第五章 のんびり過ごす終末

 

  一

 

 八津崎市役所は市の中心地、警察署や消防署の近くにある。以前はエベレストタワーという高さ八百八十四メートル八十センチという細い塔もあったが、今は離れた廃ビルの屋上などに倒壊した瓦礫の一部が残るだけだ。プレハブの警察署は焼け落ち、その隣の消防署は元々廃墟だ。常時市内の何処かで火災が発生しているため、消防車が戻る暇がないのだ。

 市役所の建物は口の字型で、壁面に蔓野菜が育っているのは黒贄礼太郎の探偵事務所ビルと同じだ。更には屋上全面に土を敷いて野菜畑を作り、異形の者達が嬉々として手入れをしている。

 中庭も野菜畑であり、異形の男達が水を撒いているが、中央には五メートル角の鋼鉄の箱が鎮座していた。壁のあちこちには念入りな溶接跡があり、『開封厳禁』という文句のステッカーが何十枚も貼られていた。ドアはなく、出入り口は正面の壁に設けられた横長の穴だけだ。人間の通れるような幅ではない。

 穴の上に二枚の札があった。『市長室』と『アルメイル魔王』となっている。屋根には大きなルビーの嵌まった王冠が載っていた。精緻な装飾の隙間には古い血がこびりついている。側面に大きな凹みがあり、『受理』という赤い印が磨き落とされずに残っていた。

 ガラス戸を押し開け、スーツを着た男が中庭に入ってきた。理知的な顔立ちで額はM字型に後退している。八津崎市長補佐の犬神であった。

 野菜畑の男達は彼の素性を知っているらしく、一瞥しただけで本来の農作業に戻る。犬神は書類も何も持たず、真っ直ぐに市長室へと歩いた。

 犬神は横穴に近づくことなく、ただしゃがみ込んだ。両手を市長室の下縁より下に差し込み、「フンッ」と力を込めると市長室が斜めに浮き上がった。屋根の王冠がずれるが落ちはしない。

「貴様、何をしている」

 男達が流石に見咎めて駆け寄ってきた。既に剣を抜いている者もいる。一人は両手からドロドロとした液体が滲み出してきた。彼らはアルメイル魔王の親衛隊であり、ちょっとした誤解から誅殺された市職員は数知れない。

 犬神はゆっくり両手を引き戻し、アルメイルの戦士達に冷たい視線を返した。

「市長に避難して頂く。余計な戦闘に巻き込まれるのは望ましいことではない。市長補佐の私に何か文句があるのかね」

「待て。それは魔王ご自身の希望なのか。ちゃんと許可は取っ……」

 ピシュリ、という鋭い音がした。

 男達の顔面と首筋に、五筋に並んだ赤い線が走っていた。その線が歪み、パックリとなめらかな傷口を開く。頭部をスライスされたアルメイル戦士達は静かにくずおれた。

 犬神の両手の指から長さ三十センチほどの爪が伸びていた。さっきまではなかったものだ。強靭で鋭い爪は緩いカーブを描いていた。一滴の血もついていないのは斬撃のスピード故か。

 犬神は再び身を屈めて市長室を持ち上げた。二、三トンはありそうな箱の下にずずいと背中を入れ、完全に背負ってしまった。スーツのズボンが破れて膨れ上がった太股が見えた。濃い体毛がワサワサと蠢いている。

「貴様ーっ魔王様を」

 屋上の戦士達が異変に気づいた。それぞれ武器を持って中庭に飛び降りてくる。指先から光線を発する戦士もいたが、市長室を傷つけるのを怖れてか進行方向の地面を焼くくらいしか出来ない。

 犬神は市長室を背負って移動しながら片腕で応戦した。また首を落とされて戦士が倒れる。市長室から転げ落ちた王冠が地面に触れる前に、犬神の繊細な蹴りが跳ね上げて元の屋根に戻した。犬神は鉄筋コンクリートをぶち破って中庭から建物内へ、そして玄関から抜け出る。その間にまた数人の戦士がスライスされた。

 市役所の玄関にトラックが停めてあった。犬神は「フンッ」と荷台に市長室を積み込む。両腕も上着も裂け、毛むくじゃらだが隆々とした肉体が露わになる。

 犬神の顔は変形して鼻口部が前に突き出していた。拡大した口の間に牙が並び、粘質な涎が顎から滴り落ちる。綺麗に剃ってあった髭がみるみる伸びながら顔中に広がっていき、髪の毛との境目が分からなくなった。

「どうせ奴らは市長を駒に使おうとするだろう。私の不在中に三度も攫われたからな」

 発声器官の変形により舌足らずな喋りになっていた。素早く運転席に乗り込み急加速で発進する。屋根からずり落ちた王冠が荷台の隅へ転がった。

「魔王様が拉致された。逃がすなっ」

 魔王親衛隊が市役所を飛び出して追ってくる。犬神のトラックは時速百キロ近いスピードで市長通りを駆ける。市民も兵士も犯罪者もお構いなしに轢き潰していく。

「奴らに渡してなるものか。我らの宿敵、憎き猫族の頂点、八津崎市長を支配するのは我ら犬族の悲願なのだ……ぬっ」

 トラックの制動が狂い蛇行を始めた。追っ手の投げたナイフがタイヤを破壊したのだ。数台の車両をジャンクに変え十数人の市民を轢き殺した末、トラックはビルの壁に激突した。荷台の市長室が揺れる。

 潰れた運転席から犬神が飛び出した。既に衣服の大半は破れ落ち、そこには長い爪と鋭い牙を持つ人狼が立っていた。毛皮は灰色で、太い尾がうねっている。

「魔王様を返せ」

 時速百キロを追いついたアルメイル戦士達が押し寄せてくる。素直に市長室を返してもきっとなます切りにされるだろう。

「断る。グゥオワオウッ」

 簡潔な返事に獣の咆哮が続いた。犬神は姿勢を低くして自ら突進する。剣をくぐり毒液噴射を避けて両腕を振るうと戦士達の足が胴が寸断された。

「殺せ。ぶち殺せ」

 後続の戦士がどんどん追いついて数百名による包囲網が出来ていた。荷台から市長室を下ろそうとした戦士の首を犬神の爪が刎ねる。

「市長は誰にも渡さん。憎き我が宿敵。市長は誰にも……私の、私のもの……」

 犬神はアルメイルの戦士達を相手にただ一人で奮闘した。だが背中に足にと次第に傷が増えていく。犬神のタフネスも異常だったが敵の質量も圧倒的だった。

 四十四人目を倒した時、犬神の爪は折れ、胴体の百数十ヶ所を貫かれ、返り血と自分の血でドロドロになっていた。ガフッ、と大量に吐血しつつ、犬神はアスファルトに崩れ落ちる。

