第六話 とんでもないものを盗んでいきたい症候群

 

  プロローグ

 

 太陽からも見放されたのか、押舞町は真昼だというのにドンヨリ薄暗く、廃墟のように閑散としていた。コンクリートの壁に配管剥き出しの地下酒場『デスパレート』では十人弱の客がいた。殆どが一人客で、陰鬱な顔で黙って飲んでいる。テーブルに一定リズムで額を打ちつけている男や、自分の手に何度も鉄串を刺している女がいたが、店員は特に注意することもない。

 近くに誰もいない最奥のテーブルで、礼服の男がビールをあおっていた。何杯目になるのか顔は真っ赤に上気し、ジョッキを握る手はフラフラしている。男は繰り返し悲しげな溜め息を洩らし、顎についたビールを拭って店員に手を挙げた。

「ビールのお代わりをお願いします」

「いいんですか。三杯目になりますよ」

 店員が言う。さほど大きなジョッキでもなく、礼服の男はあまり酒に強くないらしい。

「いいんですよ。もうどうでも……」

 礼服の男は投げ遣りに答えまた溜め息をついた。

 店員は肩を竦め、新しいジョッキを持ってきた。礼服の男は早速五分の一ほどを飲み干し、テーブルに置くと勢いで少しビールが零れた。

「どうしたクロちゃん。えらい落ち込みようだな」

 入ってきたばかりの客が礼服の男のテーブルに歩み寄り声をかけた。地味なスーツに疲れた顔、死んだ魚のような目をした男だ。

「おや、署長さん……」

 礼服の男は濁った視線を返す。

「助手に聞いたら最近こっちで飲んだくれてるってな。何があったんだい」

 別段心配するふうでもなくスーツの男が尋ねる。

「もう、駄目なんですよ。もう、私は駄目です」

 礼服の男はジョッキに口をつけてまたまた溜め息をついた。

「奇声が、思いつかないんです」

 

 

  一

 

 パリにジュデームと名づけられたテナントビルがある。プレゼントの箱のようにリボンを巻いたデザインの、百二十階建ての白いビルだ。数々の有名企業や高級店が入っており、倒壊したエッフェル塔に代わりパリの新しい名所となりつつあった。

 百一階にはヨーロッパで一、二を争う宝石店エル・ドラードの本店がある。フロア全体を占める店はいつもならセレブ客で賑わっているのだが、その日は早めに閉店し、店員達が緊張した様子でしばしば互いの顔を見合わせている。

 煌びやかな店内に百名以上の警官が詰めていた。彼らは防弾チョッキを着け、ライフルとショットガン、更には自動小銃まで持っている。何か恐ろしいものの襲来に備えているかのように。

 中年の刑事がしかめ顔で手に持ったカードを見直した。三日前にエル・ドラードに送りつけられたもの。

 カードには滲む光の輪を背景に、日付指定の上で『午後六時に貴店の宝石全てを頂きに参上します』とフランス語で書かれていた。今時珍しい犯行予告状だ。

 署名は『ECLIPSE』となっていた。

 刑事はカードを持つ手を返して腕時計を見た。午後五時五十五分。

「奴ら、本当に来ますかね」

 隣に立つ若い刑事がフランス語で言った。中年の刑事は答える。

「必ず来る。奴らはこれまで予告通りにやってきたからな」

「……。でも、予告状が誰かの悪戯ってこともあり得ますよね」

「いや、予告カードのことは知れ渡っているが、マスコミはデザインまでは報道していない。インクの種類もこれまでの予告状と一致している。本物だ」

 若い刑事はそれを聞くと不安げに周囲を見回し、溜め息をついた。中年の刑事が尋ねる。

「怖いのか」

「そりゃ、怖いですよ。奴らは大抵派手に殺しますからね。僕は遺言まで書いてるんです」

 若い刑事はスーツの内ポケットから封筒を覗かせた。中年の刑事は苦笑する。

「奴らは力ずくで押し入るようなことはしない。逃げる時は別にしてな。うまく逮捕出来れば出世街道まっしぐらというところだが……っと、そろそろ六時だな」

 中年の刑事が腕時計を見て言った。店員も警官達も顔を強張らせ店内を再確認する。何も変化はない。

 中年の刑事は秒針を見つめ、残り時間を読み上げていった。

「後十秒。九秒。八、七……」

 突然天井のスプリンクラーが作動した。百一階のものが同時に全て。噴き出した水はすぐ霧状となり、避ける間も与えず人々に降りかかる。店員と警官の体がみるみる白く変わっていく。

「こ、凍る。体が……」

 中年の刑事はそれ以上言葉を続けられなかった。口が凍りついていたからだ。スーツも防弾チョッキも重装備も全て凍り、彼らは白い彫像と化していく。逃げようとした姿勢で凍った店員はそのまま倒れて粉々に砕け散った。若い刑事は泣きそうな顔のまま凍っていた。

「ゼロ。丁度六時だ」

 動く者のないフロアでスプリンクラーの噴射がやみ、エレベーターの凍った扉がひび割れながら開いて男の声が響いた。渋みのある声音の英語。

「皆さんこんばんは。おっと、フランスだからボンソワールだな」

 フロアに降り立ったのは三十代半ばほどの男だった。黒いマントで肩から下を隠し、高い鼻筋だが黒髪と褐色に近い肌はラテンか東洋の血が入っているかも知れない。謎めいた深みを湛える黒い瞳は、見つめる対象を嘲笑しているようでもあった。

 男の額には第三の目があった。ただし本物ではなく輪郭を黒で、瞳を赤で描いたタトゥーだ。男がフロアを見回す間、時折光の加減か第三の目が輝いて見えた。

 マントの裾を揺らめかせて男が歩く。左耳に装着された小型通信機からしわがれ声が洩れた。

「『コキュートス』の効果はどうじゃ」

「上々だ、プロフェッサー。皆うまい具合に固まってる。ショーケースも凍ってるが中身は問題ないだろう」

 答える男の口から白い吐息が洩れる。

「液体窒素のように高圧下で保存する必要もなく、空気に触れて初めて冷却作用を発揮するから扱いも比較的容易じゃ。スプリンクラーに仕込む以外にも色々使い道はありそうじゃな。『コキュートス』のネーミングはギリシャ神話の地獄を流れる川で、ダンテの『神曲』においては裏切り者が氷漬けに……」

 通信機の自慢げなお喋りを、ちょっとうんざり顔でマントの男が遮った。

「プロフェッサーの発明が偉大なのは分かってるから、しっかり外の監視を続けてくれ。こちらは手早く品物を頂くからな」

 彼に続いてエレベーターから出てきた者が四人。三人が男で一人が女だった。

 長身に白シャツ、白ズボン、白い靴という白ずくめの男は三十才前後に見えた。常人よりやや腕が長く、引き締まった肉体はしなやかに動く。金髪を綺麗に撫でつけ産毛も剃り上げ、眉の手入れまでやっているようだ。青い瞳は女性にモーションをかけるような魅惑的な光を放っているが、残念ながらフロアには氷の彫像しかいない。

 白ずくめの男は左右の腰に二本ずつ剣を下げていた。更に大きな剣を二本クロスさせて背負い、別の剣を腰の上で横差しにしている。柄や鞘は良く磨かれ、使い込まれているようだ。右脛にもバンドで短剣を留め、左胸には兵士がやるように柄を下にして大型ナイフを固定していた。そのため気取った服装を台なしにした異様な姿となっているが、本人が自覚しているかどうか。

 次の男は二メートル三十センチを越える巨人だった。ただし頭部と胴体は普通で、手足だけが異常に大きいのだ。金属剥き出しでゴツゴツしたデザインは一目で義肢と分かる代物だ。巨大ロボのような偏平足が歩くたびにゴトゥンゴトゥンと重い音を響かせ、手足の関節部からはしばしば蒸気が噴き出しプシューと高い音を発する。拳の幅は三十センチほどもあり、前腕部には何かの発射口や折り畳まれた骨組みのようなものが付属している。両腕だけでもとんでもない重量になるだろうが、男が背負った動力源らしき箱が手足に繋がって支えているようだ。いや、逆に手足のついた枠に男の胴が収まっているというべきか。男は裾の長いシャツの上から胸部と腹部をベルトで固定されていた。

 男の頭部から顔の右側までひどい火傷跡が残り、右目はあまり閉じられないようで充血している。髪は後ろの方に少し生えていた。陰惨で酷薄な顔つきは火傷のせいばかりではあるまい。

