第四章 ディナーは魔界で

 

  一

 

 正木政治邸地下室の死体は二百を超えた。ミキサーにかけられたものやプールに溶けたものもあるので正確な数は不明のままだ。馬締市内の七つの警察署の死体安置室は満杯になった。

 発覚の翌日、午前十一時。

 そんな死体安置室の一つで、八津崎市警察署長の大曲源はげんなりした顔を検死台に向けていた。

 一人分が載る台の上に三人分の死体がある。ただし合計質量は一人分にも満たない。

 十字型になった金属棒のそれぞれの先端に、三つの生首が突き刺さっていた。中年の男女と、三十才前後の男の首。口を大きく開けた状態で固定され、口腔内に電球が突っ込まれている。眼球も抉り抜かれて小さな電球と常夜灯が嵌まっている。電気コードは後頭部から金属棒を伝っていた。

 紫香楽伊織の両親と兄の生首だった。十字型の金属棒は一ヶ所の端が空いている。正木政治はここに伊織の生首を刺す予定だったのだろうか。

「生首のシャンデリア、か。こんなもんを作って、マサマサはどんな真実が知りたかったんだろうな」

「さあ、私のような凡人にはとても……」

 現地の警察署長は額の冷や汗を拭う。正木の指示を鵜呑みにして紫香楽伊織をテロリスト扱いした彼らは、世論の激烈な非難を浴び窮地に陥っていた。

「マサマサはまだ捕まってないんだろ」

 ぞんざいな口調で大曲が尋ねる。

「ええ、昨日スタジオを出てすぐ何者かに拉致されまして、現在も行方不明です。自作自演の可能性もありますが、正木の第一秘書が殺されていますし」

「聞いてるよ。口から内臓が全部出てたってな」

「……はい。正木を拉致した者の素性について現在全力で捜査中で……」

「いや、そっちの捜査は必要ない。多分無駄骨になる」

「は、はあ」

 一人の刑事が安置室に入ってきた。

「紫香楽伊織さんが家族の遺体を確認したいと言ってますが。そのために来たから、と」

「駄目だ」

 即答したのは大曲だった。珍しく真面目な顔になっていた。

「早いとこ体の方を見つけて、うまく修復してもらってくれ。本人に見せるのはそれからだ」

 現地の署長が頷く。

「はあ、努力はしますが……もし、胴体が見つからなければどうしましょうか」

「見つからねえ時ゃそれっぽいのをくっつけといてくれ」

 真面目な顔は五秒も持たなかった。

「じゃ、なんか分かったら連絡頼むわ」

 大曲は安置室を出た。

 署の一階で三人が待っていた。自宅で普段着に着替えた紫香楽伊織。黒い着物の神楽鏡影。そして、ダークグレイのロングコートと鍔広帽のブラックソード。

 立ち上がった伊織に大曲は告げた。

「残念だが、あなたのご両親とお兄さんだと思う」

「な、なら会わせて下さい」

「駄目だ。見られるような状態になるまではな」

 大曲の言葉の意味に気づき、伊織の目に涙が溢れ出した。俯いて嗚咽を噛み殺す。悲しみと、憎しみと。

「黒贄が見つかりましたよ」

 神楽鏡影が言った。

「帰りの電車賃がなく、駅前の公園で夜を明かしたそうです。駅に待たせています」

「そうかい。まあ、皆で飯食いながら打ち合わせしようか」

 大曲が禁煙パイポを出して言った。

 

 

  二

 

 駅前のホテルにあるレストランで奥の個室を陣取って六人の男女が集合した。

 長方形のテーブルの一番奥に座るのは大曲源だ。左の長辺には奥から紫香楽伊織、神楽鏡影の順に座る。右には黒贄礼太郎、ブラックソードがいた。腹が空いていたのかこれから食い溜めしようとしているのか、黒贄は大量の料理を凄いペースで平らげている。対照的にブラックソードは何も手をつけていない。神楽鏡影は心持ち椅子を引き気味にして、黒贄から視線を外さずにいた。伊織は水を少し飲む程度で、大曲はスープをチビチビやっている。

 他の五人より遅れて入室し、一礼して手前の椅子に座ったのは小柄でやや肥満体の男だった。燕尾服に黒のシルクハット、白い手袋という服装だ。持っていたステッキは椅子に立てかけた。四十代の穏やかな顔は全く表情が動かない。左目の片眼鏡からは細い銀の鎖が垂れている。目は動かず瞬きもせず、人形のように虚ろなものだった。

「少し遅刻しマシタかな」

 イントネーションのおかしな日本語で紳士が言った。ウェイターにはホットコーヒーを注文する。

「いや、俺達が早く来ただけさ。腹が減ってたんでね」

 大曲が答える。

「おや、あなたは」

 グルグル巻きにしたミートソーススパゲティを一口で呑んだ後、黒贄が紳士の顔を見て眉を上げた。昨日の傷は全て消え服も元通りになっているが、そのことに突っ込む者は誰もいない。

「お久しぶリデスね、ミスターくらにい。エフトル・ラッハートです」

「ははあ、こちらこそ初めまして」

 黒贄は丁寧に頭を下げた。微妙な沈黙の後、大曲が先へ促した。

「で、事の次第について改めて聞かせてくれるかい」

「エエ、お話しシマしょう。ノスフェラトゥ・セブンの七人は、異界の出身者デス。尤も、私達にトッテはこちらの世界の方が異界デスが。私達はこちらの世界ヲ『狩場』と呼んデイマす」

「ふうむ。とすると、あなたもノスフェラトゥ・セブンの皆さんと同じく別の世界の方、ということになりますかな」

 ステーキを切りながら黒贄が確認する。

「その通リデす。私達は自分達の世界をアルメイルと呼んデイマす。単に『世界』トイう意味でスガ。この『狩場』と違い、殺し合いの絶エナい世界です。弱肉強食でスガ、強者も油断すルトすぐ死ニマす」

「殺し合いはこっちの世界も似たようなもんだがね」

 大曲がくたびれた口調で言うと、エフトル・ラッハートは首を振った。完璧に水平な動き。

「いえ、規模が違イマす。一日に人口の一割が入れ替わる世界でスノデ」

「うちの市はこの間、一晩で住民がほぼ全滅したけどな。あ、悪い、話を進めてくれや」

「アルメイルとこちラノ世界は幾つカノ地点で繋がっていマス。勝手に行き来する者がなイヨウ、ゲートは厳重に管理されていマスガ、他の地点でも不安定ながら一時的に繋がルコトモあります。それで、アルメイルからこちラノ世界に流れてくる者がいるノデス。こちラノ住人は特殊能力を持たぬ弱者が殆どでスノデ、やりたい放題に遊べマス。だから『狩場』なノデス」

「向こうでは不死身だったり変な力を持った奴が多いって訳だ。で、そうやってこっちに来たのがノスフェラトゥ・セブンの奴らだと」

 大曲がまとめる。

「そうでス。ちなミニ昨日は申しまセンデシタガ、そちらの彼もアルメイルの出身者でス」

 エフトルに指差され、ブラックソードの鍔広帽が頷いた。

「神羅万将を連れアルメイルを抜けたのが二百年ほど前になるか。エフトル、お主には暫く追い回された」

 ブラックソードの声音は幾分の苦味を含んでいた。神楽がエフトルに問う。

「アルメイルについては何度か耳にしたことがあります。アーメルや『影の世界』とも呼ばれていますね。もしかしてエベレストタワーの業頭原重隆もアルメイルですか。『こちらの世界』という言葉を使っていましたが」

 業頭原と黒贄の会話をどうやって神楽は耳にしていたのか。無論、神楽がわざわざそれを説明することはないだろう。

「ソうです。彼も『狩場』をカナり荒らしましたので、回収予テイに入っておりまシタ」

「ほほう、すると私なんかどうでしょう。いかにも出身者のような感じがしませんか」

 マカロニグラタンをつつきながら黒贄が尋ねる。

「いえ、あなタノ出自は存じマセン。何でもアルメイルのせイニしてはいけマセンヨ」

「そうですか」

 何故か黒贄は不服そうだった。少し呆れている他のメンバーの視線を受け流し、黒贄はグラタンを頬張って「熱いっこりゃっ」と大声を上げる。

 溜め息をついて大曲が言った。

「……で、本題に戻ろうか」

「そうでスネ。ノスフェラトゥ・セブンにつイテハ彼らを回収対象に加えこソスレ、活動自体は本来こちらが関与すべきことデハありません。しかしながら、二ヶ月前にアルメイルの支配者が交替し、方針が変わっテキタのです。昨日お話シシタのはここまででシタね」

「支配者というのは頻繁に替わるのですか」

 神楽が聞く。

「魔王を倒シた者が新たな魔王となリマス。先代の魔王は十七年にワタり君臨していましタが、歴史上の最短は六秒、最長は八百三十四年デす。今の魔王ウーリューフェンはかナリの実力者でスノで、長い御世になルカモシレません」

 エフトルの前にコーヒーが置かれた。エフトルは砂糖を二杯入れて掻き混ぜ、スプーンを置いた。

「で、方針が変わったってのは」

 大曲が聞く。エフトルはコーヒーに手をつけず話を続ける。

「鎖国から拡大政策へノ転換でス。魔王ウーリューフェンは『狩場』に興味を持チ、二つの世界を同時に支配しタイと望むよウニナリました。こレカら幾度か試験的な侵略を行い、そノ結果を見て大軍勢を送リコム計画のよウデス」

