プロローグ
カーテンを閉め切った古いマンションの一室で、二人の男がイラついた顔を見合わせていた。壁の時計を頻繁に確認する。午後六時を過ぎている。
「遅い。いつになったらその探偵は来るんだ」
背の高い男の声は刺々しかった。
「もうじき来るさ。多分。事情があって別々に来るとか言っていたが、今日中には着く筈だ」
太った男が自信なげに答える。
「早く来てくれないと困るんだよ。今夜中になんとか処理してしまわないと」
背の高い男はバスルームの方を見た。ドアを閉めているが、その奥には女の絞殺死体が横たわっているのだった。
「その探偵は本当に役に立つんだろうな」
背の高い男が念を押す。太った男もうんざり顔になっていた。
「何度も言わせないでくれ。殺人と死体処理においては超一流なんだそうだ」
「……。それって、探偵、なのか」
背の高い男が呈した当然の疑問に、太った男も今更目を瞬かせて首をかしげた。
「さあ……。でも自分で探偵って言ってたし……」
「それに、来るのは一人じゃなかったのか。別々にってどういうことだよ」
「さ、さあ……」
太った男は答えに窮している。その時玄関の呼び出しチャイムが鳴った。男達は緊張に身を固くする。
「探偵かな」
「出てみろよ」
言われて太った男がインターホンのボタンを押す。
「はい」
「サンズ運輸です。お荷物が届いておりますが」
「……。誰からだ」
「差出人は黒贄礼太郎様となっておりますが」
太った男は振り向いて、背の高い男に「探偵からだ」と言った。
「分かった。今開ける」
太った男は玄関のドアを開けた。運送業者は一抱えもある大きな段ボール箱を渡して去った。
「何だこりゃ。重いぞ」
太った男が部屋の床に置いて開封しようとした時またチャイムが鳴った。
「お、探偵本人かな」
太った男がインターホンに出ると、さっきとは別の運送業者だった。また黒贄礼太郎からだ。最初と同じくらいの大きさの段ボール箱を受け取ることになった。
ドアを閉める前に、更に別の業者がやってきた。今度は少し小さく立方体の箱だ。やはり差出人は黒贄礼太郎だった。
床に並べた三つの箱を、男達は腕組みして見下ろした。荷物の種類は『ナマモノ』となっている。
「開けよう」
「……。そうだな」
二人は最初の箱を開封した。
黒いスーツに包まれた大きな肉塊が入っていた。形状は、人間の胴体そのままだ。
二人は暫く固まっていたが、仕方なく次の箱を開けた。
人間の手足がワンセット、紐でまとめてあった。やはり黒い袖と裾。付け根から切り離された断面は刃物によるらしくなめらかだ。足は薄汚れたスニーカーを履いている。
二人は、震える手で、最後の箱を開けた。
男の生首と、裁縫セットと、紙きれが一枚、納まっていた。
紙きれは『黒贄礼太郎 組み立て説明書』となっていた。
一
白衣の男が病棟の白い廊下を歩いている。すれ違う患者達が「院長先生、おはようございます」と笑顔で声をかける。白衣の男は穏やかな笑みを浮かべて会釈を返す。
男は四十代後半であろう。身長百七十センチ前後で、腹は出ておらず痩せぎすでもない標準的な体格だ。白衣の下のスーツは院長という身分にはあまり相応しくない安物だった。豊かな髪は完全に白く変わり、血色の良い顔は生真面目さと親しみを両立させ、目尻と頬には長年微笑を湛えてきたことを示す皺が刻まれていた。薄く整えた白い口髭。銀縁眼鏡の奥の瞳は鋭い知性を優しさで包み込む深みを持っている。常人より長く繊細な指に指輪はない。
胸のネームタグには顔写真と共に『天道病院 院長 天音善道』となっていた。子供にも読めるようにか『あまねよしみち』と大きな振りがなもついている。
天音はナースステーションに入る。看護婦達が一斉に挨拶する。彼女達の礼には尊敬が込められていた。婦長が進み出て報告した。
「おはようございます。急変の患者さんはいらっしゃいません。清水さんが頭痛を訴えておられますが血圧、脈、体温などは異常ありません」
「今日の血液検査の結果が出ていますか」
天音は患者達の検査結果を確認し、病棟の回診に移る。婦長と数名の看護婦がカルテを抱えてついていく。
「皆さん、調子はいかがですか」
大部屋に入り天音が気さくに声をかけると患者達が笑顔で挨拶を返す。
「院長先生、おはようございます」
「お陰様で具合はいいですよ」
「調子はまずまずです。あさっての手術はどうかよろしくお願いしますね」
それぞれの患者と天音は短く言葉を交わし、簡単に手や体に触れていく。聴診器の類は使わなかった。カルテを参照することも殆どない。あっさりした回診だが患者達は満足げだった。回診は次の病室へと進んでいく。
ある大部屋では見舞い客の連れていた男児が顔をしかめていた。
「どうしたね」
天音が優しく声をかけると父親らしい見舞い客が戸惑いがちに言った。
「すみません、さっきからお腹が痛いみたいで」
「そうかね。ちょっと診せてくれるかな」
天音は男児の腹を服の上から軽く触れただけだ。
「ちょっと右手を貸してごらん」
男児の右手を持ち、掌のある場所を押さえる。数秒ほどで男児の顔が晴れ、笑みを見せるようになった。天音も微笑を返す。
「良くなったろう」
「うん。先生ありがとう」
「どうもありがとうございます」
親子が礼を言う。天音院長は父親に告げた。
「腸重積を起こしかけてましたがもう大丈夫です。念のため後三時間は食べたり飲んだりしないようにして下さいね。この先またお腹の痛みや吐き気が現れるようなら小児科を受診して下さい」
父親の顔が驚きから感激に変わっていく。
「ははあ、ありがとうございます。先生は凄いお方だ」
「そりゃあ、院長先生は世界一の名医じゃけん」
同じ病室の老人が自慢げに言って天音を苦笑させた。
「残念ながら、私にも治せない病気は沢山あるんですよ」
本当に、苦い笑みだった。
個室の男性患者は点滴中で、まだ三十代だろうが血色が悪く痩せこけていた。妻子が心配そうに付き添っている。
「今日は手術ですね」
天音が告げると男は弱々しく微笑んだ。
「何処の医者にもとっくに手遅れだと言われましたが、天音先生に出会えて本当に良かったと思っています。妻と、まだ幼い娘のためにも生きたいんです。先生、よろしくお願いします」
「出来る限り力を尽くしてみますよ。共に頑張りましょう」
点滴が刺さっていない方の腕と天音は握手した。
「どうか主人をお頼みします」
頭を下げる妻の目には涙が滲んでいた。天音は黙って頷いた。
回診を終え、天音はナースステーションの奥でカルテを読み直す。患者のいない場所では真剣で厳しい目つきになる。壁には退院した患者から病棟宛に届いた感謝の手紙や、『神の医師 天音善道』という新聞記事の切り抜きなどが飾ってあった。おそらくは看護婦が貼ったものだろう。
「虚しい」
声が聞こえて天音は顔を上げた。
「虚しい。虚しい。虚しい」
見回すが部屋には誰もいない。隣のナースステーションでは看護婦達が忙しく立ち回っている。
天音はカルテを置いて立ち上がり、看護婦に尋ねた。
「今、私に何か言わなかったかな」
「いいえ、何も」
看護婦達は首を振る。
「『虚しい』とか言っていたみたいだが」
「いいえ、聞いておりませんが」
「……そうか。空耳だったのかも知れないな」
呟く天音院長に看護婦の一人が言った。
「いつも頑張っておいでですから疲れていらっしゃるのでは。あまり無理なさらないで下さい」
「大丈夫、分かっているよ」
天音が奥に戻ると開いたカルテに名刺ほどの大きさの紙片が載っていた。さっきまではなかったものだ。
端正な字で『今日そちらに行く。』と書かれていた。
天音はそれを暫くの間見つめていたが、紙片を畳んで白衣のポケットに入れた。
予定の時刻となった。天音は念入りな手洗いの後で青い術衣を着け手術室に入る。既に先程の男性患者は麻酔をかけられ、手術台に横たわっている。麻酔医と看護婦二名が天音に一礼する。
無影灯の光に照らされ、天音は白く輝いて見えた。
「清水敏博さん、三十六才。進行性のS状結腸癌です。肝臓と肺を含め五十ヶ所以上に転移しています。残さず切除しますので、よろしくお願いします」
天音の言葉にスタッフは再び礼をした。
「では、始めましょう」
