第六章 仮面問答

 

  一

 

 地獄坂明暗は完全な左右対称の姿勢で玉座に腰掛けている。

 地獄坂の玉座は黒と赤、金と銀の装飾が微妙に歪み絡み合うデザインだが、良く観察すればその模様がフラクタル構造であることが分かる筈だ。樹木の枝分かれや海岸線のように、部分と全体が相似する形は象徴的な意味が込められているのだろうか。

 地獄坂はピンと伸ばした背筋を、背もたれにぎりぎり触れないところで静止させている。利用するが頼りはしないという意思表示なのかも知れない。しかしそれは誰に向けられたメッセージか。司令室には地獄坂以外、心を持つ者はいないのに。

 地獄坂は白衣をそのまま漆黒に染めたような薄いロングコートで身を包んでいる。スラックスも黒、靴も艶消しの黒だ。黒い手袋を填めた両手は軽く拳を握って膝の上に置かれ、真ん中分けの黒髪は一本の誤差もなく完璧な左右対称を誇っている。

 地獄坂は皺の深さなどから四十代に見えた。艶がなく血色の悪い肌は人工物のような印象を与える。僅かに鷲鼻となった高い鼻梁。チアノーゼと間違えられそうな色の唇は水平に結ばれ、どんな感情の表出も拒否している。

 地獄坂の漆黒の瞳は瞬きもせず前方に向けられている。視線の先では百人以上の所員がモニターを睨んで粛々とパネル操作を行っているが、地獄坂の興味はそんなところにはないだろう。彼の見据えるのは遥かなる世界の全てか、自らの脳内にある強力な決意か、それともごく近い未来の破滅であろうか。

「宣言より百六十七時間が経過しました。終末まで残り一時間です」

 玉座のそばに立つ所員の一人が告げた。地獄坂はそのままの姿勢で問う。

「最終兵器の状態を報告しろ」

「『素粒子連鎖崩壊システム』は二千七百六十四の異世界に配置した三千二十一の端末が有効です。指示があれば二百ミリ秒から八十六分で全端末が発動します。『ボールス・アルネータ』は全素材の質・量共に問題なく、調合機構も不具合なく稼動します。指示があれば百五十秒で発動します。『世界のヘソ』は四十三分前より干渉可能域にあり、百二十八分後までは捕捉・破壊可能です。指示があれば六百ミリ秒で発動します。『ペインキラー』はフィールド維持中です。現在のエネルギー量では五十六ナノ秒間、仮想創造主を発現可能になります。指示があれば三百六十秒で発動します」

 黒衣の所員は書類や端末を見ることなく無表情に報告する。

「統合発動装置と設置予定場所に問題はないか」

「ありません。設置予定場所の半径百メートル以内に脅威は存在せず、螺旋エスカレーターも不可侵の状態を維持しています」

「十一時五十分に統合発動装置を設置しろ。現在私とキャッスルへの攻撃を画策している、或いは攻撃中の敵性勢力はどの程度ある」

「検知している限りでは大きく分けて六勢力です。ポル=ルポラの戦艦十八隻が地球に向けて攻撃を続けていますがバリアーを突破するものはありません。五分以内に当方の迎撃により殲滅の予定です。アリマナハイドの共同思念波が八時間前よりキャッスル内部に到達しています。効果は不明ですが、中和によって発現を遅らせており何らかの影響が現れるのは二時間後以降と推定されます」

「アリマナハイドか。彼らの技術体系は五割程度しか取得出来なかったが、私がこれまで収集し積み上げてきた幾万の技術が劣るとは思わない。続けろ」

「天界が『神の火』の投下準備中です。投下推定時刻は二十分から二十八分後で、当方の防御機構で完全に相殺可能です。過去改変機関が所長の幼少時や祖先への干渉・殺害を試みていましたが、既に六十八の時空点で迎撃終了しており、機関の過去干渉の余力は残り五回程度と推定されます」

 所員は報告を続ける。他の所員達は相変わらず監視と迎撃作業を続けている。彼らの行動は全て地獄坂によってプログラムされたものだ。

 地獄坂は言った。

「未来人の勢力だな。世界が消滅すれば彼らの未来も失われる。今の時点で既に彼らは消滅しているかも知れんな。続けろ」

「異世界カフ・ハサフの戦士十二万名がこの世界に向かっています。現時点で彼らはロクトウセンにおり、この世界に到達するのは六十時間後以降と推定されます」

「アルメイルには劣るが、カフ・ハサフにはそれなりの能力者がいたな。次元のトンネルを通して招待してやるか、そのままロクトウセンで殲滅しておくか。……いや、私の設定した期限に間に合わなかったのならそれだけの力がなかったということだ。こちらを攻撃可能な状態になるまで放置としよう。続けろ」

 地獄坂はほんの数ミリほど顎を下げて考え込み、決断を下した。促され、所員は六勢力の最後を説明する。

「太平洋の人工島にいたアルメイルの残存勢力千八百万名が、現在八津崎市内に潜伏中です。隠蔽結界が設けられた市役所近辺に集まっていると思われますが、内部の様子は不明です」

「ふむ。敵のうち、最も見込みのあるのは彼らくらいか。しかしまだ攻撃を仕掛けてこないのはどういうことだ。猶予は一時間を切っている。準備が間に合わなかったか」

「不明です」

「今のは質問ではない」

 地獄坂の冷たい叱責に、所員はロボットのように動きを止めた。

 沈黙。地獄坂は傍らの所員と同様に、玉座に腰掛けたまま微動だにしない。終末を目前にして、破壊者の胸中には何が渦巻いているのだろうか。

 やがて、地獄坂は呟いた。

「虚しい」

 所員達は淡々と作業を続けている。

「これで良かったのか。……いや、私は決断した。これが私の道だ。空前絶後。私が世界を終わらせる唯一の存在となる」

 注射器を収めたケースの横で所員が地獄坂を見つめている。あの台詞が連発され始めたら注射器を取り出すことだろう。マサマサ・エキスに汚染された薬液は全て破棄されている。

「私が準備した七つの最終兵器のうち、三つは破壊された。だが残り四つでも充分に世界を滅ぼせる。失敗する確率が一極分の一から一京分の一になるだけのことだ。問題ない」

 一極は十の四十八乗、一京は十の十六乗だった。完璧主義者の彼は失敗確率を可能な限りゼロに近づけたかったのだろう。

「……しかし、本来は七つを同時に発動する予定だった。それが三つも、破壊されたのだ。こんな筈ではなかった。私は完璧だった筈だ。いや、多少の不具合はつきものだ。私はそれを計算の上で最終兵器を複数用意した。だから私は間違っていない。……しかし、最終兵器の防衛システムは完璧だった筈だ。それが何故破られた」

「シンボライズド・ワールド・スフィアについては監視装置が……」

「今のは質問ではない」

 再び地獄坂が叱責する。

「完璧という表現は正確ではない。しかし防衛システムが破られる可能性は一億分の一以下だった。それが三つも破られた。ということは、残り四つの最終兵器を作動させても世界が消滅しないという可能性もあるではないか。いや、可能性はある。一京分の一だ。だが普通ならこれはゼロと考えて良い確率である筈だ。だが一億分の一が三つ破られたのだ。ならば計算上の確率は頼りにならないということではないか。どうする。失敗するかも知れない。なら計画は中止するのか。しかし中止すればその時点で私は完璧でなくなり全ては崩壊する。諦めていいのか。私は何のために生きている。私は……」

 堂々巡りの独白を急にやめ、地獄坂は大きく息を吸った。胸郭が二倍になるくらいに、たっぷり三分間吸い込んだ後、同じだけの時間をかけて吐き出した。

 地獄坂は言った。

「私は最善を尽くしてきた。後はやるべきことをやる。それだけのことだ」

 傍らの所員が告げた。

「『神の火』を当方の防御機構が相殺しました」

「そうか。報復措置として腐敗腐蝕弾を打ち込んでおけ。内容量は二十キログラムにしろ。今更どうでも良い相手だが、ケジメはつけなければな」

 地獄坂の命令に了解の返事はない。所員の一人が無言でパネルの発射ボタンを押した。

 二分ほどして、玉座の傍らの所員が言った。この所員が情報を統合し伝達する役らしい。

「腐敗腐蝕弾が天界に到達、稼動しました。十分以内に天界の八十パーセントが腐液化します」

「そうか」

 地獄坂は短く応じ、また沈黙が落ちた。

 赤い床と、黒い壁。薄暗い司令室。大勢の所員が動いているが、玉座につく地獄坂明暗は、荒涼とした砂漠に取り残された孤独な旅人のようであった。

 やがて、地獄坂が問うた。

「ポル=ルポラの戦艦はどうなった」

「三十三分前に全艦撃破しました。現在ポル=ルポラの勢力で当方への攻撃能力を持つものは存在しません」

「カフ・ハサフの軍勢はどうしている」

「現在もロクトウセンです」

「そうか」

 また沈黙。

 司令室は相変わらず静かだった。所員の歩く足音もせず、パネルを操作しても電子音は聞こえない。

 膝に乗せた地獄坂の手が、何かを握り締めるようにピクリと動いてはまた緩むということを繰り返している。

 また、地獄坂が問うた。

「アルメイルの勢力はどうしている」

「現在も市役所周辺に潜伏していると推定されます。百七十種から百八十五種の独自魔術が使用されています」

「そうか。何かを準備しているのか」

「不明です」

「黒贄礼太郎はどうしている。アルメイルと繋がりがある筈だ」

「百十三分前に大曲源と大谷五郎に同行して市役所に到着しました。以降は不明です。この時点で大曲源に対する監視も遮断されました」

「そうか。しかしもう残り時間は僅かだ。何を考えている。このまま座して滅びを待つつもりか」

「不明です」

「今のは質問ではない」

 地獄坂はまたまた叱責する。所員は人形のように黙り込んだ。

「物足りない。この程度なのか」

 呟く地獄坂の声音に、黒い怒りが混じっていた。

「世界の終末だぞ。歴史の終焉という最大のイベントに、この程度の敵しか現れないのか。私は強くなり過ぎてしまったのか。虚しい」

 地獄坂の両手がピクピクと動いている。それは小刻みな震えとなり、次第に腕にまで広がっていった。

「私はあらゆる攻撃を防ぎきってしまった。このハルマゲドン・キャッスルに実質的なダメージを与えた者はおらず、侵入した者はただ一人だ。虚しい。私自身のダメージは三度。しかし私を倒すほどではなかった。虚しい。私が揃えた兵器群のうち、今回使用したものは一割にも満たない。世界を滅ぼすほどではないが、それぞれの系統で究極の技術というものがある。だがそれらを存分に振るう機会はなかった。虚しい。使われることのない道具。使う対象のない力。それはまさしく『虚しい』のだ」

