手術室では、大掛かりな脳手術が行われていた。
耳くらいの高さで水平に切断され、取り外された頭蓋骨。
露出した脳を、慎重にいじり続けてはや六時間、まだ終わりそうにない。
執刀医が充血した目をしばしばさせて言った。
「疲れたな。今日はこの辺にしとくか」
「そうですね」
助手が答え、手術は中断された。
器具が、シーツが取り払われ、まだ麻酔が残ってぼんやりとしている患者に、看護婦が声をかけた。
「今日はここまでです。明日続きをやりますから、明日の朝十時にもう一度病院に来て下さいね」
「はーいー」
男は虚ろな目で答えた。
頼りない足取りで手術室を出る。病院を出るために、受け付けの方へ向かう。
誰かが、悲鳴を上げた。
読んでいた雑誌を取り落とす者。慌てて椅子から立ち上がる者。ひっくり返る者。
皆、一様に悪夢を見るような顔で、男を見つめていた。
男の頭蓋骨は、蓋をされていなかった。男の脳の大部分が、外部から丸見えになっていたのだ。
男には、皆が何故驚いているのか分からない。
「ええっと、明日の何時だったっけな……」
男は歩きながら呟いた。
転んだ。
前のめりに倒れ、派手に体全体を床に打ちつけた。
男の脳が頭蓋骨から飛び出して、床の上を滑っていき、壁に当たって潰れた。
第二十二夜 帰宅
川田治は、寿司詰めの列車の中にいた。
会社から川田の自宅まで、列車で二時間ほどかかる。往復すると四時間だ。
川田は、人生の六分の一を、列車の中で過ごしていることになる。いや、六時間の睡眠を考えれば、その割合はもっと多くなるだろう。
それでも川田は、もう二十年近く、こうやって会社と自宅を行ったり来たりしているのだ。
生きるためだ。
生きていくために、必要なことなのだ。
川田は自分に言いきかせる。
何のために生きているのよ。何故、そうまでして生きなくちゃならないの。
妻の小枝子の声が、脳裏に蘇る。
しょうがないんだ。生きるためには、しょうがないんだ。
言い訳する自分の声が聞こえる。
川田は好きでもない会社に入社して、好きでもない仕事を続けてきた。生きていくためだ。では何故生きていかねばならないのか。それは多分……。
妻のためだ。妻と、子供達のためだ。
川田は独りで納得した。
背広のポケットの中に、小さな箱があった。
ダイヤの指輪だった。
今日は、小枝子との結婚二十周年の記念日なのだ。
小枝子。
愛しているよ。
川田は心の中で呟いた。
やっと列車が目的地に到着した。
人々が雪崩のように吐き出される。
押し合いへし合いしながら、川田はその中を泳ぐ。
駅を出て十五分ほど歩くと、川田の家に着いた。
自分の家。まだローンが十年以上残っている。
川田は溜息を一つついた。どんな溜息なのかは、自分でもよく分からなかった。
玄関のチャイムを押した。
小枝子は、覚えていてくれただろうか。今日が記念日だということを。
少しして、ドアの鍵が開いた。
「ただいま」
川田は明るく言って、ドアを開けた。
途端に川田は何かに強く押され、後ろに尻餅をついた。
変なものが見えていた。
小枝子だった。どうしたことか、彼女は玄関に逆さにぶら下がっていた。エプロン姿の上半身だけが見えている。
「キャハハー。キャハハー」
小枝子は笑っていた。鬼のような顔をして笑っていた。
その手には、血のついた包丁が握られていた。
血のついた包丁。
川田は、自分の胸を見た。
破れた背広の間から、じんわりと血が滲んでいた。
血は、どくどく、どくどくと、絶え間なく流れ出してくる。
「さ、小枝子……」
川田は、急速に意識が薄れていくのを感じていた。
最期の暗闇の中で、小枝子の狂ったような笑い声だけが聞こえていた。
第二十三夜 眠い
何かが僕をつついている。
僕に、起きろと言っているかのようだ。
