六

 

 森川敬子は自動小銃をほぼ垂直に向け、手応えを確かめるように一発ずつ発射した。

 八津崎市の地面から一キロの高さにある司令船の底に、弾丸はなんとか届いたものの虚しく撥ね返されるだけだ。距離が遠過ぎるせいもあるが圧倒的に威力が足りない。

 一つの弾倉を撃ち尽くすと森川は舌打ちして諦めた。大口径のライフルに持ち替えて今度は青い柱に照準を合わせる。建物群の上に顔を出した、最も近い箇所を狙って発射する。距離は百メートルを少し超える程度だったろう。象を即死させる破壊力を秘めた弾頭は、しかし柱の表面に傷一つつけなかった。跳弾したらしく何処かでコンクリートの砕ける音。

「柱を壊したらまずいんじゃないですか」

 横で目を凝らしながら城智志が言う。彼は右手でハルバードを引き摺っている。

「大事なのは勝つか負けるかよ。勝ちさえすれば後のことはどうだっていいのよ」

 苛立たしげに森川は答えた。もし柱を破壊出来ても司令船は宙に留まったまま、自分達は落下して死ぬことになるのだが、それを敗北とは呼ばないのだろうか。

「おーい、作戦会議やるぞ」

 後方から大曲が声をかける。警察署のセットは倒れ、プレハブの建物も半分潰れてしまっていた。警察官も含めて全員外の広場に集まっている。

 森川と城は引き返していった。広場の中央で大曲が面倒臭そうに胡坐をかき、黒贄礼太郎と神楽鏡影、剣里火がそばに立っている。黒贄は大谷五郎を右肩に担いでいた。スライミー藤橋の姿はない。潰れたプレハブ内でまだ野菜を食べているのだろう。

 メンバーが揃うと大曲が進行を務めた。

「ということで予告通り盗まれちまった訳だ。警察の立場としてはなんとかしなきゃな。あの柱が本当に八津崎市を支えてるのか分からんが、下手なことをして八津崎市を落っことすのは避けたいとこだ。二百六十万の八津崎市民が人質に取られてるってことになる。まあ、落っこちたら落っこちたでそん時は仕方ないが」

 大曲の口調はいつもながら投げ遣りだ。

 神楽が丁寧語で喋り出す。背中の翼はもう消えていた。

「司令船と八津崎市全体を浮かべる仕組みも動力源も不明です。理想は司令船内部に奇襲をかけ、コントロール方法を把握しているであろうプロフェッサーを生きたまま確保して残りは殲滅することでしょう。奴らが自暴自棄な行動に出る暇を与えず、出来る限り短時間にやってのける必要があります。剣さん、あなたなら可能ではありませんか。ノスフェラトゥ・セブンとの戦いで、あなたは離れた空間を繋ぎ合わせ一瞬で越えてみせました」

 剣里火はダークグレイの鍔広帽を左右に振った。低い掠れ声で答える。

「残念ながら今は出来そうにない。先程から試みておるが、あの円盤の周囲は何かの力に守られておるようだ。ミラージュという術者の仕業だとすれば、奴の注意を逸らせばなんとか見込みもあろうが」

 黒贄が発言しようと左手を挙げかけたところで先に城が言い出した。

「あの青い柱をよじ登って奇襲というのはどうでしょう。たった一キロくらいの高さですし」

 神楽が冷たく切り返した。

「遠慮なくお試し下さい。上からの良い的ですね。あなたが不死身の男だとしても、半分も登る前にズタボロの肉塊になって転げ落ちるのが関の山です。……で、黒贄さん、何かご意見でも」

「いえ、何でもありません」

 黒贄は手を下ろしてうなだれた。城と同じ内容だったのだろう。「まずいですぞ。本格的にキャラかぶりが……私の存在価値が……」と小さく呟いている。

「アルメイルの戦士ヲお貸し致しマシょうか。一億人の出撃準備ガ整ッておリマす。報酬は戦士一人ニツき一年分の野菜トイうこトで」

 いつの間にか輪に加わっていた魔王補佐官のエフトル・ラッハートが奇妙なイントネーションで提案した。狩場での彼は燕尾服とシルクハットの小太りな紳士だ。

「遠慮しとく。ただでさえ八津崎市は人口過密なのに一億人も来られたら窒息しちまう」

 大曲が即答した。

「そウデスか。残念でス」

 他のメンバーも口添えしてくれないので、エフトルは仕方なくその場で体を裏返してアルメイルへ帰った。

「空気が薄いな」

 大曲はネクタイを更に緩めた。

「ところでそいつも味方ですか。警察の所属ではないようですが」

 森川が大曲の後ろに立つ男をライフルの銃口で指した。高級スーツを着こなした四十代の男で、額はやや後退しているが理知的な顔をしている。

 男は恭しく一礼した。

「市長補佐の犬神と申します。今回は八津崎市の命運に関わるトラブルですから、作戦には市長の許可を通して頂く必要があると考えまして、こうして同席させて頂いております」

 八津崎市長のアルメイル側の副官がエフトル・ラッハートなら、こちらは狩場側の副官ということらしい。犬神は名刺を取り出したが、誰も受け取ろうとはしなかった。

「市長ねえ。益々怖いことにならなきゃいいがな」

 大曲が欠伸を一つして続けた。

「カンちゃんはさっきも空飛んでたし、上空から近づけるんじゃねえか」

 神楽は露骨に嫌そうな顔をした。

「そのカンちゃんというのはいい加減やめて下さい。空からの接近は現時点では無理です。ただでさえ見通しが良過ぎる場所にミラージュの結界が加わっています。私には『黒風鳥』を操りながら高レベルの隠蔽魔術を使う余裕はありませんよ」

 『黒風鳥』とは神楽の背中から現れる半透明な黒い翼のことだろう。生来のものでなく魔術的なものであったらしい。

「高射砲で攻撃するのはどうですか」

 森川が主張する。彼女なら自前で持っていそうだ。

「いや、だから八津崎市が落っこちたら困るだろ」

 大曲がうんざり顔になる。しかし森川は食い下がった。

「警察の役目は悪人を捕らえ治安を守ることです。八津崎市が落下するかどうかなどという心配は防衛庁にでも任せておけば良いのではありませんか」

「ふうん。……まあ、司令船まで誰かが瞬時に辿り着けりゃいい訳だよな」

 大曲は何故かニヤニヤ笑いを始めた。不吉な予感を与える笑みだ。

「あるんだよな、そんな方法が。二年くらい前に密輸業者から押収した代物でな。勿論使ったことはないんだが」

 黒贄がこの時とばかりに尤もらしく頷いてみせた。

「ほほう、あれのことですか。なるほど、あれなら行けそうですな」

「な、行けそうだろ」

「……。で、何でしょう」

「人間大砲だ」

 広場に重い静寂が落ちた。

 

 

  七

 

 十二時四十五分、市長補佐の犬神は書類の束を両手で捧げ持ち、市役所の中庭に足を踏み入れた。

 中庭は全て野菜畑になっていた。『アル×イル狩場出帳所 野菜で兵士かします』という立て札の脇を通り、中央へ繋がる道を進む。

 道の先には一辺五メートルほどの鋼鉄の箱があった。溶接痕に『開封厳禁』というステッカーの貼られた正面の壁。真ん中ほどに横長の穴が開いている。その奥には何も見通せぬ真の闇が詰まっていた。

 横穴の上には『市長室』という札と『アルメイル魔王』という札が並んでいた。箱の屋根には大きなルビーの嵌まった王冠が載っている。あちこちに小さな傷や血痕が残り、少し凹んだ側面に『受理』の印が押してあった。

「魔王様に何の用だ」

 野菜の手入れをしていた男達が素早く前に立ち塞がった。比較的人間に近い姿をしているが、こめかみに鋭い角の生えた者や背中から三本目の腕が生えた者もいる。ちなみにその腕はジョウロを持っていた。

 アルメイルの精鋭である魔王親衛隊だった。魔王のそばで野菜を育てることはアルメイルの戦士にとって最高の栄誉であり誇りなのだ。彼らは八津崎市盗難の件には全く興味がないらしい。一キロ程度の高さから落ちても死ぬことはないだろうし、魔王と野菜の方が大事なのだ。

「市長にお見せする重要な書類です。君達は市長の邪魔をするつもりですか」

 犬神の声は毅然として、刃物のような鋭さが潜んでいた。男達は互いの顔を見合わせ、黙って道を空けた。

 犬神は市長室に歩み寄り、書類の束から一枚を取った。

「市長。申し訳ありませんが、八津崎市の存亡に関わる急ぎの用件でございます」

 書類は何も書いていない全くの白紙だった。

 端を持って慎重に横穴へ差し入れていく。紙の先端が闇に触れた瞬間、書類は犬神の手を離れて吸い込まれた。一秒もせずに飛び出して宙を舞うのを、犬神は見事な反応で手を伸ばして捕らえた。

 書類には『不受理』と赤い印が押してあった。

 犬神は表情を変えず次の一枚を取った。やはり白紙だ。

「市長。やはり急ぎの用件ですので」

 再び書類を差し入れると同じように戻ってくる。やはり空中で受け取り、犬神は書類を確認する。

 適当な場所に『受理』の印が一つ、『不受理』が三つ押してあった。

「ありがとうございました」

 犬神は一礼して中庭を出た。市長補佐室の自分の机に戻る。引き出しから鋏を取り出した。

 印を貰った書類に丁寧に鋏を入れていき、『不受理』の三ヶ所だけを全て切り離した。

 続いて『受理』の印の手前に『八津崎市警察は人間大砲を使用し、エクリプスの司令船を奇襲、敵を殲滅することとする。』と書き入れた。

 文章配置の偏った書類を持って犬神は市役所を出た。広場で待つ大曲源に笑顔で書類を振ってみせた。

「市長の許可が下りました」

「良し。じゃあやってみようか」

 軽く片手を上げて挨拶を返し、大曲が言った。

 広場から警官の姿は減り、地面に径十メートルほどの赤い円が描かれていた。神楽鏡影が自分の血で設けた結界だ。エクリプスは司令船から市内の様子を眺めている筈だ。円内にあるものを彼らに意識させないための結界ということだった。