メスを握ってからの天音の動きは魔法のようだった。皮膚の切開から術野の確保、そして目的の血管を結紮しS状結腸の切除、全てがビデオの早送りのように異常な素早さで行われた。他の医師が助手としてつかないのも天音のスピードについていけないためだろう。手術の開始から原発巣の切除まで五分しかかからなかった。転移の恐れのあるリンパ節を取り除き、残った腸の断端を繋ぎ合わせてからは更に異様な工程に取りかかる。看護婦から受け取ったメスは刃が非常に細く、スプーンのように僅かに湾曲していた。
天音は左手で肝臓の表面を撫でながら、極細のメスを差し込んでいった。抜き出したメスには小さな塊が載っている。天音は肝臓内に転移した癌病巣を探り当て、正確に抉り出したのだ。出血は殆どなく、あっても左手が触れているとすぐに止まった。これはどういう技術か、或いは超能力か。
手術開始から十五分後、盆には肝臓から取り出した塊が二十個以上載っていた。腹腔内の腫瘍を全て切除し、天音は腹を閉じた。
「次に肺の転移巣切除に移ります」
看護婦から通常のメスを受け取り肋骨の隙間を切りかけた時、声がかかった。
「無駄なことに人生を費やしているな」
声には練り上げられた黒い悪意が篭もっていた。
天音は顔を上げた。患者を挟んで手術台の向かい側に、黒衣の男が立っていた。
背丈は天音より高かった。マスクも帽子も含めて手術着と同じデザインだが色は漆黒だ。覗く目元の皺から年齢は四十代か。しみなどはないが肌艶が悪く、何処となく人工的な印象を与える。瞬きをしないその瞳は限りなく冷酷で、邪悪な叡智を湛えていた。
「地獄坂……また、来たのか。どうやって入った」
天音は呻くように相手の名を呼んだ。いつの間にか看護婦達の姿は消えていた。モニターを見守っていた麻酔科医もいない。全身麻酔で眠る患者を挟んで二人の男が対峙する。
地獄坂と呼ばれた黒衣の男は言った。
「この末期癌の男を助けたとして、それでどうなる。人類は六十億もいる。この男一人の寿命が多少延びたところで世界には何の影響もない。天音君、君のやっていることは徒労だよ」
「そうは思わない」
天音は地獄坂に反論した。
「命はかけがえのないものだ。私の力で一人でも多くの人が救えるのなら、充分に意味があることだ。それに、この人が助かれば喜んでくれる家族がいる」
「家族か。家族というのはあそこに張りついているもののことかね」
地獄坂は手術室の出入り口を指差した。扉のガラス窓、向こう側から血みどろの肉塊がへばりついている。
潰れて眼球の抜け落ちた顔は、手術台で眠る清水敏博の妻と娘のものだった。
凝固する天音に地獄坂は告げた。
「徒労だよ。君の努力はただの徒労だ。無駄で無意味な人生だよ」
「……。そ……それでも、私はこの患者を、治す」
天音はしゃがれ声になっていた。地獄坂が右手を上げた。何も持っておらず、手袋はやはり黒かった。
「やめろっ」
天音が叫んだ。地獄坂が掌を下に向けて右手を下ろした。
ブジュッ。手術台の清水敏博が潰れた。全身の厚みが一瞬で失われ、ただの肉の絨毯と化した。滲み出た血がボタボタと床に滴っていく。
「治せなかったな」
地獄坂はマスクの奥で笑っていたかも知れない。彼は立ち尽くす天音を置いて扉から去っていった。
扉が自動的に閉じた瞬間、天音は院長室の椅子に腰掛けていた。手術着ではなく白衣姿だ。ドアがノックされ、看護婦が顔を見せた。
「院長先生、外来診療のお時間ですが」
天音は呆然としていたが、やがて両手でこめかみを押さえて看護婦に尋ねた。
「清水さんはどうなった。今日の手術だった」
「清水……さん、ですか。いえ、只今そんな名前の患者さんはいらっしゃいませんが」
看護婦は怪訝な顔で答えた。
「……。そうか」
天音は頭を抱え、重く息をついた。
二
無間町は市の中心部からやや外れた場所にある。毎月人口の一割が増減すると言われる超犯罪都市・八津崎市においても比較的平和な地区だった。即ち、人口の増減率が月に七パーセントというくらいに。
雑然とした通りを古い婦人用自転車が進む。歩道の段差に乗り上げてゴキンとひどい音を立てたり、たまに蛇行して自動車に急ブレーキをかけさせたりする荒い運転だ。
「ああ〜生きるというのは〜大変だ〜」
自転車を漕ぐ男は気持ち良さそうに適当な歌を歌っていた。
男は長身で百九十センチを余裕で越えているだろう。着古した黒の略礼服は折り目もなくなり、背中や肘部分がテカついている。ネクタイはしておらず、白いシャツには赤い染みや小さな焦げ穴が残っていた。ペダルを踏む靴は薄汚れたスニーカーで、底のクッションはかなり減っている。年齢は二十代後半から三十代前半というところか。髪は整髪料も使っておらず自分で切ったみたいに左右非対称だ。西洋人に見間違えられそうな彫りの深い端正な顔立ち。高い鼻筋に切れ長の眠たげな目、そして薄い唇は何かを面白がっているような淡い微笑を浮かべている。肌は蝋のように白く血の気がなかった。
「三袋百円の〜インスタント〜ラーメン〜」
商店街を突っ切り、前方に白い建物が見えてくる。広い敷地には桜の木や様々な草花が生い茂っていた。礼服の男は敷地の門を抜ける。表札は『天道総合病院』となっていた。
「塩味〜味噌味〜醤油味〜」
礼服の男は駐輪場の横を過ぎ、病院の玄関前で婦人用自転車から降りた。自転車のロック機構は壊れて鍵が抜けなくなっている。男はハンドルと後輪を掴み、力を込めた。ギキュウウゥ、と自転車のフレームがねじ曲がり二つに畳まれていく。
通りかかった通院患者が唖然として見ていると、礼服の男はにこやかに言った。
「いやあ、最近の自転車は折り畳み式になって便利ですよね」
無理矢理畳んだ自転車を左脇に抱え、礼服の男は玄関の自動ドアをくぐった。
明るいロビーでは大勢の患者が待合椅子に座っていた。正面に受付があり、左右にはそれぞれの科の外来入り口があるようだ。内科、外科から皮膚科眼科脳神経外科など一通り揃っている。それとは別に『院長外来』というものもあった。院長の専門は何なのだろう。
礼服の男は待合椅子の並ぶ間を悠然と歩き、正面の受付カウンターで止まった。
「こんにちは、初診ですか」
受付の若い女性事務員が微笑みかける。礼服の男は腹を撫でながら答える。
「ええっと、残念ながらお腹が空いている以外は健康体ですな。健康保険にも入ってませんし。院長先生に呼ばれて参りました」
「ああ、ということはクロニエ様ですね。予定の時刻に来られなくて院長が心配しておられました」
「申し訳ない、道に迷ってしまいまして。ちなみに私の名は黒に生け贄の贄で『くらに』と読みます。通称クラちゃんです」
礼服の男は訂正するが、別段不機嫌になった訳でもないようだ。
「これは失礼しました。院長は只今手術中で手が離せませんので、申し訳ありませんが応接室で暫くお待ち頂けますでしょうか。ご案内差し上げます」
「いえ結構です。院長先生の手が離れるまで、折角ですからちょっと院内を散歩してきますね」
ちょっと奇妙な言い回しで返して黒贄は歩き出した。女性事務員は左脇に抱えられたものを指差し再び声をかけた。
「あの、それは……」
「折り畳み自転車です。道具は常に手元にないと、いざという時に役に立ちませんからねえ。奇声も仮面もその場で考えていては手遅れになってしまうんですよ」
女性事務員は首をかしげたがそれ以上の追及はしなかった。
黒贄は壁の案内表示を見る。天道病院のベッドは四百床で、院長の天音善道を含めて医師は三十六名いるらしい。開設されて十三年。建物はUの字型で、中央棟には外来と検査部、手術部や集中治療室が配置され、東西に入院患者の病棟が繋がっている。東西棟は中庭を包み込むように緩やかに弧を描いており、上空から俯瞰するとバッファローの頭のように見えるかも知れない。五階建てだ。
「ふうむ。ビジュリハー」
黒贄は意味不明の呟きを洩らして歩き出した。まずは外来各課の前を一周する。外来患者は多く、待ち時間も相当なものだろうが不満げな者はいなかった。わざわざ治療を受けるために来日したのか、外国人の姿も目立つ。
「トリャペノー」
黒贄は外来の入り口から奥を覗いて看護婦に嫌な顔をされることもあったが、特にトラブルを起こすことなく検査部に進む。一般的なX線装置からCT、MRIなどの最新機器が揃っているようだ。