 地獄坂の震えは全身に広がっていた。玉座まで震動して低い唸りを上げている。ケースのそばの所員が注射器を取り出そうとしたところに「不要だ」と地獄坂が手を上げて制した。

 震えは一瞬で収まっていた。地獄坂は目を閉じて、再び長い深呼吸をした。

 玉座の傍らに立つ所員が報告した。

「宣言より百六十七時間五十分が経過しました。終末まで残り十分です。統合発動装置を設置します。設置完了しました。螺旋エスカレーターの動作も異常ありません」

「そうか。では、私かキャッスルか最終兵器にダメージが生じる可能性があれば私の脳に送信しろ。それから、私の姿と言葉をリアルタイムで全世界に放映しろ」

 所員は返事をしないがおそらく放映は始まったのだろう。存在しないカメラに向かって地獄坂明暗は告げた。

「世界の終末まで、残り十分となった。私はこれより、終末のボタンを押すために出発する」

 地獄坂明暗は立ち上がった。意思を持たぬ所員達に一瞥すらくれず、司令室を出る。存在しないカメラはおそらく地獄坂についてきているのだろう。全世界の人々に向けて彼は解説する。

「世界は後十分で終わる。いや正確には終わりが始まる。一つのボタンを押すだけで四種の最終兵器が稼動するが、実質的な最初の発動は『ペインキラー』だ。ボタンを押して三百六十秒後、瞬間的に全ての世界と時が消滅する。あっけなく片がつくだろう。それがもし、億が一にでも失敗すれば、『素粒子連鎖崩壊システム』が世界を崩壊させているだろう。二千七百六十四の世界が空洞化し、バランスの崩れによって最終的に全ての世界が消滅する。その頃には『ボールス・アルネータ』も発動している。賢者の石の真逆、錬金術によって生成された究極の消化液は、あらゆる時空も意識も融合・溶解させる。それら三つが不発に終わった場合は、『宇宙のヘソ』が役目を負うだろう。全世界の中心であり要である『ヘソ』は独自の法則性を持って世界を彷徨っている。それを捕らえ、破壊すれば全ての世界が『ヘソ』に向かって急激に牽引され分解し、崩壊する筈だ。時間の概念も変質し、真の消滅までには十二分から六百億年程度かかるだろう。四系統の相互干渉による影響もシミュレートしている。何も問題はない」

 カメラを意識してか、地獄坂は黒い廊下を不自然なくらいに颯爽と進み、エレベーターに乗り込んだ。黒い箱は静かに上昇する。

「虚しい」

 地獄坂は呟いた。

「現在も存続している全ての意識に告ぐ。私は正直なところ、君達に失望している。私の予想したようなレベルの戦いを味わうことは出来なかった。私は究極の破壊者になったが、君達は究極の救世主ではなかった。物足りない。生きるか死ぬかというギリギリのスリル、血の騒ぎを感じることもないまま、私は最後の瞬間を虚しく迎えねばならない。残念だが、当然のことであったのかも知れない」

 黒い箱は天井を貫きハルマゲドン・キャッスルの屋上で停止した。不可視処理された扉が開かれ、地獄坂が一歩を踏み出した瞬間その姿がグニャグニャに歪んだ。

 一秒も経たず地獄坂は元通りになった。景色の歪みが断片となって周囲に散っていく。

「空間歪曲による対象の破壊は欠点がある」

 地獄坂は無数の視聴者に向かって解説した。

「有効な破壊力を生じるまでのタイムラグが比較的長く、標的が同じ技術を持っていれば効果を確認した後でも充分対応可能だ。ましてここは私のフィールドだ。攻撃者の愚鈍さと無能は語るまでもない。無論、ペナルティとして終末前に滅んでもらうが」

 上空に突如出現した浮遊要塞が爆発する。燃えながら落ちる破片は流星のようだった。

 終末を前に、八津崎市の空は青く澄んでいた。人差し指を立てて右腕を真上に突き上げ、地獄坂は言った。

「快晴は終末に相応しいか。私はそうは思わない。ならば相応しい空にすべきだろう」

 空の青がみるみるくすみ、おどろおどろしく淀んだ暗赤色に変化した。時折雷鳴と共に稲妻が駆けるが、何処かに落ちることはない。

 屋上の中央には大きな黒い旗が今も立っていた。『ハルマゲドン・キャッスル ARMAGEDDON CASTLE 地獄坂明暗 JIGOKUZAKA MEIAN』と描かれたそれはこの七日間、傷一つつけられることもなかった。地上と屋上を繋ぐ記者用のエスカレーターはなく、大勢のマスコミ関係者は見物客に混じって遠巻きにキャッスルを見守っている。

 ゆっくりと視線を巡らせて彼らの様子を見届け、地獄坂は無表情な顔に薄い微笑を浮かべた。それは冷酷な悪意に満ちているようでもあり、同時に寂しげでもあった。

「私はこれから終末のボタン……統合発動装置へと向かう。このエスカレーターは予定時刻の一分前に到着するように速度が自動調整される。私はそこで世界を見下ろしながら、虚しく最後のボタンを押す。それで、終わりだ」

 地獄坂はエスカレーターの上り口へ歩き出した。それを遮る者がないと思われたその時、何処かからやる気のない男の声が響いた。

「地獄坂、おーい、地獄坂明暗。聞こえてるかい」

 地獄坂の斜め上前方数百メートルの空に、巨大なホログラム映像が浮かび上がった。人の肩から上部分。不精髭を生やした三十代後半の男だった。死んだ魚のような目は悪戯っぽい嫌な輝きを帯び、くたびれた顔にニヤニヤ笑いを浮かべている。

 六日前の記者会見のやり取りで、世界中の誰もがその顔を知っていた。地獄坂が空中の立体映像へ素っ気なく応じる。

「何の用だ、八津崎市警察署長・大曲君。挑戦なら遅過ぎたな。今となっては、君如きには構っていられない」

 そう言いながらも返事をしたのは何かを期待していたのだろうか。地獄坂の脳に何かが届けられたらしく、彼は僅かに首をかしげた。

「いやあ、いよいよ終盤だし、これまでのお前さんの働きを褒めてやろうと思ってな」

「何。何を言っている」

 地獄坂が目を細めた。

「期待以上の働きだったぞ。良くぞここまで頑張ったな、俺様の部下として」

「な……」

 地獄坂は絶句する。大曲はニヤニヤ笑いを悪魔の哄笑に変えた。

「わっはっはっ、皆の者、しかと聞くがいい。真の黒幕・究極の悪はこの俺様、大曲源であったのだ。さあ地獄坂よ、俺様の部下として役目を果たせ。世界を終わらせて俺様の名を永遠のものとするのだ。わっはっはっ」

 大勢の「な、何だってーっ」というわざとらしい叫びが、大曲の笑い声に混じって放映された。いや、半分ほどは本気で驚いているようだった。遠巻きに見守る見物人や記者連中も、あっけに取られた互いの顔を見合わせている。

「馬鹿なっ死ねっ」

 地獄坂は顔の筋肉が好き勝手に痙攣を起こしたような、メチャクチャな形相になっていた。開いた右掌を向けた先は市の中心地だ。掌からでなく赤い空の一点から放たれた巨大な光弾が市役所周辺を丸ごと包み込む。

 光が飛散した。口の字型をした市役所の建物も周辺のアスファルトも無事なまま、数万もの異形の戦士達がハルマゲドン・キャッスルに向け身構えている。

「ぬうう」

 地獄坂が憎悪の呻きを洩らした。空中のホログラムは更なる嘲りの言葉を吐いた。

「皆の者、ようく見ろ。地獄坂は黒プリンの上でウジウジして直接俺様を襲ってはこない。俺様は八津崎市の市役所にいるのにな。これが俺様が真の黒幕という証明なのだ。わっはっはっ」

「どういう理屈だ。論理的に成り立っていない。嘘だっ、皆信じるなっ」

 地獄坂が叫ぶ。全身全霊、自らの全存在をかけて怒りに打ち震える。ホログラムの大曲がほくそ笑む。

「ほうら見ろ。やっぱりこっちに来ねえじゃねえか。これが証明さ。さあ、地獄坂よ、俺様の部下としてさっさと役目を果たせ。この大曲源様のために世界を終わらせるのだ。ぐわっはっはっ」

「ぬがああああああ」

 地獄坂が雄叫びを発した。彼は物凄い勢いで駆け、キャッスルの屋上から飛び出した。六十メートルの高さから落下するかと思いきや、地獄坂の足元に銀色の輝きが生じて円盤と化した。直径約一メートルで厚みは二十センチほど、ジェット噴射孔などはなく反重力機構を搭載しているのか、地獄坂を乗せたままぐいぐい加速する。時速三百キロを超えたその先には市役所があった。

 

 

  二

 

 毒々しく濁った空の下、世界の存亡を賭けた決戦が始まる。

 破壊者・地獄坂明暗はただ一人、銀色の円盤に乗って市役所を襲う。右掌を開くとその中心から黒い物体が生え伸び、一本の黒い槍を形成した。先端は鋼の刃ではなく、低い放電音を発して常時稲妻のような電光を揺らしている。

 迎え撃つのは八津崎市・アルメイル連合軍。隠蔽結界を解除した今は市役所の全容が露わとなっているが、千八百万もいた筈の戦士達は精々三、四万程度しか見えない。そして中庭に並ぶ無数の生首達。涙を流しながら生野菜を齧っている。

 中庭の中央からグミョンと何かが盛り上がり、巨大な蛇のように鎌首をもたげた。幅四メートル、高さ四十メートルを超える巨体はまだら模様の皮膚に覆われていた。白、黄、赤、黒と異なる色の皮膚はそれぞれ長径二メートルほどで、まるで人体から丸ごと皮膚を剥ぎ取ったように体毛らしきものも付着していた。

「ほう。狂頭杯か」

 それが何であるかに気づき地獄坂が言った。彼の声は拡声器でも使ったように八津崎市中に響く。そして生放送によって全世界にも。

「そう、狂頭杯だ」

 応じたのは神楽鏡影だ。祭壇を中心に据える円形の魔法陣。その数百ヶ所から肉の糸が伸びて丁度狂頭杯の真上で合流し、そこから先が大蛇の胴になっていた。材料のストックは地下に大量にあるのだろう。

