プロローグ
「早速ですがくじを引いて頂けますかな」
黒贄礼太郎は机の上の箱を指差した。約三十センチ四方の紙製の箱で、上面に人の手が入るくらいの丸い穴が開いている。折り畳まれた小さな紙片が何十枚も入っているのが見える。
「中を見ないで一枚だけ選んで下さいね」
黒贄の何処か浮き浮きした声を聞きながら、二十代半ばの気弱そうな依頼人は躊躇いがちに手を伸ばした。最初に触れた一枚を手に取り黒贄に差し出す。
「ふむ。八十五番ですね。ちょっとお待ち下さい」
黒贄は左のドアに向かった。ノブのロックと追加の南京錠を外してドアを開ける。篭もった腐臭が流れ込み依頼人は顔をしかめたが、隣室の様子を垣間見て目を剥いた。
左の部屋には高い棚やテーブルがあり、様々な器具が整然と並べられていた。植木鋏やチェーンソーや金属バットや出刃包丁やゴルフのアイアンなど、本来の使用目的からすればどうしてこれが同じ場所にあるのかという品々。しかしそれらはある特殊な目的に使用出来るという点では統一されていた。
即ち、殺人に。
黒贄がゴソゴソやっている間に、依頼人は改めて黒贄礼太郎探偵事務所を見回した。四方の壁にはこれまた雑多なマスクが並んでいる。般若の面やアイスホッケーのマスク、剥ぎ取った人の顔の皮膚のように見えるものや、ピザチェーン店のマスコットキャラクターの、ピザを模した大きな顔まで掛かっていた。
それぞれのマスクは、赤い染みがついているものも多かった。たまに小さな穴が開いているものもある。まるで、弾痕のように。
右は別の部屋に繋がっていた。開け放しになったドアの隙間から流し台やベッドが見えた。探偵は事務所に住んでいるらしい。
依頼人の座る椅子は、公園やバス停でよく見かける木製のベンチだった。長い間風雨に晒されてきたようで色褪せている。背もたれ部分には何処かのクリニックの広告が貼られたままだ。
ベンチの正面に位置する机も木製だが、所々が裂け歪み、焦げ痕のようなものも残っている。まるで近くで爆発でも起こったみたいに。
正面の壁には窓があるが、今はガラスがないのか段ボールとガムテープで塞がれていた。冷たい隙間風が依頼人の足元を撫でていく。
右の壁際に、破れてクッションが少しはみ出しているものの、黒贄本人の事務用椅子よりは高級な椅子があった。
その椅子には、一体の完全な人骨が腰掛けていた。乾いた靱帯が残っているのを見ると本物らしい。それぞれの骨を針金で繋ぎ合わせ、頭蓋骨の陥没した部分や折れた肋骨なども丁寧に修復してあった。
髑髏の虚ろな眼窩に見据えられ、依頼人の青年は身震いした。
「ありましたよー。いやあ、良いものを選ばれましたね」
黒贄が左の部屋から戻ってきたので依頼人は慌てて向き直り、凝固した。
黒贄が持っているのは、長い柄の大鎌だった。二メートルほどもある柄は緩く湾曲し、直角についた鎌の刃渡りもまた五十センチを超えていた。
「あの、それは……」
依頼人が小声で尋ねると、黒贄は待ってましたとばかりに説明した。
「昔から西洋の農民が使っていた大鎌です。サイズと呼ばれる戦闘鎌の原形でもありますな。本来は穀物の収穫に使いますが、死神も持ってます。いやあ、いいですなあ。これでシャコンシャコンと首を刈り取るんですよ」
黒贄は柄を両手で握り、宙で何度も振ってみせた。ヒュルンヒュルンと不気味な風切り音がして、依頼人は反射的に自分の首を押さえた。
「いや、でも……あの……それ、必要なんですか。僕の部屋に盗聴器が仕掛けられてるかどうか、調べるだけなのに」
口ごもりながら依頼人が突っ込むが、黒贄はにこやかに頷いた。
「それはもう、間違いなく必要です。これらを使わないことには仕事が進みませんからね。さて、あなたのお部屋まで案内して下さい。ああ今日は何人殺すのかなあ……」
「し、失礼します」
依頼人は立ち上がると、転がるように事務所を飛び出した。
「あれ、どうなさったんですか。お待ち下さい」
黒贄が大鎌を握ったまま依頼人の後を追う。
「た、助けて、助けてくれえっ」
依頼人は悲鳴を上げながら階段を駆け下りていく。事務所は四階にあるが、階下は全て廃棄されていて誰もいない。
「待って下さい。待って。待てえええええ」
黒贄の白い顔に次第に赤みが差していく。眠たげだった冷たい瞳が、血の色に染まり始めていた。
「助け、て、お願いだ、助けうわっ」
依頼人は崩れかけた階段に足を取られて踊り場まで転がり落ちた。膝を押さえ呻くその顔に長い影が下り、彼は凍りついた。
「た、たたた、助け……」
依頼人の歪められた頬を、涙が伝い落ちていく。
勝ち誇ったように立つ黒贄は、薄い唇の両端を限界以上に吊り上げ悪魔の笑みを浮かべていた。
黒贄が大鎌を振りかぶった。
一
全長九メートルのリンカーン・スーパーストレッチリムジンは、その白い車体に陽光を反射させながら大通りを緩やかに進んでいた。片側三車線の広い道路だが、周囲の車はリンカーンから必要以上の距離を取って走っている。それが余計に白いリンカーンの存在感を際立たせていた。彼らがリンカーンを避けるのは尊敬の故か、或いは持ち主の正体を知る恐怖の故か。リンカーンの窓ガラスは外からは黒く見え、内部の様子は分からない。
「世間では私のことを『吸血鬼』とか『悪魔』とか呼んでいるようだが」
リンカーンの後部、座席が向かい合わせになったラグジュアリー・キャビンで、ベルサーチの高級スーツを着た男が言った。僅かに外国訛りの残る日本語だった。
男は四十代の半ばだろう。今は酒色のためか肉が緩んでいるが、若い頃は鍛えていたと思われる体つきだ。古い傷痕が額の左側から、撫でつけた髪の生え際に分け入っている。傷のためか男の左の眉はいつも吊り上がって見えていた。
男の瞳は何処までも昏い憎悪に沈み、グラスの中で揺れる琥珀色の液体を眺めながら別の遠いものを見ているようでもあった。
隣に座る若い男が、ベルサーチの男を怯えた目で見つめていた。若者の両手の指は何本か欠けていて、まだ新しい断端には血が固まっている。左耳と、下唇の一部もなくなっている。
「どうせなら、『魔王』と呼ばれてみたいものだな」
ベルサーチの男は左手にブランデーのグラスを持ったまま、右手でスーツの内ポケットから折り畳みナイフを取り出した。ブレイドに親指をかける出っ張りがついており、片手で開く動作は手慣れたものだ。現れた十センチの刃は鉤状に湾曲した凶暴な形状をしていた。若者が身を竦ませ、か細い悲鳴を洩らした。
「ひっ」
ベルサーチの男は無造作にナイフを動かし、若者の右の耳を切り取った。若者は目を閉じて必死に耐えていた。
血が滲むそれをグラスの中に落とし、ベルサーチの男は人肉の入ったブランデーをゆっくりと味わった。
その異様な光景を平然と見ている、或いは見もしていない二人の男が向かいの座席に座っている。
一人は白い薄手のロングコートを羽織った、ひょろ長い西洋人だった。身長は二メートル近い。その代わり胸板も薄く腕も細かった。両脇の下の膨らみは拳銃だろうか。
白いコートの男は二十代の後半と思われた。背中まで伸びた長い金髪は紐で一房に纏められ、細面の顔はにやけたような笑いを浮かべていた。丸縁のサングラスをかけており、どんな目つきをしているのかは分からない。
もう一人は、甲冑を着込んでいた。がっしりした体格で、おそらく身長は百八十センチ前後だろう。甲冑は西洋のものとも日本の戦国時代のものとも異なっており、体の表面に沿うような未来的なラインを形成していた。弱点である関節部は網目状の細い鎖で守られ、鋼鉄製の甲冑の表面には複雑な黒い紋様が描かれていた。呪術的な意味が込められているのだろうか。
甲冑の男の浅黒い肌はラテン系か。鰓の張った頑丈そうな顎、一文字に引き締められた唇、幅のある低い鼻、そして鋭く細められたまま瞬きをしない目。彼のいかつい顔と太い首筋には無数の傷痕が残っていた。その幾つかは銃創だ。
目の辺りにだけ細長いスリットが開いた釣鐘型の兜が、彼の膝の上に載っていた。鞘に収まった長剣を左手で持っているが、床に先端をついて立てていると柄がリンカーンの天井につかえそうだ。金属の鞘にも同じく黒い紋様が施されている。
「どうしてこんな残酷なことをするのか。そう思うか」
ベルサーチの男はナイフの血塗られた刃をブランデーに浸しながら、両耳のない若者に尋ねた。
「い……いえ……アヅッ」
今度は若者の左頬が抉り取られた。綺麗な円形の肉片を、ベルサーチの男は再びグラスに入れた。耳と頬肉がブランデーの中で踊る。
若者は肩を震わせながら、俯いて耐えている。溢れ出した涙が左頬の穴に吸い込まれていく。逆に穴からは血が滲み出して顎へと流れる。
ベルサーチの男はニコリともせずに解答を告げた。
「理由はない。ただやりたいだけだ」
白いコートの男と甲冑の男は、眉一つ動かさずにそれを見守っていた。
前方から急ブレーキの音が聞こえた。すぐに重いクラッシュ音が連続する。ベルサーチの男は目だけを動かして運転手を見た。