「はあ、そりゃあこっちの世界も大変だな」

 他人事のように大曲が言う。

「その政策の一環とシテ、魔王はアルメイルの威信を重視すルヨウニなりました。ノスフェラトゥ・セブンの関ワッた今回の一件について、魔王の怒リハ並大抵ではあリマセン。アルメイルでは無名だったとイエド、出身者七人が一両日で全滅し、あまツサえ二人はテレビの全国放映で醜態を晒しタノデス。そこで魔王はミス紫香楽を殺害することを決定しマシタ」

「……。えっ」

 紫香楽伊織が顔を上げた。他の考え事をしていたのか、いきなり名を呼ばれてキョトンとしている。

「魔界の化け物共が面子に懸けてあなたを狙ってるんだそうだ」

 大曲が非常に分かりやすい説明をして、エフトルに問う。

「ならマサマサを攫ったのはあんたらかい」

「確かに魔王の手の者デす。ミスターマサマサと新たに契約を結ぶつモリナノカ、腹いセニ殺すつモリナノカ、それは私ニモ分かりません。シカシどちらであロウと、本日十六時ニハ第一陣がこちらの世界に到着しマス」

「アルメイルの人口はどれほどですか。彼らを人間として数えたとすればですが」

 神楽が問う。

「現在十三億ほどになリマス。新陳代謝が早イタめ、魔王ウーリューフェンが掌握していルノハ六億ほどでスネ」

「暗殺部隊の第一陣は何名だ」

 今度はブラックソードが質問した。

「五万の精鋭軍デス。デモンストレイションを兼ねておりますノで、ミス紫香楽を発見して殺害すルマデ、彼らは無差別さツリクを続ケマす」

 聞いている伊織の顔に動揺はなかった。既に感覚が麻痺しているのかも知れない。

 黒贄がカレーうどんの汁を啜り終えて器を置き、嬉しそうに言った。

「化け物の皆さんが五万もですか。なら安心ですね。何しろ私はノスフェラトゥ・セブンの方を二人しか殺してないのに、ブラックソードさんが四人も殺してしまわれた。これはやはり不公平でしょう」

 隣のブラックソードを見る黒贄の瞳には冷たい対抗心が燃えている。

「あの……」

 伊織の声は暗く沈んでいた。

「これは、いつまで続くんですか。何人も、何百人も、殺されて。関係のない人も。私が死ぬまで、これは続くんですか」

「勿論、あナタガ死んでも続きまス。これからは億単位の死者が出るデショう」

 エフトル・ラッハートが同じ表情で告げる。黒贄が胸を張ってみせた。

「大丈夫ですよ。あなたを守るためなら何億人でも皆殺しにしてみせますから」

 黒贄が本気なのは間違いなかった。ただしそれが紫香楽伊織を守りたい気持ち故なのか、単に殺しが好きだからなのかは判別出来ない。

 伊織が俯いたまま、途切れ途切れに声を絞り出した。

「……おとといまで、私、お屋敷で普通に働いてて。皆、いい人ばかりで。執事さんも、旦那様……あの正木も、いい人だと思ってて。私、こんな職場で働けて、幸せだと思ってました。でも、正木は狂った殺人鬼で、執事はロボットで……職場の人達はまだ見つからなくて、きっと殺されてるんだろうって。あの時、一人でも多く引っ張って、一緒に逃げれば良かったのにって。どうすれば良かったんだろうって。……実家に電話したのは一ヶ月以上も前で。どうしてもっと親孝行しておかなかったんだろうって。もっと話しておきたいことも、沢山あったのに。兄さんとは……兄とは、半年前に喧嘩して、それからずっと連絡を取ってなくて。あんな形で、最後になってしまうなんて……。もう、何もかもメチャクチャで。私ももう、どうなってもいいような気がして……」

 男達は黙って聞いていた。神楽は口元を引き締めたまま動かない。ブラックソードは鍔広帽の下で何を思うのか。大曲は頭を掻いている。エフトル・ラッハートに人間的感情を期待するのは無理というものだろう。

 黒贄が少し困った様子でメンバーを見回し、取り繕うように伊織に言った。

「ま、まあ、元気を出して下さい。たまには楽しいこともありますよ。ちょっと私がこのホテルの屋上から飛び降りてみせましょうか。きっと楽しくなりますよ」

「いえ、結構です」

 伊織は慌てて首を振り、苦笑した。その頬を涙が伝っていく。黒贄はガックリとうなだれたが手はデザートのプリンへ伸びていた。

 大曲が核心に入った。

「さて、エフトル・ラッハートさんよ、お前さんの目的は何だい。わざわざ俺達にこんなこと教えるのは何のためだ」

「打開策を一つ、提案しタイノです」

 エフトルは言った。

「ミス紫香楽抹殺も『狩場』ヘノ侵略も、現魔王ウーリューフェン独自の政策でスカラ、魔王が代替わりすレバ中止さレマス」

「なるほど、頭を潰しゃあいい訳だな。クロちゃん、ちょっと行ってきてくれるかい」

 気楽に頼む大曲に、黒贄の返事も気楽なものだった。

「いいですよ。でも食べ終わるまで待って下さいね。それと、追加の料理を注文してもよろしいですかな」

 黒贄がメニューを見ながらウェイターを呼ぶ間に、神楽がエフトルに尋ねる。

「しかし、あなたもアルメイルの住人なら、魔王の配下ということでしょう。何故私達に魔王の殺害を依頼するのです。下克上を狙っているのですか」

「イエ、私が魔王に成り代ワルツもりはありまセン。三代前の魔王の御世ヨり、私の仕事はアルメイル脱走者の捕獲回収デシた。シカし今のウーリューフェンになって、私は御役御免でス。魔王がマた交替して鎖国政策に戻り、元の仕事に戻レルコとを、私は期待していルノです」

「ふうん。そんなに仕事が好きだったって訳だ。何か特別な因縁でもあるのかい」

 大曲が聞くと、エフトル・ラッハートは僅かに唇の両端を上げて微笑を作った。ロボットの浮かべたような正確な微笑。

「別に理由はあリマセン。タだ、仕事がなイト暇デスカら。退屈は死に至る恐ロシい病でスヨ」

 その場にいた者達は絶句する。黒贄はクリームソーダに手を出したところだった。

「よろしけレバ皆さんをアルメイルにご招待しタイト思います。魔王ウーリューフェンの居城まで最短距離でご案内出来ルデしょう。そこから先は皆さン次第というコトニナりますが」

「了解だ」

 煙草の代わりに禁煙パイポを取り出して大曲が頷いた。他のメンバーの意見など求めはしない。神楽が何か言いかけて不機嫌な顔で諦めた。

「ところで午後四時に来るって話の第一陣は、こっちの世界の何処に出るか決まってんのかい」

「八津崎市内に通路を開ク予定です。警察署前の広場になルカト」

「へえ、なら都合がいいな。最終兵器に迎撃させよう」

 大曲は右掌を頬に当てて電話を始めた。何かを運ぶよう指示している。やがてウェイターがホットケーキとチョコレートパフェと月見うどんに肉がトッピングされたものを黒贄の前に置いた。

「では、そロソろ出発しましょウカネ」

 エフトル・ラッハートがシルクハットを脱いだ。彼の額半ばから上は刃物で水平に断ち切られたように存在しなかった。内部は空洞で、内壁は赤と青が混じり奥に進むにつれて暗くなっている。エフトルの体は、蓋を外したブリキの貯金箱のようなものだった。人にあらざるエフトルに伊織の驚きの視線と黒贄の冷めた視線が向けられる。エフトルはぬるくなったコーヒーを自分の内部に注ぎ込み、ステッキを持って立ち上がった。

「ちょっと待って下さいよ。まだ全部食べて……」

 言いかけた黒贄の前から肉月見うどんの丼が浮かび上がり、エフトルの内部へ吸い込まれていった。

「ありゃりゃ」

 食べかけのホットケーキとチョコレートパフェもあっという間に吸い込まれて消える。室内が歪んで見える。電話を終えたばかりの大曲が頭から吸われた。寸前で縮小してエフトルの頭囲をくぐっていく。続いて伊織の姿が歪み細くなり吸われた。

「お、彼女を守らねば。無報酬で」

 黒贄がエフトルの頭まで跳躍し、足の方から吸い込まれていく。

「俺が生きて帰れる見込みはどれくらいだ」

 神楽は舌打ちを一つし、ためらいがちに吸い込まれていった。

「あ、あれっどうっこれっ」

 部屋を出ていこうとしていた若いウェイターまでが引っ張られる。彼はドアノブにしがみついたがノブがちぎれ、泣きそうな顔でエフトルの中へ消えた。

「乗りかかった船だ。仕方あるまい」

 最後に残ったブラックソードが低い掠れ声を洩らす。彼は空間の歪みにもまともな姿を保ってエフトルに歩み寄り、頭の穴からではなく胴に溶け込むようにして消えた。

 エフトルの頭、穴の縁が変形し、内側にめくれ込んでいく。片眼鏡をつけた目が消え、鼻が消え、やがて頭部が完全に消えた。容器の内側に容器自体を突っ込むという理不尽なことをこの魔界のエージェントは実行しているのだ。胴が短くなり、両腕が吸い込まれて消え、そして、両足も消えた。