 自らの血を満たした銀製の器の前で、神楽は両手を組み合わせ印を結んでいた。右の瞳は地獄坂ではなく器の中の赤い水面を見据えたままだ。この場所からは市役所の建物が邪魔になって地獄坂は見えなかったが。野獣の笑みを浮かべ神楽は告げた。

「地獄坂、お前は『使い物にならない』と断じたが、決定的な点を見落としていた。個人主義者のお前には想像出来なかったろう。狂頭杯は、意志を統一した生者達の肉体を使うことで最大の力を発揮するのだ」

 大蛇の体はアルメイルの戦士達の首から下を材料に作られていた。分解再構成された筋肉骨格内臓は、通常の数十倍という高密度に圧縮されて頑強さと威力を高めている。更には骨成分を体表近くに配置して防御力を上げつつ、複雑な筋肉の連携によって運動性能を確保していた。その強力な肉塊が、術者である神楽の意志によって自在に変形出来るのだ。結界内部……中庭と広大な地下に並ぶ無数の生首は野菜を味わうという共通の幸福の下に意志を統一されていた。

 空中のホログラムは消えたが、神楽の言葉は届いていただろう。地獄坂はしかし市役所ではなく大蛇の先端を見つめていた。平たくなった頭頂部の足場に立つのは着古した黒い礼服の殺人鬼。

 黒贄礼太郎は右手にマイクスタンドを持ち、面白がっているようないつもの微笑を浮かべていた。凶器のつもりか、マイクスタンドにマイクはついておらず、支柱に貼られた紙片の数字は『三』だった。

「こうでなければな。最後の戦いは最大の戦いであるべきなのだ」

 おびき寄せられたことを自覚しながら、地獄坂もまた笑みを浮かべていた。血色の悪かった皮膚に僅かながら赤みが差す。

 地獄坂は右手の黒槍を高く振り上げた。先端の電光が一際強くなる。対する黒贄は無造作にマイクスタンドを持ったまま突っ立っている。狂頭杯を操作する神楽も、魔法陣のそばでくじ箱を抱える大曲と大谷五郎も、その表情には欠片ほどの不安もない。共に幾多の戦いを生き抜いた殺人鬼探偵を全面的に信頼しているのだろう。市役所の屋上ではアルメイルの戦士に混じり、重機関銃に手を置いた森川敬子やローンガンマンが見上げていた。城智志が「いいなあ、あれ」と物欲しげな眼差しを大蛇に送っている。

 地獄坂の円盤が直線軌道に入る。時速四百キロを超え、このまま敵の体をぶち抜くのではないかという勢いだ。狂頭杯の合成大蛇がうねうねと伸びる伸びる。どれだけの肉量ストックがあるのか、あっという間に五百メートルを超え、獲物に飛びかかるコブラのように加速する。先端に蛇の顎はないが、ノズルのようなものが幾つか顔を出していた。

 両者がいよいよぶつかるかと思われた刹那、突然黒贄が叫んだ。

「ちょっと待ったあっ」

「何だ」

 地獄坂の円盤が急停止した。慣性をうまく処理しているようで地獄坂はつんのめったりしない。僅かに遅れて大蛇が停止する。無理な制動で長い胴がビシビギと軋みを上げ、激しく揺れた。

 標高八十メートルで、銀色の円盤に立つ地獄坂と、大蛇の先端に立つ黒贄が対峙した。その距離は二メートルもない。

 真面目な顔で黒贄礼太郎が言い出した。

「実は私は、最近悩んでいることがありましてね。私立探偵なのに、探偵らしいことをしたことが殆どないんです」

「……今更だな。この状況で話すことでもないだろう」

 地獄坂も流石に眉をひそめていた。神楽達中庭のメンツも怪訝な顔をしている。

 黒贄は続けた。

「ですからこんな時くらいは探偵らしいことをやっておきたいんです。やっぱり探偵といえば推理ですよね」

「何を馬鹿なことを言って……」

「犯人はあなただっ」

 左手人差し指でビシリと地獄坂を指し、自信満々に黒贄は告げた。

 地獄坂はヒクリ、と片頬を歪め、それからどんな表情をすべきか戸惑っているような、微妙な顔になった。

 期待した反応と違っていたらしく、黒贄は不思議そうに数秒間、地獄坂を見守っていた。そして「あれっ」と言い、地上の人々の唖然とした顔を見た。

「ええっと、じゃあ犯人はあなただっ」

 今度は市役所中庭の神楽鏡影を指差して告げる。神楽は絶句するのみだ。

「ええっと、なら犯人はあなただ。いやあなただ。それともあなただ」

 大曲、大谷、エフトルと次々指していくが、誰も「な、何いっ」とか「何処にそんな証拠が」などのうまい台詞を返してはくれなかった。決戦の熱気が冷めてどんどんしらけた雰囲気になっていく。

「ま、まさか……ということは……」

 黒贄は驚愕と緊張に震える指で、自分の顔を指した。

「犯人は、この私、ですか……」

「とっとと戦え」

 大曲がうんざり顔で吐き捨てた。

 訪れた重苦しい、いや苦々しい沈黙を、地獄坂の虚ろな笑声が打ち破った。

「ハハハ。ハハハハハ。面白い。実に面白い。黒贄君、いつも君は私の予想外の芸を見せてくれるな。ハハハハハハ。ハ。ハハ」

 地獄坂は全くの無表情のまま、感情の篭もっていない笑い声を上げ続けた。

 黒贄は澄まし顔で応じた。

「楽しんで頂けて何よりですな。では、そろそろ始めましょうか」

「ふむ。予定に間に合わせねばな。始めよう」

 地獄坂は即座に笑いをやめた。その瞬間、黒贄のマイクスタンドが横殴りに襲った。地獄坂の胴を輪切りにしそうな勢いのスタンドは、しかし空を切った。なめらかだが異常な速度で円盤が黒贄の横をすり抜けたのだ。

「黒贄君、勘違いしているようなら訂正してあげよう。今の私は君よりスピードもパワーも優っている」

 黒贄の背後十メートルに浮かび、黒い優越感を湛えて地獄坂は告げた。大蛇も漸く反応して振り返る。黒贄に動揺した様子はなかった。

「では、奇声と仮面を決めてパワーアップする必要がありますな」

「それもいいだろう。だが真剣勝負で相手の弱点を放置する訳にもいくまい。例えば君を支えている足場だ」

 追う大蛇の数倍速く離れながら、地獄坂の黒槍が電光を飛ばした。ドクター・Mのレーザースピアより対象範囲の広い破壊エネルギーは黒贄でなく、彼を支えるべく長く伸びた大蛇の胴に突き刺さる。

 バシュッ、と十メートルほどが溶けて消えた。アルメイルの戦士何千人分の肉体が失われたろうか。連結を断たれてその先四十メートルほどが黒贄を乗せたまま落ちていく。

 だがその断端に根元側の断端が追いついて繋がった。すぐにガキミチと音を立てて骨が組み合い、筋繊維が絡み合っていく。元の機動性を取り戻した大蛇は鞭のようにしなって地獄坂へ向かう。黒贄は槍投げの要領でマイクスタンドを投擲した。螺旋回転しながら飛ぶスタンドは空間が歪んで見えるほど物凄い唸りを発していた。

 それを魔法のような円盤の動きで躱すと、地獄坂は遠ざかるマイクスタンドへ黒槍の電光を飛ばし、わざわざ消滅させた。デモンストレーションのつもりか。

「次の凶器を選んで下さい。それと仮面も」

 黒贄が地上の仲間に伝える。彼の襟元には無線連絡用のマイクが取りつけられていた。

「なるほど、ある程度の対策は出来るようだ。だがこれはどうだ」

 市役所側から発射された対空砲火を余裕で避け、地獄坂は黒槍をひねって先端を下へ向けた。細く絞られた電光が飛ぶ先は、狂頭杯の前に立つ神楽鏡影だ。術者が死ねば術は破れるか、生首島のように暴走する。

 神楽が印を解いて左掌を上に向けた。信じられないことに、一塊の電光は予定調和のように肉糸の間をすり抜け、神楽の掌に吸い込まれた。ダメージは掌の中心に生じた薄い火傷痕だけだ。しかも異常なのは、電光が市役所に近づき、神楽との距離が短くなるにつれて減速し、終いには舞い落ちる雪程度の速度になったことだ。

 右目で器を見据えたまま神楽は言った。

「狂頭杯が支配出来るのは肉体だけではない。適切な経路を敷いておけば、彼らの膨大な生命エネルギーを術者の地力に加えられる。簡単に俺を殺せるとは思わない方がいい」

 かっこつけた台詞の背後では、大曲がくじ箱から無造作に一枚を引いていた。

「んー、二十三番だ」

 横で大谷五郎が舌打ちした。「いや、でもまだチャンスはあるよな。まだ序盤だ」と小さく呟いている。

「分かリマシた」

 寸胴紳士のエフトル・ラッハートが中庭隅にあるドアに触れた。市役所の他のドアと違って木製で、地面に立ててあるだけで何処にも繋がっていない奇妙な代物だ。だがノブをひねって開けると向こう側は棚と台の並ぶ殺風景な部屋だった。飾られているのは斧やチェーンソーや植木鋏や草刈り機や削岩機。床に突き刺さった分厚い鉄板まである。良く手入れされ、番号の書かれた紙片を貼りつけられたそれらの道具はただ一つの共通点を持っていた。即ち、凶器としても使える、という。

 エフトルの力によって、黒贄の事務所にある凶器保管室と市役所中庭の空間を繋いでいたのだった。

「こレですネ」

 エフトルは保管室から二十三の紙札がついた凶器を選び出してきた。十メートル近い鎖がついた建物解体用の鉄球だ。重そうに受け取って紙札を剥ぎながら大曲が呟く。

「なんか別のとこで使われてた気がするな。何処とは言わんが。まあいいか、どうせ使い捨てだし。で、どうすんだ、これ」

「俺のそばに持ってこい。肉樹の内部を通して黒贄まで運ぶ」

 狂頭杯に集中しながら神楽が指示を出す。大曲が魔法陣に歩み寄ると、地中から伸びていた肉糸の一本が触手のように動き、鎖つき鉄球に絡みついて持ち上げた。上の大蛇の胴に押しつけられ、内部に呑み込まれて見えなくなる。

