一
ポルルポラ星人の最終兵器『ポ・ラ・ポパ』が発動したのは午前六時十七分だった。母星ル・ポラから放出された破壊エネルギーは五十六億光年の距離を一気に飛び越して、太陽系を丸ごと消滅させる筈だった。
だが最終兵器を想定した地獄坂明暗の防衛機構もまた完璧に機能した。核ミサイル一兆発でも到底及ばないほどのエネルギーを、この太陽系でなく異世界の空間に転送したのだ。最終兵器の攻撃を受け流されポルルポラ側に動揺が走る。しかし大首長は再度の攻撃を命じた。更に出力を上げた二度目の攻撃も同じく防がれた。蓄えた余力を振り絞っての三度目の攻撃もやはり無駄に終わった。
五分後に地獄坂の返礼が届いた。受け流したエネルギーを更に転送して発射元に返してきたのだ。住民の殆どが何が起こったのか知らぬまま、母星ル・ポラは一瞬で消滅した。最終兵器の成果を見届けるため太陽系外で待機していたポルルポラの宇宙戦艦十八万隻は半数が内部から爆発した。残り半数の乗務員は運動神経を麻痺させられ、生きたまま全身が腐っていき一分かけて完全に溶解した。空になった九万隻は自動操縦で暗い宇宙を無意味に漂い始めた。ポルルポラの生き残りが回収する見込みはあるのだろうか。
ポルルポラの攻撃は完全に失敗し、地獄坂のプライドを回復させることとなった。
二
地獄坂の全世界完全滅却宣言から四十五時間が経過した午前九時。未知の勢力による空襲が八津崎市を覆っていた。何処からか無数の黒いカプセルが降り注ぎ、数秒に一回の頻度でハルマゲドン・キャッスルより閃光が発せられると黒い粒は全て消えている。だがすぐにまた上空から黒いカプセルが降り始めるのだ。そのうち黒プリンから棘が伸び、ステルス処理を破られた巨大な機体がフラフラと墜ちていった。爆撃機は一機ではないらしく、黒いカプセルは変わらず降り続けている。
カプセルが着弾したら何が起こるのか、まだ一発もそうなっていないので分からないが、破滅的な効果を発揮することは確かだろう。八津崎市を守っているのが結果的に地獄坂明暗の方であるのを、市民達はどう思っているのだろうか。
いや、正直彼らは何とも思っていないのだろう。街では略奪や通り魔や銃の乱射による示威行為、それを追い回す警察といういつもの光景が繰り広げられている。
半壊した喫茶店の破れ窓からそれを眺める若いカップルがいた。男はコーヒーカップを置いて溜め息をつき、気だるく呟いた。
「やっぱり世界は終わるんだろうな。俺達の人生設計なんて全てぶち壊しだな」
三個目のケーキをフォークで割りながら、女が言った。
「終わらないわよ。世界が滅ぶとかどうとかって、いつもアニメや映画でやってるじゃない。男ってそういうのが好きよね。でも結局、現実は続いていくのよ」
「そうかな。でも、やっぱり俺は、世界が終わるような気がするな」
「終わらないわよ。エルメスとルイ・ヴィトンのバッグも後三つずつくらいは欲しいし、この間貰ったショボいイヤリングなんかよりもっと大きなダイヤも欲しいし、あなたのご両親に会わないといけないし、式の日取りも決めないといけないしね」
「……。やっぱり俺は、世界が終わると思うな」
「大丈夫、終わらないわよ。だから今年の夏はグァムに連れていって……」
「うるせえっ世界は終わるんだあっ」
男は女の額に手斧を叩きつけた。
「ぎええっ終わらないわよっ」
女は刺身包丁を男の左胸に突き刺すと、テーブルに突っ伏して動かなくなった。男も席を立とうとして倒れ、一メートルちょっと床を這ったとこで力尽きた。世界が終わる前に若いカップルの人生は終わった。
中年のマスターは黙って死体の懐を漁り、財布とエルメスのバッグを徴収した。
マスターがふと顔を上げると、破れ窓から物欲しげに覗く男がいた。
百九十センチを超える長身に埃塗れの黒スーツで、ネクタイはしていない。自分でカットしたようなバランスの悪い髪にもやはり土がついていた。血の気のない白い肌。端正な顔立ちだが切れ長の目は眠たげで、薄い唇は何かを面白がっているように淡い微笑を浮かべている。
黒スーツの男は、十四時間かけて地上に帰還した黒贄礼太郎だった。
「い、いや、これはですね……」
言い訳しようとするマスターに、黒贄は首を振った。
「いえいえ、お気になさらずに。ここはお店であり、あなたは店主でいらっしゃる。ならば客を殺してお金を奪う権利もあなたはお持ちな訳です」
「いや、違います。私は殺しては……」
「そうご謙遜なさらずとも大丈夫ですよ。ただ、私としては一つだけ言っておきたいことがあるのです」
「な、何でしょうか」
マスターは顔を強張らせて黒贄の次の言葉を待つ。
「その残ったケーキを頂けませんか」
黒贄は女の頭の横にある、ショートケーキの切れ端を指差した。少々血がついている。絶句するマスターの目の前で窓の破れ目から手を伸ばし、黒贄は素手でケーキを奪取した。一口で平らげると深々と頭を下げた。
「どうもご馳走様でした。お店のご繁盛を祈っておりますよ」
黒贄は喫茶店の前を去った。通りの喧騒を横目にヨロヨロと歩く。腹が鳴るのを押さえているところからすると、負傷しているのではなく空腹で弱っているのだろう。
「あー、お腹空きましたなあ」
黒贄は悲しげに呟いた。
「確かまだインスタントラーメンが残ってましたな。三袋百円の。帰ったら奮発して一度に二袋食べるべきでしょう。いや、ここは思い切って三袋まとめて食べるという手もありますな。たまにはそんな冒険もいいですよね。そういえば今回の報酬は幾らでしたっけ。確か一千万円くらいは頂ける筈だった気がしますが。世界を救う報酬が、まさか五万三千円なんてことは……いやいや、これは偽の記憶だ。そうに違いない」
ブツブツ呟いているうちに裏通りの蔓野菜ビルに着いた。前にパトカーが停まっている。その向こうには高級車もあった。
「おや、新しい依頼人さんですかな。お金持ちの。私に五万三千円以上の報酬を払ってくれるような」
黒贄の疲れた歩みにも力が戻ってきた。階段を三階まで上ったところで黒贄は目を輝かせる。
「ほう。なくした凶器が一つ、戻ってきたようですな。そんな気配を感じますぞ。……おやっ」
四階に上るとすぐ事務所の入り口ドアがあるのだが、黒贄礼太郎探偵事務所の表札があるべき場所に大きな張り紙が重ねてあった。
『地獄坂対策作戦会議室 地獄坂明暗へ 自信がないなら遠慮なく覗け 八津崎市警察署長 大曲源』と書かれていた。黒贄と同じくらいに下手な字だ。
「ううむ。私の事務所はいつの間にか警察に徴発されていたんですなあ」
ドアを開けると部屋には七、八人もの客がいた。椅子が少ないため立っている者が多い。ちゃんと黒贄の席は空けてある。
「よう、クロちゃん、来たかい」
客用のベンチを一人で占領して寝転がり、大曲が片手を軽く上げて黒贄を迎えた。彼以外には寸胴紳士のエフトル・ラッハート、窓際でいつでも逃げ出せる態勢の神楽鏡影、隅にひっそりと傘を差して立つ草葉陰郎、左の凶器庫へのドアに逆立ち状態で寄りかかる大谷五郎、それに、エリート然としたスーツの男がいた。
「ふうむ。随分とお客さんが多いようですが、私にどんなご依頼ですかな。勿論五万三千円以上のご依頼なんでしょうな。いえ、お金に意地汚いと思われるのも心外ですが、素うどん一杯分のエネルギーで丸一日トンネルを掘るのも大変でしてね」
黒贄は威厳たっぷりにみみっちい話をする。手をヒラヒラさせて大曲は否定した。
「いや新しい依頼じゃなくてな。うちの署の建物がちょっと燃えちまったから使わせてもらってるのさ」
「おや、それはお気の毒でしたね。元々安普請でしたけど。地獄坂さんの攻撃ですか」
「それがどうも、署員の煙草の火の不始末らしくてな。全く困ったもんだ」
そう言う大曲のスーツの尻が焦げていた。火の不始末の犯人は大曲だと思われるのだが、誰も突っ込みを入れたりはしなかった。
「そういえば、これだけお客さんがいるのに私の助手の姿が見えませんな。野菜畑の手入れ中ですかね」
黒贄は室内を見回して、右の棚で視線を止めた。少女の生首を収めた広口瓶の横に、大きめの瓶がある。まだ空だった筈の瓶だ。
瓶にはゼリー状の物体が収まっていた。雨合羽や短い髪もごちゃ混ぜになって詰め込まれている。瓶の内壁にピッタリついて変形した顔が少しずつずれ動き、黒贄と目が合った。
瓶の中で小さく縮こまっているのはスライミー藤橋だった。
「ま、まあ、お客さんが多くて部屋が狭いから仕方ありませんよね」
黒贄は適当なことを言って目を逸らした。そこへ錆びた金属を擦り合せたような声がかかる。
「久しぶりだな」
黒贄は斜め後ろを振り向いた。
「おや、意外に早く帰ってこられましたな。三十年後くらいになるかと思ってましたよ」
相手は苦笑したようだった。ただしダークグレイの鍔広帽に隠されて顔は見えない。
壁際に立つ男は二階の事務所の主・剣里火だった。帽子と同じ色のロングコートはあちこちに染みや小さな穴が残っている。艶消しの黒いブーツも泥がこびりつき、長い旅を共にしたような風格を備えていた。黒い革手袋を填めた左手が上がり、目深にかぶった帽子の鍔に軽く触れる。それが彼なりの挨拶らしかった。
「少々急いだ。わしの役割も幸い用意されておったようだ。ただ、出発する前にお主の顔を見ておきたかった」
「いけませんな、剣さん。それは不吉な死亡フラグという奴です」
黒贄は微笑して言った。
「死亡フラグを回避するには良い方法がありますよ。私に全財産を貸して頂ければ、必ず生きて帰ってこれます」
「フフ。良いアイデアかも知れんな」
剣が笑った。ザラついた声音だったが、本当に、楽しげな笑い声だった。
「薄井さんはどうなりました」
雨降り傘を差す草葉陰郎が尋ねた。彼の周囲の床はまた水溜まりが広がっている。
「なんだか爆発に混ざって行方不明になってしまわれたので、私一人で帰ってきました。お腹も空いてましたからね。いやはや、惜しい人を亡くしたものですなあ」
ちっとも残念ではなさそうに黒贄は答える。
「そうですか。まあ死んではいないでしょう。味方に災厄を落とされる心配もありますから、置き去りは正しい判断です。彼は私のように人畜無害ではありませんからね」
幽霊探偵は濡れた髪のへばりつく顔に陰気な笑みを浮かべた。
「ところで大事な会議の最中に申し訳ないのですが、私は食事をさせてもらいますね。何しろ素うどん一杯で丸一日働かされましたので……ありゃっ」
黒贄は眉をひそめた。右隣の部屋から何かを啜る音が聞こえる。
「そちらにもお客さんがいらっしゃるのですかな。何かを食べておられるような……」
右の部屋を覗いて黒贄は目を見開いた。一人の黒人が安物ベッドに腰掛け、鍋を器にしてインスタントラーメンを食べているのだった。
「そ、それは私の、三袋百円の……」
黒人は器用に使っていた箸をツルリと飲み込み、更には鍋を傾けスープを吸い始めたと思ったら鍋ごと丸呑みし、食器も中身も全て平らげてしまった。
「ご馳走様でした。他に食べ物はありませんか」
黒贄は戸棚を確認した。インスタントラーメンの空袋が散らばるだけだ。冷蔵庫を開けてみるが何もない。ただしそれは元々だった。
「むうう。食べましたね……。私の大切なラーメンを、食べてしまいましたね……一つしかない鍋を……」
「はい、そこそこ美味しく頂きました。他の食べ物はないですか」
黒人は平然と返す。
「残念ながらありません。しかし私の中からどうもムラムラしたものが湧き上がってきているようです。しかし殺人鬼が私情で人を殺すのは良くありませんから、これはきっと殺意ではないのでしょうね。結果的にどなたかがお亡くなりになってしまうとしても」
空きっ腹を抱え、黒贄の声は珍しく怨念を滲ませていた。そこへ大谷五郎が立ち上がり、机の上のくじ箱を持って恭しく黒贄に差し出した。
「こりゃどうも。気が利く凶器を持って私は幸せですな」
大谷は久々の再会にもサムアップと笑顔のみで応え、再び逆立ち状態に戻った。黒贄が自分で箱の穴に手を入れようとした時、窓際にいた神楽が丁寧語で告げた。
「彼はミスター・ドリトスです」
神楽鏡影はいつもの黒い着物姿だったが、何かの術にエネルギーを消費しているのか頬がこけ、後ろで束ねた長髪に白いものが混じっている。
「ほう、あのミスター・ドリトスさんでしたか。なるほどおう……全然知りませんな」
いつものかけ合いを一人で済ませ、黒贄はやはりくじを選ぼうとする。だが神楽は追い討ちをかけた。
「二代目世界殺人鬼王です。四ヶ月前ニューヨークで行われた第二回大会で、他の参加者八百十三名全員と一般市民六百二十万人を食い殺して完璧な優勝を成し遂げた男ですよ。黒贄さんなら彼の価値が分かるのではありませんか」
「むう。第二回の……」
黒贄はひとまずくじの箱を机に戻した。自分のベッドに腰掛ける黒人をじっとり観察する。
「私の知らないうちに第二回が行われていたのですか……。トロフィーを新調したいと思っていたのに、どうして協会は私に声をかけてくれなかったんでしょう。……ん、良く考えると私は協会に登録してませんでしたな」
ミスター・ドリトスと呼ばれた男が応じた。