「トレーラーが行く手を塞いでいます」
バックミラーに映る運転手の顔は無表情だった。サングラスカーだが車内からは外の様子がよく見える。
大型のトレーラーが三車線を横切るようにして完全に遮っている。鼻面は対向車線まで飛び出していた。こちらの車線から三台、対向車線からも一台がトレーラーに衝突していた。おそらく路肩に停車していたトレーラーが突然飛び出したのだろう。このリンカーンを待ち構えていたかのように。
「避けますか」
後続車も詰まってきており、トレーラーを避けるとすれば対向車線に目一杯はみ出すか、通行人を轢いて歩道に乗り上げるしかない。運転手の落ち着いた問いに、ベルサーチの男は首を振った。
「いや、停まれ。商売敵のようだ。三日前は蝋真会とやったが、今日はどの組かな」
リンカーンは優雅にスピードを緩めて停車した。トレーラーの荷室が内側から勢い良く開き、銃を持った男達が飛び出してきた。人数は十四、五人。多くは都市迷彩に身を包み、防弾チョッキを着込んでいる。拳銃だけではなく自動小銃や手榴弾を持つ者もいた。
「これは本格的だな。日本のヤクザにもこんな奴らがいるとは」
ベルサーチの男は昏い笑みを浮かべた。甲冑の男が何も言わずに兜をかぶり、白いコートの男が服の内側に手を伸ばす。ベルサーチの男が片手で制した。
「まあ待て。少し遊ばせてやろう」
襲撃者達はリンカーンの周りを取り囲んで遠慮なく撃ち始めた。傷だらけの若者はない耳を押さえて蹲る。他の男達は平然と動かず、ベルサーチの男はブランデーをゆっくり味わっている。
銃弾が、全て撥ね返されていた。分厚い防弾ガラスは小さな傷さえ残さず、幾層にも特殊コーティングを施されたボディは凹みもしない。襲撃者達の顔に焦りが浮かび、自分の跳弾で負傷する者も出てきた。
一人が手榴弾のピンを抜き、リンカーンの下に転がしてきた。襲撃者達が急いで距離を取る。
轟音は聞こえたが、リンカーンの車内には僅かな震動が伝わっただけだ。コーティングは底部にも施されていた。
動揺する襲撃者達の中で、リーダーらしい男が振り返って何か叫んだ。荷室から何かを肩に担いだ男が現れた。
それが携帯式ロケットランチャーであることを知っても、車内の男達は表情を変えなかった。
リーダーらしい男が手を振り上げ、担いだ男がロケットランチャーを発射した。白煙の筋を残しながらロケットがリンカーンに突っ込んでくる。
爆音と閃光。リンカーンがさっきよりも大きく揺れた。ベルサーチの男は耳と頬肉の入ったグラスを掻き混ぜていた。
炎と煙が晴れ、無傷のリンカーンに愕然とする襲撃者達の顔が見えると、ベルサーチの男は「やれ」と一言命じた。
素早くドアを開けて飛び出したのは白いコートの男と甲冑の男だった。一瞬でドアは閉まりロックされる。
最も近い場所にいた二人の男の首が飛んでいた。甲冑の男が長剣を抜いているのが見えたのは、男達の首が元の場所から一メートル以上離れた後だ。鋭利な首の断面から血が噴き上げる。
ロケットランチャーを担いだ男の頭が、爆音と共にランチャーごと吹き飛んでいた。白いスーツの男の両手に二挺のオートマティック拳銃が握られている。右手の拳銃は重量のある大口径で、左手のものは銃身が長い。ロケットランチャーの男を吹き飛ばした炸裂弾は右手の拳銃から発射されたようだ。
「うわ、お、おおっ」
襲撃者達が銃を乱射する。甲冑の男に命中した弾丸は全て弾かれ意味を成さず、その長剣によって男達の首が次々と飛んでいく。白いコートの男は突っ立ったままで標的にしてくれと言わんばかりだが、自分に向けられる銃口を敏感に察知してそれより早く相手を撃ち抜いている。左手の拳銃から発射された弾丸は相手の額から後頭部へ抜け、停まっていたミニヴァンを貫いてショーウィンドウのガラスに丸い穴を開けた。フルメタルジャケットと思われるが凄まじい貫通力だ。
「畜生、くたば……」
襲撃者のリーダーが自動小銃のフルオートを甲冑の男に浴びせる。それを這うような低い姿勢で躱しつつ突進し、甲冑の男の浮き上がった剣がリーダーの両腕を切断する。ゼリーでも切るようなあっけなさだった。リーダーが悲鳴を上げる。
殺戮は十秒足らずで終わった。道路と歩道に迷彩服の死体が転がっていた。綺麗な切断面を晒す首なし死体と生首。額の中心に小さな穴を開け、或いは吹っ飛んだ頭や胸から脳や肉や骨片をぶち撒けた死体。
トレーラーの運転手はとうに徹甲弾で始末され、生きているのは両腕を失ったリーダーだけだ。いや、今甲冑の男の一閃で両膝から下も失った。
「ワン、ツー、スリー……」
死体を銃口で指差して数え、白いコートの男がニヤニヤしながら「俺が八人、お前が七人。今日は俺の勝ちだ」と英語で言った。
敵のリーダーの前に立ち、甲冑の男がイントネーションのおかしな日本語で答えた。
「こいつを殺せばイーブンだ」
左手にはまだ鞘を持っているから、右手だけで剣を振ってきたのだろう。恐るべき剣速故か、刃に血はついていない。兜のスリットから覗く瞳は、殺人の喜悦に光っていた。
しかし甲冑の男はリンカーンを振り向いた。運転手が恭しく後部ドアを開き、ベルサーチの男が車を降りた。
彼は左手にグラスを、右手にナイフを持ったままだった。
ナイフの鉤状の刃に、眼球が一つ、視神経と眼筋の一部をつけてぶら下がっていた。
眼球をグラスに入れて掻き混ぜながら、ベルサーチの男は襲撃者のリーダーに歩み寄った。賑やかだった大通りは既に人が逃げ散ってしまい、動かせぬ車を捨ててドライバーまでが消えていた。
「何処の組の者だ」
手足を失って地面を這う相手を、ゴミでも見るような目で見下ろし、ベルサーチの男は冷たく問うた。
四つの切断面から血を流しながら、男は顔を上げて歯を剥き出した。
「いい気に、なるなよ藤川。アメリカでは相当、鳴らしたそうだが、この八津崎市ではお前も、ただの人間の、一人だ」
生き残りの男は最後の足掻きとして、ベルサーチの男に唾を吐きかけた。風が鳴った。
藤川と呼ばれたベルサーチの男は一歩も動かなかったが、ズボンに唾はつかなかった。甲冑の男の振った長剣が、唾を途中で撥ね飛ばしていたからだ。
「まあ、何処の組でも構わんな。うちの組織以外は全て潰す」
ベルサーチの男が右手のナイフを下に向けた。そのジェスチャーで甲冑の男の剣が素早く動いた。
襲撃者達のリーダーの首が切断されて落ち、二回転して停まった。高速で振り下ろされた剣は、アスファルトに一センチを余して静止していた。
ベルサーチの男が屈み込み、ブランデーのグラスを差し出した。首の切断面、頚動脈から断続的に噴き出る血を、彼はグラスの中に加えた。
「これでイーブンだ」
甲冑の男の目は、確かに笑っていた。
「助けて。誰か救急車を……」
少女の声に、男達は振り向いた。
逃げ遅れたらしい少女が二人、歩道にいた。一人が蹲り、もう一人が心配そうに寄り添っている。高校の制服を着て、傍らには学生鞄が落ちていた。
蹲る少女の、右脛の肉が爆ぜ、砕けた骨が覗いていた。流れ弾に当たったのだろう。白いコートの男は無駄弾を撃たなかったから、襲撃者達が乱射した際のものか。彼女は涙を零しながら呻き続けている。助けを求めたのは、友人らしい少女の方だった。
「誰か、悠里を助けて。救急車を呼んでっ」
「うるさいな」
ベルサーチの男の呟きと同時に、白いコートの男が右手の拳銃を発砲した。助けを求めて叫んでいた少女の頭が、髪をくっつけた肉と骨と脳の破片になって飛散した。
友人の血と脳漿を一杯に浴び、脛を押さえていた少女が悲鳴を上げた。騒音源を始末すべく甲冑の男が動き出したのを、ベルサーチの男が止めた。
「待て。可愛い顔をしてるじゃないか。車に乗せろ」
甲冑の男は剣を鞘に収め、泣き叫ぶ少女を片手で軽々と抱き上げた。
「嫌ーっ、助けてっ」
少女は狂ったように抵抗するが、甲冑の男は意に介さない。ベルサーチの男はリンカーンの側へ戻り、車内の若者に声をかけた。
「お前はもういい」
「は、はい」
若者は空洞となった左眼を押さえながらリンカーンを飛び出した。その顔には明らかな安堵があった。
甲冑の男の目が光った。血塗れの少女をリンカーンの後部座席に押し込むと、逃げていく若者を音もなく追った。
疾風のように駆けてくる死神に、若者は気づかなかった。甲冑の男の剣が若者の背後から振り下ろされた。
剣は若者の頭頂部から、股間までを通り過ぎていた。
走っていた若者の体が、バカッと縦に割れた。血と内臓を零しながら前に倒れ、両足が何度か地面を蹴るように動いたが、やがて、それも止まった。
「では行くか」
これまでの具に興味がなくなったように、ベルサーチの男はグラスの中身を地面に捨ててからリンカーンに戻った。白いコートの男、少し遅れて甲冑の男も続いた。
最後に無表情な運転手が車内に戻り、死体だけになった大通りをリンカーンは発進した。
二
