当に切ったような黒髪。端正な顔立ちだが蝋のように白い肌は不吉な印象を与える。切れ長の目は眠たげで、薄い唇は常に何かを面白がっているような微笑を浮かべていた。その唇が動いて駄目押しの言い訳を唱える。
「まあ、かるた遊びなんて初めてですから仕方ありませんな」
「って最近毎日やってるじゃねえかよ。大将は本当に馬鹿で困るぜ」
黒贄の助手である太った男・スライミー藤橋が平気で上司を罵倒した。そんなことを言いながら自分が獲得した札は一枚だけだ。ブヨブヨと弛んだ肉体を青いビニール製の雨具で包み、靴も長靴だ。逆立った髪はやや疎らで、水面から顔を出す葦みたいに頭皮ごと揺れている。はち切れそうな丸顔に、瑞々しく柔らかそうな頬が光っていた。大きな丸い目に団子鼻、ふくよかな耳朶まで土台ごとずれていき、ふと気がついて元の配置に戻るということを繰り返している。この男の体はゼリーか何かで出来ているのだろうか。
「それにしてもいい加減飽きたぜ。畑の世話でもやってた方がましだ」
スライミー藤橋は大きく欠伸をした。その拍子に頭の輪郭が歪む。
「私は楽しんでますよ、この悪魔かるた」
二十数枚のかるたを手に入れた男は暗い笑みを浮かべた。一階の事務所兼墓の主である草葉陰郎。年齢は三十才くらいだろうか。灰色の地味なスーツも髪もすっかり濡れているのは、彼が座ったまま頭上に差した傘の裏地から、しとしと雨が降り続けているためだ。床には水溜まりが広がっている。草葉の椅子は他の三人に比べるとテーブルから離れ、自分のかるたにも直接手を触れなかった。かるたを濡らさない配慮か、それとも別の理由があるのか。
四つの探偵事務所が入ったこのビルは老朽化に余計な損傷が加わってボロボロだが、三階の紅本のフロアだけは素晴らしく、ヨーロッパの上流階級のような内装だった。テーブルも椅子もシックな高級品で、天井からはシャンデリアが吊られ、取りつけられたガラス細工がキラキラと光を反射させている。飾り棚には様々な種類の酒が並ぶ。壁に掛かった大きな絵は、地獄で悪魔達が人々を串刺しにしている不気味なものだ。その絵が部屋のデザインとぎりぎりのバランスで調和して暗い魅力を加えていた。
草葉は陰気に言葉を続けた。
「それに、今あちら側では大変なことになっているので、暫くは戻りたくないのです」
「ほう、人間は死んでからも色々あるんですねえ」
黒贄が感心したように頷いた。草葉は『大変なこと』の内容を尋ねて欲しいらしく、上目遣いにチラチラと他のメンツを見る。だがそんな気の利いた人物はここにはいなかった。
「やっぱ他のゲームにしようぜ。もう勝負は見えてんだしよ」
スライミー藤橋が言うと紅本は冷たく一瞥しながら提案した。
「ならババ抜きでもどう。ジョーカーにウランが混ぜ込んでる放射能ババ抜き。ずっとババ持ってると被曝するの」
黒贄が顔をしかめる。
「それはちょっと遠慮したいですな。放射能は体に悪いそうじゃないですか。私は健康にはうるさい方でしてね」
「大将はいっつも三袋百円のインスタントラーメンばっかじゃねえか。俺みたいに野菜を食わねえから客も来ねえんだよ」
スライミー藤橋の突っ込みは後半が意味不明だった。溜め息をついて紅本が続ける。
「後は期間限定契約ゲームがあるけど。取り敢えず何か契約して、一定期間以内に死んだら魂をこっちが貰うって奴。でもこの面子じゃ意味ないね。不死身の人とかもう死んでる人とか、魂に価値のない人とかじゃあね」
「そうそう、俺は不死身だしな。それにしても大将はひでえ言われようだぜ。大将の魂にゃ価値がねえってよ」
スライミー藤橋が雇い主をからかう。『魂に価値のない人』が自分のことだとは思い至らないらしい。
「ひとまずかるたを終わらせませんか。何事も中途半端はいけません。私みたいに儚いことになってしまいますから」
勝ちの決まっている草葉が言ったところでチャイムの音が響いた。
「お客さんだからこれで終了ね」
せいせいした様子で紅本が指を鳴らした。テーブルの上のかるたは煙を発して全て消えてしまった。手の中の一枚も同じことになって火傷したと思ったか、スライミー藤橋は「オワッチッチッ」と悲鳴を上げた。
紅本はテーブルを離れ、入り口のドアを開ける。あまり嬉しそうでもないのは来客が誰か分かっているのだろう。