 エフトル・ラッハートは消滅した。

 数分後、最後のデザートを盆に載せて訪れた別のウェイターが空っぽの室内を見て驚愕した。彼は大きな声で叫んだ。

「く……食い逃げだあああっ」

 

 

  三

 

 紫色をした不毛の地に一行は立っていた。黒い空には月も星もなく、何処から光が届いているのか判然としないがうっすらと遠くの景色も見える。大地は平坦でなく所々に巨大な亀裂が走っていた。

「誰かさんの心象風景みたいに荒んでるな」

 禁煙パイポを咥えて大曲が呟いた。浅い沼地のように地面がぬめり、靴の半ばまでが沈んでいる。

「何ということでしょう。こんな筈ではなかったのに……」

 黒贄がぬかるみに膝をついて嘆いている。彼の前にうどんの丼とホットケーキとチョコレートパフェがあるのだが、全てひっくり返って中身をぶち撒けていた。

「すみませんが、もう一度同じ料理を持ってきて頂く訳にはいきませんかな」

 黒贄に声をかけられても若いウェイターはぼんやりと周囲を見回すばかりだ。

「ここは……夢、そうだ、これは夢なんだ」

 ウェイターは自分に言い聞かせるように何度も頷いた。

「で、魔王の城ってのはどっちなんだい、エフトル……あれっ」

 燕尾服とシルクハットの紳士はその場にいなかった。代わりに一行の中にひょろ長い怪物が立っていた。身長は二メートルを超えているが体は細く、胴回りは人の半分ほどしかないだろう。裸に腰巻き一枚だけという格好で、青紫色の肌はがさついている。首から上は妙に毛むくじゃらで顔が見えず、赤毛の中から大きな眼球が三つほど覗いているという状態だ。

 痩せた腕を上げて尖った爪で彼方を指差し、怪物がたどたどしい言葉遣いで告げた。

「まおうのきょじょうは、こちらへろっぴゃくきろめーとるほど、さきです」

「お前さん、エフトルだっけか」

 露骨に胡散臭そうな顔をして大曲が尋ねる。怪物は毛玉状態の頭を頷かせた。

「そうですが、なにか」

「いや、別に。自分とこでは随分ラフな格好をしてるんだなと思って」

 大曲の言葉に、怪物エフトルはギィッギィッギィッと耳障りな音をさせて笑った。

「一つ聞きたいのだが」

 ブラックソードがエフトルに言う。

「こちら側に彼女まで連れてくる必要は、なかったのではないか。ここは危険だ」

「いえ、しろまであんぜんにたどりつくには、かのじょがひつようですから」

 エフトルは答える。

「どういう……意味だ」

 ブラックソードの様子がおかしかった。立ったまま上体がゆらゆらと揺れて頼りない。ロングコートと鍔広帽の姿が時折歪み、薄れて後ろの景色が見えることもある。

「大丈夫ですか」

 紫香楽伊織が心配そうに彼に触れようとした。ブラックソードがふらりと横に躱す。

「触るな。巻き込まれるぞ。周波数が安定しておらぬ。今の時期は、こことは合わぬのだ」

 元々低く掠れた声が、呻き声に近くなっていた。

 黒贄は相変わらず這いつくばって嘆いている。神楽鏡影は黒贄から目一杯距離を取ってひっそりと立っていた。

 エフトルの指差した方向に目を凝らしながら、大曲が呟いた。

「弁当持参の方が良かったんじゃねえかなあ」

 薄暗い世界を俯瞰すると彼らの存在など芥子粒のようだ。紫色の湿地は延々と続く。百三十キロほど先で、湿地はやがて草原に変わる。葉も花もない枯れ草のようなものが疎らに生えているだけの大地。たまに襤褸を纏った者達が草をちぎって食べている。百五十キロほどで草原は森に変わる。葉のないねじくれた木々は何を養分にしているのだろうか。猪に似た黒い生き物を男達が追っている。素っ裸の者もいれば薄汚れたズボンを履いた者もいた。腕が妙に長い男は槍を持っていた。森の中に幾つか集落がある。乱暴に組み上げた丸太小屋が幾つか並んでいる。中央の焚火には串刺しの男が丸焼きにされていた。川がある。ドロドロとした黒い液体が流れている。古着のワンピースを着ていた女が川に首を突っ込んで液体を飲んでいたが、後ろから忍び寄った男に剣で首を切り落とされた。

 やがて森を抜けて不毛の地に変わる。所々にレンガ造りの建物や鋼鉄の砦が築かれている。二つの砦の間で数万人が殺し合っていた。錆びた剣や斧や棍棒や誰かの大腿骨などを持ち、甲冑や盾で身を固める者もいればトランクス一枚の者もいる。出来立ての死体から衣服を剥ぎ取って着る者もいる。服や武器はそうやってお下がりされていくらしい。死体の肉を食っている男の脳天に斧が振り下ろされ新たな食糧となった。人間と変わらぬ外見の者も多いが頭が二つあったり腕が刃になっていたり顔が腹にあったりして何処かが違っている者もいた。人間とかけ離れ生き物にすら見えない者も戦っていた。敵味方も分からぬ混沌とした戦場の大地は赤や緑の血が幾層にも塗り重ねられている。そんな戦場が幾つもあった。

 そのうちに戦場は疎らになり、住居も藁葺きや丸太小屋からレンガや石造りのちゃんとしたものになってくる。高い塀に囲まれた城塞都市が見える。出入りする人々の服装も幾分ましになり、公園のホームレスに混じっていてもおかしくない程度だ。ただし、彼らがホームレスと決定的に違うのは、多くの敵を殺してきた強者の雰囲気を漂わせていることだ。都市を出ていった一団は巨大な熊のような生き物に馬車を引かせ、手近な戦場へと向かっている。彼らにとっては狩りのつもりなのだろう。戦場を生き延びた男が血塗れの甲冑を着て城塞都市へ向かっている。すれ違い様に馬車から伸びた鞭が男の首を刎ねた。

 城塞都市の間が街道で結ばれるようになり、点々と配置された松明が淡い光を投げる。殺し合いだけで生きる人々にも漸く文明社会の兆しが見えてくる。それは階級と支配の存在する証でもあった。建物も中世ヨーロッパの街並みに似ているが何処か潤いに欠け殺伐とした印象は残る。住民も一部の無頓着な者を除いて服装に気を配るようになり、ちゃんと洗濯もしているようだ。貴族のような派手な衣装から黒いマント、金のロープを巻きつけただけの奇抜な服装まで様々だ。都市には仕立て屋もあるようだ。隣の店では『狩場』から取り寄せた最新の服も売っていた。機械仕掛けの巨大なトラックが街道を行き来している。どんな原理で動くのか、燃料タンクにはガソリンでなく血液が満たされている。積荷は戦場で集めた出来立ての死体だった。アルメイルの住民の主食は住民自身らしい。

 幾つか黒い川を抜け、城塞都市の横を過ぎ、切り立った山を越えると彼方に光が見えてくる。薄闇の世界を照らす毒々しい赤光。魔王ウーリューフェンの居城とその城下町だった。人口は百万か、二百万か。十三億の民のほんの一握り、殺戮のエリートだけが住むことを許された都市。殺風景な鋼鉄の街並みの所々でネオンサインのように光が明滅する。都市の中央部にそびえ立つ、巨大な円錐の壁に無数の小さな円錐が生えているような建造物が魔王の城だった。小さな円錐には窓もあり、それぞれを剥き出しの渡り廊下が繋ぐ。都市を照らす赤の光源は、巨大な円錐の尖った先端の上に浮かんでいた。

 城の正門は高さが二十メートルほどもあり、身長四メートルを超える衛兵が二人、大斧を捧げて立っている。片方の衛兵の兜はえらく小さかった。門の奥はすぐ大ホールになっていて、幾つかある階段のうち正面のものを上るとやがて螺旋階段へと変わり、城内を垂直に何処までも上っていく。途中で戦士達の詰め所を二つほど過ぎ、最後に謁見の間に到着する。上空の赤い光が天井越しに届く約五十メートル四方のホールに、百名近い戦士達が向かい合わせに整列している。甲冑姿の者もいればスーツを着ている者もいる。ほぼ人間の容姿を持つ者もいればゼリーの塊のような怪物もいる。正面奥の石段の上に、アルメイルの頂点に立つ支配者の玉座があった。代々の魔王を載せてきたであろう玉座は幅三メートル、高さ六メートルほどと大きく、背もたれは炎の形を模していた。本来の色は黒であろうが、上からの光によって赤く染まっている。

 今、玉座に魔王の姿はない。

 謁見の間の扉が開き、スーツの男に押されて車椅子が入ってくる。薄いタイヤが床を擦るキュリキュリという音が静寂の広間に響く。広間の中央で車椅子は止まる。

 車椅子の男は正木政治だった。首をカラーで支え、両手にはまだ包帯が巻いてあるが、知的探究心に満ちた彼の瞳は生き生きと広間を見回していた。

「あ……」

「黙れ。まだお前の発言は許可されていない」

 正木が頭の三つある男を指差して何か言いかけた瞬間、車椅子を押すスーツの男が低く警告した。濃いサングラスを通して男の眼光が本物の光となって見える。

 しかし正木は平気な顔でまた何か言いかける。

「そ……」

「黙れ。死にたいのか」

 スーツの男の声音は更に鋭くなった。不気味な威圧感に常人なら失禁したかも知れない。しかし正木は「うむう」と唸りながらなんとか上体をひねって振り返り、新しい検体を見る研究者のような顔でスーツの男を覗き込んだ。何を感じたのか、スーツの男が少しのけ反った。

