第三章 地獄行きパレード

 

  一

 

 空は雲一つない快晴だった。通りは車の往来が禁止され、歩道は大勢の市民で賑わっている。ビニールシートの上で弁当を食べている家族もいる。三脚を立てて大きなレンズのついたカメラを構えている者や、デジカメを持った者も多かった。テレビ局の取材班も来ているようで、テレビカメラやマイクを抱えた男達と若い女が打ち合わせをやっている。要所要所に警官も立っていた。

「今日は何かイベントがあるんですかね」

 小さな定食屋で素うどんを食べていた黒贄礼太郎が店主に尋ねた。

「フライデーズの優勝パレードだよ。お客さんは地元のもんじゃないみたいだけど、馬締市はアイスホッケーが人気でね。先月日本一になったんだ。もう十三回目だよ」

 中年の女店主は少し自慢げだった。

「ほほう、フライデーズとはあのフライデーズですか」

「へえ、フライデーズのことは知ってたのかい」

「いえ、それが全然知りません」

 黒贄はにこやかに言い放って店主を絶句させた。

「しかしありがたいことです。マスコミの皆さんも来ておられるようで、わざわざ呼ぶ必要がなくなりましたからね」

 うどんを食べ終わり汁まで全部飲んでしまうと、「ご馳走様でした」と手を合わせて黒贄は立ち上がった。代金三百円を支払い、自分に言い訳するように呟く。

「やっぱり、お腹が空いては戦は出来ませんからねえ」

「これからお仕事かい。植木職人か何かなんだろ」

 黒贄のスポーツバッグを見て店主が聞く。先端を袋で隠した長い金属の柄が飛び出している。

「いえ、ちょっと違います。確かに職人ではありますが、ある意味芸術職でもありますな」

「へえ、まあ、頑張ってきなよ」

「それはもう頑張りますとも」

 黒贄は定食屋を出てすぐにスポーツバッグを置き、四十二番の凶器を取り出した。全長二メートル弱、途中にU字型のハンドルが延び、後端にエンジンがついた作業機械。袋を取り除くと先端は鋸歯の円盤だった。

 ガソリン駆動式の草刈り機。刈払い機とも呼ばれるものだ。凶器を見つめる黒贄の目は甘い歓喜に潤んでいた。タンクのガソリンはほぼ満タンだ。

「フンフフンフフーン」

 上機嫌に黒贄がスターターを引く。一回、二回。三回目でエンジンがかかった。近くにいたパレード待ちの人々が怪訝な顔で見ている。中年の男が黒贄に声をかけた。

「おい、兄ちゃん、こんな時にそんなもん動かすなよ。危ねえだろ」

「いえ、危ないからいいんですよ」

 黒贄は付属のストラップを肩掛けして草刈り機を吊り、両手でハンドルを握った。長い柄の先で円盤が回っている。ハンドルについたレバーを操作して回転数を上げる。

「うわっ、だから危ねえだろって」

 中年男が両手で身を庇うようにして後じさった。黒贄がハンドルを持つ腕ごと上半身をひねった。回転鋸が斜め上へ弧を描く。ジャリジャリ、と、引っ掛かる何かを無理矢理断ち切る音がした。

 二つの肉がボトリと落ちた。前腕半ばで切断された左右の腕。ズタズタになった醜い断面から血が滲んでいく。

「ですから、危ないからいいんですよ」

 なくなった自分の両腕を見て中年男が叫ぼうとした。その喉がパックリと斜めに裂けた。男の首が後ろへ傾き、胴から完全に外れて転がり落ちる。黒贄は草刈り機の一閃で三つのものを切断していたのだ。

「うわああっ」

 近くの者達が悲鳴を上げた。それは通りに詰めていた大勢の歓声に掻き消された。

「来たぞー」

「フライデーズだっ」

 二台の白バイに先導され、赤いオープンカーが通りをやってくる。低速で進みながら、助手席と後部座席に立つ男達が人々に手を振り返している。

「良く頑張ったー」

「優勝おめでとう」

 大勢の市民が選手達に温かい言葉を投げかける。選手達は皆競技用のユニフォームにプロテクターを着けていた。後続のオープンカーもどんどんやってくる。女性レポーターがカメラに向かって何か話している。選手達がスティックを振ってパックを人々の列へ打ち込んでいる。サービスのつもりらしい。パックが額に当たり血を流しながら笑顔で手を振る人もいた。

 と、声援が怒涛の悲鳴に変わった。車道によろめき出た何人かの市民。首がちぎれた男、内臓をはみ出させた女。両足を失って泣いている少年もいる。報道カメラがそちらを向き、女性レポーターが「あれっ」と言った。

 よれよれのブラックスーツを着た長身の男がオープンカーの進路に悠然と立ち塞がった。草刈り機を持った黒贄礼太郎。柄の先端で円盤が回転しながら新鮮な血糊を飛ばしている。

 黒贄はとろけるような微笑を浮かべていた。

「おわわわわあーっ」

 逃げ惑う人々。あっけに取られて立ち竦む人々。先頭の白バイが慌ててブレーキをかけるが、二台共転倒してそのまま滑っていった。乗っていた警官の首がなくなっていた。黒贄が二台の間に立ち、一度のスピンで二人の首を刎ねたのだ。

「ほりゃ」

 黒贄が跳躍した。オープンカーのフロントガラスを軽々と飛び越えて後部座席に着地する。

「な、何だっ」

 助手席の男が叫んだ。いかつい顔をした四十代の男で、彼だけがジャージ姿だ。

「ちょっとお邪魔しますね」

 黒贄が言いながら草刈り機を振った。ジャリジャリと刃が通り過ぎ、男の首が半ばほどまで切られブラブラと揺れる。血を噴き出してもがく男の頭を左手で掴み、黒贄は人々の列へ投げ捨てた。

「うわあっ、監督がっ」

「し、死んだあ」

 黒贄の左右に立つ選手達が篭もった声で叫ぶ。後続のオープンカーに立つ選手達も動揺している。

「監督がくたばったあっ」

「鬼監督がっ」

「バンザーイ、バンザーイ」

 選手達はスティックを振り上げてバンザイを繰り返す。選手達は何故か全員、ゴールキーパー用のフェイスマスクで顔を隠していた。

 選手達の喜びの声につられ、人々の悲鳴もやがて歓声に変わっていった。

 大勢の見物客が手を振る中、八台のオープンカーが通りを進む。先頭の車で黒贄は満足げに立っている。スポーツバッグから出していた布を広げ、草刈り機の柄に取りつける。

 かけられた垂れ幕には、『ノスフェラトゥ・セブンは腰抜け集団』と下手糞な字で書かれていた。

 黒贄は旗でも振るように草刈り機を振る。垂れ幕に書かれた台詞が人々の目に留まる。唖然としていた取材陣が慌ててオープンカーを追いかける。スタッフの一人は生中継出来ないかと携帯電話に交渉していた。

「さて」

 黒贄は草刈り機を左手だけで持ち、右手で手帳を開いた。目的地までの簡単な地図と、『マスコミは殺さず誘導すること』というメモ書きがあった。

「あ、そこの交差点を右に曲がってもらえますか」

 黒贄が指示すると運転手は泣き顔で従った。

 パレードは進路変更した。後続の車も殺人鬼の乗ったオープンカーについていく。人々は歓声を上げ手を振りながらパレードを追う。その人数は雪ダルマ式に増えていった。

 

 

  二

 

 八津崎市、串坐師町の高級住宅地。一角にある屋敷の広い庭に灰色のトレーラーが駐車してある。側面には『仕事完遂』の文字があった。

 一階のリビングで、住人でない男達が昼食を摂っていた。中央のテーブルに大きな鍋が置かれ、皿も使わず直接箸でつついて食べている。いや、素手を突っ込んで具を掴む者もいる。剣で刺して取る者もいる。鍋の中身は野菜や米や餅やドロドロになったパンやその他雑多なものが一緒くたに煮えていた。彼らは味などどうでもいいのだろうか。

「美味いなあ」

「美味い美味い」

 彼らは感涙に咽びながら食べていた。顔を覆う長髪の男は前髪全体が涙に濡れ、顔のない男は何処からか分からないが涙を滲ませている。一秒十殺を豪語する剣士・左衛門と、変幻自在に化ける男・レイゲン。

「やっぱり野菜だよなあ」

「米、米だ」

「野菜野菜」

「畜生、味がない」

 紫色にむくんだ男だけが恨めしげだった。

「何を食べても味がしない」

 男の舌は全体が爛れていた。全身に毒を含む男・死村。

「誰だっ、肉を入れやがったのは」

 顔中ピアスの若者が叫んだ。コンクリートや鉄を自在に操る男・ゲンリ。男達の怒りの視線が互いに絡み合い、死村に収束する。

「悪いか」

 死村が開き直った。左衛門が地を這うような声で責める。

「肉なんかうんざりだ。この馬鹿、肉の味が汁に移ったろうが」

「知るか。味がするだけお前らは幸せなんだよ。ガタガタ抜かすなら鍋に唾を吐くぞ」

 途端に他の男達は黙った。

 やがて、顔なしレイゲンが呟いた。

「やっぱ、女に料理を作らせりゃ良かったな。もっともっと美味くなったかも知れねえ」

「野菜が食えるだけでもありがたいけど、確かまだ家政婦がいたよな」

 ピアスのゲンリが床の隅を振り返る。そこで芋虫のように這う男がいた。胴体が妙に膨れ、巨大な口から誰かの両足がはみ出している。パンストを履いた犠牲者の足はもうピクリともしない。

 大食い男のジョー・ダウン。

「駄目だ、もう死んでる」

 ゲンリは肩を竦めた。

「ああ、でかい畑が欲しいよな。沢山野菜を育ててよお」

「うむ。米もいい」

 左衛門が重々しく頷いた。レイゲンが夢見るように後を続ける。

「パンもいいよな。知ってるか、麺ってのは小麦粉から作るんだぜ」

「でかい畑のためには目一杯稼がないとな」

「うむ」

 ゲンリの言葉に頷きながら左衛門が二振りの剣で鍋を掻き混ぜた。

 つけ放しのテレビがバラエティ番組を流している。しかし誰も観てはいない。彼らはただ食事に没頭している。

 奥の部屋から細面の男が顔を出した。痩身を包む黒いローブは赤い液体に濡れていた。呪殺師・ノーリターン。羨ましそうに鍋を一瞥した後で、囁くような柔らかい声で問う。

「血が足りん。残しておいた女はどうした」

「ジョーの奴が食っちまった」

 顔なしレイゲンが答える。

 ノーリターンは鼻筋に皺を寄せた。

「ゲンリ、近所から二人ほど捕まえてこい」

「なんで俺が。ジョーの責任だろ」

「お前が一番まともだからだ」

 褒め言葉と受け取ったのか、ゲンリは箸を置いて出ていった。顔なしレイゲンが言う。

「今回えらく準備が念入りじゃねえか。そんなきつい相手か」

「分からん。分からんから全力でやっておこう。何人か、食べ終わったらまず警察署に行ってみろ。紫香楽伊織の居場所を聞き出せ。誰を殺そうが拷問しようが構わん。新しい情報があれば携帯電話で連絡を取り合う」

