第一章 正木と凶器の間

 

  一

 

 衆議院議員正木政治の馬締市の本宅には四十八の部屋がある。殆どが洋間で和室は二つだけだ。紫香楽伊織の役割はそれらのうちお客様用を含む七つの部屋を掃除することだった。換気して掃除機をかけ床と窓を磨きシーツを取り替えゴミ箱を空にする。客がいなくても手抜きせず毎日掃除する。

 紫香楽伊織の年齢は二十二、三であろう。支給された藍色の制服と白のエプロン姿で、黒髪をポニーテールに纏めている。色白で化粧の薄い顔は上品さと生真面目さを感じさせる。太ってもおらずこけてもいない頬の絶妙なラインが美しかった。

 三部屋の掃除を終えた頃に休憩となった。使用人食堂でメイドや営繕、庭師達が集まって昼食を摂る。メイドは伊織を含めて八人いた。和気藹々とした雰囲気の中、若い庭師が伊織に聞いた。

「紫香楽さんはここの仕事に慣れたかい」

「はい、もうそろそろ二ヶ月ですから」

「俺は四ヶ月かな。でもここって皆、来てから短いよな。一番長い人は誰だろ」

 メイドの一人が手を上げた。

「私かな。半年とちょっと」

 営繕が言う。

「正木様もいい方だし、いいお屋敷なのに、なんで使用人が定着しないのかね」

「裏でさ、こっそりセクハラとかあるんじゃないの」

 若い庭師がニヤリとする。年配の庭師が早速突っ込みを入れた。

「お前がセクハラされる可能性は低そうだな」

 皆笑った。

「皆さん、順調にやっていますか」

 執事が食堂に顔を出した。皆も挨拶を返す。ライトグレイのスーツを着た執事は五十代だが髪は真っ白だ。いつも優しげな微笑を浮かべたその顔からは怒った姿を想像出来ない。

「今日は旦那様がずっとおられますから、皆さんもお仕事を頑張って下さいね」

 執事が出ていった後で営繕がふと言った。

「ここで一番長いのは岩巻さんかな。二十年以上執事やってるそうだから」

 休憩時間が終わり、使用人達は各自の仕事に戻っていく。

 伊織がまとめたゴミ袋を持って裏口へ廊下を進んでいくと、鉄のドアが開いていた。

「あら、ここは……」

 ドアには『関係者以外の入室を禁じる』という札が貼ってある。

「いつも鍵が掛かってるのに」

 伊織は隙間から少しだけ奥を覗いた。下に向かう階段が続いており、薄暗いため最後までは見通せない。地下室まで続いているのだろうか。コンクリートが剥き出しの壁は洒落た屋敷とは不似合いだ。

 更に目を凝らしかけ、伊織はしかし苦笑して首を振った。

 ドアを閉めようとした伊織に、地下から声が響いた。

「君は紫香楽さんだったね」

 通りの良いなめらかな声だった。伊織が息を呑み、慌てて闇に向かって頭を下げる。

「は、はい、旦那様、申し訳ありません。別に覗くつもりは……」

「気にすることはない。君はうちに勤務してどのくらいになる」

「はい、二ヶ月になります」

「そうか。少し早いが、前の人が七ヶ月だったからバランスが取れるな。紫香楽さん、こちらに下りてきたまえ」

「は、はあ……」

 戸惑い顔の伊織に声が駄目押しした。

「遠慮は要らない。下りてきて、見てみたまえ」

「分かりました」

 伊織はゴミ袋を廊下に残して薄暗い階段を下りていく。階段は長く、途中で折れ曲がっている。地下何メートルほどになるのか。彼女の足音に混じり、機械の低い唸りが聞こえる。

 青い光が見えてきた。地下室のドアは開いている。分厚い鋼鉄のドア。

「入りたまえ」

 近くなった声が促した。

「失礼致します」

 伊織は一礼して足を踏み入れ、その場で凍りついた。

 地下室は屋敷全体の面積に匹敵するほどの広さを持っていた。コンクリートの柱が一定間隔で並んでいる。照明のせいで全てが青く染まっている。

 様々な処刑機械と、呻く人々と動物達、そして腐りかけた無数の死体。

 人を大の字に寝かせて手足と首を別々に切断出来るギロチン台があった。大型のプレス機の間に薄っぺらの肉の絨毯がへばりついていた。ビニールに包まれた男の死体が椅子に座っていた。生きているうちにかぶせられ空気を抜かれたらしく、断末魔の表情の真空パックだ。水槽には幾つもの脳が浮かんでいた。人間の脳らしきものともっと小さな脳もある。別の水槽には眼球だけが何百個も浮かんでいた。天井から男の死体がぶら下がっている。切断された頭部は男の右足の裏に釘で固定されていた。右の壁に打ちつけられた死体は正中線で真っ二つにされた右半身だけだった。反対側の壁に同一人物のものらしい左半身がある。長椅子に皮を剥がれた死体が並んでいる。向かいの長椅子には中身のない皮だけがペニャリと載っていた。何本もの杭が天井から吊られ揺れている。一本の杭に四、五個の生首が刺し通され串団子状態になっていた。電気椅子に縛りつけられ猿轡をされた女性が唸っている。今も電流を流されているらしく全身が痙攣し、血走った眼球は飛び出しそうになっていた。剥製らしいゴールデンレトリバーの体に男の生首が繋がっている。隣には犬の生首が繋がった男の剥製が立っていた。腸が床を這っている。長さを比べようとしたのか、何本も並走して端を釘で固定されていた。向こうの隅には死体が縫い合わされ巨大なオブジェを作っている。それはどうやら有名な子供向けアニメのキャラクターである耳のない猫型ロボットを模しているようだった。強力なエアコンが何台も稼動しており、腐臭は篭もっていない。

 硬直していた紫香楽伊織の膝が、小刻みに震え出した。次第に震えは大きくなり全身に広がっていく。見開いたまま瞬き出来ぬ目から涙が滲み出し頬を伝っていく。

「ドアを閉めてくれないか」

 正面に立つ男が言った。伊織はロボットのようなぎこちなさで後ずさりして硬いものにぶつかった。振り返ると岩巻執事が立っていた。

 伊織は顔を歪め何か喋ろうとするが声にならない。

「かしこまりました」

 執事はいつもと変わらぬ穏やかな微笑を湛えて一礼し、開け放しになっていた地下室のドアを閉めた。男の指示は執事に向けられていたようだ。ドアのこちら側は防音のためクッションが張ってある。天井も同じだ。

 伊織の瞳が哀願から絶望に変わる。執事がニッコリと前へ促し、彼女は首をガクガクさせながら向き直る。

「紫香楽さん、君は逆楡龍苑を知っているかね」

 前に立つ男、この屋敷の主人であり現職の衆議院議員である正木政治が言った。正木は四十代半ば、体格はどちらかといえば痩せ型で、今は赤いバスローブを着ている。いや、色の濃淡が疎らなことから、もしかすると返り血なのかも知れない。艶のある豊かな髪はウェーブしながら後ろへ撫でつけられている。鼻筋の通った整った顔立ちに、真正面から相手を見据える大きな瞳。滅多に瞬きをしない瞳の威圧感は愛嬌のある口元の微笑で和らげられる。

 死体に満ちた地下室で、正木政治の表情は日頃地上で見せるものと全く変わりなかった。

 伊織が返答出来ずにいると、正木は話を続けた。

「もう十数年も前のことだから知らないかも知れないな。当事、人食い大臣と言われた男だ。外務大臣にまでなったのに、沢山の人を拉致してきては巨大なミキサーにかけて食べていたらしい。そのニュースを見た時、私は非常に強い感銘を受けたものだ。異常者でも政治家になれるのだとね。だから私はこうして国会議員になったが、その傍らライフワークとしての研究を続けている。マッド・サイエンティストというものは様々な分野に存在するものだが、私の問いは極めて根源的なものだ。これを見てみたまえ」

 正木はテーブルに並ぶミキサーの一つを指差した。中で一匹のヒヨコが足をばたつかせている。隣のミキサーにはドロドロした赤いジュースが溜まっていた。

 ミキサーの中のヒヨコを指差して、正木は尋ねた。

「これは何かね」

 大きな瞳に見つめられ、伊織はしゃがれ声でなんとか返答した。

「ヒ……ヒヨコ、だと、思います」

「その通りだ。だがこうするとどうだろう」

 正木はミキサーのスイッチを入れた。刃が唸りを立てて回転しガラス容器はあっという間に赤い飛沫に染まる。

 刃の引っ掛かる唸りがなめらかになり、正木はミキサーを止めた。容器の下部に赤い肉液が溜まっている。隣のミキサーと同じように。

「これは何かね」

 正木はまた尋ねた。

 伊織の震えがまた大きくなってきた。震動で涙がリズミカルに滴っていく。彼女が答えられずにいると、正木は質問を変えた。

「このヒヨコは、さっきの状態とどう違うかね」

「死……死んでいます」

「うむ。そういう解釈もある。だがこの状態を『形態が失われた』と表現する学者もいるそうだ。君はどう思うかね」

「……わか、分かり、ません」

「そう、分からないというのはとても重要なことだ」

 涙ぐむ伊織に正木は尤もらしく頷いてみせた。

「私は分かるための努力を惜しまない。形態を保ったヒヨコと失われたヒヨコ、一体何が違うのかを検証しなければならない。例えば食感はどうだろう」

 正木は肉液の溜まったミキサーの容器部を外し、蓋を取ると一気に飲み干した。ゴクリゴクリと彼の喉仏が上下するのを、伊織は顔を引き攣らせて見つめていた。その背後では執事が穏やかに見守っている。

