第二話 被殺志願

 

  プロローグ

 

 魔王城の頂きに浮かぶ光球が闘技場を毒々しい赤に染めている。すり鉢状になった観客席は十五万の戦士達で埋め尽くされていた。血みどろの殺し合いを勝ち抜いてきた異能の強者達は今、配給の生野菜を齧りながら期待に顔を輝かせて歓声を上げている。特別席には神楽鏡影や剣里火ことブラックソードの姿もあった。八津崎市警察署長大曲源は眠たげに欠伸をしている。

 フィールドの片方の端でアルメイル魔王・黒贄礼太郎が満面の笑みを浮かべて立っていた。くたびれた礼服に薄汚れたスニーカーといういつもの格好だが今日はきちんと王冠をかぶっている。大型のルビーが嵌まった王冠はあちこちに細かな傷や血痕が残り、影の世界の長い歴史を示している。

 黒贄の右横に古いツードアの冷蔵庫が置いてあった。側面に五十四と書かれた紙片が貼っており、どうやらこれが今回の凶器らしい。

 黒贄が左脇に抱えているのは二十六型の古いテレビだった。ブラウン管にはヒビが入り、下面に丸い穴が開いている。そこから頭を突っ込んで仮面として使うつもりなのだろう。

 殆どの戦士は黒贄の力を知っており、その奇妙な武器とマスクにも笑う者はいなかった。

 フィールドの中央に青紫のひょろ長い怪物が立っていた。頭部は全体が赤毛で覆われ顔が見えない。毛の中から大きな眼球が三、四個覗いている。魔王補佐官エフトル・ラッハート。

 エフトルは恭しく魔王に一礼し、尖った爪の生えた両手を差し上げて観客を黙らせると、たどたどしい喋りで場の進行を務める。

「くらにれいたろうさまはまおうのざにつかれていらい、じゅうにかいにわたりむぼうなるちょうせんしゃをみごとげきたいなさいました。さて、こんかいはきねんすべきじゅうさんかいめのぼうえいせんにて、まおうみずからたいせんあいてをしめいなさいました」

 エフトルが右手人差し指を伸ばして斜め上を示した。闇の中に箱型の物体が浮かび上がる。

 ロープを巻きつけられ、巨大な手首に翼が生えたような怪物と、宙を泳ぐ大蛇のような怪物によって吊るされているのだった。二体の怪物が静かに物体を下ろし、フィールド内の黒贄と反対の位置に着地させる。

 箱は鋼鉄製で、一辺五メートルほどの立方体だった。あちこちに傷がついているが壁を貫くほど深いものはなく、幾重にも塗装され色ムラが出来ている。壁の一部を蔦が這っていた。

 黒贄の方に向けられた面に、横五十センチ、縦三十センチほどの穴が開いている。そこが外界と箱の中との唯一の接点だった。ライトの強い光に照らされても、奥の闇は何も覗かせてはくれない。

 横長の穴の上に、『市長室』という札が貼ってあった。怪物達が飛び去るとエフトルが紹介を始めた。

「じゅうさんにんめのちょうせんしゃは、かりばのやつざきしちょうです。やつざきしにくんりんしてひゃくねんいじょう、そのしょうたいはいまもふめいのままです。ただひとつ、むてき、というじじつをのぞいて」

 観客達が疑念の声を洩らした。客席で大曲はビーフジャーキーを食べていた。神楽鏡影は腕組みして見守り、剣里火は相変わらずダークグレイの鍔広帽で顔を隠している。

「うーりゅーふぇんのみよに、ごまんのせいえいぐんがかりばしんりゃくのためしゅつじんしました。そのすべてをただひとりでげいげきし、ぜんめつさせたのがこのやつざきしちょうです」

 観客の疑念は感嘆の溜め息に変わった。

「この時が来ることをずっと待ち侘びていましたよ」

 右袖で涎を拭い黒贄が言った。

「それでは、やつざきしちょうにごとうじょういただきましょう」

 エフトルが合図すると待機していた二十名ほどが市長室に駆け寄った。目から光線を出したり触手で撫でたり長い舌で舐めたり爪で削ったりの共同作業で正面の壁を少しずつ切り裂いていく。不用意に穴に近づいた一人が吸い込まれて消えた。少しして潰れた死体となって放り出される。額の『不受理』という印を見て黒贄は笑みを深めた。

「さて、どんな奇声がいいですかねえ。今日はアから行きますか」

 鉄板の向こうに恐ろしく硬質な層があったがなんとかなりそうだ。本来の横穴を中心にして約二メートル四方の入り口を作ろうとしている。十五万の戦士達は市長の正体に思いを巡らせざわついていた。

「アバー、アゲバー、アゲラバー」

「向こうまで抜けました」

 角付近を溶かしていた男が報告した。両掌を向かい合わせて壁の厚さを示す。五十センチ以上あった。

「アガラベバー、アダゴベバニャー、アバゴベゲボバニャーいやこれは長過ぎますな」

 爪を磨耗させた男がリタイアした。後頭部の袋に蓄えた消化液を使い果たして別の男もリタイアする。それでも着実に壁は切れていき、予定の枠の八割方が出来た時、物凄い勢いで内側から壁が吹っ飛んだ。張りついていた数人の体を削ぎ取り、黒贄の横を過ぎて闘技場の壁を突き破り、更に観客を百人ほどを押し潰して外へ消えた。

「ほほう。やはり期待通りですな」

 黒贄が薄い唇を舐めた。

 市長室の正面に開いた一辺二メートルの四角い穴は、真の闇を湛えるのみでやはり何も見通せない。しかし奥で一つの気配が動いた。観客がゴクリと唾を呑む。

「さて、今日の奇声はアブンバ……」

 黒贄は王冠をかぶったままテレビに頭を突っ込みかけていたが、市長室の闇から飛び出したものを認めて絶句した。客席も一瞬で静まり返り、歴戦の魔人達が驚愕に目を見開いている。

 軽やかに着地した八津崎市長の姿は、体重一キロに満たぬ純白の子猫であった。

 毛並みはポワポワと柔らかそうで、三角の耳はピンと立っておりブルーのつぶらな瞳がクルクルと動いて周囲を見回していた。ピンク色の鼻を僅かにヒクつかせ、尻尾をフヨフヨと振っている。小さな足でトテトテと斜め歩きして可愛らしい声でニィと鳴いた。

 黒贄の王冠がずり落ちて床を転がった。テレビも落ちブラウン管が割れる。凶器の冷蔵庫に触れることも出来ない。

 ポカンと大口を開けている黒贄にトテトテと市長が歩み寄り、疑うことを知らぬ瞳が黒贄を見上げた。また小さくミィと鳴く。

「ま、参りましたっ」

 黒贄が土下座して敗北を宣言した。

「ミャア」

 市長が小さな左前足を上げて黒贄の右頬に触れた。グワシャアッ、と凄い音がした。黒贄がメチャクチャに回転しながら吹っ飛んで闘技場の壁に激突した。一メートルも深くめり込み闘技場全体が揺れた。巻き起こった風が観客達の頬を叩く。

 グポッ、と窪みからよろめき出た黒贄は全身から折れた骨を突き出し、半ば潰れた肉塊と化していた。

 黒贄の右頬に『不受理』という赤い印が残っていた。市長の左前足にあるプニプニしたピンク色の肉球が、自然に複雑な溝を形作っていた。丁度裏返しにした『不受理』に見える。それが市長の印鑑の正体であったのだ。

 ズタボロの体でもう一度黒贄は土下座した。

「降参です」

「ミィ」

 またトテトテと歩み寄り、市長が右前足で黒贄に触れた。また黒贄が飛ばされて床を派手にバウンドし客席に突っ込んだ。椅子ごとめり込んで団子状態になる。その元は左頬であったと思われる辺りに『受理』という印があった。市長の右前足の肉球にある溝が残したものだ。

「私の負けです。完敗です」

 肉団子の黒贄はまだ虚ろに呟いていた。

「あたらしいまおうさまを、おへやにおもどししてさしあげろ」

 大慌てでエフトル・ラッハートが叫んだ。観客は皆顔面蒼白になっていた。係員達が市長を市長室まで追い立てようとする。市長はミィミィ鳴きながら可愛らしく逃げ惑い、気紛れに放った猫パンチがあっさり数十人を吹き飛ばして肉塊に変えていく。あまりの可愛らしさに誰も手を出せない。フィールドはパニック状態となった。飛んでいった市長室の壁を別のグループが闘技場の外から回収してきた。こんな恐ろしい魔王は早いところ封印してしまわないといけない。きっとその封印は二度と解かれることもないだろう。