「私も協会に登録していません。ただ、お腹が空いていたのです。食べていたらいつの間にか優勝と言われて、トロフィーと賞状を貰いました。それも食べました。今回も好きなだけ食べていいと言われて、飛行機のチケットを貰ったのです。それも食べました。次の食べ物はまだですか」
悪気なく喋るドリトスは派手なピンク色のスーツを着ていた。長いドレッドの髪型は頭の右半分だけで、左半分は綺麗に剃り上げて光を反射している。大きくへの字に曲がった細い眉の下は、濃いサングラスで隠れていた。両手の全ての指に銀の指輪を填めている。クラブのDJかコメディアンのような奇抜なファッションではあるが、第二回世界殺人鬼王の迫力や風格は何処にも感じられなかった。数百万人をどうやって食い殺したのか。彼の唇は分厚いが、それでも普通の人間のものだ。しかしこの口は鍋一つを何の抵抗もなく呑み込んだのだ。
一通り観察を終えて黒贄は言った。
「なるほど、お腹が空いておられるんですね。でも、それは私もなんですよ。更に驚いたことに、ここは私の事務所で、あなたが食べたのは私の大切なご飯なんですよ。勿論、私のインスタントラーメンと鍋とお箸は返して頂けるんでしょうな」
「いえ、食べてしまったのでそれは無理です。次の食べ物が欲しいです」
ミスター・ドリトスは唇を舐める。
「……。もしかすると、あなたの口に手を突っ込んでみたらラーメンと鍋と箸が引き摺り出せるかも知れませんね。ついでにちょっと間違ってあなたの内臓が出てきてしまっても、特に問題はないですよね」
黒贄は淡い微笑を浮かべたままだが、滲み出る圧力が空気を軋ませていく。それを感じているのかいないのか、サングラスをかけたドリトスの内面は読み取れない。
「生き物を食べるには手順が要ります。食べさせてもらえますか」
「そうですね。何事も試してみるものですよね。突っ込んだ手が間違って胃でなく脳の方に行っちゃっても、仕方のないことですよね」
「広い場所がいいです。あまり美味しくなさそうですが食べ物は食べ物です」
「分かりました。ちょっと表に出ようじゃありませんか。そこであなたの短い将来のことを相談しましょう」
黒贄の丁寧な挑発に激昂することもなく、ミスター・ドリトスは立ち上がった。再び大谷五郎が逆立ち解除してくじの箱を差し出そうとする。
「いえいえ、今回は必要ありませんよ。ちょっと手を突っ込んで中身を引き摺り出すだけですから。本当にすぐ終わることですからね」
黒贄に断られ、大谷は残念そうに下がっていった。
窓際の神楽が黒贄に言った。
「一応忠告しておきます。ミスター・ドリトスの別名は、『ダンシング・マン・イーター』です」
「ご忠告ありがとうございます。ダイソーの俎板ですね。役立たせて頂きますよ」
笑顔で返す黒贄に、神楽は首を振って嘆息した。
第一回と第二回の殺人鬼王が階段を下りていく。居合わせた他の者達は黙って見送っただけだ。少しして剣里火が大曲に問うた。
「止めなくて良かったのか。味方が一人減ることになるぞ。ドリトスという男がどれほどのものであれ、結果は同じだろう」
黒贄の人間性は別にしても、少なくとも実力を信頼している台詞だった。
「まあいいんじゃね。あっちも協調性なさそうだし、共闘なんてあんまり出来そうにないしな。それより大発見があるんだな。ミスター・ドリトスっていってちょくちょくスナック菓子食べてたから、ドリトスが好物だと思うだろ」
ベンチに寝転んだまま大曲は言った。
「それがなあ、スナックの空袋見たらドリトスじゃなくて、チートスだったんだ」
剣は絶句した。やがてボソリと草葉が呟いた。
「大丈夫ですよ。どっちも同じメーカーですから」
黒贄礼太郎とミスター・ドリトスは探偵事務所ビルの前で対峙した。両者の距離は二メートルを切り、すぐにでも相手を殺せるだろう。互いに何も持たぬ手を自然に垂らしている。黒贄は土塗れで空腹によろめいているが、目はぬめるような殺意を放っている。ドリトスのサングラスで隠れていない部分は無表情で、緊張も感じられない。
既に黒いカプセルの雨はやんでいた。所々立ち昇る煙は墜落した爆撃機か、それとも誰かの放火か。四階の破れ窓から神楽鏡影が覗いている。彼は何故か両手で自分の耳を塞ぎ、目を限界まで細めていた。
「始めましょうか」
ミスター・ドリトスが言った。
「いつでもどうぞ」
応じつつ黒贄の手がゆらりと上がっていく。そこに一転してトーンの高いドリトスのかけ声が飛んだ。
「パッパラピッポラポンガポンガ」
「え、えっ」
ドリトスはかけ声と一緒にタイミング良く自分の手足を動かしていた。右へ流れるスムーズで洗練された動きは踊っているようにも見える。
かけ声に乗せられたみたいに黒贄の手足も動いていた。右手右足が伸び、続いてドリトスと同じく左足を繰り出そうとしたところで自分の右足に引っ掛かって転んでしまった。
「あれっ」
ドリトスはかけ声と動きを止めた。
「えっ」
黒贄は訳が分からないという顔で立ち上がる。
「いけません。もう一度やりましょう」
「えっ、何ですかこれは」
「ほい、パッパラピッポラポンガ……」
先程より声を大きくして、流れるような手足運びでドリトスは右へ踊り始めた。
「ちょっ、ありゃ」
黒贄の手足も同じように動くが、やはりまた足が引っ掛かって膝をついてしまう。
この時、ミスター・ドリトスを中心とした半径五十メートルでおかしなことが起こっていた。斜めに断ち切られたビルの住民二人と、焼け落ちたアパート跡でテント生活をする一人、そして野菜畑で大根を掘っていた野良犬一匹もドリトスのかけ声に沿って四肢を踊らせていたのだ。黒贄の転倒で皆の手足も止まったが、ビルの一人はそれで二階の床の端から落ちて足を折っていた。
ミスター・ドリトスは溜め息をついた。初めて露わにした感情は軽い苛立ちだった。
「あなたはダンスのセンスがない。だから私の力と噛み合わないのです」
「ううむ。良く分かりませんが、あなたの攻撃は終わりということでよろしいんですかね。ではこちらの番ということで」
黒贄は立ち上がり、悠然と右手を伸ばした。予告通り突っ込むつもりらしくドリトスの口へ……。
ドリトスは避けなかった。だが、黒贄の手が触れるとその顔がグニャリと変形し、全く抵抗なく後頭部まで突き抜けてしまった。貫いたのではなく、押した分だけ顔面もサングラスも頭蓋骨もあっさり凹んでしまったのだ。ゼリーやプリンを指で押した時の現象が百倍の柔軟さで起こったようなものだ。しかしこの男の体の構造はどうなっているのか。それとも空間自体を歪めているのか。
「ありゃ」
黒贄が手を引くのに合わせてドリトスの頭部はすぐに元通りとなった。ゼリーのようにプルプル揺れたりはせず、何事もなかったかのように。
「こんにゃくみたいな面白い体をしておられますな」
今度は黒贄は掌を下に向け、ドリトスの頭頂部を押さえつけた。やはりハーフドレッドの頭もグニュグニュと凹み沈んでいき、胸部から股間までめり込んでしまった。手を引くとすぐ元に戻り、何のダメージもないようだ。
「ふうむ。こんにゃくでも歯で噛み切れますから、試してみてもいいですが……。しかし私はカニバリズムの趣味はないですからねえ」
腕組みして唸る黒贄にあっさりドリトスは告げた。
「では勝負はこれまでですね。他の食べ物はないですか」
黒贄を置いて隣の野菜畑に向かおうとする。四階の窓から神楽が声をかけた。
「作戦会議を始めるので二人とも上がってきて欲しいそうです」
神楽はもう耳を塞いでいなかったが、何故か苦々しい顔をしていた。黒贄とドリトスは素直に四階へ上っていく。
事務所内は散らかっていた。壁に飾っていた仮面が幾つか落ちているし、左の助手用机も位置がずれている。スライミー藤橋の収まった大型瓶は床に転がり中身が零れていた。高級チェアーに座る骸骨標本はそっぽを向いている。
「いやあクロちゃん、さっきは面白かったぞ。皆が一斉に、なあ」
ベンチで寝転んだままで大曲はニヤニヤしていた。壁際の剣里火も鍔広帽をいつもより俯かせているし、雨降り傘の下でずぶ濡れの草葉も陰気な苦笑を浮かべている。
神楽が言った。
「耳を塞いでみたのですが、音声とは無関係なんですね。それにしても驚きました。相性とはあるものですね。ピクリとも動かない人がいるとは思いませんでした」
神楽の賞賛なのか侮蔑なのか良く分からない視線は大曲に向けられていた。どうやら黒贄より上手の男がここにいたらしい。
最初の大曲の台詞に応じ、黒贄は口を尖らせてみせた。
「私はちっとも面白くありませんな。食べられてしまったインスタントラーメンや、大事な鍋や箸の供養をするつもりだったのですが」
「まあ、くよくよすんなよクロちゃん。これやるよ」
大曲の駄洒落に気づかなかったのか気づきたくなかったのか、誰もコメントしなかった。寝転んだまま大曲が差し出したのはビーフジャーキーの袋だった。既に開封されており残った中身は半分ほどだ。
「ありがとうございます。私の悲しみも少しは癒されそうですよ」
黒贄は自分の机について、ジャーキーをチビチビと食べ始めた。神楽は黒贄に近い窓際から事務所の出口側へ移動する。ミスター・ドリトスは取り敢えず予備のパイプ椅子に腰を下ろした。サングラスの奥の視線はどうやらジャーキーを捉えているようで、黒贄は椅子ごと横を向いて逃れた。
「さて。じゃ、メンツが揃ったところで会議始めるか」
漸く面倒臭そうにのっそり起き上がり、大曲が言った。
「皆さん互いに顔見知りというか、クロちゃんを待ってる間に自己紹介は済ませてたと思うが、クロちゃんはそこの禿げたおっさんのことは知らなかったかな」
大曲が指差した先には高級スーツの男が立っていた。四十代であろうか、やや後退したM字型の額は理知的な印象を強めていた。隙のない、冷徹な顔立ちだ。
「ははあ、なるほど、あの方でしたか……。全く存じませんな」
顎を撫でつつ数秒観察した後で、黒贄は尤もらしく断じた。高級スーツの男も事務的な口調で応じる。
「面識はございますが、正直なところ私もあなたのような無政府主義者と知己になりたいとは思いませんね」
「いえ、私ほど秩序を愛する者はいないでしょうな。世界は平和であるべきです。人々が私以外の脅威によって殺されるようなことがあってはならないのです」
「まあまあ、そんなどうでもいいことはさて置き」
不毛な会話を遮って大曲が説明した。
「彼は市長補佐の犬神さんだ。多分八津崎市で一番権力のある人じゃねえかな。影の市長とか呼ばれてる。この人を怒らせたらうちへの予算も入らなくなっちまう。まあ、元々潤沢な予算じゃねえが」
大曲は平気な顔で少々余計なことを言い、改めて皆を見回した。
「さて、これからどうするべきか、ご意見ご質問のある人は」
そこで剣里火が尋ねた。
「わしは手紙の指示を果たせば良いのだな。直接地獄坂明暗という男を倒しに行った方が手っ取り早い気もするが」
「倒したら計画中止って本人に言質も取ったし、それでもいいんだけどな。まだ日数に余裕があるんだよなあ。エクリプスの時みたいに、三日の予定を数時間で片づけちまうようなのも困るし」
誰が困るのか分からないが大曲は言う。
「ということで、ツルちゃんは最終兵器の数減らしといてくれや」
「そのツルというのは……いや、いい」
剣は諦めたように鍔広帽を振った。
「それに、地獄坂って割と強いぞ。アルメイルの精鋭一万人があっさり負けちまったくらいだからな」
大曲の言葉にエフトル・ラッハートが反応した。
「アルメイルは敗北しタ訳ではあリマセん。私を含メ、地獄坂と対決しタ精鋭もまダ全滅しテハいまセんので。戦いハ今も続イていルノです」
エフトルの表情はこちら側での構造上殆ど動かないが、もしかすると気色ばんでいたかも知れない。藤橋の机を占領する彼はトレードマークのシルクハットを失ったため、頭頂部の開口部と欠けた左上顔面に白いTシャツをかぶせて保護していた。
「ふうん。でもなんか勝負ついたからアルメイル滅ぼしたって地獄坂は言ってたよな」
「残念なガラ地獄坂の誤解でスネ。マた、アルメイル世界は滅ぼさレマしたがコこ『狩場』の野菜島ニは千八百万人の戦士が残ッテイます。直接野菜を育てル特権を与えラレた、強者中の強者達でス。野菜の未来ヲ守ルタめ、彼ラニ召集をかケテイマす。多クハ今夜中に八津崎市に到着すル筈でス。更にハ、最強の魔王にゴ出陣頂ケレば私達の勝利は揺ルガないでショウ」
「むう、またあれを外に放つのか」
剣里火の呻き。市長の恐ろしさを知る黒贄と神楽も身震いした。
「却下します」
市長補佐の犬神がすかさず拒否権を発動した。
「八津崎市長の本職は八津崎市の市長であり、八津崎市成立時より百三十六年間、絶えることなく続いてきたものです。それに比べるとアルメイル魔王はおまけの副業のようなものです。市長たる者、無能な部下にそそのかされて軽々しく動くべきではありません」
草葉が「軽々しくといっても、今は世界の存亡の危機なんですが……」とか呟いたが誰も聞いてはいない。
「あナタはアルメイルを侮辱すル気デすか。アルメイルの魔王補佐官トシて聞き捨テナらない発言でス。そレニ何ヨり優先すべキハ魔王ご自身の意思デアり、お伺イヲ立てズ端かラ決めツケるのハ、自分に決定権ガアると勘違いしタ愚か者ノ傲慢・不遜トミナすべきでしョウ」