「新しいメンバーはいつ入れる。ノーリターン、あんたが向こうまで戻ってスカウトしてくるかい」

「それは仕事を済ませた後だ。二度と戻る気はなかったが」

 と、その場にいた全員がテレビの方を向いた。『ノスフェラトゥ・セブン』という台詞が聞こえてきたのだ。

「アイスホッケーチーム・フライデーズの優勝記念パレードを乗っ取った男は草刈り機で現在までに十二人を殺害しています。あ、今十三人目の犠牲者が。首が落ちました。切られた生首が、生首が地面を転がっています。馬締市の市民が逃げ惑っています。いやパレードを追いかけている市民もいます。あ、手を振っています。犯人がカメラに手を振っています。草刈り機に垂れ幕をつけています。旗のように振っています。幕に『腰抜け』と書いています。あ、読めました。『ノスフェラトゥ・セブンは腰抜け集団』です。どういう意味でしょうか。パレードは規定のルートを逸脱しています。犯人は何処へ向かおうとしているのでしょうか。あ、犯人が笑っています。笑顔でこちらに手を振っています。あ、何か言っています。『お疲れ様』だそうです。今のは私に言ってくれたのでしょうか。ありがとう、私も頑張ります」

 女性レポーターが走りながら実況中継している。息を切らして自らもパレードを追い、何故か嬉しそうにも見える。画面に赤いオープンカーが見える。礼服を着た男がにこやかに草刈り機を振り回している。ぼんやり立っていた若者の顔面が草刈り機で真っ二つに割られる。人々の悲鳴。人々の歓声。カメラつき携帯を向けて追いかける者達。

 緊急に割り込んだ生中継に、リビングの空気は凍っていた。

「……俺達のことか。俺達への挑発か。舐めやがって」

 のっぺりしたレイゲンの顔に、大きな眼球が一つ浮き上がってきた。

「ナメテル」

 床を這いながらジョー・ダウンが言う。

「腐れ死ね」

 ただ一言、死村が吐き捨てた。

 長髪の左衛門が全身を震わせていた。限界以上に見開かれた両目が凄まじい憎悪を発散している。

「殺してやる。皆殺しにしてやる。ぶつ切りにしてやる。百以上の肉片に変えてやる」

「八津崎警察の手の者だろう。陽動だな。こちらの戦力を分散させ、あわよくばマスコミの前に引き摺り出す気か」

「じゃあ挑発には乗らねえってことかい」

 レイゲンの顔には大小三つの眼球が出来ている。左衛門の殺気立った視線が髪の間からノーリターンを射る。

「いや。殺し屋の本分は標的を確実に殺すことだが、ああまで馬鹿にされて放置するのも私達の沽券に関わる。ゲンリ、ジョー、すぐに行ってマスコミの前で奴を殺せ。馬締市だ」

「え、俺。何」

 戻ったばかりのゲンリが攫ってきた人達を床に転がして聞き返す。隣の屋敷から攫ってきた三人は四十代の夫婦と十才くらいの少年だった。彼らに巻きつき口にまで蓋をしているのはコンクリートだった。一部の表面には壁紙が残り、鉄骨が突き出している箇所もあった。今は固まっているが、三人を襲った時には生き物のような柔軟さを発揮した筈だ。

「俺も行かせろ」

 左衛門が愛用の剣をタオルで拭き、背中に戻していく。

 ノーリターンが告げた。

「お前は標的暗殺の先鋒だ。仕事も確実にこなさねばならん。この世界で楽しくやっていくためにはな」

「確かにな。二度とあっちには戻りたくねえ」

 顔なしレイゲンが頷いた。

「血は二人分でいいのだろう。……このガキ、殺っていいか」

 死村が低い声で聞いた。転がされた少年が目を見開いている。両親が何か叫ぼうとしているが、口にコンクリートが詰まっているため鼻にかかった唸りとなるだけだ。

「良かろう」

 ノーリターンは言った。死村が少年のそばに屈み、骨の見える紫色の人差し指を立てた。黒ずんだ鉤爪が伸びている。

 少年の幼い頬を、死村が爪の先で軽く引っ掻いた。長さ一センチほどの傷がついた。血も滲まない浅い傷だ。ゲンリがニヤニヤしながら見守っている。

 五秒もせずに少年の頬が膨れ始めた。少年が唸っている。腫れは赤くなり、やがて紫色に変わる。一部が破れて紫の腐液を垂らした。少年の目から涙が溢れ出す。その涙に血が混じり、瞼まで膨れていく。

 両親の唸りが激しくなった。コンクリートの束縛は身動きすら許さない。少年の顔が餅のように膨れていく。頭部も首も、まるで水死体のように。

 ゴポリ、と、少年の眼球が飛び出した。神経の糸を引いた眼球はそのまま破れてどす黒い中身が零れ出す。両親が泣いている。必死に助けを求めて視線を彷徨わせるが、それに応えてくれる善人はここにはいなかった。

 既に少年の意識はないだろう。コンクリートの隙間から腐液が流れ出している。それが両親に届く前にノーリターンが二人の頭を掴んで引き摺っていく。細い体だが意外に力はあるようだ。コンクリートの小さな欠片と涙の痕が筋となって床に残る。

 プチン、と、少年の頭部が弾けた。腐ってドロドロになった肉と脳が水溜まりとなって広がっていく。残った頭蓋骨を死村が指で軽く押した。脆くなっていた骨がベシュッと簡単に潰れた。

「ざまあ見ろ」

 死村がむくんだ顔で醜い笑みを浮かべた。

「汚えな」

 ゲンリが呟いた。

「じゃあ、行くか」

 顔なしのレイゲンが言った。奥の部屋から肉を裂く音と液体の噴き出す音が微かに聞こえてきた。

 

 

  三

 

 黒と赤の迷路に囲まれ圧迫感に満ち満ちた部屋で、紫香楽伊織はエプロンをつけて家事をこなしている。掃除機をかけると床の迷路が剥がれそうになったのでホウキを使い、窓を磨こうとしたら迷路が貼ってあるのでやめ、寝室は神楽鏡影が「もう入るな」と言って独占してしまったので今は食器棚を整理していた。朝食も昼食もレトルトだったが伊織が作った。ただし食べたのは伊織と大曲源だけだ。神楽は「余計なものを腹に入れたくない」と拒否した。

「ブラックソードさんは食べないんですか」

 伊織が聞くと、ブラックソードは鍔広帽を左右に振った。

「悪いが、食べられぬのだ。気持ちだけ頂いておく」

 伊織は重ねて問うことはしなかった。

 全ての食器を洗い直して棚の整理を終え、流しの下を開けると白いガラスの花瓶が一つあった。

「飾る花があればいいんですけど」

 取り出して伊織が言うと壁際のブラックソードが動いた。ゆっくりと歩くように見えたが、いつの間にか流しの前に立っていた。伊織が目を瞬かせる。

「今は外に出る訳には行かぬからな」

 ブラックソードが右腕を斜め前に伸ばした。黒い手袋を填めた手が消える。

 引き戻された手には一輪の花が握られていた。何処から引っ張ってきたのだろうか、赤い薔薇だ。だがそれはみるみる茶色に変色し、ピシピシと音を立てて枯れていった。

「すまぬ。生き物は大抵こうなる」

 ブラックソードは鍔広帽を俯かせ、掠れ声で謝った。

「いえ。ありがとうございます」

 伊織は微笑して礼を言い、ドライフラワーと化した薔薇を受け取り花瓶に挿した。

 元の場所に戻ろうとするブラックソードに、伊織が声をかけた。

「あの、ブラックソードさん」

「何だ」

「私、聞いたんですけど、マサマサの件が終わったら、ブラックソードさんは黒贄さんと決闘なさるとか。その、つまり……ころ……」

「うむ。殺し合いだ」

「……黒贄さんを、恨んでいるんですか」

「恨んではいない。だが、これは宿命だ。決着をつけねばならん」

 伊織は美しい眉をひそめて、もどかしげに言葉を探しているようだった。

「私は、出来れば……もう、誰にも死んで欲しくはなくて……特に、私の味方になってくれた人達が、殺し合いなんて……」

「すまぬが、もう決まったことだ」

 ブラックソードは淡々と告げた。

「結果がどちらに転がるにせよ、この世から殺人鬼が一人減るだけのことだ。それで充分だろう。心遣いは感謝する」

「すみません」

 伊織は頭を下げた。

 ドライフラワーの花瓶をテーブルの真ん中に置く。狂った部屋に与えられたほんの僅かな潤い。

 ソファーでぐったりテレビを観ていた大曲が伊織に言った。

「座ってゆっくりしてたらどうだい。折角掃除しても、すぐ部屋ごと吹っ飛ぶかも知れんしな」

「すみません。でも、何かしていないと落ち着かなくて」

「まあ、そりゃ仕事としてやり慣れてるんだろうが、今日が人生最後の日になるかも知れんのに勿体ないだろ」

 伊織は大曲の斜め前のソファーに腰を下ろした。視線に少しばかり怒りが込められている。

「署長さんは、死ぬのが怖くないんですか」

 安物のソファーに背を預け、大曲が平然と答える。

「全然怖くないってほどでもないが、もう殺したとか殺されたとかには慣れちまった。まともな神経じゃあ八津崎市で刑事なんてやってられんからな。俺達みたいな凡人はジタバタ足掻いたって死ぬ時ゃコロッと死んじまうのさ。だから俺は、ジタバタするのが面倒臭くなっちまった」

 壁際のブラックソードは腕を組んで立ち、テレビを観ているのか二人の会話を聞いているのかは分からない。

「署長さんは、サイボーグだって言いましたよね。どうしてそんな体になったんですか」

 生身の左手で不精髭を撫で、大曲は苦笑する。

「昔、対戦車ミサイルに立ち向かったらこうなった。若気の至りさ。今だったら絶対しねえだろうな」

「……。怖くはなかったんですか」

「さあ、そん時は夢中だったからな。まあ、こうして生きてるんだから文句は言わねえよ。ちゃんと煙草も喫えるし、胃薬が要るけど飯も食えるしな。考えてみると、今の人生はオマケみたいなもんだ。だから精々楽しむことにしてる」