晴れた昼下がり。明労会快慶病院の受付を、不吉な雰囲気を漂わせる長身の男が訪ねた。
「すみませんが、岸川悠里さんはどちらのお部屋ですかな」
「ご面会の方ですか」
女性の事務員が聞き返す。
「ええ、ご本人に呼ばれまして」
男は答えた。面会証に下手糞な字で書いた氏名は「黒贄礼太郎」となっていた。更に自発的に名字の上に「くらに」と読みがなを入れる。
病室は五階であった。エレベーターに向かう黒贄礼太郎は小脇に紙製の箱を抱えていた。箱の上面には丸い穴が開き、折り畳まれた小さな紙片が詰まっているのが見える。
黒贄の身長は百九十センチを幾らか超えているだろう。どちらかといえば筋骨隆々とは逆のタイプだが頼りなさは感じられない。礼服に使われる黒いスーツを着ているため葬儀屋と間違われそうだが、アイロンがけから縁遠そうなスーツのへたり具合は別のことを語っている。ネクタイはしておらず、履いているのは革靴ではなく薄汚れたスニーカーだった。
彫りの深い端正な顔立ちに、薄い唇は常に何かを面白がってでもいるような微笑を浮かべている。切れ長の目は気怠げだ。髪は自分で切っているようで左右がアンバランスだった。
五階に到着した黒贄はナースステーションに向かう。途中、すれ違う青白い顔の少年や、病室で呻いている中年女性を興味なさそうに一瞥していく。
看護婦から部屋の場所を聞き、黒贄の微笑が深められた。
「ほほう、十三号室ですか。縁起のいいお部屋ですね」
怪訝な顔の看護婦を置いて、黒贄は一人で病室に向かった。十三号室は個室であった。表札の『岸川悠里』という文字を確かめて、黒贄は入口のドアをノックする。
「こんにちは、黒贄礼太郎です」
ドアの向こうで息を呑む気配があった。「お兄さん」という女性の声に、足音が動き出す。ドアが開いてスーツ姿の男が顔を出した。
「今日はわざわざすみません。妹は動けないものですから。悠里の兄の、岸川永作です」
岸川永作は二十代前半で、知的な顔立ちをしていた。息を呑んだのはこの男だったらしく、今も瞳に不安と緊張の色がある。
「これはどうも、初めまして。どうせお名前はすぐ忘れますけど」
「……どうぞ」
少し躊躇ってから、岸川永作は黒贄を病室内へ導いた。黒贄は身を屈めて入る。
病室の正面には大きな窓があり、ベッドは左手に、上半身側を傾斜させて窓の外が眺められるようになっていた。僅かだが、ベッドの主が身じろぎする気配があった。
「こんにちは。あなたが依頼人の方ですね」
黒贄は回り込んでベッドの主に挨拶した。彼の片方の眉が軽く上がっていた。
ベッドの主は頬を少し赤らめて、黒贄に挨拶を返した。
「こんにちは、黒贄さん。岸川悠里です」
岸川悠里は十七、八才であろう。やや頬はこけているが、兄と似て聡明な美しさを持つ少女だった。化粧は淡い色の口紅だけだ。
あどけなさを残しながらも、彼女の瞳は少女的な要素を超越した異常な深みを持っていた。そんな瞳を持つためには、どのような経験が必要となるのか。
「もう気づいておられると思いますが……悠里の体のことを、口にしたくはないのですが……敢えて説明します」
眉根を寄せ、苦しげに兄が言った。それを見守る妹の瞳には何の揺らぎもない。
「妹の両腕は、二の腕の途中からありません。腰から下も失い、腸の殆どが壊死してしまったため食事も出来ず、静脈栄養だけです」
少女の肩から下には毛布がかけられているが、その膨らみが妙に小さいことは誰でもすぐ分かる筈だ。右の鎖骨付近には細い管が刺さっていた。口紅は看護婦が塗ってくれたのだろうか。傍らには酸素マスクが置いてあった。今しがた外したばかりのようで、内壁が呼気で曇っている。
「それから、主治医の話では、内臓の大部分が機能不全を起こし始めていて……」
そこで、岸川永作は言葉に詰まった。代わりに岸川悠里本人が、冷静な口調で続けた。
「余命は多分、一ヶ月くらいでしょうって。内臓がどんどん駄目になって衰弱していって、最後は昏睡状態になって死んでいくの」
全てを悟り、受け入れている顔だった。ただし、黒贄を見上げる瞳に、深みの奥からある種の熱情が浮かび始めていた。
「それは大変ですね」
口ではそう言うものの、少女の悲劇に同情している様子は黒贄にはない。
「そういえばこれをどうぞ。道端に咲いてたものですけれど」
黒贄は礼服の内ポケットから一輪の白い花を取り出した。小さな雑草の花だったが、少女の顔は輝いた。
「ありがとう。髪に飾ってくれる」
「いいですよ」
黒贄は彼女のショートカットの髪に白い花を挿した。
頬をまた赤らめて、少女は言った。
「黒贄さんって、ハンサムね。噂で聞いてた以上」
「そうですか。でも残念ながらお金はありません」
黒贄は微笑を深め肩を竦めた。
岸川永作に椅子を勧められて座り、黒贄は尋ねた。
「それでは依頼の内容をお聞きしましょうか」
「探偵さんはオールキルという組織をご存知でしょうか」
岸川永作の言葉に黒贄は片眉を上げた。
「ほほう、あのオールキルですか。……全く存じませんが」
岸川永作は妙な顔をした。妹の方は小さく声に出して笑っている。
「半年ほど前に日本に進出してきた、アメリカのマフィアです。この八津崎市に拠点を作り、他の暴力団と抗争を続けています。市内に暴力団は百二十くらいあったのですが、既にオールキルによって半数以上が潰されました。オールキルの日本部門の首領はゴルド藤川という日系人です」
「なるほど、ゴルド藤川ですか」
顎を撫でながら黒贄が頷く。
「彼の名は知っていましたか」
「いえ、全然知りませんな」
「……。ゴルド藤川には『悪魔』や『吸血鬼』という綽名がついています。真性のサディストで、自分の部下でも通りすがりの一般人でも、気紛れにナイフで目を抉ったり耳や鼻を削ぎ落としたりするんです。殺した相手の血をグラスに入れて飲むという話です」
黒贄は別段驚きもしなかった。
「ふむ。なかなか洒落たことをなさるんですね。それにしても私にはサディストの心理が理解出来ませんな」
「そうでしょう。こんな残酷な奴がいるなんて信じられませんよ」
「いえ、私が不思議なのは、どうして彼らが中途半端な行為で満足するのかです」
病室に、沈黙が落ちた。
気まずい空気など知らぬげに、黒贄が続けた。
「しかし、首領がサディストというだけで競合他社を凌ぐことは出来ません。オールキルはどんな武器をお持ちなんでしょうな」
岸川永作の目が、恐怖と憎悪に曇った。
「ゴルド藤川はアメリカから二人の殺し屋を連れてきているのです。『シューター』ケネスと『ソードマン』ランドリー。ケネスは拳銃使いで、炸裂弾と貫通弾の二種類の銃を使います。彼が的を外したことはありませんし、敵の弾を食らったこともないそうです。ランドリーは今の時代に変ですが、剣を使います。動きが素早く、しかも彼の鎧は銃弾を撥ね返すのです。オールキルの主力であるこの二人は、八津崎市に来て六百人は殺している筈です」
「ほほう、二人で六百人ですか。これは私もうかうかしておれませんな」
黒贄の瞳に生じた不気味な光に怯みながらも、岸川永作は話を続けた。
「妹は三ヶ月前、オールキルと他の暴力団との殺し合い現場に居合わせたのです。流れ弾に当たって倒れていたところをゴルド藤川に拉致されました。一緒にいた妹の友人はその場で射殺されたそうです。車の中で奴に……」
岸川永作の目に涙が滲んできた。彼は嗚咽を堪えるだけで言葉が出ない。
他人事のように冷静に続けたのは、岸川悠里本人だった。
「指を一本ずつ切られながらレイプされたわ。それからあいつは私の胸を抉り取って、指と一緒にグラスに浸けたわ。それをクルクル回して掻き混ぜて、あいつは美味しそうに飲んでた。次にお腹を切り裂かれて、あいつは私の腸を面白がって手で引き摺り出したわ。私が覚えてるのはそこまでね」
「……痛みと出血多量で妹が意識を失ったのを、奴らは死んだと思ったのでしょうか。手足を切り落とされた後で走る車から投げ捨てられ、後続のトラックに下半身を轢かれたのです。……一命を取り留めたのが不思議なほどでした。しかし、こんな状態に……」
「あの時死んでた方が良かったのかもね」
自嘲気味に岸川悠里は言った。そんな少女に黒贄が尋ねる。
「ふむ。それで、具体的に私に何をご希望ですかな」
兄が答えた。
「やはり、復讐、ということになります。僕などの力では到底果たせそうになく、手段を吟味した結果が黒贄さん、あなたです。ただ、あなたは殺人の依頼は受けられないそうですから、ゴルド藤川を縛り上げ、この病室まで連れてきて欲しいというのが依頼です」
「老婆心ながらお尋ねしますが、連れてきてどうなさるおつもりですかな。お話の限りでは、そのゴルド藤川氏に悔恨や謝罪の言葉を期待するのは無理というものですね」
「そんなことは期待していません。誰も妹を助けてくれなかったし、警察も役に立たなかった。だから、自分達でケリをつけたいのです」