「まだ死ぬつもりはない。確かに、生きている私と死んだ私がどう違うのか興味はあるが、今はそれよりもあの男のあえええ」

 途中でカコン、という音がして正木が喋れなくなった。スーツの男が右手の指で正木の頬を叩き、顎の関節を外したのだ。

「ああえ。あええあ」

 それでも正木は三つ頭の男を指差して何やら言おうとしている。自分の主張を相手が聞くのは当然だと思っているように。

「はは、面白い人だな」

 別の声がした。正木が顎を外したまま正面に向き直る。

 高みにある玉座にいつの間にか一人の男が腰を下ろしていた。玉座の巨大さに比べて男の姿は小さく見えたが実際は普通の人間の身長くらいはある。

 男の外見は二十代の前半だった。純白のスーツは胸ポケットに赤いハンカチを覗かせ、白の革靴を履き足を組んでいる。やはり白のハンチング帽を斜めにかぶり、その上に大きなルビーの嵌まった王冠を左向きに載せていた。揉み上げを綺麗に伸ばし、色白で鼻筋の高い優男だが、瞳に虹彩部分が存在せず、完全な丸い暗黒になっていた。

 最強の戦士が持つ威圧感はそこになく、逆に得体の知れない虚ろな深みを感じさせる、そんな男だった。

「僕が魔王ウーリューフェンだ」

 魔王は名乗った。彼の声はなめらかな声質とざらつく声質が一オクターブの音程差を保って重ねられていた。

「一晩待たせて悪かったね。ドラクエの区切りがなかなかつかなくて。顎を戻してやれ」

 最後の台詞は車椅子を押す男へのものだった。男は両手で正木の顎を掴んであっさり填め戻すと魔王に一礼して後方へ後ずさりしていった。

 二度開け閉めして顎の感触を確かめてから手の包帯で涎を拭い、正木政治が怯えも気負いもないいつもの口調で挨拶した。

「正木政治、通称マサマサだ。よろしく」

 場の空気が変わった。両側に並ぶ魔人達が緊張感を漂わせ、正木に非難の目を向けている。足りぬ敬意に魔王が怒り出さないか心配しているのだろうか。

 しかし魔王ウーリューフェンは静かに笑みを見せた。二重の声が広間に響く。

「こちらこそよろしくお願いするよ。魔王の城に生身の人間が招かれるのは七百年ぶりくらいだってさ。アルメイルの感想はどうかな」

「確かにここは私の知っている世界とは違うようだ」

 巨大な玉座から魔王に見下ろされ、ちっぽけな車椅子から正木は理知的な視線を返す。

「しかしここで、そもそも世界とは何かという疑問が出てくる。分かるということは、あるものと他のものを分けるということだ。つまり、あるものの本質を掴むためには他のものとの明確な違いを知る必要がある。私の世界とこの世界、何処が違うのか知りたいものだ。そのためにはまず実験をしないといけない」

 魔王が笑った。予想外のリアクションを目にした可笑しさと、多少の怒りが篭もった冷笑。

「はは、ははは。なるほど、テレビで観た通りの変人だな。『狩場』にもこんなのがいるとは驚きだ。ただ、世界の違いを探るよりもっと切迫した疑問があるんじゃないか。例えば、何故自分が拉致されてこんなところまで連れてこられたのか、とか」

 話を進めたがっている魔王に、正木はきっぱりと言い切った。

「そんな瑣末なことに囚われていては本質を見失う。私が知りたいのは根源的なことだ。世界の本質、人生の意味、分からないことばかりだ。しかし、それらより先に差し当たって知りたいことがある」

「ほう、何かな。例えば僕が何故ドラクエをプレイしてるのかってこととか」

 何を期待したのか魔王は僅かに身を乗り出した。そして正木政治は列の中にいる三つ頭の男を指差した。

「彼を一人と呼ぶべきか三人と呼ぶべきか、非常に悩んでいる。これは人間の定義に関わる重要な問題だ。違いを掴むためにはまず彼或いは彼らの頭を一つ切り落として検証し……」

「このクソボケがっ」

 魔王が立ち上がり怒鳴った。お上品な顔立ちが皺くちゃの憤怒に激変し、家臣達は身を竦ませた。魔王の変化を真理の一つにすべく正木は冷静に観察している。

 その正木の姿が沈んだ。彼を中心とした径五メートルの床が消滅したのだ。正木は叫び声も上げず落ちていく。かつて自分が使用人達に与えた仕打ちを自分も受けることになったが、そんな感慨は正木にはないだろう。彼は自分の行く末も単なる実験材料と思っているのだろうか。穴の奥は何も見えず、マッド・フィロソファー正木政治はあっという間に黒い静寂に呑み込まれて消えた。

「あの世でほざいてろっこのボケッ、人の話をちゃんと聞けっこのボケッナスッ、クズッ、魔王の話は、ちゃんと聞けっ、わざわざ僕はなあ、ドラクエを中断して、出てきてやったのに、このボケッ、中断するとなあ、気持ちが途切れるんだよ、この、クズッ」

 魔王ウーリューフェンは怒りが収まらない様子で、玉座の前を行ったり来たりして靴音を響かせながら呪詛の言葉を唱え続けた。黒い煙が二筋昇っている。煙は彼の瞳から洩れていた。暗黒の瞳は角膜がなく穴になっているらしい。

 立ち並ぶ百名の戦士達は直立不動で魔王の狂態から目を逸らしていた。車椅子を押してきた男も俯いている。左の列に立つ、両腕が鎌になった痩身の男が僅かに唇の端を吊り上げた。

「笑うなこのボケッ」

 瞬間、痩身の男が潰れて厚さ一センチの肉円盤となった。戦士達がどよめく。慌てて身構える者もいた。

「お前達も可笑しいのか。な、可笑しいんだろ。内心僕を笑ってるんだろうが、なあ、正直に言ってみろよっ」

「い、いえ、拙者はそんなことを欠片ほども……」

 一歩進み出た男が潰れた。別の男が何か言いかけて潰れた。黙っていた男も潰れた。逃げようとした戦士達が次々潰れていく。刃向かおうとした男も剣の切っ先が鞘から抜ける前に圧死した。見えない巨人に踏み潰されたように、一瞬で。鋼鉄の甲冑もお構いなしに、どんな戦士も同じ末路を辿っていく。車椅子を押してきた男も潰れて平面と化した。まず左の列が全滅し、二秒後には右の列も全滅した。百名の家臣は皆死んだ。

「ドラクエを馬鹿にするな、全く、クソ共、時間の無駄だった。遅れを取り戻さないといけないんだよ。新作のリリースは待っちゃくれないんだよ。全く……」

 魔王は大きく息を吐いた。吐息には煙が混じっていた。謁見の間に散乱する肉の円盤が見えない手で引き剥がされて中央の穴へ放り込まれていく。死体はやがて片づいたが床には多彩な色の血糊が残っていた。落とし穴は少しずつ径が縮んでいき完全に閉じる。

 深呼吸を終える頃には、魔王の口と瞳から煙はやんでいた。

「綺麗にしておけ。また客が来る」

 そう誰かに命じると魔王ウーリューフェンの姿が消えた。入り口の扉が開き、待機していた清掃係達が手慣れた様子で一斉にモップがけを始めた。

 

 

  四

 

 紫香楽伊織抹殺兼『狩場』試験侵攻のための精鋭部隊第一陣五万名のテンションは、出発を目前にして最高潮に達しつつあった。数十台の自走トラックに分乗してゲート前に到着した彼らは部隊と言えど服装・装備はまちまちで、指揮系統も存在しているかどうか疑わしい。身長三十センチから八メートル、素裸から鎧兜、果てはジャージの上下に鉄板を巻きつけた者まで、彼らはまだ見ぬ『狩場』に想いを馳せて勝手なことを言い合っている。

「野菜、野菜を食べるぞ」

「肉以外のものが食える」

「食って食って食いまくるぞ、野菜野菜」

「米も食うぞ。噂の米だ、米、米米」

「パンだ、小麦だ、蕎麦も食うぞ。うどんも食うぞ」

「コメ、ヤサイ、コメ、ヤサイ」

 彼らの話題は食べ物のことばかりだった。

「はーい、お前ら、お静かにー」

 両掌を数度打ち合わせてピエロの顔をしたタキシードの男が魔人達に傾聴を促した。余程の実力者なのか、五万の軍勢は静かになった。いや、小声でまだ喋っている者が後方に一人。

「こら、そこー」

 ピエロが右腕を振った。白い光が帯となって飛び、喋っていた男の首を切断する。白い円盤は残像の帯を残して彼方へ消えた。

 それで、全員が黙った。良く通る声でピエロが言った。

「これからお前らは『狩場』に向かいまーす。お前らの殆どは『狩場』が初めてだと思いますが、馬鹿なガキみたいにはしゃがないようにお願いしまーす。えー、今回の一番の目的は紫香楽伊織という女の抹殺です。お前らはしっかりこの顔を覚えて下さーい」

