第五章 どうしてそれをやらない

 

  一

 

 誰かが口笛を吹いていた。

 聴く者の辛い記憶を呼び起こすような、気だるげで哀切なメロディだった。口笛の響きは美しく澄み、適切なビブラートも加わって見事なものだ。

 曲はハンガリーで生まれ、世界各地で自殺の聖歌と呼ばれた、『暗い日曜日』だった。

 都市の雑音の中で響く口笛に、誰も振り返ったりはしなかった。

 奇妙な男が歩いている。襟を立てたロングコートは紺色で、光の当たる角度によって微妙に色合いを変えた。風になびく豊かな銀髪。細面でのっぺりした顔は青白く、何処となく人間離れした印象を与える。色素の薄い青の瞳は冬空のように冷たく澄んでいた。藍色のシャツの前で大きなペンダントが揺れている。節くれ立った細い指にも幾つかの指輪が嵌まっていた。小型のトランクを左手に提げている。

 男は口を軽くすぼめ、澄んだ音色で旋律を奏でていた。

 『暗い日曜日』を吹いているのはジョン・スミスだった。

 アニメキャラのコスプレのような目立つ格好で口笛を吹く男に視線は集まらなかった。ジョン・スミスが存在しないかのように、口笛など聞こえないかのように人々は一瞥さえくれずすれ違っていく。ペンダントの大きなルビーが光を放っている。鮮やかな光ではなく、幻のように淡い光だ。

 誰も自分に注意を払わなければ、人込みの中にいても無人の荒野と同じだった。ジョン・スミスは聴く者のない独演会を続けながら、急ぐふうでもなく一定のペースで歩いた。

 迷うことなく角を曲がる。オフィス街。通行人の数も多いが警官の姿が認められるようになる。

 次第に警官の数が増えていく。カメラを持つ一般人も多くなる。交通規制が行われ民間の車両は入れないようになっている。通るのはパトカーと郵便配達車だけだ。人々は祭りを観に行くような顔をしていた。警官達は迷惑そうだ。彼らの間を口笛と共にジョン・スミスが抜ける。

 TTJのテレビ局が見えてきた。十二階建てのビルディング。屋上にアンテナが見える。ビルの壁、三階部分に色の違う箇所がある。戦車の誤射により破壊され、修復を終えたばかりだった。

 局の周辺は柵が設けられ、ただ一つの出入口は検問所になっていた。警官と局の関係者が詰めている。番組出演者の乗ったヴァンが身分証を見せてから通る。通ろうとする野次馬を警官が叱っている。検問待ちの郵便配達車が二台並んでいた。不意の襲撃から守るために前後両脇をパトカーと白バイがカバーしている。

 ジョン・スミスは誰にも咎められず、検問所を歩いて抜けた。一部の観光客がデジカメの調子がおかしいと訝っている。

 玄関を通りジョン・スミスはテレビ局内に入った。エレベーターで上がる。二階で乗った女性社員はジョン・スミスが八階で出ていった後不思議そうな顔をしていた。誰かが乗り込んでくると思っていたようだ。

 八階には御坂草司がキャスターを務めるニュース番組のスタジオがあった。モラルと憲法第九条の公開討論が行われたのもここだ。口笛は廊下で良く響いた。立っている警官はジョン・スミスに見向きもしなかった。

 ジョン・スミスは口笛をやめた。

 スタジオに入る。まだ御坂草司の姿はない。日中は病院かも知れない。女性キャスターとスタッフが打ち合わせや機材の調整をしている。ジョン・スミスは勝手にセットに上がる。画面をチェックしていたスタッフがブラックアウトに首をかしげ「毎日この時間におかしくなるな」と呟いた。

 ジョン・スミスは屈んで床を確かめた。赤い線が描かれていた。余程注意していないと気づかない薄い線だ。

 線はセットを丸ごと囲んで径二十メートルほどの円になっていた。ジョン・スミスは立ち上がり、円を辿ってゆっくりと一周した。セット内にもスタッフはいたが、ジョン・スミスに目を留める者はない。

 円に切れ目がないことを確認すると、ジョン・スミスは再び屈み込み指先で赤い線に触れた。線の一部が消えて円が切れた。

 彼はトランクを開け、衣類や小動物のミイラや瓶詰めの赤い液体やビデオテープなどを掻き分け、何かを取り出した。トランクを閉じる。

 掌の上に白い小石が三個載っていた。何の変哲もない石に見える。

 ジョン・スミスは三つの小石を目立たない場所に置いていった。背景の裏に二つと、セットの手前、固定された機材の中に一つ。

 ジョン・スミスは振り返り、三つの小石で作られた三角形がセットを囲むことを確認した。そしてスタジオを去った。

 局前の検問を出ていく際も、警官達は気づかぬように別の来訪者と話していた。観光客がまたデジカメをいじりながら首をひねり始めた。

 ジョン・スミスは再び『暗い日曜日』を吹き始めた。お気に入りの曲なのだろうか。やはり誰も振り返らないが、中年の婦人の連れたミニプードルがジョン・スミスを凝視して唸っている。ジョン・スミスが色素の薄い目を向けると、ミニプードルはすぐに沈黙し、尻尾を巻いて震え始めた。「ジュリエットちゃん、どうしたの」と婦人が不思議がっている。ジョン・スミスはそのまま通り過ぎた。

 口笛を吹きながら地下鉄で移動する。切符も使わずに改札を素通りした。

 高級住宅街を歩き高層マンションに着いた。万全のセキュリティシステムが鍵を持たぬ彼を通した。エレベーターで昇り、ジョン・スミスは最上階のとあるドアの前で止まった。澤井啓の部屋。口笛も丁度終わる。

 観客もなく、拍手も得られない世界で吹く孤独な口笛が、魔人の唯一の娯楽だったのだろうか。

 ドアノブを掴むとカチャリと音がしてロックが解け、ジョン・スミスは総理代行の部屋に入った。

 まだ澤井は戻っていない。テレビとビデオの電源を入れ、トランクから出したビデオテープの再生を始める。ビデオデッキの上にはDVDレコーダーもあったが、ジョン・スミスはテープの方を信用しているのだろうか。

 昨夜の投票結果発表の際、スタジオに憲法第九条が登場した場面の映像だった。車椅子の御坂がニュースを読んでいたところに憲法第九条が上がり込み、勝手に投票用紙の要望をめくっていく。この日のTシャツの字は『悪』だった。やがて「うむ、これで行こう」と頷いて、御坂草司の肩に片手を置いて読み上げた。

「偉大なる憲法第九条様、アメリカ大統領がクズなのでどうか思いっきり残酷に殺してあげて下さい。私は十六才の女子高生です。どうか私の願いを叶えて下さい。だってよ。女の子の頼みは断れねえよなあ」

 御坂草司はニュースを中断して無表情に常連客を見上げていた。

「ついでにこれをやっとく」

 憲法はジーンズのポケットから小さな機械を取り出した。ICボイスレコーダー。マイクの前で再生してみせる。

 音声は「ハロー」という台詞から始まった。日本人の声が「はい」と応じる。会話が進むうちに、御坂草司の眉がひそめられていく。

 総理代行澤井啓と、アメリカ合衆国大統領補佐官リチャード・アーリーの密談であった。モラルと憲法第九条を始末する代わりに戦費提供などを要求する裏取引。

「これは本物か」

 御坂の問いにニヤニヤしながら憲法が答える。

「当たり前だろう。専門家に検証してもらってもいいぜ」

「君はこれをどうやって録音した」

「啓ちゃんに録音してもらったのさ。じゃ」

 憲法が片手を上げて舞台を降りる。画面がある程度それを追う。

 ジョン・スミスは、憲法第九条が赤い線を平気で越えるところを観察していた。

 リモコンを操作して時間を逆転させる。また憲法が出ていくところを流す。

 ジョン・スミスはまた巻き戻した。今度はスロー再生で憲法の歩みを見る。

 四度目はコマ送りで観察した。

 ジョン・スミスは再生をやめ、テープを最初まで巻き戻した。イジェクトして別のテープに差し替える。

 ニュースキャスターが蒼白な顔で喋る場面を高速で進め、現場の映像で通常再生にした。アメリカのテレビ局が収録した映像を日本のニュース番組が紹介したものだ。

 白昼の街路を赤いオープンカーが走る。高層ビルの立ち並ぶニューヨーク。運転している男は両耳を失い血を流していた。

 後部座席に憲法第九条が傲然と立っていた。Tシャツの字は『KILL』だ。その横で、アメリカ合衆国大統領ジャック・バスケルが、怯えきった表情で憲法に首筋を掴まれていた。大統領の左手は親指しかなかった。「食いやがった、プレジデントの指を食いやがった」と英語で叫ぶレポーターの声。

 後部座席には二人の他に幾つもの生首が同乗していた。大統領のシークレットサービスと側近、また、大統領補佐官リチャード・アーリーの生首もあった。

 オープンカーの周囲を数十台のパトカーが併走している。米軍のヘリが追っている。ヘリの側面から狙撃手が身を乗り出している。しかし彼らは何も出来ない。

 憲法第九条が歩道の人々に手を振っている。血のついた唇を歪め、尖った歯を剥いて笑っている。人々は信じられないといった顔で見守っている。稀に手を振り返す市民もいた。

 警察のヘリが米軍のヘリを差し置いてオープンカーに近づいてきた。縄梯子を下ろして刑事らしき男が走っているオープンカーに乗り込もうとしている。とんだ曲芸だが刑事は自信があるのだろうか。

 憲法がにこやかに右手を振った。銀光が閃き、瞬時に抜かれた伸縮自在の短剣が勇敢なる刑事を数百分割していた。飛び散る賽の目状の肉片が後続パトカーのフロントガラスを汚す。レポーターの悲鳴。画像が揺れる。撮影は車上から行われているようだ。

 憲法が大きく口を開けた。短剣を収めて右手で大統領の右手首を掴み上げる。無力な大統領が必死に抗う。

 憲法が大統領の右手に食らいついた。大統領の情けない悲鳴。「大統領が、アメリカが食われていく」とレポーターが絶叫している。憲法は肉を何回か咀嚼すると、まずそうに吐き捨てた。それでも次は大統領の右頬に齧りつく。耳のない運転手は泣きながらハンドルを握っている。

 アメリカ大統領が少しずつ食い散らかされ、輪切りにされ、生首となってオープンカーから投げ捨てられ後続車に轢き潰されるまで、ジョン・スミスは無表情に観察していた。

 ビデオ映像が終わり日本人キャスターの顔になるとジョン・スミスは巻き戻しを始めた。また映像の初めに戻り再生する。それを何度も繰り返した。やがてビデオを止め、二本のテープをトランクに戻した。

 午後六時になり、ジョン・スミスはトランクからプラスチックの小瓶を出した。中にはドロリとした赤い液体が入っている。蓋を開けて彼は中身を飲んだ。もしかするとそれが彼の食事なのかも知れない。

 目を閉じて、ジョン・スミスはソファーに腰を下ろしたまま微動だにせず過ごした。

 ジョン・スミスが再びその冷たい瞳を開いたのは午後十一時三十八分だった。二分後に入り口のドアの鍵が開けられる。

「ふうう。全く、クタクタだ」

 澤井啓が帰宅した。一人だ。バッグを置き、コートを脱いでソファーにどっかと腰を下ろす。ジョン・スミスの右隣だった。

「どいつもこいつも無責任な御託ばかりだ」

「澤井さん」

「うおっ」

 澤井が驚いて立ち上がる。振り向いて初めてジョン・スミスの姿を認める。

「な、何だ。君か。ん、今、音が」

 澤井が自分の額に触れ怪訝な顔をする。

「鍵のような、音がした。これは君がやっているのか。私の頭に鍵を……」

 ジョン・スミスはそれに答えず自分の用事を告げる。

「医療機関からの返事は揃いましたか」

「あ、ああ。そのことか。思い出した」

 澤井はバッグからプリントの束を取り出した。

「まだ全部は来ていない。八割程度だ。ただし関東圏では全ての医療機関の情報を取得出来た筈だ」

 ジョン・スミスはプリントを受け取り黙って読み始めた。かなり分厚い束だったが停滞なくめくっていき十五分後には一通り読み終えていた。

「ないですね」

 ジョン・スミスは無表情に言った。

「報告された患者にはモラルも憲法第九条もいません。本当に関東圏の全ての医療機関を網羅していますか」

「その筈だが。しかし、ざっと読んだだけで分かるのか」

「分かります。おかしいですね。少なくともモラルの身元は判明すると思ったのですが。情報を隠匿している医療機関が四つありますが、これらも違います」

「どうする。大統領も殺されたし、任務を中止して本国に戻るかね」

「いえ。任務中止の命令は受けていませんので続行します。私は与えられた任務を果たすだけですから、大統領が殺されようが関係ありません。憲法第九条については結界を幾つか試しているところです。有効な系が必ずある筈ですから。彼を一定の区域に封印することを考えています。肉体に帰還出来ず意識を失ったままとなりますから医療機関での検索も容易になるでしょうし、自宅なら衰弱して死ぬだけです。また、モラルについては素性が掴めなければおびき寄せるしかありません」

「おびき寄せるとは、どうやって」

「現在太平洋を航行中のセネヴィア号という豪華客船があります。船底に穴を開け、時間をかけて沈没させましょう。モラルが救助に来たところを核兵器で確実に殺します」

「馬鹿な、か、核だと」

 澤井が唖然とする。

「ミサイルだと接近を察知されて逃げられるかも知れません。水素爆弾を船に設置しましょう。爆弾の用意と設置は我が国の軍にやらせます。公開討論の際にはC4の存在を察知しましたが、あれは設置役の自衛隊員の思念を読んだと思われます。今回は設置役の兵士達はすぐ船を離れ、船員と乗客には爆弾のことは知らせません。モラルが詳しく調べる前に、彼が船に到着した時点で無線を使い起爆します。仕留める確率は高いと思います」

