第五十一夜 頑張れよ

 

 村田敬は大急ぎでその荷物を引きずっていた。夜も更けて人通りも少なくなったとはいえ、こんなところを人に見られたくはない。

 彼の運んでいるのは、細長く大きな包みだった。白い布でグルグル巻きにしてある。かなり重そうな荷物だ。まるで、中に人間が入っているように見える。

 実際それは村田の妻の死体だった。巻いたシーツの胸の辺りに赤く血が滲み始めていた。彼が包丁で刺した個所だ。

 こんな筈ではなかった。村田の焦る頭の中で同じ思考が回っていた。最初は些細なことだったんだ。ワイシャツに付いた口紅がどうたらこうたらと。それが次第にエスカレートして、この浮気者離婚してやると叫び出し暴れ出し、妻は包丁まで持ち出した。慌てて妻の腕を押さえてもみ合っているうちに、いつの間にか妻は死んでいたのだ。

 と、とにかく、死体を始末しなければ。彼は考えていた。家からそう遠くないところに小さな山がある。彼はそこに死体を埋める積もりだった。

 死体の包みをトランクに詰めようと一人で四苦八苦していた時、背後から人の気配が近づいてきた。

 村田はビクリとして振り返った。歩いてくるのは見知らぬ中年の男だった。

 ばれる筈はない。堂々としていれば怪しまれないさ。村田は荷物を抱えたまま平然を装っていた。

 男は村田の望みとは逆に、彼の方に近寄ってきた。

「大変そうですね。手伝いましょうか」

 男はにこにこして言った。

「い、いえ。結構です」

 村田は断った。早くあっちへ行け。行ってしまえ。

「そんなに遠慮なさらずとも、さあさあ」

 と言うと男は荷物の端を持って手伝い始めた。村田は仕方なく、男と一緒に死体をトランクに収めた。

「ど、どうもありがとうございます」

 村田は冷や汗をかきながら言った。

「いえいえ、大したことじゃありませんよ。それにしてもあなたは大変ですねえ」

 男は同情するように言った。

「え、な、何のことです」

 何を言っているんだこの男は。村田の背筋がぞくりと寒くなった。初対面の男なのに。

「あなたは悪くありませんよ。そう、あなたは悪くない。不可抗力というものです。まあ頑張って、うまく逃げおおせて下さいよ」

 男はそう言って村田の肩を叩いた。

 十分後、荷物が一つ増えていた。

 カーテンに包まれた、中年男の絞殺死体だった。村田は男の重い体をなんとかトランクに詰めようと苦労していた。

 何故こんなことになってしまったのか。村田は泣きそうになっていた。要らぬ殺人を犯してしまった。なんでこんなことに……。

「手伝いますよ」

 声に振り返ると、若い男が微笑を浮かべていた。

 村田が何か言うより早く、若者はカーテンに包まれた荷物をトランクに押し込んでくれた。

「まあ、頑張って逃げて下さいよ。捕まったら、何十年懲役を食らうか分かりませんからねえ」

 若者は言った。

 そして死体が一つ増えた。

 若者の死体を後部座席に押し込んでいた時、一人の老婆が通りかかった。

「あんたも頑張りなよ。三つも死体を埋めるのは大仕事だろうけどさ」

 老婆はそう言って通り過ぎようとした。

 村田は走って追いかけて老婆を刺し殺した。

 村田の形相は鬼と化していた。

 新しい死体を車に乗せようとすると、また見知らぬ人が頑張れと声をかけてきた。殺しても殺しても、応援してくる見知らぬ人は次から次へと現れた。

 村田が全ての死体を乗せて運転席についた時には、車には十六体の死体がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。

 血みどろの死体は包装もされずに車内に積み上げられていたが、もう村田は誰に見られようと構わなかった。

 重くなった車は鈍いスタートを切った。

 死体を満載した車は山道を登っていった。細い道の急なカーブを曲がる際に、村田はハンドルを切り損ねた。重量オーバーのせいだ。車はガードレールをぶち破って崖を転がり落ちていった。村田は十七番目の死体となった。

 

 

  第五十二夜 焼き肉屋にて

 

「恵美ちゃん、今日は焼き肉にしようか」

 成田幸治は五才になる娘の恵美を連れて焼き肉屋に入った。妻に先立たれた成田は大抵外食だ。四十才を過ぎて生まれた一人娘の恵美は、成田には目に入れても痛くないほど可愛かった。

