第五章 明快な真実

 

  一

 

 午前零時の鐘が鳴る。重く篭もった響きが十二回。アルメイルの時刻表現は『狩場』と同じだった。アルメイル側が合わせたのかも知れない。

 地上数百メートルにある賓客用寝室の窓から紫香楽伊織は城下町を眺めている。赤い光に照らされた鋼鉄の都市が広い範囲で見渡せるが、黒い街並みが続くだけで何も変わりはない。戦士達の無数の笑い声と断末魔が混じり合って微かな地響きのようにここまで届いてくる。金属を打ち鳴らす音も続いていた。魔王は闘技場の観客席を拡張すると言っていた。その工事だろうか。

 伊織の優美な顔立ちも赤に染まり、瞳は暗い翳りを宿している。その瞳が空を降りてくる白い光体を捉えた。

「あら、あれは……」

 呟くうちに空を落ちる光体は増えていき、数百、数千を超えるようになった。伊織は窓から顔を出して空を見上げる。魔王の瞳のように空は暗黒を湛えるばかりで、何もないところから光体が出現しているように見える。

「人間だ。アルメイルの住人は、虚空か泥から生まれる」

 低く掠れた声に伊織は振り返る。五つのベッドが並ぶ向こうの壁際にブラックソードはいる。やはり眠れないのだろうが、彼は珍しく胡坐をかいて壁に背を預けていた。

「天から生まれる者は傲慢だ。泥から生まれる者は貪欲だ」

「あなたはどちらから生まれたんですか」

 伊織が尋ねると、少しの沈黙の後に答えが来た。

「分からん。気がつけば生きていた」

 端のベッドで大曲源が眠っている。彼は緊張とか不安というものを知らないらしい。神楽鏡影の姿はない。ベッドの下にいるのか、ひょっとすると部屋を抜け出して城内を探索しているのだろうか。黒贄礼太郎は大曲の隣のベッドで横になっているが、眠っているのかどうかは分からない。さっきまで凶器について世話係に注文をつけていた。潰れた肉塊だった黒贄はいつの間にか元の姿になっており、略礼服も相変わらずヨレヨレだ。

 伊織は窓の外に視線を戻す。雪のように緩やかな速度で、窓の近くを光体が落ちていく。直径六、七十センチほどの光る膜に包まれて裸の男が丸くなっている。既に十代後半に見えるその顔は眠っているらしく目を閉じていた。光に包まれた胎児が落ちていくのを伊織は目で追っていく。

 その先に、城壁からねじれ上がった長い棘が待っていた。

「あっ」

 棘の先端が膜を突き破りあっけなく反対側まで貫通した。傷を広げながら棘の根元まで伝い落ちていく。眠っていた胎児が異様な悲鳴を上げ、伊織は耳を塞ぐ。ブゾリ、と胎児の体が裂けて棘から外れ、血を流しながら城壁を滑り落ちていく。途中で別の棘に当たり足が切断され、生まれたばかりの男がまた悲鳴を上げた。

 次々と悲鳴が聞こえてくる。城壁近くを降る胎児は棘に引っ掛かって無残に裂かれていく。生まれたての者達が死体となって城壁を伝い落ち、堀に呑み込まれた。堀の流れが死体を何処かへ運んでいく。行く先は食肉加工工場だろうか。

 ブラックソードが言った。

「城壁の棘は、そのためにある。この世界では、人の命はその程度でしかない」

「嫌な……世界ですね。だからあなたはここを離れたんですか」

 外の景色から目を背け、伊織はブラックソードに尋ねた。

「それもある。それとは別に、わし自身の問題もある。……わしは、次元放浪者だ。『狩場』のラジオは周波数をずらすと、別の局の音声が流れるが、わしは、調節機能が壊れたラジオなのだ。勝手に周波数がずれていき、一つの世界には留まれない。ある程度は自分で制御出来るが、大きな流れには逆らえぬ。無理は体に歪みを溜めていく。年を取るごとに揺れ幅が大きくなり、この世界を離れざるを得なかった」

 汚れと染みの残るダークグレイのロングコートと、同じ色の鍔広帽。それらはブラックソードと共に様々な世界を巡ってきたのだろうか。

「わしはここを地獄と言ったが、もっとひどい世界も見てきた。灼熱の大地を鬼共が踊る世界もある。生命のない、氷河に包まれた世界もあった。そして、無だ。何もない虚空に、わしだけが浮かんでいる、そんなことも、あった。お主達の世界は、悪意も数多く存在するが、それでも、素晴らしい。わしは、そんな世界の役に少しでも立ちたかった。だが、わしに出来ることは、殺すことだけだ」

「あなたは、役に立ってます。少なくとも、私を助けてくれました」

 伊織は鍔広帽で顔を隠す男に優しく微笑んだ。それが、今の彼女にとって精一杯の心遣いであったろう。

「……そうか」

 鍔広帽は頷いた。

「でも、やっぱり、なんだか夢を見てるみたいです」

 伊織は続けた。

「神楽さんには、これは現実だってはっきり言われましたけど、やっぱり、これが夢だったらいいのにって、心の何処かで思っているみたいで。……でも、もしかすると、これまでが夢だったのかも。世界には残酷なことが沢山存在してるのに、私は自分のことしか見てなくて、都合の悪いことから目を逸らしてきただけなのかも知れない。今私がここにいるのは、その罰かも知れないって、そんなふうに、考えるんです」

「人に罰を下すような、高次の意志は何処にもおらぬ。あるのは傷つける者と、傷つけられる者だけだ」

 ブラックソードは掠れ声で淡々と告げた。

「事が終われば、お主はまた自分の日常へ戻れば良い。そこがお主の世界だ」

「……。ありがとうございます。そうするつもりです。でも、私はただのメイドで、無力で、明日の戦いでも、何も出来なくて。私のために、皆さんが命を懸けることになってしまって、本当に、申し訳ないです」

「気にするな。自分の人生は自分持ちだ。どうなろうと誰のせいでもない。それにわしは、長い旅に疲れた。誰かの役に立って死ぬのなら、わしの人生にも、少しは意味があったということになろう」

「そうですよ、気にすることはありません」

 唐突にベッドから身を起こし、眠たげな目を擦り黒贄が言った。

「私は私の都合であなたを守るのですから。ひょっとすると他の方は何かの手違いで気の毒なことになってしまわれるかも知れませんが、あなただけは絶対に守ります」

「は、はあ……。すみません」

 伊織が取り敢えず無難な言葉を返す。

「それから、殺人技術の不足を気に病む必要もありませんよ。人にはそれぞれ得手不得手というものがありますからね。人は皆、違う荷物を背負って違う道を歩いているのです。荷物を他人に持ってもらうことも、他人の道を歩くことも出来ません。ということで、殺しは私に任せて、あなたはメイドのお仕事を頑張って下さいね」

 澄ました顔だが、黒贄の眼差しは温かかった。

「はい。頑張ります。生き延びたら、またお仕事を探してみます」

 伊織は苦笑して頷いた。

 空を降る光体はいつしかやんでいた。

 

 

  二

 

 昼となっても相変わらず暗い世界を城の上の巨大な光球が赤い狂気に染めている。集まった十五万の観客の顔も染まっている。返り血を浴びて赤い者もいる。

 魔王城の正面に位置する闘技場は拡張工事を終え、外周にかけて徐々にせり上がった観客席は巨大なすり鉢状になっていた。ひしめく魔人達は来たるべき血みどろの余興を待ち侘びて歓声や怒号や判別不能の音を発し続けている。彼らの飢えた瞳は隙あらばイベントに食い込もうと狙っているようだ。数ヶ所で観客同士の小競り合いが始まり強力な警備員に即刻粛清される。

 彼らの視線が集まる先、闘技場のフィールドにはまだ誰もいない。径五十メートルほどだが正確な円ではなく、正二十角形になっている。床は鋼鉄の一枚板で、鋭敏な感覚の者なら反響具合で数メートルの厚みを持つことが分かるだろう。そんな床に無数の傷や凹みが残っている。毎日ここで死が積み重ねられてきた証。壁もやはり鋼鉄で高さは三メートルほど、全面に鋭い棘が生えている。長さ二、三十センチの棘は折れたり曲がったりしているものも多かった。常人が壁に叩きつけられれば致命傷は免れまい。

 二十角形のそれぞれの角の上にはライトが取りつけられ闘技場を白く照らしていた。

 時計塔の鐘が鳴り始める。重い音が重なるごとに観客の狂騒も激しくなっていく。鐘の音は、十二回、鳴った。

 係官達がライトを上へと向けた。二十条の光線の収束する場所に巨大な黒い椅子が浮かんでいた。背もたれが炎をかたどった魔王の玉座。

 玉座には魔王ウーリューフェンがいつもの白いスーツ姿で腰掛けていた。斜めにかぶったハンチング帽に王冠を無造作に載せて。魔王は足を組み、気取った仕草で片手を上げてみせる。その瞬間、喧騒がやんだ。

「やあ。皆、元気かい」

 なめらかな声とざらついた声で魔王が言った。

「元気ですうううう」

「元気でーす」

「魔王様ー」

「ウーリューフェン様」

 観客達が叫ぶ。魔王が喋り始めると彼らは一斉に口を閉じた。まだ叫んでいた者数名が警備員に棍棒で撲殺された。

「僕のことを知らない無知な幼児もいるかも知れないから自己紹介しておくよ。僕は魔王ウーリューフェンだ。僕が話してる間はお喋りしないでくれよ。お喋りしたら殺すからね。もうじき僕らは『狩場』に進出して、野菜とか米とか、人肉以外の食べ物を供給出来るようにするつもりだ。君達はどう思うかな」

「うおおおっ素晴らしいいいぃぃ」

「ばんざーい。魔王様ばんざーい」

「野菜、野菜ばんざい」

「米、米米っ米米米っ」

 歓喜の声が闘技場を揺るがせる。魔王は満足げに頷いた。何の支えもなく数十メートルの高さに静止していた玉座は、観客を見回すように緩やかに回転しながら降下していく。ライトの光もそれを追う。

 玉座はすり鉢状になった観客席の、城側で最も高い場所に着地した。逃げ遅れた男が玉座に潰される。玉座の周りはすぐに屈強の親衛隊によって固められた。魔王が口を開き、観客はすぐに口をつぐむ。

「それでは今日のイベントだ。テレビゲームもいいけれど、たまにはリアルのゲームもいいよね。うちの出身者をテレビの全国放送で殺してくれたり、五万の精鋭部隊を皆殺しにしてくれたりした『狩場』の皆さんだ。皆、拍手で迎えてやってくれ」

 魔王が高々と片手を上げると、向かい側に当たるフィールドの壁が一部スライドして持ち上がり、地下へ緩く傾斜する通路が現れた。珍しい外界の生贄を見るために観客達が総立ちとなる。

 怒涛の拍手を浴びながら、通路の奥から四人の闘技者がフィールドに足を踏み入れた。通路はすぐに閉じ逃げ場は失われる。魔王自らがメモを片手に参加者を紹介していく。瞬時に静寂が訪れた闘技場に魔王の声は良く響いた。

 最初に魔王が指差したのは着古した礼服にスニーカーという服装の男だった。

「黒贄礼太郎、私立探偵。趣味は殺人と死体いじり。特技は……ええっと、誰も見ていないところでこっそり回復、でいいのかな」

「よろしくお願いします」

 拍手を受けながら黒贄礼太郎は四方の客席に向かいにこやかに礼を繰り返した。薄い唇の面白がっているような微笑。一見眠たげな彼の視線は、沢山のご馳走に舌舐めずりするグルメのそれに似ていた。彼はまだ何も凶器を持っていない。

 次に魔王が指差したのは頭巾で顔を隠した黒ずくめの男だった。

「神楽鏡影、占い師。副業は殺し屋。黒魔術と暗殺のスペシャリストだ」

 黒贄との間に仲間達を挟んで立つ神楽鏡影は無言のまま鋭い目つきで周囲を見回していた。右手には奇妙な紋様が彫金されたジグザグの短剣を、左手には鎌状のナイフを握る。張り詰めた雰囲気を漂わせているが、彼が最も恐れているのは対戦相手でも魔王でもなく仲間である黒贄ではなかろうか。

 魔王の指先はダークグレイのロングコートと鍔広帽の男に移る。

「アルメイルの出身者、ブラックソード。二百年前にここを逃げ出したそうだが、彼のことを覚えている者はいるかな」

 観客達が一斉に首を振りブーイングを浴びせる。ブラックソードの鍔広帽は正面を向き、両手は無造作に垂らしたままだ。少しは安定したのか姿勢は揺らがない。

 眠そうに欠伸しているくたびれた男を魔王は示す。

「大曲源、八津崎市の警察署長。趣味はパチンコと宝くじ購入。座右の銘は『楽して得取れ』と『部下は使い捨て』だ」

 改めて禁煙パイポを咥え、大曲源が右手を振って歓声に応える。左手はドラム弾倉の短機関銃を握っていた。銃から細いコードが伸びて大曲の首の後ろまで繋がっている。脳からの指令をダイレクトに引き金まで伝える機構。

「さて、この四人の騎士が守る姫君を紹介しよう」

 魔王の合図により、玉座の向かいに位置する観客席の外から何かが現れた。弧を描く金属の竿に鎖で吊られたものは中世の貴族が座るような豪華な椅子。鋼鉄の檻に収まった椅子に若い女性が腰掛けている。

 飢えた魔物達の喝采と視線に晒されながら檻はフィールドの中央、高さ十メートルほどで停止した。揺れる椅子に彼女は必死で掴まっている。レース生地の白いドレスを着せられ、肘まである白い手袋を填めて、彼女は恥ずかしそうに頬を赤く染めていた。

「紫香楽伊織、『狩場』でメイドをやっていたそうだ。特技は部屋の掃除。女性なら料理もするのかな。野菜とか米とか」

 観客達が期待を込めて見上げる静寂の中、紫香楽伊織は俯いて消え入りそうな声で答えた。

「いえ、あの、料理はあまり得意じゃなくて……」

 場内は悲しげなブーイングで満ちた。魔王が溜め息をついて先を続けた。

「騎士達が全滅すればゲームは彼らの負けだ。お姫様は手足を切り落として五、六十回は犯しまくって内臓を引き摺り出して、『狩場』から取り寄せた野菜を添えて僕の今日の夕食にする。どうだ、羨ましいか」

