第五話 雨時々血の雨

 

  プロローグ

 

 父と母へ、そして愛する美里へ

 

 この手紙がいつか読まれることを祈っています。私が生きて帰ることが出来れば苦笑しながら破り捨てることになるのでしょうが、どうなるかは神のみぞ知るといったところです。

 私の乗った小型フェリーは、現在遭難しています。

 片道二時間の、気楽な船旅の筈でした。それが予想外の嵐に見舞われ、更にはフェリーが動かなくなってしまいました。船員の人達が必死に原因を調べていましたが、エンジンは動いているのでスクリューへの動力伝達がうまく行っていないのだろうということです。また、船底にヒビが入っているらしく少しずつ浸水している状況です。乗客も協力して交代で水の汲み出しを続けています。

 無線機も故障しているのか全く応答がありません。乗客の一人が言うことには、このままだと太平洋沖へどんどん流されていく可能性があるとのことです。

 闇の中で激しい波に揺られ、絶え間ない雨音と雷鳴に苛まれながら、私達は何らかの助けがあるのを待っています。もし嵐が収まったとしても船が修理出来なければ、救助隊か通りかかった船が見つけてくれるのを待つだけになるでしょう。乗っているのは私も入れて二十五人です。水も食糧もあっという間に尽きてしまうでしょう。どうしてこんなことになってしまったのだろう。科学の進歩した現代で、こんなつまらない事故に巻き込まれてしまうなんて。ああ、美里、もう君とは、二度と会えないかも知れない。

 そういえば乗客の中に、黒贄という変な人がいました。「くろにえ」ではなくて「くらに」と読むそうです。礼服に使う黒いスーツを着て背の高い、不思議な雰囲気の人でした。

 彼は私立探偵で、この状況を打開するために自分を雇わないかと言いました。一人一万円払えば、なんとかしてみると言うのです。私達は疑心暗鬼でしたが、助かるのならばと契約することにしました。報酬は後払いでいいとのことでした。

 ですが、黒贄が提案した打開策は、とんでもないものでした。なんと、彼はバタ足で泳ぎながら、船を後ろから押して陸地に戻すと言うのです。

 私達が絶句していると、黒贄は腕時計を見て「もう勤務時間外ですので、明日からでいいですかね」と言いました。そして「事務所に帰って寝ます。ではまた明日」と船から飛び降り、荒れ狂う波に呑まれて消えてしまいました。

 嵐は一向に、やむ気配がありません。

 ああ。美里。愛してる。

 

 

  一

 

 どんより重い黒雲の下、叩きつけるような大粒の雨に男は身を晒していた。吹き荒ぶ風が高い悲鳴を上げている。

 男は安物のビニール製雨合羽を羽織っていたが、スーツにまで雨は染み込んでしまっている。しかし男はそれを気にする様子もなく、ただスコープを見つめていた。

 ライフル銃のスコープを。

 男が片膝をついてライフルを構えているのは高層マンションの屋上だった。十四、五階建てになるだろう。本来は立ち入り禁止になっている筈の屋上に男がどうやって上がったのかは定かではない。

 男は中肉中背で、ライフルを構えたまま微動だにしないそのフォルムは美しかった。フードの下にある顔の造作は特徴のないものだったが、その無表情さは何処か作り物めいている。細められた目は冷たく、陰鬱なものを含んでいた。年齢は三十代の半ばであろうか。

 スコープには遥か彼方の交差点が映っていた。ひどい雨の中を車が忙しく行き交っている。スコープにも雨粒が当たり視界が滲んでいる。

 男は、瞬きもせずにそれを見ていた。指先は引き金にかかったまま、やはり動かない。

 スコープの視野に銀色の高級車が入った。ニッサンのシーマ。左から右へ、交差点を直進するシーマの後部座席に太った老人の姿が見えた。

 一瞬。

 男は引き金を引いた。

 ガラス窓に穴が開き、老人の頭が爆ぜていた。それを確認すると男はスコープから目を離してライフルを畳み始めた。

 狙撃地点から交差点まで、千五百メートルの距離があった。この強風の中を、人間業ではない。

 男は最後まで、無表情だった。

 

 

 雨の降り続ける午前二時。人影も疎らになった駅前の通りで、数台の乗用車が音もなく歩道に寄せて停車した。それぞれから四人ずつ、鋭い目をしたスーツ姿の男達が降りる。通りかかった酔っ払いがぼんやりと見ていたが、男達に一瞥されると慌てて歩き去っていった。

 男達の一人が振り向いた。通りの向かいにも角に近い場所にも車が停まっている。ここから見えないところでは数十台のパトカーがサイレンとランプを切って集まっていた。

 男達は刑事だった。覆面パトカーを含めると既に百台近くがこの区域を完全に包囲している。

 指揮官らしい四十代半ばの刑事が、目の前の建物を見上げた。『アリノス』というビジネスホテル。二十階近い高さがある。

 刑事達はスーツの内側から拳銃を抜いてホテルのロビーに入った。深夜なのでフロント係一人だけだ。

 面食らっている若いフロント係に刑事が警察手帳を見せて尋ねた。

「警察だ。後藤信一と名乗る男がここに泊まっている筈だが、何号室か教えてくれ。午後十一時過ぎにチェックインした男だ」

 フロント係が台帳をめくる。

「ええっと……あの、315号室ですけど、その方がどうしたんですか」

「殺し屋だ。部屋のキーを貸してくれ」

 冗談のような台詞を刑事は大真面目に告げた。彼らの顔も緊張に引き締まっている。

 刑事達は二手に分かれ、階段とエレベーターを使って三階へ上がっていった。一階には警官が数名残り、ホテルの裏口にも別の隊が詰めている。

 三階の廊下に人の気配はなかった。刑事達は拳銃を片手に、忍び足でドアの番号を確認していく。

 315号に到着した。エレベーター組と階段組は合流し、十名近い人数になっている。

 指揮官の刑事が頷くと、別の一人がホテルのキーを差し込んだ。

 その瞬間、ドアを破って噴き出した爆風に刑事達は呑み込まれた。爆風は彼らを肉塊に変え更に壁を破り窓を割り隣の部屋どころかフロア全体を蹂躙していった。同じフロアの宿泊客は全員即死であったろう。凄まじい轟音と振動が二十階建てのビジネスホテルを揺るがせた。

 ホテルの外で待機していた警官達は、爆発した三階部分を呆然と見上げていた。ガラス片とコンクリート片が雨に混じって降り注ぐ。崩落した壁に潰されて一人が死んだ。

「ビルが、倒れるぞっ」

 誰かが叫んだ。爆発は大事な柱も破壊したらしく、建物の上部が不気味に傾いている。

 警官達が恐慌状態に陥ったその時、ホテルの地下駐車場から赤いカローラが滑り出してきた。運転席の男はサングラスをかけている。

「おい、あれ……」

 気づいた警官の一人がカローラを指差すが、次の瞬間には頭を後方に仰け反らせていた。額の中心に小さな穴が開いている。弾丸の開けた穴だ。

 サングラスの男は窓を開け、右手に拳銃を握っていた。カローラを急加速させ、左手だけでハンドルをさばきパトカーの間をすり抜けていく。警官達が急いで銃を抜こうとするが、次々と額や心臓に弾を受けて即死する。サングラスの男は車の運転と警官の射殺を超絶的なレベルで両立させていた。猛スピードで交差点を曲がる際に濡れた路面でタイヤがスリップするが、それも計算済みであったようにすぐに立て直して尚も加速する。ハンドルから手を離し、拳銃の弾倉交換を二秒で終わらせる。サイレンが街に響き始めたが、カローラの後を追うパトカーはない。何故なら運転席にいた警官達の大部分が、額を撃ち抜かれて死んでいたからだ。

 サイレンの音が、ビジネスホテル『アリノス』の倒壊する地響きによって掻き消された。寄りかかられた向かいのビルも半ば潰れ、死者は何百人になるだろうか。

 雨の中、一人の痩せた男が電柱の傍らにひっそりと立ち、地獄絵図を眺めて溜息をついていた。

 男は灰色の地味なスーツを着ていた。髪も服もずぶ濡れになっている。年齢は三十才前後であろうか。色白で優男風だが、俯きがちのその顔は陰気で不吉な雰囲気を漂わせていた。