「こんな……こんな、強さというものが、あるのか……」

 神楽鏡影が呻いた。

「むう。まさに無敵だ。誰も勝てぬ」

 剣里火が金属の軋むような声で呟いた。

「あー凄い凄い」

 馬鹿馬鹿しそうに大曲源が欠伸した。

 顔に巨大な一つ目しかない記録係が膝に載せたノートパソコンを操作して、全てのランカーの順位を一つずつ繰り下げた。黒贄礼太郎の名を魔王から一位に移動させ、魔王の枠に『八津崎市長』と打ち込む。パソコンになってからはランキング修正は楽なものだ。

 記録係は羽根ペンを使う機会がなくて少し物足りなさそうだった。

 

 

  一

 

 コシュー、コシュー、と、空気の洩れる不気味な音が聞こえていた。

「お母さん。お母さーん」

 パジャマ姿の男の子は不安げに母を呼んだ。まだ小学校に入るかどうかという年齢。リビングは明かりが消え、キッチンからの光が淡く輪郭を浮かせるのみだ。

 天井から吊られた電灯が揺れていた。細かなガラスの破片がローテーブルに散らばっている。蛍光灯が割れたらしい。

 点いていた筈のテレビも今は沈黙し、ブラウン管にヒビが入っているようだ。時折バチッと火花の散るような音がする。

「お母さん。お父さん。何処なの」

 男の子はもう一度聞いた。やはり返事は戻ってこない。部屋の何処かでコシュー、コシュー、という音がする。

 風が男の子の髪を揺らす。リビングのサッシ戸が開いている。いや、ぶち破られているというべきか。室内に倒れたサッシ戸のガラスは割れていた。

「お母さん」

 闇に目が慣れてきた男の子の視線が、床に横たわる母親の姿を捉えた。

「お母さん、どうしたの」

 駆け寄って母親の顔に触れた男の子は、恐る恐る自分の手を見直した。

 赤い液体が付着していた。そしてピンク色の柔らかい欠片のようなものも。

 母親の顔が斜めに割れていた。パックリと開いた隙間から血だけでなく中身が零れている。見開いた目が血で赤く染まっていた。

「おか……」

 男の子の口からそれ以上の声は出なくなった。足にヌルヌルした液体が触れる。男の子がゆっくりと床を見る。横から血溜まりが広がってきている。

 コシュー、コシュー。

 テーブルの向こうに父親が倒れていた。

 父親の首は胴から離れた場所に転がっていた。恐怖に歪んだまま固まった顔が男の子を見据えている。胴体側のなめらかな断面から血が流れ続けている。

 ソファーの向こうから足がはみ出していた。男の子は手足をギクシャクと動かして回り込む。血溜まりに素足が触れた。

 コシュー、コシュー。

 高校生になる姉の死体があった。頭頂部から首の付け根まで真っ二つになり左右にカパッと開いている。左腕が切断され、水平に裂けた腹から腸がはみ出していた。おそらく腕と腹は同じ一閃でやられたものだろう。

 男の子は悲鳴を上げることも出来ず、ただ、荒い息を続けていた。

 コシュー、コシュー。

「ペントラポッタ」

 急に壁際から篭もった声が奇妙な台詞を告げた。男の子の呼吸が止まる。

 首が軋みを上げそうなほどぎこちない動作で、男の子は振り向いた。

 壁際に長身の影が立っていた。さっきからそこにいたのだろう。

 影はスーツを着ていた。土足で靴はスニーカーのようだ。無造作に下げた右手は細長い刃物を持っている。鎌に似ているが柄からのカーブ具合はもう少しなだらかだ。刃にドロリとしたものが絡み、一定のペースで雫を落としている。

 顔は……顔は、マスクを着けていた。楕円形のゴーグルに、口の辺りには太い円筒形の容器がついている。ガスマスク。コシュー、コシュー、という呼吸音がマスクから洩れていた。

 家族を皆殺しにされて叫ぶことも出来ず、男の子はただ、その場に凍りついていた。

「ペントラポッタ」

 スーツの男はマスク越しの篭もった奇声を発した。ゆらり、と男が動き出した。キッチンから差し込む光が色褪せたガスマスクを照らす。スーツは結婚式や葬式に着るような黒だった。

 ゴーグルの奥に覗く二つの瞳は、何も見てはいなかった。瞬きもせず視線は彼方を向いて動かず、絶対零度の虚無を湛えていた。

 男の子の横を、スーツの男は通り過ぎた。血みどろの凶器を振り上げることもなく。マスクは男の子を一瞥すらしなかった。

 スーツの男は開いたままのサッシ戸から出ていった。コシューという呼吸音が遠ざかり、聞こえなくなった。

 男の子は涙を流すことも出来ずに、ただ細く息を吸った。両親と姉の死体に囲まれて、彼は闇の中に独り、残された。

 

 

  二

 

 二階建てであったビルディングは壁も一階の天井も取り払われ、更に床までぶち抜かれて地下室も加わり広大な一つの空間となっていた。荒い仕事ぶりのため壁の切れ端がブラブラになっていたりする。ちぎり取られた建材や家具類は地下室の床の中央に積み上げられていた。

 瓦礫の山の周囲に人間の死体が散乱していた。首や手足を切断された死体。破れた胴から内臓をぶち撒けた死体。頭が潰れたトマトのようになった死体もあった。殆どが男でブラックスーツの者も多い。死体の傍らに日本刀や大型ナイフが転がっていた。ちぎれた腕が拳銃を握っていたりもする。彼らは武装していたのだ。

 扉の外れた玄関に立って惨状を見下ろし、八津崎市警察署長・大曲源は「ふうん」と気のない息をついた。三十代後半の彼は髪を短めに刈り、トレードマークだった不精髭は綺麗に剃っている。くたびれていたスーツにもシャツにもアイロンがけしてあり、ネクタイも本物を締めていた。ただし、大曲はそんな格好を窮屈に感じているようで、ネクタイは緩め気味にして襟元のボタンも外している。疲れた顔は相変わらずだ。首筋と右手の肌の質感が他の部位と違うのは人工皮膚であるためだ。

 大曲はポケットから煙草を出して百円ライターで火を点けた。死体を眺めながら美味そうに紫煙を吐く。一歩下がって玄関の看板を確認する。笹垣組となっている。

「ヤクザが夜襲食らって、三十人が皆殺しか」

「いえ署長、三十四人ですわ」

 大曲の呟きを女の声が訂正した。ハイヒールの硬い音が近づいて横に並ぶ。

「あ、そう。で、お前さん誰だっけ」

 大曲が面倒臭そうに女を見て尋ねた。

「本日副署長として着任しました、森川敬子です」

 ピシリと音を立てそうな鋭い敬礼をしてみせた女は二十代後半だろう。身長はハイヒールを含めると大曲より高く、百八十センチ近くある。メリハリのある見事な体形に婦人警官の制服はやや窮屈そうで、特に胸元は大きく開いている。極端なミニスカートはストッキングに包まれた肉感的な太股を惜しげもなく晒していた。制帽の載った髪は女性としてはかなり短めで、両耳のピアスには銃弾の形をしたアクセサリーが下がっている。知的で凛とした美貌は何処か相手を見下しているような印象も与えた。サングラスではなくオレンジ色のシューティンググラスをかけている。破片や銃弾から目を守るためのもの。

 西部劇のような太い革ベルトに二つのホルスターを吊るし、予備の弾倉を何本も挿している。右のホルスターにはオートマチック拳銃、左にはリボルバーだった。自動小銃を肩掛けしている。

 彼女の両手が何故か苛立たしげにピクピク震えているのを見ながら、大曲は言った。

「ふうん。そりゃご苦労さん。地元の出身かい」

「いえ、日系アメリカ人です。FBIでマフィア対策に携わっていましたけれど、オールキルを殲滅して相手がいなくなってしまったので、志願して特別に八津崎市警に異動させて頂いたのです」