「細切れ肉にしてやる。肉は食わないが」

 止めを刺すべく戦士達が動き出した時、トラックの荷台でバギュラゴン、と凄い音がした。分厚い鉄板が吹っ飛んで、五十メートル先のビルにめり込み消える。

 厳重に溶接された市長室の壁が、内側から破られたのだ。

 顔面蒼白となった戦士達の前に、トラックの荷台からトテンと飛び降りて、無敵の魔王が姿を現した。

「ニィ」

 小さな可愛らしい鳴き声を上げた八津崎市長は、体重一キロにも満たぬ子猫だった。ポワポワした純白の毛並みと、好奇心一杯にピンと立てた耳。つぶらなブルーの瞳はクルクルと動く。尻尾をフヨフヨ振りながら、気紛れな歩みで戦士達に近づいた。

「ミャア」

 市長の左前脚が軽く触れると、ドワラグジャアと数人の戦士が潰れた肉塊と化して飛んでいった。

「ミィ」

 また市長が左前脚を使う。空彼方まで飛んだ死体の一つはスピード故の摩擦熱で発火していた。

「ま、魔王様。お許しを……」

 アルメイルの戦士達は慌ててその場にひれ伏した。市長はトテトテと歩き回り無邪気に前足を振る。

「ニィ、ミィ、ミニャア、フミー、ナーオ」

 ズガ、ゴボッ、ベギュ、キャドッ、ゲギョッ、と戦士達が次々と潰れた肉塊に変わっていく。彼らは抵抗することも逃げることも出来ぬまま蹂躙され、全滅した。トラック周辺は血と肉片の海になっていた。たまに肉塊に『不受理』という赤い字が見つかる。市長の左前脚の肉球が作り出す印だった。

 ただ一人残った瀕死の犬神は、膜のかかったような瞳で宿敵を見守っていた。

「ミーィ」

 トテトテトテー、と市長がやってくる。犬神はなんとか上体を起こし、爪の折れた両手を振り上げた。

「憎き……にく……ああん市長、ちゅきちゅきだいちゅき」

 両手は叩きつけるのではなく市長を抱き上げようとした。顔をプルプル震わせて大きな口をすぼめ、キスをしようとさえしていた。

「ミニャ」

 市長の右パンチが犬神の頭をちぎり飛ばした。額に『受理』という赤い印がついていた。

 人狼・犬神の潰れた死に顔は、なんとなく満足げに見えないこともなかった。

 トラックの荷台から、変形した王冠が転がり落ちた。それに見向きもせず、八津崎市長はまたトテトテと歩き出し、混乱の市街へと消えた。

 

 

  二

 

 午前零時を過ぎても八津崎市は無数の毒々しい明かりに照らされ、大勢の祭り好きの観光客と犯罪者で賑わっている。兵士達の姿は見かけなくなり、地球上の国家は既に地獄坂への攻撃を諦めたようだ。

 石込町と無間町を結ぶエリアはただの瓦礫の堆積と化し、黒い闇に覆われている。そこにテントを張って観測拠点にしようとする客達がちらほらと現れていた。

 市の中心にある市役所の建物は、幾つかの窓から明かりが洩れている。非常事態に際して常時職員が詰めているらしい。市職員が八津崎市を逃げ出すことなどあり得ない。人の命は自身のものも含めて二束三文であり、市長の命令が絶対であることを皆知っているのだ。ただし、市長は今も行方不明だった。

 市役所の屋上から重機関銃で犯罪者を射殺していた森川敬子は、眠たげに大きな欠伸をした。市長拉致でアルメイル戦士達が出払った後にこの場所を陣取ったのだ。シューティンググラスはオレンジ色から夜間用の無色に近いものになっている。

「そろそろ休んだらどうだ」

 ローンガンマンが声をかけた。彼も愛用のリボルバーで撃っていたが、残り弾数のこともあり積極的ではない。それでも、一般市民を襲うような敵は一キロ先でも確実に射殺していた。

「そうね。一段落ついてるし。天使も死人も消えちゃって、今は雑魚ばかりだからね」

 森川は据えつけた重機関銃から手を離し、取っておいたサンドイッチをパクつき始めた。六時間前に市役所の売店で購入していたが食べる暇もなく撃ちまくっていたのだ。

 ローンガンマンはリボルバーを無造作に下げて柵際に立ち、悲しげな眼差しを無間町の黒プリンへ向けた。高さ六十メートルを超えるハルマゲドン・キャッスルは八津崎市のどの場所からでも見上げられる。存在を誇示するかのように、夜間は地上からの強い照明でライトアップされていた。時折報道ヘリが上空を横切っていく。と、夜空を巨大な機体が燃えながら落ちていき、やがて遠くで爆炎と轟音が上がった。爆撃機か特攻機であったか。今も散発的にキャッスルへの攻撃は続いているようだ。

 地獄坂明暗と亡者達、そしてミスター・ドリトスとの対決は一時的な砂嵐を挟んで全世界に生中継された。勝利した地獄坂は余裕たっぷりに城内へ消えてから現在まで姿を見せず、新しいアナウンスもない。だが彼の居城が依然として黒い威圧感を見る者に与えているのは変わりなかった。

「世界は滅ぶと思うか」

 ローンガンマンが尋ねた。

 頬張っていたサンドをやっとのことで飲み下して、森川は言った。

「さあ。滅ばないような気はするわね。でも本当に滅ぶのかも。……というか、これで世界が終わりなんて、ちょっと嬉しいような気もしてるわ。私の生きてるこの時代に、世界が終わるなんてね。丁度いい時代に生まれた、なんて。……でも、ちょっと悔しさもあるかしら。正直に言うと、ちょっとじゃないけどね」

 森川の凛とした瞳に昏さが宿る。

 ローンガンマンは黙って森川を見つめ、次の言葉を待った。

「おとといの地獄坂の演説。後で冷静になって思い出して、テレビのニュースで再放映されてるのも見たりして、考えれば考えるほど……負けた、気が、してくるのよね。私も幼い頃は、そうだったもの。あいつの幼稚な考え、痛いほど分かるわ。私は特別な存在で、世界は私のために回っていて、私は何でも一番で世界最強で、あらゆる障害を力ずくで蹴散らして、世界征服への道を驀進するんだな、って。その筈だった。でも私は諦めた。諦めて、自分が最強である範囲を狭くしようとした。結局、銃の世界でも負けちゃったけどね」

「それはすまなかったな」

 ローンガンマンは淡々と謝罪する。

「いいのよ。私が弱かっただけ。……大事なのは、私は諦めて、地獄坂は最後まで諦めなかったってこと。それだけで、今回の結果がどちらに転ぶにしても、私は既にあいつに負けているのよ」

 森川は苦笑した。本当に、苦い笑みだった。

 ローンガンマンは言った。

「俺は、人間の意志に、人間が責任を持てるとは思っていない。言い方を変えるなら、自分の意志に、本当に自分が寄与出来る割合など殆どないと思っている。意志の力など生まれつき決められたもので、地獄坂が諦めないだけの意志力を持っていたということなら、それは、生まれつきそれだけの意志力を与えられていたということなのだろう。本当の自分の力など存在しない。自分の力でないものを競っても馬鹿馬鹿しいだけだ。そんなどうしようもなさの中で、人は生きるしかないのではないかと、俺は思う」

