第四話 世界殺人鬼王決定戦

 

  プロローグ

 

 テレビにトーク番組が映っている。女性司会者と二人のコメンテイターが大きなテーブルを囲んでいる。中ほどに二つ、空席があった。

 女性司会者がカメラに向かって微笑した。

「ここ数年の犯罪発生率は上昇の一途を辿っています。底の見えない不景気に不法滞在外国人増加、連続する警察の不祥事など様々な原因が指摘されていますが、その実態はどのようになっているのでしょうか。今週は日本の治安問題をテーマにお送りします」

 二人のコメンテイターが軽く頭を下げた。それぞれの素性がテロップで示される。『弁護士 吉村俊幸』と『参議院議員 太田実』。

「それでは今週のゲストをお迎えしましょう。猟奇犯罪研究家の奇嶋夕仁さんと私立探偵の黒贄礼太郎さんです」

 女性司会者が後方を振り仰ぐと、正面奥の扉が開いてゲストが登場した。

「皆さん今晩は」

 にこやかに歩いてくるのは礼服を着た長身の男だった。ネクタイはしておらず、シャツに赤い染みがついている。

 礼服の男に『私立探偵 黒贄礼太郎』というテロップがついていた。

 黒贄の右手は、ギロチン装置の刃の部分だけを持っていた。一メートルほどもありそうな傾斜した刃には、真新しい血がついていた。

 黒贄の左手は、白髪混じりの髪を掴んでいた。髪で吊られているのは中年の男の生首だった。滴る血が床を濡らしていく。

 白目を剥いて口を斜めに開いた男の生首に、『猟奇犯罪研究家 奇嶋夕仁』というテロップがついていた。

 黒贄が「よいしょ」と言って席についた。隣の席にはテーブル上に奇嶋の生首を置く。

「よろしくお願いします。……あれ」

 凍りついている司会者達を黒贄が不思議そうに見回した。画面が突然暗転した。

 画面が一枚絵に変わった。テレビ局のマスコットキャラクターが万歳している絵に、『このまましばらくお待ち下さい』と書かれていた。

 

 

  一

 

 客席の後方からは男達の喧噪と叫び声が続いている。

 その旅客機には三百席近いスペースがあった。ほぼ満席で、殆どが男性だ。服装はスーツ姿から黒ずくめ、民族衣装らしき長いローブや腰巻き一つまで様々で、人種もバラエティに富んでいる。

 彼らは多くが同じ書籍を読んでいたが、他のことに従事している者もいた。

 即ち、全身の皮膚がケロイドになった男は火炎放射器のノズルを手入れしていたし、中世の貴族のような衣装を着た男は楽しげに長い木の杭を削っていた。ラバー地の黒い仮面で顔を覆った男は大型の肉切り包丁にタッチアップを施している。

 更に、後方の乗客達は殺し合っていた。血や手足や生首やちぎれた内臓が周囲に飛び散り床や座席を汚していく。今も切り落とされた右腕が床を転がり、舌打ちしながら拾い上げて元の場所に繋げようとした男の頭を別の男が棍棒で叩き潰した。その男の背中を小男がナイフで刺して大きく抉る。小男の胸板を槍が貫いて持ち上げ、旅客機の天井にそのまま突き刺した。槍の持ち主は次の瞬間、細長い手足をした蜘蛛のような男の短剣で八つ裂きにされた。小男が槍から抜け出し自由になるが、背後から斬りつけられた刀を避けようと飛んだその先には運悪く別の男がいた。地味なスーツを着たその男は旅客機の座席を丸ごと外して小男の体に叩きつけた。潰れた肉塊に変わって飛んでいく小男を、迷彩服の男が銃剣で突き刺して受け止め、生で美味そうに食べ始めた。旧式の突撃銃に弾倉は挿さっていない。筋肉隆々の上半身を晒した禿頭の男が、地味なスーツの男に巨大なハンマーを振り下ろす。スーツの男は平然と振り向いた。鋼鉄製のハンマーが変形していた。スーツの男がお返しに座席を振り下ろした。禿頭の男が咄嗟に捧げ上げたハンマーごと、血塗れの座席は男の頭を潰し首を潰し胴を潰し両足を潰して平たい肉塊に変えた。ちぎれ飛んだ大胸筋の一部を血色の悪い大男が拾い上げる。男はツギハギだらけの体をして、腕が十本近くも生えていた。首から上は存在せず、胸部まで抉り込んだ窪みに赤子のように小さな男が座っていた。首を明け渡した大男は肉片を自分の裸の胸に当て、針と糸を持った別の腕が器用に縫いつけ始める。

 彼らは様々な凶器を使っていたが、銃器や爆弾を使っている者はいなかった。彼らの多くは人間離れした筋力とスピードと生命力を持っていた。はみ出した自分の腸で相手の首を絞めている者もいる。心臓を貫かれて平気で暴れている者もいる。ちぎれた腕を繋ぎ合わせて何事もなかったように振り回す者もいる。彼らは殺し合いながら無表情だったり嬉しそうだったり何処か別の世界を見ているように陶然となったりしていたが、恐怖や悲しみに暮れている者は一人もいなかった。

 殺し、殺されることだけが彼らの生き甲斐であるかのように。

 後方の騒動に構わず読書していた乗客達が、読み終えた本を置いて一斉に言った。

「よーし、これからは全部日本語で喋るぞー」

 流暢な日本語であった。

 本のタイトルは日本語で『一時間で完全マスターする日本語』となっていた。

 飲み物のカートを押してきたスチュワーデスが乗客達に声をかけた。

「皆様、そろそろ本機は日本上空に到達します。非合法の便ですので撃墜される危険もございます。ご覚悟のほどをお願い致します」

「スコッチはあるかね」

 眼鏡をかけた紳士が手を上げて問うた。膝の間にステッキを立てている。

「ございます」

 スチュワーデスがカートからジョニ黒を出してグラスに注いでいく。それを無表情に見ていた紳士が急に片手を上げて制した。

「いや、やはり要らない。青酸カリや硝酸ストリキニーネや塩化スキサメトニウムが混ざったスコッチは好みじゃない」

「よくお分かりになりましたね」

 スチュワーデスが艶然と微笑んだ。美しい女の瞳には、殺人者の凄みが潜んでいた。

「毒物の入っていない酒はないのかね」

「残念ながらございません」

「なら諦めるとしよう。他の参加者ほど胃腸は丈夫でないからね。それにしても後ろがうるさくて敵わない。どうにかならないかね」

「あなたも参加者のお一人でいらっしゃるのですから、ご自分でなさっては如何ですか」

 スチュワーデスの微笑みは冷笑に変わっていた。眼鏡の紳士が当然のように応じる。

「私は興味のないことに労力を割くのは嫌いでね」

「そうですか。では私が」

 スチュワーデスが後部客席へ左腕を振った。風を切る美しい音が数度、鳴った。

 殺し合う男達のうち、それに反応したのは蜘蛛のように細長い手足の男だけだった。彼は素早く跳躍して旅客機の天井に張りつき、次の瞬間には前方の座席へ滑り込んでいた。

 ピュルピュルと、さっきよりはっきりした音を立ててスチュワーデスの手に戻ってくるものは、鋼鉄製の細いワイヤーだった。大量の血を吸って赤く太っているが、そうでなければ肉眼で捉えることは不可能であったろう。

 客席後部の男達の動きが止まっていた。彼らの上半身や首筋や頭部に、赤い筋が走っていた。

 ズズ、とその線を境にして彼らの体がずれていき、ほぼ全員が数個に分解して崩れ落ちていった。

「これで少しは静かになりましたか」

 スチュワーデスは微笑んだ。回収したワイヤーの束から滴る血を、赤い舌で舐め取りながら。

「君も参加者かね」

 何が起きたか分かっているのか後ろを見もせず、眼鏡の紳士はスチュワーデスに尋ねた。

「ええ。スチュワーデスはバイトでやっているんです。趣味だけでは食べていけませんからね」

 会話の間に、客席後方で生き残った少数の者達が活動再開に向け頑張っていた。上半身だけになった迷彩服の男は他人の死体を大急ぎで食らっているし、首から上に小人が座ったツギハギの大男は新鮮なパーツで肉体を補修していた。座席を抱えていた地味なスーツの男は、スーツは破れていたがその下の皮膚は浅く切れた程度のようだ。

「ふむ、君に興味が湧いてきたな。お名前は、ミス……」

 眼鏡の奥で紳士の目が好奇心に光った。それは実験材料を見る科学者の目に似ていた。

「ミセスですわ。エリザベート。エリザベート・ドラクール」

「なるほど、配偶者の名前も想像がつく」

 眼鏡の紳士は唇の端を曲げて薄く笑った。

 その時、旅客機が大きく揺れた。恐怖を知らぬ乗客達も、流石に怪訝な顔で周囲を見回す。

「乱気流ではなさそうだが。壁にもまだ穴は開いていない」

 紳士が呟いた。ちなみにこの旅客機の外壁は厚さ四十センチの特殊合金製だった。

 客席の前方、コックピット側から異様な姿の巨漢が現れた。

 そいつは分厚いベストを着ていたが、それ以外の露出した部分は全て鋼鉄の装甲で覆われていた。顔面もやはり金属で、右肘から先は太い剣となり、左手首から先は鋼鉄の刃がプロペラ状に回転し血糊を飛ばしていた。

「あら、機長」

 スチュワーデスが声をかけた相手は鋼鉄の巨漢ではなく、彼の剣に引っ掛かっている帽子をかぶった生首であった。

「仕方がない。降りるとしよう」

 眼鏡の紳士が立ち上がってステッキを窓に向けた。ステッキの先端から光が発せられ、窓周囲一メートル四方に深い溝が出来た。内装には焦げ目がついている。

「それではまた」

 荷物の大きなトランクを左手に提げ、軽く会釈すると紳士は開いた穴から高度千メートルの空へ足を踏み出した。落ちていく途中でトランクが火を噴き、紳士はそれに引っ張られる形で飛んでいく。

「ブラド、私達も行くわよ」

 何処からか取り出したパラシュートを背負い、スチュワーデスが声をかけた。中世の貴族の格好をした男が杭の束を纏めてリュックに詰め、スチュワーデスと手を繋いで穴から飛び出した。続いて蜘蛛に似た男が出る。死体から奪ったマントを手足で広げると充分パラシュート代わりになりそうだ。他の者達も慌てず騒がず、いやまだ互いに殺し合いながら操縦者のいなくなった旅客機を離脱していく。パラシュートを持たずに飛び降りる者も多かった。地味なスーツの男はのんびりコーヒーを飲みながら『一時間で完全マスターする日本語』を読み始めた。全身装甲の巨漢も飛行機を降り、足の裏からジェット噴射しながら飛んでいく。

 旅客機内には大きな横断幕がかかっていた。

 幕には、『第一回世界殺人鬼王決定戦 参加者御一行様』と書かれていた。

 殺人鬼達の降りていく先に、日本の夜景が広がっていた。

 

 

 同じ頃、東シナ海の暗い海をバタフライ泳法で進む者があった。

 全裸で体毛はなく、ぬめるような緑色の皮膚は海水に濡れているせいではなさそうだ。その目は魚類に似て丸く、大きな口はピラニアのように鋭い歯が並んでいた。

 怪人の後を数十もの背ビレが追っていた。体長が六メートルから九メートルにも及ぶホオジロザメの群れだ。波飛沫を散らせ泳ぐ怪人を食料と思っているらしい。

 怪人が人食い鮫達を振り向いて、急に方向転換した。群れの只中に自ら飛び込んだのだ。

 襲いかかる鮫達の鼻面をスルリとうまく避け、そのうちの一匹の腹にしがみついた。息継ぎなど必要ないのか、怪人は水中に引き込まれながらピラニアのような口で鮫の腹に囓りつく。シャクンとあっけなく鮫の腹が抉れ、噛みちぎった肉塊を怪人は美味そうに呑み込んだ。開いた傷口に顔を突っ込んで食い進めていく。流れ出した血が他の鮫達をも狂わせ、盛大な共食いが始まった。

 荒れる海面の脇を、別の男が駆けていた。上着の裾が長く袖がゆったりした黒服は中国のものであろうか。

 男は、腕組みしたまま、水の上を走っているのだった。

 怪人の目指していた方向、黒服の男の走っている方向、その先には日本があった。

 

 

 更に同じ頃、日本海側の港に停泊した貨物船から棺らしき荷物が下ろされた。荷札には出発地がフランスで、送り主は『ファラオ』となっていた。到着予定地は日本・八津崎市で、受取人は『ファラオ』となっていた。

 荷の内容も『ファラオ』となっていた。

 その二つ隣の船からは白髪の痩せた老人が降りようとしているところだった。マドロスパイプを咥えた船長が老人に尋ねた。

「それにしてもじいさん、なんでわざわざ船にしたんだい。インドから日本まで、飛行機の方がよっぽど早かったろうに」

 読み終えた『一時間で完全マスターする日本語』を置いて、老人は答えた。

「飛行機じゃと荷物が心配でのう。これはわしの体の一部のようなもんじゃから」

「ところで、そのでっかい荷物は何なんだい」

 船長の問いに老人は嬉しそうに破顔した。

「じゃあ特別に見せてやろうかの」

 早速長い包みの端を破り、枯れ枝のような手を突っ込む。船長が慌てて言った。

「おいおい、もうすぐ荷下ろしのクレーンが来るからよ。そこで開いても運び出せないだろ」

 ビゥオォォォン、と、不気味な風鳴りが夜の港に響いた。破れた紙の包みが夜の海へ漂い落ちていく。

 船長は目を見開いて、その場で前方宙返りし着地した老人と、彼が軽々と持ち上げる物体を前に立っていた。

「これはクックリと言うてな、わしらグルカ族の誇りじゃよ。まあ、こうまで大きなものを持つのはわしだけじゃが」

 老人が持ち上げているのは、刃渡り二十五メートル近い長大なナイフであった。刃先にかけて緩くお辞儀した刃は、幅のあるところでは二メートルを超え、厚みは二十センチ近くあった。柄の部分だけが細く、両手で握れるように一メートル弱の長さがある。一体このナイフの重量は何トンあるのか。