 次の女はキラキラと光を反射するドレスを着ていた。スパンコールではなく、金属を編み込んだ生地にびっしりと宝石を嵌め込んであるのだった。ダイヤにルビー、エメラルド、サファイア、トパーズ、真珠などが金銀細工で飾られどぎつい輝きを放っている。重量のあるドレスを着こなす体のプロポーションは見事なものだ。

 長い金髪は色が濃く質感がおかしかった。金を練り込んだ細い糸を頭皮に植毛しているらしい。両耳朶にはダイヤのピアスを入れ、真珠の粉を塗りたくったように肌は白い。整った目鼻立ちをしているが、右目は眼球の代わりに大きなサファイアが収まっており美貌よりも異様さを際立たせる。

 女の腰の左右にはドレスに不似合いなものがあった。しなやかな鞭を輪にまとめて吊っていたのだ。黒い鞭の表面が光るのは細かなダイヤの粒子を吹きつけているせいだ。

 少し離れて最後尾を歩く男は眉根を寄せて物悲しげな顔をしていた。年齢は三十代後半か、灰色の地味なスーツに灰色がかった髪。十字架のペンダントが胸元で揺れている。灰色の瞳はここではない思い出の世界を見つめているようでもあった。

 彼らは義肢の男以外、分厚い手袋を填めていた。

「じゃあ、始めよう」

 マントの男の声を合図に、四人の男女はショーケースを壊して中の宝石を掻き集め始めた。それぞれ持った大きな袋に片っ端から詰めていく。灰色のスーツの男は気だるげに、義肢の男は荒々しい動作で。宝石ドレスの女は一番高価なものを吟味しつつ丁寧に摘まんでいった。女の赤い唇がめくれてダイヤモンドの歯列が覗く。

 仲間の仕事ぶりをよそにマントの男は悠然とフロアを回遊する。と、中央付近に立つ二人の刑事を認めて近寄った。

「初めまして、エクリプスだ。予告通り参上したが今日はちょっと寒いな」

 皮肉な笑みを浮かべてマントの男は言った。刑事達は苦悶の表情のまま白く凍っている。

「わざわざ挨拶しても、聞こえていないかも知れないな。だが安心したまえ、慎重に解凍すれば蘇生する可能性もある。おっと」

 マントの男はわざとらしく中年の刑事の足を蹴りつけた。中年刑事が傾いていき、若い刑事を巻き添えに倒れた。スーツの内ポケットに収まった遺言状と共に、二人の刑事は粉々になった。もうどれがどちらの部品か分からない。

「気の毒に。これではもう蘇生は無理だ」

 マントの男は肩を竦めた。

「ミラージュ、金庫室はこっちよ」

 宝石女がマントの男を呼んだ。フロアの左手奥に金庫室へ続く通路があり、太い鉄格子に遮られていた。

 マントの男はそちらを一瞥しただけで仲間に丸投げした。

「スチームマンかダンディーが手伝ってやれ」

「引き受けた」

 手を挙げたのは白ずくめの剣士だった。手袋を脱いで鉄格子の前に立ち、ヒュッと鋭い呼気を吐く。右肘から先が霞み銀線が残像と化した。

 スー、コン、と、全ての鉄格子が上端と下端で切れて倒れた。白ずくめが右手に握るのは両刃の長剣で、左腰に下げていたうちの一本だった。剣には刃こぼれ一つない。

「レディーファーストですぞ、プレシャス」

 白ずくめが剣を収め、掌で恭しく通路を示す。宝石女は満足げに進んでいった。白ずくめが急ぎ足で先回りし、今度は背中の大剣を抜いて金庫室の分厚い入り口を切り開く。金庫室へ先に入ったのはやはり宝石女だった。積み上げられた金の延べ棒と超級の宝石を前にして女の左目が輝いた。

 フロアではショーケースの宝石を粗方袋に収め終えたところだったが、エレベーターの扉が再び開き、エスカレーターからとタイミングを合わせて武装警官達がフロアに雪崩れ込んだ。

「うおおおおお動くなっ」

 エレベーターから拳銃を構えた刑事が叫ぶ。

 だが奇妙なことが起こった。彼らは泥棒達に目を向けることなく一直線に走り、凍った同僚達を押し倒しながらフロアを駆け抜けて壁に激突したのだ。

「あれっ」

 刑事が目を瞬かせた。その背中に警官達が次々ぶつかり重なっていく。エスカレーター組も別の壁で団子になっていた。

 メチメチ、と刑事の顔が壁に押しつけられ変形していく。後ろの警官達も駆けるのをやめ苦鳴を上げるだけだ。では最後尾で何者が押しているのか。

 押しているのは義肢の巨人だった。巨大な機械の手で容赦なく彼らの背を押し、機械の足が蒸気を噴きながら進んでいく。メキョグシャと体が潰れ手足がへし曲がり、二十名ほどの警官達は厚さ三十センチの肉塊となって壁にへばりついた。巨人の火傷顔は飽くまで無表情だった。

 別の壁でもがいている列を顎先で示し、マントの男が物悲しげな男に命じた。

「ローンガンマン」

 内容まで指示しなかったのは自明であるためだろう。だが呼ばれた男は溜め息をついて首を横に振った。

「まだだ」

「ガンマン」

 マントの男の声がきつくなる。物悲しげな男は手袋を脱ぎながら低い声で返した。

「術を解いてくれ、ミラージュ。俺は無防備の相手は撃たん」

「またそれか」

 マントの男は舌打ちした。呆然としていた警官達が、急に我に返ったように泥棒達に視線を合わせる。

「お、お前ら動くなっ」

 彼らが銃を構え直した瞬間別の場所から銃声が轟いた。弾丸は狭い場所に集まっていた警官達の胸や頭を貫通して壁の大理石を散らす。一発に聞こえたが実際には連射したらしく、十数名の警官全員が即死して崩れ落ちた。

 物悲しげな男がスーツの内側から抜き撃ちしたのは、全長四十センチはあるリボルバーだった。撃鉄以外の突起物は照準も含めて排除され、素っ気ないフォルムとなっている。撃鉄に左掌を添えていたことから、引き金を絞るだけで自動的に撃鉄の起きるダブルアクションではなく、引き金を絞ったまま撃鉄を左掌で叩いて連射したのだろう。

 長い銃口から白煙の立ち上るリボルバーを折り曲げ、拳銃弾にあるまじき大きさの空薬莢を床に落とす。五発全てが空だった。

 男は新しい弾丸を一個ずつ装填し、スーツの内側にリボルバーを戻した。

「八方からパトカーが駆けつけてきとるぞ。百台くらいはおるな。そろそろ潮時じゃろ」

 マントの男の左耳で通信機が告げる。

「そうか。じゃあプロフェッサー、来てくれ」

 マントの男が言った。金庫室の方から白ずくめの剣士と宝石女が戻ってきた。幾つもの袋を白ずくめが背負い、宝石女はただ一つ、ピンポン玉ほどもありそうな斑点模様の石を掌に載せていた。

「あった、あったわ。ディアブロ……世界最大のブラックオパールよ。ああ、もう……私にピッタリね」

 女は愛しげに石に頬ずりした。手袋を脱いだ彼女の爪はプラチナでコーティングされていた。

 マントの男が頷いた。

「よし、撤収だな」

 フロアに不気味な震動が届く。硬質な破壊音が上方から近づいていた。ビルが揺れ、氷の彫像がまた幾つか倒れて砕けた。

 天井を破って巨大な物体がフロア中央に降り立った。全長約十メートル、草履のような形をした乗り物だ。黒いスカート部から下向きに空気を吹きつけ、床から浮き上がるホバークラフトだった。後部の推進用プロペラも含めて駆動音は意外に静かなものだ。前部には左右に一本ずつ大きなロボットアームがついており、これで天井を叩き割ってきたのかも知れない。ホバークラフトの屋根全体が持ち上がり、内部からしわがれ声が呼びかけた。

「早う乗れ」

 操縦者は車椅子に座る老人だった。黒人で、爆発アフロは完全に白髪になっている。丸縁眼鏡は左目側に小型モニターが取りつけられ、片耳に掛ける形の通信装置も左耳についていた。分厚い唇はパイプを咥えていたが煙は昇っていない。アロハシャツに半ズボンというラフな服装だが、老人の手足は細く萎縮して殆ど役に立たないように見えた。電動車椅子は普通の車椅子とほぼ同じ大きさにまとめられている。左右の肘置き先端には小さなトラックボールやボタン、ジョイスティック、オプションのパネルなどがついており、車椅子の操作からホバークラフトの操縦まで指を動かすだけで出来るようになっていた。