「グペビョロパ」
長椅子で検査の順番を待つ患者の隣に腰を下ろす。患者は顔をしかめ、礼服の黒贄と折り畳まれた自転車を見る。
「エピヒャッテン」
黒贄の穏やかな奇声と微笑みから患者は目を逸らした。看護婦に呼ばれて患者が立ち上がり、CT室に入る。開かれた扉が完全に閉じ戻るまで黒贄は奥を観察していた。
再び立ち上がり、次に向かったのは手術部だった。家族のための待合室ではテレビがついている。数組の家族がそこにいた。祈るような顔で佇む者。楽しげに漫画を読んでいる者。
黒贄は医療スタッフだけが進める領域に土足で入っていった。手術室への扉が並ぶ清潔な廊下だ。扉には十二まで番号が振ってあった。明かりが洩れるのはその半分ほどだ。
手近な扉のガラス窓から中を覗き込む。手術台に横たわる患者の腹腔と、外科医達が真剣な表情で格闘している。黒贄の鋭く冷たい視線が手術台と医師達から看護婦に移り、左右を見渡し天井と床を確認する。
黒贄の面白がっているような笑みが少しずつ、深められていく。
「ここは一般の方は立ち入り禁止です。早く出ていって下さい」
通りかかった看護婦が厳しい口調で告げた。
「こりゃ失礼しました。マニャモニャー」
黒贄は意味不明の台詞を付け足しながらも大人しく引き返した。看護婦が掃除係にスニーカーの足跡を綺麗にするよう頼んでいる。
黒贄は集中治療室に入ろうとしてすぐ看護婦に制止された。説教を聞きながら黒贄は暫く頭越しに内部を覗き、あっさり謝罪して引き下がった。
続いて西棟に向かう。一階から五階まで各課の病棟を回っていく。すれ違う子供達が黒贄の自転車を指差して「うわあー、変なの」と声を上げる。
「アブンバラニョ」
黒贄はにこやかに手を振り返す。廊下を歩き病室を覗いて回る。どの病棟にも陰鬱な雰囲気はなく、患者達の顔は穏やかで希望に満ちていた。きびきびと働く看護婦達の顔も、最善を尽くしているというプライドとその結果が得られる喜びを滲ませていた。東棟も見て回るがやはり同様だ。黒贄は誰も殺さずに中央棟に戻った。
「いやはや、どうにも。アリューパー」
黒贄は頭を掻きながら中庭に入る。花畑に幾つかブロンズ像が立っていた。腕を広げ、全ての人を受け入れるようなポーズだった。中央に小さな池があり、綺麗な水の中を金魚が泳いでいた。ベンチでは患者達がのんびり日向ぼっこをしている。撒いたパン屑を雀がつついていた。
「ニヒェロパー」
黒贄は中央棟の階段を下りた。地下には霊安室があった。今は誰も安置されていないようで線香の匂いは漂ってこない。黒贄は自転車を左脇に抱えたまま右手で霊安室の扉を開けた。棺を置く台や線香立てなどがある。黒贄は鼻筋に皺を寄せて匂いを嗅いだ。
「エピニャー」
他にはボイラー室や倉庫などがあった。向こうには解剖室もある。鍵が掛かっており関係者以外は入れないようだ。黒贄は鍵をこじ開けることもせず一階に戻った。もう充分だというように。
黒贄の笑みは冷笑に近かった。
「ペパロニャー」
ロビーに戻ると受付の女性事務員が声をかけてきた。
「黒贄様、院長の手術が終わりました。応接室にご案内します」
女性事務員に先導されて黒贄はエレベーターに入る。
「つかぬことをお聞きしますが、院長先生はどんな方ですかな」
黒贄は女性事務員に尋ねた。
「天音院長は、素晴らしい方です。医師としても、人間的にも」
彼女は輝くような笑顔で答えた。本心からそう言っているようだった。
「そうですか」
黒贄はそれだけ言った。
三階でエレベーターは止まった。応接室は医局と院長室の並びにあった。医局が最上階でないのは緊急時あらゆる場所に素早く駆けつけることを想定したものか。
「それでは少しお待ち下さい」
女性事務員は去り、黒贄は応接室で独りになった。
窓は白いカーテンを透して淡い光を投げている。部屋の中央にローテーブルとソファーといういかにもな組み合わせ。飾り棚にはトロフィーや本ではなく、アフリカ辺りの民芸品らしい木彫りの人形や、奇妙な模様の刺繍が施されたコースター、針金のレールの上を金属球がいつまでも回っているオブジェなどがあった。黒贄はソファーに座らず飾り棚の雑多な品を眺めている。小さなピエロの人形がガラス越しに黒贄を見返している。
上の段に銀製の器があった。丈二十センチ、幅三十センチほどで中間部がくびれた上下対称の形をしている。側面の精緻な彫刻は上半分が人間の顔で、下半分が胴や手足を描いていた。器は空だ。
「ふうむ。何処かで見たような……」
黒贄は右手で顎を撫でる。
「ま、気のせいでしょう」
黒贄はあっさり呟いた。
ドアが開き、白衣の男が入ってきた。四十代後半くらいで完全な白髪、親しみやすい顔の男だ。
「お待たせしてすみません。私が院長の天音です」
男は丁寧な口調で一礼する。黒贄は折り畳んだ自転車を左脇に抱えたまま、右手で男を指差して告げた。
「犯人はあなただ。初めまして、黒贄礼太郎です」
三
「えっ」
天道病院院長・天音善道は聞き返した。銀縁眼鏡の奥で知的な瞳が黒贄を見据えている。
「初めまして、黒贄礼太郎です」
黒贄は改めて頭を下げる。
「……。よろしくお願いします。まあ、おかけ下さい」
天音はソファーを勧め、黒贄は自転車を床に置いて腰を下ろした。天音も向かいに座る。
「わざわざ来て頂きお手数をおかけしました。事件が院内で起きていることでしたから」
「随分人気がおありですな。病院もあなたも」
黒贄の言葉に天音は少し恥ずかしげに微笑する。
「当院の評判を聞いてあちこちから難病の方が来られます。私達としてもその期待に応えるべく出来る限りのことをしたいと思っています。当院のスタッフは皆優秀で、病という理不尽な宿命と戦う意欲に燃えています」
別の女性事務員がコーヒーを運んできた。黒贄は「こりゃどうも」と言いつつ一気に飲み干してしまう。その後でスティックシュガーの端を開け、顔を上向けて口の中へ砂糖を流し込んだ。
事務員が去ってから天音が続けた。
「それなのに……最近、院内で患者が殺されるのです」
「ふむ。医療ミスではなくて、ですかな」
口をモゴモゴさせながら黒贄が尋ねる。天音は怒らなかった。
「はい。黒贄さんは、地獄坂という男をご存知ですか」
黒贄の眉がヒクリと上がった。
「ほほう、あの地獄坂ですか。……全然知りませんな。あれっ、いや、聞いたことあったような気もしますが……ええっと、知ってるような知らないような……ですかねえ」
「その地獄坂という男が、院内に勝手に出入りして私の患者を殺しているのです」
血色の良い天音の顔に暗い翳りが差した。悲しみと混乱と、憎しみと。
「あなたの患者、ということは、あなたが主治医を務める患者ばかりが殺されると」
「そうなんです。奴は神出鬼没です。外来に乱入してきて私が診察中の患者を刺し殺したり、手術中にいつの間にかそばにいて患者の体をメチャメチャにして去ったりします。回診で入院患者の病室を訪れたら既に八つ裂きにされて亡くなっていたということもありました。急変した患者の全身が蘇生中に溶け始めて、横を見たら奴が立っていたということもありました」
天音は地獄坂のことを『奴』と呼んだ。
「奴は特殊な力を持っています。神出鬼没なのも力の一部かも知れませんが、相手に触れずに体を潰したり破裂させたり、かまいたちに遭ったようにバラバラにしたりも出来るようです」
「特殊な能力ならあなたも持っておられるようですな」
黒贄が目ざとく指摘する。天音は曖昧に頷いた。
「生まれつきという訳ではありません。ただ、少しでも治療の役に立てばと思って西洋医学以外も色々と勉強しました。漢方に鍼灸、気功から世界中の民間療法、催眠療法に心霊治療まで有効なものは取り入れようと努力してきたのです。そのうちにいつの間にか、患者を見たり触れたりしただけで病状が分かるようになってしまったのです」
「なるほど。なら私の病気なんかどうでしょう」
黒贄は興味津々な様子で身を乗り出してくる。天音は少し仰け反りつつも黒贄を改めて観察し、数秒で首を振った。
「残念ながら、あなたのご病気は私の手に負えるものではないようです」