エフトルは壁に立てかけていたステッキをいつの間にか握り締めていた。その先端がいつ犬神に向けられてもおかしくはない気配だ。
「瑣末な事務処理で市長の手を煩わせないことも私の職務です。これ以上市長にご迷惑をかけるつもりなら、市長補佐としてあなたを処分せざるを得ませんな」
冷然と犬神は告げ、再び丁寧語の応酬から不気味な緊張感が高まっていく。神楽が意外そうな顔をしたのは、単なるエリートサラリーマンという風貌だった犬神の気配が変質したためだ。ミシッ、と音を立てて犬神の顎の筋肉が盛り上がり、黄色い歯列を剥き出しにする。
その歯は、牙のように鋭く尖っていた。
草葉が「話がなかなか進みませんねえ」と呟くがやはり誰も聞いてはいない。しかし大曲の一喝が無益な仲間割れにブレーキをかけた。
「お前ら良く聞けっ、この大曲源様が一番偉いっ。……ような、気がしないこともない」
犬神はムッとした顔で、エフトルは無表情に大曲を見、二人共馬鹿馬鹿しさを自覚したように息を吐いた。
神楽鏡影が話を継いだ。
「市長のことはひとまず後回しにして、直接対決の件です。洲上天心の予知が正しければ、指示された三種の最終兵器を破壊出来たところで、地獄坂にはまだ世界を滅ぼす複数の手段が残されています。つまり、結局は期限前に地獄坂を倒すしか解決策はありません。私としては、残り五日間のうちに入念に準備して態勢を整え、期限ぎりぎりに戦いを挑むのが最良と考えます。これからも他の勢力による攻撃は続くでしょうし、地獄坂のリソースは減りこそすれ、今より強大化することは考えられません。ですから対決は先延ばしにした方が有利なのです」
「確かにこれからが大乱戦の本番ですね。天界からの総攻撃が正午に始まるそうですから。それと冥界からの刺客もそろそろ本命が登場する頃です」
草葉の今回の台詞は皆に届いたようで、彼も少し嬉しそうだった。
「ふうん。悪魔とかどんどん出てくんのかね。今日は悪魔探偵はいねえが」
大曲が小指で耳をほじりながら言う。紅本亜流羽は会議に参加していない。新たな契約者を求めて奔走しているのだろう。
「ちなみに私の担当する冥界と、悪魔のいる魔界とは違いますので」
草葉はボソリと念を押した。
黒贄がジャーキーを大事そうに噛み噛みしながら手を挙げた。
「そんなに待たなくても、私が直接出張して地獄坂さんをやっつけてくれば万事解決ですよね」
「初日のチャンスがあった時にそうしてくれたら良かったんだけどな」
大曲の嫌味にも黒贄はキョトンとしている。
神楽が言った。
「残念ながら黒贄さんでも今の地獄坂を簡単に倒せるとは思えません。彼は前回の敗北を経て充分に対策を講じている筈です。例えば細切れになったあなたの映像を数百台のカメラで全世界に生中継していれば復活の目はありません。あの時のように一瞬の暗闇を作り出す余地もないでしょうね。また、地獄坂もいざとなったら、あなたを包む空間ごと別世界に追放するようなことさえやってのけるでしょう。彼の善意に期待しないことです」
ジャーキーを噛みながら黒贄が反論する。
「いえいえ私なら大丈夫です。一流のプロレスラーのように、生きるか死ぬかというぎりぎりのところでくぐり抜けてみせますとも」
「三沢は死んじまったけどなあ。ああ、どうして死んじまったんだ三沢……」
大曲の嘆きを放置して神楽はエフトルに目を向けた。
「野菜島にまだ戦士が残っているということでしたね。ある程度の数が揃ったら私のところに回してもらえますか。うまく協力し合えるかも知れませんから」
「分かリマした。そノヨウに取リ計らイましョウ。あナタもアルメイル高位ランカーですノデ、招集権をお持チデす」
エフトルはほぼ水平回転しか出来ない首でほんの数ミリほど頷いた。
続いてミスター・ドリトスが手を挙げた。
「次の食べ物はまだですか」
「お前さんの分はない。誰か、まともな質問は」
大曲が即座に却下した。今度は黒贄が手を挙げる。
「食べられてしまった私のインスタントラーメンは誰かが賠償し……」
「さあな。次」
大曲はコンマ三秒の早業で質問を投げ捨てた。
剣里火が聞いた。
「天界と冥界から刺客が来るということだな。宇宙人も地獄坂を攻撃しておるようだし、彼らとわし達で協力して総攻撃に当たることは出来ぬのか」
「無理でしょうね。儚い私と違って、天界の支配者は非常にプライドが高いですし、冥界から派遣される亡者達は憎悪に満ち満ちています。天界と冥界は反目していますので、出会えば地獄坂を放置しての潰し合いになりかねません。また、どちらも八津崎市の住民の安全など毛ほども配慮しないでしょう。皆さんが巻き添えで私と同じ立場にならないことを祈りますよ」
否定する草葉は何故か嬉しそうだ。
「あっ、今妙なことに気づきましたよ」
黒贄がわざわざ手を挙げて言った。
「『儚い』と言っておられるのに、草葉さんの墓は一階にちゃんとありますよね。『はかない』のに『はかある』。この証言は矛盾しています。つまり、犯人はあなただっ」
自信満々に草葉を指差して黒贄は会心の笑みを浮かべる。
疲れた溜め息を吐いて、大曲が立ち上がった。
「じゃ、こんなとこで今日の会議は終了。取り敢えず皆頑張ってくれや」
その一言で参加者達はゾロゾロと退散していった。早速神楽が去り、続いてエフトルが出ていく。市長補佐の犬神も汚いものを落とすようにスーツの埃を払っていった。ミスター・ドリトスが「食べ物は何処ですか」と尋ねながら犬神についていく。
「ええっと、私は何をすればいいんでしたっけ」
黒贄は心細げに残りのメンツを見回した。
「まあ、細かいことはカンちゃんに任せてるから、それまでクロちゃんは適当に殺してたらいいんじゃね。これから色々と押し寄せてくるっていうしな」
「おっ、簡単でいいですね。では折角ですから署長さんにくじを引いて頂けますかな。二枚ほど行きましょう」
途端に逆立ちの大谷五郎が跳ね起きて、机のくじ箱を大曲に差し出した。
遠くで雷鳴が轟いている。そろそろ新しいイベントが始まるようだ。
大曲は無造作に手を突っ込んで二枚取り出す。
「さあーて、恒例のくじ引きが漸く出来ましたな」
黒贄は折り畳まれた紙片を受け取り、丁寧に開いた。「じゃ」と片手を軽く振って大曲は去る。
「ふうむ。一枚目は百一番ですな。戻ってきたばかりで使用出来るとは幸先がいいですね」
主人に褒められた子犬のような顔で、大谷五郎は床に両手をつき、ぐぐい、と胴と両足を真っ直ぐにして持ち上げた。四十五度の斜め逆立ちという異様な体勢で静止する。両足首が丁度黒贄の近くになって持ちやすいようにという配慮だが、信じがたい筋力だった。
「さて、二枚目は……おや。また百一番ですな。何やら以前も同じことがあったような……」
黒贄は眉をひそめ、それから斜め逆立ちする大谷の顔を覗き込んだ。大谷の脳から既に判断力は失われているのか、悦楽の笑みが返るだけだ。いやそれどころか彼は両足首を離して突き出した。
「旦那、片手に一本ずつ持てば解決ですぜ」
人間凶器のここに来て最初の発言がそれだった。
「ううむ。しかし、両手で持っても一つの凶器であることには変わりないですからねえ。二つに分けたら二つの凶器と呼べるかも知れませんが……」
再び雷鳴が響く。人々の叫びが津波となって押し寄せ、何やら大変なことになっているようだ。
「どれ、手伝ってやろう」
まだ残っていた剣里火が歩み寄り、黒い革手袋で大谷の腹に触れた。見事な腹筋の中心に縦の亀裂が走り、音もなく上下に伸びていく。
「おっ」
黒贄と大谷が同時に驚きの声を発した。大谷の体がスキンヘッドの頭頂部から股間まで、完全に真っ二つになったのだ。額の『101』のタトゥーも、綺麗に『0』の中央で割れていた。血は一滴も流れず、十センチ以上も離れた間から脳や内臓は零れてこない。大谷の断面を覗くとおかしなことに、彼の肉体をすり抜けて向こう側の景色が見えた。
「空間の繋がりを少しいじった。肉体に悪影響はなかろう。内側から当てようとすると素通りするから気をつけろ。六時間ほどで自然と元に戻る筈だ」
「おお、ありがとうございます。これで両手で存分に振り回せますよ」
早速黒贄は大谷の両足首を握り、右半身と左半身を別々に振り回した。大谷の左頭部が事務所の天井をぶち破り、同時に右肩は床を凹ませる。
「いい……一度に二ヶ所で感触が味わえる……」
左右の口で喋る大谷の目は、苦痛の快楽に潤み始めていた。
「うむ。喜んでもらえて何よりだ。では、そろそろわしは出発する。ここも大変になりそうだが、健闘を祈るぞ」
剣が背を向けたところに黒贄が声をかけた。
「剣さん、妙にサービスがいいですね。もうちょっとしたたかでずる賢い性格にならないと、死亡フラグが立ってしまいますよ」
冗談めかしていたが、黒贄の瞳には何かを探るような光があった。
剣は振り返り、鍔広帽を少し上向かせて黒贄の顔を見据えたようだ。しかし鍔の下には闇が覗くだけで、彼の素顔は完全に隠されている。
「生きていれば、必ずいつか死ぬものだ」
剣里火は言った。錆びた金属の擦れるような異様な声音は、何処か寂しげだった。
「わしは長く生き過ぎた。この辺りが潮時かも知れん。……だが、生き延びられるよう、もう少し頑張ってみるつもりだ。またお主の顔が見たくなった」
「では、近いうちにまた。いえ別に五年後くらいでもいいんですけどね」
黒贄は微笑していた。剣もザラザラ声で笑った。
「フフ。おぬしは相変わらずだな。では、また会おう」
それで剣は背を向けた。事務所の出入り口まで歩き、ドアを抜けたところで唐突に消えた。
また轟音が届いた。ビリビリと建物に震動が伝わってくる。
「さて、では私達も行きますか」
黒贄は長大な棍棒のように大谷五郎を一本ずつ持ち、事務所を出ていった。
「仮面も奇声もまだ決めてませんでしたな。まあ、なんとかなるでしょう。まさかあの時のように、間に合わなくなって獲物を全部取られるなんてこともないでしょうし。まさか、ねえ……」
黒贄の声が遠ざかっていく。
がらんとなった事務所で、倒れた大瓶から粘液状の中身が零れ出した。床に広がりかけた水溜まりは膨らみを得てスライミー藤橋の顔を作る。
「やっと皆出ていきやがったぜ。全くよう、俺様の城にズカズカ入ってきやがって。だが俺様の頭脳プレイでうまく切り抜けたぜ。この世界最強のスライミー藤橋様のなあ。グワッハッハッ」
高笑いして上半身を出したところで、隅にひっそりと立っていた草葉陰郎と目が合った。
「うわおひえっ」
藤橋は引き攣った悲鳴を上げてまた瓶の中に逃げ込んだ。
「いや……その。別れの挨拶のタイミングを、逃してしまいましてね」
決まり悪そうに草葉は言い、ずっと差していた傘を閉じた。しとしとと陰気に降っていた室内の雨がやみ、幽霊探偵の姿は薄れて消えた。
三
石込町。その地下にはかつて魔術師の死泉によって開かれ、黒贄礼太郎によって閉じられた冥界への門がある。当時暴れていたのは魂のない死体だったが、今、地上に溢れ返るのは冥界の本物の亡者達であった。
魂だけの存在であったものが、門をくぐる過程で実体化し血肉を備える。本人が記憶している自己イメージが形を取り始め、現実世界の妥当性とのすり合わせの末、内臓や筋肉や脳組織が構成される。それは生前の本人に似ているが、完全に同じものではない。記憶が鮮明で、意志力が強いほど再現率は高くなる。
彼らは意志力と擬似生命現象の共同作業で活動し、その肉体によって生者達の首を引きちぎることが出来る。魂そのものに帰属する超能力や魔術、或いは再現された肉体による特殊能力を駆使することも可能だ。ただし彼らも肉体を破壊されれば活動停止を余儀なくされ、傷ついた魂が冥界に吸い戻される。それでも強い意志力があれば致命傷を受けても暫く活動を続けることが出来、生前よりもタフになっていた。
彼らの使命はただ一つ、地獄坂明暗の抹殺だった。冥界の王が約束した成功報酬は、今後千年に亘って自在に復活する権利。何度殺されようが元気に復活し、現世の快楽を貪り続けることが出来るのだ。
この二日間で放たれた六万の亡者達は当て馬に過ぎなかった。三日目となった今日、本命となる四百九十万の魔人達が、冥界の最下層から地上へと押し出されたのだ。
地獄の拷問から解放されたかつての極悪人、黒魔術師、怪人、超能力者、魔獣達は大いなる喜びに打ち震え、手当たり次第に殺戮を開始した。勿論目的を心得、千年の特権を求めて巨大黒プリンを目指す者もいる。だが報酬など最初から念頭になく、ただ蓄積した怨念を発散させるためだけに駆ける者も多かった。
顔色の悪い亡者達はしかしとびきりの邪悪な笑顔で生者達を襲った。世界が滅亡間近でも気にしない八津崎市の住民と、滅亡のイベントに立ち会うべく集まった観光客達。彼らは瞬く間に蹂躙された。手足を引きちぎられ首を刎ね飛ばされ胴体に風穴を開けられ内臓を引き摺り出されついでに食われる。悲鳴を上げても誰も助けてはくれない。皆同じように襲われて食い殺されているのだから。最初から銃器を実体化させた亡者もいたし、警官や兵士から奪い取る者もいた。