「やはり、警察では無理ですか……」

 男は、ボソリと呟いた。

 倒壊したホテルの小さなコンクリート片が、男に向かって撥ねた。

 避けもしない男の胸を、コンクリート片は素通りしていった。

 男は、幻であったかのように消えた。

 

 

  二

 

「おや、雨ですなあ」

 狭い裏通り、半ば廃墟となったビルの四階にある黒贄礼太郎探偵事務所で、所長であり唯一の所員である黒贄礼太郎は呟いた。

 ポツポツと雨音が聞こえている。黒贄は作業を中断し、割れた窓ガラスの代わりに張っている段ボールの紙を少しめくって、天から降り注ぐ雨粒を確認した。

「あの……」

 陰気で弱々しい声に、黒贄はちょっと驚いた顔で振り向いた。

 扉の近くに、灰色の地味なスーツを着た男が立っていた。髪も服もぐっしょりと濡れ、足元に水溜まりが出来ている。細面の整った顔は病弱そうで、俯きがちに黒贄を見つめていた。

 切れかけた蛍光灯の下、彼の周囲には特に闇が蟠っているようだった。

「お客さんでしたか。気づきませんで申し訳ない。もしかしてずっと待っておられたのですかな」

 黒贄は苦笑しながら問い、ずぶ濡れの男は首を振った。その拍子に髪の雫が床に飛ぶ。

「いえ、今来たばかりです」

 入り口の扉を開閉する音はしなかったのだが。

「そうですか。まあ、どうぞ」

 黒贄はソファーではなく公園から盗んできたような木製ベンチを勧め、自分はこれまで没頭していた机の上の物体を抱えて横に放り投げた。

 それは、新鮮な人間の胴体であった。首と手足は見当たらないが、おそらくは若い男性であろう。切り裂かれ内臓を引き摺り出された腹部に、食事用ナイフとフォークが一本ずつ刺さっていた。食べていた訳ではなさそうで、切断された腸や肝臓の一部は床に散らばっていた。

 放り投げられた胴体は、棚の段の一つにピッタリと嵌まり込んで停止した。血が棚から滴っている。

「お取り込み中のところを邪魔してすみませんね」

 そう言って陰気な男はベンチに腰を下ろした。

「いえいえ、勤務時間中ですから依頼人の都合が優先ですよ」

 黒贄礼太郎は二十代後半から三十代前半と思われる長身の男だった。着古したような礼服はアイロンがけを怠ったままかなり経つだろう。ネクタイはしておらず、ワイシャツには点々と血痕が残っている。髪は自分で切っているのか左右不揃いで、彫りの深い整った顔は蝋のように白かった。眠たげな切れ長の目。薄い唇は常にあるかなしかの微笑を浮かべている。

 事務所には黒贄の座る椅子と木製の机、それに向かい合わせるように依頼人の座るベンチが配置されている。右隣の部屋はベッドや流し台があるようで、左隣の部屋へのドアは南京錠が掛かっている。唯一の窓は段ボールで塞がれ、四方の壁を埋めるように様々な仮面が飾られていた。溶接工のマスクや般若の面や特撮ヒーローのマスク、更にはパンティストッキングの切れ端のようなものもあった。それらの大部分は血痕らしき染みが残っていた。仮面の隙間に賞状らしきものが一枚貼ってあった。右の壁にはもう一つ椅子があり、そこにはよく磨かれた骸骨が座っている。棚の三段目にはさっき黒贄が放り投げた胴体が詰まっていたが、別の段には広口の瓶が置かれていた。防腐剤で満たされた瓶の中には眠っているような少女の生首が浮かんでいる。

「さて、それではまずお名前をお聞かせ願えますかな」

 黒贄が尋ねると、男は俯いたまま答えた。

「草葉陰郎と申します」

「ほほう。既に鬼籍に入っておられるようなお名前ですね」

 黒贄が面白そうに言うと、ずぶ濡れの男・草葉はあっさり頷いた。

「はい、五年前に死にました。享年三十一です」

 その途端、黒贄は椅子ごと斜め後方に跳び、部屋の右隅に体を押し込んで尻餅をついた。盾にするように椅子を前に捧げ持つ。

「どうされました、黒贄さん。あなたともあろう人が幽霊を怖がるのですか。……まあ、これまで無実の人を沢山殺してきたのでしょうから、怖れる気持ちも分かりますが」

 草葉は陰気な顔に少しばかり意地悪な笑みを浮かべた。

「い、いえ、べべっべ別に怖いという訳ではありませんよ。ただちょっと苦手なだけです。何しろ死んでいる人を更に殺すことなど出来ませんからね」

 黒贄は慌てて手を振ってみせるが、その頬が引き攣っているようだ。

「そ、それで、幽霊の草葉さんがどんな依頼に来られたのですかな」

 部屋の隅から動かぬまま黒贄は尋ねた。

「少なくとも、あなたを怖がらせに来た訳ではありません。実は私は生前は私立探偵をしていました。それで死後はあの世の皆さんの依頼で探偵業のようなものを続けているのです」

 草葉の説明に黒贄が片方の眉を上げた。

「ほほう、ご同業でしたか。しかし亡くなられてからも仕事をなさるとは、いやはや、生きていくのも大変ですが死んでからも大変なんですなあ」

「半分はボランティアのようなものです。お金など貰っても仕方がありませんし。それで、不憫な死に方をして成仏出来ずにいる人達のために復讐代行などもたまにやっています」

「復讐代行ですか、なるほど」

 草葉の力を見定めようとしているのか、黒贄が首を伸ばして幽霊探偵の姿を観察する。草葉は苦く笑った。

「私が死んだのは雨の日で、残念ながら雨が降っている間しか活動出来ません。それに物質的な働きかけは殆ど出来ないので苦労しています。見つからずに探索するのは得意なんですが」

「ふむ。それで依頼はあなたが引き受けられた復讐代行を更に私が代行する、ということですかね」

 それに直接は答えず、草葉は別のことを問うた。

「黒贄さんは『ビジネスマン』のことをご存知ですか」

「ほほう、ビジネスマンですか。全然知りませんなと言いたいところですがそのくらいは知ってますよ。忙しい人のことですよね」

 黒贄の自信満々の返事に、今度は草葉はニコリともしなかった。

「いえ、違います。それではただの英単語ですし、意味も間違ってます。本来のビジネスマンは実業家や商売人のことです。私が言っているのは裏の業界で『ビジネスマン』と呼ばれている人物のことです。以前は『パーフェクトマン』と呼ばれていましたが本人がその通り名を嫌ったそうです」

「ふうむ。裏の業界ですか」

 黒贄は考え込むように首をかしげる。

「その男の本名は不明です。常に複数の名前を使い分け、最近は主に後藤信一という名を使っています。推定年齢は三十代から四十代半ば、いつも人工樹脂製のマスクで変装していて素顔は誰にも晒しません。この三ヶ月間彼を追跡しましたが、独りでいる間もマスクを外しませんでした。指先の指紋も薬品で溶かしています」

「実はそのマスクが素顔という可能性はありますかね」

 大真面目な黒贄の冗談を無視して草葉は続けた。

「彼は暗殺から営利誘拐まで何でもこなしますが、自分で企画することはありません。全ては暴力団や大企業、テロ組織などの依頼で行います。彼の取る報酬はかなり高額ですが、これまで仕事を失敗したことがないため重宝がられています。また、顧客の裏切りは絶対に許しません。何度か政府や暴力団が口封じのため彼を始末しようとして、全て失敗し手痛いしっぺ返しを受けています。六年前の首相暗殺は彼の報復だと噂されています」

「まるで何処かの漫画みたいな人物ですね。それで、その『ビジネスマン』さんに復讐しようというのはどなたの依頼なんですか」

「依頼人は複数です。彼の仕掛けた爆弾によって亡くなった無関係の人達、殺人現場を偶然目撃して射殺された人達、逃走する彼の車に轢き殺された人達、彼に話しかけただけで殺された人達、彼を逮捕しようとして殺された警官達、百名以上の方が、彼が正当な裁きを受けることを望んでいます」