「仮面を頑張って選んだぜ」

 大型のゴミ収集庫を漁っていた大谷五郎が取り出したのは、前アメリカ大統領のゴム製マスクだった。

「おっ、なかなかいい趣味じゃねえか。じゃ、これも頼むわ」

 大曲はマスクを受け取って魔法陣の方へ投げた。また肉の触手が受け取って大蛇の腹に取り込ませる。こういった細かい動作も神楽がコントロールしているとすれば、かなりの精神集中を要する作業だろう。

 地上の戦士達は毒矢や投げ槍や自分の体の一部を飛び道具にして上空の地獄坂を攻撃している。屋上からは森川敬子が重機関銃を連射していた。アルメイルの術者は目に見えない術も使っていることだろう。少しでも神楽の負担を減らすためだが、もし地獄坂を仕留められるならそれに越したことはない。ただ、今のところ円盤を駆る地獄坂は何のダメージも受けていないように見えた。

 ローンガンマンの曲折弾五連発を正確に黒槍で叩き落とし、地獄坂はパチンと左手の指を鳴らした。全世界の視聴者を意識した動作だったろう。

「では神楽君、少し忙しくしてあげよう。アルメイルの戦士達も手持ち無沙汰のようだからね」

 地上百メートルの高さで、市役所を中心にした半径数百メートルの光輪が出現した。光の中からパラパラと人影が落ちてくる。画一的な灰色のロングコートを着た男達。普通の人間と違うのは、首から上が、潜望鏡のように突き出したカメラだけになっていることだ。

「部下がいるなどと万が一にも誤解されないよう、頭部はつけていない。単なる戦闘用ロボットだ。君達の兵力は千八百万だったな。こちらも同じだけ投入してあげよう」

 地獄坂が喋っている間に、灰色の首なしロボット兵達は軽やかに着地して市役所へ押し寄せてくる。

「地獄坂の方は黒贄に任せて結界を守れ」

「防衛しナサい」

 神楽とエフトルが同時に指示を出した。

「サービス精神旺盛でありがたいねえ」

 大曲はポケットからビーフジャーキーを出して食べ始める。

 屋上から森川の重機関銃が火を噴いた。だが首なしロボット達は超絶的な反応で躱すか、平然と受け止めて僅かにボディを凹ませるだけだ。通常兵器の無効を確認すると森川はすぐさま自動小銃に持ち替えた。特注の怨念弾は一発につき数体の敵をごっそりと破壊していく。生物相手でなくてもロケット弾程度の破壊力はあるのだ。

 ローンガンマンとアルメイルの戦士達も迎撃を始めていた。飛び道具を持たない戦士達とロボット達がぶつかり合い、市役所周辺で白兵戦となった。

「野菜野菜野菜ーっ」

 生野菜を咥えた戦士達が叫ぶ。爪や牙や剣や槍、鞭に電撃に毒液が飛ぶ。

 発声装置を持たぬロボット達は粛々と破壊を実行するだけだ。胸腹部や掌から発射される炸裂弾やレーザー、溶解液にスーパーソニックブレード。アルメイルの歪み果てた天然ものの武器に対し、地獄坂のロボットは数十系統の科学の力だった。血肉が散り金属片が散る。だが大半を狂頭杯の材料に振り分けられたアルメイルの戦士に対し、光輪から振ってくるロボットは圧倒的に多かった。

 神楽が右腕を水平に上げた。人差し指から黒い線が伸び、市役所の建物と戦士数人を割って空を貫いていく。浮かんでいた光輪が黒い線に触れられるとみるみる輝きを失っていった。切れかけた蛍光灯のように黒ずみ、バラバラの破片となって落ちる。首なしロボットの転送供給が中断された。神楽の右手人差し指も溶け、根本に黒い焦げ痕だけが残っていた。

「ふむ。なかなかやる」

 感心して頷く地獄坂の額に小さな穴が開いた。信じがたいことに地上からの銃弾が命中したのだ。

 地獄坂は平然と額の穴に指を入れ、潰れた弾丸をほじくり出した。

「正木政治の残滓を弾薬化したものだな。多重防壁を貫けても私自身には効かない。既に体験済みだからな」

 その台詞を終える頃には銃創は塞がっていた。市役所屋上でコルト・パイソンを構えた森川敬子が唇を噛む。地獄坂は彼女の名を呼ばなかったし一瞥さえくれなかったのだ。

「ちょっといいですかな」

 地獄坂の背後から間の抜けた声がかかった。円盤が素早く流れ、放たれた鉄球を地獄坂はぎりぎりで躱した。いや、ピシッと何かが飛び散る。毛髪のついた皮膚と、頭蓋骨の欠片。

「凶器と仮面はいいのですが、まだ奇声が浮かばないんですよ。もうちょっと待って頂けますかな……ありゃ」

 黒贄が引き戻した鎖には先がなかった。外れた鉄球が空の彼方へすっ飛んでいく。きっと大気圏を突破するだろう。交錯時に地獄坂の黒槍が鎖を切断したのだ。

「署長さん、次の凶器をお願いしますね」

 襟元のマイクで地上に伝える。大谷五郎はガッツポーズをしていた。

「新しい仮面も頼んだ方がいい」

 地獄坂が忠告した。同時に黒槍の電光が飛び、黒贄が左手に持っていたアメリカ前大統領のマスクを溶かしてしまった。わざとマスクだけを狙ったのだろう、溶けカスが黒贄の手から落ちていく。

 黒贄の鉄球により、地獄坂の左側頭部から頭頂部までが削り取られ脳が覗いていた。しかし凄い勢いで脳が再生し骨が塞がり、皮膚と頭髪が元通りとなる。

「じゃあマスクもお願いしますねー」

 黒贄はめげずに追加注文した。そんな敵を見つめる地獄坂の瞳に、黒い侮蔑が湧いていた。

「マスクに奇声にくじ引きの凶器。そんなものに頼らないと虚無に届かない。黒贄礼太郎君、残念ながら君はまがいものだよ」

「ほほう、そんなことを言われたのは初め……」

 喋る途中で黒贄の姿が曇りガラス状の立方体に包まれた。一瞬の出来事。黒贄の足場になっていた大蛇の一部も巻き添えで封じられ、血を滲ませながら本体からずれていく。内部の様子は手足の位置が分かる程度で見通しが悪い。

 奇妙なケースが中の黒贄ごと薄れていく。中身を凍結しようとしたのか、それとも別次元の空間に送り込むつもりだったか。だがケースが完全に消える前に亀裂が走り、粉々に砕け散って中身を解放した。

「流石に対策していたか」

 地獄坂の台詞は黒贄ではなく、結界を支配する神楽鏡影に向けたものだろう。

「……てですな。ちなみにどの辺がまがいものなんでしょう。例えばスニーカーがNIKEじゃなくてNICEなところとか。それとも前に間違って同じ奇声を使ってしまったこととか」

 黒贄が台詞の続きを喋った。閉じ込められていた間は時が止まっていたように。再接合した足場からニュロリと長柄の鋼鉄ハンマーが生えてきた。次の凶器が到着したのだ。

「黒贄君、私は君の本質を掴むために過去の行状を調べ上げた。死者の記憶まで引き摺り出してね。君の虚無は真の虚無ではない」

 高度百五十メートルでホバリングして黒贄を見下ろし、地獄坂は告げた。

「真の虚無が差別をするかね。好意を持つ対象を助け、その敵だけを殺してみせたりするかね。三沢優紀子とブラディー・ベイビィ。角南瑛子と骸骨騎士団。大曲伊織……旧姓紫香楽とアルメイル。数え上げればきりがない。君は仮面で感情を隠し、虚無に見せかけながらしばしば私情に衝き動かされてきた。君のような中途半端な存在が虚無を標榜するなど、おこがましいとは思わないかね」

 地獄坂の冷酷な非難に、黒贄は何故か微笑を深めた。それは、何かを面白がっているような普段の笑みとは違っていた。神楽が気を使ったか、大蛇はスルスルと伸びて地獄坂と同じ高さに達する。

「その通りです。私は真の虚無ではありません」

 黒贄礼太郎は告白した。

 遥かなる高みで破壊者と殺人鬼が問答する。下界で繰り広げられている狂気の乱戦など、遠い幻であるかのように。

「私は自由意思も感情も持たないような殺人機械ではありません。この現実世界は無情であり、人間なんてあっさり死んでしまいますよね。道を歩いているだけでトラックに轢かれて死に、脳卒中でポックリ死に、転んで頭を打って死に、たまにくしゃみしただけで死にます。どんなに気をつけても核爆弾で数万人規模で死んじゃったりします。しかしそれでも、人間は頑張って生きているのですよ。だからこそ人間は輝いているのでしょうね。という訳で、結局のところ、私はそういう人間が好きなのですよ。首を刎ねても楽しいし、悲鳴を上げて逃げ回るさまもグッと来ます。流石に人肉を食べてみたいとは思いませんがね」

「生は駄目だが、焼いて塩かけたらまあまあイケるぞ。ところで次のくじも引いとくからな」

 大曲署長のありがたいご指摘が通信機から発せられ、黒贄の表情を気まずいものに変える。

「……ま、まあ、それはさて置き、私にもちょっと地獄坂さんに申し上げたいことがありましてね」

 大蛇が動く。ハンマーを振りかぶって黒贄が接近してくるのを、地獄坂は敢えて横を行き違うことで躱した。一メートルの柄がしなり、全金属製のハンマーは地獄坂の頭上をすり抜けただけだ。鉄球と違い今度は完璧に避けていた。逆に黒贄の腹がボフッ、と乾いた音を立てて爆発した。焦げた肉片がポロポロと零れ落ち、向こう側の景色が見える風穴状態となっている。黒槍の電光がやってのけたのだ。

「何かね、言ってみたまえ」

 行き過ぎた後で反転し、余裕を持って地獄坂が促す。

「地獄坂さん、あなたは演説で、本当は滅ぼすより救う方が素晴らしいと言いましたよね」

 黒贄が今度はハンマーを大上段に振りかぶった。大蛇が向きを変えて再びぶつかり合おうとしている。

「正確には『救いと滅ぼし、どちらがより最高かということになるとやはり救いの方』だと言った」

 完璧主義者の地獄坂が訂正する。

「まあ細かい表現は置いといて、おかしくないですかね。救う方が最高なのに、どうしてあなたは滅ぼす方を選んでしまわれたのですかな」

「それは最初の宣言でも既に言った。この世界に究極の悪が存在しなかった……」

 黒贄がハンマーを振り下ろした。いや、途中で手を離して投擲した。ブオンッ、と凄い唸りを発して長柄のハンマーが大回転しながら地獄坂を襲う。

 地獄坂は円盤ごと横に移動して避けた。避けた筈だった。だが数十センチ右を凶器が通り過ぎた後で、地獄坂の右腕が黒槍ごと歪んだ。凄まじい投擲で生じた単なる風圧が、地獄坂の腕をズタボロに破裂させたのだ。肉を失い折れた骨が、折れた槍と一緒に落ちていく。地獄坂は無表情のままだった。骨も肉もリアルタイムで盛り上がっていき、黒い袖と手袋まで再生される。