「そうですか。いやそうでしょうそうでしょう」
黒贄は何故か満足げに頷いている。
天音が本題に戻った。
「地獄坂について不思議なことがあります。私以外に、誰も奴を見た人がいないのです。うちのスタッフも他の患者も、誰も。更には死体もすぐに消えてしまって、カルテも残っておらず、いつの間にかその患者自体存在しなかったことになっているのです。同室だった患者に尋ねても殺された患者のことを覚えていません」
「とすると、全てあなたの妄想だったという可能性もある訳ですな」
黒贄が平然と言ってのけた。
「その可能性は何度も考えました。ただの夢だったのではないかと。あなたの前に別の探偵を雇って、亡くなった患者が本当に存在したのかどうか確かめようとしました。……報告は一度も返ってきませんでした。探偵社の事務所は跡形もなくなっていました」
「ほほう。とするとあなたが探偵に依頼し続けたら私にとっても同業者が減って嬉しいということに……まあそれは置いといて、それらも含めてあなたの妄想だったという可能性もありますよね」
黒贄は喋りながらもチラチラと天音が手をつけてないコーヒーを見ている。気づいた天音が「どうぞ」と黒贄の方へ押しやった。
「こりゃすみませんな」
黒贄はまたも一気飲みしてその後でシュガースティックを開封した。
天音が言った。
「証拠となるものがあります。地獄坂はたまに、姿を見せる前に予告の紙きれを届けるのです。それも私がちょっと目を離した隙に、テーブルの上に置いてあったりします。その一つがこれです」
天音は白衣のポケットから折り畳まれた紙片を出した。開いても名刺程度の大きさで、何かが書いてある。黒贄は受け取ってそれを読んだ。
端正な字で『今日そちらに行く。』となっていた。紙に折り目は残っておらず綺麗なものだ。
「自分で書いたということはありませんかな」
「私の字とは違います。お恥ずかしい話ですが、診察を優先して急いで書くのが癖になってしまい私は悪筆なんです。それに、この紙なんですが、決して破れないんです。鋏でも切れなくて……」
ビリッ、と紙片が破れた。黒贄が両手で持って引き裂いたのだ。天音は絶句する。
「確かに強い紙ですな。これで防弾チョッキを作れば砲弾も撥ね返せるかも知れません」
黒贄が二つに裂けた紙片をテーブルに置いて尋ねた。
「えーっと、それでその地獄坂さんなんですが、その人にあなたが恨まれるような心当たりはありますかな」
「……。いえ。それが、さっぱり分からないんです。そもそも奴の素性が不明ということもありますけれど。ただ、奴は現れた時にしばしば同じようなことを言います。私のやっていることが無意味だと。私の人生が徒労であるとも言いました」
黒贄は顎に手を当て、僅かに上目遣いになって鋭く天音を見据え、問うた。
「その地獄坂さんの言葉を、あなた自身はどう思っておられるのですかな」
天音は数秒ほど考える様子を見せたが、答えは決まっているようだった。
「私は自分のやっていることに意味はあると思っています。世界全体の趨勢に何の影響もなくても、病から解放された一人一人の人生にとっては大きなことだと。私にとってはそれで充分です」
天音の瞳は穏やかに澄んでいた。黒贄が言う。
「ふむ。それで、ご依頼の内容は、この病院で患者を殺しまくっている犯人を捜し出す、ということでよろしいですかな」
「はい」
天音は頷いた。
「分かりました。犯人はあなただ」
黒贄礼太郎は最初と同じ言葉を変わらぬ口調で告げた。
「えっ。それはどういう……」
天音は不思議そうに聞き返す。
「ですから犯人はあなたです。一目見て分かりました。この病院は随分禍々しいものを隠しておられますね。いや私が言うのも何ですが」
「い、意味が分かりません。どういうことなんですか。私が地獄坂だと……」
「まあちょっと試してみましょう」
黒贄が自転車を両手で持って左右に引っ張った。折れ曲がったフレームが悲鳴を上げてちぎれる。天音はあっけに取られて見守っている。
右手に持った自転車の前半分を黒贄が投げつけた。手加減のない投擲は空気をひしゃげさせ破裂音に似た音を立てる。
回転する凶器はソファーを突き破り向こうの壁をぶち抜いていった。バラバラに飛び散る筈の肉は存在しなかった。
自転車が激突する寸前、天音がアクロバティックな跳躍で躱したのだ。宙返りして床に着地する天音は不自然な戸惑いを見せていた。黒贄の攻撃に対するものではなく、自分に何故こんな動きが出来るのか分からないというような。
だがその首筋に自転車の後半分がぶち当たった。黒贄は第二撃を放っていたのだ。グォワシャリ、と凄い音をさせて自転車が通り過ぎ、天音の首がへし曲がった。ほぼちぎれかけ、裂けた肉の間から血が噴き出して白衣を染める。天音の体がゆらりと後ろへ倒れていく。
それが途中で止まった。ビデオの一時停止のように、物理的に不可能なバランスで斜めに静止している。
「さてさて、仮面は用意してますからね。……と、奇声は何にしましたっけ」
黒贄は礼服のポケットから仮面を出した。メキシコのルチャドーラーが使いそうな、目と口部分に穴の開いた派手なラメ入りマスク。
天音の体は元の直立姿勢に戻った。折れた首が独りでに持ち上がり、凄い勢いで傷口が塞がっていく。天音の目は裏返ったままだった。ビクン、と両腕が震えた。震えは次第に激しくなり、全身が痙攣する。ミチ、ビギッ、と不気味な音が鳴った。天音の身長が伸びているのだ。白い髪が毛根から黒く変わっていき、白い口髭は皮膚に引き込まれて消えた。肌艶がなくなり何処となく人工的な感じのするものに変わる。白衣が墨を落としたように黒く染まっていき、血糊も闇に呑まれた。
痙攣が収まった時、天音善道は跡形もなく消失し、長身痩躯の魔人がそこに立っていた。
裏返っていた眼球が正常な位置に戻り、怜悧な悪意に満ちた瞳が現れた。底知れぬ冷酷さを感じさせる声で彼は言った。
「地獄坂研究所へようこそ。私が所長の地獄坂明暗だ」
四
台詞を終えた時には応接室の様相が一変していた。テーブルも自転車も消え、壁も床もガラス張りのように透明となって薄暗い院内全体が見渡せる。
いや、それは既に天道病院ではなく全く別の施設であった。玄関であった場所は鋼鉄の分厚い門となり、ロビーであった場所はガランとして、待合の椅子に年老いた男が座るだけだ。検査部であった場所には奇妙な機械やカプセルのようなものが並んでいる。
手術室の並んでいた空間は今もまさしく手術室であったろう。ただし黒衣の男達が行っているのは治療ではなく、レーザーで手足を切断したり機械を埋め込んだりする改造手術だった。麻酔なしでやっているのか凄まじい悲鳴を上げている男もいる。
東西棟であったものは監獄に似た生活設備のある一フロアを除き、倉庫として使われているようだ。雑多な機械群、電子機器群、大小のカプセルに保管された魔獣達がフロアごとに系統分けされている。栄光の手や水晶玉などを含めた魔術道具も揃っている。藁人形まであった。
中庭であった場所には毒々しい真紅の薔薇が咲き誇っていた。ブロンズ像であったものは皆人間の死体に置き換わり、何故か全身に赤い鎖が巻きつけられていた。死体の首筋には水平に一周する傷があった。一旦刃物で切断してから元の位置に乗せたように。中央の池はどす黒い水で満たされ、中に棲む巨大な生き物の動きに合わせ水面が揺れる。
地下のボイラー室であった場所には施設の電力源らしき設備があった。壁が妙に厚く、コードやパイプが行き交う複雑な構造はもしかすると小型の原子炉なのかも知れない。解剖室であった場所はここでも同じ目的に使われているようだ。床は血と肉片で汚れ、台の上には胴の破裂した死体が作業を待っていた。隅には順番待ちの死体袋が転がっている。
霊安室であった部屋は妙に下に深かった。半分ほどは袋に収まっていたが、潰れた死体、溶けた死体、焼け焦げた死体、腕が六本ある異形の死体など、様々な死体が無造作に積み重ねられている。その数は一万を超えるかも知れない。虚ろな目を開けたまま、腐りもせずに彼らは放置されていた。
地獄坂研究所は、邪悪なパロディのように天道病院の構造を模しているのだった。
しかし黒贄礼太郎はそんな異景に感心することもなく、悩ましげにボソボソ呟いていた。