 既に、船長の体は正中線で左右に割れていた。断面から脳と内臓を零しながら崩れ落ちる船長の、分かれた口は何かを言いたげにパクパクしていた。

「さて」

 老人は巨大ククリナイフを携え甲板を蹴って地面に降り立った。

 乗っていた貨物船が縦に真っ二つに分かれ、静かに沈み始めた。

 

 

 これまた同じ頃、夜の街をフラフラと歩く男があった。急いでいる様子ではあるのだが、少し走るとよろめいて膝をつき、何度もひどい咳をする。顔に血の気はなく、いつ倒れて息絶えてもおかしくなさそうに見えた。病院から抜け出してきたのだろうか、服は薄緑色の病衣だ。

 と、病衣の男は咳と共に大量の血を吐いた。木製の杖のようなものを支えにして、男はアスファルトを血で染めていく。みるみる血溜まりは広がり、出血量は二リットルにも達するかと思われた。

「あ、あの、大丈夫ですか」

 コンビニ袋を提げたカップルが通りかかり、病衣の男に駆け寄った。若い女が背中をさする。

「救急車を呼びましょうか」

 男の方の言葉に、病衣の男は口元の血を拭いながら首を振った。

「し、心配ご無用、いつものこと故。それより一つお聞きしたいのだが、八津崎市はこの方向で良いのだろうか」

 カップルの顔が険しいものに変わっていた。男の方が慎重に答える。

「ええ、この方向です。でもあんなところには行かない方が……」

「かたじけない」

 片膝をついたまま病衣の男の右腕が霞んだ。チャンチャン、と小さな細い音が二つ、した。

「ああ、ゴフッ、またやってしまった。かたじけない」

 病衣の男はなんとか立ち上がり、喀血を続けながら歩き去った。

 その後ろ姿を怪訝な顔で見送ろうとしたカップルの首が、胴体からずれて転がり落ちた。筋肉や脂肪層や気管や頚骨や食道が見える恐ろしく鋭利な断面から、鮮血が噴き出し始めた。

 病衣の男が持っていたものは、仕込み杖だった。

 

 

  二

 

 翌日の昼、黒贄礼太郎探偵事務所で八津崎市の運命を決する戦いが始まろうとしていた。

 部屋の広さは八畳ほどだ。正面に木製の机があるが、所々が焦げて穴が開いている。その手前に依頼人用のベンチがあった。公園やバス停でよく見かけるタイプで、背もたれの裏には何処かのクリニックの広告が貼ってある。四方の壁には雑多な種類の仮面が並んでいる。仮面舞踏会に使われるような目元だけを隠す仮面や、金属製の溶接マスク、地球儀らしきものの破片などがあった。

 棚に収まった広口の瓶には、眠っているような少女の生首が浮かんでいた。壁際の、所長である黒贄のものより幾分高級そうに見える椅子には、本物の骸骨が鎮座して机の黒贄を見つめている。

「私のクッキーちゃんがいなくなっちゃったの」

 泣きそうに顔を歪めて言ったのはベンチに腰掛けた中年の婦人だった。髪を紫色に染めてミンクの襟巻きをかけている。ハンドバッグはグッチだった。細面の顔に、元の顔が分からないくらいの厚化粧を施している。

「クロちゃん、世界殺人鬼協会って知ってるかい」

 婦人の声にかぶせるようにして尋ねたのは、壁際に寄りかかるようにして立つくたびれたコートの男だった。やはりくたびれた背広の下に、ワイシャツにネクタイを締めているように見える絵柄のTシャツを着ていた。年齢は三十代の後半だろう。半端に伸びた不精髭が頬と顎を覆い、逆立った短めの髪は後頭部に寝癖がついている。

「ふむ、で、そのクッキーちゃんという方はどなたですかな、中善寺さん。それと署長さん、私は『くらに』ですから『クラちゃん』ですが、ほほう、あの世界殺人鬼協会ですか」

 二人の話にそれぞれ返したのは所長であり唯一の所員である黒贄礼太郎であった。

「流石にクロちゃんは知ってたか」

「ええ、存じております」

 黒贄が素直に頷いたので、逆に八津崎市警察署長大曲源は拍子抜けしたような顔をした。

「三年前に発足された、殺人鬼の殺人鬼による殺人鬼のための組織ですね。世界中の殺人鬼をランクづけしようとするなど面白い試みがあったと思います」

 説明する黒贄礼太郎は二十代後半から三十代前半に見えた。よれよれの略礼服に包まれたその体は、筋肉は薄そうだが骨格はがっしりしていた。ワイシャツには赤い染みがつき、ネクタイはつけていない。肌は死人のように不吉な白さを誇り、端正で彫りの深い顔立ちは西洋人と間違えられそうだ。髪は自分で切っているのかアンバランスで、薄い唇は常に面白がってでもいるような淡い微笑を浮かべていた。切れ長の目に深みのある瞳は何処か眠たげだ。

 自分の用事を遮られ、ムッとした顔で中善寺典子が大曲を振り返った。しかし大曲は動じず、ここぞとばかりに話を続ける。

「クロちゃんも協会に入ってたのかい」

「いえ、残念ながら」

 黒贄は頭を掻いた。

「発足されたばかりの頃、ニューヨークの本部にまで登録に行ったのですが、ついつい審査員や幹部の方々を皆殺しにしてしまって……」

「なるほどね。クロちゃんにも点数がついてるのはそういうことか」

「ほう、それはどういうことですかな」

 黒贄が片方の眉を上げた。もう一人の依頼人・中善寺が大曲に負けじと先程の黒贄の問いに答えた。

「クッキーちゃんは私の娘も同然なんですの。二才のチワワで、とってもチャーミングなんですのよ」

「実は、その協会から手紙が届いてね。俺だけじゃなく市長にも届いたらしい。『第一回世界殺人鬼王決定戦開催のお知らせ』って奴だ」

 大曲は懐から封筒を取り出した。既に封を切っている中から折り畳まれた数枚の便箋を出して開く。

 最初の紙には『殺人鬼の掟』として以下の文面が箇条書きされていた。

 一、殺人鬼は何より殺人行為を愛すること。

 二、殺人鬼は金銭目的で殺人を行ってはならない。

 三、殺人鬼は不死身或いはそれに類する肉体を持つように努めること。

 四、殺人鬼は銃器や爆薬などの近代兵器を使用してはならない。

 五、殺人鬼は相手の攻撃の何割かは体で受け止めること。

 六、殺人鬼は一度狙った獲物は最後まで諦めないこと。

 七、殺人鬼は殺人倫理を語ってはならない。

 八、殺人鬼は日頃より凶器の手入れを怠らないこと。

 九、殺人鬼は死体の効果的な見せ方にも注意を払うこと。

 十、殺人鬼は人類の一定数確保のため地球環境保護活動に協力しよう。

 大曲は便箋の二枚目を開きながら話した。

「それで、大会の会場が何故かこの八津崎市になってるのさ。参加者は……つまり全員が殺人鬼なんだが、六百六十六名。『殺人鬼王』の栄冠を手にするために世界中から集まってくる」

 大曲の説明を聞くうち、黒贄の眠たげな瞳に別の色が差し始めていた。しかしそれを払うように首を振って黒贄は尋ねた。

「ふうむ。『世界殺人鬼王決定戦』ですか。なかなか面白そうなイベントですね。それでそのチャーミングなクッキーちゃんはどうしていなくなってしまわれたのですかな。大会のルールはどのようなものでしょう」

「クッキーちゃんがいなくなったのは二日前のお昼よ。今度のパーティーに着るためのお洋服をブティックまで買いに行って、勿論クッキーちゃんも連れていったわ。大体、どうしてペットをちゃんと預かってくれるブティックがないのかしら。それで気に入ったお洋服がなかなかなくて……」

「基本ルールは単純だ。八津崎市民を一人殺せば一点で、一番点数を稼いだ者が優勝だ。ただし、他の参加者を殺せばそいつが稼いでいた点数も全部横取り出来る。いかにも参加者同士の殺し合いになりそうなルールだよな」

「それで洋服を選んでおられるうちにクッキーちゃんが行方不明になってしまわれたのですね。一人殺すと一点ですか。殺人鬼に相応しいルールかも知れませんが、殺人の量だけでなく質も考慮して欲しかったですな」

 二人の依頼人の顔へ視線を往復させながら黒贄が言う。

「違うのよ。お洋服を十着ほど買って、帰ってから確認したらそのうちの一着に虫食いがあったの。それで私、カンカンになってもう一度ブティックに押しかけたの。そりゃあ店員は平謝りだったわ」

 中善寺は自慢げに鼻から息を吐いた。

「その質の件なんだが、一殺一点だけじゃなくて、高い点数が設定されているターゲットもいるのさ。八津崎市長が五百点、警官が一人五点、署長の俺は百点になってる。ありがたいというか悲しいというか、なあ。それから特別ターゲットとして、クロちゃんがなんと一万点だ。八津崎市が会場に選ばれたのもクロちゃんが高得点のターゲットなのも、やっぱり意趣返しだよなあ」

 大曲は困っているような面白がっているような微妙な表情を見せた。ただし基本は疲れ顔だ。

「一万点ですか。ちょっと不満ですが、まあ他の方より高い点数ですから文句は言いませんよ。それで中善寺さん、一体クッキーちゃんはいついなくなってしまわれたんですかね。そういえば八津崎市の人口はどれくらいでしたかな」

「その帰りがけにね、お友達の吉沢さんにばったり出くわしちゃって。吉沢さんは貿易会社の社長さんの奥さんで、その会社は年商二十億って話なのよ。まあ、私の主人は一人でそのくらい稼いでますけどね。オホホ」

「八津崎市の人口は今月初めに五百七十万だそうだ。先月までは八十万くらいだったのに、まるで誰かさんの都合で獲物にするために集められたみたいだな。いや誰のこととは言わないが。まあ、ここは人口の増減が激しいからな」

 黒贄は眉をひそめ、両手でこめかみを押さえた。

「確かに殺しても殺しても涌いてこられますので、私も八津崎市で暮らせることをありがたく思っていますよ。それで、大会はいつ開催されるんですかね。中善寺さん、二十億人殺害というのは素晴らしいことですが、いい加減、問題のクッキーちゃんがいつお亡くなりになったのか教えて頂けますか」

「まあ黒贄さんたら、亡くなったんじゃなくていなくなったんですのよ。それで吉沢さんの奥さんとちょっと話し込んじゃって……いえほんの一時間ほどなんですけど。途中、抱いてたクッキーちゃんがむずがったから下ろしてたの。クッキーちゃんは大人しいし私の側を離れることなんて……。きっと悪い奴がクッキーちゃんを連れ去ったのよ。あの子はきっと今頃私を探して泣いているわ。黒贄さん、クッキーちゃんを探して無事に連れ帰って頂けないかしら」

「それが、今日の午後六時開催なんだ。後五時間ちょいで未曾有の大殺戮が始まるって訳だ。大急ぎで市民にも避難告知をしてるとこだが、まあ、住民はこういうことに慣れっこになってるから逃げねえだろうなあ。それで警察署長兼ターゲットとして、クロちゃんに解決をお願いしたいんだ。取り敢えず住民が皆殺しになったり俺が殺されたりする前に、その六百六十六人の殺人鬼を追い払って欲しいのさ」

 黒贄は左手で顎を撫で右手でこめかみを揉みながら、二人の顔を見た。

「なるほど、お二人の仰りたいことは分かりました。ですが私の体は一つですし、一度に二つの依頼はこなせません。お二人が依頼に来られたのは同時で私も判断しかねますので、もう少し詳しく教えて頂きたいですな。クッキーちゃんの手掛かりになりそうなものはありますか。参加される殺人鬼の皆さんのレベルはどの程度なんでしょうね」

 中善寺がグッチのバッグから分厚いアルバムを取り出した。タイトルは『クッキーちゃんと私の歴史』となっている。黒贄の机に置いて開いてみせる。頭にリボンをつけたチワワと、それを抱く厚化粧の中善寺が延々と写っている。

「クッキーちゃんのお写真ですわ。ほら、とってもチャーミングでしょう。この赤いおリボンがポイントなの」

 大曲はコートのポケットから書類の束を取り出した。

「参加者リストからざっと調べてみた。ピンからキリまで色々いるが、協会でAランクに認定されている奴は十五人だ。プロフィールを聞けばクロちゃんもきっとそそられるぞ」

「ほら、首輪にはネームプレートもちゃんとついてますの。私の住所も電話番号も書いてあるのに、どうしてまだ連絡がないのかしら。誘拐犯なら身代金の要求などしてきそうなものなのに」

「バナサイト、アメリカ人。本名不詳、推定年齢四十才前後。『鋼鉄の皮膚を持つ男』と呼ばれてて、ライフル弾を食らっても体に傷一つつかないらしい。推定殺害数は二万人以上」

 対抗心の成せる業か、黒贄の瞳が再び不気味に輝き始めた。

「ふむ、二万人以上ですか。私の記録にはとても及びませんがなかなかのものですね。私は数えたことなどないですけど。クッキーちゃんは身代金目的でなく食用に誘拐された可能性もありますよね。食べたくなるほど可愛いとよく言われるではありませんか」