「しかし、その客船には客がいるのだろう」

「定員六百名の船です」

「無関係の彼らを巻き添えにするというのか」

「日本国内で核を使うより犠牲が少なくて済みます」

 ジョン・スミスは平然と返した。

「そうか」

 澤井もまた頷いた。額を押さえ左斜め上を見ながら。

「こちらの準備が出来次第あなたは日本のマスコミに大々的に報道させて下さい。それから念のため、情報隠匿の医療機関を……」

 急にジョン・スミスは口をつぐんで立ち上がった。澤井は不思議そうに相手を見上げ、そして見失った。

「あれ、何をしていたっけ。鍵が……」

 ジョン・スミスはプリントの束を右手に、トランクを左手に持ち壁際まで移動する。澤井は額を押さえていたがやがて台所へ歩きブランデーをグラスに注いでオンザロックにした。

 彼がグラスを持ってリビングに戻ると、隣の寝室から別の男が顔を出した。

「よーう。今誰かと話してたか」

 男は憲法第九条だった。黒いTシャツの字はいつもの『9』になっている。

「おっ……こ、こんばんは。いいえ、さっきから私だけですが」

 澤井は本気でそう言っているようだった。

「そうかい。おかしいな。まあ、いい。丁度いいところに来ちまった」

 憲法はリビングに歩み入り、澤井の手からブランデーのグラスを取り上げた。早速三分の一ほど飲んでしまう。澤井はぎこちない作り笑いを浮かべた。

「今日はお疲れだったようだな。アメリカとの件とか」

 憲法が少し意地悪な笑みを見せる。

 あなたのせいでしょうとは澤井は言わなかった。

「記者会見では録音についてありのままを発表しました。あなたがご存命の限り日本が金を負担する必要はありませんしね。アメリカは大統領殺害でまだ混乱していますし、日本に責任を問うつもりかどうかも不明です。大統領との裏取引を公開して頂きましたので、向こうも及び腰になる可能性はあります」

「ふうん。まあ、いいんじゃねえの。それはそれで」

 憲法はソファーにどっかと腰を下ろした。澤井も別のソファーに座る。

 二人共、壁際で見守るジョン・スミスには気づいていなかった。

「だがな、脳腫瘍やらナルコレプシーやらの患者を探してるのはなんでだい。かなり強引に調べてるようだが、お前の差し金みたいじゃねえか」

 底光りする憲法の瞳が澤井を射抜いた。

「え。それが何か」

 澤井はキョトンとして聞き返した。どうしてそんなことを聞かれるのか、心当たりがないというふうに。

 壁際のジョン・スミスが静かにトランクを開けた。プリントの束を収めて荷物を掻き分ける。

「だから、調べてるのはお前だろ」

「ええ、そうですが。それがいかがしましたか」

「どうして調べてるんだ。言ってみろよ」

「理由は……分かりません」

「分からないってのはどういうことだい。誰かがお前に依頼したのか」

「どうなんでしょう。ちょっと思い出せません」

 澤井は心底分からないという顔で額を押さえている。

 ジョン・スミスがトランクからナイフを出した。刃渡り十五センチほどの、石を削って作ったらしい赤いナイフだった。刃の部分に浅く紋様が彫られている。

「へえ。本気で言ってんのか。ボケるにはまだ早過ぎるよな」

 憲法が唇の端を歪めた。牙のような歯列を覗かせた、さっきよりも恐い笑みだった。

 澤井は危険を悟った。額を押さえて必死になっているが、何も浮かばないことに自分で驚いているようだ。

「おかしいな。思い出せない。おかしい。誰か……」

「啓ちゃあん。意外に、恐いもの知らずなんだねえ」

 憲法の口調が優しくなっていた。石村総理を殺した時と同じように。

「ちょ、ちょっと待って下さい。今思い出しますから。おかしいな、誰か……鍵の音だ。そうだ、鍵の音がしたガチャリって」

「ふうん」

 憲法第九条は左手のグラスを傾けてブランデーを味わった。同時に右手が霞んで澤井が悲鳴を上げた。

 澤井の靴下を履いた足、その左足先数センチほどが切断されていた。足の甲部分も少し持っていかれたようだ。澤井は血の出る足を押さえて床に蹲る。その胸倉を掴んで、立ち上がった憲法が引っ張り上げた。飲み干したグラスは放り投げ、ジョン・スミスの横の壁に激突して割れた。

「思い出しやすくしてやったぜ。誰の差し金だ。言え」

「で、ですからそれは鍵の音が……あだだだたああ」

 澤井の左足首が切断された。大量の血が床を汚していく。澤井は涙を流しながら額を押さえていた。

 ジョン・スミスがナイフを逆手に握り、左手にトランクを提げたまま壁際から離れた。スローモーションのように慎重に、足を踏み出していく。

 その先には、憲法第九条の背中があった。

「早く言わねえと体がどんどん縮むぞ」

 澤井は目を血走らせ、脳内の虚空を掴もうと懸命になっていた。

「ですから思い出せないんですよ、いや思い出します、思い出しますから待って下さい。誰の指示かってことですよね。鍵が掛かってて金属の音がするんです。ガチャリって音が頭の中にアヅッ」

 最後の悲鳴は憲法の仕業ではなかった。急に澤井啓が動かなくなった。ガックリとうなだれた澤井の顔から血が流れていく。

「おっ」

 憲法も驚いて澤井の顔を上向けた。

 澤井の眼球が飛び出して、視神経の糸を引いていた。眼窩から鼻の穴から、口からも血を流している。一部は脳漿も混じっているようだ。耳の穴からも血を流していた。

 澤井啓は、死んでいた。

「何じゃこりゃ」

 流石の憲法もあっけに取られていた。

 その背中、憲法の心臓へ向かって、滑るように加速しながらジョン・スミスのナイフが突き込まれていく。任務をこなす彼は完全に無表情だった。

「おわっちっ」

 憲法第九条の反応もまた素早かった。澤井を捨てて身を翻しざまに銀光が一閃した。

 ジョン・スミスの右腕が、前腕半ばほどで切断されていた。ズズ、と、ずれて落ちかけるのをトランクを持った左手で受け止める。

「何だ、今のは」

 憲法は室内を見回している。彼の怒りの視線はジョン・スミスを素通りした。

「痛えな」

 憲法は左腕を背中に回し、傷口に触れた。シャツが破れて赤い血が滲んでいる。指先についた血を、憲法は舌で舐め取った。

 ジョン・スミスは切れた右腕を元の場所につけたまま微動だにしなかった。出血は少なく雫も落ちない。右手はまだナイフを握っていた。腕が落ちる前に受け止めたのもトランクを置かないのも、自分の体から離れたものは術が解けてしまうということかも知れない。ジョン・スミスの胸で光るルビー。

 憲法は暫く様子を窺っていたが、やがて、舌打ちを残して体が薄れていった。二秒ほどで完全に消える。

 数分待って、ジョン・スミスが呟いた。

「やはり無理か」

 彼は右腕から左手を離した。

「次の権力者を使わねばならぬな。柴崎か、高村か」

 右手の指が動いてナイフを持ち替えた。トランクを開けナイフを収める。右手は元通りに繋がっていた。コートとシャツの袖だけが切れている。

 ジョン・スミスは総理代行の死体を残してマンションを去った。また口笛を吹きながら。

 

 

  二

 

 十一月十八日の午後二時過ぎ、天城倫は点滴中にぼんやりバラエティを観ていてセネヴィア号の事故を知った。豪華客船セネヴィア号は横浜港へ向かって太平洋沖を航行中に船底が大破したということだ。何かにぶつかったらしいがひどい時化のため詳しいことは分かっていない。一時間前に事故が起き、浸水のため後三時間ほどで完全に沈没するだろうということ。船員と乗客合わせて四百八十人以上いるらしいが、救命ボートで逃げても近くに救助出来る船はなく、状況はかなり厳しいということだった。

 テロップで流れる特報は普段よりも詳しい説明だった。チャンネルを変えてみる。緊急ニュースをやっている局もあった。キャスターが大きな地図で太平洋上にあるセネヴィア号の位置を示している。乗客の半数近くは日本人らしい。

 なんとか助けられないだろうか。おそらく二時間ほどで行ける。もしかして彼らはニュースを流しながら、モラルが救助に駆けつけることを期待しているのではないか。

 天城はこのところ外園クリニックで毎日点滴を受けている。食事をしても大概吐いてしまうので、少しでも栄養補給をということで勧められたのだ。点滴の間は二階にある空き病室のベッドで過ごす。入院の選択肢も外園医師に提示されたが、動けるうちはと天城は受けなかった。迷惑をかけたくなかったということもある。

 クリニックは病院と違って入院設備は十九床までと聞いたことがあるが、ここの入院患者は二十人以上いた。治療費についても気になったので尋ねたら、看護婦に「うちは保険診療じゃないから」と言われたことがある。その辺りのことは天城にも良く分からなかった。

 点滴は終えるまで後三十分くらいはかかりそうだ。待っている暇はない。天城は決心してベッドから起き上がり、左腕に刺さっている針を自分で抜いた。他の患者もいるため姿は作っている。頭痛は少し楽になっていた。

 テレビを消して廊下に出る。小さな詰所に看護婦が一人いたので天城は声をかけた。

「すみません、途中で点滴を抜いてしまいました。急用が出来たので」

「あら、それなら仕方ないわね。また明日も来れるかしら」

「ええ、そのつもりです。お手数をおかけしました」

「下の受付に声をかけていってね」

「分かりました。それでは、失礼します」

 小さなホールでは全身に包帯を巻いた老人や小人症の青年がテレビのニュースを観ていた。その後ろを通って階段へと歩く。車椅子の患者が珍しくホールに出ていた。たまに二階の窓から外を見ている男だ。テーブルについて若い女性患者からプリンを食べさせてもらっている。口を開けてスプーンを待つのを見ると、男は首から下が完全に麻痺しているらしい。

 いつも無表情な男の顔が、甘えた様子で幸せそうに緩んでいた。天城の視線に気づくと男はちょっと照れ臭そうに苦笑した。天城は軽く会釈する。

 丁度最後の一口を食べさせ終えた女性患者が天城を振り返った。顔の左半分を黒い布で覆っている彼女は他の入院患者に「さよちゃん」と呼ばれ親しまれていた。いつもぼんやりしていてたまにちょっとずれたことを言い、皆に笑われている。

 その彼女が天城を見て緊張した顔になった。前に一度見せた表情。あの日は憲法第九条がモラルとの対決を希望して大殺戮を行った。また何かあるのか。彼女は予知能力者なのか。それともただの偶然か。

「気をつけて」

 彼女は天城にパタパタと駆け寄ってあの時と同じ台詞を告げた。

「何にですか」

 天城は尋ねた。前の時はさっさと去ってしまい、聞くことが出来なかったのだ。

「だって、待ち構えてるから」

 セネヴィア号のことなのか。

「誰が、何処でです」

 彼女は思案するように小首をかしげた。

「んー。何処かは分かんない。でもずるい奴」

「ずるいというのは」

「だって、隠れてて、名前も教えてくれないもの」

 彼女の口調は無邪気だったが天城の腕には鳥肌が立っていた。言うことを言ってしまうと彼女は悩む天城を置いて車椅子の男のテーブルへ戻っていった。

 これは警告なのか。セネヴィア号の事故は罠なのだろうか。しかし四百八十人が死の危機に瀕しているのは確かではないのか。罠かも知れないからといって彼らを見殺しに出来るのか。どうせ近いうちに死ぬ自分なのに。

 じっくり思案する時間はなかった。

 

 

  三

 

「ひどい嵐だ」

 片倉征生は誰にともなく呟いた。偵察衛星がリアルタイムに映像を送ってくれてもディスプレイに映るのは雲だけだ。意味がない。

 太平洋沖は嵐だが日本は小雨程度だ。しかし地下十二階の第六種情報処理室に雨の音は届かない。

 自衛隊の枠外施設として存在するその部屋に三人の男がいた。一人は戸籍の存在しない自衛隊第六種実行部隊隊長である片倉征生。もう一人は米軍第七艦隊の副司令官。そして、ジョン・スミスと名乗る不気味な男。建物内には他にも人はいるが、これから行われることを知る者はいない。

 片倉は三十八才、第六種枠に入ってから六年になる。戸籍がないので結婚もしていない。トレーニングの合間にパチンコで暇を潰す日々だ。酒はやらない。

 第六種実行部隊の隊員は現在四十二名。自衛隊内部でも存在を知られず滅多に使われることのない部隊は誘拐から暗殺まであらゆる非合法活動が許されている。ちなみにTTJに爆弾を仕掛けた男とは何の関係もない。前回の任務は今年の五月、細菌兵器開発が疑われていた新興宗教団体を丸ごと消し去ることだった。一夜のうちに教祖を含め五十七人分の死体を処理し、施設を片づけた。集団失踪として暫くニュースになったがそれだけだ。警察ではなく急ぎで部隊が使われたのは教団に政治家との繋がりがあったためらしいが、片倉には知ったことではない。人が殺せて給料まで貰えるのだから後のことはどうでも良かった。

 そんな片倉にとってもジョン・スミスは不気味な存在だった。繋ぎ役の資料室長から連絡を受けたのが昨夜で、顔を合わせたのが四時間前だ。彼の指示に従うようにという命令だった。総理も副総理も死んで政府は混乱している。資料室長の上に誰がいるのか片倉は知らない。

 片倉がまず気に入らないのが、すぐそばで話しかけられるまでジョン・スミスの存在に気づかなかったことだ。しかも相手は背後ではなく目の前にいたのだ。物質主義者の片倉も流石に魔法を信じたくなってくる。

 ジョン・スミスは魔術師というイメージ通りの服装をしていた。コートはビロードで髪は銀髪、瞳の青は薄く、顔立ちも何処か人間離れしている。胸で輝くルビーのペンダントが怪しげだ。指はミイラみたいに細い。話しかけられると英語と日本語の両方が聞こえてくるような気がする。

 ジョン・スミスは無線機を前にして椅子に腰掛けたまま動かない。彼の足元には小型のトランクが置いてある。コートは右袖の布地に、一度切り離されたのを縫い合わせた跡があった。その右手に彼はリモコンスイッチを握っている。プラスチックの透明カバーを開けて赤いボタンを押すだけの簡単なものだ。それだけで、太平洋沖で二百キロトンの水素爆弾が爆発する。

