雑然とした下町を男が歩いている。古い建物が目立ち、人通りは少なかった。懐かしい時代を感じさせる、寂れた町。
男は五十才前後だろう。白いものが混じる髪。左手で杖と花束を握っている。右腕は付け根からなく、空の袖が揺れている。歩くごとに左足はカチャカチャと音がする。どうやら義足のようだ。色の薄いサングラスをかけている。左の目は町の景色を見回しているが、右の目は殆ど動かない。左耳の付け根にはうっすらと縫合の痕が残っていた。
男は御坂草司だった。
小さな公園があった。ブランコの一つが揺れている。風もないのに独りでに。
御坂は立ち止まり、少しの間それを眺めていた。
ブランコはまだ揺れている。御坂は視線を他へ向けた。公園の前にある小さな医院。
『外園クリニック 内科/外科/その他』という看板が掛かっていた。二階にある病室を御坂は見上げる。今日は窓が閉まっている。
御坂はクリニックの玄関をくぐった。
「こんにちは」
受付の看護婦に診察券を渡す。
「二時の予約ですね」
「はい。前回が初診でした」
御坂は靴を脱いでスリッパに履き替え、待合の長椅子に腰を下ろした。片方が義足とは思えないスムーズな動きだった。
待つこともなく名を呼ばれた。御坂は立ち上がり、診察室へ足を踏み入れた。花束は衣類籠へ置く。
医師は前の患者のカルテを書いていたが、すぐに畳んで御坂へと向き直る。
「こんにちは」
御坂は医師に挨拶して丸椅子に座った。
「この二週間、調子はどうでした」
外園静無医師は表情を変えず、淡々とした口調で尋ねた。
御坂もまたニコリともせず、感情を抑えた声で答える。
「色々と変わりましたよ。これまでの人生で見えなかったものが急に見えるようになり、出来なかったことが出来るようになりました」
「そうですか。あなたが失ったものの代わりになってくれるかも知れませんね」
医師は言った。
「しかしその結果、一つの大きな疑問が湧いてきました。先生、質問をしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「外園静無先生。あなたは一体、何者なのです」
抉り込むような御坂草司の視線を、外園静無医師はそのままに受け止めた。知的な瞳は揺らがない。
「私は医者です」
医師は答えた。
「あなたは医者ではない。少なくとも日本に存在する医師国家資格を持って定められた医療行為を行う医師ではない。政府はモラルと憲法第九条を探して全国の医療機関を当たったが見つからなかった。何故なら、ここは医療機関ではないからです。天城倫……モラルの身元が判明し彼の部屋で診察券が見つかったが、政府はどうしても外園クリニックを探し当てることが出来なかった。この地域には結界が張ってありますね」
「この場所には本当に必要としている者しか来られないようになっています。御坂さん、あなたがここに辿り着いたのも、そういうことです」
医師の瞳が御坂を観察している。患者の本質を見極めようとしているかのように。御坂は改めて問う。
「あなたは何故、患者に異常な力を与える。薬の効果ではない。私に処方したのはただの乳糖だ。もしかして患者が貰う薬の殆どがプラシーボじゃないですか。あなたはここで患者に触れることで力を与えている。あなたは一体何者だ。神か、悪魔か」
「神でも悪魔でもありません。力を与えるのではなく、私に出来るのは変換することだけです。彼らの出口を失ったポテンシャルを、蓄積された苦痛を、彼ら自身の望む形に変換する。あなたの手に入れた力は、あなた自身が望んだ力です」
「なるほど。私は真実を知りたかった。圧力に屈することなく真実を伝える力が欲しかった。つまり、そういうことか」
「現代の医学で治せない人達がここに紹介されてきます。私は自分に出来ることで患者を助けたい。それだけです」
「その結果、あなたの患者が大量殺人を犯そうともですか」
御坂草司は用意してきた最も辛辣な言葉を投げた。
外園医師はそれでも淡々とした口調を崩さなかった。
「ええ。私は医者です。自分の患者を救うことだけに全力を注いでいます」
御坂は立ち上がった。
「ありがとうございました。また来ます」
「同じ薬を出しておきます。次も二週間後に来て下さい」
「ええ。ちゃんと飲みますよ」
御坂は花束を持って診察室を出ていった。
外園静無医師の口元に、ほんのりと微笑が浮かんでいた。
