目的のない凶器

 

  一

 

 夕陽が、落ちていく。

 背中を朱に染め、男が歩いている。

 繁華街には人が溢れていた。夜が近づくにつれて学生服は減り、ピアスをした若者達や一杯ひっかけに来るサラリーマンの姿が増えることになる。

 そんな人込みの中に、男は埋もれていた。

 目立たないという訳ではない。すれ違う人々の何割かはちょっとした驚きの表情で男を見て、そして目を逸らしていく。

 男の背丈は百八十センチを幾らか越えているだろう。スリムな体型だが弱々しい感じはしない。何年も洗濯していないような汚れたジーンズとTシャツを着ていた。生地の薄い安物のロングコートは垢と泥で茶色に変色してしまっている。裾や袖の部分に数ヶ所残る染みは血痕なのだろうか。荷物は何も持っていない。

 実際のところ、男はホームレスに見えた。伸び放題の髪は首の後ろで簡単に束ねられていた。こけた頬を覆う無精髭は男を老けて見せていたが、もしじっくり男を観察する者があれば、彼の顔が二十代の半ばであることが分かる筈だ。

 男は真っ直ぐ歩いていた。視線は殆ど動かない。周辺の地理に精通している者でも彼のように前だけを見て歩くことはしない。目的地以外のことには興味がないのか。それとも、目的地自体が存在しないのか。男の虚ろな瞳はこの街の何も映してはいない。男は雑踏の中で、別世界の旅人のようだった。人々が男に目を留めていくのは浮浪者風の外見よりも、男が漂わせるそんな雰囲気のせいかもしれなかった。

「だからさー。くたばれこのハゲって言って一発殴って、それでお終いさ」

 ざわめきの間から若い声が聞こえてきた。

 汚れたコートを着た男の前方から、二人の若者が歩いてくるところだった。

 年齢は二十才前後だろう。右の男はチェーンのついた革のズボンを履いていた。左の男は逆立てた髪を金色に染め、鼻と耳に派手なピアスを入れていた。

「お前はいつもそれでバイトをクビになるじゃねえか」

「バイトよっかバイクだよ。そうだよ、お前昨日の集会出なかっただろ」

 二人は大声で喋っていた。狭い歩道を彼らは横に並んで歩いていた。他の通行人は彼らを避けて脇へ寄り、窮屈そうにすれ違っていく。

 コートの男は避けなかった。

 二人の若者の間をコートの男が通り抜ける形となった。無造作に歩く男の腕が、金髪の若者の肩に触れた。

「おい」

 金髪の若者が鼻筋に皺を寄せて振り返った。その時既にコートの男は五、六歩先を歩いていた。

「おい、待てよ」

 若者は尖った声で男に呼びかけた。

 コートの男は振り向きさえしなかった。同じペースで歩き続けるだけだ。

 金髪の若者の目が狂暴な色を帯びた。去っていく男を二人の若者は追った。人々はこれから起こる事態を想像して足を速めた。

 金髪の若者が男の汚れた肩に手をかけ、力を込めて引っ張った。あっけなく男の体は回転してよろめいた。

「人にぶつかっておいて、謝りもしねえのか」

 金髪の若者が怒鳴った。

 コートの男の冷めた瞳が、微かに動いた。それだけだ。

 男の反応の乏しさが、若者達の黒い炎に油を注いだ。

「舐めんなよ、てめえ」

 金髪の若者が男の腹を蹴りつけた。男は防御する動きを全く見せず、木偶人形のように打撃を受けた。上体がくの字に折れ曲がる。だがコートの男は表情を変えなかった。革ズボンの若者が男の顔を殴りつけた。男は目を閉じなかった。若者の中指と薬指には指輪が嵌まっていた。男の左頬に二筋の傷が出来た。開いた傷口から血が滲み、髭を伝って落ちていく。男はそれでも眉一つ動かさなかった。痛みを感じないのだろうか。

 若者達は暴行を加え続けた。通行人は見て見ぬふりをして通り過ぎるだけだ。男は助けを求めることをしない。ただ突っ立って、殴られるに任せるだけだ。逆に、拳を振りながら自己陶酔に浸っていた若者達の表情が、次第に焦りと怯えに変わっていく。

「チィッ」

 金髪の若者が渾身の力を込めて、男の顔の中心を殴りつけた。鼻骨が折れ、男は鼻血を出して倒れる筈であった。

 だが、これまでとは結果が違っていた。

 パンチをまともに食らいながら、男の頭部は微動だにしなかった。異様に硬い感触が若者の拳を伝っていった。まるで鋼鉄製の胸像を素手で殴ってしまったように。

「あづう」

 金髪の若者は自分の拳を押さえた。

「どうした」

 革ズボンが聞いた。

「何でもない」

 金髪の若者は青い顔で、相棒の目から自分の右拳を隠した。精一杯の見栄だったろう。

 骨が粉々になっていたのだ。

 若者達は直立する男の顔を見上げた。

 虚ろだった男の表情が変化していた。

 鋭い視線が若者達の背後に向かっていた。二人が振り返ると、男の視線は道路の向かいにある小さな喫茶店まで延びていた。

 窓際のテーブルで、白いスーツを着た男がこちらを見ていた。白の男の視線は人込みの間を抜け、コートの男だけを見つめていた。

 男の服装は高級ブランド品で占められていた。背広の下のシャツは黒で、ネクタイはまた白だ。年齢は二十代の後半から三十代の前半であろうか。きちんとセットされた髪はコートの男の汚れた髪とは対照的な輝きを放っていた。白の男の大きな目が、ちょっとした宝物を探し当てた少年のように輝いていた。唇は自然と淡い微笑を浮かべている。

 若者達は再度、コートの男を見た。

 男は眉を僅かにひそめ、瞬きもせずに喫茶店の男を見つめていた。さっきつけた頬の傷が消えていることに若者達は気づいた。

 コートの男は無表情に戻った。張り詰めていた空気が溶け、男はふらりと背を向けた。

 男は何も言わずに去り、二人の若者は人込みの中に取り残された。

 やがて、革ズボンの若者が言った。

「い、行こうぜ。放っとけよあんなの」

 金髪の若者が額に油汗を滲ませて応じた。

「そうだな。そ、そうだよな」

 二人は、男が去ったのとは逆の方向へ歩き去っていった。

 日常の戻った街を、白いスーツの男は喫茶店の窓から眺めていた。

「行ってしまったな……。珍しいこともあるもんだ。こんな街に」

 白の男は誰にともなく呟いた。男はコーヒーカップを持ったまま、背もたれに体を預けて足を組んでいた。

「円さん」

 テーブルの向かいに座る男が声をかけた。

「ん」

 まどか、と呼ばれた白の男は顔を戻した。

「どうかしましたか」

 向かいの男が聞いた。武道をやっているのか、居住まいに隙のない男だった。

 白スーツの男は口元の微笑を深めた。それは、冷笑にも似ていた。

「何でもないさ。お前らには無縁のことだ、神崎」

 白の男はそう言ってコーヒーの残りを飲み干すと、ポケットから煙草を取り出した。神崎と呼ばれた男がすぐにライターを捧げ持って火をつけた。

「退屈だな」

 コートの男の去った方向を眺めながら、白の男は気だるげに紫煙を吐き出した。

 

 

  二

 

 十九年間に渡って積み上げられてきた日常が、ほんの五分で別のものに変貌を遂げた。百八十度では済まない、別次元への転回であった。

 挟間香織は大学の二年生で、学内でも人気者で通っていた。まだあどけなさの残る整った顔立ちと澄んだ瞳に、道行く男達の殆どが振り返った。

 隣を歩く青年は清水健一といった。これから二人で映画を観に行く予定だった。清水はハンサムで背が高く、魅力的な話し方をする男だ。そして何より香織が気に入っているのは、彼の物腰の端々に感じ取れる強い自信だった。この混沌とした時代を、彼は力強く泳いでいくことだろう。香織を連れて。少なくとも五分前までは、彼女はそう信じていた。

 二人の前に立ち塞がった男達が、変化の始まりだった。

 男達は四人いた。正確には前を塞いだのが二人で、背後から近づいたのが二人だ。屈強な、暴力的な匂いのする男達だった。

 前に立つ右の男がリーダー格らしかった。年齢は四十才くらいか。剃刀のように細い目をしていた。

 左の男は二十代後半に見えた。眉間から右頬にかけて刃物傷があり、皮膚がよじれている。

 背後に立つ右の男は、パンチパーマにサングラスをかけていた。右手はズボンのポケットに突っ込んだままだ。

 左の男は短い髪に浅黒い肌をしていた。眉の薄さが酷薄な印象を与える。

 彼らが何者なのか、香織はすぐに悟っていた。彼女は自分の父親の仕事を思い出した。気をつけてはいたのだが、まさかこんな人通りの多い場所で。

「何だ、君らは」

 戸惑いを見せながらも、清水は強い口調で言った。

「狭間香織だな」

 清水の問いには答えず、細い目の男が逆に聞いた。

 香織は返事が出来ず、身を竦ませるだけだった。周囲を見回して、彼女は人込みというものが何の意味も持たないことを知った。通行人達は彼女達の方を見ないようにして足早に通り過ぎるだけなのだ。それが、この街で安全に生き抜く唯一の方法だというように。

 ここは、そんな街なのだ。

 香織は清水の腕にしがみついた。

 清水は恋人の期待に応えようと、毅然として男達を睨みつけた。

「どけよ。失礼じゃないか」

 彼の台詞がどれほど状況にそぐわないものであったかは、男達の薄笑いが証明していた。

 刃物傷の男が太い腕を軽く後ろに引いた。男の身長は清水より二十センチほど低かった。

 無造作に突き出された男の右拳が、あっさり清水の顔面にめり込んでいた。

「ウゴッ」

 清水は顔を押さえて膝をついた。整っていた鼻筋がみっともなく曲がり、押さえた両手の間からボタボタと血が滴っている。涙の滲んだ目が男達を見上げていたが、さっきまでの自信に満ちた視線ではなく、負け犬のそれだった。

 パンチパーマの男がニヤニヤしながら言った。

「いきなり殴るなんて、ひどいよ。ママに言いつけちゃうから」

 刃物傷の男は腕を組み、余裕たっぷりに清水を見下ろした。

「まだやるかい」

 清水は答えなかった。彼は掌の上に、血の混じった白いものを吐き出した。

「ぼ、僕の歯が」

 呆然と清水は呟いた。

 パンチパーマの男が吹き出した。

「お嬢さんの方は一緒に来てもらおうか。そこに車を待たせてある」

 細い目の男がすぐ先を指差した。左のタイヤを歩道に乗り上げて、大型の黒いベンツが停まっていた。背後の二人が香織の腕を掴んだ。容赦ない力が込められていた。

「イヤッ。健一さん」

 香織は叫んだ。

 だが清水は、香織を見てはいなかった。彼はただ、自分の折れた歯を見つめていた。

「僕の、歯が。さ、さ三本も折れてしまった。大事にしていたのに。む、虫歯もなかったのに」

 彼は虚ろな声で繰り返し、終いには声を上げて泣き出した。

 香織は絶望的な気持ちで、自分の全人生を捧げる筈であった男を見つめていた。信じていた白馬の騎士が、脆弱な粘土細工に過ぎなかったことを知った時、彼女の中で大切な何かが音を立てて崩れた。