「二名様ですか」

 迎えた焼き肉屋の店長は、病気かと思えるほど青白い顔をしていた。嫌な店に入ってしまったものだと内心成田は思った。

「ああ、見りゃ分かるだろうが」

 成田はぶっきらぼうに答えた。成田は娘以外の誰に対しても、傲慢な態度で接していた。

 テーブルに着いて、まずはタンから始まった。意外と肉はうまかった。

「恵美ちゃーん、これ焼けてるよ。おいちいかな?」

 成田は娘にニコニコして話し掛けた。

 他に客はおらず、店長は隅に立って陰気な目つきで成田達を眺めていた。成田は店長の目つきに苛つきながら、彼を何処かで見たような気がしていた。

「パパ、おしっこ行きたい」

 もじもじして恵美が言った。

「トイレはこちらです」

 店長が奥の扉を指差した。

「恵美ちゃーん、一人で行けるかな」

「うん」

 恵美はトコトコとトイレに駆けていった。

 店長は次の皿を持ってくるため、奥へ消えた。

 恵美はなかなか戻ってこなかった。どうしたんだろう。カルビを平らげた成田が少し心配になってきた時、店長がレバーとホルモンの皿を持ってきた。

「どうぞ」

 成田は無言で肉を鉄板の上に並べた。

 店長は、成田を見つめたまま、テーブルの側から去ろうとしなかった。

「どうした。気味が悪いな。あっちへ行け」

「私を覚えておられますか」

 出し抜けに店長が言った。

「知らん。お前など知る筈もない」

「私は三島と申します」

「……」

 その名前には覚えがあった。

「少しは思い出してくれましたか。そうでないと意味がない。私は、あなたに騙され、会社を乗っ取られた三島信吉ですよ」

 成田の頭に昔の記憶が蘇った。まさか、こんな所で焼肉屋をやっているとは知らなかった。自殺したという噂はデマだったのか。

「ひ、人聞きの悪いことを言うな。お前が馬鹿で無能だっただけだ」

 成田は言った。娘がまだトイレから戻らないのが気になっていた。

「全くその通りですよ。私は馬鹿で無能だった。あなたのようなクズに破滅させられたのですから」

「……」

 成田は答えず、焼けてきたレバーにぱくついた。新鮮な肉を使っているらしく、とてもうまい。これで店長がこいつじゃなかったらいいのに。

「でも、もういいんですよ。今あなたに再び巡り会うことが出来たんですからね」

「お前なんかと会っても、俺は嬉しくも何ともねえ」

「……。可愛い娘さんがおいでだ。それにしても娘さんは、まだ戻ってきませんねえ」

「き、貴様、娘をどうした」

 成田は血相を変えた。

 店長はニヤニヤして、意味ありげに囁いた。

「おいしいでしょう、その肉……」

「ゲッ」

 成田は箸を落とした。まさか、まさか、これは、恵美の……。胃の中のものが、喉元まで上がってきた。

「パパー」

 その時トイレの扉が開いて、恵美が戻ってきた。成田は安堵した。地獄から一気に天国に戻ってきたような心境だった。成田は喉まで上がってきていたものをゴクンと呑み込んだ。

「ケッ、なんでえ。人を驚かせやがって」

 成田は店長に向かって唾を吐いた。店長は無言で奥へ消えた。

「恵美ちゃーん、遅かったねえ」

 成田は愛しい娘を両手で抱え上げ、そして、凍りついた。

 娘の体は、異常なまでに軽かった。

 

 

  第五十三夜 リセット

 

