第二章 導かれた訳でもなく選ばれてもおらず勝手に集まった者達

 

  一

 

 それが宇宙を漂うようになって、どれだけの月日が流れただろうか。

 それは第三宇宙速度を超えて大気圏を突破した。地球の引力を振り切り、月を横目に通り過ぎた。火星、木星を眺め、土星、天王星と続いてとうとう太陽系を脱出した。

 太陽光線の直射に焼かれ、太陽から離れるにつれて今度は全ての細胞を凍らせていった。一個の石塊と化したそれを死んでいると断ずることも出来るだろう。ただしそれは思考とも呼べぬほどの単純で、且つ強靭な意志を持ち続けていた。

 そこへ、地獄坂明暗の声が届いたのだ。

 全世界完全滅却宣言は出来る限り多くの相手に伝えるため、思念波としても放射されていた。僅かでも知的生命体のいる可能性がある、宇宙の隅々まで。

 史上最大最後のイベント告知を受け、意志が動き出した。漂流軌道が微妙に変化する。

 それはUターンした。来た道を戻りながら少しずつ加速していく。全細胞が凍結したままどうやってそんなことが可能なのか。新たな引力が発生したとでもいうのか。

 その引力とは、愛、なのだろうか。

 加速はどんどん強まっていく。人類の打ち上げた宇宙ロケットよりも速く。科学を超え、更には光の速さへ近づいていく。

 彼方に太陽が見える。土星の輪の横を過ぎ、巨大な木星の引力にも負けず、目的地である青い惑星へそれは向かっていた。

 その凍りついた目は、大気圏外を飛び交う数万発の核ミサイルを見ることが出来ただろうか。全ては地球上のただ一点を目指していた。広大な太平洋の端に浮かぶ小さな島国。更にその中央にある東京へ。

 核ミサイルが次々に消滅するのが見えていたとしても、それは何も感じなかっただろう。それの意志は地球の馬鹿騒ぎ自体とは関係ないのだ。

 それは大気圏に再突入する。太陽光線で解凍されかけていた細胞が、摩擦熱により一気に焼けていく。流星となって落ちながら、その肉体は生物学的限界を無視して活動を再開した。大量の宇宙線を浴び変質した細胞が猛スピードで再生を遂げ、本来の姿に近づいていく。

 それは八津崎市内の大通りに落ちた。アスファルトをぶち破って盛大に土を散らす。ちょっとした爆発となったが注目する者はあまりいなかった。いつもの喧騒に巨大黒プリンの見物客とドサクサ紛れの強盗が加わり、大混乱になっていたからだ。

 穴の中から人間の腕が伸びた。血色の良い、丸太のような太い腕だ。アスファルトを掴み、のっそりと裸の全身を現していく。筋肉で膨れ上がった二メートル近い巨漢。頭はツルツルに剃り上げ、いや再生してそれなら禿げ上がっているというべきか。荒削りな顔立ちに不釣合いの小さな目は、大いなる歓喜に見開かれている。

 男の体には傷一つなかったが、額には『101』というタトゥーがくっきりと刻まれていた。それが男の存在証明であるかのように。

「カーズは戻ってこなかったが、俺はちゃんと戻ってきた。役割を果たすためにな」

 人間凶器・大谷五郎は誇らしげに呟いた。銃を乱射しながら走ってきたバイカーをラリアットで落とし、彼は悠然と服を剥ぎ取り始めた。

 

 

  二

 

 三万四千百五十六発の核ミサイルを破壊したのはポルルポラ星人から奪った科学技術だった。時空を歪め、標的の動きを停止させてから狙い撃ちにするというものだ。あらゆる物理現象を遮断する防御機構はアンギレド星人から奪った技術で、今のところ発動の機会がない。

 その宇宙二大勢力の空襲を防いだのは、攻撃を別の空間へ転送する太古の魔術に改良を加えたものだった。彼らの電子機器を狂わせる電波は独自に開発した。技術には必ず裏を掻く手段が存在する。

 宇宙人と地球各国の攻撃が一段落したところで地獄坂明暗は黒い腕時計を確認した。午後一時五十三分。

「うむ。地球の科学兵器は問題にならない。ポル=ルポラとアンギュリードは最終兵器の使用を決断するだろう。ポル=ルポラの科学は九十八パーセント、アンギュリードの科学は九十五パーセントまで把握しているが、完璧ではない。しかし私はあらゆる系統の技術を持っている。一つの理論体系が無効なら別の体系を用いればいいだけのことだ」

 地獄坂は自分に言い聞かせるように呟いた。彼の言葉に感情を動かしたり意見を述べられるような部下は存在しない。

 巨大な黒いプリンのようなハルマゲドン・キャッスルは地獄坂研究所の一部を改装したものだ。最上層中央部にある玉座の間は前半分が司令室と化し、数百台のモニターが壁一面に並んでいる。百名を超える黒衣の所員は地獄坂自身のクローンに脳の部分除去を施したものかアンドロイドで、地獄坂の命令を機械的にこなすだけの存在だ。玉座に座る地獄坂の前にカメラが並んでいる。必要とあればすぐにでも電波をジャックして新たな宣言を放映可能だった。

「完璧ではない。私は貪欲に知識を吸収したが、全てではなかった。完璧には揃わなかった。残念ながら。虚しい」

 地獄坂は無表情に呟いた。所員達は黙々とパネルを操作している。

「私は幼少の頃、世界に存在する全ての書物を読み尽くす予定だった。宇宙に存在する全ての星を訪れるつもりだった。世界は私のために用意されていると思っていた。だから私は世界の全てを味わう権利があるのだと虚しい。……なのにこの結果は何だ。いや、私は進んでいる。究極に向かって歩み続けてきた。虚しい。私は間違っていない。後百六十六時間五分十三秒で達成する虚しい」

 所員の一人が注射器を取り出した。だが地獄坂は手を上げて制する。

「不要だ。私は大丈夫だ。残り百六十六時間五分二秒を冷静に見据え……う、む……」

 地獄坂が眉をひそめた。黒い手袋を填めた指がこめかみに触れる。

「天音の主導権が戻りつつある。終末の瞬間まで封じ込めておく予定だったが。やむを得ん」

 地獄坂は立ち上がり、所員達に告げた。

「自動迎撃モードに切り替えておけ。私の思考・行動パターンをプログラムしてある」

 返事も頷きもしない所員達を置いて地獄坂は司令室を出た。薄暗い廊下は本来の研究所のような半透明の壁でなく、艶消しの黒にポツポツと小さな明かりが点る。間近でじっくり観察すれば、表面に高密度の紋様が彫金されていることに気づくだろう。壁の中には多系統に亘る科学と魔術を融合させた技術が詰め込まれ、あらゆる攻撃を遮断し侵入者を排除するシステムが常時稼働していた。

 地獄坂はエレベーターに入る。音もなく扉が閉じ、黒い箱は下へ降りていく。地獄坂はよろめき、膝をついた。顔を覆う両手がビクビクと痙攣を始める。

 漆黒に白い色彩が生じた。頭髪がつむじ部分から白髪へ変わっていくのだ。黒衣もコーヒーにミルクを落としたように、中心から末端へ白が広がっていく。靴も黒から白へ。黒い手袋は縮んでいき素肌が露出する。血色の悪かった肌に健康的な赤みが差していた。

 骨の歪むメチビキメキ、という音。筋肉が裂けて瞬時に再構成していく。長身痩躯が中肉中背へ。白い口髭が伸びて自動的に長さも整えられた。エレベーターの内装が闇に溶け、床が抜けたのか地獄坂は落ちていく。斜めに回転しながら、風に揺れる木の葉のように。いや、緩やかな落下速度からすると水中を沈む難破船と形容すべきかも知れない。

 暗黒を抜け、白衣の男が明るい床に這いつくばっていた。首を振って、しかめた顔を上げる。いつの間にか銀縁眼鏡をかけていた。

 白衣の男が目を開けるとそれは病院の廊下だった。照明は点いているが窓の外は暗い。人の騒ぐ声。白衣の男は立ち上がる。写真つきの名札には『天道病院 院長 天音善道』となっていた。

 男の血色の良い顔は写真に一致して、生真面目さと親しみやすさを両立させていた。目尻と頬の皺は長年微笑を湛えてきたことを示す。四十代後半に見えるが完全な白髪で、手入れされた口髭も真っ白だ。眼鏡の奥の瞳には深い知性が宿っているが、まだ状況が掴めていないようで戸惑いに揺れている。

 地獄坂明暗であったものは、今、天音善道になった。

 人々の足音が聞こえる。看護婦達がストレッチャーで患者を運んでいる。慌て、混乱した様子だ。声をかけようとして天音は再び窓を見る。近寄って、開けた。

 窓の外は真の闇だった。星の光さえもない、音も聞こえない、手を伸ばせば吸い込まれてしまいそうな不気味な闇。

 天音は窓を閉めた。

「院長先生。休暇中ではなかったんですか」

 若い看護婦の声に天音は振り向いた。

「そう、か……。私は、休暇中だったのか」

 天音は呟いた。

「はい、七日間のお休みということで。院長先生はいつも働き過ぎでしたから、休暇をお取りになると聞いて、私達は少しホッとしていたんです」

 そうは言うものの、看護婦の瞳に浮かぶ不安の翳りが今の切迫した状況を物語っていた。

「七日、か……。どうして私は、休暇を取ったんだろう」

「えっ」

「いや、何でもない。ところで、この騒ぎは何事ですか」

 天音は尋ねる。

「ご存じないんですか。病院から出られなくなってしまったんです」

 看護婦の顔は抑えていた恐慌を露わにし始めた。

「地獄坂という男の放送が流れて、テレビの全てのチャンネルで。大騒ぎになって。院長先生の携帯にも通じませんでしたし、この八津崎市が戦場になるみたいだから、皆取り敢えず市外に避難しようって……。重篤な患者さん方もいらっしゃいますけど、とにかくここは危険だということで」