「じゃあな、お坊っちゃんよ」

 浅黒い肌の男が清水の腹部に強烈な蹴りを入れた。清水は呻きながら腹を抱えて蹲った。男は清水に唾を吐きかけた。

「行くぞ」

 細い目の男が命じ、パンチパーマの男と浅黒い肌の男が香織の両腕を乱暴に引っ張った。香織は抵抗したが引き摺られるだけだ。香織の靴が片方脱げても気にする者はいない。

「助けて、誰か助けて」

 香織は叫んだ。無駄と分かっていても、彼女に出来ることはそれしかなかった。

 真面目そうな青年が、しかめ面した老人が、中年のサラリーマン連中が、大声でお喋りする少年達が、道を通りかかる。彼らは香織の叫びなど聞こえぬように、目を逸らし俯いたまま通り過ぎていった。その中には大学での親しい友人も含まれていて、香織の絶望を深めた。

 彼女を助けてくれる者など何処にもいなかった。当然のことだ。一般人に何が出来るというのか。ここは奴らのテリトリーであり、逆らう者は家族も含めて皆殺しにされてきたのだから。

 その時、香織の視線がある男を捉えた。

 浮浪者風のその男は香織達の横を通り過ぎようとするところだった。ただ他の人々と違うのは、彼の顔に恐怖も罪悪感もなく、歩くペースを速めてもいないということだった。

 まるで、全く興味がないというように。

「助けて」

 香織はその男に向かって叫んだ。

 瞬間。

 汚れたコートが翻り、弾かれたように男が振り向いた。男の目と香織の目が合った。

 助けてくれるのかも。そんな期待より先に、香織は恐怖を感じた。

 香織が声をかけるまで、男は無表情で死人のような目をしていたのだ。今、香織を見つめる男の瞳は凄まじい意志の光を湛えていた。それは狂気に似ていた。男の周囲の空気がギリギリと張り詰めていき、香織には空間が歪んでいるように見えた。見知らぬ女の一声で、何故、ここまで変貌するのか。香織は呼吸することも忘れていた。

 汚れたコートを着た男は、足早に香織に近づいてきた。

 嫌。来ないで。香織は思わずそう言ってしまいそうになった。男の瞳から視線を外すことも出来なかった。

「今、俺に言ったのか」

 香織の目を見据えたまま、男は聞いた。寂のある低い声だった。

 香織は答えられなかった。返事をすることが、恐るべき結果を招いてしまいそうな気がした。この男の雰囲気は異常だ。

 いや。結果は何も変わらないのではないか。香織がここで「そうです。助けて下さい」と答えたところで、殴られて顔を変形させたこの男が地面に転がるだけではないのか。或いは死体となって。彼らは容赦しないのだ。

「何だ、てめえは」

 刃物傷の男が胡散臭そうにコートの男を睨んだ。

「おっさん、俺達のことを知らないのかい。正義の味方を気取ってると早死にするぜ」

 浅黒い肌の男が凄んでみせた。

 おっさんと呼ばれたコートの男は案外若い肌をしていた。彼は男達を無視して香織に問うた。

「俺に言ったのか。ひとまず君をこいつらから守ればいいのか」

 見えない圧力に押されるように、香織は、ゆっくりと頷いた。そのちょっとした動作がどんな結果を招くことになるのか、この時点の香織には想像も出来なかった。

「分かった」

 コートの男は言った。彼の瞳から激情は消え、冷たい静寂に変わっていた。

「何を勘違いしてる」

 細い目の男が左手でコートの男の胸を突いた。

 その瞬間、飛沫のようなものが撥ねた。

「お」

 細い目の男が、不思議なものを見るような顔で、自分の左腕を見た。

 左肘から先が、背広の袖と一緒に消えていた。肘の断面から断続的に血が溢れ出す。

 細い目の男が自分の胸元を見た。

 赤い塗料がベッタリと服にかかっていた。液体というより粘液に近い。横で見ていた香織には何なのか分からなかった。いや、無意識では理解していた。それが、皮膚と筋肉と血液と骨が溶けてドロドロに混ざり合ったものだということを。

「な、う、腕」

 細い目の男の目が丸くなった。

 コートの男には、一滴の返り血もついていなかった。

「お、おどれ」

「な何を……」

 香織の腕を掴んでいた二人が、慌てて動こうとした。

 動こうと、した。

 香織の顔から十センチと離れていないところにコートの男の顔があった。仰け反る暇もなかった。彼女には男の動きが見えなかった。途中の時間が抜き去られたような感じだった。コートの男の冷たい瞳が、香織の目を見据えていた。

 コートの男は両腕を横に広げていた。通行人達の引き攣った悲鳴が聞こえた。

 香織は、恐る恐る左右を見回して、男の両腕の先を確認した。

 そこには、香織の腕を掴んでいたパンチパーマの男と浅黒い肌の男の、丁度頭の部分がある筈であった。

 首から下の部分は、きちんと揃っていたが。

 首から上の部分は、綺麗に消失していた。

 コートの男の開かれた両手が、その位置で静止していた。

 両側を通り抜けようとしていた通行人達の顔に服に、血と肉の霧がかかっていた。彼らは腰を抜かして震えながら情けない悲鳴を上げた。

 コートの男の両手から、淡い煙が昇っていく。

 何が起こったのか。まるで男の手が触れただけで、男達の頭部が爆発したみたいだった。首を失った男達の体は、断面から血を噴き上げながら力なく崩れ落ちていく。

 香織は、目を閉じることも、その場にへたり込むことも出来なかった。ただその非日常的な光景に圧倒されていた。

 コートの男が瞬間移動した。

 刃物傷のあった男の体が、二つに分解した。頭頂から股間までが縦に裂けていた。血の霧が散る。男は血と内臓を撒きながら左右に倒れた。

 香織の目には、コートの男が右足を下ろすのが見えただけだった。彼は傷だらけのスニーカーを履いていた。

 おそらく、足で、蹴り上げたのだ。

 コートの男の姿がまた幻のように移動し、左腕を失った細い目の男の、残った右腕を掴んでいた。

 背広の内側に入っていた細い目の男の腕を、コートの男はゆっくり引いた。細い目の男の顔が苦痛に歪む。

 現れた右手は、拳銃を握っていた。

「ウゴーッ」

 細い目の男が吠えた。目に涙が滲んでいた。

 ボトリ、と、男の右腕が地面に落ちた。コートの男があっさり握り潰してちぎったのだ。

 拳銃を握ったままの腕を、コートの男が拾い上げた。

 そして投げた。モーションが重なった一つの残像になって見えるほどのスピードだった。

 二十メートル先の黒いベンツが爆発した。ガラスが割れ、頭に他人の腕が刺さって絶命した運転手の姿が炎の中に揺れていた。大型のベンツは停まっていた位置から僅かに進んでいた。一味である運転手は逃げようとしていたのだ。それを、コートの男は許さなかったのだ。

 両腕を失った細い目の男は、口から泡を吹きながら地面に膝をついた。

 コートの男は無表情にそれを見下ろしていた。

「お前達は何者だ。何故彼女を攫おうとした」

 感情の篭もらぬ声でコートの男が聞いた。

 細い目の男は泣いていた。両腕から血が流れ続けている。

「お、お前は一体……」

 コートの男は相手の左耳を軽く摘まみ、簡単に引きちぎった。

「質問しているのは俺だ」

 コートの男は飽くまで無表情だった。

「次は眼球を抉る」

 無造作に続けられる残忍な仕打ちを、香織はなんとか止めようと思った。だが彼女は動けなかった。

「わ、分かった。言うからやめてくれ」

 男の顔は青白くなっていた。地面に血溜りが広がっていく。

「俺達は、鬼道組の者だ。この市全体を仕切ってる。お、俺は、坂巻。助けてくれ」

 男は涎を垂らしながら言った。

「彼女とどういう関係がある」

 コートの男が質問を続ける。

 細い目の男・坂巻は、ちらりと香織の方を見た。

「こいつの父親は狭間源三といって、警察署長をしているんだ。これまでの署長はずっと鬼道組に頭を下げてきた。楯突く奴は殺してきたから、今じゃ市長だって俺達の言いなりさ。だが、狭間は二ヶ月前に就任したばかりのくせに、俺達に逆らった」

 香織も知っている内容だった。

「シャブの取り引き場所をガサ入れして組員を逮捕しやがったし、親父の釈放要求にも応じなかった。四日前の銃撃戦では組員を二人射殺した。警官共はびびってたのに狭間が強行しやがったんだ。『悪党は一人残らずブタ箱にぶち込んでやる』と奴はテレビでほざきやがった。だから俺達もそれなりのお返しをすることにしたんだ」

「彼女を攫ってどうするつもりだった」

 坂巻が答えに詰まっていると、ジョポンと音がして右の眼球が飛び出してきた。コートの男の動きは見えなかった。地面を転がる眼球には太い視神経がくっついていた。

「アイイイイッ。言う、言う」

 坂巻は泣き喚いた。血の流れる右の眼窩を押さえようとするが既に手はない。黒い威厳は完全に消し飛んでいた。

「娘を人質に取って、狭間には辞職させ、テレビで土下座でもさせるつもりだった。狭間が応じようが応じまいが、娘は犯しまくった後でバラバラにして自宅に送りつけてやる。これまで最高で百五十分割までしたことがあるんだぜ。その後で狭間自身を殺る。逆らった見せしめに、飛びきり残酷な方法でな」

 ククク、と坂巻は笑い出した。発狂しかけているのかも知れない。

「鬼道組と言ったな。組員は何人いる」

 コートの男が聞いた。

「百二十人はいる。お、俺達にこんな真似をして、ただで済むと思うなよ。お前も終わりだ。組員が続々とこの街に集まってくるぞ。お前を殺しにな。それに、お前が幾ら強くても、円さんには敵わねえよ。絶対にな」

 引き攣った笑みを浮かべて坂巻が叫んだ。やけくその強気だった。

 コートの男の表情が動いた。

「まどか、とは何者だ」

「うちの組の用心棒さ。あの人には軍隊だって敵わねえ。反目の事務所に正面から乗り込んで、二十人以上を皆殺しにしてのけるような人さ。ナイフ一本でな。拳銃の弾だってよけちまう。お前はもう、絶対に逃げられないぞ」

