エピローグ

 

「なんでだよ。なんでこんなことに……」

 後部座席の若い男が情けない声で愚痴った。同じ台詞をこの七日間で五百回は繰り返しただろう。

 夕闇の中、赤いステーションワゴンは山沿いの道を進む。変形したボンネットからカラカラと奇妙な音が洩れている。乾いた血糊の下にうっすらと『DEVIL CROW』という文字が見える。

 運転手は不機嫌な顔で黙々とハンドルを回している。額に巻いたバンダナは血の染みが残っていた。鼻の穴にストローが挿さっているが、吸うべき白い粉は尽きていた。

「まだ追ってきてやがる」

 角度調節したバックミラーを覗き、助手席に座る迷彩服の男が言う。疲労の蓄積した顔は青黒く、目は真っ赤に充血していた。

 バックミラーに映るのは礼服を着た長身の男だった。三人の乗るステーションワゴンを二本の足で走って追いかけている。呼びかけるかのようにこちらに片腕を振っている。

 礼服の男に追われ続けて一週間。振り切ろうとして二百キロ近いスピードで飛ばしたりもした。逃げながらありったけの銃弾も撃ち込んだ。何十回も轢き潰してみた。しかし礼服の男は手を振りながら平然とついてくるのだ。一旦撒いたと思っても、ガソリンスタンドで給油しているところにひょっこり現れたりする。仮眠を取る暇もない。既に彼らの疲労は極限を超え、発狂しそうな重い緊張感が車内に満ちていた。

「なあ、なんであいつはついてくるんだよ」

 後部座席の若い男が聞く。

「知らねえよ」

 ぶっきら棒に助手席の迷彩服が答える。

「なあ、なんであいつ、死なねえんだ」

 若い男が聞く。

「知らねえよ」

 迷彩服が答える。

「もう、手榴弾。なくなったよな」

「ああ。弾も全部使っちまった」

「なあ、もしかしてあいつ、幽霊じゃないのかな」

「覚えてるだろ。幽霊がパトカー蹴り飛ばしたりするかよ」

 迷彩服はまたバックミラーを確認した。

「チィッ。やっぱりいやがる」

 礼服の男とステーションワゴンとの距離は三、四十メートルほどだろうか。カーブを曲がった際に見えなくなることもあるが、結局はついてきている。

「なあ、俺達。駄目だったなあ」

 若い男が言った。

 助手席の男は答えなかった。

「なあ、俺達、世界一になろうと思ってたんだよな」

「……そうだな」

「ギネスに載るつもりだったんだよな。俺達が最強だって、思ってたんだよな」

「遠い昔の話さ」

 自嘲気味に迷彩服が言う。実際は七日前の話だった。

「俺達、里に帰り着けるのかな」

「さあな。あいつを撒くのがまず先だろ」

「そうだよな。……なあ、なんであいつは……」

「うるせえっ」

 迷彩服が振り向いて怒鳴りつけた。その時、ヘッドライトに黒い人影が浮かび上がった。

 礼服の男が先回りして手を振っているのだった。

「おっと」

 言いながら、運転手の疲弊した神経は全く反応が出来なかった。そのままステーションワゴンは男を轢き倒し、ゴリゴリと引き摺っていく。ハンドルを取られて対向車線にはみ出し、ガードレールを突き破る。

 その先は崖だった。

「おわわわああーっ」

 十数メートルの崖をステーションワゴンは転がり落ちた。位置エネルギーを速度に変えて地面に激突し、ワゴンの鼻面が縮んだ。フロントガラスが砕け散り、丸いものが転がり出た。

 衝撃で切断されたばかりの、運転手の生首だった。

 鼻面で接地していたワゴンが、軋みを上げて傾き、屋根を下にする形にひっくり返った。

「い……てえ……」

 首と肩で体を支える窮屈な姿勢で、若い男が呻いた。

「おい……大丈夫か」

 男は前の座席へ目を向ける。運転席には首なし死体がある。

 助手席にいた迷彩服の男は、上体が車内からはみ出し、異様な角度に反った背中がボンネットにへばりついていた。後頭部が潰れ、眼球が糸を引いて飛び出している。

「ああ。死んだか。死んじまったか……」

 男の呟く声には諦念があった。

「もしもーし」

 別の男の声がして、後部座席の男は身を強張らせた。

「いやあ、やっと追いつきましたよ」

 轢き潰した筈の男が若い男のそばに立っていた。屈んで後部座席を覗き込んでくる。破れた礼服から血が滴っているが男は気にする様子もなかった。

「な……何なんだよ、お前。なんで、ずっと俺達を……」

 若い男が泣き顔になって尋ねると、黒贄礼太郎は礼服のポケットに手を入れ、一挺の拳銃を取り出した。

「落とし物です。あなたのですよね、これ」

 七日前に、男が車外に取り落とした拳銃だった。

「……あ……そうみたい、だ」

「凶器は大事にしましょうね。今後はお気をつけ下さい。それでは失礼」

 黒贄はにこやかに告げると血みどろの体で崖を駆け上がっていき、あっという間に見えなくなった。

 若い男は、拳銃の弾倉を抜いて中身を確かめた。弾は残っている。

 彼は弾倉を挿し戻し、銃口を自分の口に咥えた。そして引き金を引いた。

 

 

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