「よう、クロちゃん、やっぱこっちだったな」
片手を上げて挨拶したのは三十代後半のくたびれた男だった。スーツはアイロンがけした後でわざと一旦丸めたような不自然な皺がつき、外したネクタイがポケットから垂れている。短めの髪。綺麗に剃った顎を何故か寂しげに撫で、男の目はやる気のなさを通り越して死んだ魚のようだった。
「おっ、署長さん、お仕事ですかな」
クロちゃんと呼ばれた黒贄は笑顔を見せるが、訂正することも忘れない。
「ただ、私の名前は『くらに』ですから『クラちゃん』ですよ」
「分かってるさクロちゃん」
八津崎市警察署長・大曲源は平然と返す。このやり取りは年中行事になっているらしく、黒贄も怒ったりはしない。
「上にいなかったからこっちを当たってみたんだが、新しい事務所が入ってるんだな」
ドアが閉まる前に、大曲の背後で婦警が階段を上っていくのが見えた。若い警官が折り畳んだ荷物を抱え、婦警に従っている。
荷物は、軍用の対物狙撃銃だった。
「そうなんですよ、賑やかになったでしょう。新しい探偵さんをご紹介しますよ。ええっと……どなたでしたっけ」
黒贄から大真面目に尋ねられ、紅本は不機嫌に口元を歪めた。
「どうせあなたはその程度だと分かってるよ。僕は紅本亜流羽。ちょっと今日は少年」
「そりゃどうも。よろしく」
また片手を上げて適当に挨拶を返し、空いたばかりの席に勝手に座ろうとする。だが紅本が風のように素早く戻り、自分の椅子に滑り込んだ。仕方なく大曲は壁際に立つ。
「おや、いつものように契約をお勧めしないんですかね。悪魔探偵ともあろうお人が珍しいですな」
黒贄が不思議そうに言うと、紅本は冷たく首を振った。
「無価値な魂は頂いてもしょうがないし。ただ働きなんて僕は御免だね」
「ふうん。悪魔探偵さんか。しかし俺は自分の命が二束三文だと思ってたが、魂まで無料とは知らなかったな」
大曲は苦笑して、雨の降る傘を持つ男に漸く目を向けた。
「そちらはまたどなたさんかな。そこだけえらく湿っぽいが」
「一階の事務所の主です。草葉陰郎と申します」
傘の下の顔は注目されて少し嬉しそうでもあった。
「ああ、墓のね。クロちゃんに会うためここにはたまに顔を出してたが、あんたとは初対面かな」
「享年三十一です。よろしければ私の墓に線香をあげてやって下さい。お供えも頂ければありがたいのですが」
「ふうん。線香あげたら何かご利益あるのかな」
「……。いえ、特に」
「ならやめとこう」
大曲はあっさり切り捨てて、棚に並ぶ酒瓶を吟味し始める。
「おっ、ロマネコンティまであるな。いいかな一杯」
「お断り。それは契約する顧客のためのものだから」
紅本が即答する。大曲は肩を竦めた。
「なら自前の安酒で我慢するか」
シャツをまくり上げ、四角い切れ込みのある腹部を露出させる。端の摘まみを持って開けると内部は小物入れになっていた。大曲はそこからウイスキーの小瓶とビーフジャーキーを引っ張り出した。
大曲の体内からは微かなモーター音が洩れていた。腹部の皮膚も右手も首筋も、肌に似せた人工樹脂だ。彼の肉体のほぼ半分は機械部品だった。
「いいんですか署長さん。仕事の依頼なのでは」
本題に入らぬ大曲に黒贄が突っ込みを入れる。
「いや、それがまだ時間じゃなくてね。まず事件が起こるようになってるらしい。取り敢えず正午にはテレビつけといてくれって。そういやクロちゃんとこはテレビなかったか」
大曲は安物のデジタル時計で確認した。正午まで後六分だ。
「あ、それと今屋上借りてるから」
「なっなにいっ。貴様、俺様の野菜を盗むつもりかあっ」
スライミー藤橋が途端に目を剥いて怒声を張り上げた。探偵ビルの屋上から壁面まで使い、蔓野菜を育てているのだ。しかし浮かせた腰は襲いかかるためでなく逃げる準備のようにも見える。
大曲はあっさり首を振った。
「いや野菜は要らん。迎撃に使うだけでね」
「ほう、何を迎撃なさるんですかな。借金取りとか」
黒贄が尋ねたところで屋上から重い銃声が響いた。ただ一発。
「へえ。いい腕だね。一発で仕留めた」
何が起きたのか分かっているらしく、紅本亜流羽が感心した様子で呟いた。
やがて遠くで轟音。建物がビリビリと震動する。何かが地上に落下したか、爆発したのか。
