第二章 不死者達

 

  一

 

 大谷五郎は撥ねられたダメージなど皆無のように素早く飛び起きて、自分のオヤツを食べられた小学生みたいな顔で黒贄礼太郎を指差した。

「ああっあああーっ、ずりいーっ、ずるいぜ旦那ーっ。俺を使うって言ったじゃねえかよお」

 黒贄は自分が両手に提げた生首に気づき、決まり悪そうに言い訳した。

「ありゃ、これは、いや、事故なんですよ。眠気覚ましにパトカーの窓から手を出してみたらそこに人の頭があったんです。これからちゃんとあなたを使いますから」

 変形したドア枠を蹴り開けて、大曲源がパトカーから降りた。片手を軽く上げて紫香楽伊織に挨拶する。

「大曲だ、よろしく」

「……よ、よろしくお願いします」

 伊織は天井から礼をした。神楽鏡影は伊織の腰を抱えたまま下りてこない。

「黒贄が来るとは聞いてなかったぞ」

「参加が決まったのはお前さんに電話した後でね。そもそも、クロちゃんが来ちゃあ個人的にまずいことでもあるのかい」

 大曲は少しばかり意地の悪い笑みを浮かべて聞く。神楽の目つきが硬くなる。

「……いや、俺は、契約履行に支障を来たすことを危惧しているだけだ。守るべき証人が黒贄に殺されたら困るだろ」

「心配無用ですよ。メイドさんに近づく者を皆殺しにすればいいんですよね。さて、頑張らないと」

 黒贄本人が保証した。にこやかで不気味な視線が神楽に向く。神楽鏡影の微かな身震いに気づいたのは紫香楽伊織だけだったろう。

 いきなりの銃声が構内に木霊した。黒贄のシャツに穴が開き血が飛び散る。背後から撃たれたのだ。

 パトカーの強襲を生き延びた警官達が十数名、態勢を立て直して銃を向けていた。

「お前達、武器を捨ててそこを動くな」

 刑事の持った拡声器ががなる。

 警察が警告なしで発砲したという事実に、伊織は目を見開いて凍りつく。神楽がスルスルと壁を伝い伊織を下ろした。着地した彼女の陰に神楽の姿が隠れ、何処かへ溶け込んだように見えなくなる。胸の真ん中にライフル弾の風穴を開けたまま、黒贄は二つの生首を掲げて伊織に微笑みかけた。

「ご安心下さいね、これは事故ですから」

 若い男と中年女の生首は、口をだらしなく開けて虚ろな目を伊織に向けていた。

 大曲が警官達へ両手を上げて制止を試みる。

「まあまあ、警察も落ち着きなよ。俺も警察でね。八津崎市警察署長の大曲源だ。あんたらがどういう指示を受けてるか知らんが、彼女はマサマサによる大量殺人の証人だ。抹殺されちまわないよう保護する必要がある」

 刑事が眉をひそめた。

「八津崎市だと。市警だと。それは何処の県だ」

 八津崎市民達の間で微妙な視線が交錯した。大曲の右手人差し指から一秒二千五百円の熱線が伸び、刑事の額から後頭部まで貫通する。刑事の眼球が裏返り、力なく崩れ落ちた。

「その質問は駄目だ」

 義手の指先を吹いて冷ましながら大曲は言った。別の刑事が叫ぶ。

「う、撃て撃てえっ」

 警官達が盾の陰から撃ちまくる。大曲は身を屈めてパトカーの陰に回る。突っ立っていた紫香楽伊織の膝がカクンと落ちて床に伏せる姿勢となった。彼女は何故か不思議そうにしている。自分の動きが予想外であったかのように。

 弾丸の雨の中、黒贄礼太郎は薄い唇の両端を極端に吊り上げ、悪魔のような顔で笑っていた。引き攣った右頬に弾丸が穴を開けるが気にしない。二つの生首を大上段から投げつける動作は優雅でさえあった。若い男の生首は盾を凹ませ二人を押し転がしていく。中年女の生首は一人の顔面にぶち当たり瞬間的に熱烈なキスを交わしたが、すぐに警官の頭共々破裂してどれがどちらの部品であったか分からなくなった。

 黒贄が警官隊へ向かって突進する。警官の顔が驚きと恐怖に歪む。

「出番だああっ」

 更に大谷五郎が全速力で黒贄を追う。彼の顔は歓喜に輝いていた。充分な助走をつけてのドロップキックは全身がほぼ水平となり、二メートル近い高さまで浮いていた。揃えられた両足首を、黒贄が振り向きもせず両手を伸ばして掴む。殺人鬼と凶器の絶妙なコンビネーション。

「キャハッ」

 勢いを駆って大谷を叩き下ろした先に警官隊の唖然とした顔があった。巨大な筋肉の打撃で二人の顔面が潰れ首が折れ胴体がひん曲がり上下に圧縮され即死した。

「あーそりゃ」

 黒贄が続いて横殴りに大谷を振る。大谷の胴が警官三人の胴にぶち当たり吹っ飛ばす。挟まれた盾ごと警官の胴がひしゃげていた。一人など胴がちぎれて腸をはみ出させながら横の壁に激突した。

「それブンブーン」

 黒贄がスピンして水平に大谷を振り回す。次々に首をもがれ胴を潰され警官が肉塊に変わっていく。超高速スイングで叩きつけられ、鋼の肉体を誇る大谷も無事ではないだろう。それでも人間凶器・大谷五郎の瞳は酔ったように潤んでいた。彼は痛みに包まれながら神々しい別世界を覗いているのだろうか。

 六回転もする頃には警官はほぼ全滅していた。拳銃を構えていた最後の一人に向かって黒贄が手を離す。人間魚雷となった大谷のスキンヘッドが警官の拳銃と両腕ごと胸板にめり込み、折れた肋骨と背骨と肺組織を絡みつかせて背中から抜けた。

 黒贄が最初に生首を投げてから、まだ十秒も経っていなかった。

「まだ足りねえ。まだ高みまで届いてねえ」

 死体の背中から血みどろの顔を出した大谷五郎が快楽に飢えた瞳で主張する。

「ではこのまま外の皆さんもやってしま……」

 黒贄が言いかけた時、派手な爆発音が駅の建物を揺るがせた。連続する轟音に天井が崩れ、黒贄の前にコンクリートの塊が落ちてくる。潰れていた死体が更に潰れ、大量のコンクリが駅の出入り口を塞いでしまった。

「戦車砲か迫撃砲だな。一般の警察も装備が充実したもんだ」

 頭にかかった小さな破片を掻いて落としながら大曲が言う。砲撃は休まず続き、駅を丸ごと破壊しそうな勢いだ。あちこちで天井が落下し、残っていた客やJR職員も右往左往している。大きな塊の下敷きとなって呻く男。

 大曲が伊織に歩み寄り手を差し伸べた。

「早いとこ逃げ出すとしようか」

 即答するのは黒贄の方だ。

「そうですね。そのためには突破口を全力でこじ開けないと」

 出入り口を塞ぐコンクリート塊は大きなものでは三メートル四方、厚みも五十センチ近い。そんなものがゴテゴテと積み重なって出口までは五メートル以上あるのではないか。そんなものをどうやって突破するというのか。

 死体の背から突き出した大谷五郎と、黒贄の目が合った。絡み合う信頼と熱情の視線。

「あのー、クロちゃん」

「キャハーッ」

 大曲の呼びかけも耳に入らぬように黒贄が大谷五郎の両足首を握って振り上げた。大谷が警官の死体ごと持ち上がり、穴の開いた天井にぶつかって更に破壊する。

「わーい、人間削岩機だあーっ」

 コンクリートの山に大谷五郎が叩きつけられた。一撃で警官の体が四散する。警官の腸が引っ掛かった大谷の顔は赤い狂喜に茹だっている。コンクリートの壁に亀裂が走る。

「あのー、クロちゃん」

「ガッツンガッツン」

 黒贄が大谷をツルハシのように振り回す。一秒三回の高速連打でコンクリートの破片が散っていく。破片に赤い染みがついている。

「クロちゃんよう、反対側の出入り口、開いてるんだけど」

「はーガッツンガッツン」

 大曲の声は砲撃の轟音に紛れて黒贄の耳には届かなかったようだ。それとも黒贄の脳には届かなかったというべきか。五十センチもあるコンクリート片がすっ飛んでいく。山が削れていく。血みどろの肉塊も飛んでいく。根元からちぎれた太い右腕は大谷のものだ。