 森川は少しの間無言だったが、ぬるくなったカフェオレのパックを一気に飲み干してから、冷たく返した。

「それは詭弁ね。自分に責任がなかったと思いたいだけの、単なる言い訳、自己弁護。私は一番でありたいと本気で思ってきたし、勝負に勝ちたいと本能で感じてきたのよ。それが私にとっての真実。理屈で取り繕ったって無意味なのよ」

「……そうか。そうかも知れんな」

 ローンガンマンは慰めのつもりだったろうが、手痛いしっぺ返しを食らうことになり寂しげに微笑した。

 今度は森川が尋ねた。

「一つ聞いていいかしら。あんたはあんまり、根っからの悪党には見えないのよね。エクリプスの他のメンツからも浮いてたし」

「俺が悪党なのは事実だ。……だが、そうか。浮いてたか」

「あんたが犯罪者の道に入ったきっかけって、何」

 正面から問いかける森川の視線を受け、ローンガンマンは約十秒後、ボソリと低い声で答えた。

「誤射だ。詳しく説明する気はない」

「……。そう」

 森川も重ねて問うことはしなかった。

 暫く沈黙が続いた。市街からは人々の歓声や叫び声、銃声が続いている。八百メートル先では市民の死体を吸収した巨大な肉塊が蠢いていた。ローンガンマンは愛銃を向け、五発の銃弾は全長五十メートルに達した肉玉を分解し、中心にいた元ヴードゥー魔術師の亡者を消滅させた。

 長柄の金属武器を引き摺って役所へ歩いてくる人影を認め、ローンガンマンが言った。

「置き去りになった君の相棒が帰ってきたぞ。弱っているようだが」

「ああ、城のことね。でもあれは相棒じゃないのよ。ただの下僕。私は一流しか認めないの。あいつは警官としては五流だし、殺人鬼としてもあの黒贄にあらゆる面で劣ってるんだから……」

「その黒贄礼太郎も相当やつれているぞ」

「えっ」

 森川は慌てて立ち上がり、ローンガンマンの視線をなぞった。黄泉津通りをよろめき歩く黒贄は一体の人間凶器を引き摺っている。事務所に帰るところだろう。

 屋台の電灯に照らされた黒贄礼太郎の顔は、幽霊でも見たかのように青ざめていた。

 黒贄の姿が建物の陰に消えるのを、二人は黙って見届けた。

「……寝るわ」

 森川はまた欠伸をして、階段へと歩き出した。

「ついてきなさい。役所の仮眠室を借りることになってるの。シャワーもあるし、右端のベッドなら空いてるって」

「俺の寝床はあるのか」

 ローンガンマンが尋ねると、当然のように森川は答えた。

「だから右端のベッド」

「なら俺はソファーで寝る」

「駄目。許さない」

 森川は即答し、どんどん先を歩いていった。

 

 

  三

 

 薄暗い部屋。蝋燭の小さな炎によって『闇の占い師』神楽鏡影の頬は赤く染められている。

 六芒星の描かれたテーブルには燭台の他に、根元に木の棒の刺さった干し首や小さな水晶玉が置かれていた。それと、羊皮紙や和紙、人間の皮膚と思わしきもので作られた古い書物達。

 神楽はテーブルの前で腕組みし、厳しい顔で十冊近い書物を睨んでいた。

「どれも準備期間が足りなかったな。検証も済んでない魔術を本番で使うのは自殺行為だ。洲上め、せめて三ヶ月前に手紙を届けていればなんとかなったろうに……。手持ちでやるしかない」

 テーブルに載っていたのは第一級の魔術書群だった。それも『幻の』とか『伝説の』という表現が相応しい、またはその存在を知る者すらなくなった代物だ。洲上はそれらの在り処を予知し、地獄坂との戦いのため神楽に情報提供したのだ。

 だが、それらは残り四日半を切った最後の戦いには役立てられなかった。

 腕組みのまま微動だにせず、神楽は独り言を続ける。自分を納得させるかのように。

「腐れ風神も指喰いもまだ武器としては使い物にならん。アルカードゥラも期待出来んな。どうせ奴とは札が食い違ってる。……個人技よりは集団の力にものを言わせるべきだろうな。だが、アルメイルの戦力は無秩序だ。彼らをうまくまとめつつ、持ち味を殺さないような使い方が出来れば……」

 殆ど閉じるくらいに目を細め、神楽はまた黙り込む。

 蝋燭の炎だけが揺れている。静かだった。戸棚からカサカサと虫の這うような音が聞こえる以外は。

 神楽は目を開けた。

「やむなしか」

 苦々しげに呟いて神楽は動き出した。戸棚に近づくとカサカサという音は途絶える。暗いため戸棚は輪郭でしか見えない。

 戸を開けても何かが飛び出してきたりはしなかった。神楽の輪郭が両手を伸ばし、それなりに重量のありそうな物体を抱え出す。

「アー、ソレハシヌヨ」

 テーブルの干し首が突然甲高い声で喚き出した。人間の生首から頭蓋骨を抜き取り、加工して縮めたもの。両瞼は縫い合わされていた。

「マチガッタモノ、エランダ。カグラ、シヌヨー。セカイホロブ、ゼッタイホロブ」

「ありがとよ」

 神楽は吐き捨てるように返し、さっさと部屋を出た。階段を上り、地上への鉄扉を開く。

 廃墟ビルの地下アジトを出た神楽鏡影は、幅六十センチもありそうな銀製の器を抱えていた。ボウルの底同士を繋げたような上下対称の形状で、上部分の表面は多数の人間の顔が、下部分には胴や手足の積み重なった絵が彫り込まれていた。中間のくびれ部分には三角形の板が幾つも水平に生えている。

「千二百万人の戦士ガ八津崎市に到着しテイます。残リモ朝まデには着クデしょう」

 頭に白シャツをかぶった寸胴紳士が神楽を待っていた。アルメイル魔王補佐官のエフトル・ラッハート。

「多くハ市役所近辺で待機さセテいまス。作戦は決まりマシたか」

「なんとか。ただし、皆さんは嫌がるでしょうね」

 神楽は丁寧語で答えた。

「こちラニどウゾ。市役所まデ三分で着キマす」

 エフトルがステッキで黒い車両を指した。セダンと思われていたものは表面を波打たせながら滑り寄ってくる。タイヤは回転せず蠕動によって移動し、弱い赤光を発するヘッドライトは獣の瞳に似ていた。自動車に擬態したアルメイルの住民であろう。

 ドライバーもいないのに独りでにドアが開き、二人は後部座席に乗り込んだ。ドアが閉まるとセダンはみるみる加速していく。狭い路地をすり抜け壁を這い、人を撥ね飛ばしながら銃撃戦の只中を通り過ぎた。

