プロローグ
黒贄礼太郎は電柱の陰から一人の男を見守っていた。標的の男は三十代の後半であろう、小ざっぱりとしたスーツ姿で、左手にアタッシュケースを提げている。平日の真昼にこの服装で町を歩いていることから、営業かセールスマンだと思われる。
大柄な体を隠そうとして完全に失敗しており、通行人が不審げな視線を黒贄に向けていくが、本人は気にする様子もない。彼の身長は百九十センチを超えているだろう。肉は薄いようだが骨格はがっしりしている。着古して肘や背中の部分がテカテカになった黒のスーツ。略礼服として使われるそれを、彼は普段着に採用しているようだった。ネクタイはしていない。黒い髪は自分で切っているらしく、アンバランスで肩の辺りまで伸びている。
黒贄の顔立ちは彫りの深い端正なものだ。年齢は二十代後半から三十代前半であろうか。肌は異様なまでに白く、死人を連想させる。薄い唇は常に何かを面白がっているような微笑を浮かべていた。少しばかり眠たげにも見える切れ長の目。その漆黒の瞳に、角を曲がっていく標的の姿が映る。
黒贄は急ぎ足で後を追い、次の電柱に隠れた。薄汚れたスニーカーは音を立てないが、傍目からは彼が尾行という怪しい行為に従事していることは明らかだ。
オフィス街の賑わいから離れ、尾行は静かな住宅街に移った。標的の男は黒贄の気配に気づかない。黒贄は二十メートル以上の距離を保ちつつ尾行を続ける。
と、郵便ポストにへばりつく黒贄の横を、若い女が通り過ぎていった。髪の長い、清楚な雰囲気の美人だ。
黒贄の視線が標的から女に移り、そのまま釘づけになっていた。歩き去る女に合わせて振り向いた黒贄の首が、ほぼ真後ろまで回って異様な軋みを上げる。
「殺したいなあ……あ、いかん」
黒贄は慌てて前に向き直った。標的の男は次の角を曲がろうとしている。ポストの陰から飛び出して、しかし黒贄は後方の女を振り返った。
「ああ、そそられますな。でも仕事中だし……」
女の方も十字路を左へ曲がろうとしている。このままでは双方共見失ってしまうだろう。黒贄はどちらにも踏み出せぬまま、前と後ろをクルクルと交互に見遣る。黒贄の顔に焦りが浮かぶ。
「いけませんな。最近は依頼が少ないし、この仕事もしくじったら水だけの生活になってしまう。でもだからといって殺人を我慢するのは私の存在意義が……いや存在意義などと理屈が先行してはいけませんな、じゃなくてああああああっ」
黒贄は走った。標的の男ではなく、若い女の方へ。十字路に出るとすぐに女の背中が見えた。
「あああああっ」
女が振り返る前に、黒贄は両手で女の頭部を掴んでいた。左に回すと、グギッと音がして女の胴はそのままに顔だけが黒贄の方を向いた。
女のキョトンとした目が、黒贄の愉悦に潤んだ目と合った。
「こんにちは」
黒贄が声をかけると、女は口を動かして何か言おうとした。しかし声は出ず、女の瞳が上に滑っていき、完全に白目を剥いた。
黒贄が両腕を高く上げた。ブチブチ、と音がして、女の首がちぎれた。血を噴き出して崩れ落ちる胴体を放って、黒贄は駆け足で元の道へ戻っていく。居合わせた老婆が不思議そうにそれを見ている。
「わーいわーい」
両手で抱えた生首から血が滴り落ち、アスファルトに赤い痕を残していく。男の消えた角を曲がり、黒贄ははたと立ち止まった。
標的の男がいない。
「しまった。仕事が、報酬が……」
黒贄は一番近くの屋敷に走り、玄関のドアを蹴破って中に飛び込んだ。
「お邪魔します。柿村さーん」
廊下を土足で進み居間を覗き込むと、中年の主婦が掃除機を持ったまま凍りついている。
「いませんね。失礼しましたー」
黒贄は体当たりで壁をぶち抜いて屋敷を出た。塀を蹴り壊して隣の家の敷地に入り、玄関から入るのも面倒とばかりにガラス戸へ頭から突っ込んだ。割れたガラスの破片が黒贄の顔と女の生首に刺さる。
「柿村さーん」
その屋敷には誰もいなかった。留守番をしていたシェパード犬が黒贄の足に食らいつき離さない。
「困りましたな。柿村さーん」
黒贄は生首を両手で捧げ持ちシェパードを左脛にくっつけたまま壁を破って更に隣へ渡った。コンクリートの破片が黒贄の髪と肩に積もる。
すぐ横にガラス戸があるのにわざわざ壁を蹴破って、黒贄は隣の屋敷内に侵入した。そこは居間になっていて、丈の低いテーブルで老婦人と向かい合って座る標的の男の姿があった。アタッシュケースが開かれ、テーブルの上には書類が並んでいる。
「ああ良かった。柿村さん」
「な、何なんですかあんたは……」
標的の男が絶句した。老婦人は大口を開けたまま息も出来ずにいる。
「柿村さん、一つ質問をしてよろしいでしょうか」
黒贄礼太郎は脛を噛んで唸るシェパードを無視して女の生首をテーブルに置き、ガラス片で血だらけになった自分の顔を男の目の前にぐいと近づけた。そして尋ねた。
「浮気はなさってますか」
一
毎月人口の一、二割が増減するという超犯罪都市・八津崎市。市役所や警察署が並ぶその中心区域に、エベレストタワーと呼ばれる建物があった。
エベレスト山にちなんだその高さは八百八十四メートル八十センチ。現在、世界で最も高い建築物だ。一応先の細まった円筒型だが土台部の径が四十メートル、最上部の径が二十メートルほどしかなく、恐ろしく細長いその形は今にも倒れかかってきそうな威圧感を人々に与えていた。
階数にすれば二百階建てを超えるだろう。しかしその塔のなめらかな壁面に窓は見当たらず、玄関として鋼鉄製の大きな扉があるだけだ。
いや。満月に突き刺さるかのように鋭くそびえ立つ塔の遥か最上部から、僅かに明かりが洩れているようだ。
九百メートル近い高みから見下ろす景色はどのようなものか。窓には鉄格子が填まっていた。
窓の奥、エベレストタワーの最上階のフロアで、一人の男がスコープを覗いていた。
フロア全体が一つの部屋になっているようだ。端にある扉はエレベーターであろう。床には絨毯が敷き詰められ、ソファーの近くには暖炉まである。側には本物の薪が積まれてあった。
L字型をした大型の机に、一辺一メートルほどのガラスケースが載っていた。
ケースの中に収まっているのは、径六十センチほどの地球儀だった。国境線や国名は描かれていないが、地形とその色合いは凄まじく緻密に出来ており、山脈の凹凸までがはっきりと示されている。まるで宇宙空間から見た本物の地球のように。金属製の軸と支えは目立たぬように細く、端でモーターと繋がっている。