「正当な、裁きですか……」

 黒贄は何やら思うところがありそうだったが、それを口にせず草葉に別のことを質問した。

「警察の手は借りられたのですかな」

「これまでに四度、試しました。彼の行動や居場所を通報したりして。しかし、駄目ですね。全然」

 草葉は首を振った。

「『ビジネスマン』は自分の身の安全に関して、異常に鋭い勘を持っています。例えば四日前のことですが、彼が千葉で製薬会社社長を狙撃した夜、泊まったビジネスホテルの場所を私は警察に通報しました。百台以上のパトカーがこっそり駆けつけ、三百人以上の警官がホテルを包囲しました。しかし彼は寸前でそれに気づき、罠を仕掛けていたのです。踏み込んだ刑事達はC4の爆発に巻き込まれて即死し、彼は車を走らせてやすやすと包囲網を突破しました。この一件で死亡した警官と一般市民は五百二十四人になります」

「ふうむ。なかなか有能な人物のようですな」

 黒贄は低く唸って顎を撫でた。大量の死者に痛ましさを覚えているのではなく、単に男の手際に感心している顔だ。

「『ビジネスマン』の銃器の扱いは超常的と言ってもいいでしょう。彼の狙撃は常識を大きく逸脱します。何の変哲もないライフルに二倍以上の射程距離を発揮させ、しかも強風の中、一センチの誤差もなく標的に当てるのです。拳銃の扱いについても同様です。必ず額か心臓に命中させ、無駄弾は一発もありません」

「しかし、いけませんな。銃器に爆弾ですか。それでは一流の殺し屋になれても殺人鬼にはなれません」

「ええ、殺人鬼ではありません。殺し屋ですから。それで、『サンズリバーサイド』のことはご存知ですか」

「ははあ、あのサンズリバーサイドですか」

 黒贄は尤もらしく頷いてみせる。

「流石にご自分の市内のことは知ってましたか」

「いやそれが、全然知りません」

 さっきからこれを言いたかったのか、黒贄は満足げに微笑んだ。草葉が俯いた状態で上目遣いに黒贄を睨む。幽霊の恨めしげな視線であった。

「新しく三途川の近くに建設された総合ショッピングモールです。明日はオープン初日で、お祝いイベントには国会議員や知事も駆けつけます。数万人の買い物客でごった返すことでしょう。……そのサンズリバーサイドを丸ごと占拠しようという計画があるのです」

「ほほう」

「計画したのは過激派の『真狼会』です。既に何人かが作業員となってモールのスタッフに紛れ込み、下準備を済ませています。モールの八十ヶ所に爆弾を仕掛け、議員と知事の参加するイベント会場に二十余名が武装して乗り込む手筈になっているのです。彼らの目的は人質との交換に、獄中のリーダー門沢文治を取り返すことです。そしてこの大胆な計画を成功させるためにサポートとして雇われたのが『ビジネスマン』という訳です」

「なるほど、状況は分かりました」

 黒贄がやっと立ち上がり椅子に腰掛けて言った。ただし部屋の隅からは動いていない。

「それで、私は何をすればいいのでしょうな。真狼会の計画を防ぎ、『ビジネスマン』を成敗することですかな。念のため申し上げておきますが、私は殺人の依頼は受けませんよ」

「真狼会については必ずしも対応する必要はありません。私の受けた依頼は飽くまで『ビジネスマン』についてですから。大勢の人を平然と殺してきた彼に、絶望と恐怖を味わわせ、最終的に無力化して法の手に委ねさせること。これが私からあなたへの依頼であり、私の依頼人達の願いです」

 そう告げると草葉は立ち上がり、濡れた手で一枚の紙片を取り出して机の上に置いた。紙には簡単な地図と住所が記されているようだ。

「報酬は三百万です。依頼人の一人が生前に隠していた財産になります。誰にも見つからず、今も山中に眠っているそうです」

「分かりました。引き受けましょう」

 それでも机に近づかず、黒贄は承諾した。

「ありがとうございます」

 表情を変えずに草葉は礼を言う。

「くじを一枚引いて頂けますかな。その箱の中にありますので」

 机の上に、一辺三十センチほどの紙箱がある。その上面は丸い穴が開き、折り畳んだ紙片が何十枚も入っている。

 草葉は箱の中に右手を入れ、一枚を選んで机に置いた。幽霊でもそのくらいは出来るらしい。

「では、よろしくお願いします。天気予報では明日も雨らしいですから……」

 草葉は一礼すると、その姿が次第に薄れていった。

 幽霊が完全に消えたのを確認して、黒贄はやっと机に歩み寄った。くじの番号は六十五となっている。

 黒贄は左の部屋に入り、六十五の札のついた凶器を持って現れた。刃渡り一メートル五十センチの長大な包丁だった。日本刀に似た形状だが刃は弾力があるようで、刃先がゆらゆらと揺れている。

 それは、マグロの解体に使われる、マグロおろし包丁であった。

 気に入った凶器に当たったためか、黒贄は上機嫌に鼻歌を歌い出したが、机の上を再度確認して彼の顔が凍った。鼻歌が止まる。

 隠し財産の地図は、水に濡れてインクが滲み、何と書いてあるのかさっぱり分からなくなっていた。

 

 

  三

 

 同じ夜。

 首借町は血乃池の隣で、歓楽街として栄える地区だ。この町には五十以上の暴力団がひしめいて鎬を削っている。毎日のように殺人事件があり、人の出入りの激しい町だ。そして、警察の力が最も及ばない町とも言える。

 その首借町の大通りに面したテナントビルの一室に、十人近い男達が集まっていた。スーツを着ている者も普段着の者もいるが、全員が一般人とは異なる雰囲気を漂わせていた。暴力という名の逸脱。低いテーブルにはブランデーの瓶が並んでいるが、まだ封は切られていない。

「辛気臭い雨ですね。この分だと明日も雨だ」

 窓際に立つ若い男が闇に降る雨を睨んで言った。

「嫌な日になりそうだ。多分、大勢死人も出るだろうな」

 別の男が呟いたが、ソファーに座るスーツの男が笑みを浮かべながら首を振った。彼がこの中では一番の年配だが、それでも精々四十代の前半だろう。

「それでも明日の夜は祝杯を挙げられるさ。門沢同志と一緒にな。『ビジネスマン』がついていれば万に一つも負けはない」

 男は本気でそう信じているようだった。

「伏見同志。その『ビジネスマン』ですけど、そんなに凄い奴なんですか」

 最初に雨のことを喋った若い男がソファーの男に尋ねた。ソファーの男・伏見は重く頷く。

「ああ、凄い。超人というのはああいう男のことだろうな。明日、交渉が纏まらずどんなアクシデントが起きようとも、彼がいれば切り抜けられるだろう。……もうじきここに着く筈だが、念のためもう一度言っておく。『ビジネスマン』は危険にひどく敏感だ。彼の前で絶対に、怪しい真似はするな。不用意にポケットへ手を入れたり、彼の背後で素早く動いたりするな。冗談でも絶対に、銃口を彼の方には向けるな。俺は、暴力団の組長が至近距離で迂闊に日本刀を抜き、間髪入れずに射殺されたのをこの目で見た。四十人近い組員がその場にいたが、皆、声一つ上げられなかった」