「あのさー、横の壁も砲撃で崩れちまってるから、そっからも出れるんだけど」

「えー何ですか、ガッツンガッツン」

 黒贄の声は山に開いた横穴の奥から聞こえていた。凄まじいペースで新たな破片が奥から飛んでくる。それに混じって新たな肉塊が転がり出てきた。

 胸部の一部だけがくっついた、大谷五郎の頭であった。度重なる打撲でボコボコに膨れ上がり、鼻は曲がり左頬が破れて骨が覗いている。しかし、彼の瞳は夢見るように恍惚としていた。残った肺の一部が収縮し、微かな声を絞り出した。

「ひ……光が……」

 同時にボグォンと音がして穴から外の光が差し込んできた。コンクリートの山をぶち抜きトンネルが出来たのだ。革ズボンに包まれた腰部分が転がってきた。

 崩れかけた駅の建物から飛び出した黒贄礼太郎は、マラカスでも振るような格好で片手に一本ずつ大谷の足を握っていた。人間凶器は膝から下だけになっていた。ちぎれた肉から膝蓋骨が顔を出している。

 悪魔の笑みを浮かべた突破者を待っていたのは百を超える自動小銃の銃口だった。この短時間のうちに狭間田駅は自衛隊に包囲されていた。戦車が二輌、装甲車が三輌、そして百名近い歩兵。上空では戦闘ヘリが睨んでいる。警官はその外で野次馬締め出しに従事している。報道陣も追い出されたようで姿が見えない。

「ありゃ」

 黒贄が二本の足を振り上げたまま周囲を見回した。

 そして言った。

「皆さんこんにちは」

 返事はなかった。兵士達の自動小銃が一斉に火を噴いた。容赦ない連打に黒贄の全身が蜂の巣となっていく。後方に血や細かな肉片が散っていく。

 黒贄の左目が弾丸で潰れ、後頭部が爆ぜて脳が噴出した。それでも黒贄の右目は生き生きと殺戮の喜びを語っていた。

 平気で立っている黒贄を見て兵士達の顔に動揺が浮かぶ。上官が撃ち続けろと叫ぶ。弾を撃ち尽くし、兵士達が急いで弾倉を交換しようとする頃、魔獣の俊敏さで黒贄が狩りを開始した。

「ほりゃドンドコドン」

 二十メートル以上あった距離が一瞬でゼロとなり、兵士達の脳天に大谷の足が振り下ろされた。頭が完全に胸部までめり込む者、首が折れ後頭部が背中にぶつかる者、真っ二つに裂けた頭が両肩にへばりつく者。黒贄は駆けながら太鼓でも叩くように兵士の頭を叩いていく。頭が砕け次々に崩れ落ちる仲間の姿に兵士達がどよめく。撃てと叫ぶ上官の声は引き攣っていた。黒贄を狙って戦車の砲塔が回るが標的の素早さに追いつけない。誤射により駅前に停めてあった乗用車が爆発した。向かいのビルからは大勢の会社員があっけに取られた顔で眺めている。兵士の乱射で窓が割れ、慌てて首を引っ込める人々。一人のこめかみに穴が開いて六階の窓から落ちていく。

「ヤッタッホッ」

 銃を捨てて逃げ始めた兵士達に猛スピードで追いすがり黒贄が気楽なかけ声と共に瞬殺していく。なんとか踏み留まり意味不明の叫びを上げて乱射する兵士もいたが、顔面に凶器が突き刺さり沈黙する。ヘルメットを割り後頭部から現れた大谷五郎の足は使い減りして、折れた脛骨腓骨が剥き出しになっていた。

「あばああっぶっ」

 パニックに陥った兵士が涎を飛ばしながら近距離から手榴弾を投げつけた。三、四人の仲間ごと黒贄を吹き飛ばす。ちぎれた手足や内臓が周囲に飛び散った。投げた兵士自身も破片を浴びて血みどろになって倒れる。仲間の暴挙にしかし兵士達は安堵の表情を浮かべた。怪物を始末出来たと思ったのだろう。

 彼らの顔はすぐに凍りついた。

 黒贄はまだそこにいた。破れた腹部から腸を垂らし、折れて飛び出した肋骨の間に心臓の拍動を覗かせ、右上腕はほぼ完全に露出した骨に少量の筋肉が絡みついているだけの状態で、それでもしっかりと立っていた。右手に持った大谷の足で、頭を貫かれた兵士の死体を吊るしている。その死体は爆発で腰部分がちぎれていた。

 黒贄の顔は返り血とへばりついた肉片で真っ赤になっている。それはやはり笑顔だった。

「て、てててっ撤退……」

 叫ぶ上官に向けて黒贄が右腕を振った。大谷の足からスッポ抜けた兵士の死体が激突して上官は即死する。もう統制も何もなく蜘蛛の子を散らすように逃げる兵士達。戦闘ヘリの機関砲が唸る。黒贄の胴からブバッブバッと肉が散るが彼は気にする様子もなく左手に持った足を投げつけた。足はトマホークのように回転しながら飛び、五、六十メートルの上空で静止していた戦闘ヘリのガラス風防を貫き操縦士の体も貫いた。落下した戦闘ヘリが装甲車にぶつかり爆発する。戦車の砲塔が黒贄に向いた。黒贄がもう一本の足も投げた。今度はアメフトのボールのように錐揉み回転しながら一直線に飛び、絶妙のコントロールで砲身の射出孔に捩じ込まれた。戦車が爆発した。砲塔が外れて浮き上がり炎が噴出する。もう一輌の戦車は方向転換して逃げ始めた。慌てたのか蛇行して軽自動車を踏み潰していく。

「あれ、お待ち下さい。まだご挨拶が終わってませんよ」

 黒贄が戦車を追って走る。野次馬を抑えていた警官達も逃げ出した。逃げ遅れた警官数名を戦車が轢き潰す。

 トンネルの手前で様子を窺っていた大曲源は、嵐が離れていくのを確認して紫香楽伊織に言った。

「じゃあ、出ようか」

「はあ……」

 大曲が先導し、転がっている大谷の頭を横目に伊織もコンクリートのトンネルをくぐる。見開いたまま動かぬ大谷五郎の瞳は今も至高の世界を覗いているようだった。トンネルの内壁は所々に血がついていた。

 そこら中に転がる兵士の死体、燃え盛るヘリや戦車の残骸を見回しながら大曲は軽く伸びをした。

 凄惨な光景に伊織は絶句していたが、やがて遠慮がちに尋ねた。

「あ、あの……これ、全部さっきの方が……」

 大曲はのんびり答えた。

「ああ、クロちゃんね。いい奴なんだがちょっと殺し過ぎるんだよなあ。それにしても自衛隊か。マサマサの権限は大したもんだ」

 転がる死体の中から一人の兵士が弱々しく身を起こした。血に染まった腹部は味方の誤射か。兵士は紫香楽伊織に自動小銃を向けるが、大曲も伊織も気づいていない。

 伊織の右腕が霞んだ。二十五メートル先の兵士の喉に何かが突き刺さる。幅二センチ、厚みが三ミリほどの黒い金属片。ゴビュッという音を洩らして兵士が倒れる。大曲と伊織がそちらを見た。大曲の視線が伊織の右手に移った。右手はまだ鋼鉄の凶器を二枚握っていた。長さ十五センチほどの細い投げナイフ。伊織も自分の持っているものに気づいた。

