第二章 魔人・憲法第九条

 

  一

 

 モラルの活動範囲は日本全国に拡大した。

 北海道の中学校では同級生に金をたかりプロレス技にかけていた三人が巨大なニッパーで腕を切り落とされた。いじめられていた少年にモラルは「君も誰かをいじめたら同じことになるぞ」と告げたという。三人のうち一人は失血死した。

 神奈川の峠で女性を強姦していた男二人がモラルの制裁を受けた。一人は大型ハンマーで股間を潰されただけで済んだが、もう一人は木の杭で肛門から口まで貫かれ、苦悶の末二時間後に病院で死んだ。「強姦される女性の苦しみを味わってみろ」とモラルは言ったらしい。

 東京では募金箱から小銭を盗んでいたコンビニの店員が鋏で指を落とされた。店の前にたむろして喫煙していた少年達は自分の煙草の火で片目を焼き潰された。

 群馬では民家の塀に立ち小便をしていた中年男が局部を切り落とされた。血を噴き出させ泣き叫ぶ男にモラルは「向こうの公園にトイレがあるからそこでしなさい」と告げている。

 岡山で部下の女性に性交渉を迫っていた男が性器を潰され、額に『セクハラ男』と焼印を押された。

 大阪のバーで酔っ払って騒いでいた男が回転するタワシのようなものを喉に突っ込まれた。口が裂け歯が全て折れ、舌も食道もズタズタになって当分は静脈栄養に頼ることになりそうだ。「酒乱と自分で分かっているなら二度と飲んではいけない」とモラルは説教した。

 佐賀では盲導犬に煙草の火を押しつけていた若者が火炎放射器で背中を焼かれた。

 鹿児島では悪戯電話を繰り返していた男が指と舌を切られて電柱に逆さ吊りにされていた。罪状を書いた紙片が男の胸に貼ってあった。

 沖縄で三才の娘を虐待していた父親が駅の前に転がされていた。手足を切断され、断端を紐で縛られ血止めされていた。貼り紙には『娘の虐待に気づきながら介入しなかった医療機関や保健所にも責任がある。もっと児童の安全を優先するべきではないか。忙しいのでこれで失礼します。モラル』と書かれていた。

 東京の渋谷で援助交際の相手を募集していた少女達が、額に『売り物』の焼印を押された。一時間で犠牲者は三十四人。交渉中だった男達は『少女買います』の焼印を押された。犠牲者二十八人。

 モラルは何処にでも現れた。仙台でリンゴ園荒らしを枝に吊るした一時間後には福岡で産廃不法投棄の業者をドラム缶に詰めて博多湾に浮かべるなど、飛行機でも不可能な移動速度だった。空を超高速で移動する一反木綿のようなものを見たという報告が幾つかあるが、詳しいことは分かっていない。

 モラルはあらゆる状況に介入した。煙草のポイ捨てから集団リンチまで、モラルは硬い靴音を響かせて来訪し、社会を乱す者達と見て見ぬふりの人々を冷静且つ辛辣に説教し、両手を様々な凶器に変形させて罰を与えるのだ。怯えきった、或いは放心状態に陥った人々を尻目に「それでは失礼します」と言ってモラルは去る。多くの場合、厚みを失った平面体となって、ひらひらと宙を泳いで消えるのだ。

 最初の優先席の事件から六日目より、急にモラルの出現頻度が増した。一日で三十八ヶ所に現れたこともあった。

 それに呼応してマスコミの報道も加熱していった。モラルの事件が一面に載ることも増え、三面記事の半分以上のスペースをモラルが占めるようになった。毎日のように特番が組まれ、ワイドショーではモラルがどんな凶器で犠牲者をどのように料理したか、モラルがどんな説教をしたか、連日新たな目撃者達が得意げに語った。

 モラルが何者であるのかについて様々な人が勝手なことを述べた。手の変形や薄っぺらになる肉体は催眠術でそのように見えるのだと主張する者もいた。口裂け女やトイレの花子さんのように、社会不安の反映であり集団ヒステリーだと話す精神科医もいた。神出鬼没なのは犯人が複数であり、日本を混乱させるための組織的なテロ行為だと言う社会学者もいた。カルトな宗教団体の仕業で、怪しい集団は片っ端から取り締まるべきだと叫ぶ者もいた。負傷者達の自作自演説を唱える者もいたが事件の増加と共に口をつぐんだ。モラルは超常現象の一つであり人間ではないという超心理学研究者もいた。UFO研究家はモラルが宇宙人だと主張した。モラルの本拠地については最初に現れた関東圏内であろうという説が大勢を占めていた。ただし、道に痰を吐いた男を注意するためにわざわざ沖縄まで繰り出したこともある。モラルは何処にでも存在しているのだと哲学者が言った。

 モラル自身の主張ははっきりしている。日本社会の崩壊した倫理観の復権。彼の発言を並べ上げて吟味し、主張自体には賛同出来ると話すコメンテイターも出てきた。今の世の乱れを嘆く識者達。しかしモラルのやることは残酷過ぎるという意見が多かった。昔の軍国主義や独裁政治でもここまでひどい刑罰はなかったと。しかし今の人間は腐っているのだから厳しい罰を与えるべきだと言う者もいた。親や教師や政府の代わりにモラルが国民を躾けてやっているのだと。残酷過ぎる罰も見せしめのためには丁度良いと街角インタビューで中年サラリーマンが言う。焼印を押された被害者の未来はどうなるとモザイクの家族が叫ぶ。クズに未来など必要ないと毒舌タレントが暴言を吐き、番組収録中に取っ組み合いとなった。モラルを逮捕出来ない警察が悪いと別の者が言う。そもそも政治家が日本を駄目にしたのだと小説家が嘆く。

 インターネットの匿名掲示板でも初期にはモラルをやり過ぎだと批判する意見が主だった。しかし事件が続くうちに感覚も麻痺してきたのかモラルを応援する声が増えてくる。糞共をぶち殺せという書き込みに、あんたらはただ面白がっているだけだと良識派が揶揄し、罵倒合戦がいつまでも続く。「私がモラルですが何か質問は?」と自称する書き込みが通報され、リモートホスト情報を得た警察が百人がかりで埼玉のマンションに突入した。引き篭もりの二十二才無職男性が逮捕され、三百本のゲームソフトと五百枚のDVD、そしてエアガンが押収された。二日後に釈放が許されたのは男が留置されている間にも本物のモラルが活動を続けていたからだ。警官に散々殴られ拷問に近いことをされたと男は主張しているが、マスコミもネットも男の間抜けさを嘲笑うだけだった。

 モラルは神の使いだと主張する者も出始めた。神の言葉を誰も聞かなくなった現代、モラルはキリストのように神の命を受けて行動しているのだと。主張した宗教学者はカトリックの猛反発を受けることになった。しかし、今の世にうんざりして救世主を求める人々の念がモラルという魔物となって現れたのではないかと語る識者もいた。

 何にせよ、モラルは日本で一番ホットな話題となり、誰もが挨拶代わりにモラルについて語り合うようになった。科学全盛の現代において、モラルは漫画やアニメのような常識破りのスーパーヒーローであった。ただし、血みどろのダークヒーローだが。現実に絶望していたが自殺せずに済んだと語る人もいた。日常に退屈していた人々はモラルの残虐ショーを楽しみにしていた。

 二分していたモラルに対する評価が一方に傾き始めたのは、初登場から十二日目のことだ。

 

 

  二

 

「いい眺めだろ」

 男が言った。

 一組の男女が岸壁の縁に立って海を眺めている。沈みかけた太陽が海を黄金色に染めている。男は二十代半ば、女はそれより少し若いだろう。デートの最中らしく二人共ちょっと洒落た服装だ。

「君と一緒にこの夕陽を見たかったんだ」

 男はいかにもな台詞を真面目腐って告げた。女は夕陽から自分の足元へと視線を移す。切り立った岸壁は海面まで三十メートルくらいはありそうだ。時折波が岩に当たり飛沫を散らすが、二人には届かない。

 女は自らの肩を抱き、軽く身震いをして男に言った。

「綺麗。でもちょっと寒いみたい」

 男は苦笑した。

「車に戻ろうか」

 岸沿いの道路を離れ草地に停めてあった車は白いクーペだった。男が運転席に女が助手席に座り、カーオーディオは上品なクラシックを流している。二人は見つめ合っていたが、静かに顔を近づけて長いキスをした。

 エンジン音が近づいてきた。男女はキスをやめて振り返る。一台のミニヴァンが同じ草地に入ってきたところだった。更にスポーツカーが一台。

 ミニヴァンはクーペの後ろギリギリで停まった。スポーツカーはクーペの横に寄せる。男女の顔が不安に強張った。

 次々に降りた男達は十代後半から二十代前半であろう。髪を金や赤に染めた者、幾つもピアスを入れた者、黒い革ジャン革ズボンに濃いサングラスをかけた者、腰のベルトに警棒を下げた者もいた。彼らはニヤニヤしてクーペを覗き込む。

 サングラスの男が運転席の窓ガラスを軽く叩いた。中の男は窓を開けず、シフトレバーを握って車を発進させようとした。だが後ろのミニヴァンが邪魔になり、狭い草地では動きが取れない。

 仕方なく男は窓ガラスを少しだけ下ろし、取り囲む若者達に言った。

「車をどけてくれ。出せないだろ」

「続きはやらないのかい」

 笑いながらサングラスの男が言った。

「キスしてたろ。見えたぜ。折角だからここで最後までやってったらいい。俺達が温かく見守っててやるよ」

 若者達が爆笑した。サングラスの隣の鼻ピアスがズボンのポケットをモゾモゾやっている。

「どけてくれ。警察を呼ぶぞ」

 中の男の声は少し震えていた。

「どうぞ。ご自由に」

 サングラスの男が答える。中の男は窓を閉め、スーツのポケットから携帯電話を取り出した。

 ビギッ、と窓ガラスに亀裂が走り男の動きが止まった。

 鼻ピアスの若者の右拳がガラスに触れていた。拳に填まっているのはブラスナックルだった。

「やめろっ」

 中の男が叫ぶ。女は引き攣った顔で固まっている。

 鼻ピアスがまた窓を殴った。砕けたガラス片が飛び散って中の男にかかった。

「アッターッ、手首が痛えこれ」

 鼻ピアスが右手首を押さえたが顔は笑っていた。サングラスの男が手を伸ばしてドアのロックを解除した。

「やめてくれっ」

 中の男の声は悲鳴に近かった。ドアが開けられ、若者達が寄ってたかって男を引き摺り出した。落ちた携帯に女が手を伸ばそうとするが、あっさり取り上げられやはり引き摺り出される。