岸川永作の目は、覚悟した者のそれだった。彼はベッドの脇にあったバッグを開け、サイレンサーつきの拳銃を取り出した。引き金部分に五十センチほどの紐が繋がっており、紐の後端はビニール製の小さな板に結ばれていた。
板を手に持って、岸川永作は説明した。
「僕が照準を合わせて、妹がこれを噛んで引き金を引きます。顎と首はなんとか動かせますから」
「なるほど。藤川氏を殺害なさるのは岸川悠里さん自身という訳ですね。素晴らしい心構えです」
黒贄はベッドの依頼人に微笑みかけた。彼は本気でそう思っているようだった。そして依頼人の岸川悠里も、嬉しそうに笑い返した。
「それから念のため確認させて頂きます。私を指名されてこのような依頼をなさるということは、当然私がどんな人間であるのかご存知ということになりますが、本当に、それでよろしいのですね」
「はい。お願いします」
はっきりと、岸川悠里は答えた。兄が数枚の書類を手渡した。
「奴らの事務所の場所も移動スケジュールも調べてあります。報酬は、両親が遺してくれた生命保険の、五千七百万円です」
黒贄がポカンと口を開けた。
「そ、それは、ちょっと多過ぎますね。いえ、欲しくない訳ではないのですが、一日で片づく仕事にそんなに報酬を頂く訳には……いや、欲しいのは欲しいのですけれど……」
岸川永作は苦笑しつつ首を振った。悲しい苦笑だった。
「いいんですよ。両親は奴らの事務所に抗議に押しかけて惨殺されました。僕らはもう、二人だけです」
「なるほど。了解しました。ありがたく頂きます」
重々しく頷く黒贄の膝が震えていた。これほど多額の報酬を貰ったことがないのだろう。
「お兄さん」
少女の促しに、岸川永作は仕方なく、躊躇いがちに補足した。
「報酬は、もう一つあります。妹は、残り少ない自分の人生を、自分が望む形で終わらせたいのだそうです。……報酬のもう一つは……悠里の、命です」
兄は言ってしまった後、目を閉じて鼻から深い息を吐いた。
驚愕に見開かれた黒贄の目が、次第に細められ、困ったように岸川悠里を見た。
「自分の命をお金の代わりになどしてはいけませんよ。命をもっと大事に使って下さい」
「どうせ後一ヶ月の命だもの」
少女は少しも揺るがず、真っ直ぐに黒贄を見返した。
「どうせ死ぬのなら、あなたに殺されたいな」
「……。よろしいのですか」
「はい」
岸川悠里の熱っぽい眼差しは、恋する乙女のそれに似ていた。
黒贄礼太郎の漆黒の瞳に、やがて、不思議なものが渦を巻き始めた。覚悟なしに覗き込めばそのまま吸い込まれてしまいそうな、暗い闇の深淵。
それは、歓喜でもあった。
「あなたを見くびっていました。あなたは充分に、『輝き』をお持ちだ」
そう告げると、黒贄は片腕を腹の前に沿え、少女に向かって丁寧に一礼してみせた。
「では早速行ってきますね」
背筋を大きく一度震わせた後、黒贄は病室を飛び出した。出入り口のドアではなく、窓の方へ。窓ガラスをぶち破り病院の五階から落ちていく。慌てて岸川永作が破れた窓から地面を覗くが、既に黒贄の姿はなかった。
岸川悠里は声を上げて笑った。笑った後で咳き込み始めた。顔色が白くなっていく。看護婦達が慌てて駆けつけ喉にチューブを突っ込み吸引を始める。その後で酸素マスクが取りつけられた。
心配そうに見ていた兄の前で、岸川悠里は少しずつ血色を取り戻していった。それでも彼女の死相が拭われることはない。
看護婦達が去った後、酸素マスクをつけたままの篭もった声で、少女は言った。
「凄い自信ね、あの人。一日で片づく仕事って言ったわ。怖いものなんて、何もなさそう。羨ましいな」
「……本当に、これで良かったのか」
兄が聞いた。その目は妹と対照的に陰鬱で、悲しげだった。
「彼は殺人鬼だ。罪のない一般人も大勢殺してるだろう。運命が少しでも違った方向に傾いていたら、お前をこんな目に遭わせたのはゴルド藤川でなく、あの探偵だったかも知れない」
「でも現実には、私をメチャクチャにしたのはゴルド藤川で、黒贄さんは私のナイトよ。人生がどんなものなんて分からないうちに、もう終わりなんだもの。残された時間で出来るだけ、私はやるべきことをやっておきたいの。復讐も……恋も、ね。だから黒贄さんを選んだの。他人にとって善か悪かなんて、どうでもいいわ。私にとってどうなのか、それだけよ」
迷いなく答える岸川悠里に、兄は長い溜息をついてから告げた。
「そうかも知れない。だが、悠里には、そんな考え方をして欲しくなかったな」
「だって、仕方ないじゃない。こんな、世界なんだもの」
暫く、沈黙が続いた。
やがて、少女は呟くように言った。
「人生って、理不尽だね」
「……そうだな」
兄は、泣きそうな顔になっていた。
三
黒贄礼太郎は広げた書類を読みながら街を突っ走っていた。赤信号を無視して車に轢き倒されたり電柱に体当たりしてぶち折ったりと周囲に迷惑をかけているが、本人はそれに気づいてさえいないようだ。
「ふうむ、オールキルの本拠地は血乃池四丁目ですか。オフィス街ですな。今日は恒例のショッピングと散髪を済ませて、午後四時に戻ってくる、と……あっ」
黒贄は道路の真ん中で急に立ち止まり、今も左脇に抱えていた箱に目をやった。くじの入った紙製の箱。
「凶器を選んでもらうのを忘れていましたな。さて、どうしたものか」
黒贄を避けようとしたワゴン車が歩道に乗り上げてビルに激突し、急ブレーキをかけた次の車は後続車に追突され散々な結果を引き起こしていたが、浴びせられるクラクションなど聞こえぬが如く黒贄は周囲を見回した。
止めた視線の先に、大柄な男がいた。
取り巻く野次馬より頭一つ飛び出して、広い歩道に立つ男の背丈は二メートル近かった。年齢は二十代半ば、上半身は鋲を打った黒い革製ベストだけで、見事に盛り上がった大胸筋、腹筋と、丸太のような腕を見せつけている。同じく黒の革ズボンは内側からはち切れそうだ。頭はスキンヘッドで、殴られ慣れているのか鼻は低く潰れている。いかつい顔に比べ、小さな目が意外に可愛らしい。厚い唇は不敵な笑みを浮かべていた。
革ベストの巨漢の足元に、五人の若者が転がって呻いていた。たった今、彼らをぶちのめし終わったところのようだ。喧嘩のきっかけは分からない。肩が触れたとかそういう些細な理由だったかも知れない。
「覚悟もねえくせに、こんなもん使うんじゃねえよ」
野太い声で巨漢が言い、自分の腹に刺さっていたナイフを引き抜いた。強靭な腹筋に遮られたようで、ナイフの先端二センチほどにしか血はついていなかった。
巨漢が拳を突き上げ大声で勝利宣言をすると、野次馬達が一斉に拍手喝采した。
「ふむ、あれがいいでしょう」
黒贄は独り頷くと、自分が原因で渋滞となった道路を渡り、野次馬を掻き分けて巨漢の前に立つ。
「お、何だ。挑戦者かい」
巨漢が値踏みするように、紙箱と書類を持つ黒贄を見た。身長はそれほど変わらないが、体重差は倍くらいありそうだ。
「いえ、スカウトです。正に人間凶器ですね。あなたのお名前をお聞かせ願えませんか」
黒贄の丁寧な口調に、巨漢は気を良くしたようだった。
「俺は大谷五郎ってんだ。で、あんたは何のスカウトだい。プロレスならお断りだぜ、俺は真剣勝負にしか興味がねえんだ」
黒贄は右手の書類を礼服のポケットに収め、微笑しながら首を振った。
「勿論プロレスではありません。大谷さん、私の凶器になって頂けませんか」
「あ、何だって」
聞き返す大谷の左足首を、黒贄が屈んで無造作に掴んだ。
「お、おい」
大谷は慌てて引き剥がそうとするが、黒贄の腕はびくともしない。逆に片手で持ち上げられて不様にひっくり返る。巨体が落ちてきて、倒れていた若者が潰され悲鳴を上げた。
「大谷さん、あなたの番号ですが欠番の三十四番など如何でしょう。む、気に入りませんか。なら特別に枠外として、百一番はどうですか。よし、百一番に決定ですね。一緒に頑張ろうじゃありませんか。まずはオールキルの事務所でちょっと遊びましょう。オールキル、日本語では皆殺しといったところですかね。良い名前ではありませんか」
黒贄は左腕でくじの箱を抱え、右手で抗う大谷五郎を引き摺りながら、楽しげに角を曲がっていった。
野次馬達は呆然と、それを見送った。
四
散髪屋の主人は慎重に、ゴルド藤川の髭を剃っていた。貸し切りとなった店内で、店主の左右に二人の不気味な男が立ち、剃刀を持つ右手を見守っている。前に一度緊張のあまり手が震え、藤川の顎をほんの僅かだが切ってしまい、結果として主人の左耳はない。
やがてゴルド藤川はさっぱりした顎を撫でながら、「うむ」とだけ言った。
「毎度ありがとうございます」
深々と頭を下げた店主の右耳を、ゴルド藤川はナイフで無造作に切り落とした。
制服の運転手が恭しくドアを開け、ゴルド藤川は改造リンカーンに乗り込んだ。二人の護衛が続く。
今日は、生贄となる人物はいなかった。リンカーンは悠然と通りを進んでいく。
「最近は静かなものだな」