「つまり、臆病ってことじゃないですか」

 若い男がからかうように言ったが、その表情は緊張でぎこちなくなっていた。

「ああ、臆病だな。ただし、常人とは次元の違う臆病さだ。『ビジネスマン』は生き延びるためには手段を選ばない」

 伏見の言葉の後は、暫く重い沈黙が落ちていた。雨の降る音が微かに聞こえている。

 午後九時五十分。部屋の扉がノックされた。

「同志。後藤さんが来られました」

 ドアの向こうからの声に、室内にいた全員が緊張に身を固くした。

「……入ってもらえ」

 伏見は立ち上がって応じた。隣に座っていた男も慌てて立つ。

 ドアが開き、三十才くらいの男が入ってきた。ジャケットを着たその男は何故か戸惑いの表情を浮かべている。

 それから少し間を置いて、サングラスをかけた男が静かに入ってきた。羽織ったコートは雨に濡れ、点々と雫を垂らしている。左手にはアタッシュケースを提げていた。

 『ビジネスマン』後藤信一は、応対の男をまず先に入らせて中の様子を窺ったのだ。

「後藤さん、よく来てくれました。私が伏見です」

 伏見が愛想笑いをして右手を伸ばした。握手を求めるその手に後藤は応じない。

「失礼だが他人に利き腕を預けることは出来ない」

 後藤は無表情に告げた。感情を含まない、呟くような口調だった。

 伏見は慌てて右手を引っ込めた。

「あ……いえ、こちらこそ失礼しました。どうぞ、まずはおかけ下さい」

 伏見の示したソファーに、後藤はすぐには座らなかった。ソファーの後ろに立つ数人を指して彼は言った。

「済まないが、私の後ろに人を立たせないで欲しい。それから作業服の君、ポケットのナイフから手を離してくれないか」

 おそらくは無意識の癖だったのだろう。壁際にいた作業服の若い男は、慌てて尻のポケットから手を抜いた。

 その瞬間、後藤が右手に拳銃を握り、銃口を作業服の男の額にポイントしていた。彼が拳銃を抜いたところを誰も見なかった。

「ひっ、ちょっ……」

 作業服の男は自分に向けられた拳銃を見、それから何も握っていない自分の右手を見て、ヘナヘナと床に崩れ落ちた。

「失礼。ポケットから手を抜く時はゆっくりやってくれ」

 後藤は変わらぬ口調でそう言って、拳銃をスーツの内側に戻した。ソファーの後ろに立っていた男達は、そそくさと脇へ動いた。

 それで漸く、後藤はソファーに腰を下ろした。安堵の息をついて伏見も座る。

 向かい合わせになった後藤に、伏見はブランデーを手に取って言った。

「一杯やりながら明日の段取りについて話しましょう」

 若い男がグラスの準備をしている。

「失礼だが酒はやらないし、食事も飲み物も自分で用意している。計画の詳細をまずは確認させてくれ」

 『ビジネスマン』後藤信一の人工皮膚の顔は、最後まで無表情だった。

 

 

  四

 

 翌日の空はやはりどんよりと曇り、陰鬱な雨を落とし続けていた。

 隣市との境をなす三途川は雨のため増水し、いつもにも増して荒れ狂っている。濁った赤い水に時折死体らしきものが浮き沈みしていた。この間の事件で崩れ落ちた三途橋は歩行者だけが通れる仮設の吊り橋になっているが、渡る者は滅多にいない。

 その三途川沿いに、巨大総合ショッピングモール『サンズリバーサイド』があった。八階建ての広大な屋内に流行の服飾品から日用雑貨、CDショップや大型本屋までバラエティ豊かなテナントを構えていた。映画館やボーリング場も組み込まれ、屋上にはテニスコートなども並んでいた。建物と三途川の間にある広場にはライブやイベントのためのステージが用意され、二千人以上の観客が収容出来るようになっている。ただし今日は雨のため、広場で予定されていたイベントは八階のホールに移された。

 サンズリバーサイドが午前十時にオープンすると、記念セールを待ち構えていた大勢の客が雪崩れ込んでいった。店員達が愛想笑いを浮かべて同じ挨拶を繰り返し、練習の成果を見せる。どの店にも人が溢れ返り、人込みの中を窮屈そうに客達は泳いでいた。

 非常事態が勃発したのは午前十一時十五分。八階ホールで県知事や国会議員やタレントがステージに並び、オープニングセレモニーが行われていた時だった。

 千二百人ほどいた観客の中から七、八人の男達がいきなりステージに上がり込んだのだ。戸惑い顔の司会者の前で、男達はスーツの内側やバッグの中から拳銃を取り出した。

 悲鳴が上がったのは、男達のうちリーダー格らしい男が天井に向けて発砲した後だった。男は拳銃片手に、司会者からマイクを奪い取った。

「命が惜しければ騒ぐな」

 真狼会の副リーダー・伏見はステージ上の政治家やタレント達と客席の老若男女に告げた。彼の口調は冷静だったが、有無を言わせぬ厳しさが込められていた。

 ホールには二十名近い警官が詰めていた。ステージ脇や壁際、出入り口に控えていた彼らが慌てて腰の拳銃を抜こうとする。

 立て続けに銃声が鳴った。リズミカルだがフルオートではなく、一秒に三回ほどのペースで。

 散らばっていた警官達の全員が、頭を撃ち抜かれて倒れた。動揺した客達が更なる悲鳴を上げたが、伏見の警告射撃で押し黙る。政治家達は青い顔をして、女性タレントは腰を抜かして尻餅をついていた。

 警官を皆殺しにしてみせたのは、ホール側壁の高い場所にある小さな客席に立つ男だった。今日は使われていなかったその場所で、男はサングラスをかけロングコートを羽織った姿で、銃身が短めの自動小銃を構えていた。

 『ビジネスマン』後藤信一は流れるような素早い動作で弾倉の交換を済ませた。スーツが僅かに膨らんで見えるのは下に防弾チョッキを着込んでいるのかも知れない。

 そんな後藤を見上げ、伏見はマイクを持った方の手を上げウインクしてみせた。後藤の反応はやはりない。拳銃を持った方の手を上げていたら伏見は死んでいたかも知れない。

 別の男達が出入り口に詰め、ひとまずホール内の制圧を済ませると、千人を超える人質の見守る前で伏見は県知事に言った。

「携帯電話を貸してくれ。首相官邸に電話しなくちゃならんからな」

 

 

 黒贄礼太郎はサンズリバーサイド地下二階店舗の更に下、水道管や電気配線や換気管が並ぶスペースにいた。壁は剥き出しのコンクリートで、天井は一メートル八十センチほどしかなく、黒贄は腰を屈めている。所々につけられた蛍光灯が淡く照らしている。

 客が入れぬ、スタッフも滅多に入ることのないこのスペースで、黒贄は柱に括りつけられた約二十センチ四方の機械を前に腕組みしていた。右手には百五十センチのマグロおろし包丁を持っている。

 機械の小さなパネルには時刻がデジタル表示され、何本ものコードが見えている。機械の半分は、羊羹のような長方形の箱で占められていた。

「C4ですね。強力なプラスティック爆弾です」

 機械を覗き込み、草葉陰郎が言った。素早く黒贄が飛びのいて草葉との距離を取る。

「時限装置はまだ作動していないようです。リモコンで起爆するようになっているのではないでしょうか。このフロアだけで二十ヶ所ほど仕掛けられています」

 草葉はやはりずぶ濡れで、絶え間なく雫が滴っている。

「ふうむ。で、爆弾処理の方法はご存知ですかな」

 黒贄が問うと、草葉は首を振った。

「いえ、残念ながら。黒贄さんはご存知ですか」

「私も現代兵器は担当外でして。それにしても生前は探偵をやっておられたというのに爆弾の処理法をご存じないとは意外ですな」

「そう言うあなたも探偵ではありませんか」

「あ、そうか。私も探偵でした」

 黒贄は顔を輝かせた。

「ということは私は爆弾処理法を知っているのですな。安心安心」

「いや、ちょっとその論理は……」

「おりゃズッパリ」

 草葉の制止を無視して、黒贄は百五十センチのしなやかな刃を爆弾装置に突き込んだ。

 

 

 八階のホールまで伝わった不気味な地響きに、過激派の男達は顔を見合わせた。十数名がスーツや普段着姿に銃を持ってホールに詰めている。他のメンバーは建物内の別の場所に詰めているか、ホールの観客に紛れているのだろう。

