第三十一夜 シャーペン

 

 俺はぼんやりと窓の外を眺めていた。

 眠い。凄く眠い。昨夜は午前四時までテレビゲームをやっていたのがいけなかった。大作のRPGで、早く寝なければと思っても、なかなかやめられない。社会人になってまでテレビゲームをと、課長は俺のことを白い目で見ている。

 今日中に報告書を纏めなければならないのだが、眠くて頭が働かない。俺はシャーペンを持ったまま手と頭をゆらゆらさせていた。

 ここはビルの四階だ。窓際の俺の席からは、都会の町並みが見渡せる。道路を挟んで向かいの建物の一階には、洒落た喫茶店がある。ここから中の様子を眺めることが出来た。今、窓側のテーブルで、一組のカップルがチョコレートパフェを食べている。女がスプーンですくい、口を開けて間抜け顔で待つ男に食べさせてやっている。

 フン。お前のような奴は糞でも食っていればいいんだよ。無関係のカップルに嫉妬して、俺の濁った頭に黒い思考が浮かんだ。

 その時、背後から誰かが俺の頭を小突いた。

「君、眠っているのか」

 課長の声だった。

 ふらついていた俺の頭は小突かれて前のめりになった。手に握っていたシャーペンの先端が俺の右目にズブリと突き刺さった。眼球の半ばほどまで刺さったような感触だった。

「アゲバー!」

 俺は悲鳴を上げた。反射的に立ち上がりながら頭を起こした。後頭部が丁度課長の顔にぶち当たった。その衝撃で俺はクラッときた。バランスを失った俺の体は窓の方に倒れかかった。開いていた窓から、上半身が外へ乗り出した。そのまま俺は下へ落ちていった。俺は一階の宝石店のひさしをバウンドして、道路に転がり落ちた。俺の体が地面に触れる前に、タイミング良くダンプカーがはね飛ばしてくれた。体中の骨という骨が折れ、ゴム鞠のように吹っ飛んだ俺は更に対向車線の大型トラックにカウンターを食らった。加速が加わって俺は殆ど血みどろの肉塊と化し、向かいの喫茶店にガラス窓をぶち破って飛び込んだ。丁度、俺が眺めていたカップルのいるテーブルだった。俺の割れた頭から脳味噌が弾け、その一部が恋人のスプーンを目を閉じて待つ男の口の中へ飛んだ。男はそれを幸せそうに呑み込んだ。

 

 

  第三十二夜 落ちる

 

 太一の家族は数ヶ月に一度、佐賀の祖父の家に泊まりに行く。祖父の聡二郎は数年前に妻に先立たれ、古い屋敷に独りで暮らしている。太一の父親は聡二郎に一緒に住もうと何度も勧めているが、聡二郎はこの生まれ育った家が好きだからと断っている。

 聡二郎の左腕は、上腕の半ばほどから先がなかった。アイロンでも当てたような真っ平らな断端が不思議で、八才の太一は祖父の腕を見る度に気になって仕方がなかった。祖父の左腕のことを父親に尋ねたことがあるが、父親はちょっと怒ったような顔をして、答えてくれなかった。

 日差しの強い昼のことだった。祖父は小さな畑を耕し、太一はそれを手伝っていた。父親は裏庭で薪を割っていた。母親は昼食用のおにぎりを作っていた。

 聡二郎は片腕でも器用に鍬を振り、太一はそれを感心して見ていた。

 今なら父親もいない。太一は思い切って聞いてみた。

「ねえ、お爺ちゃんの左腕、どうしてないの」

 聡二郎は鍬を振る手を休め、太一の顔をにこにこして見た。

「これはなあ、わしにもなんでか分からんのだよ」

「ええ、どうして」

「そうだな……。丁度、ター坊くらいの年の頃だったかなあ」

 聡二郎は遠い目をしていた。

「昼飯を食ってる時だった。いきなり腕の奴が勝手に落ちたのさ。ボトンってな。何もしてないのに、ひとりでに落ちたんだ」

「へええ」

 幼い太一は、そんなこともあるのかと思った。

「全然痛くなかったよ。血も出なかったな。床に転がった腕を見て、ありゃ、これは誰の腕だ、て思った。で、その後は大騒ぎさ」

 聡二郎はさも可笑しそうに笑った。

「ずっと片手で、辛くなかったの」

 太一は聞いた。片腕を失ったことを何でもないように話す祖父が信じられなかった。

「少しは不便だったさ。でもな、いいかい、ター坊」

 聡二郎は味わい深い笑みをつくって見せた。

「大事なのは、手足が揃ってることじゃない。幸せに生きていけるかどうか、それだけさ。そしてわしは片腕でも幸せになれた。ター坊、お前もいてくれるしな」

 そう言って、聡二郎は太一の頭を撫でた。

 太一の頭がずれた。

 目をカッと見開いた聡二郎の目の前で、太一の頭が胴体から外れ、地面にボトンと落ちた。

 鋭利な刃物で切断されたような首の断面は、血が滲みさえしていなかった。

「た、太一……」

 凍りついた聡二郎の頭がずれ、地面にボトンと落ちた。

 