自分だけグラスにブランデーを注ぎ、氷と散髪屋の耳を落とし込んでゴルド藤川は呟いた。今日もベルサーチの派手なスーツで決めているが、額の左側から髪の生え際へ走る傷痕と陰鬱な瞳は彼の酷薄さを物語っていた。
「ここに来る前は、八津崎市は日本の鬼門だなどと散々言われたが。どうということはないな」
藤川は昏い笑みを浮かべて、ブランデーをゆっくりと味わった。二人の護衛は黙ってそれを見ている。
白いロングコートを着た、長身の痩せた男。長い金髪に細面の顔で、いつも口元をにやけさせている。丸縁のサングラスが彼の瞳を隠している。
彼が、『シューター』ケネスであった。
屈強な体格を特殊合金の甲冑で包んだ男。細められた目は油断などとは無縁で、一文字に引き締められた唇は意志の強さを示している。鞘に収めた両刃の長剣を、座った膝の間に立てている。
彼が、『ソードマン』ランドリーであった。
ゴルド藤川は黙ってブランデーを飲んでいた。サディストの彼も、流石に大事な護衛を傷つけたりはしない。アジトへ戻るまでの間、虚ろな沈黙が車内を支配していた。
すれ違う車を横目に運転手が言った。
「渋滞しています。先程見かけた車が引き返してきていますので、何かあったのかも知れません」
後部座席の男達は前方へ目を向けた。防弾仕様の特殊偏光ガラス越しに、立ち昇る黒煙が見えた。何処かのビルが燃えているようだ。
「念のため迂回しますか」
飽くまで無表情に運転手が問う。
「構わん。行け」
藤川は即答した。
スローな流れをリンカーンは進んだ。クラクションを鳴らすと他の車は急いで脇道へ逃げていく。対向車線を戻ってくる車のドライバー達は、何故か真っ青な顔をしていた。
そして、運転手は同じ口調で告げた。
「燃えているのはうちのビルです」
ゴルド藤川の、額の傷のために高さの違う眉が動いた。
血乃池四丁目、八津崎市で最も地価の高いオフィス街にある、オールキルの十五階建てのビル。その六階から上の部分が、勢い良く炎を吹いていた。五階までも窓ガラスが割れるなどしておりまともな状態ではない。
消防車は来ていなかった。ビルの所有者がマフィアでも、火事を放置することはないだろう。或いは消防車が近寄れない別の理由でもあるのか。
「ほう」
ゴルド藤川が嘆声を洩らした。
慌ててUターンする自動車の向こうに、人間が山積みになっていた。
片側二車線、計四車線の道路一杯に広がった死体は百人分を超えるだろう。その多くは頭が潰れたり手足が曲がったりしており、強力な鈍器で攻撃されたか、ビルから落ちたものと思われた。炎に追い詰められ自分から飛び降りたのか、服が燃えている死体もある。
指や鼻や耳が欠けていたり頬に穴が開いていたりする彼らは、オールキルの構成員達であった。一般人らしき死体も幾つか混じっていたが。
今日アジトに詰めていた構成員達の、ほぼ全員が、ここに転がっているようだった。
死体の山の手前、道路の真ん中に、二人の生きた男がいた。
一人は着古した黒いスーツに、薄汚れたスニーカーを履いていた。手には何も持っていない。口の両端が異様に吊り上がり、瞳は極大の狂気を湛えていた。
男は、黒贄礼太郎であった。
もう一人は黒い革ベストに革ズボンの、筋肉の塊のような男であった。しかし今はアスファルトに尻をつき、ボコボコに腫れ上がった顔を押さえて呻いている。顔だけではなくスキンヘッドの頭にも大きなたんこぶが多数出来、露出した肌の所々に青痣が浮いていた。脇腹と右太腿に銃創と思われる穴が開き、出血が続いている。左膝は、本来の望ましい向きとは別の向きに曲がっていた。
男は、大谷五郎であった。
黒贄の礼服にも刀傷や銃創が多数開いて赤く染まっていたが、彼は平然と立っていた。
血に狂った黒贄の視線は、真正面からリンカーンへと向けられていた。悪魔の笑みが更に深められた。
「挑戦者か」
ゴルド藤川の昏い瞳にも、赤い狂気が浮かび上がってきた。
リンカーンは待ち構える黒贄達と二十メートルほどの距離を置いて停止した。既に他の車は消え去り、見物人もいない。オフィス街は一時的に廃墟と化した。
「行ってこい」
命じるゴルド藤川の口は、残忍な笑みを形作っていた。
素早くドアを開閉させて飛び出した後、二人の殺し屋は歩調を緩めた。ケネスもまだ銃を抜かず、ランドリーも兜をかぶったが剣は鞘の中だ。
黒贄が誰にともなく呟いている。
「今日は『キ』から始めましょうかね。キニョラー。ギニャロー。ギニョリャー」
大谷はまだ呻いていたが、接近する殺し屋に気づいて短く悪態をつく。
「ギロニャー、ギロギロニャー、キニョゲニョラー」
黒贄達との距離が十メートルになった時、二人は立ち止まった。ほぼ同時に、黒贄は奇声を完成させた。
「ヘニョラニャー。うむ」
『キ』からは始まってはいなかった。
まるで西部劇のように、二組のペアは対峙した。片方は銃と剣を持っているが、もう片方は素手だ。絶対の凶器を持ったペアに、どうやって対抗出来るのか。
素手と見える黒贄が既に凶器を所持していることに、誰が気づいただろうか。
「何者だ。名乗れ」
少しはうまくなった日本語で、ランドリーが問うた。兜の隙間から覗く目は殺戮欲を隠しきれていない。
オールキルのビルの上半分が、突然大爆発を起こした。武器庫には爆薬もあったのだろうか。
吹き飛んだ建材の破片がパラパラと降り注いでくる中、黒贄は答えた。
「黒贄礼太郎探偵事務所の所長で唯一の所員、黒贄礼太郎です。そしてこちらは百一番、大谷五郎さんです。なかなか頑丈で使い勝手の良い凶器です」
紹介された大谷は二人の殺し屋を見上げ、デコボコになった顔でこう言った。
「頼む。医者を呼んでくれ」
「俺はランドリーだ」
『ソードマン』ランドリーが名乗った。
「俺はケネ……」
「ちょっとお待ち下さい」
『シューター』ケネスが名乗ろうとしたのを制して、黒贄は急に背を向けた。
死体の山の一つに、顔面を隙間なく包帯で覆った若い構成員がいた。耳鼻に相当する出っ張りがなく、左目も塞がっている。おそらくゴルド藤川が暇潰しにやったものだろう。
黒贄はその死体から、丁寧に包帯を引き剥がしていった。二メートルを超える長さだった。
その無防備な行為を、二人の殺し屋は黙って見守っていた。リンカーンの中からゴルド藤川も、ブランデーを飲みながら見物している。
一本の包帯を両手に持って振り返り、黒贄はにっこりと、天使のように無邪気で邪悪な笑みを浮かべ告げた。
「すみません。もうお名前を忘れました」
空気が、凍りついた。
何を感じたのか、『シューター』ケネスの皮膚に、鳥肌が立っていた。『ソードマン』ランドリーは全身を甲冑で覆っているため、鳥肌の有無は確かめられない。
ビルは相変わらず燃えていたが、降ってくる破片は一段落していた。
「では、始めましょうか」
黒贄は穏やかな口調で言って、包帯を振り上げ、恐るべき速度で自分の顔へ巻いていった。終えるまで二秒もかからなかった。見えているのは口元と、両目の周囲だけだ。
「ヘニョラニャー」
非常に発音しにくいその奇声を、黒贄は力を込めずに言った。血に狂っていた彼の瞳は一変し、無限に広がる冷たい虚空を映していた。
その奇声を合図に、二人の殺し屋が動き出した。ケネスがコートの内側から二挺拳銃を抜き、ランドリーが十メートルの距離を一瞬で縮めるべく突進する。鞘は投げ捨て長剣を両手で握っていた。
包帯顔の黒贄が取った行動は、地面に尻をついていた大谷五郎の両足を掴むことだった。
「うげっまたっ」
「ヘニョラニャー」
ランドリーが目を見開いて停止した。大谷の体が黒贄によって水平に振り回されているのだ。黒贄自身も回転し、超高速のジャイアントスイングは大谷の残像が輪になって見えるほどだった。
「ヘニョラニャー」
黒贄が回りながら滑るように移動した。足を払うように低く迫る大谷を、ランドリーは見事な反応で跳んで避ける。時速二百キロ以上の肉の塊が激突したら、具足に守られていても足がぶち折れていただろう。
ランドリーの跳躍は三メートル近い高さに達していた。空中で振り下ろされた剣が黒贄の右肩を割る。いや、肩だけでなく深く胸部へ切れ込み、肺と五、六本の肋骨も切断されていた。常人ではそれだけで致命傷になるダメージだ。
「ヘニョラニャー」
だが黒贄の回転速度は変わらず、勢いを乗せたまま浮き上がった大谷の胴が、まだ宙にいたランドリーの背中を強打していた。
「痛ええッ」
「グウッ」
骨の軋む音はどちらのものか。甲冑の剣士は一直線に吹っ飛んで、死体の山に激突した。死体の腕がちぎれて飛ぶ。
「ヘニョラニャー」
回転を続ける黒贄の額に小さな穴が開いた。包帯に小さな焦げ目を作り、フルメタルジャケットの弾丸が後頭部から抜けていく。同時に礼服の左胸が爆発した。炸裂弾の仕業だ。肉と骨の混じった欠片が飛び散り、径三十センチの大穴が背中まで開いて向こう側の景色が見えていた。心臓は跡形もなくなった筈だ。