 天音の眉根に深い皺が寄った。

「……そうか。地獄坂が出たのか。奴はテレビで何と言っていましたか」

「世界を滅ぼす、と……。七日後に世界を終わらせるって。本当にそんなことが出来るかどうかは分かりません。でも、あの不気味な男は……きっと、本気なんだと思います。って、あれっ、というか院長先生は、地獄坂という男のことを前からご存知なんですか」

「私は逆に、君達が知らないことの方が不思議なんだがね」

 天音は寂しげに苦笑した。

「いや、それよりも外に出られないというのは」

「はい。全てのドアが塞がってしまって、びくともしないんです。窓も開かなくて。電話も外に通じないし、皆パニックを起こしかけています」

「そうですか。窓は開いたようだが……いや、まずは行ってみましょう」

 看護婦は松葉杖の患者の誘導に戻った。天音は階段へ向かう。中庭側の窓も覗いてみるがやはり闇だ。年配の見舞い客と孫らしき少年が階段に腰掛けていた。少年はまだ小学校低学年であろうか。天音に気づいてあどけない顔を輝かせた。

「あっ、院長先生だ」

「こんにちは。玄関が開かないんだって」

 天音は穏やかな笑みを返す。

「うん。それで出られないの。でも院長先生ならなんとかしてくれるよね」

「そうだね。ちょっと頑張ってみるよ」

 天音は少年に見送られ階段を下りた。

 受付のある広いロビーには三百人以上が集まっていた。酸素マスクを当てて辛そうに座る患者もいれば、生命維持装置に繋がれベッドで眠る患者もいる。大勢の見舞い客は顔を引き攣らせ、玄関の動かぬ自動ドアとその向こうの闇を見つめていた。不安のあまり叫び出す者を看護婦がなんとかなだめようとしているが、彼女達自身も今にも崩れ落ちそうに見えた。

「皆さん、落ち着いて下さい」

 天音が声をかけると、院長の登場を知って場がどよめいた。それがすぐに期待のざわめきに変わり、やがて院長の次の言葉を待つべく静寂が落ちた。医師や看護婦達も安堵の表情を浮かべる。

「ちょっとすみません。通して下さい。ドアが開かないんですね」

 天音のために人々が道を空けた。「院長」と手を振りながら年配の事務長が駆け寄ってくる。

「はい。椅子などを叩きつけてみたのですが、びくともしなくて。うちのガラスにそんな強度はない筈なんですが」

 自動ドアにはヒビ割れ一つなかった。天音は前に立つ。センサーは反応せずドアは開かない。ガラス一枚隔てた向こうの闇。開かなくて皆困っている訳だが、本当に開いて良いものなのか。そんな迷いを抱く者も少なからずいたことだろう。

 皆に見守られながら、天音は右手を伸ばし、慎重に、ガラス戸に触れた。

 ガラス戸が左右に開いていった。自動ドアが本来の機能を発揮したのだ。ただ触れただけで特別なことはしていない。開かないというのが何かの冗談と疑ったか、天音は一瞬振り返り、皆の真剣な顔を確認して外へ向き直った。

 濃密な闇が蠢き始めた。院内に雪崩れ込むかと思いきや、天音の正面に光の点が生じた。それは次第に大きくなっていき、闇を貫く光のトンネルとなった。

 その向こうに天道病院本来の景色が見えてきた。正門から玄関まで並ぶ桜の木と車用のロータリー。先の通りには家財道具を積んで避難する車の列と、何事もないように買い物袋を提げて歩く主婦の姿が見えた。

 トンネルは二メートルほどの幅になって固まった。どうやら厚さ十数メートルの闇が病院の建物だけを覆っていたらしい。

 異様な現象に天音は何度も目を瞬かせていたが、やがて皆に言った。

「外に出られるようです。今のうちに避難して下さい」

 歓声が上がった。涙を滲ませながら拍手する者もいた。「助かった」と息をつく見舞い客。酸素マスクを当てた患者が家族に支えられ立ち上がる。

「列を作って順番に出て下さい。落ち着いて、パニックにならないように」

 天音の指示に従い人々は順番にトンネルをくぐっていった。天音に感謝の言葉を述べながら。年配の患者などは手を合わせていた。

「助かりました。やはり先生は『神の医師』です」

「ドアが開いたのは偶然でしょう。私にも訳が分かりません。そもそも皆さんも当院においでにならなければ、閉じ込められなかったのでしょうし」

 天音は苦笑する。

「いえ、先生が道を開いて下さったのは偶然ではありません。きっと意味がある筈です。私はそう思います」

 年配の患者は一礼して去った。

 手術待ちだった若い入院患者に天音は声をかけた。

「葛西さん、こんなことになって申し訳ありません」

 若い患者は微笑を返した。

「八津崎市のイベントが一段落したら戻ってきますよ。世界存亡の危機なんて、そこら中でいつも起こってるものですからね。それから改めて天音先生に手術をお願いします」

 本気でそれを信じている顔だった。

「……分かりました。お待ちしています」

 天音が答えると患者は手を差し出した。握手を交わし、患者はトンネルをくぐっていった。

「院長、ご不在時に勝手な判断をしまして申し訳ありません」

 事務長が天音に謝罪した。天音は穏やかに首を振る。

「いえ、妥当な判断でした。こんな非常事態の時に休んでしまい、こちらこそすまないと思っています。……ところで……私は、どういう名目で休暇を取ったんですか」

「えっ」

「いえ、何でもありません。皆さんも避難して下さい。スタッフがいても患者さんがいなければ病院は機能しませんからね」

 患者と見舞い客達が出ていき、医師と看護婦がそれに続いた。

「院長も避難して下さい」

 副院長である五十代の内科医が言った。

「いえ。私は残ります。ここは私の病院ですからね」

「でも、ここは危険です」

 副院長の目はせわしなく左右に泳いでいた。彼は八津崎市の出身ではなかった。

「分かっています。でも、何故だか私は、逃げてはいけないような気がするんです」

「……。そうですか。どうかまた、生きて、お会いしましょう」

 副院長は患者達を伴い去った。

 避難する人々を見送る天音に、外科病棟の婦長が言った。

「院長先生。この先何があったとしても、私は先生を尊敬しています。どうかご無事で」

 婦長の瞳には不安と尊敬だけでない、何処か複雑な翳りがあった。彼女は何かを知っていたのだろうか。

「ありがとう」

 天音は淡く微笑した。

 患者も家族も、病院に閉じ込められたことについて天音を非難する者はいなかった。「必ず戻ってきます」と泣きながら去るスタッフも多かった。そして、四百の病床と百人を超えるスタッフを擁する天道病院は、天音善道一人だけになった。

 がらんとしたロビーを天音は見渡した。腕時計は午後二時二十六分を示している。銀色のアナログ時計が約三十分前までは黒いデジタル時計だったことに、天音は気づいていないだろう。

 ポケットの携帯電話が鳴った。天音は手に取り確認する。避難した事務長からだった。

「はい。天音です」

 通話ボタンを押して応じると、悲鳴に似た事務長の声が届いた。

「院長。逃げて下さいっ。そこは……病院の上に、地獄坂という男の城が、病院に重なって建ってるんです。そこが一番危険なんです。どうか逃げて下さいっ。脱出を……」

「そうか。知らせてくれてありがとう」

 事務長はまだ喋っていたが、天音は電話を切った。呆然と呟く。

「そうか……。わざと、私の病院の上に、作ったのか。そうなると益々、逃げる訳には、いかないな……」

 天音は歩き出した。誰もいない事務室に入り、保温モードのコーヒーメーカーからマグカップに中身を注ぐ。

「私は、どうして休暇を取ったんだろうな」

 答える者のない問いを虚空に投げ、天音はコーヒーを少し飲んだ。マグカップを持ってロビーに戻る。

 玄関から闇を貫くトンネルは残っていた。外界の喧騒がロビーまで届く。たまに銃声や爆発音が混じる。無間町にしては珍しいことだった。

「皆、無事に避難出来ただろうか」

 天音は待合の長椅子に腰を下ろした。病院を訪れた者が最初に座る場所。背を丸め、マグカップに口をつける姿は随分くたびれて見えた。

「……そうか……。世界を滅ぼす、か。確かに、奴らしい望みだ……」

 天音は床を見つめていた。黄色の小さなポーチは子供が落としていったものか。天音は拾おうと腰を浮かせかけたところで、床に伸びる影に気づいた。

「こんにちはー。地獄坂さんはいませんか」

 天音が顔を上げると着ぐるみ姿の男が立っていた。

 男の身長は百九十センチを超えているだろう。着ぐるみは上半身裸に近い童子を模したもので、腰巻きと肩から下がる帯が布製の肌に縫いつけられていた。腕輪や足輪飾りもついている。かぶった頭の左右から何故か鹿の角が生えていた。

 顔部分だけは丸く露出しており、男はにこやかな表情で天音を見下ろしていた。

「……せん……いえ、あの、どなたですか」

 天音は尋ねた。

「はじめまして、黒贄礼太郎と申します。通称クラちゃんです」

 黒贄礼太郎は答えた。

「ええっと……すみません。当院の患者さんですかね。それとも初めて受診なさったんですか。申し訳ないのですが、今はとても診療の出来る状況では……」

「いえいえ、私自身はお腹が空いている以外はいたって健康でして。あれっ、前にも同じようなことを言ったような気がしますが……」

 黒贄は着ぐるみの太い首を右にかしげ、次に左へかしげ戻した。

「まあ、気のせいでしょうな。私は地獄坂さんを探しに来たのですよ。ご存知ありませんかな」

「ああ、すみません。そう言っておられましたね。ただ、申し訳ないのですが、私にも奴の居場所は分からないのです。私にしつこくつきまとうくせに、私が奴と対決しようとすると、霞のように逃げ去ってしまう。全てが私の夢だったかのように、痕跡もなしに……」