 若い男が道を歩いていた。彼は、腰のベルトに、一本のコンバットナイフを提げていた。

 彼の歩きぶりは、傍目から見ればとても奇妙に映ったことだろう。彼は同じ道を行ったり来たり、何度も往復しているだけなのだ。何かを待っているのだろうか。

 その時、道の向こうから若い女性が歩いてきた。彼女は買い物袋を持っていた。

 彼はにやりとして、誰にともなく呟いた。

「買い物帰りの主婦が現れた」

 彼はコンバットナイフを抜いた。刃には、血がこびりついていた。

 彼はナイフを振り上げて主婦に襲いかかった。

「キャア、な、何ゴボッ」

 主婦は抵抗する間もなく、首にナイフを突き立てられて倒れ、息絶えた。

「買い物帰りの主婦は倒された。シンジは二万三千円と、五十三ポイントの経験値を手に入れた」

 主婦の財布を漁って、彼は言った。シンジとは、どうやら自分の名前のことらしかった。

 もう死体には目もくれず、彼は再び歩き出した。やはり同じ道を往復する。

 今度は彼の前を、中年のサラリーマン風の男が歩いていた。

「サラリーマンが現れた。まだ相手はこちらに気づいていない」

 彼はコンバットナイフを振りかざして背後から迫る。

「うわ何だ君ゴベッ」

 中年男は背中を刺されながらも抵抗した。彼は男の腹にナイフを何度も突き刺し、最後は首を掻き切って止めを刺した。

「サラリーマンは倒された。シンジは五万六千円と七十六ポイントの経験値を手に入れた」

 荒い息をつきながら、彼は呟いた。続けて彼は鼻歌で明るいメロディーを流した。

「シンジはレベルが上がった。最大ヒットポイントが七ポイント、力が三ポイント、素早さが一ポイント、器用さが二ポイント、知性が二ポイント、魅力が三ポイント、運が二ポイント上がった」

 彼は言った。

「そろそろ、あれを試す時が来たな」

 彼は呟いた。

「その前に、宿屋に泊まるか。ただの宿屋に」

 彼は自宅に帰った。台所では両親の腐乱死体が転がっていた。何故こいつらはいつまでも消えずに残っているのだろう。彼は思った。

 彼は冷蔵庫を開けて適当に食べ、一晩眠って体力を回復すると、冒険の旅を再開した。彼は刃物屋で四万三千円の剣鉈を買った。コンバットナイフを半額で売ろうと思ったが出来なかった。

「強い武器も買ったし、やるか」

 彼は交番に向かった。外から観察して、警官が一人であることを確かめた。この裏技は、警官が一人でいる時しか使えない。

「すいませーん。ちょっと聞きたいんですけど」

 彼は抜き放った剣鉈を後ろ手に隠し、交番に入った。

「何だね」

 答えた警官の脳天に、彼は剣鉈を打ち込んだ。

「うわっ」

 鉈は警官の頭に数センチ減り込んだ。だが警官はまだ生きていた。さすがに今までの雑魚キャラとは違う。警官は鉈の刃を掴んで取り上げようとした。彼が鉈を引くと、警官の指が何本も切れて落ちた。

 彼は警官の胸に何度も剣鉈を突き刺した。

 手足を痙攣させて、ついに警官は動かなくなった。

「警官は倒された。シンジは百五十六ポイントの経験値を手に入れた。なんと警官はアイテムを持っていた」

 彼は警官の腰から、拳銃を取り上げた。

「シンジはピストルを手に入れた」

 彼はニヤリとして呟いた。

 彼は町に出て拳銃を発砲した。人々は驚いて逃げ惑う。

 ピアスをした若者が血を吐いて倒れた。

「シンジは七十九ポイントの経験値を手に入れた」

 杖をついていた老婆の頭が吹き飛んだ。

「シンジは三十六ポイントの経験値を手に入れた」

 置き去りにされた幼児の胸に血の花が咲く。

「シンジは四十二ポイントの経験値を手に入れた」

 背広の男の頭に穴が開き、眼球が飛び出した。

「シンジは九十三ポイントの経験値を手に入れた」

 いつの間にか、彼は警官隊に包囲されていた。

「すぐに銃を捨てろ。抵抗すると射殺する」

 刑事がメガホンで叫んだ。

「シンジは逃げられない!」

 彼は叫んだ。

「シンジは逃げられない!」

 十数の銃口が彼に向けられていた。

「やり直すか」

 彼は呟いた。彼は銃口を上げ、自分のこめかみに向けた。

「リセット」

 彼は引き金を引いた。

 

 

  第五十四夜 ジャジャジャーン

 

 三人の男達が巨大な換気扇の前で立ちすくんでいた。彼らは地味な色の囚人服を着ていた。

「どうする」

 一人が聞いた。

「折角ここまで換気孔を通って来たのに。これじゃあ通れねえ」

「無理に通ったら挽肉になっちまう」

 もう一人が言った。

 直径二メートルの鋼鉄の換気扇は、凄い勢いで回っていた。回転を見切って潜り抜ける荒業など不可能だ。男の言ったように、忽ちセンチ刻みのミンチになってしまうだろう。

 三人の囚人は、監獄の壁に半年がかりで少しずつ穴を掘り、漸くここまで辿り着いたのだ。脱獄の計画は予定通りに進んだ。こんな皮肉な結末が、口を開けて待っているとも知らずに。