「まあ、うちの市長は懐が広いからそんなこともあるだろうな。そういやオールキルは八津崎市にも支部作ってたな。潰れちまったが」

「その通りです。ですから八津崎市には期待しておりますわ」

 シューティンググラスの奥で森川の瞳が輝いた。その光は狂気にも似ていた。

 両手の震えが大きくなっている。次第にそれは全身に広がって森川は耐えるように眉根を寄せた。

「大丈夫か。何かの発作か」

 別段心配でもなさそうに大曲が尋ねる。森川は震えながらも血のように赤い唇を笑みの形に変えた。

「ご心配なく。ただの禁断症状ですから」

「ふうん。銃が好きみたいだが、間違って味方を撃たんようにしてくれよ。ただでさえうちは人手不足なんでな。署長なのに現場を歩かされるくらいだ」

「間違うなどあり得ませんわ。例えばあれをご覧下さい」

 森川は野次馬の列を指差した。ここからは五十メートル近い距離がある。

「あそこに赤いジャケットの男がいますわね。巡査とトラブルになっている」

 手の震えが急に止まった。

「ああ、いるな」

 大曲の声と同時に森川は二挺拳銃を抜き撃ちした。警官二人と揉み合っていたジャケットの男の両目が爆ぜた。二つの弾丸は正確に目標を射抜いたのだ。後頭部から散った脳や骨の欠片に他の野次馬が悲鳴を上げ、警官達が呆れて振り返る。

「ご覧の通りですわ。私は一日一人は射殺しないと駄目なんです」

 森川敬子はうっとりと息を吐いた。確かに震えは収まっていた。

「乱射癖か。FBIも大変だったろうな」

 森川はムッとしたようだ。

「乱射なんて馬鹿なことはしませんわ。狙いは正確です。一発も無駄にはしません」

 市民を射殺したことについては彼女は全く気にしていないらしい。

 大曲は煙草の吸殻を踏み潰しつつ横を向き、相手がすぐそばにいることも構わずに陰口を叩いた。

「また危ない人が入ってきちまったなあ」

 二人の警官は両目の潰れた死体を運び始めた。森川は素早く左右を見て安全を確認しながらオートマチック拳銃をホルスターに収め、左手のリボルバーに使った一発分の弾丸を補充する。かなりの場数を踏んできたのだろう、一連の動作は素早く無駄がない。

「おーい、城はいるかあ」

 大曲が呼ぶと、向こうの建物の陰から男が顔を出した。

「はいっ、城智志はここにおります」

 男は上半身裸だった。なんとか警察官だと分かるのは、ズタズタに破れてはいるが制服の青いズボンを履き、穴の開いた制帽をかぶっているためだ。胸板も腕の筋肉も見事に盛り上がり、腹筋は仮面ライダーのように深い溝が刻まれている。髪には何やら赤いものがへばりついて固まり、見開き気味の瞳は不吉な悦楽を湛えていた。

 男が右手で引き摺るものがアスファルトを擦ってガリガリと音を立てる。長柄の槍に斧が一体化したハルバードと呼ばれる武器。新しい血で汚れた刃には誰かの上着が引っ掛っていた。男性の死体の肩から上部分が一緒についてきている。

 殺人鬼警察官・城智志は大曲の前で改めて敬礼した。乾いた血のこびりついた金属の柄が自分の頭にコツンと当たる。ついてきた死体は刃からすっぽ抜けてあっちへ飛んでいった。

「ちょっと邪魔な野次馬を処刑していたところです」

「処刑はまあ置いといて、お前さんに新しい任務を伝える。こちらはうちの副署長だ。名前はええっと……」

「森川敬子です」

「城智志です、よろしくお願いします」

 城は朗らかに挨拶する。

「それで城、お前さんは今後この副署長についてくれ。捜査もパトロールもこれからは二人一組だ。きっといいコンビになるぞ。ま、どっちかが不慮の事故とかで死んだりするまではな」

「はっ、了解しました。身を粉にして務めさせて頂きます」

「多分粉じゃなくて蜂の巣になるだろうが頑張ってくれ」

 森川は値踏みするように城の無邪気な笑顔から破れた靴まで観察した。

「あなたは巡査かしら」

「はいっ、先月の給料はマイナス五百六十万円でした」

 城の口調に苦悩は微塵もなかった。大曲は一仕事終えた顔でビル内の惨状に向き直った。後ろから二人の殺人鬼のやり取りが聞こえる。

「ところで副署長、本官からも質問してよろしいでしょうか」

「何かしら」

「副署長のスリーサイズはお幾つですか」

 銃声は二挺拳銃を撃ち尽くすまで続いた。大曲は両耳を押さえてビル内の一点に目を凝らす。地下室の壁に大きく赤い文字が記してあったのだ。

 犠牲者の血液を惜しみなく使った落書きはカタカナで『ペントラポッタ』という意味不明の言葉になっていた。近くに幾つも切断死体が転がっており、この断面を直接壁に擦りつけて字を書いたらしい。

「おーい城、ちょっとこの現場を見てくれや」

 城の返事は自動小銃の連射に掻き消された。

 ハルバード片手に城が大曲の横に立つ。胴体は穴だらけで、頭部も額より上はほぼ吹っ飛んでいた。破れた右眼球を眼窩へ押し戻し、城は無事な方の目で現場を見渡した。

「どう思う」

 二本目の煙草に火を点けながら大曲が尋ねた。咳払いした拍子に喉に刺さっていた弾丸を吐き出して、城は言った。

「ひどい手抜き工事だったんですね。床が全部抜け落ちてこんなに犠牲者を出してしまうなんて」

「いや違う。殺人。あれ見てみ」

 大曲が壁の血文字を指差した。

「はあ。殺人事件のダイイングメッセージって奴ですか」

「いや、ダイイングメッセージは被害者がやるもんだ。あれは犯人のメッセージだろ。『ペントラポッタ』って、意味分かるか」

「はい、さっぱり分かりません」

 城は即答した。大曲は城の脳が半分以上なくなっているのを一瞥し、溜め息をついた。

「なら副署長、あのメッセージをどう思う。……もしもーし。大丈夫かあー」

 森川敬子は弾倉交換も忘れ呆然としていた。繰り返しの呼びかけでやっと我に返るが、先程までの自信は揺らいでいた。

「取り乱して申し訳ありません。標的を仕留め損なったのは初めてだったものですから」

「気にするなよ、誰でも最初はそんなもんだ。すぐに慣れるさ」

 標的が同僚であったことには大曲は突っ込まなかった。頭の上半分が飛んでいるのに生きている城を凝視して、用心深く森川が尋ねる。

「署長、八津崎市にはこんな不死身のモンスターが溢れているのですか」

「モンスターは最近増えたが不死身なのはそんなにいないな。市長が魔王になっちまったから」

 冗談と思ったのだろうか、森川は眉をひそめた。

「で、あの血のメッセージなんだが、副署長としてはどう思う」

「現存するあらゆる言語を検索しましたが『ペントラポッタ』という単語は存在しませんわ。アナグラムや暗号の可能性が高いと思います」

 森川は流石に調べていたようだった。

「なるほどな。だが俺はそうは思わん」

 大曲は煙草を喫いながらあっさり言った。

「……。では署長はどうお考えですか。『ペントラポッタ』にどんな意味がある、と」

「いや、特に意味はない。言葉自体にはな。だがちょっと心当たりを呼んでるからもうじき来るだろうさ」

 言ってるうちに派手な悲鳴が近づいてきた。大勢の通行人がこちらに逃げ走ってくる。ゴロゴロと硬く重いものがアスファルトを転がる音。と、集団の後方を走っていた男が急に沈んで見えなくなった。転んだのか穴に落ちたのか、人が多過ぎて確認出来ない。だがゴロゴロにブチベリという異様な音が混じるのは何故だろう。

「おっ、署長さーん、お待たせしましたー」

 集団の最後尾を走る一際長身の男、いやおそらく阿鼻叫喚の元凶と思われる男が片手を振ってにこやかに挨拶した。広い通りに出て人々は四方に散り、男の姿が露わになった。

 男はグラウンドをならすために使うローラーを押しているのだった。幅二メートル、直径一メートルという大型で、セメント製の筈だが接地面は血で赤く染まっていた。衣服ごとペチャンコになった死体が数体まだへばりついて一緒にゴロゴロ回っている。彼の後方にも同じ幅の赤い跡が残り、剥がれた平面死体が所々に倒れていた。

 太い金属のフレームが水平の長方形を形成し、前方の長い一辺がローラーの軸となっている。その対辺はラバーで覆われて持ち手となり、男は後ろからそれを握っていた。肉片のへばりついた大型ローラーを片手で押す筋力とはどれほどのものか。