 天音はマグカップを置いて頭を抱え、溜め息をついた。

「一体どうしてこんなことになってしまったのか……。私には、分からないのです」

「それは奇遇ですな。私もさっぱり分からないのですよ」

 黒贄も溜め息をついた。

「十八番だったんです。凶器の筈なのに、何故かこの着ぐるみだったんです。全身が隠れるのに顔だけは見えてしまうので仮面にも使えません。一体全体どうしてこんなものを十八番として保管していたのか、私はどうしても思い出せないんです」

 戸惑い顔の黒贄に、天音も何と言えばいいのか分からぬ様子だった。その目が次第に細まっていく。何かを思い出そうとするように。

「あの……黒贄さん、と、おっしゃいましたね。もしかして、前にお会いしたことはありませんか」

「いえ、初対面だと思いますよ。私は記憶力には自信がある方でして。なにしろ、今日が朝食抜きだということをしっかり覚えてるくらいですから」

 黒贄は澄まして答える。

「……。そうですか。すみません。私は多分、疲れているのでしょう」

 俯く天音を黙って見下ろしていたが、やがて黒贄は言った。

「そうですね。疲れておられるようですな。地獄坂さんもいないようですので私は帰りますね」

「すみません」

 天音は俯いたまま答え、着ぐるみの影が去った床をぼんやり見ていた。

 そのうち、外界の喧騒が聞こえなくなった。

 天音が顔を上げると、玄関のトンネルが閉じ、元の闇に覆われていた。

 空の病院に、天音善道は独り、残された。

 

 

  三

 

「何か大事なことを忘れてるような気がしますなあ……」

 着ぐるみの黒贄礼太郎はハルマゲドン・キャッスルを振り返った。あらゆるエネルギーを吸収する巨大な黒いプリンは、変わらぬ存在感を持ってそびえ立っている。ここからだと近過ぎて屋上の旗は見えない。病院内部へ通じていたトンネルは跡形もなくなり、何処にあったのかさえも分からない。

 向き直ると、避難しようとする人々とお祭り騒ぎに引き寄せられた野次馬達が通りに入り混じって騒いでいる。渋滞に怒声を張り上げる運転手を鉄パイプで襲い、財布を奪おうとする若者達。マスコミ関係者も集まっていた。おそらくは市外からやってきたのだろう、大勢のカメラマンとレポーターが黒贄の方を見ている。一人は指差して「著作権が」など言っていた。

 病院の敷地にパトカーを乗り入れ、血みどろのボンネットに腰掛けて八津崎市警察署長の大曲源が待っていた。近くに轢死体が幾つか転がっているのは相手が避けてくれなかったのだろう。

 喫いかけの煙草をボンネットで揉み消し、大曲は黒贄に向かってお気楽に声をかけた。

「クロちゃん、お疲れさん。どうだった」

「おや、署長さん、わざわざ迎えに来て下さったんですか。それがどうも、地獄坂さんは留守だったようです。お医者さんは一人おられたのですが」

「ふうん。それって、天音善道とかいう医者じゃなかったかい」

「そういえば、そんな名札だったような気がしますね」

「……。まあ、まだ日にちはあるしな。宣言当日に終わっちまったら色々と都合も悪いだろうし。ほら、誰かさんの都合とか。そうだ、次の指示も入ってたな」

 大曲は懐から新たな封筒を取り出した。『黒贄礼太郎が帰還した後に開くこと』となっている。

 開封して中身を読み、いつもの「ふうん」の後で、大曲は珍しく声を張り上げた。

「黒贄の糞間抜け野郎ーっ。……だそうだ」

「何ですと」

 流石の黒贄も眉をひそめる。

「だから黒贄の糞間抜け野郎ーっ。……って予知探偵の指示に書いてるんだから仕方ないよな」

 大曲はあっさり便箋を畳む。その実際の文面は『今の気持ちを遠慮なく叫んで下さい。 洲上天心』であった。

「まだ手間かかりそうだし、取り敢えず洲上天心のとこ行ってみるか。暇になったら来いって指示もあったもんな。乗りなよクロちゃん」

 大曲は運転席に戻る。黒贄も後部座席に乗り込んだ。

「今日は運転手の方はいませんな」

「人手が足りなくてな。お祭り騒ぎにゃ犯罪が多いもんだ。あーあ、だるいぜ」

 大曲は欠伸しながらパトカーを発進させた。野次馬は黒贄を指差して「せん……」とか何やら言っている。黒贄はにこやかに手を振り返す。野次馬が笑う。

 そこへパトカーが勢い良く飛び込んで数十人単位で轢き潰した。悲鳴を上げながら人々は逃げ惑う。署長の犯罪行為に市外から来たマスコミ陣は目を丸くしていた。

 パトカーは歩道に乗り上げて強引に去っていく。黒贄はまだ窓から手を振っていた。

 

 

  四

 

 ニューヨークを出発した高速旅客機には二百人近い乗客がいた。大部分が男性で、スーツ姿もいるがラフな服装の者が多かった。革のジャケットやジーパンならまだ理解出来るが、ベッタリと血のこびりついた繋ぎの作業服を着た男や、顔を含めた全身をラバースーツで覆った者もいる。顔中に本物の釘を打ち込んだ者、迷彩服にガスマスクを着けた者、ブリーフ一枚で見事な体格をしているのに腕だけがやたら細長い者、そして、油砥石を使って大型ナイフを砥いでいる者。持参した生首の頭頂部を開いてスプーンで脳を掬っている者は弁当のつもりなのか。

 後方の客席では乗客同士が鎌や棍棒を振り回したり銃を乱射したりして争っていたが、面白がって見物する者は少なく、他の客は熱心に同じ本を読んでいた。

 日本語で書かれたタイトルは『一時間で完全マスターする日本語』であった。

 機内に大きな横断幕が掛かっていた。

 『世界殺人鬼協会緊急イベント 人類が滅ぶと我々も困る 地獄坂明暗を殺して世界を救おう』となっていた。この旅客機は協会の専用大型ジェット機で、乗客は全て協会員であった。フライト・アテンダントも協会員或いは協会の雇われ職員だが、弱い者は既に死体となって天井に吊られているか床に転がっている。

 ファーストクラスのシートで、一人の男がスナック菓子を食べながら同じ本を読んでいた。ショッキング・ピンクのスーツを着た黒人で、髪は右半分が長いドレッド・ヘアーだが左半分は綺麗に剃り上げている。唇は厚く、細い眉はへの字型に曲がっている。濃いサングラスのため目元は隠れていた。

「ヤセタイ。デモタベタイ」

 男は片言の日本語を唱えながらスナック菓子を口に運ぶ。全ての指の付け根に銀の指輪が嵌まっている。スナックを摘まむその指は少しも汚れていなかった。

「タベタイ。デモヤセタイ」

 男は片手で本を持ち、親指だけで器用にページをめくっていたが、ふと窓の外に顔を向けた。澄み渡った上空から幾条もの光線が閃いて、広い雲海を貫き揺らす。

 遥か上方に巨大な人工構造物が浮かんでいた。菱形に棘の生えたようなシルエットは攻撃衛星か宇宙船か。底面から伸びた光線に、彼方を飛んでいた別のジェット機が巻き込まれて粉々に空中分解する。

「痩セタイ」

 男は本に視線を戻した。菓子袋が空になったので男はバッグを開け、次の袋を取り出す。大きなボストンバッグの中には同じスナック菓子がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。

「でも食ベタイ」

 後方の喧騒が続いている。殺人鬼達も史上最大或いは最後の祭りに興奮しているのか。それとも単にライバルを目の前にして自制出来なくなったか。

「痩せたい。でも食べたい」

 男は本を読み終えた。片手で畳んだ本の端を何故か口に咥える。次の瞬間にはツルリと吸い込まれて消えた。喉仏が僅かに動いただけで、あっさり呑み込んでしまったらしい。

「食べたい。でも食べたい。食べます」

 いつの間にか流暢になった日本語で呟きながら、男はスナック菓子を食べ続けた。窓の外では時折UFOが飛び交い、光線を閃かせている。巨大な構造物が煙を噴きながら落下していく。海が爆発し、その衝撃波は上空の旅客機まで届いた。

 赤く染まりかけていた空全体が、一際大きく光った。世界が終わったかと思わせるほどの強い光だった。機内の照明が消え、落下感覚が乗客を襲う。しかしそれに動じる客はいない。数秒後に照明は復活し、旅客機の挙動も安定したようだ。男はただ黙々と食べていた。後方の喧騒はまだ続いていた。不死身に近い肉体を持つ者も多く、殺し合いがいつまで経っても終わらないのだ。

 バッグの中の菓子を食い尽くしてしまうと、男は「ああ、なくなった」と悲しげに言って立ち上がった。

 それから数分間、機体が揺れた。

 旅客機は成田国際空港に着陸した。タラップ車が横づけされドアが開くが、降りてきたのはサングラスにピンクスーツの男が一人だけだった。フライト・アテンダントも出てこない。