 ぐずぐずしていると、部屋にいないことが看守にばれてしまうだろう。そうすると全ては終わりだ。

「何かを突っ込んで、換気扇の動きを止めてしまえばいいんだが」

 そんな丁度良い鉄の棒などはない。

 突然背後から声が聞こえた。

「ジャジャジャーン」

 三人が驚いて振り向くと、見たこともない格好をした男が立っていた。

 男は派手な赤白の縞模様のレオタードを着て、ピンク色のマントを羽織っていた。羽飾りのついた帽子を被り、目の辺りだけを隠す赤い仮面をつけていた。

「なな何だお前は何処から」

「任せろ」

 仮面の男はそれだけ言うと、三人の間を抜けて、鋼鉄の換気扇に躊躇なく頭から飛び込んだ。

 この男は一体何者なのか。これから何が起こるのか。三人の囚人は唖然として見ていた。

 ガガガガガガガガガガ。

 換気扇は止まらなかった。血と肉片が周囲に飛び散った。仮面の男は寸刻みにバラバラになっていった。

 勢いのついた男の体は爪先まで換気扇に巻き込まれていった。

 やがてそこには、大量の返り血を浴びた三人の男と、壁や床に張りついた血と肉片だけが残された。

 換気扇の回転は少しの衰えも見せなかった。

 状況は、少しも変わっていなかった。三人の囚人は、ただただ唖然として立ち尽くしていた。

 

 

  第五十五夜 もつ鍋

 

 清志の下宿に同じ大学の仲間が六人集まって、もつ鍋会をすることになった。

 材料を持ち寄る仲間達を見かけて、同じく下宿人の小沢が声をかけた。

「へえ、今日は皆でもつ鍋かい」

 清志は小沢が嫌いだったが、義理で誘ってみた。

「小沢さんも一緒にどうです」

 小沢は、歪んだ笑みを浮かべた。

「もつ鍋ってことは、臓物を使うんだよな。誰のを使うのかな」

「誰のって……。……」

 清志はその意味を理解した。なんでこいつはこういうことしか言わないのだ。

「もういいです」

 清志はぷいとそっぽを向いた。小沢はちょっと困ったような、寂しそうな顔をして去っていった。

 彼は、人とああいう接し方しか出来ないのかもしれない。そんな自分を小沢自身も嫌気がさしているのではないだろうか。清志はふとそんなことを思った。

 小沢はそれからは姿を見せなかった。清志はもう彼のことは忘れて仲間ともつ鍋作りを楽しんだ。

 ワイワイ言いながら煮込んで、そろそろ食べられるかなという頃になって、突然部屋に小沢が入ってきた。

「ごめんよー。ごめんよー」

 小沢は泣いていた。

 皆が悲鳴を上げた。小沢は右手に血のついた包丁を握っていた。

 小沢は上半身裸だった。その腹が縦にばっさりと切り裂かれていた。

 自分で裂いたのだ。

 小沢は左手に腸を握っていた。腹腔からはみ出した、自分の小腸を。

「うわっ小沢さん、あんた……」

「あんな嫌なこと言ってごめんよー。だからお詫びにこれも使ってくれよー」

 小沢は泣きながら自分の腸を包丁で切断した。

「うわわわわっ」

 清志達は後じさった。小沢は炬燵の上の鍋に、自分の腸を入れた。友人の一人がそれを見て吐いた。

「ほら、皆で食べようよ。おいしいよ、これ」

 小沢は泣きながら、自分の腸を箸で取って食べた。

 この事件の時は、小沢は死ななかった。彼は救急車で運ばれ、一命を取りとめた。彼がその異常な人生を終えたのは、三ヶ月後の味噌汁会で自分の脳味噌を……

 

 

  第五十六夜 すまない

 

 午前二時、私は眠れずに、隣で寝ている妻・美晴の横顔を眺めていた。

 美晴。これまで、ありがとう。

 私は弱い人間だ。幼い頃から、自分の弱さには気づいていた。普通の人なら何も感じないようなちょっとした人間関係の摩擦に、自我を根底から揺さぶられるような不安と恐怖を感じるのだ。

 だから私は人と付き合うのが苦手だった。家から出るのが怖かった。学校にも行きたくなくて泣いていた。毎朝仕事に出かける際に、怯えた気持ちを、相当の覚悟をもって奮い立たせなければならなかった。