 第七艦隊の副司令官も黙って腕を組んでいる。重い沈黙。

 片倉は腕時計を見る。午後四時十七分。予想される沈没まで残り三十分ほどしかない。

「モラルは来ますかね」

 片倉はジョン・スミスに日本語で聞いてみた。副司令官は日本語が分からないようだが、片倉も英語は得意ではなかった。

「分かりません」

 片倉を見もせずにジョン・スミスは素っ気なく答える。そんな澄ました態度がまた気に入らない。

「船にカメラを仕掛けておいた方が良かったのでは」

 ジョン・スミスはやはり無線機を見据えたまま答える。

「モラルの察知力がどの程度なのか不明ですから警戒させる要素は排除すべきです。海域からは潜水艦も遠ざけています。事情を知っている者は誰一人乗っていません。海域に存在する異常は船底に仕掛けられた二百キロトンの水爆と受信装置だけです」

 勿論、事情を知る者が船に乗る筈はないだろう。自殺志願者でもない限り。

「モラルが来なかったらどうするんです」

「次の計画を立てます」

「いえそうではなく、セネヴィア号の乗客達をどうするかという意味ですよ」

 片倉の問いに初めてジョン・スミスが振り向いた。瞳の色素が薄いため白目だけと勘違いしそうだ。その冷ややかな瞳を見た瞬間、片倉は魔術師の答えが予測出来た。

「別にどうもしません」

 ジョン・スミスは同じ口調で言った。

 モラルと憲法第九条も化け物だが、こいつも相当イカれてやがる。そんな片倉の思考までジョン・スミスには見透かされているような気がした。

 ドアがノックされ、片倉の部下が顔を見せた。

「隊長。お電話です」

 この場所の片倉に連絡出来る者は一人しかいない。

「ちょっと失礼」

 片倉はジョン・スミスに一礼し、黙っている副司令官の横を過ぎて部屋を出た。廊下を渡り、事務室の受話器を取る。

「片倉です」

「資料室だ。セネヴィア号の乗客に皇族が二人、民経党議員の家族が六人いることが分かった。爆破の中止を要請しろ」

 室長の声は動揺していた。片倉の口元に自然と皮肉な笑みが浮かぶ。

「ジョン・スミスにですか。あれが要請に応じるとは思えませんが」

「とにかく中止だ。ジョン・スミスを止めろ」

「了解です」

 片倉は受話器を置いてスーツの内側から拳銃を抜いた。弾倉は殺傷力の高いホローポイント弾を詰めたものに差し替える。

 目的を果たすために最善の行動を片倉は理解している。即ち、部屋に戻ると間髪入れずジョン・スミスに全弾撃ち込むこと。問答無用だ。第七艦隊の副司令官については銃を抜くそぶりを見せたら射殺する。不幸な事故だ。

 事務室を出て廊下を戻っていく。情報処理室のドアに左手をかけた時、奥からジョン・スミスの声がした。

「君には無理です」

 同時に奇妙な音が聞こえた。古い南京錠が掛かるような、重い金属音。いや、掛かったのではなく開いたのかも知れない。音は片倉の頭に直接響いた。

 片倉の手から拳銃が落ちた。拾わなければ、だが気力が萎えていく。自分の意志が失われ、別のものが入り込んでくる恐ろしい感触。

「来なさい」

 片倉はジョン・スミスの声に従い、部屋に入り支配者の横に立った。

「君は私の指示にだけ従っていればいい」

 薄い青の瞳が瞬きもせずに片倉を見つめていた。

「はい、分かりました」

 片倉は頷いた。そうだった。俺は彼の下僕だった。彼の指示にさえ従っていれば安心なのだ。

 ガチャリ、と、また鍵の音がする。嫌な響きだ。

「そこで待っていなさい」

「はい」

 片倉はジョン・スミスの後ろに直立した。副司令官が自分と同じ状況にあることを片倉はその時悟った。

 ジョン・スミスは右手にリモコンを握ったまま無線機が喋り出すのを待っていた。四時二十五分に報告があったが、船室の大半が水に浸かり、いよいよ危ないという内容だけだった。

 四時二十八分。

「助けが来た。モラル、モラルだ。モラルが救助に来てくれた。モラルが……」

 無線機が雑音混じりの声で喜びの報告を傍受した。

 瞬間、ジョン・スミスが素早くカバーを開けて起爆ボタンを押した。一片の躊躇もない動作だった。

「……来てくれた。モラルだ。今、水に潜った。船底の穴を塞ぐということだ。助かるかも知れない」

「む」

 継続する無線機の声にジョン・スミスが低く驚きを示した。もう一度ボタンを押す。

「助かるかも知れない。まだ分からないが、モラルならやってくれると思う。救命ボートに乗り込んだ客達もこちらを見ている。ひどい嵐だが、助かるかも知れない……」

「失敗のようですね」

 ジョン・スミスは傀儡達の前で言った。

「水爆を発見し、回路を断ち切ってから姿を見せたのかも知れません。次の計画を練るしかないでしょう」

 ジョン・スミスは立ち上がり、トランクを持って部屋を出ていった。第七艦隊の副司令官と片倉征生は主人の指示を仰ぐために彼の後を追った。

 

 

  四

 

 セネヴィア号遭難はアメリカ大統領惨殺に相当する大事件となった。モラルは船底の穴を塞ぎ乗客が戻れる程度に水を抜いて去った。最終的に彼らを救助したのは日本でもアメリカでもなくフィリピン国籍の船だった。

 問題となったのはモラルが去り際に、水素爆弾についてクルーに説明したことだ。積荷を装って爆弾が仕掛けられていたこと、リモートコントロールで起爆するようになっており、回路を破壊したこと。誰が何の目的で仕掛けたのかは分からないが、セネヴィア号の事故は仕組まれたのかも知れないとモラルは告げた。何人ものクルーと乗客が現場に案内されて実際の爆弾を見た。翌日にアメリカ政府の機関がセネヴィア号を調査し、核兵器は存在せずモラルの発言は誤りだと発表した。しかしやがて乗客が撮影した爆弾の映像がネット上にまで公開され、幾人もの専門家がアメリカ製の水素爆弾であると断定した。水爆は事故の三日前に寄った港で積まれたものだと分かった。持ち主は不明のままだ。アメリカ政府は関与を否定したが人々は信用しなかった。大統領と日本の副総理の裏取引は憲法第九条によって公開されているし、憲法に大統領を殺されたアメリカは威信に懸けて日本の魔人達を始末しようとしたのではないかと。モラルはアメリカに直接関わっていないもののアメリカによる陰謀説は有力となった。モラル一人を殺すために五百名近い一般人を犠牲にしようとしたのだ。セネヴィア号の事故原因がアメリカ政府の発表とクルーの証言で食い違い、他国による調査をアメリカが拒絶したことも疑惑を加速させた。更に、査問予定だった第七艦隊司令官と副司令官が同じ日に拳銃自殺を遂げた。アメリカに対する国際的な非難は益々高まった。

 救助された人々はマスコミのインタビューでモラルの賢明さと勇気を称え、感謝の言葉を述べた。皇族二名が助けられたことで右翼団体がモラル支持に傾いた。彼らが街頭でモラル支持を叫ぶことが良い結果に結びつくかどうかは別として。乗客には日本人以外にも多数いたため彼らの国からモラル支持の投票が送られてくるようにもなった。

 国外からの投票は憲法第九条の方が早かった。彼がイラクの駐留米軍を壊滅させて以来、イラク国民とイスラム教徒は憲法第九条を英雄と崇め奉るようになっていた。彼らがたどたどしいひらがなで日本のTTJ宛てに手紙を送ってくるのだ。憲法を神の使いと呼ぶ者まで出てくる始末だ。欧州諸国は憲法の虐殺を非難していたが国民の何割かはアメリカがやっつけられて胸がスッとしたとアンケートに語った。イラクでは異国の軍隊が撤退した結果シーア派、スンニ派、クルドの主導権争いが始まっていた。これがいつ果てるとも知れぬ内乱に至るだろうと国際政治学者は憂いた。

 憲法本人はイラクに飽きたようで別の対象に興味が移っていた。投票に付記された要望から北朝鮮問題に着手する。拉致被害者の奪還については「こんな面倒臭えのは断る」とあっさり捨て、総書記抹殺の要望を採用した。憲法の宣言に対し、日本政府と韓国政府が緊急に異議を唱えた。「北朝鮮総書記暗殺は混乱を呼ぶものであり我が国にとっても望ましいものではない」という控えめな表現は、憲法第九条を下手に刺激しないようにという配慮であろう。次の夜、彼は総書記の生首を持って御坂のニュース番組を訪問した。その翌日に発表された北朝鮮の声明は、憲法第九条に殺害されたのは総書記の影武者であり、他にも十数名の影武者が用意されているというものであった。その日のうちに憲法が再度平壌を襲撃し、夜の番組で「それっぽい奴はいなかった」とつまらなそうに話した。この日だけ、スタジオで憲法は奇妙な動きを見せた。御坂達のいるセットに足を進めかけて止め、少し考えてから慎重に踏み込んだのだ。出ていく時も同様だった。何故そうしたのか憲法は説明しなかった。

 北朝鮮は発表を控えたが、死者は五万人以上と推定されている。生首が影武者か本人かについては専門家の検証でもはっきりせず、うやむやのままになりそうだ。憲法はもう飽きたようで別の対象に移った。

 日本とアメリカが大混乱に陥って嬉しいとインターネット上で一部の中国人が語っていた。そのことが日本の巨大匿名掲示板に書き込まれ、反発と憎悪で一気に燃え上がる。中国を懲らしめて欲しいと憲法へ要望が届き、憲法は上海の高層ビルを幾つも倒壊させ数万人の死傷者を出した。

 十一月十六日に福井県知事が行った『ノーモア モラル宣言』は状況が一変していた。倫理道徳は他人から強制されるべきものでもなく、福井は今のままでうまくやっているからモラルのような殺人鬼は必要ない、モラルの福井県内への侵入と干渉を拒否するという宣言。再選を目指す知事のスタンドプレイとか、モラルだけを拒否したのは憲法が怖かったのだろうとか、モラルを刺激して藪蛇になるだろうとか色々批判されていた。十九日にモラルがTTJを訪問してメッセージを託していった。福井県内の原子力発電所における点検業務のずさんさと、それを知りながら放置している責任者達の存在、特に発電所の一つは数ヶ月以内に重大な事故の起こる可能性があることを指摘したものだった。その夜の番組で御坂草司はモラルのメッセージを読み上げ、翌日の記者会見で原発の責任者達は必死に点検の確実性を訴えたが国民は誰も信じなかった。リコール運動まで立ち上がり知事は急病と称して入院した。モラルは知事への仕返しとして嘘をついたのだとか、指摘が真実であるにせよ切り札として使うのは良くないとか、放置していたら数万人が放射能被害を受けていたかも知れずモラルは正しかったとか、県知事の宣言がなかったらモラルは黙っていたのではないかとか勝手な憶測が飛び交ったがモラルからの新たなコメントはない。

 十一月も下旬になると投票が過熱し始めた。テレビやラジオでも芸能人が投票のことを語るようになっていた。八十円と少しの手間で人類の未来に関われるのだと投票を呼びかける司会者もいた。累積投票数が毎日公表されるため一部の人々は競うように投票を繰り返した。

 十一月二十一日時点の投票数。モラルが三十八万六千三百二十一票。憲法第九条が五十一万二千八百六十四票。増えた投票を数えきれなくなりTTJは人員を増強させた。そのうち有志の者達が集い、集計に不正がないかどうかを常に監視するようになった。特設された大会場で集計者と監視者、そして警官が二十四時間体制で当たる。たまに憲法第九条が立ち寄った時には会場に緊張が走ったが、彼も一応はルールをわきまえており何もせずに去った。

 投票の中にはモラルに入れながら別の心情を語るものもあった。どちらも支持しないが憲法第九条の方が危険なのでモラルに入れるのだとか、モラルの考え方には共感するがもう役目は終わったから消えてくれとか、モラル勝利が決まってもその場で自殺して欲しいとか。また、社会に理不尽な仕打ちを受けたといい自分の代わりに復讐を依頼するものもたまにあった。憲法への要望ほどに過激ではないが、上階の住人の足音がうるさいので殺して欲しいなどというものもあった。時々御坂が読み上げるがモラルが復讐依頼に応じることはなかった。

 助けを求める投票もあった。行方不明者の家族による捜索依頼や、迷宮入りした連続殺人の遺族による解決依頼。同封された写真や遺品が溜まっていき段ボール五箱分にもなった頃、モラルが再びTTJを訪問した。彼は二時間かけて品物に触れ、五十七件について解答を告げた。TTJと警察の確認作業により七人の行方不明者が家族と再会し、十一の死体が発見され、九人の殺人犯が逮捕されることとなった。ただし、モラルに感謝状を送ることは出来ないと警視庁は発表した。

 劣勢だったモラルが逆転したのは十一月二十三日。モラルが百三十七万五千九百八票、憲法第九条が百二十三万千六百十七票となった。マスコミはこぞってこの逆転について取り上げ、インターネット上でもお祭り騒ぎとなった。悪ふざけで憲法に投票していた者達もそろそろ財力が尽き始めたのではないかと推測された。いや、単に字を書く暇が追いつかないということか。仕事を休んで憲法への投票を出し続けた男が母親によって通報されるという事件も起こった。男に干渉する権利を警察は持たないが、社会的には抹殺されるかも知れない。男は翌日解雇された。

 そもそも憲法に百万票以上集まったこと自体を驚異と呼ぶべきだろうか。国外からまとめて憲法に入れる投票もあった。文面は同じ手本を書き写したようで、封筒に切手が貼られ、千通を段ボールに詰めて送ってくる。切手はフランスのものだったが段ボールの出発地はドイツだった。わざと出所を分かりにくくしているようだ。何らかの意図を持って憲法に財力を注ぐ勢力も存在するのだ。彼らの目指すのは世界の更なる混乱なのか。