「タフゥモブってのはケニアで五年前から出没している怪物で、推定殺害数五千五百人以上。本名年齢不詳、でかい口で犠牲者を丸齧りにするそうだ」

「そう、クッキーちゃんは食べたくなるほど可愛いのよ。確かに心配だわ。でもクッキーちゃんはお行儀がいいから餌を丸齧りなんてしないわ」

「私も暫く無収入で過ごした時は色々食べたものです。いや、人肉は食べたことないですが。冷蔵庫を食べた時は腹を壊しましたよ」

「ハリー・ザ・フォーガトン、本名不詳、推定年齢五十代前半。ベトナム戦争で置き去りにされた米兵じゃないかという話で、ボロボロの迷彩服姿で銃剣を使うそうだ。蛇や虫から人肉まで何でも食べるらしい。推定殺害数は三千人」

「クッキーちゃんは拾い食いなど致しませんわよ。私はペディグリーチャムを主に出してますの。たまにメロンなども出すわね」

「メロンですか、凶器に使ったことはありますがもう何年も食べてないですなあ。あ、銃剣も食べたことないですよ。持ってますけど」

「バーニングマイケル、オーストラリア。本名不詳、全身が大火傷でケロイドになっているため年齢推定不可能。火炎放射器で手当たり次第に焼き殺して推定殺害数八千人以上」

「クッキーちゃんは焼肉も大好きよ。でも太り過ぎないように気をつけてますの」

「焼肉ですか、私には無縁の代物ですね。チワワなら肉も少なそうですし。そういえば犬鍋ならホームレスの皆さんに食べられたことがありましたなあ」

「バーンドルフ、ドイツ。本名不詳、推定年齢四十代後半。綽名は『気狂い肉屋』で、ラバーのマスクをしてでっかい肉切り包丁を使う。町から町へと渡り歩き、住民を一夜で皆殺しにして、死体を店頭に吊るしちまうらしいぜ。買いに来る客もいないのにな。推定殺害数十二万人」

「クッキーちゃんは生肉は食べないわ」

「やはりマスクは殺人鬼の嗜みですよね。そういえば私は肉が手に入ったのにコンロが使えなくて、放火で燃え盛っているマンションまで持ち込んだことがありますよ」

「ルーマニア出身のブラド・ドラクールとハンガリー出身のエリザベート・ドラクールの夫婦は二人で五万人以上殺してる。やはり本名は不詳で、推定年齢はブラドが三十二才、エリザベートが二十七才。ドラキュラのモデルになった串刺し公ブラド・ツェペシュと、若さを保つため血の風呂に入ったというエリザベート・バートリーに自分達をなぞらえてるらしいな。中世の貴族のような衣装を着て、ブラドが木の杭で串刺しにして、エリザベートがワイヤーで輪切りにするそうだ」

「そうそう、クッキーちゃんには服も着せてあるわ。フリルのついた白い生地なの。毎日着替えさせてあげてるのに、ああ、クッキーちゃんたら何処に行ってしまったの」

「私はこの礼服だけですな。日頃から着ていれば葬式に着替える必要もありませんし」

「怨公、中国。読みは『えんこう』なのか『おんこう』なのか俺には分からん。本名不詳、推定年齢八十才以上。拳法の達人で、素手で四千人以上を殺してる」

「クッキーちゃんにはちゃんと靴を履かせてるわ」

「たまには素手もいいですな。ところで私の名字は読み間違えないで下さいね」

「ベネトルディ、イタリア。三十三才。アメリカで暴れてた頃は『皮剥ぎ魔』という意味で『スキナー』と呼ばれてた。細い体で換気口などから侵入し、犠牲者の全身の皮膚をナイフで引っ剥ぐそうだ。一人仕上げるのに三十秒もかからないという。推定殺害数は六千人以上」

「カワハギなんて低級なお魚、クッキーちゃんは口にしませんことよ」

「獲物の皮剥ぎにはガットフックつきのナイフが使いやすいですよ」

「ドクター・M、イギリス人。本名不詳、推定年齢四十代前半。Mは『殺人』の『マーダー』から取っているらしい。自分で開発した凶器を使って百五十人以上を殺害している。数が比較的少ないのは、選り好みして一流の獲物しか狙わないんだそうだ」

「クッキーちゃんはチワワの中でも超一流の血統を持っていますのよ」

「確かに血糖値には注意が必要ですよね」

「十三号、ロシア。全身機械でロボットなのかサイボーグなのか分からん。背中に大きく『13』と書いてたからその呼び名になったそうだ。ロシア語では『トリナーッツァトゥィ』とか読むらしい。左手がプロペラになっていて、推定殺害数一万四千人」

「うちにはプロペラじゃなくて自家用ジェット機もあるの。よくクッキーちゃんを連れて海外まで行ったわね」

「プロペラですか。扇風機代わりになって良さそうですね」

「センジュ、ネパール。推定年齢百五十才以上。ネパールがイギリスから独立する際にも活躍し、グルカ族には生き神として崇められているそうだ。全長二十六メートルの巨大ククリナイフで戦車でもぶった切る。推定殺害数は二万三千人」

「クッキーちゃんはまだ二才だけど、長生きして欲しいわ。私より先に死んでしまうなんて耐えられないわ」

「人間も猫も長生きし過ぎるととんでもない化け物になったりしますが、チワワはどうなんでしょうねえ」

「不渡静磨、日本人。外見は四十才前後だが、自己申告によると百九十三才だ。仕込みの日本刀で十二万人以上殺害。本人は妖刀に取り憑かれたせいだと言ってる。ちょくちょく入院してて、結核で末期癌で心臓病で他にも全身ガタガタで、余命一ヶ月と言われてからもう五十年以上経つらしい」

「勿論クッキーちゃんは定期検診に連れていくわ。健康にも気を遣ってるのよ」

「ああ、不渡さんには一度お会いしたことがありますよ。殺して欲しいと頼まれたのですがご期待に応えられませんでした。全くそそらない方でしたねえ。ちなみに私は保険証も持ってないですし医者にかかったことがありません」

「ガラヤンバ、ハイチの有名な魔術師で推定年齢百才以上。死体を繋ぎ合わせて作った強力なゾンビを操るらしい。推定殺害数は一万三千人。ゾンビはこの間、飽き飽きするほど見たけどな」

「秋にはクッキーちゃんと一緒に紅葉を見にいったものよ。クッキーちゃんは人間と同じように、美しいものがちゃんと分かるの」

「ええ、私もゾンビには飽き飽きしてます。しかしこの駄洒落の質の低さからすると、誰かさんは相当疲れておられるのではないですかね。いえ、誰のこととは申しませんが」

「これでやっと最後だ。ファラオ、ヨーロッパ全域で暴れてるミイラ男で、本名年齢不詳。棺を引き摺って歩いてるらしい。エジプトで盗掘されてどっかの美術館で飾られてたんじゃないかという噂だがはっきりしたことは分からん。推定犠牲者数は二十万人以上。これで、協会認定Aランクの十五人、全員の紹介終わりだ」

「クッキーちゃんと同じ棺桶に入るのが私の夢なの。クッキーちゃんの手掛かりはこんなところよ。どうかしら黒贄さん、私の大切なクッキーちゃんを捜し出して下さらないかしら」

 知識を整理しているのか腕組みして首をかしげていた黒贄礼太郎が、やがてにっこり笑って答えた。

「ふうむ、よおっく分かりました。取り敢えずクッキーちゃんを捜し出して叩き潰し、来訪された殺人鬼の皆さんを中善寺さんのところに案内すればいいのですね」

 大曲源が疲れた声で訂正する。

「いや違う。叩き潰すのは殺人鬼で、このおばさんとこに生きたまま届けるのがチワワ。で、クロちゃん、引き受けてくれるのかい」

「やはり一度に二つは無理ですから、どちらか一つのご依頼を先に片づけてから、もう一つということになりますかね。ところで報酬はいかほどなんでしょう」

「今回は八津崎市と俺の命運が懸かってるから、奮発して十万出そう」

 自信満々に大曲は言うが、中善寺が澄まし顔で告げた。

「クッキーちゃんが無事に戻ってきてくれれば百万円お出ししますわ」

「ほほう、百万円ですか……」

 黒贄の目の色が変わるのを見て、慌てて大曲が言った。

「よーし、こうなったら俺も虎の子を出すぞ。十万五千円でどうだ」

「二百万円お出ししますわ」

 中善寺典子の分厚い唇は優越感に歪んでいた。

「ほほう、二百万円……」

「ええいっ、これでどうだっ、十万五千七百円っ、いや十万五千七百二十八円っ」

 財布の中身を確認し、大曲は泣きそうな顔で叫んだ。それを中善寺の余裕たっぷりの声が打ち消した。

「五百万円出しますわ」

 黒贄が重々しく頷いた。

「分かりました。まずはチワワのクッキーちゃん捜しということで。それが済んでから殺人鬼叩きと行きましょう」

 大曲は渋い顔だった。

「間に合えばいいがな。大会の開始時刻は午後六時だぞ。待ちきれない奴らはもう殺し始めてるようだし」

「まあ、人口も多いですから何とかなるでしょう。ではお二人共、一枚ずつくじを引いて頂けますかな」

 気楽に黒贄は言って、机の上の箱を指差した。まず中善寺が引き、そして大曲が引いた。

 折り畳まれた紙片を広げ、黒贄は中の数字を読み上げた。

「ふむ。四十八番と十四番ですね。少々お待ちを」

 二重にロックされた左のドアを開け、凶器が保管された隣室へと消える。

 やがて戻ってきた黒贄は、右手に縫いぐるみを、左手に物干し竿を握っていた。

 四十八番という紙札がついた縫いぐるみは、三十センチほどの大きさの熊だった。つぶらな瞳が可愛らしい。

 十四番という紙札のついたクリーム色の物干し竿は、直径五センチ、長さは四メートルにも達していた。端の方にエンボスの字で『超強化プラスチック製 どんなに重いものを干しても絶対折れません』となっている。

「それは何ですの……」

 厚化粧を複雑に歪め、中善寺が尋ねた。黒贄は嬉しそうに答える。

「ヒグマのグリズリー君です。可愛らしく見えますが凶暴ですからご注意下さい」

 黒贄が縫いぐるみを高速で振り回してみせた。風圧で中善寺の髪が揺れ、彼女は目を瞬かせた。

 ちなみに縫いぐるみの喉下には白い月の輪があった。

「そうだ。言い忘れてたが、一人助っ人を頼んでる。神楽鏡影って男だ」

 大曲がウィダーインゼリーを開けながら意味ありげに言った。黒贄が片眉を上げてちょっとした驚きを示す。

「おや、よくあの方が引き受けましたね。こういうお祭りには無縁の方だと思っていましたが」

「警察内部の彼の資料を永久に抹消することで取引成立した。向こうも警察とのコネを作っておきたかったようだしな」

 ゼリーを吸いながら大曲はニヤリと笑ってみせた。

「なるほど。この際どさくさに紛れ……いえ、何でもありません。それにしても、この八津崎市に市長なんておられたんですね」

「ああ。誰も直接会ったことがなくて正体不明だが、戦前からずっと同じ市長らしいぞ。噂では、無敵だそうだ」

「無敵ですか。不死身と同じくらいに良い言葉ですね」

 黒贄の瞳が一際対抗心に光ったが、彼はすぐそれを眠たげなオブラートで覆い隠した。

「では、お願いね。私の住所と連絡先よ」

 中善寺典子が立ち上がり、机の上にメモ用紙を置くと、縫いぐるみと物干し竿を持った黒贄を置いてそそくさと去った。

「じゃあ頼んだぜ、クロちゃん。俺も署長としての役割を果たさなくちゃな」

 吸い尽くして潰れたゼリーの容器をポケットに戻して、大曲源も疲れた足取りで去った。

「私も頑張りますかな」

 黒贄礼太郎も二つの凶器を持って出口に向かった。物干し竿の先端が木製の扉を突き破った。

「ありゃ」

 黒贄は物干し竿を引いた。その拍子に竿の後端が背後の壁を突き破った。

 

 

  三

 

 午後二時。カラリと晴れた空の下、八津崎市と隣の市を繋ぐ大通りは最悪の渋滞と化していた。逃げ出そうとする市民は五百七十万人のうちごく一部だが、対向車線と歩道まで使い切っても尚、車の進みは微々たるもので、渋滞は数キロに達しているだろう。ドライバー達の鳴らすクラクションが街に響き渡り、苛ついた男達が殴り合いの喧嘩を始める。殺人鬼が来る前に既に死体となって転がっている者も多かった。荷物を背負って車から降り徒歩で脱出を試みる一家もいる。交通整理を始めた警官がトラックに轢かれて潰れた肉塊に変わる。野次馬の一人が駆け寄って死体から拳銃を取り上げた。

「やれやれ」

 いつもの溜息を吐き、八津崎市警察署長大曲源は混乱の街を見守っていた。パトカーも渋滞に巻き込まれて現場に近づけずにいる。サイレンを鳴らしてみても前の車が空けられるスペースが既にない。

 後部座席にどっかと座る大曲に、無線機をいじっていた助手席の警官が振り返った。

「市境で主要道路四十二ヶ所が渋滞に陥っているとのことです。衝突事故も頻発していますが救急車も消防車も近寄れません。パトカーも現場に到着出来ず、ここと似たような状況ですね」