『仕留めた』らしいのに銃声がまだ続いている。近くでもコンクリートの砕ける音や誰かの悲鳴が聞こえた。十数発で漸く銃声はやんだ。
両耳を押さえ、全身をプルプル震わせながらスライミー藤橋が叫んだ。
「何だ何だ、いきなりよう。そうか、俺の命を狙ったんだな。地上最強の俺様の命を狙ったんだな。そうだろうっ」
「いや全く全然丸っきり違う。なんかこっちに戦術核ミサイルが飛んでくるって話でな。うちの副署長に撃ち落としてもらった。多分爆発もしてないだろ」
ウイスキーの瓶を開けながら、大曲は容赦なく徹底的に否定する。
「ほほう、うちの事務所も核ミサイルで狙われるくらい有名になってしまったんですなあ」
黒贄が喜んでいる。
再びチャイムの音が響いた。紅本が「どうぞ」と指を鳴らすと自然にドアが開いた。席を立たなかったのはその隙に大曲に座られるのが嫌だったのだろう。
「戦術核ミサイルの迎撃完了しました」
手刀で人の首でも折れそうな鋭い敬礼を済ませ、八津崎市警察副署長森川敬子が大曲に報告した。
「お疲れさん。一発で仕留めたみたいだが、後の銃声は」
「弾が余りましたので、適当に一般市民を射殺致しました」
森川は当然のように答えた。年齢は二十代後半であろう。ストッキングに包まれた肉感的な太股と豊かな胸元を見せつける大胆なカットの制服で、鰐革の太いベルトには二つのホルスターが吊られていた。右に収まっているのはオートマチック、左はリボルバーだ。制服の色に合わせた青いハイヒールの先端は、人を殺せそうなほどに鋭く尖っていた。
制帽が斜めに載った髪はショートカットで、両耳のピアスには本物の弾薬を使ったアクセサリーが下がっている。凛とした美貌は清楚さではなく、何処か禍々しい酷薄さを感じさせた。オレンジ色のシューティンググラスの奥で、常に相手を品定めしているような瞳。口紅は血のように赤く、マニキュアも赤いが爪は短かった。射撃の邪魔にならぬようにだろう。
森川の後ろに長身の若い男が従っていた。一切の脂肪分を削ぎ落とした筋肉の隆起が皮膚の上からでもはっきり区別出来る。オリンピック選手も裸足で逃げ出す見事な肉体だった。そして男は裸足だった。衣服は太股までしかないボロボロのズボンだけで、警察官の制服であったことが辛うじて分かる程度だ。拳銃は携帯していない。重い対物狙撃銃を右手に抱え、左手にはハルバードと呼ばれる武器を握っている。槍の穂先の手前に斧がくっついたような代物で、かなり使い込んだらしく刃と長い柄に古い血が染みついていた。
男は太い鎖を噛んでいた。鎖は輪になって首の後ろまできつく回されている。見開いた目は瞳孔も散大し、ここではない別の世界を覗いているようでもあった。男の頭部は、額の高さから上が存在しなかった。おそらく脳の大半が失われているだろう。その場所を代わりに陣取っているのは十六ポンドの赤いボウリング球だ。転げ落ちないようにガムテープで留めてある。
男は殺人鬼警察官・城智志であった。
目を細めて暫く城を観察し、遠慮がちに黒贄が言った。
「ええっと。お名前は忘れてしまいましたが、ちょっと見ないうちに随分変な方向に成長なさったようで……」
「ああ、これね。無駄口を叩いてばかりだったから改造したの。ボウリング球を外すとすぐ脳が再生してしまうから、つけたままにしてるわ。荷物持ちにはこの程度で充分だしね」
立てた親指で背後の城を指して森川が答える。噛ませてある鎖はどうやら猿轡ということらしい。
「はあ、そうですか。……いや、独自路線というのはいいですよね。仮面でもなく奇声もなく、うむ、実にいいことですよ」
黒贄は何故か安心したように何度も頷いた。
奇妙な探偵達を見渡して、赤い唇を自負に緩めながら森川敬子は告げた。
「少しは感謝して欲しいわね。私がいなければあなた達は一瞬で跡形もなく蒸発してたわよ」
黒贄が言った。
「いえ、お気持ちはありがたいのですが不死身なので大丈夫です。大切な凶器のコレクションが無事だったのは感謝しますよ」
紅本が言った。
「別に消えてもまたすぐ作れるから、どっちでも良かったけどね」
傘の下で雨に濡れながら草葉が言った。
「元々死んでいるのでこれ以上死にません」
同席者達の台詞に張り合って、スライミー藤橋が反撃の恐怖に震えながら小声で叫んだ。
