一
二人の魔人が退場した後もスタジオの様子は放映されていた。車椅子の御坂草司に数人のスタッフが駆け寄る。左手を上げてそれを制し、画面に向かって御坂が言った。
「予定より早いですが、番組を終了させて頂きます。私はモラルも憲法第九条も支持している訳ではありません。しかし真実の報道に携わる者の責務として、二人の戦いの行く末を見守らせて頂くつもりです」
言い終えると大きな息をつき、御坂の首がカクンと垂れた。少ない体力を消耗したのだろう。スタッフが急いで車椅子を押していき、御坂の姿は画面から消えた。散乱した肉片だけになった画面にスタッフのざわめきだけが聞こえていた。
数分後、唐突に番組は終了した。
瞬間最高視聴率は九十六.七パーセントを記録した。他局もTTJの大殺戮を報じ続けている。生き残りの自衛隊は既に撤退している。大勢の警官が暗い顔で死体や兵器の残骸を片づけていく。鑑識班の作業はおざなりになっていた。局周辺は封鎖された。
モラルと憲法第九条の勝負の方法について、TTJが公式に発表したのは午後十一時だった。
・投票の宛先はTTJテレビ局の「モラル対憲法第九条係」或いは「憲法第九条対モラル係」とすること。切手を貼って郵送で届けること。
・票の不正操作を予防するために封書形式とすること。
・「モラルを支持する」「憲法第九条を支持する」など支持対象がはっきり分かるように記載すること。対象の名称のみの記載の場合は支持しているものと判断する。
・大量印刷を避けるため宛先と文面は直接手書きとすること。コピーも禁ずる。
・投票者は自分の住所氏名を記載する必要はない。
・一通の封書による投票を一票とする。一人の投票者が何通も送ることも可とする。
・モラルと憲法第九条は対立者に投票したことを理由に投票者に危害を加えてはならない。
・投票の集計結果は毎日午後十時に発表を行う。
・投票の有効期間は十一月三日零時丁度から、十二月三日二十四時丁度までとし、その間にTTJに到着した封書のみ有効とする。
・最終的な合計票数が多い方を勝者とする。敗者となった者については以降、人前に登場することを禁じ、あらゆる犯罪行為及び社会的活動を禁ずる。TTJは二人を強制する力を持たないため、ルールの遵守は本人のプライドに委ねられる。
・TTJは勝負の結果がどうなろうと、投票の妨害や不正操作が行われないよう全力を挙げてサポートする。政府機関・政治家・警察・自衛隊・政治団体・宗教団体・犯罪組織その他のいかなる圧力・脅迫にも応じない。尚、TTJはモラルと憲法第九条の勝負の進行に携わるが彼らの活動を奨励するものではなく、社会の混乱を目指してはいない。報道機関の責務として真実を明らかにするために行うものである。
以上の項目をTTJの局長が読み上げ、何度も画面に表示された。今後も頻繁にルールはテレビで流されるということだ。この発表を受け、他局も一斉に緊急ニュースで投票のルールを流した。ただし、TTJの行為はマスコミの役割を逸脱していると批判するキャスターもいた。
インターネット上では興奮した者達の書き込みでトラフィックが爆発した。巨大匿名掲示板は負荷の増大に耐え切れずサーバーダウンし、利用者達は別ジャンルの掲示板にスレッドを立てまくる。TTJのホームページに投票ルールが掲載されるとアクセスが集中し二分でサーバーダウンした。
掲示板の書き込みは様々だ。モラルの主張に賛同する者もいた。憲法第九条に歯が立たなかったモラルを弱いと蔑む者もいた。それでも怯まず自決までしようとした勇気を賞賛する者もいた。自殺は欺瞞だと非難する者もいた。それでもモラルに感謝している人はいると別の者が主張する。モラルは真面目過ぎると語る者もいた。憲法第九条の主張は露骨だが人間の本質を突いていると指摘する書き込みもあった。犠牲者の遺族の前でそれを言えるかと反駁する者もいた。どうでもいいからどんどん殺して欲しいと書き込む者もいた。こういうクズがいること自体が憲法の主張を証明していると別の誰かが嘆息する。憲法礼賛に反発して荒らしの書き込みが連発した。それをまた人間の本性はこの程度だと嘲笑する者がいる。憲法第九条は危険過ぎるという意見は多かった。モラルの場合はルールを守っていれば殺される心配はないが、憲法の殺戮は無差別だからだ。憲法へのリクエスト案を述べる者もいた。嫌いな奴らを皆殺しにしてもらうのだという。その書き込みは警察に通報されるぞと別の誰かがからかう。憲法第九条の平和利用を唱える者もいた。彼の力を使えばパレスチナ問題もイラク問題も簡単に解決するというのだ。それは皆殺しってことだろ、と揶揄する書き込み。憲法を勝たせないように皆でモラルに投票しようと呼びかける者。でもモラルにも消えて欲しいと書き込む者。しかし憲法がのさばるよりはましだと反論される。そもそも投票勝負に負けてもあの自分勝手な憲法が消えるとは思えないという指摘。とすると憲法第九条に対抗する術は何もないということになる。モラルにも憲法は倒せなかったのだから。それでも出来ることをやろうと誰かが呼びかける。俺は憲法第九条に千票入れると宣言して煽る者。俺が憲法第九条だと騙って殺人予告を行う者。警察に通報されるぞ、騙りを憲法に知られたら殺されるぞと警告する者。罵り合いと掲示板荒らしの応酬が延々と続く。モラル支援同盟の掲示板が一時的に閉鎖を余儀なくされた。モラルを殺す会のサイトは午前三時にプロバイダーによって削除された。御坂草司の勇気を称える書き込みも多かった。逆に、ニュースキャスターとしては越権行為だという非難も。御坂がああいった流れに誘導しなければモラルは死んでいたという指摘。いや、モラルが死んでいたら憲法も消えて全ては落着していたのだという者も。御坂は公平なふりをしながら自分の目的のために二人の殺人鬼を誘導しているのではと疑う者もいた。しかし手足や目を失ってまでそんなことをするだろうか。そもそも御坂草司は何を目指しているというのか。人々は好き勝手な推測を並べ無責任に論じ合う。殺された石村誠三総理大臣については自業自得とする意見が多かった。蔵元幹事長と石村派の笠置も憲法に処刑されるだろうという予測。この二人は姿を隠し、誰とも連絡がつかないという話だ。憲法から何日逃げられるか賭ける者もいた。日本の政治がメチャクチャになるかも知れないという年配者の書き込み。日本の政治は腐っているのでこの際議員を総入れ替えでも良いと語る者。政治なんかよりもモラルと憲法第九条の方が面白いと匿名が笑う。無為に大勢の犠牲者を出した自衛隊はこれからどうなるのか、誰が責任を取るのかと非難する者。これを機会に自衛隊を強化すべきだという右翼の書き込み。憲法第九条の手から天皇陛下を守らねばならないという主張。守りたいなら黙っていろと別の書き込み。憲法を下手に刺激するより黙っていた方が安全だと。
スタジオに残されたモラルの右手首について警察が暫定的な発表を行った。血液型はA型で、推定年齢は二十才から四十才、身長は百六十センチから百八十センチ程度であろうという。薬指の横に古い縫合痕あり。指紋やDNAについては現在検索中であるとのこと。また、モラルが病院を受診する可能性もあるので右手のない人を見かけたら注意するようにとの告知もあった。
与党である民主経世党の発表は何もなかった。蔵元と笠置が逃げているという噂を確かめるべく記者達が奔走している。彼らは二人の居場所を知ってどうするつもりなのか。憲法に処刑される可能性が高いのに報道の自由とでも言い訳するつもりだろうか。
混乱の夜が明け、各紙の朝刊はモラルと憲法第九条の記事が全紙面の三分の二近くを占めていた。一面の大見出しは投票勝負の件か石村総理殺害の件だった。副総理の澤井啓が総理代行を務めることになるだろうが今のところ党からは何の発表もないという。二面には自衛隊の被害が報じられていた。戦車に歩兵戦闘車、戦闘ヘリまで動員した欺瞞は一般人も含めた死者三百七十人以上という最悪の結果となった。一般人被害者の正確な人数と身元はまだ調査中だ。自衛隊を殺せと叫んだ若者については、彼の遺族に嫌がらせが殺到することを懸念して身元が公表されていない。ただし、彼が群馬出身の田代洋一であることを、知人が画像と一緒にインターネットに流していた。幾らプロバイダーが削除しても追いつかない。自衛隊出動を決めた政府の責任を問い国会解散を提案する評論家のコメントや、憲法第九条とモラルにはもう人間が関わるべきではないという学者のコメントなど様々な識者が様々なことを言っている。それらは既にネット上で散々交わされた議論だった。憲法とモラルの双方を人格障害と断じた精神科医のコラムもあった。彼は明日生きていないかも知れない。モラルの右手首と血液について改めて情報が載っている。しかしこれでモラルを逮捕出来るとは誰も思っていないだろう。今日から始まった投票については良識ある行動をというコメントを各紙が書いている。スタジオを爆破しようとした男は現在病院で治療と取り調べを受けているがまだ何も判明していない。彼が喋るのは、或いは喋ったことを警察が公表するのは、雇い主が死んだ後になるのだろうか。憲法がアフリカで数万人を殺したと言った件は、国際問題となるのを懸念したかどの新聞も言及を避けていた。
最初の票が届けられたのは午前六時四十分だった。スーツを着た三十代の男が紙の手提げ袋を持ってTTJを訪れたのだ。しかしまだ周辺は封鎖中で男は警官に呼び止められた。袋の中には二百通の封書が収まっていた。宛先はTTJ局でそれぞれ切手も貼ってあったが、男は郵便局が信用出来ないから直接届けに来たのだと言う。警官達はどう思ったのか中身を見せろと主張し男と押し問答になった。TTJの局員が駆けつける前に警官四人の首が飛んでいた。突如現れた憲法第九条が短剣を振るったのだ。報道陣もおらず彼の映像は残っていないが憲法は「投票妨害はいかんなあ」と呟いたという。男の肩に手を置いて「憲法第九条に清き千票をよろしく」と言って去った。他の警官は見守るだけで何も出来なかった。憲法第九条は投票が滞りなく行われるかずっと見張っていたのだろう。局長を含めた話し合いが二十分近く行われ、切手と封筒で郵送可能な状態にしてあれば直接届けることも可ということになった。テレビ局を出てきた男に他局のレポーターがインタビューを試みたが、二百票をどちらに投票したのかは男は答えなかった。インタビュー行為で男の命を危険に晒したと後にこの局に非難が殺到した。警察による封鎖は解除された。改正されたルールはすぐにテレビで公表された。
午前十一時過ぎ、国会議事堂の正面玄関に憲法第九条が現れた。彼は警備員達に「ご苦労」と声をかけ、二つのものが収まった透明なゴミ袋を手渡した。
民主経世党幹事長・蔵元史明と、石村派・笠置将臣の生首だった。念のため待機していた報道陣に手を振り、憲法は「けじめをつける男、憲法第九条をよろしく」と言って去った。黒いTシャツの字は胸が『愛』で背中が『平和』になっていた。この映像はすぐに各テレビ局が放送した。