 大曲は気楽に言った。実際のところ、室内は大曲のせいで濛々と煙が立ち込めていた。キッチンの換気扇を入れているが間に合わない状況だ。伊織が咳をする。

「あ、すみません。嫌味でやった訳じゃないですよ」

「分かってるさ」

 大曲は短くなった煙草を灰皿に押しつけた。既に吸殻で山盛りになっているそれを伊織が捨てに行く。流石に遠慮したのか、大曲も次の煙草は取り出さなかった。

 ドラマを流していたテレビが電子音を発し、字幕でニュース速報が流れ出す。

「お、来たな」

 大曲が面倒臭そうに身を乗り出した。伊織も急いでソファーに戻る。

 字幕は『馬締市でアイスホッケーチーム・フライデーズの優勝パレードに草刈り機を持った男が乱入、見物客を惨殺してパレードを乗っ取り迷走中。死者は現在まで二十四人。』となっていた。

「パレードか。丁度良かったな」

 大曲が右手をテレビに向ける。内蔵リモコンでチャンネルが切り替わっていき、止めた局ではパレードの様子が生中継されていた。赤いオープンカーの後部座席でにこやかに草刈り機を振る黒贄礼太郎。吊られた幕の文がしっかり読める。大曲が書いた挑発文。警察が一定の距離を保って追っている。ホッケーチームの選手達を人質と判断しているのか、手が出せないようだ。

「クロちゃんが珍しくちゃんと働いてるな。ノスフェラトゥ・セブンがあっちに力を割いてくれりゃ儲けもんだが。ターゲットに殺害予告の挨拶するくらいだから、面子にはこだわる奴らだと期待してるんだけどな」

「あの……殺したって、やっぱり、一般人の、無関係の……」

 伊織が言いかけた。テレビでは黒贄がオープンカーを飛び出して草刈り機を一閃させる。学生服の少年少女の首がまとめて四、五個落ちた。

 堪えきれなくなったように伊織が大声を出した。

「あの、やっぱり私……」

 唐突に大曲の右手が鳴り出して伊織の言葉を遮った。大曲は顔に寄せて問う。

「どうした」

「……はミニヴァンです。一人出てきました。髪の長い男です。今のところ武器らしきものは見えません。今、署の玄関から入りました」

 声は右手からした。内蔵型携帯電話を途中でハンズフリーモードに切り替えたらしい。ブラックソードに聞かせるためだろう。

「今、怪しげな奴らが警察署に来たらしい。署内は用心のため空にしてるんだがな」

 大曲は説明し、電話の相手に聞いた。

「ヴァンには何人いる」

「ここからでは良く分かりません。少なくとも一人の人影は見えます。あ、今長髪の男が戻ってきました。署がもぬけの殻なので驚いているようです。両手に一本ずつ刀を持っています。ヴァンにいる仲間に何やら話しています。と、もう一度署に入りました」

「そうか。じゃあ爆破しろ」

 伊織が目を見開いている。電話の声は言った。

「了解しました」

 数秒後、大曲の右手から凄まじい轟音が聞こえてきた。大曲が説明する。

「署に爆弾を仕掛けててね。これで奴らが吹っ飛んでくれりゃあ楽でいいんだが」

「警察署を、爆破したんですか」

 伊織が唖然として尋ねる。大曲は投げ遣りに笑った。

「職場なんか消えてなくなっちまえなんて思ったことないかい。……どうだ、奴ら死んだか」

「まだ粉塵がひどくて分かりません。あ、今影……」

 相手の声が途切れた。

「殺られたかもな」

 大曲の瞳は冷めていた。やがて、さっきとは違う声が聞こえた。

「誰だ、お前は」

 幽鬼のような、不吉な声音。伊織の体がビクリと震えた。大曲が応じる。

「人に名を聞く時は先に名乗るのが礼儀だろ」

「……左衛門だ。ノスフェラトゥ・セブン。お前は誰だ」

「教えてやらん」

 大曲は平然と言ってのけた。テレビでは黒贄のオープンカーを野次馬が追っている。

「……何処にいる。八つ裂きにしてやるから教えろ」

「今はオーストラリアで牛の世話をしてるとこだ。来るなら俺が飛行機の予約をしといてやるよ。チケットは何人分要るかい」

 ゴヂッという破壊音を残して電話は切れた。大曲は肩を竦める。

「この隠れ家は部下の誰にも教えてない。奴らがここを見つけるのは大変だろう」

「それはどうかな」

 異議を唱えたのはブラックソードだ。

「殺害予告をするのが流儀なら、標的が身を隠すことも当然想定している筈だ。構成員の誰かは相手の位置を探る能力があると考えるべきだろう」

「そうかい。そりゃ困ったな」

 大曲は頭を掻いたがそれほど困っているようには見えない。

 隣の寝室から神楽の声が届いた。

「始まった。ノーリターンの手が幾つか伸びてきている」

「勝てそうかい」

 大曲が聞く。ドアの向こうから苦笑の気配が伝わってきた。

「それはまだ分からん。いいか、俺がいいと言うまでは、絶対にこのドアを開けるな」

 神楽の口調が平常時と変わっている。

「分かった。ドアに板を打ちつけて塞いどくよ」

 これは冗談らしく、大曲はソファーから動こうとしなかった。

「奴は俺が割り込んでいることに気づいているようだ。こちらの素性と位置を探りながら攻撃の隙を窺っている。俺も同じことをしてる訳だがな。何か分かったら教える。そっちも何かあったらドア越しに教えてくれ」

「分かった」

「絶対にドアは開けるなよ」

「分かってるって。俺はテレビ観てるから、まあ頑張ってくれ」

 大曲は気楽に言ってチャンネルを変えた。別の番組では『女テロリストがマサマサの屋敷に潜入! 目的は何だったのか』というテロップで、車椅子の正木政治がトークに参加していた。生放送らしい。

「彼女がテロリストだとは今でも信じられないな。何かの間違いであればいいと願っているよ。そのためにも紫香楽さんには早く警察に出頭して欲しいところだ」

 正木の表情には余裕があった。瞬きをしない大きな瞳が真っ直ぐに画面を見据えている。それはテレビの前の紫香楽伊織に向けた視線なのだろうか。

「さて、こっちはどうなるかな」

 大曲が呟いた。

 

 

  四

 

 殺人パレードは一時間半を経過してやや弛緩した空気に浸っていた。ついてくる野次馬の顔にも疲労が浮かび、脱落者が出始めている。赤いオープンカーは返り血の赤と混じりまだらになっていた。ちぎれた腕が後部バンパーに引っ掛かり、地面を擦っている。スクーターに乗って追いかけているテレビ局のスタッフ。報道ヘリが上空で二機ほど飛んでいる。後続のオープンカーはひっくり返ったパトカーの間を通り抜ける。警察が四度目の封鎖を試みたが黒贄が蹴り飛ばしたのだ。その時だけは野次馬も歓声を上げた。

「次の信号を左……ですかね。どうでしょう、これで合ってますかな」

 黒贄が手帳の地図を隣の選手に見せる。ホッケーマスクの選手は地図を見て頷く。

「これでいいんじゃないですか。でも、そうするとでっかい屋敷に突き当たっちゃいますよ。ほら、マサマサの……」

「ああ、それでいいんですよ。迷子になるかと心配しましたが、ちゃんと着くようで一安心ですな」

 満足げな黒贄の右こめかみには穴が開き血と脳漿が滲んでいた。胸にも幾つか銃創がある。警察の狙撃手によるものだ。草刈り機は燃料の補充も済ませ、円盤は血塗れだが刃は欠けていない。相当に丈夫な鋼材を使っているのだろう。柄の垂れ幕は返り血に染まって文字が読みにくくなっている。

「マスコミの皆さんもついてきてくれてますし。今回はうまく行きましたなあ」

 テレビカメラで追っている報道陣が六組、ヘリが二機。ノスフェラトゥ・セブンという言葉に反応して正木側が報道規制を求めた可能性はある。しかしこれだけの大騒ぎとなって生中継も始まっており、他局も放送していることを理由になし崩し的な放映継続が行われているのだろう。或いは、正木政治が生放送の番組に出演中のため対応出来ずにいるのかも知れない。

 野次馬達の顔を見渡して黒贄が言った。

「皆さんちょっと飽きてきてますかねえ。中弛みという奴ですな。何人くらい殺したかなあ」

「三十七人です」

 隣の選手が言った。何故か殺した本人より良く把握している。

「そうですか。一時間半でそれだけというのは少なかったですな。途中で何かイベントがあった方が良かったのですが……」

 黒贄が喋るうちに上空から低い唸りが聞こえてきた。ヘリのローター音とは違う。

「おや」

 黒贄が空を仰いだ。晴れ渡る空に二機の報道ヘリが浮かぶ。いや、もう一つの影が今到着した。

 それは単葉のプロペラ式小型飛行機だった。セスナ機に近いが子供の粘土細工のような単純な形状だ。表面は微妙に凹凸があり、塗装は統一されておらず部位によって色が違っていた。こちらへ向かって急降下してくる機体の側面にはベンツのスリー・ポインテッド・スターが顔を出しており、左翼にはTOYOTAの文字があった。まるで、この飛行機が何台もの自動車を練り合わせて作られたかのように。

 フロント風防の向こうに若い男が見えた。顔中にピアスをつけ、色の濃いサングラスをかけた男がニヤリと笑う。固形物を自在に操る男、ゲンリ。

「腰抜けの皆さんが漸くお越しになったようだ」

 黒贄もまた笑った。薄い唇の両端が極端に吊り上がる、悪魔のような笑み。

 不細工な小型プロペラ機は地上五メートルほどまで下降して水平飛行に移った。その先には黒贄のオープンカーがある。

 機体の底面、前部がなめらかに開き、別の男の顔が現れた。目鼻が小さく皺が多い。その大きな口がコクンコクンと音をさせて更に大きく開いていく。径五十センチ、顔が隠れてしまうほどに。歯のない赤い口腔内で長い舌がのたうっている。人食い男ジョー・ダウン。

 大きな口が何かを吐いた。機体の勢いを乗せオープンカーへ飛ぶ。

 黒贄が跳躍した。その横を何かがすれ違いオープンカーのボンネットに着弾する。黒贄はあっさり五メートルの高さに到達した。回転する刃がジョーの大口へ突き込まれる。

 いや、刃が届く前にプロペラ機の左翼が変形して巨大な腕となり、黒贄の胴を掴んだ。メチッメチッと骨の砕ける音。黒贄の顔が嬉しい驚きを示している。左翼が用をなさなくなったためプロペラ機が錐揉み回転を始める。ゲンリの慌てる顔。黒贄が投げ捨てられ左翼が元の形に戻り、機体は上昇していった。黒贄の体がビルの壁にぶち当たりコンクリート片が飛び散る。しかし地面に落ちる寸前に黒贄は体勢を整えて両足で着地した。

 異様な戦いに大勢の野次馬が歓声と惜しみない拍手を送った。疲れていた取材陣も大喜びでカメラを向けている。黒贄の乗っていたオープンカーが煙を上げていた。ボンネットが溶けて巨大な穴を開けている。エンジンまで溶けたらしく動かない。ジョー・ダウンの消化液の成果だ。まともに浴びれば黒贄とて一溜まりもないだろう。後部座席の選手が左を指差して叫ぶ。