 円の中心に人間大砲はあった。

 砲身の長さ約五メートル、内径約七十センチ、数世紀前のフォルムと玩具のような純色のカラーリングで、大きな台座と車輪によって支えられている。導火線に点火するのではなく機械仕掛けのようだ。

 隠蔽結界の中で、神楽と森川敬子は憮然として立っていた。黒贄礼太郎と城智志は浮き浮きしているようだ。ニヤつきながら操作パネルに手を置いて、大曲が説明する。

「空気圧で飛ばすようになっててな。カタログの射程距離は千六百メートルだそうだ。なかなか凄いもんだろ」

 神楽が冷たく突っ込んだ。

「それが事実なら常識外れのスペックですね。ただ、問題は狙い通りに飛ぶかということです」

 一通り大砲をチェックしていた森川も疑念を表す。

「砲身が短過ぎますわ。通常の砲弾ならまだしも、人間は砲弾みたいに綺麗な形はしていません。空気抵抗と風でどれほど着弾点がずれるか分かりませんわよ」

「まあ、取り敢えず撃ってみよう。目標を外れそうになったら砲弾が自分で何とかするだろ」

 大曲は無茶なことを言う。

「確かに試射してみないことには何とも言えません。で、誰を発射しますか。千六百メートルも飛ぶような初速と着弾の衝撃に常人が耐えられるとは思えませんが……」

 神楽がメンバーを見回すと早速二人の男が手を挙げた。黒贄礼太郎と城智志。互いの視線が絡み合い、どちらからともなくそれぞれの得物を振り上げる。黒贄は大谷五郎を、城はハルバードを。向こう側の世界を覗く大谷の笑みが深まっていく。一触即発の緊張感を大曲の疲れた声が打ち砕いた。

「あーっと、城、お前さんが最初な。一番乗りしてこい」

 城は「バンザーイ」と叫んでハルバードを振り回した。森川は躱したが警官二人の首が飛んだ。

 黒贄には大曲が歩み寄り、小声で「本命は後からな」と囁いた。黒贄の不満顔は直ったが、大曲がどれほど真面目に考えているかは分からない。

「それではお願いします」

 城は水平になった砲身の先端から潜り込んでいく。大砲は先込め式だった。

「次のクロちゃんは凶器も入れると二人分の重量だから、弾道を参考にするには城ともう一人一緒に飛ばした方がいいな」

 大曲の視線を受け、森川は決死の形相で首を振った。

「私はお断りします。こんなかっこ悪い真似、死んでも出来ません」

 一キロ以上飛ばされる危険性よりも美学の問題らしい。

「人間、いつかは死ぬもんだ」

 森川がライフルを構えたので大曲は諦めて他の志願者を探す。いつの間にか剣里火はいなくなっていた。砲弾に選ばれるのが嫌だったのかも知れない。大曲に見つめられて神楽は苦笑する。

「私は照準合わせを担当させてもらいますから」

「いや、それは私の仕事です」

 森川がライフルを神楽に向けようとした。神楽が右袖を振ると瞬時に飛び出した拳銃が握られる。

「俺に銃を向けるな」

 神楽の口調が豹変し、瞳が野獣の鋭さを帯びる。大曲が溜め息をついて言った。

「丁度いい重量のがいただろ。おい、クロちゃんの助手を連れてきてくれ。署長室で野菜食ってる筈だ」

 命じられた警官達が半壊したプレハブへ駆けていく。殺し屋と射殺マニアは用心深く銃を下ろした。黒贄がにこやかに頷いた。

「なるほど、探偵の役に立ってこそ助手ですよね」

 やがてスライミー藤橋が連行されてきた。両脇を抱えられ怯えた顔で喚いている。

「な、なななな何すんだてめえら。この俺様をだ誰と心得る。世界最強、史上最高の男、伝説のスライミー藤橋様だぞ。うわあやめ助けてお願いしますお願いしまアベベベ」

 大曲の指示で藤橋は砲身へ詰め込まれた。

「ちょっと狭いですよ、ここ。この兄ちゃんはなんだか粘っこいし」

 城の愚痴が聞こえてきた。神楽が操作レバーをいじくって砲身の向きを調節する。キリキリキリと歯車の回る音がして砲身は八十度近い急角度に設定された。その先にはそびえ立つ司令船がある。目の良い者がいれば、船の中で酒を飲んでくつろぐ盗賊達の姿が見えたろう。神楽は空気圧の目盛を最大限に上げた。

「準備出来ました。後は発射ボタンを押すだけです」

「じゃあ俺に押させてくれ。少しは仕事しないとな」

 大曲が気楽にパネルに近寄り、「たーまやー」と言いながらボタンを押した。

 シュポーン、などという軽快な音ではなく、ッッッッドガバァンという凄い音がした。砲台の下の地面が陥没した。ソニックブームで広場の空気がビリビリと震える。

 砲弾は既に遥か彼方を飛んでいた。粘液の飛沫を散らせ、ハルバードがメチャクチャに回転しているのが見える。とっくに青い柱の横を過ぎ更に小さくなり、広場からは見えなくなった。

「あああああああぁぁぁぁぁ」

 藤橋と城の塊は晴れた空を飛んでいた。城は自分が叫び声を上げていたことに気づいただろうか。半径二十二キロの浮遊都市の縁を越え、人類の夢を乗せた人間砲弾は緩やかな放物線を描いて地上へと落ちていった。

 広場に残った者達は暫く呆然として空を眺めていた。やがて禁煙パイポをポケットから出して大曲が言った。

「いやあ、意外に飛ぶもんだ」

「丁度良かったですな。キャラかぶりも防げますし」

 黒贄はちょっと安心しているようだ。助手の末路や次に発射される自分の運命は念頭にないらしい。

「予想より弾道がお辞儀しました。もう二度ほど角度を上げます」

 神楽がレバーで砲身の向きを調節する。

「今の試射で敵に気づかれなかったかしら」

 森川の疑問に神楽は皮肉な笑みを浮かべた。

「その心配はなさそうです。戦闘機が接近しています」

 少し遅れて複数のジェットエンジン音が聞こえてきた。警官達が口を半開きにして見上げていると、日の丸のついた戦闘機が姿を現した。七機、いや八機。その後方には戦闘ヘリも見えた。神楽が続ける。

「政府は首都の安全を優先したようですね。自衛隊を出動させ、八津崎市が東京上空に達する前に墜とすつもりなのでしょう」

「なるほどな。八津崎市民の命なんて二束三文以下だからな。二百六十万人分合計しても大した額にはならんだろうさ」

 大曲は自分の命もその程度であることを分かっているだろう。

「では本命の発射をお願いしますね」

 黒贄が大谷を抱えて砲身をよじ登り、発射口から内部へ滑り込んでいった。

 戦闘機が空中で爆発して墜ちていく。エクリプスが迎撃しているらしい。

「準備は出来ています。後は運次第ですね」

 神楽が告げ、大曲は頷いた。

「じゃあ、クロちゃん、行ってきなよ」

 大曲が発射ボタンを押した。

 ッッッッドガバァァァン。殺人鬼探偵・黒贄礼太郎と人間凶器・大谷五郎は人間大砲より射出された。初速は音速の数倍に達しているだろう。凄まじいGにより常人なら発射の瞬間に即死している筈だが、黒贄と抱えられた大谷は殺戮の予感と苦痛の快楽に目を輝かせていた。八津崎市の町並みがみるみる小さくなり、青い柱に載った司令船が凄い勢いで近づいてくる。司令船の周囲を戦闘機が旋回している。空気を裂く甲高い響き。それらの間を殺人鬼と凶器がすり抜ける。

「あっ」

 すり抜け過ぎた。角度はほぼ合っていた。だが人間砲弾は司令船の右六十メートルを通り過ぎていった。風の影響か、それともごつい男二人の空気抵抗が弾道をねじ曲げたのか。ガラス窓の奥にいるエクリプスのメンバーの姿があっという間に遠ざかっていく。城・藤橋コンビと同じ運命を辿るのか。だが角度がついているためまだ落ちない。遥か下に八津崎市の端が見える。

「うぬぬおおおおおお」

 黒贄が叫んだ。抱えていた大谷を持ち替えて両足首を掴む。空中で黒贄は大谷を振り回し始めた。足場がないのにどうやったものか、二人は一個のプロペラと化して唸りを上げた。二人の姿が溶け合って独楽のように同心円の模様だけとなる。人間の限界を超えた……いや、現存する本物のプロペラでもこれほどの回転速度は出せまい。

「ほあっ」

 かけ声と共に黒贄が大谷を離した。標的は数十キロ先の司令船。二つに分かれたプロペラは運動量保存の法則により超速度で真逆の方向へ離れていく。一つは司令船へ、もう一つは更に高く成層圏へ。飛んでいく人間凶器・大谷五郎を黒贄はいとおしげに見つめていた。大谷の先には澄み渡った空が……。

「あれっ」

 黒贄が自分の行く先を振り向いた。浮遊する八津崎市とそびえ立つ司令船が見える。もう一度大谷へ向き直る。その先は宇宙だった。

「離すタイミングを間違えましたな。凶器でなく持ち主の方を飛ばしてしまいました」

 風の中、黒贄が頭を掻く間にも大谷は彼方へ遠ざかっていく。見開かれた瞳は人外の歓喜に満ち満ちて、最後まで凶器であることを全うしようと気をつけの姿勢を保っていた。大切な凶器との別れに黒贄は涙を滲ませつつ手を振った。

 大谷五郎は星になった。

 

 

  八

 