 

  第三十三夜 覚醒の呼び声

 

 鳴海清治はコンビニで買った弁当を食べながらテレビを見ていた。

 彼は一人暮らしの大学生だった。なんとなく選んだ経済学部。今週の木曜までにレポートを仕上げなければならない。

 こんな筈ではなかった。鳴海の頭には、いつもその思いが巡っていた。

 幼い頃は、もっと素晴らしい人生を信じていた。自分にはきっと凄い力があり、いずれ世界の頂点に立つ存在だと思っていた。

 それがどうだ。今はしがない三流大学の学生だ。将来も既に見えている。

 テレビではとても面白い番組をやっていた。だが鳴海は笑う代わりに虚しい溜息をついた。

 その時、声がした。

「なんてざまだ。悪魔の中の悪魔と呼ばれたお前が」

 鳴海は驚いて振り返った。

 部屋には誰もいなかった。

 向き直ると、いつの間にかテレビの電源が切れていた。

 静寂の中で、声だけが再び聞こえてきた。

「こんなところで何をやっているのだ。自分が何のためにこの世界に生まれてきたのか、忘れてしまったのか」

 最初は錯覚かと思った。だが、声は、確実に、聞こえていた。鳴海の頭の中に、直接響いてくるようだった。声は、冷たかった。そして、少し怒っているようだった。

「誰だ。何処から俺に話しかけてるんだ。何故、俺にそんなことを言う」

 鳴海は混乱して、声に聞いてみた。自分が狂ってしまったのかとも思った。

「本来の目的を思い出すがいい。人類を絶滅させ、世界を消滅させるという偉大な目的をな。魔神・ダールよ」

 ダール。

 その名前を耳にした途端に、鳴海の頭の中にあらゆる情景が蘇った。五十億年前の戦場で、四百万の配下を率いて神の軍団と戦ったこと。三十四億年前の大戦では名誉将軍として悪魔達に迎えられたこと。二億年前の大殺戮、人間という名の汚らしいクズどもを殺して殺して殺して……。

 そうだ。鳴海は目を輝かせた。俺は世界を滅ぼすためにここに生まれてきたのだ。

 彼の心をこれまで感じたことのない充実感が満たしていた。体中に力が溢れていた。どんなことも可能に思えた。

「そう、それでいい。ダールよ。行くがいい。人類を恐怖のどん底に叩き落とし、世界を地獄に変えるのだ」

 鳴海は歓喜の雄叫びを上げた。もう、いても立ってもいられなかった。彼は立ち上がり、叫びながらマンションを飛び出した。そして車に轢かれて死んだ。

 

 

  第三十四夜 屍の上に……

 

 屍の上に屍、更にその上に屍。

 それは、屍の山。

 彼らは、登り続ける。

 遥かなる高みを目指して。

 それは究極の目標。至高の真理。

 彼らは同志の屍を踏み台にして登っていく。

 屍の山の頂上に達しても、まだあの高みには届かない。

 そして死ぬ。自らもまた屍になる。

 後から登ってくる同志達のために、踏み台になるのだ。

 いつか、無数の屍を乗り越えて、誰かが高みに到達することを信じて。

 彼らは、登り、喜んで死んでいく。

 屍の上に屍。屍の上に屍。屍の上に屍。屍の上に屍。

 屍の上に屍。屍の上に屍。屍の上に屍。屍の上に屍。

 彼らは登っていく。

 膨大な時が流れ、夥しい屍が積まれていった。

 そして、巨大化した屍の山の頂上で、ついに一人がその高みに達した。

 遠い昔から、皆が望んでいた高み。ただそれだけのために登り、死んでいった。無数の同志の遺志を継ぎ、ついに彼は目的の高みに届いたのだ。

 彼は強い感動に包まれていた。彼は歓喜の涙を流していた。

 彼は逸る心を鎮めながら、その高みに隠された真理を覗き見た。

 そこには、一体の巨大な屍だけが転がっていた。

 腐って、蛆の涌いた屍だった。

 ただ、それだけだった。

 彼は悲鳴を上げた。彼はのけ反り、バランスを失って足を踏み外した。無数の屍で作られた、崇高な願いの込められた屍の山を、彼は叫びながら転がり落ちていった。

 