 それでもなんとか社会に出られたのは、取り残されるのが怖かったからだ。

 私は死ぬことも出来なかった。何度も死にたいと思ったことはある。でも、弱い私は死の苦痛を怖れた。

 一瞬で、楽に、死ぬことが出来たら。

 私は、生まれてこなければ良かった。

 そんな私を美晴、お前は愛してくれた。

 この私の弱さを、全て認め、受け入れてくれた。

 お前は私のオアシスだった。私がこれまでこの無情な世界で生きてこられたのも、お前のお陰だ。

 でも。

 もう、辛いんだ。

 この弱い私に、お前の笑顔に見合うだけの価値があるだろうか。

 私はお前の負担になってはいないか。私はお前の人生を狂わせてはいないか。

 私はお前に見捨てられはしないだろうか。お前がふとこの目の前の男を見つめ直して、その男がとてもつまらない、みすぼらしい男であることに気づいた時。

 私は、怖いんだ。

 私には、もう、お前の笑顔が辛くなり、耐えられなくなってきたんだ。

 美晴。

 私は物置まで歩き、大きな斧を持ち出した。

 寝室まで戻ると、私は美晴の幸福そうな寝顔をもう少し眺めた後、斧を振りかぶった。

 すまない。

 私の頬を伝うこれは、涙なのだろう。

 愛する美晴の首筋に、私は渾身の力を込めて斧を振り下ろした。

 

 

  第五十七夜 寒い寒い

 

 緩い坂を登って一時間ほどで、二人は頂上に着いた。初夏の山は緑の生命力に溢れていた。遠くにはミニチュアのようにひしめく建物が見える。

「知ってるか」

 しばらく景色を楽しんだ後で、悟郎は聞いた。彼の口元には悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。

「何を」

 恋人の明子が聞き返す。二人は来月に結婚式を挙げる予定だった。

「この山には雪男が出るって話だぜ」

「ええーっ、うそ。こんな小さな山に。雪もないのに」

 明子は悟郎の話に半ば呆れ、半ば面白くなっていた。

「それでも見た人が何人もいるんだ。人を攫うっていうから、明子も気をつけた方がいいぞ」

「うふふ、何よそれー」

 明子は笑った。

 その時、二人の背後から別の声が聞こえた。

「寒い寒い」

 振り向きかけた悟郎の頭を毛むくじゃらの手が掴んだ。ブヂッと音がして悟郎の首が引き千切られた。

「寒い寒い」

 呆気に取られた明子の目に、悟郎の首を大事そうに抱えて木々の奥へ消えていく怪物の姿が見えた。明子は、首を失った恋人の横で、あんぐりと口を開けたまま悲鳴を上げることも忘れていた。

 

 

  第五十八夜 人類滅亡

 

 彼は黙って鍬を振り、畑を耕していた。痩せていて体格に劣る彼は、一生懸命やっても他の男達の半分程度しか進まなかった。そして彼はやる気もなかった。

 山へ狩りに行っていた連中が帰ってきた。

「どうだ、収獲は」

 リーダーが聞いた。

「野犬が二頭だ」

 ライフルを持った男が答えた。

「そうか。よくやった」

 次は、川へ行っていた連中が帰ってきた。魚が十六匹。リーダーは彼らにもねぎらいの言葉をかけた。

「それに比べてあいつは全然役に立たない」

 誰かが言った。それは、彼のことを言っているのだった。

「いいんだ。彼も彼なりに頑張っているんだ」

 リーダーの声は彼の耳に届いていた。それは逆に、彼に強い屈辱感を与えていた。

 偉くなりたかった。いい加減に鍬を振りながら、彼は思っていた。

 世界で一番偉くなりたかったんだ。

 だが、現在、地球の全人口は、百七十三人だった。

 核戦争で大陸は沈み、生き残った人々も次々と疫病に倒れ、この小さな村の百七十三人だけが、唯一の人類だった。

 彼は大統領になるのが夢だった。世界で一番強い国の、一番偉い人間になる積もりだった。それが出来ないとしたら、小説家にでもなって凄い小説を書いて、全人類に自分という存在をべったりと貼り付けてやりたかった。