 八津崎市上空に到着した自衛隊戦闘機は十二機となったが、そのうち七機は既に墜ちていた。高層ビルの屋上に機体がめり込んで煙を上げている。

 戦闘機の機銃もミサイルも見当違いの方向を攻撃していた。パイロットもミラージュの幻術に惑わされているのだろう。

 司令船の天辺が開いてローンガンマンが上半身を晒している。強い風に灰色の髪をなびかせながら、彼は全長四十センチのリボルバーで無造作に発砲していた。傍らを通り過ぎた戦闘機が上昇せず市街へ墜ちていく。ローンガンマンの放った弾は風防を貫いてパイロットを射殺していた。戦闘ヘリは片っ端から撃ち落とされてもう残っていない。大型リボルバーの有効射程は狙撃用ライフルに劣らなかった。五発を撃ち尽くすとローンガンマンはポケットから弾を出して素早く入れ替える。空薬莢を落として新しい弾を込め終わるまで二秒弱。ローンガンマンは相変わらず物悲しげだった。

 船内ではダンディーとプレシャスが椅子に座って暇そうにワインを飲んでいた。ダンディーの背中の剣三本は椅子に立てかけてある。スチームマンは側面の小窓から義手のグレネードランチャーを発射しているが、そううまくは当たらないようだ。

 ミラージュはフロアの中央で瞬きもせず立っていた。額の第三の目と一緒に遠くの何かを見据えているようでもある。自らの内界にある、襲撃者のために用意した幻をコントロールしているのだろうか。

 車椅子のプロフェッサーは満足げに電気パイプを咥えていた。丸縁眼鏡の奥の瞳には恍惚の色がある。彼は操作パネルのモニターを見ていた。

「一時間も経っておらんのに、アメリカから二兆円で入札があったぞ。ヒョヒョ、イランにでも落とそうと思っとるのかね。ロシアの入札は三兆六千億円じゃが、八津崎市を持ち上げとるシステムも買いたいとな。ヒョヒョ、ミズガルズソルムルは売れんのう。わしが素粒子動力理論を発表した時、どの国の学者共もわしを馬鹿扱いして笑いおったのじゃからな。じゃが馬鹿はあ奴らよ。見よ、この通りわしは都市を宙に浮かせたろうが」

 後半は怨嗟になっていたが、それでもプロフェッサーは上機嫌だった。

「後は核兵器の攻撃があるかどうかじゃな。米露が入札に応じたから可能性は低くなったが、落札失敗で自棄になって攻撃ということもあり得るからの。司令船はシールドを張って直撃さえ受けねば大丈夫じゃし放射線も通さん。ただし、アンダインは二百万度以上の熱で溶けるかも知れん。その場合は八津崎市が落下することになるが……」

 バギョリンと凄い音がして司令船が揺れた。不意の衝撃にエクリプスのメンバーも目を剥いた。震動がアンダインの柱に吸収され収まっていく。

「な、何じゃ」

 プロフェッサーの高いしゃがれ声。ミラージュの目が現実に戻って衝撃の原因を探す。盗賊達の視線が司令船のガラス窓に集中した。

 黒い礼服の男が窓に突き刺さっていた。頭と胸部、両上腕の半ばまでが船内までめり込んでいる。首が曲がって右側頭部が肩についていた。

 プロフェッサーが眼鏡の奥で目を細めた。

「ホヒョー。良くもまあ生身で窓を破ったのう。この硬質ガラスは戦車砲でもびくともせんのに。まあ、死んでは元も子もないが」

「その男、まだ生きているぞ。止めを刺しておけ」

 ミラージュが命じるが、外していた剣を背にかけて立ち上がりダンディーが言う。

「いやいや、折角の来客だ。丁重にもてなそう。私達にはやることがなかったからな、退屈凌ぎにいい」

「予約なしの訪問なのに申し訳ないですな。黒贄礼太郎と申します。通称クラちゃんです」

 突き刺さった男・黒贄礼太郎が挨拶した。腕も動かせずジタバタしているところにダンディーが両肩を掴んで引っ張り込んだ。亀裂の入っていた硬質ガラスが一部破片となって零れる。

「こりゃどうも」

 黒贄は取り敢えず立ち上がって礼をした。自分の頭を持ってグギリと元の角度に修正する。

「どう致しまして。ところで君はどうやってここまで来たのかね」

 恭しく礼を返しダンディーが尋ねる。

「人間大砲でスリリングに飛んできました。通り過ぎてしまって慌ててUターンです」

「なるほど、日本には危険な競技があるんだね。流石サムライの国だ」

 ダンディーは感心している。黒贄は頭を掻きながらにこやかに告げた。

「早速ながら皆さんにお願いがあるのですが、死んでもらえませんかな」

 爆発的な反応はなかった。ただ緩やかで不気味な空気が船内に染みていくだけだ。怒りでも殺意でもなく、目の前にいる来客が死体と化す運命を、冷ややかに眺めているような。

 ボシュッ、と何かが燃えるような音が何処かから聞こえた。ミラージュが二、三度瞬きすると、口元を歪めて笑みに変える。

「どうした、ミラージュ」

 プロフェッサーが問いかける。

「間抜けな鼠が忍び込もうとしただけだ。異空間を歩く珍しい鼠だったが、私の結界のトリガーは物理要素でなく精神要素だからな。可哀相に、焦げ鼠になったようだ。……ダンディー、その黒贄という男をもてなしてやれ」

「分かっているとも。さて、黒贄君、どのようにして私達を殺すつもりかな」

 黒贄との至近距離にいながら、ダンディーは九つある自分の武器にまだ触れてもいなかった。

「そりゃもうスポンスポンとあっさり殺させて頂きます……と言いたいところですが、残念ながら凶器を失ってしまいました。こちらで何かお借りしたいところですな」

 黒贄は澄まし顔で図々しい要求をする。黙って見ていたスチームマンが「ガハハーッ」と大声で笑った。

「おっと、私の愛剣達は貸せないよ。何か使えそうなものはなかったかな」

 ダンディーが仲間を見回す。プロフェッサーが言った。

「後ろの物置に幾つかある筈じゃ。好きなものを選ばせるが良かろう。爆弾以外はの」

 異を唱える者はいなかった。黒贄の力を軽視しているのか、自分達の強さに余程の自信があるのか。

 操作パネルとは反対側、円形の司令船内でも後部に当たる小部屋にダンディーが黒贄を案内していく。途中、椅子に座ってまだワインを飲んでいたプレシャスが蠱惑的な視線を黒贄に投げかけた。ただし右目は虹色に輝くブラックオパールだ。宝石が散りばめられた鎖帷子状態のドレスに、肘まである白い手袋。

「なかなかいい男じゃない。惜しいわね、今日までの命なんて」

 黒贄は早速切り返す。

「あなたも眩し過ぎてこちらの目が潰れそうですよ。輝いているうちに人生を終えられるとは羨ましい限りですな」

 プレシャスの目が細められた。腰に下がった鞭の束に手が伸び、風鳴りがピシリという音に変わった。

 プレシャスが舌打ちし、優雅でないと自覚したかすぐに手で口元を隠した。ダンディーは十手様の剣を右腰に戻す。

 黒贄を狙ったプレシャスの鞭を、ダンディーが弾き返したらしい。

「この男は私の獲物だよ、プレシャス」

 ダンディーが優しくたしなめた。

 黒贄は守られたことを知ってか知らずか「ポヘニャー。ペヒョラー」とか呟きながらどんどん歩いていき、勝手に小部屋のドアを開けた。

「ふうむ、私は銃器の扱いは苦手でして……」

 物置には雑多な機械類が並んでいたが、棚に拳銃や自動小銃もあった。重量百キロはありそうな鋼鉄の大型ハンマーや、片手持ち用の特殊なガトリングガンはスチームマンのためのカスタム品だろう。

 屋根からローンガンマンが戻ってきた。彼の立つ丸い床は何の支えもなく静かに降下してくる。司令船を浮かせているのと同じ原理であろうか。

「一通り片づけた」

 ローンガンマンは呟くように言った。確かに晴れ渡った空には何も映っていない。リボルバー一挺で自衛隊機を全滅させたらしい。銃をスーツの内側に収め、ローンガンマンは腕時計を確認した。

「これで一時間か。残り七十一時間をどう過ごす」

「丁度良い余興が始まるぞ。まあ、一分も持たんじゃろうがの」

 プロフェッサーは喋りながら肘置きの先端にあるスイッチを操作する。モニターの一つに日本地図が映っている。中心の光点が司令船と八津崎市の現在位置だろう。光点は関東圏にあった。

「ちと急がせたかの。後十五分ほどで東京上空に着く」

「君、それはちょっと……おい、やめろ」

 ダンディーの戸惑う声。同時にバギンと何かを壊す音が届いた。物置ではなくトイレの方から。エクリプスの面々が振り返る。

「ウンバラピャー。よし、これで行きましょう」

 フロアに現れた黒贄礼太郎は、二つの凶器を持っていた。

 右手で握るのはステンレス製のパイプだった。径五センチほどで、長さは一メートルを少し超える程度だ。力ずくでもぎ取ったらしく全体がたわみ、L字ジョイントのついた前端もネジ山のある後端も大きく変形していた。掲げられ、下になった後端からポタポタと水滴が落ちる。幸いなことに透明な水だった。

 左手で掴んでいるのは陶器製の洋式便器だった。床との接合部辺りで割り取られ、一部は床のタイルがくっついている。便座と蓋はまだ健在だ。

 プレシャスが「ヒィッ」という細い悲鳴を洩らして立ち上がった。ミラージュがマントに包まれた肩を竦める。

「これから三日間、どうやって用を足せばいい」

「八津崎市からポータブルトイレでも借りてくりゃ良かろう。わしとスチームマンは専用のがあるから困らんがの、ヒョヒョ」

 プロフェッサーが無責任に笑う。黒贄は何かを探すように左右を見回している。

「まだ何か要るのか」

 ダンディーも流石にうんざりしているようだった。

「仮面が欲しいのですが、あまり良いのがなさそうですね。殺風景なお部屋はいけませんな。心の貧しさを象徴していますよ」

 勝手なことを言ってから、黒贄は一旦便器を置いて礼服のポケットに手を突っ込んだ。

「仕方がありませんな。予備として携帯していたものを使いましょう」

 黒贄が取り出したのは持ち手のついたコンビニのビニール袋だった。

「これで準備万端です。では始めましょうか」

 黒贄がビニール袋をかぶろうとするとプロフェッサーが言った。

「船内でやり合うにはちと狭かろう。折角じゃからステージを用意してやろうかの」

 モニターを見ながら肘置き先端のスティックとボタンを操作する。そのうちガラス張りの床下に変化が起きた。中心から青い色彩が広がっていくのだ。半透明で八津崎市の景色が薄く見通せる。

