第十一夜 愛は

 

 トラックは暗い道路を進んでいた。運転席の若者は、黙って運転を続けていた。音楽も鳴らさずに、エンジンの唸りだけが聞こえている。

 助手席の少年は、窓から外を眺めていた。時々視界を流れていく明かりは、民家だろうか。

「ねえ、愛って、本当にあるのかな」

 少年が聞いた。

「さあな」

 若者は、ぶっきら棒に答えた。その態度に少年が嫌な顔も見せないのは、これが若者の普段の口調だということを知っているのだろう。

 少年は、また黙り込んだ。

 トラックが一瞬ガタンと揺れた。

「今、何か轢いたみたい」

 少年が景色を眺めたまま言った。

「そうか」

 若者は答えた。

「ねえ、人間って、何のために生きてるのかな」

 少年が聞いた。

「さあな。生きてるから生きてるんだろう。多分、理由なんてねえのさ」

 若者は答えた。

「そうかなあ」

 少年は、また黙った。

 トラックがまた揺れた。さっきよりも強い衝撃だった。

「今、人を轢いたね」

 少年が言った。

「そうだな」

 若者は答えた。

 更に強い衝撃。トラックが激しく揺れる。

「今、ガードレールを破ったよ」

「そうか」

 若者は平然と答えた。

 トラックは、切り立った崖から宙へ躍り出した。

「落ちていくよ」

 少年が言った。

「そうだな」

 若者は頷いた。

「ねえ、愛って……」

 

 

  第十二夜 恋人の願い

 

「隆彦!」

 恵里子は駆け寄った。

 隆彦は死んでいた。

 死体安置所。

 連絡があったのは、三十分前のことだ。

 チンピラ同士の喧嘩に仲裁に入り、逆にナイフで刺し殺されたのだと言う。

 冷たくなった隆彦の胸に顔を埋め、恵里子は泣きじゃくった。

「隆彦、ねえ、嘘でしょう。私を絶対に幸せにするって言ったじゃない。ねえ、生き返ってよ。生き返って、いつものように恵里子って呼んでよ。」

「え……恵里子……」

「え?」

 はっとして顔を上げると、隆彦が虚ろな目を開き、固くなった身体をゆっくり動かそうとしていた。

「キャー!生き返った!気色悪い!寄るな!死ね!死ね!」

 恵里子は叫んだ。

 近くにあった金属製の花瓶を手に取り、隆彦の顔に力一杯振り下ろした。

 何度も、何度も、振り下ろしていた。

 

 

  第十三夜 首なし、自転車

 

 晴れた日の午後のことだった。

 高村信次は妻の美和子と共に、歩行者天国となった日曜日の通りを歩いていた。両側には商店街が賑わっている。

 二人は何を目当てにやってきた訳でもなく、暖かい日差しを浴びて、ただのんびりと、並んだ店先を回って楽しんでいた。

「あら、何かしら」

 美和子が、不思議そうに通りの奥を見やった。

 信次もそちらを向き、一台の自転車が目に入った。何故か自転車の前は、人々がきれいに道を開けていた。

 歩行者天国に自転車は通って良かったのかなと考えながら、信次はその異様な乗り手に目を留めた。

 自転車を漕いでいる人物は、戦国時代の鎧姿だった。鎧は古い物らしく、色褪せ、艶を失い、また、所々に折れた矢が刺さっていた。自転車の方も相当のポンコツらしく、フレームは錆びつき、漕ぐ度にキコキコと嫌な音を立てていた。

 だが、そんなことよりも重要なことがあった。

 その鎧姿の男には、首が存在しなかったのだ。

 信次は首を傾げながら呟いた。

「映画のロケか何かやっているのかな。それにしても妙な格好だ」

 もう一つ、妙なことがあった。

 通りを歩く、沢山の人々。首なし武者の自転車が通り過ぎるにつれ、次々に彼らの首が胴体から外れ、転げ落ちていくのだ。

 鋭利な刃物で切断されたような、滑らかな断面を見せ、群衆の首が落ちていった。だが刃物らしき物は何も見えなかった。自然に、悪夢のように、首を失った人々が血を噴き出させながら、力なく地面に倒れていく。

「あれれれれ」

 信次が言ううちに、首なし武者の自転車が、二人の横を通り過ぎた。

 信次の視界がずれ、ゆっくりと反転していった。

 後頭部に衝撃を感じた。信次には首のない自分の体がふらついているのが見えた。首のない美和子の体も。その他大勢の首のない人々も。

 その隙間に見える空は青く澄んでいた。

 すぐに赤に変わった。

 自転車のキコキコという音だけが遠くに聞こえていた。

 