 空になった容器を戻し、正木政治は大真面目に言った。

「うむ。まろやかな喉越しだ。次はこっちだ」

 ミキサーの横に置かれた網箱に正木は手を伸ばした。取り出したのは生きている別のヒヨコだ。可愛らしくピィピィ鳴いているそれを、正木は一瞬の躊躇もなく口の中に突っ込んだ。ギュイッとひしゃげた鳴き声。中で暴れているのか正木の頬が凸凹に揺れる。

 正木は真剣な顔で、咀嚼することなくヒヨコを呑み込んだ。喉が膨れ、なかなか下りていかずに正木の顔が歪む。それでも彼は苦鳴を洩らさなかった。

「大丈夫ですか、旦那様」

 声をかける執事に片手を上げてみせ、正木はなんとか嚥下を完了した。

「う……む。形態を保ったヒヨコの方はザラザラして痛い喉越しだ。ここに一つの違いが判明した。しかし、私の知りたいのはもっと本質的な違いだ」

 コツン、コツン、と硬い音がする。ヒヨコのミキサーの向こうに、丈二メートルはありそうな特大のミキサーがある。その容器の中に、パジャマ姿の男が窮屈そうに押し込められているのだ。男が伊織を見ながら、容器の内壁を叩いている。おそらく助けを求めているのだろうが、厚いガラス容器のせいで声は聞こえない。

 伊織が気づいたことを知り、男のアピール動作が激しくなった。しかし巨大ミキサーは揺るがない。

「さて、紫香楽さん、次の問いだ。これは何かね」

 ミキサーの中の男を指して正木が聞いた。

「に、人間、です。お願いですから……」

 伊織の言葉を遮って正木が頷く。

「うむ、その通り、人間の男だ。名前もある。坂本拓巳、三十四才だ」

 ガラス容器の側面にあった貼り紙を正木が読み上げる。

「さて、この坂本拓巳氏の形態が保たれた状態と失われた状態では、一体何が違うのか。私は知りたい」

「お、お願いです、旦那様。やめて下さ……」

「スイッチオン」

 伊織の懇願虚しく正木はミキサーのスイッチを押した。肉の砕片が飛散してガラスの内壁にへばりつき、凄まじい苦痛に歪んだ男の顔がゆっくりと沈んでいく。刃の回転はギュリギュリという重い唸りからジジャーという音に変わり、やがてシュールルルというなめらかな音に変わった。

 さっきまで人間の男であったものは、六十リットルほどの赤いジュースになっていた。

 紫香楽伊織は腰を抜かしてその場に崩れ落ちそうになった。彼女の肩を執事が支えた。

「た、助けて……お願いです、助けて下さい」

「静かになさい。旦那様が大事なお話をしておられる」

 執事は優しくたしなめる。伊織が逃げようとしてもがくが、執事の腕と胸板は鋼鉄のように硬く、微動だにしなかった。

 正木が話を続ける。

「坂本拓巳氏の形態は失われたが、本質に違いはない筈だ。質量も変わっていない。さて、それでは本質とは一体何だろうか。食感から試してみようか」

 正木はヒヨコと同じ試みを元人間でやるつもりらしい。テーブルに上がり、巨大なガラス容器を両腕で抱えようとする。

「うううむ」

 正木の首や額に青筋が浮いた。百キロは優に超える筈の容器を彼は歯を食い縛って持ち上げていく。しかし自分の身の丈ほどもあるコップでどうやって飲むというのか。それでも彼は容器の縁に口をつけ、抱えたまま傾けていく。反らせた背がブルブルと震えていた。

 と、重みに耐え切れず正木がひっくり返りテーブルから転げ落ちた。途中で身がよじれたので容器と床のサンドイッチになることは避けられたが、頭と背中を強打する。容器の中身が零れ、正木の肌もバスローブも赤い肉液塗れとなった。口や鼻にも肉液が入って正木は頭を押さえて呻きながら何度も咳き込んだ。

「旦那様」

 岩巻執事が駆け寄って正木を抱き起こす。伊織は解放されたものの、あまりの光景に足が竦んで動けない。

「失敗だ。ゴベッ、実験は失敗した、ゴフッブッ。しかしこれも一つの真実と言えるブボッ」

 巨大ミキサーが転げ落ちたため、その向こうにあった別の巨大ミキサーが見えるようになった。やはりドロドロの肉汁が溜まっている。腐っているのか紫色だ。

 その容器の側面に貼り紙があり、伊織は目を凝らした。『高島瑠美 24才』と書かれてある。

「た……高島さん……先月、退職したと、てっきり……」

「ああ、高島瑠美さんかね、今も現役だ」

 早速正木が言った。

「しかしこの紙には誤りがある。先週が彼女の誕生日だったから今は二十五才だ。彼女の形態は失われたが彼女の本質は変わらない筈だ。だからちゃんと給料も払っている」

 確かに、溜まった肉液の上に何枚もの紙幣が浮かんでいた。伊織は絶句するのみだ。

「しかし形態が失われた結果として一つの問題が生じている。メイドとしての給料は払っているのに彼女は仕事をしてくれないのだ。このまま職務怠慢が続けば解雇するべきではないかと考えている」

 大真面目に語る正木政治はバスローブを脱ぎ、執事の持ってきたタオルで体を拭っていた。トランクス一枚となったその体に、無数の傷痕が這っている。刃物傷、火傷の痕、抉り取られたような傷痕、銃創らしきもの、動物に噛まれた痕など様々だ。

「ど……どうして」

 伊織は雇い主である魔人に向かって問いを搾り出した。

「どうして、こんなことを」

「そう、私が知りたいのもそれだ」

 得たりとばかりに人差し指を立てて正木は頷く。

「どうして私はこんなことをするのか。これに意味はあるのか。意味があるとすればどんな意味なのか。そもそも意味とは何なのか。私は知らねばならない。そのためには実践あるのみだ。思索と実験、この二つが両輪となって真実へ近づいていく。まだ真実の片鱗さえも見えてこないが、それ故に私は知らねばならないのだ。紫香楽さん、君も私の実験に協力して欲しい。君はどれがいいかね。このミキサーに入るのがいいか、それとも首の挿げ替え実験はどうかな。もう一人、若い男を攫ってある」

「い、嫌です」

 伊織は必死に首を振る。正木は微笑んだ。有権者達に見せるのと全く同じ笑み。しかし目だけは笑っておらず、冷たく伊織を見据えている。

「その拒絶にもどんな意味があるのか、本質を私は知りたい。私はこれまで二千人以上を実験に参加させたが、進んで協力してくれた者は一人もいなかった。何故だろう。私は知らねばあっそうだ、この椅子はどうかね」

 正木は奥の電気椅子に駆け寄った。今は電流が止まっているようで、縛りつけられた女は深呼吸を繰り返していた。しかし正木が操作パネルに触れると女は手足を震わせ猿轡から苦鳴を洩らす。また眼球がせり出してきた。垂れた涙と涎で女のシャツは濡れていた。

「今、彼女は苦しんでいる。ここで一つの事実が導き出される」

 正木は彼女を指し示し、そして自分自身を示した。彼は解答を告げた。

「つまり、彼女は苦しんでいるが、私は苦しんでいないということだ」

 唖然とする伊織を尻目に、執事は満足げに頷いている。

「しかしこうするとどうだろう」

 正木が大型コンロにかかっていた鉄の棒を取り上げた。先端は赤熱して陽炎を昇らせている。彼はその先端を電気椅子の女ではなく自分の腹に押し当てた。肉の焦げる音。正木の顔が苦痛に歪む。いや、それはすぐに奇妙な悦楽へと変わっていく。