「え。え。私じゃないです」

 伊織が懸命に否定するがナイフは離さない。ヘリのローター音が近づいてくる。戦闘ヘリはもう一機いたのだ。

 大曲は自分の人差し指を見る。指先に開いた小さな穴は熱線の放出孔だ。

「燃料代がなあ……」

 伊織が駆け出した。兵士の死体から自動小銃を奪い取り空の弾倉を交換する。

「あれ、あれ」

 不思議がる首から上とは無関係に銃口は上空のヘリへ向けられる。熟練した構えだった。

 戦闘ヘリが機関砲を発射する。アスファルトの破片を散らし兵士の死体を破裂させ着弾点が近づいてくる。

 伊織の銃が火を噴いた。反動を押さえ込みフルオートで全弾撃ち尽くす。

 異変が生じたのは数秒後だった。戦闘ヘリのローター音にノイズが混じり、尾部ローターから羽根の一部が外れて飛んでいく。ヘリがバランスを崩した。上昇しようとするが斜めに傾き、高層ビルの側面にメインローターがぶつかり変形する。擦れながら地面に落ちていき、爆発するまではあっという間だった。

「なかなかやるね」

 いつの間にか取り出した煙草を喫いながら大曲が言った。

「わ、私じゃ……私じゃない……」

 完璧な抹殺をこなした伊織は必死で首を振る。その背から滲み出たように黒い影が分かれ、着物の男となる。

「気にするな、やったのは俺だ」

 神楽鏡影だった。声に振り向いて伊織は愕然とするのみだ。神楽は彼女の肉体に同化していたのだろうか。

「おや、カンちゃん、消えたと思ったらそんなとこに隠れてたのかい」

 大曲の言葉に神楽は片頬を少し歪めて応じる。

「見境なく殺す奴がいるからな。だがカンちゃんというのは何だ」

「神楽だからカンちゃんでいいだろ。今、綽名を決めた」

 神楽が反論しようとした時、遠くから黒贄の呼び声が聞こえてきた。

「神楽さん、そんなところにおられたんですね。神楽さーん」

 戦車を片づけてしまったらしく黒贄が駆け戻ってくる。額に穴が開き内臓を引き摺らせた血みどろの殺人鬼。神楽が舌打ちして伊織に再び近づくが、強烈な拒絶の視線を受けて立ち止まる。

 黒贄と三人の距離が四十メートルほどまで縮んだ時、シュルリと風を切る音がした。

「伏せろっ」

 神楽が叫んで伊織を押し倒した。一瞬遅れて大曲が伏せる。黒贄はそのまま駆けてくる。その首筋を何かが水平に通り過ぎた。

 ゴロリ、と、黒贄の首が切れて落ちた。首を失った体の歩みは次第に遅くなり、横向きに地面に倒れた。それでも手足は暫く宙を掻いていた。

 黒贄の首を切断したものは浅く波打ちながら飛んでいく。細いワイヤーで直径三メートルの輪を作った凶器だった。フリスビーのように飛びながら緩くカーブし、装甲車の鼻面を削り大曲達の上を通り過ぎ駅の壁に吸い込まれて消えた。装甲の鉄板があっさり切れて落ち、コンクリートの壁には水平の切れ目が残っていた。

「今のは挨拶代わりだ」

 上方から声がした。駅の向かいにあるオフィスビルの屋上に、一人の男が立っている。

 男は白いTシャツにブカブカのズボンという服装だった。胴体の細さと不釣合いに、右腕がやたら太い。その手には輪になった細いワイヤーが握られていた。左手にも何本か束を持っている。ワイヤーは柔らかい材質のようで、今は普通の紐のようにだらりと垂れている。男はまだ若く、二十代半ばくらいだろうか。右の口角が左に比べて深く、右目は魚のように丸く大きかった。余裕のあり過ぎるズボンはアンバランスに太い右足を隠しているのかも知れない。

「俺はバルチェック。ノスフェラトゥ・セブンの一人だ。紫香楽伊織、あんたの始末を依頼された」

 標的と護衛達を見下ろして男は名乗りを上げた。

「ノスフェラトゥ・セブンか。ここ一年で急速にのし上がってきた暗殺組織だ。スケルトン・ナイツなき今、日本ではナンバーワンだろう」

 黒贄から目を離さずに神楽が説明する。もし黒贄の首が繋がっていれば「なるほど」と「全然」を使った十八番を喋っていたかも知れない。

 大曲が殺し屋へ気楽に手を上げた。

「わざわざ挨拶どうも。ついでに依頼人の名前も教えてくれるかい。録音しとくからよ」

「俺達全員に勝てば教えてやってもいいぞ。土台無理な話だが」

 バルチェックは口の右端を曲げて嫌な笑みを浮かべる。そのTシャツの胸に幾つも血の花が咲いた。下から神楽が狙撃したのだ。バルチェックは口から血を流しながらも笑い声を上げた。

「ハハハッ、無駄だよ。ノスフェラトゥ・セブンは全員が不死身だ。見ろ」

 バルチェックは左手のワイヤーをポケットに収めて代わりに剣鉈を引き抜いた。左のポケットからズボンの内側まで鞘ごと仕込んでいたのだろう。鉈の先端を自分の左胸に当て、ズブリと根元まで刺し通す。顔色一つ変えず、彼は更に鉈を抉ってみせた。

「最初に殺害予告するのが俺達の流儀でね。今日は挨拶だけだ。紫香楽伊織よ、精々怯えて逃げ回れ。不死の七人が地獄の果てまでお前を……」

 バルチェックが絶句した。黒贄が首のない状態で起き上がったのだ。自分の首を求めてか手探りしていたが、間違って兵士の死体から首を引きちぎる。結局自分のものを含めて四つの生首をまとめて抱え、伊織へ歩み寄る。黒贄の血塗れの顔はにこやかだった。伊織は目を見開いたまま凍りつき、「近寄るな」と叫んで神楽鏡影は逃げていく。

「お前ら、殺し屋の話をちゃんと聞いてろよ。俺の代わりに」

 そんなことを言いながら大曲は耳をほじっていた。

 黒贄の不死身ぶりにバルチェックの存在は霞んでしまった。殺し屋はギリギリと歯噛みして、下界の異常者達へ大声で怒鳴った。

「見ろっ俺を舐めるなよっ」

 バルチェックは剣鉈の刃を自分の喉に当てた。右手を添えて後方へと一気に押し込む。喉からうなじへ、刃が通り過ぎた。

 首が完全に切断された。頭部は後ろへ転がり、胴体はゆらゆらと揺れて前のめりに倒れた。十三階建てのオフィスビルから、地上へ。落ちながら手足が力なく泳ぎ、握っていたワイヤーと剣鉈が離れていく。首の断面から噴き出す血がビルの窓を汚す。

 ドチュリ、と、バルチェックの胴がアスファルトの地面に激突した。血溜まりが静かに広がっていく。

 首のない殺し屋の胴は、二度と動かなかった。

 死体で一杯の駅前に気まずい沈黙が落ちた。黒贄は他人の生首を自分の胴に合わせかけて間違いに気づいたようだ。大曲は反対の耳をほじり始めた。神楽は駅の壁に張りついてバルチェックの胴を見守っていた。

 やがて、紫香楽伊織が聞いた。

「あの、あれ……あの人……死んでますよね」

「そのようだな」

 神楽が答えた。黒贄も自分の首を頷かせている。

 空の装甲車を覗き込んで大曲が言った。

「帰るか」

 

 

  二

 

 正木政治邸の使用人は全員、一階のホールに集められていた。メイド、庭師、コック、警備員、営繕など、合わせて三十二人。執事の姿はない。

 ホールで待機するように伝えられて既に四時間が過ぎている。使用人達は互いの不安げな顔を見合わせ、一体何が起きているのかについて憶測を交わしていた。メイドの一人である紫香楽伊織がただならぬ様子で屋敷を出ていったこと。良く訓練されていた筈のドーベルマンが主人の正木政治に噛みついたこと。分かっているのはそれだけだ。彼らは仕事中は携帯電話の所持を許されておらず、ホールにテレビはない。年配の庭師は待ちくたびれて壁際に座り込み、煙草を喫っている。「なんかヤバイって。絶対」と若い庭師が繰り返している。