「お仕置きばかりでうんざりしてたが、久々にこっちの番だぜ」
青竜刀についた血をペロリと舐めて屈強な亡者が言った。彼の腕は六本あった。
「腐らせてやる……生きてる奴らを、全員、俺と同じ目に遭わせてやる」
醜い吹き出物の多い、紫色にむくんだ顔の男が呟いた。彼が押し倒した市民の体はみるみる紫に膨れ、腐液を溢れさせた。
亡者には異世界の住民も混じっていた。先端に針の生えた触手の塊のような怪物や、身長五メートルの灰色の巨人が暴れている。どの世界で生きていても冥界は共通なのか。いや、冥界の中にも多数の階層があると解釈すべきだろうか。
今朝までは警察と自衛隊の頑張りでなんとか耐えてきた石込町も、溢れる本命の亡者達によって五分で壊滅した。住民が全滅しただけでなく、家屋も全て潰され単なる広い瓦礫の荒野と化した。
襲う襲う。血色の悪い魔人と魔獣の群れが四方へ広がっていく。八津崎市を、そして世界を食い尽くそうとするかのように。
石込町から市の中心部へ向かう大通りに、武装ジープが待ち構えていた。ギアをパーキングに入れ、物悲しげな顔の運転手はハンドルから手を離している。その手は長大なリボルバー拳銃を握っていた。
超絶的なファニング技術によるローンガンマンの五連射は、亡者の大群をぶち抜いて五筋の空白を残した。頭や胴を破裂させつつ貫通し、一発の弾丸が百体近い亡者を始末していた。
だが亡者は数百万いる。ローンガンマンが素早く弾を込める間に後部座席の森川敬子が重機関銃を撃ちまくった。本命の筈の亡者達があっけなく肉塊に変わっていくのは、長い地獄巡りで攻撃を避けることを忘れてしまったのか。いや、三分の一ほどは伏せたり跳ねたりして弾丸を躱していた。それをまたローンガンマンの八十口径がカーブしながら片づけていく。壁を這っていた禿げ頭の半魚人が爆散し、牙の並ぶ大きな顎と暗緑色の鱗が宙を舞った。
「埒が明かないわね。弾が何万発あっても足りないわよ」
森川も流石にうんざりした様子だった。一日着用で義理を果たしたと判断したか、大曲にプレゼントされた防弾エプロンは脱いでいた。
「撤退するか。最終日まで弾を残しておけということだったな」
「署長はそう言ってたわね。そりゃあ、祭りのクライマックスに弾切れで参加出来なかったら恥晒しだけど、このまま引き下がるのも負けたみたいで腹が立つのよ」
二人は喋りながら撃つ。撃つ。撃つ。重機関銃の弾帯が終了する。次のをセットする暇もなく襲う亡者に、森川はグロック18Cロングマガジンとスミス&ウェッソン.357マグナムの二挺拳銃で怨念弾を叩き込んだ。散らばった肉塊は分解して消えていくか、意志力の強い者の場合は寄り集まって呻きながら再生を試みている。
森川が鰐革ベルトの背中側に挟んでいた別のリボルバーを抜いた。コルト・パイソンから放たれた弾丸は空間の歪みを軌跡として残し、群れのど真ん中へ飛び込んだ。
爆発は炎と轟音ではなく、祭りの熱を冷ますような静寂で表された。
着弾点であるラバーエプロンにラバーマスクの男の額から、半径百メートル以上に亘り異変が生じた。憎悪と殺戮欲に満ちた亡者達の顔が、夢から醒めたような怪訝な表情となった。辺りを見回す訳でもなくただ立ち尽くし、呆然と妙なことを口走り始める。
「人生の意味は何なんだ……」
「俺は俺だ。しかし俺はどうして俺なんだろう」
「私は苦しかった。私は楽しんでいる。しかし苦しいと楽しいはどう違うのだろう」
亡者達が次々に崩壊していった。活動原理の半分を担う意志力が失われたため、擬似生命の肉体を維持出来なくなったのだ。廃墟と化しつつある通りを大量の肉汁が埋め、それもやがてサラサラした粒子となって消えていく。
「凄いじゃない、この『マサマサ弾』。今の一発で一万人くらい殺したんじゃない」
オレンジ色のシューティンググラスの奥で、森川の瞳は喜悦に光っていた。
「そうかもな。だが次が来るぞ」
ローンガンマンは冷静に銃を振る。最大の効率を発揮すべく計算された軌道で大口径拳銃弾がうねる。グリップに封じられた妖霊は亡者の怨念と擬似生命の僅かなエネルギーを嬉々として食らっていく。
殺到する亡者の中に長身痩躯の西洋人を認め、森川が目を見開いた。薄手の白いロングコート姿で、オートマチックの拳銃二挺を握っている。
「あっ、あれケネス・シダックじゃない。私が殺す筈だった……」
「ん。どいつだ」
ローンガンマンが尋ねた時には既に、彼の大口径弾がケネスの上半身を破裂させていた。
「ああ、なんてことすんのよ糞馬鹿っ。折角私の銃で殺せると思ったのに」
「そうか。すまなかったな」
ローンガンマンは感情の篭もらない謝罪を述べる間に次の弾込めも終えてしまった。森川は舌打ちの後に言葉を紡いだ。
「マサマサ弾は百発しか貰ってないから大事に使わないとね。これを使う相手は地獄坂でないと」
「恐ろしい援軍が来たようだ」
ローンガンマンの警告に森川は振り向いた。避難する住民に混じり、大通りを徒歩でやってくる男が一人。或いは二人と解釈すべきか。
大きな棍棒を両手に一本ずつ握り、バンザイするように高く差し上げて黒贄礼太郎がやってくるのだった。棍棒は縦に真っ二つになった人体で、鋲のついた革ベストに革ズボンのマッチョな男だ。本来なら既に死んでいる筈なのに、筋肉を突っ張らせて直立姿勢を保つのは意志の働いている証拠だ。スキンヘッドに左右合わせて『101』のタトゥーを入れたその顔は、苦痛と歓喜の入り混じった不気味な笑みを浮かべていた。既にかなりの人数を撲殺してきたらしく、大谷のあちこちに青痣やたんこぶが出来ている。
建物の陰などで弾幕を避けてきた亡者数名が黒贄に飛びかかり、大谷の左半身が一閃した。グワジャッ、と肉に肉を潰されて亡者達が弾け飛ぶ。大谷の左脇腹に剣が突き刺さっていたが、筋肉の力で押し出されて抜け落ちた。血は少し滲むだけだ。圧倒的なタフネス。
「あれは人間を振り回しているようだが。違うのか」
五発が一発に聞こえる連射を済ませて弾込めしつつ、ローンガンマンが相棒に問う。
「あれが人間に見えるんなら、あんたの目はまともなんでしょうね」
森川は赤い唇を自嘲に歪めた。
亡者達が容赦なく殺到する。建物もどんどん押し崩され廃墟が拡大していく。コンクリートの壁を盾代わりに抱えて近づく者もいた。それをローンガンマンの弾丸がぶち抜き、更に森川のマサマサ弾が数千の亡者を塵に変えた。しかし群れは果てしがなく、都会の海水浴場のように亡者がひしめき合う状態だ。
たまに大谷を振りながらジープの横へ到達し、黒贄がにこやかに声をかけた。
「こんにちは。そろそろ活躍させて頂こうと思いましてね。お二人はどうぞ遠慮なく休憩して下さい」
同時にブォンッ、と二本の大谷が振られた。咄嗟に頭を沈めたローンガンマンの上と、横へステップした森川の首すれすれを大谷の頭が通り過ぎた。予想していたのか森川は最初から身構えていた。
「休憩とはあの世で休めということか」
ローンガンマンが淡々と皮肉る。彼が撃つのは迫り来る亡者達であって横の黒贄ではない。
黒贄はちょっと残念そうに応じる。
「いえいえ、つい嬉しくて凶器を見て頂きたかっただけです。八津崎市が浮かんだあの事件の時は、自慢の凶器をあなたにお見せ出来ませんでしたからね、何とか何とかさん」
黒贄は相手の顔は覚えていたが、残念ながら名前までは無理だったらしい。ローンガンマンはわざわざ名乗ったりせずギアレバーを掴んだ。
「なら遠慮なく休ませてもらおう」
ジープが物凄い勢いでバックしていく。森川は舌打ちしたが文句は言わない。次の弾帯をセットした重機関銃が新たな敵を狙って火を噴き始めた。
「さて」
去っていくジープを見送り、黒贄は正面に向き直った。二本で一体の凶器を引っ提げて。
マサマサ弾によって空いたスペースは後続の亡者達によって占められていた。だが黒贄に何を感じたか、すぐに襲いかかったりせず一定の距離を保って取り囲んでいる。
その包囲網から一人の亡者が進み出た。純白のスーツに白い靴、白いハンチング帽の若者だ。色白の優男だが、瞳には虹彩がなく完全な暗黒だった。
「やあ、僕のことを覚えてるかな。君に殺されたアルメイル魔王・ウーリューフェンさ」
彼の周囲に不思議な空間がある。空いていると思って近寄った亡者は、見えない力に踏まれたように一瞬で潰れてしまうのだった。
「おや、お久しぶりですな。多分五百年ぶりくらいにはなりますよね」
黒贄は笑顔で会釈する。ウーリューフェンの顔は静かな憎悪に歪んだ。
「君のせいでね、僕は新しいドラクエがプレイ出来なかったんだよ。地獄で新入りに聞いたけど、今はナインが出てるそうじゃないか。僕の知らない間にナインが……」
「ご安心下さい。ドラクエナインはどうも評判が悪いようですよ。いや、私がプレイした訳ではありませんがね」
黒贄は澄ましたものだ。
「まあ、今となってはどっちでもいいんだよね。君を殺したついでに地獄坂という男も殺して、こっちでのんびりゲームをやりまくることにするから」
ウーリューフェンは指先でハンチング帽のずれを直す気取った仕草を見せた。緊張感が高まってきたところで右から別の男が登場した。黄色人種……インド系に近いだろうか。無地の白シャツとズボンにサンダル履きという地味な服装だが、特徴的なのはその武器だった。
男は、全長二十六メートルにも及ぶ巨大なククリナイフを引き摺っていた。
「久しいのう、殺人鬼王よ」
男はネパールの生き神と呼ばれた殺人鬼・センジュであった。白髪の痩せた老人ではなく、筋骨隆々とした黒髪の若い男になっている。
黒贄は大谷の右半身を握ったまま左手で顎を撫でた。
「ふむ。あなたのお顔は分かりませんが、その大きなククリは存じておりますよ。私の凶器リストにエントリーして大事に保管しています」
「そいつは嬉しいのう。お主に勝って本物を返してもらうとするか。わしはあの時の年寄りではないぞ。今はベスト・コンディションじゃ。のう、エンさん」
センジュは左隣で腕組みする黒服の男に呼びかける。中国の民族衣装で、上着の長い裾には側面にスリットが入っている。胸元には刺繍で銀色の竜が踊っていた。年は五十代であろうか、僅かにひそめられた眉とへの字の唇は偏屈さを物語る。
最強の拳法使い・怨公はセンジュを見返して言った。
「誰だ貴様」
「のう。この通りわしらはベスト・コンディションじゃ」
センジュが苦笑しながら巨大ククリを持ち上げかけたところで、今度は左方から亡者達を蹴散らして大男が現れた。
「ガハハーッ」
豪快な笑い声を上げる男は、頭部と胴体だけは常人並みなのに手足だけがやたら大きかった。金属の光沢を持つため義肢と思われるが、付け根の皮膚とは融合しており境目が分からない。肉体の再構成時に修飾されたものだろう。金属の手足が動くごとに関節部から毒々しい赤い蒸気が洩れる。
「ローンガンマンの奴はまだ生きてやがるのか」
元エクリプス・スチームマンは顔の右側の火傷痕を陰惨に歪めた。
「地獄にはミラージュもいた。プレシャスとも会った。ダンディーとプロフェッサーは後から来た。だがローンガンマンだけがいつまでも降りてこねえ。まさか奴だけ天国に行ったなんてことはないよな。てえことは奴は裏切……」
「あー、もうそろそろ始めていいですかな」
大きな欠伸をして黒贄は言った。
「前口上に時間をかけてもどうせ終わるのは一瞬ですからねえ。どうも皆さん、強烈に匂うんですよ。雑魚の匂いが、プンプンと」
血の気のない亡者達の顔に怒りの朱が差していく。と、風のように飛び出した二人の剣士が背後から黒贄を襲った。白い着物姿、総髪細面の男は三白眼を光らせて日本刀を振り翳す。両刃の長剣を繰り出すもう一人は黒い紋様のある甲冑で全身を覆い、釣鐘型の兜の細い隙間から殺意が覗いていた。
「ほいっ」
黒贄のかけ声と共にグワヂボジュッ、というひどい打撃音がした。二人の剣士が二つの肉塊となって飛んだ。いや三つだ。着物の剣士は胴がちぎれ血みどろの内臓を垂らしている。甲冑の剣士は胴も手足も首も折れ曲がって団子状になっていた。黒贄の背に長剣が刺さり、大谷の右半身に折れた刀がめり込んでいたがどちらも平然としている。
他の亡者達が続こうとした時、黒贄がニコリと涼やかな笑みを浮かべた。
「今、天啓が下りてきましたよ。ハンモリャズッコッコなんです」
「何を言ってやがる」
亡者の一人が嘲笑った。だが黒贄を知る者達は急停止し、死人の体に鳥肌を立てていた。
黒贄が左右の大谷を大きく振りかぶった。と、後ろに回した両手で自分の上着を掴み、前に半分ほど引っ張りずらす。スーツの背中側が黒贄の頭部を覆い隠してしまう。散弾によるものか、血痕のついた虫食い穴が丁度目の位置で停止し、黒贄の瞳が覗いた。
見開かれたまま瞬きせぬ瞳は、さっきまでとは一変し、あらゆる感情を超越した絶対零度の虚無を湛えていた。
「ハンモリャズッコッコ」
黒贄がまた例の台詞を唱えた。抑揚のない、気の抜けた奇声が上着越しに響く。
ゾワリ、と亡者達に緊張が広がっていった。彼らは黒贄礼太郎の本質を悟ったのだ。