 司令船の底面積より大きくなり、やがて径百メートルほどの青い皿となった。端はずり落ち防止に高さ一メートルほどの塀となる。プロフェッサーは柱のアンダインを伸ばしてステージを作ってみせたのだ。

 小部屋の間、突き当たりにある扉が自動的に開いた。

「厚みは二ミリじゃが床が抜ける心配はない。存分に殺し合うが良かろう」

「わざわざありがとうございます。存分に皆殺しにしてみせますよ」

 プロフェッサーに礼を言ってから、黒贄はビニール袋とパイプと便器を持って出口に向かった。

「プロフェッサー、私を落とさないでくれよ」

 冗談っぽく言ってダンディーも続く。プロフェッサーが別のボタンを押すと硬質ガラスの窓が上へ開いていき、強い風が吹き込んできた。船外の戦闘音を聞き逃さぬためだろう。スチームマンとプレシャスは窓際に寄り、対峙する二人を見守った。

 都市の景色が見通せる厚さ二ミリの青いステージ。なめらかだが足を滑らせるほどでもなく、歩いても殆ど揺れず安定していた。吹きつける風が二人の髪を揺らす。

 自分でカットしているらしい左右アンバランスの髪は黒贄礼太郎だ。武器はステンレスパイプと陶製の洋式便器。身長は百九十センチを優に超え、礼服に包まれた肉体は所謂マッチョではないががっしりした骨格を備えている。薄い唇に微笑を湛え、瞳の奥で不気味なものが渦を巻き始めていた。

 風で崩れた金髪を丁寧に撫でつける男はダンディー。引き締まった肉体を白シャツと白ズボン、白い靴で飾る。洒落た服装を台なしにするのが九本の刃だ。右腰にサーベルと十手様の突起がついた剣、左腰にレイピアと両刃の直剣、背中には日本刀と大剣をクロスさせ、腰上には水平に鋸刃の剣を差す。右脛にダガー、左胸にナイフを留めている。常人よりやや長い腕二本で、どうやってそれだけの刃を操るつもりか。

 互いの距離は三メートルほどだった。まだ凶器には触れず、ダンディーが言った。

「君の勇気を称えよう。私がこれまで殺した相手は二千人を超えるが、正式な決闘は二百三十二回目になる。相手が大勢でも断ったことはなく、機関銃や戦車とも決闘したことがある。それら全てに私は勝利した。一つも傷を負わずにね。私の前に立って生き延びた者はいない。覚悟はいいかね」

 黒贄は微笑を深めて頷いた。

「なかなか洒落た決め台詞ですね。もっとお願いします」

 ダンディーは気を良くしたようだった。大きく息を吸って声を響かせる。

「天国で自分の弱さを悔いる必要はない。君は運が悪かっただけだ。たまたま私と同じ時代に生まれてしまったのだから」

「お、いいですな。ゾクゾクしますよ。もっともっと」

 黒贄が更に煽る。

「私は史上最強の剣士だ。おめでとう、君は私に挑んだ勇者の一人として永遠に歴史に残るだろう」

「素晴らしいっ。もう一声」

 黒贄は拍手まで始めた。ダンディーは両腕を広げて叫ぶ。

「私は神だあっ」

「あー、あなたには失望させられました」

 黒贄は冷酷に告げた。司令船から見ていたエクリプスの仲間達が声を上げて笑った。プレシャスも口元を隠して笑っていた。

 ダンディーは顔を真っ赤にして黒贄を睨んだ。

「では君もうまい台詞を言ってみたまえ」

「うまい台詞ですか。ウンバラピャー」

「何」

「ですからウンバラピャー」

 当然のように黒贄は繰り返す。

「何を言っている」

 ダンディーは眉をひそめた。自分が異世界へ踏み込んでしまったことに、たった今気がついたかのように。

 黒贄はビニール袋を広げ、逆さにして頭からかぶった。

「ウンバラピャー」

 意味不明の奇声がビニールの下から洩れる。白いビニールは顔の細部が見通せない。中からは何も見えないのではないか。

 ダンディーの左腕が霞んだ。右腰にサーベルを戻した後で、ピピ、とビニール袋に切れ目が開いた。黒贄の両目と口に当たる位置だった。皮膚には傷つけず、一瞬でビニールだけ切り裂いたのだ。

「どういうつもりかは知らないが、私は決闘ではフェアを通す主義でね。目が見えなくては戦いにもならな……」

「ウンバラピャー」

 ダンディーの首筋にゾワゾワと鳥肌が立っていった。彼は黒贄の瞳を見たのだ。ビニールの切れ目から覗く瞳。あらゆる感情も意味も無に帰す絶対零度の瞳。

 ガハハと馬鹿笑いを続けていたスチームマンが息を止めた。プレシャスは白い肌の粟立ちを押さえるように手袋で顔を押さえた。車椅子のプロフェッサーが「ほう」と呟き、ミラージュが両眉を上げて第三の目が細くなった。ローンガンマンはグラスにブランデーを注ぐのを途中でやめ、蓋をした。

「ウンバラピャー」

 黒贄がまた気の抜けた奇声を発した。右手にパイプを、左手に便器を持ち直す。

「死ねっ」

 ダンディーが叫んだ。両腕の動きは剣と一体化した残像となった。右腰にあった十手様の剣と背中の日本刀。無駄がなく素早い踏み込みは美しかった。

 銀光は黒贄の腹と胸を薙いだ。水平に裂けた腹から腸が顔を出し、胸の斜めの傷から肋骨の断面が覗き血を滲ませる。

「反応が鈍過ぎる。話にならないな」

 一旦距離を取ってダンディーが告げた。黒贄はのっそりと立っているだけだ。仲間達の声が届き、不思議そうにダンディーは振り返った。

「耳。左耳」

 プレシャスはそう言っているのだった。

 黒贄のステンレスパイプ先端から血が滴っていた。僅かに肉片のようなものがへばりついている。

 ダンディーの左横、青い床に何かが落ちていた。

 根元に肉片のおまけがついた、人間の左耳だった。

 ダンディーが目を見開いた。十手剣を握る左手で恐る恐る、自分の左側頭部に触れる。血がネチャリと絡みついた。

 ダンディーの左耳は土台ごと削ぎ取られていた。内耳の損傷は免れたようだが骨も一部失われ、美男子を気取れる状態ではなくなっていた。

「ウンバラピャー」

 ビニールの裂け目から奇声が洩れた。ゆっくりと歩み寄ってくる。

「これは……何かの間違いだ。私が、傷を負うなんて、あり得ない」

 ダンディーの目が否認からやがて恐怖へと移行していく。

「ウンバラピャー」

 黒贄の奇声と共に、ダンディーの恐怖は怒りに変貌した。歯を剥き出して彼は怒鳴った。

「この屑め、私の本気を見せてやるぞっ」

 ダンディーの両腕が霞んだ。低い体勢から斜めに斬り上げられた日本刀を黒贄の便器が防ぐ。いや防げず陶器の下部がスコンと削ぎ落とされた。黒贄の腹がまた浅く裂ける。十手様剣は黒贄の心臓を狙っていたが、側面からステンレスパイプに叩かれダンディーの左手から落ちた。

「ウンバラピャー」

 黒贄がそのままパイプを突き出した。ダンディーは身をひねって避けつつ右手の日本刀も投げつけた。黒贄の腹に刺さって背中まで抜ける。ダンディーが次の凶器を抜いた。左腰から両刃の直剣を、背中から鋸刃の剣を。抜き打ちの直剣は黒贄の右腕を切り落とそうとしたが躱される。

「ウンバラピャー」

 黒贄が便器を振り回し蓋がバタバタと揺れる。鋸刃の剣が陶器に食い込み欠片を散らした。ダンディーが低い蹴りを放つ。直接黒贄を狙ったものではなく、コンマ二秒前に左手から落ちた十手剣を靴先で蹴り上げたのだ。一回転した剣は黒贄の左胸に刺さった。しかし黒贄の動きは衰えない。

「ウンバラピャー」

 ダンディーの頭を潰すべく、ステンレスパイプが休む間もなく振り下ろされる。仮面のビニール袋が風に揺れバサバサ音を立てる。必死の形相で避けながらダンディーは両刃の直剣を真上に放り投げた。空いた右手が左腰からレイピアを抜く。黒贄の胸腹を立て続けに突き刺すが、大量の血を流しながら黒贄は無造作に歩み寄ってくる。ビニール袋の向こうに仄見える顔は無表情で、絶対零度の瞳は全てが無駄であると断じていた。

「こいつはゾンビかっ」

 ダンディーの叫びは悲鳴を堪えたようなおかしなものになった。

「ウンバラピャー」

 黒贄が洋式便器を振りかぶった。その時音もなく落ちてきた両刃の直剣が黒贄の脳天に刺さり柄元までめり込んだ。切っ先は腹部まで達しているだろう。

「決まったな」

 ダンディーは会心の笑みを浮かべた。

「伊達に何本も剣を持っている訳ではないのだよ。コンビネーションにも習熟してこそ……」

「ウンバラピャー」

 黒贄の右腕が動いた。反射的に飛びのいたダンディーの前をパイプが掠めていった。

「あ゛……」

 ダンディーは目を見開いて何か喋ろうとしたが、言葉にはならなかった。彼の下顎が消失していたからだ。血みどろの肉と骨の断面を、慌てたように蠢く舌が舐める。

「ゴベあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」

「ウンバラピャー」

 脳天から剣が突き刺さったまま黒贄が襲ってきた。ダンディーはなんとか避けて蹴りを入れる。左胸に刺さっていた十手様剣が更に深く食い込むが、何のダメージにもならない。ダンディーの目から涙が溢れている。

