第九十一夜 特別だから

 

「俺は特別だから……」

 それが彼の口癖だった。

「自分というのがこの自分であるということが、どんなに大事なことなのか、お前達はてんで分かってないのさ。考えてもみろよ。何処に行っても自分て奴はついてくる。それは大変なことじゃないか。だから俺という存在は、特別な存在なんだ。俺がこの俺であるということは、この俺が特別な存在であるということなんだ」

 しばしば彼は同じ話を繰り返して、私達をうんざりさせた。とにかく、自分のことを特別特別と、彼は言い続けた。

 彼は風邪をひいても薬など飲まなかった。自分は特別だから薬など必要ないと考えていた。彼はしばしば無茶なことをやり、その度に大怪我をしたり職をくびになったりした。

「ちっとも特別じゃないじゃないか。いい加減に無茶はやめて現実を見つめろよ」

 私はそう忠告したことがある。

 彼は答えた。

「いいや、俺は特別さ。その証拠に俺はこうして生きてる。俺は特別、特別、特別特別特別特別特別特別特別特別特別特別とくべつとくべつとくべつとくべつとくべつとくべつとくべつとくべつ……」

 その彼がビルの屋上から飛び降りて死んだという。

 自分が特別じゃないことに絶望して自殺したのだろうと、皆は噂した。だが私は、彼が自分は死ぬ筈がないと思って試してみたのではないかと思った。

 だが実際には彼は全身を骨折し、脳味噌を地面に撒き散らして死んだ。

 葬儀には私も出席した。彼の母親は泣いていた。参列者達は、内心彼にざまあ見ろと思っていたものも多いだろう。彼の顔は修復不可能で、棺は開かれることがなかった。

 その棺がガタガタと揺れ出したのは、葬儀が始まって一時間を過ぎた頃だった。

 人々が悲鳴を上げ、会場はパニックになった。彼の母親は気絶した。棺の蓋が少しずつずれていき、開こうとしている。

 私は咄嗟に走り寄り、棺の蓋を両手で押さえつけた。中のものが姿を現さないように。

 声が棺の中から聞こえた。

「俺は特別だ。俺は特別だ。特別だから、俺はこうして生きてる。俺は絶対に死なない。何故なら特別だからだ。特別、特別、特別……」

「いいや、お前は特別じゃない」

 私は棺の中の彼に答えた。

「何故なら特別なのは私だからだ。私は私だ。私はここに私として存在する。だから私は特別だ。だからお前は特別じゃない」

 棺の揺れが止まった。

 声は聞こえなくなった。

 

 

  第九十二夜 赤子

 