「こうなると、彼女は苦しんでいるが、私も苦しんでいる。しかし彼女は電流、私は火傷だ。その本質は違っているだろうか。分からない。ならこうすればどうだろう」

 正木は操作パネルに触れた。電流がやんだらしく女が息をつく。そして正木はコンロからもっと太い鉄棒を取った。熱い先端を自分の胸に当てる。肉が焼け、新しい傷が増える。

「ぐぬうう。こうなると、彼女は苦しんでいないが、私は苦しんでいる。これはどういうことだろうか。分からない。全く、分からないことばかりだ。そして今度はこうだ」

 正木は鉄棒を投げ捨てて操作パネルを叩いた。調節摘まみを思い切り回す。女が一際大きく痙攣した。体から湯気が立ち昇り、とうとう眼球が二つとも飛び出した。眼窩から茹で上がった脳が零れ出してくる。更に正木は刃渡り五十センチほどもある鎌状の剣を出して横に振った。女の頭が額の高さで水平に切断され、上部が髪と一緒に滑り落ちた。露出した脳の断面からも湯気が昇っていた。

「今、彼女は苦しんでいるだろうか。この状態の被験者達に尋ねても答えてはくれない。しかし念のため尋ねてみよう。もしもーし、苦しいかね」

 死体の側頭部を軽くノックして正木は尋ねた。脳の断面に耳を当ててみる。やはり死体は答えない。

「分からない。分からないことばかりだ。本質とは何だ。意味とは何だ。形態が変わると何が変わる。変わるとは何だ。世界は一体何なのだ。私は知りたい。だから私は本質的な問いを発し続けるのだ。そう、私はマッド・フィロソファーだ。狂気の哲学者、てつがくううううキャハーッ、キャヒッキョホッ」

 急に正木は甲高い声で笑い出した。辺りをピョンピョン飛び跳ねて踊り狂う。ぶつかって電気椅子がひっくり返る。死体から脳が零れ出る。

「本質、意味、本質、意味、キャハッ、本質、意味、キョヘ、本質、意味、ヘキョッ、本質、意味、ウキョパーッパッパッ」

 阿波踊りのように両腕を振り、表情筋を引き攣らせ物凄い笑顔で正木が笑う。しかし瞳だけが笑っていない。大きく見開かれた目が世界の真実を求めて問いを発し続けている。

「意味、本質、意味、オヒャハハハッ、エピャピャ、オキャーッ、全然面白くない、本質、意味、本質、意味、オヒャッ、ハッ、ポピャッ、全然面白くない、アハハハハ、全然面白くない」

 正木はとんぼ返りまで始めた。死体の間を突っ切って壁にぶつかる寸前で急停止する。床を前転し這い回り飛び上がる。そんな正木を執事は温かく見守る。伊織は馬鹿みたいに口を開けている。感覚が麻痺して恐怖を通り越してしまったようだ。正木は宙返りを開始した。三連続四連続、更には空中で二回転だ。

「全然面白くない、全然面白くない、意味、本質、意味キャハッ、本質、全ぜグベッ」

 正木が着地に失敗した。空中三回転はやはり無理があったのだ。コンクリートの床に頭から激突して倒れ、手足がひどく痙攣する。首が妙な角度に曲がってしまっている。

「カヒュ……クヒョ……」

「だ、旦那様っ」

 執事が慌てて駆け寄った。正木はまだ痙攣を続けている。伊織は完全に忘れられていた。

 ふと、伊織が我に返った。正木と介抱する執事から目を離さず、少しずつ後ずさる。執事は気づかない。伊織の息が震えている。

 彼女は振り返った。すぐそこにドアがあった。急いでノブを握る。鍵は掛かっていない。

 紫香楽伊織の呼吸は細い悲鳴のようになっていた。転びそうになりながら階段を上る。鉄のドアを抜けて廊下に出る。

「あああ。あああああ」

 伊織は自然と声を洩らしていた。涙が止め処なく流れ出す。別のメイドが彼女に気づいて声をかけた。

「紫香楽さん、どうしたの」

「ああああああ」

 伊織は同僚の肩に手を置いて喋ろうとするが、やはり言葉にならない。説明を諦め、後方を振り返りながら彼女は屋敷の玄関へ向かう。職務を放棄して屋外へ転がり出る。若い庭師が驚いて尋ねる。

「お、おい、どうした」

「に、ににに、にげ……」

 足を止めず伊織は正門へ向かう。広大な敷地は、玄関から正門まで二百メートル以上ある。

「待ちなさい」

 正木政治の声がした。

 伊織は一瞬凍りつき、すぐ自分の両足をせき立てる。よたつきながら恐る恐る、彼女は振り向いた。

 玄関に岩巻執事が立っている。両腕で正木を抱えて。正木の首は戻っておらず、トランクス一枚に血みどろの姿のままだ。それでも正木の瞳は生気に満ち満ちていた。

 犬の鳴き声が近づいてくる。番犬を放したらしい。裏手から十頭近いドーベルマンが姿を現した。猛スピードで駆けてくる。

「あの女を噛み殺せ」

 執事が伊織を指差して犬達に命じた。伊織は悲鳴を上げた。凶暴な牙を剥いた犬達が一斉に飛びかかる。

 正木政治の方へ。

「ウホッペッ」

 正木が奇妙な悲鳴を上げた。ドーベルマンが正木の手足に胴に食らいつき激しく首を振る。

「こら、やめろっ。今日は違う」

 執事が慌てて犬達を振り払う。しかし犬達は離れない。正木を噛むことが彼らの本来の仕事だったのだろうか。庭師はあっけに取られて植木鋏を落としていた。

「ヒョハーッ、意味、本質、意味いいいっ」

 紫香楽伊織は耳を押さえながら正門に辿り着き、狂気の館を抜け出した。

 

 

「はあ、あのマサマサがねえ……」

 中年の警官は気のない口調で言った。

「何です、そのマサマサって」

 若い警官が尋ねる。

「まさきまさはる。だからマサマサ。この前のテレビでも自分で言ってたぞ。今時珍しい、真面目な政治家なんだがなあ」

 駅前の派出所にいる警官はその二人だった。まだ泣いている紫香楽伊織を、中年の警官は訝しげに見ている。

「そのメイドの服……本物だよね。コスプレじゃないよね」

「本物です。ですから、正木議員のお屋敷で働いていたんです。信じてくれないんですか」

 泣き腫らした赤い目で伊織は睨む。中年の警官は下を向き頭を掻いた。

「いや、信じてない訳じゃない。ただね、国会議員のあのマサマサが、地下室で人体実験なんてねえ。いや、信じない訳じゃないが、ねえ……」

「自分のことをマッド・フィロソファーって言ってました。二千人以上を殺したって」

「二千人以上、ねえ。そのフィロソファーってのは」

「哲学者のことです」

「はあ、哲学者、ねえ。でも、二千人も、ねえ」

「最近この辺でも行方不明増えてますよね」

 若い警官が言った。

「行方不明が多いのは昔からなんだよ。そんなのいちいち気にしててもしょうがないだろ」

「昔から、人体実験を続けていたんじゃないですか」

 伊織の口調には焦りと苛立ちが見える。彼女はふと背後を振り返る。派出所前を大勢の市民が行き交っている。

「まあ、でも、仮にそうだとしても、どうしてうちに来たんだ。区が違うどころか、別の県じゃないか」

「出来るだけ早く、遠くへ逃げたかったんです。だからJRを乗り換えて、取り敢えずここに来たんです。信じてくれないんですか。殺されそうになったのに、警察は何もしてくれないんですか」

 責める伊織を中年の警官は両手を上げて制した。

「分かった分かった。まず署に連絡してみよう。少し待っていてくれるかね」

「急いで下さい。……すみません。気が動転してて」

「いいんだよ」

 中年の警官は微笑んで奥に去った。ここではなく別の電話機を使うらしい。若い警官が言った。

「僕は信じますよ」

「あ……ありがとうございます」

 伊織の目からまた涙が溢れてきた。

「もう大丈夫ですよ。安心して下さい。ちょっとお茶でも煎れますね」

「すみません」

 若い警官も奥へ消えた。中年の警官の話し声が微かに聞こえている。伊織はまた通りを振り返る。怪しい人影はない。

 やがて若い警官が盆を捧げて戻ってきた。お茶と飴玉を二個、彼女の前に置く。

「はい」

「ありがとうございます」

 若い警官は盆を持って去った。伊織は茶碗を両手で持って一口啜り、手を止めた。

 茶碗の離れた茶托に、折り畳まれた紙片が載っていた。

 二人の警官はまだ戻らない。伊織は慎重に茶碗を置き、紙片を手に取って広げてみた。

 紙片には『警察はマサマサの手先だ。あなたを抹殺しようとしている。』と走り書きされていた。

 紫香楽伊織は立ち上がっていた。紙片を素早く畳んでエプロンのポケットに入れ、彼女は黙って派出所を出ていった。メイド服で外を歩く伊織を通行人が珍しそうに見ていた。

 

 

  二

 

