第六十一夜 闇の王

 

 闇。

 私は闇の中にいる。

 深い、底の知れない闇だ。

 私は闇だ。

 闇そのものだ。

 私は何もしない。

 私は何も考えない。

 私はただ、いる。

 そうやって、長い時を、過ごしてきた。

 暗い闇の中で、何かが蠢く気配。

 私の中で、何かが動いた。

 闇の奥から低く響く、苦悶の声。

 私は、苦しんでいるらしい。

 私は、何もしない。

 私は、何も考えない。

 私は、ただ、いる。

 時の始まりから終わりまで、私は深い闇であり続ける。

 私は闇だ。

 闇。

 

 

  第六十二夜 会議

 

 会議室の細長いテーブルが中心を囲むようにして並んでいる。

 席には社長と重役以下三十二人の社員が座っていた。

「では、今日の会議を始めます。まず配布された資料を御覧下さい」

 眼鏡をかけた細面の重役が言った。

 その時、社員の一人が凄い形相で立ち上がった。

「うおおおおおお!」

 社員は窓へ駆け出し、ガラス窓をぶち破って地上十六階の会議室から飛び出した。

「うおおおおおおおおおおおおお……」

 人々が資料を捲る音に混じり、窓の外の叫び声は次第に小さくなっていく。

 ベチャ。

「ええ、まず表紙を捲って最初のページを……」

 重役が言った。

 

 

  第六十三夜 全ての自殺しようとする者達へ

 

 宏はベッドの上で目覚め、そこが病室であることを知った。

「気がついたかね」

 目の前で、白衣の医師が微笑んでいた。

 死ねなかったのだ。宏は理解した。

「……。何故放っておいてくれなかったんだ」

 宏の口調には、絶望と憎悪が込められていた。

「僕は死にたかったから自分で薬を飲んだんだ。なんでこんな余計なことするんだよ」

「そうかね」

 医師は無表情だった。彼はそのまま病室を出ていった。

 言い過ぎたかな。宏はちょっと後悔した。

 いや、僕は本当に死ぬ積もりだったんだ。助けてもらったところで、また自殺するだけさ。僕のこの社会と人間に対する絶望は癒しようがないのだから。どうなろうと知ったことか。

 一分後に医師が病室に戻ってきた。

 彼が握っている物は、宏を驚愕させた。

 医師は、大きな斧を手に持っていたのだ。

「な、なんだよそれ」

 医師は微笑んだ。

「死にたかったんだろう。自殺の邪魔をしたお詫びに、私が送ってあげるよ。確実にね」

 医師が斧を振り上げた。

「うわっ」

 宏は咄嗟に身を躱した。すれすれを斧が掠め、ベッドに減り込んだ。

「死にたかったんだろう。死んで楽になりたかったんだろう。だったら避けるな!」

 医師が怒鳴った。

「た、助けてくれ。誰か」

 宏は叫んだ。

「死ね!」

 医師が叫んだ。

 振り下ろされた斧を、宏は腕を上げて防いだ。左腕の半ばまで刃が減り込んで、血が噴き出した。

 痛い。痛い。なんでこんな目に遭わなくちゃならないんだ。宏は思った。

 宏は斧を持つ医師の腕を必死で掴んだ。医師は宏の腕を振り解こうとする。

 二人で斧の取り合いになった。

 宏が力を振り絞って斧を奪った。夢中で医師に振り下ろす。

「ぎゃあ!」

 医師が叫んで倒れた。斧は医師の首に減り込んでいた。

「……死にたかったと言ったじゃないか……この……嘘つき野郎……」

 医師は憎々しげにそう吐いて、息絶えた。

 畜生、生きてやる。宏は思った。生きて、生きて、生き抜いてやるんだ。

「キャア、人殺し!」

 悲鳴に振り向くと、両手で口元を押さえ立ち尽くす看護婦の姿があった。

 しまった。

 逃げなければ。

 宏は看護婦の脳天に斧を振り下ろした。

「うわあ、人殺しだ!」

 廊下を歩いていた患者達が叫んだ。

 宏は彼らを追いかけていき、一人残らず殺した。

「うわ、ひ人殺し!」

 また誰かが叫んだ。

「うおおお!」

 宏も叫んだ。

 宏は斧で三十四人を惨殺し、死刑になった。

 