「なんだか最初から犯人割れというのは、この間と同じようなネタになってませんかな。話のバラエティが……あ、いや、続けて下さい、どうぞどうぞ」
促され、地獄坂明暗と名乗った黒衣の男が話し始めた。
「この研究所は天道病院に空間ごと重ねてある。同じ場所に天国と地獄が存在するとはなかなか洒落ているだろう。天道病院の玄関をくぐった瞬間に当研究所に相応しい客を選別し、こちら側に送るようになっている。それで黒贄君、どうして私が地獄坂だと分かった」
「別にあなたが地獄坂だと分かった訳ではありませんよ。ただ、院内で一番多く人を殺しておられたのが院長先生でしたからね。地獄坂であろうとなかろうと、この病院で患者を殺しまくっている犯人は見つけ出した訳です。医療ミスで死なせたという程度であんな匂いはつきません。私はこの方面の嗅覚は敏感なんですよ」
黒贄の声は冷静で、気だるげでさえあった。
地獄坂は表情を変えなかった。
「なるほど。殺人鬼探偵という綽名も伊達ではないようだ。人格が切り替わっても手についた血は落とせないということか。私と天音善道の陥っている状況を医学的に表現するなら、解離性同一性障害ということになる」
「ああ、解離性同一性障害ですか。いかにもそんな感じですよね」
黒贄が尤もらしく頷いてみせる。
「無学な探偵と聞いていたがこの病名を知っていたか」
「いえ、全然知りませんな」
黒贄は自信満々に答えた。
地獄坂は怒らなかった。代わりに彼は笑い出した。
「ハ。ハハ。面白い。ハハハハハ。君は実に面白いな。ハハハハ。虚しい。ハハ、虚しい。ハハハ、虚しい虚しい。ハハ。ハ」
地獄坂は笑いながら全くの無表情だった。事務的な笑声が手術室の断末魔に混ざる。
「解離性同一性障害とは一般的に多重人格と呼ばれるものだ。一つの肉体に複数の人格が共存し、時に交代する。私と天音の二人で一つの肉体を共有するので二重人格と言える。容姿までが変化するのは私が自分の体に手を加えているためだ。肉体組織の高速変形能力や自己修復能力の強化など、色々とね。私が表に出ている間、天音は眠っているが、天音が出ている間も私は起きている。表に出ずとも手を操ってメモを残すことくらいのことは出来るのだ。交代の過程を、天音は地獄坂明暗という独立した人間が何処からともなく出現したように感覚しているらしいな。そうだ、君は病院と研究所の二重構造にも気がついていたのかね。随分と興味深げに院内を回っていたが」
黒贄が病院を歩く様子をどうやってか観察していたらしい。
「難しいことは分かりませんな。殺しまくっちゃってる雰囲気を院内そこかしこに感じたというだけです。お陰で欲望も膨らんでしまい、弱った患者程度は目に入らなくなってしまいました」
黒贄の視線が冷たく粘っこく地獄坂に絡みついている。彼の膨らんだ欲望は今、この不気味な二重人格者に向けられているのだ。
「なるほど。ただし、私の研究所の目的は死や苦痛ではない」
黒贄の視線の意味に気づかぬように、地獄坂は元応接室から廊下に出た。透明なドアが自動的に開閉する。黒贄もルチャドーラーのマスクを持ってついていく。
「私の研究は全て力に結びつく。それも強大な力でなければ意味がない。私は世界中の最新兵器を収集し、科学技術を検証し改良を加える。知識を得るためなら国家機密であろうがハッキングでも脅迫でもあらゆる手段を使う。水素爆弾や中性子爆弾も持っているが、威力はまだ私の要求に適うほどではない」
地獄坂は西棟であった場所の様々な機械が置かれたフロアを指し示した。彼は滑るように廊下を歩き足音を立てない。ちょっとした物腰には威圧感でなく、見る者を吸い込むような深い闇の魅力があった。
科学兵器のフロアの上、藁人形や祭壇など奇妙な道具の並ぶフロアを地獄坂は指差した。
「太古から連綿と伝えられてきた魔術は玉石混淆だ。無価値な迷信やプラシーボ効果に期待したゴミも多いが、中には科学技術を超える真の力も確かに存在する。幾つかの魔術系を統合しようと試みているところだ。業頭原重隆の地球儀も復元してみたが、一定以上の面積に効果を及ぼそうとするとすぐにオーバーフローを起こし自壊してしまう。まだまだ研究が必要だ。狂頭杯についてはあまり使い物にならないな。結界などの制限が厳しい割にエネルギー効率は良くない。攻撃にせよ防御にせよ、科学兵器や他の術で充分だ」
「色々と勉強しておられるんですな。私など忘れっぽくて昨日何を食べたかも覚えてません。……あれ、何も食べてないような気がしてきましたよ」
黒贄は地獄坂の後を歩きながら腹を撫でた。
地獄坂は玄関のロビーで立ち止まった。手前に待合椅子に座る老人、奥に様々な機械の並ぶ元検査部がある。地獄坂は東棟を指差して説明を続ける。毛むくじゃらの大男や異様に腕の長い猿、大きな目をした灰色の小人などが縦長のカプセルの中で眠っていた。カプセルは数フロアに及んで千近く立ち、中には人間の姿もあった。
「秘境に生息する魔獣や超能力者を捕獲し、ゲノム解析から生体解剖まで行って能力の源を探る。技術が確保出来れば標本も廃棄するが、解析が完全でないものはコールドスリープで保存している。アーメルは私にとって良い狩場になっている。向こうではこちらの世界を狩場と呼んでいるようだが。そういえば君は元魔王だったな」
アーメルは『影の世界』アルメイルの別名称だった。
「ええ。残念ながら短期政権になってしまいました」
黒贄は澄まして答える。
「殺人鬼の君は権力などに興味はないのだろうね」
広いロビーの待合椅子で、一人の老人が不安げに辺りを見回している。地獄坂は歩み寄り無表情に話しかけた。
「崎村一平、広島の暴力団・咲神会の会長。年齢七十二才、身長百六十八センチ、体重六十四キロ、慢性腎不全にC型慢性肝炎と肝硬変、脳梗塞による右の不全麻痺、前立腺癌の骨転移というのが君のスペックだ。君は何を求めてここに来た」
老人は驚愕の呻き声を洩らす。
「わ……わしはまだ、何も言っとらんのに、そこまで分かるのか。あんたが地獄坂か。あんたの噂を聞いて……そうじゃ、連れが二人おったのに、姿が見えんし連絡も取れんのじゃが」
「同伴者は病院側にいる。こちら側への来所が許されるのは本当に求めている者だけだ。崎村君、君は何を求める」
地獄坂は冷たく問うた。黒贄は黙って見守っている。
老人の希望はスペックから予想のつくものだった。
「不老不死になれると聞いた。病気も怪我もせず、いつまでも若くいられるとな」
「不老は実現している」
地獄坂はあっさり告げた。
「不死については遺伝子改良に細胞の活性化、ナノマシン注入など種々試しているがまだ完璧ではない。新開発した薬剤を検証したかったところだ。これに志願する気はあるかね」
「おおっ、出来るのか。や、やってくれ。金なら一億でも二億でも払ってやる」
立ち上がった老人は地獄坂にすがりつかんばかりだった。だが風のように駆けつけた黒衣の男達が老人の両脇を抱えて奥へ連れていく。
それを横目に地獄坂が言った。
「金は必要ない。払ってもらうのはリスクだ。二百六人に投与して二百二人が一ヶ月以内に死亡した。君が坂を上りきれれば良いがね」
地獄坂の言葉は老人には届かなかっただろう。老人は元検査部で大きな機械に横たえられた。黒衣の男達が無言で機械を操作する。彼らは皆一様に無表情で、動作も連携ぶりも妙に整っていた。
「ふうむ。随分と紳士的に人体実験をしておられますな。適当に攫ってきちゃっても良さそうな気がしますが」
黒贄が倫理的に問題のある発言をした。
「勿論それも常時行っている。住民の移動が活発な八津崎市は拉致には絶好の環境だ。それでも志願者を受け入れるのは、私の研究所が天道病院の裏返しであるためだ。感情的な色合いを付け加えるなら、天音善道への当てつけ、ということになろう」
「ははあ、お互いにいがみ合っておられるんですね。やっぱり頭の中に二人も入ってたら狭くてイライラするとかあるんでしょうなあ」
黒贄が感心したように息をつく。と、元検査部に並ぶ円筒形のガラス容器にある人物を認め、黒贄の目が輝いた。
「おや、あれは神楽さんではありませんか」
「神楽鏡影君と君は知己の間柄だったね」
