第三話 私立死体学園

 

  プロローグ

 

 殺人鬼探偵黒贄礼太郎は腕組みした隙間に長い槍を通して立て、天井のものを眺めていた。

「ふうむ、これはまた……」

 高級ホテルの二十八階にあるVIP用スイート。豪華な装飾が施された天井のど真ん中に、服を着た肉塊がめり込んでいた。胴は異様なねじれ方で、高級スーツと汚れたコートは不調和だ。スーツの腕が二本、コートの腕が一本。一緒くたになっているがどうやら死体は二人分らしい。下にあるテーブルは飲みかけのワインとグラスごと粘っこい血に塗れている。

 黒贄は視線を天井から壁へ移す。そこには潰れかけた生首が一つとコートの腕が一本突き刺さっている。断面は刃物によるものではなく引きちぎれたような粗雑なものだ。

 黒贄は床に目を落とす。ちぎれた足と別の生首。即死だったのだろうか、ぼんやり口を半開きにした顔は断末魔とは遠い。

「この片方が、ホテルのお客さんという訳ですな」

 黒贄が聞いた。初老の支配人が黒贄の槍を気にしながら答える。

「はい。その、床に頭が落ちておられる方が伏見様です。この部屋をお気に召してしばしば宿泊なさり、このたびは三泊なさるご予定でした」

「すると、こちらの方は」

 黒贄が腕組みしたまま壁の生首を指差す。

「はあ、それが全く存じ上げないのです。当ホテルの宿泊客ではありませんし、フロントやロビー、各階の廊下に設けております監視カメラにも映っていませんでした」

「ははあ、なるほど」

 何がなるほどなのか良く分からないが、黒贄は再び室内を見回した。所々に飛散した肉片と血痕。開いた窓から涼しい風が流れ込んでくる。

「昨夜午後十一時頃に近くの部屋のお客様が轟音を聞いておられます。それで私共はお客様方の安全を確認すべくそれぞれのお部屋を伺ったところ、このような有り様でして。こんな奇怪な事件が評判になりましたら当ホテルの信用にも関わりますので、出来れば警察を通さず内密に解決したいのです」

「分かりますよその気持ち。というか分かるような気がします。いやあ、実のところ分かるよう分からないような。まあ、つまり、さっぱり分かりませんな」

 適当に返事しながら黒贄の視線は天井の肉塊に凝着していた。薄い唇が面白そうに歪められ、槍を両手で握って穂先を向けようとする。慌てて支配人が止めた。

「ちょ、ちょっとお待ち下さい。何をなさるんですか」

「いえ、取り敢えず刺してみようかと思いまして。大丈夫ですよ、死体がこれ以上死ぬということはありませんからね」

「ま、まあそれはそうですけれど……」

「ほりゃ」

 支配人の台詞を最後まで聞かず、黒贄が槍を天井の肉塊に突き刺した。石突きを掌で押し上げて、死体をあっさり貫いた槍はそのまま柄の半ばほどまで通ってしまう。同時に「ぐええっ」と誰かの悲鳴が聞こえてすぐ静かになった。

 二人は互いの顔を見合わせた。

 黒贄が気まずそうに言った。

「ええっと、死体は死にませんでしたが、上の階のどなたかが亡くなられたみたいです」

 

 

  一

 

 活気に満ちた校庭も黄昏の訪れと共に静かになり、部活動に汗を流した生徒達が下校していく。職員室を含め幾つかの部屋は明かりが点いていたが、それも午後七時に近づくにつれポツポツと減っていった。

 三階の美術室では三人の女子部員が静物のデッサンを続けていた。小さなテーブルに載った本物の林檎と蜜柑。そして何故かカロリーメイトチョコレート味の箱が立ててあった。

 暫く黙々と描いていた三人だが、ふと思い出したように手を止めて眼鏡の女生徒が言った。

「そういえば、うちの学校にも七不思議ってあるよね」

「そうだっけ。ミンチトイレなら聞いたことあるけど。それから飛び降りの話かな」

 応じたのは茶髪で耳に小さなピアスを入れた女生徒だ。

 もう一人、長髪の女生徒は僅かに顔をしかめたが、黙ってスケッチブックに鉛筆を当てている。

「飛び降りってのは毎晩屋上から影が落ちてドサッと音がするって奴ね。調べても誰もいないっていう。それ以外にも五つあるの」

 眼鏡の生徒はニヤつきながら仲間の反応を窺っていた。茶髪にピアスの生徒が思案顔になる。

「五つねえ。夜中にピアノが鳴ったりとか、理科室の骸骨が動いたりとか」

「残念。それはまとめて一つ。骸骨がピアノ弾いてるんだって」

「アハハッ、何それ。で、残り四つは」

 茶髪ピアスが笑う。

「階段の話。上ってる途中で振り向いたら友達の姿が消えてたって。寸前までお喋りしてたのによ。それっきりその子、行方不明だって」

「ふうん。知らないなあ。でも階段の怪談ってウケるんじゃない。ハハッ」

「それからカマイタチ。これは本当にあるみたいよ。廊下とかグラウンドとか歩いてて、いつの間にか足が切れてたって。パックリ肉が割れて骨まで見えてるのにあんまり痛くないってね」

「カマイタチって真空がどうとかって話よね。池上さんが怪我で陸上部辞めたのってもしかしてそれ」

「いやそれは知らないけどね」

 眼鏡は苦笑する。

「後二つはね……そう、首吊り教室。この階の端の教室、今は使ってないよね。あそこで三年前、生徒が首吊ったの知ってる」

「うーん。噂くらいは。女子だったんでしょ。遺書はなかったって」

「そう。でもね、その二年前にも誰か首吊ってるらしいんだよね。私が聞いた話だと、なんかこの二十年くらいで五人はあの教室で首吊ってるって。祟りかなんかあるんじゃないのかなってね」