ガラスケースの正面、中心部を望遠鏡のような筒が貫いて、先端は地球儀の表面に触れるかどうかのところまで延びていた。
男は、そのスコープの接眼部に両目を当てて、手元に置かれたパネルをいじっていた。つまみの操作に伴い静かに地球儀が回転する。それによってスコープで見るべき位置を調節しているようだ。
「アメリカ政府もわざわざ軍隊など動かさんと、わしに仕事を頼めば良かろうに」
男が呟いた。扇風機の前で喋っているような、妙に変質した声音だった。
「まあ、これでわしの力を思い知るじゃろう」
男の年齢は五十代、或いはもっと上かも知れない。クッションのよく利いた大きな背もたれの椅子に腰掛けているが、本人の身長は百六十センチもないだろう。豹柄のガウンを羽織った体は貧弱で、細い手足と薄い胸に腹だけが丸く飛び出している。まるで、餓鬼のように。
男は一旦スコープから目を離した。その顔は低い鼻を中心にしてX字に深い皺が刻まれ、皮膚は紫色にくすんでいる。白目の部分は黄色く濁り、瞳は虹彩部分がなく完全な暗黒を覗かせていた。乾いた唇が悦楽に緩み、暗赤色の細長い舌がそれを舐めた。髪の毛は灰色で疎らにしか生えていない。
操作パネルの右に、一枚の書類が広げられていた。対象となる人物のスケジュールと、その時間帯における居場所の緯度・経度が細かく記載されている。
L字型の机の端に置かれたテレビから誰かの声が流れていた。たたみかけるように続く言葉は英語だった。
衛星放送での生中継らしいそれは、アメリカ合衆国現大統領の演説場面だった。公園の広場だろうか、大勢の聴衆の前で拳を振り上げ、白いスーツを着た大統領は自信満々に語りかけている。
書類に記載された対象の名は、そのアメリカ大統領のものだった。
男は再びスコープを覗き込んだ。視野の下部に、地球儀の今見ている部分の緯度と経度が表示されている。男はつまみによって地球儀を回し、経緯度を書類の値に合わせた。
スコープの映像は広い地表を映していた。ゴマ粒よりも小さな建物が密集した都市。さながら航空写真のように。それが地球儀の表面を拡大しているのだとすれば、信じ難いほどに精密な地球儀となるだろう。それにしても視野の一部に雲のような白い靄が見えるのはどういうことか。
男はパネルのズームレバーに触れた。ガラスケースを貫く筒先が僅かに伸びて地球儀の表面に近づく。映像が拡大され、高層ビル群に囲まれた大きな公園が見えてきた。男はつまみを微調整して公園を視野の中心に据える。
更にズームされる。公園の中央、噴水のある広場に無数の豆粒が集まっている。それは聴衆の頭だ。ステージが設けられている。位置の微調整とズーム。
そこには白いスーツを着た男が立っていた。
地球儀に当てたスコープの視野に、テレビ画面と同じ景色が映り、テレビで演説する大統領と同じ男がやはり拳を振り上げていた。
「ククッ」
男は含み笑いを洩らした。
更に微調整とズーム。スコープの視野には十字の線が横切っている。まるで照準のように。その線が交わる部分に、唾を飛ばして叫ぶ大統領の頭が移動して止まる。
男の緩んだ唇が、邪悪な笑みの形に吊り上げられた。
「クラッシュ」
男はパネルの赤いボタンを押した。カチャリと音がして、筒先から細い針が飛び出した。地球儀の表面、丁度スコープでは視野の中心に当たる部分を、針の先端が貫いていた。
轟音は、地球儀からではなく衛星中継の時間差を置いてテレビから聞こえた。続いて人々の悲鳴が。ジーザス・クライストと誰かが叫んでいる。
男はスコープから目を離し、テレビ画面に向き直った。
大統領の立っていたステージが消滅していた。敷石の広場に大きな穴が開いている。径にして五メートルほどか。穴の深さは画面からは分からない。
大統領の姿は、近くにいた数人の側近と共に、消失していた。大統領夫人が泣き喚きながら何かを指差している。テレビカメラがそれをズームして映し出す。
それは、穴の縁に引っ掛かっている、ちぎれた片足だった。断面は骨も肉も潰れている。
穴の奥を覗き込んだシークレットサービスが英語で「ペチャンコだ」と叫ぶのを、男は聞いていた。
「クク。これで一億か。ちょろいちょろい」
男は唇を歪めて低く笑った。依頼内容が書かれた書類を折り畳んで暖炉に投げ捨てる。炎に煽られてゆらゆらと揺れながら、紙片が燃え散っていく。
「クク。ククク。これだけじゃ物足りんな。適当に何処か潰すか」
男は地球儀を適当に回し、ヨーロッパに目をつけた。引き出しから世界地図帳を取って参照し、フランスのパリに経緯度を合わせてズームする。
パリの都市が見えてきた。夕闇に染まり始めたばかりの市街地。特徴的な高い塔はエッフェル塔だ。
「ククッ」
男はそれを視野の中心に据えた。パネルの別のつまみをいじる。そのつまみには『POWER』とあった。
更なるズームはせずに、男はそのまま赤いボタンを押した。
「クラッシュ」
カチャリと音がして、筒の先から針が飛び出した。今度はさっきよりも太い針だった。
男はテレビのチャンネルを切り替えた。暫く眺めていると、緊急ニュースが入ってきた。パリ市街で大地震が発生し、詳しいことは不明ながら半径三キロ以上に及ぶ範囲で全建物が崩壊したということだ。その中には有名なエッフェル塔も含まれているという。
「……クク。クヘヘ。クヒョハッ。ウケケケケ」
男は堪えきれなくなったように、丸い腹を抱えて笑った。笑い声が次第に高くなる。
「ウキョキョキョーッ、タノチーッ、エヒャヒャ、ウキャキャーッ」
男は椅子ごとひっくり返って、子供のように手足をばたつかせて喜んだ。
「オヒョーッ、お……」
と、寝転がった男の頭近くに、誰かの足があった。
いつからその場にいたのか、男の背後に何者かが立っているのだ。黒ずくめの姿で。
「だ、誰だっ」
男は慌てて立ち上がろうとした。見かけに似合わず俊敏な動きだった。
だが、銀光の閃きがそれを上回った。素早く二度、三度と光の線が続く。
中腰のまま停止した男の右腕が、肩口から外れてボトリと落ちた。なめらかな断面からどす黒い血が滲み出していく。
続いて左腕が落ちた。更に、斜めに切られた胴体の上半分がずれ落ちた。その時に胴体から頭部が離れて転がった。下半身が倒れて両足も外れた。