恐慌から逃れるように、亡者の一人が雄叫びを上げた。それが引き金となったか、亡者達が怒涛となって攻め寄せる。刃が鈍器が鉤爪が黒贄を襲う。
「ハンモリャズッコッコ」
黒贄は左右の大谷で応戦した。ずれた上着で上腕の動きが制限された状態で、右半身と左半身がぶつかり合わないよう器用にぶん回す姿は二つの回転翼を持つティルトローター機のようだ。そのまま垂直上昇してしまいそうな高速回転で、亡者達がプロペラに巻き込まれたみたいに無残な肉片と化して飛び散っていく。慌てて下がろうとする亡者の背を、勇敢或いは無謀な亡者が押す。彼らはあまりに密集し過ぎて得意技を使う余地がないのだ。全身ケロイドの男が使う火炎放射器は黒贄でなく仲間の亡者を焼き払っていた。
「頂きじゃ」
センジュが巨大ククリを横殴りに振った。数百名の亡者が輪切りとなったが犠牲者の中に黒贄はいなかった。二枚の大谷が翼となって彼は本当に宙に浮いていたのだ。
「ハンモリャズッコッコ」
空中で投げつけられた大谷の右半身は、回転しながら猛速ですっ飛んでセンジュ他百十四名を肉塊と変えた。ブーメランのように戻った大谷を黒贄は掴み止める。凶器と使い手が互いを熟知していないと不可能な行為だった。
「さあ死ねっ」
ヒステリックなウーリューフェンの叫び。分身である見えない巨人の拳が黒贄を叩き潰すべくうねる。それを黒贄は大谷左半身の大根切りで迎撃した。
「ハンモリャズッコッコ」
ボバッ、と半透明の血が爆ぜた。超高速大谷が巨人の拳を破壊したのだ。大谷の骨も何本か折れたようだが彼は悦楽の笑みを浮かべている。
「ハンモリャズッコッコ」
ダブル大谷を持って黒贄がスピンする。上着の裾がヒラヒラと揺れる。胴を真っ二つにされたり頭を粉砕されたりして亡者達が溶けていく。扇風機の前で喋るような声で「わしの地球儀は……」とか言いながら小柄な男は爆散した。地味な茶色のスーツの筋肉の塊のような男は、首と背骨を折られながらも満足げな顔をしていた。
「ハンモリャズッコッコ、コッコッコッコッ」
黒贄がドラムを叩くように二本の大谷を振るう。上着をかぶった彼の動きはちょっとした宴会芸のようだが、虫食い穴から覗く瞳は笑うことを許さなかった。頭と上半身を潰されて亡者達が次々に亡くなっていく。頭が再生しかけていた男も再度の打撃で完全に叩き潰された。
「ハンモリャズッコッコー」
黒贄が二本の大谷を横殴りに振る。亡者達の首が飛んで後ろの亡者の顔にぶち当たりその首を飛ばす。またその首がその後ろの亡者に当たって新たな首を飛ばす。極細の鋼線を操る女と木の杭を抱えた男も生首で自分の首を吹っ飛ばされた。首のビリヤードによって一振りで五百人以上が冥界に押し戻された。
怨公が衝撃を伝播させる掌技で数百人をぶち飛ばしつつ迫る。黒贄は二本の大谷を大上段から振り下ろした。
「ハンモリャズッコッコ」
「ひゅおああっ」
弾き上げようとした両手が大谷に吸い込まれ、怨公は目を剥いた。黒贄が途中で手首をひねり、別空間に繋がる大谷の断面部を当てさせたのだ。すぐひねり戻すと巻き込まれた怨公の両腕がグギリと嫌な音を立てて折れた。両手を拘束された状況に何を思ったか「む。覚えがあるぞ」と呟いた時、黒贄の右足が怨公の首を蹴り飛ばした。
「ハンモリャズッコッコ。ハンモリャズッコッコ」
全身の皮膚から棘が伸びる男は「久し」と言いかけたところで潰れた肉塊に変わった。体の右側だけ肥大した男が「今度こそ俺の実力を」と輪になったワイヤーを振りかぶったところで脳天から股間まで割り潰された。ゴリラのような肉体を誇る蓬髪の若者は長柄の大斧を振り上げて「ヒャハーッバラ」と叫びかけ、左右から大谷に挟まれ頭を潰された。火炎放射器を使っていた全身ケロイドの男は乱戦の中で自爆した。目鼻は小さいが折り畳み式の顎を持つ大口男が、ボロボロの迷彩服を着た男へ叩きつけられた。迷彩服の掲げていた銃剣が大口男を貫き、溢れ出た大量の消化液で二人共溶けていく。ウーリューフェンもスチームマンもいつの間にかくたばっていた。
「ハンモリャズッコッズッコッコ。ハンモリャハンモリャズッコッコ。ハンモリャリャリャリャリャズッコッコ。ズッコッコッコッコッコッコッ」
黒贄はズタズタに裂けた上着の穴から絶対零度の瞳を覗かせ、淡々と二本の大谷を振るい続ける。無数の魔人を相手にして全身に刃や棘や誰かの腕が突き刺さり、傷だらけになって腹も背中も開き内臓など全て飛び出しているが、黒贄の動きは衰えなかった。
凶器として使われながら大谷五郎もまた血みどろの笑みを湛えていた。振られるたびに滲んだ血が散る。生身の宇宙旅行と大気圏再突入を経た肉体は超常的な頑強さを備えていたが、度重なる打撲と裂傷で皮膚の七割方が失われ、中古の人体模型みたいになっている。それでも明らかに、大谷の顔は笑っているのだった。
「ハンモリャズッコッコ。ハンモリャハンモリャハンモリャズッコッズッコッコ。ハンモリャハンモリャハンモリャハンモリャズッコッコ。ハンモリャ……」
亡者がどんどん減っていき、逃げ散るのを更に追いかけて始末し、大谷五郎を振り回して数十万人は倒したと思われる頃、辺りは閑散としていた。黒贄の殺戮が幾ら凄まじくとも八津崎市は広く、亡者達は別の地区へ流れてしまったらしい。もしかしたら皆でハルマゲドン・キャッスルを目指しているのかも知れない。
逃げる亡者に大谷の左半身を投げつけて潰した後で、ふと夢から覚めたように黒贄は立ち止まった。ズタボロだった上着が真っ二つに裂け、血みどろの素顔が露出してしまったのだ。黒贄の瞳から虚無は去り、次第に感情が戻ってきた。
「お腹が、空きましたなあ」
感情の篭もった第一声は、それだった。
黒贄は空洞になった腹を撫でた。半壊した町並みを見回すが人影は殆どない。左手に握る大谷の右半身は、瞼のちぎれた目で物足りなさそうな視線を送るが、既に戦闘の気配は遠かった。
黒贄は大谷の左半身を回収し、静まり返った通りをトボトボ歩いた。
「どうしますかねえ。獲物を探し回るのもいいですが、また同じ奇声を使うのもあれですな。まずは腹ごしらえをしたいもので……おや」
元は公園だったと思われる敷地があった。樹木は大半が亡者によって倒され食い荒らされ、ブランコもジャングルジムもバラバラになっている。
唯一残った木製ベンチで、王冠をかぶった男が背を丸めていた。豪華な服装だが何処となく不吉な雰囲気が漂っている。赤いマントには大きく『恐怖』と描かれていた。
「ま、まさか、あなたは……」
歩み寄って声をかけた黒贄に、男は悲しげに首を振った。
「その先は言わないでくれ。余はもう、どうしようもないのだ。……千九百九十九年、七の月に余は降りてくる筈であった。この世に恐怖を撒き散らす筈であったのだ。……ところが、なんということか、余は、寝坊してしまったのだ」
男はうなだれて大粒の涙を落とした。
「目覚まし時計が壊れてて」
「あーそんなこともありますよね」
黒贄は大谷をダブルで振り下ろした。男はベンチごと潰れた。
曇っていた空が妙に明るくなっていた。翼のある白い生き物達が八津崎市上空を飛び交っているのだ。その数は数百万にも及ぶだろう。
「ふうむ。何やら面白そうなことになってますが、まずはやっぱり食事ですな。コンビニ弁当でもいいのですが」
黒贄は食べ物を探して彷徨い歩く。しかし亡者達が蹂躙した後に食糧らしきものはない。コンビニも荒らされて何もなかった。
「ああ、お腹空いた。お腹空いたあああ。あぁぁ」
黒贄の声にも力がなくなっていく。両手に握った大谷も地面を引き摺られているが、彼は苦鳴一つ洩らさず耐えている。耐えているのではなく喜んでいるのかも知れないが。
背後から声がした。
「元気ないわね」
若い女の声だった。黒贄は最初に眉をひそめ、それから凍りついた。
「黒贄さん、なんかボロボロだね」
今度の声は更に若く、少女のものだった。黒贄の体は小刻みに震え始めた。震動が伝わって大谷も一緒に震えている。
ゆっくりと、結果を怖れるかのように、本当にゆっくりと、黒贄礼太郎は振り向いた。
若い女が少女の生首を抱えて立っていた。
女は二十代半ばであろうか。長身でモデルのような体型に薄手の黒いコートを羽織っている。ストレートの黒髪はうなじから喉元まで斜めに切り下げられ、冷たい美貌は何処かガラス細工のような繊細さと危うさを感じさせた。女は目を細めていた。緊張や敵意のそれではなく、懐かしげで、笑みにも似たそれだった。
女に抱えられた生首は十代後半だろう。化粧は淡い色の口紅だけで、あどけなさの残る顔立ちは美人よりも可愛らしいという表現が似合うだろう。聡明そうな瞳は今、キラキラと純粋な喜びに輝いていた。
生首の顔は、黒贄の事務所に飾られた瓶入りの生首と同じものだった。
「瑛子さん……悠里さん……」
震える舌で、黒贄はその名を呼んだ。顔に浮かんだ表情は、事務所のオブジェと化していたものが甦ったという畏怖か、それとも彼女達を死から救えなかった罪悪感か。
元スケルトン・ナイツの暗殺者であり、黒贄の依頼人であった角南瑛子は穏やかに微笑んだ。
「地獄坂討伐のために駆り出されたんだけどね。正直、私の手には負えそうにないし。でも折角だから、生身であなたの顔が見たくなって。ついでにこの子も連れてきてあげたの」
抱えられた岸川悠里の生首は言った。
「黒贄さん、そんな顔しないで。私達、楽しくやってるんだから。地獄とかじゃないのよ。大体の時間はね、ちゃんと黒贄さんの事務所にいるのよ。瑛子さんとお喋りとかしてるの。それからたまに来る草葉さんとか。あの人、暗いからあんまり好きじゃないんだけどね」
悠里は悪戯っぽく舌を出した。
「まあ、座りましょ」
瑛子は左手で悠里の首を支え、右手で倒壊した喫茶店を示した。歩道に無事なテラステーブルが一つだけ残っている。
「は、はい……」
黒贄はぎこちなく従った。二本の大谷を地面に置いて椅子に座る。瑛子は向かいの席につき、悠里の生首をテーブルに置いた。少々乱暴な置き方だった。
「ちょっとっ。ひどいじゃない」
生首が文句を言うが瑛子は知らんふりだ。黒贄はモジモジと落ち着かず二人の亡者を交互に見る。
「い、いやあ……。お久しぶりですなあ。あの時はどうも……」
瑛子がすぐに返した。
「あの時も言ったけど、いいのよ。気にしないで。私も沢山人を殺してきたんだし、自業自得だから。今の待遇にも割と満足してるのよ。大事にしてもらってるしね。ただ、一つだけ不満があるとすれば……」
ギロリ、と冷たい視線が悠里の後頭部を刺した。
「私もこの小娘みたいに、ちゃんと防腐処理して欲しかったわ」
「はあ、いや、申し訳ない、全身となると防腐剤のコストが……」
黒贄はしどろもどろになっている。今度は悠里が言った。
「あのね、黒贄さん。私もお願いがあるんだけど。この骨おばさん、事務所から出してビルの前にでも飾ったらどうかな。うん、多分客寄せになってくれるよ。とにかく黒贄さんの事務所からは出した方がいいと思うの」
「いや、あの、ええっと……お二人は、仲良くしておられるのでは……」
二人のやり取りに黒贄はオロオロするばかりだ。そこに足音が近づいてきた。駆け足が次第にゆっくりになり、そして十メートルほどの距離で停止する。
黒贄はそちらを見もせず、角南瑛子も来客を冷たく一瞥しただけだった。悠里は何かを期待するように目を向ける。
発せられた太い声は激烈な憎悪を孕んでいた。
「こんなとこにいやがったな。スコルピオン」
声の主はノースリーブのシャツにジーパンというラフな服装の男だった。髪は坊主頭に近く、頬骨の突き出た酷薄な顔つきに昏い瞳をしている。胸板は分厚く、腕の太さは常人の太股くらいあった。
男は、血のついた蛮刀を右手に握っていた。亡者ならばその血は自己イメージの作ったものか、それとも新たな犠牲者のものか。
「汚え手を使って俺を殺しやがって。だがこんなチャンスが回ってくるとはな。今度こそ手足切り落として切り刻グブッ……」
黒贄が拾い投げた大谷五郎の右半身が、男の腹部を貫いていた。背中から生えた大谷の顔がニンマリと笑みに歪む。男は、信じられないといった表情で自身の惨状を見た。
「お……俺の皮膚は、弾丸も通さね……」
続いて投擲された大谷の左半身が男の頭部を破裂させた。右大谷が刺さったまま首なしの胴がゆっくり倒れ、グズグズに溶けていく。
黒贄は悩ましげな溜め息をついた。
「ううむ。やっぱり三角関係というのは難しいものですねえ。死んでおられるならプラトニックな関係が維持出来ると思ったのですが」
「心配しないで。今のはちょっとしたじゃれ合いみたいなものよ。仲がいいほど喧嘩するって言うわよね」
瑛子が微笑した。生首の悠里も言う。
「そうそう、私達、本当は仲がいいのよ。ところで私はこうやって首だけでこちらに上がってきたけど、これはつまり首だけで幸せで満足してるってことなんだからね。そこのおばさんみたいにわざわざ肉づけして、黒贄さんに当てつけるようなことはしないんだから」
ピクリ、と瑛子の片頬が僅かに歪んだ。