「いい加減にしてよ。集中出来ないじゃない」

 長髪の生徒が苛立たしげに口を開いた。彼女のデッサンはかなり歪んでしまっている。

「あ、ごめんごめん。でも後一つだから。夜中に廊下の天井を這ってる……」

「もう帰るっ」

 長髪の生徒はスケッチブックを畳んで立ち上がった。

「ははあん、サクラ、怖いんだあ。サクラって意外に怖がり。夏の合宿休んだのも肝試しが嫌だったんじゃないの」

 茶髪ピアスが意地悪く言う。サクラと呼ばれた長髪はキッとなって睨み返し、何か言いかけたところで眉をひそめた。

「ちょっと。今、ピアノの音聞こえなかった」

 尋ねた長髪を他の二人が笑う。

「やっぱりサクラ怖がりじゃん」

「まだ音楽部は練習やってるんじゃないの」

「でもいつもこの時間には音楽部、とっくに帰ってるよ」

 三人は壁の時計を見上げる。午後七時十五分。

「帰ろっか。これ以上残ってたら怒られるし」

 茶髪ピアスが言った。皆で帰り支度を始めるが、眼鏡が悪戯っぽく片手を上げる。

「ごめん、ちょっとトイレ行ってくる」

「もう。あんまり長かったら先に帰るわよ」

 長髪が頬を膨らませた。小走りに戸口に向かう眼鏡の背に茶髪ピアスが声をかけた。

「ミンチトイレに気をつけてよ」

 眼鏡が振り返り、舌を出し中指を立ててみせた。

 学生鞄を片手に長髪は耳を澄ませていた。茶髪ピアスはテーブルのカロリーメイトを開封した。食べながらのんびり尋ねる。

「どう、まだピアノの音聞こえる。私は聞こえないけど」

「うーん。聞こえないみたい。朱美がバリバリ食べてうるさいせいかも」

「あ、今誰か落ちた」

 茶髪が窓を指差した。長髪がハッとして振り返る。外は既に闇が落ち、二人の女生徒の怯えた顔が映っているだけだ。

 と、茶髪ピアスの顔が笑みに変わった。

「へへー、どう、怖かったでしょ」

「もう。嘘だったのね」

 長髪が鞄を振り上げ、茶髪ピアスはカロリーメイトを咥えたまま降参ポーズをする。

 ドズン、と重い音が階下から聞こえ、二人の動きを止めた。

「……な、何」

 長髪の顔が強張った。

「さあ。誰か転んだんじゃない」

 冗談っぽく言うが茶髪ピアスの笑みも消えている。噛みちぎられたカロリーメイトが床に落ちた。茶髪ピアスは窓を開けて校舎の外を見下ろした。

「何もなさそうだけど」

 茶髪ピアスは窓を閉めた。

 少し気まずい沈黙が続いた。やがて長髪が言う。

「ノッコ、遅いね」

 その時ベジョッ、という不気味な音が美術室に届いた。湿ったものがまとめて落ちるような音。今度は下からではなく、同じ階だった。

「ト……トイレの、方かな」

 茶髪ピアスの声は震えていた。長髪が頷く。どちらも目を一杯に見開いて瞬きを忘れていた。

「ちょっと、見てこよう、か。ノッコも、心配だしね、ちょっと」

 長髪はまた頷いた。声が出せないのかも知れない。二人は並んで美術室から廊下へと出た。既に明かりは消え、非常口の案内灯が廊下を薄く照らす。右手にトイレはあった。

 女子トイレの入り口から何かが溢れ出していた。ただの水ではない、ドロリと粘質なもの。下水から逆流した糞尿ではなく赤い色をしていた。

 血みどろの、細切れになった肉片。混じる四角の布はセーラー服の切れ端か。キラリと光るのは眼鏡のレンズだった。フレームが途中で切れて片方しかない。

 長髪の女生徒はヒュク、ヒュクと何度も細く息を吸うばかりで悲鳴は出てこなかった。

「ゲヒュ」

 隣の茶髪ピアスが異様な声を上げた。長髪がそちらを見るが姿がない。何かを引き摺る音が後方へ続いていく。長髪はぎこちなく振り返った。

 茶髪ピアスが引き摺られていた。右手で首筋の何かを掴んでいる。白いロープだった。首に深く食い込んで、彼女の眼球は飛び出しそうになっている。そんな時でも左手が鞄を持っているのが不思議だった。バタつく足が宙に浮き始めている。暗いため、何がロープを引っ張っているのか見えない。

 廊下の向こう端で茶髪ピアスの影が停止した。完全に浮いた両足が力なく伸び、学生鞄が手から落ちる。

 ブラーン、ブラーン、と、影が揺れるそこは、二十年で五人が首を吊ったと言われる開かずの教室の前だった。

 不意にその影が消えた。教室に呑み込まれたように。

 長髪の女生徒は叫ぶことも、その場から動くことも出来ずにただ細い呼吸を続けていた。全身が派手に震え出し、今にも崩れ落ちそうだ。

 茶髪ピアスが消えた天井を何かが動いた。長髪は血走った目を凝らす。何かが天井を這っている。長髪の方へ近づいてくる。カリカリと硬い音が微かに聞こえた。大きく不恰好な影。人間よりも大きい。

 長髪の女生徒はやはり動けなかった。その傍らを、天井から跳躍した影が通り過ぎた。金属の光沢が掠めた。ドン、と重い音がして影は床を跳ね再び天井の闇へ消えた。

 彼女の目から涙が溢れ、頬を伝う。それが横に流れ、更にはUターンを始めた。

 女生徒の首が逆さに転がり落ちたのだった。なめらかな断面から血が流れ出す。首よりも先に着地したのは鞄だった。持ち手を離さぬ右前腕もついてきた。

 上半身が落ちた。腰部分で切断されており、落下の衝撃で左前腕も外れた。

 広がり始めた血溜まりに、両太股と腰も落ちて小さな赤い飛沫を上げた。

 

 

  二

 

 サラリーマンや学生が行き交う朝の通りを二人の奇妙な男が歩いている。太った男と長身の男。人々は胡散臭げに目を留めるが、厄介事に関わらぬが吉とばかりにすぐ足を速めて離れていく。

 ふんぞり返って後ろを歩くのは百七十センチの身長に体重百二十キロくらいはありそうな男だった。日本晴れなのに雨合羽を着て長靴を履いている。歩くたびに弛んだ腹がポヨポヨと揺れる。髭はなく少し疎らな髪は見事に逆立っている。大きな丸い目が自分以外の全てを見下すように辺りを睥睨する。

 前を歩く男は身長二メートル弱、よれよれの略礼服に薄汚れたスニーカーという格好だ。ネクタイはしておらずワイシャツは襟のボタンを外している。左右非対称の適当な髪は自分で切っているのだろう。彫りの深い顔立ちと色白の肌は西洋人と間違えられそうだ。切れ長の目はやや眠たげで、薄い唇は何かを面白がってでもいるような微笑を湛えている。

 礼服の男は右手に削岩機を持っていた。左手には地図を開いているが眉をひそめる様子からはどうも道に迷ったらしい。

 通りかかった学生服の少年に礼服の男は声をかけた。

「あのーすみませんが、正大高校はどちらの方向かご存知ですかな」

 少年は面倒臭そうに振り返り、礼服の男の持つ削岩機に気づいた。無言のまま足を速め去っていく。

「ちょっと待って下さい。正大高校は……」

 礼服の男が少年に追いつこうとする。

「うわああああ、助けてええっ」

 少年が叫びながら走り出した。

「おや、どうしたんですか。私は正大高校の場所を聞いてるんですよ」

 礼服の男も少年を追って走る。削岩機が揺れ、人々は一斉に道を空ける。

「助けて、助けて誰かあああ」

「私は道を聞いてるだけなんです。教えて下さい。別に何もしませんから」

 削岩機のスイッチが入り硬いエンジン音が響き始めた。少年は泣きながら逃げていく。礼服の男は口の両端を吊り上げて異様な笑顔になっていた。雨合羽の太った男もドタドタと後を追うが次第に離されていく。

「おっ、ここですな」

 三分後、礼服の男は私立正大高校の正門に辿り着いた。エンジンを切った削岩機の先端は赤い液体で染まっていた。

 漸く追いついた雨合羽の男と一緒に門を抜け、校舎へと向かう。削岩機を持ったにこやかな男と威張り腐ってのし歩く男。登校中の学生達は二人から慌てて離れる。男子は詰襟、女子はセーラー服だった。やがて刺股を持った男性教師達が駆けつけてきた。