絨毯に左頬を埋めた男の生首は、今尚目を見開き、驚愕に凍りついていた。
一瞬で男をバラバラにしてのけた黒ずくめの影は、無言で見下ろしていた。顔も目元以外は黒い布で覆われ、肉食獣を思わせる鋭く冷酷な瞳だけが影の特徴であった。
影は、黒い手袋を填めた両手に、それぞれ鋭利なナイフを握っていた。右手のものは大型で、左手のものは鎌状に湾曲している。
それも、影が両手を振ると瞬時に消えた。
絨毯に、ゆっくりと血溜まりが広がっていく。黒い影は冷酷な瞳でそれを観察しながら動いた。
二
「それにしても精巧に出来てるもんだ」
スコープを覗き込み、髭面の男は呟いた。その右手が操作パネルに触れようとした時、背後から鋭い声が飛んだ。
「刑事さん、それには触れないで下さい。旦那様が大事にしておられたものですから」
「そりゃ悪かったな」
髭面の刑事は大儀そうに振り向いて、肩を竦めた。執事らしい男が渋い顔で刑事を睨んでいる。
「凄いもんだな。こんなに細かい地球儀は初めて見る。業頭原さんってのは地球儀職人か何かかい」
刑事は聞きながら、危うくその業頭原氏を踏みそうになっていた。眉をひそめて執事は答える。
「いえ。先程もお答え致しましたが、手広く事業をなさっておいでです。……いえ、おいででした」
「ふうん。実業家って訳だ。それもこんなでかい塔を建てるくらいだから、かなり儲かってたんだろうな。俺みたいな安月給の刑事には想像もつかんね」
八津崎市警捜査一課刑事・大曲源は短くなった煙草をクリスタル製の灰皿に押しつけた。L字型のテーブルに置かれた灰皿は、既に吸殻で小山が築かれている。ちなみに日本の警察は通常県警だが、八津崎市だけは独立した警察機構が設けられていた。ただし警察署は一ヶ所だけだ。
大曲の年齢は三十代の後半であろう。くたびれたワイシャツの上にくたびれた背広を着て、くたびれたコートを羽織っている。折れ曲がったネクタイは首に巻いているのではなく、どうやらシャツに縫いつけているようだ。頬と顎を覆うのは中途半端に伸びた不精髭で、逆立った短めの髪は後頭部だけペシャリと潰れていた。
「しかし寒いな。九百メートル近い高さだから仕方がないか。こんな暖炉だけで我慢してたなんて、業頭原さんは寒さに強かったんだろうな」
大曲はぼやいてシャツをまくり上げた。少し弛んだ腹の右側は、肌に似せてはいるが人工樹脂製だった。四角の切れ目に指を差し込んで蓋を開くと、金属製の窪みに幾つか操作スイッチがついている。
『体内ヒーター』となっているつまみを回し、大曲は出力を上げた。蓋を閉じてシャツを下ろす。
大曲の右手と首筋の皮膚も、人工樹脂で出来ていた。耳を澄ませば彼の内部から機械の唸りが聞こえてくることだろう。
ここはエベレストタワーの最上階だった。暖炉とソファーとL字型の机。壁際の大きな棚には酒瓶が幾つか収まっている。窓は鉄格子の填まったものが一つだけ。机の上にはテレビと、ガラスケース入り地球儀が置かれていた。地球儀の表面を覗くための、望遠鏡に似た機械。
この部屋の主たる業頭原重隆は、柔らかい絨毯の上に散乱していた。それぞれの部品の位置を白線で囲んであるが、まだ回収せずそのままにしている。
今この部屋には、転がった業頭原は別にして、大曲刑事と三人の警官、そして業頭原の執事の計五人がいた。
「クロちゃん遅いな……」
大曲は腕時計を確認した。既に午前八時十五分。電話してから二時間以上が経っている。
「鑑識もまだ来ねえし。人出が足りないのは分かるが、妙におざなりな対応だよな。署長も何考えてんだか……いや、大体予想はついてるが」
投げ遣りな視線を執事に向け、大曲は新しい煙草に火を点けた。
「クロちゃんは副流煙を嫌がるから、今のうちに喫っとかないとな」
「あの、大曲刑事。そのクロちゃんというのは、どんな人物なんですか。捜査に協力してくれるということですけれど」
警官の一人が尋ねた。
「そうだな……。少なくとも殺人ということに関しては、超一流のプロフェッショナルだ。誰が殺したとか殺されたとか、どんなふうに殺されたとかについて、物凄い嗅覚を持ってる」
美味そうに紫煙を吐き出しながら大曲は答える。
「いや、プロと言ったら本人に怒られるな。アマチュアであることに意義があるそうだから。まあ、お前らに忠告しとこう。クロちゃんを下手に刺激するなよ。死んだ魚のような目をして大人しく突っ立ってな」
自身の目もかなりそれに近いことを知ってか知らずか、大曲は疲れた声で告げた。
「念のため、遺書を書いてた方がいいかも知れんぞ」
「そんな、脅かさないで下さいよ。ははは」
別の警官が笑ったが、それは幾分虚ろな響きになっていた。
机の上の電話機が上品なベルの音を鳴らした。
「失礼」
執事が大曲の前で受話器を取り何事か話すうちに、その顔が次第に強張っていった。
「刑事さん、玄関に黒贄さんという方が見えています。刑事さんに呼ばれたということですが、どうも奇妙な格好をしておられるようで……」
「おお、クロちゃんがやっと着いたか。こちらまで上げてくれよ。変な格好はいつものことだからな」
大曲が嬉しそうに言い、急いで今の煙草を喫い進めていく。執事は一階にいる使用人に伝えてから、換気扇を作動させて室内の煙を追い出し始めた。警官達は冷たい空気に身を凍えさせ、暖炉に手を翳す。
「すみません、遅くなりました」
エレベーターの扉が開き、制服姿の使用人と共に黒贄礼太郎が現れた。着古した黒い礼服にスニーカーというアンバランスな服装で、ネクタイは締めていない。百九十センチを超える長身を屈めてフロアに足を踏み入れる。
「いやあ、場所が分からなくてあちこち探し回ってしまいましたよ」
そう言うと黒贄は頭を掻いた。髪型は自分で切ったように左右非対称だ。煙草を灰皿に押しつけて、早速大曲が突っ込む。
「電話で話した時はエベレストタワーを知ってる口ぶりだったよな、クロちゃん」
「いやあ、その後で刑事さんが念押ししたら『全く知りませんな』と答えるつもりだったんですよ。それから何回も言ってますが、私の名字は『くらに』ですからクロちゃんではなくクラちゃんです」
「やれやれ」
大曲は肩を竦める。室内を見回して黒贄が言った。
「しかしここは良いお部屋ですね。眺めも良さそうですし、絨毯も高級品ですな」