 魔王の言葉に観客が腕を振り叫ぶ。

「羨ましいいい、羨ましいです」

「食べたいいいっ俺も食べたいいいっ」

「野菜野菜野菜ーっ」

 魔王が手を上げて観客を黙らせる。

「では、『狩場』の騎士達の相手をするアルメイル四天王の登場だ」

 今度はフィールドの玉座側の壁が開き、通路の奥から四人の戦士が現れる。観客の拍手も歓声も敵となる男達の視線も当然のように受け流しながら。

 身長百三十センチにも満たぬ小柄な男を魔王は指差した。

「ゲンゼラ。八百年以上もランキング一位をキープする無欲な男だ。流石の私もこいつを殺そうと思ったらちょっとてこずるかも知れないな。ほんのちょっとだが」

 小男の服は黄土色の地味な上着とズボンに、靴は布で足首から先をくるんだだけのものだった。右手は三十センチほどの長さしかない金属製の棍棒を握っている。常人より小さな頭部に円錐形の尖った帽子を載せていた。石を彫って作ったような無表情な顔で、ゲンゼラは玉座の魔王に深々と一礼し、向き直って『狩場』の四人にも一礼した。ちょっとした動作にも無駄がない。

 続いて魔王は薄い鎖帷子を着た男を指した。

「二位。名前は魔王になってから決めるそうだ。名なしのまま一生を終えることになるとは気の毒だが、今日は精々楽しんでくれ」

 魔王の皮肉にも名なしの男は不敵な笑みを浮かべていた。男が両手で握るのは柄の長さが四十センチ、刃渡りが一メートル二十センチほどある片刃の長剣だ。刃には僅かな欠けもなく、しなやかな材質らしくゆっくり揺れている。男はサークレットで頭部を守っているが、どう見ても頭蓋骨に食い込んでいた。

 魔王が異様な姿の怪物を指差した。

「三位のライキ。大勢のランカーがこいつに寝首を掻かれてきた。今日はどんな汚い手を使ってくれるか楽しみだよ」

 ライキはドロドロの粘塊に手足らしきものが浮き出した生き物だった。顔はなく、四、五個の眼球が別々の場所に配置されている。

 魔王が髑髏顔の人物を指差した。

「四位の流転。こいつはなかなか……」

 魔王が急に黙った。鬼のような笑みを浮かべてフィールドを見下ろしている。全ての視線が玉座に集まった。

 魔王ウーリューフェンの右脇少し手前で、長さ二十センチほどの細いネジのような物体が静止していた。鋭利な先端には紫色の液体が塗られている。

「なるほど、こう来たか、ライキ」

 不気味な静寂の中、魔王が告げた。こっそり毒針を吹いたライキが粘塊の体を波打たせてフィールドから逃げ走る。彼はこのイベントを機会に魔王の座を奪おうとしたのだ。意外に素早い動きだったが棘だらけの壁を乗り越える前にライキは床に叩きつけられた。魔王の見えない力が行使されたのだ。ブジュリと嫌な音を立てて粘塊の厚みが失われ、脳らしきピンク色のゼリーも完全に潰れ、後は汚い水溜まりだけが残った。

 ランキング三位のライキは粛清された。四天王の残り三人は無表情に或いはニヤニヤしながらそれを見ていた。モップとバケツを持った掃除係達がフィールドに入ってきて水溜まりを綺麗にしていく。

「と、いうことは、俺達ゃ三人を相手にするだけでいいのかな」

 大曲が魔王に尋ねる。

「心配無用だよ。こういうことは日常茶飯事でね、下の者が一人ずつ繰り上がれば済むことさ。良かったな、流転。何もせずに三位にランクアップだ」

 髑髏顔の流転は無言で魔王に頭を下げた。灰色のローブを纏い、右手はミイラのように干からび、左手は水死体のように膨れている。

「では新しい四位を紹介しよう。誰だっけ」

「スレンドッホでございます。昨日五位に上がったばかりでございました」

 親衛隊のそばで、顔一杯に一つの巨大な眼球が埋まった男が冊子をめくりながら魔王に教えた。ランキングの記録係なのか、羽根ペンを持ち新しい順位を猛烈な勢いで書き替え続けている。

「ふうん、じゃあスレンドッホ。お前が新しい四天王だ」

 魔王の声と共に観客席から飛び出した影が空中で数回転してフィールド内に着地した。ズタボロに破れた服を着た痩身の男だ。肌は鉛色で、顔の数ヶ所に小さな突起が生えている。スレンドッホが笑うと突起の皮膚が破れて鋭い刃の先端が現れ、表情が戻るにつれ引っ込んだ。

「えっと、以上がアルメイルの誇る四天王だ。『狩場』の諸君、君達は幸せだよ。本来なら一生お願いしてもお目にかかれないようなアルメイルの強者に相手をしてもらえるんだからね」

 自慢げに語る魔王に黒贄がにこやかに言った。

「ありがたく頂きますよ。では、こちらの段取りも進めてよろしいですかな」

「ああ、エフトルから聞いているよ。武器を選ぶんだってね」

「はい、そのためにエフトルさんには手間をおかけしますが」

 黒贄の横で、空中から赤い毛が生えた。それは次第に数を増し毛玉となり、下向きに伸びていく。その上に華奢な肩が現れる。青紫色のがさついた肌が細い胴体をなし、やがて逆立ちしたこちら側のエフトル・ラッハートとなった。

 クルリと宙返りして両足で着地したエフトルは、右手に一辺三十センチの箱を、左手にドアノブを握っていた。ドアノブにはドアが繋がっており、ドア枠と天井、壁の一部まであるが途中からは霧状のものに呑まれ、ドアの裏側も霧に覆われていた。数秒待ってエフトルはドアノブから左手を離したが、ドアはその場に留まっている。

「ごぶうんをいのっていますよ」

 エフトルが黒贄に箱を差し出した。箱の上面には人の手が入るくらいの丸い穴が開いている。折り畳んだ紙片が中に積み重なっているのが見える。

 黒贄は嬉しそうに箱を受け取った。

「ありがとうございます。ただ、くじを引くのは依頼人の方にやってもらっているのですよ。この場合は……」

「そうだな、お姫様にやってもらった方がいいんじゃねえか」

「ではそうしよう」

 大曲の提案を魔王はあっさり了承した。黒贄の手から箱が浮き上がり、自然に上昇して吊られた檻の前で静止する。

「紫香楽さん、一枚選んで頂けますかな。でも中身は見ないで下さいね」

 黒贄が下から告げ、伊織は揺れの収まってきた椅子から慎重に右手を伸ばした。檻の隙間を抜け、薄い手袋を填めたまま箱の穴に突っ込む。

「使う武器を毎回くじで選ぶのだそうだ。皆も良い武器が出るように祈ってくれよ」

 魔王の言葉に十五万の観客が荒々しい声援を送った。押し寄せる音波でまた檻が揺れ、伊織は泣きそうな顔で手を抜いた。

「こ、これでいいですか」

 指先が一枚の紙片を摘まんでいる。それが見えない力に引かれ、雪のようにゆらゆらと黒贄へ降りていく。

「これはどうも」

 黒贄が紙片を受け取り開き、満面の笑みを浮かべて観客席へ中身を掲げてみせた。下手糞な字で二桁の数字が書かれている。

「六十八番です」

 黒贄の誇らしげな声が響き渡る。

「六十八、ろくじゅうはちいい」

「何だ、どんな武器だ」

「殺せ、殺せええ」

 歓声を浴びながら、黒贄が礼服のポケットから鍵束を出した。ドアノブの鍵を開け、その上にある南京錠も外す。

 ドアを開ける黒贄の表情は、神々しくさえあった。

 観客達がどよめいた。ドアの隙間から向こう側の世界が覗いたのだ。エフトルがこちらの世界へ繋いだ黒贄礼太郎探偵事務所の左側のドア。その奥には部屋があった。壁や棚に並べられた凶器の数々。大きな斧やチェーンソー、シャベルやマンホールの蓋、ボーリングの球など、バラエティに富んだ凶器のそれぞれが良く手入れされていた。斧と鉈を振り上げた男の像が載るトロフィーがあった。幅二メートル、厚さ二十センチほどの巨大な刃が部屋に納まりきれず床に突き刺さっていた。室内に見えるのは一メートルほどの柄とブレードの一部だけで、実際の刃渡りがどのくらいあるか分からない。黙って見守る四天王のうち、長剣を持つ二位の男がニヒルな笑みを浮かべた。

「ありましたよー。六十八番です」

 黒贄が『狩場』の自室からアルメイルの闘技場へ戻ってきた。彼が持つ凶器に、一位のゲンゼラが小さな目を細めた。観客の歓声が不審のざわめきへトーンダウンしていく。

 それは、一辺六十センチほどの逆三角形の鉄板で、赤地に白で『止まれ』と描かれていた。裏側に据えつけられた中空のパイプは一メートルほどの長さでねじ切られている。番号の書かれた紙がセロテープでパイプに貼られており、黒贄は丁寧に剥がしてポケットに収めた。

 魔王が指先で左のこめかみを撫でながら聞いた。

「ええっと、僕はテレビで見たことがあるけれど、それって道路標識、だよね。つまり立て札だけど……武器って、それかい」

「ええ、その通りです。この程度の皆さんがお相手でしたら充分役に立ってくれると思いますよ」

 挑発でなく、本気でそう思っている口ぶりだった。場が一瞬凍り、続いて観客席から激しいブーイングが飛ぶ。殺し合いしか知らぬ魔人達は、自分達の価値を否定されて怒りに血をたぎらせている。

「ふうん。まあ、そういう自信過剰な奴って、僕は嫌いじゃないけどね。でも、もう少しましな武器を選んだ方がいいんじゃないかな。もう一枚、くじを引いてみなよ」

 大曲が忠告した。

「あまりクロちゃんにいい武器を持たせねえ方がいいと思うんだがね。いやこれは俺自身の安全のために言ってることなんだが」

「どうなさいますかな。私はどちらでも構いませんよ」

 そう言いながら黒贄はソワソワと期待しているようだ。

「もう一枚引いてくれ」

 魔王が指を鳴らした。地上に戻っていたくじの箱が再び檻の前へ浮かぶ。伊織が隙間から手を伸ばし、一枚を引いた。

 舞い落ちる紙片を受け取って開き、黒贄は数字を読み上げた。

「二十五番です。これはなかなか良いものかも知れませんよ」

 黒贄はまたドアを開き、止まれの標識を小脇に凶器の保管室へ消える。

 観客達が見守る中、戻ってきた黒贄は、右手に新しい凶器を握っていた。

 全長二十センチほどの、マイナスドライバーだった。柄の部分は赤い半透明のプラスチックで、端にJISマークが刻印されていた。

「ね、日本製の良品ですよ」

 にこやかに黒贄が告げた。

 二位の名なしが獰猛な笑みを浮かべた。唇の両端が目元まで吊り上がり、厚い歯茎と尖った牙が剥き出しになった。一位の小男ゲンゼラは無表情のままだ。観客が口々に呪詛の怒号を投げる。

「舐めるなこのクズがあっ」

「ぶち殺すぞ」

「八つ裂きにしろっ」

 魔王ウーリューフェンが片手を上げて観客を黙らせた。魔王の顔つきも少し険しいものになっていた。

「もういい。じゃあ、始めようか」

「あ、ちょっと待って頂けますかな。後二つあります。真面目な殺人鬼として、マスクと奇声を決めないといけません」

「どうでもいいからさっさとしてくれ」

 エフトルは黙ってくじの箱を回収していた。ドアノブを持ち、毛玉が頭頂部から体内へめくれ込むように消えていく。肩が吸い込まれ腕が消え、それに引き摺られて箱もドアノブも消えた。エフトルの全身もこの世界から消えた。

「了解です、手早く決めましょう。ええっと、マスクはですね……」

 黒贄はモップがけを終え戻ろうとしている掃除係達に目を留めた。

「お、それを一つ頂きたいのですが」

 掃除係の一人が立ち止まる。黒贄は歩み寄り、彼が提げていたバケツを手に取った。ブリキ製で、持ち手の握りは木製になっている。中のドロドロした液体を捨てて折角綺麗にした床を汚し、黒贄はバケツを逆さにしてかぶった。観客の笑い声。魔王は口を半開きにして呆れている。

「目の穴が要りますな」

 黒贄は脱いだバケツの側面にマイナスドライバーの先端を当てた。紙でも破るようにあっさり突き通し、横に引いて細い水平の隙間を作る。髪と顔を粘液で汚し、薄い微笑を浮かべて作業する黒贄の瞳に、得体の知れぬ恐ろしいものが渦を巻き始めていた。何を感じたのか、観客席の笑いが止まる。

「いいでしょう。次は奇声ですが。今回はチーム戦ですから、仲間の皆さんにも協力して頂きましょうか。何でもいいですから一音ずつ言って頂けますかな、まずは署長さん」

「へー」

 面倒臭そうに大曲が言う。

「ではブラックソードさんは」

「む。これで良いのか」

 良いらしかった。ブラックソードは革手袋を填めた手で拳を握り、胸の前で左右を合わせていた。

「神楽さん」

「ク」

 黒い布で覆われた口元が篭もった声を洩らす。

「では、紫香楽さん」

「え、私もですか」

 上の檻から慌てた声が返る。黒贄は満足げに頷いた。

「決まりました。ポッペンパラニョで行きましょう」

 仲間達のアイデアは何処にも使われていなかった。

 シジャラー、という金属同士が擦れる音がした。ブラックソードの拳の間から、名の由来である黒い剣が伸びていく。

 神楽鏡影の体がゆらゆらと静かに揺れている。右手に握ったジグザグの短剣は小さく円を描く動作を繰り返している。頭巾から覗く瞳が赤く発光している。その光が正面の敵へ向き、ふと横の黒贄を見て、また敵へと戻る。