 

  第三十五夜 顔の海

 

 男は一人海岸に立っていた。風が強い潮の香りを運んできたが、男はそれに血の匂いを嗅いだような気がした。

 男は、無表情に、海を眺めていた。

 赤い海を。

 人類が海にゴミを捨て始めて、もうどれくらいになるのだろう。食べ物の残りかすから生活用水、工業用水、産業廃棄物、核廃棄物、死体、そして……。

 海には、無数の平たい肉片が浮かんでいた。

 それは、人の顔。

 頭部から鋭利な刃物で削ぎ落とされたような個性の象徴。

 海は、人の顔で埋まっていた。

 人類が、自分の顔を放棄してから、どれくらいになるのだろう。

 生まれた時に切り取られ、海に捨てられた顔。今では世界中の国がやっていることだ。

 男の、顔のある筈の部分には、鼻の隆起のない、平たい白い面が装着されていた。目と口のあった部分には、細い線のような切れ目が走っているだけだ。

 男は、『無表情に』、海を眺めていた。

 捨てられた顔は、本来の持ち主の生きている間は、腐りもせずに赤い海を漂っているという。

 男は、自分の顔を探していたのだ。

 二時間近くも、男は海岸に立っていた。

「ソロソロカエロウヤ」

 背後から声が聞こえた。男の友人だった。彼も男と同じ、特徴のない白い面をつけていた。

「ジブンノカオハ、マダミツカラナイノカ。イイカゲンアキラメロヨ」

 友人の言葉に、男は首を振った。

「モウニドトコナイサ」

 男は車へと戻っていった。

 男は、見つけていた。

 いや、俺の顔があんな顔である筈がない。あんな悪魔のような顔である筈が……。

 男は無言で運転席に乗り込んだ。

 

 

  第三十六夜 いませんか?

 

 志村高雄はその新しい自分の部屋を満足げに見渡していた。八畳の部屋にキッチンが付き、風呂、トイレも別々だ。会社の寮とはいえ、なかなか大したものじゃないか。

 高雄は建設会社の新入社員だった。彼は春からの勤務に向けて、この一室をあてがわれた。部屋は七階で、窓からの眺めも格別だ。

 よし。頑張るぞ。高雄は希望に燃えながら、持ち込んだ主な荷物を解いていた。

 その時、電話が鳴った。

 誰だろう、いきなり。実家のお袋か。それとも、会社からか。

「はい志村ですが」

「もしもし、そちらに中島さんはいませんか」

 女の声だった。急いでいるような様子。

「え、中島さんですか」

 聞いたことのない名前だった。

「いえ、いませんが」

「そうですか」

「……。あの、僕は志村ですが」

「そうですか」

「それから、ここは会社の寮ですよ」

「分かっています」

 電話は切れた。

 何だったのだろう。高雄は首を捻りながらも、荷物の整理を再開した。

 三十分も経たずに、また電話が鳴った。

「はい、志村ですが」

「もしもし、そちらに中島さんはいませんか」

 同じ女の声だった。

「いえ、いませんが。……。あの、さっきもかけましたよね」

「いないならいいんです。失礼します」

 電話はすぐに切れた。

 高雄は少し腹が立った。何だあの女は。自分は名乗らずに、用件だけ言って切りやがって。

 高雄は荷物の整理を再開した。

 十分もせずに、また電話が鳴った。

 高雄はムカムカしながら受話器を取った。

「はい志村ですが」

「もしもし、そちらに中島さんは……」

「いないって言ってるだろ。しつこいんだよ!」

 高雄は叫んで受話器を叩きつけた。

 荷開きする気が削がれた。高雄は洗面所で顔を洗い、トイレのドアを開けた。

 目の前に足があった。

 高雄は、ゆっくりと、見上げた。

 一人の男が、トイレで首を吊って死んでいた。死体から洩れた糞尿が、便器の中にポタポタと落ちていた。死体の目は、高雄の方を恨むように睨んでいた。

 電話がまた鳴り出した。

 高雄はフラフラと部屋に戻り、幽霊のように受話器を取った。

 同じ女だった。

「もしもし、そちらに中島さんはいませんか」

 何故か、勝ち誇ったような声だった。

「いると思います。……多分、彼が中島さんです」

 答えながら、高雄はこの会社を辞めようと考えていた。

 