「ここじゃまずかろ。取り敢えず女は乗せていこうや」

 サングラスの男が言った。別の若者は早速女の服の間に手を入れて肌を触ろうとしている。女は声を出すことも出来ずただ震えていた。

「男の方はどうすんの」

 金髪の少年が尋ねる。期待と緊張で息が荒くなっている。

「そうだなあ。どうでもいいんじゃないかな」

 サングラスの男が言った。

 男の方には鼻ピアスが馬乗りになってブラスナックルで顔面を殴りまくっていた。他の若者が適当に蹴りを入れている。

「やめっブッ」

 男が折れた歯を吐き出した。左頬が明らかに凹んでいる。骨折したらしい。鼻ピアスはそれでも容赦せず殴り続ける。

「あれっ」

 鼻ピアスが手を止めた。男の悲鳴も止まっていた。

 男の右の眼球が飛び出していた。太い視神経と薄い筋肉がまだ繋がっている。眼窩を構成していた骨が大きく陥没し、無事な左目も裏返っている。

「あちゃー、これ、まずくねえか」

 他の若者が言ううちに男は痙攣を始めていた。女は目を見開いたまま凍りついている。

「うわあ、目ん玉飛び出てるよ。凄え」

 若者達が見守るうちに男の痙攣はやみ、動かなくなった。

「それ、死んでんじゃないか」

 サングラスの男が言った。

「どうかなあ。息はしてるんじゃないかな」

 鼻ピアスが男の顔を近づけ、やがてサングラスの男を振り返った。

「息してないみたいだ」

 サングラスの男は舌打ちした。

「心臓は。脈取ってみろ」

 別の若者が手首に触れる。

「脈はあるみたいだけど」

「でもどっちにしろ死ぬよな。病院とか連れてくのも嫌だしな」

 サングラスの男が言う。

「どうしようか」

「まあ、埋めるのがいいんじゃないかな」

 サングラスの男は平然と答えた。鼻ピアスはブラスナックルの血を瀕死の男の服で拭いた。

「こいつの車はどうする」

「いい車だけど乗ってったらまずいよな。ここから落としちまえば」

 若者の一人がクーペに乗り込み、ゆっくりと前に発進させた。岸壁の縁に近づくと慌てて車から降りる。

「おおっ怖っ」

 クーペは前輪が縁にかかった辺りで減速した。「後ろから押せよ」などと言っているうちになんとか縁を越え、ゴリッと車体が岩に擦れた。

 そのまま白いクーペは岸壁を転げ落ちていった。硬い岩にぶつかりひしゃげる音。

「爆発しないな」

 鼻ピアスが言った。

「爆発とか映画だけだろ。じゃあ、乗せろよ」

 サングラスの男が促した。

 若者達は女と動かぬ男をミニヴァンの後ろに引き摺り込んだ。後部座席は畳まれてちょっとしたフロアになっていた。若者達はミニヴァンとスポーツカーに分乗し、出発した。

 走行中に女は服を全て剥ぎ取られ、散々に輪姦された。抵抗したらブラスナックルで何度も殴られた。歯を折られて女は抵抗するのをやめた。隣に瀕死の男が転がっているのも若者達は気にしなかった。

 ふと男の脈を取り、若者の一人が言った。

「もうこいつ、死んでるみたい」

「そうか」

 行為に耽りながらサングラスの男が答えた。

 鼻ピアスの若者が男の死体を見て尋ねた。

「なあ、死んでるんなら、死体で実験してもいいかな」

「実験って何だ」

「キャメルクラッチって知ってるか。プロレス技。昔の漫画で見た。背骨がバキ折れるの」

「ふうん。まあ、やってみたら」

 サングラスの男が言った。

 狭いミニヴァンの車内で鼻ピアスが屈みながら死体を蹴り転がし俯せにした。背中に尻を乗せ、両手を死体の顎に回して指を組む。

「むううん」

 鼻ピアスが力を込めて引っ張った。死体の首と背が海老反りとなる。

「ううううん」

 鼻ピアスが顔に血を昇らせている。手の空いている男達は面白そうに見守っている。女は天井を見つめていた。

 ゴギュッと嫌な音をさせて死体の首が折れた。後頭部が背中につき死体の顔が真後ろを向いた。

「うわっ、気持ち悪っ」

 鼻ピアスは手を離した。死体の胸が床にぶつかり首が斜めを向いて落ちた。若者達は大声で笑った。

「腕も折ってみようぜ」

 別の若者が言った。何人かで協力して死体の腕を逆に曲げ、肩関節を脱臼させた。

「足はどうよ」

 若者達が死体の背に乗り足を逆向きに引っ張っていく。やがてゴグンと凄い音がして太股が背中側に曲がった。

「うわ凄え」

 踵が背中につくのを見て彼らはまた笑う。

「あれっ、こいつ小便洩らしてるぜ」

 若者の一人が死体のズボンを見て言った。サングラスが説明する。

「多分糞も洩らしてるだろ。死んだら皆そうなるんだ。首吊り死体なんて床にボドボドで掃除が大変だってよ」

「チェッ。あんまり車汚すなよな」

 運転していた若者がぼやいた。

「そろそろいいんじゃねえか」

 行為を終えたサングラスが外を見回して言う。道は舗装されておらず、ミニヴァンは林の中へと入っていく。

 外は暗くなり始めていた。サングラスの男の指示で若者達が死体を運び出す。隣にスポーツカーも停まり、お預けを食らっていた若者達がミニヴァンに乗り込んできて女に絡みついた。

「おい、こいつ顔がお岩さんみたいになってるぜ」

 一人が言った。ブラスナックルの打撃で女の顔は腫れ上がっていた。それでも若者達は女を犯し始めた。

「スコップは一つしかなかったっけ」

 外の若者達が言っている。交替で穴を掘っているようだ。

「寒いな」

 女に取りかかっていた一人が内側からヴァンのドアを閉めた。

 女は人形のようになすがままにされていた。虚ろな目は既に何も期待せず、ただ苦痛が過ぎるのを待つだけだ。若者達が二人分の穴を掘っていることを理解しているのかどうか。

 外からエンジンの唸りが聞こえてきた。スポーツカーのエンジンとは違う軽快な音。

 若者達の悲鳴が聞こえ、女の目が僅かに動いた。

「ほえっ。どうした」

 一人がドアを開けて外に首を出した。エンジン音がすぐそばを過ぎて彼の首が落ちた。

 車外に崩れ落ちていく首なし死体を、そしてその向こうに立つ奇妙な男を若者達は見た。灰色のロングコートを着たひょろ長い男は両手にそれぞれチェーンソーを握っていた。いや、両腕の先がチェーンソーになっていた。二つとも既に血みどろで、今新たに吸った犠牲者の血を高速回転で撥ね飛ばす。

 若者達は口をポカンと開けたまま動かなかった。来訪者が上体を僅かに屈めて顔を見せた。チューリップハットの下に鬼の面があった。憤怒の形相に長い牙。同時に後ろの景色が見えた。薄闇の中、土の上に肉塊が積み重なっている。バラバラに切り落とされた手足と首。分断され腸を零した胴体。外にいた者達は全員解体されていた。

「嘘だろ……」

 一人が漸く呟いた。

「嘘ではない。君達に説教するつもりもない」

 モラルの声は静かに冷えていた。

 車内に残っていた三人の若者は逃げることも考えつかないようだった。二機のチェーンソーが突き込まれ、若者達の首を落とし胴体を輪切りにした。彼らは一瞬で全滅した。

「遅れてすみません。モラルです」

 固まっている女にモラルが頭を下げた。女は裸に返り血を浴びていた。

 人形のようだった女が突然、狂ったように叫び始めた。

「ぎゃああああっ、ああああああああっ、いいいいいいっ、ああああああっああああああああっ」

「落ち着いて。落ち着いて下さい。すみません、血がついてしまって」

 モラルはチェーンソーの回転を止めて袖の中に戻した。

 女の悲鳴は息継ぎを交え一分以上続いたが、それがやむと今度は大声で泣き始めた。腫れた顔を大量の涙が伝っていく。

「落ち着いて。警察を呼びますから。あ、何か着る物が要りますね」

 モラルは少し慌てているようだった。女の服は破れて使い物にならない。チューリップハットが周囲を見回した。流石に死体から服を剥ぎ取るのはまずいと思ったのか、シートを切り裂いて引き剥がし、毛布代わりにして女にかけた。一時的にモラルの指はナイフになっていた。

 女は黙ってシートを引き寄せ肩までを隠し、啜り泣きに移った。モラルは死体から取り上げた携帯電話を使い警察にかけている。「もしもし、モラルです」と名乗った際、女が微妙な表情でモラルを見た。モラルは殺人と強姦のあったこと、犯人八人を全て処刑したことも正直に告げた。出来るだけ早く女性を保護するように言いながら、山中のこの場所を正確に伝えている。

 電話を切るとモラルは女に告げた。

「じきに警察が来ると思います。それでは失礼します」

「ま、待って」

 女が初めて言葉を発した。

「怖い、から……独りにしないで」

 モラルは考えている様子だったがやがて帽子を頷かせた。

「分かりました。もう少しいます」

 モラルはバラバラ死体を外に引き摺り出した後、車内に入ることはなかった。女はまた啜り泣いている。

 モラルは黙って立っていた。深くかぶったチューリップハットと鬼の面からは何を考えているのか読み取れない。

 そのうちに、女が顔を上げ、モラルに話しかけた。

「あの……あなたって、何者なの。最近、ニュースになってるけど」

「モラルです」

 モラルは穏やかに答える。

「……。なんで、こんなことをしてるの」

「社会を少しでも、良くしたいからです」

「……。どうだろ。良くなると思う」

 女はモラルに尋ねた。

 短い沈黙の後、モラルは言った。

「分かりません。でも僕は、何もしないままでいることは出来なかった」

 女はそれ以上は聞かなかった。まだ涙は止まらず目を赤くしていたが、泣き声は洩らさなかった。

 やがて遠くでサイレンの音が聞こえ始め、モラルが女に告げた。

「警察が来ました。では、失礼します」

 モラルは歩き出した。と、体が右に傾いて地面に膝をついた。女が驚いてヴァンから顔を出す。

「大丈夫」

「大丈夫です。ちょっとふらついただけです」

 モラルはすぐに立ち上がりまた歩き出した。今度はよろめかずに体がみるみる薄っぺらになり、宙に浮かんでいく。

 女はふと思い出したように、飛んでいくモラルに声をかけた。

「ありがとう」

 掠れ声だが届いたらしく、一反木綿状のモラルの手が女に振られた。

 そのうち夜空に溶け込み、モラルは見えなくなった。

 

 

  三

 

 秋田のこの事件についてはモラルを賞賛する意見が多かった。輪姦された女性がそのまま殺され埋められる可能性は極めて高かった。女性の母親はテレビのインタビューで涙ながらにモラルへの感謝を述べた。残忍な若者達への非難は強く、こんな奴らは殺されて当然とタレントやコメンテイターが憤った。特にフェミニズム団体は性犯罪者を全て死刑にすべきだと叫び始めた。インターネットの匿名掲示板ではモラルへの賛意が多かったが、やはりモラルはやり過ぎだと批判する声もあった。相手が悪人だからといって殺して良い訳ではない、警察に任せるべきではなかったか、と。それはすぐに性犯罪者の書き込みだと決めつけられ罵声を浴びた。

 十四日目、モラルは思わぬところに現れた。中堅の与党衆議院議員が暴力団との黒い関係を噂され、釈明の記者会見を開いた。大勢の記者とカメラが見守る中、地方新聞の記者が手を上げて鋭い質問を投げた。いやそれは質問と言うより糾弾であった。暴力団組長と密会した日付、動いた金の額、議員が依頼した内容まで具体的に示したのだ。依頼内容には殺人まで含まれていた。

 議員の顔は蒼白と化し、居合わせた記者達も息を呑んでいた。質問した記者は彼らを見回して冷たく告げた。今指摘したことはマスコミの間では公然の事実であり、大手新聞社の殆どが具体的証拠まで揃えていたことだ。なのにどうしてそれを報道しないのかと。政治家の圧力や暴力団の脅し、そして金に屈しているのだ。

「あなた方に聞きたい。真実を報道する覚悟がないのなら、どうしてマスコミの仕事をやっているのか」

 記者は同業者達を責めた。

「で、でたらめだ」

 議員が呻いた。

「でたらめではない。私はモラルだ」

 スーツ姿だった中年の男性記者が、一瞬でチューリップハットとロングコートの怪人に変わった。会場がどよめいた。モラルの右腕が議員へと長く伸び、先端が巨大な包丁となって机を真っ二つにした。議員は無傷だが腰を抜かした。

「それでは失礼します」

 記者達とカメラの前でモラルは平面となって会場を泳ぎ去った。彼が名乗った所属新聞社は架空のもので、顔と氏名が一致する者は日本に存在しなかった。モラルは完璧な変身能力を持つことが判明した。