受付で薬を受け取り金を払った御坂は看護婦に「ちょっと上の患者に面会してきます」と伝えた。階段を危なげなく上っていく。
病棟を見回し、ふと端の病室に目を留めた。
空の病室は、かつて天城倫が入院していた場所だった。
やがて御坂は廊下を歩き始めた。詰所の前を過ぎ、奥の方へ。小ホールでテレビを観ていた患者達が「あれ、御坂草司さんだ」と言う。御坂は軽く会釈をする。
パタパタと、不思議な足取りで一人の女性が近づいてきた。その若い入院患者は顔の左半分を黒い布で覆っており、その部分だけ頭蓋骨の輪郭も小さかった。
「こんにちは」
ニッコリと笑い、女は挨拶した。
「こんにちは、『さよちゃん』。私のことが分かるようだね」
伊本佐代里は頷いた。
「うん。頑張ってね」
「そのつもりだよ」
御坂は杖をついて廊下を進む。伊本佐代里もついてくる。個室の前で御坂は立ち止まる。表札を一瞥してからドアをノックし、返事が来る前に足を踏み入れた。
個室のベッドには一人の男が横たわっていた。年齢は三十代の前半だろう。傍らには車椅子があった。
黙って見返す男に、御坂は告げた。
「初めまして。いや、二ヶ月ぶりと言うべきかな。『憲法第九条』」
「ふん」
個室の患者・九条直孝は唇を歪めた。憲法第九条ほど日焼けしておらず、整った顔立ちでもなかったが、その笑みには憲法の面影があった。
憲法第九条の本体は、ここにいた。
「これは見舞いだ」
御坂は花束を九条の腹の上に置いた。伊本佐代里が早速喜んで手に取った。北沢里美の勤める花屋で買ったもの。
「食い物の方が良かったけどな」
九条は図太く応じる。
「元気そうで何よりだ。胸の傷もかなり良くなったようだね」
「ああ。さよちゃんにメチャクチャ刺されたが、外園先生のお陰でなんとか助かった」
不遜な憲法第九条が主治医には敬意を払っているようだ。
「ごめんね。果物ナイフで刺したの。あの人、助けたかったから。先生に怒られちゃった」
可愛らしく挙手して伊本佐代里が言う。九条が苦笑し、続いて御坂も苦笑した。
九条が言った。憲法ほど太くない声で。
「そっちも元気そうじゃねえか。あん時は根性だけだったが、随分パワーアップしたみたいだな」
「ああ、君と同じだ。君の方は長いようだね。脊髄損傷か」
「高校の時にな、クラスの糞共にジャーマンをかけられた。それで首をやっちまったのさ」
「代償は払わせたようだな」
御坂に指摘され、九条は陰鬱に笑う。
「憲法第九条は、四肢麻痺で病院から出られない君の願望という訳だ」
「ああ、そうだな。俺は何処にだって行けるし、何でも出来る。それに無敵だ。うちの先生とさよちゃんには敵わねえがな。……あん時は、痛かったぜ。本体の首から下は感覚も麻痺してて何も感じねえのに、さよちゃんのナイフは痛かった」
「ごめんね」
また彼女が謝る。
「モラル……天城倫のつけた傷もあるだろう。彼女が刺す前の傷だ。あれも君は痛がっていた」
「ああ、痛かった。体にも傷痕が残ってる。無敵の筈なのによう。弾丸だって素通しの筈なのに、なんで傷がついたのか分からねえ」
「いや、君は分かっている筈だ」
御坂の左の瞳は真っ直ぐに九条を見据えている。
「君はあの時、モラルの姿に感動した。君は何も賭けなかったのに、彼は他人のために全てを捨てた。だから君は彼を怖れ、彼の攻撃を受けたんだ」
御坂は断定口調だった。九条はそれに反論しなかった。
御坂が続けた。
「君はモラルの正体を知っていたのだろう。私は一時期、君とモラルが裏で繋がってマッチポンプをしているのではないかと疑っていたよ」
伊本佐代里は部屋の隅にあった椅子を持ってきて御坂に勧めた。御坂は礼を言って座る。彼女は花束を抱えて九条の車椅子に座り、にこやかに二人を見守っている。
九条が答えた。
「知ってたよ。参戦する前からな。同じ患者として……ちょっと、対抗心が湧いちまったのさ。俺とあいつ、どっちが強いのか。どっちの恨みが強えのか」
診療所という狭い世界での些細な対抗心が、地球上で数十万人の犠牲者を出し今も混乱の爪痕を残す戦いを引き起こしたというのか。
九条が言わなかった要素を、御坂もわざわざ指摘はしなかった。ここにいる三人共、知っていることだったからだ。
参戦理由は対抗心ではなく、嫉妬であったということを。伊本佐代里が天城を応援しなければ数十万人の犠牲者も社会の混乱もなかったのではないか。だが、今更悔やんでも仕方のないことだ。
御坂が言った。