 膝の間に立てたステッキに両手を載せ、エフトルが喋り始めた。

「実は、キャッスル内部に侵入シた路傍石かラ秘密連絡が届きマシてね。昨日地獄坂と相対しタ精鋭一万人の、最後の一人デす」

 神楽はちょっと意外そうに隣のエフトルを見る。

「なるほど。あれで全滅した訳ではなかったのですね。確かに地獄坂は決着の判断を誤ったことになる」

「毒を盛っテ、地獄坂明暗を爆裂さセルコとに成功しタソうです」

「ほう……。しかし……」

「はイ。残念なガラ肉体が再生を始めタソうで。止メを刺すべク動くカ決断すル前に、念ノタめの報告といウコトでしタ。そレ以降、路傍石かラノ連絡はありマセん」

「そうですか。まだハルマゲドン・キャッスルが健在で、防衛システムも稼動していますから、失敗したと考えた方が良さそうですね」

「もシ地獄坂が回復しきッテイナないとすれバ、今こソが総攻撃の好機カも知レマせんが」

「そうかも知れません……。が、やはり、今は自重すべきでしょう」

 神楽は正面に向き直った。

 景色が凄いスピードで流れていく。エフトルの首と無事な右目が水平に動いて神楽の横顔を見た。

「神楽さンハ嬉しそウデすね」

「……そう見えますか。こういう厄介事にはなるべく関わりたくないと思っているのですが」

「笑っテオラレますよ」

 神楽は抱えていた器から右手を離し、自分の口元に触れた。笑みの形にめくり上げられた唇から、牙のように鋭い犬歯が剥き出しとなっていた。

「そのようですね」

 神楽は答え、右手を銀の器に戻した。野獣のような笑みは消えなかった。

「市役所周辺ニは数百人規模で結界を張っテイます。地獄坂が復活しテイルとしテモ、内部の様子を覗クコとは困難でショう」

 目的地は異形の者達で溢れ返り、まさに鮨詰め状態だった。千数百万もの戦士がこの場に集結しているのだ。彼らの殺伐とした表情は帰る故郷を失ったためか。それとも野菜島の畑仕事を中断させられたためか。一般市民やお祭り気分の乱射犯などは流石にいない。いたとしても死体となって彼らの足元に転がっていることだろう。

 車を降りると戦士達の視線が二人に集中した。エフトルはステッキで彼らの方を指し巡らせて、告げた。

「こチらは『狩場』出身者でアりながラ、強者ランキングの三位を保持しテイル神楽鏡影さンデす。彼が今回ノ指揮官トナリます」

 一つ間違えば全員に攻撃されかねない緊張感に表情を引き締め、神楽は皆に届くよう大声で宣言した。

「私が神楽鏡影です。世界の命運を賭けた戦いのため、あなた方の力をお借りしたい。これから術者など一部を別にして、全員の首を切り離させてもらいます。事が終われば元通りに……」

 途端に戦士達の怒鳴り声が爆発した。

「何だと、ふざけるなっ」

「この俺様の首をやれるか」

「お前を殺せばわしが三位じゃろう。今ランキングを書き替えようか」

 エフトルは場を鎮めようともせず黙って立っている。騒音に混じって幾つか凶器が飛んできた。投げナイフや毒棘を避け、神楽が更なる大声で怒鳴りつけた。

「うるせえボケ共、話は最後まで聞けっ。戦闘中はずっと野菜を食わせてやる。そもそも首を落としても生き……」

「ならいいぞ」

「なんだ、それを早く言え」

「野菜なら万事OKだ」

 戦士達の怒りは波が引くように鎮まっていた。一千数百万の強者達が喜びに顔を輝かせ、「野菜野菜」のかけ声が大地を揺らし始めた。

 神楽は銀の器を抱え、投げ遣りに首を振った。

 

 

  四

 

 青い世界だった。青いだけの虚空が広がって果ては見えない。何もない。音もしない世界。

 虚空に浮かぶ唯一の物体は一辺六メートルの三角板だった。青く染まる材質は金属だろうか。他に何もなく位置の基準が存在しないため、静止しているのか移動しているのかも定かではない。

 三角板の上、或いは裏側になるのか。中央部に機械が据えつけられていた。何もないこの世界には異質なものだ。幅五十センチほどの透明ドーム内で、無数の歯車が静かに回転している。歯車の位置関係を詳しく辿ると、騙し絵のように矛盾した構造になっていた。ドームの外縁には細い鎖が巻いてある。鎖はドームの周りをゆっくりと回っている。

 トスッ、と、世界に音が生じた。音は紫色の波紋となって空間に広がり、薄れて消える。

 三角板の端に剣里火が立っていた。ダークグレイのロングコートと鍔広帽、黒い革手袋とブーツ。全て薄汚れ、コートの裾は裂けている。

 帽子と立てた襟の間に隠れた顔辺りから、剣は疲労の溜まった呼気を吐き出した。そのちょっとした音が緑色の波紋となって広がっていく。

 剣は鍔広帽を巡らせ青い世界を見回し、それから三角板中央の半透明ドームへ向き直った。コートのポケットから便箋を出して確認する。パリ、と紙を開く音が黄色の波紋となった。

 文面は『道順を示します。ハルマゲドン・キャッスルの存在する狩場を出発→→燃えている大地と氷の降る天がうねっている世界→蟻のような生き物が絡み合って全体を構成している世界。たまに崩れる→→扉。詳細は見えず。黒い方を選ぶこと→→冥界と隣接している世界。亡者が出入りしているが彼らは殆ど何も知らない→無の領域あり。注意。出来るだけ早く抜けること→→無機質な世界。結晶の連なりは都会のビル群のようにも見える。動くものはない。ここから五から八レベル以内に目的の世界がある筈→何もない青い世界。一つだけ三角形の板が浮かんでおり、最終兵器の重要パーツが設置されている。原理は不明だが一瞬で破壊しないと危険。中央を狙い真っ二つにすること。防御機構あるため要注意。 洲上天心』となっていた。

 剣は指示の便箋を畳んでポケットに戻した。握り締めた両手を前に差し出し、親指側同士を合わせる。

 ヒュールルルル、と澄んだ音がした。口笛に似ているが透明感のある美しい音色だった。剣の全身から薄灰色の波紋が広がっていく。

 同時に、ジジャー、という低い音がした。くっつけた両拳が離れるにつれ、その間に黒い刀身が姿を現したのだ。右手はいつの間にか黒い柄を握っているが、刀の収まるべき鞘は何処にも見えない。左拳から黒い波紋が広がった。

 最後まで抜き放ち、剣はその名の由来である、黒い両刃の長剣を手にしていた。ヒュールルーという澄んだ音が途切れ、剣はゆっくりと後方を振り返った。

「何故ここにいる。わしがここで死ねばすぐに魂を回収するためか」

 焦げ茶色の波紋を帽子の下から発し、錆びた機械のような声で問う。その相手は紅本亜流羽だった。三角形の外、何もない虚空にゆらゆらと浮かんでいる。

「まあ、ご指摘の通りです。あなたのような大物の魂を逃す訳にはいきませんので、万が一の可能性を考えまして」

 口から赤い波紋を発する紅本は真紅のスーツを着た中年男になっていた。髪も瞳も赤いのは相変わらずだが、でっぷりと肥満して腹も顔も膨れているのは悪魔探偵らしくなかった。