 知事の携帯電話を使って首相官邸に要求を述べていた伏見が、「すぐかけ直す」と言って電話を切った。仲間の一人を睨む。

「爆弾の暴発か」

 眼鏡をかけた男が慌てて反論した。

「そんな手抜き製作はしてない。きっと誰かが爆弾を見つけて、無理に解体しようとしたんだ」

「簡単に見つかる場所には置くなと言ったぞ」

 伏見の冷たい声に、若い男は肩を竦めるだけだ。

「爆発地点はここから南四十五メートル、地下二階かその下だ」

 指摘したのはサングラスの後藤信一だった。彼は床に伝わる振動と爆発音だけで、場所を推測したらしい。彼は今ステージ横の壁際に立ち、自動小銃を右手に握っていた。

 伏見は少し考えてから自分の携帯電話を取り出した。

「とにかく、収拾をつけよう。客達が驚いているだろうからな。人質は多いに越したことはない」

 千二百人の客達を前に、伏見はリストの中から誰かを選んでダイヤルした。五秒ほどで相手が出たようだ。

「伏見だ。場内アナウンスさせろ。『今の轟音はアトラクションの一つです。これからも色々なイベントが待っていますのでどうぞお楽しみに』だ。……ああ、そうだ。爆弾の一つが暴発したらしい。客にパニックを起こさせるな」

 相手はアナウンス室か監視室を制圧した仲間らしかった。

 やがて、ホール内にも若い女性の声でアナウンスが届いた。妙に大きな音量だった。

「皆さん、テロ、テロリストです。急いでお逃げ下さい。テロリストがギャッ」

 銃声と悲鳴がスピーカーから響き、そして、何も聞こえなくなった。ホールの客達がどよめいた。

「チィッ」

 伏見は唇を噛んだ。『ビジネスマン』後藤は無表情のまま動かない。

 急いで携帯電話を頬に当て、忌々しげに伏見は告げた。

「すぐアナウンスしろ。『テロリストが爆弾を仕掛けました。建物から絶対に出ないで下さい。出口に近づくと爆弾が爆発します』だ」

 少しして、同じ内容のアナウンスが男の声で流れた。その間、伏見はポケットからリモコン装置を取り出している。眼鏡の男が図面を開いてみせた。モールの内部構造を示す図面に、赤いマジックで八十近い点が打たれている。それぞれの点には番号が振ってあった。

「どうだ。客達は大人しくしてるか」

 伏見は携帯に尋ね、そして、渋い表情になった。

「なら仕方がないな。デモンストレーションが必要なようだ」

 眼鏡の男が広げた図面を見ながら、伏見はリモコンのボタンを押して番号を合わせ、最後に赤いボタンを押した。

 ドズンという低い地響きが、ホールにまで伝わってきた。観客達が息を止めた。

 北の出入り口、ゴミ箱の中に隠されていた爆弾が爆発したのだ。モールから逃げ出そうと押し合いへし合いしていた客達が一瞬で肉塊に変わり、近くの宝石店と高級ファッション店が粉々になっていた。

 勿論、八階のホールからそれは見えないが、何が起こったのかは、その場にいる誰もが理解していた。

 伏見は続けて別の番号を選び、起爆ボタンを押した。今度は東側で爆発が起きる。建物が不吉に揺れる。伏見は何度も、それを繰り返していった。次第に彼の瞳に、喜悦のようなものが浮かんでいく。階下の悲鳴が、ホールにまで届いていた。

 十七回、それを繰り返し、伏見は漸くリモコンをポケットに戻した。

「監視を続けろ」

 携帯の相手に告げて切り、別の相手に繋ぐ。

「伏見だ。計画Bに変更だ。そっちのグループは四階の階段とエレベーターを押さえて客を逃がすな。それでまだ一万人以上の人質を確保出来る」

 更に別の相手に繋ぐ。

「伏見だ。念のため、二人で配管フロアをチェックに行け。何者かが爆弾を見つけていじったらしい」

 仲間への連絡を終えて、伏見は再び知事の携帯電話を取り出した。

「こんな馬鹿なことをして……成功すると思っているのか」

 六十代の県知事が震え声で訴えた。彼ら重要人物はステージに立たされたままだ。

「成功するさ。お前達のような太った豚共とは違う」

 事実、県知事の腹はかなり弛んでいた。

 それに反論したのは県知事ではなく、剥げ頭の国会議員でもなく、二十代後半と思われる若い職員だった。

「あなた方はこの都市のことを分かっていない。どうせここの住民ではないか、なって日が浅いんでしょう」

 職員の左胸には『市長代理 経理 前川』という粗末な名札が飾ってあった。このイベントに市長の代わりに出席していたらしい。

「ほう、どう分かってないと言うんだ」

 伏見が前川の胸に銃口を向ける。しかし前川は全く動じなかった。

「八津崎市では人間の命など二束三文以下です。人質など通用しませんよ。うちの市長なら絶対に要求には応じませんし、機動隊を強行突入させるか放置するかでしょう」

「人質が知事や国会議員だとしてもかい。こちらの要求も大したことじゃない。十億円と、同志一人の解放だ。天秤にかければどちらが大事か分かるだろう。市長などの介入出来ることじゃないぞ」

 市職員前川は、しかし皮肉な笑みを浮かべて首を振った。

「無駄ですね。市長が横槍を入れれば政府は逆らえませんよ。総理大臣だろうがローマ法王だろうが恐怖の大王だろうが、うちの市長には逆らえないのです」

「八津崎市長って奴はそんなに凄いのか。だが、その市長はお前を助けてくれるのかい」

 伏見は前川に歩み寄り、その額に銃口を当てた。大勢の人質が見ている手前、ここで相手を屈服させておかないとまずい、そんな焦りが彼の顔に見えていた。

 対して、前川の瞳に浮かんだのは、恐怖ではなく、狂気、であった。

「いえ、市長は助けてなどくれませんよ。言ったでしょう、人の命など二束三文以下だと。どうせ僕なんていつ死んだっていいんだ。真知子に振られたんだから、生きてたって仕方がないんだ。真知子おおおおおおお」

 叫ぶなり前川は伏見の拳銃を掴み、銃口を自らの口に咥え込んだ。伏見が驚いて引き抜こうとするが、前川は伏見の指を押さえつけて無理矢理引き金を動かした。

 篭もった銃声がホールに響いた。

 前川の眼球が裏返った。その後頭部から血と骨と脳の破片が飛び散っていくのを、伏見は呆然と見ていた。国会議員の一人のスーツにそれがかかって、議員は細い悲鳴を上げた。

 口から血みどろの銃口が抜き出されると、前川は、驚くべきことに、脳の欠片の混じった唾を伏見に向かって吐きつけた。

 頬に唾がかかっても、前川がステージ上に崩れ落ちてただの死体となっても、伏見は絶句したまま動かなかった。

「ふ……伏見さん……いや、同志……」

 若い仲間が遠慮がちに声をかけ、漸く伏見は夢から覚めたように仲間を振り返った。そして観客席の人質達を見た。

 千二百人の八津崎市民は、一様に恐怖の表情を浮かべて押し黙っていたが、その目の奥で底光りする異様なものが仄見えていた。

 まるで、自分達が死ぬためだけに生きる存在であることを、自覚しているような。

 過激派達の間に広がる不気味な緊張を打破したのは、やはり後藤であった。

「予定通りには行かないな」

 無感動に言って自動小銃を左手に持ち直し、彼は右手で拳銃を抜いた。

「いざという時に重要な人質に逃げられると困る」

 彼は壁際から一歩も動かぬまま、十メートル以上離れた人物に発砲した。

 一秒三発の速射で、県知事と国会議員全員の両膝が正確に撃ち抜かれていた。彼らは蹲り、砕けた膝を抱えて呻き声を洩らす。

「血止めをしてやれ」

 後藤は雇い主達に告げた。

 議員達と一緒にいたワンピースの女に後藤は尋ねた。

「お前も議員か」

 女は二十才前後かそれ以下だろう、可愛らしい顔を恐怖に歪め、震え声で答えようとした。

「い、いえ……あの、私は、アイドルグループの……」

「なら重要人物ではないな」

 後藤の放った銃弾は女の膝ではなく、女の額の中心をぶち抜いていた。瞬間、女の顔が衝撃で醜くひしゃげ、後頭部から脳漿を噴いて倒れた。

「十人殺す。死体をこの階から外の広場まで投げ落としてくれ。今日はテレビの取材班が来ていた筈だ、撮影してくれるだろう。政府には、門沢氏の解放と金が十分遅れるごとに十人殺すと伝えるがいい」