「うちの学校に何の用だっ」

 体育教師らしい屈強な男が怒鳴る。雨合羽の男は途端にその場にしゃがみ込みブルブル震え出したが、礼服の男が穏やかに答えた。

「理事長先生に呼ばれまして。黒贄礼太郎と申します」

「ああ、あなたが」

 スーツを着た三十代後半くらいの教師が頷いた。

「理事長から話は聞いております。どうぞこちらです」

 スーツの教師が先導して黒贄達を案内する。雨合羽の威勢もあっさり回復していた。他の教師達も黙って戻っていくが視線は削岩機の鮮血に集中している。

「私は数学の教師で頼澤と申します。荒っぽいお出迎えになって申し訳ありません。最近うちの学校では不気味な事件が続いていまして」

 スーツの教師・頼澤が言う。痩身の、知的だが神経質そうにも見える男だ。整髪料で固めた髪が光っている。

「そのようですね。生徒の皆さんも何かに怯えておられるようで」

 怯えの対象が自分であることに黒贄は気づいていないようだ。

 来客用のスリッパに履き替えて廊下を進む。雨合羽の男は靴下を履いておらず、足の指は互いに融合していた。

 一階の職員室の向こうに校長室があり、その隣に理事長室のドアがあった。頼澤がノックしてドア越しに来客を伝える。

「それでは、よろしくお願いします」

 ドアを開けて黒贄達に一礼し、頼澤は歩き去った。

「どうぞお入り下さい」

 理事長が迎えた。

「失礼します」

 黒贄が挨拶しながら先に入り、雨合羽の男は「おう」と横柄に一言だけでソファーにどっかと腰を下ろした。

 ローテーブルを挟んで向かいのソファーに座る理事長は六十代の小柄な男だった。柔和で人当たりの良さそうな顔だが、今は憔悴しているようで目の下に隈が浮いている。

「初めまして、私立正大学園理事長の小梅です。わざわざお越し頂き申し訳ありません。……それで、黒贄礼太郎さんはあなたでいらっしゃる……」

 理事長は取り敢えず、足組みしてふんぞり返っている方に問うた。礼儀正しい本物が答える。

「いえ、黒贄礼太郎は私です。こちらは助手のスライミー藤橋さんです」

「は、はあ、これは失礼しました。改めてよろしくお願いします。依頼の内容は電話で簡単にお伝えしましたが、改めて経緯を説明します」

「それはありがたいですな。忘れっぽいもので、こちらに辿り着くだけで精一杯でしたから」

 黒贄が頷く。理事長は咳払いをしてから、重い口調で話し始めた。

「発端は三ヶ月前の脅迫文です。私宛てに届いた差出人不明の封書で、我が校を廃校にしろ、さもないと死人が出る、という内容でした。ひとまずは悪戯だろうと放置していましたが、一週間後に同じ文面でもう一度届き、念のため警察にも相談しました。ただ、何か事件が起きてから連絡しろ、ということで」

「まあ、警察もなかなか忙しいですからね」

 黒贄が頭を掻く。

「ええ。ここは八津崎市ですから事情は分かっているつもりです。結果として、実際の異変は二ヶ月前に起こりました。男子生徒が一人、校内で行方不明になったのです」

 先程の頼澤教師が盆を持って入ってきた。二人の客と理事長に紅茶とクッキーを出していく。藤橋が「野菜はないのか」と言いながらも早速クッキーを丸呑みした。

 頼澤が出ていった後で、黒贄もバリボリと食べながら尋ねた。

「行方不明と仰いましたが、自身で学校を出ていったということはありませんか」

「可能性がないこともありません。ただ、体育の授業が終わって体操着のまま教室に戻る途中のことだったのです。制服も鞄もそのまま残っていますし、生徒の生活状況からも急に失踪するようなことは考えにくいのです」

「ふむ」

 黒贄は顎を撫でながら口の中からはクッキーを砕く音を響かせていた。

「結局生徒は戻ってこず、家族が捜索願も出しましたが進展はありません。その次の週にも女子生徒が一人消えました。こちらも見つかっておらず何の手掛かりもありません。そして先月、決定的な事件が起こったのです。……あ、私のもどうぞ」

 黒贄はクッキーをあっさり食べてしまい、物欲しそうな視線に気づいて理事長が自分のものを勧めた。

「これは申し訳ない」

 黒贄が早速手を出して全部頬張ってしまう。野菜でないためか藤橋も文句は言わなかった。

 理事長は説明を続けた。

「遅くまで残っていた美術部の女子生徒が三人殺されたのです。一人は物置として使っていた空き教室で首を吊った姿で見つかり、もう一人は廊下で首と胴と手足を切断されていました。鋭利な刃物によるものですが凶器は見つかっていません。最後の一人は、女子トイレで賽の目状に細切れにされ、千個以上の肉片に分解されていました。どうやったらそんな殺し方が出来るのか、私には想像も出来ません」

 お茶を一気飲みしてクッキーを全て流し込み、黒贄が言った。

「ふうむ。細切れですか。人体用の巨大ミキサーを使うという手もありますよ。私も一度流動食にされかけました。ただ、ミキサーでは綺麗な賽の目状に切ることは困難です。また、超絶的な剣技の持ち主でも人体を千個以上に分解という話は聞いたことがありませんな。横たわった死体を切り刻んでいくなら別ですが。切断面の連なり具合などはどうでしたか」

 妙に生々しい言及に理事長は吐き気を催したか口元を押さえた。深呼吸してから答える。

「残念ながら、警察からあまり詳しいことは聞いておりませんので……」

「そうですか。まあ、特殊な道具を使ったのかも知れませんな。ちなみに、三人殺された、と仰いましたが、首を吊った一人が犯人だったという可能性はありませんかな」

「可能性は非常に低いとのことでした。首のロープを外そうと抗った痕跡があり、また、両足が廊下を引き摺られた跡も残っていたそうで。犯人は結局分からぬままです。そうしているうちにまた生徒が校内で姿を消し、行方不明者は十二名となりました。また、同じ空き教室で首を吊った生徒も新たに二人……一人は日中、授業をサボッていた生徒ですが、やはり遺書もなく自殺とは考えられません。そして、四日前、朝の課外授業のため登校した生徒が六人、教室に向かう途中の廊下で首や胴体を切られて殺されました。階段にいて被害を免れた生徒が、重いものが落ちるような音を聞いています。しかし手掛かりは得られず犯人は捕まらないままです。……脅迫文を送ってきたのが一連の事件の犯人と同一人物かどうかは分かりません。我が校を恨む犯人の心当たりもありません。ただ、学校というのはまだ社会に慣れぬ若い命がぶつかり合う場所です。私達が気づかぬうちに深い恨みを買うようなこともあるのかも知れません。こんなことを考えたくはないのですが、状況から犯人は学校内部の者ではないかと。何にせよ、怯えて休学や退学をする生徒も出始めていますし、このままでは本当に廃校となってしまう恐れがあるのです」

 理事長は深い溜め息をついた。スライミー藤橋は腕組みのまま居眠りをしている。

 黒贄が尋ねた。

「つまりご依頼は、犯人を捜し出して捕まえるということですね」

「そうです。これ以上生徒を動揺させたくありませんから、黒贄さんには臨時雇いの教師という名目で校内に留まり、内密に調査して頂きたいのです」

 黒贄が両眉を上げて軽い驚きを示した。

「ほほう、教師ですか。私は勉強が苦手な方でして……。解剖学くらいならなんとか教えられそうですが」

「大丈夫です。日本史の教師が事件のショックで入院中でして、その代わりを務めて頂こうと思っています。我が校のレベルは正直なところあまり高くありませんので、教科書の内容を読み上げたり生徒に読ませたりするだけでもなんとかなると思います。犯人を捕まえるまでの間、そういう形で来て頂けませんか。報酬は一日につき五万円、解決すれば二十万円をお支払いします」

「ふうむ。ということは解決を長引かせれば報酬が増え……いやいや真面目にやりますとも。お引き受けしましょう」

「ありがとうございます。ただ、申し訳ないのですが、学校にそのようなものを持ち込むのは遠慮して頂きたいのですが」

 理事長は深々と頭を下げた後で言いにくそうに黒贄の足元の削岩機を指差した。

「ありゃ、そうですか……。電話口で選んで頂いた四十七番ですが、教師には相応しくないということですな。まあ、仕方がありません」

 黒贄は心底残念そうだった。寝ていた藤橋が大欠伸して目を開ける。

「話終わったか。なら俺帰るわ。野菜の世話があるからよ」

「それならこれを持って帰ってもらえますか」

 黒贄が削岩機を渡そうとすると藤橋はあっさり首を振った。

「俺そんな重いの持てねえよ。ほんじゃ」

 スライミー藤橋は立ち上がり、巨体を揺すりながら部屋を去った。理事長が黒贄に聞いた。

「あの……助手、ということでしたけれど、あの方は何のためにいらしてたんですか」

 黒贄は目を瞬かせた。

「さ、さあ、私にも分かりません」

 

 

  三

 

 授業は午後から担当することとなり、午前中をかけて黒贄礼太郎は校内を一通り案内された。削岩機はひとまずロッカーに納めてある。休み時間で廊下を移動中の生徒に挨拶されると、理事長は「こちらは新任の黒贄先生です」と紹介する。黒贄もにこやかに挨拶を返すが、登校時に削岩機を目にしていて逃げ出す生徒もいた。