「随分と太って見えるが。この世界の都合か」

 再び焦げ茶の波紋が広がる。

「いえ、実際のところかなり満腹しておりましてね。この三日間で二千件以上の契約を結び、九割以上を回収することが出来ました。残り四日も頑張りたいと思います」

 紅本はにこやかに赤い波紋を吐き、剣は苦笑した。

「フッ。世界が終わるとは全く思っておらんようだな」

「終わるかも知れないとは思っていますよ。しかしそんなことは私には関係ありません。自分の本分をこなすのみです」

 紅本の赤い波紋は剣のコートまで届き、吸い込まれて消えた。

「わしも自分がやるべきことをやるだけだ。この最終兵器を破壊しても、もう一つ残っている。……もしここでわしが死んだら、わしの代わりに残りの一つを破壊してくれぬか」

「お断りします。それは私の役割ではありませんから」

 紅本は赤い唇で微笑したまま即答した。

「そうか。なら、死なぬように努めよう」

 剣は黒い両刃の長剣を両手で握り、上段に構えた。ヒュールルルル、と澄んだ音色が薄灰色の波紋を生む。最初は剣の体から広がっていた波紋は、三角板の下側や彼方の虚空に次々と出所を変えていく。剣の体も陽炎のように揺らいだり、不意に体の一部が消えたりしながら構えを保っている。紅本亜流羽は黙って見守っていた。

 ヒュールルールー。

 剣の両腕が動いた。神速の上段斬りは両肘から先が本当に消えていた。

 半透明のドームの内側に四本の黒い刃が出現した。長い刀身をブツ切りにしたような、途中だけの代物が別々に。四本であり同時に一本の刃は前後上下から歯車の集合体のほぼ中心を割り、完全に真っ二つにした。ドームの縁を囲む鎖が爆発した。爆音の黄土色の波紋より先に死の爆風が広がって三角板を消し去り剣里火を吹き飛ばした。浮遊していた紅本の体もあっさり呑み込まれ、爆発は周囲二十キロに及んだろう。

 爆発が唐突に消えた。黄土色の波紋が広がっていき、薄れ、やがて消え、ただ不変の青い静寂だけが世界の全てとなった。

 

 

  五

 

「人は何のために生まれたのか。私は何のために生まれてきた」

「人は何のために生きる。私は何のために生きている」

「神が世界を創ったのなら、神はどうやって創られたのだ」

「時の始まる前には何があった。どうして時は始まったのか。時が始まる原因があったとすればその時点で世界も時も存在していたことになり矛盾する。ならば時が始まることは不可能の筈なのに、実際に時は始まってしまっている。どうしてこんなことになっている」

「世界の外には何があるのか。何かがあるとすればそれも含めて世界であり、世界の外とはいえない。ならば何もないのか。何もないとはどういう意味か。世界とは一体何だ」

「考えていると眩暈がする。胸が張り裂けそうになる。どうして世界は存在する。存在する筈がないのに。どうして私は存在している」

「宣言より八十四時間が経過しました。終末まで残り八十四時間です」

「全ては感覚だ。あらゆる情報は最終的には私自身の感覚に委ねられる。情報が正しいかどうかを本当に証明するすべはない。証明自体も情報であり感覚に過ぎないからだ。世界が本当に存在するかどうかは証明出来ない。他人が本当に存在するかどうかも証明出来ない。私はただ独り、夢を見ているだけなのか」

「狂おしい。その不安故に私は足掻くのか」

「観念が私を苦しめ、狂わせる。獣であればこんなに苦しまずに済んだのに」

「虚しい。虚しい。虚しい」

「愛。魂を焦がすような愛は私の人生には存在しなかった。或いは、それがあれば私の虚しさを埋められたのだろうか。私の苦悩に麻酔をかけることが出来たのだろうか。しかし私は愛さず、愛されなかった。好意を抱く相手はいた。しかしそれは究極ではなかった。究極でなければ無意味なのだ。感謝はぬるま湯に浸っているようなものだった。私のこの空虚な心を埋めるものはなかった」

「私は対象が魂のない人形であることを恐れた。夢の中の幻影であることを恐れた。私は自ら拒絶した」

「世界が私一人だけだというのなら、もう究極を目指すしかないではないか」

「そもそも愛とは何だ。性ホルモンによる神経の興奮ではないのか。私はそんなものに踊らされたくなかった」

「しかしそもそも私の思考も感情も踊らされたものではないのか。私のあらゆる欲望は生物としての本能による神経の興奮ではないのか。私は何度も脳機能を停止させ検証した。だが脳を破壊しても既に形成された精神構造はそのまま残ってしまう。異世界の多くの生物にも類似の精神構造は存在する。それらはやはり自らの遺伝子情報を残すという目的へ収束する。いやそれはどうでもいいのだ。私だ。私の意志は本当に私の意志なのか。考えるほどに分からなくなる。証明しようがない。全ては感覚でしかない。どうしようもないのだ。思い出してしまった思い出してしまった」

「ああああああああああああ狂おしい」

「皆、単に忘れてしまっただけだ。或いは諦めた。最も根源的な問いを誤魔化したのだ。馬鹿め」

「天音は諦めた。いや諦めきれなかった部分を私に丸投げしたのだ。疑問も苦悩も全て私に押しつけて、自分だけ救われた気になるとは。なんという無責任さ、邪悪さか」

「いや、それ故に私は純粋になれた。それ故に私は諦めずに究極を目指していられた。だから天音には感謝しておくべきだろうな。ハハ。虚しい。天音も私自身だ。天音の方はそう思っていないが」

「あああ。私の魂を焦がしてくれる何かがあったなら、世界を滅ぼさずに済んだのに」

「私は究極を目指す。私は完璧を目指す。私は最高を目指す。実現は間近だ。そう、私は進んでいる。苦悩は終結する」

「R17−269−61世界に設置したパラドキシカル・ギア端末が破壊されました。そのためシステムの完全な作動は不可能となりました。端末の再設置には三ヶ月から半年が必要と推測されます」

「私は世界を憎む。世界の全てを消滅させ時をなくす。全ての魂が苦悩から解放されるだろう。私は世界を滅ぼすと同時に救うことになるのだ。それで漸く、私は、救われる」

 地獄坂明暗は復活した。

 

 

  六

 

 全世界完全滅却宣言から丸四日が過ぎ、終末までの猶予は三日間となった。

 冥界からの亡者の出陣は途絶えていた。天使の軍勢はあの後もう一度現れたが、数は少なくハルマゲドン・キャッスルの反撃により一時間ほどで全滅した。

 時折、武装したグループや自信満々の超能力者、宇宙船なのか装甲車なのか分からないものが黒プリンを襲撃し、あっさり返り討ちに遭った。

 アンギレド星人による攻撃は五日が経過した頃に明らかとなった。誰もがちょっとした集中力の低下や微妙な体調の変化を感じ、コンピュータや精密機械が不具合を起こすようになり、世界中で原因不明の事故が相次いだ。素粒子の動きを狂わせる検知不可能な波動が太陽系全体に放射されていたのだ。アンギレドが『毒』と呼ぶこの最終兵器は、遅効性だが回避の極めて難しい攻撃手段だった。