 ここで更にモラルへの賛意が燃え上がった。議員を殺さなかったことについては様々な憶測が流れた。相手が政治家だから遠慮したのだろうというのは少数意見で、モラルは議員が社会的に処刑されるのを求めたのではないかという意見が多かった。テレビ局はモラルの映像を流したが、マスコミ批判の部分をカットしている局もあった。大手新聞社は議員のことはまだ取材中で証拠が揃ったら報道するつもりだったと言い訳した。この機会とばかりにニュース番組で自社批判をしたコメンテイターは解雇された。それがまたインターネットで騒ぎとなり、コメンテイターは復帰することとなった。マスコミは信用出来ないと皆語り合った。これを機会にマスコミの正常化をと新聞のコラムで語られたが彼らが新たな真実を暴露することはなかった。

 モラルこそ真の英雄であり現代の救世主であると主張する者もいた。モラルの違法性について声高に警告を続ける者もいた。また、変身能力を持つなら裏では他人に化けて色々悪事をやっているかも知れないと指摘する者がいた。モラルがそんなことをする筈がないと反論が殺到する。警察でも手に負えないような超能力者の存在を許す訳には行かないと主張する者もいた。人間より優れた存在を放置するのは危険だと。モラルを神として崇める者達と罵倒合戦が繰り返された。討論番組ではモラルの是非について紛糾したがそれぞれが自分の立場で勝手なことを言い、結論が出ないまま終わるのが常だった。

 十八日目に決定的な出来事があった。岐阜でトンネルの崩落事故があり十三台の車が生き埋めとなったのだ。救出作業が難航していた二時間後にモラルが到着した。彼は全身を変形させ、両手の巨大なショベルで土を掘りながらドーム状に広げた背中で新たな崩落を防ぎ、五十分かけて七人の生存者全員を救出した。大勢の作業員やマスコミの拍手を浴びながら、モラルは「それでは失礼します」といういつもの台詞であっさり空へ消えた。警察も駆けつけていたが、モラルを積極的に逮捕出来る状況でもなく居合わせた人々に押し返された。警察の弱腰の対応についても賛否両論があり、警視総監が公式に謝罪することになった。どんな善行を働こうともモラルは殺人犯であり逮捕しなければならないと彼は発言した。また、通常の救出作業では何日もかかり誰も助からなかっただろうと専門家はコメントした。

 この頃にはモラルの集団ヒステリー説は淘汰され、宇宙人説などが強くなった。世論のモラル支持は圧倒的になってきた。崩落事故の後三十八時間モラルは登場しなかったが、街角インタビューやネットの掲示板ではモラルの疲労を心配する声まで上がっていた。埼玉で飲酒運転者を引き止めて説教した時、野次馬達から盛大な拍手が送られたものだ。インターネットには『モラル支援同盟』などの応援サイトが立ち上がった。モラルのテーマソングまで作る者も現れた。所謂社会的配慮からプロバイダーに削除されたが、既に音楽データは無数にコピーされネット上に広まっていった。

 しかしモラルに罰せられた側の叫びも大きくなっていた。万引きで片手を落とされた者や一度の援助交際で焼印を押された者の親は黙っていない。彼らは街頭演説でモラルの違法性を訴え続けた。モラルに反対するのは彼らだけではない。暴走族、風俗関係者、暴力団、裏で汚いことをやっている企業の経営者達、そして政治家達。雇われた評論家はモラルが社会を混乱させていると断じ、弁護士は法治国家でこのようなことが行われてはいけないと深刻な顔で語った。モラルに便乗して私刑を行う者が増える懸念も挙げられた。ワイドショーでモラル賛美が行われている同じ時に、別のチャンネルではモラルに手足を切断された被害者の悲惨な生活が報じられていた。ネットでは『モラルを殺す会』などのサイトが立ち上げられ、モラルの行動をリストアップして刑の恣意性をなじり、モラルは人間ではないのだから殺しても殺人にはならないと主張した。支援同盟と殺す会の掲示板は双方の書き込みが入り乱れて荒れに荒れた。

 自治体は火の用心ではなくモラルの用心をアナウンスして回るようになった。全校集会では校長が真面目な顔で、いじめや喫煙、万引きは生命の危険があることを告げた。親が子供を叱る時は「モラルが来るぞ」という台詞が定番となった。週刊誌は緊急特集で『モラルに狩られないための二十箇条』を組んだ。モラルを怖れて一部の人々は品行方正な生活をするようになった。モラル効果は社会にとって有益だとテレビのコメンテイターが言った。

 モラルに反抗し、わざと社会のルールを破る若者達もいた。モラルが来るかどうかというスリルを楽しみ、蛮勇を自慢するのだ。彼らの大部分はモラルと無縁でいられたが、一部は手ひどいしっぺ返しを受けることとなった。モラルに出くわした途端にしおらしく謝罪する者もいた。土下座までして許しを請い、モラルは「二度としないように」と言い残して去ったという。だがその後に彼は「モラルがなんぼのもんだ」と友人に笑ってみせ、舞い戻ってきたモラルによって両腕を落とされた。同じようなことが何度かあって、モラルは相手がどんなに謝罪しようと何がしかの罰を与えるようになった。

 モラルのコスプレをして街を歩く若者も増えた。オーバーサイズのロングコートを着てチューリップハットと鬼の面をかぶる。たまにモラル狩りの若者達によって襲撃されたり、警察に逮捕されたりもした。

 新聞への投書やインターネットの匿名掲示板では、モラルに世直しを求めて独自に要望を出す者もいた。汚職政治家の処刑や米軍基地の排除を希望する者もいた。北朝鮮の拉致被害者を救出して欲しいと家族が訴えた。

 人々は『モラル』という言葉を一般名詞としては使わないようになった。

 日本中に広がった混乱と熱狂の中で、モラルは自分の正体を語ることなく淡々と行為を続けていた。

 

 

  四

 

「ふうん」

 クッションの柔らかな高級ソファーに背を預け足を組んだ男は朝刊を広げてわざとらしい声を出した。

「『モラルの目的がどうであれ、彼自身も社会のルールを破っているのだから法に従って正当な罰を受けねばならない』か。まあ、無難なコメントだな、セイちゃん」

「そのセイちゃんというのはやめてくれないかな」

 机で書類を読んでいたもう一人の男が渋い表情で言った。年齢は六十代だろう。育ちの良さそうな顔に海千山千のしたたかさが潜んでいる。

「夜中にまた女を連れ込んだそうだね。この部屋は君の私室ではないのだよ。いい加減にして欲しいな」

「固いこと言うなよ。部屋は汚してないだろ。それに、あんたの部屋なのも後二年だ。もしかするとそれより早いかも知れんがな」

 不遜な言い草だった。机の男は不機嫌そうに口をへの字に曲げた。しかし怒り出すことはなく溜息をついて告げる。

「なら少なくとも、記者達の目には触れないように気をつけてくれ」

「それは分かってるさ」

 ソファーの男は三十才前後であろう。ゆったりした黒いTシャツにすり切れたジーンズというラフな格好だ。身長は百八十センチを超えているだろう。日焼けした皮膚の下には逞しい筋肉の束が浮いている。黒髪は後ろに流してウェーブさせていた。鼻筋の高い整った顔立ちだが、それは野生の獣に似た獰猛な美だ。不精髭っぽく疎らに生えた顎髭と、自然に圧力を発散しているような深い瞳が特徴的だった。

 Tシャツの胸には、白く『9』の字がプリントされていた。

「喉が渇いたな。セイちゃん、コーヒーでも出してくれよ」

 机の男は不機嫌な顔のまま呼び出しボタンを押した。早速若い声が返ってくる。

「はい」

「コーヒーを頼む。二人分だ」

「セイちゃん、ブルーマウンテンね」

 ジーパン男が気楽に言う。机の男は相手を冷たく睨みながらマイクに告げた。

「ブルーマウンテンだ」

「お客様がおられるのですか」

「まあ、客とは違うがそんなところだ」

「承知しました」

 机の男は通話を切った。ジーパンは新聞記事に視線を戻す。

「日本を騒がす殺人鬼ヒーロー・モラルか。くだらねえ世の中にこんな面白えことが起こるなんてなあ。国民が祭りに沸くのも分かるぜ」

「そんな祭りが私の任期中に起きてもらっては困るのだよ」

 机の男が言う。

「あれを放置していれば警察の無能を責められ、それはつまり政府の責任となる。かといって逮捕しても、モラルを応援していた大衆から非難されることになる。そもそも、あんな化け物をどうやって逮捕するというのかね。警察だけで対応出来なければ自衛隊を使うかね。運良く射殺することは出来るかも知れないが、国民からは逮捕以上の猛反発を食らうことになるだろう。つまり、八方塞がりだ。日本の道徳観念が崩壊したことがあれの登場の原因とか言われているが、それさえも政府の責任になってしまう。国民は勝手なことを言うだけで何もしない。他人を非難して惰眠を貪るだけの愚劣な生き物、それが国民なのだ。……勿論、こんなことは当の国民の前では言えんがね」

 机の男の愚痴にも、ジーパン男は片眉を上げただけで同情している気配はない。

「セイちゃんも相当ストレスが溜まってるな。不安な気持ちは分かるぜ。騒ぎになったのは自分とこの議員だし、セイちゃんも暴力団とはズブズブだもんな」

 国会議員と暴力団の癒着がモラルに暴露された件を男は皮肉っているのだった。

「……。君もここに居候している身なら、少しは解決に力を貸してやろうとは思わないのかね」

 机の男は少し嫌味な口調になっていた。

「ふむ」

 ジーパンは朝刊を畳んで答えた。

「いいぜ。やってやるよ、モラル退治。あっちがダークヒーローならこっちはアンチヒーロー、あっちがモラルならこっちはアンモラルってとこかな」

 あっさり承諾され、机の男は喜ぶどころかしまったという表情を見せた。慌てて訂正を試みる。

「いや、今のは気にしないでくれ。私達だけでなんとか対処するから君は何もしなくても……」

 ジーパンが片手を上げて制し、机の男は口をつぐんだ。

「任せときなって。盛大な祭りにしてやるよ」

 ジーパン男は立ち上がり、ニッと歯を剥いて笑った。

 全ての歯が、牙のように鋭く尖っていた。

 立ち上がった男の背中、ベルトとジーンズの間に全長三十センチほどの短剣が差してあった。年代を感じさせる鞘も柄も金属製で、合わせて一体の骸骨になるような彫金が施されていた。柄が王冠をかぶった髑髏で、鍔に相当するヒルトが両腕、そして鞘が胴体と足だった。笑っているような骸骨の虚ろな眼窩は闇を見据えていた。

 男がドアまで歩きかけると向こうから開き、若い男が盆にコーヒーを載せて入ってきた。

「もうお帰りですか」

 若い男が尋ねる。

「ちょっと出かけてくる。ついでだから貰っとくぜ」

 ジーパンはコーヒーカップを一つ取り、まだ湯気の立っている中身を一気に飲み干した。

「じゃあな」

 熱がる様子も見せず、ジーパンの男は机の男に片手を振って部屋を出ていった。開け放しのドアを閉めようとして廊下を覗き、若い男が不思議そうに言った。

「あれ、もういませんね」

 机の男は渋い顔で書類に目を戻す。彼の分のコーヒーを机に置き、若い男が尋ねた。

「今のはどなたなんですか。記者でもなさそうですし」

 机の男が苦々しげに答えた。

「君は勤め始めたばかりだから知らなかったようだね。あれは憲法第九条だ」

「えっ」

 若い男は聞き違えたかのような顔をした。

「憲法、第九条。勿論本名ではないだろう。自分でそう名乗っているだけだ。全く、呼び名と正反対の男だよ」

「何者なんですか」

「自衛隊を超える、日本最強の武力だ。誰も勝てない。何処にでも勝手に出入りするし、彼の機嫌を損ねて生き延びた者はいない。前の三瀬総理は任期中に脳梗塞で亡くなったことになっているが、実際は違うのだよ。遺体の修復を葬儀に間に合わせるのが大変だった」