 入口の扉が開き、皆が一斉にそちらを向いた。

 岩巻執事の押す車椅子には、全身に包帯を巻いた正木政治が座っていた。首はカラーで固定され、腕には点滴の管が繋がっている。

 車椅子は扉の向こうに留まり、ホールには入ってこなかった。

「旦那様、大丈夫ですか」

 メイドの一人が尋ねた。正木は唯一無事な顔に愛嬌のある微笑を浮かべてみせた。しかし目は笑っていない。

「大丈夫だ。頚椎脱臼だったが障害は残らずに治るそうだ。犬に噛まれた傷も大したことはない。つまり、私の機能と本質に変化はないのだよ」

 最後の奇妙な台詞に使用人達は眉をひそめた。若い庭師が聞く。

「紫香楽さんはどうしたんですか。まだ戻ってきてないみたいですし、凄く怯えてたようですが」

「うむ。それは良い質問だ。しかし今、私の中には別の問いがある。本質的な問いだ」

 大きな瞳で使用人達を見渡して、正木は告げた。

「君達全員の形態が失われて混ざり合った場合、その本質にどんな違いが生じるのか。それが知りたい」

「え、どういう意味……」

 若い庭師が言いかけ、他の者達も首をかしげる。

 突然ホールの床が消えた。

 床が中心線で二つに分かれ、落とし戸となって開いたのだ。三十二人が支えを失いあっけなく落ちていく。メイド達の悲鳴。

 十メートル下にはホールと同じ面積のプールが待っていた。派手な飛沫は車椅子の正木には届かない。

「うわああっ助けてっ」

「なんで、なんでええっなんでこんなっ」

「熱い熱い、熱いいいっ」

「うわっ溶ける、溶けてるううっ」

 プールに満たされた液体は強力な酸だったのか、それとも酵素の一種だったのか、使用人達の服が皮膚がどんどん溶けていく。肉も溶け、滲み出た血が液体を赤く染めていく。美しかったメイドの顔もあっという間にただの赤い肉となった。凄まじい悲鳴。溶けた眼球が転がり落ちる。腹壁が破れ腸が零れる。助けを求め差し上げた手はほぼ骨だけとなっていた。

「形態が失われていく」

 下の出来事を冷静に観察し、正木が呟いた。

「しかし本質は変わらない筈だ。そうだろう」

「その通りです、旦那様」

 執事は恭しく返した。

「形態を失った彼らの給金はどう致しますか」

「そうだな。今月分は出すべきだろう。しかし、仕事をしないようなら解雇して新しい使用人を雇わなければならない」

「左様でございますね。紫香楽伊織の件ですが、八津崎市に逃げ込んだようです。マスコミと警察は押さえておりますが、八津崎市は少し特殊でして……」

「もう警察を動かすのはやめだ。後はノスフェラトゥ・セブンに任せよう。人は死ぬと喋らなくなる。逆にそれが死の定義とも言える。ぬはははは。全然面白くない。キョハッハッ、全然面白くない。オゲギャハハッ」

 感情の篭もらぬ笑い声が床のないホールに響き渡った。

 プールには白骨だけが浮いていた。やがてそれも溶けて消えた。

 

 

  三

 

「そのマサマサさんというのは、随分と真面目な方なんですねえ」

 伊織から事の経緯を聞いた黒贄が最初に述べたコメントが、それだった。

「あ、やっぱりな、クロちゃんもそう思うだろ」

 大曲が嬉しそうに言うが、伊織の視線を受けて片眉を上げながら目を逸らした。

 八津崎市警察署本部の署長室には四人の男女と一個の生首があった。署長の大曲源は自分の机にふんぞり返ってビーフジャーキーを食べている。黒贄礼太郎はソファーに腰を下ろしカップ麺を啜っている。はみ出た内臓も切り落とされた首も全て元通りになっているが、いつどうやって治ったのか誰も尋ねたりはしない。丈の低いテーブルを挟んで向かいのソファーにメイド服のまま紫香楽伊織がいる。食欲がないらしく、彼女の前に置かれたコンビニ弁当は開封されていない。