「お前の腹の中から出てきたやつというのは、これのことか」

 男がその生き物を指差した。

「私は病院でちらっと耳にしたんだけど、これのことを『アカチャン』て言うらしいわ」

 女が言った。女は、男の妻だった。

「ふーん。『アカチャン』か。寄生虫の一種か?」

 男は首を傾げ考え込んだ。

「眠っているみたい。息をしてるわ」

「気味が悪いな。なんでこんなものを持って帰って来たんだ」

「だってえ」

 その時、生き物が目を開けた。二人の声で、起きてしまったらしい。

「アカチャーン」

 男は呼びかけてみた。

「アカチャーン」

 女も真似をする。

 生き物は鳴き声を上げた。どうも騒がしく、人を苛々させるような声だ。

「うおっ、鳴いてるぞ。餌を欲しがってるのか。何をやればいいんだ」

「知らないわ」

 男はビスケットを一枚取ってくると、生き物の口に押し込んでみた。

 生き物は、ビスケットがお気に召さないようだった。口から吐き出すと、ますます大きな声で鳴き出した。

「ど、どうすればいいの」

「なんてうるさい声だ。とても耐えられない。黙れ。静かにしろ」

 生き物は、まるで男の言うことを聞かなかった。

「どうすれば鳴き声は止まるんだ」

 男は生き物の口を押さえた。ゴキッと音がした。生き物の口から、赤い液体が漏れた。生き物の手足が激しく動いた。

「うわ、気色悪い」

 男は生き物を持ち上げて、壁に力いっぱい叩きつけた。ベチャッと音がした。また赤い液体が漏れた。床に落ちた生き物は、それでもピクピクと動いていた。

 恐慌に陥った男は大きな漬物石を持ってきて、生き物の上に落とした。生き物はペチャンコになって、石と床の隙間から赤い液体や黄色い柔らかいものがはみ出した。

「ふう、これで一安心だ」

 男は胸を撫で下ろした。

「一体、この生き物は何だったのかしら」

 女が言った。

「さあな。もう寝よう。明日になったら、ごみ袋にでも包んで捨てに行けばいいさ」

 男は欠伸をして答えた。

 

 

  第九十三夜 内臓がないぞう

 

 ベッドに横たわる田原伸二郎の抜け殻を、主治医の大村は感慨深げに眺めていた。

 脳死が確認されて二週間を経過した田原の皮膚細胞は、無数のチューブに繋がれ、人工呼吸器と点滴によって生き続けていた。

 脳死二日目に、両目の角膜が秘密裏に摘出され、百万円で売れた。今、田原の眼窩に収まっているものは、ビニール製の義眼だ。

 四日目に、小腸の一部が摘出され、二百万円で売れた。

 七日目に、膵臓が摘出され、七百万円で売れた。

 八日目に、両方の腎臓が摘出され、六百万円で売れた。

 十日目に、肝臓が摘出され、八百万円で売れた。

 十二日目に、右葉の一部だけを残して両肺が摘出され、五百万円で売れた。全部を摘出してしまったら、人工呼吸でも肉体が死んでしまう。

 そして十四日目の今、この病室で、数人の心臓外科医が田原の胸を開け、心臓を摘出しようとしていた。取り出した後の空間には、代わりに綿を詰め、彼らは大急ぎで皮膚を縫合した。醜い手術痕は、肌色の特殊なテープを貼ると、ちょっと目には分からなくなる。火葬場に送られるその時まで、遺族の目を騙し通せるだろう。

「それじゃあどうも。一千万の代金はあなたの口座に振り込んでおきますから」

 そう言い残して心臓外科医達は別の扉から出ていった。正面のドアの外には田原の家族達が待機しているのだ。

 まだ二十六才だった田原伸二郎の内臓は健康そのもので、実にいい値で売れた。大村医師は思った。来月、レジャー用にボートを一艘買うつもりだった。

 看護婦が田原の抜け殻に服を着せた。

 その体内には、内臓は、残っていなかった。

 大村医師は正面のドアを開け、田原の家族達を室内に入れ、厳粛な面持ちで告げた。

「田原さんはたった今、お亡くなりになられました。手は尽くしたのですが、誠に残念です」

 妻と母親は泣き崩れ、父親は無言で頷いた。

 遺体を家族の手で棺に収める際、母親が涙を流しながら言った。

「こんなに軽くなってしまって……」

 

 

  第九十四夜 疑惑

 

 俺は騙されているのではないだろうか。それが俺の頭にいつも浮かぶ疑問だ。

 小学生の頃から俺の疑問は始まった。学年を上がる時にクラス替えがあるが、クラスのメンバーが変わっても、常にクラスには同じような奴がいた。成績が良くて真面目なメガネ。いつも冗談ばかり飛ばすお調子者。自己中心的でいつでも我侭を通そうとする乱暴者。自己主張出来ない内気なモジモジ君。冷めた顔で皮肉ばかり言うニヒリスト。

 彼らは、どのクラスにも、俺が中学、高校、大学と上がっても、常に揃っていた。俺が就職した今でも、職場には彼らがいる。

 真面目だった小学一年の時の大島君は小学三年の三原君で、中学の岸村、高校の真田、大学の島田と続き、今の職場の太田課長となる。

 お調子者だった小学の時の井上君は中学の篠原、高校・大学で一緒だった金森と続き、今の職場では同期の牧村だ。

 彼らは、それぞれ、同一人物ではないだろうか。

 つまり、これは全て、俺を騙すための芝居で、実際には数十人しかいない人類が、立場を変え顔を変えて俺の周りでうまく立ち回っているのではないだろうか。

 以前牧村に、「お前は井上君だろ」と聞いてみたことがある。彼はきょとんとした顔で「何を言ってるんだ」と答えた。勿論「そうだ」などと答える筈もない。芝居をしていることがばれてしまうではないか。