だが、ジャイアントスイング状態を続ける二人は着実に『シューター』ケネスへ迫っていた。
「ホァイ」
ケネスの顔からにやけ笑いが消えた。続けて両手の拳銃が火を噴き、徹甲弾は黒贄の首を左から右へ貫き、炸裂弾は右肩を破裂させた。肉が飛び骨が砕け、関節がブラブラになったが、黒贄の右手はまだしっかりと大谷の足首を掴んでいた。
「ヘニョラニャー」
しかし回り過ぎて目も回ったのか、黒贄の軌道も乱れ始めていた。
「あぢぢ」
背中がアスファルトにこすれて大谷が悲鳴を上げる。
脅威が三メートルまで近づいても、ケネスはその場を動かなかった。敵の攻撃を避ける必要なしに生き抜いてきたプライドのためか、それとも恐怖のあまり足が動かないのか。とにかく彼は再度発砲した。下方へ向けて。
「あぼっ」
大谷の土手っ腹の肉が爆ぜた。革ベストが破れ、はみ出た腸が回転につられて更に引き摺り出され大谷の顔をベチベチと叩く。
黒贄の速度が緩まり、千鳥足状態でケネスの前に立った。大谷のスキンヘッドが何度も地面をバウンドする。
ケネスは一瞬硬直し、そして黒贄の頭へ向けて二挺拳銃を発砲しようとした。
「おええっ」
黒贄が振り上げた大谷の口から、振り回された挙句の吐瀉物が飛び出してケネスの顔にかかった。どうやら大谷の昼食はラーメンだったらしく、麺がサングラスに引っ掛かる。視界を失ったケネスが慌てて銃を乱射するが黒贄達には当たらない。ケネスが英語で何やら喚いている。
「ヘニョラニャー」
危なっかしく揺れながらもなんとか一回転し、黒贄は大谷五郎の体をケネスの胴に叩きつけた。
『シューター』ケネスの胴が、みぞおちの高さで潰れ、ちぎれてすっ飛んだ。ケネスの上半分が凄まじいスピードで十メートルも飛び、停車していたリンカーンのフロントガラスにぶつかった。ベチャリと嫌な音をさせ、ケネスの頭も胸部も、半分の厚みとなってガラスにへばりついた。サングラスと顔の隙間からはみ出した脳髄が垂れ、胃やら腸やら肝臓やらが胴のちぎれた部分から零れ落ちた。まだ握っていた拳銃が、撃とうとするかのように持ち上がったが、引き金が引かれることはなかった。
ケネスの下半分は、宙返りをするように後方へ飛んでいた。腸を踊らせて腰部分がアスファルトにぶつかり、更に回転を続け起き上がり足先が地面に触れ、それを何度か繰り返して、奇跡のように、両足を地面につけて立った状態で停止した。
が、それもやがて、クニャリと崩れ落ちた。
「ヘニョラニャー」
『シューター』ケネスの末路を確認し、大谷の両足首を握ったまま黒贄が振り向いた。大谷は今の衝撃で右肩が砕けたようだ。痛みのあまり声も出せずに泣いている。
と、黒贄が素早く身を沈めた。ヒュコンと軽い音がして、黒贄の頭から皿のようなものが飛んでいった。それは包帯に覆われた黒贄の頭部の、頭頂部から五センチほどだった。
漸く黒贄に追いついた『ソードマン』ランドリーの仕業だった。
「ヘニョラニャー」
同じ口調で黒贄は言った。頭の天辺には輪切りとなった脳が見えている。包帯も少しほつれていた。ランドリーは黙って長剣を上段に構えた。
対抗してのことか、黒贄も大谷を上段に構えたが、大谷は腸を引き摺って逆さまにぶら下がるだけだ。
「いい加減に……ゴフッしやがれ……」
血と吐瀉物とケネスの肉片で顔を汚し、大谷は言った。どんな苦情も無意味なことを、おそらく彼は悟っていたのだろうが。
「ヘニョラニャー」
黒贄が今度は∞を描くように大谷を振り回し始めた。動きはメチャクチャだが異常なスピードのため隙がない。大谷の口と傷口から血と吐瀉物が散っていく。バンザイ状態になった大谷の腕が地面をこすり、指が二、三本ちぎれ飛んだ。
「ヘニョラニャー」
鈍器大谷とランドリーの長剣が幾度も打ち合わされる。大谷の左腕が上腕半ばで切断されて飛び、炸裂弾を食らった側と反対の脇腹が三十センチも深く切り込まれた。黒贄が大谷を振り回す度に切れた腸が顔を出してくる。血飛沫がアスファルトとランドリーの甲冑を染めていく。もうどれだけの血液が失われただろう。大谷の眼球は半ば裏返っていた。
「ヘニョラニャー」
埒が明かないと判断したか、ランドリーが姿勢を低くして斜め横から滑り込んだ。逆胴に払われた両刃の長剣が黒贄の右腹を切り抜け、背骨を掠っていく。大谷と同じくドプリと腸が零れ出る。燕返しに戻る刃は黒贄の右膝を切断した。踏ん張りが利かなくなり大谷を振り回しながら黒贄が倒れる。
駆け抜けて振り向き、再度襲いかかろうとしたランドリーがつんのめって転んだ。兜の奥の目に動揺が浮かぶ。
「た……助けて……」
勢いがついていたため黒贄の斜め後方に落下した大谷五郎が、残った右腕でランドリーの右足首を掴んでいるのだった。大谷の血みどろの顔は、もう泣いているのか笑っているのか見分けがつかない。
ランドリーは起き上がりながら大谷の右腕を切り落とそうとした。だが刃が届く前に、凄い力で引かれランドリーの体は宙に浮き上がっていた。
「ヘニョラニャー」
黒贄が大谷の足を引っ張り、続けて大谷の腕によってランドリーも引っ張られたのだ。黒贄は片足で真っ直ぐに立ち、両腕を頭上で振り回す。大谷五郎とそれに連なるランドリーは、二メートル近い高さをほぼ水平に回っていた。大谷も何故かランドリーを離さない。人間凶器の握力を褒めるべきか。
遠心力になんとか抗して体を折り曲げ、ランドリーが長剣を大谷の背に突き刺した。血塗られた刃が胸から顔を出す。それでも大谷は手を離さない。血走った大谷の瞳に、苦痛を通り越した悦楽の色が湧いていた。
「ヘニョラガベッ」
発声途中で黒贄が舌を噛んだ。やはり今回の奇声には無理があったのだ。緩んだ手から大谷の足首がすっぽ抜け、ランドリー共々時速二百キロ近いスピードで飛んでいく。
メチイッ、と、ひどい音がした。
二人が激突した壁は、オールキルのビルだった。
ボロ屑のように絡み合ってずり落ち、ランドリーの手足が数度、大きく痙攣した。
「ヘ、ヘニョラニャー」
黒贄が右膝を地面につく異様な歩みで、ゆっくりと近づいてくる。
ランドリーが、宙を掴むように手を伸ばし、そして、足を震わせながらも立ち上がった。自慢の長剣は半ばから折れている。
兜を着けた彼の首は、異様な向きに曲がっていた。
「ヘニョラニャー」
ランドリーの目の前に片足で立ち、黒贄が言った。包帯の隙間から覗く瞳は、人間のあらゆる感情を超越していた。
「ダ……カフッ」
何か言おうとしてランドリーは血の霧を吐いた。特殊合金の兜に入ったヒビが次第に広がっていき、真っ二つに割れて落ちた。
ランドリーの顔は潰れ、左の眼球は半分以上はみ出していた。震える右手が折れた剣を振り、刃は黒贄の左首筋に食い込んだ。頚動脈を切断したようで血が噴き出す。が、それだけだった。
「ヘニョラニャー」
黒贄はランドリーを攻撃せず、身を屈めた。頭頂部の脳を見せながら手に持ったのは、やはり大谷の足首だった。
「ヘニョラニャー」
黒贄が身を起こして腕を引き上げると、大谷の体が再び浮き上がった。続いてランドリーの体も。
大谷の右手は、まだ、ランドリーの足首を掴んでいたのだ。
「ヘニョラニャー」
黒贄は頭上で二人を振り回し充分に加速してから、今度はタイミング良く手を離した。
飛んでいく二人の先に、リンカーンがあった。
フロントガラス、へばりつくケネスの死体に重なるように、二人は激突した。防弾ガラスに大きな亀裂が走った。
ランドリーの背中が、海老反るように折れ曲がっていた。首は真後ろを向き、更に潰れた顔面が背中に密着している。
折れた長剣が、自分の背中を貫いていた。
それが、『ソードマン』ランドリーの末路だった。
「どうしますか」
リンカーンの中で運転手が尋ねた。三つの肉塊のせいで視野は劣悪だが、片足をついて迫る包帯顔の黒贄が見えている。
ゴルド藤川は目を閉じて大きく息を吸い、静かに吐き出していった。ブランデーを一気に飲み干し、氷と一緒に散髪屋の耳も噛み砕く。
「轢き殺せ」
藤川の昏い瞳から、動揺は消えていた。
運転手がアクセルを踏み込んだ。全長九メートルの改造リンカーン・スーパーストレッチリムジンはタイヤを焦がして黒贄に突進する。
黒贄は避けようともしなかった。リンカーンの鼻面に捕らえられ、くの字に体が曲がる。
「ヘニョラニャー」
リンカーンはスピードを落とさなかった。上体をボンネットにへばりつかせて黒贄の手足が揺れる。リンカーンはそのまま歩道に乗り上げ、ビルの壁に激突した。フロントガラスにへばりついていた三人分の肉塊がずり落ちていく。
黒贄の腰と背骨が、完全に砕けただろう。内臓も幾つか潰れたかも知れない。バックしたリンカーンの前面も僅かながら凹んでいるようだ。
しかし、黒贄はまだボンネットにしがみついていた。その右手が伸び、肉塊の足首を掴む。
それはやはり、大谷五郎の足首だった。
リンカーンが再び前進した。黒贄を完全に潰すべく同じ壁に突っ込む。砕けた骨が更に細かくなり、黒贄の腰が平面に近づいていた。