 袋を持った盗賊達が全員乗り込むと、ホバークラフトの屋根は閉じた。老人が尋ねる。

「外の警察にも挨拶していくかね」

「当然だな」

 マントの男が答えた。ホバークラフトが急加速で前進し、二本のロボットアームが張り手するように前へ伸びた。

 ホバークラフトは壁を突き破り、地上百一階の高さから外へ飛び出した。

 ビルに駆け込もうとしていた警官達が、降ってくるホバークラフトを見上げてポカンと口を開けた。

 盗賊達は余裕の笑みを浮かべていた。落下速度は一定以上にならず、適切な姿勢を保って降下していく。

 全長十メートルのホバークラフトは、名物ビル『ジュデーム』の玄関へ優雅に着地した。

「動くなっ」

 拡声器で刑事が怒鳴る。大通りはパトカーで埋め尽くされ、二百人を超える警官がホバークラフトに銃を向けている。先走った若い警官が発砲したがガラス風防に弾かれただけだ。防弾仕様になっているらしい。

 だが屋根が後ろへと開き、白ずくめの剣士と宝石女が立って風防の上に身を晒した。警官達へにこやかに手まで振り始める。

 あまりの大胆さに警官達は麻痺したようになっていた。刑事が顔を真っ赤にして拡声器で怒鳴りつける。

「撃て、撃ち殺せっ」

 物悲しげな男の発射した大型拳銃弾が拡声器ごと刑事の顔面を砕き、貫通して三名の警官を即死させた。ホバークラフトが急発進した。警官達が狂ったように撃ちまくるがその時点で三十名が射殺されていた。物悲しげな男の持つリボルバーは五発しか装填出来ないが、普通に貫通しただけでは殺せない人数であり配置だった。弾が途中でカーブでもしない限り。

 警官隊のばら撒く銃弾の雨の中、盗賊達は平然と立っていた。女のドレスを覆う宝石がライフル弾を撥ね返し、白ずくめの男の抜いた大剣が超絶的な反応で弾丸を叩き落とす。見当違いの方向を撃っている警官もいた。単に慌てているのか、それとも現実とは異なる幻を見ているのか。義肢の巨人が両腕を警官達に向けた。轟音と共にパトカーが吹っ飛んだ。両義手にグレネードランチャーが仕込んであったのだ。

 前を塞ぐパトカーをロボットアームが殴り飛ばし、警官達の間をホバークラフトがすり抜ける。宝石女が鞭を振った。粉末ダイヤを塗りつけた鞭は警官の首をまとめて刎ねていく。白ずくめも大剣を振る。ホバークラフトが通り過ぎた後で警官の胴が斜めに切れてずり落ちた。

「アッハッハッ」

 動かぬ黒マントが笑った。

「ヒョヒョヒョ」

 ホバークラフトとロボットアームを操りながら車椅子の老人が笑う。

「ハハハハハ」

 大剣を振って人体を両断しながら白ずくめが笑った。

「ガハハーッ」

 義肢の大男が火傷顔を歪めて豪快に笑う。再び前腕から飛んだ擲弾が数名の警官を肉塊に変えた。肘や肩から蒸気が噴き出している。

「オホホホホ」

 宝石女は左手で口元を隠してお上品に笑い、右手は鞭を振っていた。

 物悲しげな男は黙々と弾を込め、リボルバーを発射した。一発で最低でも三人は射殺していた。

 百名ほどを殺戮してからホバークラフトは上昇を始めた。屋根が閉じ、側面から飛行機の翼が伸びる。同時に機体の数ヶ所から何かが上方へ発射された。夕焼け空に咲いたのは大輪の花火だった。機体後部からはナイアガラ式花火が美しい雨を降らせる。遠巻きに見ていたパリ市民達の顔が輝いた。手を振っている者もいた。百発近い花火の余韻を残して去るホバークラフトを、生き残った警官達は呆然と見上げていた。

 元ホバークラフトは一定高度に達すると水平飛行に移った。表面は全体が赤く変わっている。空の色に合わせたカモフラージュ機能があるようだ。

「フランスはこれで一通り、狩り尽くしたな」

 マントの男が言った。

「次は日本じゃったな。仕掛けにかなり予算を食うが、今日の収穫は売り払ってしまって構わんかの」

 車椅子の老人が尋ねる。ブラックオパールを撫でながら宝石女が口を出す。

「このディアブロは絶対売らないわよ。それから良さそうなものはドレスに編み込むから、残りは売ってもいいわ」

「日本にサムライはいるのかね」

 白ずくめの剣士が背中の日本刀を叩いてみせた。

「この刀は気に入っている。サムライがいるのなら是非とも勝負してみたいところだ」

「いるだろうさ。ヤツザキシティには色々いるらしいからな」

 マントの男が答えた。

「それで、ヤツザキシティというのは日本のどの辺りにあるのかね。トーキョーかな」

 白ずくめの質問にマントの男は一瞬固まり、微妙な顔で首を振った。

「さ、さあ……。それはどうも、まずい質問のような気がするな」

 

 

  二

 

「エクリプスって盗賊団がいてなあ」

 八津崎市警察署長の大曲源が話し始めると、殺人鬼探偵黒贄礼太郎は尤もらしく頷いた。

「ああ、エクリプスですか。なかなか大変ですよねえあれも」

「へえ、クロちゃんはエクリプス知ってたのかい」

 やる気なさそうに大曲が聞く。黒贄は爽やかな笑顔で即答した。

「いえ、全然知りませんな。あ、もしかしてキノコの一種ですかね」

「そりゃアガリクスだろ」

「ええっと、それじゃあポカリスエットに似た飲み物で……」

「分かった。アクエリアスだな」

 間抜けなやり取りを眺めていた探偵助手のスライミー藤橋は、常人なら顎が外れそうな大欠伸を一つして「アホらしい」と呟いた。

 野菜畑に囲まれた裏通りの古いビル。最上階の四階に黒贄礼太郎探偵事務所はあった。長い亀裂をかすがいで留めた部屋の壁にはキャッチャーマスクや石の仮面、縁日で売っているような特撮ヒーローのお面など様々なマスクが飾られていた。鰐の頭部の剥製や伸びきったブルマーなど奇妙なものも多く混じっている。左のドアは南京錠も加わって厳重に守られ、右の半開きのドアからは流し台や冷蔵庫が覗く。右の棚には両腕のないトロフィーや、少女の生首を防腐剤に漬けた瓶が収まっている。可愛らしい顔立ちの生首は目を閉じて眠っているようにも見えた。

 棚の横にはそこそこ高級な椅子があり、骸骨が行儀良く座る。首から上も髑髏だと思われるが、何故かマリリン・モンローのゴム製マスクが頭からかぶせてあった。

 正面に黒贄礼太郎の机があり、ダイヤル式の黒電話と上面に丸い穴の開いた箱が載っていた。彼の座る丸椅子には九百八十円の値札がついたままだ。

 黒贄礼太郎は二十代後半から三十代前半であろう。身長は二メートル近く、所謂マッチョではないが骨太でがっしりした体格だ。黒の略礼服はアイロンがけとは無縁のようで皺だらけになり、赤い染みの残るワイシャツにネクタイは締めていない。整髪料を使わず左右がアンバランスな髪。彫りの深い端正な顔立ちだが肌は異様に白く、切れ長の瞳は眠たげだ。薄い唇は何かを面白がっているように僅かに曲げられている。

 机の手前にある客用椅子は公園やバス停で使われる木製ベンチだった。真っ二つになったものに板と釘で修復した痕がある。

 大曲源はベンチに気だるげに背をもたせて足を組んでいた。年齢は三十代後半か、だらしなく緩めたネクタイは地味なスーツに不似合いなほどカラフルだ。腹は贅肉でやや弛んでいる。短く刈った髪に疲れた顔、力のない目は死んだ魚のようだ。首筋と右手は人工皮膚で覆われ、体内から微かにモーター音が洩れていた。

 左には小さな事務机とパイプ椅子がありスライミー藤橋が退屈そうにしている。室内なのに青い雨具と長靴という服装だ。肌艶は良く、肥満した体と顔の肉がちょっとした動作でプルプルと揺れる。つぶらで大きな目は威圧するようにギョロついているが、逆立った髪も目鼻の配置も油断すると地滑りを起こしてずれていく。ゼリーの上にパーツを置いたみたいに。