「いや別に、骨になってるのがそんな不満ってほどじゃないのよ。経年劣化でぼろぼろになっていくのはこのガキの方が先だと思うから。それに、平気な顔してるけどこのガキは、生首だけで喋るのは相当無理してるのよ。内臓は小さくなって頭の中に隠れてるんでしょうけどね。元々脳が小さいから隙間があったのかも。きっと、後一時間も持たないわ。だからその先は大人の時間。この際だからあの続きを、二回戦、三回戦まで出来ると思うのよ」
瑛子が指差した先に、ボロボロになったラブホテルが断末魔のようなネオンを点滅させていた。
「犬に食われろ、骨ババア」
悠里が嫌そうに吐き捨てた。それから黒贄の怯えた表情に気づき、瑛子と二人でニッコリと微笑んだ。
黒贄も黙って微笑んだが、相当にぎこちない笑みになっていた。
四
その頃、十五キロ先ではおかしな戦いが始まろうとしていた。
数百万の亡者達は、ジャングルを蹂躙する軍隊蟻のように生者を殺戮し建物を破壊しながらハルマゲドン・キャッスルへ向かっていた。
だが正午になると、空を裂いて新たな軍勢が登場したのだ。白い翼を持ち自在に飛行する人型の戦士達。彼らの体格は画一的で、一様に白い衣を纏い、銀色の剣と盾を構えていた。頭部全体を覆う白い仮面は目と口部分だけに穴が開いているだけで、素顔を完全に隠している。個性や感情を否定した意図的なデザインなのか。彼らが天界の派遣した兵士であるとすれば、頭の上に光の輪はないものの天使と呼ぶべきだろう。
翼を持つ数百万の軍勢はハルマゲドン・キャッスルへの攻撃を開始した。突き出した剣先から白い光線が伸びて黒プリンを炙っていく。これまでの多くの攻撃と同じく黒い壁に吸い込まれるが、光線が集中した箇所にごく僅かながら光の染みが残っていた。天使達は綺麗に隊列を組み、旋回に急降下、攻撃、離脱までの動きも見事に統制されていた。
黒プリンも反撃を始めた。壁から生えた無数の棘が数キロも伸び、銀の盾ごと天使を引き裂いていく。天使に内臓はなく、白っぽい筋組織と骨芯が詰まっているだけだった。棘をすれすれで逃れた天使達も、初日のUFOのように挙動がおかしくなってフラフラと落下していく。破壊された天使は細かな光の粒子に分解され、舞い上がり消えていった。
黒プリンの下部から黒い靄のようなものが立ち昇ってきた。ゆっくりと広がって空を覆っていく。毒であったか、黒い靄に触れた天使がドロドロに溶けながら落ちていく。そこで光の軍勢は黒プリンから距離を取り、遠巻きにして光線を浴びせ続けた。
そこに亡者の群れが到着したのだ。反応したのは天使の軍が先だった。黒プリンの麓に押し寄せる亡者達へ銀の剣を向け、一斉に破壊光線を放ち始めた。
先頭の亡者達は黒い壁に突撃して吸い込まれたり壁を撃ったり斬りつけたりしていたが、残りの多くは無機質な動かぬ敵より攻撃的な羽ばたく敵を選んだ。自前の銃や現地で入手した兵器が火を噴き、超能力の電撃や光線や呪いが吹き荒れる。
天使と亡者は黒プリンを放置して殺し合いを始めた。統制の取れた秩序正しい天使に比べ、亡者達は欲望のままバラバラに暴れるのみで、しかも遠距離攻撃手段を持たない者は格好の標的となるだけだ。しかし中にはとんでもなく強力な亡者がおり、結果的に光と闇、秩序と混沌は均衡していた。どちらも八津崎市民の安否など気にしていないことは同じだが。ただし、市民達も遠くからハルマゲドンを眺めて祝杯を挙げたり歓声を上げたり記念写真を撮ったりしていた。そこにショバ代を求めて八津崎市のヤクザがやってくる。それを警官が射殺する。こちらもカオスだった。
無視されたことを地獄坂はどう感じただろう。黒プリンからの反撃は一旦やんだ。輝く空を舞う白い天使達と、地上を這う凶暴な亡者達の戦いが三十分は続いたろうか。爆発したり見えない力に潰されて落ちる天使達。光線に切られ焼かれる亡者達。天使達は無言のまま、亡者達は狂気の雄叫びを上げる。互いに二百万くらいは減ったろうがまだまだ勢いは衰えない。
その乱戦に、新たに一名の戦士がエントリーした。
ショッキングピンクのスーツを着た黒人だった。右半分の髪型は長いドレッドだが左半分はスキンヘッドだ。濃い黒のサングラスで目元を隠し、その上で細い眉が極端な山型に折れている。
「食べたい。でも痩せたい」
男は歩きながらスナック菓子を食べていた。黄色の細長いスナックで、袋の商品名は『Cheetos』だ。左腕に提げた大きなコンビニ袋には同じ品ばかり詰まっていた。いや、一袋だけスコーンも混じっていた。
「痩せたい。でも食べたい」
時折お決まりの台詞を唱え、パリポリバリボリと男は一心に食べ続ける。銀の指輪の填まった指が、頻繁に袋と口を往復する。空袋もツルリと食べ、次の袋に移る。
男は、ミスター・ドリトスだった。
食べながら接近するドリトスに亡者達が気づいた。長い前髪で顔の隠れた男が二刀流で斬りかかる。頭頂部と左肩に食い込んだと見えた短めの剣は、ドリトスの体がグニョリと変形したためそのまま通り過ぎてしまった。まるで、柔らかいのに異常な弾力がある、最高級のゼリーのように。
「む。こいつ」
二刀流の男が唸った。前髪の間から血走った瞳が覗く。しかしドリトスはチートスを食べながら何事もなかったように歩き過ぎた。二刀流の男は追いかけて背後から斬りまくる。一秒に十人は殺せそうな高速スイングだったが、ドリトスはクニョフニョと揺れ動くだけで傷一つつけられなかった。だが刃がコンビニ袋を裂き、スナックの袋が転げ落ちた。
ドリトスは立ち止まった。
「来るか」
二刀流の男が身構えるが、ドリトスは男を無視してスナックの袋を拾い上げた。残っていた十数袋を両手で抱え口に押しつける。バリボギギ、と開封せぬまま袋ごと吸い込まれ、あっさり全部消えた。破れたコンビニ袋もチュルリと吸い尽くし、彼は手ぶらになった。
「では、そろそろ頂きます」
初めてミスター・ドリトスは喋った。彼はその時既に、亡者の只中にいた。
相手の行動を待たず二刀流の男が攻撃した。ドリトスの顔面を抉る筈であった右の刃は、あからさまに別の方向へ流れていた。
「パッパラピッポラポンガポンガ」
ドリトスが奇妙なかけ声を発したのだ。声に合わせて手足が振られ、右へステップする。何故か二刀流の男の手足も、ドリトスと全く同じ動きをしていた。それどころか約百メートル四方の亡者達は全て、ドリトスと同時に手足を振っていた。
「な、何だこれは」
亡者達は戸惑い顔を見合わせるが、手足は彼らの意思を離れ勝手に動いている。触手の塊のようなものもアメーバのようなものも、それなりの部分を振っていた。
「パラチョメパラチョメラッパッパッパッ」
リズミカルなかけ声は止まらない。ドリトスと一緒に亡者達が右へステップしていく。クルリと回る動作も途中に混じる手拍子も綺麗に統一され、しかしマスゲームのような無機質さはない。軽快で洗練された動きは一流のダンサーグループのようだ。建物にぶつかった亡者はそのまま壁をぶち抜いてしまった。
最初に仕掛けた二刀流の男は長髪を振り乱し、泣きそうになっていた。
「やめろ、やめてくれ。お願いだ。こんな恥ずかしい真似を……」
「パラパラパラパラパラパララパラパラパポップポップ、パンツパンツパンツ。パッパラピッポラポンガポンガ」
ドリトスのかけ声はどんどん速くなり、ダンスもめまぐるしくなっていった。亡者達も見事についてきている。いやついてこさせられている。自由に動く口から毒液を吹いてドリトスを攻撃する者もいた。だがやはりグンニョリと変形して触れることが出来ない。いつの間にか上空で天使達も踊っていた。彼らのステップは緩やかな弧を描き、反時計回りに場を一周する。
「パラチョメパラチョメラッパッパッパッパラパラパラパラパラパララパラパラパポップポップ、パンツパンツパンツ。パッパラピッポラポンガポンガ、パラチョメパラチョメラッパッパッパッパラパラパラパラパラパララパラパラパポップポップ、パンツパンツパンツ。パッパラピッポラポンガポンガ、パラチョメパラチョメラッパッパッパッパラパラパラパラパラパララパラパラパポップポップ、パンツパンツパンツ。パッパラピッポラポンガポンガ……」
かけ声と振りつけはパターンが決まっているようだ。何巡もするうちにドリトスの声は聞き取れないくらいに速くなり、ダンスもシャカシャカと手足が霞むほどになる。必死に抗おうとする亡者達の顔が絶望に染まっていく。
反時計回りの輪が小さくなってきた。亡者達とドリトスとの距離も縮んでいく。ステップの幅と角度は微調整されていたのか。ドリトスを先頭に踊り歩く集団となった。天使達も地上すれすれに近づいて行列に加わっていた。
かけ声が超音波と化し、行列が流れる残像で一筋の帯となった頃、突然ドリトスがステップを止めて振り返った。
「頂きます」
ドリトスは口を開けた。
かけ声がやんで行列は解放されたのではなかった。勢いをそのままにつんのめり、ドリトスへ向かって雪崩れ込んだ。先頭の二刀流の男は剣を振り上げられぬまま呆然としていた。彼の頭頂部がドリトスの分厚い唇に触れ、グニョリ、と細く変形した。
男はドリトスに吸い込まれて消えた。次の亡者も成すすべなくドリトスに呑まれた。ドリトスに近づくにつれ行列は変形し繋がり細長くねじれ、まだらな太い一本麺と化していく。
ミスター・ドリトスは、ツルルルルルルルルルー、と見事な音を立てて一息で数万人を啜り尽くした。
「ご馳走様でした」
ドリトスは両手を合わせた。十個の指輪がぶつかり合ってチリンと鳴った。彼の腹はまるで膨れていなかった。
離れた場所ではまだ天使と亡者の争いが続いている。ドリトスは飽くなき食欲に従ってそちらへと歩き始めた。
五
JR八津崎駅は八津崎市が東京に移転してから新設されたものだ。ただし駅は市の中心部ではなく端の狭間町にあり、線路は市に入らず縁を掠めるように敷かれていた。
新幹線乗り場は人で溢れていた。荷物を抱えて戦場を逃げ出そうとする市民と、最大のイベントを見るためやってきた観光客がすれ違っていく。数は後者の方が圧倒的に多かった。
改札口前で電光掲示板を確認し、若い女が言った。
「後八分あるみたい。どうするの。ホームまで見送ってくれるの」
尋ねられた男は小指の先で耳の穴をほじりながら答える。
「んー。そうだな。面倒臭いからここでいいか」
女は溜め息混じりの苦笑を見せた。年齢は二十代前半だろう。艶のある黒髪をヘアバンドで留め、綺麗な顔立ちに化粧は薄い。顎から首筋にかけての優美なライン。物静かだが芯の強そうな目をしていた。
男の方は三十代後半だろう。短めの髪にくたびれた顔、死んだ魚のような目をしている。地味なスーツでネクタイは曲がり、剃りかけで出てきたのか左頬に不精髭が残っていた。男の体内から響くモーター音は雑踏に紛れている。
男は、八津崎市警察署長・大曲源だった。
「忘れもんはないか。まあ数日の旅行だから別に困らんだろうけどな」
ぞんざいな口調に相手への気遣いも潜んでいる。
妻の大曲伊織は頷いて、傍らのキャスターつきトランクを軽く叩いた。
「ないと思う。でも、本当にいいの。八津崎市が大変な時に、署長の妻だけ避難したなんて知ったら、部下の皆さんはどう思うかな」
「別に気にしないさ。うちの部下は皆狂ってるからな。八津崎市の住民は皆狂ってる。まともなのは君くらいだ」
大曲はスーツのポケットから煙草の箱を出した。一本抜いて咥えたところに妻が言った。
「禁煙するんじゃなかったの」
「そういえばそうだったか。まあ、世界が滅ばなかったら改めて禁煙するさ。多分」
大曲は百円ライターで火を点けた。
「ちゃんと署長のお仕事してるの。全部部下の皆さんや黒贄さんに押しつけてパチンコとかしてない」
心配そうに伊織は問う。
「大丈夫。ちゃんとやってるさ。必要なことはな。多分」
気持ち良さそうに紫煙を吐き出して大曲は答える。
「ねえ。大丈夫、なのかな……。世界は、滅ばずに済むの。ちゃんと、これからも続くのかな」
「大丈夫。続くさ、多分な」
「前から思ってたんだけど、あなたって『多分』ばっかりよね。プロポーズもいい加減だったし」
伊織はちょっときつい口調になっていた。大曲も流石に慌てた様子で訂正する。
「いやいや。まあ、そうだな。なら絶対だ。絶対大丈夫。絶対世界は滅ばない。かも知れない」
伊織は溜め息をついた。それから堪えきれなくなったように吹き出した。
「じゃあ、そろそろ行くから」
「そうだな。いいか、危ないと思ったら遠慮なく撃ち殺せよ。八津崎市に戻ってくれば後はどうとでもなるからな」
「分かってる」
伊織はロングコートを少し開いてみせる。コートの内側にはショットガンが吊るしてあった。
それから彼女は自嘲気味に微笑んだ。
「私もかなり、まともじゃなくなってるみたいね」
「それでも死ぬよりはましさ。何百人殺してもいいから生きててくれよ」
それは大曲の切なる本心だったのかも知れない。伊織の笑みは明るいものに変わった。
「うん。頑張るね。出来るだけ。でも、八津崎市を出ても、危険なのはあまり変わらないかも知れないわね」
「ま、余程のことがない限りは大丈夫だろう。地獄坂も守ってくれるだろうしな。まさか俺への腹いせに俺の家族を殺すような、そんなみみっちい真似を大地獄坂様がする筈はないからな。ひょっとしたら事故死に見せかけて地獄坂がやったのかもなんて、勘繰られるような事態も避けたいよなあ。完璧主義者ならそういう可能性も排除しておかないと」