 

  第三十七夜 窓

 

「このアパート、いつも夜中になるとゴソゴソうるさいのよね。一体、皆、何してるのかしら」

 妻の愚痴に、明彦は関心なさそうに答えた。

「彼らだってそれなりの事情があるんだろうさ。あまり他の住人の詮索なんてしないことだよ」

 明彦がそう言っても、妻は依然として心配そうだった。

「でも、変な声が聞こえてくることもあるのよ。悲鳴とか。それに、ここに越して来てから、他の住人と顔を合わせたことがないわ。卓も夜中にうなされてるみたいだし。何だか、気味が悪い」

 卓とは、三才の息子のことだ。

「しょうがないだろう。今どき家賃が二万円なんてところ、他にないぜ」

 それが本音だった。明彦もこのアパートの異様な雰囲気には気づいていた。だが、妻子を抱えて安月給の明彦には、いかんともしがたいことだった。

 妻も分かっているのだろう、それきり口をつぐんだ。

 その夜のことだった。

 明彦はなんとなく目を覚ました。時計を見ると夜中の二時だった。

 何だか喉が渇いていた。彼は冷蔵庫を漁りに起き出した。隣では妻と息子がすやすやと眠っていた。

 冷蔵庫に何もなかったので、彼は近くのコンビニへ買い出しに行くことにした。こんな夜中にアパートを出ることは、初めてのことだった。

 ビールなどの入ったビニール袋を提げて戻った彼は、アパートの全ての窓から明々と光が洩れていることに気づいた。昼間はいつもカーテンが掛かっていて、中は見えなかったのに。

 そして彼は見た。

 明彦の部屋の左隣の部屋では、黒いローブに尖ったフードを被った者達が、何かの儀式をやっているようだった。祭壇の上には首を切断された鶏が捧げられていた。

 右隣の部屋には、十体以上の人間の死体が、食肉工場の牛のように吊られていた。一人の男がにこにこしながら死体をさばいていた。

 二階の部屋では、六本足の毛むくじゃらの怪物がゴソゴソ動いていたし、その隣では部屋一杯に人骨が積まれていた。また別の部屋では触手に支えられた巨大な目玉がこっちを見ていた。

 そして。おお、彼は見たのだ。

 明彦達の暮らす部屋にも、灯かりはついていた。コウモリのような翼のある、黒い人型の怪物が二体、窓越しに見えた。

 女性と、子供であるように、明彦には見えた。

 明彦の手からビールの袋が落ちた。

 彼は、そのまま二度と自分のアパートには帰らなかった。

 

 

  第三十八夜 大パーティー

 

 今夜は木村君の家でパーティーだ。彼の家は狭いけど、沢山の仲間が集まって、ワイワイ騒げば楽しいよ。

 阿部君や石橋さん、吉村さんに手伝ってもらい、サンドイッチやサラダやお肉やワインやその他色々用意して、準備万端死角なし。

 ほら早速やってきた。田中君、佐藤君、霧島さんに工藤さん。

「やあ久し振り」

「今夜は楽しもう」

「佐藤君、結婚したって本当かい」

「霧島さんはイギリスに行ってたんだって」

 そう、僕らは気のおけない仲間。

 さあ次のお客様だ。神谷君に来留間君に飯田君にヨーコさんに奈良山さんに斎藤君。

「お菓子買ってきたぞ」

「こっちはビール」

「ああ、そういえば田中、お前に三万円貸したままだったな」

「そうだっけ」

 また客だ。志賀君に真田君に大島君に仁村君に牛島君に筧君に小島さんに瀬田さんに相川さんに最上さんに西村さんに大川さんに吉田さん。

「ちょっと狭くなってきたな」

「元々狭いんだよ」

「そういえば仁村、お前に五万円貸したままだったな」

「お前はそればっかりだ」

「おーい、そこのワイン取ってくれよ」

 まだまだやってくるぞ。木村君には友達が多いんだ。坂巻君に後藤君に加島君に真島さんに岡本君にジョージにナタリーに黒川さんに柳君に大熊君に木島君に悪魔君に坂東さんに須藤君に藤堂さんに高崎君に藤代君に矢部君に和田君に原田君に渡辺君に……