 丁度使われていなかった三階の美術室を簡単に見回し、それから理事長が鍵束を出して三人が首を吊った空き教室に入る。いや、首を吊られたと表現すべきか。

「三年前に女子生徒が首吊り自殺して以来、この教室は使わずにずっと施錠しています。ですが首吊りの死者が出る時は必ず、これ見よがしにドアが開け放してあるのです。鍵をこじ開けた様子はないのですが」

 理事長が説明する間、黒贄は天井を見上げていた。眠たげだった瞳がある種の喜悦に光っている。

「確かに自殺ではなさそうですな」

 黒贄は言った。

「何かお気づきの点でもありましたか」

 理事長が尋ねると黒贄は天井を指差し、出入り口の近くから中央まで示してみせた。

「百ヶ所以上に小さな穴が開いています。釘ほどの太さですが意外に深いようですよ。廊下の天井にも無数に残っています」

 理事長は目を凝らすが、天井には元々微妙な凹凸があり識別出来ないようだ。

「ははあ、そうなんですか。で、その穴はどういうことなんでしょうか」

「いやあ、分かりません」

 黒贄はニッコリ笑ってみせた。

 細切れ肉が廊下まで溢れていたという女子トイレも今は立ち入り禁止になっている。

「警察の調べでも特に怪しいものはなかったそうで」

 手前の廊下から、まだうっすらと赤い染みの残るタイル地の床を観察し、ドア枠周囲を見渡して黒贄は尋ねた。

「ここには何か据えつけていましたか」

 ドア枠の右横と上部に、ネジ穴が幾つか残っている。理事長は首をひねった。

「さあ……。特に何もなかったと思いますが」

「ふむ。まあ、いいでしょう。仕掛けなどは正直どうでもいいのですよ」

 探偵にあるまじきことを言って黒贄は女子トイレを出る。上ってきたのと反対側の階段を下りる途中で黒贄が立ち止まった。

「どうなさいました」

「この踊り場ですが、僅かに動きますよ」

「えっ」

 黒贄がしゃがんで指先で床に触れた。

「ふうむ。今は固定されていますが、落とし穴になっているようですね」

 一辺一メートル半ほどの四角を指でなぞってみせる。

「え、でも、この下はまた階段ですが」

「まあ見てみましょう」

 黒贄は二階に下りて一階への階段に回り、また踊り場で足を止めた。

「同じ位置に落とし穴がありますな。この下はどうなってます」

「物置です。ただ、年に一度くらいしか開けることはありませんが」

「馴染みの匂いがしますな。血と腐った肉の匂いです」

 黒贄が鼻をヒクつかせて理事長を青ざめさせた。黒贄が先に一階へ下り、理事長はギクシャクとロボットのような動きで後を追う。

 一階と二階を繋ぐ階段の、下の空間は壁で閉じられて部屋になっている。いびつな形となるため物置として使われることの多い場所だ。理事長が震える手で鍵を選び、ドアの鍵穴へ差し込む。

「あれっ。開きません。この鍵で合っている筈なのですが」

 そう言う理事長は逆にホッとしているように見える。

「犯人が鍵を替えたのかも知れませんね。ちょっといいですかな」

 黒贄が理事長を脇へやってドアノブを掴んだ。回さず軽く引っ張っただけでメギョッとドアが変形して開いた。闇の奥から濃厚な臭気が溢れ出して理事長がむせる。

「ふむ」

 黒贄が手前にある電灯のスイッチを入れた。内部の様子が光の下に、晒された。

「ぐえっ。む、ううう……」

 理事長が喉元に上がってきたものを必死に留めようとする。黒贄の瞳孔が開き、微笑が深くなった。

 物置の床、落とし穴の真下となる位置に百本近い鉄の串が立ててあった。何割かの先端には乾いた血がこびりついている。

 串の根元には串刺しになった腐乱死体が溜まっていた。学生服や体操着は血と腐液で汚れている。暫くは生きていたのだろうか、血塗れの手で床を掻いたような跡も残っていた。彼らは腐乱した先客を見て何を思ったことだろう。

 指差して死体を数え、黒贄が言った。

「ちゃんと十二体ありますな。行方不明者は全員見つかりましたよ」

 とうとう理事長は這いつくばって吐き始めた。幸い授業時間中であったため廊下を通る者はいなかった。

「壁の内側に防音材が貼ってありますね。抜かりのないことです。落とし穴の開く機構は遠隔操作のようですな。上の踊り場から落とす場合は二ヶ所の蓋が同時に落ちるように連動させているのでしょう。落とすタイミングを計るためには階段を監視していないといけませんが、隠しカメラがあるのかも知れませんね。まあ、私にはどうでもいいことですが」

「け、警察に……」

 吐き終えた口元をハンカチで押さえて理事長が呻く。

「通報は後でいいんじゃないですかね。犯人を捕まえてからの方が警察の手間も省けるでしょうし」

 黒贄はのんびり言って、変形したドアを力ずくで閉め戻した。四時限目の終了を告げるチャイムが鳴る。

「おや、昼休みですな。如何でしょう理事長先生、一緒にお昼ご飯でも。先生の奢りで」

「い、いや、ちょっと私は食欲がなくて……。お一人でどうぞ。これはお食事代です」

 理事長が財布から一万円札を差し出すと、黒贄は押し頂かんばかりの低姿勢で受け取った。

「ははあ、これはありがとうございます。やっぱり腹が減っては戦は出来ぬといいますからね」

 校内の食堂に行った黒贄は販売機に一万円札を入れて三十二枚の食券を購入した。釣りは三十円だった。定食から肉うどん月見そばカツカレー牛丼天丼親子丼スパゲッティーピラフその他諸々まで、テーブルに並べて凄い勢いで食べていく。他の生徒は引き気味にそれを見守っていた。「あの変な人は誰ですか」と教師に尋ねる者もいた。

 三十二種の半分が空になった頃、テーブルの向かいにスーツの男が座った。本人の食事は生姜焼きの定食Aだ。

「如何ですか、この学校は」

 穏やかに尋ねたのは頼澤教師だった。黒贄はちらりと目だけ上げて見るが、箸を持つ手は止まらない。

「いやあモグモグ、なかなかいいんじゃないですかモグモグ、美味しいですよ」

「……。午後の二つの枠に先生の授業が入ってますよ。私は今日の午後は空いてますし、分からないことがあったら遠慮なく聞いて下さいね」

「はあモグモグありがとうございますチュルチュル、一日中でもこうして食べていたいですねズズーッ」

 頼澤はもう何も言わなかった。神経質そうな線の細い微笑を浮かべ、自分の定食を食べ始めた。

 彼が食べ終わる前に、黒贄は全ての料理を食べ終えていた。積み重ねた皿と丼を抱えて立ち上がり、黒贄は頼澤に言った。

「毎日でもここで働きたいところですが、いやあ、残念です」

 頼澤の細い眉がヒクリと動いたが、彼は何も言わず会釈した。

 

 

  四

 

 学年主任の田辺に連れられて黒贄礼太郎は二階の教室へ向かう。

「最近の生徒は授業中に平気でお喋りしたり携帯を使ったりするのが多くて。教室が騒がしくてびっくりなさるかも知れませんよ」

 田辺教師は嘆かわしげに前置きする。黒贄は微笑して首を振った。

「いえいえ、大丈夫ですよ。騒ぎには慣れてますから」

 二年二組の教室に着いたところで丁度五時限目開始のチャイムが鳴った。まだざわついているところに田辺が入り、続いて黒贄が颯爽と入ろうとして上のドア枠に額をぶつけてしまった。生徒達の笑い声に黒贄も苦笑する。額にすり傷が出来たがドア枠も大きく歪んでいた。ドアは二度と閉められないかも知れない。

 号令係の声に従って生徒達がやる気なさそうに立ち上がり礼をする。田辺が生徒達に言った。

「今日から臨時で日本史を受け持って下さる黒贄先生だ。色々不幸なことが重なって大変な時期だが、しっかり勉強するように」

「黒贄礼太郎です。よろしくお願いします」

 黒贄は丁寧に頭を下げた。礼服を着た臨時教師に生徒達は小声で何やら囁き合っている。

「では」

 田上は黒贄に会釈して出ていった。黒贄は早速白いチョークを手に取り、黒板に大きく自分の名を横書きした。その上にわざわざ「くらに れいたろう」と読みも書く。下手糞な字だった。女子生徒がクスクス笑っている。