「そうか」

 コートの男は素っ気なく言った。

 香織は直感した。コートの男が、坂巻に止めを刺そうとしている。

「や……」

 それだけを言うのに、かなりの勇気と努力を要した。

 コートの男が振り向いた。冷たい視線が香織を射た。

「や、やめて」

 やっとのことで、香織はその言葉を吐き出した。残酷な場面はもう見たくなかった。

 コートの男は答えた。

「断る」

 その右腕が霞み、坂巻の頭部が赤い霧になって散った。

 緊張の糸が切れ、香織は地面に尻餅をついた。

 目の前に、コートの男が立っていた。

「休める場所はあるか。歩けないなら俺が抱えていくが」

 コートの男は言った。

「ひ……ひどい」

 香織の目に涙が滲んできた。

「あの人は、両手もなくて、もう何も出来なかったわ。殺さなくてもいいじゃない」

「君は『助けて』と言った。俺は、それを全力で実行するだけだ」

 どれだけの経験を積めば、平然とそんな台詞が言えるようになるのだろうか。

「でも……」

 泣いている香織を、コートの男は軽々と抱え上げた。

「君の名前は。依頼人の名前くらいは知っておきたい」

 コートの男が尋ねた。

 歩き出す男の後方に、膝をついて呆然とこちらを眺めている、清水健一の血塗れの顔が見えた。

 さよなら。香織は心の中で呟いた。

 さよなら。これまで描いていた、幻の人生。

 香織は、別の世界に足を踏み入れたことを自覚した。

「狭間……香織です」

「俺はキルマだ」

 男は言った。

 

 

  三

 

 『鬼道総合建設』とある十二階建てのビルの玄関を二人の男がくぐった。

 先を歩くのは逞しい体格をした隙のない男で、もう一人は大欠伸をしながらついていく。

 欠伸をした男は白いスーツを着ていた。男は高級ブランドの黒と白の色彩で占められていた。手入れされた髪が光る。

 男の目は、常人の五割増しくらいに大きかった。その丸い目が素早く建物の内部を見回している。

 広いホールには五十人以上が待機していた。いずれも凶暴な匂いを放つ男達であった。服の上から見える左脇の膨らみや、テーブルの上に並べられた日本刀が彼らの役割を物語っていた。男達の殺気立った視線が白いスーツの男に向けられると、それはたちまち畏怖に変わった。

「円さん」

 中堅らしい男が声をかけてきて、白いスーツの男・円は微笑した。

「おやおや、これからお祭りでもやらかそうって感じだな」

「今夜中に百人揃います。事の次第は携帯でお聞きと思いますが」

「ああ、知ってるよ」

 円は楽しそうに答えた。歌でも歌い出しかねない様子だった。

「今、地下室で尋問をやっています。親父さんもそこにいらっしゃいます」

「分かった」

 円は微笑を絶やさなかった。

 広間を抜け、円と一緒に歩いていた神崎が先回りしてエレベーターのボタンを押した。円の細かい世話をするのが彼の役目であるらしかった。

 神崎は地下三階のボタンを押した。小型の監視カメラがエレベーター内を覗いている。

 円が煙草を取り出すと、すぐ神崎がライターを捧げて火を点けた。

 ゆっくりと紫煙を吐き出した頃、エレベーターの扉が開いた。

 地下三階のフロアに足を踏み出すと、入り口付近に待機していた男達が円に頭を下げた。

 殺風景な廊下を進むと鉄製の扉が待っていた。

 前に立つ男が、扉を開けた。

 コンクリートが剥き出しの、がらんとした部屋だった。床には赤い染みが点々と残っている。隅の方では天井から何本か鎖が下がっていた。

 ここは、拷問室であった。

 部屋には数人の男達がいた。膝をついた一人の男に、二人の男が暴行を加えていた。

 殴られて泣いているのは、清水健一であった。彼の顔は紫色に膨れ上がっていた。

「おう、円、来たか」

 少し離れた場所で眺めていた男が円達に気づいた。男は五十代の、不健康な肌の色をした男だった。禿げ上がった頭が鈍い光沢を放っているが、そのことを笑う者は五秒以内に死ぬことになる。

 男は鬼道組の組長・鬼島剛であった。

「どうですか」

 鬼島の隣に立ち、円が聞いた。

「サツが来る前に回収出来た目撃者はこいつだけだ。他の奴らは逃げてしまっていた。こいつは最初から最後まで、そばで見ていたようだが、どうも訳が分からん」

 鬼島は腹立たしげに首を振った。

「どんなふうにです」

 逆に円はワクワクしているようだった。

「……。浮浪者みたいななりをした男が、うちの若い衆を皆殺しにして、女を連れていったという。そこまではいい。だが、こいつは、その男が素手だったと言うのだ。若い衆の頭が跡形もなく吹っ飛んで、一人などは頭から股間まで真っ二つにされている。素手でこんな事が出来る筈はない。おそらく爆薬か何かを隠し持っていたのだろうが……」

「そうとも限りませんよ」

 円はそう言うと、清水の前に進み出た。

「ひっ」

 怯えきった清水が反射的に後じさる。彼の大事な歯は殆どが折れてしまっていた。

 男達が、殴る手を止めた。

「ちょっといいかい。二、三、聞きたいことがあるんだが」

 円は言った。

「その浮浪者みたいな男というのは、髪を後ろに束ねてて、薄汚れたコートを着ていたかい。荷物はなしで、背丈は……そうだな、俺くらいの」

 円の身長は百八十センチ以上あった。

「しょ、しょうです」

 残った歯の隙間から息を洩らしながら、清水は答えた。

「そいつは何も武器を持ってなかったそうだが」

「ふぁい。しゅ、素手でした。よく見えなかった、けど、手が、触れて、頭が、ポンッて」

 清水は鼻水を垂れ流して泣いていた。自分の置かれた状況が信じられないのだろう。

「ふうん」

 円は煙草を捨てて靴で踏み消すと、握手でもするかのように、右手を清水の目の前に差し出した。

「手を出してみな」

 円は微笑しながら言った。

 清水は戸惑いながらも、円の笑顔に引き込まれるように、おずおずと右手を差し出した。

 円がその手を握った。

「ウ……ウギャアアアアアアッ」

 清水が目を剥いて、獣じみた悲鳴を上げた。

 円の手が、握手というものの限界を超えるほど深く、清水の手に食い込んでいた。血が滴り落ちていく。

 血と一緒に、別のものが落ちた。

 四本の指がついた、清水の手の甲の、半ばから先の部分だった。

「アイイイイイイイイイッ」

 清水が、親指だけになった自分の右手を押さえて床を転げ回った。

「凄い握力だな」

 鬼島が感心して言った。

「握力ではありませんよ。我力です」

 円は耳慣れない言葉を口にした。

 落ちた清水の手は、刃物で切られたようななめらかな断面を見せていた。

「それから、もう一つ聞きたいことがあるんだが。答えられるかな」

 転げ回る清水の腹を円は軽く蹴った。清水が口をパクパクさせた。顔が血の気を失っていく。

 内臓が破裂したのだろう。

「その男は自分の名前を言ったかな。覚えているなら教えてくれよ」

 清水の髪を掴んで引き起こし、円は聞いた。

 顔を苦痛に歪めながら、やっとのことで清水は答えた。

「キ……キルマ」

 口から鮮血が溢れ出した。

 清水の言葉を聞いて、円の顔が変わった。

 最初は驚愕に、そして、次第に唇が笑みを深めていく。口が裂けそうなほどに。

 その悪魔的な笑みに、円を見慣れている筈の鬼島達も身震いしていた。

「そうか、そうか。あいつがキルマだったのか」

「知っているのか」

 鬼島が聞いた。

「俺の世界ではなかなか有名な男ですよ。一度手合わせしたいと思っていた」

 彼の世界とは、どういう世界なのか。

「かなり、とんでもない奴のようだが。勝てるのか」

 鬼島が遠慮がちに尋ねた。

 円は怒らなかった。

「さて、ね。ただ、言っときますけどね」

 円はスーツの内側に右手を入れた。

 取り出したのは、刃渡り十五センチほどのナイフだった。円がこの数年愛用しているそれは、輪切りにした皮を重ねたレザー・ワッシャーの柄に、光の反射を防ぐために特殊処理された刃を持っていた。

 円は、清水の髪から左手を放した。

 清水には抗う力は残っていなかった。彼はただ虚ろな目で何か言いかけた。

「ぼ」

 それが清水の最期の言葉になった。

 ナイフを握った円の右手が霞んだ。円の目は更に大きく開かれていた。世界の本質を見極めようとするかのように。

 ドーンという轟音と共に、部屋にいた全員が凄まじい風圧を感じてよろめいた。建物全体が細かく振動する。

 清水の頭部が消失していた。

 赤とピンクの色彩が、向こうの壁全体に散っていた。

 それは、清水の皮膚と肉、骨と脳の破片だった。近くでよく観察すれば、一つ一つがサイコロのような形状でなめらかな断面を見せていることに気づく筈だ。尤も、壁にぶつかった時点で大方潰れていたが。

 男達は息を呑んで、壁の前衛絵画を見つめていた。さっきまで清水をぶちのめしていた男の一人が胃の内容物を床に吐いた。

 円は、清水の頭を、一瞬のうちにナイフで細切れにしてのけたのだ。何百回ナイフを往復させたのか、破片それぞれの大きさは一センチ程度だった。

 男達の感じた風圧と振動は、円の腕が超高速で動いたことによる衝撃波であった。

「頭を吹っ飛ばす程度のことなら、俺にも出来るんですよ」

 あっさりと円は言った。

 首の断面から血を噴き上げながら、清水の胴体は、ゆっくりと床に倒れていった。

 鬼島の膝は震えていた。嫌悪と恐怖を無理矢理押し殺し、彼は命じた。

「じゃあ、そ、そのキルマというのを始末しろ。うちの組に逆らったらどうなるか、思い知らせてやる」

 円は微笑しつつ答えた。

「キルマの方は俺の事情です。きちんと決着はつける。女の方はどうしますか」

 言われて初めて、鬼島は思い出したようだった。

「そうだな。狭間の娘は連れてこい。関わったのが運の尽きだ。生皮を剥ぎ取って脳味噌をぶち撒けてやる」

「連れてくればいいんですね」

 円が念を押した。珍しいことだった。

「ああ、そうだ」

 深く考えずに鬼島は答えた。

「では鉄砲玉を十人ばかり貸して下さい。考えがあります」

 円はナイフを鞘に収めながら言った。刃に血は一滴もついていなかった。

 

 

  四

 

 何故、私はここにいるのだろうか。自分の部屋を眺めながら狭間香織は考えていた。

 大学が決まった時に自分で選んだマンション。大学は実家と同じ市内にあるのにわざわざ一人暮らしを決めたのは、堅物で仕事一徹の父親に対する反抗でもあった。ワンルームだが十畳の広さがある。