「お……俺様は不死身だっ」
ビキッ、と、森川のこめかみに青筋が浮き上がった。両手の指が腰の拳銃に伸びかけてピクピク動いている。雰囲気を察したか、後ろで城が対物狙撃銃の二脚を立て始めた。
「まあ、ミサイルが爆発してたら俺は死んでたけどな」
大曲のやる気なさそうな一言で少し救われたらしく、森川は拳を握ってホルスターから遠ざけた。彼女は上司に信頼されていると解釈したかも知れないが、実際のところ大曲は自分の生死などどうでも良かったのだろう。
「外したら被害があったかどうかは置いといて、腕はいいよね」
紅本はブリーフケースをテーブルの上で開き、一枚の書類とペンを取り出した。
「取り敢えずサイン貰えるかな。僕と契約したら、筋力もスピードも神経の反応速度も十倍にしてあげるよ」
「うるせー、ガキの助けなんか要るか」
折角鎮まりかけていた森川が暴発した。抜き撃ちに発射されたオートマチックの弾丸は、紅本の額に赤い穴を開けた。
と、紅本の全身が破れた浮き輪のようにみるみるしぼんでいき、ポンッ、と跡形もなく消えた。
同時に右奥のドアが開き、紅本亜流羽が元通りの無傷な姿で登場した。
「無事でしたーっ」
マジシャンのように会心の笑みを湛え、両腕を差し上げて拍手をねだる。黒贄とスライミー藤橋が大喜びで手を叩き、草葉も傘を片手に陰気な拍手を送った。大曲もジャーキーを噛みながら適当に拍手する。森川はあっけに取られていた。城は対物狙撃銃を床に設置したものの、使ってもらえないためまた畳み始める。
「おっと、そろそろ正午だな。どっかテレビないか」
大曲が言うと、紅本が学生服のポケットからリモコンを出した。正面の戸棚が自動的に開き、大型のプラズマテレビがせり出してくる。電源を入れると丁度正午で、昼のバラエティが始まるところだった。
いや、突然画面にノイズが走り、砂嵐になったかと思われたところで薄暗い室内が映し出された。
五
最初は物音一つしなかった。音声情報がないのかと思わせるほどに。テレビのスピーカーのホワイトノイズだけが微かに流れている。
床は赤だった。壁は黒だろうか。中央に高い背もたれの椅子がある。カメラとの距離は五メートルほどか。椅子に座る人影。全体的に暗い色彩で、人形のように身じろぎもしない。
沈黙と無動の数十秒が流れ、そして一分を経た時、人影が片手を軽く上げた。
画面が急に明るくなった。スポットライトに照らされ椅子と人影が浮かび上がる。
それは玉座に腰掛けた黒衣の男だった。
玉座は黒と赤、金と銀の装飾が微妙に変形して崩れたデザインとなっている。男は両足を組まずに垂直に下ろし、緩く握った拳を膝に載せていた。背筋を伸ばし、完全に左右対称な姿勢はマネキンのようだ。
男は薄手のロングコートの前を合わせていた。そのコートも含め、ズボンも靴も手袋まで全てが漆黒だ。真ん中分けの髪も漆黒だった。肌は艶がなく不健康なものだ。やはり漆黒の瞳がカメラを通して視聴者を見据えていた。
その唇が機械のように動き、冷たい悪意を声音に変えて吐き出した。
「私は地獄坂明暗だ」
瞬きもせず、次の台詞を紡ぐまでにまた数秒かかった。
「この放送はあらゆる当地言語に自動翻訳し、全世界の全ての局を電波ジャックして流している。宇宙の二大勢力であるポル=ルポラとアンギュリードにも、また、アルメイルを含め、現在アクセス可能な異世界の住人にもこの放送が届くようにしてある。精神体でしか存在出来ない百十六層の冥界にもあらゆる手段を用いてメッセージを届ける手配をした」
また数秒の間。地獄坂以外の気配はなく、映像に変化もない。
「人として、男として生まれた者は、ほぼ全員がある欲望を抱く。女にも、或いはホモ・サピエンス以外にも同じ欲望を抱く者は多いだろう。……即ち、『自分が一番でありたい』という欲望だ。自分が世界最強でありたい。自分が最も偉大な人物でありたい。世界の全てのものを独占したい。他人を差し置いて最高の快楽を食らい尽くしたい、と」
感情の篭もらぬ声で地獄坂は続ける。
「だが君達は諦めた。生育の過程で君達は自らの限界を知り、妥協し、目標をすり替え、欲望を誤魔化して偽りの安寧を得た。それを君達は『大人になった』と呼び、本来の欲望を捨てきれぬ者を『幼稚』と評して蔑む。……だが、幼児期の純粋な欲望こそが、人間の根源であり本質的な目標なのだ。この世に生を受けたからには、究極を目指すべきなのだ」