 

  第十四夜 見合い

 

 室田佑介は、早く来すぎたかと思いながらも、予約していた料亭の和室に入った。

 まだ誰も、姿を見せていなかった。

 今回、室田の両親は事情があって来ることが出来ない。相手の女性と、その両親、そして仲人の重村氏が来る筈だった。

 まだ予定の時間には三十分近くある。室田は席について正座して待った。

 初めての見合いで、彼は緊張していた。

 室田は、向い側の座布団の上に乗った箱に気がついた。

 本来なら、相手の女性が座る筈の席だ。

 箱は、一辺五十センチくらいで、頑丈そうな金属で出来ていた。

 室田は気になって、そちら側へ回ってよく観察してみた。

 箱の側面に、紙が貼ってあった。

 紙には、『木田享子』と書かれていた。

 今回見合いをする相手の女性の名前だった。

 相手の荷物だろう。見合いの席で何に使うために持ってきたのか知らないが、荷物だけ先に届いたのだ。それとも荷物だけここに置いて、本人達は別の場所で所定の時刻を待っているのかも知れない。

 室田は放っておこうと思った。自分の席に戻って、時間が来るのを待った。

 だが十分もするうちに、箱の中身が気になってきた。

 部屋の隅ではなく、わざわざ彼女が座る筈の場所に置いてあるのが気になるのだ。

 室田は箱に近づいた。誰も部屋に来る気配のないのを確かめて、彼は慎重に箱の蓋を開けた。

 たまらない腐臭が中から吹き出し、室田は吐き気を堪えた。箱の中には、全裸の女の死体が入っていた。五十センチ四方の箱に、無理矢理に折り曲げられ変形して、隙間なく詰め込んであった。丁度、自動車のスクラップをプレスして小さな立方体にしたような感じだった。それが人間の死体だと分かったのは、ぺちゃんこになった顔が上を向いていたからだ。

 それは、変形してはいたが、見合い写真で覚えのある木田享子の顔だった。

 室田は慌てて蓋を閉めた。箱の中身を見てしまったことが気づかれないように、用心して閉めた。

 彼は、自分の席に戻った。

 混乱気味の頭で、室田は考えていた。御両親は、自分の娘を何と言って紹介するのだろう。箱入り娘ですとでも言うのだろうか。

 やがて仲人と木田享子の両親が姿を見せた。

「いやあ、うちのは箱入り娘でして……」

 父親が頭を掻きながら言った。

 

 

  第十五夜 チクッ

 

 岡田昇は八時間の飛行機での旅を終え、羽田空港の地面に足を下ろした。

 日本の奴らよ、見ているがいい。岡田は思った。

 岡田は十二年前、日本の社会に締め出されるようにしてアメリカに渡った。日本で彼を騙した人々、彼を見捨てた人々、彼を踏み潰した人々のことは、忘れようとしても忘れられない。

 苦労してアメリカで成功した彼は、今や莫大な資産を持つ実業家だった。

 復讐の時は来た。今度は彼が、日本の偽善に満ちた社会を踏み潰す番なのだ。日本の企業を、日本の民を、食い散らかしてやる。岡田は思った。

 その時、背中にチクッと鋭い痛みが生じた。続いて何かを押し込まれるような感覚。

 振り向くと、見知らぬ顔の日本人が立っていた。

 男は、殆ど空になった注射器を持っていた。ちゃんと針がついた、注射器だ。

「誰だお前は」

 岡田は聞いた。

 男はにやにやして言った。

「さてさて、この注射器の中には、一体何が入っていたんでしょうねえ」

 今の痛みは……。

 自信に溢れていた岡田の顔は、紙の色に変わった。

 

 

  第十六夜 親友

 