それでも民主経世党からの発表は何もなかった。緊急事態とのことで与党議員は大半が姿を隠し、開かれていた臨時国会は中止となった。ガラガラの議場で野党議員がここぞとばかりに叫んでいるが誰も聞いてはいない。たった一人の魔人によって政府が混乱させられている。
TTJに郵便配達員が大量の封筒を届け始めた。そのうち運ぶのにトラックが必要になるだろうと配達員は語った。また、妨害目的の襲撃から配達員を守るため、郵便局からTTJまで警察官が同行する提案もなされた。
憲法第九条が存在感を誇示する一方、モラルはなかなか現れなかった。インターネットでは彼が死んだのではないかという噂が流れていた。頭を切られた時の傷が実は致命傷だったのではないかとか、医者に診せられず出血多量で死んだとか、いや死んではいないが傷を癒すために休んでいるのだとか、結局憲法第九条が怖くて逃げ出したのだとか、様々な憶測が並ぶ。
そんなモラルが現れたのは午後二時、千代田区の郵便局だった。局員が投票の封筒を開けて中身を確認し、憲法第九条に投票したものを廃棄しようとしていたのだ。社会のためでありあなたのためでもあると弁解した局員に、モラルは「それでも投票は公正に行われなければなりません」と告げて去ったという。この局員の処分はまだ決まっていない。
次にモラルが現れたのは午後四時、神奈川でスポーツカーが小学生を轢き逃げした時だった。一般道路を時速百キロ以上で逃げる車を一反木綿が追い、曲がり損なって塀に激突した残骸から血みどろの男を引き摺り出した。モラルは男の襟元を掴んで六キロ離れた現場まで引き摺っていった。現場では小学生が通りかかりの人々と一緒に救急車を待っていた。彼らの前でモラルは男に「君は自動車を運転する資格がない」と告げ、シフトレバーを握る左手とアクセルを踏む右足を切断した。小学生の足は折れていたが命に別状ないことを確かめ、救急車のサイレンが近づくのを聞いて、「それでは失礼します」といつもの一礼をしてモラルは去っていった。人々はモラルに声援を送った。男の方は出血多量で死んだ。
現場に居合わせた人々によると、モラルの右手は袖に隠れていて確認出来なかったという。
午後十時、TTJにより本日の投票結果が放送された。票数を読み上げるのは車椅子の御坂草司だった。右手左足を失い、左耳をガーゼで右目を眼帯で覆った御坂は、「これから一ヶ月間改めてよろしくお願いします」と頭を下げた。昼間は病院で治療を受けながらレポートを読んでいるらしい。
初日の投票総数は八百三十二票。都内から投函されたものが殆どと思われる。
モラル支持が四百六十八票。
憲法第九条支持が三百三十六票。
無効票が二十八票であった。
無効票にはモラルと憲法第九条のどちらも支持しない、どちらも日本から消えて欲しいという内容のものや、意味不明のものや、単なる罵倒を書き連ねたものなどがあったという。
モラル支持の投票には、日本に真の道徳の復活を希望するというコメントや、モラルの健気な姿に心を打たれたというコメントや、可哀相だから支持するというコメントなどがあったという。
憲法第九条支持には、こんな腐った世界をメチャクチャにして欲しいというコメントや、偽善者を皆殺しにして欲しいというコメントや、モラルに家族を殺されたので憲法を支持するというコメントなどがあったという。
御坂草司はそれらを淡々と、どんな感情的な批評も加えずに読み上げていった。自分の意見を述べて投票に干渉してしまうことを懸念しているのだろう。
結果発表にかけた時間は十分ほどだった。その後は御坂がキャスターを務めるいつものニュース番組に移行した。憲法第九条とモラルが今日行ったこともニュースには含まれていた。与党の議員が隠れて政策が停滞しているニュースに際しては、「混乱に乗じておかしな法案が成立したりしないように、こういう時にこそ我々は注意していなければなりません」とコメントした。
二
鞄からメロディが流れてきた。『星条旗よ永遠なれ』……アメリカの国歌だ。
午前零時。男は鞄を開けて携帯電話を取り出した。通話ボタンを押して何も言わず耳を澄ます。音量を最大まで上げた。
「ハロー」
相手の声は英語だった。
少し待ってから男は短く応じた。
「はい」
「英語は話せるかね。それとも日本語で話した方がいいかな」
声は流暢な日本語に切り替わった。
「……。ええ、日本語でお願いします」
「英語は習得しておいた方がいい。それで、この携帯を持っているということは、君は石村誠三氏の秘書か、派閥の後継者に相当する人物と判断して良いのかな」
「澤井啓と申します」
「なるほど、副総理か。念のため本人かどうか確認させてもらう。『澤井啓をよろしくお願いします』と言ってくれ」
「……。澤井啓をよろしくお願いします」
「少し待っていてくれ」
三十秒ほど沈黙が続いた。副総理・澤井啓は待った。
「声紋が一致した。君を澤井啓本人と判断する。自己紹介が遅れたが、私はリチャード・アーリー。アメリカ合衆国大統領補佐官だ」
「存じています」
「この携帯電話の用途を知っているようだね」
「日本国総理大臣とアメリカ合衆国大統領の、盗聴される恐れのない通信手段ということになりますか」
「本来なら大統領と直接話をしてもらうのだが、私が通訳しながら仲介させてもらう。それでいいかね」
「構いません」
以降は通訳するタイムラグを挟んでの会話となった。
「では始めよう。単刀直入に言うが、大変な状況に陥っているようだね」
「ええ、事態をどう収拾するのか、まだ党内でも結論が出ていません」
「それ以前に党が存続出来るかどうかも分からないのではないかね。総理を含めて三人殺されたが、憲法第九条という男がその気になれば民主経世党の議員を皆殺しにすることも出来るだろう」
「そうならないために全力を尽くしています」
「憲法第九条の噂は耳にしていたが、とんでもない化け物だね。あんなものを良くこれまで飼っておけたものだ」
「……。元より飼うことなど不可能です。総理も彼を刺激しないように注意を払っていました」
澤井の声が少し緊張していた。
「それで、日本政府はモラルと憲法第九条をどうやって処理するつもりなのだ」
「処理、とは」
「どうやって始末するつもりなのかということだ」
「今のところはどうとも。ひとまずはTTJが主催する投票の結果を待とうかと思います」
「投票に干渉する余地は」
「下手な干渉は危険と考えています」
「つまり、何も手はない、ということだね」
「ええ。そうなります」
「我々なら何とか出来るかも知れない」
「……。どのようにですか」
「モラルや憲法第九条ほどに派手な能力ではないが、合衆国にもサイキックはいる。標的を探して処理することのスペシャリストもね。何人か日本に派遣してやってもいい」
「モラルの変身する様子や憲法第九条が自衛隊を殲滅する映像をご覧になったと思いますが。その上で提案しておられるのでしょうね」
「勿論だ。対応は可能だと考えている」
澤井の次の質問まで少し時間がかかった。
「条件は何です。ただで手助けして頂ける訳ではないでしょう」
受話器から別の男の笑い声が聞こえた。大統領だろうか。
大統領補佐官は告げた。
「長い間日本とは協調関係を保ってきたし、石村総理とも持ちつ持たれつでやってきた。我々のバックアップがあれば君は総理代理ではなく正式に総理として政権を獲れるだろう。その暁には、まずはイラク復興のための資金援助として二百億ドルを追加で捻出して欲しい」
「五十億ドルの資金援助を決定したばかりですが、それに追加ということですか」
「日本にとってはさほど難題ではない筈だ。また、一パーセントの二億ドルを裏で君にキックバックしよう。党の政治資金としては充分過ぎるくらいだろう。また、我々は今後イランやヨルダンへの侵攻を計画している。日本はそれに全面的に協力して欲しい」
「今のところ、それらの国に侵攻する根拠がないのでは」
「根拠など幾らでも作れるものだ。日本はそれに賛同してくれればいい」
「イラクの問題もまだ片づいていないのに、アメリカ合衆国といえども潰れかねないのでは」
澤井も流石に呆れているようだった。
「国が潰れようが滅ぼうが、そんなことは我々にはどうでもいい。我々はもっと大局的な視点で動いているのだよ。日本は憲法改正を進めてくれ。第九条のね。丁度いい。今の状況に符合しているじゃないか。それからもう一つ。松尾久道というジャーナリストがいるだろう。彼のスキャンダルを日本のマスコミに作らせて、信用を失墜出来ないだろうか」
「松尾久道、ですか……。大統領と企業の関係を本にしていた男ですね」
澤井は癒着や汚職と言わず控えめな表現を使った。
「そうだ。短期間でいい。少なくとも彼が自殺しても不思議でないと国民が考えるような状況になればいい」
「自殺の工作までこちらがする必要はないのですね」
意図を悟って澤井が念を押す。
「スキャンダルだけでいい。ちなみに忠告しておくが、TTJの御坂草司は出来るだけ早く潰しておいた方がいい。大衆の支持を得て怪物に成長してしまうぞ。君達日本の政治家もやりにくくなるだろう」
「御坂草司の処理も条件に含まれるのですか」
「いや、飽くまで忠告だよ。御坂が我々のやることに首を突っ込むなら別だがね」
やがて澤井は頷いた。携帯電話とは別の対象に。
「分かりました。ただし条件に従うのはあなた方がモラルと憲法第九条を処理出来た時です。それでよろしいですか」
「いいだろう」
「それでは、派遣して下さる方々の氏名と到着スケジュールなどを教えて頂けますか。迎えに上がりますので」
「リストアップして後で連絡する」
「よろしくお願いします」
「今後もうまく付き合っていきたいものだ。君が生きていればだが」
「そうありたいと思います。……ところで最後に大統領の声をお聞かせ願えませんか。挨拶だけで結構ですので」
「いいだろう」
やがて別の男の声に代わった。
「ハウドゥユードゥー、ミスター・サワイ。ナイストゥーミーツユー。アイホープディスウィルリードトゥーアラスティングリレーションシップ。ハハッ、グッバイ」
軽薄な笑い声と共に、大統領は短い挨拶を終えた。
「こちらこそよろしくお願いします」
「それでは、また」
補佐官が最後に言って、電話は切れた。
「大統領は何て言ってたんだい」
ホテルの一室で澤井啓と一緒にいた男が尋ねた。彼の足元にはスーツ姿の屈強な男の死体が転がっていた。首から上がない。
「今後も関係が長く続くことを願っている、ということです」
英語を話せる澤井は携帯電話を畳み、寄せていたICレコーダーを停止させた。男が手を出した。澤井は男にレコーダーを渡す。
男は、憲法第九条だった。黒いTシャツは本日テレビで出たものとは違い、胸に『9』となっていた。転がっている死体は澤井のボディーガードだった。
「これでよろしかったでしょうか」
尋ねる澤井の口調も瞳も畏怖が滲んでいた。
「いいだろ。お前は殺さずにおいてやる。後は刺客のリストが来るまで待つだけだ。それまで、そうだな、取り敢えず俺の靴を舐めろ」
澤井は生き残るためには躊躇しなかった。血溜まりの広がる床に跪き、憲法のスニーカーを舐めた。
そんな副総理を憲法第九条は満足げに見下ろしていた。
三
彼の視点は空にあった。