地獄坂の漆黒の瞳。その底知れぬ闇の奥で何かが動いた。
「私は、諦めなかった。私は究極の、更に究極を目指した。一番でありたいと望む、その自己顕示と満足の最高の到達点は何処にあるだろうか。全世界を支配する独裁者か。世界平和を実現し誰からも畏敬される聖者か。力は必要だ。腕力であれ知力であれ、最強の力は最低限の条件だ。だがその力をどう使うべきか。私は考えた。私は長い年月をかけて、考え続けたのだ」
無表情に語る瞳の闇から滑り出たのは、情念という名の黒い蛇だった。
そして地獄坂は言った。
「究極の欲望とは、滅亡に瀕した世界を救うか、世界を完全に滅亡させることだ、虚しい」
ピクリ、と膝の上の左手小指が動いた。
「世界を救う。それは少年男子であれば誰もが夢見ることだ。しかし問題は、世界を救っても、それは人類の歴史上では最高でないかも知れないということだ虚しい。私がもし世界を救済したとしても、数十年或いは数百年後に再び世界は滅亡の危機に瀕し、別の救世主が現れるかも知れない。私の偉業は彼らと横並びとなるか、場合によっては下に置かれることになる。それでは最高にはならない虚しい。その程度の偉業では私は満足出来ないのだ。では世界を滅ぼす方はどうか。完全に滅亡させてしまえば、私が世界を終わらせた男となればそれは唯一無二であり究極の行為になろう。歴史自体も消滅し、私の行為を記憶する者も存在しないことになるが虚しい、私は究極の満足と共に消え去ることが出来る。ただしそれは完璧でなければならない。僅かでも世界に回復の可能性を残してしまえば虚しい、いずれ歴史が再開されてしまい私は最高ではいられなくなるかも知れない。この宇宙だけでなく他に数え切れぬパラレルワールドが存在することを私は知っている虚しい。その全てを回復不能なまで完璧に消し去る必要があるのだ。私はその力を虚しい手に入れるためにも多大な歳月を費やした」
地獄坂の両手の指が小刻みに震えている。その震えは次第に腕へと伝わっていく。
「虚しいしかし、救いと滅ぼし、どちらがより最高かということになるとやはり救いの方なのだ虚しい。私はこれ以上なく虚しい完全に世界を救う方法がないかとも考えた。そのためには虚しい最高の落差が必要になる。究極の悪の手によって救いようのなく滅亡に瀕した世界を私の力だけで救済し、幸福に満ち満ちて欠片ほどの苦痛も苦悩も不安もない永遠に完璧な世界を創り上げねばならないのだ。……しかし虚しいここに、最大の問題があった。この現代のあらゆる世界において、世界を滅ぼそうとする究極の悪が存在しなかったのだ」
いつからか地獄坂の台詞に混じってカタカタという音が聞こえていた。地獄坂の震えが全身に広がり、玉座も一緒に震動しているのだ。
それでも無表情と抑揚のない声音を保ち、地獄坂は喋り続ける。
「究極の悪は存在しなかったのだ。虚しい虚しい悪人は多い。芯から邪悪な人間も存在する。だが、世界を滅ぼすだけの力と意図を持つ、究極の悪は存在しなかった虚しい虚しい虚しい。私は探し続けた虚しい虚しいが、ついに見つけることは虚しい出来なかった虚しい。そのため虚しい、私の虚しい選択は虚しい運命づけられてしまった虚しいとも言える虚しい」
地獄坂の震えがひどくなった。ついには玉座から立ち上がり両手をバタつかせ始める。
「虚しい虚しい虚しい。虚しい虚しい」
メギッ、と、地獄坂の首が後ろに反り返った。後頭部が背中につきそうな角度だった。メチメチメチ、と更に胴がえび反っていき、人間の限界を超えた軟体ぶりを見せつける。
「虚しい虚しい、虚しい虚しい虚しい虚しい」
頭が自分の尻についたかと思ったら通り過ぎて股間から顔を出した。ビキメギと更に進み、後頭部が自分の腹につくという絶技を見せた。背骨はどうなっているのか。
「虚しい虚しい虚しい」
呼吸も出来そうにないのに地獄坂は同じ調子で同じ台詞を繰り返し続けた。両腕はまだバタついている。足が屈伸して、えび反り一周で頭を自分の腹につけた彼はその場でスクワットを始めた。滑稽な動作が不気味さを際立たせていた。
画面端から別の黒衣が登場した。無表情に地獄坂へ歩み寄る男は注射器を持っている。