 相田と長谷川は並んで歩いていた。二人は親友同士だった。

 午前の講義が終わり、大学の食堂へ向かっているところだった。混んでなければいいが。相田は思っていた。

「WWWって知ってるか」

 唐突に長谷川が聞いた。

「知らん」

 少し考えると、相田はぶっきらぼうに答えた。相田は無口な男だった。

「そんなんも知らんのか。ははは」

 長谷川は頭を奇妙に揺らせてへらへらと笑った。

 相田は少しむっとしたようだったが、同時に恥ずかしさで顔を赤く染めた。

「はは、ワールド・ワイド・ウェブのことさ。じゃあインターネットくらいは知ってるだろ」

「……。聞いたこともない」

 ひょろりと背の高い長谷川は、自然と相田を見下ろすような形になる。

「ははは、これも駄目か。信じられないな。もしかしてパソコンを触ったこともないなんて言うんじゃないだろうな」

「……」

 もう相田は何も言わなかった。相田の赤かった顔が次第にどす黒く変わっていくことに長谷川は気づいていない。

「はは、全然駄目だな。そんなんじゃ、生きていけんぞこの先、はははは」

 ズブッ。

 長谷川が、信じられないといった顔で自分の腹部を見た。

 ナイフが深々と刺さっていた。血がじわじわと滲み出てくる。

 相田は凶器を握った手を、更に力を込めてグリグリとえぐった。

 声も上げずに長谷川は倒れた。

 相田がその上に馬乗りになった。

「でもお前が先に死んだ」

 長谷川の顔に首に胸に腹に、相田は手当たり次第に刺し捲った。

「でもお前が先に死んだ。はは、はははは」

 

 

  第十七夜 脳味噌の距離

 

 晴れた午後の日差しがぽかぽかと暖かい。

 こんな日には仕事なんかしたくなくなる。

 浜田は屋上の手摺に寄り掛かって、下の風景を眺めていた。

 窮屈に立ちそびえる高層ビルの隙間を行き交う車の列。その横を、蟻のようにうごめく人々の群れ。

 空はこんなに広いのに、何故人間は地上に這いつくばって生きなければならないのだろうか。

「浜田さん」

 背後から掛かった明るい声に、浜田は振り向いた。

 …… 二つの脳の距離は十メートル、片方の脳が百八十度回転 ……

 同僚の榊優子だ。今年入社したばかりで、まだ顔にあどけなさが残っている。

「お仕事さぼって、こんな所で何してるんですか」

 優子が悪戯っぽい口調で聞いた。

 …… 距離は七メートル、片方の脳が約二十度傾斜 ……

「そういう君だって、さぼってるじゃないか」

「浜田さんがいないから探しに来たんですよ。早く戻らないと、部長がカンカンになってますよ」

 そう言って榊優子は浜田の隣に並んだ。

 …… 距離は一メートル ……

 いきなり浜田は優子を抱き締め、強引に口付けをした。

 …… 距離は十センチ、片方の脳が右方に三十度傾斜 ……

 突然のことに優子は唖然とし、続けて顔を真っ赤にして怒った。

「馬鹿あ!」

 優子の力のこもった平手が浜田の頬に飛んだ。

 浜田は体勢を崩した。上体が流れ、手摺の外に出る。

 …… 距離は一メートル、片方の脳がほぼ水平に傾斜 ……

「あ、落ちる」

 浜田は慌てて優子の腕を掴んだ。だが勢いは止まらない。

「や、放して」

 優子は浜田の腕を振り払おうとしたが、必死に掴んだ腕は離れない。

 二人はもつれ合ったまま落ちた。十五階建てのビルの屋上から。

 …… 二つの脳は下方へ百八十度回転 ……

 頭から地表へ激突した。

 即死だった。

 二人の割れた頭蓋骨から、脳がぐしゃぐしゃになって飛び散った。

 入り混じって、もうどれがどちらの脳味噌だか分からない。

 …… 脳味噌の距離、ゼロ ……

 

 

  第十八夜 一億

 

 一億円が当たった。

 気紛れで買った宝くじが、いとも簡単に当たってしまった。

 今、こたつの上に、一億円分の札束が積まれている。

 俺は特に裕福という訳でもないが、生活に苦しむことはない。

 別に欲しいものもない。

 俺の人生の予定外の金が、今ここに存在する。

 そこでだ。

 むらむらと、俺の中の天の邪鬼が俺をかきたてる。

 この一億円で、とてつもなく馬鹿なことをしてみたいんだ。

 誰も勿体なくてやらんようなことをだ。

 それは、平凡で退屈な人生の中のちょっとした清涼剤のようなものだ。

 俺は、マッチを取り出した。

 暫くの間、俺は一億円の札束を見つめていた。

 そして、マッチに火をつけた。

 火のついたマッチ棒を、大量の札束の上に投げる。

 意外にあっけなく、炎は拡がっていった。

 一億円が燃えていく。

 一億円が燃えていく。

 それを見ている俺の口元に、邪悪な笑みが浮かぶのを感じた。

 ヘヘヘ。

 ざまあみろ。

 俺は燃える一億を見ながら、部屋中を踊り回った。

 ヒャハハ。ヒャハハハ。

 そうしているうちに、火が、こたつに燃え移った。

 俺は急いで火を消そうとしたが、一億の炎は止まらなかった。

 火は床に壁に燃え移り、俺の部屋は火の海と化した。

 俺の住むマンションは全焼し、三十五人が焼死した。

 その中には俺もいた。

 