 司令船内から見ていたミラージュが軽く溜め息をついた。

「スチームマン、プレシャス。加勢してやれ」

「どうして。これは正当な決闘でしょう」

 プレシャスが反論する。スチームマンの方は黙って窓枠を乗り越え青いステージを歩き始めている。義肢の節々から蒸気が洩れる。

「構わんだろう。一対一とは宣言してないからな」

「でも、片耳に顎までなくなって、もうダンディーとは呼べないわね。あんなのを助けたくはないわ」

 プロフェッサーが口を挟んだ。

「金ピカの義顎も作ってやれるぞ。生きておればじゃがの」

「ウンバラピャー」

 青いステージでは黒贄が左手の便器を振りかぶり、メチャクチャなフォームで投げつけたところだった。ダンディーが大剣で迎撃して真っ二つにする。割れた陶器は勢いをそのままに直進した。ダンディーは咄嗟に屈んだが数千本の金髪が地肌の一部ごと持っていかれる。便器の片方は青い床をバウンドして司令船の脇を抜けていき、もう片方は窓枠にぶつかって粉々になった。無数の破片が散弾のように周囲に飛び散った。

「ヒ、ヒィッ……イイッ」

 プレシャスが悲鳴を絞り出した。宝石ドレスに守られていない腕と白塗りの顔に二十個以上の破片が突き刺さっていた。陶製の、便器の、破片が。震える手で顔の破片を摘まみ出す。

「私の顔に……私の、美しい顔に……べ、便器の……キイイイイイッ」

 プレシャスの顔が醜く歪んだ。ペキッ、と白塗りのコーティングにヒビが入った。相当に厚化粧らしい。金切り声を上げて窓枠を飛び越え戦場へ走り出す。それぞれの手に鞭を握り、ダイヤの粒子を吹きつけた黒い鞭は引き摺られながら蛇のようにうねった。

 金属の偏平足で歩きながらスチームマンが義手を黒贄へ向けた。ダンディーの存在などお構いなしに両前腕の穴から円筒形のグレネードが飛ぶ。気づいたダンディーは横へ身を投げ出して避け、一発が黒贄の胴に命中した。元々破れていた腹部が破裂して盛大に中身を散らせ、刺さっていた日本刀も折れてクルクルと飛んでいく。内臓がゴッソリなくなってほぼ空洞と化し、脳天から刺さっている両刃の直剣は切っ先が腹腔内に見えていた。

 ダンディーの血走った目はスチームマンを非難していたが、顎がないので言葉は出せない。左耳と顎の名残りから流れた血は白いシャツを真っ赤に染めていた。この時点でレイピアは折れ、右手には大剣を握っている。幾つも刃欠けがあるのはステンレスパイプと弾き合ったせいだ。

 スチームマンの頭部に後ろから透明なフードがかぶせられ瞬時に硬化した。薄い青の材質はアンダインか。胴体は左右から鋼鉄の装甲が伸びて正中線で噛み合う。彼の生身部分は完璧に保護された。

 プレシャスがスチームマンを追い抜いて黒贄に迫った。宝石ドレスの重量にも屈せず素早い動きだ。本物の金で出来た髪を翻し、彼女は二本の鞭を振った。左右から黒贄の足元と首筋を狙う。

「ウンバラピャー」

 黒贄が右足を上げて避けたが、そのままの左足は脛の半ばほどで鞭に巻きつかれあっさり切断された。首を襲う鞭は黒贄が右手のパイプで叩いた。だが鞭の先は回り込んで首筋とビニールを裂いていく。プレシャスが鞭を引いて傷を深めようとするが、ある程度まで進むと硬いものに引っ掛かる。黒贄の脳天から腹腔まで貫く両刃の直剣のせいだった。

「ウンバラピャー」

 黒贄がプレシャスへ突進した。左足が短くなっても平気で走る。このスピードは熟練の闘牛士でも躱せないだろう。ダイヤ鞭で傷のついたステンレスパイプが振り上げられる。

 ダンディーが大剣を投げた。黒贄の背中から右胸まで貫き、左胸に刺さったままの十手様剣の柄に切っ先が当たってガチンと音を立てた。だが黒贄の動きは止まらない。

 下がるプレシャスに代わりスチームマンが立ち塞がった。黒贄のパイプ打撃を左前腕で受けゴシャッと凄い音をさせる。

「ウンバラピャー」

 続いて黒贄の肩がスチームマンの胴にぶち当たる。先に当たった黒贄の頭が揺れ、貫通した直剣が胸部の肉を引き裂いた。

「うおっ」

 スチームマンが衝撃で宙に浮いた。七、八メートルも飛ばされながら彼は左前腕を黒贄に向けた。グレネード弾ではなく金属製の網が発射される。それは瞬時に広がって黒贄を包み込んだ。船内から見ていたプロフェッサーが口元を綻ばせる。

「その網は素手では破れんぞ。何しろわしの開発したポリモルフメタル……」

「ウンバラピャー」

 グヂッ、と黒贄が網を引きちぎりプロフェッサーを絶句させた。だが網から抜け出す前にスチームマンが駆け戻ってきた。義手の関節から激しく蒸気が噴いて、三十センチもある右拳が黒贄の頭部を叩く。頭蓋骨のひしゃげる音がして黒贄が吹っ飛んだ。ビニール袋の内側に血が広がっていく。頭を貫通した剣が中身を更に切り裂いたらしい。

 網ごと黒贄が転がっていく。蒸気を噴きながらスチームマンが追う。掬い上げるような左アッパーが黒贄を斜め上方へと飛ばす。空中で回転する黒贄を狙い、スチームマンの右前腕が火を噴いた。グレネード弾の直撃を受け、肉と骨片が花火のように散ってパラパラと降ってくる。抜け落ちた大剣が青い床を跳ねた。

「ウンバラピャー」

 それでも黒贄は奇声を発していた。内側の赤くなったビニール袋から虚無の瞳が覗く。空っぽの腹腔に加え胸部も肺を露出させ、左前腕は肉が飛んで骨が見えている。左脛の断面からは血が滴っているが、他の傷から流れ出た血液量に比べると大したものではない。落ちながら黒贄は網を破って脱ぎ捨てた。

 落下地点に待ち、スチームマンは右腕を畳んで構えた。力を溜めているのか蒸気の噴出が止まる。薄青の透明なフードの奥で、火傷痕のある顔が酷薄な笑みを浮かべた。

 黒贄が間合いに入った時、「フンッ」という気合の吐息と共にスチームマンの右拳が残像と化した。最大量の蒸気が右肩と肘から噴き出す。

「ウンバラピャー」

 スチームマンの右拳を黒贄の左手が受け止めていた。露出している骨が折れて腕が短くなったが、黒贄はすんなり着地する。スチームマンの笑みが凍りついた。左拳で殴らず前腕の射出口を向けたがグレネード弾は出ない。最初にパイプの打撃を受けた際、発射機構が壊れたのだろう。

「ウンバラピャー」

 左手でスチームマンの右拳を握ったまま、黒贄が左の蹴りを放った。先のない脛の断端が胴体の装甲をひしゃげさせる。

 スチームマンの体が宙に浮いた。彼が黒贄を殴り飛ばした時の十倍以上の距離をすっ飛んでいく。黒贄の左手には根元でちぎれた鋼鉄の義手が残っていた。

 スチームマンは丸いステージを越えた。そのまま落下するかと思いきや、背負った動力源らしき箱から大量の蒸気が噴射された。ジェット機ほどのパワーはないがゆっくりとステージへ戻ってくる。

「ガハハッ」

 スチームマンはフードの中で篭もった笑い声を上げた。

「ウンバラピャー」

 黒贄は左手でスチームマンの義手を投げつけた。唸りを上げて飛来する自分の義手を、スチームマンは避けることが出来なかった。巨大な拳が薄青のフードにぶち当たる。

 アンダインのフードは砕けなかった。その代わり、グョジャッ、と嫌な音をさせて、フードが丸ごとちぎれ飛んだ。

 落ちていくフードから、スチームマンの生首が転がり出た。残された胴体と義肢は何度も後ろ向きの宙返りをしながら、再びステージからはみ出して下の市街へと落ちていった。双眼鏡やカメラを持って見物していた住民達は歓声を上げた。

「あーあ、死んだのう。ミラージュ、お主は手伝わんのかね」

 船内でプロフェッサーが首領に問いかける。

「手伝ったが無駄だったようだ。目は開いているが、そもそも何も見ていないのかも知れんな」

 ミラージュは冷静に首を振った。

「なら奥の手は使わんのか」

「折角のイベントだ。もう少し見ていたい」

 ミラージュは部下の死に様も楽しんでいるのだろうか。

 ローンガンマンは静かに殺し合いを見守っていた。物悲しげな顔は仲間の死を悼んでいる訳でもなさそうだ。

 ステージでは投げつけられた鋸刃が黒贄の後頭部にサクリとめり込むところだった。裂けたビニール袋から血が溢れ出す。

「ウンバラピャー」

 黒贄は奇声を発しながら振り返る。顔を隠すビニールはあちこち破れ、血みどろの肌を見せていた。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」

 ダンディーが血の涎を零しながら斬りかかってきた。右手にサーベル、左手にナイフを握っている。無造作に突き出した黒贄のパイプを避け、サーベルで右足を狙う。太股半ばに切り込んだところで左脛の蹴りを食らいダンディーの右腕が折れた。肘が逆向きに曲がり、呻いたダンディーの血涎が撥ねて自分の顔にかかる。

 黒い鞭が黒贄の右腕付け根に巻きついた。次の瞬間には無数のダイヤ粒子によってあっけなく切断される。残り少ない血液が僅かに噴き出した。

「やっておしまいよダンディーッ」

 プレシャスが甲高く叫ぶ。ダンディーがサーベルを左手に持ち替え黒贄の腰を薙ごうとした。

「ウンバラピャー」

 サーベルをステンレスパイプが弾いた。落ちる自分の右腕を黒贄は左手で掴み止めたのだ。振り回しても右手はパイプを握り締めて離さず、攻撃のリーチが伸びたことになる。

「ウンバラピャー」

 黒贄が自分の右腕を持ってメチャクチャに振り回す。ステンレスパイプの連撃を左手のサーベル一本では支えきれず、ダンディーの残った顔上半分が歪んでいく。プレシャスが回り込みながら鞭を振るが、黒贄は大部分を平然と受けながら首と左腕右足だけはギリギリで守っている。下がるダンディーを黒贄は左右の長さが違う足で追う。