 素早く弾倉を交換すると、後藤は淀みなく喋りながら客席の前列にいた人達を次々と射殺していった。

「わ、分かった。そうする」

 伏見が青ざめた顔で頷き、仲間達に指示をする。仲間達が渋々死体を引き摺って、ホールの外へ去る。

 それを見守っていた後藤が、突然壁際から離れて出入り口へと走り出した。

「ヘリの音だ。近づいている」

 場を仲間に任せてついてきた伏見に後藤が告げる。ホールを出ると広いベランダ式の廊下だ。腰より少し高い程度の柵から先は外の空間で、どんより濁った空に陰鬱な雨が降り続けていた。

「何処にヘリが……」

 後藤は答えず、サングラスを外して自動小銃を前方の一点に向けて構えた。冷たく昏い瞳が覗く。伏見もその方向へ目を凝らした。

 やがて黒雲に紛れながらも、高層ビルの陰から一台のヘリコプターが姿を現した。

「報道ヘリだな。側面と底面にテレビ局の名前がある」

 まだかなり距離があったが、後藤の目は恐るべき精度を持っているようだ。この時点でもヘリのプロペラ音は届いていない。後藤はどういう耳をしているのか。

 乾いた銃声に、伏見は目を瞠った。

 後藤が発砲したのだ。

 何処に命中したのか、ヘリの姿勢が傾き始めた。斜めになり、一旦揺り返したかと思いきやそのままめくれ返るように落下していく。サンズリバーサイドのこの位置からは見えなくなったが、やがて爆発音と共に黒煙が昇り始めた。

「な、何故……」

 呻く伏見に、サングラスをかけ直して後藤は答えた。

「ヘリはまずい。報道機関のふりをしていても狙撃手が乗っている可能性がある。また、突入部隊を屋上に降ろすこともあり得る」

 続いて後藤は前の広場を見下ろした。既に仲間達が投げ捨てた十個の死体が、手足を異様な角度に曲げて転がっていた。見物人は殆どいない。

 カメラを担いだ男の前でリポーターらしい女が、死体を指差しながら何か喋っていた。

「報道陣がいるな」

 伏見が呟く。

「彼らにも、建物内に入られて映されるのはリスクを伴う」

 後藤は自動小銃を向けて四発発砲した。カメラマンとリポーターの両足が砕かれ、彼らは悲鳴を上げる。カメラが建物の八階へ向けられた時には、既に後藤はホールに戻っていた。

「早く交渉を進めてくれ。もし政府が拒否すれば人質を皆殺しにして脱出すればいい。それで次回の交渉はやりやすくなるだろう」

 淡々と告げる後藤に、伏見は知事の携帯を使おうとして、ふと、その手を止めた。躊躇いがちに、しかし、言わずにはおれないというように、伏見はその言葉を口にした。

「後藤さん……あんたは、悪魔のような人だ」

「たまにそう言われるが」

 後藤は人工樹脂の顔を眉一つ動かさず答えた。

「自分が生き残るために、全力を尽くしているだけだ」

 その時、県知事の携帯ではなく伏見の携帯が鳴った。メロディは『エリーゼのために』だった。

 表示に「作田」となっているのを確かめ、伏見は通話ボタンを押した。

「伏見だ。配管フロアはどうだった」

 そう尋ね、伏見の顔がやがて怪訝なものに変わった。

 携帯電話から聞こえてきたのは、プヒュー、プヒュー、という、何処かから空気の洩れているような音だったのだ。

「おい、作田……」

 不気味な音は遠ざかり、陰気で頼りなげな声がした。

「すみません。後藤さんと代わって頂けますか」

「誰だ、お前は」

 眉をひそめる伏見から、後藤は黙って携帯電話を取り上げた。

「聞き覚えのない声だが、誰だ」

 後藤が問うと、相手の声は苦笑しているようだった。

「あなたの声は聞き慣れていますよ、後藤さん。いえ、佐藤さんとお呼びした方がいいですか。それとも鈴木さん、いやその前の木村さんですかね」

「……。誰だ」

「草葉陰郎という儚い存在ですよ。あなたに殺された罪もない人達から、復讐代行を頼まれています」

 後藤の顔は、やはり微動だにしなかった。

「どうやって私に復讐する」

「黒贄礼太郎さんという凄腕の探偵に助っ人を頼みました。今喋れる状態じゃないので電話を代わることは出来ませんが、自分で修復していますからもう少し待って下さいね」

 後藤は自ら通話を切った。伏見が不安げに尋ねる。

「何者だったんだ」

「黒贄礼太郎という探偵を知っているか」

「……いや、知らないが」

 伏見は首を振った。市職員の前川が指摘したように、八津崎市に来てさほど日が経っていないらしい。

「草葉陰郎という男は」

「知らんな」

「そうか」

 携帯電話を伏見に返し、後藤は恐るべき指示を告げた。

「念のため、配管フロアに仕掛けた爆弾を全部爆発させてくれ」

「馬鹿な……作田達もいるのだぞ」

 伏見は息を呑んだ。

「もう死んでいるだろう。私のアドバイスを受け入れられないのなら、契約は破棄させてもらう」

「わ、分かった。やる」

 伏見の額に冷や汗が浮かんだ。

 いつの間にか、主従関係が逆転していた。

 

 

  五

 

 地下の配管フロア、約二十ヶ所に取りつけられたプラスティック爆弾が次々と爆発した。サンズリバーサイドの建物は激しく揺れ、地下二階から地上一階までの床が大部分抜け落ち、店舗と残っていた客達が重なり落ちて潰れていった。その前の出入り口の爆破と合わせると数千人が死んだであろう。

 客の人質を四階フロア以上に限ったのは、一階の出口が多数あり管理しきれず、低い階から飛び降りて逃げる者もいることを考慮したのだろうが、一階の床が抜け崩れた現在、管理は更にやりやすくなっている。

 ただ、階段やエレベーター前に銃を構えて詰める過激派達は、一様に戸惑いの表情を浮かべていた。

 人質であることを理解している筈の客達の大部分が、今も平気で買い物を続けているためだ。レストランでは前の廊下に射殺死体が転がっているのに、親子連れが幸せそうに昼食を摂っている。若いカップルが談笑しながら死体を踏んでいく。別の客などはドサマギの持ち逃げを期待していたのか、パニックが起きていないことを知って落胆していた。

 そして、午後になった。既に八十人前後の死体が広場に転がっていた頃、事態は動き出した。

 百人近い機動隊がサンズリバーサイドを包囲したのだ。指揮官は三十代半ばの太った刑事で、パトカーの陰から恐る恐る建物を覗いていた。

「署長がまだ修理中だから、副署長の俺が貧乏くじを引かされて……」

 副署長の愚痴は中断された。後藤信一の放った銃弾が彼の頭部を破裂させていたのだ。

 サングラスを外した後藤は屋上を素早く移動し、機動隊を片っ端から射殺していった。車両の陰に隠れた者は車両ごと撃ち抜かれる。殉職が多いため層の薄い八津崎市の機動隊は、あっという間に恐慌状態となり逃げ散っていく。それを一人も逃さず、後藤は狙撃を続けた。

 残っていた警官の一人が携帯式ロケットランチャーを屋上に向けて発射した。すぐに気づいた後藤が自動小銃を構え直す。一発の銃弾がミサイルの先端を破り、空中で爆発させる。次の瞬間にはランチャーを担いだ警官は射殺されていた。

「む」

 後藤は陰鬱な目を細めた。数秒間、耳を澄ましていたようだが誰もいない屋上を北へと駆ける。

 雨空に赤い点が生じ、それが恐るべきスピードで大きくなってきた。後藤は目を更に細めた。無感動だった瞳に決死の光が湧いた。

 それは、時速八百キロで飛来する長距離巡航ミサイル・トマホークであった。

 後藤は引き金を引いた。一度、二度。

 赤い点がはっきりした形になる前に、それは破裂して小さな欠片を散らしていった。

 全長六メートル強のミサイルを、一センチにも満たない銃弾が貫いたのだ。一キロ以上の距離で。

 更に二発、連続してトマホークがやってきた。今度はさっきより余裕を持って、後藤は自動小銃で撃ち落とした。

 正に、後藤信一は、怪物だった。

 政府の攻撃はここで、一旦途切れた。

 数十分が過ぎ、百五十人の潰れた死体と国会議員の片腕が広場に積まれた頃、携帯電話で話していた伏見の顔に血の気が戻ってきた。

「やっと政府が折れた。門沢同志と十億、間違いなく連れてくるそうだ」

 過激派達は歓声を上げた。後藤だけはいつもの冷静さを保っていた。

 そして、二十分後。

 降りやまぬ雨の下、黒いセダンがサンズリバーサイド前の広場に乗り入れた。転がる死体を幾つか轢き潰して中央に停車する。

 伏見は数人の仲間と共に、八階ホール前のベランダ式廊下からそれを見守っていた。期待に顔を輝かせている彼らと違い、並んで立つ後藤は無表情だ。

 セダンのドアが開き、数人の男達が雨粒に身を晒した。スーツの男達に挟まれ、両手に手錠をかけられて立つのは四十代半ばの痩せた男だった。左頬に長い傷があり、それは欠けた左耳まで続いている。男の瞳は野獣のようにギラギラと光っていた。