その絨毯に、ポタリ、ポタリ、と赤い雫が落ちていく。
黒贄が右手に持っているのは、一メートル近い長さのシャベルであった。握り部分も金属で、縁が少し変形した刃と、間の木製の柄も含め、全体が真っ赤に染まっていた。
「そそそれは……」
警官の一人が黒贄のシャベルを指差した。その指と声が震えているのは寒さのせいではなさそうだ。
「え、これはシャベルですが、ご存じないですかね。刑事さんご指定の三十八番です。普通はくじを引いてもらって決めるんですけど」
黒贄は嬉しそうに血塗れのシャベルを掲げてみせた。既にかなり使ってしまっているらしい。
「まあとにかく本題に進もうや、クロちゃん。死体が腐っちまう」
大曲は言って、まず絨毯に散らばっている肉塊を指差した。
「彼が今回の被害者でありこの世界一高い建物エベレストタワーの主、業頭原重隆さんだ」
「ほほう、業頭原さんとはこの方のことでしたか」
しげしげと生首を見下ろして黒贄は頷く。
「エベレストタワーは知らなくても業頭原の名は知ってたか」
「いえ、それが全く知りません」
答える黒贄も聞いた大曲も平然としていたが、奇妙なやり取りに警官達はポカンと口を開けている。執事は顔をしかめ、使用人は首をかしげていた。
「雇われてる皆さんには悪いが、業頭原ってのは色々と黒い噂が立ってた人物でね」
ちらりと執事達を見遣り、少しも悪いと思ってなさそうな口調で大曲は説明した。
「表向きは実業家ってことになってるが、彼の持ってるのはペーパーカンパニーばかりさ。こんな塔をおっ建てるくらいの金が何処から入ってくるか気になるだろ。政府の裏の仕事を請け負ってるとか、逆に政府を脅してるとかいう話もあったな。その役割だが、裏の業界筋では、暗殺、ってことになってる」
執事達は特に動揺した様子もなく、黙って大曲の話を聞いている。
大曲は無意識のうちにか煙草を出そうとして、ふと黒贄に気づいて手を引っ込めた。
「まあ、飽くまでも噂だけどな。俺もこの男のことを詳しくは知らねえのさ。夜中の二時頃、業頭原が殺されてるって警察に電話があって、取り敢えず警官が確かめに行った。ところが応対した執事さんはそんな電話はしてないし業頭原はちゃんと生きてるって言うのさ。何か怪しいと感じた警官がちょっとゴリ押しして踏み込んでみたらこの通り、業頭原さんは八つ裂きになって転がってたって訳だ」
「いえ、ちょっと違いますね」
肉塊を見ていた黒贄が口を挟んだ。
「ご覧下さい、頭と胸、腹、両手両足で、計七つに分解されています。つまり業頭原さんは八つ裂きでなく、七つ裂きということになりますね」
薄い唇を軽く歪めて冷酷な笑みを浮かべ、黒贄は血塗れのシャベルを振り上げた。
皆が見ている前で黒贄はシャベルを勢い良く振り下ろした。バキョンという音がして業頭原の腹部にシャベルの刃が完璧にめり込んだ。
「えいさーこらさー」
黒贄は楽しげにかけ声をかけながらシャベルを床に沿って引いた。キュポキョポと不気味な音をさせて業頭原の下半身が縦に分割された。
「これで丁度八つ裂きです」
公式を教える数学教師のような口調で黒贄は言った。刑事以外は皆、目を見開いて絶句し、警官の一人などは自分の掌に吐き始めていた。
「やれやれ」
大曲だけはそう言って、軽い溜息をついた。
黒贄は再びシャベルを振り上げた。今度は胸の部分を狙う。
「そしてこれが九つ裂きです。わーい。更にこうすれば十裂きです。わーいわーい」
端正な白い顔を悦楽に輝かせ、黒贄は業頭原の分解作業に没頭していた。止めに入ることも出来ず皆呆然と立っているだけだ。
疲れた顔で大曲が告げた。
「あ、そういえばクロちゃん、今回の報酬だけど二時間遅刻したから二万円引いて三万円ね」
「な、何ですと」
途端に黒贄の動きが止まった。振り向いた顔は泣きそうに歪んでいる。ちなみに業頭原はこの時点で十六分割くらいになっていた。
「仕方ないだろ。探偵たる者、約束の時間はしっかり守らないとな」
「で、でも、私の探偵としての勤務時間は午前十時からですし、これは時間外労働ですよ。少しくらい色をつけてくれてもいいのに、逆に報酬ダウンとは。私にまたコンビニの店員をやれと仰るのですか」
いつもは気怠げな黒贄の口調も、今は充分過ぎる切実感を伴っていた。
「俺だって安月給で苦しいんだ。ならこうしようじゃないか。今から一時間以内に事件を解決すれば報酬は五万五千円、それから一時間長引くごとにマイナス一万円だ。五時間オーバー以降は五千円ってことで、どうだい」
黒贄の瞳は、難事件に挑む冷徹な名探偵のそれになっていた。
「ふむ。早速詳しいお話を聞かせて頂きましょうか。油を売っている時間はありませんよ」
大曲は髭面でぐったり笑って先を続けた。
「ガイシャがガイシャだけに、俺の予想ではこのヤマは本庁に取られちまうだろうな。それどころか事件自体が闇に葬られる可能性もある。だから俺は早いところ決定的な情報を掴んで優位に立ちたいのさ。それで手柄になっても、事件が葬られて黙らされることになっても、俺の出世に少しは役立つだろうからな」
皆が横で聞いていることを、大曲は何とも思っていないようだ。
「ふむ、それでこの事件の問題点はどんなところでしょう」
血みどろのシャベルを立てて握り部分に両手を置き、知的を装って黒贄が尋ねる。
「問題点は、この現場が密室だったってことさ」
大曲は窓を指差した。
「あの通り、唯一の窓には鉄格子が填まっている。出入り口はこのエレベーターだけだ。エレベーターは階下に続いてるが、結局他のフロアに窓はないし、塔の玄関は一つきりだ。一階には二十四時間使用人が詰めてるから、気づかれずに侵入して事を済ませ、出ていくことは無理だろう」
「事前に犯人が別のフロアに潜んでいたという説は如何でしょう」
黒贄が問うた。大曲の代わりに執事が答える。
「それはあり得ません。また、万が一私共の目を盗んで塔に侵入出来たとしても、このフロアに入ることは不可能です。ここにロック用スイッチがありますが」
執事は机を指差した。受話器の横に小さなレバーがある。
「オンにしますと、このフロアでエレベーターの扉を開くことが出来なくなるのです。旦那様はこのフロアにおられる間は必ずロックなさいます。今回警察の皆さんのご要望で開けましたけれど、一階、二階、エレベーター内の三ヶ所のスイッチを同時に押すという、面倒な過程が必要となりました。この機構を知っているのは私共だけですし、侵入者が一人で行うことは不可能です」