 正面に向き直り、黒贄が説明した。

「『くろにえ』と書いて『くらに』と読みます。通称クラちゃんです」

 生徒達がどっと笑った。そのうち眼鏡をかけた男子が黒板の文字を指差した。

「あのー、贄って字ですけど、貝の横棒が一本足りませんよ」

「えっ、そうなんですか」

 黒贄が自分の書いた字を見直した。確かに「目」でなければならない部分が「日」になっている。黒贄は改めて横線を加え、感心した様子で言った。

「なるほど、勉強になりました。やっぱり学校は役に立つところですね」

 生徒達が大爆笑した。「面白えー」と腹を抱える男子もいる。教室には三十七名の生徒がいて、男女の割合は半々くらいだった。金髪やピアスの生徒もいれば真面目そうな生徒もいる。皆が笑っている中で陰気に俯いている生徒もいた。

「では、授業を始めましょうか。何ページからですかね」

 黒贄が教科書を手に取りパラパラとめくる。それで皆がまた笑った。生徒の一人が指差して指摘する。

「先生、それ数学ですよ」

 と、黒贄の持つ白い教科書は確かに『数学I』となっている。

「ありゃ、これは失礼しました。いやあ、最近の日本史は難しくなったなと思っていたところです」

 教室はまたもや笑いに包まれる。「馬鹿じゃねえの」と口元を歪める男子もいた。

 最前列の女子生徒から日本史の教科書を借り、前回の終了ページまで教えてもらい、教壇に戻った黒贄は言った。

「それでは、真面目に行きましょうか。そこのあなた、二百三十六ページから読んで頂けますかな」

「えー、俺っすか」

 窓際の男子が露骨に嫌そうな顔をした。黒贄はにこやかに頷く。面白い授業を期待していたのか、他の生徒達も少しがっかりした様子だった。

 当てられた男子は渋々ながら声に出して読み始めた。内容は応仁の乱から戦国時代の幕開けだ。他の生徒達はまだざわついている。後ろの隅にいた男子生徒は携帯でゲームを始め、小さな電子音が洩れてくる。

 ギュコン、と不気味な響きがして電子音が止まった。続いて携帯が床に落ちる。投擲終了ポーズの黒贄を皆が見て、それから後ろの席を振り返った。

 ゲームをしていた男子の額に白いチョークが突き刺さっていた。全長の八割方がめり込んでいる。男子の目が裏返り、少しずつうなだれていき、動かなくなった。滲み出た血液が白いチョークを染めていく。

 授業中に勃発した殺人に、生徒達は息を呑んで凍りついていた。

「授業中に携帯電話はいけませんよ」

 黒贄礼太郎は変わらぬ微笑を湛えて告げた。

 生徒達の顔が次第に引き攣っていく。女子の一人が大きく口を開けて「ッキ」と悲鳴を上げかけた瞬間、黄色のチョークが喉からうなじまでギュプッと貫通した。上体が椅子の背もたれに寄りかかり、力なくずり落ちていく。

 黒贄は既に次のチョークを握っていた。生徒達は悲鳴を噛み殺し、逃げることも出来ない。静寂の教室に黒贄の声だけが響く。

「勿論、私語もいけません。授業は真剣に受けましょう。っと、続けて下さい」

 黒贄は固まっていた男子に告げる。男子は教科書の読み上げを再開したが声は震えていた。黒贄は教壇前にある台の裏からチョークの箱を取り出した。白のチョーク百本入り、充分過ぎる数だ。生徒達の瞳が慄いている。彼らにとっては久々の、緊張感に満ち満ちた授業であった。

 読み上げていた男子も二ページ分を終え、区切りがついたところで恐る恐る黒贄に尋ねた。

「先生、僕は何処まで読めばいいんですか」

「ああ、もういいですよ。これまでありがとうございました」

 黒贄が礼を言いながら右腕を振った。肘から先だけのモーションであったが豪速のチョークは仕事を終えた男子の顔面を粉砕して即死させた。

「さあて、次はどなたに読んで頂きましょうかね。そこのあなたお願いします」

 指差す手からチョークが飛んだ。男子生徒の右目を突き破り脳を破壊する。グエッと一声洩らしただけで彼は動かなくなった。

「あれ。読んでくれませんね。困りましたな」

 黒贄が首をかしげる。女子の一人が泣きそうな顔で手を上げた。

「先生、トイレ行かせて下さい」

「どうぞ」

 黒贄がチョークを投げた。女子生徒の頭が破裂した。

「ええっと、そこのあなた、五百四十七ページを読んで頂けますかな」

 黒贄が男子生徒を指差す。

「先生、そんなページはありません」

「そうですか」

 一直線に飛んだチョークは男子の顔から後頭部に抜け後ろの女子の頭を貫通し、同じ列の五人をまとめて即死させた。

「そこ、居眠りはいけません」

 チョークが男子生徒の胸に突き刺さる。

「ガフッ……僕は、眠ってな、い……」

「ありゃ、私の勘違いでした」

 黒贄は謝ったが男子生徒は永遠の眠りに就いた。別の男子が言った。

「くろにえ先生、いい加減にして下さい」

「いえ私はくらにです」

 黒贄がチョークを投げた。また生徒が減った。

「ではちょっと問題です。そこのあなた、六百六十六年には何がありましたか」

「……。分かりません」

 黒贄はチョークを投げた後でニッコリ告げた。

「実は私も知りません。では千六百年には何がありましたか、そこのあなた」

「関が原の戦いです」

「外れ」

 黒贄はチョークを投げた。隣の生徒が抗議する。

「あの、先生、それ合ってます」

「あ、そうなんですか。知りませんでした」

 黒贄はチョークを投げた。女子生徒が聞いた。

「先生、どうしてこんなことをするんですか」

「ううむ。どうしてなんでしょうね。これこそが日本の歴史、ということではないでしょうか。いやはや、勉強になります」

 黒贄はまたチョークを投げた。投げた。投げまくった。

 やがて終了のチャイムが鳴った。黒贄は教科書を畳んで「それでは失礼します」と生徒達に告げ、二年二組の教室を出ていった。

 丁度通りかかった学年主任の田辺が黒贄に声をかけた。

「黒贄先生、どうでしたか。生徒達、うるさかったでしょう」

「いえいえ、実に静かな授業でしたよ」

 黒贄はにこやかに答え歩いていく。

「はあ。珍しいな」

 田辺教師は呟きながら二組の教室を覗き込んだ。

 四十人弱の生徒達は皆大人しく席についていた。誰もお喋りなどしないし携帯電話をいじってもいない。

 誰一人、微動だにせず、呼吸もしていなかった。額に穴を開け眼球を零し、破裂した頭の欠片を撒き散らし、ある者は机に伏し、ある者は首を反らせて虚ろに天井を見据えていた。互いの血溜まりが融合して床は血の海となり、椅子に座った死体達はシュールなオブジェと化していた。

 死の静寂に沈む教室を、田辺教師は何度も目をつぶったり開いたりして確認した。しかし死体の並ぶ教室は現実のものだ。田辺は漸く廊下を駆け出した。向かう先は理事長室か、それとも自分だけ逃げようとしたのか。

 カリ、カリカリ、と微かに何か聞こえた。硬いものが何かを引っ掻くような音が、廊下の天井を近づいてくる。動転していた田辺は気づかなかったかも知れない。

「ひ、人ごろ……」

 叫びかけた田辺の首筋を背後から何かが通り過ぎた。ドンッ、と、後方の天井から前の床に着地したものに田辺は目を丸くした。その首がゴロリと落ちて床を転がり、鋼鉄の物体に触れた。