 テーブルの真ん中にバルチェックの生首が置かれていた。神楽鏡影が回収したものだ。神楽は伊織の隣に腰掛け、さり気なく黒贄の動きに注意を払いつつ生首を見つめていた。

 虚ろな目をしたバルチェックの頭頂部に木の棒が突き刺さっていた。棒の先端にあるのは瞼を縫い合わされた干し首だ。頭蓋骨を抜かれ、拳大に縮められた人間の頭部の皮。

「準備が出来ました。今後の方針を練る前にある程度の情報を確保しておきましょう。質問出来るのは私だけです。また、誰もこれには触れないで下さい」

 神楽が言った。この場から逃げ出したがっているような一人と、つい触れてしまいそうな一人が頷いた。大曲は無心にジャーキーを食いちぎる。

 命令口調になって神楽が生首に告げた。

「バルチェック。ノスフェラトゥ・セブンの構成人数を言え」

 死人の生首は答えなかった。代わりに脳天に刺さった干し首が小さな口を動かして甲高い声を洩らし始めた。

「ノスフェラトゥ・セブンは、俺を含めて七人だ」

 伊織が目を瞠る。黒贄は感心した様子で見守っている。

 神楽が生首への質問を続けた。

「他の六人も全員不死身なのか。お前と同じ程度にという意味だが」

「そうだ。皆、頭を拳銃で撃たれても心臓を抉られても死なない。俺は首を切って死んじまったが、仲間もそうなのかは知らん」

 死体の脳が持つ記憶を干し首が抽出して返事をしているらしい。喋らぬ筈の死人を魔術師・神楽鏡影はそうやって喋らせているのだ。

「仲間の名を言え」

「……ノーリターン。レイゲン。死村。ジョー・ダウン。左衛門。ゲンリ」

「リーダーはどいつだ」

「特に決まってないが、敢えて言うならノーリターンだろう」

「どんな奴だ。そいつの能力は」

「呪いをかける。かけられた奴は内臓が腐って死ぬか、狂って自殺する」

 神楽が舌打ちした。伊織が怯えた顔を上げる。黒贄と大曲は食べながら聞いている。いや、もしかしたら聞いていないかも知れないが。

「ノーリターンはどんな方法で呪いをかける。流儀は何だ」

「分からん。儀式の間は部屋に篭もって誰にも見せない」

「儀式に使うのはどんな部屋だ。祭壇か何かあるか」

「毎回、窓と壁を黒い布で覆う。祭壇はないが小さな黒い像を使うようだ。目と耳が沢山ついた顔の像だが、俺達には見せたがらない」

「……。知らん系統だ。呪いをかけるのに標的の名前や生年月日は使うか。標的の髪の毛は」

「名前と顔写真は使っているようだ。髪の毛や爪もあれば役に立つと言っていた」

 神楽が伊織の方を向いた。

「就職の際には履歴書を出したな。写真もつけたか」

「……はい。まずかったですか」

「履歴書は肉筆か」

「ええ、自分で書きました」

「毛髪や持ち物も簡単に手に入るだろうな。取り敢えず、これを着けていろ」

 神楽は袖の膨らみに手を入れ、板を人の形に切ったネックレスを取り出した。

「これに自分の名前を書いて、どんな時も離すな。一度だけなら呪術の身代わりになってくれる」

「はい。すみません」

 今日一日で様々なものを見てしまった分、伊織に迷いはないようだった。彼女が人型に名前を書いている間に、神楽は生首へ次の質問に移った。

「レイゲンの能力は何だ」

「変身だ。誰にでも、姿も声もそっくりに化ける。犬に化けたのも見たことがある」

「簡単に見分ける方法はあるか」

「刺してみればいい」

「……。死村というのはどうだ」

「体に毒がある。触られたら全身が腐って死ぬ」

「ジョー・ダウンは」

「大食いだ。人を丸呑みする。たまに消化液も吐く」

「左衛門は」

「剣を使う。一秒で十人斬り殺せると自慢していた」

「ゲンリは」

「コンクリや鉄の塊を操る。自分をコンクリで包んで巨人になることもある」

 カップ麺を食べ終わった黒贄は口元の面白そうな微笑を深めていた。眠たげな瞳の奥で渦巻くのは来たるべき殺し合いへの期待であろうか。

 電話機が鳴った。大曲が受話器を取り、少し話して黒贄に言う。

「クロちゃん、病院からみたいだぜ」

「これはどうも」

 黒贄は立ち上がってソファーを離れ、受話器と話し始めた。それを横目に神楽が生首への質問を続けた。

「お前達のアジトは何処にある」

「アジトはない。トレーラーで全国を移動する」

「ならどうやって仲間と合流する」

「携帯電話で連絡を取る」

「そうか。それで、今回の仕事を依頼したのは誰だ。正木政治本人か」

「電話してきたのは正木の執事だと思うが、受けたのが俺じゃないから分からん。正木のところからは、これまでも何度か依頼されたことがある」

 ジャーキーを食べ終えた大曲が胃薬を出して言った。

「まあどっちにせよ、死人の証言じゃあ裁判には使えんな」

「依頼のキャンセルは可能か」

 神楽が聞いた。

「それはあり得ない。依頼人が中止を申し出ようが関係ない。俺達は必ず仕事をやり遂げる」

「そいつぁ頑張り屋さんだね」

 大曲がコップの水で胃薬を飲み下す。

「ドウセ、オマエラハゼンインシヌ」

 干し首の口調が変わった。伊織の緊張する気配。

「ミナシヌヨ、ノスフェラトゥ・セブンヲタオシテモ、ツギカラツギ……」

「黙れ」

 神楽が親指と人差し指で干し首の両こめかみを挟んだ。

「ギエエエッ、ブッ」

 嫌な悲鳴を上げて干し首が黙る。神楽が生首から棒を引き抜いた。

「気にしないで下さい。この干し首は口の悪い奴でしてね」

 神楽は干し首の棒を布に包んで懐に仕舞った。

 受話器と喋っていた黒贄が「どうかよろしくお願いします」と見えない相手に頭を下げて電話を切った。大曲が尋ねる。

「どんな電話だったんだい、クロちゃん」

「困ったことになりました」

 神妙な顔で黒贄が言う。

「百一番の大谷五郎さんですが、全治三ヶ月だそうです。これでは次の凶器を選ばないといけませんね」

「えっ。全治って……生き……」

 伊織が絶句した。大曲と神楽は気まずげに目を逸らす。

 不可思議な沈黙をノックの音が破った。ドアを開けて制服の警官が顔を出す。

「今、紫香楽伊織さんの件でニュースやってますが」

「そうかい。じゃあつけとこう」

 大曲が右手を向けてテレビの電源を入れた。義手にはリモコンも内蔵されているらしい。神楽がバルチェックの生首を持ち上げ、「捨てて下さい」と警官に手渡した。

 テレビのニュース番組では狭間田駅の虐殺についてキャスターが深刻な顔で読み上げていた。

「警察と自衛隊の死者は百人を超える模様です。紫香楽伊織は仲間と共に逃走中で、現在も警察が全力を挙げて捜索を続けています。彼らの目的はまだ明らかではありませんが、国会へのテロを計画していたと推測されています。紫香楽伊織の自宅から十キログラムのプラスチック爆弾と拳銃などが見つかっています。両親と兄は本日午後より失踪し、現在も行方不明です」

「テロリストにされちまったみたいだな」

 組んだ手を頭の後ろに回して背もたれに身を預け、大曲が言う。

「俺のことは向こうも分かってるだろうが、名が出ねえのは八津崎市と直接事を構えたくないからだろう。警察や自衛隊が表立って市内に踏み込む心配はないと思うが。後は裏のやり取りだな」

「この際ですからはっきり言っておきます」

 神楽が伊織に告げた。口調は丁寧だったが目つきは厳しかった。

「あなたのご家族はまず十中八九、既に死んでいます。人質に取るなどというまともな手段を奴らが用いるとは考えない方がいい。もしご家族そっくりの顔や声であっても迂闊に近づかないことです」

 テレビ画面には死体の転がる駅前の様子が映し出されていた。やはり戦闘自体は録画されていなかったようだ。或いは放映を禁じられているのかも知れないが。

 伊織は俯いて、小さく嗚咽していた。落ちた涙がエプロンを濡らしていく。大曲が困ったように頭を掻いている。神楽は無表情を保っていた。

「どうして……どうしてこんなことに……。何も、悪いことをした訳でもないのに……」

「現実は理不尽なものです。善良な市民が何の理由もなく殺され、狂った殺人鬼がのうのうと生きていたりします」

 黒贄が言った。いつになく優しい声だった。

「しかし、それを正そうとする意志が存在することも確かです。私は全力であなたをお守りし、悪い奴らをズッパズッパとやっつけるつもりです」

「クロちゃんが言うと全く説得力ないけどな」

 ただ泣いている伊織の代わりに、大曲が小さく小さく呟いた。

 テレビには正木政治のインタビュー映像が流れていた。

「こんなことになって非常に残念だ。彼女がテロリストだとは今でも信じ難い気がする。彼女がうちで働いてまだ二ヶ月だが、真面目で性格の良い人だと思っていた。今になって考えると目的があって私のところに就職したのかも知れないが。このマサマサに人を見る目がなかったということだろう。これからは警察にも協力して、真実の解明に全力を尽くしたい」

 穏やかに語る正木は車椅子に乗り、全身に包帯を巻いていた。首にはカラーをつけている。

「あの、ところでマサマサ先生、そのお体はどうなさったんですか」

 インタビューアーが尋ねる。正木は苦笑するが目は笑っておらず真正面からカメラを見据えていた。

「宙返りの練習をしていて着地に失敗してね。ついでに飼い犬にも噛まれたよ。後遺症は残らないそうだから心配無用だ。このマサマサ、日本の未来のために頑張ります」

「はあ、宙返りですか……」

 インタビューアーもあっけに取られている。

 伊織の膝に載せた拳に力が入り、小刻みに震えていた。歯を食い縛っているようで顎の筋肉が盛り上がっている。

 再びドアがノックされ、さっきの警官が顔を出した。

「署長、何やら妙な男が来てます。黒贄、いえ黒贄さんに会いたいということですが」

「ほほう、私をご指名ですか。ノスフェラトゥ・セブンの方ですかね」

 立ち上がった黒贄は妙に生き生きとしている。伊織が顔を上げた。既に涙は消え、充血した目は怒りに燃えている。

「名前は名乗ったかい」

 大曲が尋ねた。

「ええ、ブラックソードとか……」

「ははあ、あのブラックソードですか」

「心当たりがあるのかい」

 お義理程度に大曲が聞くと、黒贄はこれが言いたかったというように満面の笑みで首を振った。

「いえ、全然知りませんな」

 その時若い男の悲鳴が署内を揺るがせた。黒贄が素早く警官を押しのけて出る。伊織に「ここにいろ」と告げて神楽が続いた。大曲はゆったり立ち上がってドアから覗くだけだ。

 大半の机に花瓶が置かれたフロアにも数十人の警官が戻ってきていた。彼らは拳銃を抜き壁のショットガンを取り上げながら玄関へ駆けていく。

「ちょっと失礼」

 黒贄が警官達を掻き分けて先を急ぐ。押された警官の一人が壁に頭をぶつけて首を折る。

「うわああっ、腕が、僕の大事な腕がああっこれじゃあ凶器が持てないよううっ」

 膝をつき喚いているのは上半身裸の若者だった。青いズボンと帽子から一応は警察官らしい。引き締まった体つきをしているが、その右腕が上腕半ばで綺麗に断ち切られていた。床に転がる腕はハルバードを握ったままだ。