 

  第六十四夜 醤油

 

 正三は八十四才の寝たきり老人だった。布団から出られなくなっても呆けもせずに十六年にもなる。

 五十三才になる嫁の基子が、昼食をスプーンで食べさせていた。この十六年間、彼女が何から何まで、この義父の面倒を看ていた。

 自分の手は動かしもせず、正三は渋い顔をしてぼそりと呟いた。

「醤油が……。醤油が足らん」

 基子は無言だった。彼女は食事を置いて台所に戻った。

 彼女は醤油の大瓶を出した。同時に棚の引き出しの奥から大きめの注射器を取り出す。

 基子は、注射器のシュリンジに、醤油をたっぷり流し込んだ。

 部屋に入ると、正三は枕に頭を乗せ目をつぶっていた。眠っているのかも知れなかった。

「お義父さん、お醤油ですよー」

 ニコニコして、基子は正三の腕に注射器の針を刺し、中身を全て静脈に押し込んだ。

 正三は、次第に安らかな笑顔になって旅立っていった。

 

 

  第六十五夜 ヤドカリ

 

 私は疲れた足を引きずってマンションに帰り着いた。体が鉛のように重かった。

 私は洗面所で顔を洗った。鏡に映った自分の顔はやつれていた。

 土で汚れた服を脱ぎ、私はシャワーを浴びることもせずにベッドに転がり込んだ。腹は減っていたが、食べる気力もない。

 今夜は、とにかく眠ることにしよう。眠って全てを忘れよう。私は目を閉じた。

 だが私は寝つけなかった。壁の外でカサカサという音も聞こえていた。排気口に、雀が巣を作っているらしいのだ。

 忘れる積もりのことが、目を閉じていても絶えず頭の中に浮かんできた。車内に置きっ放しのスコップのこと。あれは片づけなければならない。仁美との口論。土を掘る音。血の付いたナイフ。魔物が棲むといわれ、誰も近づかない山奥。だから埋めるには……。鋸。愛していたのだ。だが、何故あんなことに……。

 壁の外で、カサカサという音が続いていた。下から上へ。私の部屋の、ベッドのすぐ近くの窓の辺りで。

 私は目を開けた。

 目の前の窓ガラスに張りついて、血の気のない仁美の顔があった。

 鋸で切断した首の断面から、数本の甲殻類の足が伸び、窓枠に引っかかって生首を支えていた。仁美の目は虚ろで、何も見つめてはいなかった。その代わりに、半ば開いた口から二本の細い触角のようなものが伸びていた。その先端についた大きな二つの眼球が、私を見つめていた。

「うわあ」

 私は叫んだ。

 同時にガラスが割れ、そいつが飛び込んできた。私の人生はそこで途切れた。

 

 

  第六十六夜 連鎖

 

 山の斜面を、ドングリが転がり落ちていく。

 そのドングリを一匹の鼠が追っていた。

 その鼠を、一匹の猫が追っていた。鼠はドングリを追うのに夢中で、猫には気づいていない。

 その猫を、一匹の犬が追っていた。猫は鼠を追うのに夢中で、犬には気づいていない。

 その犬を、一頭の虎が追っていた。犬は猫を追うのに夢中で、虎には気づいていない。

 その虎を、一人の猟師が追っていた。虎は犬を追うのに夢中で、猟師には気づいていない。

 その猟師を、一隻の宇宙船が追っていた。猟師は虎を追うのに夢中で、宇宙船には気づいていない。

 地球に巨大な隕石が接近していた。宇宙人は猟師を追うのに夢中で、隕石には気づいていない。

 転がるドングリを、鼠が捕まえた。

 その鼠に、猫が噛みついた。

 その猫を、犬が噛み殺した。

 その犬を、虎が食い殺した。

 その虎を、猟師が撃ち殺した。

 その猟師を、宇宙人が拉致した。

 地球に隕石がぶつかり、地球が爆発した。

 