 地獄坂による反撃は苛烈なものだった。波動を遮断・中和しつつ、アンギレドのステルス処理された太陽系外の攻撃拠点、二千二百三十六ヶ所を完璧に破壊すると、三ヶ所に分散された本拠地の浮遊要塞を周囲の空間ごと封じ込め、じっくり八時間かけて直径六ミリまで圧縮した。逃げられずプチリプチリと潰される四兆人のアンギレド星人の悲鳴は、外に洩れることはなかった。

 その夜、マスコミの希望によって再び地獄坂明暗の記者会見が設けられた。問答の内容は前回と似たようなものだったが、この数日の大戦闘で終末を実感した記者達は必死の形相になっていた。大国の外相や大統領、国王なども直接会場を訪れていた。

 最も繰り返された彼らの質問は、どうすれば世界を滅ぼすのをやめてもらえるのか、というものだった。各国の首脳が地獄坂の前に跪き、命じられればその靴を舐めそうな勢いで哀願した。

 だが地獄坂の答えは同じだった。

「世界を滅ぼすことは確定しており、変更する余地は皆無だ。世界を守りたければ私を殺したまえ」

 その通りのことが会見中に千三百四十七回試みられ、全て無駄に終わったことを、去り際に地獄坂は告げた。記者や政治家達はトボトボとエスカレーターを下っていった。

 会見の様子は世界中にテレビ放映され、各国ではヤケクソになった民衆が暴徒となって好き放題に略奪しまくっていた。警察も軍隊もそれを止めず率先して略奪に加わっている。終末を前に世界は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。比較的平穏なのは元々戦争中であった一部の国と、何も信用しない国民性の一部の国と、平和のぬるま湯に浸かり過ぎて終末の実感が湧かない一部の国だった。騒ぎの中心である八津崎市は相変わらず殺し合いが続いているが、市民の大半はいつも通り生活していた。

 宣言から六日が経過した。石込町の門を使って再び亡者達が繰り出してきたが、四日前より規模は小さく強者も少なかった。まともに相手をする必要もないと判断されたか、ハルマゲドン・キャッスルから何かが発射され、亡者達の上空で光が爆発した。自動追尾式の光の矢が雨となって降り注ぎ、数十万の亡者を一網打尽にした。

 テレビでは安らかな終末の過ごし方を提案する番組が流れていた。皆の祈りで滅亡を回避しようとある宗教の指導者が演説していたが、途中で会場が爆破され血みどろの信者達が泣き叫ぶ姿まで生中継された。普通にアニメを放映している局もあった。

 六日半が経過し、残り十二時間となった午前零時。不気味な生き物がキャッスルを訪れ地獄坂への挑戦を申し出た。たどたどしい英語で、ギギギギャートゥンという名前であることがなんとか聞き取れる程度だ。スカートを履いた赤い蛸のような姿で、僅かながら地面から浮いていた。膨れたり縮んだりしている側面の袋は呼吸器だろうか。

 珍しいことに地獄坂は城の屋上まで招き、一対一で直接対決した。全世界中継されたその戦いは、互いに殆ど動かずはた目からは何が起こっているのか分からぬまま、一時間後にギギギギャートゥンの溶解という形で決着した。

 残り六時間となった朝六時。キャッスルの屋上から黒い金属線が生えた。螺旋を描きつつ垂直に伸びていき、幅と段を得て高速エスカレーターと化した。標高一キロメートルにまで達したその先端にはまだ何もない。どういうデモンストレーションか。最後の瞬間に地獄坂はそこに立つつもりなのか。報道ヘリは先端部に近づこうとして、百メートルほどの距離で空気の壁のようなものに阻まれ断念した。地上から高射砲で攻撃してみる物好きもいたが、螺旋エスカレーター周辺にはバリアーが張ってあるらしく、あっさり弾かれ二秒後に自分が爆死した。

 やがて地獄坂によるアナウンスが全世界に放映された。十一時五十分に終末のスイッチが標高一キロの頂きに設置される。地獄坂は自らエスカレーターを上り、十二時になった瞬間にスイッチを押すのだ。

「私が世界を終わらせるその瞬間を、君達は見届けることになる」

 地獄坂は玉座でそう語った。

 八津崎市は七割の建物が倒壊していたが、その瓦礫の上や空き地に見物客が溢れ、終末の瞬間を見届けるべく待機していた。ヤケクソで今更のようにキャッスルに突撃する集団も多いが、洩れなく門前払いで賽の目切りになったり焼き尽くされたりした。キャッスル周辺は無数の肉片が浮かぶ血の海となっていた。本来その場所に天道病院という素晴らしい医療機関があったことなど、もう誰も想像出来ないだろう。

 

 

  七

 

 狭間町の隣、沈見町のパチンコ店には『世界滅亡記念! 二十四時間営業大出血サービス!』という大きな看板が飾られていた。パチンコをしながら終末を迎えるつもりか、店内はそれなりに客がいた。

 八津崎市警察署長大曲源は、半開きの虚ろな目をして台を睨んでいた。既に玉が尽きているのにレバーをひねったまま動かず、左手の指はとっくに火の消えた煙草の吸殻を挟んでいる。着替えていないのかシャツは汗で黄ばみ、不精髭も伸びてしまっている。

 後ろを通りかかった中年男が大曲の様子を覗き込み、足元の玉箱を一つ、慎重に盗み取っていった。大曲は気づかず、力の抜けた左手から吸殻が落ちた。

 玉箱を盗んだ男はさっさとカウンターで交換を済ませてしまい、ホクホク顔で店を出ていった。すぐに派手なクラッシュ音が聞こえ、轢き潰した男をくっつけてトラックが店内に飛び込んでくる。割れたガラスと血がそこら中に飛び散り、大曲は漸く何度か瞬きして目を覚ました。

「ふうー。寝ちまってたか」

 大きく伸びをして、顔を右に向けると五十センチと離れていないところにトラックの鼻面があった。轢かれた中年男の潰れ顔と、フロントガラスを突き破ったドライバーの血みどろ顔が隣り合って大曲を見つめていた。

 大曲は欠伸しながらアナログの腕時計を確認した。午前九時十三分。

「そういや今日が最終日だったな。ならそろそろ行くか」

 足元の玉箱は一つだけだった。菓子類と交換し、食べながら大曲はパトカーに乗り込んだ。

 比較的陰鬱な平穏を保っていた沈見町を出ると、あちこちでお祭り騒ぎが起きていた。酔っ払ってクラッカーを鳴らしている若者達。半壊したアパートに放火して楽しむグループもいた。諦めたらしい各国の兵士達も仲良く肩を組んで酒を飲んだり上空へ発砲したりしている。ふざけて車道に飛び出した若い男を大曲はあっさり轢き殺した。肉塊がタイヤに巻き込まれて暫くパトカーが揺れる。