黒贄と地獄坂が並んで検査部まで歩く。透明な自動扉を抜け、黒衣の男達の傍らを過ぎてガラス容器の前に立つ。
径一メートル、高さ二メートルの分厚い硬質ガラスの中で『闇の占い師』神楽鏡影は胡坐をかいていた。両足の甲を向かいの太股に乗せているので結跏趺坐という仏教の坐法になろう。円筒の上下端は機械が塞ぎ、メーターが幾つも動いていた。
いつもの黒い着物ではなく、灰色の長袖シャツとズボンに素足だった。布地にはみっしりと難解な漢字が書き込まれている。経文か呪文であろうか、しかし既に刃物で何百回も切られたようにズタボロに破れていた。道具は何も持っていない。年齢不詳であった浅黒い肌と野生的な美貌は今ミイラのように痩せこけ、黒かった髪も灰色がかっている。
「ははあ、神楽さんもパワーアップしたくて人体実験に志願なさったのですかな」
閉じていた瞼が弱々しく開き、神楽が黒贄を睨みつけた。憔悴していたがその瞳の奥には刃のような鋭さがあった。
「遅いぞ、黒贄。紅本亜流羽はメッセージを届けなかったのか」
乾いた声を絞り出す口に尖った犬歯が覗いた。彼の牙はまだ失われていない。
「ははあ、紅本さんですか。そんな方がおられましたっけ。こちらには院長先生に呼ばれて来ましたし」
黒贄は頭を掻く。神楽は忌々しげに舌打ちした。
「チィッ。あの野郎、契約以外のことにはいい加減だぜ」
「紅本さんは女性ですから『野郎』というのは不適切だと思いますよ」
その台詞からは紅本亜流羽を覚えていたということになるが、黒贄は自覚しているのかどうか。
「奴に性別はない。そんなことより俺は実験台の志願に来たんじゃない。地獄坂を殺しに忍び込んで捕まったというだけの話だ。暗殺依頼も地獄坂本人の自作自演で、俺は罠に飛び込んだ大馬鹿って訳さ」
神楽は自嘲気味に唇を歪めた。地獄坂が後を継ぐ。
「神楽君の肉体や魔術に興味はない。私は世界の存亡に関わるという『アルカードゥラの予言』が知りたいのだよ。二千七百年前から伝わる予言だが伝承者は悉く抹殺され、内容を把握しているのは神楽君だけだ。残念ながら協力してくれないため、力ずくで情報を引き出すしかない。今は慎重に自爆魔術を解除しているところだ」
神楽の隣のガラス円筒から陰鬱な声が洩れている。
「あのー、私も捕まりました」
閉じ込められている地味なスーツの男は幽霊探偵・草葉陰郎だった。硬質ガラスの表面には何十枚も御札が貼られ、内部では上から人工的に雨が降り注いでいる。
「黒贄さん、あのー、黒贄さん。助けて頂ければ。あのー、黒贄さん」
草葉の小さな声は黒贄に届いていなかった。或いは気づかないふりをしているのかも知れないが。地獄坂に向き直り黒贄は言った。
「さて、地獄坂さん。あなたが勉強家なのは分かり過ぎるほど分かりましたから、そろそろ本題に入りましょうか」
「そうだな。黒贄礼太郎君、私の究極の目的を知りたいかね」
地獄坂明暗の瞬きをしない瞳の中で、闇色の意志が蠢いていた。
しかし黒贄は首を振った。
「いえ、別に興味はありませんな。そんなことよりもっと重要なことがあるのですよ」
「ほう。それは何かね」
地獄坂が尋ねる。黒贄はニッコリと、とびきり無邪気で邪悪な笑みを浮かべてみせた。
「それは、凶器の選択です。自転車を使ってしまったので、この機械辺りをちょっとお借り出来ませんかね」
ガラス円筒の横にあるロボットアームのようなものに黒贄は手を伸ばそうとした。
「気をつけろっ」
神楽の叫び。瞬間、光が閃いた。ビュブゥン、という妙な唸りも。
光と音の中心に黒贄がいた。
黒贄は片方の眉を上げた。その上の額に水平の線が浮いた。ピシリ、と、黒贄の顔に無数の升目が走った。それは全身にも広がり、マスクを持っていた左手首が落ちた。床にぶつかった衝撃で指もマスクもバラバラになる。
顔面が崩壊する寸前にも黒贄は笑っていたように見えた。だが、黒贄の体は数千個の肉片に分解され、あっけなく崩れ落ちた。一辺は数ミリから数センチと様々で、肉の断面は恐ろしくなめらかなものと均一に焦げたものの二種類があった。
刻み肉の堆積を無表情に見下ろし、地獄坂が告げた。
「ドクター・マーダーのレーザースピアと頼澤則常のスーパーソニックブレードだ。発生装置を不可視化し、研究所内に一万台ずつ設置してある。どちらにも欠点はあるが、併用すれば音速で動く相手だろうが市長室の壁だろうが貫けぬものはない。既に科学は個人の力を超越している。たとえ君が人類最強の男であったとしても、生身では科学兵器に勝てないのだよ。もう聞いていないかも知れないが」
「聞いてると思うがな」
ガラス円筒の中から神楽が突っ込みを入れた。数千個の肉片がピクピクと動いているのを観察し、地獄坂が呟いた。
「確かに聞いているようだ。合目的的な動作は不可能だろうが念のため焼いておこう」
ポフン、と肉片の堆積から淡い煙が昇り、一瞬で燃え滓のようなものになった。既に皮膚も筋肉も内臓も失せ、僅かに骨の欠片らしきものが残るだけだ。
「それで黒贄を始末したと思わない方がいい。黒贄礼太郎は人類にかけられた呪いだ。地獄坂、お前如きがどうこう出来るものではない」
神楽鏡影の口調には何処となく誇らしげな響きがあった。
地獄坂は神楽に一瞥もくれなかった。
「黒贄君の特技は、人が見ていないところで肉体を再生することだったな。対策は考えてある」
黒衣の男達がやってきて黒贄の燃え滓をチリトリに掃き込んだ。続いて神楽や草葉が入っているのと同タイプのガラス円筒に注ぎ込む。黒衣の男が十人以上でそれを取り囲み、円筒の底の燃え滓を凝視する。瞬きもせず無表情に。
「人の見ていないところで再生するということは、人に見られていれば再生出来ないということだ。彼らに独自の意志は持たせていないが、観察者としては役に立つ。これからゆっくり研究させてもらうよ。ハハ、虚しい」
他の男達は検査機械から先程の老人を引っ張り出して、手術室へと連行していくところだった。
「虚しい虚しい。虚しい。虚しい、虚しい虚しい。虚しい虚しい」
地獄坂は眉一つ動かさず、感情の篭もらぬ台詞を繰り返していた。彼の口癖なのだろうか。ひょっとすると自分がそんな言葉を唱えていることに気づいていないのかも知れない。
「虚しい。虚しい。虚しい虚しい虚しい。虚しい虚しい。虚しい。虚しい虚しい。虚しい虚しい虚しい虚しい」
宙を見据えたまま地獄坂の全身が震え出した。黒衣の男達の一人が素早く駆けつけ、小さな注射器を地獄坂の首筋に刺して中身を注入した。すぐに震えは止まり、地獄坂は我に返ったようだ。
注射器を収めながら男が抑揚のない声で告げた。
「三十八時間四十二分三十六秒ぶりです」
「そうか。間隔がまた短くなったな」
地獄坂が頷き、黒衣の男は作業に戻っていった。発作か何かだろうか。地獄坂はわざわざ説明などしなかった。
「あのー、一つ言わせてもらいます。あのー、草葉です」
草葉が御札つき円筒から声をかける。だが隣の神楽の声の方が大きかった。
「地獄坂、一つ聞いておきたい」
「何かね、神楽君」
地獄坂は神楽鏡影に向き直った。
「黒贄を呼んだのは地獄坂、お前の意思か。それとも天音の意思か」
「天音の意思だ。黒贄の評判も知っていたようだが、そのくらいが適任と考えたのだろう。天音は心底私を憎んでいるからな。それ故に私という人格が生まれたとも言える」
地獄坂の声音に僅かに感情が加わっていた。だが闇色の瞳からは、喜怒哀楽のどれであるのか読み取ることは出来なかった。
「黒贄礼太郎君の話に戻ろうか。彼は究極の殺人鬼であり、殺人鬼という概念の権化とも言えるかも知れない。では、そもそも殺人鬼とは何か。殺人鬼が人類にとってどんな意味を持つのか。……それは、破壊の象徴だ。ホモ・サピエンスは社会的な生物であり、社会を維持するために法が存在する。法を破ること、即ち犯罪として最も重いものは殺人だ。殺人を目の当たりにした時、人は自分の命も危険に晒されていることに恐怖する。だがそれだけではない。人は自分がすがっていた社会と法が、単なる共同幻想であったということを思い知らされて恐怖するのだ。殺人鬼は人を殺すと同時に社会を破壊しているのだよ」
ガラス円筒の中で神楽は結跏趺坐のまま目を閉じていた。ミイラのような体のせいで即身仏に間違えられそうだ。誰も聞いていないかも知れない講義を地獄坂は続ける。