「それで、そのアガリクスがどうかしましたかな」

 黒贄が先を促した。

「いやエクリプス。日食とか月食とかの『食』って意味らしい。で、そういう名前の国際盗賊団がいるんだ。ここ四、五年かな、ヨーロッパを派手に荒らし回ってた。事前に盗みを予告するカードを送りつけて、警備が厳しくなったとこをあっさり出し抜いて盗んでく。地下にトンネルを掘ったり、大きな銅像に潜んで侵入したりは普通のことで、巨大なショベルのついた飛行船でトレビの泉を丸ごと掘り出してったり、町中に睡眠ガスを撒いて教会の大時計を盗んだり、でかい仕掛けも使うみたいだな。先月はパリの宝石店で、警備してた警官達をカチカチに凍らせてたそうだ」

「ははあ、カチカチですか。なんだかカキ氷が食べたくなってきましたな」

 黒贄が唇を舐める。スライミー藤橋が尋ねた。

「大将、そのカキ氷ってのは野菜かい」

「んー、まあ野菜を入れれば野菜になりますな。そんなものですよ人生なんて」

 大曲が話を続けた。

「盗むまでは巧妙なんだが逃げる時は派手に力押しでな。大抵は警官を殺しまくっていく。奴らなりの美学というか自己顕示欲があるんだろうさ。ドイツでは軍隊も出動したが軽くあしらわれたらしい。エクリプスのメンバーはたった六人なんだがな。面も割れてるし懸賞金もかかってるんだが、全く手に負えん状況だ」

 黒贄が興味深げに上体を少し乗り出してきた。

「ほほう、懸賞金ですか。ちなみにお幾らほどですかな。いえお金が欲しいという訳ではないんですよ、単なる好奇心です。ただ、野菜に使う肥料代も馬鹿になりませんからねえ。本当に困ったことです」

「各国の警察や被害者の遺族なんかが出してて、合計で百十万ユーロと二十万ポンドだ。日本円にすると合計二億三千万くらいかな。ただし盗品の回収も目指してるから生け捕りが条件になってるのも多い。死体なら三十万ユーロくらいだったと思うが」

「ううむ。死体だとグッと下がるんですねえ。困りましたな。まあしかし、三十万ユーロでも大金ですよね。三億円くらいになりますし」

「いやそれ計算違う。五千万円くらい」

 大曲があっさりした突っ込みを入れ、傍らに置いていた大きな封筒から一枚のカードを取り出した。机の上に置かれたカードを黒贄は手に取った。

 トランプほどの大きさで、滲む光の輪が背景に描かれていた。食を示しているのだろう。文章は日本語で、日付指定に加えて『正午に八津崎市を頂きます』と書かれていた。最後の署名は筆記体で『ECLIPSE』。

「なるほど。なかなか大それた犯行予告ですな」

 黒贄はカードを置いて感心したふうに言った。

「八津崎市を頂くってのはどういう意味かね。クロちゃんはどう思う。市長の座を頂くとか、市の予算を頂くとか」

「ううむ。やっぱり、八津崎市を丸ごと頂く、という意味じゃないですかねえ」

 黒贄は腕組みして唸った。

「しかしなあ、八津崎市ってのはこう見えてもでかいんだぜ。人口八百万くらいの時期もあったしな。面積も首塚市と暗川市を足したくらいはあるんだ」

「で、署長さんよ、その首塚市と暗川市ってのはどんくらいの広さなんだ」

 藤橋が尋ねると大曲は決まり悪げに咳払いした。

「まあ、そんなことは置いといてだ。こうやってエクリプスの予告状が警察署宛に届いた訳だ。予告では明日の正午に盗むことになってる。それで、クロちゃんにはエクリプスの犯行を防ぐか、迎撃するか、殲滅して欲しいんだ」

「ふむ、犯行を防ぐか迎撃か殲滅ですね。殲滅というのはちょっと人聞きが悪いですので逮捕に協力ということにさせて頂きますが、報酬はいかほどでしょうな」

 大曲は小指で耳をほじりながら答えた。

「警察署が爆破されて建て直しに随分費用がかかっちまってな。あまり予算がないんだ。ヨーロッパの国がかけた懸賞金を山分けってことでどうだい」

 爆破を指示したのは大曲本人だが、そういう自覚はないらしい。

「懸賞金だと殺してしまったら少なくなりますねえ。いや別に殺すと言っている訳ではなくて、飽くまで事故というか不可抗力というか、人生はなかなか思うようには行かないものですし、生きるというのは本当に大変なことで……」

 黒贄がはっきりしないことを喋っている間に大曲は封筒から残りの書類を出して机に並べた。写真つきのプロフィールが六枚。

「で、エクリプスのメンツなんだが、こいつがボスのミラージュって奴。ミラージュってのは蜃気楼って意味だ。本名、年齢、出身地全て不詳」

 大曲が立ち上がって写真の一つを指した。褐色の肌、額に第三の目の刺青を入れた男。

「いつもマントつけて気取ってるだけなんだが、幻術を使うようだな。狙ったつもりが丸っきり見当違いの方向に撃ってたり、追いかけてたらいつの間にか崖から落ちてたってこともあるらしい」

「なるほど、人生も気づかないうちに袋小路に嵌まり込むことはありますからねえ」

 黒贄が尤もらしく頷く。

「部下達は五人衆とか名乗ってる。フランスの雑誌に自分達でポーズを決めた写真を投稿したりして、自己顕示欲旺盛な奴らさ。それぞれ個性派だがエクリプスのナンバーツーはこいつだろうな」

 大曲はアフロの老人の写真を示した。

「この爺さんがプロフェッサー。こいつだけは素性が分かってる。本名サンク・ピーターセン、六十八才。アメリカ人だ。元マサチューセッツ工科大学の教授で、十年前にトラブルで退職してる。筋肉の病気で手足が萎縮しててな、彼の体をからかった生徒がプレス機で潰されたような死体で発見されたらしい。証拠不足で逮捕はされなかったんだがな。機械工学を始め色んな方面で画期的な発明をして現代のニコラ・テスラと呼ばれてたそうだ。エクリプスの使う乗り物や仕掛けはこいつの設計と考えられている」

 黒贄が目を細めて真剣な顔で言う。

「この髪型ですが、もしかすると巨大な頭をアフロで誤魔化しているのかも知れませんね」

 大曲は無視して白シャツに金髪の男を指した。写真は上半身を収めており、背にかけた二本の剣の柄が見える。男はカメラ目線で微笑していた。

「この気障がダンディー。でかい剣とか日本刀とかナイフとかを振り回して斬りまくる。動きが速過ぎて腕が十本くらいに見えるらしい」

「実は本当に腕が十本生えているという可能性も捨てきれませんよ。シャツのこの辺の膨らみは怪しいですな」

 大曲は金色の髪をした女の写真を指した。

「この女がプレシャス。ドレスに目一杯宝石を埋め込んで着飾ってる。髪を本物の金にして片目の代わりに宝石を入れてる変態だ。特殊な鞭を使って人の首でも刎ねるらしい」

「何、女か。美人か」

 スライミー藤橋が机に駆け寄り、写真を確認するとなんとも微妙な顔になって戻っていった。

 大曲は火傷顔の大男の写真を示した。金属製のごつい腕も写っている。

「スチームマン。両手足が義手義足で怪力だ。動力はどうも蒸気機関らしいな。多分プロフェッサーの発明品だろう。義手には砲身が仕込まれてるそうだ」

「サイボーグはその辺が便利ですよね。署長さんも義手に携帯電話を仕込んでますし。私も胃に食料を仕込むことは可能ですが、どうも寂しいことになってまして」

 黒贄は自分の腹を撫でた。大曲は何やら悲しげな顔をした男の写真を指した。灰色のスーツに灰色の髪。胸に十字架が掛かっている。

「最後がローンガンマン。ポリシーがあるのか非武装の相手は殺さないそうだ。綽名通りガンマンでどでかい拳銃の早撃ちなんだが、同じ直線上にいない数人を一発で殺したりして、弾道がカーブしてるんじゃないかって話だ」