 森川が自動小銃を発砲した。念を押した三連射が男の額に正三角形を作って後頭部から抜けるが、男は笑顔のままこちらに方向転換してきた。ギイイッ、と森川の口から怒声とも悲鳴ともつかぬものが洩れる。また不死身の標的と出会ってしまったのだ。

「ようクロちゃん、もう凶器使ってんのか。気が早いな」

 喫いかけの煙草を落として踏み潰し、大曲が気楽に声をかけた。

 男は更に十数発の弾を食らったがよろめきもしない。森川も意地になっているのかその場を動かない。だが血みどろの大型ローラーは彼女の一メートル手前で停止した。ローラーから飛んだ血が森川のシューティングラスにかかった。

「おはようございます。助手に引いてもらった十六番が良い品だったので、ついはしゃいでしまいまして」

 男は署長に挨拶した。身長は二メートル近くあり、筋肉隆々という訳ではないが骨格はがっしりしている。黒い略礼服は普段着にしているらしく折り目も失われ随分くたびれている。ネクタイはしておらず、白いシャツは森川につけられた銃創で赤く染まっていたが、もしかすると他人の血も混じっているかも知れない。赤いローラー跡を踏むのは薄汚れたスニーカーだ。髪は自分で切っているのか左右非対称で、額に幾つも穴が開いているのを除けば端正な顔立ちをしていた。白い肌は美しさよりも病人の不吉さを感じさせる。やや眠たげな切れ長の目、何かを面白がっているように微笑む薄い唇は、男の冷酷な本質を暗示していた。

「おや、署長さん、髭をきちんと剃っておられますね」

「そう。見てくれにも気を使うようになってね。どうだ、新婚生活が充実してるから生き生きしてるだろ」

 死んだ魚のような目で大曲が言う。

「そ、そうですかね。まあ、そんな気も、しないことも、ありませんね」

 礼服の男は困ったように視線を逸らし、森川敬子の目と合った。

「新人さんですかな。銃器がお好きなようですが、もっと原始的な凶器の方が手応えがあっていいですよ」

 自分が撃たれたことを気にする様子もなく持論を語る。大曲が紹介した。

「うちの副署長になった森川だ。アメリカでマフィアと撃ち合っていたそうだ。副署長、こちらは私立探偵で元魔王のクロちゃん。まあ生きてる間はよろしく頼む」

「これは初めまして、黒贄礼太郎です。『くろにえ』と書いて『くらに』と読むので通称クラちゃんです。ご存命の間はよろしくお願いします」

 礼服の探偵・黒贄礼太郎は丁寧に頭を下げた。戻した額から血が流れ落ち、脳の欠片まではみ出してくる。

 森川敬子はシューティンググラスの血糊を拭いて冷静さを取り戻し、納得の表情で頷いた。

「あなたが黒贄礼太郎ね。噂は聞いていたわ。たった一人でオールキルの日本支部を壊滅させたとか」

「まあ、一人というか二人といいますか、凶器を人数に入れなければ一人になるのですけれど。その辺の解釈は難しいですな」

 黒贄の微妙な表現に数秒沈黙した後、森川が続ける。

「あの『シューター』ケネス・シダックを真っ二つにしたんですって。私はアメリカで、彼との対決を楽しみにしていたのよ」

「ははあ、物忘れが激しいもので、そのケネス何とかさんがどなただったかはちょっと思い出せませんが、もし私が殺してしまったのでしたら申し訳ありません。でも対決なさりたいのでしたら良い方法がありますよ」

「どんな方法かしら」

 森川の瞳が挑戦的な色合いを帯びる。既に弾倉の交換は済ませていた。

「あの世まで追いかけて対決を申し込むのです。きっと今からでも間に合うと思いますよ。しかも何千回でも何万回でも気の済むまで対決出来ます」

 黒贄は本当に悪気のない笑顔を浮かべていた。

 グチッ、と嫌な音がした。森川敬子の赤い唇から同じ色の血が流れている。自分で噛んだのだ。こめかみに怒りの青筋が浮き上がり、森川が行動に移るかと思われた刹那、ローラーにへばりついていた肉塊がメチョッと起き上がりダミ声を発した。

「よう姉ちゃん、いい体してんな」

 森川の目が一杯に見開かれた。彼女の形相に驚いたか、肉塊は「あひいいいっごめんなさーい」と叫んでズルリとローラーを滑り黒贄の方へと逃げた。平らに潰れた状態から厚みが回復し、雨合羽を着た男の姿に変わる。異様な光景に森川は絶句していた。

「おっ、クロちゃん変なの連れてるじゃないか」

 大曲が言った。

「はい、助手のスライミー藤橋さんです。アルメイルであぶれていたのを拾ってきました。私が魔王の座から落っこちてもついてきてくれる律儀な助手です」

 黒贄の足にすがりついていた藤橋は、振り向いてニカッと得意げな笑みを見せた。

「大将は頼りねえから、俺がついてないと駄目なんだよ」

「……。クロちゃん、本題に入ろうや。まあこっちを見てくれ」

 黒贄がローラーを押して建物の玄関へやってくる。スライミー藤橋は潰れた下半身を膨らませ、弛んだ五体を復活させた。悠然と立ち上がろうとして森川の顔がそのままなのに気づき、「あわわわわ」と四つん這いで黒贄を追う。

「ふうむ」

 大曲の隣に立って吹き抜けとなったビル内部を見渡し、感心したのかそうでないのか良く分からない声を洩らした。

「どう思う」

「そうですなあ。まずまず、ですかねえ。一人で三十七人を皆殺しですか」

「死体は三十四人分ですわ」

 平静な顔を取り戻した森川が後ろから突っ込みを入れる。

「いえ、三体は瓦礫の中に埋まっています。全部並べるつもりだったようですが、壁と床を崩すのを急いでいて巻き込んでしまったのでしょう。ちなみにその作業は素手でやってますな。なかなかの筋力です」

 黒贄に訂正され森川の顔が屈辱に歪む。その顔を手で覆って彼女は深呼吸した。

「なるほど、犯人は一人か。で、クロちゃんに意見を聞きたいのはあれなんだが」

 大曲が壁の血文字を指差した。

「ほう。ダイイングメッセージという奴ですかな」

「……。犯人が残したメッセージだろうが、クロちゃんなら何か分かるかと思ってな」

「ペントラポッタ、ですか。どうでしょう、新しいデザートですかね」

「勿論野菜を使ったデザートなんだろうな」

 横から藤橋が無駄口を挟む。大曲は藤橋を無視して黒贄に言った。

「いや多分違う。俺はクロちゃんの奇声を思い出してね。どうだい、こんな奇声を唱えた覚えはないかい」

「ううむ」

 黒贄は腕組みをして考え込んだ。

「どうも、思い出せませんなあ。毎回違う奇声を工夫してきましたからね。昔はそんな奇声を使ったこともあるかも知れませんが、確信は持てませんな」

「ふうん。ならこの事件の犯人に心当たりはあるかい。クロちゃんが犯人だったらあっさり解決なんだが」

「残念ながらこれは私ではありません」

 何が残念なのか分からないが黒贄は首を振った。

「ただ、死体も瓦礫も血文字も、何か含むものを感じますね。対抗心、或いは誰かへの当てつけのような。その対象は私なのかも知れません」

「挑戦状って訳か。だが数十人くらいじゃあクロちゃんの殺害数には到底及ばんな」

 と、一人の警官が中年の女を連れてやってきた。

「署長、目撃者がいました。近所の住民ですが、午前四時頃、ビルから出てきた犯人と思われる人物を見ています」

「へえ、そりゃあいい。殺人鬼はどんな奴だったんです」

 大曲が女に尋ねた。

 中年の女は答えようとして死体の貼りついた赤いローラーを見た。そのそばに立つ黒贄は額と胸に穴を開けている。黒贄の横で胡坐をかく藤橋は血塗れの雨合羽だ。ハルバードを持ってぼんやり立つ城は頭頂部がカッパリ開いているし、森川は警官にあるまじき二挺拳銃で自動小銃も持っている。そんな異常者達の視線を浴びて、女は大きく身震いした。