 ピエロが大きな写真を掲げて見せる。テレビ画面をキャプチャーして引き伸ばしたような粗い写真に皆の視線が集中した。免許証の写真だろうか、正面を見据える紫香楽伊織の整った顔。

「こいつを見つけたら速攻殺して下さーい。殺した奴は二階級特進でーす。証拠として生首持ってきて下さーい。別にこの女じゃなくても『狩場』の住民は皆殺しにしちゃって下さーい。取り敢えず一人当たりのノルマは百人でーす。それだけ殺したら各自食事を始めて構いませーん。食糧は現地調達でーす。ひとまず二泊三日を予定してますが、笛の音が聞こえたら集合して下さーい。以上でーす」

 部隊長の気前の良い告知に兵士達は万歳三唱を行った。轟く歓声に暗い大地が揺れる。

「出口の調整は完了しております。八津崎市警察署前です」

 ゲートのそばに立つ男が言った。目がないのに眼鏡をかけている。世界を繋ぐゲートは錆びの浮いた古い両開きの門で、荒野の真ん中で円形の台座の上に据えられていた。幅十メートル、高さ五メートルほどの巨大なものだ。門柱以外に上部にも鉄枠があり、扉を完全に向こう側の世界から遮断していた。ゲートを裏側から見ると真っ平らな壁が立っているだけだ。門柱に色褪せたパネルがあり、さっきまで眼鏡の男は幾つかある金属のボタンを押していた。ゲートの周りには幾つも砦が設けられ、衛兵が大勢立っている。

 タキシードのピエロが腕時計を確認した。兵士達の誰も持っていない高級な機械。耳の大きなネズミの描かれたデジタルの時計は十六時ジャストを示した。

「よーし、じゃあゲートを開いて下さーい。お前ら、行きますよー」

「開門します」

 眼鏡の男が門柱のボタンを押した。ガコンガコンと門の地下で歯車音がして、巨大な門がゆっくりと開いていく。

 門の奥にはトンネルがあった。なめらかな壁面の色は手前が紫で、奥に進むにつけて黄色がかっていくようだ。

 五万の軍勢が我先にと門へ殺到した。

「うおおおっ野菜野菜野菜」

「米、米、コメコメッ」

「野菜、米、麦」

「食うぞ食うぞ、野菜食うぞっ」

「殺せ、殺せ、食べろ、食べろ、野菜、野菜」

「月見うどん、月見うどんんんん」

 百戦錬磨の魔人達がまだ見ぬ食べ物への期待に目をギラつかせ涎を垂らしながらトンネルを駆けていく。トンネルは微妙にねじ曲がりすぐには出口が見えない。いや、百五十メートルほど進むと前方に眩い光があった。出口だ。光に満ちた『狩場』だ。野菜だ。

「うおおおおおおおっ」

 軍勢がトンネルを抜けた。汚れた泥濘でなくアスファルトの地面。青い空で輝く太陽に魔人達は目を細め手を翳す。コンクリートや木造の綺麗な建物が整然と並ぶ。瓦礫の山になった建物もあったが。電柱に括りつけた標語は『今日も生き延びよう 八津崎市警察』となっていた。兵士達は獲物たる人間の姿を探して周囲を見回す。

 がらんとした広場の中央に、約五メートル四方の鋼鉄の箱が置かれていた。表面の塗装は何度も塗り重ねられ、一部には蔦が絡んでいる。

 箱には蓋や扉らしきものはなかった。ただ、魔人達の方を向いた壁の半ばほどに、横五十センチ、縦三十センチほどの隙間が開いていた。箱の中に何があるのか、隙間からは闇が見えるだけだ。

 隙間の上に『市長室』という表札が貼ってあった。

 更にその上にポスターほどの大きさの紙が二枚貼ってあった。一枚は引き伸ばした紫香楽伊織の顔写真。

 もう一枚には太い黒のマジックで大きく『紫香楽伊織はこの中です』という台詞と矢印が書かれていた。丁寧にルビまで振ってあった。

 アルメイルの刺客の中に日本語を読める者がどれくらいいただろうか。しかし一人が「お、あそこだなっ」と叫ぶと他の者達も駆け出した。

「俺だ、俺が殺すっ」

「うるせえっ俺のもんだ」

「野菜、野菜野菜っ」

 互いに殴り合い斬り合いながら押し寄せた先頭が市長室の隙間に頭を突っ込んだ。途端にツルリと全身が吸い込まれて消えた。二番目の男が驚きの表情を浮かべるが後ろに押され隙間に腕が入る。そして引き込まれて消えた。

「ま、待てウッ」

「うおおおおお野菜野菜」

 三番目の男が叫びかけて消えた。四番目と五番目の男が同時に消えた。魔人達が次々に隙間へ消えていく。たたらを踏む者も自信満々の者も何も知らぬ者もまとめてどんどん消える。五万の軍勢が五メートル四方の箱へ吸い込まれていくのだ。

「野菜野菜……あれっおかしくないか」

「気にするな野菜野菜」

 怒涛の喚声が次第に小さくなっていく。魔人達の顔に動揺が浮かぶ。それでも彼らは止まらない。それは絶対的強者の意地であったのか、或いは単に勢いがつき過ぎていたというだけのことか。

 広場は静かになった。

 五万の軍勢が、三十秒足らずで消滅した。最後の兵士は不安げな顔で立ち止まり、五十センチ以上離れて隙間の奥を覗き込んだ。一瞬で吸われて消えた。

 指揮官であるタキシードのピエロが一人、残っていた。派手なメイクのため彼が本当はどんな表情を浮かべているのか分からない。ピエロは三十メートルほどの距離を保ち、状況の変化を待った。

 十秒が過ぎたが何も起こらない。

 二十秒。やはり何もない。

 ピエロは腕時計を見つめていた。一分が経過した。

「困りましたねー」

 ピエロは言った。差し上げた両手には陶器の白い料理皿が一枚ずつ握られていた。

 皿を投げる前に市長室の隙間から凄まじいスピードで何かが飛び出してピエロを直撃した。ピエロの胴が潰れた。それはズタズタになった肉の塊が圧縮されて柱状になったものだった。トコロテンのように真っ直ぐ押し出されてくる肉の柱にピエロが運ばれていき、ビルの壁に激突して破裂した。柱はどんどん滑り出ていき端から飛散していく。

 五万人分の肉が出終えるまで、五秒もかからなかった。

 ばらけた肉塊の所々、元は顔であったと思われる部分に、『不受理』という印鑑が押されていた。

 やがて警官が集まってきて死体を掻き集め、市役所の職員が順番に死体に押された印を確認し始めた。

 おそらく五万の全てが『不受理』であるだろうが。

 

 

  五

 

 エフトル・ラッハートに導かれた一行はまだ紫のぬかるみを歩いていた。エフトルの後ろに黒贄礼太郎、続いて大曲源、ウェイター、神楽鏡影、紫香楽伊織、そして少し遅れてしんがりがブラックソードだった。靴に泥が入り、歩くたびにグジュグジュと音を立てる。

 くたびれた顔を更にくたびれさせ、大曲がエフトルに声をかけた。

「おい、エフトルさんよ、どうにかなるって言ってたが、もう四時間も歩いてるぞ。このまま城まで歩くつもりか」

「いえ、もうすこしのがまんですよ」

 腰巻き一つのひょろ長い怪物の姿でエフトルが答える。

「僕らは何処に向かってるんですか」

 ウェイターが尋ねる。誰も答えないので仕方なく大曲が答えた。

「魔王の城だ。夢だからどうでもいいんじゃなかったのかい」

「そうなんですけど。でも不思議なんです。夢なのに足がくたびれて。なかなか目が覚めないし」

 大曲は前に向き直り、疲れた溜め息をついてから言った。

「まあ、人生なんて夢みたいなもんだ」

「あ、あのー」

 今度は紫香楽伊織の遠慮がちが声がする。

「どうした」

「あの……すみません……トイレ……」

 伊織は顔を真っ赤にして俯いてしまった。全員が立ち止まり、微妙な表情になった。周囲は湿地帯が広がるばかりでトイレどころか遮蔽物すらない。

「カンちゃん、尿意を抑える魔法か何かないかい」

 大曲が神楽に聞いた時、先頭のエフトルが背筋を伸ばして言った。

「ようやく、むかえがきたようです」

「迎えって、仲間がいるのかい」

 大曲が怪訝な顔をして前方へ目を凝らす。彼方に豆粒ほどの何かが見える。そのうちに大型の車両と識別出来るほどになる。

「いえ、なかまではありません」

「そりゃあどういう意味だい」

 などと言っている間に車両がみるみる大きくなり凄まじいスピードで近づいてくる。トラックが二台とヴァンが一台。どれも日本の道路では三車線くらいを平気で独占しそうな巨大さだった。分厚い装甲にガラスはなく吹き抜けで、タイヤはゴムではなくスパイクつきの鋼鉄製だ。トラックの荷台から大勢の顔がこちらを見ている。一つ目の男、長い腕を地面まで垂らした男、脳天に杭が刺さったままになっている男、顔の右半分が失われ骨が見えている大女。血塗られたアルメイルの戦士達。