 大曲源が禁煙パイポを吐き捨て「さあて」と呟きながら目一杯後ろに下がっていく。短機関銃を使う気は本当にあるのだろうか。

 十メートルの高さで檻の中から、無力な紫香楽伊織は姫君のドレスで見守っている。見守ることだけが彼女の役割だった。

 黒贄礼太郎はバケツを改めてかぶろうとした。寸前、瞳に充満していた極大の狂気が揺らぎ、黒贄は存在しない相手に小さく告げた。

「瑛子さん。取り返してみせますよ」

 黒贄はバケツをかぶった。

「ポッペンパラニョ」

 気の抜けるような声が洩れた。逆さになったバケツは顔の殆どを隠し、喋る際に白い顎先が見える程度だ。バケツの持ち手は胸の前に下がっている。

 水平に開いた隙間から、二つの瞳が覗いていた。先程までのトボけた男は既に存在しなかった。怒りも狂気も悲しみも、全てを超越した冷たい虚無だけがそこにあった。

「ポッペンパラニョ」

 無意味な奇声を発して、右手にマイナスドライバーを、左手に止まれの標識を持った黒贄が歩み出した。「むう」とブラックソードが呻いた。神楽は深く息を吐き、呼気に混じった震えを鎮めていく。「あーあ」と大曲が呟き、吊られた伊織は突如出現した怪物を目の当たりにして息を呑んでいた。

 黒贄に呼応するように、小男ゲンゼラが進み出た。足音もさせぬ無駄のない動きだった。

「じゃ、じゃあ始めっ」

 魔王が叫んだ。沸き返る筈の観客席は妙に静まり返っていた。

「ポッペンパラニョ」

 もう一歩踏み出した黒贄のスニーカーが床につく寸前、二十メートル以上の距離を一瞬で越えてゲンゼラが目の前にいた。

 黒贄が後方へ派手にぶっ飛んでいた。短い棍棒によるコンパクトな打撃が黒贄の胸板を叩いたのだ。折れた十数本の肋骨が服を突き破り、肋骨の欠片が宙に散っていく。

 黒贄はそのまま壁にぶち当たった。十本近い棘が胴や太股を貫いて血塗れの先端を現す。その両足がすぐに跳ね上がり壁を蹴る。棘から抜けて飛ぼうとした時、小男は黒贄の目の前にいた。

「ポッペンパラニョ」

 横殴りの標識は空を切った。ゲンゼラの棍棒が再び黒贄の胴を叩く。黒贄の体が叩きつけられ衝撃で壁が揺れる。新たに棘に貫かれ勢いでバウンドしたところを更に棍棒が襲った。黒贄の手足が瀕死の虫のように揺れている。客席から歓声が上がり始めた。

「ポッペンパラニョ」

 ものを言うバケツに棍棒が打ち込まれる。二度、三度、四度、五度、六度。ゲンゼラは無表情に休みなく攻撃を続けた。黒贄の体が鋼鉄の壁にめり込んでいく。壁自体も大きくたわんで後退していた。この男は小さな体にどれほどのパワーを秘めているのか。

「あはっはっ、頑張り過ぎだよゲンゼラ」

 魔王ウーリューフェンが笑った。その二重の声音に安堵が潜むのを誰が読み取っただろうか。

 だが、既に潰れた死体だと思われる対象にゲンゼラが全力で追い討ちを続けるのは何故だろうか。この機会を逃せば後がないというように。

 急にゲンゼラの動きが止まった。歓声がやみ闘技場が不吉な静寂に包まれる。

 ゲンゼラの右腕に黒贄の右腕が絡みついていた。数ヶ所の骨が粉砕されたらしく妙なところで折れ曲がっている。

 黒贄の右手はドライバーを握っていた。ゲンゼラの右前腕を貫いて先端が突き出している。黄土色の袖が破れ、青い血液が滲んでいた。

「ポッペンパラニョ」

 壁にめり込んだ男が喋った。ゲンゼラが腕を振り払おうとして目を見開いた。折れた腕でドライバーを握りながら凄まじい力で引いてくるのだ。抵抗して踏ん張る足の下でメギッと鋼鉄の床が凹む。黒贄が道路標識を叩きつける。

「ポッペンパラニョ」

 標識は空を切った。ゲンゼラが四メートルも後方に跳びすさっていた。金棒を持つ右前腕の肉が大きく裂けている。マイナスドライバーから無理矢理逃れたらしい。ゲンゼラは出血を続ける自分の傷を無表情に見つめ、前方へ視線を戻した。

「ポッペンパラニョ」

 壁の窪みから、のっそりと、怪物が歩み出した。既に肋骨は全壊し破れたシャツから肺や腸が零れ出しているが、いびつになった手足で黒贄はしっかりと歩みを進めていく。バケツの変形具合からすると頭蓋骨も無事ではなかろう。顎の先から滴る透明な液体は脳脊髄液か。

「ポッペンパラニョ」

 黒贄が両腕をヒグマのように差し上げた。右手にマイナスドライバーを、左手に止まれの標識を握って。その黒贄へ銀色の帯が鞭のように伸び、唐突に出現した黒い刃に弾かれた。空中から生えた黒い刃はすぐに引き戻され消える。

「ほーう。面白いな」

 二位の名なしがニヤつきながら剣を戻す。刀身はまだピニャピニャと揺れている。柔軟な長剣は十メートル以上伸び縮みするらしい。名なしの視線の先にはブラックソードが立っている。

 ヒュールルルル、と、澄んだ音が闘技場に響いていた。ブラックソードは右手に黒い剣を握り、まだその場所から動かない。三十メートルほどの距離を挟んで二人の剣士は対峙する。

「こいつに手を出すな。私の獲物だ」

 名なしに告げたのはゲンゼラだった。

「へえ、あんた喋れたのか」

 名なしが驚いてみせる。ゲンゼラの硬質な口元がヒクリと酷薄な笑みを浮かべた。

 それが合図だったかのように、観客席から歓声と拍手が盛り返した。

 血に飢えた喧騒の中、黒贄とゲンゼラが静かに接近していく。

 名なしの両腕が霞んだ。下段から斜めに斬り上げた長剣が伸びながらブラックソードの首を刎ねた。いや、刎ねたと見えた瞬間ブラックソードの上半身が消えていた。名なしが剣を返しつつ前方に身を投げ出す。一瞬遅れて黒い剣が宙を薙ぐ。名なしの立っていた後方に鍔広帽と右腕が浮かんでいた。燕返しに襲った名なしの長剣を黒い剣が叩く。柔軟な長剣が弾かれず先端が回り込む。鍔広帽が異次元へ逃げ、切れた鍔の端だけが舞い落ちる。名なしが片膝ついた姿勢で剣を往復させた。残っていたブラックソードの足を切断すべく、向かった刃は壁を裂いただけだ。腰と右足が見えない空間へ消え、左足だけが跳躍して躱したのだ。

 三位の髑髏顔・流転は床に胡坐をかいていた。上向けた右掌に小さな炎が浮かび、左手からは水が滲み出して滴っている。やがて水流が重力を無視して手首を包み始めた。

 神楽鏡影はジグザグの短剣を軽く突き出し、鎌状のナイフをそれより下げた姿勢のまま動かない。二十方向からライトの光を受けて彼の影は分散しているが、そのうち一つだけが妙に長かった。座っている流転へ向かい、影は蝸牛の速度で伸びていく。

 四位のスレンドッホは自分の獲物を定めようと場内を見回した。黒贄とゲンゼラは超高速の打ち合いを開始し、ブラックソードと名なしは異次元の刃を交わしている。神楽と流転は静かなる冷戦に突入していた。スレンドッホの視線が余った大曲に移る。

 向かいの壁際で大曲は短機関銃を置いて座り、ポケットからビーフジャーキーを出して食べ始めていた。

 スレンドッホは見てはいけないものを見てしまったような気まずい顔で目を逸らし、別の標的を選んで走り出した。微動だにせぬ神楽鏡影へ。

 突如出現した腕が黒い剣を横殴りに振った。勢いのついていたスレンドッホは避けきれず、首筋でガギンと硬い音が響く。

「痛えな」

 スレンドッホが頬から刃を覗かせ笑う。剣がめり込んだのはほんの三センチだった。皮膚を新たに裂いて鋏が生え、黒い刃を押し返した。彼は体内に幾つも刃物を仕込んでいるらしい。鋏の交差部分に黒い剣が食い込んでいる。

「そのまま掴んでろっ」

 名なしが怒鳴りながら長剣を伸ばす。ビュオォンと風鳴りをさせてしなやかな刃がブラックソードの右腕を襲う。黒い剣を握ったまま前腕だけが空気に溶け、名なしの長剣が素通りした。スレンドッホが両手で黒い剣を掴もうとする。彼の全ての指から皮膚を破って刃が生えていた。十本の刃が掴む前に黒い剣は引き抜かれ消える。スレンドッホの腹部で金属のぶつかり合う音。

「こいつっ体の中にっ」

 脇腹から黒い剣が切っ先を現してすぐ引き込まれた。後を追うように鉤爪状の刃が生えるが間に合わない。

 内臓を損傷したのかスレンドッホが脇腹を押さえながら走る。その先はやはり神楽だった。避けぬ神楽へスレンドッホの右掌から両刃の剣が伸びて袈裟に斬り込む。刃が触れた瞬間、神楽の姿が一枚の黒い布になって落ちた。愕然としながらもすぐ跳躍して離れるのは歴戦による条件反射か。

 神楽の一際長い影だけが鋼鉄の床に残っていた。流転の髑髏顔が右手の炎に息を吹きかける。ガス燃料を吹き込まれたように炎が巨大な帯となって床を舐めていく。長い影が転がり避けながら厚みを得て神楽の本体に変わった。鎌状のナイフを投げつけるが、流転の左手に巻いていた水流が拡大し壁となって防いだ。水流に呑み込まれたナイフが一巡りして神楽へ飛ばされる。回転して迫るナイフを神楽があっさり左手で受け取り、すぐ目を細めてナイフを落とした。黒い手袋が肉ごと溶け始めている。流転の操る水は腐蝕性らしい。

「ポッペンパラニョ」

 怒涛の歓声に黒贄の奇声が混じる。黒贄は右手のマイナスドライバーと左手の道路標識を交互に繰り出し続けていた。駆け引きなど何もない機械的な攻撃を、小男ゲンゼラが全て捌いて強力な打撃を与えていく。黒贄の体がどんどん変形していく。既に潰れた心臓が背中から零れていた。だが圧倒的優位に立つゲンゼラが顔を歪めているのは何故だろうか。少しずつ、彼は後退していた。

「ポッペンパラニョ」

 無意味な奇声を発しながら、黒贄のスピードが更に増していく。風圧で円錐形の帽子が脱げる。

 その時、スレンドッホが黒贄の背後から襲いかかった。右掌から生えた剣が黒贄の背中に刺さり、垂直に切り上げて首筋とバケツを裂いていく。バケツの割れ目から脳漿が滲む。

 黒贄が両腕を上げたままクルリと振り返った。水平の二つの隙間はかなり歪んでいたが、洩れ出た絶対零度の視線がスレンドッホを射竦める。

「カッ」

 躊躇は一瞬だった。スレンドッホの右の蹴りが黒贄の喉元へ飛んだ。裸足の爪先から細い刃が伸びる。ゲンゼラの棍棒に背中を抉られながら黒贄が標識を叩きつける。

「ポッペンパラニョ」

 スレンドッホの刃が三角形の鉄板を突き抜け、足首までめり込んでいた。彼の脛と太股がメチャクチャに曲がり、骨ではなく折れた刃が顔を出している。

「いでええっ」

「ポッペンパラニョ」

 そのままの姿勢で黒贄が半回転する。標識から足が抜けずスレンドッホも引っ張られる。その先にはゲンゼラがいた。

 高速で叩きつけられた仲間の体をゲンゼラは棍棒で打ち返した。スレンドッホの右足が根元からちぎれ、胴は壁に吹っ飛んでいく。間髪入れずに黒贄の右手がマイナスドライバーをゲンゼラの顔面へ突き込んだ。躱しきれずにゲンゼラが左掌で受け、先端が手の甲から抜ける。ゲンゼラはそこで左腕を回しドライバーの軌道を逸らそうとした。

「ポッペンパラニョ」

 軌道は修整されなかった。青い血の絡むドライバーが掌を押してそのままゲンゼラの左目に突き刺さった。

「ぬぐっ」

 ゲンゼラが呻いた。黒贄の怪力は抵抗を許さず、マイナスドライバーが柄元まで抉り込まれる。

「ぬっうっ」

 ゲンゼラが上体を反らすことでドライバーを抜いた。グポンと眼球がついてきた。左手はまだドライバーに貫かれたままだ。

「ポッペンパラニョ」

 黒贄がまたドライバーを押した。ゲンゼラが右手の棍棒で黒贄の右腕を叩く。既に骨は粉砕されており黒贄の力が緩むことはない。ゲンゼラが棍棒を捨てて右手で黒贄の右手首を掴み、ドライバーの接近を止めようとする。

 ドライバーは止まらなかった。じりじりと迫るその先にゲンゼラの右目があった。青い血が絡み眼球の刺さったマイナスドライバーと、見開かれた右目とは十センチを切った。少しでも距離を稼ぐためゲンゼラが一歩下がる。その背が闘技場の壁に当たった。既にそこまで後退していたのだ。ゲンゼラを貫けず折れた棘が数本落ちる。そんな彼の皮膚をJIS規格のマイナスドライバーは貫いたのだった。

 ゲンゼラが必死の形相になった。首をひねって避けようとするがドライバーの先端がついてくる。血が昇ったのか顔色が青くなる。

「ポッペンパラニョ」

 ブ、ジ、ブジュリ、と、マイナスドライバーが右目を破り、根元まで突き込まれていった。破れた左の眼球が柄に押され、破れた右の眼球とくっついた。そこで漸く、黒贄はドライバーをそのままに右手を離した。