「八津崎市で警察は慢性的に人手不足だもんなあ。署長なのに現場を駆けずり回らされるし。相変わらず自衛隊は来てくれねえし」

 大曲はぼやく。パトカーの横を若いカップルが走って逃げようとしている。

「渋滞の原因ですが、交通事故だけでなく何者かの妨害に遭っている地点もあるようです。鈍器や刃物を持った集団が市民を襲っているとか……」

 その時、前方で爆発音が轟いた。大曲と警官達、逃げ走っていた市民達がぼんやり眺める前で、渋滞の列から何かが浮き上がっていった。

 七、八メートルほども宙に浮いたそれは、燃え盛るワゴン車だった。ガソリンタンクに火が点いたのだろう、炎の奥にやはり燃えている運転手の影が見えた。

「あーあ」

 大曲が呟く間に、ワゴン車は着地した。数秒して再び爆発。密集して動けない他の車にも燃え移ったようだ。道路が炎の壁と化している。全身を炎に包まれた人々が悲鳴を上げながらこちらへ走ってくるが、そのうちに倒れ、ただの人型をした燃えカスに変わっていく。

 車の上げる炎とは異質な、青白い炎の線が宙を舐めていくのを見て大曲は言った。

「やはり待ちきれずに動き出したか。まあ、出来ることをやるしかないな」

 大曲は欠伸しながらパトカーを降りた。

「市民を逃がせるだけ逃がしておくか。おめえらも降りろ。ショットガンとライフルも持っていけ。やることは交通整理じゃねえからな」

「他の班にはどう伝えますか」

 無線機を握った警官が青い顔で尋ねる。

「そうだな……。怪しい奴はぶち殺せ、だ。全班に伝えろ」

「了解しました」

 と、大曲の足元をズル、ズル、と、不気味なものが通り過ぎようとしていた。大曲も反射的に一歩下がって地面を見る。

 色褪せて破れの目立つ迷彩服を着た男が、アスファルトの地面を匍匐前進しているのだった。年齢は五十代と思われたが泥混じりの髪は真っ白で、西洋人らしい顔立ちに、肌は見事なほど褐色に焼けている。右手の古い自動小銃はM16と思われ、弾倉が挿さっていない代わりに銃剣が装着されていた。使い込まれた刃はかなり砥ぎ減りしている。左手は、誰かの切断された前腕部分を握っていた。歯形が残っているところを見ると、どうやら彼は食事しながら移動しているらしい。

 常に笑っているような同時に怯えているような目が、大曲の目と合った。

 男の瞳孔は、完全に散大していた。

 数瞬、二人は見つめ合ったまま固まっていた。やがて大曲が片手を上げて迷彩服の男に挨拶した。

「ハロー、ハリー」

「ハロー」

 『忘れられたハリー』ハリー・ザ・フォーガトンは十年来の友人に会ったような笑みを見せた。或いはそれは痴呆老人の虚ろな笑みに似ていたかも知れない。

「ディスイズフォーユー」

 ハリーが腹這い姿勢から差し出した誰かの腕を、大曲はぎこちない笑みを浮かべて受け取った。

「サンキュー」

「ユアウェルカム。グッバイ」

 匍匐前進を再開して市内へと向かうAランク殺人鬼を大曲は黙って見送ったが、十メートル以上の距離が確保出来ると右手の人差し指を伸ばしてハリーの背中へ向けた。

 指先の小さな穴から細い光線が閃き、アスファルトを一直線に焼いていく。

「アヒュッ」

 悲鳴のような小さな声が聞こえ、それきりだった。

 ほんの二秒、五千円分の熱線が通り過ぎた場所に、ハリーの姿はなかった。ただ、裸足の左脛から下の部分と、迷彩服の切れ端だけが残っていた。断面は炭化して黒くなっている。

「やりましたね。少なくとも手傷は負わせました」

 若い警官が嬉しそうに言うと、大曲は渋い顔で首を振った。ハリーに貰った他人の腕は捨てて煙草を取り出す。

「無駄だな。奴の体を見たか。長年殺し合いを続けてきた筈なのに傷一つなかったろ」

 煙草の先端を右手人差し指に当て、余熱で火を点ける。大曲は深くそれを吸った後、ゆっくりと煙を吐き出した。

「奴は再生能力を持ってるってことさ。きっと蜥蜴の尻尾みたいにどんな傷も治っちまう。首を切り落として頭を潰すとかしないと駄目だ。いいか、覚悟しとけよ。俺達がこれから相手にするのはそんな化け物達なのさ」

 大曲は後部座席から中型のトランクを取り出した。指に電子キーが内蔵されているのか、右手が触れただけで開錠される。

 トランクの中には短機関銃が収まっていた。替えのドラム弾倉をコートのポケットに無理矢理押し込み、機関銃の引き金付近から生えたコードを引き伸ばして自分の首に挿す。大曲の首周りは人工皮膚で、うなじにはプラグを挿せる穴が幾つか開いていた。

「コンマ一秒でも速い方がいいからな。脊髄から引き金までダイレクトに伝えるのさ。弾は炸裂弾だ」

 羨ましそうにそれを見ていた若い警官が言った。

「凄いですね。本官も署長のようになりたいです」

 大曲は苦笑した。

「対戦車ミサイルの前に立ち塞がってみな。運が良ければなれるぞ」

 二台のパトカーから全員が降り、大曲と五人の警官が動きの取れない車両の間を縫って進んでいく。既にドライバーの大部分が車を捨て、市内へ逃げ戻ろうとしていた。炎は次々と隣の車両に燃え移り、断続的な爆発音が通りを揺るがす。通りに面したビルも燃え始めたが、消防車が来ることはあり得ない。

 炎の舌が踊っている。十メートルも伸びた青白い火線が順番に車を焼いていく。特殊な燃料を使っているのか鉄板がみるみる溶け、座席などは一瞬で燃え上がっていた。

 大曲達が向かうと共に、火線の発生源もこちらへと近づいていた。今の距離は四十メートルほどか。

「『楽して得取れ』が俺のモットーなんだがなあ。この間は小腸を半分なくしたし、最近ついてねえな」

 大曲は左手の短機関銃を前方へ向けた。まず一発、ポスッと軽い発射音の後に十メートル先の軽自動車が爆発した。小さな弾丸にどれほど強力な火薬が仕込まれていたのか、飛散する破片が周囲の車両に突き刺さり、大曲の頬を掠めていく。

 大曲は単発で炸裂弾を発射して、障害物となった車両を吹き飛ばしていった。中にまだ人がいたかも知れないが大曲は気にする様子もない。車の壁に道が出来ていく。向こう側からは火線が車を溶かしながらやってくる。

 二十メートル先のトラックを二発で吹き飛ばした後、揺らめく炎と煙の向こうに大きな男の影が見えた。

 大曲は間髪入れず、影に向かって短機関銃の連打を見舞った。軽快な発射音が着弾地点で重い爆発音に変わる。アスファルトや鉄板やタイヤの破片が飛び散る。大量の血と肉片は誰のものか。

「やりましたかね」

 構えたまま発射しなかったライフルを下ろし警官が聞いた。彼の膝は小刻みに震えている。大曲は憮然と黒煙を見据えていた。

 炎と煙の奥から、のっそりと男が現れた。

 男の身長は二メートル近く、屈強な体格をしていた。服は耐火スーツではなく普通のTシャツとジーパンだ。シャツには英語で『BURN THE WORLD』とプリントされている。露出した太い腕も首も顔も、全ての皮膚が醜いケロイドで覆われていた。頭髪も眉もなく、変形して瞬きもしにくそうな眼裂から青い瞳が覗く。

 重量百キロ以上ありそうな円筒形のボンベを背負い、ホースで繋がったノズルの先端に今、青白い炎の舌がチロチロと揺れている。

 オーストラリアの焼殺魔、バーニングマイケルが、炎の海を背に立っていた。

 既に、殺人鬼と警察の間に障害物はない。警官達の後方で市民達が逃げ去っていくが、その何割かは途中で立ち止まってこちらを見物しているし、別の何割かは物陰から現れた殺人鬼の斧に首を飛ばされていた。

 大曲は今度は挨拶しなかった。ただ低く「撃て」とのみ言い、同時に左手の短機関銃が火を噴いた。五人の警官も勇気づけられたのか、それぞれライフルやショットガンを構え、二十メートル弱の距離に立つ殺人鬼に発砲していった。

 殺人鬼の掟を忠実に守り、バーニングマイケルは避けようともせず木偶人形のように突っ立っていた。散弾がTシャツとジーパンに小さな穴を開けた。大曲の炸裂弾が左肩と右胸と腹部を破裂させたが、車両に対するほどの効果はなく、鎖骨と肋骨が見え、腸が少しはみ出した程度だ。ライフル弾のうち一発が彼の右目を潰した。後方に飛ぶ血の霧が見えたので、弾丸は後頭部まで貫通したと思われるが、バーニングマイケルはふらつきもせず、優雅とも思える動きでノズルを振った。

「伏せろっ」

 大曲の叫びに反応出来なかった警官が一人、横殴りに伸びた火線を胴へ食らって悲鳴を上げた。アスファルトに伏せた大曲と警官四人の上を青白い炎が掠めていき、一人の帽子を焦がす。

「うわああゴホッフッ」

 上半身が炎に包まれた警官は、前のめりに倒れた拍子にボスッと鈍い音がして胴体が真っ二つに割れた。内臓も背骨も炭化を通り越して既に灰になっている。

「ああ危ねえだろうが、ハゲッ。だ、大体殺人鬼が火炎放射器なんか持っていいのかよ」

 命拾いした大曲が顎を震わせながら怒鳴る。

 バーニングマイケルのケロイドの顔が、紫色に染まった。

「これはハゲじゃない。剃ってるんだ」

 到着前に予習は済ませていたようで流暢な日本語だ。ただ、その声はひどく掠れていた。

 禿げているのでも剃っているのでもなく単に火傷のためと思われる、毛髪のない頭を撫でながら、バーニングマイケルは火炎放射器のノズルをメチャクチャに振り回し始めた。

「剃ってるんだ。ハゲじゃない。剃ってるんだああ」

 炎の舌が触れたアスファルトが溶けた。焼かれた自動車が爆発し、鉄板の直撃を頭に受けて警官の一人が即死する。熱気に焙られ大曲の顔に汗が滲む。

「うへえっやめろハゲッ、いい加減にしろハゲッ、死ねハゲッ」

 火線を避けて地面を転がりながら、大曲も短機関銃と右手人差し指の熱線を乱射する。熱線もバーニングマイケルの表面を焦がすだけで、その頑丈な肉体を切り分けるには出力不足のようだ。

 と、偶然か、熱線が火炎放射器のホースを切断した。液体燃料が大量に零れ出し焼殺魔の足元に広がっていく。

 バーニングマイケルは切れたホースを一瞥しただけで、何事もなかったかのようにノズルの引き金を引いた。

 爆発音は、それほど大きくはなかった。閃光が白昼の街を照らし、大曲と残った警官と遠くの野次馬達が目を閉じる。

 彼らが目を開けた時、バーニングマイケルは、自身が炎のオブジェとなって立ち尽くしていた。青白い炎は勢いを弱めることなく、肉の焼ける嫌な匂いを周囲に撒き散らしている。

「やった」

 警官の一人が立ち上がって快哉を叫んだ。炎が彼を包み込んだのは次の瞬間だった。

 火線は、バーニングマイケルの腕から伸びていた。火炎放射器を失い全身を焼かれながら、彼自身が灼熱の炎と共存する一個の火炎放射器であったのだ。

 両手から炎を伸ばして周囲の車を焼き払い、バーニングマイケルはこちらに歩いてくる。

 大曲の頬を流れる汗は熱気のためか、それとも焦りのためか。

「こんな時クロちゃんが助けに来てくれればいいんだが。今度からクラちゃんと呼ぶから助けてくれねえかなあ」

 短機関銃を連射しながら、大曲は後じさる。残った警官二人のうち、中年の方がショットガンを投げ捨てて我先にと逃げ出した。

「うぎゃあああたすっ」

 警官の悲鳴が重い金属の軋みに呑み込まれた。大曲が後方を振り返る。

 潰れた自動車の小山がアスファルトを削りながら迫っていた。自動車の隙間に足を挟まれた中年の警官が地面に倒れ、ペシャリとあっけなく山に押し潰される。

「うおっ、今度は何だ」

 大曲は慌てて横へ飛びのいた。幅五メートル、高さ三メートル近い金属の塊が傍らを滑り過ぎていく。自動車十数台分、十トンを軽く超えるであろうその山を押しているのは、地味な茶色のスーツを着た男だった。

「失礼。怪我はないかね」

 スーツの男は両手でスクラップの山を押しながら、大曲に顔を向けて尋ねた。大曲は黙って肩を竦める。通り過ぎる山を挟んだ大曲の反対側では、運良く難を逃れた最後の若い警官が、唖然として山を見上げていた。

 男の身長は百八十センチ前後と思われるが、腕が極端に太いためスーツは特注品だろう。胴体の盛り上がりは肥満ではなく筋肉で、服の上からでも見事な逆三角形が見て取れる。革靴はまだ新品に見えるのに底がえらく磨り減っているのは男の異常な重量のせいだろう。きちんと整えられた髪は茶色がかっていて、同じ色の鼻髭が彼に落ち着いた印象を与えていた。年齢は四十才前後であろうか、渋みのある美男子だ。

 スーツの男は『鋼鉄の皮膚を持つ男』バナサイトであった。

 人の形をした炎・バーニングマイケルとスクラップの小山を押すバナサイトが対峙した。炎の舌が潰れた車両を溶かすが、数メートルの厚みを持つ山を貫通することが出来ない。バナサイトは構わず山を押していく。

 殺人鬼の意地か、それとも思考力を失っているのか、バーニングマイケルは逃げなかった。巨大な鉄塊にぶち当たるゴキョンという音。そしてベキベキ、メチメチという骨肉のひしゃげる音。焼殺魔はスクラップの山に呑み込まれ、見えなくなった。