「……殺された、ということですか。ちょっと信じられませんね。そんな人間が、本当にいるんですか」

「いてもおかしくはないさ。モラルなんて馬鹿げたものが存在するのだからね。それにしてもまずいことになった。眠っていた虎を、起こしてしまった」

 首相執務室で、総理大臣石村誠三は深い溜息をついた。

 

 

  五

 

 その男が公共の電波に登場したのは十一月一日午後三時二十七分のことだった。

 東京都中央区の三森銀行本店に三人組の強盗が押し入ったのが午後一時六分で、中には行員と客を合わせて五十人以上がいた。強盗達はプロだった。エンジンを吹かした盗難車に別の一人を待たせ、濃いサングラスをかけた彼らは店員に拳銃を突きつけた。警報機を押そうとした行員が即時に射殺され、パニックに陥った客達を銃口が黙らせた。金庫に六億ある筈だからすぐに出せと命じられ、ためらった頭取が射殺された。一人が行員の案内で大金庫に進む間、他の二人は客達が逃げないように見張っていた。警察が駆けつける前に片づく筈だったが、たまたま交通事故現場へ向かっていたパトカーが銀行の自動ドア越しに両手を挙げている客達を見かけて厄介な事態に陥った。盗難車で待機していた男は先に逃げようとして交差点でクラッシュした。行内に残された強盗達は大金庫を前にして判断を誤った。全速力で逃げ出すよりも札束を袋に詰めることを選んだのだ。警官二人が拳銃を構えて見張るうちに次々と後続が到着した。

 五十名の人質を取った籠城戦は膠着状態に陥った。数百名の警官が銀行を包囲し、周りのビルでは狙撃手達がライフルを構えている。遠巻きに大勢の野次馬が見物し、幾つものテレビ局がレポーターを派遣していた。生中継している局もあった。強盗達は逃走用の車を要求し、既に五人目の人質が死体となって入り口に並べられていた。野次馬達は固唾を呑んで見守りながら同じことを考えていた。

 モラルが助けに来てくれないかと。

 銀行強盗が国民の倫理道徳と関係があるかは分からないが、トンネル崩落の時も救助に来てくれた。今回も助けに来てくれるのではないかと、彼らは期待して見守っていたのだった。

 だがモラルの代わりにやってきた男はロングコートにチューリップハットではなく、黒地に白文字で『9』と描かれたTシャツとジーンズ姿だった。肌寒くなってきた風に野生的な素顔を晒し、見物人の列から抜け出すと悠然と銀行に向かって歩き始めたのだ。

 男の背中では骸骨をデザインされた短剣がベルトに挟まっていた。野次馬がそれを指差して仲間に何か喋っている。

 ジーパン男の接近に気づいた警官の一人が慌てて押し留めようとした。

「君、危ないから下がっていなさい」

「まあ、いいからいいから」

 警官の両腕を素早くくぐり、ジーパン男はどんどん進んでいく。警官が驚きの表情で自分の手を見ている。目ざとい野次馬が地面を指差した。

 アスファルトに散らばっているのは、十本の指だった。

 警官の両手の指が全てなくなっていた。いずれも付け根部分で綺麗に切断されている。警官は断続的に噴き出る細い血線を見ながら膝をついて呻き声を洩らした。野次馬がどよめいた。

 ジーパン男は右手に短剣を握っていた。刃渡り約二十センチ、ミラーフィニッシュの薄いブレードが陽光を反射している。斜め下へ向けて無造作に垂らしたそのブレードは、男の歩行に合わせてピニャピニャと奇妙に揺れていた。中国の伝統的な剣は硬度よりしなりを重視したものだが、男の短剣は限度を遥かに超えていた。こんな玩具のような剣でどうやって警官の指を切り落としたのか。

 他の警官達が異変に気づき始めた。

「そ、そいつ、捕まえろ」

 指を失った警官が叫ぶ。パトカーの手前にいた四、五人がジーパン男と短剣に目を向け、すぐに拳銃を構えた。

「何だお前は、武器を捨てろ」

 ジーパン男の歩みは止まらない。

「憲法第九条だ。邪魔だからどけ」

「止まれ。撃つぞ」

「威嚇は要らんから撃ってみろよ」

 憲法第九条と名乗った男はニッと笑った。牙のような歯列が覗く。

 警官達は戸惑いの表情で互いの顔を見合わせた。その場にいた百名近い警官が銀行から憲法第九条へ視線を移した。憲法は警官達の間を抜けようとする。

「お、おいっ」

 警官の一人が規定通り空に向けて威嚇射撃をした。銃声に驚いた強盗がガラス越しにこちらを覗いている。

 発砲に使われた拳銃が地面に落ちた。警官の右手首と一緒に。憲法が歩きながら右腕を振った。肘から先の動きは霞み、人々には光の煌きだけが見えた。ピュピュピュ、と風を切る軽い音を警官達は聞いた。

 憲法第九条の近くにいた警官六人、全員の両手首が切れて落ちた。肉と骨の覗く鋭利な切断面を彼らは呼吸も忘れて見入っている。憲法はパトカーの隙間を通り銀行の入口に辿り着いた。自動ドアが開いた。その頃になって漸く警官達の悲鳴が聞こえてきた。

「な、何だお前は」

 客の死体を跨ぎ、足を踏み入れた憲法第九条に早速拳銃が突きつけられた。濃いサングラスをかけた強盗の一人。他の二人は少し離れた壁際とカウンターの近くに立っている。片方はショットガンを構えていた。

「憲法第九条だ」

 澄まし顔で憲法が答える。

「動くなよ。警察じゃないよな。何しに来やがった」

 オートマチック拳銃の銃口は憲法の頭まで五十センチ以内にキープされていた。強盗も度胸はあるらしく手は震えていない。

「マスコミが大勢いたからな。ニュースになりに来たのさ」

 憲法は不敵な笑みを浮かべた。ピュピュン、と美しい音がした。

 強盗の突きつけていた銃身が切れて落ちた。床にぶつかる前にそれは縦に割れ、螺旋を描いた内側の溝が見えた。

「おっ」

 強盗が床に目を向けた。そこに新たな部品が追加された。弾倉ごと十六分割されたような拳銃と、それを握っていた指。指は全ての関節部で見事に切断されていた。そして掌はサイコロステーキ大に分解されている。

「おわわっ」

 強盗の右腕が落ちた。数センチごと輪切りにされたもの。

「わわああぁぁぁ」

 仰け反って叫ぶ強盗の頭がそのまま後方へゴロリと転がり落ちた。床を這わされた客達が見上げる中、強盗の体がスライス肉となってバラバラに零れていく。今憲法は短剣を垂らしているだけだから、最初の時点で一気にやってのけたということか。人間に可能なスピードではない。

 仲間の死体が血溜まりに積み重なった時、残った二人は何やら喚きながら発砲した。憲法第九条はその場に踏み留まり歯を剥いて笑っていた。右腕と剣が霞み、彼の周囲でキラキラと何かが光った。刃が風を切る音に硬い響きが混じる。

 次々と床に小さな金属片が散らばっていく。真っ二つに切断された、鉛の塊。

「無駄だよ」

 憲法は告げた。彼は、飛来する弾丸を切り落としてみせたのだ。一度に複数の弾を撃ち出す散弾も含めて。

 ショットガンを撃ち尽くした男は慌てて新しい弾を込めようとした。ピュピュンと音がして男が前のめりに倒れた。

 男の頭部はシュレッダーにかけられたように縦に割られていた。何十枚にも分かれたそれが床にぶつかった衝撃でバラリと広がり、脳のスライスが零れ落ちた。

 ショットガンの男と憲法第九条は五メートル以上離れていた。刃渡り二十センチの短剣がどうやって届いたのか。

 血と脳漿が服に触れ、女性客が狂ったような悲鳴を上げている。

 強盗の最後の一人は弾の切れた拳銃をいつまでも空撃ちしていた。尖った前歯を見せて憲法が近づいてくる。

「た、助けてくれ……」

 強盗が腰を抜かしてその場に崩れ落ちた。その肩を憲法が左手で掴み、軽々と宙に放り投げた。ピュピュピュン。強盗の体が床に落ちた時には手足と首を落とされ胴を縦に割られていた。ホルモンの長さに切られた腸と程良い大きさになった生レバーが散乱した。別の客が悲鳴を上げた。

 銀行強盗は全滅した。二時間半に及んだ膠着状態を、憲法第九条は二分で処理した。

「お前ら、出ろ」

 短剣を軽く振って出口を示し、憲法は行員と客達に告げた。揺れる刃に血糊は全くついていなかった。

 伏せていた人質達が慌てて立ち上がり、一斉に出口へと走った。女性客は悲鳴を上げながら逃げている。腰が抜けて立てない者は床を這って逃げようとした。彼らは互いに押し合いぶつかり合い、自動ドアのガラス戸にヒビが入る勢いで外へ転がり出る。

 憲法第九条は彼らの後からゆっくりと出た。百を超える銃口が憲法を待っていた。

「凶器を捨てろ」

 メガホンで刑事が怒鳴った。十メートルから二十五メートルの距離を置き、警官達は半円を描いて憲法を取り巻いている。解放された人質達が危険から少しでも遠ざかろうと彼らの間を抜けていく。警官にすがりつく人質もいる。向かいのビルの屋上から十名近い狙撃手が憲法を狙っていた。

 憲法はにこやかに両手を上げた。短剣を離さずに。

 そして右腕を斜めに振った。長い光の帯が警官達と人質達を通り過ぎた。

 百五十人の首や胴が、ズズ、と、ずれて落ちた。野次馬のどよめき。胸部を切られた警官が発砲した銃弾は虚空へ消えた。刑事のメガホンは頭部と一緒に水平に切られていた。折角助かった人質は全員が死んでいた。いや、地面を這っていて死の帯から逃れた客が二人。だが憲法が再度短剣を振り、腰から顎先までを斜めに割られて絶命した。憲法第九条の短剣は伸縮自在で、見かけの百倍以上のリーチがあるようだ。

 血みどろの死体の中心に立つ憲法を、幾つものテレビカメラが捉えていた。憲法はカメラに向かってウインクした。銃声と同時に銀光が跳ねた。狙撃手のライフル弾を落とし、憲法はビルへと走り出した。ビルの前に集まっていた野次馬達が左右に散ろうとする。間に合わなかった。憲法が剣を振り、百人以上の首がまとめて飛んだ。彼の足は短距離選手の数倍速かった。

 憲法が跳んだ。ビルの壁を蹴りそのまま垂直に駆け上がっていく。重力を無視した動きだ。テレビカメラが彼の姿を追う。屋上の狙撃手達がライフルを下へ向けようとする。

 地面に転がる死体達に、屋上から十数個の生首が追加された。

 十七階の屋上から壁面を駆け戻り、憲法第九条は魔法のように傷一つ負わず着地した。

 大勢の野次馬達は既に逃げ散り始めていた。憲法は彼らを逃がさなかった。凄いスピードで駆けながら彼は短剣を振り回した。ハリケーンに巻き込まれたようにバラバラになって人間の部品が散っていく。「こ、こっちに来ます」とカメラに喋っていた女性レポーターの美貌が面のように削ぎ落とされた。露出した頭蓋骨と脳がカメラに押しつけられた。