「虚しい虚しい」
地獄坂が跳んだ。一瞬画面から消え、ドスンという重い音がしてすぐ戻ってくる。天井をバウンドしたらしい。次は右横へ跳ね、また左へ通り過ぎて右斜め上へ。画面内を地獄坂が跳ね回る。注射器を持った男は地獄坂を視線で追うが近づくことが出来ない。
「虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい」
壁や天井に激突を繰り返すうち、地獄坂の体はえび反りのまま手足が折れ曲がって肉団子のようになっていた。それでも何処の筋肉を使っているのか跳ね回るスピードは変わらない。
「虚しい虚しい虚しいむな」
グワシャアッ、と地獄坂の肉団子が男に激突した。男がバラバラになって四散する。その肉体は機械部品で占められていた。
「虚しい虚しい……むっ」
肉団子が跳ね回るのをやめ、ビチビキと音をさせて手足と背筋を伸ばしていった。我に返ったのは、偶然男の持っていた注射器の針が地獄坂に刺さり、中身が注入されたためだ。
元通りになった地獄坂は何事もなかったかのように再び玉座に腰掛け、カメラに向かって告げた。
「念のため言っておくがこの所員はアンドロイドだ。独自の意思は持たず、私がプログラムした行動しか取らない。つまり、計画し、実行しているのは紛れもなく私一人なのだ。では、本題に入ろう」
地獄坂はふと斜め前を見た。自分の演説がちゃんと流れているか確認したのだろうか。
そして、地獄坂は宣言した。
「私は世界を滅ぼすことにした」
やはり彼は無表情であった。それでも、全てを焼き尽くそうとするかのような情念は視聴者に伝わっただろう。彼らは悟った筈だ。地獄坂明暗は、本気なのだと。
「あらゆる世界を消滅させ、あらゆる魂と意識の存続も再生も不可能にする。私はそれだけの力を持っている。キリスト教或いはユダヤ教においては、神は七日で世界を創ったとされる。実際は六日で創造し、一日休息したことになるが、合わせて七日と解釈しよう。故に、私が世界を滅ぼす際にも七日の猶予を与えよう。これから七日後の正午に私は世界を滅ぼす。もし私の目論見を妨害して世界を救おうとする者がいるならば、遠慮なくかかってくるがいい。妨害されることを怖れ、急いで滅ぼしたなどと思われては究極になれない。私の強大な力で、勇者共は残らず叩き潰してみせよう。私の居場所は日本の東京都、八津崎市だ。今から三十秒以内に私の城が実体化する。……。以上だ」
最後の言葉を素っ気なく告げ、地獄坂は再び彫像のように動かなくなった。そして明かりが落ちて暗い輪郭だけになる。
やがて、画面にノイズが走り、本来のバラエティ番組に戻った。出演者達が異常事態にも平然と会話していることで、生番組でないことがばれてしまった。
六
「ふうん」
地獄坂明暗の全世界完全滅却宣言を聞いた後の、大曲源の感想がそれだった。小瓶のウイスキーを少し飲んでから黒贄礼太郎に言う。
「と、いうことでクロちゃん、後は頼むわ。ちょっと世界の滅亡を阻止してきてくれ。報酬は五万円ね」
黒贄は暫し絶句した後、なんとか言葉を絞り出した。
「ええっと……まあ、ううむ……いや、その……世界を救うにしては、ちょっと報酬が少な過ぎやしませんかねえ。いや別に欲張ってるつもりはないのですが、私にも生活というものが……」
「世界が滅んじまったら生活も糞もないだろ。ま、奮発して五万五千円だな」
「いや、せめて十万円くらいは……」
「うーん。じゃあ六万円」
二人は不毛な交渉を始めた。
「とうとう俺の出番が来やがったか」
スライミー藤橋は興奮して立ち上がったが、すぐにカクンと膝が折れて床に蹲り、泣き出してしまった。
「あああ滅んじゃうよう。誰か助けてよう」
体形が崩れて平たくなっていく。彼の勇気は二秒しか持たなかったようだ。
「いよいよこの時が来ましたね。思えば霊界の騒動は予兆だったのかも知れません」
雨に濡れながら草葉陰郎が呟いた。誰かに問い質して欲しかったのだろうが、やはり彼の話を聞いている者はいない。
紅本亜流羽はブリーフケースを閉じて立ち上がった。リモコン操作でテレビも棚の中へ引っ込める。
「さて。大きなイベントだから契約する客も増えるかもね。じゃ、お先」