 ランキング一位の惨状に、観客の歓声は半ばほどがどよめきへ変わっていた。

「ポッペンパラニョ」

 黒贄が左腕を背中に触れるほどに大きく引き、砕けた骨によるしなやかなスイングで叩きつけた。ひしゃげた足をぶら下げた交通標識がマッハ超えの破裂音を響かせゲンゼラの首へ迫る。ゲンゼラが身を沈めて躱したのは奇跡と言えた。いや右前頭部が少し削れ頭蓋骨の欠片が飛んだ。両手で背後の壁を突き、揃えた両足で黒贄の胴に蹴りを入れる。爪先が破れた腹筋を裂き分け残った内臓を抉る。

「ポッペンパラニョ」

 その足首を黒贄の右手が掴んだ。自分の胴から引き抜くと同時に凄い勢いで床へ叩きつける。ゲンゼラは咄嗟に手を突いて衝撃を緩和した。ベギッと床が凹む。

「ポッペンパラニョ」

 黒贄はゲンゼラを離さず逆向きに振った。ゲンゼラの丸めた背中が鈍器となって床に打ち下ろされる。小男の低い呻き。床には径五十センチ、深さ二十センチのクレーターが残った。ゲンゼラが身を曲げて黒贄の手をほどこうとする。しかしまた黒贄が彼を振り上げた。手を突いて支えたゲンゼラの右肘が妙な音を立てた。折れたのか。

「ポッペンパラニョ」

 黒贄はそれでもゲンゼラの足首を離さなかった。前へ後ろへ無造作に叩きつけるスピードが次第に上がっていく。ゲンゼラの二つの眼窩から青い血が飛ぶ。彼の必死の形相は鼻が潰れていた。

 一方、流転と神楽の攻防バランスは崩れ始めていた。髑髏が息を吹き炎の帯が襲う。その合間を縫った神楽の反撃は水の盾に阻まれる。細いナイフを十数本、更に抜き撃ちで放った拳銃弾も全て吸い込まれた。瞼がなく充血した流転の目は勝利を確信している。

「ガフッ」

 その流転が吐血した。肉のない下顎骨をどす黒い血が伝い落ちる。神楽の懐から漂い出る粉末に流転は気づかなかったのだ。致死量六百ナノグラムの猛毒は風に逆らって流転だけに向かい、彼は炎を伸ばす前の息継ぎで肺一杯に吸い込むこととなったのだ。神楽の動きはそれを悟られぬためだけのフェイントであった。

 しかし流転は下顎骨を自分で掴んで外し、水に覆われた左手を血みどろの口腔へ突っ込んだ。腐蝕性の水は猛毒を洗い流せるか。隙を逃さず神楽が距離を詰める。振り翳したジグザグの短剣が独自の光を発している。

 流転が急いで左手を引き抜いた。ドロドロに溶けた肉と血の混じった息を吐いて右手の炎を伸ばす。読んでいたのか神楽はすぐ後ろへ跳んだ。同時に壁を乗り越えてきた黒い影が流転の背後から飛びかかった。観客の驚きの声。黒ずくめの影はやはり神楽だった。ジグザグの短剣が髑髏の脳天に突き刺さる。ゴリュ、という音をさせて刃が深くめり込んでいく。流転の眼球がメチャクチャに動いた。

 それでも流転の左手が後ろへ向いた。術者自身の血肉で濁った水流があっという間に神楽の全身を包み込む。前に立つ方の神楽が舌打ちした。流転に絡む方の神楽が短剣を抉った。流転の右目が飛び出し脳が溢れるが、神楽の体も溶けていく。服が溶け肉が溶け、流転から離れようと二、三歩よろめくうちに水に覆われた骨だけとなって倒れた。床にぶつかる衝撃で頭蓋骨が外れて転がり、それも溶けて脳が滲み出る。流転の頭に残った短剣も溶けて消えた。

 前に立つ方の神楽も全身を震わせていた。黒衣のあちこちが血で染まり、目からも血が流れ出している。二重身の片割れを失い、存在の半分に相当する大ダメージを負ったのだ。右手から取り落としたジグザグの短剣は床に触れる前に粉々になって散った。

 流転がゆらりと立ち上がった。口腔から黒い血を流し右の眼球を飛び出させ、頭蓋骨に大きな亀裂を開けたまま、一歩一歩、神楽へ歩み寄る。白目部分まで真っ赤になった左目が神楽を見据えている。神楽は膝をつき、震える手でオートマティック拳銃の弾倉を入れ替える。銃声。弾丸は濁った水の盾に吸い込まれる。防ぎきれず右膝が爆ぜるが、流転の歩みは止まらない。この窮地を救う者はいるか。大曲はのんびりジャーキーを食べながら見物しているだけだ。

「糞っ垂れ……」

 憎々しげな神楽の呻き。彼の衣服は自分の血でずぶ濡れになっていた。全弾撃ち尽くし、交換しようとしたスペアの弾倉が彼の手から落ちた。一瞬遅れて流転の首も落ちた。

 ヒュールルルという澄んだ響きは観客の怒声に紛れていた。流転の上の空間にブラックソードの全身が現れて、すぐに次元の穴へ飛び込んでいく。ギリギリのやり取りの中でも彼は戦況を把握していたのだ。名なしの剣が閃き、思い出したように少量の血が落ちた。ブラックソードの何処かに傷を負わせたようだ。

 首の断面から黒い血を零しながら、それでも流転の胴は数歩進んだ。炎も水も消えていたが、ゾンビのように両腕を前に差し上げて……そこへ肉塊が激突し、流転の上半身を四散させた。

「ポッペンパラニョ」

 黒贄が歩きながらゲンゼラを振り回していたのだ。相手の左足首を持って壁に叩きつけ、床に叩きつけ、五百回を超える執拗な打撃によりゲンゼラはゼリーの詰まった皮袋と化していた。既にドライバーは抜け飛び、黒贄が振るたびに頭の傷と眼窩からペースト状になった中身が散っていく。

「ポッペンパラニョ」

 黒贄がふと行為を中断し、右手のものを差し上げてみた。凸凹になったバケツの穴から絶対零度の瞳が対象を観察している。既に内容物の大半が失われ、かつて剛力無双のゲンゼラであった皮袋はしぼんで逆さに垂れ下がるだけだった。いや、残った末梢神経の突発放電か、右手の中指が微かに動いた。

「ポッペンパラニョ」

 黒贄が壁に向かって皮袋を放り投げた。回転しながら飛んだ袋は棘に当たって大きく裂けた。壁に張りつき、残り少ない中身を零しながら、ゲンゼラはずり落ちていった。

「ポッペンパラニョ」

 黒贄が振り向いた。流転の下半身はまだ立ったままその場に残っている。黒贄が左手の標識を振り上げた。

「ポッペンパラニョ」

 真上から叩きつけた標識が、流転の厚みを五センチに圧縮した。

 観客のどよめきは重苦しい静寂に変わっていた。魔王ウーリューフェンはこめかみを押さえたまま不機嫌な顔で見下ろしている。魔人揃いのアルメイル。圧倒的な勝利の筈が、一位のゲンゼラと三位の流転が斃れ、四位のスレンドッホは片足を失い蹲っている。しかも敵チームの一人は悠然とオヤツを食べ続けているのだ。これを屈辱と呼ばずして何と呼ぶのか。

「ポッペンパラニョ」

 黒贄が新たな犠牲者を求めて動き出した。神楽が黒贄から遠ざかろうと必死に這っている。再生丸が効いてきたのか出血は止まっていた。

「ぐっ」

 七、八メートルほどの距離にいたスレンドッホがなんとか身を起こそうとする。両掌と両手首、両肘、両肩から湾曲した刃が伸びる。

 しかし黒贄は彼の横を過ぎ、フィールドの端で上体を屈めた。そんな姿勢でも変形したバケツは頭に密着して外れない。

 黒贄が拾い上げたのは、青い血の絡んだマイナスドライバーだった。ゲンゼラから抜けていったものだ。

「こいつは都合がいい」

 フィールドの真ん中に立ち、二位の名なしが言った。右頬から左顎まで斜めに刃物傷が走り、唇が裂けているが、名なしの瞳は歓喜に輝いていた。

「味方を気にせず皆殺しに出来る」

 それまで彼が味方を気にしていたかどうか。名なしは長剣を高く差し上げた。さっきまで激しい応酬を続けていたブラックソードは離れた場所で片膝をつき、荒い呼吸を続けている。ヒュールルという笛の音に似た響きはやんでいた。ロングコートの所々が切れて血が滲む。特に左脇腹の傷は深手のようだ。

 名なしがハンマー投げでもするように剣を回し始めた。風切り音と共に遠心力で剣が伸びていく。水平に閃く刃はあっという間にフィールドの三分の二を覆った。神楽が俯せのまま拳銃の弾倉を挿し換え、ブラックソードが深呼吸を繰り返す。異次元を素早く行き来するにはあの澄んだ音色が必要なのか。前を過ぎる刃が近くなってきても大曲は表情を変えずジャーキーをちぎっていた。

「ポッペンパラニョ」

 黒贄がバケツの中から声を発した。歪んだスリットから虚無が名なしを狙う。右手にドライバーを、左手に標識を持って無造作に歩み寄っていく。

 拡大する刃の結界に黒贄が足を踏み入れた。瞬間、刃が黒贄の左脛を切り裂いて行く。傷は脛骨の半ばまで達しただろうが黒贄は平然と次の一歩を進める。既に名なしの刃はフィールドの全域をカバーし、大曲は仕方なく寝転がってジャーキーを食べる。

 今度は金属の打ち合う音。黒贄の持つ止まれの標識に新しい切れ目が出来ている。刃が柔軟な分、斬撃のパワーには欠けるようだ。

「ポッペンパラニョ」

 一秒二十回転の竜巻の中心へ黒贄が近づいていく。左前腕が水平に裂ける。腹部が裂けて潰れた腎臓が零れ出す。膝が裂ける。バケツの前面に新たなスリットが入る。その下の喉が裂けて左右の頚動脈から血が流れ出す。その全てが無意味だった。名なしの顔が絶望と狂気に歪む。

 神楽が伏せたまま拳銃を連射した。黒贄に注意を集中したため余裕がなかったのか、名なしの鎖帷子が数ヶ所爆ぜる。だが四発目の後で刃の風が神楽の指ごと拳銃を割っていった。五発目は暴発だった。

「ポッペンパラニョ」

 体中を切り裂かれながら、黒贄はどんどん近づいてくる。斬り続ける竜巻の大きさが乱れていた。三メートルまで達し、黒贄が両腕を差し上げた。完全なる無防備に黒贄の胸が裂け肘が裂ける。左肘がブラブラになるが標識は離さない。

「ポッペンパラニョ」

 黒贄が二つの凶器を振り下ろした。名なしが大きく横に跳んで避けた。その先の空間から黒い剣が顔を出して待っていた。ヒュルリと短くだが、澄んだ音が聞こえた。名なしが長剣で弾こうとした。

 間に合わなかった。黒い刃が名なしの左側頭部に食い込んでいき、サークレットを割り、右の小鼻を含めた顔の上半分を切り飛ばした。脳と上顎洞、鼻腔の断面が見えた。側頭葉の一部と前頭葉を載せた顔半分が、クルクルと回転しながら床を擦っていく。黒い剣は役目を終え、異空間を経てブラックソードの元に引き戻された。ブラックソードが深呼吸の途中で血を吐いた。

 倒れた名なしが手足を痙攣させた。本来の長さに縮んだ剣が波打っている。彼の残った脳に、変形した標識が打ち下ろされた。頭部が完全に潰れ、名なしは動かなくなった。

「後はそいつだけだな」

 大曲がジャーキーをクチャクチャ噛みながら寝たままでスレンドッホを指差した。四位の男は全身から大小四十本近い刃を生やした状態で床に尻をついている。

「ポッペンパラニョ」

 大曲の言葉が届いたかどうかは知らず、黒贄がスレンドッホに向き直る。狩る筈の男が獲物となり、スレンドッホの瞳は死を覚悟した者のそれだった。全ての刃が黒贄へ向けられ、皮膚の下の筋肉が盛り上がる。

 と、スレンドッホが刃の生えた顔で陰惨な笑みを見せた。視線が正面の黒贄から上に向く。

 紫香楽伊織がいる吊られた檻。

「おっ」

 大曲の声。スレンドッホの全ての刃が肉体を抜け、凄いスピードで飛び出した。地上十メートルの檻へ向けて。

 黒贄もまた跳躍した。檻への軌道を遮って両腕を広げ、自らが盾となるように。殺戮をこなすだけの虚無を何が動かしたのか。

 数十本の剣が刃が次々と黒贄の体に突き刺さっていく。数本は標識で払い、届かぬ場所を飛ぶ小さな刃にはマイナスドライバーを投げて打ち落とした。別の二本が黒贄の横をすり抜ける。しかしそれらは檻の手前で黒い剣に弾かれた。

 喉の裂けた首を回し、黒贄が伊織の無事を確認した。落下に移りながら鉄屑になった標識を両手で握る。待ち受けるスレンドッホの口から片刃の長剣が伸びる。最後の武器が一矢報いる可能性を、彼自身も期待していなかっただろう。

「ポッペンパラニョ」

 その通りだった。全体重を怪力に載せて振り下ろされた鉄屑はあっさり刃を折り、スレンドッホの顔面を潰し頭を潰し首を折り胴を縮め腰を砕き鋼鉄の床にめり込んだ。

 スレンドッホの名残りは、両腕と左足だけだった。

 役目を終えた元止まれの交通標識を漸く解放し、黒贄は背筋を伸ばした。

 人口十三億のアルメイルにおいて、魔王を除き最上位に属する四人が、無残な肉塊となって転がっていた。闘技場の静寂は怒りではなく、別の何かを恐れる緊張感に満ちていた。

「お疲れさん。じゃ、帰ろうか」

 そんな空気を知らぬが如く、食べ残しのジャーキーの袋をポケットに仕舞い、大曲が言った。黒贄がフィールドの中央へ戻ってくる。大曲が右手人差し指を伸ばし、片目を閉じて檻の上の鎖を狙う。指先から発せられた熱線が鎖を溶かす。大曲のやった仕事はそれだけだった。檻が落下して伊織が短い悲鳴を上げた。