「そっちがゴールですよ。もう近いです」

「こりゃどうも」

 黒贄は礼を言ったが向き直った先は空だった。プロペラ機が戻ってくる。途中で進路をずらし、ビルの屋上角にぶつかった。しかし機体は損傷しておらず、ビルのコンクリートが大きく抉れていた。両翼に大きな塊が三個ずつぶら下がっている。直径一メートル、無数の棘が生えたコンクリート製の球体。爆撃するつもりらしい。機体の底からは大口が狙っている。

 対する黒贄は変わらぬ凶器を高く差し上げていた。円盤の回転数を上げ、激しいエンジン音が人々の期待を駆り立てる。

 プロペラ機が急降下してきた。ジョーの口から粘塊となった消化液が飛ぶ。黒贄が避けながら跳躍する。アスファルトの地面が溶ける。六個の球体が飛んだ。切り離して慣性に任せるのではなく、腕を振るように両翼が動き、至近距離から黒贄へ向かって投げつけたのだ。

 そのうちの一個を黒贄はまともに食らった。胴を折り曲げ吹っ飛ぶところに二個目が当たり、そのまま地面に叩きつけられる。残りの球体のうち二つが野次馬の列にぶち当たり、十数人を潰れた肉塊へと変えた。

「無駄だよ」

 上を通り過ぎながら、水面から顔を出すように機体の側面から顔を出してゲンリが嘲笑う。右翼の半ばほどに一メートルほどの裂け目が出来ていた。黒贄の草刈り機も届いていたのだ。しかしすぐに傷は閉じて元通りになった。機体への攻撃は無意味だ。

「これは困りましたな」

 自分を下敷きにしているコンクリート塊を片手で押しのけ、黒贄が立ち上がる。棘のせいで服が裂け、ズタズタになった皮膚が覗く。地面は大きく陥没していた。

 第三撃がやってくる。今度も両翼にコンクリート塊を吊っている。黒贄は草刈り機の回転数を最大限に上げ、足を広げたまま屈み込み殆ど蹲るくらいに姿勢を低くする。悪魔の笑みはまだ保たれている。

 瞬間、黒贄が消えた。まだ二十メートル以上あったプロペラ機との距離を黒贄は一瞬で越えていた。底面に出た大口に深々と円盤が突き刺さる。回転する刃が血を散らし、切断された細長い舌がトカゲの尾のように踊りながら落ちていく。

「イタイ」

 ジョーが言う。草刈り機が更に進み、機内まで貫通した。相手の脳を完全に貫いただろう。もしジョー・ダウンに脳があるならば。

 と、機の底面が触手を伸ばして草刈り機の柄に絡みついた。そのまま同化して引き込まれる。黒贄が対抗して引っ張ると、金属の柄がパキョリと乾いた音を立てて折れた。垂れ幕も一緒に引き裂かれる。

「ありゃ」

 落ちかけた黒贄を再びコンクリートの棘つき球体が襲う。今度は両翼がバタバタと動いて球体ごと黒贄を何度も挟み潰した。地面にぶつかる前に翼は球体を落として元の形状に戻り、高度を回復する。六個の塊がアスファルトを凹ませる。

 機体の底面から伸びた鉄の触手が黒贄に幾重にも巻きついていた。黒贄が怪力で引き剥がそうとするが柔軟に絡みついた触手は離れない。ジョー・ダウンの顔は機内へ格納され、「イタイ。イタイ」と声を洩らしている。

「だから無駄だって言ったろ。ハッハッハッハッ」

 ゲンリが笑っている。プロペラ機は黒贄を掴んだままどんどん上昇していく。生えた触手が変形して草刈り機の円盤状となり、唸りを上げて回転する。冗談のつもりか、円盤は黒贄の頬を縦に浅く切って引っ込んでいった。滲み出た血を楽しげに黒贄の舌が舐める。

 高度数百メートルに達したろうか。大勢の野次馬が米粒のように見える。プロペラ機は速度をそのままに反転し、パレードへ向かい再度下降を始めた。

 黒贄が解放されたのは高度百メートル付近だった。黒贄の体は流星となって一直線に地面に落ちていく。人々の嬉しげな悲鳴。

 ドゥバァーン、という轟音がして周囲の建物まで揺れた。よろめきながらマスコミのテレビカメラが着弾地点へ近寄っていく。

 通りのど真ん中、蜘蛛の巣状に入った亀裂の中心に、直径二メートルほどの大穴が開いていた。

 穴の縁に手がかかった。一部の指が妙な方向に曲がり、破れた手の甲から折れた骨が突き出している。

「いやはや、なかなかうまくは行きませんな」

 這い出した黒贄は首が左に傾き、右頭頂部から脳の破片をはみ出させていた。左前腕は半ばほどで折れているが、黒贄は全く気にしていないようだ。

 決定的と思われた死のダイブから生還した男に、野次馬達は感動の拍手を送った。レポーターの女などは涙を拭っている。

「ゲフッ、次の凶器を探さないと」

 気管に溜まった血を吐き出して喋る黒贄に、先頭のオープンカーから選手が降りてきた。

「どうぞ、これを使って下さい」

 差し出されたのはホッケー用の木製スティックと、硬質ゴムのパックが五個だった。

「おお、良いものをありがとうございます。これで大活躍してみせますよ」

 黒贄は柔らかな笑みを見せて受け取った。

 通り過ぎたプロペラ機がまたUターンしてくる。黒贄はスティックとパックを持って走り出した。右足首が横に曲がり靴ではなく足首を地面についた状態で、それでも異様な疾走速度だった。選手達も野次馬もマスコミもついてくるが追いつけない。

「ハッハッ、大した奴だ。うちのメンバーに入れてもいいくらいだ」

 ゲンリがまた笑う。迫るプロペラ機を振り向きもせず、黒贄が何やら呟いている。

「さて今回は何にしますかな。頭に『マサ』をつけてみましょうか。マサポニャ、マサパニョ、マサゲニョ……」

 プロペラ機が十メートルの距離まで近づいた時、黒贄が直角に方向転換した。角を曲がって左の道へ。プロペラ機がついてこれず一旦通り過ぎる。

「逃げるつもりなら無駄だぜ」

 ゲンリの声。プロペラ機は旋回して黒贄を追い、狭いビルの間へ入った。翼の端がビルの壁を削っていく。

 黒贄の瞳は逃走とは正反対のものを語っていた。渦巻く狂気、爆発寸前まで膨れ上がった赤い欲望。

「マサペンパロニャ、ちょっと長いですな、マサニョパ、マサニョメ。うむ、マサメニョで行きましょう。マサメニョ、マサメニョー。うむ、いい響きですな」

 黒贄の先に鉄製の大きな門が待っていた。横の表札は大理石で『正木』と彫られている。高い塀が左右に何処までも広がっている。

 『マサマサ』こと正木政治の邸宅であった。門の前では二十人近い警官が銃を構えて立ち塞がっていたが、異様な姿で走ってくる黒贄に皆逃げ出した。その情けない様子もテレビ局のカメラが捉えている。

 門の近くの塀に、正木政治のポスターが貼られていた。真面目な表情でこちらを覗き込むような、ほぼ等身大の正木の顔。キャッチコピーは『正しい政治を! 正木政治』となっている。

「ふむ。これがピッタリですな」

 黒贄の目が光った。パックをポケットに入れて塀に駆け寄り、ポスターを丁寧に剥がしていく。

「何やってんだ。なんかいいことあるのか」

 ゲンリの声も呆れている。機体の底に復活した大口が消化液を飛ばした。黒贄の足元にかかり、曲がった右足首が煙を上げて溶けていく。靴もズボンの裾も溶け去り、膝から下は脛骨が半ばほどまで残るだけとなった。しかし黒贄は気にする様子もなく片足で立ち、ポスターの両目部分に指で穴を開けて呟く。

「セロテープが欲しいですな」

「はーい、持ってます、持ってますー」

 野次馬の中から若い男が飛び出してきて、鞄からセロテープを出した。

「こりゃどうも」

 黒贄が早速頂いてポスターの右端三ヶ所に長く切ったテープを貼る。男はすぐに逃げ走り野次馬の中に戻った。

 上空を通り過ぎたプロペラ機が正面から戻ってきつつある。黒贄はポスターの裏側を顔に当て、頭部を包むように両端を後ろへ回す。幅が足りなかったが、セロテープが向こうの端へしっかり繋がった。

 正木政治の顔を持つ殺人鬼が、そこに立っていた。目の穴からうまい具合に覗く瞳は、先程までの熱気から一変し、あらゆる感情を超越した絶対零度の虚無を映している。

 場の空気が、凍りついていた。歓声を上げていた野次馬達も動きが止まり、女性レポーターは思わずマイクを取り落とす。プロペラ音と報道ヘリのローター音だけが聞こえていた。

「マサメニョー」

 静寂の街に、気の抜けるような黒贄の声が響いた。ポスター越しの篭もった声。

 プロペラ機の風防の向こうで、ゲンリは引き攣った笑みを浮かべていた。サングラスの奥に隠すのは怒りか、それとも恐怖か。

「な、何だそりゃ、馬鹿じゃねえのか。ハハッ、ハハハッ」

 黒贄は長さが不揃いの足で歩いて塀から離れ、プロペラ機の方を向いた。右手でスティックを持ち、左手がポケットからパックを一つ出す。

「マサメニョー」

 黒贄は左足だけで直立し、左腕を水平に差し出すと、無造作に開いた。手の中から円盤型のパックが落ちていく。二人の魔人が乗ったプロペラ機は五十メートルほどまで近づき加速を続けていた。

「マサメニョー」

 木製スティックの軌道を、その場にいた誰も見ることが出来なかった。

 パキーン、と乾いた高い音が響いた。野次馬の多くが自分の耳を押さえながら、結果を見極めるべく空へ目を向けた。

 パックは何処にも見当たらなかった。いや、超人的な視力の持ち主なら遥か彼方を遠ざかる円盤が見えたかも知れない。それは既に五キロ以上先を飛んでいた。

 プロペラ機のガラス風防に、小さな穴が開いていた。横八センチ、縦三センチほどの四角い穴。周囲に亀裂はない。

 プロペラの回転が遅くなった。と、プロペラが機体から外れて落ちていく。翼が揺れている。ゲンリの様子がおかしい。サングラスが割れ、顔面が血塗れだ。左の翼が完全に外れた。機体が失速して落ちていく。人々のどよめき。超高速で打ち出された硬質ゴムのパックが鋼鉄の機体を貫通したことを誰が信じるだろうか。いや、人々は信じただろう。彼らの前に立つのは異世界の魔物だった。