「門沢同志」

 伏見達が喜びの声をかけた。門沢と呼ばれた男は応えるように両手を上げた。

「いい加減、この手錠を外せよ」

 真狼会リーダー・門沢文治がスーツの男に言った時だった。

 サンズリバーサイドの崩れた一階から、一人の男がよろめき出るところだった。門沢がギョッとしたようにそちらを見る。ベランダにいる伏見達からは男の顔は見えない。

 男は黒の礼服を着ていた。全体に白い埃をかぶり、所々が破れている。歩き方からすると左膝が砕けているようだ。左腕も妙に短い。右手には日本刀に似た刃物を持っていたが、中途から折れてしまい刃渡りが五十センチほどしかない。男の首が、微妙に傾いている。

 礼服の、背中の破れ目から、背骨が剥き出しになっていた。

「な、何だ、お前は……。作田、いや、作田じゃ、ないのか……」

 門沢の声は震えていた。

 礼服の男が返事をした。いや、それは声ではなく、プヒョヒュラパヒュー、という、空気の洩れるような音だった。

 歩み寄る礼服の男に、スーツの男が一礼して告げた。

「黒贄礼太郎様。市長より指示がありまして、全てをあなたにお任せするとのことです」

 再びプヒョヒュラパヒュー、という音がして、スーツの男の首が飛んでいた。

 礼服の男の右腕が水平になり、日本刀に似た刃物に新しい血がついていた。

「お、おい、どういうつもりだ」

 門沢が慌て出した。残りのスーツの男達はそそくさと逃げ散っていく。伏見達は唖然として見守るだけだ。後藤が自動小銃を構えた。

「お、手錠を、手錠を外せと……」

 逃げてしまったスーツの男達を門沢が目で追った隙に、礼服の男の刃物が閃いた。ほぼ同時に銃声が響いた。

 門沢の両手首が、切断されて床に落ちた。手錠も抜け落ちる。

「うひゃあああっ」

 両腕の断端から血を噴きながら、門沢が悲鳴を上げる。階下から拍手と歓声が上がった。客達がベランダから見物していたらしい。

 礼服の男の後頭部に赤い穴が開いていた。後藤の狙撃によるものだ。

 しかし礼服の男は動いた。今度は刃が門沢の足を薙ぎ、両足首があっけなく切断される。

「あひいいいっ」

 倒れ込む門沢の首筋を礼服の男の左手が掴んだ。猫でも摘まむように軽々と持ち上げる。手足の先から血を流しぐったりしてきた門沢を盾に、礼服の男が漸く建物の方へ向き直った。

 黒贄礼太郎の顔は、別人のものになっていた。若い粗暴な印象の顔だが肌に血の気がなく、だらりと口を開いたその姿は死人を思わせる。後藤の銃弾が抜けたため、鼻が大きく爆ぜている。

「さ、作田……」

 伏見が呻くように呟いた。配管フロアに様子を見に行かせ、そのまま行方不明になった仲間。

「首から上だけだ。この男は作田さんの生首を、自分の胴体にすげ替えている」

 後藤の声が僅かに緊張していた。

 黒贄の首筋に水平の傷が走り、木綿糸の粗い縫い目がそれを繋いでいた。

 黒贄は、爆発で吹き飛んだ自分の頭を、他人の頭で代用したのだ。

「馬鹿な。それで生きてる筈がないだろう」

 伏見の反論に、後藤が決定的な事実を示した。

「少なくとも動いている」

「プヒョヒュラパヒュー」

 黒贄の首の傷口から、吐息が奇妙な音色となって洩れた。気管をうまく繋げられなかったようだ。

 マグロおろし包丁を、黒贄は門沢の背中に突き刺した。折れた刃の先端が門沢の腹を破って現れる。グリリ、と、刃が抉り回され、門沢が更に高い悲鳴を上げた。痛みのため胴体が芋虫のようにうねる。

「た、助けないと……」

 伏見は言うだけで動けない。後藤が再び発砲する。銃弾は門沢の横を掠め黒贄の左胸を貫いた。礼服に開いた穴から鮮血が滲むが、他人の生首を繋げた黒贄礼太郎の動きは止まらない。

「プヒョヒュラパヒュー」

 門沢を八つ裂きにしようと包丁をまた振り上げる。作田の生首の濁った目は、絶対零度の虚無を湛えていた。

 後藤がまた撃とうとしたが、伏見が慌てて手を伸ばした。

「よせっ門沢同志に当たる……あ」

 伏見は凍りついた。右手に握った拳銃が後藤に向いてしまったことに気づいたのだ。

 後藤はすぐに反応した。自動小銃の銃口が翻り、伏見の顔の中心に穴が開いた。後方へ脳と骨片が散っていく。

「あわ、伏見同志っ」

 過激派の仲間達が反射的に銃を後藤へ向けようとして、次々に射殺され倒れていく。

「プヒョヒュラパヒュー」

 広場からの奇妙な音に、後藤は素早く向き直った。

 細められていた後藤の目が、大きく見開かれた。

 血みどろの肉塊が八階に向かって、凄い勢いで飛んでくるところだった。黒贄は、瀕死の門沢を後藤に投げつけたのだ。

 後藤が咄嗟に撃った弾は、門沢の頭部をぶち抜いて広場の黒贄の胸に突き刺さっていた。

 門沢の死体はベランダの後藤を僅かに逸れ、コンクリートの柵に激突した。血みどろの死体が潰れた死体に変わり、ベッタリと貼りついた。

「プヒョヒュラパヒュー」

 黒贄が跳躍した。左膝が砕けているにも関わらず、助走なしで八階のベランダまで届いた。恐るべき黒贄の筋力だ。

 だがその時には、後藤はホール内に逃げ込んでいた。

「プヒョヒュラパヒュー」

 黒贄が悠然とそれを追い、ホールの入り口をくぐった時、大量のプラスティック爆弾による爆風が黒贄を押し飛ばした。過激派と人質千人分の血と肉片が建物の破片と混じって周囲に吹き飛んでいく。派手なイベントに階下の客達は盛大な拍手を送った。

 寸前に建物を脱出した後藤は、隣のテナントビルの屋上を転がっていた。サンズリバーサイドから跳躍してぎりぎり届くことを、後藤は前もって知っていたのだろう。彼は駆け足でビルを降り、駐車場に確保していたスポーツカーに乗り込んでエンジンをかける。

「プヒョヒュラパヒュー」

 後方から届いた音に、後藤はビクリと身を震わせた。前面を血に染めながら駆けてくる黒贄の姿がバックミラーに映っている。作田の生首は殆ど原形を留めていない。

 後藤はアクセルを踏み込んだ。猛スピードで車道に飛び出す。

「プヒョヒュラパヒュー」

 黒贄が追いかけてきた。時速百二十キロで車の隙間をかいくぐって逃げるスポーツカーに、黒贄がピッタリとついてくる。

 いや、それどころか、少しずつ、近づいているのだ。車道を超高速で走る黒贄に驚いて、トラックが横転する。

 無表情だった後藤が、初めて唇を噛んだ。拳銃を出して窓を開け、バックミラーを見ながら後方に発砲するという信じられない銃技を見せた。黒贄の体にポツポツと穴が開くが、彼のスピードは緩まない。