 伊織と椅子と檻の重量を黒贄の両腕が受け止めた。バケツの横穴から洩れる光に伊織は怯えを見せるが、なんとか言葉を絞り出した。

「あ、ああ、すみません、いえ、あり、ありがとう、ございます」

 黒贄が何も言わず檻を床に下ろす。檻に出入り口は存在しない。ブラックソードがよろめき寄り、黒い剣を振った。鉄棒が切断されて人の通れる隙間が開く。伊織が身を屈めながら外に出た。ドレスの裾が鉄棒の断端に引っ掛かって少し破れた。

 その時、殺人鬼の素顔を隠すバケツは別の方を向いていた。すり鉢状の観客席、押し黙る魔人達の上で巨大な玉座に腰掛ける魔王、ウーリューフェン。

「いやあ、お見事お見事」

 頬と目元の引き攣りを邪悪な笑みに変え、魔王は言った。一人だけの虚ろな拍手。

「じゃあ、次の相手を出さないとね。新しい四天王は誰かな」

「え」

 理解不能という顔をしたのは伊織だけだった。羽根ペンでランキング帳を書き直していた一つ目の記録係がページを戻して読み上げる。

「サルパカ、ヴァルヴォルク、ヘイレン……」

「ちょっと待った。四人殺せば放免じゃなかったのかい」

 大曲が気怠く形式的な問いを投げる。魔王は人差し指を立てて左右に振った。

「四天王を倒せばという意味さ。残念だね、四天王はランキングの上位四人のことだから、常に更新されるんだ」

「つまり、アルメイルの住民を皆殺しにしろってことか。そいつは気の毒なこったな」

 殺人鬼はまだバケツをかぶっている。脱ぐのはこの世界を滅ぼした後になるのか。

 ブラックソードが疲労の濃い掠れ声で辛辣な言葉を吐き出した。

「腐っても故郷だと、そう思っておった。だが、アルメイルの支配者とはこの程度の器であったか。幻滅したぞ」

「そうかい。じゃあやめようか」

 あっけなく魔王は言った。暗黒の瞳で凶暴に歯を剥いて。

「ルール変更だ。君達五人対観客全員のチーム戦にしよう。五対十五万、面白い勝負になりそうだろ。よーし、皆、こいつらよそ者を八つ裂きにしろ。首を獲った者は順位を上げて野菜を食べさせてやる」

 魔王の命令に観客達は互いの顔を見合わせた。したたかにメリットとリスクを吟味して、先陣を切る馬鹿を待っているようでもあった。

 神楽鏡影がなんとか立ち上がり、口を覆う布を左手で下げ、血の塊を吐き出した後で魔王に言った。

「やってみろ。クズ」

「殺せっ」

 魔王の二重の声はヒステリックな響きを帯びていた。弾かれたように観客のほぼ全員が立ち上がった。どんどん壁を乗り越えて径五十メートルのフィールドに殺到してくる。無数の刃や鈍器や牙やあらゆる武器を備えた十五万の敵にどうやって対応するのか。

「ポッペンパラニョ」

 バケツをかぶった黒贄が素手で迎撃した。超速の拳に頭を打ち抜かれ手刀に首を刎ねられ三秒で数十人が死体へと変わる。正面から掴みかかった大男が黒贄の蹴りで胴を破られ内臓を散らして後続の数人を潰す。しかし黒贄も八方から攻撃を受けていた。裂けていた胴の肉が更にすだれ状となり何十本もの剣と槍が残り僅かな内臓を削り取る。胴に刃が詰まったまま黒贄は敵を殺し続ける。やがて圧倒的多数の敵に囲まれて姿が見えなくなり、奇声も肉の壁に遮られて聞こえなくなった。戦術も技もなく次々と他の参加者の背に乗って肉の山が積み重なっていく。ドサクサに紛れランクアップの機会とばかりに仲間の背を刺す者もいた。既に千人以上が山に加わり、内部はもうどうなっているのか分からなくなった。

「満員電車は嫌いなんだよ」

 誰に言っているつもりなのか、大曲が漸く発砲を始めた。短機関銃で撃ち出された炸裂弾の連打が敵をぶち倒していく。まともに当たったのは数発だけで、魔人達はすぐに跳躍したり伏せたりして弾を避けるようになったがみっしり詰まった後続に命中して肉が爆ぜる。すぐに弾は尽き、ドラム弾倉を交換しようとした大曲にブーメランが飛んだ。それを黒い剣が叩き落す。これだけの人数を相手にしては異次元移動も無意味だろう、ブラックソードは全身の揃った状態で剣を振っていた。いつしか黒贄以外は伊織を守るように固まっていた。野菜に飢えた魔人達が首を狩るべく押し寄せる。神楽が左手の指先から流れる血で四人を囲む円を描いた。

「この輪から出るな。指一本でも出ると溶けて死ぬぞ」

 仲間達に告げ、懐から小さなガラス瓶を取り出した。蓋の中心には針がやっと通るほどの穴が開いている。神楽は蓋を開けずにそのまま円の外へ投げた。瓶が割れて中の黒い粉末が風に巻かれ拡散していく。最前列にいた魔人達の皮膚がどす黒く変わり溶け始めた。たたらを踏んだ後続も上体を屈めて咳を始め、それはすぐ黒い喀血に変わる。

「『無空』と呼ばれる猛毒だ。成分が自己複製するから危な過ぎて普通は液体でしか使わない。この一帯が死の沼に変わるぞ。気流を操作して円に入れないが、集中力が途切れたら俺達も腐れ死ぬ」

 薀蓄を語る神楽は最終殺戮兵器に自信を持っていたのだろう。流転に用いたのはごく微量だったらしく、溶解する疫病は瞬く間に数千人を黒い泥に浸していった。観客達が距離を取る。客席の端から外へ逃げ出す者も僅かながらいた。

「むっ」

 神楽が唸った。腐液で出来た沼を囲んで幾つもの火の玉が浮かんだのだ。次第に数が増えて二十数個となった炎は等間隔で並び、その外側にいる者達には毒の被害が及んでいない。

「流石にアルメイルだな。誰かが結界を張りやがった。術者が何処にいるのか掴めん」

 神楽の声には賞賛と憎悪が同居していた。毒を含む風は炎が作った結界の内部だけを巡り、魔人達は中に入ろうとしない。さっきの倍くらいになった黒贄の山は幸いと言うべきか毒沼の外にあった。どうせ神楽は黒贄の安全など考えていなかったろう。魔人達は結界の外から武器を投げ始めた。次々飛んでくる刃をブラックソードが防ぐ。大曲が短機関銃を撃つ。四人を囲む小さな円と炎の結界の間で、ドロドロの黒い沼に骨だけとなった死体が転がっている。一つ目の記録係はギョロギョロと死傷者を確認しながら猛スピードでランキング帳を書き直している。

 腐液の沼に動く者がいた。肉が流れ落ちたが金属の光沢を持つ太い骨格が立ち上がる。骨格だけで生きていけるのか、骨格の内部に独自のシステムを持っているのか。骨だけの男は落ちていた剣と金棒を拾い上げ、四人の方へ歩いてくる。炎の結界の中へ入る者も数人。全身をビニール状の物質で覆った者や、体が平面で生物とは思えない者。気密性を過信したのか甲冑の男が足を踏み入れたが途中でよろめきながら逃げ帰り、感染を恐れた他の者達に棍棒で突き戻された。

「一斉射撃の準備をしておる」

 ブラックソードの警告。弓や弩や投げ槍、マスケット銃らしき筒などを持つ者達が結界の傍に集まってきている。四人は小さな円から出られないため格好の標的だ。

「なんとかならねえか」

 撃ち尽くした短機関銃を置いて大曲が問う。義足に内蔵された小型ミサイルが曲げた右膝から滑り出し射手達を吹き飛ばす。六発撃って二発は槍に叩き落されたが合計二十人くらいは爆死させただろう。そしてミサイルは尽きた。

「すみません、何も出来なくて」

 三人の間にいるドレスの伊織に大曲が気休めの言葉を投げる。

「気にすんな。しゃがんで的を小さくしてろ」

「わしは別次元に退避出来るが、生身の人間を連れていくのは無理だ」

 ブラックソードは右腕だけを飛ばして壁際にいた射手の首を刎ねるが、飛び道具の攻撃も続いているため応戦主体になっている。

「長く持たせる必要はねえんだが」

 黒贄の山を横目に大曲が右手人差し指を伸ばして魔人達の列へ向けた。一秒二千五百円の熱線が射手達の体を切断していく。甲冑や盾も溶かす熱線はしかし十五秒ほどで途切れた。燃料が尽きたのだ。

 魔王ウーリューフェンは玉座から動かず、薄い冷笑を浮かべ暗黒の瞳で四人を見下ろしていた。

「伏せろっ」

 神楽の叫びに風鳴りが重なった。数百の矢と槍とナイフとその他の飛び道具が全方向から一斉に襲ったのだ。ブラックソードが黒い剣で薙ぎ払い、矢の一本は左手で掴んで止めた。神楽が両手にクナイを持ち低い姿勢で飛び道具を払うが、まだ動きが戻っていないのと数の多さに矢を何本か食らっていた。ブラックソードの太股にも槍が刺さっている。異次元に退避しなかったのは守るべきものがあるためだ。

「大丈夫か」

 大曲が伊織に聞いた。彼は伊織を押し倒す形で覆いかぶさっていた。

「は、はい。多分」

 大曲の下で、苦痛を隠すためか眉根に微妙な皺を寄せ伊織が答えた。左肩にナイフが刺さっている。出血は少量ですぐ止まる。

「再生丸の効果にも限界がある。最低でも脳と心臓は守れ」

 神楽が言う。イベント開始前に神楽と伊織は再生丸を飲んでいる。

「ええ、でも、署長さんは……」

「俺も飲めりゃ良かったんだがな。体の半分が機械だから仕方ねえ」

 大曲の背中に矢が七本、ナイフが一本刺さっていた。投げ槍は右肩を貫いて伊織の顔の横に突き立っている。肩の傷は血ではなく火花を散らしていた。矢も右側に刺さった二本は出血していない。

「配線が切れたみたいだな。右手が動かねえ」

「大丈夫ですか。私を気にしないで、自分の身を守った方が……」

「いつもはそうするんだが、ちょっと気紛れを起こしてみた」

 大曲は苦笑した。第二撃が来た。再び数百本の一斉射撃。殆どの狙いは正確で、ブラックソードと神楽が弾いても焼け石に水だ。神楽に刺さった矢は十数本、ブラックソードの負傷はそれより少ない。針鼠にならないだけでも彼らの技量は超絶的と言えた。

「対戦車ミサイルよりは、楽なもんだ」

 大曲が言った。その背に何十本という矢が刺さっている。スーツに血の染みが広がっていく。生身の左足にもトマホークが深く食い込みちぎれそうになっている。

「あ、あの、あまり喋らない方が……」

 伊織は泣きそうな顔になっていた。大曲は構わず続ける。いつもは死んだ魚のような瞳が、珍しく意志の光を宿していた。

「ヤクザが大通りで暴れててな。トラックの荷台から拳銃やら機関銃やら撃ちまくって、まあ自分達の力を見せつける、デモンストレーションって訳だ。通行人は散り散りに逃げてたな。俺が駆けつけたのは市民を守ろうってより、奴らを殺して手柄を上げてやろうって気持ちの方が強かった。そこに対戦車ミサイルが飛んできた。先に若い女がいた」

 大曲は横を向いて血を吐いた。それでも湿った声で話を続ける。

「髪の長い、美人だったな。それで俺は、女を突き飛ばして自分が的になった。爆発で吹っ飛んで、世界が真っ白になった。その一瞬に、凄えスピードで考えが回ってた。俺は彼女の命の恩人だ。きっと感謝される。病院にも見舞いに来てくれるだろう。それが恋の始まりだ。結婚もして子供が成長した時に、出会いのきっかけを俺は誇らしげに語るだろう。俺はママを命懸けで守ったんだぞ、ってな。全く、ゲフッ、一瞬の、勝手な妄想だ」

 第三撃が来た。更に数十本の矢が大曲に刺さる。伊織の手足にも矢は刺さったが頭部と胴は守られている。

 大曲の目が裏返りかけ、ゆっくり元の位置に戻った。瞳にあるのは肉体ではなく心の痛みか。大曲の血でドレスが染まり、伊織はもう声を出せない。

「大丈夫か」

 振り向かずブラックソードが聞いた。弱々しい声で、大曲は返事ではなく自分の話を続けた。

「俺は、ぶっ倒れてた。顔を上げて、女の方を見た。……吹っ飛んだ俺の右腕が、頭に突き刺さってた。綺麗な顔も破裂して、脳味噌も零れてグチャグチャさ。俺が手を出さなけりゃ、もしかして、助かったのかもな。いや、今となっちゃあ、分からねえが、多分、もっとうまく、やれた筈だ。そうしたら、俺の人生も……。まあ、あなたの頭は、守ってやるよ。悪いな、ドレスは、汚しちまった、が」

 伊織は目に涙を溜めていた。黙って首を振った時に涙が目尻から溢れて落ちた。大曲の呼吸が弱くなっている。

 第四撃が来ない。魔人達のサディスティックな歓声が、またどよめきに変わっていた。

「なるほど」

 ブラックソードが呟いた。

 三千人近くが積み重なった巨大な肉山が、床から持ち上がっていた。手足が複雑に絡み合っているためか麓部分も崩れず完全に浮いている。男達の苦鳴と、骨と肉が軋み潰れる音。

 汚れたスニーカーを履く二本の足が、巨大な山を支えていた。山が更に持ち上がった。足の上に胴が現れた。内臓がほぼ空になり、残った筋肉が背骨に絡みつき、かつては礼服だった襤褸きれがぶら下がっている。骨盤から剣の柄が顔を出している。切っ先は右の太股から生えていた。