 薔薇色の大学生活を包んでくれたこの城が、今は空虚なものとして香織の目には映っていた。

 部屋に立つ一人の男が、彼女が別の世界にいることを示していた。

 よれよれのジーンズとTシャツに、薄汚れたコートを羽織った男は、キルマであった。

 彼が最初に話したのは契約のことであった。

「正式に契約を結んでおきたい」

「契約って……あの、幾らですか」

 この男はボディガードを生業としているのだろうか。私を助けたのもそのためだったのか。ちょっとがっかりしながらも香織は尋ねた。

「報酬については後でいい。まずは俺が何処まで求められているかを確認したい。君は『助けて』と言ったが、それは鬼道組から君を守ることと判断していいか」

「え……は、はい」

「対象は鬼道組の構成員に限定していいのか。もし鬼道組が別の組織に依頼して君を狙うなどした場合、その組織から君を守る必要はあるか」

 香織はキルマの質問に違和感を覚えながらも頷いた。

「そうですね」

「ならば、依頼の内容は総合的な君の生命と肉体の保護となる訳だな。ただし、君が自分の意志で自傷したり自殺を図った場合は除く。また、精神的ダメージについては責任を持てない。それでいいか」

 キルマは飽くまで生真面目な顔で問うた。

「……はい」

「そうなれば期限を設ける必要がある。一生君を護衛する訳にも行かないからな。君の依頼は元々鬼道組に関するものだから、ひとまず契約期間は一年でいいか。更新するかどうかは期限が来てから決める」

 一年というのはえらく長いような気がしたが、香織は承諾した。

「はい」

「俺は契約を果たすために全力を尽くすつもりだが、果たせない可能性もある。その場合は報酬は要らない。だから報酬については後払いとするがそれでいいか」

 果たせない場合というのは、香織が殺された場合のことだ。

「はい。それで、報酬は幾ら払えばいいんですか」

「幾ら出せる」

 逆にキルマは聞いてきた。

「多分、父に事情を説明すれば、百万くらいは出してくれると思います。でも一年となると……」

「それは君の父親の金であって君のものではない。それに、金額の多寡に興味はない」

 香織には、キルマが何を求めているのか分からなかった。

 少し考えてから、キルマは言った。

「もし契約を果たせたなら、一言でいい、君の口から感謝の言葉が欲しい。多分、今の俺に必要なのはそれだけだ」

「は、はあ。でも、それだけで、いいんですか」

「いい。ならこれで契約成立だ」

 これは何なのだろう。どういうやり取りなのだろう。香織には分からなかった。

「結局は、善意で助けてくれるんですね。とても細かいことまで決めて」

「善意ではない。俺自身のためだ。細かい取り決めをするのは、契約の不備で色々と失敗してきたからだ」

 キルマは僅かに皮肉めいた微笑を浮かべた。彼が表情を変えたのはその時だけだった。

 香織は父親のいる警察署に行くことを希望したが、キルマは拒否した。

「無駄に死体が増えるだけだ」

 キルマは冷たく告げた。

「俺は円という男を見た。奴は俺の同類だ。百人の警察官が君を護衛したところで同じことだ。俺にとっては逆に足手纏いになるし、混乱した警官が銃を乱射して君を傷つけるかも知れない」

 その結果が何故、彼女の部屋になるのか。

「すぐ彼らに見つかってしまうわ」

「それがいい。手っ取り早く勝負をつけられる」

 キルマは答えた。

 鬼道組には百人以上の組員がいるのよ。香織はそう言おうとしたが黙っていた。

 この男は、相手が千人でも構わないと言うだろう。そんな気がした。

 結果として香織は今、ここにいる。

 既に日は沈み、夜が訪れていた。キルマは窓の外を少しの間観察し、カーテンを閉めた。香織のマンションは四階にある。

「シャワーを借りていいか。出来るだけ臭気を減らしておきたい」

 キルマが言った。

 香織は黙って頷いた。その時になって彼女は、この汚い身なりの男から匂いがしないことに気づいた。

「警察に電話するのはやめておけ。父親が大事と思うのなら、関わらせないことだ」

 キルマは忠告してから浴室に消えた。

 香織は部屋に一人残された。浴室のシャワーの音が微かに聞こえていた。

 彼女は壁際のベッドに腰を下ろした。お気に入りのピンク色の毛布の感触も、壁に張ったアイドルのポスターも、昨日までとは違って白々しいものに感じられた。

 彼は何者だろう。香織は考える。名前は外国人みたいだけど肌の色も髪も日本人だ。いや、顔立ちは西洋人っぽいかも。そもそも素手で人の頭を破裂させたり腕をちぎったりして、あれは超能力なのだろうか。

 キルマは、私にとっての白馬の騎士なのだろうか。

 もしそうだとすれば、押し売りの、とんでもない残忍な騎士だ。

 いや、そうじゃない。

 彼に助けを求めたのは、香織自身なのだ。

 白い電話機は台の上にある。

 警察署にはまだ父がいる筈だった。この不吉な男より、警察に保護してもらう方が遥かに現実的に思えた。現実の状況自体が既に異常だということから香織は目を逸らそうとしていた。

 キルマは今、シャワーを浴びている。気づく筈がない。

 香織は慎重に受話器を取り、耳に当てた。繋がっていることを示す単調な音が聞こえていた。

 彼女は一のボタンを押した。

 受話器から、何も聞こえなくなった。

 香織は受話器を見直した。

 電話機と受話器を繋ぐ螺旋状のコードが、途中で切断されていた。

 そばの壁に、小さな円形の物体がめり込んでいた。丁度、浴室と電話機を結ぶ延長線上であった。

 それは、十円硬貨だった。

「俺の全財産だ」

 シャワーの音がやみ、キルマの声がした。

 浴室から現れたキルマは、バスタオルを腰に巻いただけの姿だった。

「悪いな。壁に穴を開けてしまった」

 キルマが浴室の裏側にあたる壁を指差した。

 そこに細長い穴が出来ていた。

 彼は、浴室から硬貨を投げたのだ。壁を突き抜け、電話のコードを切断し、反対側の壁にめり込んだのだ。

 だが香織はそんなことより、キルマの変貌ぶりに目を奪われていた。

 キルマは洗った髪をどうやってか短く切っていた。今は前髪が軽く眉にかかる程度だ。髭を剃った顔を見て、香織はキルマが意外に若いことを知った。引き締まった頬に整った目鼻立ちは冷たい美貌を形作っている。鋭く光る目と真一文字に引き結ばれた唇が、幾多の修羅場を越えた者だけが持つ厳しさを感じさせた。

 彼は鋼のような肉体を持っていた。筋肉が極端に厚い訳ではないが無駄な部分がなく、一つの目的のためだけに徹底的に絞り込まれたような不気味な密度と迫力を備えていた。キルマの体には幾つか傷痕があった。銃創のような小さな傷と、刃物によると思われる細長い傷。そのうち最も目立つものは、キルマの左肩から右脇腹にかけて走る、紫色の傷痕だった。今にも血が滲み出しそうな生々しさがある。

 香織は急に、同じ部屋にいるこの男が、年齢の近い異性であることを意識した。動揺を隠すように彼女は別のことを聞いた。

「ど……どうして」

 どうして電話線を切ったの。そう聞いたつもりだった。

 キルマは質問を理解していた。

「俺が引き受けたのは君を守ることだけだ。君の関係者まで守れるかどうかは分からない。だから今は、大切に思う人は遠ざけていた方がいい。自分だけ生き残っても虚しいだけだ」

「そうかも知れないけど、ちょっと余計なお世話じゃない。どうしてそこまで気を遣ってくれるの。私の精神的ダメージは責任持てないってさっき言ってたでしょ」

 キルマの強引さに少し腹が立っていた。

「これはサービスだ」

 キルマは素っ気なく言った。香織は言葉に詰まった。このモヤモヤした感情は何なのだろうか。

「ところでここに俺の着られる服はあるか。着替えるものがない」

「……。ちょっと待って」

 香織はクローゼットを開け、男物の下着とズボン、カッターシャツを取り出した。きちんと洗濯して、アイロンもかけてある。

 それは、清水健一のものであった。

「すまん」

 キルマは受け取って浴室へ戻っていく。

 その背にある傷に、香織は目を瞠った。

 左肩から右脇腹にかけて、背中を紫色の刀傷が通っていた。

 キルマの胸に見えていた斜めの傷と、完全に一致するものだった。

「その傷……」

「これのことか」

 キルマは振り向いて、自分の長い傷痕を指差した。

「古い傷だ。今でも痛む。無理をすれば傷口が開くこともある」

「胸と背中にあるわ。まるで、輪切りにされたみたい」

「その通りだ。胴体が二つに分かれた」

 キルマは平然と答え、香織を唖然とさせた。

「え。でもあなたは生きてるわ」

「その時は死んだ。傷は、二万年前のものだ」

 キルマは浴室に消えた。

 香織にとって、キルマの存在全てが理解の外であった。

 一分後、清水の服を着たキルマが部屋に戻った。サイズも丁度良く、凛々しい青年会社員といっても悪くはなさそうだ。

 向かいの壁に背を預けて立つキルマに、香織は尋ねた。

「あなた……一体、何者なの。普通の人じゃないわよね。超能力者なの」

「俺はカイストだ」

 キルマは意味不明の言葉を告げただけだった。

 香織はベッドに腰を下ろし、この謎の男を見つめていた。

 キルマは瞬きもせずに、真っ直ぐ香織の目を見返していた。彼の瞳には強大な意志と、虚無があった。

「輪廻転生を信じられるか」

 唐突にキルマが聞いた。

「……。生まれ変わりとか前世とかのこと。分からないわ。そんな人に会ったことないし」

 香織は首を振った。

「普通、一般人は前世のことなど覚えていない。死ぬたびに記憶は失われ、またゼロから新しい人生を歩んでいく。だが稀に、前世の記憶と能力を持ったまま転生を繰り返す者がいる。彼らは自分達のことをカイストと呼んでいる」

 キルマは淡々と呟くように語った。

「それがあなたなの」

「俺はその一人だし、おそらく円という男もそうだろう。俺はそうやって二百十億年を生きてきた。その間に何度生まれ変わったか、自分でも数えきれん」

 壮大な話に香織は圧倒されていた。二百十億年。ビッグ・バンが百五十億年前、人類の歴史は長く見積もっても百万年程度と聞く。二百十億年という年月はとても信じられるものではない。だが彼が異常な能力を持っていることは事実だし、嘘をついている目でもなかった。