「ええっと……。誰に言ってるの。まあ、いいわ。それじゃ」
「じゃあ最後に、別れのキスをしてくれよ」
大曲は煙草を外して口を尖らせた。
伊織は一瞬迷惑そうな顔をして左右を見回した。二人を気に留める者はいない。彼女はそれからちょっとだけ頬を赤らめて、一回り以上年上の夫に短いキスをした。
「それじゃ」
伊織はトランクを引いて歩き出した。大曲は軽く手を上げて見送った。
妻の姿が人込みに隠れると、大曲はさっさと背を向けて八津崎駅を出た。
離れた駐車場に向かう途中で駅が爆発した。
次の煙草を取り出しながら大曲は振り向いた。コンクリートやレールらしき部品が空に舞い上がり、駅の建物は半壊している。血塗れで倒れている人々。火達磨になって走る人々の悲鳴。
大曲は眉一つ動かさずそれを眺めていた。煙草に火を点けて、停めてあるパトカーのドアを開ける。
右手がメロディを奏で始めた。大曲は掌を頬に当て内蔵携帯電話をオンにした。
「俺だ」
「伊織です。新幹線は線路が壊れて駄目みたい。普通の列車に乗るから」
慌てても息を切らしてもおらず、平静な口調だった。
「そうか」
大曲は通話を切り、運転席に乗り込んで呟いた。
「さあて、パチンコでもやって時間潰すか」
六
ミスター・ドリトスの猛威を避けて、反対の方角からハルマゲドン・キャッスルに近づく亡者の一団があった。
彼らの姿は外部からは見えなかった。存在を亜空間の結界に転移させ、こちら側と繋がる微かな痕跡も幻術と魔術によって巧妙に隠蔽されていたからだ。長径二十二メートルの楕円形スペースに六十四人の亡者がひしめいていた。結界をはみ出さないようにペースを合わせて歩いている。
結界の内壁は暗黒で何も見通せない。いや実際に何もないのだろう。この狭い空間だけが仮とはいえ一つの世界であり、皮膚に生じた小さなイボのようなものなのだ。しかし闇の中でどうやって行き先が分かるのか。楕円の先頭に立つ男がどうやら先導しているらしい。眼鏡をかけた日本人の青年で、知的だが神経質そうな顔をしていた。貧弱な体つきで強者の風格や迫力はまるで感じられない。ただ、闇を素早く巡らせる視線は鋭かった。
結界の作成者と思われるのが中央にいる老人だった。両目は縫い閉じられ、額の中心に水晶玉が埋め込まれている。青いローブに包まれた胴体は妙に小さく腕も細い。胡坐をかいているように見えるが足はないのかも知れない。老人の収まったバスケットを黒いガーゴイルが右腕で抱えて歩く。使い魔であろうか。左手は銀の燭台を持ち、その蝋燭の小さな炎が結界内の唯一の光源だった。
肉弾戦が得意そうな者達は主に前の方にいた。タキシードを着たピエロや、三十センチほどの金棒を持つ小男、しなやかな片刃の長剣を携えた鎖帷子の男。黒いセーターの男は骨と皮ばかりのミイラのような顔で、何も持たぬ手の指はカリカリに細く、金属の光沢を持っていた。
術者と思われる者達は主に結界の中央と後部を歩く。風船のように膨れた胴の男や、額に目のタトゥーを入れたマントの男、うねうねと動く黒い触手の束がいた。長い髭を伸ばした白い着物の男は、頭の禿げ上がった黒い着物の男と睨み合いながら歩いている。
ステッキとトランクを持った銀縁眼鏡の紳士が先頭のひょろ眼鏡に声をかけた。
「千里眼、そろそろではないかね」
千里眼と呼ばれた若者は立ち止まり、緊張した様子で振り返る。
「ハルマゲドン・キャッスルまでは後六十メートルほどです。今のところ地獄坂に感知されている兆候はありません。ただし、別空間のため僕の能力も完璧ではないですが」
「そうかね。ある程度の不確実さは仕方のないことだろう。リスクのない行動は存在しない」
銀縁眼鏡の紳士は言い、今度はガーゴイルに運ばれる老人に顔を向けた。
「ダルケマシュ。結界を維持したままキャッスル内部に侵入することは可能かね」
両目を縫い合わせた老魔術師は囁き程度の低い声で答える。
「それは実際に触れてみんと分からん。この『裏ポケット』におる間は、わしも外部のことは周囲二メートルしか見えんからの」
日本人ではなさそうだが、彼も『一時間で完全マスターする日本語』の読者かも知れない。
「ふむ。まあ、これだけ術者がいればなんとかなるだろう。あまり時間の余裕がなかったとはいえ、私が直接スカウトした超一流のメンバーだ。冥界軍で地獄坂明暗を倒せる者がいるとすれば、私達以外にはないだろう」
銀縁眼鏡の紳士は誇らしげだった。だがそのメンバーの一部はあからさまな反発の視線を紳士に向けていた。あまりリーダー面するなら殺すぞ、とでも言いたげな。気づいているのだろうが、紳士はその視線を平然と受け流していた。
先頭の千里眼がまた立ち止まり、紳士へ尋ねた。
「ドクター・M。念のため確認しておきたいのですが。もしこのチームが地獄坂を倒した場合、チームメンバー全員が報酬を得られる、ということでいいですよね」
銀縁眼鏡の殺人紳士ドクター・Mは微笑して頷いた。
「その解釈で支障ないだろうね。言質を取った訳ではないので冥王の気持ち一つだが。ただ、あの冥王は功労者を一人に限定するほど器が小さくはないだろうな」
「そうですか。そうだったらいいのですが」
千里眼の顔は亡者であることを差し引いても青ざめていた。
「どうかしたかね」
ドクター・Mが尋ねる。千里眼は自虐的な笑みを浮かべ告げた。
「どうやら、気づかれたようです」
少し遅れて大魔術師ダルケマシュが呻いた。
「むう。結界ごと掴まれたぞ。勝手に移動させられておる」
ミギミギリという奇妙な軋み音が狭い結界を包む。戦士達は闇の中を見回すが、多くは冷静さを保っていた。
「それでいい。クライマックスたるもの、敵が弱くては面白くない。緊迫したBGMが欲しいところだな」
黒セーターの男がミイラのような顔に不吉な笑みを浮かべた。
「ミラージュ。残念ながら君の隠蔽術は中途半端だったようだ」
ドクター・Mの冷たい指摘に、額に目のタトゥーを入れたマント男・ミラージュは苦笑した。
「私の術は隠すためではなく、魅せるためにあるのだよ。さて、世界最大最後のショーだ。観客も多いだろうな。私のイリュージョンが存分に発揮出来るという訳だ」
千里眼が立ち止まっているため他のメンバーも止まっているのだが、結界の軋み音と亡者の髪の僅かな揺れが異変を示している。ダルケマシュの言う通り、丸ごと引っ張られているのだろう。千里眼が無言で数歩下がった。
突然前方の闇に亀裂が走った。ギジャリ、と嫌な音をさせて結界の壁が砕け散り現実世界の光景が開けた。結界後半の壁が砕けず薄れて消えたのは、ダルケマシュ自身が術を解いたのだろう。
彼らがいるのはハルマゲドン・キャッスルの前でなく、屋上の広場だった。昨日記者会見が行われた黒い床に今は椅子もなく、中央部に『ハルマゲドン・キャッスル ARMAGEDDON CASTLE 地獄坂明暗 JIGOKUZAKA MEIAN』と描かれた黒い旗だけが揺れている。
六十四名の亡者の正面に、黒衣の地獄坂明暗は立っていた。ニコリともせず、しかし芝居がかった動作で両腕を広げ、地獄坂は冥界の刺客を歓待した。
「私の城へようこそ、亡者の諸君」
ヒッと細い悲鳴を洩らして千里眼が尻餅をついた。
挨拶に応じたのはドクター・Mだ。こちらは微笑して、紳士らしい仕草で軽く一礼する。
「丁重な出迎え、感謝する。手順も省略出来たし、ここで戦う方が観客の受けもいいだろう」
ドクター・Mはステッキで空の数ヶ所を指し示した。亡者と戦って飛び交う天使に混じり、かなり遠くに滞空する報道ヘリが見える。続いて倒壊しかかった三つのビルを示す。そこにはビデオカメラが設置されていた。
「地獄坂、あの中継用のカメラはもしかして自分で設置したのかね。君のような自己顕示欲の権化ならやりかねない」
ドクター・Mの皮肉にも地獄坂は無表情だった。
「設置したのは私ではない。ただし、マスメディアが力量不足なら私が自分で中継するつもりだった」
会話の間に他の亡者達はゆっくり動いて態勢を整えていた。今すぐにでも襲いかからないのはドクター・Mの号令を待っている訳でも何でもなく、自分の力に絶大な自信を持っているためだろう。
額に目のタトゥーを入れたミラージュが言った。
「ありがたい話だ。観客は六十億どころか宇宙人や異世界人も加えると見当もつかないな。あの時が最大のショーと思っていたが、更に派手なイリュージョンで皆を喜ばせてやれる」
「では、試してみるかね」
地獄坂の無感動な挑発に、ミラージュは口角を僅かに吊り上げ薄い笑みを作った。場の空気が圧縮されたみたいに重くなっていく。最前列に立つ金棒の小男は涼しい顔をしていたが。
「その前に、ちょっといいかな」
手を上げた者が一人。黒いセーターのミイラ男だった。彼は先程から金属の指で仮想のカメラ枠を作り、あちこち歩いて地獄坂と仲間達を観察していた。
「何かね、『ミスター視聴率』鮫川極君。映像の版権云々という話ならお断りするが」
鮫川は首を振った。生前と違ってピラニアに食われた傷痕はなく、しかし一様に肉のない体をしていた。それが本人の自己イメージなのだろう。大きな瞳が幽鬼のようにぬめり光っている。生前の空気の洩れたような掠れ声ではなく、じっとりと粘つく声音だった。
「そういう話ではない。僕は引退した身だからね。ただ、折角なのでワインを一本貰えないかな」
「何」
「僕はワインが好きでね。ロマネ・コンティがいいな。完璧主義者の君なら、そのくらいすぐに出せるだろう。地獄で飲めるのは鬼共の血ばかりで、うんざりしていたんだ。いいよね、戦いの前にワイン一本くらい」
亡者達の一部から含み笑いが洩れた。ミラージュなどは苦笑に悔しさを織り交ぜ「その手があったか」と呟いていた。
「貰えるかな。それとも、君には無理かな」
鮫川の挑発に、地獄坂はほんの三秒間だけ笑った。
「ハハ。ハハハハ。面白い。実に面白い。いいだろう」
無表情のままで機械的な笑いを済ませると、地獄坂は両掌を上に向けた。白い靄が盛り上がり、消える頃には右掌にワインボトル、左掌にワイングラスとオープナーが載っていた。
「残念ながらオリジナルではない。スキャンしておいた千九百八十五年ものを分子単位で再現した。味は本物と相違ない筈だ。私は飲んだことがないがね」
「そうか。それはありがたいな」
亡者達の見守る中、鮫川は平然と地獄坂へ歩み寄り、ワインへ手を伸ばした。
瞬間、キャッスル屋上のあちこちが火を噴き上げた。いやそれは花火だ。何十発もの打ち上げ花火が上空で大輪の花を咲かせる。
地獄坂の左右に肉片が散らばっていた。ミラージュの幻術に隠れ強襲した戦士達の残骸だった。折れた刀身が黒い床に突き刺さりユラユラ揺れている。
飛び散った花火の欠片がビデオの逆転再生のように元の位置に収束していき、キャッスル屋上に戻ってきた。それらは黒い床を撥ね返って一点に集中し、驚愕するミラージュの顔を破裂させた。幻を現実化する力を逆手に取られ、術者自体を滅ぼしたのだ。
鮫川がワインセットを悠然と受け取った後で、慎重な戦士達が動き出した。魔術師達の援護を受け、或いは自分の力だけを頼りに攻撃する。突進から刃や金棒を使った直接攻撃、距離を取っての料理皿の投擲、更に後方からは空間を無視した超能力や呪術が畳みかける。白い着物と黒い着物の老人二人は異なる印を結んでいた。おそらくは防御用の魔術も敷かれていただろう。
だが最強の亡者達の力を地獄坂が上回った。全ての攻撃は見えない壁に撥ね返され、特殊効果は打ち消された。戦士達は地獄坂の重力波に潰され、小男はなんとか金棒を掲げ支えている状態だ。だが右袖から伸びた半透明の鞭に八つ裂きにされた。左袖から吹く鋭い風が魔術師達の首を食いちぎる。高速で皿を投げていたタキシードピエロも手足と首をちぎられた。ドクター・Mはステッキから発射したレーザースピアがUターンして体を縦に割られ、踊る熱線はトランクも真っ二つにした。亡者になっても彼の脳はトランクの中にあった。頭を抱えて伏せていた千里眼は半透明のゴースト・ウィップにより三枚にスライスされた。
屋上の亡者達は、ただ一人を残して全滅した。ゴースト・ウィップと飛頭鎖が地獄坂の袖の中に戻っていく。
鮫川極は金属光沢の人差し指を伸ばし、爪と一体化したような指先でボトルの首を軽く弾いた。ヒュコン、とコルク栓の詰まった首が飛んだ。ガラスの切断面は異様になめらかだ。
ロマネ・コンティをグラスに注ぎ、鮫川は優雅な仕草で口につけた。
「うーん。いいね。八十五年ものは飲んだことがあるが、確かに同じ気がするよ。……ただ、今分かったのだが、僕はそれほどワインが好きな訳じゃなかったんだな。ワインを飲みながら、人が死ぬのを見るのが好きなだけだったんだ」
そんなことを言いながらも鮫川はあっという間にグラスを空けてしまった。再び注ぎ始める彼に地獄坂は問う。
「随分と余裕があるな。魔力も特殊能力も持たぬ君が、一人で私に勝つつもりかね」
鮫川は髑髏に皮を張りつけたような顔で、陰惨な笑みを作った。