 黒贄が言った。

「悪がいなかったから救うのを諦めるとは、あなたも随分と消極的で中途半端ではありませんかな。本当の完璧主義者ならばそれでも世界を救おうとする筈です。あなたは不老不死を実現したということでしたね。ならば一かけらの悪や悲劇の存在も許さず、永遠に世界を救い続ければ良かったのですよ。僅かにでも可能性があるのなら目指すべきでした。その覚悟もなくて究極とか何とか、いやはや、ちょっと残念な人でしたねえ」

 地獄坂は黙って聞いていた。その両目が一瞬クルリと裏返り、すぐ元に戻っただけだ。左手を握り締めてから開くと、掌の中心から白い光球が幾つも浮かび上がってきた。二十個近いそれは地獄坂の周囲を回り始める。黒槍を失ったため次の武器を出してきたのだ。

 黒贄の手元に次の凶器が届いた頃、地獄坂が口を開いた。

「黒贄君。君の言葉は私には届かない。私は何万回、何十万回と思考を巡らせ、今の結論に達した。私の方針は揺るがない」

「何億回かは考えた方が良かったんじゃないですかね。完璧主義者としては」

 黒贄は辛辣な突っ込みを入れた。彼が両手で抱えているのは金属製の机に固定された機械だった。電動の丸鋸とガイドのついた旋盤機。周到に発電機まで足場に用意されており、「よっこらせ」と黒贄は電源プラグを差し込んだ。台の上の丸鋸が回転を始める。

「もう一ついいですかな。あなたは記者会見で、他人のことなどどうでもいいとか言いましたよね」

「他の生命について『何とも思っていない』と言った」

「しかしですねえ。何とも思っていないのなら、わざわざ自分の姿を全世界放送までして見せつける必要はないのではありませんか。ふんっ、と」

 大蛇の勢いに乗せ、抱え上げた旋盤機を地獄坂に叩きつけるかと思いきや、黒贄はまたもや投げつけてしまった。電源コードが切れて丸鋸の回転が止まる。幅二メートルの凶器を二十本の細い光線が迎撃した。漂う光球から照射されたもので、刃のように鋭い切れ味で旋盤機をバラバラに切断してのける。だが勢いのついた切片はそのまま地獄坂を襲い、一つが胸部を貫いていった。黒衣が破れ血みどろの肋骨と心臓が背中から飛び出していく。

 背中の破れ目から赤い肉の触手が伸び、飛び出した心臓を捕らえた。元の場所に収める間に潰れた部分も修復され、肋骨と肉が塞がった。黒衣が再生されるまで約二秒という早業だった。

「それは私の自己満足だ。他人を尊重している訳ではない。一番は私であり、他はゴミクズのようなものだ」

「ですがそのゴミクズに注目してもらわないと、あなたは立っていられないくらいか弱い存在なんですよ」

「何っ」

 地獄坂が一瞬歯を剥き出して怒りを露わにした。そして動揺を。すぐに無表情に戻るが頬がヒクついている。

 黒贄は身を屈めて何かを拾い上げた。到着した仮面はメキシコのルチャドーラーがかぶるようなレスラーマスクだった。不満げに口を尖らせて彼は言った。

「こんないかにも過ぎる仮面はいけませんな。ちょっとした場違い感や違和感を与えるような仮面が丁度良いのですよ」

 愚痴を零しながらも黒贄はマスクをかぶろうとする。後ろの紐を締めかけたところで漂う光球からレーザーが飛び、その一本が黒贄の顎から頭頂部までを縦に割り上げた。

「おっと、危ないところでしたな。頭が真っ二つになるところでした」

 マスクは紐部分だけを残して二つに裂けてしまっていた。黒贄の顔面にも縦筋が走り、喋る途中で僅かに開いたり閉じたりする。後頭部が無事なため頭蓋骨が完全に離れることはない。

「私を愚弄したままマスクをかぶるつもりではないだろうね」

 腕組みする地獄坂を乗せて円盤が更なる高度に達した。意地でも黒贄を見下ろしたいのだろう。

 黒贄は苦笑して頭を掻いた。

「これは失礼しました。まだ奇声も決めてないのに危うくかぶってしまうところでしたよ。さて、話を続けましょうか。いいですか地獄坂さん、本当に他人のことを何とも思っていないのなら、他人の目など気にする必要もないんですよねえ」

 大蛇は更に伸びて黒贄を地獄坂と同じ高みまで押し上げる。標高二百メートルで両者は再び睨み合った。

 黒贄が続けた。

「いちいちかっこつけて演説をぶったり記者会見を開いたり、最後のスイッチを皆に見えるようにあんな高いところに置いたりして。無数に武器を選べるのに相手に合わせて種類を限定するのも意識した演出ですよね。いやはや、あなたは人の目が気になって気になって仕方のない構ってちゃんなんですなあ。この時間に皆がお昼寝してたら、あなたは地団太踏んで泣きながら結局スイッチを押せないんじゃないですかねえ」

 クワッ、と、地獄坂が目を見開いて固まった。地上からの砲火が何発か命中するが、バリアーに覆われているらしく撥ね返されるだけだ。黒贄の攻撃だけが特別なのだろうか。

「そもそもですね、地獄坂さん。あなたはこの世界に何の影響も与える必要はないんですよ。あなたの欲望を満たすためのベストな行動は、自殺です。ひっそりあっさり自分で死んで消え去ってしまえば万事解決ですな。おめでとうございます」

「黙れ」

 地獄坂が怒鳴った。顔の筋肉をプルプル震わせた、凄い形相になった。

「黙れ。黙れ。黙れ。黙れ。虚しい黙れ」

「おや、『虚しい』が出てしまいましたな。早くも底が割れちゃって大丈夫ですか。まだまだ凶器のストックはあるんですよ」

「黙れ、む、虚しくないっ」

 二十の光球から黒贄を八つ裂きにすべくレーザーが発射される。足場の肉が急に盛り上がって壁を作り黒贄への直撃を防いだ。戦士達の肉が切れて崩れ、黒贄は五体無事に立っていた。礼服のあちこちに肉ごと切れ目が生じ、血が滲んでいるが、不死身の殺人鬼にとってはノーダメージだろう。

 中庭でくじを引きながら大曲が呟いた。

「クロちゃんが珍しくまともなこと言ってるな。こりゃ天変地異の前触れかね。つまり世界が終わるぞ。うん終わる終わる」

 市役所の建物は半壊状態となっていた。防御結界によってスピードと威力が低下しているとはいえ、首なしロボットが撃ち出す無数の砲弾やグレネード、破壊光線を食らっているのだ。アルメイルの戦士達は奮闘しているし、時折津波のように狂頭杯の肉樹が変形して壁になったりロボットを叩き潰したりしている。だが敵の数は圧倒的に多かった。途中で転送妨害したとはいえ百万体を超え、落ちた菓子にたかる蟻の大群のような有り様だ。狂頭杯に身を捧げていないフリーの戦士達はじりじりと減って一万を切り、包囲網が狭まりつつあった。

 森川はコルト・パイソンに込めたマサマサ弾で味方ごとかなりの数を始末したが、秘蔵の百発を使い切り怨念弾に戻っている。シューティンググラスの奥で彼女の目は狂喜に輝いていた。彼女が弾倉を交換する隙にローンガンマンが援護する。八十口径改造拳銃のグリップに封じられたという妖霊は異常な破壊力を発揮し続け、カーブする弾道で一度に数十体を鉄屑に変えた。撃ち手は相変わらず悲しげだった。

 市役所の玄関付近では半裸の城智志がハルバードを振り回している。最初は敵味方の区別なく殺していたのだが、いつの間にか味方は淘汰され、押し寄せるロボットを切りまくって一大防衛力となっていた。何度切り裂かれ爆裂しバラバラになっても再生を繰り返す不死身の砦だ。

「ああ、悪をぶった切る正義の警察官はかっこいいなあ。やっぱり不死身の殺人鬼になって良かったなあ」

 城は殺しながら自己陶酔に浸っていた。

「ほいこれ。五十五番」

 大曲がくじを引いて番号を読み上げ、エフトルが凶器保管庫に向かう。市役所の壁が爆発して破片が大曲の頬を掠めた。

「こっちはそろそろヤバいかもな。クロちゃんは悠長にやってるし。ジャーキーを食べる暇もねえ」

 そう言いながら大曲には全く緊張感がなかった。狂頭杯を片目で見据える神楽鏡影はかなり消耗して頬がこけ、会話に参加する余裕はなさそうだ。器の中の血液がじりじり減っており、神楽はしばしば指から自分の血を垂らして補充していた。大谷はゴミ収集庫から目と口がくり抜かれたハロウィンのカボチャマスクを選ぶ。中庭の生首達が「俺達の野菜を盗るな」と叫び、大谷が苛立たしげに「こいつはニセモンだ。野菜じゃねえ」と怒鳴り返した。

 と、異様などよめきが市役所の外から届いた。アルメイルの戦士達の驚嘆の声。

「んー、何だ」

 大曲は赤い空を見上げた。大蛇に乗った黒贄と地獄坂は市役所の真上でやりあっているが、まだ決着はついていない。

 地獄坂が市役所の外を見下ろしていた。

 ヒュールルルル、という澄んだ音色が何処からともなく聞こえ、肉と鉄片の荒野に一人の男が立っていた。彼の周囲百メートルに動いているロボットはいない。倒れ伏すそれらの胸は刃によって鋭く裂けていたが、損傷らしきものが全く見当たらないものもあった。

 男はウール地のロングコートを着ていた。ダークグレイのそれは所々に小さな染みや破れが残っている。同じ色の鍔広帽を目深にかぶり、顔が陰となって輪郭しか見えない。艶消しの黒ブーツに黒い革手袋。その右手が両刃の長剣を握っていた。元々の鋼材がそうなのか、刃も柄も黒い。