 それは径七十センチほどの、銀色の球体だった。一定間隔で表面から何十本もの金属棒が突き出している。蜘蛛の脚のように関節を持つそれらは三種あった。先端が棘状に尖ったものは、移動する際に天井や壁に突き刺してぶら下がるためだろう。関節部が太く、先端が厚いラバーのクッションになったものは跳躍と着地の衝撃吸収用か。

 もう一種は最も数が少なく六本しかなかった。関節が多く他よりも長いその先端には、五十センチから一メートルほどの鎌がついていた。幅が狭く薄い刃だが、異常な鋭さと強靭さはあっさり人の首を切断したことからも窺える。鮮血のついた刃も含め、切っ先が床に引っ掛からぬよう、また他の脚と絡まないようにうまく畳まれている。いや、腕と呼ぶべきだろうか。おそらく総合的な動きをコンピュータで管理されているのだろう。

 ぶら下がる手と跳躍する脚、そして刃を備えた鋼鉄の蟲がそこにいた。

 血を噴き出す田辺の胴が倒れ込む前に、床に触れていた数本の脚が伸びて跳躍した。天井に向いた脚がクッションとなって本体が直接ぶつからずに済む。すぐに棘が刺さり重さを支え、後ろの棘を抜きながら前の棘を刺してカリカリと天井を這い進んでいく。他のクラスの生徒達が田辺の死体を見つけて悲鳴を上げるが機械仕掛けの蟲には知ったことではないようだ。

 球体の数ヶ所に小さな透明の窓がある。奥から小型のカメラが外界を覗いている。その冷たい視線の先には鼻歌混じりで階段へ歩く黒贄もいた。次の授業に向かっているのだろう。音もなく刃の腕が伸びる。

 黒贄が最初の一段に足をかけたところで鋼鉄蟲が飛びかかった。

「おっと」

 瞬間的に身を翻した黒贄の前を三筋の銀光が過ぎていく。ドンッと着地した球体はすぐ天井へ跳ねた。

「いやあ、危ないところでした」

 黒贄は自分の首筋を撫でた。その首が斜め後ろに傾いてカパッと傷が開いていく。鋭利な肉の断面を晒し、黒贄の首は皮一枚を残してほぼ切断されていたのだ。

 ひっくり返って背中に触れかけた後頭部をしかし左手が支えた。元の場所に押さえつけるがずれた合わせ目から血が流れ出して礼服とシャツを染めていく。

「さあ授業授業」

 黒贄は天井の鋼鉄蟲を放置して階段を上り始めた。鉢合わせた女性教師が悲鳴を上げる。

「あ、あのその首、大丈夫ですかっ」

「ええ、間一髪で躱しましたから」

 黒贄は左手で自分の頭を動かして頷かせた。拍子に飛んだ血が女性教師の顔にかかる。

 絶句する教師を置いて黒贄は階段を上り、踊り場を抜けようとしたところで突然姿が消えた。沈んだ床が音もなく元に戻る。

 女性教師は震える手でハンカチを取り出し顔の血を拭いた。何やら騒がしい廊下へ下り立ったところで傍らを銀光が走り抜けた。あわわーっ、と生徒達が指差して叫ぶ。

「あなた達どうし……」

 尋ねかけた女性教師の肩から上が転がり落ちた。両腕も切れて落ちる。両太股が倒れ、胴体がストンと真下に落ちた。女性教師は一瞬で六分割されていた。

 全方向に脚を生やした金属球を生徒達は目の当たりにしていた。「何だありゃ」と呟く教師。既に百名近い生徒と数名の教師が廊下に出ている。球体が床に立ったまま六枚の刃を左右に広げていく。廊下の幅を余さぬように。

 ドタドタ、カリカリと音を立てて鋼鉄蟲が走り出した。生徒達は先を争って逃げようとするが機械の突進は予想以上に速かった。教室に逃げ込もうとして押し合い引っ掛かった生徒達を刃が通り抜けていく。切断された胴がバラバラと落ちて内臓をぶち撒ける。

 廊下は阿鼻叫喚の地獄と化した。次々と輪切りにされて倒れる少年少女。もうどれが誰の部品だったか分からない。逃げきれぬと判断して伏せた男子の後頭部が削ぎ取られた。目を閉じていた女子生徒は機械の足音が通り過ぎた後で慎重に目を開け、安堵の表情のまま首が落ちた。刃のあまりの鋭さに痛みも感じなかったのだろう。

 鋼鉄蟲は廊下の端から端まで走り終えて天井にへばりついた。既に五十人ほどが輪切り死体となって廊下に散乱していた。廊下にいて生き残ったのは十人にも満たぬだろう。断たれた片足を押さえていた男性教師の首にロープの輪がかかった。あっという間に首が絞まって声も出せない。ロープは素早く巻き上げられ教師が引き摺られていく。球体の内部に格納してあったものか、新たな金属棒の先端は滑車になってロープを中継していた。球体の傍らまで引き寄せられ、教室の窓から生徒達が見ている前で教師は首吊り状態となった。バタつく足の断端から血が流れ、教師の顔は白く変わっていく。

 教師を吊ったまま鋼鉄蟲はカリカリと移動した。細長い電灯と天井の隙間に滑車を寄せ、付属していた奇妙な形のアーム二本が素早く動いた。数秒で魔法のようにロープが通され、結び目まで作られていた。小さめの刃が動いて滑車側のロープを切る。

 既にもがくことをやめた男性教師は、自分でやったみたいに廊下の天井に首を吊って揺れていた。単に殺すためなら刃で首を刎ねるだけで済んだろう。生徒達に見せつけて更に怖がらせる意図があったのだろうか。

 窓から覗く女子生徒の一人が金切り声の悲鳴を上げた。鋼鉄蟲が天井を動き出し、標的になると思ったのか男子が彼女の口を塞ぐ。だが殺人機械は教室に入ってこずに廊下を戻っていく。滑車のついた金属棒は内部に戻されていた。

「緊急事態です。生徒は皆校舎を出てグラウンドに避難して下さい」

 緊迫した声音で校内放送が流れ始めた。だが二階の教室から血みどろの廊下へ出る勇者はいない。一階からはゾロゾロと生徒達が逃げ出し、三階からも階段を駆け下りる気配が続く。二階から一階への途中で誰かの悲鳴が上がった。何を見たのだろうか。

 悲鳴の原因が二階の廊下に到着した。鋼鉄蟲は天井に張りついたまま観察している。

「すみませんね、ちょっと遅れました」

 黒贄礼太郎が言った。刺し貫かれたような傷が全身に残っている。落とし穴の下の鉄串にやられたのだろう。

 その鉄串が十本ほど折り取られ、黒贄の左脇に抱えられていた。径五センチ、長さ一メートル二十センチの鋼鉄の串には腐りかけの手首が刺さったものもあった。

 別の一本が黒贄の頭頂部から胴まで垂直に貫いていた。グラつく首を固定したということなのだろう。抜かぬまま使ったため、黒贄の頭の天辺に誰かの髑髏がくっついて団子兄弟となっていた。

 黒贄の異様な姿をどう判断したか、鋼鉄蟲は再び天井を進み出した。六枚の刃が大きく広がり万全の攻撃態勢を取る。

 対する黒贄は右手を左脇へと伸ばし、鉄串の一本を抜いた。その動きは優雅でさえあった。

 鋼鉄蟲が跳躍した。生徒達が見守る中、殺人機械と殺人鬼が交錯する。ガギュッ、と金属のひしゃげる響き。

 いつもの着地音をさせて再び蟲が跳んだ。天井にぶら下がるため伸ばした棘が宙を掻いた。一本が天井を引っ掻いただけで落下する。

 球体の中心を鉄の杭が貫通していた。黒贄が闘牛士のようにすれ違いざま刺したのだ。

 脇に抱えていた鉄串が落ちて床に散らばった。黒贄の左腕も肩口と肘辺りで切断され一緒に落ちていた。左肩から胸にかけてと左脇腹も大きく裂けている。黒贄も攻撃を食らっていたのだ。しかし彼は上体を屈めて右手で次の一本を拾い、後方へ向き直った。左太股も切れて骨が見えているが姿勢が揺らぐことはない。