「ただし、殺人鬼は社会の破壊者にはなり得ても、究極の破壊者にはなり得ない。何故なら殺人鬼は自らの存在意義を殺すべき対象に依存しており、人類なくしては生きられないからだ。黒贄礼太郎君がもし不死身であったとしても、殺す方法は存在する。人類を絶滅させれば良いだけのことだ。私が興味があるのは、究極の殺人鬼という座と不死身との関係だ。神、悪魔、或いは王と、人類は世界の種々の存在に座を設け、力を注ぎ込んできた。そのうちの一つ、究極の殺人鬼という座につくことによって不死身の能力が与えられたのか。それとも不死身であったが故に座につくことが出来たのか。それが分かれば私の目的への指標になろう」
「御高説承った。もういいだろう」
神楽が目を閉じたまま言った。地獄坂が聞き返す。
「何がいいのかね。虚しい虚しい」
「遺言は言い終えたろってことさ」
神楽が両目を開けた瞬間、研究所内が闇に包まれた。だがすぐに本来の淡い光が戻った。
地獄坂が告げた。
「無駄だ。魔術で作った闇であろうと百分の一秒以内に打ち消せる。この結界の中で何がしかの術を使えたことだけは評価しておこう」
無理に魔術を行使した代償か、神楽の両目は溶けて赤い空洞になっていた。だが彼は干からびた頬に野獣のような笑みを浮かべていた。
「百分の一秒でも充分だったみたいだぜ」
「所長」
黒衣の男達の一人が言った。
「黒贄が消えました」
「何」
地獄坂が振り返った。ガラス円筒の底に燃え滓は跡形もなくなっていた。
神楽鏡影の作った真の闇によって、黒贄に対する男達の凝視が解けたのだ。
「むう。ここから逃げたか。いや、逃げたことにしたのか」
地獄坂が歩み寄り、ガラス円筒の下部に顔を近づけた。径二ミリほどの穴が分厚い硬質ガラスを貫通している。
「誰も見ていないというのはブラックボックスと同じだ。そこではどんな奇跡も許される。彼は何処だ。監視カメラには……」
ビキリ、と地下で不気味な破壊音が響いた。地獄坂が目を剥いた。闇の瞳に初めて動揺が走った。
天道病院ではボイラー室であった場所、今は分厚い壁に守られコードとパイプの行き交う部屋で、中心に据えられた径二メートルほどの球形容器が持ち上がっていた。繋がっていたコードがちぎれ、パイプが折れて蒸気が洩れる。
球体を持ち上げたのは黒い死体袋だった。柔軟性のある材質で、縦長の袋からヒトデのように手足分の突起が伸びている。チャックの上端が少し開いており、奥の闇から二つの瞳が覗いていた。あらゆる感情を超越した絶対零度の瞳。
「ポヒャヒョロパー」
死体袋の中から気の抜けた声が洩れた。この世界の全てが無意味であると思い知らせる声。
黒贄礼太郎は肉体再生の成否を包み隠し、しかしそこに死の象徴として立っていた。
地獄坂が怒鳴った。
「ば、馬鹿者、それは重力炉だ。試験運転中の……暴走すればこの研究所ごと吹き飛ぶぞ。いや、或いは凝縮して体積がゼロになるかも知れんな。制御装置が機能しなくなった場合、どちらの可能性が高いか……」
この状況で地獄坂は考え込み始めた。
無数の閃光と空気の唸り。数百ヶ所から同時に発射されたレーザースピアとスーパーソニックブレードは、球形の重力炉を避けて下の死体袋を狙っていた。
「ポヒャヒョロパー」
奇声は一階で聞こえた。掲げた重力炉で透明の天井をぶち抜きロビーに到達したのだ。他の作業に従事していた者も含め黒衣の男達が駆けつける。両手が白熱する男、胴体から数百本の触手を伸ばす男、全身半透明となり流れるように動く男、頭部から百本の銃身が飛び出す男など異形兵器のオンパレードだ。
再びレーザースピアとスーパーソニックブレードが襲った。黒贄は異常な瞬発力で殆どを躱し、避けきれぬものは重力炉を盾にした。特殊合金らしき球体の表面が裂けて煙が噴き出す。死体袋の下部にも何筋か裂け目が出来ていたが中身が見えるほどではない。
「照射はやめろ。炉を傷つけるな」
地獄坂の指示が飛ぶ。レーザーと超音波が沈黙し、黒衣の男達が黒贄に飛びかかる。
「ポヒャヒョロパー」
黒贄が抱えた球体を振り回した。重力炉を傷つけまいと怯んだ男達の体が新幹線に轢かれたプリンのように破裂していく。粉々になった肉片と機械部品が飛散する。彼らの頭から飛び出したのは電子機器で、たまに出る脳組織も常人の一割以下に容積を削られたものだった。
「ポヒャヒョロパー」
着地ざま、黒贄が重力炉を透明な床に叩きつけた。ベキュッと球体が凹む。同時に奇妙な振動が研究所内を伝わっていった。透明な壁に亀裂が走りドアが割れ、全てのフロアの天井からバラバラと細長い機械が落ちてくる。先端部が透明容器に封じられたレーザー照射装置と、先端に細い穴の開いた超音波発生装置。強力な振動波によって土台が破壊されたらしい。科学兵器フロアの機械達が倒れ、魔獣達を保存したカプセルが次々砕け散る。手術室では老人の腕と首筋に薬品を注入していた機械が制御不能となり、老人の体がみるみる膨張していく。目鼻耳口から緑色の液体を溢れさせて老人が破裂した。寸前の顔は笑っているようにも見えた。
神楽鏡影と草葉陰郎を閉じ込めていたガラス円筒も亀裂が蜘蛛の巣状に広がっていき、派手な音を立てて砕け散った。「お先に失礼」と草葉陰郎が一礼し、姿が薄れて消えていく。神楽は弱々しく這い出してくるがその顔は強烈な笑みを浮かべていた。
そんな神楽には目もくれず、地獄坂は黒贄の暴れるロビーへと歩く。百名近くいた黒衣の男達はまだ黒贄への攻撃を続けているが、炉に叩き潰され半分ほどに減っていた。
「ポヒャヒョロパ、パ、パパー」
死体袋にも数十の裂け目が出来ていたが闇が見えるだけだ。重力炉の折れたパイプから青い液体が零れ、表面のパネルから火花が散る。
地獄坂が右手を上げた。手首に巻いた赤い鎖が黒い袖から覗く。突然中庭から流れ込んだ疾風が黒贄の死体袋を切り裂いた。
「ポヒャヒョロパー」
黒贄が重力炉を振り回す。黒衣の男達は叩き殺せるが取り巻く風は速過ぎて捕捉出来ない。
「飛頭鎖という。狂頭杯と逆の効果を持つ魔術武器だが、行動範囲の広さとスピードでこちらが圧倒的に優れている」
肉片と機械部品の散らばるロビーで黒贄の前に立ち、地獄坂明暗が言った。冷たい声音には知者の優越感が潜んでいる。黒衣の男の十人ほどが地獄坂を囲んで護衛する。
「ポヒャヒョロパー」
風が死体袋を大きく引き裂こうとした瞬間、黒贄が奇声と共に重力炉を投げつけた。球体が向かう先は地獄坂ではなかった。
壁をぶち破り超高速回転で凄い唸りを上げ、重力炉は中庭に立つ首なし死体を粉砕した。胴に巻きついた鎖がちぎれ、防腐処理された死肉がグチャグチャに飛び散る。径二メートルの歪んだ球体は直進で二体を砕いた後、急角度でカーブして、魔法のように六体を破壊した。更に透明な壁をバウンドして四体を潰し、弾け飛んだ死体の台座が最後の一体に激突し四散させた。ビリヤードの神業を超える奇跡を地獄坂達は目の当たりにしたのだ。
黒贄を取り巻く風がやみ、床を丸いものが転がった。疾風の正体は死体の生首だった。目を開けたまま動きを止め、ちぎれた黒いビニールを咥えたままのものもあった。鎖を巻いた胴体が破壊され、生首達も術者の支配から解放されたのだ。
仕事を終えた重力炉は薔薇の花を散らして庭を転がり、倒れた台座に乗り上げて飛んだ。往路で開けた穴を正確に通って黒贄の元へ戻っていく。
「ポヒャヒョロパー」
傷だらけの死体袋の中で両腕を伸ばし、黒贄が凶器を受け止めた。
「ハ……。ハハ。ハハハハハハ」
地獄坂が無表情に笑い出した。
「ポヒャヒョロパー」
黒贄が重力炉を振り上げて歩み寄る。黒衣の男達が様々な武器で立ち向かうが悉く叩き潰される。胸部から上だけになっても動いていた男は死体袋に頭を踏み潰された。肉片になっても再生するほどの不死身を彼らは持ち合わせていないようだ。
黒贄の立つ透明な床が凸凹に歪み始めた。いや、上の天井も周囲の壁も曲がっていく。重力炉が暴走しつつあるのだ。黒贄の入った死体袋も歪んでいたが、歩みが止まることはない。
「ポヒャヒョロパー」
無意味な言葉が死を持ってきた。
「ハハハ。ハハハハ。虚しい。ああ虚しい虚しい。ハハハハハ」