「天城は恨みではなかっただろう。多少は絶望もあったかも知れないが。天城は、憲法第九条の正体が君であることを知っていたと思うかね」
「……。さあな。分からねえ。ばれてるような気もしたが、本当のところは分からねえな」
「君を結界から解放したのは天城だった」
御坂は告げた。
「ジョン・スミスという魔術師……本名は今も不明だ。アメリカの刺客の一人だったが、彼はあの時、東京タワーを三つの石で囲んで君を閉じ込めた。太古の昔から罪人を処刑する際に断頭台として使われていた石だ。ジョン・スミスはそれ以前より何度もTTJのスタジオに出入りして、君に有効な結界を試していたようだ。君は自覚しなかったかも知れないが、スタジオのセットに入る際にためらったことがあった筈だ。ジョン・スミスは試行錯誤の末、イギリスとフランスから断頭台の置き石を急遽取り寄せて、正三角形の頂点を構成するように自衛隊の特殊部隊に配置させた。断頭台が効いたのは、君が心の底では自分の罪を怖れていたせいかも知れないな」
「それはどうかな」
九条は曖昧に答えを濁すも、完全に否定することが出来ない。
「東京タワーの倒壊と特殊部隊の銃撃のどさくさに、石の一つが砕かれたのだ。弾丸数十発分の鉛を溶かして固めたものをモラルが高速で撃ち出したらしい。あの状態で良く結界に気づき、それだけのことが出来たものだ。見つかった鉛の塊は一つだけだから彼の意図は明白だ。……どうして天城は君を助けたのだと思う。彼は君に何を期待していたのだろうか」
「……さあな」
九条が答えられたのは、それだけだ。
「君が憲法第九条として、誰にも自慢しなかったことが一つある。十一月十八日、ジョン・スミスは豪華客船セネヴィア号の船底を破壊して遭難させ、モラルをおびき出そうとした。モラルの到着と同時に起爆される筈だった水爆の回路を、事前に切断したのは君だ。モラルも船底の修復中に気づいて回路を破壊したが、本来ならとっくに爆死していた」
御坂草司の鋭い視線。九条は無言で御坂を見返していた。伊本佐代里はニコニコと見守っている。
やがて、九条が答えた。
「あれは、なんとなくだ。決着は、俺とあいつだけでつけたかったからな。そう、なんとなくだ」
「私はずっと君のことを、救いようのないサイコパスだと思っていた。だがそれは少し違っていたようだ。天城は……モラルは君に、自分の後を継いで欲しかったのだろう」
「ハッ。お門違いもいいとこだぜ」
九条は吐き出した。幾分弱々しく、力なげに。
「俺はただの、自分勝手な殺人鬼さ。あんたこそ、俺に何を期待してるんだ」
「モラルが活躍し、訴え叫び、死んだ。そして二ヶ月経った。社会はどう変わっただろうか」
御坂は自分で答えを持っている。
「殆ど何も変わってはいない。以前と比べて少しだけ、若者が老人に席を譲ることが増え、未成年の喫煙や暴走行為が減った。援助交際に反対するPTAの活動も盛んになっている。いじめに勇気を出して対抗した少年をクラスメイトが支援することも稀に見かけられるようになった。だが、それらは一過性のものだ。いずれは熱も冷め、モラルの影も薄れ、人々は元の怠惰な生活に戻っていく。モラル向上部隊が一年後に残っている可能性は低い。インターネット上で活動しているモラル支援同盟も風化していくだろう。人々はそれを美しい思い出として、現実の生活には関わらせない。だが、君にその気があるのなら、モラルの残した僅かな成果を守り、育てていくことも出来るだろう」
「俺の活動は禁止されたんじゃなかったのかい。負けた身だぜ」
「憲法第九条としてはそうかも知れないが、モラルとしての活動なら別だ」
九条は吹き出した。
「モラル二号になれってか。モラルのやった拷問殺人もあんた公認って訳かい」
「拷問も殺人も必要ない。ただ言葉で糾弾すれば済むことだ。それで充分だろう」
「充分じゃなかったからモラルは殺しまくったんじゃないのかい」
「そこが、私がモラルを間違っていたと思う点だ」
暫く沈黙があった。伊本佐代里は花の匂いを嗅いでいる。
そして、九条が尋ねた。
「あんた自身は何がしたいんだ。色んなことが勝手に分かっちまうようだし、ニュースキャスターとしてはこれ以上のもんはねえだろう。その力で何をするつもりだ」
「真実を全て公表する」
御坂草司は力強く答えた。