 俺は、奴らの芝居をどうにかして暴いてやろうと考えていた。

 そのチャンスは小学生時代の同級生の同窓会の日に巡ってきた。

「いやあ、久し振りだな。十何年振りになるだろう」

 彼らは言った。

 嘘をつけ。毎日職場で会っているじゃないか。俺はそう思ったが、会場では黙っていた。

 俺は真島に目をつけた。職場では垣原をやっている乱暴者だ。あいつにはずっと苦しめられてきたからな。

 同窓会が終わって帰る垣原の真島を俺は尾行した。そして人通りのない路地で背後から襲いかかり、後頭部を強打されて気絶した真島を俺は公園のトイレまで引きずっていった。

 俺は真島の体を縛り上げると、水をかけて真島を起こした。

「な、何だ。何をするんだ」

 真島は怯えた顔で言った。

「お前は垣原だろう。答えろ」

 俺はナイフを突きつけて尋問した。

「な、何を言ってるんだ」

 奴はあくまでも、芝居をし通すつもりらしかった。

 それなら俺にも考えがある。俺は真島の喉を掻き切った。更に念のため、真島の首を斧で切断し、その顔を滅多打ちにして完全に破壊した。

 これでよし。

 明日職場に行ってみれば、全て分かる。きっと垣原はいない筈だ。俺は家に帰ってわくわくしながら眠りについた。

 翌朝、出社した俺は垣原の席に見知らぬ男が座っているのを見た。

「か……垣原はどうしたんです」

 俺は太田課長に聞いた。

「え、いるじゃないか。そこに」

 そう言うと、大島の三原の岸村の真田の島田の大田課長は垣原の席に座った男を指差した。

 その時になって俺は思い出した。

 彼は来島の鈴木の加藤だった。高校、大学といなかったので、残忍な彼の存在を忘れていた。今や垣原の代役となった彼は、口元にその特徴である冷酷な笑みを浮かべていた。

 

 

  第九十五夜 断絶

 

 十数人の客の一団が料亭『天国と地獄』の暖簾をくぐると、その先に二つの入り口があった。

「あれ、どっちに行きゃいいんだ」

「どっちも同じだろ」

 彼らは右の入り口を通った。

 その十秒後、やはり十数人の客が料亭の暖簾をくぐった。彼らは何となく、左の入り口を選んだ。

 右に入った客達は、美人の仲居に案内され、高級な座敷に通された。飾られた見事な掛け軸や壷に彼らは感心した。「いい所だな」一人が言った。

 左に入った客達は、屈強な男達に連行され、薄暗い部屋に押し込められた。所狭しと並んだ様々な拷問器具は、彼らを唖然とさせた。「何だここは一体」一人が言った。

 右の座敷と左の部屋は、壁一枚を隔てた隣同士だった。

 右の客達に、仲居が次々と酒をついで回り、楽しい宴会が始まった。

 左の客達を、無表情な男達が次々と鎖に繋いでいき、凄まじい惨劇が始まった。

 右の座敷では、うまい料理に舌鼓を打ち、酒の回った客達が笑い声を上げた。

 左の部屋では、残虐な拷問に耐え切れず、血塗れの客達は悲鳴を上げた。

 二つの部屋を隔てた壁は、完全な防音構造になっていた。隣の部屋で何が起こっているのか、どちらの客も知らなかった。

 右の座敷で宴もたけなわになり、客達が膨れた腹を抱えていた頃、左の部屋にはバラバラ死体が転がっていた。

 右の座敷で料理が出尽くしたと思われた時、新たに肉料理が運ばれてきた。

「こりゃうまい。これ何の肉かい?」

 客の一人が聞いた。美しい仲居は艶然と微笑んで答えた。

「それは次に来られた時、左の入り口を選ばれれば分かりますよ」

「そうか。今度試してみるよ」

 客は機嫌良く言った。

 