所員を全て失っても地獄坂は虚ろに笑っていた。黒贄がもう目前にいるのに逃げもしない。
「ポヒャヒョロパー」
黒贄が重力炉を振り上げ、地獄坂へと振り下ろした。
「ハハッ」
地獄坂が両掌を黒贄に向けた。瞬間、死体袋が派手にひしゃげ中身が完全に潰れたように見えた。掌に内蔵した力場発生装置の成果だった。
だが重力炉のスピードは変わらなかった。直径二メートルの歪んだ球体が大上段から振り下ろされた。逃げる暇を与えず一気に地獄坂の頭を潰し首を潰し肩を潰し胸部を潰し腹を潰し腰を潰し大腿を潰し膝を潰し脛を潰し足首を潰し足先まで完全に潰し果てた。ペシュッ、というあっけない音と共に。
「ポヒャヒョロパー」
黒贄が重力炉を持ち上げた。上下に潰れて厚みを失った肉が凹んだ床にへばりついていた。
その肉がビクビクと蠢いて再生を始めた刹那、黒贄は再び重力炉を振り下ろした。
「ポヒャヒョロパー」
重力炉を持ち上げると、へばりついた肉がベリベリと剥がれ落ちた。
建物全体が軋んでいた。天井が沈んだかと思うと浮き上がり、保管された兵器や装置が別々の方向に宙を漂っている。黒贄もその場を側転しかけ、袋の足先を床に突き刺して位置を固定した。
死体袋の中からはやはり絶対零度の瞳が、地獄坂の残骸を観察していた。肉塊が再び蠢き出した。いや、単に重力が狂ったため上に落ちかけたのだろうか。
「ポヒャヒョロパー」
黒贄は容赦なく重力炉を振り下ろした。ちぎれ飛んだ肉塊は、そのうちに床を這って集合しようとする。
「ポヒャヒョロパー」
黒贄はまた重力炉を振り下ろした。肉塊は肉片へ分解される。それでも肉片がまたピクリと動いた。
「ポヒャヒョロパー」
黒贄はまた重力炉を振り下ろした。肉片がまたヒクリと動いた。
「ポヒャヒョロパー。ポヒャヒョロパー。ポヒャヒョロパー。ポヒャヒョロパー。ポヒャヒョロパー。ポヒャヒョロパー。ポヒャヒョロパー。ポヒャヒョロパー。ポヒャヒョロパー」
研究所が全体がグルグル回る。壁が膨張したかと思えば収縮し、装置や死体があちこちに飛んでいく。そんな狂騒の中、黒贄は何度も何度も重力炉を叩きつけた。浮遊する小さな肉片が、ほんの僅かに、ヒク、と動いたように見えた。
重力炉を肉片ごと床にめり込ませたまま、黒贄は手を離した。死体袋の腹の辺りを撫でる。
黒贄は歪んだ壁と床を蹴っていき、研究所の玄関に辿り着いた。鋼鉄の門は凸凹に歪んでいたが、押し開けると眩い光が差し込んでくる。黒贄礼太郎は向こう側・本来の空間へと去っていった。
ギチギチ、メチメチと研究所が歪んでいく。地獄坂は重力炉が暴走すれば建物が吹き飛ぶか凝縮すると言ったが、どうやら後者の方に向かっているらしい。壁と壁の隙間が狭くなり、床と天井に挟まれて巨大な装置が潰れていく。
地獄坂の肉片達がアメーバのように床を這い、宙を跳ね、合流して少しずつ大きくなっていく。やがて幼稚園児の粘土細工のように大まかな人の形となり、次第に細部も復元される。黒い服までもが修復されていく。
変形した重力炉と床に挟まれたまま地獄坂は再生した。顔の造りは未完成だが出来たばかりの眼球を動かして地獄坂は重力炉を見上げた。いやもうどちらが上でどちらが下なのか分からなくなっている。
重力炉を中心にして景色がグニャグニャに歪んでいた。物体だけでなく光まで重力で曲げられているのだ。建物の軋みも激しくなっている。壁が天井が、コレクションした兵器群と所員達の残骸が重力炉に集まっていく。コールドスリープから解放された魔獣達はしっかり目を覚ます前に潰されていた。
重力炉の操作パネルへ地獄坂は右腕を伸ばした。赤いボタンは停止スイッチか。筋肉がまだ完全でない状態で、狂った重力の中をなんとか這い進む。グギリ、と指が逆向きに折れ曲がった。折角再生した手袋が裂け、肉が剥がれていく。別の指はちぎれて重力炉の側壁にへばりついた。
それでも地獄坂は執念深く試み続け、全ての指を失った右手の先端が操作パネルに届くかと見えた瞬間、パネルが儚い音を発して破裂した。
「じゃ、達者でな」
しゃがれ声で告げたのは神楽鏡影だった。目も回復していない状態で、開いたままの玄関にしがみつき、彼は握っていた金属部品を宙に捨てた。手榴弾の安全ピン。古今東西の超兵器を揃えた地獄坂の研究所で、運命を決したものが手榴弾とはどういう皮肉か。投擲された後は強い重力に誘導され、見事に操作パネルを破壊したのだ。白髪と服の一部を重力に引き破られながら、神楽はなんとか扉の向こうへ這い出して消えた。その後でご丁寧に扉が閉じられた。
地獄坂は何か言おうとしたが声にはならなかった。再生しかけた顔面も喉の肉も一緒に裂け外れて重力炉に吸い込まれた。ズポンと二つの眼球も抜けていく。既に重力炉は丸い暗黒と化していた。大きな装置が小さく潰れながら地獄坂の横を過ぎ、暗黒に呑まれる。目覚めたばかりの毛むくじゃらの生き物が悲鳴を上げていた。機械だらけの所員の残骸が一塊になって飛んできて、髑髏状態の地獄坂にぶち当たった。首から上を持っていき、一緒くたに暗黒へ消えた。胴体は半ばほどが既に闇と同化していたが、地下の廃棄死体の山と床に潰され暗黒へ押しやられた。
地獄坂研究所の体積はどんどん小さくなっていき、ゼロになり、消えた。
五
「ふうん。地獄坂明暗と天音善道は同一人物で、二重人格だった訳だ」
黒贄礼太郎探偵事務所で、客用ベンチに腰掛けて八津崎市警察署長の大曲源が言った。
「そうなんですよ。世の中には色んな変人がいるものですなあ」
フライパンを鍋代わりにして三袋百円のインスタントラーメンを食べながら黒贄礼太郎が応じる。
「で、地獄坂をやっつけたってことだが、天道病院の方、実はまだ営業してるんだよな。天音院長も健在みたいだし。ということは、地獄坂もまだ生きてるってことじゃないのかね」
「ありゃ、そうなんですか。予想以上に丈夫な方だったんですね」
黒贄が驚いてみせるが、箸は麺を口に運んでいた。
「クロちゃんにしては珍しいじゃないか。止めを刺し損ねるなんて」
「いやあ、あの時はちょっと急いでたんですよ。お腹が空いてましてね。私の仕事が繁盛して毎日お腹一杯食べていれば、こんなことにはならなかったんでしょうなあ」
黒贄の何か言いたげな視線を大曲はあっさり受け流す。黒贄は麺を食べてしまうとフライパンを口につけ、スープを全て飲み干した。一息ついて、それから漸く思い出したように言った。
「あれっ、犯人をちゃんと当てたのに報酬を貰ってませんでした」
エピローグ
カーテンを閉め切った古いマンションの一室で、横たわる礼服の男を二人の男が見下ろしていた。裁縫セットを駆使して胴体に手足と頭部を繋ぎ合わせたのだ。
「動くかな」
背の高い男が聞いた。
「動くんじゃないかな。そうじゃないと意味がないだろ」
太った男が自信なげに答える。
と、礼服の男が目を開けた。むくりと起き上がり二人の男に挨拶する。
「いやあこんばんは、黒贄礼太郎です。通称クラちゃんです」
「本当に動きやがった」
背の高い男が唖然とする。太った男が怯えながらも話しかけた。
「お、俺達の依頼は分かってるだろうな。死体の処理を頼みたいんだ」
「ああ、死体処理なら簡単ですよ。おっ、あちらですかな」
黒贄は目ざとくバスルームへ歩き、ドアを開けた。女の絞殺死体を見つけると抱えて引っ張り出す。
「どうするんだ。何処かに運ぶのか」
背の高い男が問う。黒贄はニッコリ笑って答えた。
「簡単ですよ。こうすればあっさり消えてしまいます」
黒贄は死体を窓に投げた。カーテンとガラスをぶち破って死体は外へ消えた。少しして地面にぶつかる鈍い音が聞こえ、通行人らしき誰かの悲鳴が続く。
二人の男は絶句した。黒贄は虚ろな笑みを浮かべて立っている。もしかすると報酬を待っているのだろうか。
玄関の呼び出しチャイムが鳴った。太った男がのろのろと動き、インターホンのボタンを押した。
「片道特急便です。黒贄礼太郎様からの荷物のお届けです」
破れ窓から吹き込んだ風が組み立て説明書を浮かせ、裏返しにした。
裏に組み立て手順の続きが書いてあった。『頭頂部を開け、頭蓋骨内に脳を入れて下さい。』と書いてあった。
立っている黒贄の頭頂部が、鍋蓋のようにズズッとずれた。