「ケ、ケ。ケヒャヒャ、ヒャヒャ、クケケケケ、ケケ」

 憲法は異様な声で笑っていた。一部の烏が上げるような、不気味にしゃがれた声。阿鼻叫喚の中で彼の笑い声は良く響いた。彼は心底楽しげに無差別殺戮を敢行した。曲がり角の向こうまで獲物を追っていき、すぐに全滅させて駆け戻ってくる。通りはバラバラ死体で埋まり、死体に転んだ男が地面にぶつかる時には七分割の死体と化していた。死体の上に死体が積み重なる。両手を合わせ跪いて助けを乞う女の脳天から腹部までが縦に割られた。死んだふりをしていた若者が頭を踏まれ下半身を切断された。両手で顔を覆って泣いている女子高生の両手と顔が切れてすっ飛んでいく。逃げるカップルの繋いだ手が切り落とされ、続いて首が落とされた。生き残りの警官が発砲するが、全て弾かれ殉職を遂げる。「化け物だ」逃げる警官もすぐ勇敢な同僚の後を追った。

「ケク、ケクク、クケッケ、ケヒャケケ。ケ。ケ」

 やがて、血と死体で埋まった通りに、憲法第九条だけが独り、立っていた。逃げおおせた野次馬はほんの一部だったろう。既に悲鳴を上げる者もなく、ただ、赤子の泣き声だけが聞こえていた。

 ベビーカーに歩み寄り、憲法は生後半年ほどの赤子を左手で抱き上げた。

 死体の上に尻をつき、四人のカメラマンが必死に憲法を撮り続けていた。何故か彼らだけが生かされていたのだった。

 そのうちの一人に歩み寄り、赤子を片手に憲法が聞いた。

「そいつは生中継か」

「は、は、はい」

 カメラマンは答えた。憲法は他のカメラマンにも声をかけた。

「お前らもこっち来な」

 三人がなんとか立ち上がり、よろめくようにしてやってくる。

 四台のカメラの前で、自信満々に殺戮者は名乗りを上げた。

「俺は憲法第九条だ。もう一度言うぞ。憲法、第九条だ。字はそのまんま」

 彼は短剣を持った右手の親指で胸の『9』を示しつつ、ゆっくりと発音してみせた。赤子がまだ泣いている。カメラマン達は震える手で黙って撮るだけだ。

「俺は『モラル』との対決を希望する。勝負の方法はまだ考えてねえが、とにかく返事をくれ。二十四時間待ってやるから新聞かテレビに返事を流せ。期限になっても返事がなけりゃあ、またどっかで人を殺す。対決拒否でも同じことだ。女子供も関係ない、無差別だ」

 そして憲法は白い歯を見せてニッと笑った。

「こいつはおまけの視聴者サービスだ」

 憲法は赤子を真上に放った。右手の短剣が煌いた。

 赤子が、爆発した。二センチ角に刻まれた無数の肉片がシャワーとなってカメラマン達に降り注いだ。カメラマンは細い悲鳴を上げた。失禁している者もいた。

 憲法は満足げに短剣を収めた。背中の鞘に、正確に一発で収まった。

「じゃあな」

 憲法第九条は蹲って泣いているカメラマン達に別れを告げ、来た時と同じように悠然と歩き去っていった。死体を踏みつけて建物の陰へ消え、二度と現れなかった。

 銀行前の通りには無数の死体が残された。

 

 

  六

 

 天城倫はひどい頭痛の中で目覚めた。こめかみを揉みながら時計を確認すると午後四時を過ぎている。アラームはオフになっている。最初からそうだったのか眠ったまま自分が切ったのか、天城には分からない。十四時間以上眠ってしまったことになる。とにかく彼は診察券を取り出し、急いで電話をかけた。

「すみません、午後二時の予約だったのですが寝坊しました。今日はもう駄目ですか。……はあ、ありがとうございます。今からすぐ行きます。どうもすみません」

 電話を切って安堵の息をついた後で、彼はふらつきながらユニットバスに駆け込んだ。洋式便器に嘔吐する。苦悶しながら何度も吐いたが、出てきたのは黄色い胃液だけだった。

「食べてないから当然か」

 天城は苦い笑みを浮かべた。

「栄養を摂らないと」

 だが彼は出発を優先した。鏡を見る。青白い顔だ。目の下に濃い隈が出来ている。シャワーを浴びてすぐ寝たためひどい寝癖がついていた。顔を洗っても隈は取れず、櫛でといても寝癖は直らない。しかし鏡を見つめるうちに髪が勝手に動いて整えられ、顔の血色も良くなり隈が消えた。

「頭囲は……」

 この一ヶ月で、頭の上半分の拡大は一見して分かるようになっていた。それが全体的に縮んでいく。縮み過ぎだ。鏡を睨み両手で側頭部に触れながら、違和感のない程度に天城は調節した。

 ネクタイを締める。着ているカッターシャツはよれよれで襟元も汚れている。替えのカッターはまだクリーニング屋に取りに行っていない。天城は溜息をついてカッターも調節した。スーツの皺も直す。

 本質は変えられずとも、見かけは変えられる。

 室内のあちこちに飾った花は健在だ。天城は出発する前に花瓶の水を替えた。不規則な生活でも食事をまともに摂らなくても、天城はそれだけはきちんと続けていた。

 駅へと急ぐ天城の足取りは次第にしっかりしてきた。

 列車の中では腰の曲がった老婆が荷物を抱えて立っていた。座席は全て埋まっているし天城も吊革を手に立っている。誰も席を譲ろうとしない。

 ためらった末、天城は今の姿で行動に移った。老婆を指差して乗客達に言った。

「どなたか、この人に席を譲ってくれませんか」

 乗客達はちょっと面食らった様子だった。老婆も同じような顔をしている。今の日本でこんな発言をする者は極めて少数になっている。露骨に嫌そうな顔をする男もいた。

 だがやがて、中学生らしい少年が無言で立ち上がった。

「ありがとうね」

 老婆は少年に礼を言い、天城にも会釈をして座席に腰を下ろした。

 天城もホッとして、少年に微笑みかけ会釈した。

 でもこれは『モラル』の効果なのだろうか。今の少年はモラルの登場する可能性を怖れて席を譲ったのだろうか。だとするとそれは善意と呼べるのだろうか。窓の外を流れる景色を眺めながら天城はそんなことを考える。

 これまでの天城は何も出来なかった。思っているだけで動かなかった。何もしようとしなかった。見ているだけだった。

 だから天城は、生きている間にやるべきことをやろうと考えたのだ。

 自分は今、勇気を出したのだろうか。そうも考える。自分が無敵のモラルであることを頼りにしてはいなかっただろうか。それでは意味がない。普通の人間にこれが出来なければ、意味がないのだ。

 誰かの声が聞こえた。頭の中に直接響く声。油断すると勝手に入り込んでくる。パンツがどうとか言っている若者の声。「全く、全く、全く」と繰り返し唱えている中年の男の声。言葉にならず、単に強い衝動が伝わってきた。これは性欲だろう。誰かが道を掃除している。ホウキが落ち葉を寄せる映像が一瞬見えた。少女が歌っている。カラオケボックスだろう。本人はご満悦のようだったが、実際のところかなりの音痴だった。それもすぐ遠ざかる。

 様々な断片を流れるままにしていたが、『憲法第九条』という言葉が入ってきて天城は意識を集中させた。少年の声。興奮している。社会や歴史の授業とはちょっと違うようだ。

 声の発信源は三つ後ろの車両だった。扉の近くに立っている中学生二人。朧なイメージの中で少年の片方が携帯電話をいじっている。

「凄えよな。モラルの次は憲法第九条かよ」

「挑戦状だよ。モラル対憲法第九条だよ」

 どういうことだろうか。モラルとは、このモラルのことだろうか。憲法第九条とは日本国憲法のことではなく何者かのことなのだろうか。少年は「凄え」を連発している。

「凄えよ。千人以上皆殺しだよ」

「皆殺しじゃないって。カメラマン生きてたじゃんか」

 寝ている間に何かとんでもないことが起きたのだろうか。天城の中に生ぬるい不安が広がっていく。

「発狂したんじゃねえの。赤ん坊……バラバラ……」

 もっと聞いていたかったが急に声が遠ざかった。頭痛がひどくなっている。ここで吐く訳には行かない。天城は必死に耐え、声に集中する余裕がなくなった。頓服の薬はポケットに入っている。駅のトイレで飲もう。

 何か起こったのならニュースになるだろう。天城は家に帰ってから確かめるつもりだった。

 駅を出る頃には吐き気も我慢出来るくらいになっていた。頓服薬が飲んだばかりで効いた訳でもないだろうが、治まりさえすればどちらでも良いことだ。流れ込んでいた雑多な声は遠いままだった。目立たない程度の早足で下町を進む。次第に古い住居が増え人の姿も減り、天城は別の世界に迷い込んだような気がしてくる。ここは平和だった。人間がいないから平和なのか。ふとそんなことを思って皮肉な気持ちになる。クリニックに着く前に天城は本来の姿に戻った。青白くやつれたみすぼらしい男に。

 外園クリニックの前にある公園。今日も幼稚園生くらいの男の子がブランコで遊んでいる。親の姿はない。無邪気な笑顔がこちらを向き、天城は笑顔を返してやった。

 彼は、この腐った社会のことなどまだ何も知らないのだろう。天城は思う。

 彼が大人になる頃、社会はどうなっているのだろうか。

 天城がそれを見届けることは出来ない。

 クリニックの二階を見上げる。窓際にいつもの車椅子の男がいた。ただし男は天城に気づくこともなく、虚ろな目で空を見据えているだけだ。天城は彼の名も知らない。黙って会釈だけしてクリニックのガラス戸を開けた。

「すみません。遅くなりました」

 受付の看護婦はいつもの穏やかな口調で応じた。

「大丈夫ですよ。今日のこの時間は丁度空いてましたから」

「すみません」

 待合には誰もいなかった。椅子に座って一分もしないうちに名を呼ばれ、天城は診察室に入った。

「調子はどうですか」

 椅子に座る外園静無医師が早速聞いた。

「すみません、遅れまして」

 天城は改めて主治医に謝った。医師は別段怒っている様子もなかった。彼はいつも超然としている。

「調子はあまり良くないようですね」

「はい。吐き気がひどくて。生活が不規則になっているのも悪いのかも知れません」

「痺れはどうですか」

「右手が全体的に痺れています。力が入りにくい感じもしますね」

「箸は使えています」

 医師が問う。

「一応使えます。たまに買い物の時に、小銭を落とすことはありますけど」

「目を見せて下さい」

 医師はいつものようにペンライトを手に取った。天城は真っ直ぐ前を見て瞬きしないように努める。

 光を当てていた時間は、この前よりも長かった。

 医師は言った。

「視野が狭くなっているようですね」

「そうなんですか」

「左側が狭い筈です。目を動かさずに見ていて下さい」

 医師は両腕を回し、天城の正面に大きな楕円を描いてみせた。左右対称の動きだったが、医師の右手が途中で消えた。

「分かりましたか」

 天城は頷いた。

「これまで気がつきませんでした。色々なところが少しずつ悪くなってるんですね」

「残った時間を大切にして下さい」

 医師は淡々と告げた。

 天城が初めて外園静無医師に診療を受けたのは二ヶ月と少し前になる。総合病院で化学療法と放射線治療を試した後でクリニックを紹介されたのだ。「ここならもしかすると」と言った前の主治医の口調は苦し紛れに見えた。

 結果として「もしかすると」はなかったが、ここに通院しながら死ぬことに不満はなかった。外園は不思議な医師だ。このクリニックには重い疾患や奇病の患者ばかりが通ってくる。入院患者もそうだろう。彼らが全て治る訳ではないが、それでも不満はなさそうに見えた。