「信じる信じないは君の勝手だ」

 キルマは黙り込んだ。立ったまま目を閉じて、動かなくなった。考え事をしているのか、それとも周囲の気配を探っているのだろうか。

「でも」

 少しして、香織はまた話しかけた。

「どうして、私を助けてくれたの」

 キルマは目を開けた。その瞳にあるのは巨大な虚無と、乾いた苦悩だった。

「俺には、目的がない」

 キルマは、ポツリと言った。

「昔は、俺は、強くなりたかった。だからカイストになった。無数の転生を繰り返し、修行を続けたのも、そのためだ。誰よりも強くなりたかった。世界を覆い尽くすほどにな。その思いは、今も残ってはいる」

 彼の目はここではない、何処か遠くを見つめていた。

「だが、この二百十億年の間に、俺は虚しくなってしまった。強いことにも、このまま生き続けることにも、俺はもう意味を見出せなくなった。俺は、目的もなく、ただ彷徨うだけの凶器だ。いずれこのまま朽ちていく、錆びた凶器だ。それに、君が意味を与えてくれた」

 香織は、キルマの真剣な視線を、まともに受け止めることが出来なかった。

「二百億年も生きて、私なんかを助けることに意味があるの」

「ある。君にとって意味があるのなら、俺にとっても意味はある」

 香織は気持ちの整理がつけられずにいた。信じられない思いと、これは真実だという実感、不安、同時に嬉しいような気持ち。この男に対して自分が抱いているのは、薄気味悪さなのか、それとも、憐憫、なのか。

「窓から離れろ」

 キルマが告げた。

 我に返った香織が慌てて脇へよけると、キルマは窓へと歩いた。

「壁際にいろ。そろそろ来る」

 キルマの口調に緊張はなかった。

 ビシッ、と、短い音がした。

 いつの間にかキルマは右手を胸の近くに上げていた。親指と人差し指の間に何かを摘まんでいる。

 煙を上げるそれは、細長い銃弾だった。

 香織は息を呑んだ。

 カーテンに小さな焦げ穴が開いていた。おそらく窓ガラスも割れているだろう。

「狙撃された。二百メートル先のビルからだ」

 飛来する弾丸を指で捕らえた男は言った。彼は壁の十円硬貨を引き抜いた。

「ドアの近くにも来ている。一秒待て」

 告げた後、キルマの姿が消えた。

 その一瞬に何が起こったのか、香織には理解出来なかった。

 強い風圧で前に飛ばされそうになる香織の腰を、背後から誰かが引き止めた。同時に轟音。すぐ近くで爆発が起こったような、凄い音だった。彼女の前にキルマの顔があった。怒りと悔恨の形相。部屋中の家具が揺れていた。

「大したもんだ。狙撃手も含めて十四人、一秒もかけずに皆殺しとはな。それにしても髭を剃って男前になったじゃないか」

 香織のすぐ後ろから男の声がした。面白がっているような声音だった。

 マンションのドアが破れ、丁度人が通れるくらいの穴が空いていた。その向こうの通路に血塗れの腕が転がっていた。キルマ自らドアを破って飛び出し、突入しようとした男達を殺戮したということか。

 キルマは十円硬貨を持っていなかった。後になって知ったことだが、ここからかなり離れた八階建てのビルの屋上に、ライフルを持った男の死体が転がっていた。その男の額から後頭部に抜ける、何か小さく平たいものが通った痕があったという。

「迂闊だった。ここまで近づいていたとはな」

 呻くようにキルマが言った。

 その時やっと、香織は自分が捕らえられていることを知った。背後の男は左腕を彼女の腰に巻いていた。首筋に冷たい感触があった。男の右手に握られたナイフであった。

 香織は慎重に振り向いた。

 すぐそこに、異常に大きな目をした男の顔があった。

「よう、お嬢さん。攫いに来たよ」

 唇を歪めて男は言った。

 男の背後の壁は崩れ、隣の部屋と繋がってしまっていた。こんなに色々壊して、私が弁償しなくちゃいけないのかしら。香織の頭におよそ場違いな考えが浮かんでいた。

 隣の部屋に潜んでいた男は、キルマが動いた隙に壁を破って香織を捕らえたのだ。キルマの人間離れしたスピードに劣らない動きで。

「自己紹介しとこう。俺はエン・ジハル。二千八百万才だ。ここでは円という通り名を使っている」

 男は優美な微笑を浮かべていた。

「蟻、か」

 キルマの呟きにエンが目を丸くした。

「ほう、よく知ってるな。流石はキルマ、伊達に二百億年を生きていないか」

「俺の名を知っていたか」

「ああ、知って益々やる気が出てきたね。確かにジハルは古代シスク語で『蟻』だ。俺が何処にでも入り込めるからついた名前さ。大したもんだろう。気にされずに相手に近づくのは得意でね。事を起こす瞬間にばれちまうが」

 エンは苦笑した。

「どうする気だ」

 瞳を光らせてキルマが聞いた。

 それは香織をどうするかという質問だった。彼女の首筋にはナイフの刃が当てられており、持ち主の考え一つで首が胴を離れることになる。危機的な状況にあっても、香織はそれほど恐怖を感じなかった。異常なものを見過ぎて感情が麻痺しているのかも知れない。

「女を守ることを約束したのだろう。ここで俺がナイフをちょいと動かせば、二百億年の信用がパーになるな」

「これまで全ての契約を果たせた訳ではない」

「だがあんたは契約履行に全力を注ぐ男だ」

 エンは口の両端を吊り上げ、悪魔的な笑みを見せた。

 キルマは黙っていた。異様な緊張感がこの場に満ちているのが香織にも分かった。エンが僅かでも隙を見せれば、飛ぶのはエン自身の首になるのだろう。

「ここで女の首を刎ねて話を終わらせるような、そんなつまらないことはしない。俺は、あんたと勝負がしたいのさ。どちらが強いかを決める、一対一の勝負だ。勝負には賭けるものがあった方がいい。この女をちょっと預からせてもらう。俺も義理があるんでな。だがその間、女の安全は保証する。勝負はその後だ」

「何処で待てばいい」

「今夜零時、街の中心の広場で会おう。すぐに分かる筈だ」

 エン・ジハルは不敵に告げた。

「いいだろう」

 キルマの視線がエンから香織に移った。

「心配するな。奴は約束を守る」

 キルマはそれだけ言った。

「じゃあ、連れていくぜ」

 エンは慣れた動作でナイフを懐に収めると、両手で香織の体を抱え上げた。丁度二時間前にキルマがしたように。キルマの実力を知りながらナイフを収めたのは、それだけ相手の言葉を信用しているのか。

 エンは跳躍した。

 窓から外へ。

 思わず香織はエンの首筋にしがみついた。二人は落ちなかった。エンの凄まじい筋力は、二人を隣のビルの屋上に運んでいた。

 一瞬、部屋の窓からこちらを睨むキルマの姿が見えた。

 エンは香織を抱えたまま悠々と跳躍を繰り返した。夜の街が足の下を流れていく。

「怖いか」

 空中でエン・ジハルが聞いた。

「ええ。でも……」

 香織は、何と続ければいいのか分からなかった。

 ただ、この男も、邪悪な感じはしなかった。異常な力を持ち平然と人を殺すキルマにも、それは共通することだった。

「付き合ってもらうぜ、お姫さんよ。今夜は殺し合いパーティーだ」

 エンは楽しげに言った。

 今夜は満月だということを、香織は夜空を見て知った。

 

 

  五

 

 二人は高いビルの前に立った。エンの足では五分もかからなかった。

 香織はこの建物を知っていた。よくテレビにも出てくる。

 つまりここは、鬼道組のビルだった。看板もある。

 エンは香織を降ろして言った。

「ここからは自分の足で歩きな。気をつけろ。あまり俺から離れると、安全が保証出来なくなる」

 それは、どういう意味で言ったのだろう。

 先に玄関を通るエンに、香織は大人しくついていった。エンの力を知っているからだ。

 広間には二、三人しか残っていなかった。

「おやおや」

 エンは呟いた。

 そのうちの一人、武道家みたいな雰囲気の男がエンを見て頭を下げた。

「円さん。親父さんは最上階でお待ちです」

 男の緊張した面持ちに何を感じたのか、エンは唇を軽く歪めた。

「分かった」

 男が先導してエレベーターに向かう。

 エレベーターに乗っている間、三人は無言だった。香織はキルマとエンの言葉を信じていたものの、敵地に入ったという実感は彼女の膝を萎えさせた。自分の心臓の鼓動が聞こえていた。

 それにしても男の様子がおかしかった。落ち着かず、何かを言い出したくて悩んでいるような。

「神崎、怖いか」

 唐突に、エンが聞いた。

 神崎と呼ばれた男がビクリと体を震わせた。額には汗が滲んでいる。

「逃げてもいいんだぜ。お前には色々世話を焼いてもらったからな」

「……円さん。すいません」

 神崎は深く頭を下げた。

 香織が後になって思い返してみると、この時点で、エンには分かっていたのだろう。

 十二階に到着し扉が開くと、香織の心臓は数瞬鼓動を止めた。

 フロア全体が一つの部屋になっていた。そこに百人近い男達がひしめいていた。彼らの殆どが日本刀や拳銃で武装していた。

 エンと香織がフロアに足を踏み出すと、エレベーターは神崎を残したまま閉まり、階下へと下りていった。

「円、どうだった」

 正面奥の机に組長の鬼島が待っていた。香織は彼の顔もテレビで知っていた。

「女を連れてきました」

 動けずにいる香織を軽く抱えて、エンは机の前で降ろした。そのまま香織は床に尻餅をついた。

「それで、キルマとかいう男はどうした」

 脂ぎった額を撫でながら鬼島が聞いた。

「もう心配要りませんよ」

 微妙な表現を、鬼島は良い方に解釈したようだった。ニッと醜い笑みを浮かべて彼は言った。

「そうか。じゃあ飲め。祝杯だ」

 鬼島がボトルのウイスキーをグラスにたっぷりと注いだ。手渡され、エンはそのまま全部飲み干した。鬼島の笑みが深まった。

 床に座ったまま香織は、周囲の男達が笑みを見せず、不気味な緊張感を保っていることに気づいた。

「それじゃあ娘は俺の寝室に連れていけ。処理するのはたっぷり楽しんでからだ」

 香織が身を固くした時、エンが微笑を絶やさずに口を出した。

「ちょっと待って下さい」

「何だ」

 鬼島は意外そうな顔をした。

「この女に触れることは俺が許しませんよ」

「何」

 鬼島が目を剥いた。男達は皆、黙っていた。

「女はこのまま連れて帰ります。約束がありますんでね。あんたは俺に、女を連れてこいとしか命令しなかったし、俺はそれを果たした」

 険しい表情のまま鬼島は黙り込んだ。その顔に、どす黒い怒りの色が満ちていく。

 と、それが残忍な笑みに変わった。

 突然、エンが口から吐いた。赤い血液を。

「お前はもう用済みだ」

 ヒヒヒ、と、鬼島は嫌な声で笑った。

「青酸カリ入りのウイスキーはどうだ。お前がいくら強かろうが、人を殺すには色んな手段があるんだよ」

 エンは苦しげに顔を歪め、床に片膝をついた。

「確かにお前には世話になった。たった三年で組がここまで大きくなったのもお前のお陰だ。だがな、お前は得体が知れなくて、強過ぎるんだよ。俺を怯えさせるほどにな。もう組は充分に大きくなったし、お前の力は必要ないんだよ」