「他のお客様は……」

 迎えの職員が尋ねると、男は答えた。

「美味しく頂きました」

 男は手ぶらでさっさと歩き去った。

 職員は機内を覗き込み、その場に立ち尽くした。

 客席は空っぽだった。二百名近くいる筈だった乗客もアテンダントも見当たらない。惨殺死体だけは幾つか転がっているが、圧倒的に数が足りなかった。ここで何が起こったのか。荷物や小物類が乱雑に散らばっているものの、派手な殺し合いが行われた痕跡は客席後方だけだった。

「あーあ、途中からなんか荷が軽いと思ってたんだよなあ」

 コックピットから顔を出したパイロットが頭を掻いて嘆息した。

 

 

  五

 

 予知探偵・洲上天心の屋敷は埼玉の閑静な林の中にあった。パトカーを運転しながら大曲源が言う。

「洲上のとこに来るのは二度目になるが、八津崎市が引っ越して近くになったから都合はいいな。おっと、前と比べてどのくらい近くなったかってのは聞かないでくれよ」

 屋敷のすぐ隣に小さな郵便局がある。周囲に民家は少なく、まるで洲上のためだけに運営しているように見える。

「ふうん。前は警備員とか多かったんだがな」

 開け放しの正門を抜け、大曲はパトカーを敷地に乗り入れた。車体の前面は変形し血と肉片がこびりついている。

 良く手入れされた広い庭だった。大曲と着ぐるみのままの黒贄がパトカーから降りる。夕陽に染まる二階建ての洋館を見やり、大曲は呟いた。

「途中でうどん食ったからちょっと遅くなったな。俺の奢りで」

「素うどんでしたね。お代わりもさせてもらえませんでしたし……いえ、別に文句を言ってる訳じゃないんですよ。少しでも栄養を頂けたのはありがたいことですから」

 着ぐるみの腹を撫でながら黒贄が言う。二人は玄関へ歩いた。大曲が呼び鈴を押す寸前に向こうからドアが開いた。

「いらっしゃいませ。大曲様ですね」

 しわがれ声で迎えたのは腰の曲がった老婆だった。八十才は過ぎていようか、度の強そうな分厚い眼鏡をかけ薄いカーディガンを羽織っている。上品な顔立ちだが事務的な態度だった。

「ほう。やっぱ、予知してましたか。八津崎市警察署長の大曲です。三年ぶりに来ましたが、今度は洲上さんに会わせてもらえるでしょうね」

 大曲が言うと、老婆は無表情に頷いた。

「今日がその日でございます。兄も漸く肩の荷が下りることでしょう」

 兄というのが洲上天心のことなら、予知探偵はかなりの高齢ということになるだろう。

 老婆に先導され二人は階段を上る。使用人のいそうな広い屋敷だが老婆以外には人の姿を見かけない。

「女中も警備員も、お昼過ぎに全員解雇しました。もう必要ないそうですから」

 客の疑問を察したように老婆が言った。

「それから先客がございます。残りのお二方もいずれおいでになると思いますが、角の生えた方が来られたら始めて良いとのことでしたので」

「なるほど、この悲しい着ぐるみも運命だった訳ですな」

 黒贄は側頭部から伸びる左右の角を撫でた。

 老婆は静々と廊下を進み、二階の突き当たりで止まった。ドアをノックすると奥から「はい」と声が返る。張りのある若い声だが何故か嫌そうな響きがあった。

「おや、聞き覚えがあるような……」

 黒贄が嬉しげに両眉を上げる。

「新しいお客様がお見えになりましたので失礼致します」

 老婆がドアを開けて室内に二人を招き入れた。

 薄暗い部屋だった。中央に大きなベッドが配置され、そばで心電図モニターが光っている。点滴か栄養剤か、細いチューブがベッドの膨らみと機械を繋いでいた。幾つかある丸椅子の一つに黒い作務衣の男を認め、黒贄の目が玩具を見つけた猫のように輝いた。

「やはり神楽さんでしたか。なるほど、予知探偵とは神楽さんのことだったんですね。謎は全て解けたぞっ」

「違う。俺はクレームをつけに来ただけだ。洲上天心はこいつだ」

 いつもの丁寧語でなく既に本気モードに入っている。椅子ごと部屋の隅にずれながら神楽が指差したのは、ベッドに横たわる痩せた男だった。眠っている顔は皺だらけで、手足は驚くほど細い。まるで何年も使われていなかったように。

 ベッドの傍らに立ち、老婆が客達に告げた。

「これが私の兄、洲上天心です。二十六才の時に昏睡状態となり、以来六十五年間、眠ったままです」

「ふうん。とすると、あの封筒の指示はどうやって送ってたんだ」

 大曲が当然の疑問を表明する。

「どうぞ、まずはおかけ下さい」

 老婆は二人に椅子を勧め、壁際にあったキャスターつきの台をベッド際まで押した。台には大きなテープデッキが載っている。テープが剥き出しのかなり古いものだ。電源コードが壁のコンセントまで続いている。

 大曲と黒贄が丸椅子に座ると、老婆は黙ってデッキのスイッチを押し、一礼して壁際に下がった。

 テープが回り始め、付属のスピーカーから男の声が流れ出した。

「ようこそ。洲上天心です。このテープを聞いているのは神楽鏡影さんと大曲源さん、そして黒贄礼太郎さんですね」

 ノイズ混じりで音質は悪かったが、若い声だった。

「色々と疑問の点もあるでしょうが、順番に説明していきましょう。このテープは六十五年前に録音したものです。私が昏睡状態に入る数十分前ですね。私が残した最後のメッセージになります」

 彼は自分が植物人間として過ごすことも予知していたらしい。

「ふむ。するとやっぱり、封筒の指示ってのはそれより前に用意されたものだった訳だ」

 大曲の言葉に間髪入れずテープが答える。

「その通りです。私が予知し、メモしておいたものを、私が指定しておいた期日に投函させていたのです」

 あまりのタイミングの良さに黒贄が感心して言った。

「ほほう、まるでテープデッキと会話しているみたいですね。もしかして洲上さんの本体はベッドで寝ている方ではなくて、機械の中に小人が入ってリアルタイムで喋っておられるとか」

「そう言われるならデッキの中を開けてみてもいいですが……いややっぱりやめて下さい。デッキが壊れると再生出来なくなりますからね」

 と、やはり黒贄の台詞が読めていたように声が返す。こんな細かいやり取りまで六十五年前に予知していたとすれば凄まじい能力だ。

「さて、私が幻視を見るようになったのは六才の頃です。それが未来の現実だと理解してからは、出来る限り忘れずにおいて世のために有効活用しようと考えました。幻視を見た後は適切な指示内容をメモして封をし、いつ誰宛に投函すべきかも記して保管する。私の人生はその繰り返しだけに費やされたと言っても過言ではないでしょう。この屋敷は宝くじの当選番号を予知して建てたものです。スタッフを雇う資金もそうやって稼ぎました」

「なるほど、宝くじですか。私も予知能力があればお腹一杯食べられたのですが」

 黒贄が羨ましそうに言う。

「黒贄さん、そんなに良いものではありませんよ。一日のうち二十時間近くも幻視を見続け、睡眠時間は二時間もない。そんな毎日をあなたがお好きなら別ですがね。あなた達にこの声が届く時点で私は六十五年間眠り続けている訳ですが、不足した睡眠を後になって取り返そうとしているのかも知れません。私が得たのはただ、自分がやるべきことをやったという満足だけです」

「その満足の中には俺を騙して死地に追いやったことも含まれているのか」

 部屋の隅から神楽鏡影が尋ねた。六十五年前の男に対する辛辣な問い。

「騙した訳ではありませんよ。私の指示通りにあなたは頑張って、こうやって生還した。ですから私の指示は適切だったのです」

 テープの声は苦笑を孕みつつも自信に満ちていた。自分の行いが正しいと信じている声音。

「で、そろそろ本題に入って欲しいんだが、地獄坂の件はどうなってんだ。今んとこ、指示はあんまり適切でもないみたいだが」

 大曲がビーフジャーキーを齧りながら言う。彼の視線の先はベッドに眠る老人でなくテープデッキだ。隣の黒贄が物欲しげにジャーキーを見ている。

「残念ながら、地獄坂の計画を阻止出来るかどうかまでは予知していないのです。私の幻視はあなた達がこのテープを聞いている日までで、以降の出来事は全く見えません。ですから本当に世界が消滅する可能性も否定は出来ませんね」

「ふうん。するとあんまり頼りにならん訳だ。予知とか予言って大概そんなんだよな。そもそも完璧な予知なんてあったら事件なんて起きる前に解決しちまうから、色々と都合が悪いんだろうな」

 大曲が微妙な突っ込みを入れる。

 過去と現在の会話を、老婆は椅子に座ってひっそり見守っている。時折壁の時計を確認するのは次の指示があるのだろうか。

「ですが世界を守るために、出来るだけのことをやっておくべきと私は考えました。地獄坂は世界を完全に滅ぼす手段があると言いましたし、それは嘘ではないでしょう。ただし、実験である程度の目処はついても、本当に可能かどうかは発動させるまで分からないものです。試して成功すればその時点で世界が滅んでしまいますからね。地獄坂は完璧主義者です。失敗の可能性を僅かでも除外するため、異なる理論に基づく複数の手段を用意しています。おそらくは最後の瞬間に、全ての兵器を同時発動させるつもりでしょう」

「つまり、地獄坂が始末出来ないのなら、奴の持つ兵器を潰してしまえばいいということか。俺にシベリアの研究所を襲わせたのもそのためか」

 厳しい顔で神楽が問う。腕組みしているが、彼ならいつ攻撃されても電光石火で対応出来るだろう。チラチラと黒贄の方を窺い、目が合うとすぐに視線を逸らしている。彼にとって最も用心すべき敵は地獄坂明暗でなく黒贄礼太郎なのかも知れなかった。