 毎月人口の一割前後が増減すると言われる超犯罪都市・八津崎市。その唯一の市警察署署長室で大曲源は小鼻をヒクつかせ、口を開き頭をのけ反らせていった。

「ほえぇー……ぶしっ」

 大きなくしゃみと共にコロンと何か小さなものが落ちた。机の上に転がるネジを見て大曲は眉をひそめる。

「あれ、こりゃあ何処の部品だ」

「もしもーし、どうかしました」

 受話器の向こうから若い女の声がする。大曲はネジを摘まみ上げ、まじまじと見つめる。首筋に触れ人工皮膚をめくってみる。強化プラスチックの繋ぎ目にも空いたネジ穴はない。大曲は右の鼻の穴にネジを詰めてみた。鼻水塗れで転がり戻ってくるだけだ。仕方なく大曲はネジをスーツのポケットに入れた。

「いや、何でもない。それで、マサマサが口封じのためにあなたを狙ってると、そういうことだったな」

 署長室は机が一つとソファーが二つ、間に丈の低いテーブルがある。隅には古いテレビが一つあった。壁にアイドルの水着ポスターが何枚も貼ってあるが、壁もポスターも煙草のヤニで黄色くなっている。机にある特大の灰皿は吸殻で山盛りとなっており、屑篭も吸殻とビーフジャーキーの空袋で一杯だ。

 大曲の年齢は三十代後半であろう。短めの髪は寝癖で倒れ、頬から顎にかけて不精髭が生えている。くたびれた地味なスーツを着て、白いTシャツに黒いマジックの手書きでネクタイの絵と『署長』という言葉があった。

「ええ、警察も信用出来ません。新聞社に駆け込もうとかも思ったんですが、マスコミまで旦那様……いえ、正木議員の手先になっていたらと思うと怖くて」

「それにしてもマサマサは、意外に真面目な奴だったんだなあ。意味とか本質とか、普通の人はそんな疑問など捨てちまうもんだ」

「えっ」

 声の主・紫香楽伊織が絶句する。大曲は大きな欠伸を一つしてから訂正した。顎の関節がカキッと鳴る。

「いや、何でもない。それで、八津崎市警としてはあなたを保護してマサマサの悪行を暴き出せばいいんだな」

「はい、八津崎市の警察は独立した組織だとお聞きしてましたので。信用出来るのはあなた方だけなんです。お願いです、助けて下さい」

「ふうむ、さて」

 大曲は一旦受話器を机の上に置き、スーツのポケットから煙草を取り出して百円ライターで火を点けた。最後の一本だったため空箱を握り潰して屑篭に投げる。狙いは外れて床に転がったが大曲は放置した。机の引き出しを開けると煙草のカートンがぎっしり詰まっていた。というより煙草しか入っていない。

 カートンを開き、新しい一箱をスーツのポケットに突っ込む。もう一箱を別のポケットに、更にもう一箱をシャツの胸ポケットに入れようとしてTシャツであることに気づく。大曲は苦笑してTシャツをまくり上げた。少し弛み気味な腹部の右側と、胸部の同じく右側にそれぞれ四角の切れ目がある。上の切れ目に触れるとそれは四角の蓋となって開いた。十センチ角の空洞があり、小物入れとして使っているらしく千円札が数枚収まっている。大曲はそこに煙草の箱を突っ込んで蓋を閉じた。

 紫煙を吐きながら大曲は誰にともなく呟いた。

「どうしたものかね。八津崎市じゃないから管轄外だよなあ。マサマサがどのくらい警察に根を張ってるか分からんし、下手すると全面戦争だよなあ。これ以上の出世も面倒だし、『楽して得取れ』がモットーなのに、リスクばかり高くて得がねえもんなあ。何か得がねえかなあ」

 受話器から声が洩れてくる。大曲の呟きを聞いて伊織が喚いているらしい。大曲は溜め息をついて受話器を耳に当てる。

「この意気地なし、頼りにした私が馬鹿でしたっ。一般人を守らなくてどうして警察なんかやってるのっ。正義は何処に行ったのっ」

 紫香楽の剣幕に大曲も少しばかり慌てている。煙草を落としてしまい机が焦げる。

「どうして警察官をやってるかというと、そうだな生活の……いや、暇潰し……いやいや、そりゃまあ、正義感も少しはある訳だが……あるよな、多分……そうだ、俺と結婚するかい」

「えっ」

「うん、それが今回の得だ。当方三十八才独身、体の半分は機械だが子作りの大事なところは残ってるから心配無用だ。式はいつにしようか」

 何処まで本気なのか、大曲は疲れた笑みを浮かべて喋り続ける。と、これまでで最大の音量が返ってきた。

「こ、こんな時に、何言ってるんですかあああっ馬鹿っ」

 大曲は受話器を遠ざけもう一方の手で耳を塞いだ。

「よし、じゃあちょっと待ってくれ。決定は神様に任せよう」

 大曲はスーツのポケットを探り、小さなサイコロを一つ取り出した。

「丁が出れば引き受ける。半なら電話を切る、と」

 大曲はサイコロを放る。机を転がり、勢い余って向こうの床に落ちてしまった。大曲は身を乗り出して覗き込むがサイコロは見えない。机に腹這いになって更に身を乗り出し、大曲は床にずり落ちた。受話器に引っ張られて電話機が落ちる。

「な、何やってるんですか」

「いや、サイコロが見つからねえ」

 大曲は受話器を耳に当てたまま床を這って探す。

「サイコロって……もう……明日まで私、生きてられるか、分からないのに……」

 紫香楽の声は啜り泣きに変わった。大曲は机の下に手を伸ばすが出てきたのは煙草の吸殻だけだ。

「やれやれ」

 大曲はまた溜め息をついて、受話器に言った。

「分かった。引き受けた。これからお供を連れて迎えに行くが、どの駅で待ち合わせようか」

「ああ、ありがとうございます。ご恩は一生忘れません」

 紫香楽の声が明るくなった。大曲は受話器を離して「一生がどれだけ残ってるか分からんがな」と小声で呟いた。

 段取りを終えて電話を切り、大曲は立ち上がって大きく伸びをした。微かなモーター音が胴体から洩れる。

「さてと、仕方なく頑張るか」

 出口のドアへ歩きながらふと目をやると、壁の手前にサイコロが落ちていた。

 サイコロの目は半だった。

 大曲は苦笑しながらサイコロをポケットに戻し、署長室を出た。

「おーい、出動だ。早死にしたい奴は手を挙げ……」

 大曲の台詞が途切れた。八津崎市警察署の建物内は全ての部署が大きな一つのフロアに収まっている。

 千以上も並ぶ机の大部分に花瓶が置かれ、花が飾られていた。既に枯れてしまっているものも多い。

 生きた警官の姿が見当たらない。机に突っ伏している警官が一人いたが、右手に拳銃が握られこめかみから血が流れていた。向こうでは仕切り用のカーテンレールに縄をかけ、首吊り死体が三つ仲良く揺れている。

「荒んだ職場だよなあ」

 煙草を出して火を点けながらのんびり大曲は呟いた。

「仕方ねえ。助っ人を頼むか」

 と、玄関の扉が開いて若い男が入ってきた。上半身は裸で、脂肪が殆どないため皮膚の下に引き締まった筋肉の束がはっきり浮いている。男の体も顔も返り血に塗れ、口元は無邪気な笑みを浮かべているが目はある種の歓喜にギラギラと光っていた。右手に槍と斧が一体になったハルバードを持ち、左手には生首の入った網袋を提げている。

 破れ目のある青いズボンと蓬髪の上に載った帽子は、警察官のものだった。

「城智志、只今パトロールより戻りました」

 ハルバードを持った手で敬礼して若い警察官は言った。穂先が天井を抉る。軽く手を上げて大曲署長は応じる。

「ご苦労さん。なんか収穫はあったかい」

「はい、コンビニ強盗を二名と引ったくり一名、ファミレスで乱射したヤクザ一名。全て現場で処刑致しました」

 警察官・城智志は誇らしげに左手の網袋を掲げてみせる。ひいふうみい、と生首を数えて大曲が尋ねる。

「首が四つ多いが」

「はい、残りは善良な一般市民です」

 やはり誇らしげに城は答えた。

「ええっと、犯罪者一人で一万円、市民一人でマイナス五万円だったよな」

「はい、そうです」

「じゃあ今日はマイナス十六万円だな。先月の給料は幾らだったかい」

「はい、マイナス二百三十四万円です」

 元気一杯に城は答えた。

「そうかい。まあ、頑張りなよ。バナサイトのようになりたいと言ってたが、なれそうかい」

「はい、署長、見て下さい」

 城は自分の腹を指差した。見事に割れた腹筋に小さな穴が開いて血がついている。銃創のようだ。

 むん、と力を込めると、穴から潰れた弾丸がせり出してきてポトリと落ちた。

「へえ、大したもんだな」

 大曲が褒めると城は嬉しそうに笑った。

「昨日刺された腕の傷ももう塞がってるんですよ。『求めよ、さらば与えられん』というのは本当のことだったんですね」

「聖書の言葉だな。お前さんとこはキリスト教かい」

「いえ、仏教です。それで署長、お出かけですか。お供しますよ」

「いや、要らん。他の奴らが戻るまで留守番しといてくれ」

 げんなり顔で大曲は命じ、素直に城は頷いた。

「了解です。怪しい奴がやってきたら片っ端から処刑しときますね」

 ハルバードと生首を持った城に見送られ、大曲はパトカーの一台に乗り込んだ。警官が頻繁に入れ替わるので鍵は挿したままになっている。

 警察署を出て混沌の街を進みながら、大曲は右掌を頬に当てる。義手には携帯電話が組み込まれていた。

 