所々雲に覆われた都会の景色。立ち並ぶビルの一つ一つ、通行人の一人一人が彼には鮮明に識別出来た。
空港。成田国際空港に降りていく旅客機が見える。勿論これではない。
標的は十五時三十分に到着予定の飛行機だ。前日の十二時三十五分にロサンゼルス国際空港を出発しているのだが時差が十数時間あるから実際に何時間かかっているのか良く分からない。今は十五時。
彼は視点をもっと高くした。都市が小さくなり列島の形が見えてくる。端の方では地球が丸くなっているのが分かる。その先には宇宙が。
彼は見下ろす。精細な視覚は海の上を飛ぶ飛行機達を捉える。視点が素早く移動して、旅客機の側面にペイントされた航空会社名を確認する。そのうちの一つに当たりをつける。彼の視点は壁をすり抜けて旅客機の内部に入った。
三百席ほどの機内はほぼ満席だった。白人もいるがどちらかというと日本人の方が多い。たまに黒人や東南アジア系の顔も見える。彼らは雑誌を読んでいたり黙って窓の外を見ていたり眠っていたりしていた。
顔写真は届けられなかったので標的が誰なのか分からない。彼は確かめることにした。視点は客席を移動してトイレに入る。使っている者はいない。
彼はそこで、発現させた。
トイレのドアを開けて通路に歩み出たのは身長百八十センチ超、黒いTシャツにすり切れたジーンズの男だ。後ろに流した髪と疎らに生えた顎髭。唇をめくり上げると牙のような歯が並んでいる。Tシャツの字は基本的に『9』にしているが、イベントなどで気が向いた時は趣向を凝らす。今回は『WELLCOME』とした。英語は苦手だがこのくらいの単語なら知っている。
彼の視点は男の中へ入った。男の五感が彼の五感に接続され、完全に同化する。
彼は憲法第九条になった。
通りかかったスチュワーデスに憲法は声をかけた。
「ちょっといいかな」
「はい、何でしょう」
スチュワーデスはブロンドのアメリカ人だったが日本語で答えた。
「この飛行機はロスから成田に行く奴かい。三時半に到着予定の」
「そうでございますが、お客様は……」
スチュワーデスは怪訝な顔をした。乗客が何の便か知らないというのは普通あり得ないことだ。
「ありがとさん」
憲法は片手を上げて礼を言い、客席に向かった。背中にスチュワーデスの視線を感じる。ベルトに挿している短剣が気になっているのか。
通路に立ち、三百人の乗客に憲法は大声で尋ねた。
「この中にガストン・ショーってのはいるかい。それからハード・ベックって奴。それと名前忘れちまったが、とにかくアメリカから俺を殺しに来た奴だ」
寝ていた客も目を覚まし、三百人の視線が憲法第九条に集中した。日本人の女が顔を強張らせて彼を指差した。嘘、憲法第九条よ。
「いねえのか。贅沢にもファーストクラスかよ」
と、奥の座席で三人の白人が英語で何やら話している。一人は慌てた様子で、もう一人は少なくとも顔は冷静だ。最後の一人が無言で立ち上がった。
「お前らか」
憲法が笑いかけたその時、額から後頭部に硬いものが抜けていく感触があった。立ち上がった男が見えない何かを飛ばしたのか。それが男の超能力であり、常人なら訳の分からぬまま即死していただろう。
だが憲法第九条は不死身だった。
憲法は無傷の額を左手で撫でてみせながら、右手で愛剣スケルトン・キングを抜いた。男の顔が動揺を浮かべる。また何かが胸から背中に抜けた。全く無意味な攻撃だ。
憲法は笑みを深めながら短剣を振った。四十メートル先の刺客にではなく自分の周囲へ、円を描くように。
ガゴン、と旅客機の胴体が輪切りになってずれた。乗客が悲鳴を上げたがすぐ凄まじい風に吸い出された。刺客達の顔が驚愕と恐怖に歪む。冷静な顔で余裕を見せていた男も同じ有様だ。高度一万メートルを時速九百キロで飛んでいた旅客機が一瞬でひしゃげた。座席がメチャクチャに吹っ飛び壁がめくれ床がねじれていく。旅客機が空中分解した。潰れた肉塊となって散っていく乗客達。三人の刺客もあっけなく同じ運命を辿った。
ざまあみろ。
彼の心は優越感に満たされた。
バラバラに落ちていく鉄屑を見下ろして、憲法第九条だけがその場に静止していた。彼は悠然と短剣を鞘に収め、ジーンズのポケットから折り畳まれた紙片を取り出した。
アメリカから派遣される刺客の氏名と使用する飛行機の便がメモしてあった。
「残り四人か」
誰も聞いていない空で憲法は呟いた。二人が同じ便で、残りは一人ずつ別の便で来ることになっているが、夕方までに成田に着くことには変わりがない。
次はニューヨークのケネディ国際空港発で十六時二十五分到着予定の便だ。それを探すために、彼は憲法第九条を消散させた。
彼の視点は再び上昇していく。太平洋を一望出来るほどに。
折角なので、彼は日本に向かっている飛行機を手当たり次第に落とすことにした。ジャンボジェット機を見つけ視点を近づけていく。
ジェット機の左翼の上で、彼は憲法第九条を発現させた。外から窓を叩いて乗客を驚かせた後、憲法はスケルトン・キングで両翼を切り落としてみせた。
ああ。いい感じだ。
彼の心が爽快感に満たされていく。
四
午後十一時のファミリーレストランには四組の客がいた。くたびれた中年の夫婦、コーヒーだけで粘って勉強をしている三人の大学生、周りの迷惑を省みず大声で話しているヤクザらしい男達、そして制服を着た四人の高校生。
高校生の一人が美佳だった。彼女以外の三人は煙草を喫っていた。ここは禁煙席だが店員も敢えて注意はしない。
ヤクザっぽい男達はモラルと憲法第九条の話をしていた。美佳達のテーブルまでは距離があったが議論する声が聞こえてくる。一人がモラルの勝利を主張し、別の一人が殺し合いなら絶対憲法が勝つと笑う。俺達はモラルに投票すべきだと最初の男が言い返す。ひょっとすると四十を過ぎているかも知れないヤクザ達が目を輝かせているのを美佳は盗み見て、馬鹿馬鹿しいような面白いような気分になる。
「モラルを応援してるヤクザがいるよ」
気だるげにニヤつきながら宏が言った。勿論向こうに届かない程度の声で。
「モラルが勝ったらあいつら困るんじゃないのかね」
宏の息はシンナー臭かった。一時期はスピードとかハルシオンとかにも手を出していたけれど最近はシンナーに戻ったようだ。金銭的なこともあるのかも知れない。美佳自身はシンナーを二回ほど試したことがあるが以降は辞退している。どうってことないと宏は言うが、シンナーは脳が溶けるという噂だしハマるのは怖かった。友達を失うのも怖いけれど。
「でもモラルってヤクザは殺してないんじゃない。なんでだろ。暴力団とか皆殺しにしてくれたらいいのに」
美佳の隣に座るユウが優雅な仕草で紫煙を吐き出しながら言った。美佳と同じ高二なのに化粧も似合っているしホステスみたいな色気があった。援助交際を繰り返していたらこんなふうになるのだろうか。美佳も援助交際はたまにやったが好きでもない相手とセックスするのは気持ち悪いので最近は関わっていない。その代わり良くブルセラショップに下着や靴下を売る。小遣いが足りないのだから仕方がないのだ。
「モラルはヤクザも殺してるよ。道で大学生ボコってたヤクザとか、無銭飲食のヤクザとか、後何人か」
村上が言った。
「無銭飲食のヤクザかよ」
宏が笑う。
村上は美佳と同じクラスだが最近はあまり学校に来ず放課後の遊び仲間になっている。それでも制服を着ているのは寂しいからなのだろうかとふと美佳は思った。暫く前に彼は暴走族もやめた。飽きたからだという。彼はいつも警棒とナイフを携帯していてたまに喧嘩の自慢話をする。少し歪んだ鼻筋には浅い傷痕が残っていた。ユウが援助交際の相手とトラブルになった際、村上と宏が助っ人を務めたこともある。結果的に美人局になってしまったことも何度かあった筈だ。
彼らはあまり上等な友達とは言えなかったが、それでもやはり美佳の友達だった。
「どっちが勝つと思う」
美佳は仲間達に尋ねた。誰もが毎日必ず出す話題だった。宏が早速乗ってくる。
「断然憲法だろ。大体あん時勝負ついてたじゃんよ」
「いやタイマンじゃなくて投票の勝負だろ。俺は憲法に投票したぜ。今日五通出した」
村上が得意げに言う。ユウが申し訳程度に意外そうな顔で問うた。
「なんで憲法なの。モラルが勝ったら私達困るの。お仕置きを受けるの」
「いや別に。面白いから」
やっぱりそんなものか。村上の返事に美佳は小さく溜息をついた。
宏がユウにニヤついてみせる。
「お仕置きとか心配すんなよ。大体俺の知り合いでモラルに会った奴とかいねえもん」
「俺の従兄弟の友達はモラルに腕切られたって。万引きで」
村上の言葉に宏が突っ込みを入れた。
「それってお前の従兄弟の隣町の中学生とか言ってなかったか。いつの間に友達になったんだ」
「あれ、そうだったか」
それで皆笑った。
美佳もモラルや憲法第九条に会ったことはない。たまに遭遇の噂を聞くがそれは友達の親戚の友達だったり親戚の友達の親戚だったりしてあまり信用出来なかった。彼らの活躍はテレビや新聞では沢山流れている。でも美佳にとっては実感に乏しく、やはり別の世界の出来事のような気がしていた。
モラルが本当にいるならとっくに私も友達も罰を受けているだろう。でも美佳の世界は何も変わってはいない。
教壇の上と下だ。先生達はいつも教壇の上で偉そうな説教をしているが、生徒は皆白けている。私達の現実と違うから。こちら側と向こう側が見えない壁で分けられているみたいだ。
煙草の吸殻を灰皿に押しつけ、残りのコーヒーを飲み干して村上が言った。
「じゃあ、解散すっか」
別々に金を払うと、店員は皆に「ありがとうございました。またお越し下さいませ」と頭を下げた。内心はどう思っているのか知らないが。
美佳とユウはバス停に向かい、村上と宏は別の方向に去った。多分またシンナーでも吸うのだろう。
夜の街の喧騒。暴走族の爆音マフラーとクラクション。ビルの隙間で立小便をしている酔っ払いがいて美佳は目を背けた。携帯で話しながら運転している女。点灯せずに歩道を走ってきた自転車とぶつかりそうになってユウが悪態をついた。自転車の男は謝りもせず通り過ぎていく。
どうせ何も変わりはしない。モラルも憲法第九条も別の世界の出来事なんだ。腐った日常が死ぬまで続いていくだけだ。何も分かってない偉そうな教師と、つまらない勉強と、小うるさい親と、適当な友達。それだけだ。抵抗してもどうせ無駄だ。
向こうで急ブレーキの悲鳴とクラッシュ音。事故だろう。飲酒運転か、居眠り運転か、携帯電話の不注意運転か。
最近人気のお笑い芸人のこととかをユウと喋りながら歩いていると、向こうからロングコートを着たひょろ長い男がやってくる。目深にかぶったチューリップハット。あ、モラルだ。そう思ってすぐコスプレだと悟った。最近良く見かける偽者だ。どうせ本物は来ない。別世界の出来事なのだから。
ユウも気づいたらしく、美佳と目を見合わせたが黙っていた。二人はモラルの格好をした男と何事もなくすれ違った。でも美佳の内心はちょっとドキドキしていた。
「同じ世界だ」
すれ違いざまにボソリと男が言った。美佳が驚いて振り返った時には男はいなかった。
「どうしたの」
ユウが尋ねた。
「今の人、消えた」
「ええっ、うっそー」