 テープの声は答えた。

「あれは少し違います。流石の地獄坂も、宣言の日までに真の神を具現化させるのは間に合わず、手段としては使えなかったでしょう。彼も薄々は悟っていたでしょうが、世界を滅ぼせる可能性のあるものを確保せずにはいられなかったのです。神楽さん、あなたが研究所を襲撃した時、地獄坂も研究の強奪に向かっていたのですよ。うまくすれば爆発に巻き込んで殺せると思ったのですが、残念でした。私も全てのイベントの結末まで見えている訳ではないのです」

「ふうん。でも思ったんだが、そういう返事をしてるからには、このテープを録音してた時は研究所の件とやらも結果が分かってた訳だよな。なら指示は中止しときゃ良かったんじゃないのか」

 大曲の突っ込みに、テープの声は少しの間絶句した。

「……。ま、まあ、それはともかく、これから必要なことをお伝えします。地獄坂が保有する最終兵器で、私が予知しているものは四種類です。そのうち地獄坂の城外にあり破壊可能と思われるものが三種となります。それらを七日以内に破壊して頂きたいのです」

「大事な兵器を城内に保管しておかないのは理由があるのか。それとも敵をおびき寄せる餌のつもりか」

 神楽が疑問を投げる。

「世界を完全に滅ぼすというのは尋常でない試みです。その条件も尋常でないと考えた方がいいでしょう。三種のうち一種は、稼動施設が巨大過ぎて動かせず、別の一種は発動に位置的条件が存在するため動かせず、最後の一種も広範囲に多数の連鎖端末を設置する必要があるため破壊可能なのです。場所と方法の詳細は別に指示として封書にしていますので、後でそれを読んで下さい」

「だがその三つを破壊出来たとしても、地獄坂はまだ一つ以上の兵器を持っているだろう。結局、予定の時間になれば発動させて終わりということにならないか」

 神楽が更に問う。

「それは微妙なところです。手持ちの最終兵器が少なくなれば、完全な消滅に失敗する万が一の可能性を危惧して、発動を延期させるかも知れません。或いは宣言したことを延期するのは彼の性格上耐えられず、結局は強行してしまうかも知れません」

「ならやっぱり直接地獄坂を殺しに行った方が良くねえかな。今日は誰かさんが見逃しちゃったみたいだが、まだチャンスはあるんじゃねえか」

「ほう、折角の標的をむざむざ見逃してしまったお間抜けさんがいらっしゃるのですか。いけませんな、それは」

 大曲の嫌味に気づかぬようで、黒贄が尤もらしく頷いてみせる。テープが答えた。

「それも問題があるのです。今の地獄坂明暗を倒せる者がそういるとは思えませんが、もし自分の敗北を悟った場合、地獄坂はどうするでしょうか。ヤケになり、予定の期日前に最終兵器の発動ボタンを押さないとも限りません。ですからどちらにしても兵器は出来る限り破壊しておかねばならないのです」

 神楽が眉をひそめた。

「かなり難しいな。地獄坂を殺すなら劣勢を感じさせずに即死させる必要がある訳か。あんたの予知がもっとしっかりしていれば、ここまで状況が悪化する前に地獄坂を始末出来たろうがな。六十五年も前に既に予知していたのなら、例えば地獄坂の幼少時に始末することも出来た筈だ」

「残念ですが私の予知は自分の見たいものが見える訳ではありませんので」

「ところでこっからの指示も封書になってんなら、わざわざこのテープ、残しとく必要もなかったんじゃねえかな」

 大曲が小指で耳をほじりながら言うと、またテープは暫し絶句した。

「……。い、いや。折角だし……。だって、ほら……私も、寂しかったんです。いやそんなことより楓、お客様だ。この部屋の時計は少し遅れている」

 楓というのは老婆の名前だろう、彼女は立ち上がって静かに部屋を出ていった。

「これから七日間、地獄坂を殺そうとあらゆる場所から戦士達が押し寄せ、八津崎市は戦場になるでしょうね。私は八津崎市民に避難告知はしていません。彼らはお祭り好きですから、大半は市内に留まって見物するでしょう。どうせ世界が終わるのなら、近くで見ていた方が楽しめますからね。私はその瞬間を見ることは出来ないのですが」

 テープがそこまで喋ったところで、出し抜けに神楽鏡影が立ち上がっていた。珍しく目を見開いて、緊張と恐怖の凄い形相になっている。

「何だ。何を呼んだ。洲上、あんたは一体何を連れてきた」

 答えるテープの声は笑っているようだった。

「人間は死んでからも成長する余地があるんですね。彼も非常に心強い戦力となってくれるでしょう。あ、そうだ、窓ガラスは割れても怪我しないものにしておきましたから」

 台詞の途中で神楽は窓をぶち破り屋外へ飛び降りた。散った破片は洲上の言った通り、尖らぬ塊となって砕けていた。

「ありゃあ、神楽さんとはもっと色々話をしたかったのですが。より良い人生の締め括り方とか」

 窓から外を覗いて神楽の姿が跡形もないのを確認し、黒贄が嘆息した。その時ドアがノックされ、老婆の声が告げた。

「新しいお客様がお二方、いらっしゃいました」

 ドアが開き、二人の男が入室してきた。一人は水音と共に。もう一人はドロドロとした不吉な空気と共に。

「予定通り、連れてきましたよ」

 雨の降る傘を差して幽霊探偵・草葉陰郎が言った。濡れた髪のへばりつく陰気な顔に、自負にも似た昏い愉悦を滲ませていた。

「申し訳ありません。この世に戻ってきてしまいました」

 もう一人の男は立ったままがっくりとうなだれ、疲れた低い声を洩らした。まだ二十代に見えるが、伸び放題のほつれた髪も髭も真っ白だ。妙に長い首の皮膚は黒ずんで硬化していた。まるで何度も首吊りを試みてきたように。パジャマに似た白く柔らかい生地の服を着ているが、それも随分くたびれて薄汚れていた。

「災厄を撒き散らすだけの人生も終わりを告げ、僕が送られた先は地獄でした。それでも他人に迷惑をかけずに済むならと思ったのですが、僕を拷問しようとした鬼達が不慮の事故で次々と再起不能になってしまったのです。次第に死者の皆さんの間にも妙な病気が流行り始め、血の池は爆発するし針山が崩れるし、世界の境界が破れて他の宗教の地獄と繋がってしまい、もうメチャクチャに……。向こうの責任者の方に、お願いだから出ていってくれと言われて、天国への切符を渡されました。……でも、天国の方は門を閉め切っていて、僕を入れてくれないのです。僕なんかを入れたら天国が地獄になってしまうと言われて。僕が門の前でウロウロしているだけで、天国の土壌が腐り始めて今にも落下しそうだとか……。若返らせて復活させるから現世に帰ってくれと。もう二度と来ないでくれ、永遠に生きていてくれ、と……」

 下を向いた顔の、伸びた顎髭の先からポタリと雫が落ちた。涸れ果てた筈の涙が零れているのだった。

「ええっと、初めましてと言いたいところですが、その全くそそられない感じは何処かでお見かけしたような気がしますな」

 黒贄が顔をしかめると、男本人でなくテープの声が答えを告げた。

「『疫病神探偵』薄井幸蔵さんです。一度死んでパワーアップした彼の災厄力は、地獄坂対策に必ず役に立ってくれグギャアアッ」

 テープの声が断末魔の悲鳴を上げると同時に、破れ窓から自分の椅子に戻りかけていた黒贄がデッキの電源コードに足を引っ掛けて転んだ。斜めに倒れたその先にベッドで眠る洲上天心がいた。

 着ぐるみの右角が洲上の皺深い額にドボォリと突き刺さり、ベッドの裏まで突き抜けた。

「ありゃりゃ」

 黒贄が慌てて身を起こすと、角に引っ張られて洲上の頭部が持ち上がり、ブチリと胴体からちぎれた。後頭部から血みどろの角を生やし、予知探偵は六十五年の昏睡の末に串刺し生首となって生涯を終えた。

「そうでした。思い出しましたよ。この角が凶器だったんです」

 黒贄が嬉しそうに頷いた。

「申し訳ありません、僕のせいです。早速災難を招いてしまいました」

 薄井がやはり俯いたまま謝罪する。

 デッキは沈黙を流し続けていたが、やがてテープが終了しリールの回転が止まった。過去の洲上も昏睡に入ったようだ。

「ま、どうせ指示の手紙があるんだからいいよな」

 大曲がジャーキーを腹部の体内ポケットに収め、のんびり立ち上がった。

「じゃあ帰るので指示の手紙貰えますか」

「どうぞ」

 老婆はポケットから幾つか封筒を出し、大曲に渡した。その手が、更には全身が小刻みに震え出す。兄を殺された怒りか。

 いや。

 老婆の顔は笑みに歪んでいた。

「やっと……やっと、私は解放されました。兄は未来に生きていました。そして私はずっと、六十五年もの間、兄の吐き出したゴミのような予言の処理をさせられてきたのです。でももうこれで終わり。これで私は自由です。あははは。ざまあみろ。ざまあみろ」

 怨嗟に満ちた声音だった。予知能力者を兄に持ったというだけで、サポートする義務を背負い続けた六十五年。彼女の人生はそれだけだったのだ。

「じゃ、失礼」

 大曲は軽く会釈して部屋を出た。ついでに薄井に囁いておく。

「どうやら幸せを呼んであげたみたいだぞ」

 あの世から到着したばかりの仲間を加え、四人はパトカーに乗り込んで洲上邸を去った。黒贄の角にはまだ洲上の生首が刺さっていた。

「ざまあみろ。ざまあみろ。ざまあみろ。ざまあみろ」

 屋敷でただ独り、老婆は積もり積もった鬱憤を吐き出し続けていた。

 その屋敷が潰れた。シロアリの侵食が計算されたように今、限界を超えたのだ。十五秒後にガス爆発で屋敷が吹っ飛んだ。洲上天心の胴体も老婆の死体も粉々になった。

 三十分後には地震で林が消えた。

 