 

  三

 

 薄暗い裏路地を大曲のパトカーは進む。車一台がやっと通れるだけの幅しかなく、パトカーの側面が塀に擦れてゴリゴリ音を立てる。傷も塗料の剥げも大曲は気にする様子はない。

 この辺りの建物は古いものが多く、焼け残ったまま誰かが住んでいるらしいアパートや、空き地に停めたワゴン車がそのまま住居になっているものもあった。路地に人の姿はない。

 大曲がブレーキを踏んだ。前方で烏がたかっている。クラクションを鳴らして烏達を追い払うと、腐りかけた男の死体が転がっていた。

 車から降りて死体をどけることもせず、大曲はパトカーを発進させた。左手を軽く上げてみせたのは謝罪代わりか。グギョリ、と嫌な響きと共にパトカーが揺れ、死体を乗り越えていった。

 四階建てのビルが見えてきた。最上階に薄汚れた看板が掛かっている。『黒贄礼太郎探偵事務所』という下手糞な文字。

 大曲はビルの前でパトカーを停め、扉の外れた玄関を抜けて階段を上る。一階も二階もフロアは空っぽだが大曲は気にも留めない。三階も何もない。ただ、長年塗り重ねられたような濃厚な血臭が漂ってくる。慣れているようでやはり大曲は平然としていた。

「おっ」

 階段を上り終え四階に辿り着いてすぐ、大曲はちょっとした驚きの声を洩らした。

 狭いスペースの先はすぐ木製のドアで、看板と同じ内容の表札がついている。表札の下には『受付時間は午前十時から午後六時までです。それ以外の時間帯には探偵として応対出来ない場合があります。』という貼り紙がある。

 その貼り紙の下に、黒贄礼太郎探偵事務所の所長であり唯一の所員である黒贄礼太郎本人が蹲って震えていた。

「どうしたんだい、クロちゃん。電話にも出なかったからてっきりいないかと思ったぜ」

 そう言いながらも事務所を訪れたのは黒贄がいることを期待していたのだろう。つまり、黒贄は暇なのだ。

「こ、これは署長さん、丁度良いところに」

 クロちゃんという間違った呼び名に突っ込む余裕もなく、弱々しく微笑む黒贄礼太郎の年齢は二十代後半から三十代前半であろうか。今は体を折り畳んでいるが、身長は百九十センチを超えるだろう。普段着にしているらしい略礼服は袖先などがすり切れている。ネクタイはしておらず白いシャツの所々に赤い染みが残る。色白でモデルのように整った顔立ちだが、彼の持つ美しさは何処か陰性の禍々しさを伴っていた。いつも眠たげだった瞳は恐怖に見開かれ、いつも何かを面白がっているようだった薄い唇はピクピクと小さく痙攣している。頭を掻きむしったのか、左右がアンバランスな髪はメチャクチャな向きに逆立っていた。

「えらい困りようだな。もしかして鍵を失くして入れないとか」

 皮肉な笑みを浮かべて大曲が問うが、黒贄は真剣に首を振る。

「それが、大変な事態になってしまったんです。二人が喧嘩しているんです」

「二人って誰だい」

「瑛子さんと悠里さんです。これまで皆で仲良くやっていると思っていたのですが。やはり三角関係というものは血を呼ぶものなんですかねえ」

「瑛子と悠里……ああ、ネクロフィリアのね」

 大曲がさらりと言う。黒贄は心外そうな顔になった。

「いえ、違います。プラトニックな関係なのですよ」

「まあそれはどっちでもいいから、喧嘩ってのは」

「三日前に地震がありましたよね。私の事務所もかなり揺れまして、棚が倒れたり椅子がひっくり返ったりしたのですが、瑛子さんと悠里さんが……いや、とにかく見て頂けますか。私にはとても仲裁に入る勇気が……」

 黒贄はどうやら三日も事務所の外で震えていたらしい。

「ふうん」

 黒贄がドアの前から這って離れ、大曲は気楽にノブを回して中へ足を踏み入れた。窓が段ボールで塞がれ、蛍光灯がチラついて室内は微妙に暗い。焦げ目の残る机と公園から盗んできたような木製ベンチ。黒贄の言った通り棚が倒れてガラスの破片が散乱している。ホッケーマスクやパンティストッキングの切れ端、地球儀の欠片、耳の大きな鼠の頭など、壁に掛かっていた様々なマスクの半数ほどが床に落ちていた。

 革が少し破れているがそこそこ高級な椅子も倒れ、本来そこに座っていた骸骨が、床にダイブしたみたいに俯せに転がっている。

 針金で骨を繋ぎ合わされた完全な人骨の前に、生首が一個立っている。防腐液で濡れた、可愛らしい少女の生首だ。

 骸骨の左手の指が、少女の右目に突き刺さっていた。

 少女の口が、骸骨の右手を噛んでいた。手首の関節がちぎれてしまっている。

「署長さん、どうでしょうか」

 覗くのも怖いらしく声だけで黒贄が問う。

「うーん、そうだな……」

 大曲は少女の右目から骸骨の指を抜いた。幸い眼球に傷はついていない。咥えている右手も抜こうとするがしっかり噛み込んでいるようだ。大曲は生首を抱え、「むんっ」と下顎を開けた。コキッと顎の関節が鳴る。

「署長さん、どうなりました」

「いや、別に。もうちょっと考えさせてくれ」

 大曲は適当な返事をしながら骸骨の右手首を元の場所にくっつけ、外れた針金を繋ぎ直した。椅子を起こして骸骨を座らせる。その膝の上に少女の生首を置いた。血の気のない唇の端を押してなんとか微笑らしきものを作らせる。骸骨の両手を生首の上に載せ、撫でているように見せかける。

 完成した作品を眺め、大曲は会心の笑みを浮かべた。

「クロちゃん、なんだかお二人さん、仲直りしたみたいだぜ」

「え、そうですか」

 黒贄は漸く入口から顔を覗かせ、仲良く座る骸骨と生首に驚嘆の声を洩らす。

「おお、良かった良かった。一時はどうなることかと思いましたが私の祈りが通じたんですねえ」

 髑髏と生首を愛しげに撫でてから、黒贄は机の向こうの自分の椅子に腰を下ろした。

「いやあ、安心したらお腹が空きましたな。三日間飲まず食わずでしたから。部屋を片づけないといけませんがその前に、一緒に何処かへ食事に行きませんか。署長さんの奢りで」

 黒贄の口元にいつもの微笑が復活していた。大曲の方は苦笑する。

「残念ながらそんな暇はなくてね。仕事の依頼に来たのさ」

「ほほう、仕事ですか。久々にその言葉を聞きましたなあ」

 黒贄は溜め息をつく。大曲はポケットの煙草に手を伸ばしかけてやめ、代わりに別のポケットからニコチンガムを取り出した。

「あまり時間がないから要点だけ言うが、国会議員のマサマサが屋敷の地下で人体実験してて、二千人以上殺してるらしい」

「なるほど、あのマサマサさんがですか。やってるんじゃないかとは思ってましたよ」

 黒贄は尤もらしく頷いてみせる。

「クロちゃんもマサマサのことは知ってたかい」

「いえ、全然知りません。アフリカか何処かの議員さんですかね」

 大曲は眉一つ動かさず話を続けた。

「いや、日本だ。正木政治で綽名がマサマサって訳さ。もう三期目くらいじゃねえかな。で、メイドが殺されかけて逃げ出したんだが、マサマサが警察まで操って口封じしようと狙ってるらしい」