 殺人鬼警察官・城智志だった。

 城が悲鳴の息継ぎをする合間に、口笛に似た美しい音色が聞こえている。ヒュールルル、という、切なく澄んだ音。

 城の前に立つ男からその音は発せられているようだ。薄汚れたダークグレイのロングコートを着た男。同じ色の鍔広帽を目深にかぶっており顔は見えない。黒い革製の手袋を填めた右手が、黒い両刃の剣を無造作に垂らしている。

「ほほう……」

 黒贄は一瞬で相手の力量を悟ったらしかった。夢見るように緩んだ口元から涎が垂れ始める。

「これはこれは、相当におやりになる方のようだ」

「お主が黒贄礼太郎か。事務所を訪ねたが不在だったので探し回った」

 笛に似た響きがやみ、錆びついた機械のように低く掠れた声がした。

「はい、通称クラちゃんです」

「用があるのはお主だけだ。他の者を傷つけるつもりはない。この男はいきなり襲ってきたので応じたまでのことだ」

「怪しい奴でしたから、ちょっと殺しとこうと思って」

 情けない泣き顔で城が言う。腕からの出血は勢いが弱くなっていた。

「まあまあ、殺人鬼がこの程度のことで泣いてはいけませんよ。どなたか裁縫セットを持っておられませんかね」

 警官の一人が手を上げて、城とちぎれた腕を引いて処置室へ消えた。腕はまだハルバードを握っていた。他の警官達は銃を構えているものの、二人の魔人を前に身じろぎも出来ずにいる。神楽は目を見開いて、かなりの距離を取っていた。

 床に残った血溜まりを挟んで、黒贄礼太郎と鍔広帽の男が対峙する。重苦しい空気に気づかぬように黒贄が聞いた。

「さて、どんなご用件でしょう」

「わしの名はブラックソードという。スケルトン・ナイツの元幹部だ」

 黒贄の瞳が一瞬で冷えた。涎を礼服の袖で拭き、微笑を浮かべていた唇も一文字に引き締められる。

「なるほど。全く存じませんと言ってみたいところですが、存じ過ぎるほど存じておりますよ。落とし前、ということになりますかな」

「そういうことだ。立ち合ってくれるか」

「勿論お受けします。私としても、彼女を苦しめた奴らを一人でも生かしておく訳には行きませんので」

 言葉遣いは変わっていなかったが、底冷えのする声の響きだった。

「……彼女とは、角南瑛子のことか」

「そうです。表に出ましょうか。それとも今ここで始めますかな」

 フロアの一番奥から神楽鏡影が警告した。

「黒贄。そいつは、化け物だぞ」

「ご安心下さい。私もたまにそう言われますので」

 黒贄は振り向きもせず答える。ブラックソードが静かに聞いた。

「武器は持たぬのか」

「そうですね。ちょっとお待ちを」

 黒贄はフロアを見回した。警官達が何故か後じさる。黒贄は手近にある金属製の机に目を留めた。机の端を掴み、片手で高々と持ち上げる。載っていた花瓶が滑り落ちて割れ、枯れた花が散らばった。

「これでいいでしょう」

 黒贄は言った。その瞳の奥で恐ろしい何かが蠢いている。

「なるほど。一人でスケルトン・ナイツを壊滅させただけのことはある」

 ブラックソードの鍔広帽が軽く頷いた。彼もまた、黒贄の本質に気づいたのだ。

「では、表でやるか」

 ブラックソードが踵を返した。黒贄が背後から攻撃しないと信じているのか。それともどんな攻撃にも対処する自信があるのか。見守るだけの警官達は息を呑んだ。

 再び、あの口笛のような澄んだ音が流れ始めた。

 黒贄が動き出す前に、別の場所からかかった気の抜けた声が緊迫感をぶち壊した。

「あー、ちょっといいかい」

 署長室の入口から覗いていた大曲源だった。澄んだ音が止まりブラックソードが振り返る。大曲は大儀そうに歩いてきて、机の一つに「よっこらせ」と尻を載せた。

「そりゃあ、果たし合いってもんに口を出すべきじゃねえことは分かってるが、クロちゃんには仕事を頼んでる身でね。俺はクロちゃんを信用してるから負けるとは思ってねえが、万が一にも仕事に支障を来たすようじゃあ困るんだ。いや、本当に信用はしてるんだが」

 大曲のある種投げ遣りで疲れた態度からは彼が何処まで本気で言っているのか判断出来ない。

「それで、何を望む」

 ブラックソードが尋ねた。

「だからこっちの仕事が終わるまで、果たし合いはお預けってことにしてくれねえかい。別に急ぐこともねえだろ」

 天井を擦りそうなほどに机を掲げたまま黒贄が考え込む。

「ううむ、確かにそうですな。生きている人を殺すのはいつでも出来ますが、亡くなった方を生き返らせるのは私には出来ませんからねえ」

「そうか。わしももう暫くはここに留まれる。待とう」

 ブラックソードが言った。緩く握った左拳に黒い剣の切っ先を当て、ジショリショリと低い音をさせて押し込んでいく。見えない鞘に収まるように刀身が消え、やがて柄も消えた。

「ありがとさん。ところでお前さんもかなり強いみたいだが、待ってる間することがねえならついでにこっちの仕事を手伝っちゃくれねえかな」

「どんな仕事だ」

「か弱いメイドさんを悪魔のような殺し屋集団から守るって仕事だ」

「……いいだろう。手伝ってやる」

 あっけなく承諾され、提案した大曲自身も流石に意外そうな顔をした。

「ブラックソードだったか、お前さん、性格が素直だって言われたことないか」

「いや、そんなことを言われたのは初めてだ」

 ブラックソードの声は珍しく笑みを含んでいた。ただし、鍔広帽とコートの襟で隠された顔は表情どころか目鼻立ちさえ分からない。

「まあ、仕方がありませんな」

 黒贄が机を元に場所に置いた。警官達も安堵の息をついて銃器を収める。

「つきました、くっつきましたよーっ」

 処置室から大声を上げて飛び出してきたのは城智志だった。右上腕の切断部が白い木綿糸で乱暴に縫い合わせてあった。

 城は嬉しそうに右手を上げてヒラヒラさせてみせた。

「ほら、ちゃんと動きますよ。やっぱり『求めよ、さらば与えられん』なんですね。ばんざーい。ばんざーい」

 溜め息を一つついて、大曲が言った。

「作戦会議に戻ろう」

 

 

  四

 

 厚い雲が月を隠す濁った夜空の下、灰色のトレーラーが篭もったエンジン音を響かせて国道を進んでいる。

 トレーラーは派手な電飾とは無縁で、側面には『仕事完遂』という言葉がペイントされていた。

 牽引車には二人の男が乗っていた。運転しているのは顔に何十個ものピアスをつけた若い男だった。ボルトが頭に刺さっているように見えるものもある。

 助手席では異様に細い顔をした男が目を閉じている。年齢は五十才前後であろうか、揺れる車内で微動だにしない姿勢は置物のようでもあった。

 カーオーディオは鳴らしておらず、後方からは微かに男達の話し声が聞こえている。

 やがて、細面の男が目を開けた。

「バルチェックは死んだようだ」

 猫撫で声に似た低い囁きは不吉な印象を与えた。

「へえ」

 運転手はピアスの刺さった眉を上げただけだ。後方、トレーラーの中から声がかかった。細面の男の囁きが届いていたらしい。

「まさか。ちょっと信じらんねえな。でもまあ、お前の言うことだから本当なんだろうな」

 トレーラー内部には四人の男達がいた。隅の方に寝袋が転がり、小さな冷蔵庫とテレビもあるためここが一応の生活空間になっているらしい。ただし、それ以外の家具はなく殺風景なものだ。

 二人の男が数メートルの距離を挟んで向かい合い、ダーツを飛ばし合っている。標的は相手の体で、尖った先端が突き刺さっても互いに気にしないらしい。自分の顔に刺さったダーツを抜いて相手に投げ返すという遊びを二人は延々と続けている。