「ウンバラピャー」

 パイプの打撃によってダンディーの左肩が砕かれた。左手からサーベルが落ちる。まだ右脛にダガーが残っているが、両手はもう動かせない。

 ダンディーは後退をやめて胸を張った。死を覚悟して最後はかっこ良く決めたいと思ったか。いや、ダンディーは上体を更に仰け反らせ、血の混じった咳をしながら前に振った。

 下顎のない口の奥から細い剣が飛び出してきた。しなやかな材質で、食道から胃までを鞘代わりにして隠していたのだろう。

「ウンバラピャー」

 剣の先で顔面を貫かれながら、黒贄は左手に持った右腕を振り下ろした。ステンレスパイプがすっぽ抜けて飛んだ。だが軽く開いた右拳がダンディーの脳天に叩きつけられた。

 ゴワシャッ、と、ダンディーの首が短くなり胸部にめり込んだ。失われた下顎部は胸の中に隠れ、顔の上半分だけが出る形となった。

 ダンディーの眼球が裏返った。そのまま、ゆっくりと、ダンディーは、前のめりに、倒れたところに黒贄が右足で踏みつけ頭が潰れ脳がはみ出した。

「ウンバラピャー」

 黒贄が死体を踏んで歩く先はプレシャスだった。彼女は全身を震わせて、自分の顔に突き刺さったものに手を伸ばそうとしていた。

 ダンディーに振り下ろした際にすっぽ抜けたステンレスパイプは、プレシャスの右目に深く突き立っていた。

「わ、わた、わたたた」

 白い手袋を填めたプレシャスの手がパイプに触れる前に、黒贄の左手が持つ右手がパイプを掴んだ。どういう原理か右手に力が入ってパイプを握り締め、黒贄が腕を引くとパイプはプレシャスの顔から抜けた。

 垂らしたパイプの先端から、コロリと大粒の宝石が滑り落ちた。世界最大のブラックオパール、ディアブロ。虹色の輝きを誇るそれは今、プレシャスの血と脳漿に塗れていた。

「あ、ああ、私、私の……」

 プレシャスは鞭を捨て、屈んでブラックオパールを拾い上げた。大切そうに、夢見るように頬ずりをする。彼女が大勢の人を殺してまで手に入れてきた、永遠の輝き。

「ウンバラピャー」

 黒贄が左手で右腕を突き出した。ステンレスパイプがプレシャスの指ごとブラックオパールを打ち抜き、更に左目に突き入れられた。ゴブュッ、と後頭部から抜け、プレシャスが後ろ向きに倒れるにつれてパイプの先から骨片と脳組織、眼球とブラックオパールが零れ落ちていった。

 プロフェッサーは軽く溜め息をついて言った。

「五人衆も二人になってしもうたか。このままお主だけになるのを待つかね、ミラージュ」

「いや。充分だ。人類に奇跡を見せよう」

 平然と大きなことを言い、ミラージュは漸く動き出した。吹きつける風にもマントは揺らめくだけで翻ることはない。ふわりと軽やかに跳躍し、ミラージュは窓から青いステージに降り立った。

「八津崎市からヘリが上がってくる。ローンガンマン、片づけておけ」

 そう言い残し、ミラージュは黒贄の方へ歩いていった。ローンガンマンは床下を見る。アンダインの薄い青の下で一機のヘリが近づいてくるところだった。ステージに着陸するつもりか。

 ローンガンマンは船の出口からステージを歩いていく。司令船を中心とする丸いステージの、黒贄とミラージュの反対側だった。ヘリのローター音が近づいてくる。プロフェッサーがローンガンマンへ声をかけた。

「まだ撃たんのか」

「戦闘ヘリじゃない。警察のヘリだ」

 ローンガンマンの低い声が開いた窓越しに応じる。

「敵であることには変わりないじゃろうに」

 ローンガンマンの返事は風に紛れて聞こえなかった。彼は船から二十メートルほど離れた場所で立ち止まった。

 ステージの高さを超えてヘリが直接姿を現した。ロケットランチャーも機関砲もついていない、中型のヘリだ。後ろの窓から覗く顔を見てローンガンマンは呟いた。

「女か」

 ヘリがステージに着陸してもローンガンマンは動かなかった。ドアが開き、鰐革のガンマンベルトを巻いた婦警がステージに降り立った。オレンジ色のシューティンググラスをかけている。自動小銃を構えかけたが、相手がまだ銃を抜いていないのに気づくと大口径ライフルとショットガンも合わせて投げ捨てた。ローターの回転が緩やかになっていき、操縦士も降りた。警察官の制服だが銃は携帯していない。

「ローンガンマンね」

 森川敬子が聞いた。ベルトのホルスターは右にオートマチック、左にリボルバーが収まっていた。

「そうだ」

 ローンガンマンは頷いた。灰色の髪に、物悲しげな灰色の瞳。

 両者の距離は十メートルちょっとだった。西部劇の撃ち合いをやるにはやや短いか。

「てっきり着陸前に撃ってくると思ったわ。どうして撃たなかったの」

「俺は無防備の相手と女は撃たないことにしている」

 森川が整った鼻筋に皺を寄せた。

「フェミニストね。でもそれって女を馬鹿にしてることにならないかしら。女に殺されることになるわよ」

「それでも構わない。人はいつか死ぬものだからな。だが、あんたには無理だ」

 淡々と事実を告げる口調だった。森川のこめかみに怒りの青筋が浮き上がっていく。

「男の方、それ以上船に近づくな。俺は仲間を守らねばならない。少しでも怪しいそぶりを見せれば撃たざるを得なくなる」

 ローンガンマンが操縦士だった警官に告げた。警官は森川の後ろを通って船へ歩くところだったが、立ち止まり曖昧な笑顔をローンガンマンに向けた。何も持たない両手が上がりかける。ローンガンマンは相手の目を見据えていた。

 銃声が重なった。

 ローンガンマンはまだ銃を抜いていなかった。抜いたのは森川敬子だった。右のオートマチック拳銃が三点バーストモードで火を噴いた相手は、ローンガンマンではなく操縦士の警官だった。着弾時に変形するダムダム弾が胸腹部に三つの大穴を開けている。

「馬鹿野郎……」

 呻いたのは警官の口ではなく、二重写しのようにはみ出した別の男の口だった。警官の右手から拳銃を握った別の腕が現れる。

「私はこの男と戦いたいの。だからあなたは邪魔」

 森川は傲然と言い放った。

 死体となって倒れる警官から青い作務衣の男が飛び出してきた。神楽鏡影は警官の体に重なって潜んでいたのだ。胴体の同じ箇所に三つの穴が開いており、即死でもおかしくない状況だが神楽は素早かった。横へ転がりながら改めて拳銃をローンガンマンへと向け……。

 ローンガンマンが拳銃を抜いた。神楽が銃の角度を変えるより、ローンガンマンがスーツの内側から抜き撃ちする方が速かった。四十センチのリボルバーから放たれた三発の弾丸は神楽の両腕と心臓を吹き飛ばしていた。

 神楽がボロ雑巾のようになって俯せに倒れた。破れた作務衣は大量の血で汚れ、心臓を失っても尚神楽は弱々しく呼吸をしていた。森川がその両脇を抱えてステージの端へ引き摺っていく。

「あなたも不死身みたいだから大丈夫よね。でもやっぱり邪魔なの」

 森川は神楽に柵を乗り越えさせ、一キロ下に広がる八津崎市へと蹴り落とした。「糞っ垂れ」と神楽が血の唾を吐いたが、森川には届かなかった。何やら落下してくるものに、見物していた八津崎市民達は再び歓声を上げる。

 ローンガンマンはその間に使った分の弾丸を込め終えていた。

「では、始めましょうか」

 森川は振り向いて、氷の微笑を見せた。

 船内に独り残されたプロフェッサーは、操作パネルの前で首を右に向け、ステージで対峙する黒贄礼太郎とミラージュを見た。続いて左に対峙する森川敬子とローンガンマンを見る。

 細い手が電気パイプを取り上げ息を吐くが、煙は出ない。本物のパイプを使っていた時の癖なのだろう。

「さて。ここでわしがアンダインをいじくってステージを落としたら、一挙解決かも知れんのう」

 冗談とも本気ともつかぬ口調でプロフェッサーは呟いた。

「それは困る」

 錆びた機械のような軋り声がした。プロフェッサーが目を瞬かせる。

 細い首筋に刃が当てられていた。黒塗りにして光の反射を抑えた両刃の長剣。或いは鋼材自体が黒いのかも知れない。それを握る右手は黒い革手袋を填め、ダークグレイの袖が見えたが共に焦げ跡が残っていた。

 吹き荒ぶ風に紛れてしまったが、ヒュールルルルという美しい音色がついさっきまで流れていたのだ。

「何者じゃ」

 慎重にプロフェッサーが問うた。

「焦げ残った鼠だ」

 剣里火は言った。

 

 

  九

 

「虚しい。虚しい。虚しい」

 天道病院院長・天音善道は術野から顔を上げた。手術室を見回すが、助手の若い外科医と看護婦、麻酔科医の他は誰もいない。

 天音は手術を続けようとしたが、再び「虚しい」という声が聞こえ手を止めた。

「先生、どうかなさいましたか」

 助手の外科医が尋ねた。

「いや……。すまないが、少し調子が悪いようだ。後は君がやってくれないか」

 天音の頼みに外科医は穏やかに頷いた。

「分かりました。難しいところは先生がやって下さいましたから、残りは私にも出来ると思います。先生、無理なさらずお休みになって下さい」

「すまない」

 天音は手術室を出た。看護婦達が一礼して見送った。

 八津崎市全体が盗まれて電力供給が途絶えたが、天道病院は非常用の発電設備によって緊急を要する手術のみ継続していた。

 手術用手袋と帽子、マスクを脱ぎながら誰もいない更衣室へ入る。非常用電源のため弱い明かりの下で、四十代後半の生真面目な顔と豊かな白髪が現れた。銀縁眼鏡に整えた白い口髭。知性と優しさを同居させる瞳には今、疲労と怒りが宿っていた。術衣も脱ごうとしたところで後ろから声がかかった。