 

  第九十六夜 夕飯はカレー

 

 夕飯は母の手作りのカレー。

 つい食べ過ぎてしまい、腹がはち切れそうだ。

 お腹をちょっと押さえただけで、口から戻してしまいそうになる。

 しかし、僕はこれから犬の散歩に行かなければならないのだ。

 我が家の一員、シベリアンハスキーのパピイが僕を呼んで吠える声がさっきから聞こえているのだ。

 膨らんだお腹を抱え、僕がよいしょと席を立った時、母が何気なく呟いた。

「男は一歩外に出たら、七人の敵がいるんだよ」

 その台詞に僕は戦慄を覚えた。

 僕の胃袋の中のカレーを狙って迫り来る七つの敵。

 幾多の障害をかわし、僕はカレーを少しも吐き戻さずに散歩を完了することが出来るのだろうか。

 

 四十分後、僕はパピイの死体を引きずって、ようやく家に帰りついた。敵の攻撃の巻き添えを食らって死んだのだ。

 僕の左の足首は捻挫していたし、左腕は骨折しているらしく動かない。

 それでも僕は満足だった。

 何度か吐きそうになる場面はあったが、僕はなんとか切り抜けた。

 玄関では、母がにこにこして待っていた。

「母さん」

 僕はパピイを引いて母に駆け寄っていった。

 七つの敵をかわし、僕はカレーを吐き出さずにようやく犬の散歩を全うしたのだ。

「アッパピョー!」

 母が叫んだ。後ろ手に隠していた包丁を僕の膨れた腹にドッカと突き刺した。

 何回も、何回も、突き刺した。

 僕は上がってくるものを堪えようとした。それはカレーなのか血なのか分からない。

 しかし僕の裂けた腹から夕飯のカレーがとめどもなく血と共に流れ出していく。

 せっかく食べたカレーが。

 

 

  第九十七夜 二人は一緒

 

 橋の向こうに彼女の姿が見えた時、私は思わず駆け出していた。彼女も同じ気持ちだったのだろう、私を認めて重い荷物を放り捨て、そのままこっちへ駆けてくる。彼女の瞳には涙が浮かんでいた。それは私の目も同じことだったろう。

 互いに駆け寄った私達は、橋の真ん中で抱きしめ合った。

「真由美」

 私は彼女の名を呼んだ。

「達彦」

 彼女も私の名を呼んだ。

 二人の間が避けられぬ状況により引き裂かれたのも運命ならば、その三年後の今、こうして再会することが出来たのも運命なのだろう。

「もう離さないよ」

 私は彼女に囁いた。

「ええ、もう一生離れないわ」

 彼女は答えた。

 私達は熱い接吻を交わした。ああ、もし神が存在するのなら、私達が二度と離れることのないようにして欲しい。私は切にそう願った。

 突然、私の頭に誰かの声が響いた。

『その望み、叶えよう』

 彼女の唇の感触が変わったことに気づいたのは、次の瞬間だった。

「ムゴッ」

 私は唇を離そうとした。が、二人の唇は融合してしまったように、どうしても離れなかった。彼女も目を白黒させてなんとか離れようとした。が、もがくのは逆効果だった。顔を引き剥がそうとしてついた手が、顔に完全にくっついてしまった。肉と肉が溶け合ったような感じだった。互いの手と顔が、手と手が融合し、そして鼻の穴が塞がって私達は息が出来なくなった。

「モ、モガモグゴゴゴ」

 離れろ。

 私達は必死に相手を引き剥がそうとした。息が出来ない。苦しい。お前のせいだ。離れろ。死ね。くっついた顔や手の肉はゴムのように伸びるばかりで、伸びた肉が更に絡まって私達は一つの怪物に見えただろう。