 その片割れ、牽引車へ声をかけた男には顔がなかった。髪も耳も目鼻もなく、のっぺりした白い肌に唇のない口が裂け目のように開いているだけだ。その奥の真っ赤な舌がピラピラと動いた。

「そんなに強い相手がいたのかね。しかし参ったな。ノスフェラトゥ・セブンなのに六人になっちまった。欠けた分をスカウトしねえとな。不死身の奴を」

 顔のない男の口調に仲間を失った動揺は認められない。

 黙々とダーツを投げ返すもう片方は、やたらと大きな口の男だった。疎らな髪に小さな目、鼻はあるかなしか程度に低く鼻孔も平たい。顔全体と首筋に皺が多く、皮膚が弛んでいる。迫るダーツを避けようともせず、小さな左目に先端が刺さる。大口の男は無造作にそれを抜き、顔のない男に投げ返す。出血は殆どなく、角膜に開いた穴はもう塞がりかけていた。

 別の隅には五人目の男が座布団の上に胡坐をかいていた。薄手のコートを羽織り腕組みしている。顔の半ばを覆ってしまった長髪の隙間から、鋭い目が虚空を見据えて動かない。

 反対の壁際には紫色にむくんだ顔の男が陰気に膝を抱えていた。角膜は白濁し、皮膚のあちこちに醜い吹き出物がある。両手の指は一部肉が削げて骨が見えていた。

「腐るんだ。腐る……畜生。なんで俺だけ……みんな、腐っちまえ……」

 むくんだ顔の男は独りでボソボソと呟いている。

 牽引車の方から細面の囁きが届く。

「紫香楽伊織は八津崎市に入った。保護したのはそこの警察署長らしい。八津崎市には正木の権力も及ばないということで、警察と自衛隊は手を引くようだ」

「丁度いいんじゃねえ。いつもみたいに俺達だけでやりゃいいんだろ」

 顔のない男が言う。長髪の男が視線を動かさぬまま牽引車へ問うた。

「バルチェックを殺したのは八津崎市の手の者か」

「おそらくそうだろう。まだ依頼人からの情報はないが」

 囁きが答える。

「関わった者は全員殺さねば。そうでないとノスフェラトゥ・セブンの面子が立たない」

 長髪の男の声には昏い怒りが滲んでいた。顔のない男がダーツを投げながら言う。

「先に女だけ呪い殺しちまえば。暗殺業は何より結果が優先だからな。その後でじっくり八津崎市とかの警察を皆殺しにすりゃいいだろ」

「敵方に魔術師がいるようだ」

 牽引車の助手席で、細面の男は紫香楽伊織の顔写真を握っていた。

「先程までは、標的の命は私の手の中にあった。今は手から抜け出して宙を泳いでおる。魔術戦になるかも知れん。呪殺にはいつも以上の準備が必要だ」

 長髪の男が言う。

「ならば俺達で片づけよう。標的より先に護衛を皆殺しにした方が、ノスフェラトゥ・セブンの力を見せつけられる」

「ハラ」

 湿った声がした。大口の男が口を閉じたまま喋ったのだ。

「ジョーが腹減ったとよ」

 顔のない男が牽引車へ告げる。

「オンナ」

「若い女がいいんだと」

「了解」

 ピアスの運転手が応じた。暗い国道の前方に明かりが見える。コンビニから洩れる光。少年達が地面に腰を下ろして談笑している。少女はいない。

 自動ドアが開いて、若いカップルが買い物袋を提げて出てきた。どちらもまだ二十代の前半だろう。男に微笑みかける女の綺麗な横顔が照らされる。

 ピアスの男は左腕を上げて車の天井に触れた。腕にも十数個の金属が刺さっている。

 トレーラーがコンビニへ近づく。若いカップルは軽自動車に乗り込もうとしてドアを開ける。

 そのまま通り過ぎるかと思われた刹那、トレーラーが変形した。牽引車とトレーラーの屋根が繋がって波打ち、触手のようにしなって伸びる。

 金属の触手は若いカップルを捕らえ、一瞬で引き戻された。二人をトレーラー内に放り込むとすぐに元通りの屋根となる。コンビニ前にたむろしていた少年の一人が「あれっ」と言った時にはトレーラーは遥か先を走っていた。

 大食い男ジョー・ダウンは、女を丸呑みにしていた。顎が折り畳み式になっているのか信じられないほどに口が広がり、皺がなくなった喉が女のもがく腕の形に盛り上がっている。女の上半身が消え、ゴクリ、ゴクリ、と少しずつ、全身が消えていく。両足のバタつきが痙攣に変わっていく。

「うわあああっ、由実、由実いっ」

 男の方が喚きながらジョーにしがみつこうとした。ジョーがあっさり押しのける。勢い良く飛ばされてきた男を長髪の男が掌で止めた。むくんだ顔の男はまだ独り言を続けている。

「ソレ、ダメ」

 ジョーが言う。もしかすると口以外の場所から声を出しているのかも知れない。腹部は異様に膨れ上がり、口からはみ出しているのは女の靴だけになっていた。

「男の方は要らんとよ」

 顔のない男が通訳する。

「なら捨てよう」

 長髪の男が立ち上がり、拉致した男を左手で掴んでトレーラーの後部ドアを開け放した。夜の道路が後方へ流れている。腰まで届く髪が踊る。

「や、やめろっ由実、由実いいっ」

 男が暴れるが肩を掴んだ手は外れない。

 長髪の男が、男を外へ突き飛ばした。

 瞬間、銀光が幾重にも閃いた。

 転げ落ちた男はアスファルトにぶつかる前に、五センチ厚の輪切り肉に分解されていた。切れた腸や内臓を零して散らばったものを後続車が轢いていく。

 長髪の男は二振りの剣を握っていた。八十センチほどとやや短い両刃の剣だ。長髪の男は両手を上から肩へと回し、背中に隠した二本の鞘へ剣を収めた。そして後部ドアを閉めた。

 若い女は完全に呑み込まれ、ジョーの膨れた腹はゆっくりとしぼみ始めていた。

「殺される側の気持ちを考えたことはあるか」

 牽引車の助手席で、細面の男が囁くように聞いた。

「全くないね」

「ない」

「ナイ」

「ないな」

「……ない。俺がこの世で一番不幸だ」

 全員から同じ答えが返ってきた。

「私もない」

 細面の男は唇を歪め、酷薄な笑みを浮かべた。

 

 

  五

 

 誰かの悲鳴が聞こえる。

 紫香楽伊織は目を開けた。ベッドの上。彼女は身を起こし自分の体を確認する。藍色の制服に白いエプロンのままだった。

 室内を見回す。カーテンの隙間から朝の日差しが洩れている。壁紙が異様なものになっていた。黒地に赤い曲線が緻密に描き込まれたもの。床と天井にも貼られている。

「何これ……」

 伊織の呟きに良く通る声が応じた。

「精霊迷路と呼ばれるものです。敵の魔術による攻撃を撹乱する効果があります。無効な系統もありますが」

 伊織は驚いて床を見る。ベッドの下から音もなく神楽鏡影が滑り出てきた。忍者のような黒ずくめで、頭巾をかぶって目元以外を隠している。いつでも戦闘態勢ということらしい。

「あ、あの、そこで、寝てらしたんですか」

 呆れ顔になって伊織は尋ねる。

「いえ、眠ってはいません。事が片づくまで眠る訳には行きませんね。一瞬の油断が命取りになりますから」

「はあ……でも、眠くないんですか」

「一ヶ月程度なら眠らずとも集中力を維持出来ます。あなたは充分眠れたようですね。睡眠薬が役に立ったようだ」

「ええ。お陰様で。……なんだか、昨日のことが、夢だったみたいな気がして……」

「残念ながら、全て現実です」

 神楽の口調は丁寧だったが容赦なかった。伊織の瞳が潤み、彼女は両手で目元を押さえた。神楽は続けた。

「昨日渡した丸薬は毎食後と寝る前、忘れずに飲んで下さい。ある程度までの負傷なら自然に治る筈です。首の切断や心臓の完全破壊には対応出来ませんから気をつけて下さい。それからブレスレットは入浴中も外さないように。それがないと呪術をあなたが直接受けることになります」