「頓服薬は使っていますか」

 医師が尋ねた。

「はい。十七錠残ってます」

「一日二回までいいと言ったのに、かなり頑張っているようですね」

 外園医師が苦笑した。それは淡いものだったが、初めて見る彼の笑みだった。

「先生が、あまり飲まない方がいいとおっしゃいましたので」

 医師はすぐ真顔に戻った。

「あの薬は感覚と意識を鈍らせます。しかし、我慢出来ない時は使った方がいいでしょう」

 頓服薬は小さな赤い錠剤で、識別記号は何もついていない。成分が何なのか、天城は知らない。

「あの、先生……」

 天城はずっと抱いていた疑問を口にすることにした。

「脳腫瘍で、体質が変わることってありますか。いや、体質というか、例えば、幻聴のようなものが聞こえるとか」

 なるべく表現を丸めたつもりだった。

 医師は特に表情を変えず答えた。

「それはあるかも知れません。脳は精神活動を司る器官ですし、脳腫瘍や頭部外傷後遺症で性格変化を起こす例は珍しくありません。幻覚も充分にあり得ることです。また体質に関して言えば、自律神経や内分泌のバランスが変化して全身に影響を及ぼす可能性もあるでしょうね」

「そうですか。分かりました」

 外園医師は天城に「幻聴があるのか」とは聞かなかった。ただ、全てを見透かすような瞳が静かに天城に向けられていた。

「食後の薬は忘れないように。また二週間後に来て下さい。ただし、もし調子が悪いようなら早めに来ても構いません。夜間でも、事前に電話を入れてくれればね。私はここに住んでいます」

 慈愛でも同情でもなく医師の責務として彼は言った。

「どうもすみません。なるべくそうならないように気をつけますけど。では、ありがとうございました」

 天城が診察室を出ると、待合の椅子に若い女性の入院患者が座っていた。何度か挨拶を交わしたことのある、顔の左半分を黒い布で覆った女性。天城を見て立ち上がり、ゆらゆらと特有の足取りで近づいてきた。

「こんにちは」

 天城は挨拶したが、どうも女性の様子がおかしかった。痩せた手が震えている。緊張して、怯えているような表情だった。

「気をつけて……」

 天城の腕にしがみつくようにしてそう告げ、彼があっけに取られているうちに急いで階段から去っていった。

 どういう意味だろうか。彼女には前に「頑張って」と言われたことはあるが、それ以上の話をしたことはない。自分と同じように病に苦しむ天城を慰めるつもりだったのか。それにしては「気をつけて」という台詞はおかしくないか。彼女の知的レベルや精神状態については知らないが、何か現実と違う別の世界を見ているのだろうか。

 それとも、彼女は天城のやっていることを知っているのだろうか。警告だとすればどんな危険が迫っているのだろうか。

 確認しておきたかったが彼女にうまく意識を集中させることは出来なかった。覗き趣味のようなことはしたくないので天城は彼女を追うのを諦めた。感覚をコントロールして様々な場所や人物の様子を探ることは出来るが、探索範囲にはかなりむらがある。たまに被害者に告げる「いつでも見ている」という言葉は嘘だった。天城は神ではなく、全てを把握出来る筈もない。

 このクリニックの周辺地域は特に読み取り辛いようだった。

 受付で二週間分の薬を貰い、金を払った。頓服薬も一日二回使用を想定して二十八錠入っている。これで合計四十五錠になる。出来るだけ使わないようにしようと天城は思う。

 街は夕陽に染まり始めていた。駅へと歩く間に天城はよれよれの姿を変化させて身なりを整えた。この力を使えばずっと着替えなくても良さそうだが流石にそこまでは出来ない。また、集中が乱れると変身が解けてしまうこともある。

 モラルの正体がばれることは避けねばならない。保身のためではない。モラルが国民の意識に影を落とすためには、飽くまで底の知れない不気味な存在でなければならないのだ。

 いつもの駅で天城は降りた。本当はもう一つ先の駅で降りた方が自宅に近いのだが、寄る場所があるためだ。ぶり返してきた頭痛を気にしながら通りを進み、小さな花屋が視界に入る。

 北沢という名札の彼女がいた。

 天城は彼女の下の名前を知らない。年齢は二十三、四辺りだと思うがそれも知らない。化粧の薄さも艶のある黒髪も、物静かながら芯は強そうなところも、首筋や手元にふと垣間見える生活感も、柔らかな声も控えめな微笑も、その全てが天城は好きだった。

 二年前に通りかかったこの店で彼女を見かけて以来、平日はほぼ毎日花を買いに寄った。デートに誘うどころか気の利いた冗談も言えず、ちょっとした世間話を交わす勇気さえなかった。でもいずれは足を踏み出せるだろうと思っていた。

 自分の死期が見えた今、踏み出すことは許されなくなった。彼女の人生に関わる権利を天城は持たなかった。彼に出来るのは、常連客として花を買い続けるだけだ。

 ただ、彼女が幸福な人生を送ってくれることを祈っている。彼女が幸福に暮らせるような、そんな社会になることを祈っている。

 天城は店に入った。調整した姿が崩れないように気をつけながら。

「こんにちは」

「いらっしゃいませ」

 彼女がいつもの控えめな微笑で迎えた。

「今日はバラを頂けますか。三本」

 天城は間を置かず言った。自分が緊張してみっともない失敗をしでかすのが怖かったから、いつも早く済ませる。ならばここで花を買わなければ良い、ということにはならないので困ったものだ。

 毎日のように花を買いに来る天城のことを、彼女はどう思っているのだろうか。能力を使って彼女の心や生活を探るような真似は天城には出来なかった。

 三輪のバラを束にして、釣銭を手渡す時に彼女の指が天城の手に触れた。なめらかで、温かい指だった。

「ありがとうございました」

 互いに礼を言って天城は店を出た。少しの間見送ってくれる視線を感じながら。

 天城の手は既に大勢の血で汚れている。

 もう何人殺しただろう。七十三人まではきちんと数えていた。以降はニュースや新聞に頼ることになった。今は四百八十六人か七人の筈だ。負傷者はその数倍に上る。一人一人の顔を覚えておくつもりだった。それが実行者の義務だと思っていた。しかし今は人数さえも思い出せないとは。

 色々と残虐な殺し方をしてきた。彼の両手はイメージ通りの凶器に姿を変えて役割を果たしてきた。刃となって首や手足を刎ね、チェーンソーや電動鋸で肉を裂き、鉄球となって骨を砕いてきた。眼球を抉り耳鼻を削ぎ落とし顔の皮を剥ぎ、内臓を引き摺り出して軒に吊るしたこともあった。果たしてそこまでの残酷さが本当に必要であったのか。戒めとして最も効果的なやり方を考えた結果だったのだが。

 いや、本当は、単に自分がやりたかっただけではないのか。品行方正に生きて報われることのなかった鬱憤を、彼らを使って晴らしているのではないのか。社会の道徳向上を名目に自分の隠れた残虐性を満たしているだけではないのか。相手の首を刎ねても罪悪感を抱かなくなっている自分にふと気づくことがある。ひどくなっていく吐き気は自己嫌悪のせいもあるのではないか。

 自分が一体何を目指していたのか、天城は時々分からなくなる。脳腫瘍に人格も思考力も冒されてしまっているのではないか。いや、腫瘍のせいにしてはならない。それはただの責任回避だ。

 死ぬ時は。

 無力な善意の一般人として殺されるべきだと、そう、思っている。暴走族やヤクザに面と向かって注意するのもいい。或いは、ホームから線路に落ちた人を助け上げて自分は列車に轢き潰されるのもいい。安全な立場にいるからやるのではないということを、どんな時にも正しいことをやるべきなのだということを身を以て示し、社会規範となって死なねばならないのだ。

 人に苦痛を与えるからには、自分も同じ苦痛を受ける覚悟が必要だ。その覚悟があるということを天城は自分に証明しなければならなかった。

 しかしそれはもう少し先のことだ。体が良く動くうちは活動を続けながら社会の反応を見守っていかねばならない。

 天城はバラの花束を片手にコンビニに入った。サンドイッチとドリンクタイプのカロリーメイトを買った。胃を早く通り過ぎて吐かずに済む食べ物がいい。そのうちカロリーメイトやゼリーだけの食事になるのではないだろうか。

 クリーニング屋でカッターシャツを受け取る。腹ごしらえをして着替えたらまたモラルとして出発だ。全国に感覚の網を這わせ対象を選んでいくことになる。いやその前にニュースを確かめなければ。夕刊も読んでいなかった。そう言えば憲法第九条がどうとか噂になっていた筈だ。

 アパートに戻り、入っていた夕刊を開いてサンドイッチを食べながら読んでいく。一面の記事は東京中央区の三森銀行で強盗が籠城しているというものだった。既に何人か死者が出ているようだ。経過についてはテレビで確認出来るだろう。モラルについての記事は多くなかった。今日はずっと寝ていたのだから事件は起きていないのだ。社会評論家が『モラルの登場は社会の歪みを反映』という題で何やら書いていた。

 喉を通るサンドイッチはザラザラした感触だった。天城はカロリーメイトで流し込んだ。

 天城はテレビを点けた。丁度ニュースが流れていた。青ざめた顔でレポーターが話している。

「東京の中心部でこのような凄惨な事件が起きることは……」

 後ろで警官が道を封鎖しているが、その向こうに異様なものが見えた。

 広い通りのほぼ全域をブルーシートが屋根と壁になって覆い尽くしていた。内側からのライトに照らされ仄かに光っている。上空からも決して見せたくないものが中にあるのだ。

 ゾクリと嫌な悪寒が天城の背を撫でる。

「……これは日本の非常事態と考えた方が良いのではないでしょうか」

 風でシートの壁が少しめくれ、奥の地面が少しだけ見えた。黒っぽい染みがついている。血痕だということはすぐに理解出来た。

 警察が担架で何かを運び出している。かぶせられた毛布の膨らみは人間の形とは違っていた。ならば何なのか。それがやはり人間であることを天城は悟っていた。

「犠牲者の遺体が少しずつ運ばれていきます。バラバラに切断された死体が殆どであるため、犠牲者の正確な人数を把握するには日数を要するのではないかと思われます。大勢の警察官が周囲を捜索していますが、犯人の足取りは依然として不明で……」

 画面の右下に浮かぶテロップは『犠牲者千人超? 白昼の大虐殺 謎の憲法第九条がモラルに宣戦布告』となっていた。

 天城は、総毛立っていた。

 画面はスタジオに戻り、見慣れた顔のニュースキャスターが言った。

「三森銀行の籠城事件をきっかけに起こったこの虐殺ですが、まだ詳しいことは分かっておりません。繰り返しますが、『憲法第九条』と名乗るこの犯人は、短剣のような刃物で警官を含め千人近い人々を殺戮した上で『モラル』との対決を宣言しています。二十四時間以内にモラルが承諾の返事を新聞かテレビで示さない場合、再び無差別殺人を行うそうです。期限は明日の午後三時四十分頃ということになります。また新しい情報が入り次第お伝えします」

 何だ、これは。

 どういうことだ。

 『憲法第九条』という男は、刃物で千人以上を殺したのか。たった一人で。そんなことが可能なのか。人間業ではない。天城は自分が身に着けた能力をかなり特殊なものだと思っていたが、他にもそういう者がいるのか。

 そんな化け物が、対決を希望している。

 対決とはつまり、殺し合いということだ。

 これはどういう展開だ。こんなことは、予想してなかった。

 別のニュースが始まったので天城はチャンネルを変えた。本来アニメを放映している筈の局も緊急で事件のニュースを流している。天城は何度もチャンネルを変えて状況の把握に努めた。