 バナサイトは落ち着いた顔で停滞なく山を押していき、方向転換すると、道路に面したコンクリートの建物にぶち当てた。潰れていたスクラップ群が更に厚みを失い、本来の大きさの十分の一程度になってしまった。

 潰れた山の中から、炎は現れなかった。

「バーニングマイケルは死んだのかい」

 大曲がバナサイトに声をかけた。

 両手をはたいて汚れを落とし、バナサイトは答えた。

「この程度で死ぬような男ならAランクに認定されていない。大会開始までには復活しているだろう」

「あんたはバナサイトだろ。参加者の一人なのによく助けてくれたな」

 大曲はそう言いながら短機関銃のドラム弾倉を取り替えている。状況次第でぶっ放すつもりなのだろう。

 バナサイトは頭の幅よりも太い首を振った。

「豪華な晩餐の始まる前に摘まみ食いする者がいれば、注意するのは当然のことだ。手を出したくなる気持ちも分かるがね。それでは、午後六時までは生きていてくれたまえよ、ミスター百点」

 大曲にそう言い残して、筋肉達磨のナイスガイは歩き去る。野次馬達が拍手すると、バナサイトは微笑して片手を振り返し、狭い裏路地へと消えていった。

 大会が始まれば、彼に拍手する者はいなくなるだろうが。

「やれやれ」

 疎らに燃えている数百台の放置車両の間で、大曲は溜息をついた。

 五人のうち一人だけ生き残った若い警官が駆け寄ってきた。

「凄いですね。本官もバナサイトのようになりたいです」

「それもいいが交通整理もやってくれないか。今のうちに市民を避難させなきゃな」

「はい。頑張ります」

 警官は笑顔で敬礼し、ライフル片手に走り出した。彼の向かう先では、薄汚れたジャケットの中年男が斧を振り回して市民を追いかけていた。警官はライフルを連続で発射し、計七発の弾丸を浴びて殺人鬼が倒れる。

 まだ痙攣しているその手から血塗れの斧を奪い、警官は叫んだ。

「うおおおおっ」

 ライフルを捨て新たな殺人鬼となって市民を追い回す警官を眺め、大曲はまた溜息をついた。

「あーあ。やってられんな」

「もしもし、刑事さん、ちょっといいかの」

 歩道から年老いた声がかかった。大曲は疲れた顔で振り返る。

 燃え盛るビルの一階にカフェテラスがあった。その小さなテーブルの一つで、二人の老人がのんびり茶を飲んでいる。道路は車が燃え、焦げた死体が多数転がっているのに、平然と日常を送っているこの二人もやはり只者ではない。

「この機械の使い方がよう分からんのじゃが、見てくれんかね刑事さん」

 尋ねた老人は小さな物体を指で摘まんでみせた。無地の白いシャツとズボンに、足はサンダル履きだ。小柄で痩せていて、腕などは骨と皮しかないように見える。豊かな白髪は一房に束ねられて腰まで伸び、同じくらい長い顎髭もまた束ねられていた。褐色の皮膚は深い皺で覆われ、百才を余裕で超えているだろう。人の良い笑みを浮かべているが、白内障とは無縁の黒い瞳が不気味な深みを湛えていた。

 もう一人はそこまでの高齢ではないようだが、顔の皺を見ると八十才前後と思われる。背筋がシャンと伸び、普通に佇んでいるだけでも風格を感じさせた。最初の老人とは対照的に、上着もズボンも黒だ。中国人であろうか、上着はローブに似て裾が足元まであり、側面にスリットが入っている。胸元には銀色の刺繍で竜が描かれていた。白髪混じりの髪は短めで、薄い唇は常に怒っているかのように引き締められている。僅かにひそめられた状態で固まっている眉の下、二つの冷たい瞳は物を見るような目つきで大曲を見ていた。

 二人の怪しげな老人を交互に見遣りながら、大曲は慎重に歩み寄った。背後でタンクローリーが爆発し、通りは更なる地獄の光景を見せる。

「何だい、爺さん方」

「これじゃよ。大会が始まるまでに服につけとくよう言われとるんじゃが」

 白服の老人が大曲に装置を手渡した。大曲は右掌の上でそれを転がしてみる。五センチ四方に厚み二センチほどの箱型の装置で、表側にガラス張りの部分があって奥に小型カメラが覗いていた。カメラの下には液晶画面があって七桁の数字が並ぶ。今はどれもゼロを示している。裏側には衣服につけられるように安全ピンが組み込まれていた。

 安全ピンの下には、『この殺害数カウンターは午後六時より作動します』と日本語で注意書きがあった。

「つけてるだけでいいみたいだぜ。スイッチもないしな。午後六時からちゃんと動くってさ」

 白服の老人にカウンターを返しながら大曲はさり気なく老人の足元を見下ろした。長い棒が椅子の横に転がっている。

 その棒は、幅一メートルはある鉄板に、垂直に繋がっていた。よく磨かれた鉄板の片側は鋭い刃になっているようだ。

 大曲の視線がその鉄板を先へと辿っていった。五メートル、十メートル、十五メートルと辿るが、鉄板は逆に幅が広くなるばかりで終わりが見えない。

「そうじゃったか、すまんのう。試しに五百人ほど殺してみたんじゃが、数字が増えんから壊れとんのかと思ったわい。のう、エンさん」

 全長二十六メートルの巨大ククリナイフの主、グルカ族の生き神センジュは皺だらけの顔で笑み崩れた。

「エンじゃない。オンだ」

 黒服の老人、中国拳法界の魔王・怨公は素っ気なくそれだけ言った。センジュは白髪頭をポリポリと掻く。

「ありゃ、そうじゃったかな。長い付き合いじゃのに、ずっとエンと思っとったわ。まあ、それにしても、若いもんはせっかちでいかん。祭りはのんびり楽しまんと。のう、刑事さん」

「そうかな。俺はちっとも楽しくねえんだが。このまま職場放棄して逃げちまいたいくらいだ」

 大曲が疲れた声で答えると、センジュは静かに首を振った。

「いやいや、若いもんがそう簡単に逃げてはいかんよ。たった百点でも、百人殺すよりは時間節約になるからの。なあ、オンさん」

「違う。俺はエンだ」

 怨公は表情を変えずに応じる。

「ありゃ、さっきはオンと言ったじゃろうに。中国語では何と読むんじゃ」

「中国語など俺は知らん」

「あれあれ、わしより若いのにもうボケてきたか」

「ボケてはおらん。俺はまだ三十五だ」

「わしがあんたと会ったのは五十年前じゃが」

 老殺人鬼達の会話を背に、大曲は溜息をついてその場を離れた。

 

 

 大曲達のいた通りから五キロほど離れた地点では、隣市との境をなして三途川が流れている。幅は百メートルから百五十メートル、日に最低でも十五、六回は死体が目撃されるというその川は、今日も赤く濁った水が荒れ狂っている。

 三途川を渡す三途橋は長さ百メートル、片側二車線で歩道もあり、太い橋脚により支えられた頑丈な橋だ。水面からの高さは二十メートルほどか。柵には点々と、『死体を捨てないで下さい』と書かれた立て札が並んでいた。

 やはり四車線全てに歩道まで使っての脱出行は最悪の渋滞を引き起こしていた。丁度橋の終点で七台の車両が絡まり合っている。軽自動車の側面にワゴン車が突っ込み、そこに大型トラックが乗り上げ、その後部にヴァンが激突してトラックの向きをほぼ真横にずらし、スポーツカーは完全に横転した状態で隙間に挟まっている。二台のセダンは横方向からの圧力で、二台で一台分の横幅しかなかった。中の人々は大部分が死んでいるだろうし救助される見込みもない。身動きが取れない七台に、苛ついた後続が追突して押し出そうと試みるが、更にその後ろが詰まってしまいバックが出来ずにいる。窓から顔を出して怒鳴っていた男が、隣に滑り込んだ車両に首を切断された。撥ね返って転がった男の生首をダンプカーの太いタイヤが踏み潰す。後続が更にぶつかってきて、三途橋の上は芸術的な寿司詰め状態となってきた。「重みで橋が落ちるぞ」と誰かが叫んでいたが、その声の主は追突してきたトラックによって厚さ十センチの肉塊と化した。

 三途橋の頑丈な橋脚の一つに、ビシリ、と亀裂が走った。

 人々の一部は車を諦めて降り始めた。前も後ろも歩道も車で埋まっており退路は何処にもない。仕方なく何人かが柵を越えて三途川に飛び込んだ。

 赤い激流に呑まれ、人々の頭が浮き沈みを繰り返す。泳ぐこともままならず、若い女が助けを求めるように両腕を差し上げる。叫び声は流れに混じって聞こえない。

 その左の腕が、女の頭の位置から妙に離れていった。女が顔をひどく歪めている。

 水面が下がった時に、左腕全体が見えた。シャツの袖がついたまま、女の腕は付け根部分でちぎれていた。その上腕部を何者かの手が掴んでいる。

 ぬめるような緑色の手は、指先に鋭い鉤爪が生えていた。

 女が何やら叫んでいる。左の肩口から鮮血が噴き出している。その首筋に、緑色の丸いものがくっついている。

 丸いものが離れた瞬間、女の裂けた首筋からも血が噴き始めた。女の右腕が無駄に宙を掻く。

 丸いものは、人間に似た生き物の頭部だった。毛髪は全くなく、耳のあるべき場所には膜のようなものが張っているだけだ。暗い緑色の皮膚は薄い鱗に覆われている。魚類の鱗よりも爬虫類のものに近い。平たい鼻の正面から縦長の鼻孔が見えていた。人間のものより大きな眼球は左右が離れて配置され、ギョロギョロと勝手な向きに動いていた。

 生き物の顔で一番目立つものはその口で、女の首肉を美味そうに呑み込んだそれは、耳であろう膜からもう一方の膜まで大きく裂けていた。頭囲の半分以上を占めているのではないか。赤子なら丸呑み出来るかも知れない。唇はなく、再度女に食らいつくため開かれた口腔内には鋭い牙がびっしりと埋まっていた。

 ケニアの怪物・タフゥモブは女の頭に齧りついた。右側頭部がごっそりと持っていかれ、女の脳味噌が覗いた。女の目が裏返り、右腕が痙攣を始める。

 もう一噛みで女の頭部を丸呑みにし、タフゥモブは女の胴を抱えたまま水中へ隠れた。その際、背中を縦に連なる背ビレが見えた。

 その頃、橋の上では別の騒動が起こっていた。

 一台の巨大なトラックが三途橋の上を八津崎市方向へ進もうとしていた。車幅は四車線に歩道二本を足した橋の幅にぎりぎり収まるほどの広さで、直径が二メートルもありそうなタイヤが一ヶ所に二本ずつ、計十二本ついている。運転席までは梯子でないと乗り込めないだろう。運転手は作業服姿で頭に鉢巻を巻いていた。黒く塗られた車体に荷台部分は屋根つきの箱で、金色の美しい彫刻が施されている。

 何十トンあるか分からぬこの巨大トラックは、宮型霊柩車であった。

 橋の終点でつっかえていた七台は巨大なタイヤに踏みつけられ、その重量によってあっさり潰れ果てた。寿司詰めの車両群を次々と押し寿司に変えながら霊柩車は進んでいく。車から降りようともがく人々の大部分は出られぬまま、愛車と運命を共にする。橋の上を阿鼻叫喚が満たしていく。

 巨大霊柩車が橋の半ばほどまで進んだ時、重量に耐えられなくなったらしく突然バグンと音がして橋脚が折れた。橋が崩れかかって一瞬留まり、しかしその前後の橋脚が支えきれずにまた折れる。連鎖反応を起こして橋が崩壊し、道路が車両が人々がパラパラと赤い三途川へと落ちていく。巨大霊柩車も落ちて物凄い水飛沫を上げた。

 激流の中、新しい獲物を抱えて生で食べているタフゥモブの姿が見え隠れしていた。鋭い牙の並ぶ口は笑っているようにも見えた。元々赤い川だ。血がどれだけ流れても目立つことはない。

 三途橋を渡るつもりで待っていた川岸の八津崎市民は、折れて一部しか残っていない橋脚と、数百台の車両を呑み込んだ赤い川を呆然と見守っていた。

 ゴミや犬猫の死骸、人間の腕らしきものまでが散乱した河原に、激流の中から男が這い上がってきた。

 男は、痩せた全身をボロボロの包帯で覆っていた。隙間に覗く肌はビーフジャーキーのように赤黒く干からびている。包帯のせいで容貌は分からないが、頭に被った金の王冠は精緻な彫刻と大粒の宝石で飾られていた。しぼんだ眼球がゆっくりと左右を見渡す。

 包帯の男は流れに手を伸ばして、細長い箱を引き摺り上げた。幅の広いところで五十センチ、長さ百八十センチほどのそれは、黄金製の棺であった。蓋の表面には、胸の前で腕を交差させた男の姿が描かれている。それが本人の姿かどうかは不明だが、絵の顔はハンサムなものであった。

 ずぶ濡れだった男の体は、いつの間にか完全に乾いていた。

 包帯の男の近くに、作業服姿の若い男が泳ぎ着いた。頭に鉢巻をしている。

「じゃあ、届けましたんでサイン頂けますか」

 作業服の男はポケットから伝票を出し、包帯の男へボールペンと一緒に渡した。濡れて文字の滲んだ伝票に、包帯の男は『ファラオ』と日本語でサインした。

「ありがとうございましたー」

 作業服の男は礼を言って激流に飛び込んでいった。

 包帯の男・ファラオは腕時計を確認した。何故かローレックスの高級品で、午後二時半を示していた。

 ファラオは無言で頷くと、棺の中に身を横たえて、中から蓋を閉めた。やがて中から軽いいびきが聞こえてきた。

 人々は、呆然と、それを見守っていた。

 