「は、は、はい……あの、背の高い男、でした」

「このくらいかな」

 大曲が黒贄を指差す。

「は、はい」

「どんな顔してました。こんな顔とか」

 大曲がまた黒贄を指差す。

「いえ、それが、マスクをしていて顔は分からなかったんです」

「へえ、マスクねえ」

「ほほう、マスクですか」

 大曲と黒贄が互いの顔を見合わせた。

「それでどんなマスクでした」

「多分、あれはガスマスクだと思います。目の部分は一繋がりで丸くて、口の部分は出っ張っていて……」

 黒贄が眉を上げた。

「ふむ、ガスマスクなら私も一つ壁に飾ってますよ。使ったのは随分前ですなあ」

「……。それから、手に鎌のようなものを持っていました。首は真っ直ぐなのに、普通の鎌より曲がりが大きくて、こんな感じで」

 女が手で形を示してみせる。柄から真っ直ぐに伸びた刃が途中から急に湾曲する凶器のようだ。黒贄が頷いた。

「ああ、登り鎌ですね。山歩きに便利だそうですが首を刎ねるのにもなかなか良いですよ。私も以前は持ってましたなあ」

 気まずい沈黙が落ちた。空気を読まずに藤橋が指摘する。

「やっぱ、これやったの大将じゃねえの」

 目撃者の女が後ずさりしかけたところに城智志が突然大声を出した。

「ああっそうだ。思い出しました。思い出しましたよ。ペントラポッタです」

「ほう、どうした」

 大曲が尋ねる。

「三日前と先週、似たような事件がありました。暴力団の事務所と、総合格闘技の道場だったと思います。やっぱり皆殺しで二十人と十五人くらい死んでました。それでどちらも壁に『ペントラポッタ』と血で書いてたんです」

「その件は聞いてなかったぞ。まあ、うちは殺人事件が多いからな」

「すみません。聞き込みの相手をうっかり殺しちゃったので報告書も作っておりません」

 誇らしげに城は答えた。

「あ、そう」

 やり取りを聞いていた黒贄が「ふむふむ」と城を観察した。城の足元に潰れた金属が落ちている。腹筋から押し出された弾丸だ。黒贄は歩み寄り、頭の大穴を覗き込んで脳の再生具合を確認する。微かにビチビチという音をさせて脳組織が盛り上がっていた。潰れていた城の右目も元に戻っている。

「いやあ、なかなかいい感じに成長なさいましたな。どうです、私の事務所で助手として働いてみる気はありませんか。なんでしたら今の助手とトレードということでも」

「ええっ、そりゃないぜ大将」

 スライミー藤橋はショックを受けたらしく顔面が崩れかける。

 だが城は答えた。

「きっぱりとお断りします。僕は市民の安全を守る、この警察官という仕事が好きなんです」

 と、力強くハルバードを振った拍子に目撃者の女の首がスコンと飛んでいった。連れてきた警官が悪態をつき、同僚に死体袋を持ってくるよう頼んでいる。

「そうですか。残念ですがお仕事を頑張って下さいね」

 黒贄は仕方なく引き下がった。藤橋の非難がましい視線に「これからも二人で仲良くやっていきましょう」と白々しい言葉をかける。

「……。で、どうなさるんです」

 森川敬子が大曲に尋ねた。

「まあ、この調子だったらいずれ向こうから接触してくるんじゃないか。待ってりゃ話は進むだろうさ」

 大曲はのんびり言う。

 黒贄は改めてビルの内部を見渡したが、溜め息をつくように呟いた。

「しかし、惜しいですな……」

「ん。何が」

 大曲が問う。

「いえ、能力的には申し分ないと思うのですが、どうもこの人は本物でないような気がしますね」

「本物ってのは殺人鬼として、という意味かい」

「そうです。何処か無理をしていますね。真の目的は、殺人とは別の次元にあるのかも知れません。本人がそれを自覚しているかは分かりませんが」

 と、大曲の右手が鳴り出して彼は自分の耳に当てた。

「どうした」

 大曲の義手には携帯電話が内蔵されているのだ。暫く聞いていたが「そうか。分かった」と言って通話を切る。

「どうかなさいましたか」

 森川が尋ねると大曲はいつもの口調で答えた。

「俺の家が襲撃されたらしい。マッチョな男が家内を人質にして、クロちゃんを呼べと言ってるようだ。一連の事件の犯人かも知れんな」

「なんと、伊織さんが人質ですか。折角助けたのにそれはいけませんな。再登場すると死亡確率が……」

 黒贄も少し慌てている。

 大曲は平然と禁煙パイポを出して咥えようとして、皆の視線が集まっていることに気づいた。

 それでやっと大曲は申し訳程度に顔を歪め「うわあ、大変だ」と言った。

 

 

  三

 

 笹垣組の殺戮現場に大曲源が到着する少し前、その妻である大曲伊織は掃除機がけを終えて窓拭きに移ったところだった。八津崎市警察署長の公邸は4LDKで地下には避難用のシェルターも設けられている。窓ガラスは防弾で三十センチの厚さがあった。

 伊織の年齢は二十代前半、艶のある黒髪をポニーテイルにまとめ、鋭角になり過ぎず太ってもいない絶妙な顎と首筋のラインが美しい。化粧は薄く、生真面目さと優しさを感じさせる顔立ち。その穏やかな瞳の奥に硬い芯が潜んでいた。地獄を経験した者の強さ。

 何故か彼女は自宅で黒いメイド服を着ていた。フリルのついた白いエプロンも、もしかすると夫のリクエストかも知れない。

 リビングのテレビはずっとニュースを流していた。伊織は音だけでも聞いているようだ。八津崎市の事件を二十四時間伝えるローカル番組。この犯罪都市では決して事件のネタが途切れることはない。笹垣組のビルで組員が皆殺しにされた事件も先程流れていた。警察はいつも後手後手だ。

 玄関の呼び出しチャイムが鳴った。伊織は窓拭きの手を止めたが、その場を動かず耳を澄ますだけだ。整った顔にさざなみのように緊張が浮かび、彼女はゆっくり息を吐いてそれを押さえ込む。

 十秒ほどしてまたチャイムが鳴った。伊織は漸く雑巾を置いてキッチンへ歩いた。棚には食器だけでなく料理の本が十冊以上並んでいた。

 キッチンの壁にインターホンのパネルがあった。玄関に立つ訪問者を隠しカメラが撮影し、リアルタイムで液晶画面に表示する。伊織は黙って訪問者を観察した。

 若い男だった。まだ二十才かそこらといったところだろう。地味な作業着の肩部分と帽子には『片道特急便』という運送会社の名が入っている。三、四十センチほど大きさの段ボール箱を抱えていた。

 どちらかといえばあまり特徴のない素朴な顔立ちだった。翳りを持たぬ目と口元が淡い笑みを見せている。

「どなたですか」

 伊織はボタンを押して慎重に尋ねた。

「片道特急便です。お荷物が届いております」

 男が答えた。朗らかな声音に敵意はない。

 伊織はそれでもパネルの前から動かず次の質問を投げた。

「送り主は誰です」

 男は嫌な顔もせず伝票に目を移す。

「ええっと、八津崎市警察装備課となってます。印鑑かサインを頂けますか」

「あの……すみません」

 伊織はモジモジと先に謝ってから告げた。

「ドアの右に宅配ボックスがありますから、そちらに入れてもらえませんか」

 男の表情が一瞬消えたように見えた。宅配ボックスを見やり、再び朗らかな声で答える。

「うちは直接手渡しでないと駄目なんですよ。サイン、頂けませんかね」

「そうですか……。申し訳ありません。不在連絡票を入れてもらえますか。主人がいない時の来客は受けてはいけないことになってるんです」

「はあ。困りましたね」

 男は苦笑して帽子を脱ぎ捨てた。整えた黒髪を自分で掻き回してボサボサにする。

「いい加減な男なのに、結婚すると用心深くなるもんだね」

 男の口調が変わっていた。伊織は一瞬歯を食い縛り、すぐ行動に移った。パネルの赤いボタンを押して食卓の裏に手を入れる。引っ張り出したのはテープで固定していたショットガンだ。ポンプアクション式でジャコン、と弾を薬室に送り込む動作は手慣れたものだ。

「相手が一人なら撃ち殺す。相手が複数か……」

 伊織は自分に言い聞かせるように低く唱えた。顔から血の気は失せているが手は震えていない。

 ドグゥワァンと玄関で凄い音がした。伊織はパネルを見る。男がドアに蹴りを入れたようだ。もう一度蹴ろうとしている。伊織は廊下に顔を出して玄関を確認する。分厚い鋼鉄のドアが派手に変形している。