ユウも振り返って見回したがやはり男の姿はない。念のため上も確認したが濁った夜空に一反木綿は泳いでいなかった。
「何、今の幽霊。ていうか本物、あれ」
「分かんない」
美佳は首を振った。同じ世界だ、と彼は言った。あれは本当のことだったのか。いやでも幻かも知れない。
前方で人々のざわめきが聞こえていた。女性の泣き声も。
二人が角を曲がると人だかりが出来ていた。水平に切られ分解したバイクが数台転がっていた。一緒に両足を切られた暴走族の若者達が呻いている。
歩道に乗り上げた自動車では女が左手首を押さえて泣いていた。袖が赤く染まりまだ新たな血が流れ出している。切断された左手首がアスファルトに落ちていた。携帯電話を握ったままで。
「や、やっぱ本物じゃん」
興奮で頬を上気させてユウが言った。
同じ世界だった。美佳の目に涙が溢れてきた。それがどんな涙なのか、自分でも分からなかった。
五
総理代行として記者会見を終えた澤井啓が都内の高級マンションに戻ったのは零時前だった。万全のセキュリティシステムに加え真下の部屋にも護衛が交代で詰めている。護衛兼雑用係として同居していた男は昨日憲法に殺され、公にすることなく死体は片づけられた。待つ者のない政治家の住まい。
だが、入口のドアを開けるとリビングから明かりが洩れていた。澤井は眉をひそめながらも慌てず靴を脱ぐ。音が聞こえている。テレビが点いているようだ。誰かいるのか。
慎重にリビングを覗くが誰もいなかった。
テレビ画面には三人の男が映っていた。車椅子の御坂草司を挟んで左に憲法第九条、右にモラル。二日前に放映されたTTJでの公開討論だ。再放送されているのか。澤井はテレビの電源を切ろうとした。
「澤井啓さんですね」
唐突に声が聞こえて振り返るとソファーに男が座っていた。気づかなかったのか。いや、さっきまではいなかった筈だ。男は右手にビデオのリモコンを握っている。ここでビデオを観ていたのか。しかし……。
男は、憲法第九条ではなかった。
「失礼ながら、勝手にお邪魔しています」
奇妙な感覚に澤井は目を瞬かせる。男の声は何処かおかしかった。日本語だと感じたのだが実際の発音は英語のようだ。意味が直接頭に響いてきたみたいだった。
「君は誰だ」
男はリモコン操作でビデオを止めて自己紹介した。
「ジョン・スミスです。モラルと憲法第九条対策として派遣されました」
「あ、ああ……そうか、アメリカから……」
澤井は驚きを隠し適当な返事をしながら斜め前のソファーに座った。
ジョン・スミスは豊かな白髪を蓄えていた。いや、艶があるので銀髪であろうか。年齢は三十代より上だろうが見当がつかない。細面で皺のないのっぺりした顔立ちに、暗闇で育ったような青白い皮膚はやや湿っているようだ。色素の薄い青の瞳が冷たく澤井を観察している。澤井は自分の心の底を覗かれているような不気味さを感じた。
屋内なのにジョン・スミスは紺色のロングコートを着ていた。光の当たり具合で色合いを変える生地はシルクビロードと思われる。その下のシャツは藍色だ。胸元にはペンダントが細い鎖で吊られている。嵌め込まれた大きなルビーは本物なら相当に高価なものだろう。赤い宝石はそれ自体が独自の光を放っているようにも見える。
「迎えをやれなくて申し訳なかった。てっきり飛行機が墜ちたものと思っていた」
冷静さを取り戻して澤井は言う。憲法第九条はこの日太平洋上で百七十六機もの旅客機を破壊した。彼が刺客を取り逃がすとは到底考えられなかったのだが。
「嫌な予感がしまして、途中で降りて軍の輸送機に送ってもらいました。東京に着いたのは三時間前です」
中継の空港で降りたということか。それともまさか、飛行中の旅客機から降りたということなのか。ジョン・スミスはそれ以上説明しなかった。彼の声はやはり英語だった。しかし澤井の頭には日本語が響いている。勝手に同時通訳されているようだ。また、澤井の日本語をジョン・スミスは理解している。
「そうか。それは良かった。しかしリストでは七人だったが、生き残ったのは君一人という訳だね。残念だ。これではモラルと憲法第九条を捕まえるのは難しいだろう」
「他のメンバーの生死など私には関係ありません」
表情を変えずにジョン・スミスは言った。
「与えられた任務をこなすこと、それだけです。また、私が命じられたのはモラルと憲法第九条の逮捕ではなく抹殺です」
「……。それで、君はどのような能力を持っているのかね。ジョン・スミスというのは偽名なのだろう」
「任務に本名は不要です。私の能力をあなたに喋る必要もありません」
この刺客は他人を信用しないのだろうか。
「ビデオを観ていたようだが……」
公開討論の静止画面。
「これを観るのは三度目です。憲法第九条の自衛隊殺戮や銀行前での虐殺も観ました。まずモラルですが、彼は脳に何らかの器質的疾患があります。おそらく脳腫瘍です」
あまりにもあっさりとジョン・スミスは告げた。
「え。そ、そうなのか。どうして分かる」
澤井は身を乗り出した。ジョン・スミスはリモコンを押して一時停止を解除し、数倍速で逆転再生を始める。彼の指は節くれ立って肉は薄く、幾つも指輪が嵌まっていた。サファイアやエメラルドもある。
モラルが頭を押さえているところで彼は通常再生に戻した。
「番組の間、モラルは頻繁に自分のこめかみを揉んでいます。頭痛と吐き気をこらえていますね。視野も左側が狭いようです。また、右手と両足先の感覚鈍麻も来たしています。右手は憲法第九条に切断されましたが。憲法による頭部への攻撃は頭蓋骨の損傷に留まっています」
「凄いな。ビデオを観ただけで分かるのか。しかし、脳腫瘍か。モラルの超能力は腫瘍のせいなのだろうか」
「それは分かりません。脳腫瘍であれば末期に近いでしょう。本人も自覚しており、投票の一ヶ月という期間に難色を示したのもそのためです。放置していても死ぬ可能性が高いですが、私の任務は自然死を待つことではありませんから調査を進めましょう。全国の医療機関から脳腫瘍の患者をリストアップして下さい。特に注意すべき年齢は十代後半から三十代前半、おそらくは首都圏です」
「分かった。急いでやらせよう」
メモ用紙に書き込みながら澤井啓はどうしたものかと考えている。この男のくれる情報は役に立ちそうだし万が一にも憲法第九条を始末出来たら儲けものだが、憲法にばれたら澤井が巻き添えを食う。協力するのはリスクが高過ぎるだろう。
「しかし不思議だな。モラルは自由に変身したり出来るのに、自分の脳腫瘍は治療出来ないのだろうか」
「モラルの能力は言うなれば位相変化に過ぎません。自身の本質までは変えられないのですよ。次に憲法第九条についてです」
高速再生に変えた。総理が憲法第九条に噛みつかれ、バラバラにされる場面を過ぎた。車椅子の横に転がるモラルの右手首。御坂の口が動いている。投票勝負の提案。ジョン・スミスがボタンを押す。通常再生に戻った。
そして、モラルが憲法に飛びかかるところでスロー再生に変えた。モラルの色が薄れて波打っていく。無数の銀の煌きは憲法の短剣だ。液状となったモラルを憲法が跳んで躱す。
ジョン・スミスはここでコマ送りにした。躱した場面を一コマずつ戻していく。
「これで確信に至りました」
「何が分かった。彼は避けているが……」
「避けていません。憲法第九条の右足首と靴にモラルの酸が接触しています」
澤井はテレビ画面に顔を近づけた。静止画像だと確かに触れているようにも見える。しかし角度的に判断がしにくかった。
「確かかね」
「確かです。そして憲法が戻ってきますが」
通常再生。コート姿に戻ったモラルが自分のソファーに倒れ込み、画面外から憲法第九条が歩いてきて、御坂草司の車椅子に手をかける。そこで一時停止させる。
「憲法第九条の右足に、何の影響も現れていません」
確かに足首もスニーカーもソファーのように溶けてはおらず、濡れてさえいない。
「つまり、どういうことになるのかな」
「憲法第九条は実体ではありません」
ジョン・スミスが無表情に解答を告げた。
「何」
「私もこれほど強力なものを見るのは初めてです。魔術的な用語を用いるならエーテル体投射と星幽体投射の両方の性質を備えた現象と形容すべきでしょう。日本的には念塊や生霊と呼んだ方が良いかも知れません。あれは影のようなものです。憲法第九条の側から物質界に影響を及ぼすことは出来ますが、物質によって彼の本体が影響を受けることはありません。憲法第九条自身がそれを望まない限りは」
あまりにもオカルティックな答えを澤井の精神は受け入れられなかった。しかし憲法第九条の存在自体が元々現実離れしていないか。
「あれが実体じゃないというのか。生霊だと。しかしあまりにもリアル過ぎる。それに、銃弾を全て切り落としたりしていたのは何だ。傷を負わないならわざわざ切って落とす必要もないのでは」
「単に本人の趣味でしょう。自分の力を顕示したいだけ、つまりデモンストレーションです。モラルも憲法第九条の性質にある程度気づいているようです。憲法に向かって投げた『そこに存在しているのか』という問いや『何も賭けていない』という台詞が示唆しています」
「それで、憲法第九条が無敵なら、君は一体どうやって倒すつもりなのか」
「無敵とは言っていません。対策は二通り考えられます。一つはエーテル体を攻撃出来る魔術武器を用いることですが、憲法第九条に接近する必要があり大きなリスクを伴います。もう一つは本体の素性を突き止めることです。エーテル体に意識を移している間本体は無防備ですから、それを殺せば済みます」
「ふうむ……。で、どうやって本体を突き止める」
「これはモラルよりも難しいでしょう。しばしば意識を失い反応しなくなる者が指標ですが、本人が定職を持たず一人暮らしをしているか部屋に引き篭もっていればアプローチしようがありません。ただし、家族のいる場合は意識障害を疑われ精神科や脳神経外科を受診させられている可能性があります。病名はナルコレプシーやクライン・レビン症候群、てんかん疑いなどとついているかも知れません。頭部CTや脳波検査を受けていることが目安になるでしょう。服装のセンスと約十年前に登場していたことを考慮すると、年齢は二十代から四十代まででしょうが、外れている可能性もあります」
「分かった。調べさせよう」
メモをする澤井にジョン・スミスが声をかけた。
「澤井さん」
「ん。何かね」
澤井は顔を上げた。ジョン・スミスの青い瞳と目が合った。澤井は目の奥に何かが潜り込んできたような違和感を覚えた。金属的な響きが聞こえた。ガチャリというような、或いはガキゴキというような重い音。えらく鮮明に聞こえたが何処で鳴ったのか分からない。
いやそれは、澤井の頭の中で鳴ったのだ。
「私達の氏名と搭乗便を憲法第九条に教えたのはあなたですね」
全く感情の篭もらぬ同じ口調でジョン・スミスは言った。質問ではなく断定だった。
澤井の口が勝手に動き、言い訳を考える暇もなく正直な思考が流れ出した。
「そ、そうだ。仕方なかった。大統領と電話中、憲法第九条が私の目の前にいたんだ。従わなければ私が殺されていた」
告白にもジョン・スミスは眉一つ動かさなかった。