 

 午後三時。血乃池の大通りにある八越デパートは今日も買い物客で賑わっていた。

 一階に入っている宝石店を若い親子連れが訪れた。小学校低学年であろう息子は左手に風船の紐を掴み、右手に持ったプラスティック製の風車を吹いて回している。父親の方は何故かゴルフクラブのドライバーを持っていた。

「避難告知が出てるのに、店はちゃんとやってるんだね」

 不思議そうに或いは不満そうに父親が聞くと、女性の店員は笑顔で頷いた。

「はい、避難告知などで慌てていては八津崎市民は務まりませんから。こうしてお客様もいらして下さいますし」

「そうか。どうする、貴子」

 父親は、目を皿のようにして陳列ケースを睨んでいる母親に問うた。サファイアの指輪の値札を確認してから母親が答える。

「いい品もあるし、折角だからやっちゃいましょうよ」

「そうだな、ドサマギだしな」

 父親がドライバーを振った。女性店員の笑顔が弾けて眼球が飛んだ。父親はガラスの陳列ケースをぶち破り、母親が嬉々として宝石類をバッグに詰め込んでいく。

「強盗だ、ぶち殺せっ」

 男性店員が叫び、警棒でなく棍棒を持った警備員達が押し寄せてきた。便乗した客達がこぞって他の店も襲い始め、デパート内は乱戦模様となってきた。店員もレジの下から日本刀を抜き出して応戦する。

 狂騒の中、風車を持った息子は風を起こすために自ら走っていた。カラカラと回る玩具に嬉しげな声を上げる。

 デパート内を端まで行き着いてUターンしようとした時、ショーウィンドー越しの空に何やら光るものが白い尾を引いて落ちていた。

「お父さん、流れ星だよっ」

 少年は人込みの何処かにいる父親に叫んだが、殺し合いに夢中の父親は振り向きもしない。

「だから八津崎市は好きなんだ」

 血塗れのドライバーを振りながら、返り血を浴びた顔に父親は狂笑を浮かべた。母親は黒真珠のネックレスを別の女性客と取り合って、相手に頭突きをかましている。

 ドーン、と、凄まじい轟音と共にデパートが激しく揺れた。客も店員も警備員も一斉に戦いをやめ、何が起こったのか確認しようとする。

「流れ星が向こうのデパートに落ちたよ」

 少年が風車を持つ手でショーウィンドーの外を指した。大通りを挟んで向かいのデパート、その三階部分に大穴が開いて煙を噴いている。

「なんだ、向かいか」

 誰かがそう言ったのが合図のように、殺し合いが再開された。向かいのデパートの壁に亀裂が広がり、十一階建てのそれが地響きを立てて崩れ落ちても、彼らは殺し合いを続けていた。

 風船と風車を持った少年は、瓦礫の山と化した建物を眺めていた。何百人が生き埋めになったことだろう。彼の持つ青い風船にはニコニコマークが描かれていた。

 その瓦礫を押し上げて、大きな人影が現れた。倒壊した建物の下敷きになりながら全くの無傷であるらしい。ゆっくりと周囲を見回している。

 分厚いベストを着た巨漢だった。身長は二メートル前後か。ベストと同じ藍色のズボンを履いている。ベストの隙間に見える胸腹部も、太い両腕も首も顔も、全てが鋼鉄の装甲で覆われていた。塗装も施されていない露骨な金属色だ。顔面は一枚板で、目の穴以外は単に凹凸で表現されているだけだ。

「わー、ロボットだ」

 息子は一人で歓声を上げた。風船を持った手を振ると、ロボットは彼の方を向いて、ゆっくりと歩いてきた。整然とし過ぎた動作は逆に不自然な印象を与えている。

 ロボットは横断歩道を渡らず一直線に車道へ足を踏み出した。慌ててハンドルを切ったトラックが瓦礫に突っ込み、後続のミニヴァンはロボットを避けきれず激突した。ロボットは多少押されたが転びもせず、ミニヴァンの前部が完全にひしゃげてしまった。潰れた車体を片手で押しのけ、ロボットは歩いてくる。

「うわあ、凄いなあ」

 息子は羨ましげに嘆息する。

 ロボットが左手の指を伸ばし、左手首が丸ごと前腕の中へ引っ込んでいった。少しして、代わりに細長いものが伸びてくる。

 三方に分かれて広がったそれは、鋼鉄の刃だった。ロボットが腕を前に出すと、三本の刃が扇風機のように回転を始めた。

「あ、風車だ。僕と同じだ」

 息子は風車を振ってロボットにアピールしてみせた。ロボットは左腕のプロペラを回しながら、自動ドアを通ってデパート内にやってくる。

「わーい」

 息子は風車を回しながらロボットへ駆け寄っていった。

 ロシアの殺人機械・十三号は少年の期待に鋼鉄のプロペラで応えた。少年が無数の肉片になって飛び散った。手を離れた血塗れの風船が天井まで昇っていく。

 右前腕が丸ごと上腕内に格納され、代わりに緩く湾曲した太い刃が現れた。掴み合っていた店員と客の首を一振りで纏めて刎ねる。

 十三号は喧騒の店内を回り、商品を巡って殺し合っている人々を順番に片づけていった。機械らしく単調な繰り返し作業だった。

 風車の少年の母親は内臓を全部ぶち撒けて死んでいた。宝石類はしっかりバッグに収めながら。

 父親は曲がったドライバーで血の海を掻いていた。腰部分で体を両断され腸を引き摺っている。

「だから八津崎市は嫌いなんだ」

 そう吐き捨てて、父親は息絶えた。

 

 

 午後三時半。黄泉津通りの大型精肉店『肉のほねかわ』を一人の男が訪れた。

 身長は百八十センチ弱、ビヤ樽のように太い腹をしているが肥満という印象はなく、力瘤で盛り上がった腕と共に筋肉がたっぷり詰まっているようだ。男はシャツとズボンの上に、ラバー地の黒いエプロンをつけていた。靴は黒の長靴だ。彼自身も肉屋であるのかも知れない。

 そして、男の最も特徴的な点は、エプロンと同じラバー製の黒い仮面で、顔を完全に覆っているということだった。鼻と口の部分に空気穴も開けておらず、鋏で適当に切ったような二つの穴から血走った目が覗いていた。頭部を後ろから見ると、エプロンと同様に仮面を紐で結びつけている。

「へい、いらっしゃい」

 客の男と対照的に、骨と皮ばかりに痩せた男がやはりエプロン姿で出迎えた。年齢は五十代後半であろう。名札は『店長 骨川泰造』となっている。

「どんな肉をお求めかね。牛肉豚肉の高級品から鶏肉に羊に山羊に犬に猫に、それから人に言えない肉まで揃ってるよ」

 店長はそう言って両手を広げ、ガラスケースに並ぶ肉類を示してみせた。

 だがラバーマスクの男は商品には目もくれず、篭もった声で別のことを聞いた。

「この店は八津崎市で一番大きな肉屋か」

「ああ、そうだな。市内で一番か二番だろう」

 店長は誇らしげに答える。

 ラバーマスクの男は頷いて、持っていたスポーツバッグを開きながら再び問うた。

「肉の貯蔵庫は広いか」

「ああ、貯蔵庫は間違いなく八津崎市で一番だ。死体を隠してもばれないくらいさ」

「そうか。なら使おう」

 ラバーマスクの男が右腕を振った。スコンという素晴らしい音がして店長の首が後方に折れ曲がった。皮膚一枚と僅かな皮下組織を残して完全に切断された首は、筋肉や骨や気管や食道の綺麗な断面を晒していた。だがやがて滲み出した血が断面を覆い、二本の頚動脈から噴き出した血が天井やガラスケースを染めていく。

 ラバーマスクの男、ドイツの『気狂い肉屋』バーンドルフは両手にラバー手袋を填め、右手に大型の肉切り包丁を握っていた。

 包丁に付着した新鮮な血液を見て、バーンドルフの目は更に血の色を帯びた。さっさとカウンターの内側に入り、崩れ落ちかけた店長の肩を掴んで店の奥へ引き摺っていく。店長の首の皮一枚を残しておいたのは運搬の手間を考えてのことかも知れない。

 店内に他の店員はいなかった。少し行くと貯蔵庫の入り口がある。金属のレバーを引くと中の冷気が靄のように漂ってきた。

 貯蔵庫を見回して、バーンドルフの目は強い歓喜に輝いた。

 白い壁に囲まれた貯蔵庫は、おそらく東京ドーム丸々一つ分ほどの面積があるだろう。一メートル数十センチ置きに長い鉄棒が渡され、隙間なく肉の塊が吊られていた。切り分けられる前の牛の肉、豚の肉、羊、犬、猫、鶏、その他ちょっと推測しにくいものの肉。

 総計何百トンになるか分からないそれを、バーンドルフは黙々と外へ運び出し、店の前に投げ捨てていった。通りかかった人々が目を剥いている。が、積み重なっていく肉にそそられたか、いつしか店の前でバーベキューパーティーが始まっていた。次から次へと運び出される肉を、男達が包丁や日本刀で切り分けて焼いていく。誰かが持ち出したビールで皆が酔っ払う。人々の浮かべる笑顔に、バーンドルフの血走った目も幾分嬉しそうだった。

 広大な貯蔵庫の三分の二が空になった頃、バーンドルフは運ぶ手を止めて、隅に吊られた肉塊を睨んだ。

 冷凍されてどれほど経つか分からないそれらは、内臓を抜かれた人間の死体だった。服を着ているものもあり、その名札には『副店長 骨川仁江』とあった。店員らしき制服のものもあった。子供の肉もあった。

 バーンドルフは無言でそれらも下ろし、店の前に投げ捨てた。酔っ払った人々はまたそれを切り分けて焼いて美味そうに食べた。

 貯蔵庫が完全に空になると、入り口近くに転がしていた店長の死体を運んでいき、一番奥のフックに突き刺した。吊られて揺れる死体を見て、バーンドルフは満足げに頷いた。

 続いてバーンドルフはスポーツバッグを開けた。最初に使ったもの以外に、大型の肉切り包丁が何十本も詰め込まれていた。

 そのうちの一本を出して二刀流になると、バーンドルフは店の前に出た。何百人もが膨れた腹を抱えて談笑していた。肉の提供者に彼らは大きな拍手を送った。

 シュパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパ。

 バーンドルフは二本の肉切り包丁を猛スピードで振っていった。一秒に二十人以上を処理する恐るべき職人芸だ。その場にいた五百人以上が、逃げる暇もなく首を切られて転がった。

 血の海の中へバーンドルフは長靴で踏み入り、皮一枚で繋がった首をブラブラさせている死体を手当たり次第に店内へ引き摺り込んでいった。貯蔵庫の奥から順に掛けていく。血抜きのためか逆さ吊りにすることが多いが、それほど拘っている訳でもなさそうだ。どうせ彼は食べないのだから。

 殺しよりも運搬の方に手間がかかる。フックに吊られ、思い思いの方向に揺れる死体達を眺め、バーンドルフの目は喜悦に酔っていた。五百体吊るしても、この貯蔵庫にはまだまだ余裕があった。

 最後の死体を貯蔵庫に運び込んだ時、バーンドルフはふと目を細め、死体を掻き分け奥へ進んだ。

 初めの頃に吊るした奥の死体、三百体以上が、ごっそりと消えてなくなっていた。ただ、白い床に血糊が残っているだけだ。

 貯蔵庫の奥の壁に大きな穴が開いていた。

 バーンドルフの目が怒りに赤く染まった。彼は穴を塞ぐものを探して周囲を見回し、結局吊られた死体の幾つかを外して穴に無理矢理詰め込み、蓋の代わりにした。

 だが死体の整理をしているうちに、蓋の死体達も消えた。

「うごおおおおおおっ」

 怒り狂ったバーンドルフは包丁の背で自分の頭を叩いた。頭蓋骨が割れて脳味噌がはみ出すまで、何度も何度も叩いた。

 その頃『肉のほねかわ』の裏で、ツギハギの体をした化け物が縫い物をやっていた。

 既に体重は数トンに達しているだろう。死体の胴や手足を出鱈目に積み重ね、繋ぎ合わせ、縫い合わせた集合体。意外に丁寧な縫い目だが、使われているのは糸でなく細めのロープで、カーブした縫い針は長さ五センチほどもある。縫い物の技術を披露しているのは側面と上面から生えた百本近い腕のうち二十本ほどで、別の腕が拾い上げ刀で分断し本体にくっつけた肉塊を素早く縫い合わせている。頭部は単に邪魔なのか、生首は全て投げ捨てられ転がっていた。ただ、体表の所々に開けた穴に眼球が埋め込まれ、ギョロギョロと周囲を警戒していた。内側の死体は腐敗だけは免れているものの紫色に変色し、貯蔵庫から盗んできた新鮮な死体は、合体して少し経つとビクビク筋肉を震わせ始めた。新しい腕も針とロープを持って作業に加わり、加速度的な拡大を続けている。

 そんな巨大な肉塊の中心にある窪みで、ハイチのヴードゥー魔術師ガラヤンバは『一時間で完全マスターする日本語』を読んでいた。赤子ほどの大きさしかない黒人で、細くしなびた手足はちゃんと動くのか怪しいものだ。今もページをめくっているのは死体の腕だった。不釣合いに大きな頭は完全に禿げ上がり、その顔は赤子とは正反対の邪悪で醜いものだった。皺は少ないが、口元が浮かべた皮肉な笑みは中年を過ぎた者が身につける類のものだ。瞳は白く濁っており、もしかすると視力は殆どないかも知れない。巨大ゾンビに嵌め込まれた数十の眼球が彼の目となるのだろう。