客達を放って紅本はさっさと事務所を出ていった。契約しても世界が滅べば無意味になるのに、深刻に受け止める様子もないのは滅亡しないと考えているのだろうか。
主のいなくなった隙を狙い、大曲は報酬額交渉を中断して飾り棚の高級酒に手をつけようとした。だが棚はガラスごと急速に白くなっていき、完全な石になってしまった。壁紙もシャンデリアもテーブルも、リモコンさえも同じ運命を辿り、紅本亜流羽の探偵事務所内は丸ごと石化した。不在時の泥棒対策か。或いは元々石であったものを接客のために変質させていたのかも知れない。
来客以外で石化していないのは、壁に掛かった地獄絵だけだった。捕らえた亡者を串刺しにして喜ぶ悪魔達の絵は、迂闊に触れると本物の地獄に吸い込まれそうなリアリティを備えていた。
武者震いをしている者が一人。森川敬子の目は悦楽のあまり裏返りかけ、ピクつく両手は景気づけにいつ拳銃を乱射し始めてもおかしくない状態だ。
「凄い。凄い獲物が来たわ。すぐ撃ち殺しに行かなくちゃ」
赤い唇を舐めて呟いたところに背後でギョギィッと金属の曲がる音がした。城智志が再び対物狙撃銃を設置しようとして、間違って銃身を曲げ折ってしまったのだ。
振り向いた森川のこめかみにまたもや血管が浮き上がっていった。「むがむあ」と弁解を試みる城の体に二挺拳銃の弾丸が叩き込まれていく。
虐待される城智志を見て、黒贄はちょっと寂しげに溜め息をついた。
「まあ、殺人鬼の人生も、色々ですからねえ……」
銃声に外からの爆発音が重なった。更にはピシリ、シュピッ、という空気を裂くような不思議な音。何処かの建物が倒壊する地響きも続く。
「おっ、早速ドンパチが始まったかな。じゃ、クロちゃん、報酬は先払いしとくから」
大曲は財布から掴み出した紙幣を黒贄の胸ポケットにねじ込んで、紅本事務所の石化した窓を押し開けた。黒贄は貰った報酬を確認する。
一万円札が五枚と、千円札が三枚だった。
窓から外を覗き、大曲が言った。
「ドンパチじゃなくてピカピカだな。なんかUFOがえらく飛んできて空襲してるぞ」
大曲の言葉通りのことが起こっていた。晴れた空を数千、或いは万を越える光源が乱舞している。光に包まれた円盤型の宇宙船と、葉巻型の宇宙船。ポル=ルポラとアンギュリードの二勢力が入り混じり、地上のただ一点を攻撃している。
高層ビル群の頭を余裕で超え、いつの間にか巨大な建造物がそびえ立っていた。市役所のある中心地区や血乃池のオフィス街からは離れ、泥舟町或いは無間町辺りだろうか。
建造物の幅は百メートル、高さも五十メートル以上ありそうだ。地獄坂の『城』であることは間違いないのだが、上に向かって少しすぼまった円柱形は巨大なプリンと表現した方が良さそうだった。艶のない黒い壁はおそらく金属だと思われるが素材は不明だ。壁にも屋根にも余計な突起物や凹凸はなく、窓もなかった。ただ一つ、『ハルマゲドン・キャッスル ARMAGEDDON CASTLE 地獄坂明暗 JIGOKUZAKA MEIAN』と描かれた大きな黒い旗だけが平らな屋根の中央にはためいていた。
そんな異様な『城』へ二大勢力の宇宙船が光線を浴びせている。白と黄色の光線に、稲妻のようなジグザグの光線。また、霧のようにゆらゆらと落ちていく紫色の光もあった。
これまでの着弾数は数十万発に及ぶだろう。その攻撃の全てが黒い壁に吸い込まれただけで、何の反応も引き出せなかった。底なしの闇に呑まれたように。天辺の旗も風にそよぐだけだ。
「一番が好きな奴が、意外に低い城だな。東京タワーにも負けてる」
ビーフジャーキーをクチャクチャ噛みながら大曲が言う。
「ああ、そうか。分かった。前にエクリプスが高いとこから見下ろすのをやっちまったからな。二番煎じと思われたくなかったんだろう」
と、巨大な黒いプリンから瞬時に黒い棘が飛び出した。針鼠のように伸びた無数の棘はあっけなく宇宙船を貫き破壊した。棘に触れなかった宇宙船もフラフラと挙動がおかしくなり、次々に墜落していく。
「ふうん。凄いな。キンチョーの蚊取り線香みたいに敵がポトポト落ちてくぞ」
大曲は隣に立った森川敬子を見やった。彼女は黒プリンを睨んで唇を噛んでいた。宇宙人も歯が立たない標的に、両手の拳銃はあまりにも無力だ。
「もっと良い武器を持ってきます」