 繋がりが失われスクラップのようになった機体が、正木邸の広い庭に墜落した。嫌な軋み混じりの轟音。黒贄は門を押し開けて、ポケットから二個目のパックを出した。左足だけでヒョコヒョコと跳んで敷地内へ進む。正門はロックされていたが閂があっさり変形していた。人々は距離を置いて恐る恐るついてくる。カメラマンは震えていたがなんとか自分の職務を全うしようとしていた。正木邸の警備員は誰も出てこない。屋敷が無人と化したように。

「……痛え……」

 ねじくれた鉄屑の中から呻きが洩れた。地面に刺さった鉄板の一枚が倒れ、膝をつくゲンリが現れた。

 ゲンリは嘔吐していた。溶けかかった野菜や何だか分からないものが庭を汚していく。彼の顔面の左上四分の一が頭蓋骨ごと消滅し、弾けた脳の破片が零れている。

「痛え……頭、痛え……。なんで、だよ……。たった、一発で逆転、かよ……」

「マサメニョー」

 ポスターのマサマサは大真面目だったが、目の穴から覗く瞳は全ての問いが無意味であることを示していた。十メートルほど手前で立ち止まり、黒贄は左腕を差し上げる。手の中ではパックが役目を待っている。

 壊れたサングラスが吐瀉物の上に落ちた。ブラブラになっていたピアスも一つ落ちた。胃が空になり胃液しか出なくなってもゲンリは吐き続けた。吐きながら彼は顔を上げた。右だけとなった充血した目が、片足で立つ黒贄を睨む。

 ホッケーマスクの選手達と千人を超える野次馬、取材陣のカメラが、固唾を呑んで見守っていた。

「マサメニョー」

 黒贄の左手から硬質ゴムの円盤が離れた。僅かに揺れながら真下に落ちていく。

「カッ」

 ゲンリが歯を剥いた。ピアスは前歯と犬歯にも幾つか刺さっていた。鉄屑の塊が再び融合し巨大な腕となって黒贄へ叩き下ろされる。

「マサメ」

 パキーン。

「ニョー」

 スティックが霞んだ。今度は第一撃よりも遅く、錐揉み回転しながら飛ぶパックの軌道が黒い帯となって見えた。その先にはゲンリの顔があった。

 ゲンリの頭部が下顎だけ残して破裂した。頭蓋骨や肉や脳の欠片が周囲に飛び散り、パックはそのまま屋敷の壁に丸い穴を開けて消えた。鉄の腕は勢いのままに黒贄の脳天へ迫っていた。スティックが弧を描く。数トンの鉄塊を木製の細いスティックが撥ね飛ばした。地面に落ちる寸前にそれはバラバラの鉄屑に戻っていた。

 ゲンリの下唇が、淡い笑みを浮かべた。舌が何か言いたげに動く。或いはただの痙攣だったかも知れない。膝をついていた胴が、前のめりに崩れ、バサリと乾いた音をさせた。そしてもう、動かなかった。

 ゲンリの後方にあった鉄の板が倒れると、そこにはジョー・ダウンが正座していた。胴体が奇妙に膨れている。腹にガスでも溜めているのか、それとも別の何かか。

「イタカッタ」

 開き過ぎて口だけになった顔で、ジョー・ダウンの何処かから声が洩れた。皺のない膨れた喉に小さな目が一つついている。

「マサメニョー」

 黒贄は三個目のパックを取り出した。

 ジョーの腹が更に大きくなった。径五十センチの口が黒贄の方を向いている。赤い口腔が静かに渦を巻いているようだ。

 人々に許されるのは、見守ることだけだった。

 突然ジョー・ダウンの口がすぼめられた。消防車が水を撒くように、薄い黄色の液体が大量に黒贄へ噴射された。

「マサメニョー」

 黒贄の反応もまた素早いものだった。右腕を前方に伸ばしてスティックの真ん中を持ち、プロペラのように高速回転させたのだ。高い唸り音。指の力だけで勢いをつけ、人差し指を軸に安定した回転を続ける木製スティックは必殺の消化液を完全に弾き飛ばした。周囲に散った飛沫が地面を溶かし、白い煙を上げていく。

 四十リットルほどはあっただろうか、全てを吐き尽くしたジョー・ダウンの胴は見事に細くなっていた。

「マサメニョー」

 僅かに付着した消化液のため、スティックの表面は薄い煙を昇らせていた。人差し指が溶けて骨だけになっているが、ポスターのマサマサが痛みを語ることはない。

 黒贄がスティックを持ち直し、左手を差し上げた。三個目のパックを離す。

「オマエ、クウ」

 ジョー・ダウンが跳んだ。正座した状態から一気に黒贄の立つ地点まで。

 大口が咥えたのは落ちかけのパックだけだった。誰かが驚きの声を上げた。

 黒贄は上にいた。抑え気味の跳躍はそれでも片足で二メートルの高さに達し、宙返りする体勢になっていた。

「マサメニョー」

 猛スピードで振り下ろされたスティックは、パックを呑んだばかりのジョー・ダウンの頭部に命中した。瞬間、大きな口と頭部と胴の上半分までが破裂した。肉片に混じって何かが空へ消えていく。硬質ゴムの黒い円盤。口腔内のパックに、スティックが正確に当たっていたのだ。

「マサメニョー」

 着地様、横殴りに払ったスティックはジョー・ダウンの残った部分を粉砕した。水分を搾り出してパサパサになった肉片。胴はほぼ完全に消滅し、干からびた手足だけが転がっていた。

 血塗れのスティックを握り顔をポスターで覆った殺人鬼が、何事もなかったように片足で立ち尽くす。

 一呼吸ほど置いて、疎らな拍手が届いた。次第に拍手の数が増え、それに「おおおおお」という歓声が加わり、賞賛が怒涛となって黒贄を包んだ。フライデーズの選手達がスティックを差し上げてエールを送る。女性レポーターが「素晴らしいものを見てしまいました。感動のあまり言葉が出ません」と叫んでいた。

 黒贄がポケットから四個目のパックを出した。途端に拍手と歓声がやみ緊張感が満ちる。殺人鬼の攻撃がいつ自分達に向かってもおかしくはないのだ。

 しかし黒贄は後方を振り返らず、ヒョコヒョコと片足で前進を始めた。広大な庭の間の長い道。正木家の玄関はまだまだ先だった。

「マサマサ氏の屋敷からは誰も出てきません。襲撃を怖れて屋内に篭もっているのでしょうか。マサマサ氏本人は現在生放送の報道番組に出演中で……」

 女性レポーターがカメラに喋っている。人々はやはり黒贄の後を追い、正木の屋敷に近づいていく。

 と、前方から黒い群れが駆けてきた。十数頭のドーベルマンが牙を剥き、吠えもせず一直線に黒贄へ襲いかかる。

「マサメニョメニョメニョ、メニョ」

 黒贄がスティックを往復させた。ドーベルマンがあっさり首をちぎられ胴を折られ肉塊に変わっていく。最後の一頭はスティックに腹を貫かれ、黒贄が軽く振ると飛んでいき庭の木に激突して息絶えた。

 出迎えはそこで途切れた。黒贄は片足で進み続ける。人々がついていく。大きな屋敷の玄関が見えてきた。

 玄関のドアが内側から勢い良く開かれた。飛んできたのはグレネード弾であったか、黒贄の胴が爆発した。折れた肋骨が飛び出し潰れた心臓やちぎれた腸が零れ落ちる。黒贄の上体がのけ反ったが一歩も退かずにすぐ姿勢が回復する。

 正木家の玄関に立ちはだかるのは銀色に輝く西洋の甲冑を着た男だった。兜のため顔は見えない。甲冑男が両手で構えるのはグレネードランチャーつきの自動小銃だ。替えの弾倉が何本も腰に吊られている。

「マサメニョー」

 新しい獲物の登場に、黒贄がポスターの下からくぐもった奇声を発した。

 

 

  五

 

「この場所を知られたようだ」

 隣の寝室から神楽鏡影の声が告げた。先程から低い呻きや不気味な唸り声、何かが壁にぶつかる震動、神楽のものとも思えない複数の話し声などが続いていた。時にはミチミチという嫌な音も。紫香楽伊織はテレビの惨劇に見入りながら青ざめた顔でそれを聞いていた。

 画面には馬締市の騒ぎが生中継で報じられていた。元々は正木政治を招いてのトーク番組だったが、パレードが彼の屋敷に近づいた頃からそちらの中継に切り替わっていた。画面の右下に別枠で正木の顔が映っている。緊急事態としてスタジオを退出することは出来たろうに、彼はそれをしなかった。自動小銃を持って玄関から現れた甲冑の男に、正木は軽く眉根を寄せる。司会者が尋ねる。「鎧……中世の騎士の鎧ですね。あれは一体何者なのでしょう。マサマサさんはご存知ですか」ニコリともせず正木が答える。「あれは私の応接間に飾ってある甲冑だ。侵入者撃退機能がついているとは知らなかった」冗談と受け取って良いのか迷っている司会者の微妙な笑顔が一瞬映った。

 そんなテレビを横目に、大曲源は小さくちぎったビーフジャーキーを口に入れた。

「ふうん。ゲンリとジョー・ダウンはクロちゃんが始末したから、直接来るとすればレイゲンと死村と、土佐衛門だったかの三人か。後どのくらいでやってきそうかい」

「……ゴブォッ。既に、近くに来ている可能性もある。どうやら二十分以上前に、俺の頭から情報を抜いたらしい」

 神楽の声は喉に粘液の絡んだようなものになっていた。

「ならもうちょっと早めに教えて欲しかったな。証人を避難させた方がいいか」

「いや、やめておけ。今移動する方が危険だ。ゲッブォッ」

「あ……あの、神楽さん、大丈夫ですか」

 紫香楽伊織は何度目かになる同じ問いをドアの向こうに投げた。

「まあ、返事してるから生きてるのは確かだろうな」

 大曲が横から気楽に言う。ドア越しの神楽の声は苦かった。

「大丈夫だ。まだ、余力はある。技量は俺の方が上だ。ノーリターンの呪術は八割方打ち返しているし、こちらから数系統の力を送って、ほぼ通じている筈だ。唯一の問題は、奴の耐久力が異常に高いってことだ。普通の相手ならもう二十回は死んでる。この手の奴は、直接切り刻んだ方が早そうだ……」

「ノーリターンの居場所は分かるか」

 低い掠れ声が尋ねた。壁際に立つブラックソード。

「……いや。ここから東の方角にいるが、詳しい位置はまだ分からない」

「分かったら教えてくれ」

 ブラックソードの指示に返事はなかった。ドアの向こうから床の軋みが聞こえる。ミチッ、メチッという嫌な音が激しくなった。肉が無理矢理裂けるような音。寝室にある肉は神楽鏡影だけだ。紫香楽伊織の顔から更に血の気が引く。

「あの……神楽さ……」

「ゲエエエエッ、タスッタスケテクレエエエッ」

 悲鳴が上がった。神楽のものとは信じられぬような、甲高く引き攣った悲鳴だった。寝室のドアがカタカタと揺れている。伊織がソファーから立ち上がっていた。大曲はジャーキーの欠片を口に入れる。