 貯蔵庫の中からバーンドルフの怒号が聞こえ、ガラヤンバの笑みが消えた。巨大な肉塊が素早く持ち上がった。下面に繋がれた百数十本の足がそれを支えている。ワサワサと百足のように、しかし本来の百足ほどには統制されていない動作で足達が地面を蹴り、数トンの肉塊は裏通りを走り去っていった。

 後には繋ぎ忘れたバラバラ死体と、バーンドルフの狂声だけが残った。

 

 

 午後四時。八津崎市内の高級ホテル『ダークレッド』の十二階にあるレストランで、時代遅れの服装をした若い夫婦が早い夕食か遅い昼食を摂っていた。テーブルには肉料理やスープが並んでいるが、あまり手をつけていない。ワイングラスには赤い液体が注がれていた。

 夫の方は三十代の前半であろう。衣装は赤を基調として黒の模様が踊り、袖や襟元にはフリルがついている。中世の貴族のような服装だ。明るい金髪も貴族らしく整えられている。肌は白く、その体はスマートだがやや華奢な印象もある。プレイボーイ然とした整った顔に、血のように赤い唇は甘い微笑を浮かべていた。

 妻の方は二十代の半ばであろうか。血管が透けて見えるような白い肌に真紅のドレスはよく似合っている。大きく開いた胸元に見事な谷間を覗かせ、ルビーの首飾りが光っていた。腰まで垂れた金髪はやはり中世の貴族よろしくカールされ、切れのある上品な美貌はトップモデルさえ裸足で逃げ出すだろう。しかし、その潤んだ瞳は殺人者の持つ不気味な光を湛えていた。

 夫の後ろには、ウェイターや他の客が十五、六人、死体となって立っていた。床に突き立てられた長さ二メートルほどの木の杭が、彼らの尻や腹部から入り、首筋や口から顔を出している。杭の先端があまり鋭くないのは犠牲者の苦痛を長引かせるためであろうか。十五世紀の串刺し公、ブラド・ツェペシュに倣ったものと思われるが、おそらく今並んでいる犠牲者達は即死だったろう。

 妻の後ろには、やはり七、八人分の死体が宙に浮いていた。首が切断され、床に血溜まりが広がって夫婦の靴を濡らしている。目を凝らせば、死体の手足と胴を拘束する細いワイヤーが見える筈だ。一本のワイヤーで全員を器用に固定し、その両端はレストラン内の二本の柱にかかっていた。

 いや、彼らのうち二人はまだ生きていた。ウェイトレスと男性客で、二人共若い。吊られた状態から逃げ出そうと必死にもがいているが、両足と腕ごと胴を縛ったワイヤーのせいで動きが取れない。細いワイヤーは腕の肉に食い込んで血を滲ませていた。二人の顎はやはりワイヤーで無理矢理閉じられ叫ぶことも許されずにいるが、たとえ叫んだところで助けは期待出来ないだろう。

 何故なら、今このレストランには殺人鬼しかいないのだから。

「コレステロールが高いな。まずい」

 グラスの赤い液体を少し味わった後で、殺人鬼夫婦の夫、ルーマニア出身のブラド・ドラクールは言った。

「若いから大丈夫と思ったのですけれど。日本人は不摂生なのね。あなた、次はどちらがよろしくて」

 殺人鬼夫婦の妻、ハンガリー出身のエリザベート・ドラクールが二人の生存者を振り向いた。機内でスチュワーデスを演じていた時と違い、上品な言葉遣いになっている。

「女がいいな。もしかすると処女かも知れないぞ」

 色欲とは異なる欲望を感じさせるブラドの言葉に、逆さ吊りのウェイトレスが凍りついた。隣に浮かぶ男性客は安堵に目を閉じる。

「女性は見かけだけでは判断出来ませんわよ」

 エリザベートは微笑して、ルビーの指輪で飾られた左手を振った。ヒュパッ、と音は一瞬で、ウェイトレスの首が胴体から外れて落ちた。やはり極細のワイヤーによる仕業だった。夫の前だからか、ワイヤーについた血を直接舐めるようなはしたない真似はしない。

 左右の頚動脈から勢い良く流れ始めた鮮血を、エリザベートは二個の新しいグラスで受け止めた。グラスから溢れる前に素早く引き、自分と夫の前に置く。

「大会の優勝を期して乾杯」

 血溜まりの中で恨めしげに睨むウェイトレスの生首など目もくれずに、殺人鬼夫婦は笑顔で乾杯した。一気には空けず、味わうように少しずつ口の中に含む。

「まあまあだ。日本人の中ではマシな方ではないかな」

「そうですわね。でも処女ではありませんでしたわね」

 夫婦がお上品に飲血を楽しんでいる間、窓際のテーブルでは『鋼鉄の皮膚を持つ男』バナサイトが今日の夕刊を読んでいた。一面は『世界の殺人鬼達が日本に集結 八津崎市は大パニック』という見出しだった。

 バナサイトはトーストの残りを平らげ、コーヒーカップを手に取ったが既に空だった。

「もし、コーヒーのお代わりを……」

 バナサイトは手を上げた。しかし既に店員は皆死体になっている。

 近くにウェイターの死体から制服を剥ぎ取っている男がいたので、バナサイトは声をかけた。

「すまんがコーヒーのお代わりをくれないか」

「うるせえ、自分でやれよ」

 モヒカン刈りのその男は面倒臭そうに答えた。バナサイトは少し考えた後で、コーヒーカップを男の脳天に振り下ろした。カップごと拳が頭にめり込み、モヒカンの髪が飛び散った。

 別の隅では半魚人タフゥモブと迷彩服のハリー・ザ・フォーガトンが一つの死体を奪い合っていた。タフゥモブが死体の頭に食いついて離さないので、ハリーは銃剣で死体の腹部を切断して下半身だけ持って逃げる。上半身を咥えたままタフゥモブが追う。周囲に死体は沢山あるのに、何故か二人はその中年男の死体が気に入っているらしかった。

 通りかかったエプロン姿の男に、バナサイトはまた声をかけた。

「すまんがコーヒーのお代わりをくれないか」

 男が振り返った。その顔はエプロンと同じラバー地のマスクをつけていた。

 店員と間違えられたバーンドルフは無言で頷き、モヒカン男の死体から血と脳漿塗れのコーヒーカップを取り出して厨房へと去っていった。

 ブラドとエリザベートから二つ離れたテーブルで、長身のイタリア人が自分で煎れたカプチーノをゆっくり飲んでいた。

 身長は百九十センチを超えているだろう。薄手のスーツをラフに着こなすその体は、胴も手足も驚くほど細かった。体重は五十キロないかも知れない。やはり細面の顔は何処か仮面のように無表情で不自然だ。やや三白眼になった陰気な目は先程からずっとエリザベート・ドラクールを見つめていた。

 蜘蛛のようなこの男は、『スキナー』ベネトルディであった。スーツの内側に覗く金属光はおそらく愛用のナイフの一本であろう。

「美しいな、あの皮。……欲しいな」

 エリザベートの透き通るような肌を見て小声で呟きながら、ベネトルディは長い舌で唇を舐めた。

「まだ時間があるわね。折角だからもう一度、お風呂に入りませんこと」

「いいな。手っ取り早く四、五十人攫ってバスタブを満たそうじゃないか。部屋の窓から直接釣り上げてくれ」

 逆さ吊りの最後の一人も開栓してしまった殺人鬼夫婦は、結局料理には殆ど手をつけぬまま立ち上がった。二十体以上の死体を放って無人のレジに金を払って去っていく。

 少し時間を置いてから、ベネトルディも立ち上がった。彼が懐から出してレジに置いたのは紙幣ではなく折り畳まれた人の皮だった。

 夫婦の乗り込んだエレベーターが六階で止まるのを確認し、ベネトルディはもう一台のエレベーターで後を追った。

 六階に到着して扉が開き、廊下に足を踏み出そうとして突然ベネトルディはエレベーター内に飛び戻った。

「チィッ。気づかれてたか」

 扉と廊下の境に、極細のワイヤーが何本も張り巡らされていたのだ。それは髪の毛ほどの太さしかないが、恐るべき強度と切れ味を備えていた。

 ベネトルディのスーツの前面が、斜めに切り裂かれていた。中に収めた数本のナイフが覗いている。

 ベネトルディの細面の顔に、丁度鼻筋の高さで横線が走っていた。ワイヤーによる傷だが血は滲んでいない。

 無表情に、ベネトルディは自分の顔の傷に触れた。ズルリ、と、鼻と頬の皮膚がずれてその下に別の皮膚が覗いた。それもまた裂けていたが、更にその下にも別の皮膚があった。

 『スキナー』ベネトルディは、剥いだ他人の皮膚を幾重にも纏っているのだった。

「まあいい。どうせもうじき本番だ」

 ベネトルディは他人の皮膚で陰気に笑い、一階のボタンを押した。扉が閉まった。

 もう一台のエレベーターが、六階で停止した。浴衣を着た初老の夫婦が廊下に歩み出し、数歩も行かぬうちにバラバラの肉塊となって床に落ちた。

 

 

 午後四時半。いつもより騒がしい街を黒贄礼太郎は彷徨い歩いていた。

「クッキーちゃん。クッキーちゃーん」

 ビルとビルの狭い隙間や側溝に顔を突っ込んだりゴミ箱の中を漁ったりしながらチワワの名を呼んでいる。左手に握る四メートルの物干し竿には、いつの間にかシェパードの死体が頭を貫かれてプラプラ揺れていた。

「クッキーちゃーん」

 黒贄はチワワのクッキーが行方不明になった地点から始め、虱潰しに捜し回っているのだった。もう三時間以上続けているが一向にチワワは見つからない。もしかすると物干し竿のシェパードは、クッキーを嗅ぎ当ててくれることを期待して黒贄が刺したものかも知れなかった。或いは偶然刺さっただけかも知れないが。いずれにせよ、死体が役に立ってくれることはなさそうだ。

 人の溢れた繁華街では見渡せる範囲だけでも三ヶ所で殺人鬼が暴れている。いや、一ヶ所はコートの男が拳銃を乱射しているので殺人鬼とは別か。殺人鬼は銃器の使用は禁止されている。

 黒贄の進む歩道の前方では、上半身裸の男が鎖のついた鉄球を振り回して通行人を撲殺していた。向かいの歩道ではビジネスマン風の男が大型のトラバサミをさり気なく人の頭にかぶせて首を引きちぎっていた。市民も慣れたもので、多くは平然と別のルートに迂回するだけで市の活動は続けられる。

「クッキーちゃーん。お腹が空きましたな。クッキーちゃん、早く出てこないと食べてしまいますよー」

 所構わず呼びかけながら歩く黒贄をやはり人々は避けて歩いている。その殺人鬼探偵と鉄球の男がぶつかり合うことは、避けられない運命であったろう。

「クッキ……」

 男が振り回した直径三十センチの鉄球が、唸りを上げて黒贄の顔面に激突した。ゴシイッ、と嫌な音をさせて、黒贄の首が右に傾いた。

 二秒間、鉄球を顔にくっつけたまま、黒贄は動かなかった。殺人鬼は無言で鎖を引いた。西洋人であろう、サーカス団員のような青いスパッツを履き、見事な上半身には茶色の胸毛が生えていた。鉄球が外れ、緩やかに凹んだ黒贄の左顔面が見えた。

 黒贄の右腕が上がった。熊の縫いぐるみを持ったまま側頭部を押し、ゴギッと骨のずれる音がして黒贄の首が元に戻った。

「グリズリー君、ありがとう。さて、ちょっとお尋ねしますがクッキーちゃんはご存じないですかな」

 左側の動かぬ奇妙な微笑を浮かべ、黒贄は鉄球男に尋ねた。

「いいえ、知りません。昨日ビスケットを食べました」

 鉄球男は模範的な日本語で答えた。

「そうですか。ありがとうございます」

 黒贄が頭を下げた瞬間、二つの凶器が交錯した。投げつけられた鉄球は黒贄の左肩を砕いたが、黒贄の右手が蛇のように浮き上がり鉄球男の顔へと伸びた。

「オゴッ」

 男の開いた口の中に、縫いぐるみの熊が頭を突っ込んでいた。礼を終えた黒贄がちょっと驚いたような顔をしてみせた。

「おや、すみませんな。グリズリー君はやんちゃで困るのですよ。こらこら、その人の口から出なさい。こらこらこら」

 茶色の熊に話しかけながらも黒贄はぐいぐいと容赦なく押し込んでいく。三十センチの縫いぐるみが圧縮され全体が男の口に詰め込まれた。そしてそれが更に奥へと進んでいく。

 男は目を白黒させたが黒贄の腕を引き剥がせない。鉄球で逆襲しようとしたのは流石に常人と違うところだが、近距離からの連打は黒贄に何のダメージも与えられない。ただし、幾ら傷つけたところで黒贄の行為を止めることは出来ないだろう。