 

  六

 

 陽は落ちたが八津崎市は毒々しいほどの明るさと熱気に包まれていた。何処かで上がる歓声と悲鳴。何処かで上がる銃声と爆発音。

 八津崎市警察署副署長・森川敬子は奴隷兼荷物持ちの城智志を連れ、市長通りの裏道に入った。そこは本来ビルとビルの狭い隙間なのだが、空間をねじ曲げたみたいに建物の輪郭を歪めてちょっとした露店通りが出来ている。

 ビルの裏壁に渡した黒いアーチには『アルXイル市場 野菜で可でも貝えます』と刻まれていた。

 薄汚い服装の不気味な男達がそれぞれ店を構えていた。黒いフードで顔を隠していたり、怪物の仮面に見えたがそのまま地顔だったりする男達だ。大きな蛸の標本らしきものが店員という店もあった。ちなみに剥製屋で、様々な動物の剥製に人間の剥製、更には宇宙人らしき小人の剥製も飾っていた。『なんでもはくせいにします』という札が下がっている。見本としてノートパソコンやタイヤの剥製もあった。肉を焼いて売っている店もあるが何の肉かは書かれていない。『どくやく』という札を立て異様な色の液体を収めた瓶を売る店もある。『傭兵斡旋所 一人でも一億人でも』という看板は比較的まともな字だった。それなりに需要と自信があるのだろう。

 怪しげな露店を覗く怪しげな人々の間を抜け、森川は『武器 御注文ニ応ジ色々ト』という地味な幟のある露店で足を止めた。

「これは森川様」

 挨拶する店員は大きな麻袋から上半身を出していた。椅子に載った袋はあまり膨らんでおらず、足がないのかも知れない。穏やかな笑顔が不自然に歪んでいるのはそれがシリコンマスクであるためだ。首と腕は青黒い肌を晒していた。

「注文したものはもう出来てるかしら。予定は二週間先だったけど、待ってる暇はないのよ」

「存じております。私の耳にも地獄坂の宣言は届きましたので」

 武器屋は右手の指で右耳を軽く叩いてみせた。異様に長い指。シリコンの耳に穴は開いていない。

「製作途中のものを急いで仕上げてみました。5.56ミリライフル弾一万発と357マグナム弾千発のご注文でしたが、今お渡し出来るのはライフル弾五千百発とマグナム弾六百発のみです。検品も済んでおりませんので不発弾の混じっている可能性があります」

「急ぎだから仕方ないわね。ないよりはましよ、我慢するわ」

 森川は頷いた。

 武器屋は麻袋の中から大きな木箱を出し、カウンターに置いた。森川が開いて確認する。紙箱が幾つも詰め込まれ、更に一箱を取り出して蓋を開くと、赤い薬莢の弾薬がぎっしりと収まっていた。

「試作品の怨念弾より拷問の密度を増し、苦痛を濃縮しております。ロケット弾並みの物理的破壊力もありますが、真の価値は対生物における殺傷力です。どんな巨大生物であろうと掠っただけで致命傷となります。ただし、相手の精神力が強ければ絶命させるまで複数発当てる必要があるでしょう。そんな相手はアルメイルにも百人といないでしょうが」

 武器屋はマスクの下で笑っているようだった。

「また、不発だけでなく、怨念が逆流して射手に向かうリスクもあります。用心のため、この護符を身に着けていて下さい。二発程度までなら怨念を防いでくれる筈です」

 武器屋が差し出したのは御守りのイメージとは程遠い代物だった。小さなガラス瓶に収まった、一個の血走った眼球。濁った角膜の中心に細い針が突き立っていた。

「……。頂いておくわ」

 森川はちょっと嫌々ながらだがそれを受け取り、制服のポケットに入れた。

「それからこちらの拳銃ですが、元は九十年以上前に製造されたウェブリー・アンド・スコットのマークシックスですね。しかしバレルもシリンダーも交換され、原型を留めないほどに改造されています。八十口径の拳銃など初めて見ました」

 武器屋が出したのは全長四十センチを超える大型リボルバーだった。不自然に長い銃身には柔軟性があり、カウンターに置く際に僅かにしなる。武器屋はアルメイル出身と思われるが、『狩場』の兵器にも詳しいようだ。

「発射機構自体に手を加えるべき点はありません。また、連続で何千発発射しても銃が傷むことはないでしょう。この銃は……憑いています。数万人単位で殺していないとこうはなりませんね」

 武器屋の指摘に、森川はヒクリと鼻筋に皺を寄せた。

「数万人ですって。一日百人殺せば百日で一万人……一日千人だったら十日で済むわね。よし、追いつけないこともないわ。続けて」

「重量もバランスもそのままで、グリップ内部に妖霊を封じてみました。所有者の意志に応じて、弾丸の触れた対象が物質でも霊体でも自在に破壊してくれます。ただし、三日間生き物を殺さなければ所有者の生命力を吸い取ろうとしますからご注意下さい」

「いいんじゃない。獲物なんてこれから腐るほど出てくるわよ。そもそも私のじゃないしね。ただ、そんないいものがあったなら私の銃にも仕掛けて欲しかったわね」

「憑いている銃であればこそ、でしたものでご容赦下さい。八十口径の弾薬も二千発、一緒に収めてあります。これは私の作ではなく、お預かりした実弾をコネクションのある技術者にコピーさせたものです。それから申し訳ありませんが、グレネード弾に戦術核のエネルギーを凝縮させる試みはまだ実用化に至っておりません」

「そう。仕方ないわね。……この『MM』というのは何。マグナム弾のようだけど」

 蓋にそう書かれた紙箱が一つ、木箱の中に混じっていた。薬莢は金属製だが半透明だ。

「それは特別サービスでおつけしております。魔王城地下の飼い犬から抽出した成分を、弾薬に浸透させたものです。理屈の通じない、訳の分からない破壊力を発揮するためアルメイルでは重宝されています。根源的疑問液、或いはマサマサ・エキスと呼ばれておりますので、この弾薬はマサマサ弾とでも名づけるべきでしょうか。百発あります。ここぞという時にお役立て下さい」

「ありがとう。戦う女に必要なのは有能な武器屋よね。城、代金を」

 顎で指図され、城智志は牽いていた荷車を店の前に寄せた。ブルーシートの覆いを取ると山積みされた果実が現れた。それぞれの大きさは二、三十センチほどで、表面に短い棘が生えている。同時に腐った生ゴミのような匂いが漂い流れ、通りにいた客達も鼻を摘まんで逃げ始めた。

「んー、高級品ですね。熟れ具合も丁度いい」

 武器屋は満足げにマスクの穴から匂いを嗅いだ。

「確かにお代を頂きました。ドリアンをブランデーに漬け込んで食べるのが私の楽しみでして。こちらに来て日が浅いアルメイルのお上りさん達には、まだこの良さは分からんでしょうがね。これから七日間はドリアン三昧で過ごすことにします。森川様とまたお会い出来る日が来ることを祈っておりますよ」

「そう、ここからは私の仕事ね。地獄坂だろうが神だろうが、私の前に立ち塞がる奴は皆殺しにしてやるわ」

 景気づけに右のホルスターからオートマチックを抜いて空に向けて乱射する。いや、ビルの屋上で地獄坂の黒い城を眺めていた市民達が頭を撃ち抜かれて次々に落ちてきた。

「城、荷物を持ちなさい」

 森川が命じると城智志はカウンターの木箱を持ち上げるが、何か不満げにボウリング玉の埋まった頭を振り、鎖を噛まされた口から唸り声を洩らす。

「何。自分の特注武器はないのかって」

 どうやってか森川は相棒の唸りを解読出来るらしい。

「あんたにはハルバードがあるじゃないの。マイナス給料の荷物持ちが贅沢言うんじゃないわよ」

 城は血走った目に涙を滲ませ、黙って森川についていった。

 武器屋は袋から上体を伸ばしてカウンターを越え、荷車に手をかけた。それだけの体積がどうやって袋に入っていたかと思わせる、ニシキヘビのように長い胴だった。更に両腕を伸ばして大量のドリアンを抱え込み、一気に袋へ引き戻った。全身が袋の中に消え、片手が内部から袋の口を絞ると、武器屋は椅子に載る麻袋だけとなった。

 森川と城は警察署へ向かう。市役所も近くにあるが、その周辺は異形の男達で溢れ返っていた。薄汚い古着やボロ布、腰巻き一枚などまちまちな服装で、手足の数もまちまちだ。頭が二つある男もいれば、両腕が触手になった者もいる。三メートルの巨人もいれば二十センチの小人もいる。小人は自分の身長の十倍もある剣を引き摺っていた。