 政府が費用を負担してモラルへの投票を主導すべきだと提案する政治家もいた。しかしモラルもまた連続殺人犯であり政府が彼を支持することは国家としての敗北であるという反論や、少なくとも憲法第九条がのさばるよりはましであるという意見、憲法に国家が通常手段で太刀打ち出来ないことを宣言することになり威信に関わるという意見、余計なことをして憲法を刺激してしまわないかという危惧、そもそも予算は何処から下りるのかという声などが紛糾する。しかし臨時国会は既に機能しておらず法案などを作っていれば年を越してしまうだろう。結局お役所仕事は何も進められない。

 投票期間の終了が近づき、様々なメディアがモラルと憲法第九条を論じた。性善説と性悪説。実はモラルも性悪説を信じるが故に道徳の必要性を叫んでいるのだという指摘。正義や道徳の本質は一体何であるのか。個々の人命に本当に重みはあるのか。人間の本質とは何なのか。ある者は人間の本能は生物的に意味のあるものだから抑制せずあるがままにするのが良いと主張した。圧倒的繁殖力と突然変異で生き延びる細菌や小型生物と違い、人間は知性で生き延びることを選んだのだからルールは必要だという意見もあった。憲法第九条は少なくとも正直であり、彼のような力を手に入れれば多くの人間が彼と同じようになるであろうという指摘もあった。それならば何故モラルはそうしなかったのかという反論も別のメディアが掲載する。ネット上でモラルの方法論の間違いを指摘するブログもあった。規範・モデルとして上の立場の者を罰し示しをつけるのが本筋であり、それを見て初めて下の者もルールに従うようになるのだと。だがすぐにコメント欄に反論が書き込まれた。TTJの公開討論でモラルは既に解答を告げている、上の者を罰しても民衆はヒーローを崇拝しストレス解消になるだけであり、下の立場の者が皆で悪を糾弾出来るようになることが重要なのだと。著名人にはモラルへの投票を呼びかける者もいた。パンクロックグループがホームページで憲法第九条支持を表明し、翌日にはホームページが閉鎖された。

 憲法はラストスパートで派手なパフォーマンスを見せた。十一月二十五日、ニューヨークにある自由の女神像が十七分割された。女神の首を蹴り転がして遊ぶ憲法の映像が世界中に公開された。二十六日、ピサの斜塔が土台を切られ倒壊した。二十七日、高度四百キロで建設中だった国際宇宙ステーションが襲撃された。宇宙飛行士が皆殺しにされ、ステーションが分解し大地へと落ちていく。人類が積み上げたものを圧倒的な力で叩き潰すその行為は、国民の出した要望に従ったものでもあった。世界中から非難が噴出しながらも、ネット上では面白がる匿名者が多数存在する。「いい気になってる奴らがギャフンと言わされるのを見ると胸がスッとする」「面白ければいい」と彼らは主張する。人間の本質を問う投票だと御坂草司は語った。果たして人間の本質はどちらなのか。

 憲法が暴れる一方で、モラルの登場は日を追うごとに少なくなっていった。活躍はセネヴィア号の救助がピークであったろう。一般の人々の意識を変えていきたいと語っていた彼だが、煙草のポイ捨てや万引きなどでは現れなくなった。以前から囁かれていたモラルの重病説が力を増していく。病身で頑張る姿に魅力を感じて投票する者も増えたらしい。判官びいきという奴だ。十一月下旬、モラルによる目立った事件は、一家四人を惨殺し十三才の娘を監禁していた強盗を、腹を裂いて腸を引き摺らせながら警察署の前に放置したことくらいだろう。

 その代わりと言うべきか、モラル向上部隊と名乗る集団が全国に現れるようになった。彼らはネットで連絡を取り合い、ロングコートとチューリップハット、時には鬼の面まで用意して集団で街をパトロールする。そこで不道徳行為を見かけると注意し、相手が反抗するようなら袋叩きにするのだ。彼らは金属バットや木刀で武装している。十一月二十五日には歩き煙草の男が頭蓋骨骨折と脳挫傷で死亡した。犯人はまだ判明していない。モラルのコスプレは街に溢れ返っているのだ。モラル向上部隊の行為が法を逸脱しており、社会秩序を乱しているという批判もある。彼らがモラルの名を借りて暴力を楽しんでいるという指摘もある。しかしネット上で匿名の彼らは反論する。自分達はモラルと同じことをしているだけだ、と。彼らにモラルと同じく死ぬ覚悟があるのかどうか。この騒ぎがモラルの足を引っ張り良識派の投票を渋らせたのだろうか、十一月二十八日の発表ではモラルが百七十四万三千七百六十二票、憲法第九条が百八十一万二千三百二十三票と逆転した。或いはモラル優勢にモラル支持者達も油断したのかも知れない。

 その二十八日、憲法第九条は十二万人を殺した。Tシャツの字を『暴』にして、大分県の黒出市を一晩かけて壊滅させたのだ。岡山県にある黒出市の住民からの、同じ市名でどちらも自分がオリジナルと主張し長年いがみ合っているので、その紛争を解決して欲しいという要望だった。投票者が何を期待していたのかは分からない。そして憲法は、片方の市民を皆殺しにするという方法を選んだのだ。市外に避難出来たのは一割に満たなかった。何処まで行っても死体の転がる道。その悲惨な映像に、殺戮に麻痺していた国民の心も震え上がった。テレビのニュース番組では「これで憲法への票は減るでしょう」と笑顔でコメントしたキャスターが大非難を浴びた。

 三十日。モラルが二百七十三万五千五百十三票、憲法第九条が二百三十八万九千二百九十七票。国民は毎日知らされる票数に一喜一憂した。期限まで残り僅かとなり、マスコミも毎日国民に投票を呼びかけた。新聞は一面を丸ごと使って「未来のために投票を」と読者を促す。街角でモラルへの投票を叫ぶ人達の声はヒステリックな響きを帯びていた。

 この日、モラルは何処にも現れなかった。今更活躍しても票が間に合わないから手を抜いたのだと皮肉る者もいた。モラル死亡説が重病説に取って代わろうとしていた。スタジオへの乱入が恒例となった憲法第九条も御坂の横で「生きてんのやら死んでんのやら」とモラルを語った。モラルが一反木綿姿で空を飛ぶのを見たという者もいた。喫煙をモラルに注意されたと語る中学生もいた。ただしこれはモラル向上部隊だったかも知れないし、中学生の嘘かも知れない。巨大匿名掲示板ではモラルの目撃情報が相次いだがその殆どは偽者やデマや自作自演だった。

 憲法第九条によって日本と世界の受けた傷は深かった。大部分の人間にとって憲法のやったことは娯楽を通り越して暗澹たる気持ちにさせていた。しかしそれをざまあみろと喜ぶ者も少なからず存在し、インターネットや投書で煽りを続けていた。

 所謂良識派が最も警戒していたのは、期間終了ぎりぎりになって大量の憲法票が持ち込まれないかということだ。特に国外の何処かから送られてくる段ボールに詰まった封筒が懸念の対象だった。投票者を日本国民に絞るべきではないかという意見も出たが、TTJはルール変更を拒否した。投票者の身元を確認することが不可能であり、国外からの投票を禁止したところで国内に持ち込んでから送り直せば無意味なこと。対決者達が納得してこのルールが施行されたこと。そして、この投票は人間の本質を明らかにするべきものであることをその根拠とした。

 十二月一日、街角で投票代行サービスをやっていた男が詐欺で逮捕された。一票百円で請け負っていたといい、男が着服した金額は二万七千三百円だった。

 自分はモラルだと主張して父親を殺し、首を切断して腹を裂いた少年が逮捕された。父親はアルコール依存症で家族に暴力を振るっていたという。この事件がモラルの票に影響を与えるのではないかと心配する向きもあった。しかし、もう日数が残り少ない。

 この夜発表された累積票数は、モラルが三百四十万六千四百八十三票、憲法第九条が二百五十二万五千七百四十一票であった。同時にTTJが改めて説明した。投票の受付は十二月三日の二十四時零分零秒までにTTJに到着したもののみとすること。また、投票が増え過ぎたためにまだ数えきれていない票もあり、最終発表はひとまず十二月四日の午後七時とするが集計作業が間に合わない場合は翌日に延期される可能性のあること。ただし集計と発表は必ず厳正に行うことを局長自らがアナウンスした。

 十二月二日。モラルはやはり現れない。死亡説がいよいよ有力になる中、世田谷区の交番をモラルの格好をした男が訪れ「私は無事ですから心配要りません」と言って去ったという。特に超能力も見せなかったので偽者の悪戯であろう。警官が逮捕せずに帰したことからもそれは窺える。

 首相官邸の屋根でくつろいでいる憲法第九条の姿が目撃された。現在総理代行を務める者は決まっておらず、官邸は空の状態だ。憲法は自分が日本の支配者だと思っているのだろうか。

 TTJの敷地に侵入しようとした男が逮捕された。憲法勝利の可能性を排除するために集計場の爆破を企てたらしい。男のリュックからダイナマイト二十本が見つかっている。

 横浜港からTTJへ向かう段ボールを右翼団体が阻止しようとして警官隊と揉み合いになった。中身を憲法への大量投票と推測したらしい。もし憲法が敗れても彼が投票妨害を理由に約束を反故にするかも知れないと、駆けつけたTTJ局員が説得して漸く団体は引き下がった。福岡で郵便ポストを壊そうとしていた少年が逮捕された。彼は憲法への投票を廃棄して世界を救おうとしたと供述したらしい。

 この夜発表された累積票数は、モラルが五百八十二万五千六百三十六票、憲法第九条が五百四十九万八百十三票であった。一日でこれだけ票数が加速したことに人々は驚きつつ、憲法の猛追に恐怖を覚える。悪意のある何者かが投票を小出しにせずまとめていたのだろう。それも、かなり力のある誰かだ。

 十二月三日。この日は多くの企業が社員に休みを出した。彼らは自宅でテレビを観て過ごした。何処のテレビ局も一日中特番を流し、モラルと憲法第九条の軌跡を辿っていた。パネリストのアイドルが泣き出した。「皆さん、自分達に出来るだけのことをしましょう」とベテラン俳優が呼びかけた。ある番組では憲法が投票で負けた時に自分の敗北を受け入れるかどうかについて議論していた。街頭で投票を叫んでいた者が急に泣き崩れた。右翼団体が一緒になって泣いていた。モラル向上部隊が「モラルが敗れても私達は戦い続ける」とプラカードを持って行進している。封筒の束を抱えてTTJに直接持ち込む者が何百人もいた。自作の爆弾を持ち込もうとした男が検問所で自爆した。二十人以上が負傷し、男も意識不明の重体だ。大勢の野次馬がTTJを取り囲んでいた。観光気分でシートを敷いて弁当を食べていたカップルが警官に注意を受ける。憲法第九条のコスプレをした男が皆に袋叩きにされていた。

 憲法第九条はこの日、国会に出席していた。総理の席に足を投げ出して座り、偉そうに腕を組んでいる。今日は投票勝負への対策などについて議論される予定だったが、議員達はこっそりと一人去り二人去り、そして誰もいなくなった。警備員が遠巻きに見守る中、憲法は欠伸しながら議事堂を去った。その様子が中継されていた午後。正門を出て悠然と歩く憲法の前に一人の男が立ち塞がった。額のやや後退した四十代の男で、憔悴した顔に怒りを溜めていた。

「憲法第九条、お前は私の……」

 柳葉包丁を抜きながらの怒号は途中で遮られた。憲法が無造作に振った短剣が男の首を切断していたのだ。立ったままの男の体を駄目押しでシュレッダーにかけたように裁断していく。男を衝き動かしたのが何だったのかは分からぬままになった。スライスされた肉片を憲法は平気で踏みつける。大勢の野次馬が競ってデジカメで撮っていた。彼らはこんなイベントが観たくて永田町までやってきたのかも知れなかった。「帰って寝る」と言って憲法は去っていった。

 午後十時、票数の発表は行われなかった。予定通り明日四日の午後七時に発表とすることを御坂草司が説明した。国民は迫る期限に震えながら新しいニュースがないかとテレビに釘づけになっていた。郵便局は出来るだけ多くの票を届けるべくぎりぎりになってもTTJ宛の封筒を運んでいた。バイク便で持ち込まれる段ボール。そして、午後十一時過ぎになって軽トラックが山積みの段ボール箱を運んできた。一台分だけで何万票になるだろうか。観光客が見守る前で、下ろされた箱が検問を通っていく。十一時半になってもう一台、トラックがやってきた。野次馬のせいで渋滞となり遅れるところだったと運転手は文句を言った。そして、十一時五十分にもう一台。見ていた人々は自然とどよめきを上げていた。鳴りやまぬ拍手の中、男達が大急ぎで段ボールを下ろして検問所を越えていった。

 最後の客は、野次馬の中から飛び出して午後十一時五十九分五十三秒に一通を差し入れた若い男だった。駆けつけた報道陣に男は狙っていたのだと言い、どちらに投票したかは秘密だと答えていた。検問所から中年の局員が現れて、拡声器で投票受付の終了を告げた。人々はまた盛大な拍手を送った。

 と、その拍手が凍りついた。

「いやあ、ありがとう、ありがとう」

 人々に手を振りながら夜空からゆっくりと落ちてきたのは憲法第九条だった。自然落下とは違う、物理法則を無視した降下で彼は音もなく着地した。投票の終了を彼も喜んでいるのか、黒いTシャツには白字で『祝』とあった。背中は『呪』となっていたが。

 一部の者達が「憲法ーっ」と声援を送った。憲法は手を振ってそれに応えた。デジカメを持っていた大部分の人々は世紀のイベントを手中にすべく次々とフラッシュを焚く。憲法は気持ち良さそうに光を浴びていた。