「床に伏せていろ」

 香織の耳にエンの囁きが届いた。他の男達には聞こえていないようだった。彼女は指示に従った。

「殺せ」

 何人かが拳銃をエンに向けて発砲した。

 弾丸をよけると言われたエンは、膝をついたまま成すがままになっていた。

 だが、十数発の銃弾が撃ち込まれた頃、男達が情けない呻き声を洩らした。香織もやがてその異常さに気づいた。

 エンの体は銃で撃たれながら、衝撃で仰け反るどころか、微動だにしていないのだった。彼の白いスーツにも肌にも、何処にも穴は開いていない。

 エンのこめかみに、奇妙なものが生えていた。こめかみ以外にも体中にあった。

 それは、潰れた弾丸だった。エンの皮膚や服を、一ミリも凹ますことが出来ずに、十数個の弾丸はくっついているのだった。まるで、見えないバリアが張られているみたいに。

「こんなもんでいいだろう。依頼人による契約破棄だ」

 エンがすっくと立ち上がり、へばりついていた弾丸がパラパラと虚しく落ちた。

 どよめきが上がった。男達の多くは恐怖を露わにしていた。自分達が本当の化け物を相手にしたことを悟ったのだ。

「お、おお」

 鬼島が後じさろうとして、椅子ごと後ろに転んだ。

「残念だったな。通常の武器で俺の防壁を破ることは出来んよ」

 口元の血を白いハンカチで拭いながらエンは告げた。

「それに、毒物にも慣れちまった。これまで千回以上も飲まされてきたよ。ちなみに青酸カリで吐血はしないんだぜ」

 エンは苦笑した。血を吐いたのは演技だったのだ。

「こ、殺せ、殺せ」

 鬼島がヒステリックに叫んだ。

 だが、男達は逆の行動を選んだ。武器を捨てて我先にと逃げ始めたのだ。

 エンは余裕たっぷりに、懐から愛用のナイフを抜き出した。

「た、助けてくれ」

 鬼島は今度は土下座して、エンにすがりつこうとした。

 その首が宙を飛んだ。窓ガラスがビリビリと震えた。

「お姫さんよ、耳を塞いどけ。衝撃波で鼓膜が破れるぞ。サービスだ、後腐れがないようにこいつら全部片づけといてやる」

 はしゃぎ声でエンが叫んだ。香織は慌てて両耳を押さえた。

 殺戮は、数秒で終わった。

 その光景は、目を閉じて現実逃避するには圧倒的過ぎた。広い部屋に、バラバラになった人間の破片が散乱していた。エンの姿は流れる残像としてしか捉えられなかった。嬉々とした彼の顔が香織の目に焼きついた。逃げ惑う男達は竜巻にでも巻き込まれたように、あっという間に解体されていった。一人残らず。衝撃波で壁に亀裂が走り、窓ガラスは全て割れてしまっていた。

 ジンジンする耳から手を離し、香織は呆然と部屋を見回した。床全体が血で赤く染まっていた。

 数秒で百人を皆殺しにした男は、返り血一つ浴びずに香織の前に立っていた。

「こんなもんでいいかな、お姫さん」

 エン・ジハルは変わらぬ微笑を浮かべていた。

「ど……」

 どうして、ここまで。

 何なのだ。この人も。キルマも。

「大事な戦いに、余計な要素は入れたくないからな。俺とキルマ、そしてあんただけでいい」

 エンは言った。

「二人の男があんたを賭けて戦うのだから、あんたはお姫さんさ。そうでなければね」

 エンの瞳の真摯さに、香織は慄いていた。

 

 

  六

 

「そろそろいいだろう」

 純金製の腕時計を一瞥し、エン・ジハルが呟いた。時計の針は十一時五十五分を示していた。

 エンと香織は十字路の中心に立っていた。ここは都会ではない。繁華街でも夜中になれば車の通りは疎らになる。

 確かにここは、街の中心部だ。

 だが、広場ではない。

「お姫さん、ここから離れてろ。そうさな、その道を百歩くらい」

 エンは道の一つを指差した。街灯は少ないが、満月のせいで通りはよく見える。

 香織は言われた通りに歩いていった。既に逃げる気持ちはない。彼女を動かしているのは恐怖ではなく、好奇心でもなく、ある種の義務感であったのだろう。

「そう、その辺でいい」

 香織は立ち止まって振り向いた。

 エンは屈み込み、地面に両手をついていた。

 香織は足の下に不気味な振動を感じた。重く軋む音が前方から聞こえてくる。

 エンを中心にして、アスファルトの地面に放射状の亀裂が生じた。見る間に周囲に伸びていく。

 地面が、回転を始めた。

 それは直径百メートル以上に及ぶ、巨大な渦だった。割れて浮き上がったアスファルトの破片が、駐車していた軽トラックが、そして立ち並ぶビルが巻き込まれ、中心へ向かって流れていく。

 それは、破滅的な光景だった。幾つもの建物が土台ごと傾きながら、水のような土の渦に沈んでいった。中には無関係な一般人がどれだけいたことだろう。悲鳴さえも呑み込んで、範囲内にあったあらゆるものが渦の中へと消えていく。巨大な渦の縁が、丁度香織の足元で終わっていた。彼女の前で陥没したアスファルトの先に、緩やかに中心に向け傾斜する茶色の空き地が広がっていた。渦の中心にいるエン・ジハルは既に立ち上がっていた。彼の口元に浮かぶ微笑が見えた。

「来たか」

 エンは言った。大きな声ではなかったが、香織の耳にも届いた。

 彼の視線を左に追い、香織は渦の縁に立つキルマの姿を認めた。

 今が、零時であった。

 キルマは、清水のカッターシャツとズボンのままだった。傷だらけのスニーカーは自前のものだ。戦士には不釣り合いな服装だった。エンの白いスーツも同様だが。

「キルマ」

 香織はその名を呼んだ。

 キルマは香織の方を見て、軽く頷いた。

 全てを呑み尽くした土の渦は、今も緩い回転を続けていた。その中に、キルマは躊躇なく足を踏み入れた。キルマの体は沈まなかった。彼は特に急ぐふうもなく、だが常人より遥かに速い歩みでエンの方へと近づいていった。

「面白い力を持っているな」

 キルマが言った。ナイフを抜きながらエンが答える。

「急いでるから使えそうなものは色々習得した。ちなみに隠形の術は『鋼のディンゴ』に習ったんだぜ」

 キルマの表情が動いた。懐かしい記憶に触れたかのように。

「お前はオアシス会か」

「いや、俺はフリーだ。急いでると言ったろう。俺は早く強くなりたいんだ」

 エンの大きな目がギラついていた。遥か先を目指して進む者の、強い意志力を湛えた瞳。彼は続けた。

「渦の流れは後五分ほど続く。埋葬する手間が省けていいだろう」

「なるほど。それだけあれば片はつくな」

 キルマが応じた。

 エンから十メートルほど離れた地点で、キルマは止まった。足元の地面は動いているが、その上のキルマは静止していた。見えない足場に立っているみたいだった。

 エンは渦の中心から動かずにいた。ナイフを握っていてもまだ構えは取っていない。尤も構えなど、彼ほどの者には必要ないのかも知れない。

 対峙する二人の魔人を、香織は黙って見守っていた。

「実はな、この街は俺だけの支配域なのさ。この間、委員会のためにちょっと働いてやったからな、その報酬という訳だ。ある程度までなら好き勝手やっても委員会の仕置きを受けることはない」

 エンの愛用のナイフ。黒塗りのブレードは夜には目立たない。

「俺が勝てば、女を殺すぜ」

 エンが、静かに告げた。

 キルマは何も言わなかった。沈黙は肯定に等しかった。

「そろそろ始めるか」

 エンが背を軽く丸め、ナイフを胸の前に翳した。刃に触れた空気が断ち切られていくような、不気味な迫力がその構えにはあった。

「剣は使わないのか、剣士キルマ」

「剣はない。最近は素手でやっている」

 キルマは無造作に両腕を上げた。これも胸の前に。緩く開かれた両手は見えない何かを撫でるようだった。力の入っていない、柔らかな構え。

「俺にハンデをくれるってのかい」

「安心しろ、ハンデをやるつもりはない」

 回転する戦場の外で見守る香織は、二人の周囲の空気が重くなっていくのを感じた。二人の表情は変わらなかったが、香織は見ているだけで息苦しくなってくる。勝負の結果次第で自分の命がなくなることを別にしても。

 ふ、と、エン・ジハルが笑みを見せた。酔ったような笑みを。

「なあおい、感じないか。周りの景色がどんどん遠くなっていって、俺とお前だけになるような感覚さ。世界が、俺達だけのために存在しているような気分になる。どうだ、お前も感じるだろ」

 キルマは答えた。虚無の瞳で。

「それは錯覚だ」

 その一言で、エンの表情が消えた。口を引き結び、少し顔を俯かせて、大きな目が上目遣いにキルマを睨む。

 両者の姿が霞んだ。

 次の瞬間轟音と風圧を感じ、香織は目を閉じてよろめいた。エンが超高速で動いた際に生じる衝撃波だ。

 目を開けた時には、再び動かない二人の姿があった。

 キルマのカッターシャツが、斜めに裂けていた。肉は切られなかったらしく、血は見えない。

 エンの左頬に、四筋の浅い傷が生じていた。滲み出した血が頬を流れ、エンは舌でそれを舐め取った。

 エンは、恐怖と期待の入り混じった、ゾッとするような笑みを浮かべた。

 

 

 キルマは相対した男を冷静に観察していた。

 大きな目は対象をよく捉えるために発達したものだろう。その反面、視覚情報に頼り過ぎて視界外からの攻撃には鈍感な可能性がある。武器はナイフだが、大地の動きを制御したところを見ても、相手の能力を限定すべきではない。

 キルマは香織の視線を感じていたが、戦いの最中に敵から目を離すことはしない。彼女が、行きずりの放浪者である自分の身を案じていることは分かっている。今のうちに逃げてくれればいい、と、キルマは思う。もしキルマが敗れれば、彼女は死ぬことになるのだ。エンが香織を殺したところで何の得もないが、カイストは、言ったことを必ず実行する。それほどの覚悟がなければ、到底この長い道程を歩める筈がない。だが逃げたところで無駄だろう。エンは地獄の果てまでも追っていく。常人に止められるものではない。