 黒贄は口角を極端に吊り上げて悪魔のような笑みを浮かべていた。学校の守護者には不相応な笑み。見守る生徒達の顔は凍りついたままだ。

 床に落下した鋼鉄蟲はひとまずクッションの脚で身を支えているが、動きが何処かおかしかった。歩くつもりの脚が空振りし、刃が床を削っている。

「おや、もうお終いですかな」

 黒贄の声に怒ったか、鋼鉄蟲が跳んだ。バランスを崩したせいか斜めに回転しながらとなり、伸ばした刃が袈裟斬りに襲う。黒贄は僅かに身をひねっただけで対応し、再びすれ違いざま鉄串で突いた。装甲をあっさり破って先端が向こう側から抜ける。蟲がバタつきながら床を転がっていく。

 黒贄がまたも向き直り三本目の鉄串を拾った。屈めた上体を戻すと腹部からドロリと腸が零れ出た。殺人球の刃は当たっていたらしい。頭上の髑髏も斜めに浅く切れている。

 二本の鉄串に貫かれた殺人機械はひっくり返った本物の虫のようにもがいていた。時折跳ぼうとして脚が動くが、虚しく宙を掻くだけだ。

 黒贄はその場で振りかぶって鉄串を投げた。一直線に飛んだ串が鋼鉄蟲を貫いて床に縫い止める。刺さった箇所から火花が散り、煙が昇り始めた。ロープの滑車を出してはまた引っ込めている。

 四本目の鉄串も命中した。装甲が裂けてひしゃげ、電子機器の詰まった内部を覗かせる。

 五本目の鉄串が刺さった時、殺人球はボスンと音を立てて燃え出した。弱々しくもがいていた脚もやがて、動かなくなった。

 黒贄は穏やかに言った。

「良い標本が出来ましたな。教材として役に立ちますよ」

 それで漸く教室から疎らな拍手が洩れた。黒贄は闘牛士がやるように優雅な礼をしてみせた。片腕で、腹から腸を零していたが。

 襲撃者は退治されたものの、ひとまず生徒達はグラウンドへの避難を続けていた。黒贄も二階の生徒達と共に階段を下り校舎から出る。

 心配そうに待っていた理事長が駆け寄ってきた。

「黒贄さん、いや黒贄先生、どうなりましたか」

 尋ねながらも視線は頭上の串刺し髑髏に留まっていた。

「なんだか虫っぽい機械を片づけましたよ。強制首吊りと人体輪切りはそれがやっていたみたいですね。ただ、遠隔操作で殺人機械を操っていた人がいる筈ですし、まだ人体細切れの凶器を見ていませんから……と、噂をすれば影という奴ですかな」

 黒贄は校舎の方を振り返って楽しげに言った。グラウンドには生存者がほぼ全員集まっていると思われたが、少し遅れて校舎を出てきた人物に戸惑いのざわめきが向けられた。

 その男は、黒地に白い骸骨のアップリケをつけたタイツ姿だった。頭は髑髏だが本物ではなくマスクをかぶっているのだろう。暗い夜であれば骸骨が動いているように見えるかも知れない。特撮ヒーローものの雑魚戦闘員に使われそうな格好。あまりにも場違いな登場人物に、生徒達は笑うべきか迷っているようでもあった。

 骸骨男は一本の鉄パイプのようなものを握っていた。長さは一メートル半ほどで、柄の部分にはスイッチがあるようだ。身の部分は柄本から先端まで、一本のライン上で約二センチごとに小さな穴が開いている。それを刀でも構えるように、腰の高さで右水平に持って歩いてくる。

 黒贄が骸骨男に右手を振って声をかけた。

「こっちですよ吉田先生。いや吉川先生でしたっけ。それとも四本先生かな」

「頼澤だ」

 憎悪の滲む声音で骸骨男が答えた。

「どうして私が犯人だと分かった。もう食堂で気づいていたようだが」

 首は鉄串で固定されているため黒贄が上体ごと頷く。

「取り敢えず校内で殺人経験者はあなただけのようでしたから。ここの生徒の皆さんは実に真面目ですな」

「ただの勘、という訳か。大した探偵だよ」

 骸骨男が吐き捨てる。

「ほ、本当に頼澤先生なのか。馬鹿な」

 理事長が唖然とする。皆も周囲を見回すがグラウンドに頼澤教師の姿はない。ということはやはりこの骸骨男が頼澤なのか。

「どきたまえ。いや、どかなくていい」

 骸骨男が近くにいる生徒達に告げた。彼らの間に長い鉄パイプを差し入れる。骨のアップリケがついた手袋で柄のスイッチを押した。

 ビュブゥン、と奇妙な唸りが生じた。鉄パイプが、それに開けられた小さな穴達が高速で一回転した。空間が歪んだように見えたのは人々の錯覚であったろうか。

 骸骨男を間近で見ていた三人の男子生徒が、ページでもめくるように薄い肉片となってベラリベラリと前に倒れていった。約二センチのスライス幅は鉄パイプの穴の間隔と一致する。まるでその穴から見えない刃が飛び出したかのように。悲鳴を上げて他の生徒は逃げ散っていく。自然に出来た道を骸骨男が歩いてくる。スライス死体を踏みながら、黒贄礼太郎へ向かって。

「スーパーソニックブレイドという。細く絞り込んだ超音波が何でも貫通してしまう。一瞬でな。私が発明したんだ。発生装置を並べて回転させればこの通り、人間スライスの出来上がりだ。女子トイレのミンチは出入り口に三本これと同じものを取りつけた。学校の七不思議を実現させたかったからな。この骸骨の格好だって、七不思議に忠実に従ってるだけだ。ミンチトイレ、天井を這う怪物、ピアノを弾く骸骨、カマイタチ、首吊り教室、屋上から飛び降りる影、そして人の消える階段。全て達成した。私は完璧主義者なんだ。なのに、お前のような化け物に邪魔されるとはな。生徒達は私が殺すんだ。この学校を滅ぼすのは私なんだ」

 骸骨男が喋っている間、黒贄はグラウンドを見回して何かを探していた。体育の授業で使っていたのだろう、バレーボールが鉄の籠に何十個も詰まっている。黒贄は歩いていき、籠ごと引き摺って戻ってきた。

 理事長が震え声で問う。

「な、何故、頼澤君、何故君が、うちの生徒を殺すのか。君もうちの卒業生じゃないか」

 骸骨男が髑髏のマスクを脱いで投げ捨てた。露わになった顔は憎々しげに歪んでいるが、確かに頼澤教師だった。

「卒業生、その通りだ。母校と呼ぶのも汚らわしいがね。ここで生徒として過ごした三年間は地獄だったよ。それから二十年、ずっとこの学校に復讐するつもりで努力を続けてきたんだ。教師になったのもそのためさ。理事長、あんたのような能天気な人間には私の恨みも屈辱も想像出来まい。始まりは一年生の夏休み……」