「いやあ、最後の投票おめでとう。君はどっちに投票したんだい」

 インタビューを受けていた男に憲法が聞いた。男は黙って逃げ出した。

「おや、どうして逃げるのかな。まさか、ねえ……」

 意地悪い笑みを浮かべ、憲法が歩いて追う。男は人の列に紛れ込んだ。巻き添えを食うと思ったのか人々が一斉に逃げ出した。恐慌状態となり押し合い倒れ踏み潰され悲鳴を上げて逃げ惑う群集。その様子を待ってましたとばかりに報道陣は撮影している。外国の報道スタッフも多数いた。TTJの局員はさっさと建物内に戻っていった。膨大な集計作業が待っている。

 一万人近くいたと思われる野次馬は十分の一以下になっていた。残った者の殆どは地面に倒れて呻いている。

 肩を竦める憲法に、他局の若い女性レポーターが駆け寄ってマイクを差し出した。かなりの度胸の持ち主か、或いはかなりの野心家か。

「憲法第九条さん、この投票勝負ですが自信のほどはいかがですか」

「そうだな。結果がどうなろうと、この一ヶ月皆が楽しんでくれたのなら本望ってとこかな。それより今気になってるのはお前さんのバストが何カップなのかってことだ」

 そう言うと憲法はレポーターの腰に腕を回した。

「あ、ちょっと……」

「首相官邸でちょっと一休みしようじゃないか。俺の別荘だ」

 慌てるレポーターを横抱きにして憲法は走り出した。カメラマンはあっけに取られながらもしっかり彼らの姿を追っていく。レポーターの顔は引き攣っていたが少し嬉しそうにも見えた。憲法は跳躍し、二人の姿は夜の闇に消えた。

 暴風雨のような一ヶ月が、こうして、終わった。

 

 

  五

 

 十二月四日、午前二時。

 TTJの局長室で二人の男が向かい合っていた。ソファーに座る男は局長の笹上信。公開討論以来責任者としてスタジオを見守っていた男は今、疲労と満足と痛みを抱えてブランデーのグラスを傾ける。

 向かいの男は車椅子の御坂草司。片腕と片足と片目を失ったニュースキャスターは左手でグラスを握り、ほんの少しずつブランデーを味わっている。

 局長室の窓から東京の夜景が見える。混沌の都市。建物の周囲をまだ大勢の警官が固め、野次馬の喧騒が微かに聞こえている。彼らは最終結果発表の時までそこにいるのだろう。

「終わったな」

 局長が呟いた。グラスをいとおしむように眺めながら、彼はきっと別のものを見つめているのだろう。

「終わりましたね。ひとまずは。明日が正念場でしょう」

 御坂草司が応じた。

「そうだな。明日が正念場だ」

 局長は確認するように御坂の台詞を繰り返した。そして尋ねた。

「君はどちらが勝つと思う。モラルと、憲法と」

 御坂はさほど時間を置かずに答えた。

「分かりません。予測していることはありますが、やはり集計結果を待つしかありません」

「そうだな。予想以上の投票規模だった。だが、この結果がそのまま人間の本質を示すとは思えないな。正義と悪、光と闇の単純な戦いではない。もしかすると、闇と闇かも知れないな」

 局長は苦い笑みを浮かべる。

「それでも、人間について何かが明らかになると思います」

「そうだな。……多分、そうだ」

 局長がブランデーの残りを飲み干し、御坂はまたほんの少し飲む。明日のために深酒を控えているのだろう。

 氷だけになった自分のグラスに局長が新たにブランデーを注ぐ。グラスの中身をゆっくりと踊らせ、暫く沈黙が続いた。

 遠い目をして局長が言った。

「色々あったな。TTJを立ち上げてもう二十一年か」

「はい。二十一年です」

「頑張ってきた。真実を伝えるために。君と二人三脚でね」

「そうですね。私は局長と出会えて良かったと思っています」

 御坂は真顔で言った。

「ありがとう。だが、妥協しなければいけないことも沢山あった。局の存続のために。家族の安全のために」

「そうですね。でも、私達は頑張りました。日本のどのマスコミよりも」

「そうだな。頑張った」

 局長は頷いた。

「これからは、妥協せずにやっていけるだろうか」

「分かりません。でもこれまでとは違っているだろうと思います」

「……そうだな。そのためにはまず明日を生き延びないとな」

「生き延びましょう」

 御坂が力強く言った。局長は微笑んでグラスを軽く差し上げた。

 

 

  六

 

 最終発表となる午後七時、TTJの視聴率は九十九.七パーセントを記録した。

 画面に映るスタジオはいつもの場所だった。午後十時のニュース番組とは違って背景は地味な灰色の壁だ。セットの中央に車椅子の御坂草司がいる。その左右に一人用のソファーが向かい合わせに置かれているが、座る者はいない。

 十一月三日、モラルと憲法第九条の公開討論の際に使われたセットだった。違うのはソファーが新品なのと、後方の壁にそれぞれ四角のボードが掛かっていることだ。ボードの表面は白いシールが貼ってある。きっとその下には数字が隠されているのだろう。それぞれの得票数が。

 車椅子に取りつけられた小さなテーブルの上にプリントの束がある。御坂草司は左手でプリントをめくる。スタジオにその音だけが響いた。御坂は色の薄いサングラスをしている。右の義眼はちょっと見には違和感がない。三日前からそのスタイルに変わっていた。

 静かだった。番組は始まっているのに御坂草司はまだ黙っている。スタッフの唾を呑む音さえ聞こえそうだった。

 と、御坂草司が顔を上げた。左目が少し動いてカメラの横を見る。

「よう、ちょっと遅刻したかい」

「いや。座りたまえ」

 御坂は左のソファーを示した。

 セットに上がり、ソファーに腰を下ろしたのは憲法第九条だった。ワイヤレスマイクをつけた黒いTシャツの胸には赤く『極悪』の文字が浮かぶ。ジーンズの腰には愛剣スケルトン・キングが差してある。

「昨日から告知は行っていたが、モラルは来ないようだ。双方が顔を合わせての決着が望ましかったがやむを得ない」

 感情を抑えた声で御坂が言う。憲法は足を組んでいる。

「もう死んでんじゃねえの。虚弱っぽかったしな。一ヶ月ってのは奴には確かに長過ぎたかもなあ」

 両掌で見えない胴を撫でるようにして憲法はモラルの細い体を表現してみせた。

「それとも敵前逃亡かな。それか善人ごっこに飽きたのかも知れねえ」

「重病説や死亡説もあるようだが確認は取れていない。何か理由があるとは思うが。モラル不在でも投票の勝負は有効として進めるが、それでいいか」

 鋭い左の瞳を憲法に向けて御坂が問う。

「いいぜ。ここで取りやめになったりしたら皆がっかりするだろ」

 憲法は余裕の表情を見せる。

「敗者となった者は以降、人前に登場することを禁じ、あらゆる犯罪行為・社会的活動を禁ずる。このルールを君達に強制するだけの力は私達にはない。だが君達にプライドがあるのなら、守れる筈だ」

「ああ、勿論プライドはあるさ。俺がこの世で一番偉いんだからな。じゃあ、発表しなよ」

 憲法第九条が促した。

 御坂草司は頷いた。

「これまでの経過は既に報道し尽くされた。勿体つける必要もないだろう。単刀直入に結果を発表させてもらう。憲法第九条、まず君からだ」

 盛り上げるような音楽も鳴らなかった。緊張感に満ちた静寂。男性アシスタントの一人が黙ってセットに上がり、憲法の後方のボードに触れた。御坂が頷くと、アシスタントはボード全体を覆っているシールを丁寧に剥がしていった。憲法は上体をひねって振り返る。

 そこには憲法第九条の名と、八桁の数字が書かれていた。

 御坂草司が告げた。

「憲法第九条の最終的な得票は、千三百二十六万八千七百九十六票だ」

「へえ、一千万の大台に乗ったか」

 満更でもない顔で憲法は言った。

「次はモラルだ」

 御坂の声と共にアシスタントが右のボードへと歩いた。前のソファーに座るべきモラルはいない。

 おそらく日本国民の殆どが、そして世界中の人々が、息を呑んで見守っているだろう。スタジオの雰囲気は異様に張り詰めていた。何か恐ろしいものを予測しているように。御坂は何処までも冷静に、アシスタントへ頷いてみせた。

 シールを剥いでいくアシスタントの手は震えていた。それでも彼は御坂に次ぐ勇者であったろう。

 モラルの名と、やはり八桁の数字がそこにあった。憲法第九条が眉をひそめた。

 御坂草司が冷たく告げた。

「モラルの最終的な得票は、五千八百七十四万二千九百十七票だ」

 再び重い静寂。憲法第九条の顔が笑いかけ、すぐに無表情になった。牙を剥いて怒った顔よりも、恐ろしい顔だった。その顔を御坂草司の左目は冷静に見据えている。

 リアルタイムで観ていた国民は何を感じたろうか。それは喜びでなく、恐怖、ではなかったか。接戦で負けるなら憲法も納得しただろう。楽しんだよと言ってすんなり去ってくれたかも知れない。だが、これだけの大差が憲法のプライドを逆撫でしない筈がない。TTJももっとうまく票数を調節すれば良かったのに。大部分の人が、おそらく、そんなことを思っていただろう。しかしTTJは局の理念を貫いたのだ。

「……。どういうことだい」

 そろりと、囁くような声で憲法が聞いた。

「集計には数千人の協力が必要だったが、二つのグループが同じ票を数えて検算している。集計操作された可能性は限りなく低い」

「……で」

「この結果を正義の力だとか、国民の総意だとか言うつもりはない」

 御坂草司は言った。

「インターネット上の匿名の噂などでまだ確証はないが、推測される理由はある。聞きたいかね」

「ああ、聞きたいね」

「幾つかの大企業が業務を一時中断させて全社員にモラル票を書かせた。何人かの国会議員がやはり支持者に同じことをさせている。一人が一日に百通書いたとしても、社員一万人の企業なら百万票、十万人の企業なら一千万票になる。それを五日間行えば五千万票だ。勿論、業務停止は莫大な損害となるが、それだけの見返りは得られるだろう。企業名を投票用紙に記入しなくても、どの企業がそれを行ったかは必ず噂で広まる。それは企業にとって良いイメージになるだろう。憲法第九条という脅威から社会を守った企業としてね。国会議員も同じことだ」

「なるほどね。……で、何処のお偉い企業さんがそれをやってくれたのかい」

「まだ噂でしかないものをここで明言する訳には行かない。それに、企業名を知ってどうする。君はまさか、モラルに投票した企業に仕返しをしようというのかね。それはルールに反する。また、モラルへの票にはそんな打算だけではなく心からモラルに賛同した者や感謝している者、または賛同はせぬまでも君が勝つことを防ぐために投票した者、多数いる筈だ。それらを企業の票が呑み込んだ形にはなるが、ある意味君の望む結果ではないのかな。面白いことがやりたいと君は言った。まさに予想外の、面白い結末だろう」

 憲法の顔が歪んだ。醜く、みっともなく。片目片手片足を失った弱者・御坂草司が、無敵の憲法第九条の臓腑を辛辣に抉る。

「君達の納得の上で決めたルールであり、勝負だ。憲法第九条。君の負けだ」

 御坂の声は良く響いた。

 憲法第九条の顎の筋肉が盛り上がった。両拳に力が入って震えている。この屈辱を彼はどうやって撥ねのけるつもりなのか。殺されると思ったのか、画面外からスタッフの細い悲鳴が聞こえた。

 怒りに燃える目が閉じられ、全身に回っていた震えが収まると、憲法は目を開けた。

 幾分は和らいだがやはり狂猛な憲法の視線を、御坂は静かに受け止めた。

 何も言わず、憲法は立ち上がった。

 御坂草司も、何も言わなかった。

 セットを下り、黙って憲法第九条は去った。カメラもそれを敢えて追わなかった。

 やがて、御坂草司がカメラに向かって告げた。

「これで、モラルと憲法第九条の投票勝負を終わらせて頂きます」

 後半の声はかなり弱かった。

 車椅子の下に、血溜まりが広がっていた。気づいたスタッフ達が駆け寄る。御坂がうなだれる。

 御坂草司の腹部が横一文字に裂けて腸がはみ出していた。去り際に憲法がやったらしい。スタッフがタオルで腹部を押さえながら車椅子を押していく。TTJ局長も御坂に駆け寄ろうとした。

「御坂、大じょうカヒュー……」

 大丈夫か、となるべき台詞が奇妙な響きに変わった。局長の首筋に横の裂け目が走り、パックリと開いたのだ。切れた気管から血の混じった空気が吹き出る。別の箇所から二筋の赤い噴水が。

 局長の首が胴を離れてセットに転がり落ちた。胴に前のめりに寄りかかられて呆然とするスタッフの顔。憲法は既に去っている。彼は御坂の腹を裂くと同時に局長の首を切断していたのだろうか。切られた本人も気づかぬ神業で。

 スタッフの悲鳴が重なった。御坂は意識を失っているようだ。画面から一旦人の姿が消え、怒号の中をスタッフ達が駆け戻り泣きながら局長の死体を引き摺っていく。そして誰もいなくなった。

 番組が終わった後も、国民は終わったとは思っていなかった。

 三十分後、国民の大部分が期待していた通り憲法は再び登場した。

 

 

  七

 

 ……トウキョウタワーヲセンキョシ……

 トウキョウタワー。東京タワー。センキョ。選挙かな。東京タワーで選挙。意味が分からない。

 痛い。気分が悪い。痛いのは頭だ。頭が大きくなって体は小さくなって、頭だけの人間になってしまったみたいだ。

 痛みの海だ。体がなくなって、痛みだけの海を漂っている。痛み。痛み。

 ……カラダニイルミネーションコードヲマイテツルシ……

 ツルシ。ツルシって何だろう。ああ、息が苦しい。息が苦しいということはつまり息が苦しいのだ。

 ……ア、イマヒトリオチマシタ。オトシマシタ。ケンポウダイキュウジョウハ……

 憲法第九条は戦争放棄だ。軍隊を持たないと言っている。でも自衛隊がある。欺瞞だ。でも素晴らしい憲法だと授業で習った。でもなんだか嫌な響きだ。憲法第九条。昔は良いものだと思っていたのに。