「あなたは憲法第九条のことをどの程度知っているのです。特に本名や出身地に関して」
「何も知らない。首相官邸で総理も交えて何度か会っただけだ。生霊ということも初めて知った。危険な男とは聞いていたが、まさかこんな化け物とは知らなかった。総理が殺された後、私は身を隠していた。しかし簡単に見つけられてしまった。護衛も殺された」
「今後憲法があなたに接触する機会はありますか」
「分からない。だが私が総理代行である限り彼はつきまとってくるだろう。いつ現れるかは分からないが」
「憲法への連絡手段は指示されていますか。例えば携帯電話の番号など」
「いや、用がある時は向こうから来ると言っていた。きっと何処に逃げても見つかる」
「分かりました」
ジョン・スミスはゆっくり頷いた。視線は澤井から離さない。色素の薄い、青の瞳。機械に覗かれているような感覚。
「医療機関の検索を行って下さい。改めてこちらから連絡します」
ガチャリとまた金属音が頭の中で響く。これは何なのか。澤井は頭を誰かの手でまさぐられているような気がした。それはきっとジョン・スミスの手だ。
「わ、分かった」
「私が立ち去った後、私に関することは忘れて下さい。患者の検索は極秘に行って下さい。検索する理由については忘れて下さい」
「分かった」
「もしあなたが死亡した時、日本政府で一番の権力者は誰になりますか」
殺すのか。私を殺すのか。心に染み出した恐怖に関係なく口は勝手に動き続ける。
「石村派では柴崎になるが、私が死んだらどうなるか分からない。今財務大臣をやっている高村になるかも知れない」
「その二人の連絡先を教えて下さい」
澤井の腕が勝手に動いてスーツの内ポケットから手帳を出した。
「これと……これだ」
ジョン・スミスは電話番号を一瞥しただけでメモも取らなかった。覚えてしまったのだろうか。
「いいでしょう」
ジョン・スミスは立ち上がり、ビデオデッキからテープを取り出した。数本のテープを小型トランクに収める。
「では、また」
ジョン・スミスはトランク片手にリビングを出ていった。澤井の脳内でガギンと音がした。古い大型の南京錠が掛かるような音。
部屋のドアが閉まる音と同時に澤井は誰かと話していたことさえ忘れた。メモ用紙に自分の字で脳腫瘍とかナルコレプシーとか書いている。何故か調べないといけないような気がしたので、澤井は早速秘書に電話した。
六
「モラルですか」
レジの店員に微笑みかけられ天城倫はドキリとした。
「え」
「モラルのコスプレに使うんですか。いえすみません、今人気ですしね」
そういう意味か。天城は苦笑した。彼が買おうとしているのは灰色のチューリップハットだった。ショッピングモールの帽子売り場には同じものが山と積まれていた。良く売れているのだろう。大勢の客の一人として紛れられるから、天城にとっても都合は良かった。
天城は存在しない筈の右手で代金を手渡した。外出時は常時作っておかねばならない。
次はロングコートを探した。やはりモラルの影響だろうか、灰色のロングコートが並んでいる。天城は出来るだけ大きなものを選んだが、それでも裾を引き摺るほどではない。今頃工場ではエクストラサイズのコートを大量生産しているかも知れない。隣の売り場では『9』の白字が入った黒いTシャツが売っていた。憲法第九条の真似をしたくて買う者もいるのだろうか。そのうち短剣スケルトン・キングのレプリカが売り出されたりするかも知れない。
頭が痛い。吐き気がする。
コート売り場の店員は少しニヤついていた。こんな糞真面目そうな奴がコスプレか。彼の思考が天城の頭に入り込んでくる。天城は他人の思念よりも自分の形を保つことに精神を集中させる。
次は手袋売り場だ。防寒用の厚い手袋が多いが、薄くて白い手袋も売っていた。二組買う。
仮面はどうするべきか。何処かに鬼の面を売っている店があるかも知れない。感覚の触手を広げて探すか。いや、ただでさえ気分が悪いのに余計なことに体力を使いたくなかった。今度見つけたら買っておこう。
天城はモールを出た。
歩く足の感覚が薄い。膝から下、特に足の指は全く感覚がない。雲の上を歩いているような感じだ。ふらつかないようにモラルとしての能力でサポートしている。中身は変えられなくても表面を自在に変えることが出来る。動く足の姿をイメージすればいい。拡大した頭囲とやつれた顔を整え、ない右手を作るためにも能力は使われている。左手が痺れることもあるがそれも能力で動かせるから不便はない。
ただ、この頭痛だ。
吐き気は四六時中続き、食欲がないため栄養不足で益々力が入らない。眼球がゴロゴロして痛む。眼窩から転げ落ちそうな感じだ。鏡で見るといつも充血している。それも能力で隠す。
頓服薬を飲む回数が増えている。頭痛と吐き気が少しましになる。飲んでおかないと食事が入らないようになってきた。しかし飲むと集中力が落ちる。気をつけていないといつの間にか変身が解けてしまうことがある。昨日は一反木綿状態で飛行中に解けてしまい危うく墜落死するところだった。しかし頓服を使わず我慢していても頭痛と吐き気で何も考えられなくなるので同じことだ。
だから天城は人前で万が一変身が解けた時のために、実際の服装をモラルの姿に近づけておくことにしたのだ。手袋は逆に普通の外出時にも填めておくつもりだ。右手分は綿でも詰めておけば、変身が解けても右手がないことを気づかれにくいだろう。だが何より外出を減らした方がいい。食糧は出来るだけ買い溜めしておき自宅で食べる。カッターシャツを着る必要もないのでクリーニング屋も行かなくていい。
後はクリニックだ。天城は街を歩きながら考える。予約は三日後だが電話して明日か明後日の外来受診を頼むことになるかも知れない。頓服薬が残り僅かとなっている。前回は十数錠余っていたのに。
頓服薬は、もしかすると麻薬かも知れない。
余命三ヶ月と言われて二ヶ月近くが過ぎた。人によって差があるそうだが天城には自分がもう一ヶ月生き延びる様子が想像出来ない。近いうちに意識を失い昏睡状態で病院に運ばれそうな気もする。そうなったら右手のないこともばれてしまうだろう。入院するなら外園クリニックがいい。でも迷惑をかけることになる。いやそもそも自分は意識の保たれているうちに死なねばならない。残酷な方法で。それが殺人鬼の義務だ。
せめてクリスマスは見たかった。いや、どうせ独りのクリスマスだ、意味はない。天城は苦笑する。
少なくとも、投票の結果が出るまでは生きていなければならない。自分が生きていることを示すためにモラルとしての活動を続けないといけないと思う。以前ほど日本中を駆け回れなくなったが、それでも一日に数度は姿を見せなければ。
電器店のガラス越しにテレビが流れている。疲れと頭痛で倒れそうだった天城は一休みすることにした。五十センチくらいの球体のオブジェが並んでいたので天城はそれに腰を下ろした。多分椅子として使うためのオブジェなのだろう。家に帰ったら頓服薬を飲もう。
午後のワイドショーに御坂草司の顔があった。TTJではなく他局の番組にゲストとして出ているらしい。彼はいつもの車椅子で、右目には海賊の使うような黒いアイパッチを当て、その上にサングラスをかけていた。やはり鼻に載せるタイプで、おそらくは度が入っているのだろう。
「憲法第九条の起こした一連の殺戮について責任は感じないのですか」
司会者が御坂に問う。
「責任とはどういった責任のことです」
御坂は冷静に聞き返す。彼は自分の死の瞬間にも動揺しないのだろうと天城は思う。
「憲法が百七十六機の旅客機を墜落させた理由は分かりませんが、少なくとも沖縄の米軍基地襲撃は投書の内容がきっかけでしょうが」
「投書というより投票ですね。同じ投票者と思われる者が五十通、似た内容のものを合わせると百通を超えていました」
「そう、それで、『沖縄の米軍を追い出して欲しい』ですよね、その内容をあんたは読み上げて、憲法がスタジオまでやってきて承諾した。つまりこれはあんたの責任になるんじゃないですか。大変なことですよ。下手すりゃアメリカとの戦争ですよ」
この司会者は御坂に対し必要以上に攻撃的に見えた。TTJが高いステイタスを手に入れ視聴率に圧倒的な差をつけられたことへの嫉妬か。或いは政治的な意図があるのだろうか。
事件のことは勿論天城も知っている。要望の書かれた投票がTTJに届いたのは四日前で、御坂は同じ文面が五十通来ていることを告げて淡々と読み上げた。米兵の横暴に困っているという住民の訴え。レイプ犯を米軍は匿い、日本政府は弱腰で何もしてくれない。「憲法第九条様のお力で、沖縄から米軍基地を追い出して下さいますようお願い申し上げます」と締め括られていた。悪戯なのか本気の要望なのか分からないが、投票者はどんな結果を招くか予想していた筈だ。
投票結果のコーナーを終えて普通のニュースを解説している時、憲法第九条がスタジオに登場した。彼は便箋の束を勝手にめくって該当の文面を確認し、カメラに向かってあの野獣のような笑みを見せつけ「いいぜ。やってやるよ」と言ったのだ。
テレビを観ていた天城も事態を阻止するために沖縄へ飛んだ。全速力で一時間、疲れ果てて到着した時には七つの基地が壊滅していた。憲法第九条のスピードは凄まじかった。それでも何度か追いすがってやめるよう呼びかけたが、憲法は嘲笑を返しただけで天城を置いていった。憲法は投票終了前にモラルを殺すより無力感を味わわせることを選んだようだった。
朝になり、沖縄にある三十七の米軍基地は全て廃墟と化していた。死者は一万人を超え、脱出しようとした駆逐艦も七割方沈められた。天城はまだ燃えている倉庫の前で疼く頭を抱えて立ち尽くしていた。戦闘機や戦車の残骸。米兵達の無残な死体。天城は負傷者を救助した。彼らの思考は英語のためうまく聞き取れなかったがニュアンスは伝わってきた。彼らの顔と声と心の全てが、信じられない、と語っていた。世界最強の軍隊が、科学を超越した怪物に成すすべもなく蹂躙されたのだ。
憲法第九条を止められないことは天城にも分かっていた。モラルとして沖縄に行っても無意味だと思った。しかし何もしなければ国民はモラルを非難するだろう。偉そうなことを言ってるくせに自分より強い相手には何も出来ない、と。いや、だからといって非難を避けるために米軍基地へ向かうのは偽善ではないか。少しでも犠牲者を少なくするために天城は動いた。結果としてモラルが救えた人数は百二十六人。それだけだ。
天城の苦い回想を御坂の声が覚ます。
「私は公正な情報を発信するために力を尽くしています。それがマスメディアの責任ですから」
そう言えば、御坂が生意気だから残りの手足も切り落として欲しいという要望まで彼自身が平然と読み上げていたものだ。御坂は続けた。
「マスメディアは都合によって特定の情報を隠したり誇張したりすべきではありません。物事を判断するのは飽くまで国民であるべきで、マスメディアが国民をコントロールしようなどおこがましいことではないでしょうか」
「しかし、要望をあんたが読んで、憲法第九条が実行したのは事実ですよ。それでどう責任を取るのかと聞いてるんですよ」