「モグー、モグゴクググググ」

 彼女の瞳にも、私への憎悪と殺意が光っていた。

 離れろ。死ね。死ね。死ね。

 体勢が、崩れた。

 私達は複雑に絡み合ったまま橋から足を踏み外し、暗い水面へと落ちていった。

 

 

  第九十八夜 親子

 

 医者と看護婦を締め出して、病室は母と私の二人だけになった。窓の外の庭には満開の桜が立ち並んでいる。母が来年の桜を見ることが出来ないのは、双方が承知していることだった。いや、明日の桜を眺められるかどうかさえも分からないのだ。

「聡」

 母が力ない声で、私の名を呼んだ。

 母さん。

 そう言おうとして、私は声を詰まらせた。知らず、涙が滲んできた。

 私の、たった一人の家族。

 父は私が三才の時に死んだ。女手一つで、母は社会の荒波に耐えながら私を育て上げた。

 私の愛する母。

 今年大学を卒業して就職も決まり、ようやく母に楽をさせてあげられるという時に……。

「言おうか言うまいか、随分と悩んだんだけど」

 既に母の顔色は紙の色に近かったが、何とも言えない不思議な表情を浮かべていた。

「やっぱり、これだけは言っておかなくちゃならないと思ってね。とっても、大事なことなのよ」

 死を目前にした母の言葉に、私は若干戸惑いを覚えた。そういえば、昔から母は時折、深く考え込むような、ひどく複雑な顔を見せることがあった。私はそれを日々の生活の苦しさとばかり思っていたのだが……。

 母は長い溜息を吐いた。そして言った。

「お前は、本当はわた……」

 途中で急に言葉を中断し、母は目を閉じた。

「え、母さん?」

 母は続きを言うことはなかった。

 母は死んでいた。何故か満足げな微笑を浮かべて。

 

 わた……何だ?

 あの日から、私の苦悩の日々が始まった。

 私のそれまでの価値観は崩壊し、代わりに得体の知れない、気持ちの悪いものが私を脅かした。

 私は荒れた。会社を辞め、酒浸りの生活を送った。

 それからなんとか立ち直ることが出来たのは、陽子のおかげだった。

 だが彼女は娘を産んですぐに死んだ。

 娘だけが私の生きがいになった。

 娘のために、全力で生きていこう。私はそう思って生きてきた。

 だが、今でも時折、あの時の母の言葉を思い出し、ぐちゃぐちゃに混ざり合った感情に苦しみ悶えることがある。自分の存在自体が根底から揺るがされたような気がして、生きていることさえ辛くなるのだ。

 わた……何だ?

 

 時が過ぎ、娘は二十才になっていた。

 私は医者と看護婦を追い出して、病室に娘と二人だけになった。

 私は病んでいた。長い年月に及ぶ苦悩の日々が、私の寿命を縮めたのだ。

「真奈美」

 私は愛する娘の名を呼んだ。

 私には、ある考えがあった。

「父さん」

 娘は、涙に目を潤ませていた。

「言おうか言うまいか、随分悩んだんだが」

 これは本当のことだった。このまま言わずに死ぬことが出来れば、娘はどんなに幸せなことだろう。

 だが、私には言わずにはいられない。

「やはり言っておかなければならないと思ってな。とても大事なことなのだから」

 喋りながら私は、心の中に何とも言えない甘美で邪悪な喜びが満ちていくのを感じていた。

 娘は、私の言葉に戸惑いを覚えたようだった。

 いいぞ。その調子だ。

 私は長い溜め息を吐いた。二十年以上に渡り積み重なってきた、私の苦渋と狂気を吐き出すために。

 そして私は言った。

「お前は、本当はわた……」

 私はわざとここで台詞を止めて目を閉じた。

 やった。私はやった。

 今までに感じたことのない達成感が、私の魂を天国へ連れ去ろうとしていた。

 これが、私の、愛する母に対する復讐だった。

 ざまあみろ!