「複数か化け物ならシェルターに」

 玄関のドアが弾け飛んだ。回転しながらバギョゴギャと壁を削り、伊織の傍らの柱にめり込んだ。

「おっ邪魔ー」

 土足で入ってきた男は明らかに体格が変化していた。筋肉の厚みが増して作業着が裂け、背丈も伸びて二メートル近くになっている。まだ段ボールは抱えたままだ。

 伊織はショットガンを向け躊躇なく発砲した。轟音が三連続する。

 男は段ボール箱を背中に回して庇い、真正面から弾を受けた。胸と腹に大きな赤い穴が開く。散弾ではなく大型動物猟に使われる単発のスラッグ弾だった。三発目は顔面に命中し、血飛沫を散らしながら男の首が仰け反った。十メートル以上の距離があったから伊織の技量はまずまずというべきだろうか。

 男が倒れずに歩き続けるのを見て伊織は第二案に移った。リビングに駆け込み壁の掛け時計を押す。隠し扉が一秒で開いて地下シェルターへの階段を現していく。

 その一秒の間に、伊織の前に男が立ち塞がっていた。高速移動の風圧が伊織の目を瞬かせ、前髪を浮かせる。

「残念、ちょっと遅かったな」

 男が息の洩れる声で血みどろの笑みを見せた。顔面の三分の一……右の頬から眼球、額までが吹っ飛んで頭蓋骨と脳が見えていたが、既に肉が盛り上がって傷を塞ぎ始めていた。歯茎から新しい歯が生えてくる。

「シェルターに入るのが間に合ってても、俺はこのくらいの壁なら余裕でぶち破れるけどな。まだ弾は残ってるようだが、試してもいいぜ」

 喋り終えるまでに声はまともになり、顔の傷は完全に皮膚が閉じた。胸と腹の傷も塞がっているようだ。かつて『闇の占い師』神楽鏡影は伊織の前で驚異の再生能力を見せたが、男はそれより速かった。

 伊織の瞳に絶望はなかった。ショットガンの薬室に次弾を送り再び発砲する。耳をつんざく銃声に顔をしかめながらも、伊織は男の顔面を狙って至近距離から撃ち続けた。

 治りかけた男の顔が削り取られ、骨片と脳を散らしていく。壁にへばりついた耳朶がずり落ちる。おそらく余裕で避けることも出来たろうが、男は微動だにせずスラッグ弾を受け続けた。自分の不死身ぶりを見せつけるかのように。

 九発で弾が尽き、男の下顎から上は、干し柿のように連なった残骸が後ろに垂れ下がるだけとなった。

「あーあああっあ」

 男が何か言おうとして舌を動かしているが、上顎がないのでうまく発声出来ない。

 伊織が次に取った行動はリビングを駆け出すことだった。目が再生するまで追ってこれないと判断したのだろう、廊下を走り開け放しの玄関まで……。

 だが彼女の脇を風が過ぎて男が先回りした。視神経の糸を引いた眼球を一個、左手に摘まんで伊織に向けている。右手は人差し指を立ててからかうように左右に振ってみせた。

「ああー、むだ、だよ」

 男の上顎が再生しつつあった。その上に自分の眼球を載せる。肉に取り込まれて眼窩が形成されていく。

 伊織は後ずさりした。男は悠然と歩み寄りつつ柱に刺さっていた玄関のドアを引っこ抜く。厚さ三十センチの鉄板を両手で無造作に丸めていく。ギシュギュと軋みを上げながらあっけなく、直径五十センチほどの鉄球が出来上がった。表面に指の形の凹みがはっきり残っている。

「でも、あんたなかなかいい線行ってるぜ。元々の八津崎市民でもないのにな。アルメイルで修羅場をくぐっただけのことはあるよ」

「私達のことを調べてるのね。あなたは何者なの。何が望み」

 伊織は尋ねた。目は油断なく隙を窺いながら。

 額まで元通りとなった男は笑顔で答えた。

「ちょっとあんたにはね、餌になってもらおうと思ってるんだ」

 屋外から靴音が近づいてきた。複数だ。銃の安全装置を外す響き。伊織の押した非常ボタンが署まで伝わり、パトロール中の警官が駆けつけたのだ。

 髪も生え始めた男は即席の鉄球を小脇に振り返った。玄関口に四、五人の警官が見えた。拳銃にショットガンにライフル。流れ弾を食らわぬよう伊織はリビングへ身を隠す。

 銃声の乱打。八津崎市警察は最初に警告したりしない。男はやはり動かずに正面から受けた。伊織の時と違うのは、男がゆっくりと、いびつな鉄球を両手で振りかぶったことだ。

 ブオォン、と強い風が吹いた。伊織は冥福を祈るように目を閉じた。彼女の位置からは見えなかった筈だ。一直線に飛んだ鉄球は警官三人の胴体を、事務用品のパンチで穴を開けたみたいに綺麗にこそぎ取っていった。時速何百キロで投げればそんなことが可能なのか。向かいの建物に鉄球が激突する轟音。

 胴の大きな欠損部から零れる内臓を信じられないといった顔で見下ろし、三人の警官は崩れ落ちていく。男は疾風と化して残り二人に襲いかかった。

 男が何かを引き摺りながら廊下を戻ってくる。伊織はもう逃げなかった。

「殺人鬼は相手の反撃を出来る限り体で受け止めること。殺人鬼の掟の一つさ。残らず受け止めるほど殺人鬼としての格は上がるんだ。俺も世界殺人鬼協会に登録してるのさ」

 リビングに戻った男は一人の警官の首根を掴んでいた。警官の膝が床を擦る。

 警官の右腕は引きちぎられ、他の手足もねじ曲げられていた。断端から噴き出す血がリビングの床を汚す。

「後は殺したよ」

 男は言った。

「目的は何なの。私を餌にして、誰を呼ぶつもり」

 伊織が問う。その瞳に怒りが宿っていた。

「これから教えてやるよ。おい、無線機で署に繋げ」

 吊られたままで苦痛に顔を歪めながらも、警官は腰の携帯無線機からマイクを取ってボタンを押した。少しして声が届く。

「こちら八津崎市警察本部」

「こちら、地域課の河内です。署長宅の非常警報に駆けつけた五人は、本官以外全員死亡。襲撃者は一人。怪物です。至急、応援を請う」

 そこで男がマイクを取り上げて続けた。

「警察は何百人来たって同じことだ。片っ端からミンチにしてやるよ。それより黒贄礼太郎を連れてこい。知ってるだろ。署長とも仲のいい探偵さ。こっちは署長の妻を人質に取っている。黒贄が遅かったら、一時間ごとに手足を一本ずつ切り落としていくからな。新妻が達磨になったら困るだろ。そんじゃ、そういうことで」

 男は警官の腰にマイクを戻した。

 腕からの出血が続き顔面蒼白となっていたが、三十代であろう警察官は伊織に言った。

「お役に立てず、申し訳ありません」

「いいえ、こちらこそごめんなさい。私のために」

 伊織は首を振った。その時だけは、彼女の瞳にも涙が滲んでいた。

「お気になさらずに。これが仕事ですから」

 警官が微笑した時、男が首を掴む手に力を込めた。

 クキッ、と、警官の首が横に曲がった。眼球が裏返り、曲がった手足が一時的に突っ張るが、やがて全身の力が抜ける。

 男は警官の死体を床に放り捨てた。

「なあに、あんたを殺しゃあしねえよ。黒贄がちゃんと来ればな」

 男が言った。

 伊織は男を黙って見返していた。

 

 

  四

 

 リビングのテレビは相変わらずニュースを伝えていた。アナウンサーの読み上げる残虐な事件が妙に空々しく響く。男はテレビを消した。

 男は段ボール箱を開けて鉄の枷を取り出した。鎖つきで四個。新品だ。男は大曲伊織の両手首と両足首に枷を填めた。

 二本の柱の上と下に、そばの壁を素手で破って鎖を通した。程々の長さに調節して結びつける。

 伊織は大の字に近い格好で、リビングとキッチンの境に立つことになった。

「ええっと、時間は……今十時半か。なら十一時半になったら片方の足切るから。右足からでいいよね」

 男は段ボール箱から凶器を出した。木製の柄が四十センチ弱、柄から刃元は真っ直ぐ繋がっているが、半ばから先はエッジ側に大きく湾曲した刃。刃渡りは二十センチほどになるか。普通の鎌よりも刃は厚く、手入れしているようだが古い血があちこちにこびりついていた。