「おやおや、これは豪勢なお迎えですな」

 黒贄が楽しげに呟いた。神楽が伊織にこっそり歩み寄り溶け込んで消えた。彼女を守るためか、自分が隠れたかったのか。ブラックソードがよたつきながら一行に追いついた。ウェイターはぼんやりと見守っている。

 三台の車両がすぐ手前で泥を散らして急停止した。つんのめりながらも戦士達が荷台から飛び降りて一行を包囲する。四、五百人はいた。

「貴様らそこから一歩も動くな。動きやがったらバラバラに切り刻むからな」

 口から数十本もの牙がはみ出した男が怒鳴った。男はアメリカ陸軍の軍服を着ていたが、腰の武器は太い刃の生えた棍棒だった。

「おい、どうすんだ、エフトル」

 大曲が尋ねる。黒贄は薄い唇の両端を吊り上げて凄まじい笑みを浮かべ、アルメイルの魔人達に言った。

「どなたか私に凶器を貸してくれませんかな。必ず利子をつけてお返ししますので」

 その黒贄にエフトル・ラッハートの細長い腕が伸び、青紫の荒れた掌が軽く左肩に触れた。パシッ、と空気が鳴った。

「ありゃ」

 黒贄が地面に崩れ落ちた。「むぅ」とブラックソードが唸る。

 黒贄の手足が全て、付け根部分で綺麗に切断されていたのだ。俯せの胴から泥塗れになった顔を上げて黒贄が言う。

「エフトルさん、私に首の筋肉だけで戦えということですかな。まあ確かに出来ないこともないですが」

「みなさん、ていこうをしないでください」

 エフトルが言った。毛むくじゃらの頭を軍服男に向ける。

「かりばかんしかんのえふとる・らっはーとです。でむかえごくろう。よていどおり、たーげっとのしがらきいおりをれんこうしてきました。おうのしろまで、ごそうをたのみます」

「何だあ。俺達を騙したのか」

 大曲も流石に非難口調になっていた。特に動揺が見えないのは予測の範囲であったのか、或いはどうでもいいと思っているのか。

「いえ、だましてはおりません。あなたがたをあんぜんに、まおうのきょじょうまでごあんないできるのですから。そこからさきは、あなたがたしだいとももうしあげたはずです」

「なるほど、筋が通ってるな」

 大曲は嫌味に深く頷いてみせた。

「今は、抵抗するな」

 怪物達の視線を浴びて震えている伊織に、ブラックソードが告げた。

「城まで連れていくのなら、奴らにはお主を傷つける権限は、ないだろう。わしも時間をかければ、少しは安定してくる。それまでは、待て」

「了解。皆、大人しく車に乗ろうや。乗り心地は悪そうだがな」

 大曲が言った。

「夢だよなあ、これ」

 まだウェイターはぼんやり呟いていた。

「夢なんだから、何でもしていいんだよなあ」

「ええっと、この人は無関係だから元の世界に戻してやっちゃあ……」

 大曲が魔人達に交渉しようとした時、甲高い怪鳥音が空気を揺るがせた。

 ウェイターがカンフーのようなポーズを取っている。素早いパンチとキックが空を裂き、彼は再度顔を引き攣らせてあの怪鳥音を発した。映画のアクションスターになりきっているらしい。他のメンバーは唖然として見守るだけだ。

「お、おい……」

 大曲が声をかけようとしたが、ウェイターが包囲網に突進していった。見事な飛び蹴りが一人の首を折り、V字にした指が別の男の目を潰し、素早いパンチが魔人達をぶち倒していく。旋風脚で十人がまとめて倒された。

「お、凄い凄い」

 大曲が言った。

 と、槍に串刺しにされたウェイターが高く掲げられた。魔人達の刃が閃いてウェイターが一瞬で二十分割くらいにされた。落ちてくる肉塊を魔人達が口で受け止めそのまま食べ始めた。

「あ、死んだ」

 大曲が言った。それから仲間達を見回して告げた。

「じゃあ、行くか」

 黒贄の手足を大曲が面倒臭そうに拾い上げ、胴体はエフトルが抱えてヴァンに乗り込んでいく。護送車なのだろう、後部は窓もなく壁の厚みは五十センチほどもある。椅子はないので彼らは床に座った。兵士達もトラックの荷台に戻っていく。一行が全員入るとヴァンの後部は閉じられた。

「そういえば尿意は引っ込んだかい」

 大曲に聞かれ、伊織はまた顔を赤らめた。

 エフトルが言う。

「まおうのきょじょうにはといれもありますよ。まおううーりゅーふぇんがさいきんつくらせたのです。しろにはじゅうごふんほどでとうちゃくします」

「そいつは良かった。しかし参ったな。今回はかなりヤバそうだ。頼みのクロちゃんはバラバラだしカンちゃんは隠れてるし、ブラックソードも今は弱ってるようだしな」

「いえいえご心配なく、ちゃんと働きますとも。ただ、どなたか裁縫セットを持っておられませんかな」

 胴と首だけだが黒贄は自信満々だった。

 ヴァンが進み出した。最初は揺れがひどくて大曲も顔をしかめたが、速度が上がるにつれ次第に静かになっていく。

「あれっ。参ったな」

 大曲が嬉しそうに言った。

「飯代、払ってなかった」

 

 

  六

 

 午後七時の鐘が鳴る。魔王城の隣に立つ時計塔のどす黒い鐘は腹の底に響くような重い音を城下町に投げかける。遠慮したのか城の天辺より少し低い時計塔は針のように鋭く切り立っていた。

 ガラスのない開け放しの窓から城下町の景色が見える。赤い光に照らされた黒い街並み。殺し合いを楽しむ男達の喧騒が微かに届く。

 城の食堂にはやたら長いテーブルが一つある。その片方の端に巨大な椅子が置かれている。座面の高さと奥行きは普通だが幅が三メートル近くあり、炎の形をした黒い背もたれは天井にめり込んでいた。悪の組織の首領が座るような椅子。数メートル離れてテーブルの長辺側に普通の椅子が二脚と三脚の計五脚並ぶ。テーブルの残った大部分のスペースは無駄になっていた。

 巨大な椅子に座るべき主はまだ来ていなかった。他の椅子には二脚ある方に黒贄礼太郎とブラックソード、その向かいの三脚側に紫香楽伊織と大曲源が座っている。エフトル・ラッハートの姿はない。待ち時間のうちにクリーニングされたらしく服と靴の汚れは取れていた。黒贄の手足は紐で束ねられて椅子の横に転がされている。切断面は透明なフィルムで覆われ止血されているが、黒贄本人は何リットル出血しようが気にしないだろう。それぞれの前にナイフとフォーク、空の皿とグラスが置かれている。空いた椅子の前も同じだ。

 食堂の四隅とテーブルの上に燭台が置かれ、蝋燭の炎が赤い世界を少しだけ白くしていた。

「まあ、何と言うか……」

「黙れ」

 大曲が何か言いかけた時、壁際に控える戦士達のうち端の男が冷たく告げた。

「お前達の発言はまだ許されておらん」

 大曲は面倒臭そうに振り向いて相手を見た。銀色の甲冑を着た男で、首から上は魚類に似た鱗で覆われていた。丸い目が大曲を睨んでいる。

 大曲は男に向かって口を動かした。何か喋っているようにパクパクさせるが声は出さない。大曲はニヤニヤしながら向き直って黒贄に無言で話しかける。黒贄が尤もらしく頷きながら口パクで答える。

「遊ぶな」

 鱗顔の男の声に怒りが篭もる。大曲は肩を竦めて口パクをやめた。黒贄も腕のない肩を竦めてみせる。

 伊織はそんな仲間達を見て何を思うのか、細い溜め息を洩らした。

「王がお越しになる」

 鱗顔の男が告げた。緊張しているようだ。些細なミスが命取りになるというように。

 ブラックソード以外は食堂の入口へ目を向けた。扉は開かれない。

 彼らが視線を戻すと高い背もたれの椅子に若い男が座っていた。

「やあ。僕が魔王ウーリューフェンだ」

 あっさり男が言った。なめらかな高い声とざらつく低い声が重なって同じ言葉を発していた。表面がテカテカした白いスーツで身を包み、白いハンチング帽を斜めにかぶっている。その上に絶妙なバランスで載った王冠はあちこちに傷があり、幾ら磨いても落とせぬ古い血痕が染みついている。長い年月、この王冠を巡って血みどろの戦いが繰り広げられてきたのだろう。しかし魔王が王冠をそれほど大事にしている様子はなかった。

 二十二、三くらいに見えたが実際の年齢は不明だ。揉み上げは長く綺麗に整えられ、顔立ちは少し不良を気取ってみたお坊っちゃんという風情だ。色白で鼻筋は高い。特徴的なのはその瞳で、普通なら茶や青の虹彩が存在する筈だが彼の場合は全体が深い暗黒になっている。キザな見かけと違い、底知れぬ不気味さを魔王は漂わせていた。