「きっと握り方の違いですよ。回転する縫い目が絶妙な空気抵抗を生み軌道を変化させるのです」

 大曲は突っ込みも入れずに「じゃ、明日は頼むわ」と去っていこうとした。

「おっと署長さん、くじをお願いしますね。今回は……そうですなあ、報酬に期待して二枚引いて頂けますか」

 黒贄は机の上の箱を指差した。上面に手首の入る程度の穴が開き、中には折り畳まれた紙片が詰まっている。

「二枚だな。ほい」

 大曲は箱に左手を突っ込んで無造作に二枚を掴み出した。黒贄が楽しげにまず一枚を開く。

「百一番ですか。人間凶器ですな。何年も使ってない凶器があるのにちょっと不公平な気もしますが、正当な手続きの結果ですからまあいいでしょう。さて、次は……ありゃっ」

 黒贄が二枚目のくじを開いて妙な声を発した。眉をひそめて凝視する紙片には、百一の番号が書いてあった。

「おかしいですな。それぞれの番号は一枚ずつしか入れてない筈ですが」

 黒贄が箱の中を覗き込む。

「どうもくじの数が多いような気がしますな。本来の三倍くらいは入ってそうな……最近のくじは増殖するんですかねえ」

 首をかしげる黒贄に藤橋が言った。

「大将、くじなんだけどよ。この間大将がいない時に百一番の奴がやってきて、自分の番号のくじを大量に入れてたぜ」

「なんとっ。どうして今まで黙っていたのですか」

 黒贄は呆れ顔になる。モジモジしながら藤橋は答えた。

「だってよう、あの人、怖いんだもん」

「ううむ、これはフェアではありませんぞ。署長さん、くじの引き直しを……」

 大曲は既にいなくなっていた。車のエンジン音が遠ざかっていき、グボォンと何かを轢く音に続いた。

 

 

  三

 

 首借町のバー『介錯』は貸し切り状態で、午前零時を過ぎても二人は踊り続けていた。

 一人は三十才くらいの男で服装は靴まで白ずくめだ。腰の左右に二本ずつ、右脛左胸背中も合わせて九本の刃物がカチャカチャと揺れる。

 男は、ダンディーであった。

 一人は若い女だった。宝石を散りばめ過ぎてかなりの重量になっていそうなドレスと、純金を塗りつけた髪。女の右目には眼球の代わりに多彩に輝くブラックオパールが嵌まっていた。

 女は、プレシャスであった。

 店内のBGMはクラシックだったが、二人はワルツを踊っていた。手に手を取って、テーブルを押しのけた広いスペースをクルクル回る。やがてそれがメリハリのついたタンゴに移行する。更にはアクロバティックなジルバが始まる。激しい動きを続けて数時間、二人は汗も掻いていなかった。邪魔になる背中の剣を、ダンディーは意地でも外す気はないようだ。

 カウンターの隅で、灰色の地味なスーツの男が静かにグラスを傾けていた。髪も灰色で、十字架のペンダントが胸に下がっている。つまみはなく、ロックのブランデーを少しずつ飲んでいる。琥珀色の液体を物憂げに見つめながら、男は別のものを見ているようでもあった。それは彼方に過ぎ去った苦い思い出か、或いは自身の荒んだ未来か。

 ローンガンマンは腕時計を確認すると、グラスの残りを飲み干した。安物のデジタル時計だった。バーテンが卑屈な笑顔で「次は何になさいますか」と尋ねる。

「いや、もういい」

 ローンガンマンは低い声で答えた。違和感のない日本語だ。立ち上がり、札束を手掴みでカウンターに置く。一万円札が百枚近くあった。

「釣りは要らん」

 ローンガンマンはまだ踊っている男女に声もかけず出口へと向かう。バーテンが「ありがとうございました」と頭を下げて見送った。

 夜の街は混沌としていた。頻繁に聞こえる怒号や悲鳴、パトカーと救急車のサイレンに更には消防車のそれが加わり、音波がビルを木霊してやかましい。遠くで銃声が聞こえてローンガンマンは反射的に立ち止まったが、やがて憂鬱な顔で歩き出した。

「何処も同じか」

 ローンガンマンは呟いた。右方のビルで誰かの言い争う声が聞こえ、虚ろな悲鳴となって落ちてくる。ローンガンマンが脇へ避けると、パジャマ姿の男がアスファルトに激突しドギュリと嫌な音を立てた。腕と首がねじれ、変形した顔がローンガンマンを見て何か言いたげにパクパク動いた。

 ローンガンマンは横を通り過ぎた。

「地獄に落ちることは分かっている」

 誰にともなくまた呟いた。

「問題は、いつどうやって行くかだ」

 若い女の悲鳴が聞こえ、急に途切れた。近い。左の細い脇道からだった。ローンガンマンは足を止めてそちらを見た。

 薄闇の中で数人の男が若い女を押さえつけていた。口を塞ぎ上着を引き裂いている。強姦目的は明らかだった。

 ローンガンマンは今度は通り過ぎなかった。

「やめろ」

 大きな声ではなかったが男達には届いた筈だ。自分が言われたとは思わなかったのだろう、少しして漸く一人が振り返った。

「何だ、外人か」

「女を放せ」

 ローンガンマンは淡々と告げた。男達が互いの顔を見合わせる。

「へえ、正義の味方さんか。自分の国と勘違いすんなよ。ここは八津崎市なんだぜ」

 一人が持っていたナイフを上げてチラチラ見せつけた。ローンガンマンは答えた。

「正義の味方ではないが……」

 銃声と共に男の顔が爆ぜた。飛び出した眼球や脳の欠片が他の男達の服にかかる。女が派手な悲鳴を上げた。

「……お前達の敵ではあるようだ」

 ローンガンマンは拳銃を抜いていた。全長四十センチの大型リボルバー。白煙を立ち昇らせる銃口はまだ男達に向けられたままだ。

「消えろ」

 男達は慌てて立ち上がり、仲間の死体を放って走り去っていった。女が破れた上着を合わせ起き上がる。

「八津崎市の噂は本当らしいな。君のような女性が暮らすには向かないんじゃないか」

 ローンガンマンの言葉に女は首を振った。

「だって、八津崎市は税金がないもの。被害に遭うかどうかは確率の問題じゃない」

「そうか。自分で選んだ道なら仕方がない」

 ローンガンマンは拳銃を収めて歩き出した。少しして後方から「ありがとう」と礼の言葉が届いた。ローンガンマンは振り向かなかった。

 大きな十字路に出た。左の道の先には市役所や警察署の建物が見える。八津崎市の中心地なのだ。右は血乃池のオフィス街に繋がっている。深夜のため殆どのビルは明かりが消えているのだが、街灯も半分近くが割られ、所々にあるコンビニが街の重要な光源になっている。おでんの屋台が燃えているがまだ消防車は来ておらず、鉢巻の親父が喚いている。

 ローンガンマンは横断歩道を渡り直進した。クラッシュした自動車が放置されているが、一瞥して中に死体しかないのを確認し通り過ぎる。

 焼け残った廃ビルがあった。ローンガンマンは扉のない玄関を抜ける。

 ゴミの散らかる階段を下りていき、真の闇に踏み込んだところで側壁に淡い明かりが点いた。ステッカーのような薄いライトで、人の接近を感知して点灯する仕組みのようだ。

 最下層である地下二階の廊下を少し歩き、ローンガンマンはしゃがみ込んだ。汚れた床に小さな鍵穴がある。ポケットから鍵を出して差し込み、一回転させた。

 カターン、と床が自動的にずれていき、下への階段が現れた。段も壁も金属製で所々に継ぎ目と蝶番が見える。ローンガンマンが踏むたび階段が微かにたわんで軋みを上げた。土をぶち抜いた穴に折り畳み式の階段を設置したものか。

 階段の先に丸い地下室があった。いやそれは地下室というより地下洞窟に嵌まり込んだUFOと表現すべきだろうか。直径三十メートルほどの床にドーム状の屋根、その大部分は強化ガラスで周囲が見渡せるようになっている。ただし今見えるのは粗く削られた岩肌ばかりだ。床の近くから伸びた八本の太いチューブが岩肌に刺さっていた。微かな震動が床に伝わってくる。

 室内は生活のための小部屋を除けば司令室やコントロール室に似ていた。幅二メートルほどにボタンやレバー、モニターがびっしり並んだ操作パネル。その前に電動車椅子の老人がいた。爆発したような白髪のアフロと萎縮した細い手足はプロフェッサーだ。その傍らの椅子に腰掛ける男がローンガンマンを振り返った。