 黒贄は顎に手を当てて考える。

「ふむ、すると署長さんとしては、そのメイドさんを真っ先に殺害してマサマサさんに貢献したい、と」

 大曲はガムをクチャクチャ噛みながら手を振った。

「違う違う、その逆。メイドに頼まれてな。だからそのメイドを保護してマサマサの逮捕に漕ぎ着けたいんだが……」

「むう。と、いうことは、私への依頼はメイドさんの護衛ですか」

 珍しく、黒贄の口調に熱が入っていた。眠たげだった瞳に高揚感と痛みが混じり合う。護衛というものに特別な思い入れでもあるのだろうか。

「いや、どっちかというとクロちゃんには遊撃役を……」

「聞きましたか瑛子さん、護衛ですよ護衛」

 大曲の言葉を最後まで聞かず、黒贄が椅子から飛び出して骸骨に話しかける。

「まあ、護衛ですって。私の時と同じね」

 骸骨の顎がカクカク動いて高い声がした。大曲は眉をひそめる。

 黒贄が骸骨の下顎を握って動かし、自分で骸骨役の声を出しているのだった。

「ええ、今度こそ頑張って護衛をやり遂げてみせますよ」

「まあ、私の時は失敗したのに他の子はちゃんと守るっていうの。ひどいわ」

「ぐっ、それを言われると辛いですな」

 一人で会話している黒贄に大曲が声をかける。

「おーい、迷ってんならサイコロ貸そうか」

「いえ結構です。瑛子さんをこれから説得しますので」

 黒贄はそう言って骸骨との一人芝居を再開した。大曲は横を向いて「あーあ、クロちゃんもいよいよ来るとこまで来ちまったなあ」と小声で呟く。

「瑛子さん、分かって下さい。あなたのように不幸な最期を遂げる方を減らしたいのです。そうすることで少しでもあなたが浮かばれるのではないかと思うのですよ」

「私は不幸な人が増えた方がいいわ。そんなメイド、殺しちゃってよ」

 骸骨の立場で過激なことを言う。と、今度は黒贄が少女の生首を持ち上げて顎を動かし始めた。少し幼い声になる。

「我が侭な女ね。自分の都合ばかり押しつけて。黒贄さんだって生活費を稼がなきゃならないのよ」

 黒贄が生首をなだめる。

「悠里さん、そんなことを言ってはいけませんよ。皆で仲良くしようではありませんか」

「ははあん、結局お金なのね。私のことなんか口実で、単にお金が欲しいだけなんでしょ」

 今度は骸骨だ。大曲が頭を掻きながら言った。

「あー、もしもし。なら報酬はなしということでどうだい。それなら金のためじゃないと証明出来るだろ」

「え」

 黒贄が凍りついた。骸骨と生首の動きも止まる。

「いやあ、愛って素晴らしいよなあ」

 大曲が投げ遣りに駄目押しする。

「無報酬。いいわね、それ」

 骸骨が言った。

「え」

「黒贄さん、たまにはタダ働きもいいんじゃない」

 生首が言った。

「え、ええっ」

「お二人さんもそう言ってくれてることだし、いいんじゃないか」

 大曲が言った。黒贄はガックリとうなだれていたが、悲しげに息をついて頷いた。

「分かりました。無報酬で引き受けましょう」

「黒贄さん、それはいいんだけれど早く瓶に戻して欲しいわ。この女みたいなみっともない骨だけになりたくないもの」

「おや、すみませんね。新しい瓶と防腐剤を出しますよ」

 黒贄が生首を抱えて隣の部屋に消えた。

「クロちゃん、あまり時間ねえから、先にくじ引いといていいかい」

 大曲が尋ねる。机の上に箱があり、上面には手の入るだけの丸い穴が開いている。中には折り畳まれた紙片が積み重なっていた。

 使う凶器を選ぶためのくじだった。

「あ、申し訳ないですが今回は予約が入ってるんですよ。凶器の一つがえらく使って欲しがっておりまして」

 水道水の流れる音と共に黒贄の声が返る。

「ふうん、凶器がねえ……やっぱりクロちゃんの頭も、いよいよ……」

 後半は小声だった。

「全く、体のない女にあそこまで言われたくないわね」

 若い女の声がした。大曲は顔を上げて周囲を見回すが誰もいない。椅子に座る骸骨だけだ。

「人工内耳が電波を拾っちまってるみたいだ」

 大曲は呟いて右の耳を叩いた。

 

 

  四

 

 濁った空の下、強い風が草をなびかせている。男は鍔広の帽子が飛ばないように右手で押さえつけた。黒い革の手袋。

 男の着ているロングコートは厚めのウール地だった。色はほぼ黒に近いダークグレイで、所々に汚れや染みが残っている。目深にかぶった帽子も同じ色で、立てた襟との間に覗く筈の顔は、闇に覆われたように何故か見えない。うっすらと顎の輪郭が分かる程度だ。シャツとズボンも同じ色で、ブーツは艶消しの黒だ。身長は百八十センチ前後であろうか。ふとした拍子にそれよりも高く見えたり低く見えたりする。

 季節外れの陽炎のように、鍔広帽の男は立っていた。

「やっと来てくれたな」

 出迎えた男達の一人が言った。顔色の悪い痩せた男だ。スーツは余裕があり過ぎてだぶついている。

 その右隣には背はやや低いががっしりした体格の男が立つ。両手はコートの袖に隠れている。

 左隣の男は腰の左右に細いロープの束を提げていた。細い目で油断なく鍔広帽の男を観察している。

 三人の男の斜め後ろに少年と少女が立っていた。少年は十五才くらいだろう。鍛え上げられた体をしていたが瞳は昏い。少女は十二才くらいだろうか。人形のように感情のない顔で立っている。

 更に後方には廃墟のような古い建物がある。窓は破れ壁の一部は崩れているから誰かが住んでいるとは思えないが、車のタイヤの跡が草地に幾つも残っているから何かに使われているのだろうか。もしかすると地下室があるのかも知れない。

 鍔広帽の男が言った。

「神羅万将が死んだそうだな」

 男の声は異様に低く掠れ、何処か金属の軋むような響きにも似ていた。喉の病気なのだろうか。

 顔色の悪い男が答える。

「スコルピオンが雇った男に殺された。そいつのせいでスケルトン・ナイツは壊滅だ。生き残ったのは仕事に出ていた俺達だけだ。ガキ共は逃げやがって、この二人しか回収出来なかった」

「スコルピオン……角南瑛子は裏切ったのか」

「ああ。アキレスを殺して逃げようとしたんだ。結局はトラップで死んだそうだが」

「そうか。彼女が組織を抜けたがっていたのは知っていた」

 鍔広帽の奇妙な声音に混じる悲哀を、何人が識別出来たろうか。顔色の悪い男は眉をひそめた。

「ボスを殺したのは黒贄礼太郎という男だ。黒に生け贄の贄と書いて『くらに』と読む。八津崎市で私立探偵をやっているが、不死身の化け物だ。ガキの話によると、肉が削げ落ちて骨だけになっても動いていたらしい」

「化け物か。わしも良くそう呼ばれる。……神羅は、旧い友だった。冷酷な男だったが、わしの唯一の、友だ。黒贄という男とは、片をつけねばなるまい」

 鍔広帽が言った。それにしても両者共、一定の距離を保ったまま動かない。どうしてこんなところで会話を続けているのか。この場所と距離が、男達の微妙な関係を暗示している。

 顔色の悪い男が頷いた。

「それは是非とも頼む。暗殺業界でナンバーワンだったスケルトン・ナイツも、今や俺達だけだ。新興の組織に追い抜かれ、依頼も滅多に来なくなった。一から立て直さなくちゃならん。それでだが、あんたに新しいボスになって欲しいんだ。あんたさえ本気になってくれれば何だって出来る。誰にも舐められやしねえ」

「わしがスケルトン・ナイツのボスか」

 鍔広帽の男が呟く。

「頼む、ブラックソード。あんたがいなけりゃ俺達はやっていけねえ」

 鍔広帽の男・ブラックソードは暫く沈黙した。男達は緊張しているようだった。少年と少女は身じろぎもせずやり取りを見守っている。二人に許されていることはそれだけなのかも知れない。

 やがて、ブラックソードは言った。

「お主達、そんなに殺しが好きか」

「何」

 背の低い男が目を見開いた。

「この際、足を洗ったらどうだ。まともに働いて稼げばいい」

 スケルトン・ナイツの男達は互いの顔を見合わせた。

「化け物のあんたにそんなことを言われるとは思わなかったぜ」

 背の低い男が吐き捨てた。顔色の悪い男が尋ねる。

「ボスになるのは断る、と、そういうことか」

「断る。神羅への厚意で手伝っていたが、神羅が死んだのなら組織に義理はない」

「組織を裏切る気か」

「もう組織は存在しない。スケルトン・ナイツは神羅万将が自分のためだけに作った組織だ。お主達は自由だ。勝手にするがいい」

「そうか。分かった。おい、お前」

 顔色の悪い男が後方を振り返り、少年に命じた。

「この裏切り者を殺せ」

 少年の顔が強張った。それでも少年は右手を背中に回し、素早く戻した手には大型のハンティングナイフが握られていた。

「早くやれ」

 促され、少年は進み出た。少女は無表情に立ち尽くしている。

 少年は三人の殺し屋の前に立つ。しかしナイフは構えなかった。少年の顔が僅かに歪み、抑えていた感情を滲ませた。

「ブラックソード、さん……」

「久しぶりだな。友也」

 ブラックソードは少年の名を呼んだ。少年は呻くように話を続けた。

「俺は……五年前、脱走しようとして、捕まって。処刑されるとこだったのに、あなたに助けてもらった。……あなたは、俺に教えてくれた。もっと強くなれと。強くなって、自分の力で自由を掴めばいいと。……でも、俺は、そこまで、強くなれなかった」