 支給されたニンジンを嬉し泣きしながら齧る彼らは、アルメイルから呼び出された高位ランカー達だった。

 燕尾服とシルクハット姿の紳士がステッキを振り上げ発破をかけていた。

「皆さン、こコハアルめイルの力の見セどころデす」

 おかしなイントネーションの発音だった。紳士は小柄ながら太目の寸胴で、顔の表情は殆ど動かず瞳は瞬きをしない。左目に嵌まった片眼鏡から銀色の細い鎖が下がっていた。

 紳士はアルメイル魔王補佐官、エフトル・ラッハートだった。

「地獄坂を殺しテ野菜畑を守りマシょう」

「地獄坂を殺して野菜畑を守ろーう」

「地獄坂を殺シてたらフク野菜を食べましョウ」

「地獄坂を殺してたらふく野菜を食べよーう」

 エフトルと戦士達のシュプレヒコールを横目に過ぎながら、森川は舌打ちした。

「チッ、化け物共。あんな奴らに獲物を取られてたまるもんですか」

 城智志は何か言いたげに唸っていた。

 プレハブを段ボールで補修した警察署に戻ると、騒ぎのため皆狩り出されているらしく受付に婦警が一人いるだけだった。

「副署長、お疲れ様です」

「署長は」

「予知探偵に会いに埼玉に出張なさってから、まだお戻りではありません。うどんを食べてから帰るとのことで」

「ふん。あいつはその程度の男よ」

 森川は吐き捨てて奥へ向かう。婦警はICレコーダーを止めて引き出しに仕舞った。レコーダーの側面には『署長への告げ口用』というラベルが貼ってあった。

 床や天井が変形した屋内を突っ切り、奧のドアを開けると裏庭に出た。死体を縛りつけた杭が並んでいるのは射撃の練習台であろうか。的にされる前に死体だったかどうかは定かではない。

 裸電球に照らされて、庭の隅に『留置場』という札が立っていた。見張りはおらず、熊用の大きな檻が並んでいるだけだ。中には留置されたまま餓死したらしいミイラが折り重なっていた。

 端の檻に一人、生存者がいた。三十代後半と思われる西洋人の男だ。野晒しの留置場でどれだけの期間過ごしたのか、髪も髭も伸び放題で、灰色のスーツも泥と埃でひどい有り様だ。ポータブルトイレがちゃんとメンテされているのが唯一の救いだろう。

 男の首には鋼鉄製の枷が嵌まっていた。側面に赤いランプが点いている。

 格子に背を預け座る男に、森川は冷たく声をかけた。

「ローンガンマン」

 留置された男は世界的な怪盗集団・エクリプスの最後の生き残りだった。ローンガンマンは疲れた灰色の瞳を森川に向けるだけだ。彼女がオートマチックを抜いても身じろぎすらしない。自分の命に頓着しない瞳。

 森川は引き金を引いた。扉に掛かっていた大型の南京錠が一発でひしゃげ落ち、軋みを上げて檻が開いた。

「出なさい。これも返しておくわ」

 城の抱える木箱から大型リボルバーと専用の弾薬を取り出し、ローンガンマンへ放り投げる。無視するかと思われたが、ローンガンマンは素早く手を伸ばして受け止めた。

「また勝負したいのか」

 ローンガンマンが枯れた低い声を発した。森川は首を振る。

「違うわ。弱ってる相手に勝っても私のプライドは戻ってこないからね」

「それほど弱ってはいない。食事は貰っていたからな。一日一食だが」

 皮肉ではないのだろう、ローンガンマンは苦笑すらしなかった。

「とにかく人手が足りないのよ。私とチームを組む気があるのなら自由にしてあげるわ。そこらの化け物より、私に銃で勝った男の方が信頼出来るしね。イベントが終わった後は、日本を出てくなりまた泥棒をやるなり好きにすればいいわ」

「いいのか。俺は裁判を受ければ死刑以外あり得ない身だぞ」

「八津崎市の警察機構は独立してるのよ。うちの市長は絶対よ。どの国の政府も口出し出来ないわ」

「……。イベントとは地獄坂の件だな。奴の宣言は俺にも聞こえた。夕方には紅本という女が契約を進めに来ていたな。脱獄させてやるからサインしろとか。無意味な誘いだ……む」

 愛銃に弾を込めるローンガンマンの手が止まった。

「グリップをいじったな。ガワは同じだが、感じが違う」

「……。威力を増すための改良よ。重量も重心も変わってない筈だけど」

 ローンガンマンはトリガー・ガードに人差し指を入れたままクルリと拳銃を回し、更には右手から左手へ素早く持ち替える。曲芸のような派手さはなく、手に馴染ませるための動きだった。

「まあいいだろう」

 ローンガンマンの呟きに森川も息をついた。それが安堵の息であったと、おそらく彼女自身も気づかなかったろう。

「そうだ、これが残ってたわね」

 森川は小さなリモコン装置を取り出して、四桁のキー番号を押した。ローンガンマンの首枷が、ピーン、と軽快な電子音を発し、赤いランプが消えた。

 首枷は、警察署の敷地を離れると爆発する逃走防止装置だった。

「今機能をオフにしたわ。鍵は後であげる。まずはシャワーを浴びなさい」

 ローンガンマンは別段嬉しそうな様子も見せず、歩いて檻を出た。そしていきなり右腕を振りながら左掌で撃鉄を叩き、発砲した。

 しなる銃口は前を向いていたが、破壊音はローンガンマンの首筋で聞こえた。ちぎれた首枷が地面に落ちる。

 特殊な銃身を使った超絶的な技量は、弾丸をUターンさせ正確に首枷の蝶番を破壊したのだ。わざわざハイリスクな真似をしたのは愛銃のコンディションを確かめるためか。そして、彼は自分が死ぬことなど何とも思っていないのだろう。

「腕は衰えてないようね」

 満足げに森川が頷いた。

「誰かが言っていたが、人殺しは弱くならないらしい」

 ローンガンマンは自嘲気味に応じた。

 城智志は噛まされた鎖を指してアピールを試みたが、無視されたので黙って木箱を抱えてついていった。

 

 

  七

 

 剣里火と名乗る存在は赤い世界を見ていた。

 巨大な赤い塊がひしめき合うだけの世界だった。他に生物はいない。重力もない。或いはこれが重力なのかも知れない。塊は立方体や直方体で、幅数メートルのものから数キロに及ぶものまであり、殆ど隙間なくぎゅうぎゅうに押し合って微妙なバランスを保っているのだった。透明度が高いため透けて見えるが、彼方まで赤い塊が重なり続けるだけで何もない。

 赤い。赤い。赤い、世界だ。

 赤い巨大な塊に挟まれ、剣里火は身動き取れずにいた。表面の硬度はそれほどでもなく、剣の体は完全に潰されることを免れている。しかし、状況は何も改善しない。

 地獄坂明暗の宣言を聞いた時、剣は極寒の世界にいた。そこではまだ蛆のような生き物が氷の上を蠢いていた。地獄坂の待つ世界に移動を試みたが、この赤い塊の隙間にもう十時間は囚われている。ラジオのチューナーをいじるように次元を移動する剣の能力は、移動の揺れ幅が大きくなりつつも自分で調整出来る余地は小さくなっていた。目的の世界まで百七十以上の世界を越えねばならず、残り六日半のうちに到達するのは不可能に近い。

「ぐうぅぅむ。むううううぅぅぅ。ぅぅぅぅむうぅぅ。うぐうぅぅ」

 静寂の世界に剣の呻き声だけが響く。錆びついた機械のように掠れた声だ。しかしそれを聞く者はこの世界にはいない。ダークグレイのロングコートを纏い、同じ色の鍔広帽を目深にかぶる剣の存在は、この赤い世界における唯一の異分子だった。

 いや。

「剣里火さん」

 別の声がした。

「それとも、ブラックソードさんとお呼びした方がいいですか」

「むう」

 剣は左に鍔広帽を向けた。

 声の主は人間の、若い男の姿をして浮かんでいた。赤いスーツは空間を占める塊のせいでなく本当に赤いようだ。髪も唇も赤く、更には瞳までも赤かった。

「お久しぶりですね、紅本亜流羽です。あの時は女性の姿で断られましたので、今回は男になってみました。あなたの事務所の上に私の事務所を移転したのですが、ご挨拶はまだでしたね」

「……。あの悪魔探偵と呼ばれていた女か。熱心に契約を勧めていたな」

「ええ、今回も契約の勧誘に参ったんです」

 紅本は赤い唇を笑みに曲げた。残酷な微笑。

「よく生身でここまで来られたものだ。人間ではないようだが」

 剣の指摘通り、紅本亜流羽の体は紙のように薄っぺらだった。それで巨大な塊の間を滑り泳いできたらしい。

「契約のためなら何処にだって参りますよ。たとえ地獄でも。流石の私も天国には入れませんが」

 冗談のつもりだろうか、その冷たい微笑からは邪悪さしか読み取れない。剣の方もひしゃげた鍔広帽に隠れ、表情は見えなかった。

 紅本は平面になったブリーフケースから書類とペンを取り出した。ペンだけはポンッ、軽い音を立てて膨れ、立体形状を取り戻す。

「契約によってこちらがご提供する内容は以前お伝えした通りです。次元移動の能力を強化して、自由自在に世界間を移動し、好きなだけ留まることも可能になります。もう振り子のように世界を漂う必要もありません。サインして頂ければすぐにご提供出来ますよ」

「契約しよう」

 剣は即答した。

「あの時とは状況が異なる。わしの希望は、その能力の強化が七日間……地獄坂との片がつくまで維持されることだけだ。それは可能か」

「充分可能です」

「ならば良い。世界が守られさえすれば、その後わしはどうなっても構わん。魂を食われようが、すり潰されようがな」

 淡々とした、本気でそう思っている口調だった。

 何故か、紅本の表情が固まった。それはほんの二秒ほどで、再び悪魔的な微笑を浮かべると「では、サインを」とペンを差し出した。

 赤い塊に挟まれたまま、剣は黒い手袋を填めた右手をずらしてペンを掴み、契約書にサインした。

 

 

  八

 

 野菜畑に囲まれた探偵ビルの最上階は黒贄礼太郎の事務所だ。階段を上がるとすぐに古い木製のドアがあり、『黒贄礼太郎探偵事務所』という彫り込み式のプレートが貼られている。その上にはマジックインキで『クラニレイタロウ クロニエじゃありません』と書き込まれ、更に上に『アルメイル元魔王』とある。『元』の字だけ妙に小さかった。