「おやおや、グリズリー君はあなたの体内がお好きのようですな」

 男の喉が異常に膨れ上がっていた。既に黒贄の前腕が男の口内へ消え、肉の裂ける音をさせて胸腹部が膨れ動く。男の抵抗が弱まってきた。

「グリズリー君、私も仕事がありますから悪戯も程々にして下さいね」

 黒贄は歩き出しながら今度は右腕を引っ張り始めた。顔色の悪くなった鉄球男が逆にそれを止めようとするのは何故だろうか。

 ブヂブジュ、と、裂けた男の口から血みどろの塊が引き摺り出された。すぐ後に大量の血が溢れ出し、鉄球男は力なく地面に倒れた。

「さあ、クッキーちゃんを捜しに行きましょうグリズリー君。ありゃ」

 黒贄は右手のものを見直した。彼が握っていたのは熊の縫いぐるみではなく、まだ脈打っている心臓であった。

「人違いでした。すみません」

 黒贄は心臓に謝ってからその辺に放り捨て、フリーになった右手を軽く振りながら進む。

「クッキーちゃーん」

 その後方からヨロヨロと、今にも倒れそうで倒れない不思議な歩法で黒贄に迫る者があった。

 男は四十才前後に見えたがもしかするともっと年を取っているかも知れない。白い着物と帯には誰かの返り血がつき、足は草鞋履きだった。身長は百六十センチ前後で小柄だが、江戸時代の日本人ならこのくらいが普通だったろう。痩せ細った足をふらつかせ、何とか支えにしている白木の杖は真っ直ぐではなく緩く湾曲していた。

 風に揺れる蓬髪の下に、無数の艱難辛苦を味わいつくしたような厳しい顔があった。肌の色は悪く黒ずんでいる。末期癌患者の悪液質というものであろうか。苦しげに息をつき、いつ倒れてそのまま絶命してもおかしくなさそうな様子だが、疲れきった陰鬱な瞳はそれでも前を向いていた。

「クッキーちゃーん」

「く……黒贄殿……」

 男の呻くような呼びかけは、繁華街の喧騒と黒贄の能天気な声に掻き消された。

「クッキーちゃん」

「黒贄……殿……」

 どんどん歩いていく黒贄に追いつこうとして、着物の男は前のめりの突進歩行で転がるように進む。前傾姿勢が次第にひどくなり、このまま前に倒れるか宙返りしてそれを防ぐかというぎりぎりのところで前から来た大柄な男にぶつかった。

 鈴の鳴るような澄んだ音がした。

「おい、気をつけろ、死に損ない」

 咥え煙草に肩で風を切って歩いていた、ヤクザらしいその男は怒鳴った。

「かたじけない」

 飛ばされて後ろによろめき、それでも魔法のようなバランスで倒れずに済んだ着物の男は素直に謝罪した。すぐに杖をつきながら黒贄を追う。

「フン」

 大柄な男はそれ以上は叱責せず、自らの歩みを再開したが、数歩も行かぬうちに自然と膝をついた。

 男が見下ろすと、胸の中心に十文字の傷口が開いていた。刀で切り裂かれたような鋭利な傷から大量の血が流れ出している。

 大柄な男は、何も言えずに前のめりに倒れ、息絶えた。

「クッキーちゃーん、何処ですかー」

 しゃがみ込んでマンホールに首を突っ込んでいる黒贄に、着物の男は漸く追いついた。

「くら、黒贄殿……」

「はい何でしょう」

 黒贄が首を上げて振り向いたついでに、シェパードのおまけがついた物干し竿が横殴りに閃いた。竿をまともに食らえば首が飛んでいただろうが、着物の男は地面に倒れ込んでそれを避け、ついでに赤い光が飛んでサクッと黒贄の胸に刺さった。光が素早く杖の中へ戻る。

「おや、以前お見かけしたお顔ですな」

 胸の傷から血を流しながら黒贄は言った。自分がつけた傷を詫びることもなく着物の男が応じる。

「ひさ、久方ぶりですなあ。ゴホッゴホッ、いや失礼……拙者、不渡静磨でござる。黒贄殿もご健勝のようで何よりゴホボッ……あの時は残念ながら、貴殿に殺して頂けず、拙者もこうして……苦渋の日々を送っている次第……ゴフッいや、失礼……ゴババッ」

 無理に急いで肺を刺激したか、百九十三才の剣客・不渡静磨は大量に喀血した。白い着物が自分の血で染まる。

 それを冷めた目で眺め、しかし黒贄は微笑んだ。

「ああ、不渡さんでしたね。いやはや、相変わらず全くそそられませんなあ。そういえばあなたも殺人鬼何とか大会に参加なさるということでしたが」

「『世界殺人鬼王決定戦』で、ござる。参加者の中に、拙者を殺せる者もいるのではないかと、期待しておるのです」

 向かい合って喋っている間にも、不渡の右手がせわしなく動いていた。肘から先が霞んで見えるくらいの猛スピードで、左手に持った杖に触れ、前方に伸ばしてを繰り返しているらしい。黒贄の胸と腹にみるみる刺し傷が増えていく。

 黒贄は得心顔で頷いた。

「なるほど。しかしあなたを見ていますと、生きるということの大変さをつくづくと感じますな」

「拙者の望みにかかわらず、この妖刀『むぐらぬぐら』が拙者を解放してくれぬのでござる」

 黒贄を刺しまくっていた不渡の右手が止まった。杖の握りを真上に引くと、仕込まれていた刀身がゆっくりとその姿を現した。軽く反っているのは日本刀の特徴だが、切っ先まで赤く光っているのが不気味だった。犠牲者の血によるぬめるような表面は、ゆっくりと蠢いているようにも見える。鞘や握りには全く血がついていない。まるで、刀が血を吸い取ってしまったかのように。

「好きでもないのにこの刀が、拙者に人殺しをさせるのでござる」

 そう言いながら赤い光が撥ねた。傍らを通り過ぎていた高校生らしき数人の首が纏めて落ちる。使った後はあっという間に鞘に戻す居合いの絶技だ。

「殺人がお嫌いとは気の毒なことですな。でも、私には満更でもなさそうに見えますよ」

 不渡は反論しなかった。彼の陰鬱な瞳の奥には、確かに殺人鬼の暗い喜びが潜んでいたのだ。

「さて、私はチワワのクッキーちゃんを捜さねばなりません。殺人鬼の皆さんを追い払うようにも頼まれているのですが、それはクッキーちゃん捜しの後になりますね」

 黒贄にとっての『追い払う』は『ぶち殺す』に他ならない。仕事で殺人をしない建前上、そんな表現になっているのだろうが、自己欺瞞に黒贄は気づいているかどうか。

 再び黒贄を一秒に五、六回のペースで刺しまくりながら、不渡静磨は重々しく頷いた。

「それでは拙者も一緒にクッキーちゃん捜しをお手伝い致そう。やはり拙者を殺せるのは貴殿以外におらぬと、ゴホッ、拙者は期待、ゴボボッ」

 不渡がまた屈み込んで大量に喀血した。さっきの分と合わせると五リットルをオーバーしていそうだが、人体の含むほぼ全部の血液を排出しながら何故か不渡は生きていた。

「ありがとうございます。では行きましょうか」

 黒贄は嬉しそうに方向転換した。その拍子に四メートルのシェパードつき物干し竿が凄い勢いで水平回転し、屈んで血を吐いていた不渡の後頭部を掠っていった。

 蓬髪と頭蓋骨の一部が削り取られ、脳も少し飛ばされたが、不渡は「かたじけない」と言って黒贄についていった。

 

 

 午後五時。市内某所の地下アジトで『闇の占い師』神楽鏡影は準備を進めていた。

 明かりは蝋燭の小さな炎だけで、部屋の全容は見渡せない。ただ、近くの棚に水晶玉や栄光の手らしきシルエットが見えるだけだ。

 黒装束の神楽の横顔が赤く照らされている。年齢の推測しにくい精悍な顔立ちは、野獣のように瞳を光らせて自分の手先を見つめていた。

「呪術で片がつくなら幾らでも手間をかけるのだがな。最後に頼るべきはやはり体術か」

 呟く声は低く、よく通った。

 六芒星が描かれたテーブルに、小さな瓶が並んでいた。様々な色の液体や粉末やよく分からない繊維状の物質などがそれぞれの瓶に収まっている。今、それらを調合したものがカップに収まって、神楽の手によって蝋燭の炎で焙られている。コトコトと煮立つ粘度の高い液体を、神楽は棒で混ぜる。

「良かろう」

 充分に熱せられたのを確認して、神楽は独り頷いた。剣の鞘を二本取り出す。長いものと短いもの。

「致死量六百ナノグラムの猛毒も、化け物共にはどれほど役に立つか。まあ、首を刎ね頭を潰し、肉を焼却するまでの繋ぎと考えればいい」

 神楽はカップの液体を、慎重に鞘の中へ流し込んでいった。作業を終えると、片刃の長剣と両刃の短剣をそれぞれの鞘に収めた。一度出し入れして、刃全体が毒液で濡れたのを確認する。長剣は背中に括りつけ、短剣は腹の帯に差した。

「解毒剤を忘れないようにせねばな。それと再生丸も。一時間置きに飲んでおいた方がいいか」

 棚から壷を二つ出した。金属製のピルケースにそれぞれの中身を流し込む。白い丸薬は二十粒ほどで、赤い丸薬はその数倍の量があった。

「この日のために再生丸を百粒作っておいたが、足りぬかもな」

 神楽は唇を歪めて苦笑した。牙のような鋭い犬歯が隙間から覗く。白い丸薬を一つと、赤いのを数個、神楽は口の中に放り込んで水も使わずに飲み込んだ。

「狙いはドクター・マーダーのみ。後の奴らは適当でいい。署長には手伝うとは言ったが何人始末するなど細かい契約は結んでないからな。……そして、最も注意すべきは黒贄礼太郎。俺の仕事が済むまではのんびり犬を捜していてもらわんとな」

「シヌヨー」

 神楽の独白に甲高い声が加わった。神楽が顔をしかめ、テーブルの隅に立つものを睨む。

「シヌヨ、カグラ、シヌー」

 不吉な警告をしているのは短い棒の上に飾られた干し首だった。頭蓋骨を抜かれ瞼を縫われ、拳大に縮められた死人の頭が、小さな口で喋っていた。

 もしかすると、神楽の独り言は、干し首に聞かせるためであったのかも知れない。

「うるせえな」

 神楽の声に怒気が混じった。彼が蝋燭の炎を吹き消すと、部屋に真の闇が落ちた。

「シヌシヌ、カグギャーッ」

 絞め殺されるような干し首の断末魔が闇に響いた。

 

 

 午後五時半。決定戦のスタートを前に、八津崎市は異様な緊張感に包まれていた。力を溜めているのか大物の殺人鬼達は身を潜め、街で暴れているのは雑魚だけだ。一般人を追い回している彼らを、日本刀や自動小銃やミサイルランチャーで武装したヤクザ達が襲撃し始めた。市内百五十八の暴力団組織が殺人鬼撃退を宣言し、大曲源が市警の代表としてそれを受け入れたためだ。暴力団に協力させることに反対する者もいたが、大曲の「共倒れになってくれるなら都合がいい」という一言が決め手となった。斧や鉈の原始的な武器を振り回す殺人鬼達を圧倒的な火力で吹き飛ばすのは壮観であったが、ヤクザ達が笑っていられるのはAランクの大物が登場するまでであろう。八津崎市を脱出するための道は大部分が積み上げられたスクラップと死体の山で閉鎖され、勇気のある市民がその山を越えようとして、待ち構えていた殺人鬼達の餌食となった。大規模な殺戮劇を喜び勇んで中継していた数台の報道用ヘリは、いつの間にか消えていた。墜落して鉄屑になっている一台は、太い鉄骨に機体を貫かれていた。殺人鬼の誰かが投げてヘリを落としたのだろう。五百七十万だった人口は既に幾分減っているだろうが、多くの市民は自宅に篭もってイベントが終わるのを待っているか、いつも通りの日常を続けているか、騒ぎに乗じて殺人や略奪を楽しんでいた。無法地帯となった市内を、改めて武装し直した警官達がパトロールしている。彼らの背には青竜刀や長柄の大斧があった。猟銃やフライパンで武装した市民の自警団に、警官が間違って発砲して泥沼の乱戦が始まっている。警察は人体への破壊力が大きいダムダム弾を使っているらしい。繁華街の幾つかの建物から火の手が上がり、殺人鬼と強盗が一緒になって踊っていた。悲鳴と雄叫びと狂笑が街を覆い尽くし、誰もが目をギラギラさせてカーテンの隙間から、物陰から、そして死体の転がる道の真ん中から、街の様子を見守っていた。

「後三十分か」

 呟きは高い風の音に紛れた。

 市役所や警察署のある市の中心部。地上八百八十四メートル八十センチに達するエベレストタワーが、異次元的な細長さを誇って真っ直ぐ建っている。

 今は住む者のない廃墟と化したタワーの屋上で、合金製の大きなトランクに腰掛けて混乱の市内を見下ろす西洋人がいた。

 年齢は四十代の前半であろうか。黒に近い藍色のスーツに身を包み、膝の間に金属のステッキを立てている。体格は中肉中背、知性を感じさせる整った顔立ちをしていた。銀縁眼鏡の奥で、薄い青色の瞳が冷たく光っている。激昂や興奮とは縁遠いタイプであろう。

 彼の左胸には、世界殺人鬼協会提供の殺害数カウンターが飾られていた。

「私が動くのは終盤でいい。高得点の者を始末して点数を奪えば最小限の労力で済む。ゲームで最も重要なのは戦略だ」

 イギリスの殺人紳士、ドクター・Mは横に置かれた小型冷蔵庫を開けた。中には高級スコッチの瓶が十本近く収まっていた。冷蔵庫の電源プラグは、トランク側面のコンセントに挿してある。

 ドクター・Mは冷凍スペースから氷を出してグラスに入れ、スコッチを選んで封を切り、グラスにゆっくりと注いでいった。

 オンザロックを味わいながら、ドクター・Mは言った。

「どうせ酔いはしないのだ。一晩で全部空けてしまっても構いはしない。酒のつまみに精々、地獄絵図を堪能させてもらおうか」

 晴れた空に、少しずつ赤みが差し始めていた。やがて八津崎市を夕陽が赤く染めるだろう。

 翌朝には別のもので赤く染まっているだろうが。

 

 

戻る