「私の責任についても国民が決めれば良いことです。今回の投票は一つの重要な指標になるのではないかと思っています。人間の本質は善なのか悪なのか。人間に自浄能力があるのか、それとも悪意で自らを滅ぼせるほど愚かなのか。科学技術の発達した現代に人間の本質がどう変わったのか或いは変わっていないのか、私達は知ることになるでしょう」
天城はオブジェから立ち上がり歩き出した。
性善説、性悪説。人間はどちらか一方だけで出来ている訳ではない。
恐ろしいことに、ほぼ全ての人間が大なり小なり悪を行いながら社会は成立しているのだ。天城自身も含めて。
どうすればそれを変えられるのだろうか。
天城は自分でモラルに投票しようかと考えたこともある。貯金をはたいてありったけの封筒と便箋と切手を買って。しかし思い直した。
モラルがやるべきことは投票ではなく、人々の良識を呼び起こすことだ。
昨夜のTTJで発表された投票結果を覚えている。
モラル・一万三千二百四十八票。
憲法第九条・一万六千八百九十二票。
この数字をどう解釈すべきか。モラルの登場が少なくなったことによるものか。憲法第九条の活躍が派手で楽しめるからか。モラルの無力さに対する失望か。アメリカ嫌いの人々による憲法への感謝か。或いは単に面白がっているのか。そして、対決には興味があるが投票するのは面倒臭いという、国民全体の、無関心か。
御坂が読み上げる投票者のコメントによれば、その全てであるようだ。
この国の道徳を復活させようとする試みは、単なる全国規模のエンターテインメントに変質した。それは憲法第九条のせいなのか。いや、これが人間の本質ではなかったか。
走り去る車の助手席から男が空き缶を投げ捨てた。駐輪禁止の場所に自転車が大量に停められている。キャッチセールスの男が若い女性にしつこく声をかけている。高校の制服を着た少年達が煙草を喫いながら歩いている。結局何も変わってはいない。命を削って叫んできたが、何も変わってはいない。
頭が痛い。眼球が飛び出しそうだ。
向こう側の歩道で何かトラブルが起きているようだ。三十代の男が若者の胸倉を掴んでいる。若者の友人は不安げな顔で横に突っ立っている。いつもの光景。暴力沙汰に慣れた顔、男はヤクザかチンピラか。きっかけは肩が触れたとか目が合ったとか、そんなどうでもいい理由なのだろう。
男が若者の顔を殴り始めた。友人はオロオロしているだけだ。大勢の通行人がいたが、見て見ぬふりで横を過ぎる。これもいつもの光景だ。何も変わってはいない。その中には大きめのロングコートとチューリップハットでモラルのコスプレをした者もいた。彼にとってはただのファッションらしい。
天城は進路変更した。横断歩道が青になるのを待って向こう側へ渡る。モラルに姿を変える余裕はなかった。ならば一旦無視して通り過ぎるという選択肢もあったが、天城はもう、いい加減、そんなことには、うんざりしていた。
男は若者をまだ殴り続けている。若者は地面に膝をついた。その腹を男が蹴る。友人は顔を真っ赤にして何も言えずにいる。急ぎ足の通行人とすれ違って天城は現場に到着した。
「ちょっと」
天城は男の肩にない筈の右手を置いた。
「何だっ」
男が振り向きざまに天城の手を振り払う。強い力ではなかったがそれだけで天城はふらついた。後ろに倒れそうになり数歩で踏み留まる。
「何だ」
敵意をギラつかせて男がもう一度言った。左眉に古い刃物傷があった。暴力団のバッジはない。男の内面を探ることも出来たがやめておいた。どうせ同じだ。
「もうその辺で。やめませんか」
途中で上がってきた胃液を飲み込みながら天城は言った。
「お前、こいつのツレか」
男が聞いた。蹴られていた若者はゆっくり立ち上がる。友人は三人の顔を見回している。
「いいえ、違います。でももうやめませんか。何があったのか知りませんが、もう充分でしょう」
「うるせえな」
男が掌で天城の胸を突いた。全身を鋼鉄の強度にすることも出来たが、天城はせずにそのまま受けた。天城はペタンと尻餅をついた。自分でも意外なほどにあっけなく。左手に提げた紙袋が倒れたが中身は零れなかった。
男もちょっと驚いたようだった。天城は右手をついてなんとか立ち上がった。頭が痛い。
「やめませんか」
天城は右手を伸ばした。男が乱暴に払いのけた。その手を掴んで握り潰すことも出来たがしなかった。またよろめいた。頭がクラクラする。足の力が抜けて天城はその場に崩れ落ちた。姿は保っておかねばならない。右手がないことに気づかれてはならない。
ここで殺されるのもいいか。天城はふとそんなことを思ったりした。強い吐き気が込み上げて、天城は吐いた。昼食を摂っていないので胃液しか出ない。何度も吐いた。姿を保たなければ。
男は、薄気味悪そうに天城を見下ろしていた。
「チッ」
男は短く舌打ちして背を向けた。若者達を置いて去っていく。
殴られていた若者の腕を友人が引っ張った。若者は天城に軽く頭を下げたが何も言わなかった。天城を引っ張り起こしもせず、別の方向に去っていった。通行人は相変わらず知らぬふりをしていた。
そんなものだ。分かっているさ。
天城は身を起こし、ポケットからティッシュペーパーを出して口元を拭いた。手提げ袋を持って立ち上がり、再び歩き出した。大したことじゃない。何でもないことだ。
ふと、花屋のことを思い出した。
北沢という名札の彼女の顔が浮かぶ。化粧の薄い、整っているが嫌味のない顔立ち。柔らかな物腰に控えめな微笑。澄んだ瞳は世界の残酷さを知りながらも善を見据えているような気がした。
十日以上花屋に行っていない。もう行かない方がいいと天城は思う。万が一にでも擬態が解けて本当の姿を見られることは避けなければならなかった。膨れた頭と血走った目、失われた右手首。彼女の前に絶対に晒す訳には行かない。
だが、もう二度と彼女に会えないことに自分は納得出来ているのだろうか。最後に花屋に行った時、これがもう最後だと決めていた訳ではなかった。体力の衰えが進めば益々会うのは難しくなるだろう。もう一度だけ、彼女の顔を見ておきたい。
しかし自分にその権利はあるのか。何百人も惨殺してきた殺人鬼に。目的が善であったとしても、自分の行為が悪であることは間違いないのだ。自分には彼女の人生に関わる資格はないのだ。
でも、店に行って花を買うだけだ。彼女に迷惑をかける訳ではない。そのくらいは構わないのでは。いや、自分が死んで素性が判明すれば、モラルが良く通っていた花屋として迫害を受ける可能性もあるのでは。だが彼女に二度と会えないまま死ぬことを自分は受け入れられるのか。もしかして彼女は天城が来ないことを不思議に思っているかも知れない。転勤になって引っ越すとか何とか説明して別れの挨拶をしておくべきだったか。いや彼女にとっては自分はただの客だ。それほど気にしてはいないだろう。彼女は天城の名前さえ知らないのだ。
思考を堂々巡りさせているうちに天城は駅に入り、列車に乗り、降りたところで間違った駅であることに気づいた。自宅の最寄りの駅ではなく、あの花屋の近くの駅だった。
うっかり間違ったのか、それとも無意識のうちに求めていたのか。天城は次の列車を待つことはせず、苦笑しながら駅を出た。
花屋に近づくにつれて息苦しさを感じ始める。どうして緊張しているのか天城にも分からない。
モラルの騒動とも憲法第九条の殺戮とも関わりなく、花屋は変わらずそこにあった。表に小さな鉢が並んでいる。天城は鉢植えを買うことに決めた。死ぬまでの間、見守ることが出来るように。
ガラスの向こう、店内に彼女はいた。
天城はすぐに目を逸らし、店先の鉢植えを見渡した。彼女と話をするのが怖かった。出来るだけ時間をかけて選ぶべきか。いや、あまり不自然なのもいけない。
一つの鉢に目を留めた。淡い赤の花弁が上向きに立った小さな花が五つほど咲いている。札はシクラメンとなっていた。有名だがこんな花だとは知らなかった。結局自分は彼女ばかり見ていて店の花自体をじっくり見たことはなかったのだ。
天城はその鉢を手に取って店に入った。出来るだけ自然に。左手は紙袋を提げているので鉢を持つのは右手になる。存在しない右手。
「いらっしゃいませ」
彼女が迎えた。いつもの微笑にいつもの柔らかな声。
「こんにちは」
自然に振舞わなければ。頭痛を暫し忘れ、天城は失敗しないことだけに集中していた。
「今日はこれをお願いします」
自然な微笑とはどんなものだったろうか。細心の注意を払ったのだが少し声が上ずってしまった。彼女に気づかれただろうか。
「はい、ありがとうございます」
鉢を渡した時、彼女の手が天城の右手に触れた。感覚のない、見せかけだけの右手。
ビニールの手提げ袋に鉢を入れながら彼女は聞いた。
「最近お忙しかったんですか」
押しつけがましさのない、ほんの淡い心遣いだった。天城は用意していた言葉を思い出そうとしたが急に頭が真っ白になってしまったみたいでなかなか出てこなかった。二年も通ってきたのに、自分は何をやっていたのだろう。
「ええ、あの、そんなに忙しかった訳じゃないんですけど……」
みっともない返事に天城は自己嫌悪に陥った。彼女が値段を告げて品物を渡そうとして、ふと心配そうな顔になった。彼女がそんな顔をするのは初めてのことだった。
「あの、大丈夫ですか」
「え」
何かしくじったのだろうか。天城はドキリとする。
「あの、涙が……」
馬鹿な。天城は偽りの右手で自分の頬に触れた。指を見ると濡れている。
「大丈夫です。何でもありません」
慌てて言いながら天城は右袖で涙を拭った。いつの間に自分は泣いていたのだろうか。どうして。別に悲しい訳ではないのに。
急に胸の奥から熱い痛みが込み上げてきて、天城は危うくその場で泣き出してしまうところだった。必死に力をコントロールして表面を取り繕う。平静な顔を。声を。涙を消さなければ。いや急に消すのもおかしい。
天城は財布を出して代金を払った。彼女はまだ気遣うような顔をしていた。天城は微笑んでみせた。自然に。自然に。
鉢の入ったビニール袋を受け取り、天城は急いで言った。
「ありがとうございました」
彼女も頭を下げて同じ言葉を返した。
「ありがとうございました」
天城は彼女の表情を確かめることなく早足で店を出た。北沢という名字しか知ることの出来なかった彼女。花を買うことしか出来なかった自分。
もっと別の過ごし方があったのではないか。もっと別の選択が、別の、人生が、あったのでは。
今更遅い。自分は殺人鬼で、惨めに死んでいくしかないのだ。
さようなら。
平静の仮面をかぶせながら天城は暫くの間泣き続けた。
アパートに帰り着いた。沢山の花瓶に飾られていた花で生き残ったのは一輪だけだ。これも後数日で駄目になるだろう。天城はコタツにシクラメンの鉢を置いて水をやり、頓服薬を飲んだ。頭痛が治まるまで十五分ほどかかる筈だ。少し休みたかった。目覚まし時計を一時間半後にセットする。
ふと、眠ったらこのまま二度と目が覚めないのではないかという気がした。それでも天城はベッドに横になり、最悪の気分のまま目を閉じた。
ちゃんと目は覚めた。頭痛と吐き気は少し軽くなっていた。まだ大丈夫だ。起き上がり、床に立った天城の視界が急に流れた。腰に激痛。足に力が入らず崩れ、腰がベッドの端に当たってしまったのだ。