「遅くなった」

 口笛のような不思議な響きが途切れ、錆びついた古い機械のような声で剣里火が言った。二つの最終兵器を破壊した後、長い時間をかけて漸く今帰還したのだ。

 首なしロボット達が一斉に剣を狙った。だがレーザーや砲弾や超音波が届いた時既に剣はいない。ヒュールルー、という美しい響きが再開され、ロボットが動作停止してゴロゴロと倒れていく。剣は異次元から位置関係を無視して、ロボットの中枢機器を直接破壊しているのだ。百万の軍勢を静かな暴風雨が薙ぎ倒していく。

 

 

 淀んだ闇に一台のテレビが光を投げている。古めかしい小さなブラウン管型テレビだが、電源プラグは何処にも挿さっておらず、本体の輪郭は曖昧で闇に溶けるようだ。画面にもしばしばノイズが走る。

 テレビは地獄坂明暗と黒贄礼太郎の戦いを映していた。肉の大蛇に乗った黒贄が人間の倍はあるような大腿骨を鈍器代わりに振り翳し、銀色の円盤に乗った地獄坂の浮遊レーザーがそれを細切れにしてしまう。黒贄がカボチャマスクをかぶろうとするとそれもまた破壊される。「奇声ですけど、ハラナイ・ポラナカッターなんかどうですかね」と黒贄が尋ねている。地獄坂は突っ込みを入れることもない。次に到着した凶器はトイレブラシだった。黒贄は微妙な顔をしたが地獄坂も流石に嫌そうだ。

 放送は地獄坂が自主的に流しているものか、彼の姿を中心に映すことが多かった。しかし視聴者への配慮もあるようで、定期的に地上の様子も見せてくれる。市役所を取り囲むロボットの大軍と防衛する異形の戦士達。それに姿が現れたり消えたりする男が参戦して、ロボットを一気に処理し始めた。

 闇の中で二人の男が膝を抱え、静かにテレビを眺めていた。

 傘を差して座る男は三十才くらいに見えた。傘の内側だけ雨が降っており髪もスーツもずぶ濡れだ。色白の陰気な顔が、ふと隣の男へ向いた。

「ハラナイ・ポラナカッターって、面白いですね」

「……。そうですか」

 応じる男の声は疲れ果てていた。まだ若いようなのに髪は真っ白で、うなだれた顔は深い絶望と苦悩を宿している。上目遣いにテレビを観ているが、あまり興味なさそうでもあった。

「どうです薄井さん。世界を守りきれると思いますか」

 幽霊探偵・草葉陰郎は唯一の友人に尋ねた。

「どうでしょうか。僕にも分かりません」

 疫病神探偵・薄井幸蔵は一センチほど首を振る。体を動かすのも億劫らしい。

「ただ、僕はあまり観ていない方がいい気がします。観ているだけで物事を、悪い方に進めてしまいそうで」

「観るくらいならいいんじゃないですか。こんな暗いところで世界の終わりを迎えるのはちょっと寂しいですから」

 草葉が言った。

 画面では黒贄が残念そうにアイロンを捨てていた。電源を入れて熱くなる前に破壊されてしまったのだ。「やっぱりハラナイ・ポラナカッターが悪かったんですかねえ」という台詞が聞こえる。

 新たに到着した仮面は縁日で売られているような薄いプラスチックのお面だった。耳の大きなネズミのお面で、どういう配慮か目の周囲にモザイクがかかっている。

「ああ、あれはモザイクかけないと問題ですよね」

 草葉が頷いた。

 画面のノイズがひどくなってきた。戦士達の歓声が途切れ途切れとなる。本体が震動を始め、とうとうブツンと音を立てて画面が消えてしまった。

「霊界テレビが壊れてしまったようです。こちら側まで持ってきたのがまずかったんでしょうか」

 闇に草葉の声。

「すみません。きっと僕のせいです。じゃあ、一寝入りします」

 薄井の声が言う。気配が動き、横になったようだ。

「では、お休みなさい」

 草葉が優しく告げた。それきり静かになり、陰気な雨音だけが闇に響いた。

 

 

 凄まじい勢いでロボット兵を片づけていた剣里火も、三十万の獲物を数えた頃から流石にペースが鈍り始めていた。ヒュールルルルという澄んだ音色に乱れはなく、紅本亜流羽が保証したように次元移動の能力は保たれている。単に体力的な問題だった。

 何もない宙から時折血の雫が落ちる。この世界に帰還した時点で既に剣は重傷を負っていた。二つの最終兵器の防御機構を越えるのは、彼にとっても至難の業だったのだ。

 剣の上半身が空中に浮かぶ。次の瞬間には別の場所に右足だけが現れ、消える。剣の切っ先だけがロボットの胸から生える。そんな動作の一つ一つが目で追える程度になり、この世界に留まる僅かな瞬間に被弾することが増えた。彼の一部が現れて去った後、血飛沫が撥ねる。

 炸裂弾が剣の頭を掠め、鍔広帽が飛んだ。回収する余裕もなく、数秒後出現した剣は素顔を露わにしていた。

 目鼻口耳に眉毛に薄い頭髪、それぞれが福笑いのようにバラバラに配置されていた。片方の目などは後頭部にあった。顔の皮膚が歪んで奇妙な皺を作っているが、それがどんな表情であるのか形容出来ない。次にこちら側に現れた時は後頭部の目が上の方にずれており、次元移動のたびに構造が変化しているのか。

 戦いの様子は地獄坂のカメラと遠巻きに見守るマスコミによって全世界に中継されている。隠し続けた素顔を皆の目に晒すことになった、剣里火の胸中はいかばかりか。いや、今の彼にそんなことを気にする暇はないのかも知れない。彼はただ、何処からかヒュールルルという美しい響きを奏でながら、あらゆる場所で剣を振り続ける。

 更に被弾する。右腕の肉が爆ぜてまともに動かなくなる。黒い長剣を左手で握る。彼の顔に新たな傷が出来る。彼の顔が歪むごとに肉が裂け、血が流れる。コートが破れて腸が覗く。いつの間にかダークグレイの袖のついた右腕が戦場に落ちていた。完全にちぎれてしまい、もう動くことはない。

 変幻自在が衰え、血みどろの全身が現れては消えるようになっても、剣は戦い続ける。彼の表情が苦痛であることは明らかになった。それでも彼は逃げなかった。世界を守るために全てを投げ出すのが当然の義務であるかのように。片足がねじれ、よろめいたところに集中砲火が浴びせられる。寸前で消えて避けるがやはり新たな傷を負っている。裂けた腹と右肩の付け根からは血が流れ続け、あの澄んだ音色も途切れ途切れになってきた。

 何十回目の綱渡りであったろう。別次元への退避が遅れ、炸裂弾とレーザーをまともに食らった。胸部から左肩までレーザーで割られ、腰と右足が破壊され肉片が飛び散った。

「む、うっ」

 剣は弱い呻きを発した。致命傷に近い。別世界へ完全に逃げてしまえば、なんとか生き延びる可能性もあったかも知れない。少なくとも、最期の時を静かに迎えることが出来たろう。だが剣は左手の黒い長剣を振り上げ、眼前のロボットに突き立てようとした。

 首なしロボットの両掌が上がり、衝撃波が放たれた。ボズッ、という破裂音がして、剣の胴が半ばでちぎれた。

 黒い長剣は空を切り、アスファルトの地面に刺さった。同時にロボットの胸から黒い切っ先が生え、機能停止させた。

 ヒュー、ルル、ル。

 あの口笛に似た澄んだ音が聞こえた。弱々しく寂しげだったが、美しい音色だった。

 仰向けに倒れた剣の上半身。血みどろの顔。顎辺りにある片方の目が動いて赤い空を見た。大蛇に乗り、凶器を取り替えながら激しく立ち回っている黒贄礼太郎の姿があった。

「さらばだ」

 誰にも聞き取れないほど小さな声で言い、剣は目を閉じた。

 地獄坂の戦闘用ロボット五十六万体を始末して、剣里火は死んだ。

 

 

 剣が倒れ、市役所への攻撃は再び熾烈なものになっていた。神楽の疲弊に伴い防御結界の効果も薄れている。アルメイルの戦士達が減ったため、神楽は仕方なく肉樹の一部を解放して生首状態だった戦士を本来の姿に戻し、前線防衛に送り出す。千八百万という膨大な人数であったアルメイル兵も、肉樹の消耗によってかなりの数が体を失っていた。本当の意味で生首だけになった戦士達にも、市職員は惜しみなく野菜を配って回る。

「特注の弾が尽きたわ。ライフルもマグナムも、全部」

 空になった.357マグナムを置き、森川敬子は溜め息をついた。満ちていた高揚は消え、疲労だけが彼女の顔を侵していた。制服の肩や腕に血が滲んでいるが軽傷のようだ。

「そうか」

 短く答え、ローンガンマンは愛用のリボルバーを撃つ。二十メートルほどまで接近していたロボット兵達が胴をまとめて貫かれ爆発する。

「そっちは残弾数どのくらい」

「四十発かそこらだ」

 ローンガンマンは銃身を折り曲げ素早く弾を込める。足元には空薬莢と空の弾薬箱が散乱していた。

「そう。じゃ、そろそろ御役御免ね。銃がなかったら私達はただの一般市民と同じ……」

 空を仰ぐ森川の瞳には諦念があった。集中力が切れたのだろう、「危ないっ」と叫んで押し倒してくるローンガンマンにも彼女は反応出来なかった。

 二人のいた屋上が爆発した。ボロボロだった市役所正面が限界に達して倒壊する。飛び道具のアルメイル戦士達と中庭の生首の一部が押し潰され、濛々と砂塵が巻き上がった。市役所の外と中庭が繋がった。狂頭杯を操る神楽と並ぶ生首、凶器と仮面を供給し続けるメンバーへの進路が開いたのだ。