「ヘニョラニャー」
黒贄が右腕を振り上げた。殺し屋達の死体とくっついていた大谷が高く持ち上げられ、そして勢い良くフロントガラスに打ちつけられた。
防弾ガラスが完全に砕け散り、車内に血と肉が雪崩れ込んだ。ズリズリ、と、黒贄がボンネットを這って運転席へ接近していく。
「うひゃああっ逃げますっ」
ロボットのような落ち着きを保っていた運転手が、ついに馬脚を現した。顔は無表情のままで、自分だけドアを開けてリンカーンから逃げ出していく。リンカーンは低速でバックを続けている。
「ヘニョラニャー」
黒贄が片手で大谷を放り投げた。正確に背中へ命中し、運転手は血を吐いて倒れた。背中に巨大な陥没が出来ている。折れた背骨が心臓を潰して前胸部まで到達した筈だ。
運転手の合成樹脂の顔がずれて、その下に本当の顔が見えていた。鼻も頬も唇もない素顔は、ゴルド藤川の手によるものだったろうか。
「死ねっ」
鋭く叫んで、後部座席から乗り出したゴルド藤川のナイフが黒贄の喉を真横に裂いていた。左右の頚動脈と気管を纏めて切断したが、新たに血が噴き出すだけで黒贄の動きは衰えない。そもそも左頚動脈は既に切れている。
「ヘニョラニャー」
ナイフを握る藤川の右手首を、黒贄の右手が掴んだ。一秒で手首が握り潰され、径二センチの異様なくびれになっていた。
「貴様っ」
ゴルド藤川の顔が引き攣っていた。三ヶ月前の襲撃犯の言葉を、彼は今、思い出していただろうか。この八津崎市では彼も、ただの人間の、一人なのだ。
サディストの歓喜もマフィアボスの貫禄も失われた、みっともない中年男がそこにいた。
「ヘニョ……あっと」
少しずつほどけていた黒贄の包帯が完全に外れ、額に穴の開いた素顔が露出した。絶対零度の虚無を放っていた瞳もいつもの眠たげなものに戻る。
「危ない危ない、あなたを殺してはいけませんでした。さあ、これから一緒に出かけませんか。あなたを是非ご招待したいという方がいらっしゃいますから」
そう言いながら車外に引き摺り出し、黒贄はゴルド藤川の腰を軽く叩いた。それだけで背骨が砕け腰髄が潰れ、藤川の足が動かなくなった。
「あぐうううっ、貴様っ、こんなことをして、ただで済むと思っているのか」
「いえいえ、ただではありませんよ。今回は素晴らしい報酬を頂けるのです」
黒贄は藤川の腕を引き摺って、片足で道路を歩いていく。
と、黒贄は足を止めて、運転手の死体と重なって転がる大谷五郎の方を振り返った。
左腕を失い残った手足も折れ、左右の脇腹から破れた内臓を晒し、血だるまの肉塊となった大谷は、しかし、変形した顔で黒贄を見返していた。
黒贄の目は、人間凶器大谷に、溢れんばかりの愛情を注いでいた。
大谷の右腕が、弱々しく持ち上げられ、握った拳で親指を立てるジェスチャーをした。至福感に酔ったその目が、ウインクをしてみせた。
殺人鬼と凶器の、魂の共鳴は、十秒ほど続いた。
やがて、黒贄は背を向けて、藤川を引っ張り片膝をついて歩き去っていった。
それを見守っていた大谷五郎の右腕が、力なくパタリと落ちた。
五
病室に設置されたテレビを、岸川兄妹は黙って観ていた。岸川悠里にとって唯一の娯楽であるそれは今、緊急ニュースを流している。二時間ほど前に血乃池のオフィス街で起こった大量殺人。画面には現場の映像が繰り返し放映されていた。今も燃え盛っているビルと、道路に散らばるコンクリートの破片。そして、積み重なる死体の山。ビルはアメリカンマフィア『オールキル』の所有で、死体も大部分がその構成員であるらしい。首領のゴルド藤川は現在行方不明で、空のリンカーンだけが残されていたという。フロントガラスが割れ、ボンネットが血で染まったリンカーンの映像も出てきた。
「ねえ、黒贄さん凄いね」
酸素マスクをつけ、死病に取り憑かれた顔を興奮に赤く染め、少女は言った。彼女の髪には小さな花が飾られている。
「そうだな……」
答える岸川永作の顔は、しかし晴れなかった。探偵の帰還が妹の死に繋がることを知っているからだろう。
兄の気持ちに気づいているのだろうが、少女の表情はさっぱりしたものだった。葛藤など、この三ヶ月で味わい尽くしてきたのだろう。
「黒贄さん、遅いね」
少女が呟いて少し経ってから、病棟の廊下が妙に騒がしくなった。
「来たみたいだよ」
兄は言って、血乃池大量殺戮の報道が続くテレビの電源を切った。
「マスクを外して」
「大丈夫かい」
「大丈夫。今は苦しくないから」
兄は気遣いながら、妹の酸素マスクを外した。
「遅くなりました、黒贄です」
ノックの音に応じて兄がドアを開けると、黒贄礼太郎が台車を押して入ってきた。内臓を零し脳まで見せていた傷は消え、着古した礼服の破れと血の染みも元通りになっているが、それを指摘することは誰にも許されない。
台車にはゴルド藤川が乗っていた。仰向けにされ、手足は全て逆向きに曲げられて背中にくっつけられ、それをロープで数重に括ってあった。派手なベルサーチのスーツもこんな状態ではみっともないだけだ。
「本当に一日で終わったね。というか半日だけど」
ベッドの横で停止した台車を見遣って、岸川悠里は微笑んだ。
「探偵は信用が第一ですから」
黒贄は澄まし顔で答える。
ゴルド藤川はベッドの少女を見上げ、傍らに立つ青年を見上げ、そして殺人鬼探偵黒贄礼太郎を見た。
やがて、藤川は低く笑い出した。
「フフ、ククク。どんな組織かと思ったら、ただの一般市民と探偵なのか。お前達は自分のやっていることを理解しているのか。オールキルの日本支部を潰し、俺を殺したところで、アメリカの本部から次々に新しい兵隊が送られてくる。もう何処にも逃げられない。報復のために地球の裏側までだって追ってくるぞ。お前らも、お前らの家族も、想像もつかないような残酷なやり方で殺されるだろう」
そして藤川が見たものは、探偵の変わらぬ微笑と、少女の諦め混じりの苦笑と、青年の嘲笑だった。
岸川永作は言った。
「代償なら既に払ったさ。両親はお前らに惨殺されたし、妹も未来を失った。僕はもう、お前らに復讐出来れば後はどうなったっていいんだ。命を捨てる覚悟のある者を、脅せるなんて思わない方がいい」
三ヶ月間の憎しみを込めて、岸川悠里が続けた。
「多分そうだと思ってたけど、藤川さん、あなたは私のこと、覚えてないでしょう。三ヶ月前、無理矢理車に乗せられて、犯されて、お腹を切り裂かれて、手足を切り落とされて、走ってる車から投げ捨てられたけど、なんとかこうして生きてるわ」
ゴルド藤川の顔に浮かんだ動揺は次第に収まり、昏い瞳にふてぶてしさが戻ってきた。
「それがどうした。ああ、確かに覚えていないさ。毎日のように人を殺してきた。いちいちどんな相手だったかなんて覚えていられない。お前達はただの虫けらだ。今日、万に一つの幸運で俺を殺せたとしても、俺は石ころに躓いたとしか思わんね」
そんな藤川に黒贄が言った。
「石ころでこれほど大転びされるとは、余程足腰が弱っておられたのでしょうね。ところで藤川さん、もっといいカツラを使った方がいいですよ」
「な、何っ」
ゴルド藤川が目を見開いた。最も激しい動揺に顔が歪む。
「傷痕がカツラに隠れているじゃありませんか。すぐ分かりましたよ、ほら」
黒贄がゴルド藤川の頭頂部の髪を掴んで引っ張った。ペリッとあっけなく、見せかけの髪が塊になって剥がれ、径十五センチほどの綺麗な円形の脱毛が露呈した。脱毛部の皮膚は油を塗ったように光っていた。
「あなたも、苦労しておられるんですねえ」
黒贄が涼しげに言った。
最初は絶句していた兄妹も、やがて堪えきれなくなって笑い出した。爽やかな笑い声が病室に満たされ、逆にゴルド藤川の顔は青く、それから赤くなっていった。
「畜生っ殺せっ殺しやがれっこの○○○野郎っ」
威厳も何も吹き飛んだ藤川の罵声は続き、後半は英語のスラングになっていった。
黒贄が腕時計を見て言った。
「さて、マフィアのボスのありがたいご演説はこの辺で切り上げて頂きましょうか。面会時間が終わりに近づいているようですから」
黒贄は喚いているゴルド藤川に手を伸ばし、その顎を掴んだ。ゴキリと音がして、下顎の骨が数ヶ所にわたって砕けた。
「ああああ、あああああ」
藤川は何か言おうとするが声にならず、血の混じった涎を垂れ流すだけだ。
黒贄が岸川永作を振り向いた。彼は黙ってバッグを開け、サイレンサーつきの拳銃を取り出した。傾斜したベッドで上半身を起こした妹の横に並び、引き金から延びた紐を手に持った。
「いいんだね」
兄は問うた。
ちらりと黒贄の方を見て、岸川悠里は頷いた。
「うん」
黒贄は微笑を浮かべ、黙って兄妹の行為を見守っていた。彼の漆黒の瞳は不吉で、そして優しかった。
兄は妹にビニール製のハミを噛ませた。馬に噛ませるハミと似たようなものだが紐の向きは逆だ。彼女の顔の前に紐を伸ばして、両手で構えた拳銃を、台車に縛りつけられたゴルド藤川に向ける。