 肉の山が飛んだ。二百トン以上の質量が一直線に観客席まで飛び魔人達を押し潰した。山が爆発した。手足のちぎれた男達が四散する。鉄製の座席が皆ねじ曲がった。バラバラと崩れていく山の中心部は何が何やら判別のつかない肉塊となっていた。

「ポッペンパラニョ」

 二百トンの肉山を投げつけた男は両腕を前に上げたままフィールドに立っていた。左上腕は肉が削げ落ちて骨が露出し、やや右に傾いた首筋には何本もの刃が突き立ってパックリと裂けた断面が覗いていた。バケツの角が潰れ、おそらく左頭頂部は陥没しているだろう。前面の縁がコンビーフの缶みたいにめくれ巻き上がり、ズタズタになった顔が鼻辺りまで見えていた。

 黒贄礼太郎は左手でめくれた部分を伸ばし、素顔を塞いだ。目の部分のスリットが変形して広がり、二つの瞳が覗いている。空気も凍りつく虚無の瞳。アルメイルの魔人達は攻撃をやめて立ち竦む。

「ポッペンパラニョ」

 気の抜けた声が妙に良く響いた。魔人達が身じろぎもせずに見守る中、黒贄が右手を前に出し、幽霊のようにクイ、クイ、と手招きした。

 バケツ越しの視線は、玉座のウーリューフェンへ向かっていた。

「僕を誘ってるのか」

 魔王の顔が歪んでいた。右目が細められ、左目は一杯に開かれている。唇の左端だけが吊り上がりヒクヒクと痙攣していた。魔王の中で渦巻くのは怒りなのか恐怖なのか、それとも歓喜なのか。

「お前如きが、この僕とタイマンを張りたいって言うのかい。順番が違うだろ」

 黒贄は頷きもせず首を振ることもなく、黙って魔王を見据えていた。多少減ったもののまだ十四万以上いる戦士達が、期待を込めて魔王を見上げている。魔王の返事次第では軽侮に転じかねない視線。

 魔王の手が上がりかけ、途中でそれを下ろした。表情を消して彼は言った。

「いいだろう。身の程を教えてやるよ」

 魔王ウーリューフェンが立ち上がった。観客に戻った十四万が歓声と拍手を送る。

「漸く型に嵌まったか」

 神楽がその場に尻餅をついた。刺さった矢を左手で抜きながら右手は懐から口紅ほどの大きさの金属容器を出す。蓋を開けて円の外に垂らしたのは粘性のある黄色の液体だった。床に落ちるとすぐに気化して煙を上げる。

「『無空』を失活させる。空気中の成分も消すまで五分ほどかかる筈だ」

 黒贄と魔王の一騎討ちとなり自分達が攻撃されることはなくなったと判断したようだ。溶け広がっていた死体の沼が少しずつ深みを失っていった。乾いた床が見えてくる。

「あの、署長さんが……」

 伊織が身を起こしたが大曲は力なくずり落ちるだけだ。半開きの虚ろな目は動かない。

「死んでも気にするな。と、大曲なら言うだろうな」

 神楽が言うと、大曲の唇が微かに動いた。

「気にしろ、だそうだ。矢は抜かずそのまま寝かせておけ」

 神楽は訂正した。伊織は両手で大曲の左手を握った。

 ブラックソードは体を貫く矢を放置して、ナイフの刺さった鍔広帽が黒贄と魔王の方を向いていた。自分のダメージより興味のあることがそこにあるというように。

 玉座からフィールドまで、魔人達が道を空けた。見えない力によって客席が潰れ、鉄の階段が出来る。ウーリューフェンの白い靴が硬い音をさせ、動きは必要以上に優雅だった。斜めのハンチング帽もその上の王冠も揺るがない。魔王の暗黒の瞳と向き合うのは黒贄の虚無の瞳。

 魔王は跳躍して壁を越え、ふわりとフィールドに降り立った。

「じゃあ、始めようか」

 魔王が言った。

 黒贄は無言で進み出した。魔王はまだ構えもしない。黒贄は素手のままだ。魔王の見えない力にどうやって対抗するのか。

 バケツの隙間から覗く黒贄の瞳が、魔王の後方を見ていた。

「あれっ」

 魔王が驚いて脇へどいた。黒贄は悠然と魔王の傍らを過ぎ、三メートルの壁をよじ登る。

「ど、何処へ行く」

 黒贄が階段を上っていく。その先には魔王の玉座が残っていた。幅三メートル、高さ六メートルの黒い玉座。座面にクッションはなく奥行きは普通の人間に合わせた長さになっている。座面の下は脚ではなく一体化した塊だ。椅子全体が、木製か鉱物かは不明だが高硬度の物質を削り出したものだった。背もたれの形状が燃え盛る炎を模し、五つある先端は鋭く研ぎ澄まされている。

「おいっ」

 魔王が怒鳴った。魔王と観客が思ったのは、黒贄が勝手に玉座に腰掛けるのではないかということであったろう。

 腰掛けるのではなかった。黒贄は玉座の右側面に回り、右手で座面を左手で背もたれを掴んだ。指がめり込んで硬い欠片が散った。

 黒贄が新しい凶器に選んだのは魔王の玉座であったのだ。彼は軽々と玉座を持ち上げ、色を失う観客の前で漸く奇声を洩らした。

「ポッペンパラニョ」

「こ、このっ」

 魔王は黒贄が下りてくるのを待たず、右手を黒贄へ向けた。ドゥズン、と重い音がして黒贄と玉座が揺れた。スニーカーが床にめり込み、すり鉢の客席がたわむ。

 しかし黒贄も玉座も潰れなかった。

「ポッペンパラニョ」

 高々と玉座を抱えて黒贄が階段を下りてくる。

「カアッ」

 鬼の形相で魔王が叫ぶ。見えない力の連打が黒贄を襲う。客席が凹んでいくが黒贄は潰れない。硬い玉座が盾となり、黒贄の筋力が衝撃を受け止めているのだ。パラパラと玉座の欠片が落ちる。

「ポッペンパラニョ」

 玉座の下から黒贄の瞳が覗いている。魔王の顔に焦りが浮かぶ。本人は動かぬまま、見えない力が風を切る。

「ポッペンパラニョ」

 黒贄が突然玉座の背もたれを傾け大きく振った。肉の裂ける凄い音が空中で聞こえた。

「ぐあっ、うううっ」

 魔王が身を屈めた。本人は傷を負っていないのに苦痛に顔を歪めている。観客が空を指差し声を上げた。

 何もない筈の宙から赤い液体が滴っていた。人間の血液より色が薄く半透明だが、斜めに引かれた赤い線からナイアガラのように降ってくる。まるで、見えない肉が傷ついたかのように。玉座の背もたれに赤い液体がついていた。

「うう、痛い。痛いいい」

 赤い滝が遠ざかっていく。魔王の斜め上、六、七メートルほどの高さに。勢いは弱まったが出血が止まらない。

「ポッペンパラニョ」

 魔王が唸っている間に玉座を抱えた黒贄が壁を越えフィールドに着地した。魔王が顔を上げて歯を剥き出す。

「くわっ」

 赤い滝はそのままに見えない力が飛んだ。黒贄がまた玉座を振る。ズギュバッ、とまた派手な音がして血飛沫が散った。飛沫は二つに分かれ片方が客席に転げ込んだ。十人近くが潰れ、倒れた男が助けを求めている。彼の胴に見えない質量が乗っているのだ。近くの観客が手を伸ばして何かに触れている。

「見えているのは魔王の一部に過ぎない」

 神楽鏡影が説明した。

「魔王の透明部分は身長十二メートルの巨人だ。昨日会ってすぐに分かった。食堂では窮屈そうにしていたよ」

 頭巾の下で神楽は含み笑いしているようだった。

「痛いいぃ、手が……」

 魔王の見かけ上の両手は健在だ。しかめた顔が異様な皺の寄り方をしている。あるべき表情筋を無視して、全ての皺の片端が顔の中心に向かっているような。そのため目も吊り上がっていた。

「ポッペンパラニョ」

 黒贄がゆらりゆらりと歩み寄る。大上段に持ち上げた玉座を魔王に叩き下ろそうとした瞬間、黒贄の体は玉座ごと後方へ吹き飛ばされていた。壁に激突した胴に鋼鉄の棘が突き刺さる。残り少ない骨の悲鳴。

 それでも黒贄は玉座を離さなかった。

「ポッペンパラニョ」

 肺はなくても奇声は出てくる。黒贄は壁に張りつけられたまま玉座を目の前に振り下ろした。ジョギュゴリッ、と巨大な肉と骨がまとめて断たれる音。多量の血が客席を汚した。

「いだあああっ」

 魔王が膝をついて苦悶する。黒贄が血みどろの玉座を持ち上げる。ヌヂッ、と見えない肉から引き剥がされる音。新しい血が噴き出す。

「ポッペンパラニョ」

 黒贄がまた玉座を振り下ろした。炎の形が見えない肉を裂いていく。返り血がバケツにかかり目元の隙間に入り込む。眼球に血が触れても黒贄は瞬きをしない。

 黒贄の体がまた揺れた。壁が大きく凹んで客席がねじ曲がり、玉座が縦に真っ二つに割れた。黒贄は左右の手に一つずつ持ち、また振り下ろす。血が撥ねる。

「ポッペンパラニョ」

 長さ六メートルの凶器を黒贄は交互に振り続けた。そのたびに見えない空間から血が飛び散り、魔王の苦鳴は強くなっていた。黙って見守る観客の顔に浮かぶのは、絶対的な殺人鬼に対する畏怖と、自分より上の者が一人減ることについての歓喜。いや、単に殺戮を見るのが嬉しいだけかも知れない。

「ポッペンパラニョ」

 地響きがした。血溜まりの撥ね具合から、魔王と黒贄の間に透明な巨人が倒れたらしい。

「こ……こんな奴に」

 血のナイアガラが黒贄の頭上へ動いた。グギリッ、と黒贄の頭部が胴体に沈みかけ、ちぎれそうなほどにねじくれる。

「僕は魔王だ、魔王が負ける筈は」

 バケツが押し縮められていく。隙間から片方の眼球が飛び出し、更にドロドロと脳がはみ出してくる。

「ポッペンパラニョ」

 黒贄の両腕が動いた。二つに分かれた玉座を挟み合わせるように頭上へ。血の滝が転げ落ち、空中から噴き出す血に染められてその輪郭が見えてきた。一メートルを超える大きさの右手首。

「ポッペンパラニョ」

 二つの玉座の立てる音は、次第に潰れた肉を叩くようなものに変わっていた。見える方の魔王は床に手をついて、ひしゃげた息を吐いている。

 殺人鬼と魔王の闘い、或いは一方的な破壊行為を、神楽鏡影は冷たく冴えた眼差しで見守っていた。ブラックソードは右手に黒い剣を下げたまま動かない。彼はこの勝負をどう思っているのだろうか。紫香楽伊織はしばしば大曲源の呼吸を確かめるために耳を近づけていた。大曲の首は強化プラスチックを人工皮膚で覆ったもののため頚動脈を触れることは出来ない。

「ポッペンパラニョ」

 黒贄は二つの玉座を大上段から床まで振り下ろし、左右に分け広げた。血糊でうっすらと見える巨人の輪郭は、既に数十個に分かれた肉塊に過ぎなかった。

 倒れ伏す魔王のすぐ前に、黒贄は立っていた。転がり落ちた王冠が血溜まりに浸っている。既に幾多の血を吸ってきた王冠だ、多少追加があったところでどうということもないだろう。

「はは……分かってたよ。本当は……。偽物だ。全て、偽物だった。必死に本物の真似をしても、所詮は……」

 二重だった魔王の声は高いものだけが残っていた。だが今はそれも喉に何かが絡んだように湿っていた。皺が深くなり顔全体が細くなっている。瞳の暗黒から液体が流れ出している。どす黒い血液。

「ポッペンパラニョ」

 黒贄のコメントはそれだけだ。縮小したバケツの隙間で、眼窩からせり出し充血した右目が見下ろしていた。

「魔王は、勇者に倒される運命なんだ……ストーリーは、ちゃんと分かってるさ。はは、そうだ……君が勇者……」

「ポッペンパラニョ」

 黒贄が玉座の右半分を縦に振り下ろした。背もたれの片端が鋼鉄の床にめり込んだ。

 魔王の脳天から臀部までが二つに割れていた。黒い血が流れ出し、白いスーツを着た魔王の体が少しずつしぼんでいく。

「ポッペンパラニョ」

 黒贄は玉座の右半分を持ち上げ、今度は左半分を背もたれを打撃面にして叩き下ろした。ベチュッ、と黒い血がはみ出した。

 持ち上げると、床には潰れた芋虫のような魔王の左半身が張りついていた。

 玉座の左半分に、右半身が張りついていた。黒い血が背もたれを流れ落ち、粘性の雫が床に滴った。

 アルメイルの魔王・ウーリューフェンは死んだ。在位は六十七日であった。

「おみごとです」

 重い沈黙を破り、客席からフィールドに飛び下りた男がたどたどしく告げた。がさついた掌を打ち合わせて拍手する。

 赤毛で顔を覆ったひょろ長い男はエフトル・ラッハートであった。

「あるめいるのあたらしいまおう、くらにれいたろうのたんじょうです」

 エフトルは高らかに宣言した。大目玉の記録係は数瞬固まった後、ランキング帳の最初のページを書き直し始めた。

 客席から、パラパラと拍手がついてきた。次第に数が増え、やがて十四万の拍手が大きな渦を巻き、歓声が赤い世界を覆い尽くした。時計塔の鐘が乱打されるが怒涛の拍手と歓声に紛れ聞こえない。

 賞賛と畏敬を浴びながら、黒贄礼太郎は二つに割れた玉座を両手に立っていた。そのまま観客を襲い始めてもおかしくない虚無をまといつかせて。

 黒贄が二つの凶器を放り捨て、漸く神楽が安堵の息をついた。

 

 

  三

 