 プレートの下に貼り紙があった。『受付時間は午前十時から午後六時までです。それ以外の時間帯には探偵として応対出来ない場合があります。』という下手糞な字の注意書き。

 ドアを開けると濃厚な血臭と壁中に飾られたマスクが客を出迎えることになる。ホッケーマスクや縁日で売っているような特撮ヒーローのお面、溶接工の防護マスクから、バケツの残骸や伸びきったブルマ、血塗れのビニール袋など変なものまで、また、著作権上の問題からここでは言及出来ない類の、耳の大きなネズミや耳のない猫のかぶりものもあった。

 その右隣の部屋はベッドや冷蔵庫のある生活のためのスペースで、普段から開け放しになっている。左隣に続くドアは二重の鍵で厳重に守られた凶器の保管庫だ。更に奥には何やらお気に入りの部屋があるらしいのだが、滅多に開けないため存在を知る者すらごく僅かだ。

 マスクだらけの部屋に視点を戻すと正面奥に黒贄の机があり、その手前に客用の椅子が置かれている。ただし、ソファーなどではなく、公園から盗んできたような色褪せた木製ベンチだ。

 右の棚には人間の内臓のようなものや機械部品が乱雑に収まっていた。後者は何か画期的な凶器を作ろうとして失敗し、放り出してしまったかのようだ。上の段には黄金のトロフィーがある。地球に立つ男の像だが両腕がなかった。トロフィーの隣には広口の大きな瓶があり、防腐液に人間の頭部が浮かんでいた。可愛らしい少女の生首で、穏やかな表情は眠っているようにも見えた。

 棚の左横のそれなりに高級な椅子には骸骨が腰掛けていた。関節を針金で繋ぎ合わせ、骨折部分も丁寧に修復してある。髑髏の顔には雑誌から破り取ったらしいミラ・ジョボヴィッチの顔写真が貼りつけてあった。

 部屋の左側には小さな事務机とパイプ椅子がある。机の上には『今日の園芸』『野菜を食べよう』などの雑誌と国語辞典が開いてあった。

 黒贄本人の机は木製で、所々に焦げ目がついている。ダイヤル式の黒電話と、上面に丸い穴の開いた箱が載る。依頼人に凶器を決めさせるため、一から百までの番号を書き込んだくじが中に収まっていた。

「ようこそ、私が黒贄礼太郎です。通称殺人鬼探偵。別にクラちゃんと呼んでも構いませんよ」

 割れた窓を背に、安物の丸椅子で腕組みする男が言った。

「まあどうぞ、おかけ下さい。いいからかけろ」

 手でベンチを指すが、男の前には誰もいなかった。

「さて、ご依頼の内容は何ですかな。うーむ。殺しですか。いや、私は殺しの依頼は受けないんですよ。無関係の人は沢山殺しますがね。ふっふーん」

 男は自慢げに鼻を鳴らした。

「まあしかし、お話くらいは聞いてあげますよ。ターゲットは誰です。ああ、なるほど、あの人ですか。なるほどなるほど。……。全然知りませんな。あっはっはっ」

 男は誰もいない空間に向かって嘲笑を浴びせる。

「で、報酬はお幾らですかな。ふむ、一億円。ちょっと足りませんな。百万円くらいは頂かなくては。何しろ私は元魔王ですから。アルメイルの強敵共をバッタバッタと薙ぎ倒し、ざっと百万人くらいはぶち殺したんですから。いいか、一億人どころじゃない、百万人だぞ」

 男の声は興奮で大きくなっていく。正面のドアが静かに開いていくのも目に入っていないようだ。

「なんたって俺様は世界最強の黒贄礼太郎様だあっ。バンバン殺すぜ何でも殺すぜーっ。そうだ、報酬は野菜でもいいぞ。百万円分の野菜だ。あっはっはーっですなー。世界中の野菜は俺のものだあああああぁあれっ、あひいいぃぃ」

 ドアの隙間からギラつく瞳が覗いていることに気づき、スライミー藤橋は黒贄の椅子から飛び上がった。水分で膨れた体を波打たせ床に蹲る。

「ごめんなさいごめんなさいほんの出来心です許して下さい助けて下さい」

 スライミー藤橋は許しを請いながらナメクジのように壁を滑り、体をうまく変形させて破れ窓の隙間から屋外へ脱出してしまった。

 邪魔者がいなくなったのを確認すると、ドアを開けて大谷五郎が入ってきた。鋲つきの黒い革ベストとズボンという本来の服装に戻っている。ベストの背には銀色の刺繍で『人間凶器』という字が入っていた。

 大谷はボストンバッグを提げていた。机の上のくじ箱を睨み、中を覗き込む。

 それからゴミ用のビニール袋を出し、箱をひっくり返して中身を全て袋に入れてしまった。大谷の分厚い唇が悦楽に歪む。

 ボストンバッグを開けると、折り畳んだ紙片がぎゅうぎゅうに詰まっていた。

 全て、『101番』と書かれた紙片だった。額のタトゥーと同じ、大谷の凶器番号。

 大谷五郎は小さな目を異様な光に染め、くじ箱に自分のくじを押し込んでいった。

 

 

  九

 

 午前二時。黒贄礼太郎はパトカーを押して歩いていた。

 帰り道に寄ったうどん屋は火事で全焼した。大曲は代金を払わずに済んだと喜んでいた。

 東京へ続く道路がタンクローリーの玉突き事故で炎上し、脇道に入れば地盤沈下で前の車百台近くが呑まれた。山に入れば山火事と土砂崩れのダブルパンチ。都市に戻ればUFOが落ちてきた。そして、パトカーのエンスト。放置された車両に乗り換えようとすると手が触れる前に爆発して二十メートルも吹っ飛んだ。人の乗っているものを徴用しようと停車させると、後続のトラックに追突されスクラップとなった。トラックも爆発した。列車は脱線転覆した。

 そんなことを四十回ばかり試した末、大曲源と草葉陰郎、薄井幸蔵の乗ったパトカーを黒贄が押していくことになったのだ。

 分厚い黒雲が夜空を覆い、雷光が半ば廃墟と化した都市を照らす。そのたびに誰かが落雷で死に、何処かでガス爆発が起き、残ったガラスが割れる。生きたまま焼かれる人々の苦鳴。地震と地盤沈下で次々に建物が倒壊する。墜落した葉巻型UFOが道路を滑っていき、渋滞の車列数千両を一瞬で粉々にした。

 死体の転がる歩道をエンストしたパトカーは進む。適当にハンドルを握り大曲は欠伸する。

「こりゃあ、帰り着くのは朝になりそうだな」

「申し訳ありません。僕のせいです。生きているだけで災難をばら撒いてしまうのですがもう死ねません。本当に申し訳ありません」

 後部座席の薄井がまた謝った。彼は背を丸め、自分の額を膝につけた姿勢を続けていた。ちなみに彼はうどんを二杯食べた。

「それにしてもこのパトカーだけは何故か無事だな。エンストはしたが。メンツもちゃんと生きてるし」

「私は最初から死んでいますので」

 薄井の隣で草葉が言った。車内でも雨の降る傘を差しており、シートはびしょ濡れになっている。

「私は思うのですが、災難というのはそう感じる人がいて初めて災難として成立するのではないでしょうか。つまり、私のように元々無力で儚い存在や、災難を感じる能力に欠けている存在、または元々幸福など感じていない人にとっては疫病神の力も無効なのではないかと。私達が薄井さんの同行者として選ばれたのはそういう理由のような気がします」

「ふうん。しかしそりゃおかしな理屈だな。俺は幸福で仕方がないもんな。結婚生活も充実してるし、この幸せを失うのが怖くて怖くて」

 そう言う大曲の目は、やはり死んだ魚のように濁っていた。

 草葉は何も答えず、溜め息をついて目を逸らした。

「それよりお腹が空きましたな。そろそろ夜食にしませんか。昼も夕もうどんでしたし、ちょっと焼肉屋なんてどうでしょう」

 後ろからパトカーを押しながら黒贄が声をかける。

「肉ならその辺に転がってるから、クロちゃんは好きなように食べなよ」

 自分だけビーフジャーキーを咥え、大曲が脇の道路を指差す。UFOの通り過ぎた後には確かに焦げた肉が散らばっていた。ただし焦げた衣服もへばりついていたが。

 黒贄は悲しげに首を振る。

「私はカニバリズムの趣味はないんですよ。殺した相手を食べれば食費には困りませんが、それは殺人の純粋性を損ねてしまうんです。お金のための殺人もいけませんな。しかしお金がないと食べ物を買えないんです。一日三度の食事より私は殺人が好きですが、一日四度の食事ならどうかと言われるとちょっと悩んでしまうんですよ。いやそれでも殺人を取りますけど。なら一日五度の食事なんて言われてしまったら、ああ、私はどうすればいいんでしょうな。人は野菜のみで生きるにあらず、なんですよ。大体藤橋さんが肥料に使うお金も馬鹿にならないんです。いやはや、生きるということは本当に大変ですなあ」

 ぶつくさ愚痴りながら黒贄はパトカーを押し続ける。人々が避難していた公園の前を過ぎる時、五才くらいの幼児が嬉しそうに着ぐるみの黒贄を指差した。

「ママー、あれ見て。せんとくんがパトカー押してるよ」

「たーくん、それは言っちゃ駄目っ」

 母親は慌てて息子の口を塞いだが手遅れだった。

 その言葉は表に出てしまった。しかし、子供だから著作権のことが分からなくても仕方がないのだ。

 

 

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