 ……マタジュップンゴニヒトリオトストシュチョウシテイマス。コレデヨニンオチマシタ。モラルガコナイトジュップンニヒトリズツオトスト……

 モラル。モラル。それは僕だ。一瞬誰だろうと思った。まだ僕は生きているのか。呼ばれているのか。起きなければいけない。起きよう。僕は起きるがモラルは起きるだろうか。いや、僕がモラルだ。

 左手が温かい。急に、誰かに左手を握られていることに気づいた。あの花屋の北沢さんを思い出す。下の名前を教えてもらったのだった。北沢、北沢……。思い出せない。目を開けよう。目は何処だ。痛い。

 黄色の闇が病室の景色に変わった。テレビが点いている。さっきから聞こえていたのはテレビの音声だったか。

 天城の左手を握っていたのは左顔面を黒い布で覆った若い女性だった。入院患者の伊本佐代里であることを思い出す。

 段々頭がはっきりしてきたがやはり眠い。気分が悪いし頭も痛い。でも自分の体がまだあることは分かった。

 長い間眠っていたようだ。天城は自分が入院していたことを思い出した。もう体力的にどうしようもなくなり、一週間前だったか。いや、もう何日経ったのか。投票の締切は十二月三日だったが。

「ごめんね」

 伊本佐代里・通称さよちゃんが言った。彼女は右の頬に涙を滲ませていた。

 どうして彼女が泣いているのか分からない。どうして謝るのか分からない。テレビを勝手に点けたことを謝っているのか。

「今日は、何日ですか」

 天城は尋ねた。声がガラガラになっている。

 質問が理解出来るだろうか。と、彼女は何も言わずに病室から出ていった。

 部屋の時計は八時二十分を指している。窓の外は暗い。夜だろう。カレンダーは十二月のものだ。

 油断するとまた眠りに落ちそうになる。天城はなんとかこらえた。また眠るともう二度と目覚めないような気がする。左腕には点滴が繋がっていた。腹は減っていない。

 やがて、外園医師が病室に入ってきた。彼女は医師を呼びに行っていたらしい。

「こんばんは」

 ベッドから起き上がれぬまま天城が挨拶すると、医師は軽く頷いた。

「気分はどうですか」

「きついですね。眠ってたみたいですけど、ドロドロの痛みの中にずっと浸かってる感じでした。……今日は何日ですか」

 何度か唾を飲み込んで声を調節しながら天城は言った。

「十二月四日です。三日間意識が戻りませんでしたが、少し持ち直したようですね」

 そうか。三日も眠っていたのか。

 十二月四日。既に投票期間が終わっている。結果はどうなったのか。おそらく今日発表されただろう。

「あの……投票は、どうなりました」

 天城は尋ねてみた。

「ああ、モラルと憲法第九条のことかな。モラルが大差で勝ちましたよ」

 天城がモラルであることを知っているだろうに、外園医師は飽くまで客観的に語った。

「ただし、それで万事解決とは行かなかったようですが」

 テレビには東京タワーが映っていた。報道ヘリからの映像かも知れない。

 展望台から沢山の人間が吊られていた。青や赤のイルミネーションコードを胴に巻きつけられ、そのコードが彼らの体重を支えている。若者から老人まで何十人もいる。下の展望台にも、上の方の展望台にも吊られている。強い風に煽られて蓑虫のように揺れている。

 上の展望台のガラスの向こうに、腕組みして立つ憲法第九条の姿が見えた。アナウンサーの声。

「繰り返します。憲法第九条はモラルに東京タワーに来るよう要求しています。来なければ十分ごとに一人落とすということです。既に四人が落下して死亡しています。モラルが来なければいつまでも続けると……」

「テレビは点けておきましょうか」

 外園医師が聞いた。

「ええ、すみません」

「用があったらボタンを押して下さい」

 左手のそばに呼び出しボタンが置かれている。心電図モニターも繋がっている。医師が他に言うことはなさそうだった。

 既に、出来ることがないことは、天城にも分かっている。

「はい。夜なのにすみませんでした」

「気にすることはありません。そうだ、昨日は見舞いが来ていましたよ。この間あなたを運んできた、北沢という女性でした」

「……そうですか」

 医師は出口へ向かった。その背に天城は最後の言葉を投げた。

「ありがとうございました」

 医師は振り向いて、淡い微笑を浮かべた。そして出ていった。

 天城はテレビの内容に耳を澄ました。

「投票での勝負には敗北しましたが、モラルの立ち会いがなかったのはルール違反であると憲法第九条は主張しています。現在モラル死亡説も有力となっていますが憲法には関係ないようです。彼は展望台にいた人々と周辺の通行人を展望台から吊るし人質に取っています。人質の人数は百三十八人です。これまでに憲法が行った殺戮に比べると小規模ですが、モラルが現れない限り延々と続くと思われます。機動隊が東京タワーを包囲していますが突入や人質救出は不可能と思われます。憲法第九条に対応する手段はなく、出来ることは転落死した遺体を収容するだけです。一刻も早いモラルの到着が望まれますが、このところモラルの目撃情報はなく状況は憂慮されています。人質の身元はまだ判明していません。転落死した四人のうちの一人は足立区の会社員、柳敏樹さん四十一才です」

 行かなければ。

 自分はやはり、ベッドの上で死ぬようにはなっていなかったようだ。そう、それが許される筈がない。上体を起こしてみる。えらくきつい。体に力が入らない。全身が苦痛の塊になってしまったみたいだ。

 大勢の人を殺してきたのだ。彼ら以上の苦痛に耐える義務がある。大勢の首を刎ねた。眼球を抉り、手足を切断した。腹を裂いて内臓を引き摺り出したこともあった。こんな苦痛は何ほどでもない筈だ。そうだろう。

 天城は能力を使って体を動かした。点滴の管や心電図の電極を外し、ベッドから離れて歩いてみる。筋肉よりも全面的に能力に頼ることになりそうだ。意識を集中させないと。ベッドの下の衣装ケースからコートを出して着る。それで充分だろう。急がなければ。

 ドアの隙間から伊本佐代里が覗いていた。彼女はまだ泣いている。

「ごめんね」

「いや。起こしてくれてありがとう」

 心配してくれて、ありがとう。

「ごめんね。頑張ってね」

「そうだね。頑張ってみる。さようなら。ありがとう」

 天城が告げると彼女は何度も頷いた。

 ありがとう。外園先生。あなたがいなければ僕はただ、何もせずにこの時まで朽ちていくだけだったかも知れない。

 天城は病室の窓を開けた。体の厚みをなくして外へ滑り出す。これまでやってきたように。気分は悪かったがうまく出来た。一反木綿となった体をうねらせて上昇する。外園クリニックの建物があっという間に小さくなる。

 クリニックへ通じる道に北沢里美の姿が見えた。ああ、里美さんだ。思い出した。思い出して良かった。

 彼女はクリニックに向かっているのだろうか。もしかして仕事の後で、天城の見舞いに来る途中なのかも知れない。違うかも知れないが、とにかくありがたかった。頭痛の重みを忘れて胸が熱くなる。

 降りて話をする暇もないし、その権利もない。ただ最後に彼女の姿を見ることが出来たことに感謝するだけだ。彼女は薄いコートを着て赤い手袋をしていた。

 彼女は大きな花束を持っていた。そう言えば、病室の花瓶に花が挿してあった。

 ありがとう。

 意識を集中させ感覚の触手を広げていく。目標は東京タワーだ。次の犠牲者が出るまでには間に合わないかも知れないが、とにかく急ごう。意識があるうちに。

 天城は加速していった。

 

 

  八

 

 東京の夜空は珍しく澄んでいた。昇る月は半月に近い。

 午後八時三十二分、飛行しているモラルの目撃情報があってすぐ、機動隊のうち目の良い何人かは東京タワーに飛来する一反木綿の姿を認めた。

 タワー近辺は機動隊と警官隊で固められ、その外側に野次馬が集まっていた。芝公園にも人が溢れ、風に揺れる人間イルミネーションを双眼鏡で鑑賞する者もいた。

 渋滞を強引に押し分けて大型のトレーラーが道路脇に停まった。尻をぶつけられた乗用車の運転手が文句を言いに飛び出すが警官に遮られる。トレーラーの運転手は無表情にそれを見ながら無線マイクを口に当てていた。

 トレーラーの二十メートル先に停まる黒塗りヴァンの内部で酷薄な目をした男が言った。

「重機関銃十二挺と迫撃砲七門の配置完了しました。ご命令があれば三十秒以内に稼動出来ます」

 自衛隊第六種実行部隊長・片倉征生だった。彼はカジュアルコートの下に都市迷彩を隠していた。膝の間には自動小銃が立ててある。自衛隊の89式とは違い、米軍の特殊部隊などが採用しているM4カービンだ。銃身にはグレネードランチャーも装着されている。

「指示するまで動かぬよう伝えて下さい」

 英語の発音と日本語になる思念で命じたのはジョン・スミスだった。彼はいつものシルクビロードのロングコートを着ていた。胸にルビーのペンダントが光っている。傍らには小型トランクがあった。

「石の方はどうなっていますか」

「三つ目が漸く到着しまして、成田から部下がヘリで運んでくるところです」

「ヘリはあまり近づくと危険です。五キロ以内に入ったら車に替えて下さい。別の二つも指示通りの位置に置いて下さい。一メートルのずれもないように。正三角形にならないと効果が薄れます」

「分かっています」

 片倉は無線に指示を伝え始めた。

 ジョン・スミスは取りつけられた幾つものモニターを眺めていた。部隊が設置したカメラからの映像が三つ。事件を伝えるテレビ局のものが一つ。そして、憲法第九条に報道班が招かれて展望台内部を生中継しているものが一つ。

 

 

「入りなよ。ちょっと狭いがやっぱ俺は高いとこが好きでな」

 憲法第九条が窓の外に向かって左手で手招きした。右手には愛剣スケルトン・キングが握られている。既に何十万人もの血を吸ってきた凶器。

 地上二百五十メートルの特別展望台には憲法第九条と、三つのテレビ局の報道陣八名しかいなかった。三台のテレビカメラを意識して憲法はポーズを取っている。

 Tシャツの胸に派手な言葉はなく、本来の『9』の白文字だけがあった。

「そいつらを助けようとしても無駄だぜ。お前が一人助ける間に俺は残り全員のコードを切って落とせる。下の奴らも含めてな」

 展望台の周囲を巡っていた一反木綿もそれで諦めたのか、強化ガラスに開いた四角の穴から滑り込んできた。憲法が人質を吊るす際に切り開いた穴だ。宙で厚みを得て、長過ぎるロングコートとチューリップハットの姿で着地する。モラルの姿。と、彼はよろめいて手摺りに腰をもたせた。

「元気そうで何よりだ」

 憲法が皮肉を言った。

「負けた方は、二度と現れないのでは、なかったのか。君は、どうしようもない、クズだな」

 息を切らしながらモラルは言った。チューリップハットの下から鬼の面が覗いている。ふと輪郭がぼやけ、すぐ元に戻る。

「一ヶ月もかけて何十万も殺した大イベントなのに、結末が今いちだったからな。皆もがっかりしていたろうから、俺がもう一肌脱いでやった訳だ。視聴者も喜んでる筈さ。やはり主要人物は登場してくれないとな」

「何がしたいのか。私を殺したいのなら、さっさと、殺せばいい」

「お前はあの時、自分も罰を受ける義務があるとか言ってたよな。人を殺したから自分も死なないといけないとか、覚悟がどうとか。いやあ、お偉いもんだ。お前がそのちっぽけな人生を懸けてどのくらい社会が良くなったか、ちょっとしたゲームで検証してみようじゃねえか」

 憲法は左腕を広げて下の夜景を示した。唇の片端を歪めて牙を覗かせ彼は言った。

「お前の望んだことは何だったかい。腐りきった道徳の復興か。皆がルールを守る社会だったか。さて、今、東京都民がちゃんと社会のルールを守ってるか見てやろうじゃねえか。誰かが信号無視したら一人落とす。煙草のポイ捨てしたら一人落とす。ガキが煙草喫ってたらまた一人落としてやる。違法駐車でも盗っ人でもカツアゲでもスピード違反でも、誰かが一つルールを破るたびに、吊るしてる奴らを一人落としていく。どうだい、面白いゲームだろう」

「……やめろ。それでは人質が、千人いても足りないだろう」

 モラルの声には自嘲の響きがあった。

「つまり、お前さんのやってたことは無意味だったと、自分で認めるのかい」

 カメラを横目に意地悪く憲法が問う。

「そうではない。無意味では、なかったと、思う。だが、私の力は微々たるものだった。私が変えられたのは少し、多分、ほんの少しだけだ。それでも、きっといつかは……」

「そんなどっかの政治家みたいな台詞には飽き飽きだぜ」

 憲法はせせら笑った。

「俺が欲しいのは今だ。俺がルールを決め、俺が執行する。俺は優しいからよ、東京タワーは今祭り状態だから、この近所だけは除外してやるよ。さて……」

 憲法はガラス窓へ近寄り下界に目を向ける。そこへモラルが飛びかかった。両腕が長い鎌になって憲法の首と胴を襲う。

「おっと」

 憲法はあっさり身を翻して避けた。ついでに右足でモラルの足首を払い、モラルは前のめりに転んだ。視聴者が失笑しかねない不様な倒れ方だった。額が床にぶつかるひどい音がした。

「おいおい、大丈夫か」

 呆れたように言いながら憲法は夜景を見据え、「取り敢えずあれだな」と指差した。据えつけの望遠鏡を動かして対象に合わせ、報道陣に手招きする。カメラマンの一人がおずおずと望遠鏡を覗き、レンズをつけた。