「せ、狭い」

「身動きが取れない」

「窓を開けろ、酸素が足りないぞ」

「ええ何だって、聞こえない」

「そういえば大熊、お前に八万円……」

「あ、何か踏んだ」

「だ、誰か助けて」

「いい加減に多すぎるぞ」

「あ、後藤君久し振り」

「ゲベベベベベ、ゲベベベベベベベベベ」

「い、息が苦しい」

 更に客はやってくる。どんどん、容赦なくやってくる。ぎゅうぎゅうの家の中に、次から次へと入っていく。

 既に狭い家に二百人以上の仲間達が入っていた。まるで地下鉄のラッシュアワーのように、隙間なく詰め込まれていた。

 だがそれでも入ってくる。仲間を踏み潰し、横の隙間がなくなれば、上の隙間へ。仲間達は積み上げられていく。

 そう、僕らは気のおけない仲間。

 一時間後、木村君の家は内部からの圧力によって破裂した。

 狭い家に二千人以上が詰め込まれていた。木村君を含めて三百人以上が圧死、二百人が窒息死、千人以上が重軽傷を負った。

 

 

  第三十九夜 一瞬の世界

 

 一つの世界が生じ、一秒で消滅した。

 

 

  第四十夜 初夏の夜

 

 私は夜中の三時に目を覚ました。

 どうして目が覚めたのだろうと考えるうちに、手足のあちこちが凄く痒いことに気づいた。

 畜生。蚊だ。

 まだ梅雨も始まっていないからとたかを括っていたのがまずかった。まだ蚊取り線香も痒み止めの用意もしていなかった。

 既に合計して十箇所近くも血を吸われていた。特に指先や足の裏のものが痒い。掻いても掻いても痒くてたまらない。

 だがどうしようもない。明日は蚊取り線香と痒み止めを買ってこよう。今夜は堪えるしかない。

 私は頭から毛布を被り、手足も顔も出さないようにして寝ることにした。

 だが、夜の静寂を破り、蚊の飛び回るブーンブーンという音が聞こえてきた。蚊は、わざとらしく私の顔の近くを飛んでいるようだった。

 それに、毛布を被っているせいで、私は息が苦しくなってきた。それに、まだ手足のあちこちが痒くてたまらない。これじゃあ眠れない。

 畜生。蚊の奴め。

 私は腹が立って、暗闇の中で手を振り回した。小さな蚊に命中する筈はないのに。

 ところが命中した。異様な感触だった。巨大な柔らかい塊に手を突っ込んだような、不気味な感触。

 私の腕が穴を開けた何ものかから、粘液状のものが噴き出し始めた。

 それは私の顔にかかり、口の中にも入り込んだ。私は吐き出そうとしたが、それは凄い勢いで噴き込んできて、私の食道と気管に滑り落ちていった。

 私はむせ、咳き込んだ。腕を引き抜くと、粘液は更に勢いを増した。

 私は立ち上がり、灯かりをつけようとした。この異様なものの正体を確かめねばならなかった。

 床に満ち始めた粘液に足を滑らせながらも、私は電灯のスイッチを入れた。

 光の中に露になったものを見て、私は息をすることも忘れた。

 それは、巨大な蚊だった。全長が五メートル以上あるだろう。どれだけの人の血を吸ったのだろう。寝室一杯に膨れ上がった、蚊。

 その醜く膨れた腹に穴が開いて、せっかく貯め込んだ人の血が、体液と一緒に噴き出していた。

 私は、下を見た。

 みるみる赤い粘液で埋まっていく床に、血を吸い尽くされてミイラ状になった私の妻と二人の子供の死体が転がっていた。

 私は叫び声を上げた。部屋から逃げ出そうとして滑って尻餅をついた。

 部屋は粘液の海と化そうとしていた。水位がみるみる上がっていく。私の体は浮かび上がった。じきに天井まで達するだろう。

 失った蓄えを挽回する積もりだろう、巨大な蚊が、穴の開いた体でじりじりと私の方に迫ってきた。重い体のせいで、飛ぶことは出来ないらしい。

 何故私が、こんな目に遭わなければならないのだろう。これまで平凡でも家族と幸福な人生を歩んできたのに。

 その時、粘液の圧力に耐えかねて窓ガラスが割れた。粘液がどっと外に溢れ出した。ここはマンションの十四階だった。大量の粘液に流されてベランダの柵を越え、私の体は、巨大な蚊と妻子の死体と一緒に奈落へ落ちていった。

 

 

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