 伊織は左手のブレスレットを確認する。銀製で、表と裏の両面に奇妙な文字が彫られている。

「……このブレスレット、呪いの効果をあなたに押しつけるってことなんですよね」

「ええ、そうなる筈です」

 窓のそばに立ち、神楽は頷く。

「すみません。こんなことになって」

「私はこの手の戦いに慣れています。向こうは私の素性を知らない筈ですから、少しは有利に戦えるでしょう」

「そうですか。でもすみません」

 伊織はもう一度謝った。

「ギエエエッ」

 若い男の悲鳴が聞こえた。割と近くからだ。身を竦ませる伊織に神楽が言った。

「気にしないで下さい。この街では日常茶飯事ですから」

「そうですか……。あの、ちょっと……」

 伊織の視線がクローゼットに向いていることに気づき、神楽は覆面の下で苦笑したようだった。

「これは失礼。出ています」

 足音を立てず神楽は寝室を出ていき、ドアを閉めた。ドアの内側にも赤い迷路が貼ってあった。

 やはり迷路が貼られた扉を開けると男性用・女性用両方の衣服が吊られてあった。衣装ケースには下着の替えもある。女性用の服は何故か変わったものが多く、セーラー服や毛皮のビキニ、黒いレザーのボンデージまである。伊織は顔を赤らめながら、無難な白のワンピースを選んで着替えた。

 寝室を出るとリビングも赤い迷路の壁紙で埋め尽くされていた。ここは古いマンションの一室で、大曲源が証人などを匿うために独自に用意している場所だ。その大曲はソファーで軽いいびきをかいている。神楽の姿はない。壁の時計は八時二十五分を指している。

 壁に背をもたせてブラックソードが立っていた。ダークグレイのロングコートと同じ色の鍔広帽は室内でも脱がない。

「メイドインジャパン」

 大曲がいきなり意味不明の呟きを洩らした。伊織が覗き込むとやはり眠っている。緩んだ口元は笑っているようでもあった。

「寝言だろう」

 金属の軋みに似た低い掠れ声が告げた。ブラックソードの声。

「お、おはようございます」

 伊織が挨拶すると、ブラックソードも帽子を僅かに傾かせて「うむ」とだけ言った。相変わらず顔は覗けない。

「署長さん、良く眠ってますね。皆さん、夜更かしなさってたんですか」

「いや、署長はお主より早く寝た筈だ」

「ブラックソード、さんは」

 遠慮がちに「さん」をつける。

「わしは眠らない。眠ったのは随分と昔のことだ」

「……。あの、ちょっとお尋ねしてもいいですか」

「何だ」

「ブラックソードさんって、それが本名なんですか」

「そうだ。ただし、自分でつけた名前だ」

「じゃあ、その前はどうしてたんですか」

「名はなかった。わしの出自は、お主達とは違うのでな」

「……そうなんですか。あの……不躾で、申し訳ないですけど、殺し屋をなさってるとか」

「そうだ。暗殺組織に入っていた。罪のない者も大勢殺してきた」

 ブラックソードの声音に感情の変化は窺えなかった。伊織は俯き、やがて、次の質問を投げた。

「あの、すみません。嫌なことをお聞きしますけど。人を殺すというのは、どんな気持ちなんですか」

 理不尽な殺人を目の当たりにした娘に、ブラックソードは数秒の沈黙の後、答えた。

「あまり良いものではない。だが、わしの力は殺すことだけで、他に出来ることは何もなかった。これは宿命だ。わしもいずれは、わし自身がやってきたように残酷なやり方で殺されるだろう。その時には決して文句を言うまいと、そう、思っておる」

「……悲しい、生き方ですね」

 また俯いて、伊織は小さな声で言った。

「仕方のないことだ」

「すみませんでした。余計なことを聞いてしまって。でも、もしかしたら、他の生き方も出来たら、なんて、思いませんか」

「残念だが、もう遅い」

「……すみません」

 伊織は三度目の謝罪を口にした。

 外で何やらゴソゴソと音がする。伊織が玄関の方を見やるとブラックソードが言った。

「黒贄だ。今しがた出発したばかりだが戻ってきた」

 やはり迷路の貼ってある玄関のドアを開けると、共用通路の突き当たりに黒贄がいた。大型のポリバケツに何かを押し込んでいるようだ。

「あの、黒贄さん」

 伊織が声をかけると黒贄礼太郎は振り向いてにこやかに挨拶した。

「おや、紫香楽さんおはようございます」

「おはようございます。もう出発されるんですか」

「ええ、ちゃんと凶器の準備も出来ましたので。昨日くじを引いてもらった四十二番です。ご覧になりますかな」

 黒贄の足元に大きなスポーツバッグがあった。異様に長い金属の柄がはみ出している。端には袋がかぶせてあった。

「い、いえ、結構です」

 伊織は慌てて首を振った。

「皆で朝ご飯を食べてからにしようかとも思ったのですが、これを早く使いたくなってしまいましてね」

 黒贄は嬉しそうに金属の柄を撫でた。伊織は軽く身震いするが、思うところがあるらしく、一つ深呼吸をしてから問いかけた。

「あの、黒贄さんは、殺人鬼、ということでしたね」

「ええ、その通りです。それはもう殺しまくりですよ。殺人あってこその我が人生ですから」

 誇らしげに黒贄は答える。それはブラックソードの陰鬱な悟りとはまた異質のものだった。

「それで、あの、殺人鬼で、いらっしゃるのに、どうして私を、守って下さるんですか。無報酬と聞きましたけど」

 黒贄の無邪気な顔に翳りが落ちた。面白がっているような微笑が、痛みを伴う苦いものに変わる。

「すみません。どうしても、確かめておきたかったんです。あれだけのひどい人体実験をして、沢山人を殺した正木政治と、あなた方が……」

 本質的にどう違うのか。おそらくはそんな台詞が続くのであろう。しかし彼女の言葉はそこで途切れた。

「さて、どうでしょうか。何も違わないのかも知れません」

 黒贄は質問の意味を理解していた。

「ただ、私にも感情はあります。誰かの役に立ちたい、誰かを助けたいという気持ちもあるんですよ。私が殺人鬼であることの償いをしたいとか、そんなこととは全く関係ありませんけれど。……以前、別の女性の護衛を引き受けたことがあります。しかし、守りきることが出来ませんでした。私がもう少ししっかりしていれば、彼女は今も私のそばにいて、笑いかけてくれたかも知れない。もしかすると、料理も作ってくれたかも知れません。しかし現実には今、彼女は動かぬ骨で、私は三食パックで百円のインスタントラーメンを食べています。ずっとそれが、心に残っています。あなたの護衛を無報酬で引き受けたのは、そういうことです」

「……そうですか。辛いことを思い出させてしまって、申し訳ありません」

 伊織は頭を下げた。黒贄はただ微笑していた。スポーツバッグを拾い上げ、彼は続けた。

「本当はあなたのそばについていたかったのですが、まあ、作戦ですから仕方ありません。他の皆さんもかなり有能な方ですから、ご安心下さいね。それでは、行って参ります」

「行ってらっしゃい」

 伊織も微笑を返して手を振った。それはまだぎこちない微笑だったが、努力は感じられた。

 黒贄が階段へ消えた後、伊織は奥のポリバケツに目を向けた。蓋との隙間から布がはみ出している。衣服の一部だろうか。

 伊織は歩み寄って、バケツの蓋を取った。

 ポリバケツの中には折り畳まれた男の死体が詰まっていた。潰れた顔から片方の眼球がはみ出している。喉が大きく裂けた、まだ新鮮な死体だった。

 悲鳴はとっくに聞こえなくなっていた。

 

 

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