「あの赤いRX―8、時速百キロ近く出てるな。制限時速六十キロの道路だぜ。こいつはいけねえなあ」

 パヒュン、と間髪入れずに剣が閃いた。憲法は一歩も動かぬまま、伸びた剣がガラスを裂いて下へ。

「うわあああぁぁぁぁぁ」

 男の悲鳴が下方に遠ざかっていく。そしてゴヅ、ゴツンと硬い物にぶつかる音が続く。吊られていた人質がコードを切られ、鉄柱にぶつかりながら二百五十メートルを落ちていくのだ。

 地面にぶつかる音は聞こえなかった。

 モラルは起きようともがいていたが、逆に背中を丸めて吐き始めた。鬼面の口から出るのは黄色い胃液だけだ。そんなモラルの姿をカメラが無情に捉えている。報道スタッフ達の強張った顔には劇的瞬間をスクープする喜びが潜んでいた。彼らは見るだけで、何もしない。

「……や、やめろ」

 漸くモラルはそれだけ言った。その横を悠然と歩き過ぎ、憲法は別の方向を指差した。カメラマンが律儀にそれを追う。

「あれを見ろよ。あのコンビニの前だ。制服のガキ共がたむろして煙草を喫ってやがるぜ。大人は誰も注意しねえ。いかんなあ、ああいうのは」

「やめろ」

「何人いるかな。ひいふうみい、四人だ」

 また憲法の剣が伸びて踊った。続けざまに悲鳴が落ちていく。

 モラルが平面化して窓の穴へ飛ぼうとした。彼らを助けるつもりだったのだろう。すぐに憲法の冷たい声が響く。

「動くなよ。全員落とすぞ」

「やめろ」

「嫌だね。おや、あいつら吸殻はどうするつもりだ。あーあ、いけねえなあ。その場に捨ててやがるぜ。すぐそばにゴミ箱があるってのによう。今、二人が捨てたな。あーあ、これでまた二人死……」

「やめてくれ」

 憲法が振り向いた。少し上向かせた顔からモラルを見下ろし、彼は聞いた。

「やめて欲しいのかい」

「ああ、やめてくれ。さっさと私を殺せ。私が自殺するのが見たいのならそうしてやる」

「確かにこの繰り返しじゃあ面白くないわな。視聴者はもっと凄えのを見たがってる」

 片方の眉を上げて考える仕草を見せ、憲法は言った。

「そうだな。一人助けるごとにお前の手足を一本貰うってのはどうだい。勿論自分で切るんだぜ。面白い趣向だろ」

 モラルはチューリップハット越しに憲法を見返している。右袖を手摺りに置いてやっと体を支えている。

 憲法は続けた。

「右手はこないだ切ったしな、まずは左腕を切り落としてみせろ。ちゃんと、付け根から切るんだぜ」

 やがて、報道陣が見守る前で、モラルは頷いた。

「いいだろう」

「お前は自由に変身出来るが、体から離れちまった部品は無理だろ。誤魔化しが効かねえように、外れた腕をこっちに転がせ」

 望遠鏡の前にいたカメラマンもモラルを撮影していた。音響係がモラルへマイクを近づける。

 モラルは右袖を手摺りから離した。ふらつくため腰が手摺りに当たる。左腕を水平に上げる。右袖から刃が伸びる。真っ赤に焼けた、中華包丁のような刃。

 左腕を付け根から切り落としたモラルは低い呻きを洩らしただけだった。切断面からまだ出血している。熱い刃を当てて焼き止める。モラルの頭が頼りなく揺れている。ふと彼の輪郭が緩む。

 床に落ちた左腕は、まだロングコートを着ていたがその袖は短くなり、細い手首が見えていた。衰弱した、肉の薄い手と指。三つのカメラがそれをズームしている。レポーターは何も言えず、ただ唾を呑む音をさせるだけだ。

 憲法第九条は無表情にモラルの行為を見つめていた。

 出血を止めると、転がる左腕にモラルの右袖が触れ、憲法の方へと押しやった。

 憲法はそれをスニーカーで踏みつけ感触を確かめた。

「本物だな。いいだろう」

 そして彼は冷酷に続けた。

「だがもう一人の分はどうする。次は足にするか。右と左、どっちがいい」

「どちらでも、構わない」

 低い声でモラルは応じる。肩口の焼けた傷をそのままに晒して。

「なら右で行こうか」

 モラルは黙って床に座った。背をガラスにもたせ、両足を伸ばす。コートの隙間から革靴を履いた足が出てくる。

 右腕を再び熱した中華包丁に変形させ、彼は一気に右足を付け根から切断した。暫く刃を当てたままにして出血を止める。報道陣はその光景を全国生中継にしている。いや、全世界生中継か。

 右腕が袖に戻り、切り離された右足を憲法へ押しやった。青いパジャマ地に包まれた、靴下も履いていない、細い、足。

 モラルのチューリップハットが少しめくれ、鬼面の大部分が露わになっていた。二つの穴からモラルの視線は憲法へ延びている。闇ではなく現実の、血走って、濁った目だった。角膜も乾いている。しかし、そんな瞳の奥から強い光が憲法を射抜いていた。

 憲法第九条は無表情だった。それがヒクリ、と、皮肉な笑みを作ろうとした。多少引き攣った笑みになっていた。

「じゃあ、次を探してみようか」

 憲法は窓に顔を向けた。或いは、モラルの視線から目を逸らしたと言うべきか。

「今度は……あれだな。なんとなんと、青山公園を見ろよ。男が二人がかりで女犯してやがる。こいつはいけねえなあ。シャツを破られて女は泣いてるぜ。どう考えても強姦だよなあ」

 憲法は望遠鏡の向きを調節してカメラマンを手招きした。

「現場を生中継してやれよ。視聴率が取れるぜ」

 憲法の威圧的な視線を受け、カメラマンの一人が仕方なく近づいて望遠鏡にレンズを合わせる。

「いやあ、残念だ。今度も二人だ」

 今度の皮肉な笑みはうまく行ったようだ。

「まず左足でいいか」

 モラルの声は逆に淡々としていた。

「いいぜ」

 モラルは右足と同じようにして左足を切断した。ただし鬼の面は憲法へ向けていた。憲法は見返していたが、ぎこちない表情になっていた。

 モラルは無言で、左足を押しやった。

「次は何処がいい」

 聞いたのはモラルだった。

「その前に、一つ聞きたい」

 憲法は言った。

「なあ、こいつらが感謝すると思うか。吊られてる人間イルミネーション達さ。お前が犠牲になって助かったところで、精々インタビューで涙を流して感謝の言葉を並べてみせて、それで終わりさ。こいつらが心を入れ替えて、社会の規律を守るような品行方正な人間に生まれ変わると思うか。無理だね。何もかも無駄だ。お前が社会のためにどれだけ頑張ろうが、社会は何も変わりゃしねえ。全ては馬鹿馬鹿しいほどに無駄なんだよ」

「……。次は何処にする」

 モラルの答えはそれだけだった。

 ヒクリ、と、また、憲法の頬が動いた。

 彼は素っ気なく告げた。

「次は内臓だ。内臓をどれか一つ出せ」

 モラルは何も言わなかった。音響係のマイクを持つ手が震えていた。レポーターは所在なげにエレベーターの方を見た。この場を離れようと思ったのか。或いは誰か助けが来ることを期待したのか。

 モラルが強化ガラスに寄りかかった姿勢でコートの合わせ目を開いた。右袖でパジャマの生地をまくり上げると、病的に痩せた腹部が現れた。

 右袖が鋭い鎌に変わった。切っ先が鳩尾に向けられ、青白い肌に触れた。

 刃が潜り込んでもモラルは声を上げなかった。荒い呼吸だけが聞こえる。ブヅッ、と、音がして、腹が縦に裂けていく。彼自身、他人の腹を同じように裂いてきたのだが。痛みで腹圧が上がり腸が顔を見せた。雪崩のようにはみ出してくる。

 鎌が手の形状に変わり、彼は自分の腹部に手を突っ込んだ。別のレポーターはカメラマンがちゃんと撮っているか目で確認した。音響がマイクを取り落とし、ゴトンと床にぶつかった。

 腹部から引き抜いた、血みどろの手は、握り拳大の塊を掴んでいた。

「腎臓だ……右の……」

 モラルの呼吸が更に荒くなった。傷口から出血が続いている。腸を床に広げたまま彼はガラスをずり落ちて倒れていく。それでもモラルは腎臓を転がした。憲法の方へ。スニーカーにぶつかりそうになり憲法はそれを避けた。

「おい、このままくたばるんじゃねえだろうな。まだまだ面白いことは残ってるんだぜ」

 憲法の台詞は残忍だったが声は僅かに震えていた。崩れ落ちたモラルに歩み寄り、憲法はコートの胸元を掴んで引き寄せた。

「おい……おっとっ」

 突然憲法が短剣を振った。ピュイイン、という軽い響き。持ち上げられたモラルがまた床に落ちた。何が起こったのか分からず報道陣は固まっている。

 モラルの右袖が細長い刃に変わっていた。ピラピラと揺れる刃は憲法の使うスケルトン・キングに近い性質だろうか。柔軟性のある刃は憲法の刃でも切れなかったのだ。

「うまいことやるじゃねえか」

 飛びのいた憲法第九条が笑みを復活させて言った。

「だが残念だったな。俺には通用しねえ……ん」

 憲法が顔をしかめ、自分の胸を見た。

 黒いシャツに、細い切れ目が走っている。『9』の字の、丸部分の中心に。彼は不思議そうに生地をずらしてみた。下の皮膚にも裂け目が出来ている。

 その傷口から、赤い血が滲み始めた。

「あ、いっつうう、何でだ。嘘だろ」

 憲法の顔が、信じられないと言いたげに歪んだ。

「嘘だよな。あれ、血が出てる。おかしいな、そんな筈はねえんだよ。俺は不死身……あれ、おかしいな。この前の奴かよ。いや違う。痛い……痛え。痛えええ、やべえ。背中まで通ってる。やべえ、こいつはやべえ」

 あの憲法第九条が、無敵の大量殺人鬼の憲法第九条が、泣き出しそうな顔で慌てている。

 モラルはもう動かない。ただ荒い呼吸を続けているだけだ。右袖は元に戻っている。はみ出した腸を腹腔に収める余裕はないようだ。モラルの輪郭が揺らいでいる。鬼の面が人間の顔に変わりかけてすぐ鬼に戻る。報道陣はモラルを撮るべきか憲法を撮るべきか迷っている。

 と、憲法第九条の姿が消えた。カメラの前で、幻のように。報道陣はあっけに取られている。

「どうしようか……」

 レポーターが気まずい顔でカメラマンに聞いた。

 十秒ほどして展望台の別の場所に憲法がまた現れた。これも唐突に。

「出れねえ。おかしい。ここから出れねえよ。おかしいぜ。戻れねえ。体に戻れねえ。やべえ。誰だ、誰がやってるんだ。誰がやってやがるんだ。畜生、閉じ込められアヅッ」

 憲法が胸を押さえた。黒いシャツにみるみる血が滲んでいく。

「あれ、今度は何だよ。痛え、ムチャクチャ痛え、本体か。今度は本体かよ」

 報道陣の見ている前で、憲法の胸に次々と穴が開いていく。モラルの開けた細い傷とは違う、荒く抉れた傷口だった。血がどんどん流れ出す。憲法が喚く。

「何だよ、誰だよ。さよちゃんかよ、怒ったのかよ、参った、俺が悪かった、やめてくれよ、戻れねえんだ、助けてくれ、俺が悪かったって、痛え、誰か止めてくれよ、止め痛えええガフッ」

 憲法が口から大量の血を吐いた。目を丸くして、憲法が報道陣を見た。そして、倒れているモラルを見た。

 憲法第九条は、その場に、崩れ落ちた。レポーターがカメラマンに近寄って撮るよう合図した。カメラマンは動けなかった。足が震えている。

「あ、人質、助けないと」

 別のレポーターが思い出したように呟いた。ガラスの穴から顔を出して下を見る。人質達の体に巻きついたイルミネーションが今も明滅を繰り返している。

「助けないと。機動隊を」

 報道陣は喋るだけで動けない。

 モゾリ、と、モラルが動いた。揺れ動いていた輪郭が固まってきたが、左腕と両足はないままだ。

「人質、ですか……」

 鬼の顔でモラルは言った。

「すみませんが、あなた方が、彼らを引き上げて、くれませんか。私はもう、出来そうにない……」

 報道スタッフ達は互いの顔を見合わせた。しかし、彼らは動けなかった。カメラだけはしっかりモラルに向けて。

 鬼面の奥の瞳に怒りの色が湧いた。そして、絶望の。

 モラルは床を這い出した。強化ガラスに開いた穴へ向かう。荒い呼吸を努力して整えながら体が変形して伸びていく。

 伸びた体の前半分がナメクジのように外へ這い出した時、微動だにしなかった憲法が血の混じった声を絞り出した。

「ヘッ……糞野郎……」

 憲法の右手が動いた。まだ握られていた愛剣スケルトン・キングが閃いた。横ではなく、下に。

 ズッ、と、展望台が揺れた。地震の揺れ方ではなかった。そのまま全体がずれていく。斜め下に。

「いかん」

 モラルの緊張した声。人質達の悲鳴。

 憲法の刃は、東京タワーを支える鉄骨をまとめて切断したのだ。

 

 

 うわわわわーっ、と野次馬達がどよめいた。人々の一部は逃げようとした。他の多くは呆然と見ていた。別の一部はデジカメやDVカメラを懸命に向けていた。決定的瞬間とばかりに三脚で立てたカメラを使っている者もいた。

 東京タワーの高さは避雷針まで含めて三百三十三メートル。憲法とモラル、報道陣のいた特別展望台は地上二百五十メートルにあり、その下、地上百五十メートルの大展望台にも百人近い人質が吊られている。その更に下七、八十メートルほどの高さでタワーが斜めに切断されていた。憲法の刃はどうやってか途中を飛び越してそこだけを切ったのだ。一撃で最大の惨事を引き起こすべく。

 全長二百六十メートル近い巨大な鉄の塊がひどい軋みを上げながらずり落ちていく。二つの展望台に吊られた人質のイルミネーションが激しく揺れている。人々は大惨事の予感に恐怖と興奮の声を上げた。