 別段驚いた顔も見せず、礼をしているつもりなのか大曲が軽く頷いた。口パクの挨拶に魔王は苦笑して片手を振った。

「もう喋っていいよ。今夜は君達と沢山お喋りしたいと思ってね」

「こりゃどうも。八津崎市警察署長の大曲だ」

 敬語を使わぬ挨拶に魔王の細い眉がピクリと動いたが、別段咎めることもなく近い席の伊織に微笑を向ける。

「紫香楽伊織さんだね。今回は災難だったね。うちの出身者が迷惑をかけたようで申し訳ないと思っているよ」

「は、はあ……」

 伊織は曖昧な返事をしただけだ。紳士的な謝罪に一瞬だけ彼女の顔にも希望が湧くが、すぐに用心深い警戒に変わる。この数日で彼女は様々なものを見てきたのだ。

「ええっと、芋虫みたいな君は。テレビでの活躍は見せてもらったけど」

 魔王が黒贄に話しかける。エッヘンと咳払いをして自信満々に黒贄が答えた。

「黒贄礼太郎探偵事務所の所長にして唯一の所員である黒贄礼太郎・ダイエットバージョンです」

「へえ、探偵さんか。面白いな」

 魔王は身を乗り出してテーブルに肘をつく。

「ということはやっぱり殺人事件の推理とかするのかな。『犯人はあなただっ』みたいな」

 相手を指差す仕草をして楽しげに尋ねる。

「いえ、残念ながら推理はやりません。頭を使うのは苦手でして」

「あ、そう。じゃあやっぱり盗聴とか浮気調査とか地味なのばっかり」

「いやあ、残念ながら不器用でして、そういう地味な仕事も失敗ばかりしております」

「ふうん。じゃあ、君は何が得意なの」

 少し呆れ顔になって魔王が問う。黒贄は良くぞ聞いてくれたとばかりに深々と頷いた。

「それは勿論、人殺しが得意なのですよ」

「……。はあ。人殺しね。ふうん。なるほど。『狩場』じゃあ探偵ってのは殺しもやるんだ」

「いえ、殺人の依頼は受けないようにしております」

「あ、そう。……。で、そちらの君はアルメイル生まれだそうだね。ブラックソードとか。こちらでは無名だったんだろう」

 魔王は黒贄とのコミュニケーションを諦めてその向こうのブラックソードに話しかけた。高い声と低い声が親愛と辛辣さを示す。

「アルメイルを出たのは、随分と昔のことです」

 ブラックソードは魔王の前でも鍔広帽を脱がず顔を隠したままだ。それでも言葉遣いは魔王という立場に敬意を表しているようだ。

「ふうん。出身者として、このアルメイルはどう。正直な感想が聞きたいな」

「ここは地獄です」

 ブラックソードは即答した。壁際に並ぶ男達が黙って互いの目を見合わせた。

 魔王ウーリューフェンは半開きにした口の両端を吊り上げ、満面の笑みに変えた。瞳に開いた丸い暗黒のため、それはかなり異様なものになった。

「そうか。そうだよな。確かにここは地獄だ。はは。ははは。ははははは。ふう。ところで君はあまり体調が良くないようだが大丈夫かい。君達にはイベントに参加してもらわないといけないんだけど」

「……。時間を頂けるなら」

 ブラックソードは慎重な返答をした。大曲が何か言いたげな顔をしたが魔王が先に伊織を見て告げた。

「それから最後の君。折角席を用意してるんだから、そっちに座ってくれないか」

 伊織が一瞬動揺を見せて無表情に戻り、怪訝そうな顔に変わる。

「無駄だ。見抜かれておる」

 ブラックソードが告げた。

 伊織の体から黒ずくめの影が立ち上がり神楽鏡影になった。野生的な美貌は術を見破られた悔しさと緊張でやや険しいものになっている。伊織は表情筋を操られた不快感からか、両手で顔を揉みほぐして息を吐く。神楽は大曲の隣の席に座り、静かに名乗った。

「神楽鏡影です」

「よろしく。君の得意は何かな」

 魔王が聞いた。

「ちょっとした術を幾つか。それと他人の運勢や寿命を占ったりする程度です」

「へえ、寿命をね。なら僕の寿命も占えたりするのかな」

「占えますよ。ただ、お聞きにならない方がよろしいかと」

 神楽は澄まし顔でさらりと流す。

「へえ、益々興味が湧いてきたよ。是非とも教えて欲しいな」

 魔王は怒りも威圧感も隠し、上っ面の親しみを込めて問う。下手な発言が死に直結する状況で神楽はどう応じるつもりなのか。

 しかし神楽が喋る前に大曲が欠伸しながら言った。

「それはそれとして、こっちにはマサマサも来てると思ってたんだがな」

「ああ、マサマサ。正木政治のことだね」

 乗り出していた上体を背もたれに預け、魔王がつまらなそうに言う。

「政治家だし『狩場』侵攻の役に立つかと思ったんだけど、人の話聞かないから殺しちゃったよ。ずっと前の代からさ、地下に飢えたペットを飼っててね。そこにマサマサ落として餌にしたよ。城のどの部屋からでも落とし穴を繋げられるのさ。ほら、こんなふうに」

 魔王が壁に立つ戦士のうち針金のように痩せた男を指差した。その足元に丸い穴が開き男が吸い込まれる。咄嗟に穴の縁にかけた手が見えない力に弾かれたように外れ、男は怨嗟の叫びを残して穴に消えた。穴は小さくなって元の平らな床に戻る。

「なるほど、部下を大事にする魔王さんだ。俺と同じくらいに」

 大曲が皮肉を言う。

「いいんだよ。こいつらは皆、僕を殺して魔王に成り代わろうと狙ってるんだからね。じゃあ、食事をしながら本題に入ろうか」

 魔王が両手を打ち鳴らすと扉が開いて給仕達が現れた。黒贄が悲しげに言う。

「行儀良く食べたいですので、出来れば私の腕を繋いで頂けませんかね。いえ、別に暴れ出したりはしませんから。少なくとも食事が終わるまでは」

「いいよ。繋いでやれ」

 魔王が命じると壁際の戦士達が数人歩み寄り、黒贄の手足を拾い上げた。烏賊のような頭の男が両袖から触手を伸ばす。触手から出る液体で傷口を接合するらしい。

 給仕達が料理を並べていく。小さな骨の沈んだスープに分厚いステーキ、レタスやニンジンの使われたサラダ、リンゴやブドウや詳しくは分からないが果物もあった。それぞれのグラスに赤ワインが注がれる。

「さあ、遠慮なく食べてくれよ」

 魔王の言葉に大曲が早速フォークを手に取った。伊織は放心したように「正木が。あの正木が……」と小さく繰り返していた。ブラックソードはやはり料理には手を出さない。神楽は目を細めて皿に載ったものを観察している。

「ふむう」

 黒贄が繋がった腕を回して感触を確かめながら料理を見つめた。顔を近づけて匂いを嗅ぎ、失望した様子で首を振る。

「折角ですが、遠慮させて頂きます。私にはカニバリズムの趣味はありませんので」

「ん、何だって」

 大曲が一きれ目のステーキを口に入れて聞き返す。神楽が補足した。

「人肉です。うまく加工してありますが、野菜や果物に見えるものも全てアルメイルの住民自身の肉です」

「へえ、そりゃヤバいな」

 大曲は言いながら二きれ目を口に入れた。

「良く分かったね。お二人さん、なかなか鋭い目をしてるよ」

 魔王が意地の悪い笑みを浮かべる。神楽が続けた。

「その赤ワインに見えるものの原料は人の血液です」

「うわ、そりゃ大変だ。まるで分かんねえ」

 大曲は言いながらグラスを飲み干した。魔王が嬉しそうに手を叩く。

「素晴らしい。じゃあまずその話からしようか。僕はね、前々からこの世界はおかしいと思ってたんだ。こんなに沢山人はいるのに、食べるものがないんだよ。動物と植物はいることはいるけど、数も少ないしパサパサして美味しくないんだ。だから、仕方がないから共食いさ。ずっと昔から、アルメイルはそうやって続いてきたんだ」

 自身もグラスの赤い液体を優雅な仕草で一口飲み、魔王ウーリューフェンは続けた。

「色々工夫して見かけや味を変えてるけど、やっぱり物足りないんだよね。本物の野菜や米を食べてみたいって、ずっと思ってたよ。生まれたての馬鹿共は別にして、住人の大部分がそう思ってるんじゃないかな。でもこれまでの魔王は鎖国主義で、僕らをこの世界に閉じ込めた。ブラックソード、僕は君のことが羨ましいよ」

 異論はあったかも知れないが、ブラックソードは黙って話を聞いていた。

「ここはね、おかしいんだよ。『狩場』の識者はここのことを『影の世界』と呼んでるんだって。確かにそうかも知れない。ここの人間は泥から生まれるか天から降ってきて、死ぬまでにやることと言ったら殺し合いだけだ。何かの罰みたいにね。これまでの魔王が鎖国して『狩場』を保護してた理由も何となく分かるよ。彼らはね、『本物の世界』に引け目を感じてたのさ」

 大曲が言った。

「引け目を感じてもらえるほど俺達の世界が大したもんとも思えんがな」

「それでもアルメイルから見れば天国さ。もしかすると、向こうで罪を犯した者が死んだ後こちらに送られてくるのかも知れない。ここは帽子の彼の言うように『地獄』という訳さ。ま、本当のところは分からないけどね」