 主の替わった魔王城。その地下への薄暗い階段を、紫香楽伊織が慎重に下りていく。数ヶ所に受けた矢傷は神楽に予め貰っていた再生丸のお陰で跡形もない。彼女の前を行くのはバケツを脱いだ黒贄礼太郎だ。闘技場での殺戮から二時間も経っていないのに彼はいつもの着古した礼服と左右不揃いの髪型に戻っていた。勿論、伊織がそんなことに言及することはない。彼女の瞳の中で今、不安と憎悪の影が揺れていた。

 大曲源はアルメイルの治療師によってケアを受けている。機械部分は元の世界で修理を受けなければならないが、取り敢えず命に別状はない。神楽鏡影とブラックソードは独りで静かに傷を癒している。

 ランタンを掲げて階段を先導するのは犬の飼育係だった。白い布を頭から全身までかぶっており、目と口の部分だけに穴を開けている。魔王城の地下で飼うペットを、彼らは『犬』と呼んでいた。おそらくは何か勘違いしているのだろう。

 その犬の様子が朝からおかしいと、飼育係が報告してきたのだった。

「いつもは日に三十人ほど食べるだけで大人しいのですが」

 布越しのくぐもった声で飼育係は言った。

 曲がりくねった階段の先に鋼鉄の扉が見える。『犬小屋』……飼育室に着いたらしい。歴代の魔王が好き勝手に配下を落とし続けた場所。

 飼育係が大型の南京錠を外した。扉の奥から何やらブツブツと声らしきものが聞こえてくる。

「意味、真実、本質、人生、真実、意味、世界、本質、人生、意味、世界、真実、本質……」

 伊織の体に震えが走った。黒贄が振り向いて、彼女に聞いた。

「開けますが、よろしいですか。それとも、私だけで入って確かめてきましょうか」

「……大丈夫です。開けて下さい」

 伊織は答えた。

 飼育係が扉を開けた。錆びた蝶番の重い軋みと共に地下室の明かりが洩れてくる。三人は足を踏み入れた。

 四、五十メートル四方はありそうな部屋の大部分は、訳の分からないグネグネとしたもので満ちたプールだった。

 前衛画家が濃い絵の具をでたらめに塗りたくったような、極彩色の塊がアメーバみたいに蠢いていた。部分部分が時折獣の顔になったり人間の腕になったりしてはまた溶け戻る。臓物らしきものも見え隠れしている。

 粘塊の中心に一際大きな顔が浮かび留まっていた。一メートルほどもある端正な顔が虚空を睨み真剣な表情で呟いている。

「本質、真実、意味、世界、人生、本質、人生、意味、世界、真実、おや、ようこそ紫香楽さん。そういえば今月の給料がまだだったね」

 三人に気づいて顔が微笑んだ。ただし目は笑っておらず、全く瞬きをせずに真っ直ぐ伊織を見据えていた。

 サイズは違うが、マッド・フィロソファー正木政治、通称マサマサの顔であった。

「死……死んだのでは」

 伊織がなんとかそれだけ言った。

 大真面目な表情で正木は応じた。

「それは死の定義によるな。人は死ぬと喋らなくなるが、私は喋っている。ということは死んでいないとも言える」

 同じ声が二重に聞こえた。プールの右端に五十センチほどの顔がある。それもまた正木だった。同じ表情で同じことを喋る。

「私は落とし穴に落とされ、待ち受けていたこの不定形の怪物に食べられた。無数の口に肉を食いちぎられ骨を噛み砕かれ飲み込まれ消化され私の体はこの怪物の一部となった。しかし私はずっと考えていた。私の体は消化されたが、それでも私は私だ。その変わらぬ本質とは何なのだろうと。生と死の違いは何なのか、一体生きるとはどういうことなのか、食べられるとはどういうことなのか。食べられる際に私は痛みを感じたが、その痛みの意味は何であろうか。考えているうちに、いつの間にか私はこの怪物になっていた。いや、怪物が私になったのか。それとも私の意志が怪物を動かしているだけで別々の存在であるのか。そもそも意志とは何なのか。分からない。分からないことばかりだ。私は答えを知りたい。紫香楽伊織さん、君を助けたのもそのためだ」

「えっ」

 伊織は震え出した。何処までも真剣な正木の視線。彼は何を言い出そうとしているのか。

 三つに増えた正木の顔があっさり告げた。

「君を抹殺するように手配したのは私だが、警官を介してメッセージを伝えたのも私の指示だ。『警察はマサマサの手先だ。あなたを抹殺しようとしている』」

「な……。ど、どうして……」

 七つの正木が答えた。巨大アメーバの蠢動は一定のリズムを保ち、次々に正木の顔が浮き上がってくる。

「答えを知りたかったからだ。君に警告することで何が起きるのか、それを見極めたかった。この世界に呼ばれて私がこんな姿となったのは予想を超えた結果であり非常に興味深い。だが、この結果にどんな意味があるのか。私には分からない。何が何だかさっぱり分からないのだ。私は知りたい。一体これに意味はあるのか。意味とは何なのか。生きるとは何なのか。人は何のために生きるのか。苦痛とは何なのか。分からないことばかりだ。私は真実を知りたいのだ。しかしそもそも真実とは一体何だ。真実、意味、真実、意味」

 唖然としていた伊織の、震えの質が変わっていた。血の気が引いて白かった顔に、今は赤みが差している。彼女は肩を怒らせ、正木の顔をした怪物いや怪物の姿を持つ正木に叫んだ。

「あんたのそんな、そんなことのためにっ、無関係の、私の、私の家族を……このっ悪魔あああっ」

「うむ。悪魔か。君が罵倒に何故悪魔という言葉を選んだのか興味がある。何故鬼ではなく悪魔なのか。化け物という選択肢もある。糞野郎という言葉もある。どうして悪魔なのか、他の言葉とどう違うのか。しかし本質は同じ筈だ。だがそもそも本質とは何なのか。どんな実験も根本的な問いに立ち返ってしまう。意味とは何なのか。意味というものは本当にあるのか。本当とはどんな意味だ。あるとはどういう意味だ。ないとはどういう意味だ。意味とはどういう意味だ。どういうとはどういう意味だ、だ、だだだだだだ。私は真実が知りたい。長い間様々な実験を続けてきたが結局私の知りたい真実は得られなかった。何一つ分かっていない。世界の本質が知りたい。世界とは何なのだ。人生とは何だ。人生の意味とは何だ。世界は何のためにある。意味の意味は一体何だ」

 粘塊のプールを今、正木の顔が埋め尽くしていた。十センチほどの小さなものから三メートルの大きなものまで、全てが真剣に紫香楽伊織を見つめ一斉に問いを発していた。

「意味だ、真実だ、本質だ、世界、真実、人生、意味、本質、世界、真実、人生、意味。分からない。さっぱり分からない。これに意味はあるのか。君達はどうして悩まずに生きていられる。意味を既に知っているのか。私だけが知らないのか。誰か私に教えてくれ。意味だ、意味、意味意味意味意味意味意味」

 小さな顔と顔が融合していくのが見える。同じ台詞を喋りながら顎が繋がり鼻が溶け合い、挟まれた眼球が一つはみ出して粘液に呑まれる。正木の顔が段々少なくなり、それぞれが大きくなっていく。

「意味、本質、意味、本質、人生、世界、真実、分からん、何も分からん。知りたい。私は知りたいのだ。意味を、本質を。一つでもいい。私は真実を知りたいのだ。真実、本質、意味、世界、人生、真実本質意味世界人生本質真実世界意味人生世界本質意味人生真実意味世界真実本質世界人生意味世界本質人生意味世界真実本質意味世界人生意味本質」

 伊織の瞳に宿っていた怒りの炎はいつしか絶望に変わっていた。今それが、憐れみに潤んでいく。

 彼女は正木に尋ねた。

「正木さん。あなたはそれで、そうまでして、幸せなんですか」

「えっ」

 五つにまとまった正木の顔達が、凍りついた。最大のものは十五メートルほどもあったが、どれもが未知の概念に触れたというようにキョトンとした表情になった。

「しあわせ……何だそれは」

 正木の顔達が互いを見合わせた。

「そんなものがあったのか。気づかなかった。また知らねばならないことが出来てしまった。幸せとは何だ。幸せの意味は何だ。幸せの本質とは何だ。何なのだ」

 伊織の目から涙が溢れ出し、止め処なく頬を伝い落ちていく。

「幸せ、意味、本質、人生、世界、真実。分からない。私は何一つ分からないのだ。教えてくれ。幸せとは何だ。教えてくれ。何だ。何なのだ。幸せとは何だ」

「はい、そうです」

 正木の大音声に穏やかな声が応じた。小さな二つが融合しながら正木の顔達がそちらを見た。

 言ったのは黒贄礼太郎だった。彼はいつもの眠たげな瞳に、薄い唇であるかなしかの微笑を浮かべていた。

「君、何か言ったかね」

 正木が聞いた。

「はい、そうです」

 同じ口調で黒贄は答えた。

「私は幸せとは何かと聞いたのだが」

「はい、そうです」

「では改めて聞こう。幸せとは何かね」

「はい、そうです」

「……。君は何を言っている」

「はい、そうです」

「意味が分からない。では意味とは何だ」

「はい、そうです」

「ううむ。真実とは」

「はい、そうです」

「な、ならば世界はどうだ」

「はい、そうです」

「待てよ……。君は私をからかっているのか」

「はい、そうです」

「いやもしかして本気で答えているのかな」

「はい、そうです」

「いや、本気とはそもそも何なのか」

「はい、そうです」

「人生は。人生の意味は分かるのか」

「はい、そうです」

「人は何のために生きている」

「はい、そうです」

「私は。私は一体何のために存在しているのか」

「はい、そうです」

「わ、分かったぞ」

 正木が叫んだ。その時正木の顔はただ一つに融合し、天井に額がぶつかるほどになっていた。真剣な瞳が歓喜に輝いた。

「ないのだ。意味はないのだ。分かったぞ。本質は何もない……」

 急に正木の顔が弾けた。強大な意志力によって繋ぎ合わされていた顔が崩壊し、グズグズのゼリーに戻ってプールに落ちていく。

 やがて、無意味に蠢くだけの極彩色の粘塊となった。たまに内臓らしきものや牙の生えた口が浮かんでは消えるが、正木の顔は二度と現れなかった。

 正木政治は消滅した。

「いやあ、いつもの犬に戻りました」

 飼育係が言った。先端に牙の生えた触手がプールから伸びてくるが飼育係は長靴で蹴り戻す。

「人生に……意味はないのですか」

 涙を拭い、紫香楽伊織が黒贄に聞いた。

「それは自分で決めることですよ。では、帰りましょうか」

 黒贄が優しく言った。

 

 

  四

 

 血液燃料の大型ヴァンが城下町を出発してゲートへ向かう。エフトル・ラッハートの能力を使うより正確に目的地を調節出来るためだ。ヴァンで運ばれるのは昨日と同じ五人だが、昨日と違い内部には絨毯が敷かれていた。

 ヴァンは安定速度に達し揺れは小さくなっている。皆の顔に疲労の色が濃い。

「修理代がなあ」

 動かぬ右腕を押さえ、元々疲れ顔の大曲源が呟く。

 傷は治癒したが自分の体を材料にしたため神楽鏡影は痩せて頬もこけている。黒贄と離れて片隅に胡坐をかく神楽の顔は満足げでもあった。

 紫香楽伊織は普段着に戻っていた。破れを縫い合わせ血の染みを落としたドレスは記念に持ち帰るようにも言われたが彼女は断っている。

 全てが片づいた今も、伊織は何処かすっきりしない様子だったが、ふと左隣に座る男に言った。

「ブラックソードさん、大丈夫ですか、傷……」

「どんな傷もいずれは治る。周波数の合う『狩場』に戻れば安定する筈だ」

 ブラックソードの鍔広帽には戦闘で受けた切れ目が残り、衣服にも血が滲んでいた。アルメイルの治療団を拒絶したのは意地を張ったのではなく、誰にも彼を治療することが出来ないためだった。

「そうですか。……あの、黒贄さんも、大丈夫ですか。さっきからなんだか……」

 遠慮がちに伊織が尋ねる。黒贄礼太郎は壁際で膝を抱えて俯いていた。傍らには無数の凹凸がついたバケツが転がっている。柄は既にない。使ったマスクを持ち帰って部屋に飾るのだと言っていた。

 いつも浮かんでいた面白そうな微笑がなく、昏い瞳は絨毯を見つめながら別の何かを見ているようでもあった。彼はヴァンに乗り込んでから一言も喋っていない。

「ええ、大丈夫ですよ」

 元気なく黒贄は答えた。大曲もちょっと意外そうに黒贄を見る。

「大丈夫です。……ただちょっと、明快な真実に気づいてしまっただけで」

「真実って。あの、正木の……」

 黒贄は膝の上の顔を左右に振った。

「いえ、彼の欲していたような真実ではありません。しかし、私にとっては重要な真実です」

 伊織はそれを問うべきかどうか迷っているようだった。他の者達も黙って黒贄を見ていた。

 黒贄は寂しげな微笑を浮かべ、自分から言った。

「あなたを守り抜いても、彼女が生き返る訳ではなかった。それだけのことです」

 黒贄はまた下を向いた。半端な慰めなどかけることの出来ない雰囲気が今の黒贄にはあった。

「……ごめんなさい」

 伊織もまた俯いて、それだけを言った。

「いえ、あなたが気にすることはないのですよ。私の問題ですから」

 黒贄はまた弱々しく微笑んだ。

 ヴァンの震動が強くなってきた。減速しているようだ。

「そろそろつきますよ」

 赤毛頭に痩身、腰巻一枚のエフトル・ラッハートが言った。

 スパイクつきの車輪のせいでヴァンが激しく揺れ、乗員達もひっくり返りそうになる。やがてそれも止まった。

 エフトルが後部ドアを開けた。一行はヴァンを降りる。併走していたトラックから見送りの戦士達がわらわらと降りてきた。ドサクサ紛れに魔王を狙おうとする者はいない。現魔王の恐ろしさを皆知っているのだ。