 

  第十九夜 宅急便

 

 久し振りに息子の正から電話が掛かってきた。

 大学生の正は、今、アパートで一人暮らしだ。

 この家は妻と二人だけになって、空っぽになってしまったように感じる。

 色々あったけど、三人で暮らしていた頃が懐かしい。

 正が中学生になった頃から、私達は必死になって勉強をさせた。

 塾にも行かせた。成績が学年で十番以内に入らないと許さなかった。

 勉強勉強で、正は気が狂いそうになった。私達も辛かったが、これが、正の幸せのためなのだ。

 一流の高校へ入って、一流の大学に合格して、一流の会社に就職して、安定した生活を送る。

 それが、正のためだと信じたのだ。

 そして、なんとか三人で乗り越えてきたのだ。

 正は名門の国立大学に合格して、私達の手から離れた。

「どうだ、元気でやっているか」

「大学って、あんまり面白くないとこだよ。これまでと大して違わないよ」

 暗い声だった。

「たまにはこっちへ帰ってこい。一緒においしいものでも食べようじゃないか」

「……。そうそう、言い忘れてた。二日前、宅急便で小包を送ったんだ。そろそろそっちに届くんじゃないかな」

「ほう、そいつは嬉しいな。何を送ったんだ」

「それは着いてのお楽しみだよ」

 正は言った。

 電話を切ってすぐに、小包は届いた。

 約三十センチ四方の箱だ。割と重量がある。

「何が入ってるのかしら」

 妻が嬉しそうに言った。

 私もわくわくしながら、小包を開けた。

 妻が悲鳴を上げた。

 私は目を見開いたまま、体を硬直させていた。

 小包の中には、正の生首が入っていた。

 私は、それから目を離すことが出来なかった。

 正の顔は、何故か微笑を浮かべていた。

「あの電話は……」

 そう呟く自分の声が、他人の声のように聞こえていた。

 

 

  第二十夜 病院で死にたくないということ

 

「病院で死にとうない。病院なんかで死にとうない」

 老人は、呪文のようにその言葉を繰り返した。

 志垣啓太。八十七歳。元医師。

 現在本人が入院中の坂田病院に勤務していた、極めて評判の高い内科医だった。

 何十年もの間、無数の患者を救い、無数の患者の死を見てきた。

 そして、ついに自分の番が来たのだ。

 志垣老人は、悪性の腫瘍に侵され、命旦夕に迫っていた。

「病院で死にとうない。こんな所で死にとうない。自分の家で死にたい」

 長年の病院勤務は、逆に彼の中で病院への憎悪を育んでいたのだ。

「なんで人生の終わりを、こんな所で過ごさねばならんのだ。こんな所で」

「志垣さん、いい加減にして下さい」

 老人の車椅子を後ろから押していた看護婦が、呆れたように言った。

 今は、日課の散歩の時間なのだ。

 病院の庭を、看護婦に押され車椅子で回る。

 志垣老人にとっては、この時だけが、僅かな開放の時間だった。

 意外に広い庭は、他にも車椅子で散歩している老人達が何人もいる。

 病院は、人を救うところではない。

 志垣老人は思った。

 病院は、死に近づいた人々を隔離して、処理する場所なのだ。

 医者や看護婦達は、わしらの世話をしてくれるのではない。

 わしらが逃げ出さないように、監視しているのだ。

 その通りだった。

 車椅子を押しながら、看護婦は考えていた。

 なんとしても、このじいさんには、病院で死んでもらわなくては。

 名声の高い元医者に、病院で死にたくないなんて言われたら、病院は商売上がったりだわ。

 院長からも、この人だけは逃がさないようにと、しっかり念を押されているのだから。

「病院で死にとうない。病院で死にとうない」

 志垣老人が、虚ろな呟きを繰り返した。

 老人は、ポケットの中に忍ばせているフォークのことを考えていた。

 今日の昼食で使ったフォークだった。

 食器の中からフォークの一本や二本なくなったところで、誰も気づきはしない。

 もう、後数日の命だろう。

 老人は自分の余命を察していた。

 やるのなら、今しかない。

 チャンスは、今しかない。

 志垣老人は、それを実行に移した。

 約二時間後、見舞い客の一人が、庭の木の影に転がる看護婦の死体を発見した。

 傍らには一台の車椅子だけが残されていた。

 大勢の警察官が動員され、捜索が行われたが、志垣老人が発見されることはなかった。

 

 

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