「困ったことになった」

 天音は苦い顔で振り返った。

 ロッカーに背を預けて痩身の男が立っていた。デザインは白衣と同じだが漆黒の薄いコート。黒い髪、艶がなく人工的な印象を与える皮膚、整ってはいるが人間らしさの欠片も感じさせない顔。底知れぬ悪意と邪悪な叡智を湛えた瞳。

 天音はその名を呼んだ。

「地獄坂。最近は現れないから死んだかと思っていた。……いや、死んでくれれば良かったのに」

「医者にあるまじき発言だな」

 地獄坂明暗は片頬を曲げてみせたが、その笑みには全く感情が篭もっていなかった。

「暫く忙しくてね。研究所を一から立て直し、失ったデータを再構成していた。しかしエクリプスが余計なことをしてくれた」

「盗賊団のことか。手術の直前にニュースを聞いた。八津崎市を地盤ごと抉り取って浮かせているとか。信じられないが、ひどい地震があったし広範囲で停電しているようだから本当のことなのだろう」

「無論事実だ。彼らは状況次第で八津崎市を落とすと主張している。君が幾ら頑張って患者を治療しても、彼らの気紛れ一つで二百六十万の市民が死ぬことになる。焼け石に水とはこのことだな」

「関係ない。私は自分に出来ることをやるだけだ。明日地球が滅ぶとしても、今日は一人でも多くの患者を助ける。それだけだ」

 天音は苛立たしげに言った。地獄坂は冷たく続ける。

「エクリプスは前代未聞のことをやってのけた。更に八津崎市を落下させ二百六十万人の大量殺戮などされては私にとっても都合が悪い。私の計画のインパクトが薄れ、益々虚しいことになってしまうからね」

「それで、一体何がしたいんだ」

「大量殺戮を防ぎたい」

 天音は信じられないというように目を見開いた。

「お前が、か。殺人鬼のお前が、人を救うなど。……出来るのか」

「やってみよう。そのためには、君には眠っていてもらわねばならない。研究所員に自由意志を与えていないため、私が直接操作する必要があるのだ」

 地獄坂が近づいてくる。天音は反射的に後ずさりした。

「何故、私が眠る必要がある。それとこれと何の関係があるというんだ」

「君は理解している筈だ。ただ、認めたくないだけだ」

 黒い手袋を填めた地獄坂の右手が伸びた。天音の顔は引き攣って声にならぬ叫びを上げていた。恐ろしい何かから必死で目を逸らそうとするかのように。

 しかし天音は体を動かせず、地獄坂の手がその額に触れた。天音善道は意識を失い崩れ落ち、すぐに地獄坂明暗となって立ち上がった。

 

 

  十

 

「わしをどうする気じゃ」

 電気パイプを口に戻してプロフェッサーが聞いた。錆びついた声で剣里火が告げる。

「八津崎市を安全に元の場所へ戻してくれ」

「嫌だと言ったらどうする。既に八津崎市は東京上空に到着しておる。下手なことはせんことじゃな。スイッチ一つで八津崎市と東京の三分の二は壊滅するぞ。ミズガルズソルムルの操作法を知るのはわしだけじゃ」

「なら、取り敢えずは動かないでくれ。動けば両腕を切り落とすことになる」

 脅しではなく本気だろう。二百六十万人の命が懸かっているのだから。プロフェッサーはしかし泰然自若としていた。

 剣里火は電動車椅子の後ろに立っていた。ダークグレイのコートも鍔広帽も焦げ目が残っているがやはり顔は隠れている。長剣を握る腕を見てプロフェッサーが言う。

「ミラージュの結界で焼かれたようじゃが、良く生きておれたもんじゃな。異空間を歩くとか。科学者として興味深いのう」

 剣の苦笑する気配があった。

「面白いものではない。世界を渡り歩く原理も自分では分からぬ。ただ、焼かれても生き延びたのは灼熱の世界を通った経験のお陰だ。……ともかくは、戦いの結果を見届けよう」

「そうじゃな。ミラージュが本気を出すからには奇跡が見られるぞ。彼の力に触れる時、そもそも認識とは何かという本質的な問いに立ち返らせられる。まず揺ぎなき現実があり、感覚器官を通してわしらはそれを認識し、脳内に再構築する、と一般的には考えられておる。じゃが、本当に現実から認識への一方通行だけなのか。逆に、わしらが認識することによって現実に……こりゃ、聞いとるのか焦げ鼠」

 剣の鍔広帽は幻術師と殺人鬼の方を向いていた。

 ミラージュは歩み寄る黒贄を前に動かなかった。二つの本物の目と額の刺青の目がビニール袋をかぶった黒贄を見据えている。

「黒贄礼太郎と言ったな。名は覚えておくよ」

 ミラージュが告げた。

「ウンバラピャー」

 黒贄からは虚ろな奇声が返ってくるだけだ。内臓の大半を失い骨を露出させながら、黒贄は長さの違う足で歩いている。左手に自分の右腕を握り、それは血みどろのステンレスパイプを握っている。

「あまりこの術は使いたくなかったんだ。寿命が縮むからな。やはり長生きはしたい。太く長くというのが理想じゃないかな」

「ウンバラピャー」

 黒贄が、目の前に立った。長い凶器を大きく振りかぶる。

「まあ、仕方がないな。今日は観客が多い。最高のショーになるだろう」

「ウンバラピャー」

 黒贄が凶器を振り下ろそうとした。ミラージュのマントが派手に開いて中身が見えた。

 そこには極彩色があった。

 あるべきミラージュの肉体はなく、形を持たない派手な色彩だけが坩堝のように蠢いていた。濃い赤が、青が、黄色が、白が、紫が、怒涛の奔流と化して黒贄にぶち当たった。黒贄の体があっさり持っていかれ木の葉のように舞う。マントから溢れた光が竜のようにうねり何度も黒贄を叩く。黒贄が飛ぶ。キラキラと空が輝く。二筋に分かれた光が上下から黒贄を挟み込む。骨の砕ける音が続く。極彩色が黒贄を投げる。もう一方の波が黒贄を打ち返す。それをまた叩く。黒贄がステージをバウンドする。衝撃でアンダインのステージと柱が震動した。

 光の奔流が更に大きくなった。ステージをはみ出し、溢れた端が一気に一キロメートル下の八津崎市まで届いた。それは足となった。高層ビルが数棟砕け潰れる。二百数十万人のどよめきが八津崎市を覆った。

 光が極彩色の巨人と化していた。司令船の高さに腰があり、身長は二キロに達しているだろう。ミラージュの姿が見えないのは巨人の中にいるのだろうか。それは今右手に黒贄礼太郎を握っていた。いや、摘まんでいるというべきか。輝く指の隙間にゴマ粒ほどの礼服姿が挟まっていた。それを巨人が投げた。黒贄が落下する前に左右から凄い勢いで両掌が迫る。ブォワシーンンッ、と掌のぶつかり合う音が大気圏まで響いた。

 巨人はまたゴマ粒を放り投げた。左右の掌で交互に叩いてお手玉しながら好き勝手に八津崎市を歩き回る。サイズが三百メートルもある極彩色の足裏で建物が潰れ大勢の市民が圧死する。司令船に吊られた八津崎市が巨人の重みで揺れ、端の方にいた市民がバラバラと零れ落ちていく。これは本当に幻術なのか。現実に人が死んでいるのではないか。暗示効果によるショック死であるとしても、建物や自動車が潰れるのは現実ではないのか。そもそも現実とは何なのか。人は現実を認識していたのではなく、認識を現実にしていたのだろうか。一人が見ただけならただの幻かも知れない。しかし二百万人が見ればそれは現実になるのだ。

 馬鹿げた奇跡の最中、森川敬子とローンガンマンは対峙する相手だけを見つめていた。森川は切れるように鋭い眼光で。ローンガンマンは物悲しげな瞳で。彼は愛用のリボルバーをスーツの内側に戻している。森川もホルスターに銃を収めているからだ。

「面白い銃ね」

 反応を窺うように、森川が言った。

「銃身がしなってたわ。撃つ時の振り方で銃身を曲げて、弾の軌道をコントロールしてるんでしょう。物陰にいる相手も撃つことが出来、狙いどころを読まれにくい利点もあるけれど、本当にそこまで必要なのかしら。単に、高威力で高性能な銃を使えばいいだけでは」

「そうかも知れない」

 ローンガンマンは答えた。

「だが俺はこのリボルバーに慣れている。死ぬまでこいつを使い、こいつを握って死ぬ。それだけだ」

「なら死ねばいい」

 森川は言ったが、まだ両手は微動だにしなかった。極上の獲物を食べる前に、禁断症状など現れる筈もない。周りで極彩色の奔流が暴れ、八津崎市の揺れが伝わりステージが震動しても、まだ二人は動かなかった。

 森川が、静かに息を吸い込んでいった。それから力を抜いて、少しずつ息を吐いていく。

 息を吐き終わる前に両手が霞んだ。

 銃声。

 森川の両手は何も持っていなかった。指が武器に触れた瞬間に、超速で抜き撃たれたローンガンマンのリボルバーが森川の二挺拳銃を弾き飛ばしていたのだ。桁違いの技量差だった。