でも、僕は、眠い。
とっても眠くて、起き上がるどころか、目を開けることさえ出来ない。
眠い。
何故だか分からないが、手足が、とても軽く感じる。
ふわふわと、重量がなくなってしまったようで、心地好い。
何かが僕をつついている。
やめてくれ。そっとしておいてくれ。僕は眠いんだ。眠くて眠くてたまらないんだ。まだ、起きる時間じゃない筈だろ。分からないけど、きっとそうだ。
生温かいものが、僕の体全体を包んでいる。
ゆったりと風呂にでも浸かっているような感じだ。
ああ、ずっとこのまま寝ていたい。会社なんかに行きたくない。
永遠に、このまま眠っていられたら、僕はどんなに幸せだろう。
むむ。
ははは。
やめろ。やめてくれ。
今度は誰かが僕のお腹をくすぐっている。
はは。や、やめろ。くすぐったい。やめろ。
僕は目を開けた。
モヒカン頭の男が、仰向けになった僕の前にしゃがみこんでいた。
男の上着は、大量の返り血で真っ赤に染まっていた。
男は、右手に大振りのナイフを、左手には長く連なったピンク色のソーセージのようなものを握っていた。
それは、僕の腹にまで繋がっている。
腸だった。
僕の腸だった。
僕の腹は切り裂かれ、内臓が見えていた。
血がこんこんと湧き出して、外へ流れ出していた。
薄暗い部屋の隅には、ワンセットの手足が転がっていた。
どうやら、それは僕のものらしかった。
モヒカン男の目には、たまらない喜悦の色が浮かんでいた。
瞳孔が大きく開き、イッてしまっていた。
男は涎を垂らしながら、僕の腸にかぶりついた。
妙にこそばゆい感覚が生じていた。
僕は悲鳴を上げようとした。
だが声は出ずに、小さな吐息が洩れるだけだった。
男が、僕の視線に気づいた。
「麻酔が切れてきたのかな」
男は平然とケースから注射器を取り出した。
「もっと眠っていなさい」
男が、僕の腹に注射器の針を突き立てた。
急速に、再び強い眠気が襲ってきた。
僕は目をつぶった。
眠ろう。
このまま眠気に全てを委ねよう。
どうなろうと知ったことか。
第二十四夜 予防の極意
「脳卒中の予防!」
首ズバッ!
「心臓病の予防!」
首ズバッ!
「癌の予防!」
首ズバッ!
「糖尿病の予防!」
首ズバッ!
あらゆる病を予防出来ます。
あなたも一度、お試しになってはいかが?
第二十五夜 ある一生
おぎゃー、おぎゃー、おぎゃー、おぎゃー、
おぎゃー、おぎゃー、おぎゃー、おぎゃー、
「ナンテコッタ……」
おぎゃー、おぎゃー、おぎゃー、おぎゃー、
「キケイジ……」
おぎゃー、おぎゃー、
あうあうああうあうあうああうあうあうああう
あうあうああうあうあうああうあうあうああう
「イッソノコト、ラクニシテヤッタホウガ……」
おぎゃー、おぎゃー、
おぎゃムギュ!
第二十六夜 やめ
疋田教授の講義は長い。
長いだけじゃなく、つまらない。
いつも疲れたような顔をして、小さい声でぼそぼそと喋る。何と言っているのかよく分からない。
講義時間は二十分近くオーバーしている。
でも終わらない。
皆、苛々してきている。
後ろのドアからこっそり出ていく奴もいる。
既に、話を聞いている者などいやしない。
誰もが、教授に早く終われと憎悪の篭った視線を投げつけている。
疋田教授も、漸くそれに気づいたようだった。
「やめるか……」
教授は教壇を下りて学生達の方へ歩いた。
皆、ほっと安堵の溜息をついた。
教授が、その後にぽつりと付け加えた。
「人生」
「え?」
教授が背広の内ポケットから包丁を出した。
一気に、自分の首筋を切り裂いていた。
血が噴き出した。
「ゴポッ。どうです君らも」
口から血泡を漏らしながら、教授は最前列の学生に包丁を突き刺した。
第二十七夜 ハイ
え、何を読んでるのかって?