 僅かな躊躇の後、伊織はドアへ駆けた。神楽を助けようとしたのか。何の力にもなれぬことは彼女自身も分かっていただろうに。その時初めてブラックソードが動いた。

「待て。悲鳴は神楽ではない」

 革の手袋を填めた右手が伊織の肩に触れた。だが伊織の手はドアノブを掴んでいた。回しかけたノブがカキリと音を立て、爆発でもあったみたいに勢い良くドアが押し開かれた。風圧で伊織の髪が後方へなびく。

 寝室は血の海だった。ベッドは床になく天井にめり込んでいる。ぶら下がった布団は血塗れだ。木片や肉片、緑色の粘液などが血溜まりに混じって床の迷路に散乱している。ちぎれた指も何本か転がっていた。太い神経の付着した丸いものは眼球であろうか、全体がどす黒く変色していた。

 そんな部屋の中心で、神楽鏡影は仰向けに横たわっていた。黒ずくめの服も血で汚れているが、手の指は揃っている。

 頭巾の一部が溶け、鼻の下から胸部まで、ごっそりと肉が失われていた。上の歯列は見当たらず、露出した下顎骨も細くなっている。首筋は緑色の粘液に覆われ気管が浮いている状態だ。肋骨の隙間から動く肺が覗いていた。

 これでは喋りようがなかった。最後の発言から十数秒の間にこれだけのことが起こったのか。

 伊織は目を見開いて、悲鳴を上げることも出来ず立ち竦んでいた。息を小刻みに吸うばかりで吐くことを忘れている。天井でベッドの周りを回っていたモヤモヤしたものが近づいてくる。

 それは半透明の腕だった。掌の中心に口があり、人差し指と中指の間に眼球が一つ挟まっている。獲物を見つけて一直線に向かってくるのを、伊織は避けることが出来なかった。

「下がれ」

 ブラックソードが伊織の肩を押しのけて両拳を合わせた。金属の擦れる音に黒の閃光が重なる。

「むう」

 ブラックソードが唸った。素早く屈んだ彼の頭上を半透明の腕が過ぎていく。右手には黒い剣が握られていた。剣は呪術の腕を素通りしたのだ。

「次元が違うようだ」

 もう一度斬ってみて無駄を確認しブラックソードが言う。

「ゲエエエエッゲエエエエッタジッ」

 リビングに入った腕は叫びながら宙を彷徨い始めた。壁紙の迷路が効いているのか、指の間の眼球はクルクルと派手に動き目標を定められない。大曲は上体を反らして避けながらテーブルのジャーキーに手を伸ばすという理不尽なことを試みていた。

 寝室から黒い影が飛び出してきて伊織が細い悲鳴を上げた。今しがたまで横たわっていた神楽鏡影だった。右手に握る短剣は刀身がジグザグに曲がり、表面に複雑な紋様が彫金されている。その短剣が速度を抑えた撫でるような動きで半透明の腕を切り裂いた。ピシッ、と小さな音がして腕が粉末状に分解し、宙に溶けて消える。短剣には魔術的な効果が込められていたのだろう。

「にどとあけるな」

 神楽が喋った。上の歯肉が再生し、新しい歯が顔を出している。ピチピチと微かな音を立てて肋骨周囲の肉も増殖を続けていた。

「承知した。お主もなかなかの回復力を持っているな」

 ブラックソードが言うと、神楽は寝室に戻りドアを閉めてから答えた。

「うまれつきではない。ぎじゅつだ」

 静寂が戻り、やがて寝室から軋みと呻き声が再開された。

 いや、別の音も混じっている。男の怒鳴り声。寝室からではなく、マンション前の通りからだ。

「紫香楽伊織、出てこい」

 低く揺れる恨めしげな声音は左衛門のものだった。ソファーに戻りかけていた伊織の動きが止まる。

「来たみたいだな。こっちの正確な場所を知らんなら、このまま静かにしてるのが一番と思うが」

 大曲がそう言いながらも残りのジャーキーを全部口に詰め込み、ソファーの横に置いてあった中型のトランクを開いた。短機関銃とドラム弾倉が収まっている。

 ブラックソードは右手に剣を握り静かに立っている。鍔広帽で隠れた顔はどんな表情を浮かべているのだろう。

 大曲の言葉に頷きかけた伊織の端正な顔が、左衛門の次の呼びかけで恐怖に歪んだ。

「お前の両親は殺した。早く出てこないとこの兄貴も殺すぞ」

 凄まじい悲鳴が重なった。

「無駄だな。十中八九偽者だ。もし本物だとしても、出ていったら両方殺される」

 大曲の目は冷静さの中に憐れみを伴っていた。

「その通りだ。やめておけ」

 寝室から神楽の声が告げた。伊織は助けを求めるように仲間達を見回す。その瞳に涙が滲んでくる。ブラックソードは沈黙を守っている。

「伊織っ逃げろおおうぎゃあああっ」

 若い男の声が苦鳴に変わった。伊織が目を見開いた。

「声、兄の声です。本物の」

 窓に駆け寄り迷路の貼られたカーテンを開けた。

「やめろ」

 寝室からの鋭い警告。大曲が仕方なさそうに短機関銃を持って立ち上がる。

 窓を開けようとした伊織の手をブラックソードの左手が掴んだ。伊織がキッとなって振り返る。

 だが、革手袋は伊織の手を導き、窓のロックを解除した。伊織の顔に驚きが浮かぶ。

「まず間違いなく偽者だ」

 ブラックソードは掠れ声で告げた。

「だが、自分の目で確かめたいのなら止めはせん。気をつけろ。わしが開ける」

「すみません」

 伊織は魔人に礼を言った。ブラックソードが窓を開け、伊織がその横から通りを覗く。ここはマンションの三階だった。向かいのマンションのベランダからも何事かと眺めている者が何人かいた。彼らの視線を伊織は辿る。

 右方から歩いてくる男。今の距離は三十メートルほどだ。薄手のコートで身を包み、長過ぎる黒髪で顔の大部分が隠れている。

 長髪の男の右手は両刃の剣を握っていた。鍔のない、八十センチほどのやや短い刀身から鮮血が滴っている。左手は三十才くらいの男の首根っこを掴んで軽々と吊るしていた。苦痛に呻く男のワイシャツは血で染まり、水平に裂かれた腹から腸がはみ出している。両手も縛られている。男の目鼻立ちは伊織と似ていた。

「人間ではない」

 ブラックソードの判定は伊織の耳に届いていただろうか。

「紫香楽伊織、姿を見せろ」

 長髪の男・左衛門が剣を男の脇腹に深く突き刺して何度も抉った。男がまた凄い悲鳴を上げて泣く。

「お兄さんっ」

 叫んだ伊織の眼前で黒い剣が閃いた。小さな何かが弾かれて天井とテーブルに刺さる。通りから高速で飛来したそれらは、紫色に変色した誰かの前歯だった。自分で噛み折って口から吹いたのか。

「触れるな、猛毒だ」

 ブラックソードが告げた。左腕で伊織を下がらせる。今度は歯より大きなものが飛んでくる。一人の人間が三階まで直接跳躍してきたのだ。ホームレスのような汚れたコートを着た男。

 黒い剣が横殴りに振られる。襲撃者が空中で身を翻して胴の輪切りをなんとか避け、左手で窓の上枠を掴んだ。その腕が肘部分で切断された。男が右手で宙を掻きながら落ちていく。

 ブラックソードが剣を翳して付着した血液を見た。窓枠に残った敵の左腕は尖った爪が壁を貫通し、切断面からどす黒い血が滴っている。伊織が顔をしかめて咳込んだ。

「うがいをしろ」

 ブラックソードが言って、窓枠を斬って猛毒の腕を通りへ落とした。大曲が伊織を引き起こして洗面所へ連れていこうとする。

「お兄さんが……」

 伊織が嫌がる。

 ヒュールルルル、と、不思議な音がした。

 口笛にも似た、切なく澄んだ音色だった。

 ブラックソードが窓から外へ飛び降りた。落下の軌道を予測して小さな歯が飛ぶが、マンションの壁に突き刺さっただけだ。ブラックソードの姿は途中で消えていた。

 ヒュールルという音が背後から届き、汚れたコートの男は素早く振り向いた。ブラックソードはいつの間にか向かいのマンションの玄関に立っていた。

 猛毒男・死村は断たれた左肘を押さえもせず、紫色にむくんだ顔で醜悪な笑みを浮かべた。新しい前歯が膨れた歯茎から生えてくる。

「面白い奴だ。どうせ腐れ死ぬが。どんな奴だろうと俺の手で腐れ死ぬのだ。皆腐れ死ね」

 死村の言葉に応じるのは澄んだ音色だけだ。ブラックソードが剣を振った。相手との距離はまだ十メートルほどあった。

「何をやっている」

 死村がせせら笑った。その右腕が肩口からボトリと落ちた。死村が白濁した目を剥いた。

 ブラックソードの剣の、半ばほどから先が消えている。

「こいつ……」

 呻く死村に構わずブラックソードが歩き出す。血塗れの男を吊るした左衛門に向かって。

 死村が突進した。左上腕を振り濁った血を飛ばしながら口をすぼめる。吹いた奥歯がブラックソードのロングコートを貫いた。

 ブラックソードの胴はそこになかった。死村の顔面から黒い刃が生えていた。真上に持ち上げられ死村の頭部上半分が二つに裂ける。

「あろ、ば」

 死村の目が裏返り傷から腐った脳漿が溢れ出す。ブラックソードの右手首だけが剣を握って宙に浮かび、今度は横殴りに往復した。死村の首が飛び、両足が付け根から断たれて胴が転がった。その胴も縦に割れた。

 死村は何も出来ぬまま死んだ。どす黒い血溜まりが広がっていくにつれ、死村の死体が急速に腐り始めた。肉が溶け骨も溶け、ただの紫色の腐液となり、やがて、無色透明で澄んだ水溜まりに変わった。彼自身をさいなんできた猛毒は生来のものではなく、歪んだ精神の産物だったのだろうか。

 コツン、と音をさせてブーツの踵が地面に触れ、ブラックソードは左衛門の前に立っていた。

 左衛門は長髪の下で確かに笑みを浮かべていた。覗く瞳はギラギラと昏い欲望に光っている。

「久々にそそられたぞ。名乗れ」

 しかしブラックソードの返事はなかった。ヒュールルルという響きだけが彼の自己表現のように。

 ズッ、と、左衛門が吊っていた男の首がずれて転がり落ちた。左衛門の意外そうな目つきから、やったのはブラックソードだろう。再び剣が半ばから消えている。マンションの窓から伊織の悲鳴が上がる。