 故に、キルマは、勝たなければならなかった。

 キルマの脳裏に古いイメージが浮かぶ。

 荒野。血塗れの女を抱えて泣いている若者の姿。若者自身も傷だらけだ。

 女は、死んでいた。

 若者は、泣きながら叫んでいる。

「俺が弱いから、彼女を守れなかった。俺が弱いから」

 女は、若者の恋人だった。

 若者は、二百十億年前のキルマ自身だった。

 最愛の恋人の名は、何といっただろうか。記憶構造がまだしっかりしていなかった出立期。大事なことなのに、どうしても思い出せない。いや、思い出したところでどうなるというのか。

 感傷は、千分の一秒にも満たなかった。

 

 

 エン・ジハルは戦慄しつつ、歓喜に打ち震えていた。逃げ出したくなる気持ちを彼は強大な意志の力で押さえつけた。

 軽く前に突き出されたキルマの両手が、薄闇の中で淡い光を帯びている。指先になるほど輝きが強い。それはエンが自分のナイフに乗せているのと同じ、我力と呼ばれるカイスト特有の力だ。意志力で物理法則を無理矢理ねじ伏せる力。エンのナイフと同等以上の威力をキルマの指は発揮するだろう。

 元々は剣士として有名な男だったが。エンはキルマの伝説を振り返る。冷酷で優しいローンファイター。長い放浪の果てに今のスタイルに変化したらしいが、エンには疑問だった。強者への意志がある限りは、自分の戦闘スタイルを変えることはしない。一つの道を進み続けるのみだ。

 キルマがリタイアするのではないかという噂は、本当だったらしい。目的を見失った者、自分の存在意義に疑問を持った者、自分のスタイルを崩した者、そんな者達はあっという間にタイトロープから足を滑らせ落ちていく。そうやって、数百億年にもわたって修行を積んできた者達があっさり消えることはしばしばあるのだ。

 リタイアするなら勝手にするがいい。俺の踏み台になってもらうのみだ。エンは知らず強烈な笑みを浮かべていた。

 エンは、自分の原点を思い出す。

 二千八百万年前の自分の姿を。

 腐った森のそばにある小さな村。痩せた土地で作物は育たず、旅人の中継地点として宿を提供することでなんとか生計を立てている。時には無防備な旅人を襲うこともあった。

 村長の息子。十五の誕生日に新品のナイフを買ってもらったばかりの少年が、エンだった。

 その男は、雨上がりの湿っぽい日にやってきた。

 一晩の宿を頼む男を、村人達は格好の獲物と見た。一人で、丸腰で、しかも宿代を古い貴重な金貨で払ったからだ。

 だが、危険な辺境を旅するのに丸腰ということ自体、異常なことだったのだ。

 槍と猟銃で襲撃した十五人が、一瞬にしてズタズタの肉塊と化し、ぬかるんだ地面に転がっていた。

 酒場の窓から見物していたエン少年は、呆然とその光景を眺めていた。

 男の無感動な眼差しに射抜かれ、少年の体は凍りついた。自分の持っているナイフがえらく頼りないものに思えた。

 だが、旅人はそのまま踵を返して、何も言わずに立ち去った。

 少年の頬が、ビクビクと引き攣っていく。自分が恐怖しているのか、それとも笑っているのか、少年には分からなかった。

「馬鹿なことをしたものだ。『彼』に仕掛けるとは」

 近くのテーブルにいた別の旅人が呟いた。

 少年は振り向いた。

 その旅人は黒衣を纏っていた。この男も一人だったが、腰と背中に差した長剣の威圧感に、村の者も手を出し兼ねていた。軽く剣を振っただけで、数十メートル先の木の枝が切れて落ちたのを村人の一人が見ている。

「おっさん、あいつのことを知ってるのかい」

 少年は目を輝かせた。

「史上最強の男だよ。十四もの世界を消滅させた化け物だ。名前がないから『彼』と呼ばれているが、それで通用するのは奴が最強だからさ。六億年を生きた俺でさえ奴には近づかないようにしていたのに、一般人が敵う筈もない」

 数億年という言葉に、少年は興味を持った。史上最強。そそられる言葉だった。強烈に、少年は悟った。自分が何を求めていたのかを。

「俺も強くなりたい。誰よりも、あいつよりも。あんたも強いんだろ。俺を弟子にしてくれよ」

「フフン」

 旅人は笑った。

「ちょっとやそっとの覚悟では、この茨の道を進むことは出来んぞ。お前にそれだけの意志があるか」

「ある。強くなるためなら、どんなことだってやってみせる」

 答えた少年に、旅人は意外なことを言った。

「じゃあ俺を殺してみろ」

 少年は躊躇しなかった。すぐさま彼は渾身の力で、ナイフを男の喉に突き刺した。

 黒衣の旅人は頷いた。

「いいだろう。俺が道を示してやる」

 ナイフが男の喉からあっさり押し出された。刃には血がついていなかった。

 その夜、エン少年は父親である村長を刺殺した。黒衣の男は村人を皆殺しにした。エンは夜が明ける前に、最初の師となる男・ルトラガと共に旅立ったのだ。

 そして今、エン・ジハルとなった男は、まだ、道の途中にいる。

 エンはキルマの力に舌を巻いていた。流れるような無駄のない動きは美しかった。自分もこんなふうになりたい。吸い込まれそうな恐怖に抗してエンも動いた。咄嗟にナイフで斬り上げて応じなければエンの首は飛んでいただろう。初めての相手に対するにしては大胆な攻撃だった。それともまだまだ余力があるということか。

 キルマの動きには衝撃波は生じない。エンも空気の流れを制御する術を修行してきたがなかなかうまく行かなかった。高速で体を動かすと、追いやられ圧縮された空気が結果的に衝撃波を生むことになる。優雅でないし、護衛すべき依頼人を衝撃波に巻き込んで殺してしまったこともあるので、彼は苦心していた。

「洗練されてるな。俺みたいな成り上がり者とは違うって訳かい」

 エンは高周波の圧縮音声でキルマに話しかけた。喋る暇などこの先なくなってくる。

 キルマは黙っていた。

 永遠の戦いが、一瞬に凝縮される。

 

 

 衝撃波の嵐の中でエンの四百回目の攻撃が躱された。既に右手薬指と小指が破壊され、エンは三本の指だけでナイフを操っていた。直線的な素早い攻撃とフェイントを織り交ぜたトリッキーな攻撃、死角からの攻撃の全てを、必要最小限の動きでキルマは避けている。エンの攻撃を予め察知しているように。横殴りのナイフを身を沈めて躱したキルマの右足が、エンの足を狙って飛んだ。咄嗟に引いた左脛をキルマの足先が掠り、脛骨が二センチほど削り取られた。エンは舌打ちをしながら痛みに耐えた。ナイフをくぐって懐に飛び込もうとしたキルマが顔を仰け反らせた。その鼻先を黒い刃が掠めていく。エンは左手にもう一本のナイフを握っていた。細長い両刃のダガーだ。袖に隠していた奥の手も躱されエンは苦笑した。その左腕の袖が破れ、四筋の浅い傷がついていた。躱しざまに絡んだキルマの右手の仕業だった。もう少し深く踏み込んでいれば左腕を切断されていただろう。

 スピード自体は必ずしも劣っていない筈だとエンは思う。だがキルマの攻撃は的確で、少しずつエンの肉体を破壊していく。エンの攻撃はキルマに殆どダメージを与えていない。これがリタイア間近な戦士の攻撃か。これが二百億年の重みというものか。師匠のルトラガに勝ったのは五百八十万才の時だ。六十億才の戦士を倒したこともある。だがキルマの強さは彼らと次元が違っていた。エンの心が叫ぶ。勝ちたい。こいつに勝ちたい。

 キルマの体重が地面にかかっているならば、大地を操るエンの能力でキルマの体勢を崩すことも出来ただろう。だがキルマの足は地面に触れてはいるものの、その影響を受けてはいない。空間自体を足場にする高等技術だった。

 最高速度で動くだけの体力が、そろそろ底を尽く。追い詰められていく恐怖をエンは感じていた。しかしその恐怖を克服しなければエンに明日はないし、彼は実際に乗り越えてきた。心が萎えることは、死よりも恐ろしい。キルマは冷たい瞳でエンを見つめていた。動けぬ蛙にゆっくり近づいていく蛇のように。その時、エンはキルマの顔にあるものを認めた。

「キルマ、お前、笑ってるぜ」

 エンは圧縮音声で叫んだ。

 そう、キルマの顔に張りついた笑み。

 澄ました顔をしていたが、お前も楽しいんだな。お前も、自慢の牙で相手の牙を叩き折ることが、楽しくてしょうがないのだな。エンは何故か安心した。

 キルマの動きが一瞬迷いを見せた。

 僅かなチャンスを逃さず、エンは賭けに出た。残った体力を振り絞って飛び込むエンの脇腹を、横殴りにキルマの右手が襲う。決死の集中力で絶妙に動いたエンの左のダガーが、途中で軌道を修正したキルマの右手の、人差し指と中指を切断した。だが右手の進撃を防ぐことは出来ない。エンは左肘を曲げてキルマの右手を受けた。左肘が破裂した。すっ飛んでいく自分の左腕には目もくれず、エンは踏み込んでキルマの喉元へ向け右手のナイフを突き出した。キルマが上体を反らせて避けようとする。ナイフが更に追った。足先から手首までのあらゆる関節を限界以上に伸展させて実現した、普段のリーチより二段階長い必殺の突きであった。後ろに跳躍したキルマの首筋が血を噴いた。だがエンは顔をしかめた。キルマの頚動脈を切るには、ほんの二ミリほど、浅かったのだ。左腕を失ったエンへ、着地したキルマが容赦ないスピードで迫った。

 

 

 敗北を意識したエン・ジハルの脳裏に、ある光景が浮かぶ。

 燃える街。バラバラになった死体の山。女子供の死体もある。

 全て、エンが手にかけたものだ。

 首のない赤子を抱え、女が泣き叫んでいる。

「人でなし。どうしてそんな残酷なことが出来るの」

 標的はただ一人だった。だがその一人が誰に化けているのか分からない。この街にいることは間違いないだろう。エン・ジハルの名を出して引き受けた契約だ。仕損じて後退する訳には行かない。

「俺は急いでいる。立ち止まっている暇などない」

 俺の遥か先を、既に大勢の強者が歩いているのだから。

 エンはナイフを一閃させた。

 女の首が胴体から離れた。

 残った胴体が赤子を投げ捨てて跳んだのは次の瞬間だった。

 指先から伸びた鉤爪を躱してエンはナイフを振った。女の胴体は八つ裂きになって地面に落ちた。

 裂けた腹部から、血に塗れて不気味なものが這い出していく。紫色の触手を持った、軟体動物のような肉の塊。八つの眼球がエンを見上げていた。助けてくれと懇願するように。

 エンは微笑しながら標的にナイフを突き立てた。

 そう。立ち止まっている暇などないのだ。

 

 