 森川のリボルバーもオートマチックも、砕けて後方の床に転がっていた。もう使い物にならない。衝撃波を受けて痺れたか、森川は自分の両掌を見た。

 張り詰めたものが失われ、森川はふらついていた。

「あんたの負けだ。ヘリに乗って帰れ。操縦出来るのならな。それともライフルで試すか」

 弾を込めながらローンガンマンが告げた。ライフルとは最初に森川が投げ捨てたもののことだ。ヘリの近くにショットガンなどと一緒に転がっている。

 呆然としていた森川の目が、潤み始めた。涙が溢れ出し、彼女は顔を押さえて嗚咽した。オレンジ色のシューティンググラスも外して捨てる。

「わ……私の、負けよ。完敗だわ。……銃だけは、自信があったのに。銃だけは……うう、うわあああん」

 そうして彼女は大声で泣き出した。拭っても拭っても涙が溢れ出る。

 ローンガンマンは銃を収め、黙って見守っていた。

「うわああああん。あああああん」

 森川は泣きながら歩き出した。よたつきながらローンガンマンへ近寄っていく。

「あああん。ああああああん。負けちゃった。負けちゃったああああ」

 森川は子供のように大泣きした。ローンガンマンは動かない。森川はローンガンマンの前に立ち、そのまましがみついた。いや、しがみついたのではなかった。相手の背中で両手を組む。

「あああああん、フンヌッ」

 ローンガンマンの両腕ごと胴を抱え込んで一気に引き抜くと、後ろに身を反らせて投げ落としたのだ。前方からのかんぬきスープレックスだった。ローンガンマンは動揺の表情を浮かべたが、既に両腕の自由を奪われて受身を取れず頭から床に激突した。

「ああぁぁぁん。でも私の勝ちね」

 痙攣するローンガンマンを見下ろして、森川敬子は告げた。涙はもう乾いていた。

 八津崎市では光のショーに感動して人々が手を振っている。極彩色の巨人は暴れ続けていた。ゴマ粒の黒贄を八津崎市に叩きつけ、踏み潰し、拾い上げて瓦礫と一緒に何度もすり潰す。また摘まんでは挟み潰し、投げ、踏み、叩く。巻き込まれて何万の市民が死んだろうか。しかし巨人はやめなかった。どうしてそこまで執拗に続けるのか。

 黒贄が生きているからだ。

 一分半が過ぎた頃、巨人を包んでいた光の奔流が弱まってきた。二キロメートルあった身長が急速に縮んでいき、司令船の周りに広がるステージへ引き戻されていった。青が、黄色が、紫が、緑が、赤が、色褪せてマントの中へと消えた。夏の花火のように、あっけない終焉だった。

 いつの間にかミラージュはそこに立っていた。もしかすると最初からその場を動かなかったのかも知れない。

「ぐ……うう……」

 ミラージュは呻きながら膝をついた。それまで保持されていたマントが風に吹かれ、肩から外れて飛んでいった。ミラージュの真の肉体が露わになった。魔術的な図形や異国文字の呪文が刺青された、褐色の、しかし、痩せ衰えた肉体。幻術を超える力を用い消耗しきったためだろうか。

「ウンバラピャー」

 黒贄はステージに立っていた。全身の骨が砕けて輪郭がいびつになり、かぶったビニール袋は内側全体が真っ赤になっていたが、残骸のようになっても黒贄は動いていた。変形した左腕は今尚変形した右腕を握り、その右腕もまだ変形したステンレスパイプを握っていた。

「ウンバラピャー」

 黒贄はヒョコン、ヒョコン、とミラージュの方へ歩いていく。

「ハハッ……夢、破れたか」

 なんとか立ち上がろうとしながらミラージュは呟いた。

「色々なものを、盗んできた。人を驚嘆させるのも美学の内だ。欲しいものを奪い、好きなだけ遊び、面白半分に大勢殺してきた」

「ウンバラピャー」

 ビニール袋の破れ目からダラダラと血を零しながら黒贄が応じた。ミラージュはもう逃げる力もないようだ。

「しかし、人の心を盗むのが、最も難しく、面白い。残念だが、今回は、しくじった。心を、盗めなかったようだ」

「ウンバラピャー」

 黒贄は虚無の瞳で変わらぬ奇声を返した。もう黒贄はミラージュの目の前にいた。

 ミラージュは誇らしげに立ち、「見よ、これが最後のショーだ」と両腕を広げて待った。死の訪れを。

「ウンバラピャー」

 黒贄が左腕を振り下ろした。右腕がしなりながら続き、ステンレスパイプがミラージュの脳天にめり込んだ。

 瞬間、ミラージュが破裂した。八方に散った肉片はヒュルヒュルと音を立てて空を飛び、ポバーン、と、大輪の花火となった。ドーン、バーン、ババン、と続けざまの十連発が青い空を飾りつけた。

 その時、下の八津崎市から何かの音が波のように届いてきた。双眼鏡やカメラで観戦していた市民達が、一斉に拍手と歓声を送ったのだ。音波で司令船が揺れるほどだった。

 青いステージの上に、実際のミラージュの死体は横たわっていた。振り下ろされたステンレスパイプで脳天から股間まで真っ二つになって。彼は最期の力を生き延びるためではなく、魅せるために使ったのだ。

「終わったな」

 船内で剣里火が言った。

「お主達の負けだ。八津崎市を元の場所に戻してくれ。従うなら命までは取らん」

 仲間の全滅を見届けて、プロフェッサーは淡い微笑を浮かべていた。寂しげで、同時に満足げな微笑だった。

「わしには自負があった。歴史に残る画期的な研究と発明を成したという自負がな。じゃが学会も学者連中もわしのことを変人扱いして閑職に追いやろうとした。学生共もわしの体を嘲笑う始末じゃ」

 老科学者の独白を、剣は黙って聞いていた。

「わしのことを認めてくれたのは、ミラージュとエクリプスの連中だけじゃ。バラム……スチームマンには特に感謝されたのう。奴の手足を作ってやったのはわしじゃからな」

「……」

「エクリプスは敗北した。じゃが焦げ鼠よ、こんな台詞は知っとるかね。『我々は絶対に降伏しない。しかし滅亡する可能性はある。だが、その時は世界を道連れに……」

「じいさん、動かない方がいいわよ。ちょっとでも動いたらそのアフロ頭を撃ち抜くからね」

 気絶したローンガンマンを引き摺って船内に踏み込み、森川敬子が告げた。ショットガンと自動小銃を肩掛けしている。

「なあに、わしは動かんよ。噛むだけじゃ」

 プロフェッサーはまた微笑んだ。その瞳から急速に光が失われていった。剣が反応出来なかったのは、電気パイプに仕込まれていたのが爆発物でなく青酸カリであったことと、プロフェッサーは最期の台詞の前に噛んで毒物を摂取していたためであったろう。

 プロフェッサーの心臓停止に連動して船のメインコンピュータが最後の司令を発した。理論上は無限の圧に耐えられるというアンダインは音波によってコントロールされる。特定周波数で瞬時に硬化し、別の特定周波数では瞬時に液体化するのだ。司令船から連なる一本の柱は地盤を貫いて、浮揚する八津崎市を支える逆ドーム状のアンダインに繋がっていた。その全てが崩壊した。空中に静止する司令船だけを残して、黒贄と死体を載せた青いステージも柱も、都市を支える逆ドームも全て溶けた。

 八津崎市が揺れる。落ちていく。市民達は歓声のような悲鳴を上げる。一キロの高みから二百数十万の命が落ちていく。

 と、その落下速度が緩やかになっていった。地面の亀裂は広がるものの建物の揺れは安定してきた。人々は不思議そうな顔を見合わせる。駆けていた人が飛び上がり過ぎ数メートルも宙に浮いた。八津崎市の重力がおかしくなったように。

 地獄坂明暗が咄嗟に重力炉を応用して、八津崎市全体を支えているのだった。

 だが限界はある。やはり少しずつ、八津崎市は下降していく。その下には東京都があった。

 要人と一部の都民は大急ぎで避難していたが、その他大勢の都民はテレビ中継で上空の八津崎市を見たり窓から肉眼で見上げたり仕事をしたりしていた。ゆっくり落ちてくる巨大都市に都民は悲鳴を上げる。八津崎市の市民は歓声を上げる。八津崎市の地盤が、高層ビルの天辺に当たり崩していく。八津崎市は止まらない。ジリジリと東京の建物を潰していき、中心部は東京の大地を凹ませて八津崎市の地盤をめり込ませる。国会議事堂が潰れた。首相官邸が潰れた。東京タワーが潰れた。皇居が潰れた。恐慌状態の群衆が潰れた。

 八津崎市は守られた。

 東京の半分は壊滅した。

 死者は四百万人を超えたが、地盤の下敷きになったために正確な数は永久に分からないだろう。

 警察署前の広場でのんびりビーフジャーキーを食べていた大曲源が、ふと気づいたように言った。

「今後は八津崎市が何処の県だと聞かれても困らずに済むな。東京都八津崎市だ」

 

 

  エピローグ

 

 昼間でも何処か薄暗く、廃墟のように閑散とした押舞町に、陰気な地下酒場『デスパレート』があった。コンクリートに配管剥き出しの壁で、孤独な客達が思い思いに自分を痛めつけたり自己嫌悪に浸ったりしながら酒を飲んでいる。

 東京都・八津崎市警察署長の大曲源は入ってすぐに店内を見回した。暗い奥のテーブルで、礼服の男がビールをあおっている。悲しげな溜め息を洩らし、目に涙を滲ませているのは黒贄礼太郎だった。

 大曲は歩いていき、酔っ払っている黒贄の肩に手を置いた。

「どうしたんだよクロちゃん。事務所にいないと思ったらまたこんなところで。助手が心配してたぞ。いや、あんまり心配はしてなかったかな。まあそれはいいとしてだ」

「署長さん。放っておいて下さい。私は駄目なんです。もう、本当に駄目です」

 黒贄はジョッキを飲み干して落涙した。

「この間相談に乗ってやって、奇声はなんとかなっただろ。なのに今度はどうしたんだ」

「それが、ゲニョピニャドラポニャヌガピャービッタンコなんです」

「え、何だいそりゃ」

 黒贄は溜め息をついて言った。

「奇声が長過ぎて、唱えている間に相手が逃げてしまったんです」

「そりゃ本当に駄目だな」

 大曲が頷いた。

 

 

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