右手にシャベルを持ち左手で顎を撫でながら、黒贄が頷く。
「ふうむ。なかなか複雑な仕組みですな。しかし、あなた方が三人で行えば可能という訳ですね」
その『あなた方』が自分達を指していることを知り、執事達の顔色が変わった。
「わ、私共が旦那様を手にかけたと仰るのですか」
「まあまあ、落ち着きなよ。使用人はもう一人いたっけな」
大曲がなだめる。
「はい。コックがおります」
「念のため、ここに来てもらってもいいかい」
執事は電話機で階下に連絡し、やがて白い調理服を着た男が上がってきた。
「それでは、改めて自己紹介してもらえるかい」
並んだ三人が順番に頭を下げた。
「執事の橋沢と申します。業頭原様にお仕えして十五年ですから、三人の中では一番長くなります」
橋沢は五十代の後半であろう、白髪混じりの痩せた男だ。丸縁眼鏡をかけた顔は、この最悪の状況にいささか険しくなっていた。
「雑務全般をこなしております、呉本です」
使用人の呉本は三十才前後、格闘技の経験があるのか分厚い筋肉が体躯を覆っている。首の幅が頭と同じくらいあった。
「厨房を任されている井川です。業頭原様のお食事は全て私が調理しておりました」
コックの井川は四十代前半、昏い目をした男だった。濃い髭で隠しているが、左頬を斜めに走る古い傷跡を、注意すれば確認出来るだろう。
普通ならそこから詳しい事情聴取に移るのだろうが、大曲はあっさり投げた。
「じゃあクロちゃん、頼むわ」
「了解しました。しっかり時間のチェックをお願いします」
黒贄はシャベル片手に現場の調査を開始した。まずは散らばった業頭原重隆の肉塊に屈み込む。
「切断面から察するところ、刃渡り三十センチ前後の大型ボウイナイフと、二十センチ強の刃が鎌状に湾曲したナイフを使っていますな。後者は片刃です。右手にボウイナイフを、左手に鎌のナイフを持って二刀流で使用されたようです。それにしてもナイフで胴体を真っ二つにするとは見事な腕前ですな。握力も二百キロ近くあるでしょう。……む」
黒贄の眠たげな目が驚愕に見開かれた。
「もう一つ、別の凶器が使われていますね。他の二つと違ってかなり乱暴な切り口です。凶器は刃のついていない金属の板ですな。これは凄い筋力です。握力も一トンを超えるのではないでしょうか。なんと、犯人は二人いるぞっ」
興奮して話す黒贄に、大曲が非常に冷静で的確な突っ込みを入れた。
「そりゃクロちゃんだろ。さっきシャベルでやってたじゃないか」
「あ、そうでしたね」
黒贄は頭を掻いた。下らないボケに、その場の誰も笑ったりしない。
続いて黒贄の視線は机の上に移った。L字型の机の正面に一メートル角のガラスケース、横手にテレビがある。
ガラスケースの中に収まった径六十センチの地球儀を、黒贄は時間をかけて観察した。地形も山脈の凹凸も恐ろしく正確に作られた地球儀。雲のような靄があるが、微妙に表面から浮いているようにも見える。
安易な印刷でも工場の大量生産でもなく、また、手作りでもこんなものは出来ないだろう。硬質ガラスのケースは、神か魔物が作ったようなこの道具を外界から守っている。
「ふうむ」
黒贄はスコープを覗き込み、操作パネルをいじる。
「あ、あのそれは……」
執事が止めようとしたが、その言葉は途中で尻すぼみとなる。黒贄の暴挙を目にして尚も立ち向かえる者は数少ない。
しかし黒贄は地球儀の経緯度を少し動かしてみただけで手を離した。
「よく分かりませんが、やはり業頭原さんは暗殺業のようですね」
黒贄の呟きに執事達は顔を強張らせた。大曲はコートのポケットからビーフジャーキーを出してチビチビ噛んでいるし、警官達は所在なげに黒贄を見守っているだけだ。
次に黒贄は窓に歩み寄った。サッシ窓の枠は横幅一メートル強、縦は五十センチほどだ。
窓のすぐ外側には鉄格子が縦に嵌まっていた。一本の太さは三センチほどで、格子の間隔は二十センチに満たない。
黒贄は窓を開けて手を伸ばし、鉄格子の感触を確かめてから大曲を振り返った。
「犯人はここから出入りした可能性がありますね」
「でも普通の人間じゃあその隙間を通り抜けられんだろう」
大曲が言うと、黒贄は警官の一人に目をつけた。三十代前半、他の二人の同僚よりも幾分骨格が細い。温和な顔が恐怖に歪む。
「論より証拠です。見ていて下さい」
「ひっ」
身を竦ませた警官に、黒贄がシャベルを置くが早いか凄い勢いで飛びかかった。抗う間も与えず軽々と抱え上げて窓へ突進し、彼の頭を鉄格子に押し込んだ。
「助けて大まがゲブッ」
助けて大曲刑事、と、彼はそう叫ぶつもりだったのだろう。だが彼の頭は帽子をかぶったまま格子の隙間にぶつかりゴキャッと嫌な音を立てて両側頭部が凹んだ。バタついていた手足が急に強直を起こす。黒贄の怪力によって彼の頭は更に進み、頭の幅が二十センチ弱に縮められていく。眼球が飛び出し、目と鼻と口から血の混じった脳が零れ落ちていく。
居合わせた人々は彫像のように固まって、警官の虐殺を見守っていた。大曲はジャーキーを齧りながら「あーあ」と呟いた。
「それそれ」
黒贄は容赦なく押し込み続ける。ゴキャゴキャと警官の胸幅が狭まり腹が潰れ骨盤が砕け、とうとう太股の半ばまで格子を抜けた時点で、黒贄は不思議そうに首をかしげた。
「ありゃ、お亡くなりになっておられる。……ま、まあ、柔軟な体の持ち主でしたらこの程度の隙間は通過可能ですよ」
黒贄は誤魔化すように曖昧な笑みを浮かべてみせた。気まずく重苦しい沈黙がフロアにわだかまっていた。足だけで引っ掛かっていた警官の死体が完全に格子を抜け、八百八十四メートルの高みから地上へ落下していった。地面に激突する音がここまで聞こえることはないだろう。
警官の存在した痕跡は、血塗れの鉄格子と、途中で脱げ落ちた片方の靴だけとなった。
「しかしこの高さまで塔をよじ登ってきたのか。外壁には手掛かり、足掛かりになるようなもんはないぞ。吸盤か何かを使ったとしても、九百メートルは大変な労力だ」
大曲が言った。警官の死に悲しみを堪えているのか或いは何も感じていないのか、彼の平然とした顔はどうやら後者であるらしい。