 だがそれは倒壊中に次第に減速し、やがて停止した。ピサの斜塔よりも無理な角度だった。

 タワーの切断部分に奇妙なものが巻きついていた。巨大な黒いゴム様の塊だった。それぞれの鉄骨に絡みつき粘着し、これ以上離れないように繋ぎ止めている。双眼鏡で覗いていた者は、塊に鬼の面が一つ浮かんでいるのを見つけられたかも知れない。

「畜生、凄えなあ……」

 ヴァンの中で拳を握り締め、歯噛みしていたのは片倉征生だった。仕事で平然と殺人をこなす彼も、この出来事には感動したようだ。

 そんな片倉にジョン・スミスが告げた。

「機会が来ましたね。あれを攻撃しなさい」

「何だと、いや失礼、何ですって」

 片倉が目を剥いて支配者を振り返った。モラルの声が町に響いていた。

「長くは持たない。急いで、彼らを救助して、下さい。もう、何分も、持たない。ヘリでもいい。早く、救助を」

 ジョン・スミスが繰り返した。

「あれを攻撃しなさい。重機関銃と迫撃砲を全力で撃ち込むのです。今ならモラルを倒せるでしょう」

「で、でも……う、鍵が……」

 片倉が頭を押さえる。彼の瞳の中で本人の意志と吹き込まれた命令が格闘している。

「私の『万能鍵』にあまり逆らわない方がいい。脳が破裂しますよ」

 ジョン・スミスが無表情に警告する。

 やがて本人の意志は力ずくで押しやられ、ジョン・スミスの命令が全てになった。

「やりなさい」

「了解しました」

 片倉は無線機を手に取り部下達に命じた。

「あの黒い塊を攻撃しろ。東京タワーを支えている塊だ。弾を全部撃ち込め。民間に被害が出ても構わん」

「し、しかし……」

 運転席の部下が反論しようとした。それを冷たく睨みつけ片倉は無線機に告げる。

「すぐやれ。命令に従わない奴は殺す」

 タワー周辺に配置されていた十二台のトレーラー。全ての荷室が開き重機関銃が姿を現した。銃座に載ったそれを都市迷彩の男達が上方へ向けて撃ち始める。近くにいた野次馬達は呆然としてそれを眺めている。周辺のビルの屋上から七門の迫撃砲が火を噴き始めた。

 男達は東京タワーを攻撃している。東京タワーを支えるモラルを。黒い塊が機関銃弾を浴びて弾ける。迫撃砲の榴弾が黒い肉を爆発させる。パラパラと雨となって落ちてくる肉は、地面に着くまでに人間の肉片に変わった。

「やめろっタワーがっ落ちる、やめてくれっ」

 塊の表面に浮かぶ鬼の顔が叫んだ。東京中に響き渡りそうな大声だった。悲劇的な光景を、人々はポカンと口を開けて眺めていた。特殊部隊による攻撃は続く。逸れた榴弾が近くのビルに飛び込んで爆発したが、彼らは気にせず撃ち続ける。イルミネーションが散る。吊られていた人質の一人が榴弾を浴びて粉々になる。

「やめろっ、やめさせてくれっ、持たない、タワーがっ、支えきれないっ」

 モラルの叫びに応じる者はいない。野次馬は降ってくる弾と肉片を避けて逃げ始めた。機動隊と警官隊が上司に状況を問う。指揮官は「何もするな」と命じるだけだ。男達は攻撃をやめない。彼らを止める者もない。逃げない者も立ち竦んで見ているだけだ。慌ててデジカメを向ける者もいるが、特殊部隊を制止しようとする者はいない。

 ヴァンの中でジョン・スミスはモニターを見ている。タワーが折れたため電波が弱くなったか、テレビ局の放送は画像が荒れ始めている。

「三つの石を所定の位置から動かさないよう注意させて下さい。それぞれ紀元前から断頭台として使われていた石です。これが正三角形を作っている限り憲法が結界を出ることはありません」

 片倉に命じながらジョン・スミスは色素の薄い青の瞳でモニターを観察している。眉一つ動かさず、モラルの受けたダメージを観察している。落ちていく腕がモニターの一つに映った。傷だらけの、手首から先のない腕。上腕半ばでちぎれたらしく、破裂した断端。モラルの右の腕。

「分かっています」

 答えながら片倉征生は頭を押さえ呻いている。呻きながらジョン・スミスを見つめている。

「核兵器を使えば確実にモラルを殺せたでしょうが、石が破損する危険がありますからね」

 ジョン・スミスは誰もともなく呟いた。

「何故やめないっ、何故っやめさせないっ」

 モラルが叫んでいる。撥ね返った銃弾がヴァンの屋根に落ちる硬い音と肉片が落ちる柔らかい音が続く。

「勇気を出せばっ出来る筈だっ、どうしてっそれをやらない。どうしてっ、正しいことがっ出来ないっ。勇気を出せばっ……どうしてっそれをっ」

「叫ぶ余裕があんなら支えてろよ」

 芝公園で見ていた若者の一人が冷笑しながら呟いた。

 ギギイイイ。

 軋み音が大きくなった。東京タワーが傾いていく。モラルが、支えきれなくなっている。吊られた人々の悲鳴は地上まで届かない。

 ズタボロになったゴムの塊が盛り上がった。横倒しに倒れかけていたタワーが少し持ち直した。野次馬達は歓声を上げた。楽しげに拍手する者もいた。

 攻撃は続いている。タワーを支える黒い塊の体積が減っていく。モラルが減っていく。一人の少年が泣きながら叫びながら、重機関銃を操作していた男に飛びついていった。男は少年を押しのけ、拳銃を抜いて少年の腹を撃った。倒れた少年を見て他の野次馬達は何もしなかった。警官達も戸惑い顔で黙って見ていた。

 モラルの呼びかけに応じたのは、現場にいた何万という人々の中で、この少年一人だけだった。

 タワーがまた動いた。どれほどの力が加わったのか、一度、垂直に戻った。しかしすぐにまた傾き始める。黒い塊が血みどろの赤い塊に変わっていく。ゴム状に見えた材質の奥に、サイズは巨大ながら人間の筋肉や内臓らしきものが見える。変身能力が狂ってきている。

 東京タワーの上部が、ゆっくりと、倒れていく。「うおおおおっ」という野次馬の叫び。倒壊は加速を始め、しかし減速した。出来るだけ衝撃を和らげようとしているように。

「うおっ、こっちに倒れる」

 芝公園の野次馬達が慌てて逃げ出した。タワーは既に取り返しのつかない角度を過ぎていた。倒れる。倒れていく。人々の叫び。加速。また減速。特殊部隊の男達は攻撃を続けている。命じられたことはこなさなければならない。命じられたことをこなしていればそれでいい。

 モラルの声は聞こえない。叫ぶだけのエネルギーを全て減速に注いでいるようだった。片倉征生は鼻血を出しながら歯を食い縛ってモニターを睨んでいる。ジョン・スミスは静かにモニターを観察している。国民は瞬きも忘れテレビに見入っている。一部は手に汗を握りながら、一部はビールを飲みながら。二人の殺人鬼による犠牲者の遺族達も、モラルに罰せられて生き延びた人達も、世界と彼らの人生を混乱に陥れたイベントの結末を見届けようとしている。北沢里美は空の病室で声を出さずに泣きながらテレビを見つめていた。

 鉄柱の軋み。軋み。落ちていく。倒れていく。全長二百六十メートルの鉄塊が落ちていく。百数十名の人質を吊るしたタワーが倒れていく。軋みが上がる。銃撃と爆発音が続く。野次馬の狂声が続く。機動隊は後ろめたそうな顔で立ち尽くしている。軋み。倒れていく。タワーの天辺が地面に近づく。木にぶつかる。木が曲がり倒れていく。タワーの天辺が地面についた。避雷針が曲がる。軋み。軋み。ひどい軋み音を上げて、タワーが曲がっていく。

 全体が地面に落ちかけて、断端が、残ったタワー下部の断端に引っ掛かって、なんとか、停止した。

 中途で折れて倒れた東京タワーは、折れた部分で繋がって、天辺を地面につけて、停止したことになる。

 吊られた人々は顔面蒼白だったが命に別状はなさそうだった。イルミネーションの光は消え、今はただ揺れている。攻撃に巻き込まれて死んだのは二人ほどだった。おそらく特別展望台にいた報道陣も生きているだろう。

「あ、あれっ」

 野次馬の一人が指差した。タワーの繋がっている部分から、何かが落ちていく。タワーを支えていた黒い塊が消えている。

 数十メートルの高さから地面に激突したのはズタズタになった死体だった。穴だらけの、内臓がはみ出し、手足のない、血みどろの、死体。

 着地の衝撃で頭が割れ、潰れた脳が露出していた。顔面は銃撃のせいで崩れている。地面にぶつかる前から頭は割れていたのかも知れない。胴の残骸には灰色のコートの切れ端が絡んでいた。

 モラルの死体だった。

 この後何年もの間、国民の脳裏にこびりつくことになる光景だった。人々はルール違反を犯す時にちょっとした後ろめたさと共に、視界の隅にコートを着たひょろ長い男の影を認めることになる。あの男の「どうしてそれをしない」という断末魔の叫びが甦ることになる。そして、人々を救うために死力を搾り尽くした男の無残な顔が浮かぶことになるのだ。

 モラルは死んだ。

「攻撃やめ」

 片倉が無線で命じた。頭痛をこらえ鼻血を拭いながら。

 ジョン・スミスが立ち上がって言った。

「確認しましょう」

 片倉が先にヴァンを降りた。コートを脱いで都市迷彩となり、野次馬と警官隊を掻き分けて進む。それにジョン・スミスが続く。警官は片倉に不審の目を向けるが、指示が出ているのだろう何もしない。人々はジョン・スミスを見ない。彼らの意識からジョン・スミスの存在は追い出されている。倒れたタワーを撮っていた者達がデジカメの不具合に舌打ちする。

「そこまでです」

 ジョン・スミスが言った。モラルの死体まで五十メートルほどの距離があった。

「それ以上進むと結界に入るので憲法第九条の攻撃を受ける危険があります」

 片倉は立ち止まった。

「憲法はまだ生きてますかね。あの調子だと死んでいるかも知れませんが」

「確認するまではあらゆる可能性を留保しておくべきです。憲法第九条については閉じ込めたまま少しずつ結界を狭めていき、最終的には一辺十メートルの三角形内に封印出来るでしょう。後はゆっくり本体を探せば済みます。モラルの方ですが、まだ生きていて擬態している可能性もゼロではありません。念のため完全に破壊しておきましょう」

「え、どうするんです」

 いない人間に問いかける片倉を警官が不思議そうに見ている。

「もう一度銃撃しなさい。跡形もなくなるまで」

「それは……ちょっとそれは……」

 また片倉が呻き始めた。目が充血している。

「やりなさい」

「分かりました。やり……鍵が……やり……出来……」

 片倉は頭を押さえてその場に蹲った。目と鼻から溢れた血が両手を染めていく。

 道具が動かないことを悟ったジョン・スミスの決断は早かった。片倉の手から自動小銃をもぎ取ると、自ら銃口をモラルの死体に向けた。

 良く狙いをつけ、ジョン・スミスは引き金を引いた。モラルの頭蓋骨が弾けた。

 オートではなく単発で、一発ずつ確実にジョン・スミスは撃ち続けた。破裂した脳が散らばりモラルの頭部が消滅すると、残った胴体に穴を開けていく。破れた肉から内臓の破片が転がり出る。機動隊が驚いて周囲を見回している。何処から撃っているのか分からないようだ。

 弾倉が空になるとジョン・スミスはグレネードランチャーを使った。モラルの胴体が爆発する。機動隊が驚いて伏せる。

 片倉のベルトにある予備の弾倉に手を伸ばしかけ、ジョン・スミスはやめた。

 モラルの死体は小さな肉片が散らばるだけで、跡形もなくなっていた。

「いいでしょう。戻りましょう。石は決して動かさないように。一日に一メートルずつ結界を縮めていきましょう」

 片倉に自動小銃を返してジョン・スミスは言った。片倉も黙って受け取り血塗れの顔でヴァンへと戻っていく。

 片倉が先にヴァンのドアを開け、ジョン・スミスが乗り込んだ。

 ジョン・スミスがシートに腰を下ろした。その瞬間、「ん」と言った。

 ヴァンが数千個のブロックに分解した。

 一瞬の出来事に片倉は呆然と立ち竦んだ。数センチ角に切られたヴァンのブロックは恐ろしく鋭利な断面を晒している。エンジンもシートもバラバラだ。タンクも分解したためガソリンが洩れている。

 十秒ほどで片倉は我に返り周囲を見回した。憲法第九条の姿は何処にもないが、彼以外にこんな芸当の出来る者はいまい。

 憲法は、見えない魔術師の居場所を片倉の視線から推測したのだろうか。

 片倉は溜息を一つついた。人の目を気にせずブロックを掻き分けていくと、金属やプラスチックのブロックの下に肉のブロックがあった。

 ジョン・スミスは数百に分解されていた。

「鍵が抜けた。頭がすっきりしたぜ」

 片倉は血塗れの笑顔でジョン・スミスの残骸に告げた。

 その笑顔はすぐに曇った。

 肉のブロックのそれぞれが繋がり始めているのだ。細い触手が無数に伸びて絡み合い、適切な相手を探している。引き寄せ合い、小さなブロックが大きなブロックになっていく。脳の破片さえもが修復作業を行っていた。

 不死身と呼ぶべきは憲法第九条でなく、ジョン・スミスの方であったか。

 片倉は肉のブロックを落として立ち上がった。ポケットからジッポーライターを取り出し着火する。ブロックには丁度良い具合にガソリンが染みている。

 顔のブロックと思われるものが一つあった。色素の薄い、冷酷な瞳が片倉を見上げている。片倉は首を振って魔人の呪縛を払った。

「あばよ。糞ったれ野郎」

 火のついたジッポーをブロックの堆積に投げた。凄い勢いで広がる炎を片倉征生は陶然と眺めていた。

 

 

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