 数十体のロボット兵がここぞとばかりに押し寄せ、五発の拳銃弾に貫かれ爆散した。瓦礫の中から伸びた右腕が大口径リボルバーを握り締めている。

「大丈夫」

 コンクリート片を押し分けてなんとか這い出し、森川敬子が相棒に尋ねた。彼女の左脛は明らかに折れているが、呻いている暇はない。

「俺に構うな……中庭へ下がれ」

 ローンガンマンは言った後で大量に喀血した。森川が瓦礫をどけると、彼の背中は爆風で焼け爛れ背骨が見えていた。コンクリート塊のついた鉄筋が深々と刺さっている。

「下半身が挟まってるわね」

 森川はローンガンマンを押し潰す壁を持ち上げようとするが、びくともしない。

「俺は、助からん……行け」

「お断り。私に命令する権利はあんたにはないのよ」

 森川はローンガンマンの正面に座り込んだ。崩れた玄関口ではロボット兵とアルメイルの戦士達が押し合いを続けている。

「ねえ。誤射の件。もっと詳しく教えてくれない。このままじゃなんだか、納得いかなくて。気持ち悪いのよ」

 ローンガンマンは苦笑した。と、首を支えきれなくなり額を瓦礫に打ちつける。

「ねえ。……死んだの」

 森川は根気強く尋ねる。無防備で最前線にいることなど、彼女にはもうどうでも良いのだろう。

「十四才の時だ。俺は……馬鹿なガキだった……」

 力のない声で、ローンガンマンは喋り出した。

「拾った拳銃だった……ふざけて……引き金を……当たっちまったんだ……とんでもない方向に……五、六才くらいの、少女……だった……信じられなかった……当たっちまった……胸が、真っ赤に……びっくりした、顔……俺を見て……忘れられない……」

 瀕死の告白を、森川は黙って聞いていた。

「俺は……逃げた……呪われたんだ……人殺しが、幸せになっては……いけない……一生、背負っていくしか……自業自得だ……だから、俺は……死にたかったんだ……死ぬべきだった……死に場所を……こんな俺に、最高の死に方が……あるなら……誰かを……守って……」

 ローンガンマンの言葉はそこで途切れた。彼は俯せのまま動かなくなった。森川はシューティンググラスを外し、少しの間、ローンガンマンの死体を見つめていた。

 喧騒がすぐそばまで来ている。森川はローンガンマンの右手に優しく触れた。八十口径の異様な改造リボルバーを、彼は握り締めたまま死んでいたのだ。

 死体の手からリボルバーを取り上げた時、戦いの気配はすぐ後ろまで来ていた。

 森川はリボルバーを構え振り返る。弾切れであることを意識していたかどうか。だが撃つべき相手は胴を真っ二つにされ吹っ飛んでいった。

「いやあ、本官は感動しました」

 ハルバードを振り回しながら城智志は涙を流していた。森川のそばに立って不死身の防壁を務める。ロボット兵達に食らった傷もみるみる再生し、城は戦闘開始前より格段に元気になっていた。

「聞いてましたよ。本官もローンガンマンのようにかっこ良くなりたいです。そのためにはまず、間違って幼女を殺さないと」

 森川敬子は城の言葉を無視した。死体の首を少しひねって、俯せの顔を露わにする。

 ローンガンマンは淡い微笑を浮かべていた。

 

 

 包囲網が縮まったため前線から取り残され、剣里火の死体は静かに放置されている。

 血と鋼の荒野。生中継の俯瞰視点も剣にズームすることはなく、遠くから双眼鏡で見物する観光客らも空中戦や市役所の攻防に気を取られ、剣の死体などに注目する者はいない。

 ただ一人、赤いスーツの太った男が剣のそばに立って見下ろしていた。赤い長髪に赤い靴に赤い唇。その瞳までが赤い。

 悪魔探偵・紅本亜流羽は膨れているが整った顔を、何故か憮然とさせていた。手に持つ大きな鍔広帽は剣のもので、落ちていたのを回収したのだ。紅本は身を屈め、配置の狂った剣の顔に帽子を乗せて隠した。

 再び立ち上がると、剣の死体から白い靄のようなものが染み出してきた。風に揺らぎもせず、フワフワとその場に留まっている。

 具現化した剣里火の魂を、紅本は暫く見つめていたが、ふと苦笑して呟いた。

「駄目ですね。やっぱり食べられません。嫌な予感がしていたんですよね。悪魔は『本物』には手が出せないんです」

 紅本は右掌でパタパタと靄をあおぐ。靄が少しずつ薄れて広がっていき、やがて完全に見えなくなった。

「そのまま天国でも何処へでも行ってしまって下さい。残念なただ働きでしたよ」

 抜け殻となった死体は、何も答えはしない。

 紅本は市役所に群がるロボット兵達を見た。まだ三十万体以上が残っており、役所の建物はほぼ全壊して風前の灯状態だ。

「ただ働きついでに、もう一つやってみますか」

 紅本は大きく息を吸い込んだ。丸々とした体が更に風船のように膨れ上がり、パンッ、と破裂して跡形もなくなった。残るのは赤い煙だけだ。

 煙は素早く漂い流れ、三十万余の首なしロボットを包み込んだ。苦戦していたアルメイル戦士達が驚きの表情を浮かべる。

 ロボット達の動きが鈍り、ギジギジと錆びた音を発し始めた。掌の発射機構が故障してレーザーや砲弾を撃ち出せなくなり、胸部の熱照射装置がエネルギー逆流を起こして爆発する。首から伸びた潜望鏡部分が腐蝕してあっけなく折れた。

 次々にロボットは機能停止して倒れ、或いは立ったまま腐って溶け崩れていった。煙が流れ出してから一分もかからなかった。

「痩せてしまった。また契約を探さないと」

 何処かで紅本の声がしたが、悪魔探偵の姿が再び現れることはなかった。

 

 

「紅本亜流羽か。最後まで中立を貫くと思っていたが。計算外のことばかり起こる」

 ロボット部隊の全滅を知って地獄坂明暗は呟いた。

「そんなことよりギュララパーってどうですかね」

 黒贄礼太郎が相変わらずのテンションで電柱を叩きつけてくる。足場の大蛇は以前より細くなっていた。

 地獄坂は黒い鞭を振る。伸ばすと百メートルを超える鞭は自在にうねり、一振りで電柱を十八分割した。鉄芯の入ったなめらかな断面を見せて電柱が落ちていく。

 その隙に黒贄が足場から飛んで接近し、隠し凶器を使った。発電機に挿して充分に加熱しておいた半田ごてを地獄坂の首筋に押し当てたのだ。ジュッ、とその部分の皮膚が火傷した。それだけだ。

「半田ごてパーンチ」

 同時に黒贄の右の蹴りが地獄坂の腹をぶち抜いた。背骨まで粉砕した後で、黒贄は勢い余って地獄坂の横を通り過ぎていく。それを大蛇の胴がうまく拾い上げ、足場まで放り上げた。

「早く死ね」

 破れた腹と背骨を再生し、地獄坂がまた鞭を振る。大きな輪となって幾重にも黒贄を囲み、そのまま輪を縮めていけば黒贄は四、五個の輪切り肉となるだろう。

 大蛇の肉が壁を作って黒贄を包み、本当の位置を隠した。鞭の輪が締め上げ大蛇の輪切りを作る。だが黒贄は更にその根元側の胴内から五体満足で押し出された。

「生きててすみませんな」

「虚しくない虚しくないぞ」

 地獄坂の叫びは呪文と化していた。

 新しい仮面として幼児用のオマルが到着する。黒贄は悩みながらも「ギョマリャパー」とかぶろうとする。鞭がオマルを寸断して妨害する。凶器として大型消火器が到着する。黒贄は投げつけたが外れた。一度は大谷五郎も選ばれたが、嬉々として振り回される間に四つに切られ悲しく落ちていった。瓶詰めのスライミー藤橋も選ばれたが、地獄坂に叩きつけられ瓶が割れ、ドロドロの体が地獄坂にかかると「ひええ」と悲鳴を上げながら自ら逃げ落ちていった。鞭を避けるが黒贄の左膝が切断された。黒贄は平然と片足で立つ。今度は仮面が届く。誰かの洗ってないブリーフだった。かぶる前に鞭で裂かれて黒贄はホッとしているようだった。アルメイル戦士達は大人しくタイマン勝負を見守っている。彼らも傷を負っているし、手伝ったところで地獄坂には何一つダメージを与えられないことを悟っているのだ。

「ゲニョゲニョーっと、おっ、これは」

 届いた小さな凶器を見て、黒贄の目が驚きに見開かれた。

 それは、恐るべき生きた凶器だった。首輪に『九十九』という札のついた、純白の可愛らしい子猫。無敵の怪物・八津崎市長。中庭ではエフトル・ラッハートが殴られ変形して壁にめり込んでいた。

「とんでもない凶器が来てしまいましたな」

 ありがたいことに首輪に紐がついていたため、黒贄は恭しく紐を持った。おそらく世界中の誰もが一目で市長の無敵さを悟っただろう。

「さあて、一緒に頑張りますか」

 黒贄はニィニィと鳴く市長を、勢いつけて頭上でブンブン振り回し始めた。

「虚しくない虚しくない虚しくない」

 地獄坂の鞭が襲った。だが風にでも押されたように、振り回される市長と黒贄に近寄れない。或いはあまりの可愛らしさ故に鞭が避けているのだろうか。

「ンニャア」

「ミィー」

 前者は黒贄のかけ声で、後者が市長の鳴き声だった。大蛇と凶器の突進を、吸い込まれるように地獄坂は受け止めた。グワジャアッ、と地獄坂の手足胴が折れ曲がって吹っ飛んでいく。銀色の円盤は律儀にそれを追って主を受け止めた。

「む、虚しくない」

 地獄坂の黒衣に『不受理』の印が押されていた。なんとか立ち上がろうとするがまた黒贄が迫る。

「ニャニャア」

「ニィ」

 ドゴボォッ、とまた地獄坂がすっ飛ぶ。変形して肉団子状態になったものをまた円盤が追い、支える。

「むな……」

 絡まった手足が解けかけたところでまたまた黒贄が襲った。

「ミャミャミャア」

「ギュニー」

 ベグチョバッ、と地獄坂が飛び散った。肉片がパラパラと落下し、円盤はどの部品を受け止めるべきか迷っているようだったが、やがて頭部と肩部分を回収した。

「おやおや、大丈夫ですかな。奇声も仮面もまだですが止めと行きますかねえ」

 と、振り回されていた市長が小さな前足で紐を挟んでたぐり寄せ、うまい具合に黒贄の頭に着地した。

「おや、市長さんブベッ」

「ミギャ」

 可愛らしさ無限大、怒りの一撃が黒贄に加えられた。首が後ろにへし折れて更にちぎれ、足場をバウンドして高く跳ねる。胸部も潰れて肩幅が妙に狭まってしまった。大蛇がうまく肉枝を伸ばし、黒贄の生首をキャッチする。