 と、黒贄が頼澤の告白を遮って言った。

「あのー、すみませんがつまらないお喋りはそのくらいにして頂けますかな。理由などはどうでもいいんですよ。それよりも重要なのは、奇声です」

「何っ」

「今日は『ヘ』から始めてみましょうか。ペドラポニャー。おっ、珍しく一発で決まりましたな。次は仮面です」

「何を言っている。私を馬鹿にしているのか」

 険悪な顔の頼澤を置いて、黒贄はまた見回し始めた。落ちている髑髏マスクを認めるが、渋い表情で首を振る。上についた本物の髑髏も一緒に振られている。

「いやいや人の使ったマスクをかぶるのは邪道ですな。あのー、どなたか私にかぶるものをくれませんか」

 黒贄は生徒達に声をかけた。しかし彼らは遠巻きに見守るばかりで何も出来ない。自分の脳天に鉄串を刺し、腹から内臓を零しても平気な怪物に近寄れる者はそうはいない。

「顔を隠せるものなら何でもいいんですよ。母校のためと思って、どなたかお願いします」

 生徒達の列から静かに手が挙がった。同級生を押し分けて現れたのは女子生徒だった。清楚な感じの美少女だ。

「よろしければ、これを」

「えっ」

 少女が黒贄に差し出したのは黒いブルマーだった。畳まれたものではなく、ついさっきまで使われていたような風情だ。

「いや、これはちょっと、趣旨が違うような……あなたが履いておられたものですか」

 少女は頬を染めて頷いた。黒贄の顔が輝いた。

「で、ではありがたく使わせて頂きますね」

 黒贄がブルマーを受け取ると、全校生徒から拍手が沸いた。少女は頬を押さえながら列に駆け戻っていく。

 放置状態だった頼澤は、我に返ったように改めて声を荒げた。

「まさか、それをかぶるのか。それをかぶって私と戦うというのか。変態めっ」

「あなたもなかなかの変態だと思いますが、まあそれは置いといて。始めましょうか」

 黒贄は右手を差し上げ、鉄串の後端からブルマーをなんとか通すと一気に引き下げた。上の頭蓋骨が邪魔になるが、素材が伸びてブルマーの端が黒贄の顎にかかる。足を通す穴が細長くなってぎりぎり右目と鼻を覗かせた。

「ペドラポニャー」

 黒贄が気の抜けた声を発した。生徒達のざわめきも拍手もやんでいた。ブルマーから覗く黒贄の右目が、あらゆる感情も意味も超越した絶対零度の虚無を映していた。

「な……あ、ば……」

 頼澤教師の口からも意味のない声が洩れた。だがなんとか超音波武器を構え直し、スイッチを入れる。ヴュルーンと微かな唸りを立てて軸が高速回転を繰り返す。近づいただけで瞬時にスライスされる見えない刃。

 まだ両者は十メートル以上の距離があった。瞬きも忘れたように、身じろぎもせず見守る生徒達。

「ペドラポニャー」

 黒贄が籠に右手を伸ばし、バレーボールを一個掴み出した。長く使われてきたのだろう、表面はざらついて色褪せている。

 それを頼澤に投げつけるのではなく、黒贄は真上に放り投げた。歩み寄ろうとしていた頼澤も視線でボールを追う。

 黒贄はその場で右腕を大きく振りかぶり、落ちてきたボールに掌を叩きつけた。

「ペドラポニャー」

 瞬間、バレーボールがくの字にひしゃげた。目にも留まらぬスピードで飛ぶボールを誰が捕捉出来たろうか。頼澤は予測していたのだろう、正眼に構えた超音波武器は領域内に入ったバレーボールを瞬時に切り刻む筈だった。破裂音がグラウンドに響いた。

「い……いた、い……何だ、これは……」

 頼澤は呆然と呟きながら後ろへよろめいた。彼の頬や胸に細いものが突き刺さっている。破裂したボールの、人工皮革の切れ端。柔らかいそれが服や肉を貫くにはどれほどの速度が必要だったか。

「ペドラポニャー」

 黒贄が次のボールを取り出した。片手だけで行うサーブは放物線を描いて頼澤を襲う。防ごうと超音波武器を向けたところで急にボールが曲がった。強烈なスピンがかかっていたのだ。見えない超音波をうまく回り込んで頼澤の側頭部を叩く。頼澤の顔がひしゃげ、折れた歯が飛んだ。ブルマーをかぶった殺人鬼の高等技術に生徒達はどよめいた。

「ペドラポニャー」

 黒贄の三発目は投げ上げた刹那に同じ手で叩く超速サーブだった。頼澤はふらついていたがなんとか超音波で迎撃する。だが破裂した無数の切れ端は再び凶器となって頼澤に突き刺さった。手首から血を流し頼澤が武器を落とす。スイッチから指が離れて超音波と回転が止まる。

「ペドラポニャー」

 頼澤が慌てて武器を拾おうとするが、その前に四発目のサーブが装置の柄に命中した。土を散らして超音波武器が跳ねる。柄と身の繋ぎ目で折れてちぎれてしまった。もう作動させられない。

「ま、待て。待ってくれ」

 頼澤は泣きそうになっていた。左耳はボールの破片で切れたらしくブラブラになっている。

「今私を殺すとまずいことになるぞ。この学校に時限爆弾を仕掛け……」

「ペドラポニャー」

 黒贄礼太郎は聞いていなかった。ブルマーから虚無の瞳を覗かせて、彼は五個目のボールを投げ上げた。これまでで最も高く。

 そして黒贄は自ら跳躍した。右腕を振りかぶり、背を反らせた姿勢は美しい。首の固定のために通した鉄串の先端が腹から突き出した。見上げる頼澤の呆けた顔。

「ペドラポ、ニ、ヤー」

 四メートルの高みから叩きつけたジャンピングサーブは、狙い違わず頼澤の顔面に命中した。衝撃に耐えきれずボールは破裂する。

 頼澤の頭も破裂した。眼球も鼻も肉も骨も脳も粉々になって飛散する。グラウンドの中心に生まれた血の花に、生徒達は嘆声を洩らす。

 ピシュ、ピシュー、と首の断端から血を噴きながら、骸骨衣装の胴体が膝をついた。ゆっくりと、前のめりに、倒れていく。

 頼澤が二十年間抱き続けていた恨みの内容は分からぬまま、事件は解決した。

 着地した黒贄はブルマーを脱いで素顔に戻った。生徒達も教師も惜しみなく歓声と拍手を贈った。

「いやいや、どうもどうも」

 黒贄は皆に会釈を返しながらブルマーを礼服のポケットに押し込んだ。

 理事長が駆け寄ってきて頭を下げた。

「ありがとうございました。これで我が校にも平和が戻ります」

「どう致しまして。また死人が出た時は呼んで下さいね」

 謝礼入りの封筒を受け取ってこれもポケットに押し込み、黒贄は颯爽と学校を去っていく。

「黒贄先生ばんざーい」

 理事長が叫んだ。生徒達も笑顔で唱和する。

「黒贄先生ありがとう」

「黒贄先生、あなたは凄い教師だー」

「ばんざーい。ばんざーい」

 黒贄が正門を抜け、姿が見えなくなっても歓声と拍手は続いた。

「黒贄先生ばんざーい。ばんざーい。ばんざーい。ばんざー」

 突然校舎が爆発した。グラウンドが爆発した。体育館が爆発した。塀が爆発した。生徒達が爆風に飛ばされバラバラの肉片と化した。コンクリートの破片が教師の頭を貫いて即死させた。歓声は阿鼻叫喚に変わったがすぐ爆炎に呑み込まれた。

 

 

  五

 

 私立正大学園は廃校となった。

 

 

  エピローグ

 

「謎は解けました」

 裏通りの古いビル。四階にある黒贄礼太郎探偵事務所で、所長の黒贄礼太郎は穏やかな笑顔を浮かべてホテルの支配人に告げた。

「この三日間で三十四人を拷問し、八十七人が尊い犠牲となりましたが、今朝になって漸く私は真相に到達することが出来たのです」

「は、はあ、それでは、伏見様を殺した犯人は分かったのですか」

 支配人が尋ねると、黒贄は尤もらしく頷いた。

「はい。犯人は私でした」

「えっ」

「いやあ、あの晩は珍しく居酒屋で酔っ払いましてね。ホテルの近くを歩いてて、見知らぬ人を捕まえてつい放り投げてしまったんです。それがあのお部屋の窓に飛び込んだんですねえ。今朝になってそれを思い出しましたよ」

「え。あの……あの部屋は二十八階ですが……」

「人間って、意外に高く飛ばせるものなんですよ。ということで事件は解決ですな。報酬を下さい」

 支配人は絶句するのみだ。その時ドアがノックされ、中年の女が入ってきた。

「大変なの。私の夫が誰かに殺されたのよ。ひどい拷問をされたみたいで、手足を切り落とされて……」

「あ、それも私です。報酬を下さい」

 黒贄はにこやかに言った。

 

 

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