そんなこと君の知ったことじゃないだろう。放っておいてくれ。
あ、泣いちゃった。
悲しいんだな。じゃあ俺も泣こう。うえーんうえーん、うえーんうえーんうえーん。
どう、びっくりした?
面白かったか?
そうか、面白いか。でも俺は全然面白くない。いや、うーん、もしかすると、面白いかも知れないな。そうだ、やっぱり面白いや。面白いから一緒に踊ろう。ランラランララーン、ランラランララーン。
ん、今、俺のことを怖いと思っただろう、何考えてるのか分からなくて気味が悪いと思っただろう、思っただろう、正直に言え、怒らないから言ってみろよ、さあ言え、ふむふむ、やはりそうか、じゃあ死ね!
第二十八夜 憧れ
「そろそろ一年になるかなあ」
店長がしみじみと呟いた。
「え?」
大繁盛のラーメン屋『あかり』も閉店時間を過ぎ、店員の木島里子は食器を洗いながら振り向いた。
「宏だよ」
店長は懐かしそうに言った。
その名前を聞いて、里子の手が止まり、遠い目付きになった。
宏。門真宏。以前里子と同じくこの店で働いていた若者だ。長身で、浅黒い肌の、笑顔の素敵な男だった。はにかむような、それでいていつも真摯な瞳。
テーブルを拭いていた店員の健次も顔を上げた。
「ああ、宏ね。あいつは凄い奴だったな」
健次はあのことを言っているのだろうか。里子は思い出した。いつか暴走族が店で暴れた時、宏はたった一人で二十人以上の暴走族を叩きのめしたのだ。それとも、あの台風の日に、途中バイクが転倒してもラーメンをこぼさず、血塗れになりながら出前を届けたことだろうか。彼はいつも真剣だった。彼は絶対に妥協しなかった。
その宏は一年前に、旅に出ると言い残してふらりと去っていった。
里子が告白する前に。
宏のことが話題になる度に、里子は胸に甘い痛みを覚えた。私にもう少し勇気があれば。いや、それは今より悪い結果を招いただけだったろうか。
客用に置かれたテレビからは、ニュースを読み上げるキャスターの冷たい声が小さく聞こえていた。
「そろそろ帰ってこないかな」
店長がちらりと里子の方を見て言った。店長も健次も、里子の心を知っていた。ただそれをあからさまに言うようなことはしなかった。
「案外あいつのことだから、どっかで凄い活躍をしてんじゃないの」
健次が冗談っぽく言った。
「そうだな。ニュースに出てたりしてな」
店長も笑った。里子もそれにつられ、微笑んだ。
その時、ふとテレビの方を見た健次があんぐりと口を開け、五秒後に大声で叫んだ。
「大変だ。宏がニュースに出てる。女百人レイプして捕まったって……」
ガチャン。
里子の手から洗いかけのどんぶりが滑り落ちた。
里子の青春は終わった。
第二十九夜 さらってもいいかい
「さらってもいいかい」
俺は聞いた。
「……いいわ」
女は目を潤ませて答えた。
俺は躊躇しなかった。愛しい女を両手で抱え上げると、全速力で夜の街を走った。俺は歓喜に酔いしれていた。俺は女を抱えたまま何処までも走った。途中、自動車を何十台も抜いた。俺達は遠い南の楽園で暮らすのだ。いや、二人でいられるならたとえ北極でも構わない。式は異国の教会で上げよう。俺は君のためならどんなに辛い仕事でもやってみせよう。子供は何人くらい欲しい。五人でも六人でもいいさ。俺達は永遠に幸せに生きていくのだ。俺は衝動に身を任せ、狭い路地を走り抜け、ビルの屋上まで駆け上がり、滝壷へ飛び込んだ。