「ミィ」

 市長は飛び降りた。数百メートルの高さから瓦礫の荒野へ。軽々と着地すると、あまりの無敵ぶりに怯え逃げる観光客を叩き飛ばしながら、トテトテと何処かへ去っていった。

 地獄坂は頭と肩だけの状態から再生を遂げていた。黒衣も手袋も完全に……いや、彼は眉をひそめて自分の頬に触れた。元々悪い血色が更にひどくなり、ズルリ、と簡単に皮膚が剥げる。

 流石の地獄坂も、再生能力の限界に達したのだ。

「虚しくない虚しくない虚しくない。それでも私は勝つ。虚しくない虚しくな……」

「おーい、ちょっといいかな」

 ビーフジャーキーを噛みながら、大曲源が上空の地獄坂へ声をかけた。

「皆、気づいてて言わなかっただけだと思うんだがな。もう予定の時刻、十五分過ぎてるんだよな」

「おあばあああああっ」

 その時見せた地獄坂の形相は、人類史上最も激烈なものだったろう。恐怖と怒り、焦燥と絶望。あり余るほどの恐怖、恐怖、恐怖。地獄坂は失禁してズボンを濡らしていた。顔の皮膚が歪み裂け、バツンと丸ごと剥がれ落ちた。

「ああああああああああっ」

 筋肉だけになった顔で地獄坂は叫び続ける。円盤が急加速してハルマゲドン・キャッスルへ飛ぶ。予定時刻を過ぎても終末のボタンを押すつもりなのだ。

 ドグワッ、と、横殴りの打撃を受けて地獄坂がぶっ飛んだ。また円盤が受け止めに行く。

「オワッタラビボ」

 黒贄礼太郎が立ち上がっていた。百一番・大谷五郎がその足元に横たわり、右足首を黒贄に掴まれている。数分前バラバラになって落ちた大谷は、インチキくじで二度目に選ばれるまでに完全再生を果たしていた。喜悦に光る大谷の顔。

 黒贄の首から上はなかった。左腕に抱えているのは丸い金魚鉢。凶器ではなく仮面として提供されたものだ。最後の戦いに金魚鉢の仮面とは、なんという神の悪戯か。

 鉢の中に黒贄の生首がスッポリ収まっていた。顔が上を向き、凹んだ額には上下逆に『受理』の印が押されている。生首の状態でどうやって奇声を発したのか。しかし今の黒贄にとって理屈など塵ほどの価値もない。表情は失われ、見開かれた瞳は絶対零度の虚無を湛えていた。その虚無を『まがいもの』と断ずることなど誰にも出来ないだろう。

「オワッタラビボ」

 鉢に入った生首が気の抜けた奇声を唱えた。唇が僅かに動いている。黒贄は左膝を曲げて力を溜め、大蛇の勢いを借りずに跳躍した。マッハの速度を超え、一直線に十三キロ先のハルマゲドン・キャッスルへ。

「ぬう」

 地獄坂が震えた。自らも再び加速して黒贄を追う。

「私は世界を滅ぼす。誰にも邪魔はさせんぞ。誰にも邪魔は……」

 市役所中庭では痩せ細った神楽鏡影が、祭壇の前に座り込んでいた。

「ふうぅ。やるだけはやった。後はどうにでもなれ、だ」

 

 

 ただ一度の跳躍で、黒贄礼太郎はハルマゲドン・キャッスルの屋上に着地した。片足でヒョコヒョコと歩く。左腕に抱えていた金魚鉢は首の切断面に載せ、転げ落ちないように絶妙なバランスを保っている。大谷五郎は無造作に引き摺られて背中が床を擦っているが、凶器である彼は気にしないだろう。

 標高一キロの終末ボタン。そこへ上る螺旋エスカレーターの手前に幾つもの黒焦げ死体が転がっていた。市役所での戦闘のドサクサに紛れ、こっそり侵入しようとした者達が防御機構にやられたのだ。アリマナハイド星人らしきグレイ型宇宙人の死体もあった。

「オワッタラビボ」

 黒贄はエスカレーターに乗った。一瞬、機械の作動する気配があったが、大谷五郎を振り回すと見えない何かをぶち壊したらしく、レーザーも超音波も襲ってはこなかった。

「やめろ。やめろ」

 地獄坂が円盤から降りて屋上に着地した時、黒贄は既に百メートルほど上にいた。エスカレーターも動いているが黒贄はヒョコヒョコと段を飛び越している。

「統合発動装置を破壊するつもりだな。させるものか。私は世界を滅ぼす……むっ」

 地獄坂は皮膚のない顔で目を見開いた。黒贄が人差し指を伸ばした左手を、宙で前後に往復させている。

 まるで、ボタンを押すような動きだった。

「ま、まさか……まさか、私より先にボタンを押すつもりなのか。まさか。まさかまさか、まさか」

 地獄坂の形相はもう判別不能なものになっていた。彼もエスカレーターを駆け上がって黒贄を追う。

「私より先に押させるものか。世界を滅ぼすのは私なのだ。……統合発動装置を一時停止しろ。何。……ああ、そうだ。一時停止機能は用意していなかった。ここまで追い込まれることを想定していなかった。この私が。私が全ての敵を打ち倒し、悠然と格調高く、完璧に押す筈だったのだ」

「オワッタラビボ」

 定期的に奇声を唱えながら黒贄がエスカレーターを上る。慌てた地獄坂が必死にそれを追う。黒衣から滲んだ血が段を濡らし、地獄坂は息切れし始めている。無限の体力と再生能力も底が見えていた。世界の存亡を賭けた不気味な追いかけっこを世界中の視聴者が見守っているだろう。或いは、どちらが世界を滅ぼすかを賭けた追いかけっこかも知れなかった。

「オワッタラビボ」

 襟元の通信機が何やら大曲の声を発しているが、金魚鉢の中にある黒贄の耳には届いていないだろう。彼は地獄坂より先に目的地に到着した。

 エスカレーターの頂きに、円形の床が浮かんでいた。径十メートルほどか。その中央に金属製の台があり、上面に黒いボタンが一つだけついている。終末の発動ボタン。

「オワッタラビボ」

 鉢の中から間抜けな奇声を発し、黒贄はヒョコヒョコと台へ近寄った。左手を伸ばしてボタンへ……。

「やめろおおおおっ」

 追いついた地獄坂が必死に叫ぶ。黒贄の左手が終末ボタンを押す前に、ぎりぎりで滑り込んだ。

 地獄坂がやったのはボタンを押すことではなく、台を抱え込むようにして守ることだった。

「押させんぞ。貴様には押させん。押すのは私なのだ」

「オワッタラビボ」

 黒贄が両手で大谷五郎の両足首を掴み、大上段から振り下ろした。金魚鉢はそれでも落ちず、大谷の巨体が地獄坂の背を叩く。

「グフッ」

 骨の折れる音がして地獄坂は血を吐いた。胸がボタンに触れそうになり彼は必死に背を反らす。そこに第二撃が来た。

「オワッタラビボ」

 ガクン、と地獄坂が崩れ落ちそうになる。だが彼はなんとか耐えた。食い縛った歯がボロボロと折れて零れ出る。

「世界を滅ぼさせてたまるか。滅ぼすのは私だ。私が……」

「オワッタラビボ」

 第三撃。金魚鉢の中で、黒贄の生首はあらぬ方を向いている。大谷五郎は凶器として使われながら、最後の快楽に酔っている。

「滅ぼさせるものか」

 地獄坂は台側面の板を素手で外そうとした。まだ使える兵器は山ほどあるだろうに、いやそんな余裕もないのか、指が何本か折れたがなんとか板が外れて内部の配線が露わになる。

「オワッタラビボ、タラビボタラビボ」

 黒贄は地獄坂を叩き続ける。骨が砕け、一度などボタンのすぐ横に額を打ちつけられながら、地獄坂は体を張って守り続ける。ビチビチと僅かながら肉が再生しているが、黒贄の破壊力に到底間に合うものではない。地獄坂の左腕がちぎれ飛んだ。もう生えてはこない。

「守らねば。世界を。この最悪の化け物から。出来るのは私だけだ。私だけなのだ」

「オワッタラビボ」

 黒贄の猛攻に耐えながら、地獄坂は手探りで台の中の配線をまさぐった。

「右端の線だ。それだけだ。間違えると発動してしまう。私が守らねば……」

「オワッタラビボ」

 横殴りの大谷が地獄坂を左へ弾き飛ばした。円形の床から落ちるかと思われたが、見えない壁があったようでぶつかり戻る。だが台のボタンはがら空きとなった。

「オワッタラ、ビボー」

 黒贄が大谷五郎を振り上げた。最大最速の打撃が終末の黒いボタンに叩きつけられる。ボタンが押され、そのまま台が床まで潰れ、衝撃に耐えきれず大谷五郎も爆散した。生首となって転がった大谷の表情は、やはり至高の悦楽を語っていた。金魚鉢がとうとう転げ落ちて割れた。

 標高一キロで行われた戦いの結末を、誰もが固唾を呑んで見守っていただろう。首のない黒贄は片足で立ち尽くし、地獄坂は倒れたままだ。

 それだけだ。何も起きなかった。

「私の……勝ちだ……私は……世界を、救った」

 地獄坂が、最期の言葉を絞り出した。彼の右手はちぎれたコードを握っていた。発動回路を切断したのだ。

「……私は……帰らねば……病院に……あそこが、私の居場所……」

 皮膚を失った血みどろの顔からは、表情を読み取ることは出来ない。ただ、悪意に満ちていた声音に、温かいものが混じっていた。

「私の患者が……皆が……待って……い……」

 言葉は聞き取れなくなった。地獄坂明暗、或いは天音善道の体はみるみる溶けていき、小さな骨の欠片だけとなった。

 

 

  三

 

 地獄坂明暗は救世主として歴史に記されることとなった。

 アルメイルは少しずつ空間が拡大して、元に戻りつつあるようだ。ただし、生き残りの戦士達は野菜島で野菜を育てることに満足している。

 八津崎市長は今も行方不明だが、時折市内で『不受理』や『受理』の赤い印が刻まれた惨殺死体が発見される。犠牲者の死に顔は、何故か一様に幸せそうであった。

 支配者のいなくなった八津崎市は、あっという間に再建され相変わらず毎日のように殺人や強盗が頻発している。新しく警察署長となった城智志は、嬉々として犯罪者や一般市民を殺しまくっている。

 森川敬子は引退して普通にOLをやっている。人を殺すことも三日に一度に減った。

 元署長の大曲源は事件の黒幕として国際指名手配され、妻と一緒に世界中を逃げ回っている。

 

 

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