「ふん」

 血を噴く胴体を投げ捨てて、左衛門が電光石火で背中から二本目の剣を抜いた。一秒に十人殺せると豪語したという二刀流。

 その両腕が落ちた。

 右上腕半ばと左肘の断面を、左衛門は呆然と見つめていた。黒い刃はそれぞれ十五センチほどの長さだけ宙に現れて、別々に腕を斬っていったのだ。

「こ、こんな……」

 左衛門の傲岸な瞳が初めて絶望に染まった。

 ブラックソードが右腕を振り上げた。手首から先が見えない。その動作に伴い左衛門の後方から現れた黒い刃が首を水平に薙いでいった。

 生首が地面を転がっていく。奇妙なことに、長い髪は一本も切れていなかった。

 仰向けに倒れた左衛門の胴を、ブラックソードの鍔広帽が観察している。更に止めが必要かどうか考えているのだろうか。

「兄さんを、どうして」

 窓から伊織が叫んだ。涙と怒りと充血した目。

 ブラックソードが伊織の方を振り仰いだ。その瞬間、左衛門が放り捨てた男の首なし死体が身を起こして発砲した。両手首を縛っていた縄が輪になったまま抜けている。拳銃は何処に隠していたのか。

 銃口の先にブラックソードはいなかった。その場に黒い剣だけが浮いている。首のない男が舌打ちした。素早く立ち上がって駆け出そうとする両足を黒い刃が払い、膝部分で切断した。首なし男が転がりながら出鱈目に発砲するが弾は虚空を貫くだけだ。その両腕も付け根から失われ、男は胴体だけの生き物となった。血は少ししか流れず、首を斬られた時の大量出血は意図的なものだったらしい。

 胴体の傍らに、幻のようにブラックソードが出現した。本来の繋がりを取り戻した腕が剣を振り上げる。

「待って」

 伊織の声にブラックソードは動きを止めた。

「それ……その人、まだ生きてるの」

「そのようだ」

 口笛のような音がやみ、掠れ声が答えた。少し苦しげな声だった。

 胴だけとなったレイゲンは、首の断面から赤い肉が盛り上がってきた。ピンク色の饅頭に変わり、表面に横の裂け目が走る。それが開いて声を出した。

「どうした、お嬢さん。まさか俺のために命乞いをしてくれる訳でもねえだろ」

「私の兄さんは、本物の兄さんは生きてるの。それと、私の両親は本当に死んだの」

 三階の窓から伊織は問うた。彼女の横に大曲が立っている。何もしていないのにくたびれた顔だ。

 レイゲンの口が笑みの形に歪んだ。

「ハッ。知らんね。俺が見せられたのは兄貴の写真だけさ。あんたのとこに人質交渉がなかったんなら、全員とっくに殺されてコンクリ詰めにでもなってんだろ」

「で、でも、声が、兄さんの声で……」

「似てたかい。そいつは嬉しいね。当てずっぽうの作り声だったがな」

 血に染まったワイシャツが僅かに膨らんでいた。ブラックソードが剣を振り下ろした。

 輪切りにされた胴から、切断された小さな腕が転がり出た。それは小型の拳銃を握っていた。銃がターゲットである伊織を狙っていたのかブラックソードを狙っていたのかは分からない。

 ブラックソードが休まず剣を振った。胴の上半分が今度は縦に割られた。心臓があるべき胸郭の中心に、脳の断面が見えていた。

「こっちは片づいた」

 十秒ほどその場で待って、漸くブラックソードが言った。不死身の殺し屋三人を、全く反撃の余地を与えぬまま始末したのだ。

 あの口笛に似た響きが数秒だけ再開され、一歩踏み出したブラックソードの姿が虚空へ呑み込まれた。

 次の瞬間、ブラックソードは三階のリビングに戻っていた。少しよろめいて壁に左手をつく。

「階段要らずだな」

 大曲が言って窓を閉めた。通りの光景を遮断すべくカーテンも閉じる。

「急がぬ時は、階段を使う」

 ブラックソードが答えた。

 伊織は肩を落とし、声を出さずに泣いていた。

 物音の続いていた寝室から、神楽鏡影の声が届いた。

「ノーリターンの居場所が分かった」

「何処だい」

 大曲が聞く。

「ここから東北東、二十七キロ。串坐師町四丁目、角の屋敷だ。庭にトレーラーが乗り入れてある」

「了解。警官隊を差し向けるか」

 大曲がスーツのポケットから小さな地図冊子を取り出して開いた。それを後ろからブラックソードが覗き込む。

「……うむ。分かった」

「分かったってのは」

 ブラックソードの呟きに大曲が聞き返す。

「早い方が良かろう」

 ブラックソードが歩く先は部屋の玄関口だった。ドアノブに手をかけて回す。

 ドアが開くにつれ、ヒュールルルルと美しい音が鳴った。

 先は共用通路ではなく別の部屋だった。窓はカーテンが閉じられ電灯も点けず薄暗い。

 床に六つの死体が転がっていた。喉を切り裂かれ、頭を中心に向けて放射状に並べられた死体。床の血溜まりは融合して隙間が見えないほどだ。

 その中心に胡坐をかいている男がいた。血で染まったローブを着て、両手で握った小さな像に細面の顔を近づけて何やら話しかけている。像は黒檀製と思われる丸いもので、目と耳だけが幾つもでたらめについていた。

「殺せ殺せ眼球を抉れ首を絞めろ脳を潰せ肺を腐らせろ心臓を破れ肝臓を食らえ脊髄を引きちぎれ腸を……おっ」

 低い声で呪詛の文句を続けていたノーリターンは、隣の部屋から差し込む光と口笛のような響きによってトランス状態から立ち返った。彼の左目はなく、赤い眼窩から肉が盛り上がりつつある。神楽の攻撃によるものか。

「だ、誰だっ」

 ノーリターンは立ち上がろうとした。隣がいきなり知らぬ部屋に繋がって不気味な男が立ち、その向こうからはターゲットの女ともう一人の男が呆れ顔で覗いているのだ。流石の呪術師も度肝を抜かれただろう。

 ブラックソードが横殴りに剣を振った。本来のリーチを超えてノーリターンの首が切断され落ちた。床にぶつかった拍子に生首が縦に割れ脳が転がり出る。

「ブラックソードという」

 澄んだ音がやんだ後で魔人は死者に名乗った。

 これで、ノスフェラトゥ・セブンは全滅した。

 ブラックソードはドアを閉めた。おそらくその瞬間に向こう側は本来の共用通路に戻っていることだろう。

 歩いて戻り、初めてブラックソードはソファーに腰を下ろした。疲れた長い溜め息を吐く。それはやがてひどい咳に変わり、彼は両手を顔の前にやった。革の手袋から鮮血が滴り落ちていく。

「大丈夫ですか。怪我を……」

 心配そうに伊織が尋ねた。魔人の背中に手を置きさえした。

「大丈夫だ。怪我ではない。理不尽な力の代償だ」

 喀血は暫く続いた。伊織が持ってきたタオルを、彼は「すまぬ」と言って受け取った。白いタオルが真っ赤になった頃、やっと喀血は終わった。

「片づいたな」

 寝室のドアが開き、神楽鏡影が姿を見せた。頭巾は脱ぎ、野生的な美貌は完全に修復されている。彼はコップに水道の水を注ぎ、袖の中から出した丸薬を数個、喉に流し込んだ。

「そのようだな、取り敢えずは」

 大曲は地図を畳んで仕舞い、新しいビーフジャーキーの袋を開けた。

「さて、クロちゃんの方はどうなったか……」

 一同はテレビへ目をやった。

 

 

  六

 

 甲冑の男は自動小銃を撃ち尽くすと素早く弾倉を入れ替え、グレネードの次弾も装填した。篭手をつけた状態でもスムーズな動作だった。黒贄礼太郎は穴だらけになりながらヒョコヒョコと近づいてくる。銃弾は全て黒贄に命中したが、それが無意味なことを見物人は皆知っている。胴は殆ど空になり、向こうの景色が見えているのに黒贄は動いていた。

「マサメニョー」

 ポスターの穴から虚無が洩れる。十五メートルほどの距離で黒贄は一旦立ち止まり、左手を前方に伸ばした。握っていた四個目のパックを離す。

 自動小銃の連打と駄目押しのグレネード弾を食らって残り少ない肉を散らしながら、黒贄は右手のスティックを振り翳した。

「マサメニョー」

 スティックの軌道もパックの軌道も見えなかった。空気の割れる音に人々は耳を塞ぐ。

 甲冑男の胸部に細長い穴が開いていた。硬質ゴムの円盤が通り過ぎた跡。穴は背中まで貫通していた。

 しかし甲冑男は無言で弾倉を交換し始めた。心臓を貫いた筈の傷口からは一滴の血も流れない。

「マサメニョー」

 黒贄が左手でポケットを探りながら片足でやってくる。跳ねるペースが次第に上がっている。しかし黒贄の到着前に甲冑男は弾倉の装着を終えていた。銃口が黒贄の頭部へ向かい立て続けに火を噴いた。

「マサメニョー」

 横殴りのスティックが自動小銃の銃身を折り飛ばした。甲冑男の攻撃手段が失われたと見えたその瞬間、拳を作った右の篭手が凄い勢いで黒贄の顔面に叩きつけられた。ギャチイィッ、という異様な音がした。

 黒贄の体が映画の特撮みたいにグルグルと回ってすっ飛んでいく。手足の先が地面を擦りながら十メートルも飛んで漸く崩れ落ちる。

 甲冑男の右肘から煙が昇っていた。ジェット噴射装置でも仕込んであったのだろうか。

「マサメニョー」

 ゾンビのようにぎこちない動きでしかし素早く黒贄が立ち上がる。さっきまで少し右に傾いていた首が、真後ろへほぼ直角に曲がっている。

「マサ、メ、ニョ」

 黒贄がスティックで自分の後頭部を叩き、首の角度を修正していく。ゴキ、メシ、と骨のずれる音をさせ少し行き過ぎて俯き加減になったところで停止した。ポスターのマサマサに皺が寄り、一部が破れている。

「そのポスターを外せ。お前如きがかぶって良いものではない」

 兜の中から怒りに満ちた声がした。中年の男の声だった。

「マサメニョー」

 黒贄はポスター越しにくぐもった奇声を返した。

 甲冑男が黒贄へ向かって駆け出した。オリンピックの陸上選手もかくやというスピードだった。

「マサメニョー」

 黒贄がポケットから抜いた左手にはパックがなかった。ポスターのマサマサが周囲を見回す。吹っ飛んだ時に落としたのだろう、前の地面に転がっている。黒贄が二、三歩進んで身を屈め、パックに手を伸ばす。

 パックを掴んだのとほぼ同時に甲冑男の蹴りが黒贄の胴にめり込んだ。黒贄の体がくの字になって二メートルも浮き上がる。落ちてくるところに左の篭手を御見舞いする。肘から火を噴きながらの高速パンチは黒贄の右側頭部にぶち当たり、首が左へ曲がって左肩にくっついた。更に右のジェットパンチが黒贄の胸を突き破り、残り少ない肺を背中へ押し出した。