「で、魔王として『狩場』進出を目指してるとか」

 大曲が先を促す。黒贄は料理が食べられず不貞腐れたのか話も聞かずに舟を漕いでいる。神楽は魔王ではなく、何故かその斜め上を見つめていた。

「そう。僕が魔王になったからにはやりたいようにやらせてもらう。『狩場』に打って出て野菜を沢山食べる。住民を殺して野菜畑を作って田んぼを耕すんだ。ビルとか工場とかは全部叩き壊してね。ある程度の量の野菜を毎日こっちに供給出来るように生産と輸送体制を確立したい。あ、だからそのために『狩場』の住民はある程度残しとくつもりだよ。料理のノウハウも学びたいしね」

「なるほどねえ、野菜を求めての戦争か」

 大曲が空のグラスを指差してお代わりを希望した。給仕がボトルから赤い液体を注ぐ。伊織は吐き気をこらえるように口元を押さえ目を背けた。

「そうそう、ところが初っ端から痛い目に遭わされたなあ。第一陣は全滅したみたいだ。隊長のシュデルビンも一緒くたに、五万の精鋭部隊がたった一つの箱に殺されたって。『狩場』はどんな秘密兵器を持ってるんだい」

 内面はどうか知らないが、魔王の表情に悔しさは見られない。大曲が平然と答える。

「ああ、あれはうちの市長だ。無敵だが腰の重いのが欠点でね。次からの侵攻もうちの市長を第一目標にしてくれねえかな」

「へえ、八津崎市の市長か。やっぱりそっちでも一番強いのが一番偉いのかい」

 と、うつらうつらしていた黒贄が目を開けた。

「お、市長さんですか。この間、試しに私も手を入れてみましたよ。不受理でしたが」

 右腕の袖をまくってみせると確かに前腕に『不受理』の印が残っていた。続いて左の袖をまくるとこちらには『受理』が押してある。

「ということで次に左手を入れたら受理して貰えました。しかし市長さんが五万人殺したとなると、私も負けずに十万人以上は殺さないといけませんな。数より質という見方もありますが、やはりあらゆる面で相手を凌駕したいと願うのは男の本能ですよね」

 食堂の空気が微妙に白け、ぎこちない沈黙の後、魔王が喋り始めた。

「えーっと。話を戻すけどね。ま、兵隊はあり余ってるからこれからもどんどん侵攻していくつもりなのさ。こっちの住民はタフなのが多いから、核ミサイルだって爆心地にいなければきっと大丈夫だよ。ただ、ね、実のところ、僕としては日本は大事にしておきたいんだ。プレステ2も好きだしもうすぐ3も出るし、まだまだ面白いゲームを作ってもらいたいからね」

「ははあ、テレビゲームか。俺も昔は良くやったもんだ。仕事中に」

 大曲がグラスの液体をチビチビやりながら言う。黒贄はまた居眠りに戻っていた。伊織は魔王と大曲に挟まれ、居心地悪そうに下を向いていた。

「僕はね、魔王になる前から禁制品のスーファミを手に入れて、発電機も使ってこっそりゲームやってたよ。古いスーパーマリオくらいだったけどね。だから魔王になってからは『狩場』からゲーム機とゲームソフトを目一杯取り寄せて、ケーブルテレビを入れて、毎日テレビも観ながらゲーム三昧さ。こういうのがこっちにも普及したら、アルメイルも少しは平和になるよね」

 配下を瞬殺する魔王が平和を望んでいるかどうかは不明だが。彼は得意げに話を続ける。

「ドラクエはVIIまでやっとクリアしたよ。やっぱりIIIが一番名作じゃないかな。VIIIが届くまでは大航海時代をやってたんだけど、これが意外に面白くてさ」

「ああ、大航海時代なら俺もやったな。IとIIが面白かったな。特にIはポルトガルのお姫さんに沢山貢いだもんだ」

「あ、やっぱり。姫の『神があなたをお守り下さいますように』って台詞、グッと来るよね」

 魔王が張り切って身を乗り出してくる。間の伊織はのけ反って背もたれに身を押しつける。

「そうだよな。お姫さんが攫われた時は慌てて探しまくったぜ。海賊共に変なことされてやしないかってな」

「そうそう、君とは気が合いそうだな。姫を取り戻してからリスボンに帰る前に、僕は何ヶ月も連れ回しちゃったよ。でさ、最後に王に、姫を貰ってくれないかって言われるよね。選択肢になってるけど、それを断る筈ないだろってね」

 いよいよテンションの上がってきた魔王に、大曲は同じ口調で答えた。

「いや、俺は爵位の方を希望したな。結婚を断ったらゲームが終わっちまったが、面倒臭えからそれきりやめちまった」

「……あ、そう」

 それで場が一気に冷めた。魔王は不機嫌そうに自分の爪を噛んでいる。笑いをこらえていた何人かの戦士が見えない力に一瞬で叩き潰され穴に消えた。

 やがて、大曲が尋ねた。

「それで、わざわざ俺達を城まで招待してどうする気だい。これから戦争起こそうってもんが、小さい面子に拘っちゃあいけねえよな。魔王さんは心の広い偉大なるお方だからちっぽけな俺達くらい見逃してくれるんじゃねえかと、ちょっとばかり期待してるんだが」

 こんな時だけおだててみるが不敬な態度は改まらない。魔王は右手人差し指を立てて左右に振ってみせる。

「いやいや、こういうちょっとしたことが意外に大事だったりするんだよね。ノスフェラトゥ・セブンなんてこっちでは雑魚クラスだろうけどさ、王として、出身者の不始末はきちんとフォローしとこうって思う訳。それと僕が王になってから六十六日だけど、記念のイベントとかすっかり忘れてたから、ついでにやっとこうと思ってさ。それで、ここの娯楽といったら殺し合いしかなくてね、城下町でも毎日闘技場でランキング戦やってるよ。あ、勿論決着はどちらかが死んだ時なんだけどね。明日、君達にも参加してもらう予定なんだ」

 魔王ウーリューフェンは心底嬉しそうに笑った。

「君達は五人だから、こちらからも上位の五人を選んで当てようと思うんだけど、どういうのがいいかな。勝ち抜きにするか、一対一で五戦して三勝した方の勝ちにするか。紫香楽伊織さんは戦えないかも知れないし、賞品にするのもいいかもね。一敗するごとに手足を一本ずつ切り落とすとか」

 暗黒の視線を受け、伊織の体は小刻みに震えていた。魔王が本気なのは間違いない。彼女の肩に大曲が生身の左手を置いた。

 大曲の顔に不安は微塵もなかった。

「こっちとしては勝ち抜き戦が一番都合がいいんだけどな。先鋒はクロちゃんで、俺達はのんびり見物してるから。で、その勝負に勝てば俺達は無罪放免ということでいいんだろ」

「いいとも。勝負には報酬がなくちゃつまらないからね。でも今思いついたんだけど、やっぱり一対一の勝ち抜きよりもチーム戦が面白そうだな。彼女を攫われたお姫様にして、残りの四人にこっちから四人を当てて四対四だ。ナイトの君達が全滅したら改めて彼女を殺す、と。これならいいよね、ドラクエIIIも四人パーティーだったし」

 神楽が鋭い目つきで魔王に確認した。

「相手は四人ということでよろしいのですね。状況が変わっても、それ以上の人数が追加されることはないと。また、何らかのアクシデントで他の者……観客などに死傷者が出ようとも、私達は所定の四人を倒せば放免ということで、よろしいのですね」

 神楽が何を想定しているのか、魔王に理解出来ただろうか。

「ああ、いいよ。自分の命は自己責任だからね。巻き込まれて誰が死のうとそれは自分の責任さ」

「了解しました。この条件で、受けて良いかと思いますが」

 神楽が頷いて大曲を見た。大曲は他のメンバーを見回す。ブラックソードが言った。

「構わぬ。明日までにはなんとか、戦えるようになる筈だ」

「クロちゃんは」

「おっ。話は終わりましたかな」

 大曲に呼ばれ、黒贄が居眠りから戻って顔を上げた。

「終わったのでしたらそろそろ始めていいですかね」

「ん。何を始めるのかい」

 立ち上がった黒贄に魔王が問う。

 黒贄はにっこり笑って答えた。

「あなたを叩き殺すことですよ」

 魔王が鬼の形相に変わった。ベジュッと嫌な音がして黒贄が一瞬で潰れた。厚さ十センチの肉塊と化して床にへばりつく。

「ふうう。仕方がないな。明日は三対三だ」

 大曲が訂正した。

「いや、四対四だ。クロちゃん、明日団体戦だってよ。俺は寝てるからクロちゃんは頑張ってくれ」

 床の肉塊がひしゃげた声を出した。

「まだでしだが。ごればじづでいじまじた」

 分解した骨格を潰れた筋肉が動かした。肉塊の中心にある平たい顔から眼球がはみ出している。それをちぎれかけた腕が掴んで嵌め戻す。へばりついた皮膚をペリッと剥がして唇が微笑らしきものを浮かべた。

 魔王は床を覗き込んだまま呆然としていたが、やがて大きな声で笑い出した。

「はは、ははは。凄いな。はは、大したもんだよ。はははは。じゃあ明日、四対四マッチね。観客席を拡張しとかないとなあ」

 まだ黙って震えている伊織の肩に、もう一度大曲が手を置いて告げた。

「心配ない。全力であなたを守るからな」

 そして大曲は付け足した。

「俺以外の誰かが。多分」

 

 

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