 両者の距離が再び二メートルまで近づいた時、エンの顎が動くのをキルマは認めた。自分の歯を一本、噛み折ったようだ。何をするつもりだ。キルマは瞬時のうちにあらゆる可能性を考慮し、自分とエン、そして香織の位置関係に気づいた。しまった。エンが口から歯を吹いた。ライフル弾以上の精度と破壊力を持つエンの歯が飛んでいく。香織へ向かって。咄嗟に右手で叩き落とすキルマに致命的な隙が生じた。この時とばかりに魔性の速さでエンの体が踊る。横殴りの左手をエンは巧みに身を沈めてくぐり抜けた。沈み過ぎる。エンの足は渦巻く地面に膝までめり込んでいた。蹴り上げたキルマの左足を、エンのナイフが膝の高さで切断した。キルマは残った右足で後方へ跳んだ。そのまま体の大部分を地中に沈めたエンが、あの悪魔的な微笑を浮かべた。

 

 

 吹き荒れる強い風が、香織の目を叩く。

 彼女に出来ることはない。ただ、精一杯目を開いて、見えない戦いを見守るだけだ。

 不思議な気持ちだ。

 彼女の意志に関係なく、二人の男が彼女のために異次元の戦いを繰り広げている。

 いや、彼女のためというのはただの口実に過ぎない。彼らはただ、戦う理由が欲しかっただけなのではないか。

 香織は、ただ、独りで立ち尽くすだけだ。

 それでも。

 別の思いもある。

 二人の思惑がどうであれ、それでも二人は香織のために命を懸けているのだ。

 香織の一言が、全ての始まりだったのだから。

 時折、広場の中心から何かが飛んでいく。動体視力に優れた者が見れば、それがちぎれた指や腕であることが分かっただろう。

 一つの結果が、三十秒後に現れた。

 風がやみ、再び十メートルほどの距離を置いて、二人の男が立っていた。

 右の男は、左腕の肘から先を失ったエン・ジハル。

 左の男は、左足を失い片足で立つキルマ。

 どちらも傷口から出血しているが、勢いは強くない。

 香織には、片腕を失うよりも片足を失う方が重いダメージであることが分からない。キルマが彼女を守るために傷を負ったことを知らない。

「卑怯だと思うか」

 荒い息を整えながら、エンが聞いた。

 キルマの顔には苦痛も怒りもなかった。彼はそれを表に出そうとはしない。

「いいや。俺のミスだ。注意しておくべきだった」

「そう言ってくれると嬉しいぜ。遠慮なくお前を切り刻める」

 言い終えると、エンの姿が霞んだ。

 同時にキルマも動いたが、それは残像として香織の目にも見えるほどになっていた。

 

 

 キルマの頭に響く声がある。

 あれはいつのことだったか。

 いつという訳ではない。キルマは同じ過ちを、幾度となく繰り返してきたのだから。

「お前のせいで娘は死んだ」

 声は、そう言っている。

「お前が奴らの一人に情けをかけて逃がしたから、村は焼かれ、皆殺しにあった」

 キルマは弁明した。

「あれは幼い少女だった。俺にはとても殺すことは出来ない」

「だがそのせいで村は全滅したのだ。お前は村を守ることを誓ったではないか」

「しかし、俺には……」

「この嘘つきの、人殺しめ。地獄に落ちろ、地獄の炎に焼かれろ」

 これは遠い昔のことだ。それからキルマは方針を変えた。

「悪魔め」

 別の依頼人がキルマに言った。

「敵とはいえ、どうして女子供まで皆殺しにしなければいけなかったのだ。殺人鬼め」

 キルマは弁明した。

「依頼人であるお前を守るためだ。俺は契約を果たすために全力を尽くす」

「悪魔め」

 キルマが守り通した依頼人はキルマに唾を吐きかけた。

 次第にキルマは弁明しなくなった。彼は自分の信念に従い、契約を果たすため全力を尽くした。そのためには依頼人の手で殺されることも厭わなかった。キルマは自分の原点を見据え続ける。強くなりたかった。強くなって誰かを守りたかった。

 守った依頼人が笑いながら町を焼き討ちにして罪もない少女を串刺しにするのも見た。身寄りを全て失った依頼人が、キルマを恨むと言って自殺したのも見た。

 強いとはどういうことなのか。一体、自分は、何がしたかったのか。

 守るべき者も、倒すべき者も、所詮は同じだ。一般人の世界に自分の入る余地など何処にあるのか。

 それでも、キルマは同じことを繰り返してきた。自分の存在意義が何処かにある筈だと信じ。

 今、目的がある。

 自分が積み重ねてきたものを、役立てる機会がある。求められた役割がある。

 だから、今は、彼女を守るため、相手を倒すことに、全力を尽くすのみだ。

 

 

 キルマは空間自体を足場として移動することが出来る。それが真空の宇宙であっても。だからエンの渦巻く地面にも呑まれずに済むし、その気になれば宙を蹴って空を走ることも出来るのだ。だが、片足を失えば機動力は激減する。両手で空間を押して体の位置を動かすことも出来るが、その分攻撃が疎かになった。キルマの弱点を突くように、エンは慎重に、そして執拗に動いた。既にエンの目は勝利を確信している。エンのナイフがキルマのこめかみを掠った。いや実際には骨を抉り、脳皮質に切れ目も入れていった。キルマは眉一筋動かさずに耐えた。エンはしつこくキルマの背後に回ろうとする。キルマは左手で空間を押して体を回転させた。その左の肘を刃が通り抜けた。お返しだ、エンの大きな目がそう語っていた。キルマの左腕は皮一枚を残してほぼ完全に切断されていた。会心の攻撃に気を抜いたエンの一瞬の隙。キルマの右手が動いた。恐怖に顔を歪めつつ身を引いたエンの脇腹を、キルマの指が削り取る。腹壁を破り内臓まで達したが、致命傷ではない。片足のせいで踏み込みが不足している。逆に、浮き上がったエンのナイフがキルマの左胸をこすっていく。肋骨が五、六本切断されて肺が破れた。キルマは血を吐いた。同時にキルマの血塗れのカッターシャツの、左肩から右脇にかけて、新しい血の筋が浮き出した。二万年前の古傷が一気に開いたのだ。返り血と自分の血の混じった赤い笑みを浮かべてエンが止めのナイフを振り下ろす。そのエンの顔面をキルマの右手が襲った。

 

 

 重なり合って動かぬ二人を、香織は見つめていた。

 互いに血塗れの二人であった。

「キルマ」

 静寂の夜、満月の下で、香織は叫んだ。

 やがて、一人が動き出した。

 香織は息を呑んだ。

 よろよろと立ち上がった男は、エン・ジハルだった。

「俺の……勝ちだ……」

 吐息を洩らすような、力のない声で、エンは言った。

 彼の顔の左半分が、消えていた。そこには血みどろの歯列と、頭蓋骨と、糸を引いてぶら下がった眼球があった。

「いい……戦いだった……俺は……満足している……だが……」

 足を引き摺るようにして、エンが、香織の方へと、歩いてくる。愛用のナイフだけは、しっかりと握って。

「俺が……勝ったからには……お姫さん……あんたの命をもらうよ……」

 倒れ伏すキルマの体が、渦に巻き込まれてゆっくり流れていく。

「俺だって……あまり、女を殺したくは……ないが……約束したことは……守らねば……な……」

 香織は動くことが出来なかった。今のエンからはもしかすると、必死に走れば逃げられるかも知れなかった。だが彼女には出来なかった。自分のために命を懸けた男が、ボロボロになって横たわっているのだ。

 香織の目から涙が溢れ出した。渦の中を沈んでいくキルマが滲んで見えた。

「悪いな……苦しまずに済むように……一瞬で……送ってやる……」

 エンは香織の目の前まで近づいていた。唇の無事な右半分だけが、微笑を浮かべていた。

 それが驚愕に変わったのは次の瞬間であった。

 振り向こうとしたエンの背を何かが貫通し、先端が胸まで抜けた。

「ガッ、キ、キルマ」

 エンの右胸に突き刺さっていたのは、キルマのちぎれた左腕だった。

 流されるまま、キルマがゆらりと上半身を起こしていた。エンが気づいたのはキルマの動きを察知したからではなく、香織の表情の変化のせいだということを彼女は知らない。香織が起き上がるキルマに気づかなければ、投げた左腕はエンの心臓を破壊していただろう。

「油断したな、エン」

 告げるキルマの顔には既に死相が浮かんでいた。

「カアッ、死に損ないが」

 エンが吠えた。血を撒き散らしながらエンが跳躍した。同時にキルマも跳ぶ。

 光が。

 

 

  七

 

 大地の巨大な渦に、二人の男が引き込まれていく。

 一人は、片手片足のキルマ。体中は血に染まっている。血の気を失った青白い顔は、それでも美しい。

 一人は、片腕のエン・ジハル。右手に握ったナイフは中途から折れていた。それでも彼は、武器を離すつもりはないのだろう。

 エンの額には、自分のナイフの折れた先端が、深くめり込んでいた。

「……キルマ……なあ……やっぱり、戦うってのは……楽しいだろう……俺の……名を……覚えておいてくれ……よ……この次に……会った時は……きちんと決着を……つけてやる……それまでは……リタイアなんてするんじゃ……ない……」

 虚ろに語るエンの、見開いたままの目から、光が失われていく。

 キルマは答えなかった。もう死んでいるのかも知れなかった。

「ああ……強く……なりてえなあ……強く……つよ……」

 そこまで言って、エンは、動かなくなった。

 エンの方が、渦の中心に近かった。エンの死体が、ゆっくりと、地面の中に、呑まれていく。

 やがて、キルマの体が、渦の中心に達した。その顔は、眠っているように穏やかだった。

「キルマーッ」

 香織はもう一度叫んだ。

 その時、死んでいると思われたキルマが目を開いた。

 驚いたことに、キルマは香織に向かって、ウインクと共に微笑してみせたのだ。それは満月の下ではっきりと見えた。

 香織の目から、また涙が溢れた。

 キルマは、香織を悲しませないために、残った力を振り絞って、その表情を見せたのだ。それは香織を守ることを誓った男の、最後の義務であった。

 香織は、報酬のことを思い出した。

 キルマはすぐに目を閉じた。そのまま渦に呑み込まれていく。

「キルマ、ありがとう。ありがとう」

 香織は声を限りに叫んだ。地中に沈んだ死にかけの男の耳にも届くように。

「ごめんなさい。ありがとう。ありがとう」

 香織は何度も何度も、感謝の言葉を叫んだ。

 

 

 遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。警察が漸く駆けつけてきたのだろう。全てが終わった後で。

 その中には、署長である香織の父親もいるかも知れなかった。

 渦はやんでいた。そこには何もない大地だけが広がっていた。

 荒野に一人残された香織は、いつまでも、泣き続けていた。

 

 

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