 登り鎌。男の愛用の凶器。

 更に取り出したのはガスマスクだった。両目が一繋がりになったゴーグル部にはヒビが入っている。空気がそこから通ってしまい本来の役目は果たせないだろうが、男がこのガスマスクに求める役目は違っている筈だ。

 男はリビングのローテーブルにどっかと腰を下ろし、ガスマスクを傍らに置いた。登り鎌は手に持って刃をゆっくりと撫でる。

 鎖に繋がれ立たされている伊織と男は向かい合わせになった。

「俺は西崎守だ」

 男がやっと自己紹介した。作業着はズタズタに破れ、無傷の肉体は凶暴に膨れ上がっている。質量共に人間離れした筋肉。

「意外と普通の名前だろ。そんなもんだ。最初は、普通な訳さ。大概はな」

「世界殺人鬼協会に登録したと言ったわね。殺人鬼の頂点を狙っているの」

 伊織が尋ねた。西崎は片頬を歪めて笑みを作る。

「いいや。俺が狙ってるのは殺人鬼王の座なんかじゃない」

「じゃあ、アルメイルの魔王の座。でもそれなら黒贄さんはもう魔王じゃないわ。八津崎市長に負けたから」

「知ってるさ。だが魔王の座なんてものにも興味はない。俺が狙ってるのは、黒贄礼太郎、そのものだ。市長に負けたからって、彼の価値は下がりはしない。そう。一欠片だって下がりはしないのさ」

 西崎の瞳はある種の歓喜に渦を巻いていた。それが次第に遠くを見るようなものに変わり、殺人鬼の顔をふと痛みの影が掠めた。

 西崎は、話し始めた。

「……俺は、六才だった。もう十五年も前のことさ。俺は小学校に上がったばかりで、いつも五時からガイコツ戦士の再放送を観るのが楽しみだった。根暗でな、あまり友達とは遊ばなかったな。姉もいたけど年が離れてた。もう高校行ってたな。受験勉強とか面倒臭そうだなと思ってたよ。……その日の晩飯はハンバーグで、俺は母さんの分も二きれ貰って腹一杯になって、父さんは映画を観始めてたけど俺はもう眠くなったから自分の部屋に戻って寝た。ちゃんと『お休みなさい』と言ってな。躾はそこそこうまく行ってたさ。……ククッ。寝入って幾らも経たないうちに、でかい悲鳴で起こされたのさ」

 伊織は何か思い当たった様子だが、口を挟むことはしなかった。

「恐る恐る覗いてみたら、俺の家族は皆死んでたよ。母さんも姉さんも顔がパックリ割れてたな。父さんは生首だった。……俺の家族を皆殺しにした男は、まだ闇の中に立っていた。ガスマスクを着けて、この登り鎌を持ってな。いや、こいつらは俺の自前だぜ」

 西崎は傍らのマスクと凶器を軽く叩いてみせた。そして彼は酔ったような目になって口を尖らせ、フルフルと微かに顔を震わせながら、奇妙な言葉を発した。

「ペントラポッタ」

 西崎はまた低く笑った。

「ククッ。意味はない。何処の国の言葉でもない。ただの、奇声さ。なんだか魔法の呪文みたいだろ。彼は、俺の前でその言葉を唱えた。きっと俺の家族を殺してる間も唱えてたんだろう。……彼は俺を殺さず、放ったらかしにして家を出ていった。だから俺は今、ここにいるって訳だ」

「十五年前と言ったわね。でもその時黒贄さんもまだ少年じゃないの」

 伊織が指摘すると、西崎は今度はハハハと高く笑った。

「黒贄がどれだけ長く生きてるか知らないんだな。不死身の年齢を外見で判断すんなってこった」

 伊織はすぐに納得したようだ。

「なら黒贄さんは何才なの」

「さあな。正確なとこは俺も知らんね。俺が興味があるのは彼の年じゃない」

 また沈黙。サイレンの音はもう聞こえない。遠くで聞こえた銃声はまた別のトラブルだろう。八津崎市では銃声も悲鳴も日常茶飯事だ。

 やがて、伊織が言った。

「黒贄さんを恨んでいるのは分かったわ。あの人は私を助けてくれたけど、数えきれない人を殺してきたことも確かだから。でも、あなたも警官を殺したわ。あなたの恨みとは無関係の人を。あなたもただの殺人鬼でしかない。同類になったあなたに、黒贄さんを非難する権利はあるの」

「俺は別に彼を恨んでいる訳じゃないぜ」

 西崎は平然と返した。この男が黒贄を『奴』でなく『彼』と呼んでいたことに伊織は気づいていただろうか。

「俺はな、魅せられちまったのさ。殺しというもんにな。長い時間をかけて積み上げられたものを、一瞬で吹き飛ばしてゼロにしちまうんだ。相手の都合も人生設計も大事な思い出も、お構いなしにな。ついでに遺族の人生もメチャクチャに出来るんだ。殺人は素晴らしい力だ。それを教えてくれた黒贄礼太郎は俺の師匠って訳さ。これは復讐なんて低俗なもんじゃない。立派な殺人鬼に成長した俺の、師匠へのご恩返しなのさ」

「殺されるわ」

 伊織は告げた。

「あなたがどんなに強くても、蝿や蚊みたいにあっけなく潰される」

 西崎は苦笑する。

「俺は虫けらじゃないぜ。殺人鬼を目指す強い意志があった。十五年間、そのためだけに全てを捧げてきたんだ。修行と実戦を限りなく繰り返した。そして俺は地獄坂を上って、人間を超えた。ヤクザの事務所とかで試運転もしたが上々さ」

 西崎は登り鎌を右手に持ち、人差し指だけでクルクルと回してみせた。指を掛ける部分もないのに見事なコントロールだ。演舞は更に加速して残像が複雑な模様を描いていく。

 と、西崎は空中で柄を握って止めた。足元に転がっていた警官の死体を左手で拾い上げた。一瞬後には五十個ほどのブツ切り肉となって床に落ちた。登り鎌で切ったのだろうが刃の動きは見えなかった。

「無駄だわ。やっぱり殺される。素早いとか力が強いとか、不死身だとか、そんなことはあの人の前では何の意味もないのよ。あなただって本当は分かっているんじゃないの」

 伊織の瞳はやはり冷めていた。

 彼女の指摘は正しかったのだろう。西崎は僅かほどの怒りも示さなかった。殺人鬼は登り鎌を置いて言った。

「さあね。もしかすると、そうかも知れないな。俺の目的は、黒贄を倒すことじゃないのかも知れん。……俺は、黒贄に理由を聞きたいのかも。どうして俺の家に上がり込んで家族を殺していったのか。どうして俺だけ見逃したのか。結局今でも謎のままさ。色々考えちまう訳だ。俺には殺すだけの価値がなかったのか。彼の良く言うところの、輝きが、足りなかったのか。ひょっとすると、俺がこうして成長して挑戦してくるのを待っていたとかね。ククッ」

「それも本当は分かってるのでしょう。理由は……」

「言うなっ」

 瞬時に西崎が伊織の目の前にいた。登り鎌の刃が首筋に触れている。先程までの余裕を失い西崎の目が血走っている。風圧を受けて伊織の髪が揺れた。見返す伊織の瞳に滲むのは、憐れみか。

「自分で言う」

 西崎守は低く押し殺すような声になっていた。

「理由は、特にない、だ。……俺の家族を殺したのも、俺を見逃したのも、理由なんてものは存在しないんだ。あの夜に俺はもう分かってたんだ。ガスマスクの奥の目を見たんだからな。黒贄礼太郎は人間じゃない。何ものでもない。あれは……ただの、虚無だ。虚無が服を着て現実の世界を歩いてる。俺は奇跡を目撃していたんだ」

「あなたは虚無を覗けていない」

 伊織は告げた。

「人間を超えようとしてどんなに足掻いても、虚無には届かないわ。その足掻くこと自体が人間である証だから。あなたは間違ってる。折角生き残ったのだから、もっとあなた自身の人生を有意義に過ごした方が良かったのに」

 ピクリ、と登り鎌が動いた。伊織の右首筋が少し切れ、血の玉が浮いてくる。伊織は僅かに顔をしかめただけで耐えた。

 と、登り鎌が遠ざかる。西崎はそのまま後退してローテーブルに尻を戻した。これまでと違い、何処となく頼りなげな動きだった。

「無理だな。あんなものを見ちまったんだ。普通の人生を生きろというのが無理な話だ。ククッ。地獄坂を上ったが、その代わりに寿命がなくなった。後二ヶ月もすれば俺はヨボヨボのジジイになると言われたよ。いいさ。人生色々だ。そんな人生もある」