ふと気がつくと、女の首が消えていた。
振り返ると、俺の走った道を点々と血の跡が続いていた。
女の首のついていた部分には無惨な断面が見えていた。女の胴体は傷だらけだった。
おそらく走っているうちに、何処かに引っ掛けてしまったのだ。
またやってしまった。これで何回目だろう。
何故いつも、求めるものは手に入らないのだろう。俺は女の死体を道端に放り捨てながら溜息をついた。
第三十夜 一兆人の山田太郎
山田太郎はトラックの運転手だった。今日も鼻歌を歌いながらハンドルを握っていた。交差点に差し掛かった時、赤信号の横断歩道を突然一人の男が飛び出してきた。男は山田太郎だった。山田太郎のトラックは山田太郎を跳ね飛ばした。山田太郎は二十メートル以上宙を飛び、壁にぶち当たって即死した。首の骨が折れ、割れた頭から脳がはみ出した。トラックはそのまま近くの料理屋に突っ込んで、店長の山田太郎と店員の山田太郎が死亡した。トラックは炎上し、運転手の山田太郎も焼死した。
山田太郎は友人の山田太郎と歩いていた。そこへ知人の山田太郎が通りかかったので、二人の山田太郎は山田太郎に挨拶した。だが山田太郎は日本刀を握っていた。二人の山田太郎は走って逃げたが山田太郎に追いつかれて惨殺された。その後も山田太郎は血の滴る日本刀を振り回して通行人に襲いかかり、七人の山田太郎が犠牲になった。
山田太郎はテロリストだった。彼はビルの地下に大量の爆弾を仕掛けた。爆弾は爆発し、ビル内にいた七十五人の山田太郎が死亡、二百二十四人の山田太郎が重軽傷を追い、今もまだ八十九人の山田太郎が瓦礫の下に生き埋めになっている。
山田太郎が斧で山田太郎の頭を叩き割った。山田太郎が銃で山田太郎を撃ち殺した。山田太郎が包丁で山田太郎を刺し殺した。山田太郎が山田太郎の喉笛に噛みついた。山田太郎が山田太郎を崖から突き落とした。山田太郎が山田太郎を毒殺した。山田太郎が山田太郎を轢き殺した。山田太郎が山田太郎を撲殺した。山田太郎が山田太郎を斬り殺した。山田太郎が山田太郎を殺し、山田太郎が山田太郎を殺し、山田太郎が山田太郎を殺し、山田太郎が山田太郎を殺し、山田太郎が山田太郎を殺し、山田太郎が山田太郎を殺し、山田太郎が山田太郎を殺し、山田太郎が山田太郎を殺し、山田太郎が山田太郎を殺し、山田太郎が山田太郎を殺し、山田太郎が山田太郎を殺し、山田太郎が山田太郎を殺し、山田太郎が山田太郎を殺し、山田太郎が山田太郎を殺し、山田太郎が山田太郎を殺し、山田太郎が山田太郎を殺し、山田太郎が山田太郎を殺し、山田太郎が山田太郎を殺し、山田太郎が山田太郎を殺し、山田太郎が山田太郎を殺し、山田太郎が山田太郎を殺しまくった。
大統領の山田太郎は核ミサイルのボタンを押した。地球上を数千発の核ミサイルが飛び交い、地球は巨大な地獄の炎に包まれた。六十億人の山田太郎は一人残らず死亡した。
銀河系では大規模な宇宙戦争が続いていた。外宇宙からの侵略者ヤマーダ帝国と、タタロウ同盟のいつ果てるとも知れぬ攻防戦。これまでに何百億人もの山田太郎の命が失われていた。だが追い詰められたタタロウ同盟側が最終兵器を発動させ、全てが塵に返り、九千億以上の山田太郎達は皆消滅した。
合わせて一兆人の山田太郎。
皆死んだ。