 だが、全ては、崩れ去った。

 彼は、自然の中で生き抜く能力は、人よりかなり劣っていた。それに比べ今のリーダーは強靭で、頭も良く、指導力のある男だった。人類を導くのはその素晴らしいリーダーであり、逆に彼は役立たずの穀潰しに過ぎなかった。

 夢は破れた。とにかくでかいことをやりたいという、彼の人生の目的は叶えられなかった。

 いや、まだ一つだけ、出来ることが残っている。彼は思った。

 夕飯の準備が出来、以前はホテルだった建物の大ホールで、人類全員に食事が配られていた。人々の目は明日への希望に満ちていた。全てはリーダーのお陰だ。夕食の時間だと彼を呼ぶ声も聞こえていた。

 彼は一人、建物の外にいた。

 手のひらに載せた小さな機械のボタンを彼は押した。

 ホールの床下に仕掛けられた大量の爆薬が爆発した。肉片が飛び、天井が崩れ、人々の悲鳴が上がる。

 俺が、人類を絶滅させた男になってやる。

 彼は機関銃を抱え、逃げ惑う人々を撃ち殺していった。

 

 

  第五十九夜 血みどろの部屋

 

 彼はマンションの七○二号室の前に立ち、インターホンのブザーを押していた。何度も呼んでいるのに反応がない。

 おかしいな。彼は首を捻った。

 彼は引っ越し業者の作業員だった。今日も依頼により、この部屋の住人の荷物を運ばなければならなかった。

「いやあ、部屋は散らかってますよー」

 電話口で依頼人はそう言っていた。荷造りからやらねばならないだろう。

 ブザーは何度押しても返事がなかった。

 いないのかな。彼は腹が立ってきた。自分で呼んでおいて留守にしているとは何事だ。時々こんな馬鹿野郎な客がいるのだ。

 彼はドアノブを掴んで回してみた。

 簡単に開いた。鍵が掛かっていなかったのだ。

「失礼しますよー。いないんですかー」

 彼は言いながら足を踏み入れた。中は暗かった。部屋の中で、何かがブンブンと唸る音が聞こえていた。あれは何の音だろうか。

 彼は上がり口の電灯のスイッチを入れた。

 部屋が明るくなり、彼は悲鳴を上げた。

 床も壁も天井も、大量の血と細かな肉片が張りついていたのだ。

 部屋の真ん中に巨大な扇風機のようなものがあった。ただ、その羽は金属の光沢を持っていた。

 音の原因は、これだったようだ。

 彼が電灯のスイッチを入れたと同時に、ファンが急に回転速度を増した。凄まじい風だ。しかも、押し出すのではなく、吸い込む方の風だ。

 何だ、これは。

 彼の体がずるずるとファンヘと引き寄せられていく。

「うわあ、助けてくれえ!」

 彼は叫びながら、血と肉片のついた柱にしがみついた。だがファンの吸引力は異常だ。彼の手が血で滑った。彼の体はファンに巻き込まれ、部屋の赤を新鮮な塗料で染め直した。

 

 

  第六十夜 生きる意味

 

 広田雄治は一人、公園のベンチに佇んでいた。目の前を子供連れの主婦や、若いカップルが通り過ぎていく。雄治はそれらをぼんやりと眺めながら、全く別のことを考えていた。

 どうして今まで、こんな根本的な疑問に気づかなかったのだろう。

「よう、雄治」

 顔を上げると、目の前に剛間三蔵が立っていた。彼は雄治の大学の同級生であり、良き友人でもあった。

 そうだ。常に自信に溢れている三蔵の顔を見て、雄治は思った。

 彼ならば、この疑問の答えを知っているかも知れない。いやきっと彼は、とっくの昔に解決してしまっているだろう。

「どうした、元気ない顔して」

「分からないことがあるんだ。君は知っているかな」

「何をだ」

 雄治は少し黙った後、意を決して口を開いた。

「人間は、何のために生きているんだろう」

「なんだそんなことか」

 三蔵は快活な笑顔で答えた。やはり彼は知っていたのだ。

「それはなゴボッ」

 三蔵が信じられないという顔で、雄治を見た。

 三蔵の喉が、パックリと横に開いていた。

 雄治が、たった今、ナイフで切ったのだ。

 三蔵の喉から、血が噴き出した。傷は頚動脈まで達していた。

 三蔵は手足をばたつかせ、目を白黒させながら地面に倒れた。

 手足の痙攣が終わり、動かなくなるまで、雄治は無表情に三蔵を観察していた。

 

 

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