「小型飛行機からパラシュートで塔の屋上まで降りるという手もありますし、九百メートル程度を楽に這い登るような人間もたまにいますからね。ただ、私は今回の犯人は、別の方法でこの窓に到達したと考えています」
澄まし顔で語る黒贄に大曲は重ねて問うた。
「どんな方法だ」
黒贄は自信満々に答えた。
「犯人は、飛行機など使わず、自力で鳥のように空を飛んできたのです。羨ましいですなあ」
沈黙が十数秒続いた。相変わらず執事達と警官二人は固まっている。大曲は眉をひそめ、斜め上の何もない空間を睨みながら、顎を左右に動かして困ったような表情になった。
「……まあ、それは置いといて、だな。でも踏み込んだ時、窓は閉まってて内側からロックしてたそうだが」
何だそんなことか、とでも言うように、黒贄はフッと笑った。
「念力です。犯人は念力を使って外からロックを開け、出ていった後も念力でロックしたのですよ」
「なるほど、そいつは凄いや」
大曲の台詞は棒読みだったが、黒贄は気にする様子もなく次に換気扇へと向かった。壁の高い位置に設けられ、枠の大きさは一辺四十センチほどだ。
「ふむ、ここからも出入り可能ですな」
黒贄は換気扇を固定された金属枠ごと素手で剥ぎ取った。作動中だったがコードも引きちぎられ枠も歪み、カラカラと乾いた音を立ててやがて止まる。換気扇があった場所に四十センチ四方の穴が残った。その数十センチ先が外へ直接繋がっている。
「早速実演してみせましょう」
黒贄は残った警官達を見た。獲物を求める無邪気な殺人鬼の視線が二人を射る。年配の方が後じさりしながら細い声を上げた。
「あひいっ、いや私は……」
「ご志願ありがとうございます、キャハーッ」
黒贄が素早く飛びかかってその体を捕らえた。
「わ、私には妻と二人の子供があででででっ」
頭から穴に押し込まれ、肩や肋骨が砕ける音がフロアに響く。警官の声は途中から室内まで届かなくなった。残った最後の警官は自分が選ばれなかった安堵に胸を撫で下ろしているが、彼が今日を生き延びられる保証は何処にもない。
年配の警官は太った腹がつっかえてこれ以上進まなくなった。黒贄はシャベルを拾い上げて横殴りに振り、刃の平らな部分で警官の尻を叩いた。
ボジュッと異様な音がした。スイングが見えないほどの速度で叩きつけられたシャベルは警官の臀部を完全に潰していた。足の付け根がブラブラになって揺れている。青い制服のズボンに赤い色が染み始めていた。
「警官たる者、生命保険は必須だよなあ」
胴体が隙間なく穴に嵌まり込み、もはや動かなくなった肉塊を眺め、感慨深げに大曲が呟いた。
「ちょっと手間取りましたが、柔軟な体の持ち主でしたら大丈夫です。次は暖炉の煙突ですが」
薪の燃えている暖炉に顔を突っ込んで黒贄は煙突を確認した。こちらは更に狭く三十センチ四方の広さしかない。しかも途中で鉄製の網が張られている。
「なんとか可能でしょう。実演を……」
煤で汚れた黒贄の顔が最後の警官へ微笑みかけた。彼は膝を震わせ、自分が失禁していることにも気づいていないようだ。
警官にとって幸いなことに、大曲が口を挟んだ。
「そっちの換気扇だが、気づかれずに痕跡も残さず、丸ごと付け外しするのは大変だろ。まさかそれも念力かい」
「ええ、その通り、念力です」
黒贄は重々しく頷いた。警官は神を見る目で大曲を見つめていた。
「世の中には凄い能力を持った人がいるものですねえ。自在に空を飛び念力を使い、細い隙間も柔軟な体ですり抜けて暗殺を遂行する。私の存じている範囲では、神楽鏡影さんなら或いは……」
「ほう、かぐらきょうえい。どんな字だ」
大曲が手帳を取り出すのを見て、黒贄は急いで訂正した。
「いえいえ、何でもありません、忘れて下さい。嘗ての依頼人のことを喋る訳にはいきませんから」
「ほう、クロちゃんに以前仕事を頼んだことがある、と」
大曲は早速それをメモしている。
「い、いやあ、世の中には色々な人がいますからね。もしかすると犯人は壁を素通りする超能力者だったのかも知れませんし、テレポーテーションで出入りしたのかも知れませんし、凄い念力で遠くから業頭原さんを七つ裂きにしたのかも知れませんし、いやそれどころか業頭原さんは自分で自分をバラバラにしたのかも知れませんな。いやはや、生きていくということは大変なことですよね」
意味不明となってきた黒贄に、大曲は腕時計を見ながら意地悪く告げた。
「もう三十分経ったな。後三十分で報酬は一万円引きだ。どうするクロちゃん。殺人犯は誰なんだろうなあ」
「ううむ。そうですな。その場その場の依頼をきちんと果たすのが探偵というものですよね。ここは私の推理力を最大限に働かせてみますか」
黒贄は血みどろのシャベル片手に目を閉じて考え込んでいたが、やがて、勢い良く見開かれた目は、極大の狂気を湛えていた。
「殺人犯はあなただっ」
黒贄が跳躍した。助走なしの見事なダイブで横殴りに振られたシャベルがコック・井川の首を刎ねた。
「殺人犯はあなただっ」
黒贄はそれで終わらなかった。勢いがついて壁に頭から激突するかと思われた刹那、黒贄は壁を蹴って宙を反転した。そのまま伸ばしたシャベルの先端が、屈強な体格の使用人・呉本の背中から腹まで貫通する。
「グブッ……なんで俺が……」
呉本は呻いた。歪んだ顔が苦痛から怒りに変わるが、着地した黒贄がシャベルを無造作に引き抜くと呉本は力尽きて前のめりに倒れた。
「わ、私は何もやってない、助けてくれっ」
執事の橋沢は両手を上げて降参のポーズを取った。
「私の目を欺くことは出来ませんよ」
黒贄は口の両端を一杯に吊り上げ悪魔のような笑みを浮かべた。両手で握った赤いシャベルを最上段から振り下ろす。ジャコン、と、シャベルは橋沢の頭頂部から股間までを一気に通り抜けた。
シャベルの湾曲した刃のため歪んだ傷となった橋沢の体が、左右に倒れていった。
探偵による容疑者三人の虐殺を見ていた警官は、黒贄の血に飢えた瞳に射抜かれた時、自分の死期を悟って情けない声を洩らした。
「あう、ら、べぼ……」
「えいさー」
気楽なかけ声と共に突き出されたシャベルが警官の胸を貫いた。
「げぶっぶっ」
警官が泣き顔になり、口から大量の血を吐いた。
「こらさー」
黒贄がシャベルを持ち上げた。刃がすっぽ抜けたが、警官の体は勢いで高い天井を破り、頭の半ばまでめり込んだ。暫く手足をヒクつかせていたが、彼の体は、やがて、動かなくなった。