「マサメニョー」

 左の回し蹴りが黒贄の腰を砕いた瞬間、黒贄の左手が兜にめり込んだ。手が離れた後には、兜の凹みにパックが突き刺さっていた。

「マサメニョー」

 空中から横殴りに叩き込まれたスティックが、パックごと兜を吹き飛ばした。甲冑男の体も後方へ飛ばされ、回転しながら屋敷の壁をぶち破り屋内へ消えた。

「マサメニョー」

 黒贄がヒョコヒョコとそれを追う。人型に開いた壁の穴をスティックで叩いて広げ、奥へ進む。カメラマンが慎重に歩み寄り穴から覗いている。

 甲冑男がなんとか立ち上がった。兜の脱げた顔は白髪頭の男だった。正木家の執事・岩巻。額が派手に陥没している。常人なら脳や眼球が飛び出して即死している筈だが、岩巻は憤怒の形相で黒贄へ掴みかかった。

「マサメニョー」

 スティックが霞んだ。圧倒的なパワーで岩巻が飛ばされる。奥の壁を破って別の部屋へ。それをまた黒贄が追う。人々は決着を見届けるべく玄関や壁の穴からゾロゾロと家宅侵入を始めた。

 その部屋は大きなホールだった。家具も窓も何もない。岩巻は立ち上がろうとするが左膝がちぎれており果たせない。膝部分から電気コードや金属棒が見える。

「マサメニョー」

 黒贄が迫る。岩巻は両手と片足で這い、ホールの唯一の扉を押し開いて上体を廊下に預けた。黒贄はまだ数メートル後ろで悠然としている。

 岩巻の体から微かな電子音がして、ホールの床が消えた。穴から覗いていた人々があっと声を上げる。

 落とし戸の下十メートルにプールが待っていた。緩やかに波打つ強力な溶解液。黒贄の体があっけなく落ちていく。

「マサメニョー」

 黒贄が着水寸前に両手でスティックを握り、大上段に振りかぶって水面に叩きつけた。打撃面を向けて当たる面積を最大限にした超速のインパクトは、液体に潜らず逆に黒贄の体を持ち上げた。十メートルの高さを余裕で超え、ホールの出口へ飛んでいく。岩巻執事の凹んだ顔が驚きの表情を作る。

「マサメニョー」

 その顔面にスティックが振り下ろされた。ガジュッ、と金属の軋み音を立てて岩巻の顔が更に陥没した。鼻が後頭部付近までめり込み、目と耳から火花が散った。

 勢いで岩巻の体がホール側に滑った。支える床は既になく、岩巻が地下のプールへ落ちていく。

 岩巻は両掌でプールの水面を叩いた。黒贄の真似をして逃れるつもりだったのか。だが派手な飛沫が撥ねただけで、岩巻の体は溶解液に沈んだ。

「旦那さま、おユルシヲヲヲッ……」

 崩れた口で岩巻が叫ぶ。途中で口から火花が散って声が甲高くなった。岩巻の体は水に浮かずどんどん沈んでいく。鋼鉄の甲冑が溶け出して透明な液体に鉛色が染みていく。

 黒贄は扉の向こうに片足で立っている。ポスターの正木政治が溶けていく岩巻を見下ろしていた。

 プールの底についた岩巻は壁を破ろうとしているようだったが、何度も体から稲妻を発しているうちに動かなくなった。甲冑が溶け去り、服が溶け、岩巻の皮膚が溶けていく。

 皮膚の内側にあるのもまた金属のフレームと、複雑な電子機器であった。

 それもまた溶け、脳や内臓らしきものが見えぬまま、岩巻は消滅した。

 岩巻執事はアンドロイドであった。

 無言で見下ろしていたポスターに幾つか穴が開いていた。プールを逃れる際に飛沫がついたのだろう。穴が少しずつ大きくなり互いに融合する。

 パツン、と軽い音をさせポスターが外れて落ちた。溶解液のプールに浸り、溶けて消えていく。残るのはこめかみに穴が開き鼻筋が曲がった黒贄の顔だ。感情を超越した虚無の瞳は今、満足げで穏やかな色になっている。

「おっとそうだ。仕事がありました」

 黒贄は廊下へ向き直り、スティックを床に叩きつけた。絨毯が破れ、亀裂の広がる重い音が下へ続いていく。

 もう一度黒贄が叩くと、床に大きな穴が開いた。コンクリートの塊が零れ落ち、下に新たな部屋が見えてくる。

 黒贄は玄関近くまで歩いてきてそこの床も叩き壊した。大穴が開いて広大な地下室が覗く。洩れ出した青い光が人々の顔を染める。

「し……死体が沢山……何か、拷問器具のようなものが……」

 覗き込んだレポーターが蒼白になってカメラに語った。人々がどよめき始める。

「こ、ここは地獄だ」

 誰かが呻いた。

 黒贄がにこやかに説明した。殆ど残っていない肺でどうやって喋っているのか。

「向こうの廊下に地下室への入口があるそうですよ。鍵が掛かっているかも知れませんけれど。マサマサさんの大事な実験室ですが、今回は特別に皆さんにお見せしましょう。まあマスコミの皆さんもごゆっくりどうぞ」

 やるべきことを済ませると、黒贄は自分の腹を押さえた。内臓はほぼ空になっている。

「それでは、お腹が空きましたので失礼します」

 皆に一礼して、黒贄はスティックを杖代わりにして歩き出した。唖然とする人々の間を抜け、正門へ向かって去っていく。

 やがて、我に返った人々による怒涛の拍手が馬締市を揺るがせた。

 

 

  七

 

 生中継される自分の屋敷の様子を、マサマサこと正木政治は真剣な表情で見つめていた。

 甲冑男の兜が外れ、白髪の中年男の顔が現れても正木は眉一つ動かさなかった。

「マサマサさん、あの男に見覚えはありますか」

 司会者の問いに正木は平然と答えた。

「ああ、彼はうちの執事の岩巻だ。いつもはあんな服装はしていないのだが」

「え。と、ということは、マサマサさんの執事が銃を撃ちまくっている、と」

「その通り。屋敷に侵入した曲者を排除するのは執事の義務だろう」

「え、でも、銃は日本では……」

 司会者の呆れ顔が映った。秘書が車椅子の正木に駆け寄り「先生はご気分が優れないようですので」と引いていこうとする。

「何を言っている。私はいつでも絶好調だ。政務も研究も……」

 慌てて秘書が正木の口を塞いだ。その手に正木が噛みついて秘書が悲鳴を上げる。スタジオの騒ぎをよそに中継映像では執事が吹っ飛んでいく。

 ホールの床が消えて地下のプールが現れ、執事が落ちて溶けていく。司会者が尋ねる。

「マサマサさん、あのプールは……」

「ネプチューンズ・スレイバーと呼ばれる薬品を満たしている。アメリカの死体処理業者から購入したものだ。これまで百三十人ほど溶かしたかな。一つ知りたいことがある。彼らの形態は失われ混ざり合っているのだが、それが彼らの本質にどんな変化を及ぼしているのか。少なくとも、彼らが仕事をしなくなったというのは確かだ」

「あ、あの……マサマサさん……」

 司会者の体が震え出した。秘書はオロオロと助けを求めるようにスタジオ内を見回している。正木政治の瞬きをしない大きな瞳は純粋な探究心に満ち満ちていた。

 正木邸では執事が機械の体を露呈して、やがて小さな鉄屑になり、それも溶けて消えていく。

「あ、あの執事は、ロボット、なんですか」

「正確にはアンドロイドだ。しかし人間とアンドロイドの本質的な違いは何かね。働かない人間もいれば、職務を全力で果たそうとするアンドロイドもいる。私はどちらにも給料を払っている。本質とは何か、私が知りたいのはそこだ」

 正木がカメラに向かって語る。その表情は真摯そのものだ。これほど真面目な人間が今の世に存在するだろうか。正木の顔は正木邸中継のため画面の片隅に追いやられているが、視聴者を震え上がらせるには充分であったろう。

 黒贄がスティックで廊下に穴を開けた。更に玄関近くの床にも大穴を開ける。洩れ出る青い光。レポーターが震える声で中の惨状を告げ、テレビカメラが地下室を覗き込む。

 加工された無数の死体。首を切られた死体、剥製にされた死体、ミキサーに入った肉液、電気椅子に座った死体、積み重ねられ縫い合わされた死体、お茶の間に不相応過ぎる映像が無修正で流れてしまった。

 中継映像が画面の隅に押しやられ、スタジオ内の様子がメインとなった。

 司会者が、口を大きく開けたまま、荒い呼吸を続けている。他のパネリストはとっくにその場を逃げ出し、空席ばかりが目立つ。秘書の姿も消えていた。

「マ、マ、マサマサ、マサマサさん……あ、あの地下、地下室は……」

 司会者が、なんとか発言した。

 眉をひそめて不機嫌そうに正木政治は答えた。

「あれは私の研究室だ。大事な部屋なのに穴を開けられてしまった。帰ってから修繕しないといけない」

「け、研究って……」

「私は政治活動と並行して世界の本質を研究している。これまで二千人以上を実験台にしてきたが、満足な答えはまだ得られていない。しかし私は諦めるつもりはない。根源を知らねばならない。意味とは何なのか知らねばならない。本質とは一体何なのか」

 畳みかける正木の、意味を求める純粋な瞳は、虚無にも似ていた。

「ど、どうして……どうして、そんなことを」

「だから私が知りたいのはそれなのだよ。どうして。どうして私はこんなことをするのか。それを知らねばならない」

「で、でもどうして、今、それを正直に、告白するんですか。どうして今まで、隠していたのに……」

「うむ。その答えは明快だ」

 正木は爽やかな笑顔になって言った。

「隠していたのではない。単にこれまで君達が私に尋ねなかったというだけのことだ」

 スタジオは静まり返っていた。絶句する司会者に正木は真剣な口調で続けた。

「そして今私の中に新しい疑問が湧いた。君はそんな目で私を見ているが、君の本質はどんなものだろう。例えば両目で見ている君と」

 正木が包帯の巻かれた右腕を伸ばした。Vサインを作った人差し指と中指が司会者の両目に深々と突き刺さる。眼球がはみ出して司会者が異様な声を上げる。

「両目のない君の違いは何処にあるのか。実に興味深い問題だ」

 スタジオが大混乱に陥った。やがて全ての映像が途切れ、『このまましばらくお待ち下さい』という文字が表示されたまま動かなくなった。

 

 

  八

 

「終わったな」

 テレビから目を離し、大曲が眠そうに伸びをして言った。

「残念なガラ、マダ終わってはおりマセン」

 いつの間にかソファーに座っていたシルクハットとステッキの紳士がおかしなイントネーションで告げた。

「で、あんた誰」

 大曲が眠そうに聞いた。

 

 

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