「これから強くなればいい」

 ブラックソードは言った。

「早くしろ。ブラックソードを殺せ」

 顔色の悪い男の声が厳しさを増した。どうして自分達が動かず少年にさせようとするのか。ブラックソードが少年を殺せないと考えているのだろうか。

 少年の手から、ナイフが落ちた。少年はその場に膝をついた。

「俺には出来ません」

「ナイフを拾え。役立たずは殺すぞ」

 背の低い男が右袖を少年に向けた。

 その時、奇妙な音が響いて男達が凍りついた。

 風の音とは違う、口笛の音にも似た、ヒュールルルル、という澄んだ音だった。

 同時に別の音がした。金属の擦れるような、ジシャー、という低い音。

 ブラックソードが手袋を填めた両拳を前に出していた。親指側同士、一旦くっつけた両拳を左右に離していく。

 両拳の間に、長い金属が姿を現していく。黒塗りの、両刃の剣。或いは刃の鋼材自体が黒いのかも知れない。

 後者の音は、刃が鞘から抜かれる音だった。しかし剣が抜き出されても鞘は見えない。何もない空間から剣を抜いているみたいだ。幻術か手品か。それとも無から剣を生み出しているのか。剣を握る右手には黒い柄が見えている。

 三人の殺し屋は明らかに動揺していた。緊張と、恐怖。

「や、やめろ。やめないとこいつを殺……」

 背の低い男が叫びかけた時、少年に向けていた右腕が肘の部分で切れて落ちた。男が目を剥いた。

 ブラックソードは一歩も動いていなかった。男達とは十メートル以上の距離がある。そこまで剣が伸びたというのか。いや、剣はブラックソードの右方へ振り上げられただけだ。方向がまるで違う。

 黒い刀身が、半ばまでしか見えない。途中から先が別の空間に呑み込まれたように。

 ヒュールルーという美しい響きが続いていた。

「おわああっ」

 背の低い男は右肘から血を噴きながらも左腕をブラックソードに向けた。銃声。袖に隠された小型のショットガンが五十二発の散弾を広範囲に飛ばす。

 しかしそこにブラックソードの姿はなかった。いや、地面に、不思議なものが残っていた。ブーツの片方の、足首から下の部分。中に肉と骨の断面が見える。

 置き忘れたようなブーツの残りもすぐに消えた。横殴りの黒い光。背の低い男の首が落ちた。黒い剣は男の背後から現れたのだ。

 顔色の悪い男が両腕を振った。スーツの袖やズボンの裾からゾロゾロと、小さな毒蛇が這い出していく。細い目の男が腰のロープを投げた。それは触手のように宙を蠢き一種の結界を作り上げる。

「そこだっ」

 顔色の悪い男がナイフを投げつけた先に鍔広帽が浮かんでいた。と、細い目の男の胸から剣が生えてきた。剣は全長を現しながら上に滑り、男の首から頭頂部までを両断していた。剣を握る右手が現れるが、死体の背後にブラックソードの体は見えない。ロープが力なく落ちていく。別の場所にあった鍔広帽は右に動き魔法のように消え、ナイフは空を貫いただけだった。

「こ、降参するっ」

 顔色の悪い男が叫んで両手を上げた。空間の破れ目から剣が閃き、その両腕が肩の付け根から落ちた。続いて首が落ちた。

 三人の殺し屋は死んだ。廃墟の二階から別の男の生首が転がり落ちた。窓の陰からライフルで狙っていた戦闘員だった。

 死体の鋭利な断面から血が流れていく。顔色の悪い男の食道断面から蛇が這い出した。何もない空中から現れた手がその蛇を掴んだ。

 少年が見回すと、ブラックソードは全く別の場所に現れて着地した。こちらに近づく足取りは少しふらついている。

 ブラックソードは左手に、数十匹の蛇をまとめて握っていた。全て、首が切り落とされている。

 蛇の死骸を投げ捨てず地面に置き、ブラックソードは左拳の中に黒い剣を差し込んでいった。現れた時と同じように剣が消えていく。そして柄も消えた。

 ブラックソードの動きは空間の繋がりを無視していた。

 流れていた澄んだ音色が、漸くやんだ。

 鍔広帽が少年に向き、後ろで立ち尽くす少女に向いた。

「お主達は自分の人生を生きろ」

「あの……ブラックソードさん。俺達、体の中に爆弾を埋め込まれてて……こいつらがリモコン持ってて」

「そうか」

 ブラックソードが左腕を上げた。袖から先が消えている。少女がウッと声を洩らした。

 数秒で手首が戻ってきた。

「確かに入っていたな」

 開いた掌の上に、透明なカプセルに包まれた小さな機械が二個、載っていた。手袋、カプセル共に表面が湿っている。ブラックソードは二人の体に傷をつけず、内部からカプセルを抜き出したらしい。

 掌を返し、爆弾のカプセルは地面に落ちた。転がった二個のカプセルは殺し屋の死体にぶつかって止まった。

「達者でな」

 ブラックソードは踵を返した。少年はその背に呼びかける。

「ブラックソードさん、俺も……俺達も、ついていきます」

「それは無理だ。わしの歩く道は地獄だ。これまでも、これからも。せめてお主達は、幸せになってくれ。わしの代わりに。それがわしの……」

 言葉は最後まで聞こえず、去ってゆくブラックソードの姿は唐突に消えた。

 突っ立っていた少女の顔が、少しずつ、泣きそうに歪んでいく。

「う……うっ……うえ……うえ、うわっ……うわああん」

 少女が声を上げて泣き始めた。これまで封印されていた感情が一気に堰を切って流れ出したように。

 少年は少女に歩み寄り、黙ってその肩を抱いた。少年の目にも涙が滲んでいた。

 

 

  五

 

 JR狭間田駅の構内で紫香楽伊織は頻繁に腕時計を確認していた。公衆電話機近くの壁際に立ち、改札口から出てくる人々の様子をさり気なく窺いながら。

 腕時計は午後四時十分を示していた。伊織の瞳は焦りと不安に曇っている。メイド服の彼女を珍しそうに見ている客。こっそりデジカメで撮影している若者もいた。

 伊織は財布からテレホンカードを出し、何処かへ電話をかける。十秒ほど待ち、受話器を置く。相手は出なかったようだ。

「どうしよう。父さん、母さん……外出中ならいいんだけど」

 吐き出されたカードをまた差し込んで彼女は別の番号へかける。圏外か電話に出られない状態であると留守番機能が告げる。伊織は口元を押さえ声があまり周囲に聞こえないようにして受話器に告げる。

「直子さん、何度もごめんなさい。でも早く逃げて。皆に、お屋敷から逃げるように言って。マサマサは人殺しよ。狂ってるわ」

 受話器を置いてカードを財布に戻し、伊織はまた腕時計を確認して改札口を見る。敵らしき影もないが、待ち合わせの人物もまだ来ない。

「そこのお嬢さん」

 通りの良い声に、伊織は素早く振り向いた。自動販売機の横に小さな台を置いて、折り畳みの椅子に腰掛けた男がこちらを見ている。台にかけられた布には『易』という文字があった。

 黒い着物の男は二十代の後半であろうか。いや、男の落ち着いた雰囲気からすると四十代かも知れない。肌の色は浅黒く、首筋や腕の筋肉は見事に引き締まっている。少しばかりボサボサな髪はそれでも肩の辺りでうまくまとまっていた。野生的な色気を感じさせる顔立ちは易者には似つかわしくない。瞳は穏やかさと優しさの奥に、ふと鋭い光が見える。