「プヒョヒュラパヒュー」

 黒贄が右手の包丁を投げた。刃渡り五十センチほどに短くなったマグロおろし包丁は弾丸に近い速度で飛び、後藤の乗るスポーツカーの右後輪のタイヤを切り裂いていた。

 時速百五十キロに達していたスポーツカーが大きく体勢を崩す。スピンするかと思われたが見事に立て直し、交差点を曲がっていく。しかしスピードはかなり落ちている。

 後藤は片手で運転しながらバッグを開き、ダイナマイトを一本取り出した。導火線に火を点け、車を右折させると同時にドアを開けて転がり出た。スポーツカーはそのまま蛇行して壁に激突するが、素早くマンホールの蓋を開けて潜り込んだ後藤はそれを見ていない。すぐに蓋を閉める。

 地上の爆発が地下をも揺るがせた。後藤は休まず下水道に降り、自動小銃を片手に闇の中を進んでいく。彼の目にはライトは必要ないらしい。

 ゴト、と、後方で蓋の動く音がして、後藤が凍りついた。

「プヒョヒュラパヒュー」

 あの奇妙な音が下水道に響いて、後藤は人工樹脂の顔を歪めた。

 

 

  六

 

 一週間後。相変わらず大粒の雨が降り注ぐ中、森に囲まれた広い墓地に一人の男がよろめき入ってきた。

 男のコートは土や油で汚れ、靴は片方脱げて素足に無数の擦り傷があった。左手には一本のダイナマイトを握っている。

 ボロ雑巾のように疲れ果て、荒い息を続け、墓石にすがりつくようにしてなんとか立っている男の顔は、左向きにずれていた。

 男は自分の顔を掴み、一気に引っ張った。顔面が一枚のマスクとなって脱げ落ちた。

 『ビジネスマン』後藤信一の素顔は、皮膚がなく、薄い筋肉が髑髏を覆っているだけのものだった。鼻の軟骨は低く削られ、二つの縦穴も見えている。

 顔を自在に変えるために、自らの意志で肉を削いだのだろう。

 後藤の陰鬱な瞳は膨大な疲労に濁っていたが、その奥で赤い怒りが踊っていた。

 彼がずっと隠していた感情が、マスクを取った今、露わになっていた。

 後藤はジッポーライターを取り出して、ダイナマイトの導火線に火を点けようとした。しかし小さな火花が散るだけで炎にならない。導火線自体も湿りきっていた。

 後藤はライターを捨て、拳銃を抜いた。導火線を撃って火を点けようとしたのだろうか。しかし引き金を引いても弾は出ない。後藤は舌打ちして不発弾を排出しまた引き金を引く。これも不発だった。それも排出する。だが、何度やっても結果は同じだった。

「一週間も雨が続きましたからね。こんな私でも銃弾の火薬を湿らせることくらいは出来た訳です。勿論ダイナマイトとライターもね」

 陰気な声に後藤は素早く振り向いた。墓地の隅にひっそりと、地味なスーツの男が立っている。

「いつからそこにいた」

 後藤は聞いた。気配に気づかなかったのだろう。

「無力な私なんかのことより、前を向いていた方がいいですよ」

 幽霊探偵・草葉陰郎は意地の悪い笑みを見せた。

「墓地とは手間がかからなくていいですね」

 気楽な声がかかり、墓地にもう一人の男が入ってきたのだ。

「いやあ、私も一週間ぶりに素顔に戻れました。いつの間に体が治ったかなんて野暮なことは聞かないで下さいね」

 薄い唇を僅かに歪め、着古した礼服にスニーカーを履いた男は、殺人鬼探偵・黒贄礼太郎であった。

「……。私が悪いというのか」

 対峙した黒贄に、『ビジネスマン』後藤信一は問うた。怒りの篭もった声だった。そして、絶望の。

「私は、ただ、生き延びるために、全力を尽くしてきただけだ。どんな生き物だって、自分が生きるために他の生き物を平気で犠牲にしているじゃないか。なのに、私が、悪いというのか」

「生きていくということは本当に大変なことですね」

 にっこり笑って黒贄は言った。

「しかし私は他人の泣き言を聞く耳は持っておりません。ほれこの通り」

 黒贄は自分の左右の耳を指で摘まみ、あっさり引きちぎってみせた。少し流れた血が顎から雫を落とす。

 それを見守っていた後藤が、荒い息を必死に整えてから、低い声を絞り出した。

「……死にたくない」

 黒贄は自分の両耳を放り捨て、黙って後藤を見返していた。その瞳に狂気が渦を巻き始める。

「死にたくないんだああっ」

 後藤は役に立たないダイナマイトを捨てると、右手の拳銃を握り締め、黒贄に駆け寄りざま首筋に叩きつけた。

「こりゃどうも」

 黒贄は片手でそれを受け止めると、後藤の手から簡単に取り上げた。後藤は逃げようとしてよろめいた。

「ほりゃ」

 黒贄の振り下ろした拳銃が、後藤の背骨を粉砕した。肺も潰れたのだろう、ゲフッ、と、後藤が血を吐いた。ついでに強化プラスティック製の拳銃も黒贄の手の中で潰れる。

「死にたく……」

 後藤は地面に倒れ、それでも這って逃げようとした。前に回り込み、黒贄は立ち塞がった。人体模型のような後藤の顔を、慈愛の狂笑を浮かべた黒贄の顔が見下ろしていた。

「死に……」

「やっぱりお返ししますよ、これ」

 黒贄が潰れた銃を後藤の額に押しつけた。メチッ、から、ボグン、と嫌な音が連続して、皮膚のない後藤の額が、深く凹んでいく。

 ガバッ、と、後藤の口から血と脳が噴き出した。衝撃で眼球も飛び出した。拳銃が、後藤の頭に、完全に、埋没した。

 それでも、後藤の手が、何かを掴もうとするように前に伸びた。

 何も掴まぬまま、後藤の動きは止まった。横たわる彼の体に、雨が降り注いでいく。

 『ビジネスマン』後藤信一は息絶えた。

「終わりましたね」

 黙って見守っていた草葉陰郎が言った。

「人の命を何とも思わぬ殺人者はここに惨めな死に様を晒すことになった訳です。如何です黒贄さん、あなたもご自分の生き方について、もう少し考えてみた方がいいのではありませんか」

 もしかすると草葉はそれが言いたくて、黒贄に依頼を持ち込んだのかも知れなかった。

 しかし草葉は眉をひそめた。

「あの、黒贄さん、何をしているのですか」

「え」

 振り向いた黒贄は、誰かの大きな墓石を持ち上げようとしているところだった。

「いやあ、凶器に使えそうなので一つ頂いていこうかと。で、草葉さん、何か仰いましたかな。ちょっと耳が遠くなってしまって」

「……いえ、何でもありません」

 草葉は首を振り、長い溜息をついた。

 

 

  エピローグ

 

 父と母へ、そして愛する美里へ

 

 あれから三日が経ちました。まだ嵐は続いています。食糧もほぼ食べ尽くし、水も残り僅かです。

 でも今の私は、大きな喜びを持ってこの手紙を書いています。

 揺れる波間の彼方に、陸地が見えているのです。

 驚いたことに、黒贄さんはあの翌日に泳いで戻ってきました。そして最初に宣言した通りに、船を後ろから押してバタ足で進んでいるのです。波に激しく揺られながら、二十五人を乗せたフェリーは着実に陸に向かっています。とても信じられないと、皆は笑うでしょうけれど。

 何にせよ、無事に皆の顔を見ることが出来そうで

 

 今、誰かの凄い悲鳴が聞こえました。また悲鳴が聞こえました。何が起こったのだろうスクリュー黒にさんが暴れているそうです、船のスクリューで客を殺しまくっているどうしてこんなことに窓の外に死体が血みどろですくらにがこちらまで入ってそのスクリューはどうして欲しかったからってあんたもしかして船が動かなくなったのは元々あんたがスクリューを抜いて何もかもあんたがああ美里愛してるあいしてるもうきみのかおがみさとたすけあいしうわああああジョギャッジョギャッうぎゃあああああジョギャジョギャジョギャ。

 

 P.S. 冷蔵庫のプリンはもう食べてしまって下さい。

 

 

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