「ダンディーとプレシャスはまだ飲んでいるのか」

 マントで体を覆い、額に第三の目のタトゥーを入れた男はミラージュだった。

「飲んでいない。踊っている」

 ローンガンマンは素っ気なく答え、空いている椅子に座った。椅子は脚の先端が車輪でなくマグネットで、鋼鉄の床から簡単にずれないようになっている。

「まあ、いい。朝までに帰ってくればな」

 ミラージュは言った。プロフェッサーがパネルを睨んだままローンガンマンに説明する。

「作業は順調に進んどる。北東の岩盤にやたら硬い場所があってな、スチームマンを向かわせた。午前八時までには全域をカバー出来る筈じゃ。この機構のミズガルズソルムルという名は北欧神話に由来しておる。大地を取り囲み自分の尻尾を咥えた蛇で、ウロボロスとも同義でな。かつてトール神が持ち上げようとして果たせなかった猫の正体はこの大蛇で……」

「その薀蓄は五回目だ」

 ローンガンマンが告げる。プロフェッサーは一瞬鼻白んだがすぐお喋りを再開する。

「わしの開発した『アンダイン』は一定周波数の音波で瞬時に硬化して、理論的には無限の圧力にも耐えられる。硬度は低いため武器としては役に立たんがの。アンダインのネーミングは水の精霊に由来しておる。ドイツ語読みではウンディーネじゃな。アンダインの姿は透明であるという説と……」

「それを聞くのも四回目だ」

 ローンガンマンに指摘され、プロフェッサーは不機嫌な顔で「もう少し知性に対する敬意というものを……」などと呟いた後は黙り込んでしまった。細い手で懐からパイプを取り出して咥える。煙草を詰める代わりに側面の小さなスイッチを押した。自身が開発したものか、パイプ煙草と同じ風味を得られる電気仕掛けの器具らしい。

「八津崎市の警察は、特に厳重に警備しているふうでもないな。まあ、八津崎市を盗むというのがどういうことかも分かっていないのだろう」

 ミラージュが言う。モニターは地上に仕掛けた幾つかのカメラ映像も表示していた。

「それにしてもカオスじゃな、この都市は。まるで警察の手が足りておらん。無政府主義者の坩堝じゃ。盗むだけの価値があるとも思えんが」

 プロフェッサーの言葉にミラージュはニヤリと笑ってみせた。

「価値があるから盗むんじゃない。盗むから価値があるんだ」

 ローンガンマンは仲間のやり取りを聞かず室内を見回していた。ゴミ箱から『一時間で完全マスターする日本語』という本が顔を出している。日本到着前に全員読み終えたものだ。

 ローンガンマンは立ち上がって本を拾い上げ、パラパラとめくるが再びゴミ箱に捨てた。

「寝る」

 仲間に言い残してローンガンマンは小部屋に入った。

 

 

  四

 

 その日は雲一つない快晴だった。八津崎市は相変わらず喧騒に満ち、悲鳴や怒号や銃声を聞きながら市民達はそれぞれの日常を過ごしていた。

 黒贄礼太郎は徒歩で八津崎市警察署に向かっていた。服装はいつもの略礼服に薄汚れたスニーカーで、右肩に二メートル近い凶器を担いでいる。

 その凶器は人間の姿をしていた。筋骨隆々としたスキンヘッドの巨漢だ。鋲つきの黒い革ベストと革ズボンで、ベストの背には銀の刺繍で『人間凶器』となっている。額には『101』という刺青が施され、低く潰れた鼻と厚い唇は数限りなく打撃を受け止めてきたことを示している。全身を凄い傷痕が覆い尽くし、ズボンの裾から覗く足首は火傷痕のように変色していた。

 男は百一番の凶器・大谷五郎であった。

 両腕も体側につけて一本の棒と化し、兵隊が行進中に担ぐ銃のように後ろ向きのやや傾いた姿勢で固まっている。黒贄は大谷の両足首を持っているだけだ。普通ならくたびれて腰を曲げ、上半身が黒贄の背まで垂れ下がるだろうが、大谷は身じろぎもせず耐えている。小さな目は見開かれたまま瞬きせず、異次元の悦楽に酔っていた。

 その人外の視線から逃れるように、スライミー藤橋はキュウリを齧りながら距離を取ってついてくる。いつもの青い雨具姿で大きなリュックを背負っているが、開いたチャックからはゴボウやネギがはみ出していた。中身は全て野菜らしい。

 異様な三人を、通行人の一部は呆れ顔で避け、残りの多くは平然とすれ違っていく。

「この大通りは市長通りと呼ばれているそうですよ」

 黒贄が振り返って藤橋に言った。拍子に振り回された大谷が信号機の柱にぶち当たり変形させる。大谷は痛がる様子もなく僅かに口元を緩めただけだ。

「自分の名前が地名になるとは羨ましいですなあ」

「へえ、市長ってのは名前だったのか」

 藤橋は本気で感心しているようだ。黒贄も歩きながら大真面目に頷いてみせる。

「そうですよ。八津崎が名字で市長が名前なのです。八津が名字で崎がミドルネームという可能性もありますが。ああ、私も黒贄通りとか黒贄町とか作って欲しいものですなあ。いや、クラーニ独立王国なんてのを立ち上げるのもいいですな」

「多分国民は大将一人だけになるぞ」

 藤橋はキュウリを平らげ背中のゴボウを抜いた。まだ土のついているそれを鋏で少しずつ切って食べる。大谷は会話に耳を傾けることもなく人間凶器の役割を果たしきっている。

「おっ、あれが新しい警察署ですな」

 黒贄が左手で指差した。市役所の隣に大きなビルが出来ている。十階建てくらいでヨーロッパ風の洒落た建物だ。

「ははあ、随分と奮発したものですなあ。市役所より豪華になると市長さんがどう思われるか心配ですが。まあ、受理か不受理しかありませんからねえ」

 喋りながら近づくうちに建物の細部が見えてきた。玄関には『八津崎市警察署』という看板がついているのだが、どうやら木製のようだ。煉瓦造りに見えた壁は妙に質感が悪い。

「ありゃ、意外に安普請なんですかね。最近は手抜き工事が流行ってますからねえ」

 窓は全て閉じ、カーテンがかかっていて内部の様子が見えない。強い風が吹くとガタガタと壁が微かに震動している。

「ありゃあ、随分とこれは……」

 黒贄は大谷を担いだまま開け放しの玄関扉を抜けた。斜めに直立不動の大谷が玄関の外枠にぶつかりバリッと破り抜けた。

「あ、ありゃ……」

 黒贄も流石に絶句した。大きなビルディングに見えたものは、ベニヤ板で四方を囲んだ巨大なセットだったのだ。洒落た煉瓦も窓も全て塗装で、一歩中に入ると無地の裏側と支えの棒があからさまだ。偽物ビルの中に平屋の地味なプレハブがあった。木製ドアの入り口に八津崎市警察署の札が貼ってある。

「市の財政は苦しかったんですなあ。そう言えば私も税金など払ったことがありませんでした」

 大谷で壁を壊さないように気をつけて黒贄は中に入った。ゴボウをモゴモゴさせながら藤橋が続く。

 署内は広いフロアに机が雑然と並んだだけの以前と同じ構造だった。机の数は千以上あるが今署内にいるのは四、五十人程度だ。他は日夜多発する犯罪のため駆けずり回っているか、殉職しているかのどちらかだろう。