 三森銀行に入った強盗が人質を取って籠城したため警官と野次馬が集まり、幾つかの局が生中継や収録を行っていた。そこに突然憲法第九条という男が現れたということになる。

 撮影されたビデオ映像の一部が放映された。あまりに残酷な場面や死体の映った部分はカットされているが憲法第九条と名乗る男の姿ははっきり確認出来た。

 『9』の字が入った黒いTシャツにジーパンというラフな服装の男だった。ワイルドな風貌を平気で晒している。お気楽を装っているが底光りするような瞳が恐ろしい。男の背中にある短剣の鞘が見えた。何か彫刻が施されているようだ。男の握る短剣の刃がピラピラと揺れている。男が剣を振るところは天城にも残像でしか見えなかった。実際に対峙して意識を集中すれば見えるだろうか。分からない。短剣は伸縮自在でとんでもないリーチがあるようだ。拳銃がバラバラになって落ちる映像もあった。金属も切る刃。

 逃げ惑う人々が映った。クキキとかケヒャヒャとか異様な笑い声を上げながら憲法第九条が追い回す。地面に転がる何かにモザイクがかかっていた。全体にモザイクがかかり悲鳴だけが響く場面もあった。

 カメラマンを呼び寄せて憲法第九条の顔がアップになった。彼はカメラに向かいモラルとの対決を宣言し条件を告げた。彼は酷薄な笑みを浮かべ、全てが犬歯のように尖った歯列を見せつけた。視聴者サービスだと言って魔人が赤子を投げ上げるのが映った。

 映像は突然途切れた。

「この後『憲法第九条』は乳児を、バラバラにしました」

 ベテランの男性キャスターは泣きそうな顔で声を震わせていた。

 猛烈な吐き気が襲ってきた。トイレに辿り着く前に口の中まで上がってきて、天城は両手で口を押さえた。レタスと卵とカロリーメイトの味がした。

 折角食べたものを便器に吐いている間、キャスターの声が聞こえていた。

「映像にもありましたが『憲法第九条』はモラルとの対決を希望しています。二十四時間以内に、今からですと約二十一時間以内ということになりますが、『モラル』が返事を発表しない場合、『憲法第九条』はまた無差別殺戮を行うということです。『モラル』による返答はまだありません。新聞やテレビなどの媒体を使った返答を『憲法第九条』は希望しています」

 胃に入れたもの全てを出しても吐き気は収まらなかった。

 憲法第九条とは何者だ。天城は世界に漂う情報の波を漁って答えを探そうとした。様々な人の意識が流れ込む。憲法への恐怖、信じられないと戸惑う気持ち、連絡がつかない娘が被害者に含まれているのではないかと心配する親。逆にこの大殺戮イベントを面白がる人々もいた。全く関係のない雑多な要素も紛れ込んだが、現場に居合わせたカメラマンの意識に触れることが出来た。しかしまだパニックから醒めておらず、強烈な映像が頭の中に繰り返されるばかりで特別な情報は得られない。その映像は、赤子が一瞬で無数の細切れ肉となって飛び散る場面だった。吐き気が。頭が痛い。天城はそれでも探索を続ける。

 しかし憲法第九条自身の情報は得られなかった。彼の意識、素性、居場所、何も掴めない。たまたま網に掛からなかったのか、それとも何らかの力によってマスクされているのか。頭が割れるようだ。脳味噌を吐いてしまいそうだ。

 天城は探索を中断してもう一度吐いた。少量の胃液だけだった。食後の薬と一緒に頓服薬も飲んだ。もう食後ではなくなってしまったが。

 吐き気はあまり軽くならなかった。少しでも栄養を摂っておかねば。天城は冷蔵庫に入れていた別のカロリーメイトを出して無理矢理流し込んだ。

 午後七時になると緊急特番が始まっていた。『モラルと憲法第九条 二人の殺人鬼は日本社会の負債なのか』というテロップがついている。

 パネリストの一人は虐殺の場にモラルが駆けつけなかったことを責めていた。

「こんな大事な時に現れなくて何がモラルですか。これで他人の不道徳を罰する権利がありますか」

「でもたまたまテレビを観ていなかったのかも知れませんよ。モラルだって不眠不休という訳ではないでしょうから」

 別の評論家が擁護する。以前からモラルに肯定的な発言をしてきた男だが、今回ばかりは苦しい立場のようだった。

「ハッ。煙草のポイ捨てとか些細なことはしっかり見ているのにですか。そもそも銀行強盗が籠城を始めた時点でモラルが解決していればこんな大惨事にはならなかった。そうではないですか」

 ここで司会者が突っ込みを入れる。

「ということは、モラルは銀行強盗を取り締まるべきだと大橋さんはおっしゃるんですかね。警察の代わりに日本の治安を維持すべきだと。つまり大橋さんは暗にモラルの存在を肯定しておられる」

「いや、そこまでは言ってないでしょう。私はただ……」

 大橋と呼ばれたパネリストが慌てている。

「いえ、言っておられますよ。この惨事がモラルの責任とおっしゃるのはそういうことでしょう」

 司会の御坂草司はキャスターとしてのキャリアも長く、平日夜十時の枠にニュース番組を持っている。理性的で誤魔化しなく核心を突く論調は天城も気に入っていた。といっても御坂がモラルを肯定している訳ではないが。

 パネリストが弁解する。

「いや、ちょ、ちょっと待って下さいよ。ただ、とにかく、モラルが騒ぎを起こさなければ、憲法第九条なんて胡散臭い男が便乗して登場することもなかったってことを言いたいんですよ」

 御坂が届いたばかりの書類に目を通す。

「その憲法第九条についてですが、彼の映像が放映された後、多数の目撃情報が寄せられています。コンビニで雑誌を立ち読みしていた、飲食店で無銭飲食をされたなどもありますが、憲法第九条と名乗る男に腕を切り落とされたという情報と知人が殺されたという情報も届いています。現在詳細を確認中です。目撃情報は主に首都圏、特に東京都心部に集中しているようです」

 日本地図のコンピュータ画像が表示された。視聴者からの情報による目撃地点が赤い点で示されている。今は数十の点があった。

 書類を読む御坂の目つきが鋭くなっていた。一瞬カメラの横の誰かに視線を向けてから彼は言った。

「これは当TTJの記者からの報告ですが、憲法第九条に似た男が首相官邸や国会議事堂内部で時折見かけられていたということです。憲法第九条本人と確定した訳ではありませんが敢えて公表させて頂きます」

 御坂がまたカメラの横を見た。

「今は少しでも多くの情報提供が必要な時ですから、こういうことを自粛する配慮は逆に有害だと私は考えています。ただし、まだ状況は混乱していますので、視聴者の皆さんも事実関係が確認されるまでは早合点せず冷静に受け止めて下さい。また、今回の虐殺については石村総理から何らかのコメントが予定されている筈です」

 カメラの横ではディレクターが無言で抗議していたのだろう。報道すべきでない情報を御坂は暴露したらしい。

 テレビの会話を聞きながら天城はパソコンを起動させてネットの反応を探った。頭痛はするが吐き気は収まってきている。

 巨大匿名掲示板では憲法第九条についての新たなスレッドが乱立していた。『皆殺し 憲法第九条』や『腰抜けモラル 殺戮の場に現れず千人見殺し』『モラルは挑戦を受けろ』などのタイトルを見かける。生中継を観ていて駆けつけなかったのならその臆病ぶりを、観ていなかったのならその間抜けぶりを多くの書き込みが非難していた。虐殺の犠牲者を悼む声や、モラルのやっていることと憲法第九条の登場とは筋が違うと冷静に主張する書き込みもあったが、熱狂の中で彼らは圧殺されていた。

 だが、何より多かったのは、モラルと憲法第九条という二人の魔人の対決を楽しみにしているという書き込みだった。どちらか勝つか賭けるスレッドまで出来ていた。憲法第九条の武器は中国の腰帯剣に似ていると自慢げに薀蓄を語る者もいた。

 千人の一般人が惨殺されたことなど関係ない。彼らは面白がっている。同じように、モラルを応援してきた人々も単に痛快な虐殺を楽しんでいただけではなかったか。自分の意図がきちんと伝わっているのか天城はいつも不安だったが、それが今絶望の黒い塊となって喉元までせり上がってきた。

 天城は苦労して、塊を飲み込んだ。

 テレビでは石村誠三総理大臣のインタビューが流れ出した。

「……犠牲となった皆さんについては心から遺憾に思います。これから全力を挙げて『憲法第九条』と名乗る犯人の逮捕に臨みます」

 日頃は温厚な顔の首相も、今日ばかりは苦虫を噛み潰したようになっていた。

「自衛隊の出動については考慮しておられますか」

 記者の一人が聞いた。

「それはこれから検討します」

「しかし何百人もの警官があっさり皆殺しにされているんですよ。モラルさえ捕まえられないのに、あんな化け物に警察が対応出来るとも思えませんが」

「自衛隊なら対応出来るというのかね」

 総理の声は怒声に近かった。騒ぎが続いて疲れが溜まっているらしい。

「第一、憲法第九条という男の素性も不明だし何処に自衛隊を差し向けろというのかね。犯人が基地まで出向いてくれるなら別だが。とにかく、これから最善の方法を検討します」

「憲法第九条が首相官邸で見かけられたという話もありますが」

 これは別の記者の質問だった。総理が鋭い目つきで記者を睨みつけた。

「官邸に不審な人物が入れる筈がないだろう。適当な噂を広めてもらっては困る」

「あの、私は見たことあります」

 記者席から一人が手を上げた。

「TTJテレビの松本です。半年ほど前に首相官邸の四階廊下ですれ違ったことがあります。服装も同じで、背中に短剣を差していたので覚えています。その後にも二度ほど……」

「それは本当かね」

 総理の目が鋭さを増した。

「君は日本国の総理大臣に重要な嫌疑をかけようとしているのだよ。その覚悟を持って発言したまえ。今日の事件の憲法第九条と君の見た男が百パーセント同一人物であると、確信を持って君は言えるかね」

「いや、そこまでは……」

 記者は顔を赤らめる。

「それについてはこちらでも調査する。だが改めて断言しておくが、私は憲法第九条という男のことは知らないし何の関わりもない。そもそもそんな化け物を雇う予算などうちにはないのでね」

 最後の台詞は冗談のつもりだったのだろうがこの状況では浮いてしまっていた。

 総理は嘘をついている。天城は直感した。彼は憲法第九条を知っている。だが今回の事態に困惑している様子で、黒幕という可能性は低かった。総理から少しは憲法の情報を辿れるだろうか。試してみよう。頭痛がもう少し軽くなったら。

 インタビューは終わった。

 殺戮の生中継を録画していた者がネット上に無修正の映像を公開していた。天城も見ておくべきだと思ったがアクセスが集中しているらしくダウンロード出来ない。そのうちにサーバーダウンしてしまったようだ。それともプロバイダーが削除したのかも知れない。おそらくまた誰かが公開することだろう。

 匿名掲示板のどちらが勝つか賭けるスレッドでは憲法第九条がかなり優勢になっていた。憲法第九条は飛来する弾丸を全部切って落としたということだ。反射神経などというレベルではない。天城にはそんなことは出来ない。出来るとすれば全身を硬化させて弾丸を通さなくすることくらいだろう。それで、弾丸を切る憲法第九条の刃を防ぐことが出来るだろうか。

 こういう展開は望ましいものではないが、天城は憲法第九条の挑戦に応じるつもりになっていた。応じなければモラルに対する国民の評価は地に墜ちるだろう。そうなれば、モラルの主張に誰も耳を貸さなくなり全ては無意味となる。

 モラルの姿で新聞社でも訪問しようと思い始めた時、テレビから驚きの声が上がった。

「お、おい、君は……」

 人々のざわめき。天城はパソコンのディスプレイからテレビ画面に目を移した。

 黒いTシャツにジーパン姿の男が映っていた。パネリスト達の顔に浮かぶ驚愕と恐怖。

 VTRではなく、憲法第九条本人がスタジオに登場していたのだ。

 