 私は心の中で快哉を叫んだ。

 その時私は、母の微笑みの理由を知った。

 

 

  第九十九夜 憎しみの果てには愛が……

 

 カウンセラーの田島伸介は、用意した座敷に、別々に二人の人物を案内した。

 二人は互いの顔を認めて驚愕した。そしてその表情は次第に憎悪に変わっていく。

 五十八才の母と、三十六才の実の娘。憎み合い、二十数年の戦いの果てに娘が家を出て、この八年間一度も顔を合わせなかった二人を、田島自身の判断で前触れなしに引き合わせたのだ。膵臓癌で入院中の父親が、自分の死後の二人の仲を心配して田島に相談した結果だった。

 母と娘を向かい合わせに座らせて、田島は無言で部屋の隅に座った。

 戸惑いの収まった頃、母が憎々しげに言った。

「なんであんたがここにいるのよ」

 娘も唇を歪めて言い返す。

「それはこっちの台詞よ。まさか、今まで私にしてきた仕打ちの許しを乞おうなんて思ってるんじゃないでしょうね。絶対に許してあげないわ」

 田島は黙って二人のやり取りを見守っていた。彼は口出しする気はなく、成り行きに任せるつもりだった。

 彼は、憎しみの果てには愛があると信じていたからだ。

 互いの憎しみを全て吐き出した後に、微かに残る肉親への愛情。

 田島は、この場で戦いを続けさせ、最後にそれを引き出すつもりだった。

「許しを乞うのはそっちの方でしょうが。あんたのために私がどれほど苦労したと思ってんのさ。死んでも許してやらないからね」

「何言ってんのさこのクソババア」

「黙れこの馬鹿女。あんたなんか私の娘じゃないわよ」

 田島はじっと待っていた。

 憎しみの果てには愛があると信じ……。

「そもそもお前があの人との結婚を邪魔したから」

「あいつはただの飲んだくれだったじゃないか。ふん、今考えれば、あいつはあんたにお似合いさね」

「言ったわねババア」

「馬鹿女」

 憎しみの果てには愛が……。

「死ねババア!」

 娘が母に掴みかかった。

 母が娘の腕に噛みついた。

 娘が母の顔を引っ掻いた。

 母が娘の髪を掴んで引きずった。

 娘が母の目に指を入れた。

 部屋は、獣のような唸り声と悲鳴が飛び交う戦場と化し、田島は溜め息を吐いた。

 田島は一人黙って部屋を出て、扉を閉めた。

 憎しみの果てには愛が……。

 駄目だったか。

 田島はリモコンのスイッチを入れた。部屋に仕掛けられた百トンの吊り天井が落ち、母娘の体をその憎しみと一緒に押し潰した。

 

 

  第百夜 無

 

 荒野。

 無数の死体が転がっている。

 手足が千切れ、或いは内臓を撒き散らし、或いは首のない死体。

 彼らの顔は、同じような表情を浮かべている。

 それは、『恐怖』というものらしい。

 私がもう、感じることのないものだ。

 無数の死体。

 全て、私が殺した。

 何故殺すのか。誰かが聞いた。

 何故、何のために、こんな酷いことを。

 私は知らない。

 私はただ、殺すだけだ。

 私は差別せず殺す。女子供も躊躇なく殺す。躊躇などというものは、私の中には既に存在しない。

 もうやめて。こんなことをして、何とも思わないの。誰かが言った。

 何とも思わない。何も感じない。

 それに対応するような感情は、既に遮断してしまっている。

 もう、何も感じない。

 誰もが私を見て逃げ惑う。

 私をそれを追い、ただ殺戮を繰り返す。

 私は、不毛の荒野にいる。

 何処にいても、私は荒野に立っている。

 私は虚無だ。

 私は、何も感じない。

 全ての感情は遮断した。

 私はただ、殺戮を繰り返すだけだ。

 この、頬を流れるものは何であろうか。

 これは涙ではない。

 『悲しみ』などと呼ばれた感情は既に遮断した。

 もう何も感じない。

 これは涙ではない。

 私は荒野に立っている。

 永遠に。

 涙では……

 

 

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