足の感覚がなかった。暫くさすっているうちに少しずつ感覚が戻ってきた。まだ動く。大丈夫だ。
夕食にする。少ない量で出来るだけ沢山の栄養を。カロリーメイトの固形タイプとドリンクタイプの両方を摂り、ビタミン剤をポカリスエットで流し込む。早く胃を過ぎるように体の右側を下にして寝転ぶ。その間にテレビを観る。
イラクに駐留中の米軍が憲法第九条の襲撃によって壊滅したというニュースが流れていた。とうとう憲法は国外まで進出したらしい。そう言えば昨日御坂が読み上げた要望にイラクのことがあったような気がする。イラクの国民とイスラム教徒達は喜ぶかも知れないな。日本での投票にはあまり影響なさそうだ。天城はそんな余計なことを考えている。
胃が少し軽くなったので天城は出発することにした。感覚の触手を周囲に広げていく。意識が拡散していく。様々な声と思念が頭に流れ込んでくる。「……はいつもそればっかりで約束守ったことないじゃない……」女性の泣き声。介入すべき話ではなさそうだ。「今日は何処で飲む。焼き鳥にするか」男の声。どうでも良い。荒い息遣い。移動している。ウインドブレーカー姿が見える。ジョギング中の男だった。眼球が勝手に動いて痛む。親父狩りの話をしている少年達がいる。「でももしモラルが来たらどうする」と一人が言う。少しはモラルも抑止力になっているようだ。でも別の少年が言う。「モラルなんて滅多に出やしねえよ。宝くじに当たるみたいなもんだろ」ここは行った方がいいかと思う。しかし場所が遠い。福岡か。移動に体力を使うので今回は諦めた。全国均等に活動するべきだがなかなか難しくなってきている。
助けを求める声が聞こえる。弱々しい、涙声。木々が見える。斜面。山か。岐阜県。若い男女。男の方はぐったりしている。肋骨と左足の痛み。転落による怪我。
山登りで遭難したらしい。仲間はいないのか。意識を集中させて周辺を探す。いない。携帯電話の使えない地域のようだ。男は重傷で、放っておくと危険かも知れない。天城はこちらを優先することにした。
出発前に顔を洗う。鏡に映った本当の顔。頬はこけているのに額は膨れ、血走った目をしている。額の生え際から頭頂部まで醜い傷痕がある。自分で縫合した傷だった。右手首の傷口も自分で血管を焼き皮膚を縫い合わせた。
閉じた瞼を指で押さえる。頓服薬を飲んでいった方がいいだろうか。いや、もう残り少ない。明日クリニックに電話しよう。
天城は買ったばかりのコートに腕を通しチューリップハットをかぶり、手袋を填めた。右のそれにはティッシュペーパーを詰めている。平面体となってアパートを滑り出た。まだ色々な声が入り込んでくるが、対象者を見失わないように注意して空を飛ぶ。空気が冷たい。風邪を引くかも知れない。
二十分ほどで到着した。標高千メートルを超える山の中腹、木の密集した斜面に二人はいた。一反木綿からモラルの姿に戻って着地し、声をかける。
「大丈夫ですか」
二人はモラルの出現に驚いたようだった。女が尋ねる。
「ほ、本物ですか」
「本物です」
天城は頷いた。
最寄の安全な場所を探す。四十キロほど先に消防署があったのでそこを目指すことにする。二人を乗せて空を飛ぶほど器用な真似は出来ない。天城は全身を変形させた。二人をカプセル状に包んで保護し、四肢を五メートル以上に伸ばして木々の上を進む。四つ脚の蜘蛛だ。舗装された道路に出てからは四輪車に変形した。イメージ通りにヘッドライトも点灯させて走る天城に女性が引き攣った笑い声を上げる。
消防署に二人を引き渡し、天城はモラルの姿に戻った。これから病院に連れていくとのことだ。二人と消防署の人達に礼を言われ、モラルは「それでは失礼します」と去った。体力を消耗してしまったがちょっと気分が良かった。これで少し票が増えるかも知れないと思って、そんなことを考える自分が嫌だったりもする。
空を飛んでいると頭痛と吐き気がひどくなってきた。やはり頓服薬を飲んでおけば良かったか。天城はマンションの屋上で一休みした。
次の目標を探す。声と思念の奔流から介入が必要と思われるものをより分ける。攫う。誘拐。女の子。女子学生の背中が映像として見える。男がそれを追っている。東北、青森。強姦。どの程度本気なのか。逡巡が次第に決意へと変わっていく。男は拉致した後のことはまだ考えていないようだ。人通りの少ない道に入っていく。
近くに電話ボックスが見えた。意識を集中すると公衆電話の番号も分かった。天城は地上に降りる。コンビニの前に公衆電話がある。テレホンカードを挿し込み覚えた番号へとかけた。
電話ボックスからベルが鳴り、男は眉をひそめる。少し迷った後、受話器を取るのが見えた。
「やめておけ」
天城は告げた。
「な、何だ。誰だ」
男が慌てて周囲を見回している。
「モラルだ。やめておけ。私は見ているぞ」
天城は電話を切った。視点はまだ青森の男から離さない。男は呆然と受話器を戻し、体を震わせながら女子学生とは逆の方向へ去っていった。これでいい。
次を探す。誰かを殴っている。二人の少年を九人がかりでリンチしている。近くにバイクが数台。暴走族か。上半身裸にされた少年の肌に煙草の火を押しつける。チェーンで殴る。皮膚が裂ける。暴行がエスカレートしていく。場所は岡山。頭が痛いが行こう。
一反木綿で到着した時もリンチは続いていた。工場跡地のようだ。リンチを受けている少年の一人は気絶して転がっている。
「うわっ、ヤベえよモラルだ」
気づいた一人が真っ先に吐いた台詞がそれだった。何人かが逃げようとしたので天城は左手の先端を針金に変えて伸ばし、彼らの足首を突き刺した。後遺症が残るような傷ではないが暫くは走れないだろう。
「うえっ、本物かよ」
突っ立っている一人が呟く。
「自分のやっていることは分かっていると思うが」
天城は言った。
「こいつらが悪いんだよ。俺の女に手を出しやがって」
リーダー格らしい若者が弁解する。
「手を出したというのは暴力を振るったとか強姦したということか。それとも恋愛の範囲内か」
「別に……カラオケに、誘っただけ、なのに……」
リンチを受けていた少年が呻く。彼の顔は紫色に膨れ上がっている。自分の素顔とどちらかひどいだろうと天城は思う。
「うるせえなっ俺の女だって分かってたろうが。俺を舐めてんだよ」
「では色恋沙汰と判断するが、それで人数を集めてこの仕打ちはやり過ぎとは思わないのか」
と、リンチを加えていた側の一人が土下座を始めた。
「ごめんなさい、許して下さい」
残りも次々とそれに倣う。リーダー格の若者だけがまだ立っている。
不満げな彼に天城は問うた。
「君は何か言うことはあるか」
唾を吐いてから彼は答えた。
「憲法第九条は放置してるくせに、俺達みたいな弱い者をいじめるんだな」
胸に刺さる指摘だった。これまでにも何度か言われた。頭痛と吐き気が急にひどくなったような気がする。
それでも天城はモラルとして言った。
「憲法第九条とは決着をつけるつもりだ。それに、君達は人を殺せるくらいには充分強いようだ」
天城はバイクに載せてあるポリタンクを指差した。十リットルの灯油。リンチを加えた者と受けた者、全員の顔が蒼白に変わった。
「いや、別に、殺すまでは……」
リーダーの声は尻すぼみになった。
「『殺してやる』と言って持ってこさせた灯油だ。確かに最初はその気はなかっただろうが、やっているうちに引っ込みがつかなくなってきた。ここで殺さないと仲間に舐められる、君はそう思った筈だ」
天城は土下座している仲間達を見回した。
「君達もこの調子では殺してしまうかも知れないと思った筈だ。何故止めようとしない。皆思っている筈なのに、何故それを口に出来ない。ほんの少し、勇気を出せば出来ることなのではないか」
「その通りです。次からは絶対止めます。だから許して下さい」
真っ先に土下座した若者が言った。その場しのぎの薄っぺらな感じがした。リーダーは不貞腐れた顔で黙っている。
頭痛が激しくなってきた。早く済ませたかった。
「救急車を呼びたまえ。携帯電話は持っているだろう」
天城は鋭い鎌をイメージして右袖をそれに変えた。
「ちょ、ちょっと……」
リーダーが慌てて両手を上げた。天城は鎌を伸ばして彼の左足を切断した。膝下で切ったので多分繋がるだろう。
「それでは失礼します」
天城は皆に一礼してその場を去った。地面を転げ回るリーダーの喚き声が聞こえていた。
彼らは少しは変わるだろうか。それとも何も変わらないだろうか。天城のやっていることはただの自己満足なのだろうか。
相手の肉と骨を断ち切った感触が、存在しない右手に残っている。その感触を自分が喜んでいるように思えて、天城は気分が悪くなった。
一旦戻ろう。天城は寒空を泳ぎながら、今後は人助けだけに専念しようかなどと考えていた。
アパートに戻ってすぐ頓服薬を飲んだ。効いてくるまで少しかかるだろう。コートと帽子を脱ぎ、テレビのニュースを観ながらノートパソコンを起動する。
イラクではゲリラ達が勇躍して米軍の生き残りを殺し回っているようだ。米軍の死者は七万人を超えるとの情報もある。他国の軍も撤退するかも知れない。これでイラクが平和になるかと言えば、更に混乱するだけだろうと思う。駐留している自衛隊はどうするつもりなのだろう。
インターネットの巨大匿名掲示板をチェックする。ニュース板は憲法第九条についてのスレッドが大半を占めていた。負け犬モラルというタイトルはスルーしておく。モラル出現情報というスレッドに、遭難救助の件と集団リンチの件が報告されていた。呆れるほど早い反応だ。全国のそれだけ沢山の人達がこの掲示板を覗き、書き込んでいるということか。
モラルの支持者とアンチが議論しているスレッドがあった。いや議論ではなく不毛な罵倒合戦だ。アンチはしばしば支持者の書き込みに「本人乙」と返す。本人お疲れ様……モラル本人が支持者を装って書き込んでいるのだろうとからかっているのだ。読んでいるとあまりにも「本人乙」がしつこいので天城は腹が立ってきた。このアンチの素性を掴んでこのスレに書き込んでやろうか。意識を集中すれば探れないこともない筈だ。いや、駄目だ。それは能力の私利的な乱用だ。天城は自己嫌悪に陥る。天城は自分では決して掲示板に書き込みしないことにしている。また、モラル本人のふりをして偉そうな説教を続ける書き込みもあった。皆は偽者だと分かっているようなので半ば安心し、天城は溜息をつく。
下の方に『政府が秘密裏に脳腫瘍の患者を探している』というタイトルのスレッドがあった。
医療関係者による匿名の告発らしかった。政府が医療機関に脳腫瘍患者の情報提供を要求しているのだという。氏名・住所など個人情報も含めた全てを。脳腫瘍患者だけでなくナルコレプシーやてんかんの患者も探しているらしい。告発者の勤務する病院では、医師の守秘義務に違反するということで院長が抗議の電話をしたが、指示に従わない場合は保険医療機関の取り消しもあり得るという脅しが返ってきたという。他の病院でも同じ話があり、どうやら全国の医療機関に指示が回っているらしい。