 

  七

 

「よう、お疲れさん」

 TTJ局のスタジオに悠然と乱入してきた男が片手を上げてパネリスト達に挨拶した。生中継とビデオで何度となく放映された殺人鬼と、寸分たがわぬ姿だった。恐るべき短剣は背中の鞘に収まって一体の骸骨を形成している。

 ローテーブルを弧状に囲んだソファーに六人のパネリストが座る。司会の御坂草司は左端の少し離れたソファーで、彼の前にはプリントの束があった。

 パネリスト達は殺人鬼の登場に動揺し、半数は立ち上がりかけていた。テレビに映らない場所ではスタッフ達が逃げる用意をしている。カメラマン達に魔人が告げた。

「お前ら、ちゃんと撮ってろよ。逃げたら殺すぞ。あ、そうそう、放映してないと皆殺しにするからな」

 カメラマン達はそれで動けなくなった。他のスタッフも下手な真似をすると危険だと判断したのだろう、背を向けることも出来ずに固まっている。

 スタジオで唯一、御坂草司だけが冷静だった。彼は五十才前後で豊かな髪には白いものが混じっている。知的で洗練された物腰には嫌味がない。喋っている時以外の唇は固く結ばれているが、稀に見せる笑みは茶の間の奥様方を痺れさせた。ノンフレームタイプの眼鏡の奥で、彼の瞳はしばしば抉り込むような鋭さを見せる。

 今、御坂は眉をひそめて乱入者を正面から見据え、まず問うた。

「君が『憲法第九条』か」

「そう、本物だ。殺人鬼に何かご質問は」

 憲法第九条が気楽に応じた。御坂は同じ口調で告げる。

「ここは関係者以外立ち入り禁止だ。君のような者が来るべきところではない」

「俺の辞書に立ち入り禁止なんて言葉はないんでね。首相官邸だろうがロシアの潜水艦の中だろうが、何処だってフリーパスなのさ。それにな、俺は関係者だろ。いや当事者と言った方がいいかな」

 憲法第九条はテーブルの中央に乗って胡坐をかいた。パネリスト達は中腰のまま困っている。その一人の胸元から憲法はワイヤレスマイクを奪い取った。

 御坂が続けて問う。

「つまり君は首相官邸を出入りしたことを肯定するのだね。石村総理とも関係があると」

「関係、ねえ……」

 憲法第九条がマイクを寄せながらわざとらしく頭を掻いた。

「まあ、セイちゃんにはコーヒーを奢ってもらったりしてるけどね。それほど世話にはなってねえなあ。あいつも可哀相な男だよ。モラルの件でいちいち国民に責め立てられて、頭の天辺が禿げちまった。だから俺がセイちゃんのために、一肌脱いでモラル退治に乗り出したって訳だ」

「今日の殺戮は総理の指示だと」

 憲法第九条の姿勢は動かぬまま右腕だけが霞んだ。

「むっ」

 御坂が低く呻いた。眼鏡が左を下にしてずれていた。彼は屈んで床に落ちたものを拾い上げた。

 それは、切り落とされた、御坂自身の左耳だった。スタッフの誰かが細い悲鳴を上げた。

「勘違いするな。俺に命令出来る奴なんざいねえよ」

 憲法第九条の右手に短剣が握られていた。伸縮自在の柔軟な刃がライトを反射して光る。と、憲法はパネリストを振り返り、邪悪な笑みで尖った歯を見せつけた。

「そうそう、大橋ちゃんだっけ」

「え、あ……」

 ソファーの真ん中にいた大橋の顔が泣きそうになった。

「さっき俺のことを『胡散臭い男』とか言ってたな」

「いや、それは、ちょっと待っ」

「死刑」

 憲法第九条が短剣を振った。ヒュコンと軽い音がして大橋の頭頂部が厚さ二センチの皿になって左に飛んだ。次にその下二センチの輪切りが右に飛んだ。またその下が左に、更にその下も、大橋の頭がどんどん削れてなくなっていく。手足が派手に痙攣する。他のパネリスト達は腰を抜かし「あうわわ」など意味不明の声を洩らしながらソファーから這い逃げていく。カメラは凍りついたように惨殺映像を捉え続ける。女性アシスタントが甲高い悲鳴を上げた。

 憲法が後ろざまに短剣を振った。伸びた銀光が叫ぶアシスタントの首を切断した。首の断面から血と一緒にプヒューと高い息が洩れた。生首の恐怖に歪んだ顔が床に激突して更に歪み、その上に胴体が倒れ込む。

「生放送中なんだぜ。静かにしてくれよ」

 呆れたふりをして憲法が言った。その時点で大橋の体は胸部の半ばまでなくなっていた。ちぎれた両腕が左右に転がっている。

「憲法第九条。君の目的は何だ」

 改めて問うたのは御坂草司だった。彼は眼鏡を外し、左耳のあった部分をハンカチで押さえていた。顎に血の筋が伝っている。

 それでも彼は鋭く抉り込むような視線を殺人鬼に向けていた。

 片方の眉を少し上げ、目だけを右に動かして憲法第九条が御坂を見返した。取るに足りない者を仕方なく相手にするというように。大橋の死体と血で汚れていなかったら彼はソファーに腰掛けていただろう。

 今、セットは憲法第九条と御坂の二人だけになっていた。

「ここに来た目的なら、モラルの返事がまだ来ねえから駄目押しに来ただけさ」

「君は返答の期限を二十四時間後にした筈だ。まだ期限は来ていないのに何故殺す」

「いいかい。俺は期限が来たら殺すとは言ったが、期限が来るまで殺さないとは言ってないぜ」

「では、モラルと対決する目的は何だ」

 少し考えてから憲法第九条が答える。

「そうだな。奴ばかり目立って騒がれてムカつくってのが一つ。折角の祭りに参加しないと勿体ないってのが一つ。それに、調子に乗ってる奴をぶち殺すのが好きだ、ってとこかな」

「三森銀行周辺で君は警官を含めて千人以上を殺害している。これはモラルへの対決宣言を全国放送するためと自分の力を見せつけるために行ったのか」

「そう。良く分かってるじゃねえか」

「君は宣言の後で乳児をバラバラにして殺している。デモンストレーションはもう充分だったろう。何故罪のない乳児を、あんな残虐なやり方で殺す必要があったのかね」

 憲法第九条は唇を歪めて牙を覗かせ、ケケッ、と嫌な笑い声を上げた。そして言った。

「そっちの方が面白いからだ」

 スタジオが静まり返っていた。スタッフは瞬きをするのにも細心の注意を払っているようだった。這っていったパネリスト達はスタジオを出る勇気もなく隅の方で震えている。

 大きく深呼吸をしてから、御坂草司は憲法第九条に告げた。

「君は最低のクズだな」

 スタッフ全員の顔から血の気が引いた。

 憲法第九条の表情は動かなかった。彼はただ右手を振った。書類を握っていた御坂の右腕が付け根からボタリと落ちた。鋭利な断面から血が噴き出していく。御坂はすぐにハンカチで押さえたが、すぐに溢れ出し床を染めていく。

 床に落ちた右腕が、ブバッ、と妙な音を立てて破裂した。爆発ではなく、散らばった破片を見ると数センチ角のブロックに切り分けられているのだった。憲法第九条は一瞬で剣を何十往復させたのか。

 腕を落とされただけなら手術でなんとか繋がる可能性はあったが、これで見込みは完全になくなった。

「もう一回言ってみろよ」

 憲法第九条の声はむしろ低く、彼はテーブルの上に立ち、冷たい薄笑いを浮かべていた。

 苦痛と出血のため顔が青ざめていたが、それでも御坂は真っ直ぐに殺人鬼を見上げていた。

「君は分不相応な力を手に入れた小学生だ。何の葛藤も、理想も、誇りもなく、自分より弱い者をいたぶって楽しむ。まさしく生物そのものだ。君は自分が特別な存在だと思っているかも知れないが、中身はただの凡庸な男だ」

 憲法第九条がまた右手を振った。スタッフの誰かが悲鳴を呑み込んだ。

 御坂の左足が大腿の半ばほどで切断された。やはり数百に分解されて床に散らばる。足からの出血は激しかった。みるみる御坂の顔が白くなっていく。

「なかなか挑発がうまいじゃないか、勇者様。俺はちょっと感動しちゃったよ。まだ何か言い残すことはあるかい」

「ある。君とモラルにテレビで公開討論をさせてみたい。君に自分なりの主張があるのなら応じたまえ……ないなら……勝手にし、ろ……」

 片手片足の御坂は次第に前のめりになっていき、とうとうソファーから転がり落ちた。血溜まりが広がっていく。

 憲法第九条は返り血のない綺麗な刃を背中の鞘に収めた。

「ふん。まあ、いいだろう。司会はお前だ。生きてりゃあな」

 憲法はマイクを置き、大きく伸びをした。

「じゃあ帰るわ。早く血止めしてやれよ」

 スタッフに言うと、血の海となったセットを離れ、震えているパネリスト達の横を通って彼はスタジオを出ていった。

 駆けつけてテレビ局を包囲していた警察は、及び腰で内部を捜索したものの憲法第九条に出くわすことはなかった。

 昼間の事件と同じく、憲法第九条は忽然と姿を消した。

 

 

  八

 

 TTJは『Tell the Truth Japan』の頭文字を取ったものだ。午後九時十七分、そのTTJのテレビ局の通用門受付をモラルが訪れた。

「あの、すみません」

 声をかけられて五十代の警備員はかなり面食らっていた。長過ぎるコートにチューリップハット、鬼の面という現物を目の当たりにしたためか。或いは、今も大勢の警官が内外を捜索している状況で顔を出したことに驚いているのだろうか。

「な、何だ、本物か」

「はい、本物のモラルです。証拠を見せた方がいいですか」

「い、いや、そういう訳じゃあ」

「一応見せておきます。すみません」

「あっちょっ……」

 モラルが右腕を上げた。手袋を填めた右手が袖の中から現れてチェーンソーに変化した。怯える警備員の前で唸りを上げて木製のカウンターに切り込まれ、三十センチほどの深い傷跡を残した。

 すぐに手を戻してモラルは言った。

「憲法第九条という男との対決の件ですが、承諾します。もしこちらの局が枠を用意してくれるのなら公開討論も応じます。番組のスケジュールについては新聞かテレビのニュースで公開して下さい。参りますから。以上のことを担当の人に伝えて下さい。よろしいですか」

「ええっと、対決は承諾で、公開討論も承諾、だね」

 危害を加えられることはないと理解したようで、警備員はメモを取りながら確認した。物珍しさもあるのだろう、書きながらチラチラとモラルを見る。

「はい。いつまでにテレビ局に来ればいいかも教えて下さい」

「でも、いいのかい。多分警察も沢山来るよ」

 警備員が聞いた。

「構いません。憲法第九条も構わないでしょう。それで、御坂草司さんは大丈夫なんですか」

「どうなんだろうね。大急ぎで救急車で運ばれていったよ。今は手術中じゃないかな」

「そうですか。御坂さんが司会ならいいんですが」

「モラルさんも頑張ってくれよ。あんな憲法第九条なんて糞野郎に負けるなよ」

「ありがとうございます。でも勤務中に飲酒はいけませんよ」

 指摘されて警備員は真っ青になった。彼は酒の小瓶の入った下の引き出しを反射的に押さえていた。

 だがモラルは何もしなかった。一礼して彼は言った。

「それでは失礼します」

「あ、お前は」

 通用門から覗いた警官が驚きの声を上げた。慌てて拳銃を出そうとする前でモラルが軽く跳躍した。着地するまでの間に全身が平たく細くなり、帯のようなものになって警官の横を通り過ぎていった。

 憲法第九条が消えたテレビ局で、モラルも消えた。

 

 

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