「それでは、まおうさま、またのおこしをおまちしております。それまでのせいむについては、そのつどこちらからおうかがいにまいりますので」

 元『狩場』監視官、現魔王補佐官エフトル・ラッハートは黒贄に深々と頭を下げた。

「そうですか。別に魔王などどなたかに譲っちゃってもいいのですがねえ」

「いえ、さいきょうのものがおうのざにつくのです。せいむなどはてきとうでよいのですよ」

 錆の浮く巨大な門が世界を繋ぐゲートだ。眼鏡の調整係がパネルから離れて一礼する。

「目的地は八津崎市警察署前のままとなっております」

「では、げーとをひらいてください。まおうさま、いってらっしゃいませ」

「行ってらっしゃいませえええええ」

 千人近い精鋭が一斉に頭を下げた。挨拶には「野菜野菜」という声も少し混じっていた。

「では、失礼します」

 黒贄は変形したバケツを片手にゲートをくぐった。大曲と伊織が、そして神楽が続く。アルメイルの戦士達が手を振って見送る。ブラックソードはゲートをくぐりかけたが、合わなかったのか数歩下がり、自力で見えない空間へ歩いて消えた。

 紫から黄色に変わるトンネルを一行が抜けると、世界は赤く染まっていた。城下町を照らしていたあのどぎつい光ではなく、西に沈みかけた太陽が作る夕焼け。鋼鉄ではなくコンクリートのビルが並ぶ、警察署が瓦礫の山になっている点を除けばごく平凡な光景。前の道路を車が行き交い、通行人もちらほらと見える。

 四人が広場に到着すると、穴の向こうから「ゲートを閉じます」という声が届き、トンネルが静かに閉じて消えた。

「終わったな」

 大曲が疲れた溜め息を吐いた。

「ならばこちらの用事を進める時だ」

 告げたのはブラックソードだった。四人が振り返った。

 ブラックソードはゲートを使わずこちらの世界に着いていた。彼は両拳を胸の前に上げ、親指側を合わせていた。

 ジシャー、という金属の擦れる音をさせて、黒い剣が姿を現していく。

「そうか。スケルトン・ナイツの件だったな」

 大曲が言うと、黒贄は漸くそれを思い出したような顔になった。

「組織を壊滅させ首領の神羅万将を殺した報復だ。黒贄よ、わしと立ち合え」

 黒贄礼太郎は決闘を申し込んだ男を昏い瞳で見据え、少しの沈黙の後、気のない口調で言った。

「また今度という訳には行きませんかね」

「今が良い。時期を違えればわしの体はこの世界に合わなくなる」

「ちょ……ちょっと待って下さい」

 慌てて二人の間に入ったのは紫香楽伊織だった。

「お二人の事情は私も聞いてますけど、私にとっては二人共、私を助けて下さった恩人です。出来るなら……お二人が殺し合うのは、見たくないんです」

「すまぬ。だがこれは最初から決まっておったことだ」

 ブラックソードが言う。

「で、でも。ブラックソードさんは怪我をしてますし、疲れてるようですし、やっぱり今日というのは……黒贄さんもまた今度って言ってますし」

「どんな状況でも、やるべきことはやらねばならん。結果としてわしが死ぬことになっても、それは本望だ。苦痛に満ちたわしの人生も、意味があったということになる」

「でも……」

 黒贄が数歩進み出て、ブラックソードに言った。

「分かりました。やりましょう。申し訳ありませんが紫香楽さん、下がって頂けますかな」

「でも……でも……」

 もう後は続かなかった。大曲が彼女の肩に左手を置いて言った。

「口出しする権利は俺達にはない。精々、見守るしかねえのさ」

 伊織は救いを求めるように大曲を見た。大曲は首を横に振った。伊織は離れて立つ神楽を見た。神楽も黙って首を横に振った。

「……。そう、ですか……。でも、あの、ちょっと待って下さい。一つだけ」

 伊織は急いで周囲を見回した。広場の端に自動販売機を見つけて駆け寄る。財布から硬貨を出し、ポカリスエットの五百ccペットボトルを選んだ。伊織はそれを持っていき、ブラックソードに差し出した。

「これ、飲んで頂けますか。少しでも疲れが、癒せればと思って。黒贄さんごめんなさい、でもこのままだと、ブラックソードさんがあまりにも……」

 次に来る言葉は『可哀相』であったのだろうか。ブラックソードの尊厳を傷つけることに気づいたらしく、伊織はそこで言葉を打ち切った。

「いえ、いいんですよ。私の方は元気一杯ですから」

 黒贄は言った。少なくとも肉体に関しては正しいようだった。

「すまぬな。折角なので、頂こう」

 ブラックソードがペットボトルを受け取った。

「紫香楽さん、お主はわしに勝ち目がないと思っておるようだが、そうとも限らん。首を切断し全ての関節を切り離した後で燃やし尽くせば、いかに不死身でも復活は出来ぬだろう」

「さて、どうですかな。まだ試したことがありませんので」

 黒贄が答える。ブラックソードは革手袋を填めた手でペットボトルの蓋を開けた。少し背を逸らし、コートの襟と鍔広帽で隠された顔へペットボトルを近づけた。傾けた中身が減っていく。

 水の撥ねる音がした。ブラックソードの足元の地面に透明な液体が零れていた。真上から落ちるポカリスエットが水溜まりを広げていく。

 彼がこれまで飲食物を摂らなかったのは、無意味だと知っていたからだ。

 空になったボトルを伊織に返し、ブラックソードは言った。

「やはり、素通りしたようだ。だが、ありがとう。心の飢えが少し、癒された」

 伊織は瞳を潤ませて頷いた。大曲がまた彼女の肩に触れ、二人は殺人鬼と殺し屋から離れていった。二十メートルほどの安全距離は、これから繰り広げられる闘いに適切であったろうか。

「では、始めましょうか。ただ、その前にちょっと教えて頂けますかな。あなたを見ていて、一つ疑問に思ったことがありましてね」

 黒贄がブラックソードに聞いた。

「何だ」

「角南瑛子さんのことを、あなたはご存知だったようですが」

 黒贄はスコルピオンというキーネームでなく、本名で彼女を呼んだ。

「知っておる。彼女が子供であった頃からな」

「組織を抜けた瑛子さんを追う刺客に、あなたは入っていたのですか」

「いや。その頃わしはこの世界にいなかった」

「……。もし、あなたがいたとすれば、刺客に加わっていたのですかね」

「その質問は無意味だ」

 ブラックソードは鍔広帽を振った。

「彼女は既に亡く、神羅万将も死んだ。わしは義理を果たさねばならん」

「……そうですか。分かりました」

 ずっと左手に持っていたバケツを黒贄は頭にかぶろうとした。今度はブラックソードが尋ねた。

「武器は良いのか」

 黒贄は苦い笑みを浮かべて答えた。

「私自身が凶器です」

 黒贄はバケツをかぶった。変形して裂け目も出来ているためすぐには嵌まらなかったが、力ずくで広げて押さえつけ、再び素顔は隠された。歪んだスリットから二つの瞳が覗く。

「そうか」

 ブラックソードは鍔広帽を頷かせた。ヒュールルルル、という口笛に似た澄んだ響き。ブラックソードの姿が消えた。

 始まった戦闘は一方的に見えた。でたらめな場所から黒い剣が現れては消え、黒贄の体はみるみる切り刻まれていった。アルメイルの闘技場で見せた動きとは桁違いのスピードだった。剣が同時に二本存在して見えることもあった。ブラックソードの体はたまに一部が現れるが黒贄の位置からは遠く、すぐに消えて触れることすら叶わなかった。ブラックソードの奏でる澄んだ音色に対し、黒贄は奇声を洩らさなかった。時折手を伸ばすが掴んだのは虚空だけだった。首を斬られ胸を刺され背中を切り裂かれ、体中に刃を受けながらギリギリのところで身をひねり、切断を免れているようだった。左膝がブラブラになった。右肘が半ばまで断たれ骨がはみ出した。飛んだ指は左手の小指か薬指か。

 伊織も大曲も神楽も、黙って立ち尽くすだけだ。伊織は瞬きをこらえ、滲む涙を拭いもせずに見つめていた。厳しい顔で見守る神楽の瞳が、ある種の熱を帯びている。彼もまた強さを生き甲斐とする一人なのだ。

 いつ果てるとも知れぬ闘いは、しかし、五分ほどで転機が訪れた。ヒュールルという澄んだ音色に乱れが生じたのだ。音程の揺らぎと小刻みな停滞。音色はスムーズな次元移動に不可欠だったのか、ブラックソードの攻撃間隔が、少しずつ、緩んでいく。

 上方から現れた黒い剣が黒贄の右肩に食い込んだ時、黒贄の右手が剣を持つ右手首を掴んだ。

「むっ」

 何処かからブラックソードの声がした。一瞬で手首が握り潰され黒い剣が落ちる。黒贄が更に引っ張った。異空間からブラックソードの右肩が現れ……。

 別の空中から伸びた左手が黒い剣を受け止めた。渾身の一閃が自分の右腕と黒贄の胴を薙ぐ。「あっ」と伊織が声を上げた。

 黒贄の胴が斜めに切断された。左脇から右腰まで。ズッ、と、胴がずれていく。

 黒贄の両腕が動いた。ブラックソードの右腕を捨てて、黒贄の右手が自分の腰辺りを掴んだ。指を肉に食い込ませて背骨を握り締め、ずれかけた上半身を元の場所に固着させる。切れた腸がはみ出し大量の血が溢れる。

 黒贄の左手はブラックソードの左手を掴んでいた。全ての指が砕かれ黒い剣が落ちたが、今度は拾う手がなかった。

 無言のまま黒贄が左手を引いた。空中からブラックソードの全身が引き摺り出され、地面に転がった。鍔広帽が外れて風に流される。黒贄がブラックソードの胴に馬乗りとなった。自分で切断したブラックソードの右腕から流れる血は赤い。口笛に似た音色が濁り、途切れた。

「……どうした。早く……止めを、刺せ」

 ブラックソードは荒い呼吸から掠れ声を絞り出した。捕らえられ澄んだ音色も尽き、異次元へ逃げることが出来なくなっている。左腕も黒贄の左手に押さえられていた。反撃の手段はもう、ない。

 露わになったブラックソードの顔は、粘土細工を幼児が遊び半分に混ぜ捏ねたような、配置の狂った代物だった。中心やや左に歪んだ唇があり、曲がった鼻が顎の左に生えている。小さな目が鼻の右横に、大きな目が額の左側に斜めについていた。耳が一つ、大きな目の下にあった。それは、長年の次元移動がもたらした弊害だったのか。或いはこの闘いで生じた一過性の歪みなのか。

 刃物傷に全身を覆われ右手で自分の胴を繋ぐ黒贄は、馬乗りになったまま動かなくなった。零れる血がブラックソードのコートまでも染める。切れ込みの増えたバケツのスリットから二つの瞳がブラックソードを見つめている。

「どうした。殺せ……それが、わしらの、ルールだ」

 ブラックソードの乾いた唇が窮屈そうに動いて黒贄を促した。

 その顔に、透明の雫が落ちた。

 バケツのスリットから洩れた液体だった。黒贄の瞳が潤んでいた。透明な液体が溢れ出してスリットだけでなくバケツの縁からも伝い落ちる。

「うう……」

 嗚咽は黒贄のものだった。

「……瑛子さん……瑛子さーん」

 黒贄がバケツの濡れた前面を左袖で拭った。その拍子にバケツが脱げて地面を転がった。

 黒贄は、クシャクシャに顔を歪めて泣いているのだった。

「瑛子さーん、瑛子さーん。ごめんなさーい。うわああん。うわあああああん」

 黒贄が本格的に泣き始めた。天を仰ぐ彼の顎先から涙が滴り落ちていく。

「うわあああん。うわああああん。もう生き返らないんだよおおお。瑛子さああん。うわああああん」

「な、何を……ひゅく。う……」

 配置の狂ったブラックソードの目が見開かれた。

「やめろ、お主にそんなふうに、泣かれたら、うう、わしも、泣くしか、ひゅっく、お、うおおおん」

 ブラックソードの洩らす声色がおかしくなり、とうとう彼も泣き始めた。目から溢れた涙が歪んだ顔に溜まり、横から零れていく。

「うおおおおおん。おおおおおん」

「うわああん。瑛子さん、わああああん」

 二人共、子供のように泣いているのだった。それに釣られたのか安堵のせいか、今度は伊織が泣き始めた。

「えーん。うええええーん。ええーん」

 その場に尻餅をついて、両手の甲で目元を覆い、伊織もまた盛大に泣いていた。

「な。何だこれは。何なんだ、この状況は」

 神楽は唖然として、泣いている二人の魔人と娘に見入っていた。

「なんでこうなった。訳が分からん。訳が……うっ」

 神楽が、恐る恐る、自分の目元に触れた。指先についたものを見て驚愕に顔を歪める。

「馬鹿な。なんで俺が、なんで俺が泣く。なんでっふいぃーん」

 そのまま三才児のような泣き顔となった神楽もまた、掌で顔を覆って泣き声を洩らし始めた。

「ふいーん。なんで、ふいいいーん。ふえーん。おかし、いーん。ふゅいいいーん」

「うわあああああん。瑛子さああああーん」

「おおーん。うおおおおーん」

「えーん。うえーん。うえええーん」

 四人四様で泣いている。いつまでも止まらず泣いている。溜まっていた痛みを全て吐き出すように、彼らは泣き続けている。

 小指で耳の穴をほじりながら大曲が呟いた。

「いやあ、泣けるぜ」

 そうは言うものの、ちっとも大曲の目から涙は出なかった。

 大曲は大きな欠伸をした。

 少しだけ涙が出た。

 

 

  五

 

 大曲源と紫香楽伊織の結婚式には、黒贄礼太郎も参列した。ブラックソードと神楽鏡影、ついでに大谷五郎もいた。

 太平洋沖に巨大な島が一つ誕生し、そこでは異形の者達が田畑を耕しているという。ただの噂なのか真実なのか、政府は何も語らない。

 

 

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