兄は、安全装置を外した。その機械音を聞いて、妹の肩が僅かに震える。
「いいよ」
兄は言った。
ゴルド藤川は割れた顎から涎を垂らしながら、怒ったような泣いているような目で、兄妹を見上げていた。
岸川悠里は、ハミを噛んだまま深呼吸を一つして、首を後ろに反らせた。後頭部がベッドに触れた。
ビシュッ、と、玩具のような銃声が聞こえ、拳銃を握る岸川永作の腕が揺れた。
「ああぉあ」
ゴルド藤川が呻いた。
「やはり初めてだから、狙いをつけにくいね」
兄の声は震えていたが、喋り終わる時には落ち着いていた。
ゴルド藤川の左肩に、赤い穴が開いていた。次第に血が滲み出して、ベルサーチのスーツを染めていく。
「続けるけど、いいかい」
兄が問い、妹は頷いた。
再び兄が狙いを定め、妹が引き金を引いた。今度はゴルド藤川の腹部に穴が開いた。更に兄が狙いを定め、同じ行為が繰り返された。今度はゴルド藤川の右胸に穴が開いた。
病室は、サイレンサーの篭もった銃声と、ゴルド藤川の呻き声と、兄妹の息遣いだけが聞こえていた。
ゴルド藤川の胴に赤い穴を加えていくごとに、岸川永作の瞳は冷たく冴えていった。
逆に、岸川悠里の瞳は陶酔に潤み、ハミを噛んだ口は甘美な笑みを作っていた。少女の肉体で唯一無事であったその顔は、一人の男を死に押しやりながら、美しく輝いていた。少女の人生の全てが、そこに凝縮されたように。
「弾が切れた」
十五発撃って、岸川永作が言った。
ゴルド藤川の胴体は穴だらけになり、左耳は吹っ飛んでいた。台車の下の床には血溜まりが出来ている。
それでも、ゴルド藤川はまだ生きていた。弾丸は全て急所を外れ、藤川の顔は苦痛に歪み、瞳は憎悪に燃えていた。
「もしかして助かるかも知れない、て、そう思ったかい」
岸川永作は血塗れの藤川に聞いた。
「残念だったな。予備の弾倉があるんだ」
彼は冷たく笑った。バッグから新しい弾倉を出して取り替える。
「疲れたろう。そろそろ終わりにしようか」
兄に聞かれ、少女は頷いた。ハミを噛み続けていることと慣れぬ動きで、少ない体力を消耗したのだろう。息が荒くなっている。
岸川永作は目を細め、狙いを定めた。十数発の試射を終えた腕は、もう揺るがなかった。
岸川悠里は、その首を後ろに反らした。ピンと張った紐が引き金を動かした。
ビシュッ。
ゴルド藤川の額の中心に、赤い穴が開いた。後頭部にまで抜けた穴から、赤とピンクの塊が零れ出してきた。
ゴルド藤川の眼球が裏返り、そして、そのまま動かなくなった。少しの間、胴体の穴からは出血が続いていたが、やがてそれも止まった。
「終わった……」
妹の口からハミを取り上げ、岸川永作は溜息をつくように呟いた。
「うん。終わったね」
岸川悠里の瞳から熱狂は消え、ただ、哀切な疲労だけがそこに残った。
兄がスーツのポケットから薄い封筒を出して、黒贄に手渡した。
「黒贄さん、ありがとうございました。小切手は銀行で換金してもらって下さい」
「こりゃどうも、こちらこそありがとうございます。それで、もう一つの報酬については、本当によろしいのですかな」
黒贄は慎重に尋ねた。
岸川悠里はすぐに答えた。
「いいの。もう、全部終わったから。今なら、きっと、痛くなさそう。苦しまずに、死ねそうだから」
「そうですか」
黒贄は報酬を礼服のうちポケットに収め、代わりにそこから短剣を取り出した。柄と鞘に銀と宝石で装飾が施されている。小さな宝石だったが清楚な美しさがあった。
「あなたに相応しいものを骨董屋で探すのに、ちょっと手間取ってしまいました。十七世紀にイタリアの姫君が持っておられた短剣だそうです。残念ながら刃は現代のものですが。ちなみにツケで購入しました」
黒贄が抜いてみせた短剣は刃渡り二十センチ弱、王家のものに違わぬ優美さを備えていた。
「人生の締め括りには、良い道具を使いたいものですよね」
「……ありがとう」
殺人鬼の気遣いに、岸川悠里は初めて涙を見せた。
「いえいえ、こちらこそお礼を言わせて下さい」
黒贄は穏やかに微笑んだ。
それから少女は俯いて、躊躇いがちに尋ねた。
「ねえ。黒贄さん。……私のこと、綺麗だと思う」
「ええ。殺してしまいたいほど綺麗ですよ」
言葉通り、黒贄の瞳に黒い闇が渦を巻き始めていた。それは恐ろしく深く、優しい闇だった。
「何か、言い残しておくことはないですか」
黒贄は聞いた。彼にしては珍しいことだった。
「そうね……お兄さん。これまでありがとう」
妹の言葉に、兄はただ頷くだけだった。その頬を涙が伝い落ちていった。
「さようなら。ごめんなさい」
「気にするな。悠里が悪い訳じゃない。……さようなら。いずれ、あの世で会おう」
嗚咽を堪えながら、兄はなんとかそれを言い終えた。
岸川悠里は再び黒贄を見上げた。喋り出すまでに、数十秒の時間を要した。
「あの……黒贄さん……私を殺す前に……キ……あの、キス、してくれるかな……」
黒贄はちょっと困ったような顔をした。だが、少女の恥ずかしげな表情を見ているうちに、彼は軽く両眉を上げて答えた。
「いいですよ」
「ありがとう。……ごめんね、無理言って」
「いえ、無理ではありませんよ。目を閉じて頂けますかな」
少女は、頬を赤く染めたまま目を閉じた。
大人しく待つ少女の唇に、黒贄の唇が、優しく触れた。
何秒が過ぎた時だろうか、黒贄の右手の短剣が、水平に閃いた。何も出来ぬ兄は、ただ拳を握り締めた。
瞬間、少女が目を開いた。
少女の首筋に、水平の赤い線が生じていた。
その線から少しずつ、血液が滲み出してきて、少女の瞳から、光が失われていった。
瞼が自然に下り、少女が再び目を閉じるまで、黒贄の唇は彼女のそれに触れていた。
首の傷から血が溢れ出して頭部が揺れ始めた頃、黒贄は少女の頭を丁重に持ち上げた。完全に切断されたその断面はなめらかで、美しかった。
岸川悠里の死に顔は、微笑を浮かべていた。
「持ち帰らせて頂いてもいいですかな。大事に飾りますから」
満足げな顔で黒贄は兄に尋ねた。
「構いません。妹は喜ぶでしょう」
兄はそう答えてから、まだ弾丸の入っている拳銃を自分の口に突っ込んだ。
彼が引き金を引く前に、黒贄の右手が動いた。妹の首を一薙ぎで切断した短剣は、拳銃を握った手首ごと兄の首も切断していた。
兄の生首も掴んで外し、黒贄は再び尋ねた。
「こちらも持ち帰っていいですかね。あれ、お返事がありませんな」
サイレンサーを咥え、泣いているような笑っているような顔で、岸川永作は死んでいた。
「では、帰りますかな。銀行はもう閉まってますし、小切手は明日にしましょうか」
黒贄は病室を出た。看護婦や入院患者が何やら悲鳴を上げている。
黒贄は歩きながら嬉しそうに二つの生首を眺めていたが、やがて兄の変な顔をした生首にこうコメントした。
「やっぱりこっちは要りませんな。あ、どうぞ、プレゼントです」
受付の女性に兄の生首を渡し、黒贄は病院を出ていった。彼女は貰った生首を黙ってゴミ箱に捨てた。
六
奇跡的に完治した人間凶器・大谷五郎は、今もトレーニングを続けながら出番が来る日を待っている。
エピローグ
八津崎市警察署長・大曲源は難しい顔で、黒贄礼太郎探偵事務所の棚に飾られた円筒形の瓶を見つめていた。
径三十センチ、高さ四十センチほどの広口のガラス瓶には、少女の生首が収まっていた。満たされた透明な液体には防腐剤が含まれているようで、生首は綺麗な状態のまま保たれていた。
生首は安らかな表情で、眠っているようでもあった。
「これは……」
振り返って問う大曲に、机でくじの整理をしていた黒贄はにっこり笑って答えた。
「悠里さんです。可愛らしい方でしょう」
「……。そうだな」
大曲は禁煙パイポを口に咥えながら、瓶の生首から目を逸らした。
その視線が留まった先は、壁際の椅子に座っている骸骨であった。それぞれの骨を針金で繋ぎ合わせて丁寧に修復してある。
「これは……」
大曲が問うと、黒贄はまたにっこり笑って答えた。
「瑛子さんです。美人は骨格も美しいでしょう」
「……。そうかい」
大曲は淡々と返したが、その後に小声で「クロちゃんも生身の彼女が出来ないから、とうとうネクロフィリアに走っちまったな」と呟いた。
骸骨から目を逸らして、次に大曲の視線が留まったのは、黒贄の後ろに吊られた巨大な物体であった。
鋼鉄製、大きさは三メートルほどで、ラグビーボールに似て側面のシルエットは楕円形であった。その片端にはスクリューのようなものがついている。
「これは……」
三番目の同じ問いに、黒贄はやはりにっこり笑って答えた。これまでで一番嬉しそうだった。
「先週、闇オークションで購入しました。いやあ、この間入った大金も、凶器購入と借金返済で皆消えてしまいましたよ」
「ふうん。まあ、でもクロちゃんにしては珍しいじゃないか。原子爆弾なんて」
「え」
黒贄の白い顔が完全に血の気を失った。
「鈍器じゃなかったんですか」