 黄泉津通りの縁日は『終末決算大安売り』という幟が並び、観光客で賑わっていた。五、六人ほど轢き倒して大曲は脇道へ入る。

 蔓野菜に囲まれたビルは健在だった。広大な野菜畑もきちんと手入れされている。野菜島から召集された戦士の一部も手伝っているようだ。

 大曲はパトカーを停め、ビルの玄関を抜ける。墓のある一階の草葉陰郎探偵事務所、黒い扉で塞がれた二階の剣里火探偵事務所、扉が石化した三階の紅本亜流羽探偵事務所には誰もおらず静かなものだ。遠くで銃声が聞こえる。それとも滅亡記念のクラッカーだろうか。

 四階、黒贄礼太郎探偵事務所のドアを開けると正面の机には黒贄ではなくスキンヘッドの男がいた。

「おっ、そろそろ出番かい」

 大谷五郎は五日前の酷使の痕跡もなく完全に回復していた。額の『101』のタトゥーが誇らしげに輝いている。机の上には紙片が並べられ、大谷は一枚一枚丁寧に畳んでは箱の中に落としていく。大曲に聞かれる前に彼は説明した。

「凶器のリストを整理してんのさ。この前くじをいじって怒られちまったからな。欠番を埋めて凶器の手入れもやっておいた。黒贄の旦那は弱ってるから、凶器が支えてやんないとな」

「へえ、クロちゃん弱ってんのか。インスタントラーメンを買うくらいの金はあった筈だが」

 大曲の言葉に大谷は首をかしげ、ごつい肩を竦めてみせた。

「それが、俺にも理由が分かんねえ。ただ、ずっとうなされてるんだよな。『もう許して』とか『二人同時は無理』とか『生首が』とか『もげる』とか『折れる』とか」

「ふうん。まあ、クロちゃんにも色々悩みはあるんだろうさ。貧乏とか恋人がいないこととかネクロフィリアとかネクロフィリアとか」

 棚に瓶詰めされた少女の生首がある。眠っているような顔のその笑みが、以前よりはっきりしていた。大曲は無感動に瓶を見て、それから椅子に座る骸骨に目を移した。隣の寝室を覗こうとするかのように上体を傾けて両手を戸口にかけている。大曲は尋ねた。

「これは……クロちゃんが自分で動かしたのか」

「さあ。いつの間にかこうなってたんで俺には分からねえ」

 大谷は気にしていないようだ。大曲も「まあ、いいか」で済ませて寝室を覗き込んだ。

 黒贄礼太郎は安物のパイプベッドで薄汚れた布団をかぶっていた。パジャマを持っていないらしく普段着の礼服で寝ている。

 じっとりと汗をかいた顔で、黒贄は苦しげな呻き声を洩らした。

「ううむ……もう限界です……そんなに何度も無理です……」

「もしもーし」

 大曲が声をかけると黒贄は弾かれたように飛び起きた。目を見開いて辺りを確認する。

「よう、クロちゃん。悪夢かい」

「しょ、署長さん、おはようございます。悪夢……いや悪夢ではありませんよ。悪夢なんて言ったらとんでもないことになってしまいますので。悪夢ではなくて……そう、『愛と責任』とでも呼ぶべきでしょうな。悪夢なんて言ってしまったら恐ろしいことになってしまうんです」

 黒贄は寝起きで混乱した様子ながら、慎重に言葉を選んで答えた。

「ふうん。クロちゃんも色々大変なんだな。脳内で」

 死んだ魚のような大曲の目に僅かながら憐憫が混じった。黒贄は口元に手を当て、声を潜めて補足する。

「聞かれていますのでこれ以上は言えません」

「……。まあ、菓子でも食いなよ。ほれ」

 大曲はパチンコで入手した菓子類を黒贄に渡した。

「おっ、こりゃすみませんな。お腹が一杯になったらきっとトラウマも忘れられ……いえ何でもないです。何でもないですからね本当ですから」

 黒贄は誰かに弁解するように慌てて訂正した。

「旦那、凶器の整理終わったぜ。くじも百一枚、ちゃんとインチキなしで入れといたから。百一番を五枚とか十枚とか入れてないからな。六枚とか七枚とか八枚とかも入れてないんだぜ」

 大谷は微妙に怪しい念押しをした。

「申し訳ありませんな。凶器に凶器の手入れをして頂くとは。しかしこれで心置きなく活躍出来そうですな」

「気にすんなよ旦那。使い手のために尽くすのが凶器なんだからよ」

 大谷は太い笑顔で席を立ち、黒贄のために机を空けた。大曲が納得したように小さく呟く。

「ははあ、なるほどね。『愛と責任』はこっちか」

「え、何でしょう」

 黒贄は早速スナック菓子を開けてパリパリ食べながら聞き返す。

「いや、何でもない。こっちの話さ。それで、いよいよ本番だが行けそうかい」

「行けますとも。お菓子を食べたらなんだか元気が出てきましたよ。やっぱり食べ物は大事ですな。出来ればステーキなどがあればもっと元気が出たんでしょうけれど」

 物欲しげな視線を送りながら、黒贄はチョコスティック二十本をまとめて口に入れる。

「まあそれは事件解決の後に楽しんでくれや。自費でな。そういやくじのことだが、カンちゃんの話だと現場に箱ごと持ってって直接選んだ方がいいってさ。エフトルが凶器を運んでくれるそうだ。凶器がどんだけ必要になるか分からんからな」

 バリボリ食べている黒贄に代わって大谷が嬉しそうな声を上げる。

「へえ、いい話じゃねえか。百一番が選ばれる見込みも大幅アップって訳だ。くじ箱は俺が持ってくぜ」

 その時、大曲の右手が鳴った。

「おっ、カンちゃんからかな」

 大曲は右手を頬に当てて内蔵携帯電話に話し始めた。

「大曲だ。……っと、エッちゃんか。いや気にするなよ。エフトルだからエッちゃんでいいだろ。……ああ、今クロちゃんとこだ。ちゃんとやってるさ。パチンコばかりしてた訳じゃないぜ。……そうか。ツルちゃんはまだ戻ってないのか。まあ、しゃあないわな。……いや、剣だからツルちゃん。……で、空中プロジェクタと放映の準備は出来てんのか。いや、だって俺面倒臭いし。……まあ、任せとけって。奴の性格なら絶対無視出来んだろうからな。……そうか。じゃ、これからクロちゃん連れてそっち行くわ」

 大曲は電話を切った。

「なんかまだ市長は見つかってないみたいだな。五日前、市長補佐の奴が連れて逃げようとして、箱が割れちまったんだ。うまいこと戦力として使えると思ってたんだが」

「ほう、あの市長さんが行方不明でしたか。それはちょっと怖いようなありがたいような気がしますな。私もあの方には手も足も出ませんので」

 黒贄は言ってからクッキーをザラザラと口に流し込む。

「ふうん、市長ってのは凄え化け物なんだな」

 大谷は感心して頷いた。

「じゃ、クロちゃん、行くか」

 大曲と黒贄、そしてくじ箱を持った大谷が事務所を出発した。

 棚にある少女の生首瓶の隣に大きな瓶があった。きつく蓋をされた中身は雨合羽の混じったゼリー状の物体で、時折プルプルと動いている。蓋には『三十三番』というラベルが貼ってあった。