すぐ横の床に滴る血を気に留める様子もなく、のんびりジャーキーを食べ終わった大曲が黒贄に尋ねた。
「こいつら三人とも殺人犯なのかい」
「ええ。殺人のことに関しては自信があります。コックの方と執事の方が数人、使用人の方が十人以上は殺していますね。もしかすると業頭原さんの指示で殺しの下請けなどをこなしていたのかも知れません」
「この警官も殺人犯なのか」
大曲がぶら下がっている部下の死体を指差すと、黒贄はにっこり笑って首を振った。
「いえ、その方は違いますな。刑事さんはもっとご自分の部下を信用なさった方がいいですよ」
「やれやれ」
大曲は本日三度目になるその台詞を呟いた。
「で、殺人経験は分かったが、業頭原を殺したのはこの三人なのか」
「え」
黒贄がキョトンとした顔で大曲を見返した。
「業頭原さんを殺した、ですか」
「ああ、その犯人を見つけるためにクロちゃんを呼んだんだからな」
「なるほど、最初から何か変だと思っていたのですよ。根本的な部分で行き違いがあったのですね」
そして黒贄は言った。
「業頭原さんは死んでませんよ。体を分断されていただけで、これは単なる傷害事件ですよ」
「あ、何だって」
大曲が床を見た。さっきまで十数個の肉塊が転がっていた場所に、今は乾いた血溜まりしか残っていなかった。
業頭原重隆が消えている。
「ど、何処に、どういうウゲッ」
大曲の髭面が歪んだ。彼は見たくないものを見ようとするかのように、恐る恐る自分の腹部を見た。
くたびれたスーツを貫いて、暗赤色の槍が生えていた。それは大曲の背後の壁から真っ直ぐに延びていた。先端が触手のようにピチピチとうねりながら、素早く壁の中へと引き戻されていく。
大曲のスーツの腹と背中の部分が、血に染まり始めた。
「やべえ、生身に食らった……」
呻く声は次第に小さくなり、大曲は絨毯に崩れ落ちた。
触手の消えた壁に、小さな穴が開いていた。僅かに光が差すところを見ると、どうやら触手の持ち主はエベレストタワーの外壁に取りついているらしい。
深い穴の向こうから、黄色に濁った目が覗いた。瞳の部分は虹彩がなく、暗い闇が広がっている。
「神楽というのかあやつは。厄介な状況を招きおって」
扇風機の前で喋っているような、不気味な声音が洩れた。それを聞いているのはただ一人、赤いシャベルを持って立つ黒贄だけだ。
声は囁くように低くなり、何処から聞こえているのか判然としなくなった。
「ショックで気絶しておる間に警察が踏み込んできて、わしは死んだふりを続けねばならなくなった。通報したのは神楽自身じゃろう。わしが本当に死んだか心配になったんじゃな。何しろ奴はこの部屋に、ドッペルゲンガーで侵入したのよ」
「なるほど、ドッペルゲンガーでしたか」
黒贄はさもありなんと頷いた。
「ヘボ探偵よ、ドッペルゲンガーのことは知っておったか」
「いえ、全然知りませんが」
黒贄があっさり答えた後、暫く壁の向こうの声が途切れた。
「……ドッペルゲンガーとは一人の人間が同時に二ヶ所に存在する現象だ馬鹿探偵。奴は外壁に張りついて、部屋の中に自分のドッペルゲンガーを出したのじゃろう。おそらく使える時間が短く、わしに止めを刺す暇がなかった」
声が終わると同時に、天井を破って赤い触手が伸びた。鋭く尖った先端が黒贄の左肩に突き刺さり右の腹から抜けた。触手はあっという間に引き戻されて消え、返り血ばかりだった黒贄の礼服に本人の血が滲み始めた。
「これで全て片づいた。後は政府の上層部に電話して一件落着だ。何も変わりはせん。しかし馬鹿共がわしの地球儀に触りやせんかとハラハラしたぞ。こちらの世界に来て、五十年もかけて作った魔術武器だからな。神楽とかいう男は引っ捕らえ、どの組織の依頼でわしを殺そうとしたのか吐かせてやる。その後でじっくりいたぶり殺してくれよう。クク。クヘヘ……」
「それでは今から奇声を考えて仮面を用意しますので、少々お待ち下さい。やはり殺人鬼たる者、大事な場面にこの二つは必須ですよね」
浮き浮きと喋る黒贄に、部屋の外から驚愕の気配があった。
「確かに心臓を貫いたと思ったが」
「今日は『ア』から始めましょうか。アゲバー、アゲラバー、アガラベバー。ちょっと今日の気分には合いませんな」
黒贄は首をひねって考え込む。背後の壁から触手が飛び出して、黒贄の左胸を貫通した。小さな傷口から血が断続的に噴き出していく。
「アギョレバー、たまにはレバーも食べたいですな。じゃなくてアギョラバー、アゴラビャー。よし、これで行きましょう」
黒贄が奇声を完成させる間にも、あちこちの壁から触手が神出鬼没の攻撃を続けていた。腹も首筋も、最後は後頭部から額の中心までを貫かれたが黒贄は倒れない。
「化け物め……」
その場に生きた第三者がいれば「お前が言うなよ」と突っ込みを入れそうな台詞を壁の向こうの声が洩らした。
額の穴から脳漿を零しながら黒贄は周囲を見回した。その瞳の奥で極大の狂気が渦を巻いている。
「次は仮面ですな」
彷徨う視線が、机の上のガラスケースで停止した。
硬質ガラスに守られた、直径六十センチの地球儀。精密な表面の描写は地球そのものを映し出しているかのようだ。
黒贄の薄い唇が吊り上がり、悪魔の笑みを見せた。
「そ、それに触るな」
壁の向こうの声が慌てた。黒贄は構わず両手を伸ばす。指先が硬質ガラスにヒビを入れた。
横の壁から伸びた赤い触手が黒贄の左こめかみから右のこめかみまで抜けた。引き戻された触手には脳の欠片が絡んでいるが、黒贄には意味を成さない。
「わーい」
黒贄の両手がガラスケースをぶち破り、地球儀を掴んで取り出した。十本の指先が北アメリカ大陸やヨーロッパ大陸、アフリカ大陸の数ヶ所を押さえてメチッと音を立てた。それぞれ深さ一センチほどの凹みが出来た。
「やめろ、ち、地球が……」
「アゴラビャー」
黒贄は高く捧げ上げた地球儀に自分の頭を無理矢理突っ込んだ。バグンと音がして、南極を中心とした部分に大穴が開き黒贄の頭がスッポリと地球儀内に収まった。中は空洞だったようだ。南極大陸の破片の一部が絨毯に落ちる。
「わわわわ、や、やめ……」
「アゴラビャー」
黒贄が両手の人差し指で地球儀の前面を突き刺した。オーストラリア大陸のど真ん中と太平洋に直径二センチの穴が貫通した。その奥から覗く瞳は絶対零度の虚無を映していた。