「過去百年間の地球上において私が把握出来る範囲の全ての真実だ。あらゆる陰謀、政治家や企業の裏取引、隠蔽されたスキャンダル、未解決の凶悪犯罪、それらを全て生放送で暴露する。今日の午後五時からTTJの特別番組でだ。終了まで何日かかるか分からないが、全て吐き出すまで喋り続けるつもりだ」
「へえ、そりゃ大したもんだ。その暴露される真実には俺やこのクリニックのことも入るのかい」
気楽を装いながら九条の瞳に微かな殺意が煌く。
「残念ながらそれはない。ここは人外の魔境だ」
御坂は真顔で言った。九条は軽く口を尖らせ息を吹く。
「それにしても世界中が大混乱になるぞ。真実とかなんとか叫んでる奴も自分の秘密がばれるとなると真っ青になるだろう。実際は誰も真実なんて望んじゃいない。あんたは何のためにそうまでする」
「混乱を来たす可能性は承知の上だ。真実の追求が私の人生の目的だからだ。ニュースキャスターを志す前からずっと変わっていない。やりたいからやる。それだけのことだ」
「ハッ。あんたも異常者の一人だった訳だ」
九条は面白そうに笑った。
「だがよう、番組を始めて五分で潰されるんじゃねえか。それこそ自衛隊に襲撃されかねんし世界中から核ミサイルが飛んでくるかも知れん」
「自分の身は守れるが核ミサイルは困るな。放送が続けられなくなる。もし本当に飛んできたら、君が防いでくれればありがたい」
「ふん。まあ、考えてやらんこともないがね。それ以外なら自信があるようだが、本当に身を守れんのかい」
九条の胸元から病衣を素通りして手が生えてきた。浅黒く、太い腕。それが長く伸びて御坂の喉を掴もうとした時、何かに受け止められた。
御坂の左手は杖をついたまま動かない。
右の肩から、淡い光が伸びて憲法第九条の腕を掴んでいるのだった。失った右腕の代わりに手に入れた、見えない腕。
「五メートル以上は伸びないが、この距離なら君よりも強いぞ」
御坂が言った。九条がフッと笑いながら腕を引き戻していく。
窓際の小さな鉢に御坂が気づいた。
「彼のだな。シクラメンか」
「あいつが入院中に病室に置いててね。仕方がねえから俺が引き取ったのさ」
九条が両眉を上げてみせた。御坂が微笑した。伊本佐代里は終始笑顔だった。
「あの、社長」
「ん」
真夜中、月明かりと懐中電灯だけが頼りの暗い森で、作業服の若い男が中年の雇い主に声をかけた。
「何だ」
社長が聞き返す。ボドボドと液体の落ちる音が続く。
「あの、社長、やっぱり、これって、悪いことじゃないんですか」
若者はためらいがちに言った。
「ハハッ。滝本はいつも同じことを言うな」
「だってこれ、産業廃棄物って、本当はちゃんとした処理が必要なんですよね。こんなとこに捨てて、大丈夫なんですか」
低い崖際に停めた小型タンクローリーから太いホースで中身が零れていく。崖の下には沼がある。暗いので良く見えないが、ドロリと粘質な水面。
「ああ、いいんだよ。産廃業者は皆やってるからな。まともに処理しようとしたら儲けがないだろう」
社長はバルブを更に緩めた。液体の勢いが増す。濁った黒い液体だった。
若者は俯いたが、また顔を上げて言う。
「でも、まずい物質なんですよね。環境汚染になるんですよね。この辺の木は妙に枯れてるし、これが地下水とかに混ざったら、井戸を使ってる人は大変なことに……」
「心配性な奴だな。大丈夫だって。何処でも皆やってるんだからさ。皆多かれ少なかれ誤魔化しはやってるんだよ。そうやって社会は回ってるんだから、それでいいんだよ」
「で、でも……」
まだ渋る若者の肩に社長が手を置いた。冷たく、嫌な目をしていた。
「滝本、うちの仕事が嫌だったら辞めてもいいんだぞ。お前みたいな頭でっかちな奴、何処が雇ってくれるかは知らんがな」
「ぼ、僕は……」
「なあ、お前、モラルみたいになりたいのか。最近そういう馬鹿が増えたようだが、そんなふうじゃあ社会で生きていけんぞ」
「僕……う……うあああああああっ」
急に若者が叫び出した。驚く社長の胸を力一杯突き飛ばす。社長がよろめいた。後ろに二歩、三歩。そして足を踏み外した。
「うおわっちっ」
社長が崖から転げ落ちる。長年汚染物質を流し続けた沼へ。粘っこい水音がした。
「助けてくれえっゲブッ溶ける、体がアブッ腐るっ滝本、助けてくれっおおったきもとおおおブブッブブブブッバッブブッ」
黒い粘液に塗れて社長がもがく。汚染物質を飲み込んで社長が叫ぶ。
「そうだ……僕は、モラルみたいになりたいんだ。僕、モラルみたいに……」
沈んでいく社長を見下ろし、若者は両拳を握り締め全身を震わせていた。