 黒贄の寝ていたパイプベッドの下で、純白の子猫が眠っていた。そばにミルクを満たした皿がある。数日前に迷い込み、大谷五郎が餌をやっていた子猫の首輪には『九十九』という札がついていた。

 大曲の運転するパトカーはまた十数人を轢き殺して市役所に到着した。人の姿は疎らで静かなものだったが、敷地内に入った途端グニャリと景色が歪み、薄暗い空間に変わった。ここは特殊な結界になっているようだ。市役所の建物はそのままだが一般人の姿はなく、代わりに異形の戦士達が生の大根やキャベツを齧りながら巡回している。駐車場にはトラックばかりが並び、大量の野菜を運び下ろしていた。ここから敷地外の景色はヴェール越しのように曖昧になっていたが、そびえ立つハルマゲドン・キャッスルの輪郭を目にすることが出来た。

 市役所の屋上に副署長の森川敬子とローンガンマンの姿があった。森川は大曲に向かって申し訳程度の敬礼をする。大曲も軽く片手を上げて返した。

 玄関から燕尾服を着た寸胴の紳士が出てきて三人を迎えた。魔王補佐官エフトル・ラッハート。頭頂部と顔面左上の負傷は、間に合わせのシャツではなく黒い鍔なし帽を斜めにかぶせて隠していた。

「間に合イマしたね。いイヨよ総力戦といウコトニなりまスカ」

「そうだな。他の勢力も大概潰れてるから邪魔されずに済むだろうしな。戦術はカンちゃんに任せてるし、それなりにやってくれるだろうさ。ただ、ツルちゃんがまだ帰ってきてないのは痛い誤算だったな。他にも幽霊とか疫病神とか悪魔とかの探偵もいないが、そいつらはどうせ役に立たないからいいか」

 禁煙パイポを三本同時に咥えて大曲が言う。

「探偵ですか……。また、大変なことを思い出してしまいましたよ」

 黒贄が真面目な顔で腕組みをした。

「私も探偵なのに、殆ど探偵らしいことをやってないんですよねえ。推理とか推理とか推理とか。それとも推理とか。或いは推理とか。とにかく推理とか」

「まあ、いいんじゃね。実際の探偵なんて、華麗な推理より地味な作業の方が多いって聞くしな」

 大曲は気楽に慰める。

「そういえばそうですけれど。私も地味な作業ばかりです。つい凶器を振り回したりちょっと殺したり、それとも殺したりで。……あっ、大事なものを忘れてました。凶器はいいとしても、仮面の用意がまだでした。今のうちに急いで見繕っておかないと」

 黒贄は慌てて周囲を見回し始めた。「そうだ、あそこのカボチャをくり抜いて……」と近寄りかけてアルメイルの戦士に睨まれる。エフトルが言った。

「そノ辺にガラクタを捨てタ箱があリマシタので、そコカら適当に選べば良イデしょう」

 一行は市役所玄関を抜けて真っ直ぐ進む。歩きながらエフトルが説明する。

「ミスター神楽ノ指揮の下、アルメイルの術者達が幾重にモ結界を張っテイます。体系化されテイない術の方が地獄坂に察知さレル危険が少なイトノことでス」

 四人は中庭に出た。「へえ」と短く感心するのは大谷だ。

 野菜畑であった中庭は早めの収穫を済ませ、今はならした土に無数の頭部が並んでいた。首側を下にしているが、その密集具合からは胴体が地中に埋められている訳でもないだろう。普通の人間に近い顔から何処かデッサンの狂った顔、巨大昆虫のような頭や爬虫類系、風船に触手が生えたようなものまで、見える範囲で数万人分はあるだろうか。ただ、中庭の隅に地下への階段が掘られており、生首の列はそこにも続いているため合計でどれほどになるのか分からない。市職員と思われるスーツの男達が生野菜を生首の口に与えている。生首は嬉しそうにサリサリと齧っていた。彼らは首だけで生きているのだ。

「ミスター神楽によレバ、こコガ主戦場になルのが理想的とノコトです。地獄坂のキャッスルにハ向こウニとって有利なシステムが組み込まれテイます。可能なラバ地獄坂をこちラマで引き摺リ出しタイところです」

 ステッキを振りながらエフトルは中庭中央へ進む。市長室があったそこは径約五メートルの布が敷かれていた。布の上とそこへの通路には生首が配置されていない。描き込まれた奇妙な図形は魔法陣だろうか。中心には腰の高さほどの祭壇が設けられ、銀製の器が置かれていた。

 祭壇の前に神楽鏡影が立っていた。いつもの黒い和服ではなく赤いローブを着ている。鈍い暗赤色は血で染めたものかも知れない。髪も珍しく整えて後ろにまとめていた。刃がジグザグになった両刃の短剣と、鎌状に湾曲した剣をベルトの背中側に吊るしている。野生的な美貌は極度の集中のためか幾分やつれ、左瞼は糸で縫いつけてあった。代わりに別のものを見ようとするかのように。

「来たか」

 振り向きもせず、本気の口調で神楽は言った。彼の右目は銀の器に満ちた赤い液体だけを見据えている。

「ふうむ。なんだか今日の神楽さんは近寄りがたい雰囲気ですな。うっかり転んで手刀を打ち込んだりしたかったのですが。いや本当にわざとではなく、うっかりで」

 残念そうな黒贄の言葉にも、神楽は僅かに顔をしかめただけで祭壇を離れようとはしなかった。大曲が代わりに返す。

「クロちゃん、今日はうっかりはやめてくれよ。明日以降なら幾らでもうっかりして構わんけどな。それでカンちゃん、戦闘準備は出来てんのかい」

 やはり神楽は振り返らず答えた。

「一通りはな。ただし、前にも言っておいたが俺達にとって最も有利な場所はここから半径百メートル以内だ。それ以上は離れるごとに力が弱まっていく。この市役所から地獄坂のハルマゲドン・キャッスルまでは十三キロある。大曲、あんたを信用してここに陣を敷いたが、どうやって地獄坂を引っ張り出すつもりだ」

「まあそれは任せといてくれや。で、これどうなってんだ」

 並ぶ生首を指して大曲が尋ねる。

「黒贄の乗る馬であり同時に盾でもある。アルメイルの戦士達は二手に分けた。この術の材料と、結界の守り手にな。守りについてはあんたの部下達にも協力してもらう」

「遠慮なく使ってくれ。警官の命なんか二束三文だからな。死んでくれたら給料も払わなくて済むし」

 大曲は平気な顔で勝手なことを言う。黒贄は中庭を見回して何かを思い出したらしく身震いした。

「生きた生首のコレクションですか。生首にはちょっとトラウマが……いえ何でもないです。それにしてもなんだかこの光景は、見覚えがあるような気がしますなあ」

「生首島の一件は把握している。地獄坂が見捨てた狂頭杯を、俺は独自に研究して改良した。この状況では最善の術だろう」

 神楽の声音には魔術師の自負が感じられた。

 黒贄は尤もらしく顎を撫でながら頷いた。

「ほほう、狂頭杯でしたか。で、何ですかなそれは」

 神楽は右目を閉じ、「いい加減にしろよ」と小さく呟いた。

 

 

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