「悪役に相応しい、いい台詞だ。僕は正義のヒーローではないが、こんな場面ではかっこいい台詞の一つも返さないといけないな。うん、『元々他人の力など当てにしていない』というのはどうかな。それとも『僕は世界を守るために、必ず勝つ』と言うべきだろうか。或いはもっと単純に、挑発的に、『気取るな、クズ野郎』と舌を出そうか」
鮫川は本当に舌をベロリと出した。痩せた、青黒い舌だった。
地獄坂はまた無表情に笑い出した。
「ハハ。面白い。ハハハ、ハハハハハ。そろそろ君を蚊のように潰してみたくなった。厚さ一ミリでいいかね。それとも一ミクロンまでプレスしてみせようか」
「お好きなように。出来るのならね」
鮫川は舌を出したまま天を向き、真上からグラスを傾けてワインを口の中へ着地させた。
グラスが空になった瞬間、その場にはグラスとワインボトルだけが宙に浮かんでいた。霞む影。飛び散る何かの欠片。それから二つのガラス容器は落下して、黒い床にぶつかり儚い音を響かせて砕け散った。
「賞賛してあげよう」
地獄坂が告げた。その額と喉に深々と手刀が突き刺さり、尖った指先が後方から顔を出していたが、彼の声音に変化はなかった。
周囲に数千本もの半透明の触手が落ちていた。全て断ち切られ、小さくしなびている。そして亡者のものでない割れた生首が数百人分。鋭利な刃物で切断されたようななめらかな断面を晒し、殆ど血は滲んでいなかった。虚ろな目は開いたまま、もう動かない。
地獄坂の黒衣もズタズタに裂け、百ヶ所を超える傷口から赤い肉が覗いていた。
「鮫川極君。肉体の再構成を経たとはいえ、君は生身のホモ・サピエンスとしては最も素早く、強力だった。三千二十五種の防御機構を力ずくで突破するとは。本来であれば君を標本にして研究するところだが、この期に及んではもう必要ないだろう」
喋る途中、地獄坂は首を軽く右にかしげた。一秒後、三キロ先の高層ビルが光に包まれ消滅した。ビルの屋上から狙撃した中肉中背、特徴のない顔の男……生前に『ビジネスマン』と呼ばれていた暗殺者は、チャンスを待ち続けた四時間の努力も虚しく始末された。
地獄坂に突き刺さった鮫川の両手は、手首より根元側がなかった。地獄坂の前の床に広がる、厚みのない肉板が、鮫川極の残りの部分だった。彼は全ての防御機構を突破した訳ではなかったのだ。
その頃、空を駆ける天使達の姿は全く見えなくなっていた。亡者達の叫びも聞こえない。報道ヘリもいつの間にか一機だけになっている。
ハルマゲドン・キャッスル屋上から見る八津崎市の景色は、廃墟のような寒々としたものだった。動く者は殆どいない。天使と亡者の残骸も大半は何処かへ消えてしまっていた。
カツ、カツ、と靴音が近づいてくる。屋上には地獄坂以外おらず、地上と繋ぐエスカレーターも今はない。ならば靴音は何処を歩いているのか。
屋上の縁からクルリと立ち上がってきたのはピンクのスーツを着た黒人だった。彼は急傾斜の壁をそのまま歩いてきたのだ。
「今日のトリは君かね、ミスター・ドリトス」
地獄坂はその名を呼んだ。既に鮫川の両手首は抜け落ち、黒衣共々完璧な再生を遂げている。
天使と亡者と一般市民と観光客、合わせて一千万以上を丸呑みしたと思われるミスター・ドリトスの腹は、少しも膨れていなかった。
「第二回、世界殺人鬼王決定戦優勝者。君の発言録は食べることばかりだな。理念も哲学もなく、ただ食らうだけの殺人鬼が、私に勝てると思っているのかね」
「理念はあります。私が目指すのは世界平和です」
ドリトスは分厚い唇を舐めながら応えた。
「私が全人類を含めたあらゆる生命を食べ尽くし、ついでに宇宙を丸呑みします。世界は平和になります。そして私はお腹一杯になります」
地獄坂は頷いた。
「なるほど。君の主張には一理ある。それだけの力が伴っていればの話だがね。もしそうなら、君は私の敵として申し分ないということだ」
最大の破壊者と食欲魔人は約三十メートルの距離を挟んで対峙していた。ドリトスが同じ口調で尋ねた。
「ところで、建物を先に食べるべきでしょうか。それともあなたを先に食べるべきでしょうか。建物はすぐ食べられます。生き物は踊らないと食べられません」
彼の頭には食べることしかないらしかった。
地獄坂は少し考えてから答えた。
「私を先にしてもらおうか。私が敗れることはないが、万が一にも城がなくなるのは困るのでね」
「分かりました」
濃いサングラスのためドリトスの表情は読み取れないが、おそらく緊張などないのだろう。或いは敵意すらも。
「では、始めましょう。パッパラピッポラポンガポンガ」
ドリトスがかけ声をかけて軽快なステップを始めると、地獄坂の手足も同じように動き出した。
「パラチョメパラチョメラッパッパッパッ」
「む、全く逆らえんのか」
踊りながら地獄坂の眉がひそめられる。第二回世界殺人鬼王ミスター・ドリトスの能力を知らなかった訳ではあるまい。幾多の科学技術と魔術を収集したという自負が、個人の特殊能力への警戒を鈍らせたのか。
「パラパラパラパラパラパララパラパラパポップポップ、パンツパンツパンツ」
ドリトスは踊りながらキャッスルの屋上を反時計回りに巡る。手拍子と共に打ち合わされた指輪が鳴る。地獄坂はそれに従いながら「カットだ」と鋭く叫んだ。途端にキャッスルが黒い幕に包まれた。報道機関と自らがセットしたビデオカメラの撮影を遮断したのだ。地獄坂も流石に恥ずかしかったのだろう。
二人の踊る屋上は淡い光で照らされている。そこに新たな数千本の光線が加わった。レーザースピアと不可視の破壊兵器数十種がドリトスを殺すべく集中したのだ。
だがその全てがドリトスを素通りしていった。実際にはドリトスが超絶的な変形で躱したのだが。重力波による面の攻撃も、ドリトスは潰され平らになった次の瞬間にはプルンと元通りになって踊り続けた。
「パッパラピッポラポンガポンガ、パラチョメパラチョメラッパッパッパッパラパラパラパラパラパララパラパラパポップポップ、パンツパンツパンツ」
ドリトスのかけ声はどんどん速くなり、手足の動きもそれに合わせてペースアップする。地獄坂の顔が屈辱に歪む。自分の手足を固定しようとしたのか、地獄坂の体が透明なガラス箱に包まれたがすぐにダンスで突き抜け、次は青く発光するが何の効果も現れない。
「一旦術に掛かれば流れに乗るしかないのか。ならば……」
地獄坂の首筋に水平の線が生じた。血が溢れ出し、首が胴から浮き上がっていく。地獄坂は術の呪縛から逃れるために自分の頭部を分離したのだ。彼なら首だけでも余裕で生存出来るし、すぐに再生する筈だ。
だが首は転がり落ちたりせず、胴体の切断面から数センチ浮いただけで固定されてしまう。ドリトスの魔力は食べ物が逃げることを許さないのか。
光線や空間限定核爆発や元素変換に機械式呪術がドリトスを襲い続けるがやはり素通りするだけだ。同時に地獄坂は自分の体も攻撃していた。手足がなくなれば術が効かなくなると判断したか。だが肉が裂けても手足が細切れになっても体積は減らず互いの繋がりも失われず、ズタボロのまま踊り続ける。ドリトスの食べ物への強制力は異常だった。
ドリトスのかけ声は既に聞き取れないくらいの早口になっていた。二人の手足も流れる残像と化す。ドリトスの移動は反時計回りの渦のように、次第に屋上の中心へ近づいている。亡者との戦闘でも無事だった旗が二人の作り出す風圧で揺れる。
二人の距離が一メートルを切った頃、ドリトスがいきなりステップを止めて振り向いた。
「頂きます」
開いた分厚い唇の間に、細長く変形した地獄坂はツルリと吸い込まれた。
究極の破壊者・地獄坂明暗は消えた。
「ご馳走様でした」
ドリトスが両手を合わせ、十個の指輪がチリンと儚い音を立てた。
キャッスル周囲を覆っていた黒い幕が薄れて消え、本来の八津崎市の景色が戻ってきた。
「では、次は建物を頂きます」
中央の黒い旗に手を伸ばしかけ、ドリトスは動きを止めた。スーツの腹部分が妙に膨らんでいる。
「あれっ、お腹が痛い。食べ過ぎかも知れな……」
ドリトスの腹が白い光を発した。数条の光線が彼方へ伸び、体全体が光に包まれていく。胴体が膨らみ、続いて手足も太くなり、首も頭部も風船のように大きくなる。肉体と一緒に自在に変形していたショッキングピンクのスーツが裂けた。パキーン、キーン、と音を立てて銀の指輪が割れ飛んでいく。
バギュッ、とサングラスが割れて飛び出したものが二つ。黒い床に転がったのは血走った眼球だった。丈六メートルの人型風船と化したドリトスは吐き気を堪えるように、膨れた両手で口元を押さえた。だが両頬が際限なく左右に伸び、ついに破れた。
破裂音は、バフウッ、とあっけないものだった。溢れる光に紛れてドリトスの肉片は見えなかった。
第二回世界殺人鬼王ミスター・ドリトスは退場し、光の中に人影が現れた。
歩み出る影は黒衣の地獄坂明暗へと変わる。細切れだった胴体はほぼ元通りとなり、立ち昇る白煙も小さくなっていく。離断した首はゆっくりと本来の位置に接着し、水平の傷も消えていった。
「なるほど。食われてしまえば術は解けるということだな」
地獄坂は独りで頷いた。
屋上の床に転がる二つの眼球を、地獄坂は丁寧に踏み潰していった。
七
厳重無比な防衛監視機構に守られたハルマゲドン・キャッスル内部を、一時間に四メートル六十センチというスローペースで移動する者があった。
それは路傍石と呼ばれていた。エフトル・ラッハートが最初に揃えたアルメイル精鋭一万の、最後の生き残り。正式な強者ランキングには登録されておらず、エフトルなどごく一部、長命のアルメイル住民にしか知られていない伝説の暗殺者だった。
路傍石の特技は隠形だった。一秒に一ミリ強というペースを守れば何物にも感知されず、あらゆる制限を受けつけない。彼はその能力によってサイクロン・パッケージを無効化し、キャッスルの壁をすり抜け空間歪曲も突破して内部に侵入し、多系統の科学と魔術を集積させた絶対的防御システムをくぐり、天井を抜けて司令室近くに到達した。無表情な黒衣の所員が機器を抱えて行き来するのを見た。地獄坂本人が目の前を通り過ぎたこともある。だがペースを破って襲いかかれば即座に感知され、賽の目切りや黒焦げの死体となるか死体も残らなくなるだろう。だから路傍石は最適の手段を探す。
カタツムリのような遅さで自動ドアをすり抜けて司令室に入る。奥が玉座の間になっている。全世界完全滅却宣言に使われた場所だ。路傍石は慎重に眼球を動かして室内を見回した。多数のモニターとパネルに百名を超える所員達が張りついている。誰も会話を交わしたりせず、機械のように黙々と業務を続けている。
右隅のテーブルに金属ケースが置かれていた。上面はガラス製で、中に注射器が並んでいる。
路傍石は長い時間をかけてそこに辿り着いた。途中、所員の一人が彼の体を通り抜けていったが気づかれることはない。
注射器は二十本以上収められていた。ケース内は一定の温度や湿度を維持されているのだろう。アンプルで保管するのではなく注射器に透明な液体を入れてあるのは、即座に使用出来るようにとの配慮か。
地獄坂の異様な発作時に所員が出す注射器と同じものだった。地獄坂の科学力からすれば、わざわざ注射器を用意しなくても体内に注入機構を格納出来そうなものだが、面倒な手順に儀式的な意味があるのかも知れない。
路傍石はアルメイル最強の毒液が収まったとっておきの小瓶を取り出した。栓を外し、瓶を持ったままの腕がケースの上蓋を素通りする。
一秒一ミリの慎重さで、路傍石は全ての注射器の中にそのドロリとした液体を溶かし込んだ。透明な注射液に馴染み、見た目には違いが分からなくなった。
ケースから離れ、路傍石が黒と赤の玉座へ向かい始めたところで、自動ドアが開いて地獄坂明暗が戻ってきた。出ていった時と同じ姿で全くの無傷に見えたが、冷酷な瞳が邪悪な歓喜に燃えていた。
「うむ。今日は充実していた。こうでなくてはならん。最後の戦いとはこうでなくては虚しい」
黒い手袋を填めた指が小刻みに震えていた。地獄坂は路傍石を追い抜いて一直線に玉座に歩み寄り、乱暴に腰を下ろした。
「いや虚しくない。充実していた。最強の戦士達と私は戦い、打ち勝った。天界も冥界ももう余力はあるまい虚しい。いや虚しくない。ミスター・ドリトスの能力は未知のものだった。それにも私は勝った虚しいだから虚しくない虚しいいや虚しくないと言っている虚しい、虚しい虚しい虚しい……」
震えが地獄坂の全身に広がっていた。特に激しいヘッドバンギングで首の骨がゴギゴギリと鳴り、血色の悪い皮膚が裂け始めている。
所員の一人が金属ケースを開けて注射器を一本取り出した。地獄坂は立ち上がって腰を深く曲げ、床に額を打ちつけた後でまた直立するという動作を超高速で繰り返す。所員は歩み寄り、横から地獄坂の腰に注射器を刺した。一気に内容物を注入する。
コンマ七秒で地獄坂は我に返った。所員が抑揚のない声で告げる。
「二十七時間六分三十八秒ぶりです」
「そうか。世界の終わりまで持たせるつもりだったが無理だったか。無理とはどういう意味だ。意味の意味って何だ。むっ」
地獄坂明暗が爆裂した。