「アゴラビャー」
黒贄が間の抜けた奇声を洩らすたびに地球儀が細かく震動した。
換気扇のあった穴から、尻の潰れた警官の死体が押し戻されて落ちた。その穴の向こうより血色の悪い肉が室内へ滑り込んでくる。
「やめろ、やめてくれ」
哀願口調になっている声の主は、業頭原重隆であった。おそらくバラバラの状態で鉄格子を抜け出たのだろうが、室内に戻る時はある程度の幅が必要だったのだ。
業頭原の体は、肉のブロックを乱暴に繋ぎ合わせたような不細工な代物になっていた。傷口がずれ、腸や筋肉繊維や破れたガウンが挟まっている。黒贄のシャベルで斜めに割られた顔面はまるでピカソの絵のようだ。暗黒の瞳は別々の方向へ向けられている。
「お前は何をしとるか分かっているのか。地球が……」
割れた口を動かして業頭原が言いかけた。黒贄はお返しに、地球儀の中から奇声を洩らしただけだった。
「アゴラビャー」
地球儀をかぶった黒贄がシャベルを拾って業頭原に襲いかかった。その胸を触手が貫いた。
業頭原の口内から伸びた暗赤色の触手は、彼の舌であった。
三度目となる心臓への攻撃を受け、黒贄の勢いは更に増した。第一撃は地球儀ごとの頭突きだった。業頭原の顔が変形するが、同時に地球儀の太平洋が大きく陥没した。
「あひぃぃ、ややめ……」
「アゴラビャー」
黒贄は自分の背中に触れるほどに振りかぶった血塗れのシャベルを、業頭原に向かい真っ向から振り下ろす。
「アゴラビャー」
業頭原は避けきれなかった。刃の平らな面をまともに脳天へ食らい、あっけなく頭が潰れて一気に厚みを失い、脳と眼球が飛び出した。シャベルはそのまま胸部を進みみぞおち付近までめり込んだ。肺の大部分と心臓が潰れただろう。ちぎれた長い舌がヒクヒクと蠢いている。
「アゴラビャー」
黒贄はシャベルを横殴りに振り回した。刃によって胸部上三十センチほどが両肩ごとスライスされすっ飛び壁にベチャリとぶつかった。
「アゴラビャー」
勢いでそのまま黒贄は一回転し、シャベルは更に三十センチを切り飛ばした。折角繋がっていた腹部が壁にぶつかって縦に分かれる。
「アゴラビャー」
黒贄が更にスピンを続ける。腰が飛び、両大腿が飛び、最後に両脛が飛んで、絨毯の上には両の足首だけが残った。ちなみに右だけがスリッパを履いていた。
「アゴラビャー」
黒贄はシャベルを置いて壁際に積み重なった肉塊に歩み寄った。傍らの暖炉には火掻き棒が数本挿さっている。
「アゴラビャー」
黒贄は火掻き棒を手に取って、業頭原の肉塊を焼き鳥のように串刺しにし始めた。ペチャンコになった頭と右脛と左腕を一緒くたに刺している。
「アゴラビャー」
全てのパーツが四本の火掻き棒に装填し終わると、黒贄は片手に二本ずつ持って暖炉の炎に翳し始めた。やがて香ばしい匂いが漂い始める。
「アゴラ……」
と、先程のスピンが今になって効いてきたのか、黒贄が千鳥足になってよろめき始め、後ろ向きにひっくり返った。
頭にかぶっていた地球儀が床にぶつかりバギョンと真っ二つに割れた。仮面が外れ、現れた黒贄の顔はすっきりした表情になっていた。
「やれやれ、これで一応解決かな」
大曲源が面倒臭そうに起き上がり、黒贄が落としていた火掻き棒を持って暖炉にくべる。
「刑事さん、ご無事でしたか」
別段驚いたふうもなく黒贄が言う。
「まあな。クロちゃんの巻き添えを食わないように死んだふりしてた。でもまた機械部品が増えそうだ」
大曲の出血は止まりかけており、スーツの赤い染みがそれ以上広がることはない。オイルらしきものが一緒に洩れているようだ。
「この一張羅も買い替えないとなあ。さて、事件の成り行きは、業頭原殺害がばれそうになった執事達三人が警官を襲って殺害、仕方なくこの大曲さんが射殺したってとこでどうだろう」
「素晴らしい。これで一件落着ですね」
黒贄が拍手した。どう見ても執事達の死因が射殺でないことには突っ込みが入らなかった。
業頭原の肉塊は自らの油分を使いながら程良く焼けていく。これでもう復活の恐れはなさそうだ。
「なら早速署に連絡するか。救急車も呼んで欲しいしな」
大曲が携帯電話を取り出してかけ始めた。暫く耳に当てていたが、怪訝な顔になっていく。
「おかしいな。誰も出ない」
「あ、そういえば言い忘れてました」
黒贄が頭を掻いた。その拍子にスニーカーが地球儀の片割れを踏んで粉々にした。
「このエベレストタワーを探していて道に迷ったので、ついでにこの付近一帯の住民を殺しまくってしまいました。警察署にも寄りまして、居合わせた署長さん以下皆殺しですな」
「な、何だって……」
大曲の顔が凍りつき、それはやがて恐怖ではなく歓喜に歪んだ。
「なら俺が次の署長だ」
三
その頃、地球は凄いことになっていた。
エピローグ
寂れた裏通りにある廃墟のようなビルの四階に、血臭漂う黒贄礼太郎探偵事務所はあった。
事務所内の壁には様々な仮面が掛かっていた。縁日で売っているような特撮ヒーローのお面から、血の染みがついた目出し帽、油粘土で作ったような不細工な面もあった。
それを気味悪そうに見回しながら、女はベンチに座っていた。公園やバス停に置いてあるような、木製のベンチだ。もしかすると黒贄が盗んできたものかも知れない。
女は三十代の前半。派手な化粧に、我の強そうな顔をしていた。
「それで、主人は浮気してるんですか」
正面の机で穏やかな微笑を浮かべている黒贄礼太郎に、女は尋ねた。
「どうやら、浮気はなさっておられないようです。柿村静江さん」
黒贄は答えた。
「浮気などしていないと、柿村誠一さんは最後まで仰っていましたから」
「……。主人に直接聞いたんですか。調査してることがばれないようにって、あれほど言ったのに」
女の目が怒りに吊り上がった。それにいささか怯んだ様子で黒贄は言い訳する。
「申し訳ありません。不器用なもので」
「もういいわ。帰ります。そんな適当な仕事ぶりじゃ、報酬は払えないわ」
「はあ。これでも頑張ってはいるのですが。どうしていつもこんなことになってしまうのでしょうな」
黒贄は悲しげにうなだれたが、女が立ち上がるのを見ると、机の下から四十センチ四方の箱を取り出した。
蓋を開けて黒贄は言った。
「お帰りになるのでしたら、ご主人も一緒に連れて帰って頂けますかね」
箱の中には、男の生首が収まっていた。