 黒贄達を認めて受付の若い婦警が声をかけてきた。

「私立探偵の黒贄さんですね。署長は在室しております」

「はい、『くらに』ですのでクラちゃんとお呼び下さい」

 婦警は案内しようと歩き出したが、黒贄がついてこず何かを待っているふうなのに気づいて、改めて頭を下げた。

「クラちゃんさん、よろしくお願い致します」

「いえいえこちらこそ」

 黒贄は満足げに礼を返し、担いだ大谷が天井を破った。婦警について歩きながら藤橋が黒贄に耳打ちする。

「まあまあいい女じゃねえか。狩場の全ての女は俺のもんなんだぜ」

 本人は囁きのつもりだったかも知れないが実際は署内に響き渡っていた。婦警も他の警官も聞こえないふりをしている。

 散弾が通り抜けたような穴だらけのドアに『署長室』の札があった。婦警がノックして開ける。

「よう、来たかクロちゃん」

 署長の大曲源が軽く片手を上げた。彼は高級な革張りの椅子に逆向きに腰掛け、背もたれを抱いていた。

 署長室には横長のソファーが向かい合わせに二つあった。間のローテーブルはガラス製で、昨日黒贄に見せた資料と同じものが広げてある。

 左のソファーには二人の男が腰を下ろしていた。

 一人は室内なのにダークグレイの鍔広帽を目深にかぶって顔を隠していた。同じ色のロングコートには汚れや小さな穴が目立つ。彼の姿は時々陽炎のように揺らめくことがある。

「ははあ、ブラックソードさんも参加されるんですか」

 前に獲物を奪われたことを思い出したか、黒贄が微妙な顔になる。今は剣里火と名乗る男は鍔広帽を頷かせた。

「うむ。それなりに調子も戻り、丁度周波数もこの世界に合ったのでな」

 彼の声は錆びた機械を無理矢理動かしたような軋み音だった。

「どうも人数が多いようですな。分け前がちょっと寂しいことになりそうで。とにかく神楽さんもお元気そうで何より……」

「黒贄は向こうに座れ」

 もう一人の男・神楽鏡影が強い口調で言った。地獄坂研究所に囚われていた時はミイラのようだったが、完全に回復したらしく野生的な美貌が戻っている。年齢は二十代でも四十代でもおかしくないだろう。伸ばした髪は後ろで束にまとめられ、青い作務衣に草履という格好だ。

 右のソファーに座る女を認めてスライミー藤橋が隣に腰掛けようとしたが、強烈な侮蔑の視線を受けて慌てて離れた。結局黒贄が右のソファーに、藤橋が左のソファーに座る。

 右のソファーには警察官の男女がいた。

 女の年齢は二十代後半であろう。制服の胸元が大きく開いてグラマラスな肉体を強調し、肉感的な太股が挑発的に交差している。ウエストや足首は細く、ハイヒールの先端は錐のように尖っていた。ショートカットの髪。両耳のピアスから銃弾型の飾りが下がっている。凛とした中に何処となく禍々しさを感じさせる美貌。オレンジ色のシューティンググラスを着け、ベルトと一体化した左右のホルスターにはオートマチックとリボルバーが収まっていた。ベルトとホルスターは鰐革だった。グレネードランチャーつき自動小銃と象撃ち用の大口径ライフル銃、そしてポンプアクション式のショットガンをまとめて膝に載せていた。

 八津崎市警察署の副署長・森川敬子であった。彼女は落ち着きなく指を握ったり開いたりを繰り返し、向かいのソファーに座る極上の獲物二人を観察していた。味方である彼らの体に穴が開くところを想像しているのか、赤い唇を時折舐める。

 その横にいるズタボロの制服の巡査は城智志だった。人を殺すためだけに鍛え上げられた肉体は僅かな緩みもなく腹筋の溝は深い。手入れを放棄した髪には赤いものがこびりつき、見開き気味の目は殆ど瞬きをせず完全に散瞳していた。

 愛用のハルバードは後ろの壁に立てかけ、城は右手に大きな血塗れの鋏を握っていた。左手首から先がなく、断面は肉が盛り上がって傷を塞ごうとしている。自分で切り離したらしい左手首はテーブルの上にあった。大谷五郎をハルバードの横に立てて黒贄が腰を下ろすと、同じソファーの城が話しかけた。

「黒贄さん、今本官は体がバラバラになっても動かせるように練習してるところなんです。この間剣さんがバラバラになって活躍するのを見て、本官もあんなふうになれたらかっこいいなと思いまして」

「わしは体の一部を異次元に通しておるだけで切り離してはおらんのだが、説明しても分かってもらえぬようだ」

 剣が小さく首を振る。

 城の左手首はヒクリヒクリと痙攣していた。いや、どうやらそれは持ち主の意思に応じて動いているらしい。黒贄は微笑した。

「独自の道を模索するのは良いことですよ。キャラかぶりも防げますしね。一時はどうなることかと思いましたよ」

 大曲が椅子に乗って回転しながら言った。

「さーて、それで本題に入りたいとこだが今十一時五十分だ。クロちゃんはエクリプスについて何か分かったかい」

「いえ、それが全く。一時間前まで熟睡しておりました。私に調査能力などを期待してはいけませんな」

 探偵としては致命的な発言だが黒贄は飽くまでにこやかだ。大曲も黒贄のことを分かっているので怒りはしない。

「ま、始まるまではそんなもんだよな。警察の方は今のとこサッパリだ。市民から妙な男女を見かけたって通報が一件あってな、どうもダンディーとプレシャスっぽかったんだが人手が足りんから放ってた」

 副署長の森川は不機嫌そうな顔で黙っている。黒贄が何度も頷いてみせた。

「そうそう、分かりますよ。『明日出来ることを今日やるな』というのは鉄則ですよね」

「エクリプスの犯行予告日は今日です。後九分しかありません」

 まだ敬語モードで神楽鏡影が話し始めた。

「この三日間、私なりに探索の手を広げてみましたが、分かったのは彼らがこの八津崎市の中心にいるということだけです。隠蔽のための結界が張ってあるようです。首領のミラージュは単純な幻術師でなく魔術師と判断すべきでしょう。八津崎市を盗むというのが何を意味するかですが、核兵器などで市を丸ごと消滅させる可能性も考えました。ただし、『頂く』ことと消し去ることは一致しませんし、これまでのエクリプスの目的は破壊でなく窃盗であること、彼ら自身が八津崎市内に留まっていることから可能性は低いと思います」

「市長さんを誘拐するというのはどうでしょうな。八津崎市の頂点であり象徴ですからね」

 黒贄が言う。

「その可能性もゼロではありません。ただ、市長室は常時アルメイルの戦士達が守っていますし、あの市長があっさり拉致されるとは思えませんね。逆に盗まれてくれた方が八津崎市も少しはまともになるかも知れませんが」

 神楽は皮肉な笑みを浮かべた。めくれた唇の間から牙のような犬歯が覗く。

「やっぱり予告状通りに、八津崎市そのものを盗むんじゃないでしょうか」

 城智志が昨日の黒贄と同じことを言う。彼の左手首はまだテーブルの上を這い回っていた。

「ふうん。どうやって」

 大曲が尋ねると城はあっさり答えた。

「分かりません。先程副署長に撃たれて脳味噌が半分になりましたので」

 城が制帽を脱ぐと頭頂部に穴が開いて減った中身が見えていた。まだ治りかけらしい。

「部下は厳しくしつけるべきですから」

 森川は当然のように言い放った。

 黒贄は城を見ながら渋い顔で顎を撫でた。

「まずいですな。やっぱりかぶってる……キャラがかぶってますぞ。早いところ退場して頂かないと……」

 殺人鬼の呟きを無視して剣里火が言った。

「わしが呼ばれて事情を聞いたのは一時間前だ。残念ながら調査する暇はなかった」

「と、いう訳でだ。取り敢えずここで何かが起きるのを待ってるのさ。警察ってのは事件が起きてから動くもんだ。犯行前に捕まえても手柄にならんだろ」

 大曲が気楽に問題発言をした。突っ込む者はおらず、スライミー藤橋はリュックから野菜を出して黙々と食べている。

「後三分だな」

 壁の掛け時計に鍔広帽を向け剣が言った。大曲はビーフジャーキーを取り出して食べ始めた。

「後二分」

 神楽が言う。周りの様子に変化はない。何処かで銃声が聞こえたが関係ないだろう。

「後一分」

 森川がライフルなどを肩掛けして立ち上がった。指が撃ちたそうにヒクついている。

「三十秒」

 大曲が腕時計を覗き込む。城が左手首を回収して元の位置にくっつけた。双方の筋繊維が繋がろうと蠢いている。大谷五郎は壁を向いて斜めに立てかけられたまま動かない。

「残り十秒。何も起きんな」

 大曲が左右を見回し再び腕時計に視線を戻す。狙っているらしく黒贄が大きく息を吸い込んでいく。大曲が秒読みを始める。

「五、四、三、二、一……」

 黒贄が「今」と叫ぼうとした瞬間、大曲が壁の掛け時計を見て「あ、ちょっとずれてた」と言った。皆が肩透かしを食い、黒贄が非難しようとした頃に不気味な地鳴りが始まった。