「私のことですか」

 ためらいがちに伊織は聞き返す。駅の構内で易者が商売をやって良いものか。しかし駅員は咎める様子もなかった。

「そうです。何やらお困りのようですね」

「……ええ。分かるんですか」

「その様子を見れば誰だって分かりますよ」

 易者は苦笑した。めくれた唇の間から白い歯が覗く。牙のような犬歯。

「ただ、少し手を見せてはくれませんか。見料は要りませんから」

 目的の人物はまだ現れない。伊織はおずおずと易者に近づいた。

「手を」

 言われるままに右手を差し出すと、易者が両手で触れた。目を細めて見つめている。

「どうなんですか」

 伊織が尋ねると、易者は俯いた状態から視線だけを上げた。

「厳しいですね。第一の危機を乗り越えても第二撃、第三撃が待っています。両親がご健在のようですが、他に家族はいますか」

「……兄が一人います。出版社で働いていますが」

「そうですか」

「あの……家族が、何か」

 易者が顔を上げた。厳しい目つき。しかし伊織の問いには答えず別のことを言った。

「お気をつけなさい。味方に殺される可能性もある。私も気をつけます」

「え。あなたは……」

 伊織が目を瞠ったその時、別の男の声が構内に響いた。

「黒贄礼太郎様ー、黒贄礼太郎様はいらっしゃいますかー」

 伊織が振り向くと、配達業者の服装をした男が台車で大きな段ボール箱を押している。男は同じ呼びかけを続けながら構内を回っている。

 易者が舌打ちした。

「なるほどな、そういうことか」

 向き直ると易者が消えていた。伊織は急いで見回すが何処にもいない。『易』の台と椅子だけが男の存在した証拠として残っていた。

 伊織は二、三度身震いし、急いでその場を離れた。配達業者はまだ呼びかけている。黒贄礼太郎という男はここにはいないようだ。

 業者と段ボール箱が伊織の近くまで来た時、段ボールの中から太い声がした。

「凶器の方が先に着いちまった。もういいからここに置いていけ」

「そうですか。では」

 業者はウンウン言いながら台車を傾け、段ボール箱を床にずり落とす。

「サインを頂けますか」

 業者が伝票を出すと、段ボールの側面を突き破り太い腕が現れた。伝票を引っ掴んで消え、少しして同じ穴から伝票を戻す。

「毎度ー」

 業者が台車を畳んで去り、段ボール箱だけが構内に残された。

 伊織が見守っていると、段ボールの穴から誰かの目が覗いた。伊織の視線とかち合う。

 バリリッ、と乱暴に上面が開き、見事なスキンヘッドが顔を出した。あっけに取られる伊織を見てニヤリと笑う。

「よう」

 スキンヘッドの額には『101』という数字が書かれていた。

「あんたはメイドだな。イガグリとかいう」

「い、いえ、シガラキです。紫香楽伊織です。……あの、もしかして、署長さんですか、八津崎市の」

「違う。俺は大谷五郎だ。黒贄の旦那に連絡貰って駆けつけたんだが、ちょっと早かったみたいだ」

 スキンヘッドの男・大谷五郎は立ち上がった。身長は二メートル近く、鋲つきの黒い革製ベストと革ズボンという服装だ。腕は丸太のように太く、見事な大胸筋の盛り上がりと腹筋の割れ目を晒していた。

 その大谷の右脇腹に、えぐれたような傷痕が残っている。左脇腹には刃物傷だ。鳩尾にも縦の細い傷がある。左上腕半ばにも腕周りを一周するような縫い傷があった。両手の指にも何ヶ所かに火傷痕のようなものが残る。額の『101』はマジックではなくタトゥーであるようだ。十年も殴り合いを続けてきたようなごつい顔に、小さな目が妙に可愛らしかった。

 「よっ」と跨いで出ると、大谷は自分の入っていた段ボール箱を畳み始めた。革ベストの背には『人間凶器』と銀色の刺繍が入っている。

「帰る時にはまた使わないといけねえからな」

 大谷は畳んだ段ボールを壁に立てかけて言う。

「あ……あの、どうしてわざわざ段ボールに。いつもそうやって移動してるんですか」

 大男を見上げ、伊織は恐る恐る尋ねた。

「いや、いつもは自分の足を使ってるが、今日は特別なのさ。何故なら、俺は凶器として来たんだからな」

 大谷の口調は誇らしげだった。伊織はどんな表情を浮かべれば良いのか迷っているような、微妙な顔になった。

「あ、あの、すみません、それで、私を守って下さるんですか」

「さあ、それは知らねえな。確かに、あんたみたいな可愛い娘には生き延びて欲しいもんだが、俺の仕事はあんたを守ることじゃねえ。俺の役割はな、凶器なんだよ」

 ぐぐいと顔を寄せた大谷の瞳は次第に熱を帯び、愉悦を通り越して狂喜へと変わっていく。伊織は逃げ腰になっていた。

「いいかい、凶器というのはな、素晴らしいんだぜ。人間を捨て去ってなあ、道具として、完璧な道具になるんだ。脳味噌を空っぽにしてな、苦痛も何もかも飛び越した先に、素晴らしい世界があるんだ。そう、その瞬間、俺は……そう、神に近づくんだ」

 瞳の狂喜はグルグルと渦を巻き、その奥に澄み切った、神々しくも恐ろしいものが覗いていた。

「す、すみませんでした。許して下さい」

 伊織は今にも泣き出しそうな顔になり、実際に目は潤んでしまっていた。

 大谷は少し人間に戻って太い笑みを見せた。

「まあでも、危なくなったら俺の後ろに隠れな。鉄砲の弾だろうがバズーカ砲だろうが受け止めてやるからよ」

 大谷はいざとなれば本当に受け止めるつもりのようだった。

 パトカーのサイレンが聞こえる。幾つものサイレンが重なり、こちらに近づいているようだ。伊織の瞳に期待と不安が浮かぶ。

「署長さんでしょうか」

「多分違うんじゃねえかな。パトカーの数が多い。八津崎市にゃあそんだけのパトカーを外に送る余裕ねえもんな」

 確かにサイレンはかなりの数になっている。五、六十台は来ているだろう。

「ど、どうしましょう。きっと私を追ってきてるんだと思います」

「待ってりゃいいさ。心配なら俺の段ボールに入るか」

 大谷は余裕たっぷりに言う。と、改札口を通って警官が三人現れた。伊織に気づき「いたぞ」と口々に言っている。伊織の視線が逃げ場を探して泳ぐ。駆けてくる警官は拳銃を抜いた。

「動くな。変な真似をするなよ。凶器を捨てて両手を上げろっ」

 彼らには、伊織が凶器を持っていると伝えられているのだろうか。

 警官達の前に、大谷五郎がのっそりと立ち塞がった。巨体に多少怯みつつ警官の一人が怒鳴る。

「どけ。それともお前も紫香楽の仲間か」

「俺を捨てろと言ったか」

 大谷の小さな目が怒りに燃えていた。

「な、何を言っている」

 大谷が警官の両肩を掴んだ。警官が拳銃を向けようとするが腕が上がらない。メキッ、と骨の歪む音がする。警官の顔も苦痛に歪む。

「お、おい、その手を離せ」

 他の警官達が慌てている。

「凶器は大事にしろ」

 大谷が渾身の頭突きを食らわせた。ガベチイッ、と凄い音がして、警官の顔面がクレーター状に陥没した。大谷が手を離すと、警官はその場にクニャリと崩れ落ちる。

「おっこいつっ」

 他の二人が拳銃を大谷の胸に向ける。大谷は平然と告げた。

「撃ってみろよ。そんな豆鉄砲、屁でもねえぜ」

 相手が丸腰であることにまだ戸惑いがあったのだろう、警官達は互いの顔を見合わせた。その一、二秒の隙に大谷の腕が伸びて、二挺の拳銃を手ごと掴む。

「あっ、イデッ、やめ離せっ」

 二人の警官は苦悶する。メチベキッ、と鉄と肉と骨が一緒くたに潰れていく。

 大谷が手を離した後、グチャグチャになった手首から先を見つめ、二人の警官は泣き喚き始めた。床を転がって悲鳴を上げる。伊織は呆然と立っている。異様な光景に、駅の客達も立ち竦んでいるか大急ぎで駅から出て行こうとするかだ。

 一般市民と入れ違いに、駅の出入り口から大勢の警官が押し寄せてくる。盾と拳銃を持った彼らの顔は敵意に凝り固まっていた。ライフルを持った者もいる。

 と、出入り口のガラス戸をぶち破り一台のパトカーが飛び込んできた。警官達を後ろから次々に撥ねて轢いていく。パトカーは蛇行して大部分の警官を轢き倒し、後部を壁にぶつけながらもこちらに接近してくる。甲高いブレーキ音。運転席の男は欠伸をしていた。

 ボンネットに警官一人載せたパトカーが凄い勢いで滑ってくる。「おうっ」と受け止めるべく大谷五郎が両手を広げて立ち塞がる。逃げる余裕もなく伊織は目を閉じる。黒い影が飛ぶ。

 パトカーは左側面で大谷五郎を撥ね飛ばした。

 続いて撥ねる筈の伊織は上にいた。

 天井に右手を壁に両足をつけ、左腕で伊織を抱えているのは黒い着物の易者だった。伊織の驚く顔。

「全く、ひどいメンツだ。まともなのは俺だけだな」

 自分をまともだと思っている闇の占い師・神楽鏡影は険しい表情で言った。

「悪い悪い、ちょっと滑っちまった」

 運転席から手を上げて八津崎市警察署長・大曲源が気楽に言う。

 助手席のドアが開いて、黒い略礼服を着た男が全身を現した。神楽に抱えられている伊織に向かって恭しく一礼する。

「初めまして、あなたを全力でお守りする黒贄礼太郎です。しかも無報酬です」

 殺人鬼探偵・黒贄礼太郎が言った。その両手にはまだ新鮮な誰かの生首が一つずつ握られていた。

 

 

戻る