もしかして自分を探しているのだろうか。生ぬるい不安がよぎる。どうやってかは分からないが政府もモラルの正体に迫りつつあるようだ。それとも全く関係ない事情なのだろうか。天城の通院している外園クリニックにも政府の指示が回っているだろうか。外園先生は天城の情報を提出するだろうか。政府は天城をモラルと断定するだろうか。その辺を探っておくべきか。
いや、やめておこう。正体を知られたところで大して違いはしない。どうせもう長くはないのだ。
政府は憲法についても調べているのだろうか。憲法第九条に実体がないことは天城も気づいている。こちらの攻撃は通じず、相手の攻撃は防げない。つまりお手上げだ。あれから暫く憲法について探ろうとしたが何も分からなかった。実体がないせいか、それとも他の理由によるのか。それも分からない。
自分が死ぬ前に、憲法第九条をどうにかしておきたいとは思っている。
そう言えば最近、本物の憲法第九条を改正する動きがあるな。どうにも皮肉なものだ。天城は部屋で独り苦笑する。
頭痛はなかなか治まらなかった。自分で頭蓋骨を切り開いて腫瘍を抉り出したい衝動に駆られる。勿論そんなことは無理だ。
パソコンから目を離してこめかみを揉んでいると様々な声が入ってきた。出動を急かされているような気分になる。頭痛が和らいだら行こう。
「騒いだら殺すぞ」
声がそう言った。緊張して押し殺した男の声音。近くだ。
男が無理矢理誰かを引き摺っている。女だ。首筋にナイフを突きつけ、近くの茂みに引き込もうとしている。見覚えのある通りだった。男の欲情が伝わってくる。強姦目的。女は怯えてしまって声も出せずにいる。夜の闇に女の顔が浮かんだ。
恐怖に強張ってはいるが、花屋の彼女だった。北沢という名札の。
天城の全身に悪寒が走った。すぐにそれは嫌な感触の熱に変わる。助けなければ。天城はすぐ立ち上がった。彼女が不幸な目に遭ってはならない。彼女がこんなふうに、こんなクズに、汚されてはならないのだ。しかしモラルとして彼女に関わるのは避けるべきではないのか。躊躇は一瞬で消えた。
天城は一反木綿に変形してアパートを滑り出た。花屋からの帰り道だったのだろう。全速力で現場に向かう。急に吐き気が強くなった。無理をしただろうか。暗い夜。人気のない道に二人の影が見えた。
下降途中でモラルの姿に変わったためバランスを崩した。着地の瞬間に体を硬化させたので足を折らずに済んだがアスファルトの地面が陥没した。ショックで頭が揺れた。眼球が飛び出すかと思った。いかん。
「うわおうっ」
突如空から出現したモラルに驚いて男が妙な声を上げた。三十代だろう、覆面はしていない。右手にサバイバルナイフ。
彼女も天城を見た。驚いて目を瞠っている。天城は姿勢を正そうとしたがふらつく。倒れそうだ。それでもモラルとして声を絞り出した。
「やめろ」
「おおっわっ」
男が彼女を放してナイフを振り回したように見えた。もしかしたら単に逃げようとしていたのかも知れない。天城に判断する余裕はなかった。左手を大型ドリルに変形させて男の胸板を貫いた。ギュリギュリと音を立てて背中から先端が抜け回転を続ける。ちぎれた心臓が血と一緒に飛び散る。しまった、彼女に血がかかってしまう。天城は左腕を横に振って彼女から遠ざけた。痙攣する男の死体がドリルからすっぽ抜けて飛び、木の幹に激突した。頭が割れそうに痛い。これまで経験した中で最悪の激痛だった。胃液が込み上げる。彼女の前で吐く訳には行かなかった。
「それでは失礼します」
立ち竦む彼女に告げてすぐ天城は背を向けた。彼女に凄惨な光景を見せてしまったことに気づく。なんてことだ。この調子で空を飛ぶのは危険だった。とにかく早く立ち去らねば。視界が揺れる。足を動かさないと。集中しろ。姿を消さないと。彼女に姿を……。
地面が近づいてきた。視界が歪んだ。
闇が降ってきた。
七
頭が痛い。心臓の鼓動に合わせてリズミカルに痛みが繰り返される。世界が頭痛と吐き気だけになってしまい、その中を漂っているような感じだった。
もう慣れている。いつもこんな苦悶の中で目が覚めるのだから。
明るい。直管型の蛍光灯が見える。強い光が目に刺さるようで、天城倫は何度か瞬きした。
自分のアパートの電灯とは違う。でも見覚えのある部屋だ。ベッドは狭くてクッションが薄い。
横に白衣の男性がいた。椅子に腰掛けている。
「調子はどうですか」
いつもの穏やかな口調で尋ねたのは外園静無医師だった。
外園クリニックの診察室だった。自分は外来に来ていたところだったか。しかしベッドに横になるまでの経緯が思い出せない。右腕には点滴の針が刺さっている。右手首の先端にはガーゼが当ててある。
本来の姿を見せていることに気づいて、天城の顔から血の気が引いた。漸く状況を思い出す。彼女を助けて、そのまま気絶してしまったらしい。
「どうしてここに……」
「彼女があなたを運んできました。あなたが診察券を持っていたので、うちに電話をかけてこられてね」
「彼女って……」
「彼女じゃなかったのですか。これは失礼」
「い、いえ」
「ん、彼女なのですか」
「いえ、そういう訳じゃないです」
天城が慌てて否定すると外園医師は珍しく微笑した。
「待合で待っていますよ。それから、右手の傷は化膿していたので処置して縫合し直しておきました。内服の抗生物質を数日分出しましょう」
外園医師は平然と天城の右手のことを口にした。彼女から状況を聞いていれば天城がモラルであることも分かっている筈だ。しかし彼は余計なことを聞かない。そんな態度は外園医師に相応しいようにも思える。
「あの……今、何時ですか」
「午前一時です」
腕時計を確認して医師は答えた。
「すみませんでした」
起き上がろうとすると医師は片手を上げて制した。
「まだ休んでいなさい。ところで頓服薬はまだ余っていますか」
「いえ、足りなくて、明日にでもお電話しようと思っていました」
「なら定期薬と一緒に用意しましょう」
「あ、それと。ついでにちょっとお尋ねしていいですか。もしかして、先生のところにも政府から、脳腫瘍の患者について情報提供の依頼とか来ましたか」
「いえ、来ていません」
外園医師は即答した。嘘をついている様子はなかった。
医師は診察室の外へ消えた。やがて、控えめなノックの音がした。
「どうぞ」
ゆっくりとドアが開いて、彼女が入ってきた。俯きがちに。
「どうぞ、座って下さい。横になったままですみません」
さっきまで医師が座っていた椅子を天城は勧め、彼女は頷いて腰を下ろした。
彼女は薄手のコートを着ていた。今は勿論北沢の名札はつけていない。
出会ってから二年。店員と客という立場以外で話したことはなかった。こんな状況で、話したくはなかった。右手のない、頭部の膨れた自分を晒したくなかった。殺人鬼の自分を見せたくなかった。
彼女の緊張する気配が伝わってきたが、天城も緊張していた。
「すみませんでした」
天城は彼女に謝った。取り敢えずそんな言葉しか浮かばなかった。
「いえ……。あの、こっちもごめんなさい。勝手に手帳を見てしまって。どうすればいいか、分からなくて」
診察券は手帳に挟んでいたのだった。
「気にしないで下さい。あんな状況でしたから。どうやって僕を運んだんですか」
あんな状況でしたから。
「車持ってますから。軽ですけど。一旦家に帰って車で戻って、後部座席に乗せて。重くてちょっと苦労しましたけど」
彼女は苦笑めいた淡い笑みを浮かべた。少し翳りのある笑みになった。
それは天城のせいだ。
「すみません。それで、警察には連絡したんですか」
近くに刑事の気配はない。怯えさせないよう気をつけながら天城は尋ねた。
短い沈黙の後、彼女は答えた。
「……いいえ。してません。連絡したのはここだけです」
おそらくあの場でかなり迷ったのだろうと天城は思う。
「すると死体はそのままですか」
嫌な言葉を使ってしまった。
「私があなたを運んだ時はそのままでした。今はもしかしたら誰か見つけているかも知れません」
彼女のコートに小さな染みが幾つかついていた。天城が男を殺した際に撥ねた血だ。この染みは落ちないだろう。
「すみませんでした。こんなことに巻き込んでしまって」
謝るのはこれで何度目だろう。
「いえ、あの時あなたが来てくれなかったら、私もどうなってたか分からなかったし」
彼女はそう言ってくれたが、瞳から翳りは消えなかった。怯えと苦悩。殺人を目の当たりにしたショックは簡単に癒せるものではない。しかも犯人はすぐそばにいるのだ。
「警察には、もう少しの間、黙っていてもらえませんか。多分、後一ヶ月もしないで終わります。その後は話しても構いません。それより前に、もし警察がしつこく聞いてきたら、話してもいいです。その時は喋るなと脅されていたと言って下さい」
「……喋るつもりはありません。助けてもらったし。……あの……ご病気なんですか」
「先生から聞いてないんですか」
「本人に聞きなさいと言われました」
同情を求めるようなことはしたくなかったが、黙っているのも不自然だと思った。天城は簡単に説明した。
「脳腫瘍です。超能力はそのせいじゃないかと思っています。頭が膨れているのは脳の圧力を減らすためらしいです。最近は、花を買いに行くのに姿を誤魔化していました」
「そうですか……」
言いたいこと、聞きたいことは色々あったかも知れない。天城の余命が少ないことも悟っているだろう。しかし、彼女は半端な同情などは口にしなかった。天城も彼女に聞いてみたいことは色々あった。だが今この場で話すべきことではなかった。
暫く、沈黙が続いた。彼女は俯いていたが、たまに何か言いたげに顔を上げては、目が合うとすぐ下を向いた。
やがて、ぎこちなく、言葉に詰まりながら、彼女は喋り出した。
「私は……モラルのことは、あまり、全面的には賛成は出来ないけれど……殺人とか、そこまではしなくてもいいんじゃないかって、思うけど……このままじゃいけないって、社会はこのままじゃ、いけないような気がしてて、誰かがそれを言い出さないといけなかったんじゃないかって、思う……でも、私は、普段からそんなこと、考えてる訳じゃなくて、一日を生きるだけで精一杯で、社会のこととか考える余裕はなくて、でもそれはきっと、言い訳でしかなくて……」
ためらいながらもなんとか天城を擁護しようとしている様子が伝わってきて、天城は彼女を可愛らしいと思った。そう思うくらいは許されてもいいだろう。
「あの、一つ聞いていいですか」
天城は彼女に尋ねた。
「あ、はい、何ですか」
「ずっと気になってたんですが、あなたの名前を教えてくれませんか。名札には北沢って名字しか書いてなくて」
彼女はちょっとびっくりした顔をして、それから微笑を見せた。少しだけ悪戯っぽくて、そして儚げで、泣き出しそうにも見える微笑だった。
「里美です。北沢里美。そうですね、お互いずっと名前を知りませんでしたね」
手帳を見たなら知っているだろうが、天城も自己紹介した。
「僕は天城倫です。天の城に、倫理道徳の倫」
彼女に会うのはこれが最後だろう。良い状況ではなかったが、最悪でもなかった。少しだけ肩の荷が下りたような気がした。天城も微笑した。どんな笑顔になっているのか自分では分からなかった。
頭痛はかなり軽くなっていた。