「お、来た来た。何処からだ」

 大曲が立ち上がりかけて大きくよろめいた。建物全体が激しく揺れているのだ。立てかけていたハルバードと大谷五郎が倒れる。それぞれ持ち主が慌てて拾い上げた。

「うちの建物だけじゃなさそうですよ。地震ですかね」

 城が窓の外を覗いて言った。ただし偽装ビルの裏側が見えるだけだが。部屋の電灯が急に消えた。揺れが更にひどくなり、藤橋の尻がソファーから五十センチも浮き上がった。

「まさかとは思うが……」

 神楽が窓を開け外へ飛び出した。背中から半透明の黒い翼が生えて上昇していく。

 プレハブが軋み、床も天井もたわむ。地鳴りは遠くから届いているようだ。

「さて、敵は何処ですかな」

 黒贄が大谷の両足を持ち肩に担ぐ。森川は歪んだドアを蹴破って部屋を出ていった。ハルバードを持った城が追う。大曲は空いたソファーに寝転がった。

 神楽が戻ってきた。珍しいことに顔から血の気が引いている。

「信じられん。どうやったらこんなことが出来る。奴らは八津崎市を丸ごと……」

 剣が座ったまま後を継いだ。

「都市を大地ごと掻き取り、持ち上げおった。八津崎市が宙に浮いておる」

「そいつは凄えな。文字通り盗んじまった訳か」

 大曲は面白がっているようだ。目は相変わらず死んだ魚のそれだったが。

 野菜のリュックを両手で抱え、スライミー藤橋が皆に命じた。

「ほんじゃ行ってきな。俺はここで留守番しとくからよ」

 セットの板がプレハブに倒れ込んできた。

 

 

  五

 

 八津崎市は浮揚していた。

 八津崎市の土地面積は千三百平方キロメートルで、東京都の半分強に相当する。丸めの台形かいびつな円形と表現すべき形状をしている。

 その全ての土地を含む半径二十二キロメートルの大地が抉り取られ、見えない巨人に持ち上げられたように浮かんでいるのだった。下から見ると地盤はやや平坦なドーム状で、表面に半透明の青い膜が張っている。薄い膜に見えるが、これがどうやら八津崎市の膨大な重量を支えているらしい。

 送電線が引きちぎれ都市の電力供給は途絶えた。上昇による揺れと地盤の歪みにより建物は軋み、壁に亀裂が走り窓ガラスが割れていく。道路はハンドルを取られた車が歩道に乗り上げたり対向車に激突したりして大混乱に陥っている。窓を破って転げ落ちる人。駐車中のトレーラーがずれていき通行人を押し潰す。高層マンションがプリンのようにゆらゆらと揺れ、限界に達したものが倒壊を始めた。人々の悲鳴。隣市との境をなしていた三途川は端から水が零れ落ち干上がっていく。露出した川底には腐った死体や白骨が山積みだった。今更になって逃げようとしたのか乗用車が途切れた道から飛び出して下界へ落ちていった。

 揺れは五分ほどで安定してきた。ただし地面や建物はヒビ割れ、事故や倒壊や火災に巻き込まれて悲鳴を上げている者も多い。そのうちショックから立ち直った一部の人々は、掬い取られた都市の端に近寄ってみる。真横に青空が見え、爽やかな風が人々の頬を掠める。勇気のある或いは命知らずの者達が切れたアスファルトの縁まで這っていき、下を覗いた。

 本来の大地は遥か下にあった。建物はミニチュアと化し、既に八津崎市は標高千メートルを超えているようだ。巨大なクレーターは真下でなく彼方にあった。八津崎市は浮かんだだけでなく移動しているのだ。一体こんなことが人類の技術で可能なのか。

 市役所や警察署に近い市の中心地、直径四十四キロの円の中心にも当たる場所で、倒壊した廃ビルの瓦礫を破って何かが顔を出した。種の発芽を早送りで見るようにどんどん伸びていき、建物群の頭を超えていく。先端は幅三十メートルの空飛ぶ円盤のような代物で、ドーム状の屋根の大部分と底面の一部は硬質ガラス製で見通しが良くなっている。円盤を支えているのは径一メートルほどの青い柱で、八津崎市全体を支えているのと同じ材質だろう。表面が水のように流れているが芯は非常に強靭で、持ち上げられた円盤は殆ど揺れていない。

 円盤の中には六人の男女がいた。

 九本の刃物を身に帯びた白ずくめのダンディー。

 宝石を散りばめ過ぎた異様なドレスに本物の金髪のプレシャス。

 機械仕掛けの巨大な手足を持つ火傷顔のスチームマン。

 操作パネルの前で車椅子に座るアフロ頭のプロフェッサー。

 仲間達と離れて立つ物悲しげなローンガンマン。

 そして額に第三の目を刺青し、マントで体を覆ったボスのミラージュ。

 ローンガンマン以外の五人は、悦楽と優越感に満ちたニヤニヤ笑いを浮かべて混乱の都市を見下ろしていた。

 円盤は一キロほどの高さで停止した。側面の四ヶ所が開いて大型の拡声器が現れる。ブヅン、というノイズの後にプロフェッサーのしゃがれ声が流れ出た。

「あー、本日は晴天なり、本日は晴天なり。聞こえるかの、八津崎市の皆さん。あ、聞こえとるか、良し」

 返事もないのに独りで完結している。強力な拡声器で、声は径四十キロを超える八津崎市の隅々まで響き渡った。現在の生存市民二百六十万人の殆どが聞いたことだろう。

「まず念のため言っておくが、わしらの下に立つ柱を攻撃しようと思わぬことじゃな。この柱がわしらの司令船を支えておるのではない。この司令船が柱を介して八津崎市を吊るしておるのでな。間違って柱が折れると一キロの高さから都市が落下することになるぞ。まあ、わしのアンダインが折れることはまずなかろうがな。わしが発明したアンダインの強度は理論的には無限じゃ。これ一本で地球を支えることも出来るのじゃ。アンダインの名の由来は水の精霊に……」

 長話になりそうなプロフェッサーを制し、ミラージュが操作パネルのマイクに顔を近づけた。

「八津崎市の皆さん、こんにちは。我々はエクリプスだ。知らない人のために説明しておくが、フランスパン一本から古代遺跡まで、予告したものは必ず盗む世界一の怪盗団だ。これまで失敗したことは一度もない。ところで市民の皆さんに報告がある。君達は盗まれた」

 ミラージュの宣言を、二百六十万の八津崎市民は呆然と聞いていた。ある者は路上に立ち尽くし司令船を見上げ、ある者は瓦礫に挟まれたまま、ある者は停止したエレベーターに閉じ込められたまま聞いた。ドサクサ紛れに銀行や電器店を襲いながら聞く者もいた。更に何を勘違いしたのか司令船へ手を振る者もいた。

「エクリプスは八津崎市の土地も人間も含めて全てを頂いた。君達の命も我々の手の中にある。さて、我々は獲得した品は売り飛ばすか自分で使うかコレクションとして保管するかのどれかにしている。八津崎市をどうするかだが、我々にはこの浮遊都市を活用するアイデアもないし、コレクションに加えるにも大き過ぎて邪魔になる。よって、売り飛ばそうと思う。買い手は誰でもいい。最低落札価格は一兆円で、最も高い値をつけた者に売ることにする。買い手の希望次第で何処にでも輸送するし、何処にでも投げ落としてやろう。下手な核兵器よりも破壊力があるだろうな。落札の猶予期間は三日間だ。それまでに買い手がつかなければ仕方がない。東京の上空からこの汚らしい都市を捨てて我々は帰ることにする。このメッセージは世界各国のテレビ局と政府機関に送っておく。市民の皆さんも自分達が誰に売られることになるか、楽しみにしていたまえ」

 拡声器が引っ込んで蓋が閉じた。と、また開いてしゃがれ声が後を継いだ。

「すまん、追加事項じゃ。出来れば避けたいが、予算の関係やらでどうしてもということなら八津崎市の切り売りも可能じゃ。例えばこんなふうにのう」

 ズズズ、と不気味な震動が八津崎市を包んだ。半径二十二キロの八津崎市の北東端、約一キロ四方が分離してずり落ちていくのだ。その部分だけ青いアンダインの支えがなくなり、分離線に新たな壁を形成していた。切り離された土地にいた数万人の悲鳴は空に呑まれ、やがて、八津崎市の一部であったものは遥か下の大地に墜落した。その時の揺れを地球上の全ての生物が体感したことだろう。

 上の住民数万人と下の住民数千人を犠牲にして、日本に新しい丘が出来た。

「以上じゃ。では、御機嫌よう。ヒョヒョ、ヒョ」

 今度こそ本当に拡声器は引っ込んだ。

 八津崎市民はパニックに陥らなかった。

 

 

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