「地獄坂というのは」

 伊織は尋ねたが答えは返ってこなかった。西崎はただ、瞳に狂気を渦巻かせて呟いた。もう伊織の存在など忘れてしまったかのように。

「今日死ぬのは分かってる。覚悟とか全くないな。俺は嬉しいんだ。あっけなく殺されることが分かってるのにな。……そうか。俺は殺されたいんだ。俺は殺されたかったんだ。精一杯抗いながら、圧倒的な力で虫けらのように叩き潰されたかったんだ。そうか。それが、俺が虚無に触れる唯一の」

 突然西崎は立ち上がった。目を細めて僅かに顔を俯かせる。

「……来た」

 西崎の声は震えていた。

 伊織も耳を澄ませるがまだ何も聞こえないようだ。

「来た。来たぞ。来た来た来た。来たーっ」

 西崎の声は次第に大きくなった。ガスマスクを手に取り、顔に装着する。薄汚れ、ヒビの入ったゴーグル。右手に登り鎌を握り、西崎はマスク越しの篭もった声であの言葉を唱えた。

「ペントラポッタ」

 必死で虚無に近づこうとする男を、大曲伊織は悲しげに見守っていた。

「ペントラポッタ。ペントラポッタ。ペントラポッタ。ペントラポッタ。ペントラポッタ」

 西崎守は壁を突き破って屋敷を飛び出した。伊織を放置したままで。風と化して西崎は住宅街を駆ける。

「ペントラポッタ。ペントラポッタ。ペントラポッタ。ペントラポッタ」

 前方から悲鳴が聞こえる。重い金属がアスファルトを転がる音。そして破壊音。

 ガスマスクの奥で西崎の瞳は歓喜に潤んでいた。

「ペントラポッタ。ペントラポッタ。ペントラポッタ。ペントラポッタ。ペントラ……」

「コッテンピッテン」

 ゴロゴロという硬い音に気の抜けた声が混じった。西崎の体がビクンと震えた。

 ビルの壁をぶち破ってセメントのローラーが出現した。幅二メートル直径一メートルの大型ローラーは既に血で赤く染まり、潰れた肉を幾つもへばりつかせている。肉絨毯の一つが「大将、いい加減に……」という弱々しい声を洩らした。ビルの内部には下半身を潰され泣いているサラリーマンが見えた。

「パッテントッテン」

 ローラーを後ろから押す黒贄礼太郎は礼服に幾つも血の花を咲かせていた。森川敬子が作った銃創は西崎と違いすぐに治ったりはしないが、黒贄にとっては何の意味も成さない。

「コッテンピッテン、パッテントッテン」

 黒贄は野球のキャッチャーマスクをかぶっていた。格子の奥で見開かれた瞳はあらゆる感情も思考も超越していた。対峙する者の心を凍りつかせる絶対零度の虚無。

 西崎は立ち止まりかけたが、黒贄が減速せずに進んでくるのを見て自身も加速した。力んだ足がアスファルトを凹ませる。二人の背丈は同程度だが筋肉の量は西崎が上だ。

「コッテンピッテン、パッテントッテン、コッテンピッテン」

 ローラーを両手で押して赤い道を作りながら、キャッチャーマスクの黒贄礼太郎が駆ける。

「ペントラポッタ。ペントラポッタ。ペントラポッタ」

 因縁の登り鎌を振り上げて、ガスマスクの西崎守が突進する。

 西崎の瞳に狂喜が光る。同時に甘い苦痛と後悔が掠める。続いて憎悪が。そして愛情さえも。様々な感情が西崎の瞳に集まって輝きを増し、透明な液体が溢れ始める。

「パッテントッテンコッテンピッテンパッテントッテンコッテンピッテン」

「ペントラポッタ、ペントラポッタ、ペントラポッタペントラポッタペントラポッタアアアアア」

 気の抜けた黒贄の声と違い、西崎の奇声は怒号に近づいていた。驚異の加速により時速百キロを優に超えた二人の殺人鬼は真正面からぶつかり合っていく。

 勝敗は、一秒で決した。

 

 

  五

 

 西崎守の奇声は大曲伊織の耳にも届いていたが、それが一際大きくなって急に途絶えた。

「終わったみたいだな」

 いつの間にか到着していた大曲源が背後から妻に声をかけた。

「……そうね」

 伊織の声は暗かった。大曲源は右手人差し指を伸ばし、燃料の値上げのため一秒三千二百円となった熱線で四本の鎖を切断した。伊織は解放されたが、夫婦で抱き合って泣いたりはしない。

「悩んでるのか」

 大曲源が尋ねた。伊織は頷く。

「考えてたの。分かってたことだけど。私は助けられた恩もあるし、黒贄さんのことは嫌いじゃないわ。でも黒贄さんに人生を踏みにじられた人も大勢いる訳で。でもそんな犠牲者がまた別の人を殺したりもして。一体何が正しいんだろうって」

「普遍的な正しさなんてものはない。全ての人が幸せになるなんてのも無理な話だ」

 夫はあっさり答えるが、妻に対する声音には僅かに気遣いもあった。

「好きな方に味方する。それだけさ」

「……。そうかもね」

 伊織は振り向いて少し寂しげに微笑んだ。そして夫の足元を見た。

「おっ、悪い」

 大曲源は慌てて靴を脱いだ。

 

 

 ゴロゴロという硬い音が遠ざかっていく。薄い血の道を残しながら。

 もう一つ、残されたものがあった。

 超高速で繰り返しプレスされ一反木綿状になった、西崎守の肉体。全ての骨が粉砕され内臓も脳も潰され、少しずつ周囲に血が滲み出している。

 登り鎌もガスマスクも粉々になり、肉と混じり合っていた。眼球がどれかも分からない。

 再生力の限界を超えたのだろう。強化された筋繊維がビチビチと淡い音を立てて切れる。細胞が崩壊して少しずつ溶けていく。

 潰れて伸び歪んだ西崎の唇は、それでも笑みを浮かべているようであった。

 

 

  エピローグ

 

 裏通りにある四階建てのビルは太いロープで幾重にも巻きつけられていた。壁に縦に走る亀裂は屋上を越えて向こう側の壁まで続いている。いや、道路まで切れていた。もしかするとロープの固定なしではビルは二つに割れてしまうかも知れない。

 ビルのそれぞれの階から看板が通りへ突き出していた。ただし、三階部分の看板はねじり取られたような断端が残るだけだ。

 三階にあったアルメイル狩場出張所は移転していた。世界間を繋ぐゲートも、窓際に並んでいた植木鉢も持ち去られてガランとしている。

 四階にある入り口ドアには、『黒贄礼太郎探偵事務所』という札がある。その上方にマジックインキで書かれた『アルメイル魔王』という言葉には小さく『元』という字が割り込ませてあった。

 ビルの横に広がる野菜畑では、スライミー藤橋が「全部俺のもんだーっ」と踊り狂いながら水を撒いていた。

 八津崎市の中心地には警察署やエベレストタワーの残骸などと共に市役所がある。一度完全に倒壊して建て直されたが口の字型の構造は同じだ。

 市役所の中庭は全て畑になっていた。『アル×イル狩場出帳所 野菜で兵士かします』という立て札があり、異形の男達が嬉しそうに野菜の世話をしている。中庭から建物内へ続く扉のうち一つは両開きで妙に古めかしいものだ。その扉だけが、実際には別の空間に通じていた。

 畑の中心に一辺五メートルほどの鋼鉄の箱が配置されていた。市役所の玄関を向いた正面は一度四角に切り開かれた後でかなり念入りに溶接された痕跡がある。『開封厳禁』というステッカーが何ヶ所にも貼ってあった。

 その面の真ん中に一ヶ所だけ、箱の内部に通じる横長の穴があった。市役所の職員が歩み寄り、恐る恐る書類の束を差し入れるとすぐに飛び出て戻ってくる。それぞれに必ず『受理』か『不受理』の印鑑が押されて。

 穴の上には『市長室』という札があった。

 その横に新しく『アルメイル魔王』という札があった。

 大きなルビーの嵌まった魔王の王冠は、鋼鉄の箱の屋根に載せてあった。変形した側面に『受理』の印が残っていた。

 

 

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