森川は駆け出した。膝をついていた城智志をついでとばかりにピンヒールで蹴り刺してから階段を下りていく。
「ふぐあう」
城は慌てて立ち上がり、ハルバードを持って後を追った。筋肉によって押し出された数十個の弾丸が床に転がっていた。二重構造で破壊力と貫通力を両立させた特殊弾丸だったが、城には全治五分ほどのダメージしか与えられなかったようだ。
その頃には空を飛ぶものはなく、宇宙船の墜落により方々で煙が昇っていた。時折大きな爆発が町を震わせ、人々の悲鳴と歓声が渦になっていた。
「あー、いいもん見た」
不謹慎過ぎる感想を述べて大曲が室内に首を戻した。石の窓を閉めるとギゴリと嫌な擦れ音がした。
「それにしても宇宙人がいたとは知らなかったが、意外に弱かったんだな。あっけなく全滅しちまった」
草葉陰郎がここぞとばかりに口を出す。
「地獄坂は宇宙人も捕獲していましたから、彼らの科学技術も入手済みなのでしょう。しかし科学などでは太刀打ち出来ないものが存在するのも事実です。今霊界を騒がせているあの人物なら、役に立ってくれるかも……」
しかし、彼の陰気な小声を誰も聞いてはいなかった。
世界を救う仕事の僅かな報酬を渋々空の財布に収め、ふと思い出したように黒贄が言った。
「そういえば、うちのビルにミサイルが飛んできたのは何だったんでしょうな。もしかして地獄坂さんの挨拶代わりとか」
「おっと、そうだ。まだ指示が残ってた」
大曲は懐から封筒を幾つか出してテーブルに置いた。表に『最初に読んで下さい』と書かれたものは既に開封されていた。
『テレビを観た後で開封して下さい』となっている封筒を取り、上端を右手人差し指と中指で挟んで滑らせると綺麗に切れた。義手である指の股にカッターが仕込まれているらしい。中の便箋を抜き、開いてみる。
「んーっとな、ちょっと違うって」
「ほう、何が違うんでしょう」
「気にするなってさ」
「ほほう、何を気にするな、と」
「分からん」
大曲は便箋を黒贄に見せた。
本文はただ二行だった。『ちょっと違う。』と『気にするな。』だけ。そして下の方に『洲上天心』という署名があった。
「おっ、あの洲上天心さんでしたか」
黒贄が納得顔で頷いてみせる。
「クロちゃんもこいつのことは知ってたか」
「いえ、実際のところ全然知りませんな」
黒贄は満面の笑顔で答えた。得意の台詞が言えて気を取り直したようだ。
「あの、スナッフ番組企画の一件で、洲上天心の名前は聞いた筈ですが……」
草葉の突っ込みは彼らの耳には届かない。大曲が説明した。
「この洲上天心ってのは予知探偵と言われててな。うちにもたまーに手紙が届くのさ。役に立つかどうかは別にして、予言はきっちり当たってる。ここに核ミサイルが撃ち込まれるってのも正午にテレビつけろってのもこいつの指示さ」
「ふうむ。便利な探偵さんもいるものですなあ。私のために宝くじの当たり番号を予知してくれれば暮らし向きも向上するのですが。いやそれは置いといて、今回の事件についても何か素晴らしい助言が届いてるんですかね」
「素晴らしいかどうかは知らんが次の封筒はこれだな」
それは『剣里火と会ってから開封して下さい』となっていた。二階の事務所の主のことだ。
「てっきりここにいると思ってたんだが」
「剣さんは他の世界に行ってまして、暫く帰ってませんな。私の勘では後二十年くらいは戻ってこないと思いますね。……と、いうことで、開けてみませんか」
黒贄は興味津々で封筒に手を伸ばす。
「そうだな。予知探偵なんだから剣がここにいないことも予知しておくべきだったよな」
大曲が封筒を取り上げ、また義手のカッターで開いて便箋を引き抜いた。黒贄も覗き込む。
『ちゃんと指示を守れ、ボケ。 洲上天心』となっていた。
「いやはや……これは、凄い予知能力ですな。意味があるかどうかは知りませんが」
黒贄はそこで、何かに気づいたように室内を見回した。
「ありゃ、私の助手は何処に行ったんですかね」
「溶けて流れていきました」
草葉が陰鬱に微笑んだ。幽霊探偵が長く居座っていたせいで、事務所の床は水深数センチほどになっていた。
「じゃ、取り敢えずクロちゃん、後は頼むわ。くじも上で引いといたから」
大曲は折り畳んだ小さな紙片を黒贄に渡すと、ジャバジャバ水を散らして去っていった。