 

  第六十七夜 心中の海

 

 時夫は妙子と手を繋いで、海を見つめていた。冬の荒れた海。岩にぶつかった波の飛沫が時夫の頬を冷やす。

「寒いな」

 時夫は呟いた。

「行きましょう」

 妙子は時夫に微笑みかけた。

 寒いなどとは言ってられないな。時夫は苦笑した。

 これからもっと寒いことになるのだから。

 妙子は時夫の手を引いて、自ら波の中へ足を踏み入れた。時夫もそれに従う。

 二ヶ月前には、予想だにしなかった運命。全てはこの女との出会いによって崩れた。素性の知れぬ、謎の女のために。時夫は妻から離縁状を突きつけられ、スキャンダルが会社に広まって首になった。時夫には、もう、行くところはないのだ。

 そう、この女と共に向かう、二人だけの世界しか。

 時夫の体も既に腰の辺りまで海に浸かっていた。

 時夫は愛を確かめるように、妙子を見た。

 妙子は腐乱した溺死体の顔で微笑んでいた。

 時夫は悲鳴を上げた。何だこれは。時夫は手を離そうとしたが、妙子の水で膨れた手は異常な力で時夫の手を掴んでいた。ズルズルと、時夫は沖へと引きずられていく。

「嫌だ。助けてくれえ」

 時夫は叫んだ。そして見た。

 妙子のもう一方の手を、男の水死体が握っていた。その男のもう一方の手を、更に別の女の死体が握っている。その女の死体を更に別の男の死体が……。

 時夫達は、手を繋いで何十人もの鎖になっていた。先の方は海中深くに没し、一体何処まで続いているのか見当もつかない。

 叫ぶ時夫の口に海水が流れ込んだ。既に時夫の全身が冷たい海水に浸かっていた。

 畜生、騙された。二人だけだって言ったのに。時夫は思った。

 でも、向こうの世界もあまり寂しくはなさそうだ。他の皆とも仲良くやっていけるだろう。

 それに、今度は僕が誰か気に入った女性を連れてくることにしよう。

 

 

  第六十八夜 見て見ぬふり

 

 地下鉄の駅に列車が到着した。扉が開き、ホームで待っていたよぼよぼの老人が、杖をつきながらなんとか車両に乗り込んだ。

 老人は、座る席を求めて車内を見回した。その車両には、立って吊革を掴んでいる者はいなかったが、全ての席が乗客で埋まっていた。シルバーシートも中年の夫婦が占領していた。

 誰も、立ち上がって老人に席を譲る者はいなかった。皆、知らぬふりをして横を向いているか、眠っているふりをしていた。

 老人は仕方なく、吊革に捕まった。列車が進み出した。その車両では、老人一人だけが立っていた。

 車両間の扉が開き、隣の車両からサングラスをかけた男が入ってきた。

 男は車内を見回した。そして知らぬふりをして座っている人々と、一人フラフラしながら立っている老人を見た。

 男は老人に近寄ると、懐から出したナイフで老人の腹を突き刺した。

「うわあ、助けてくれえ」

 老人は倒れながら叫んだ。男は老人にのしかかってグサグサと刺し捲る。

 誰も、立ち上がって老人を助けようとはしなかった。皆、知らぬふりをして横を向いているか、眠っているふりをしていた。

 老人は死んだ。男は無言でナイフを懐に収め、隣の車両に消えた。

 誰も、老人の死体の方を見ようとはしなかった。皆、知らぬふりをして横を向いているか、眠っているふりをしていた。

 

 

  第六十九夜 狸

 

 男は夜の高速道路を飛ばしていた。長い山沿いの道だ。あと三十分ほどでいつものインターチェンジに着く。

 左側のガードレールに看板が立っていた。愛らしい狸の絵と、『動物飛び出し注意』の文字。

 フフン。男は含み笑いを洩らした。

 同時に男は、今朝の新聞の記事を思い出していた。高速道路に飛び出した狸を避けようとして急ブレーキをかけた車に、後続の車が追突して死者が出たという話。

 追突しかねない車間距離で走っていた後ろの車も悪い。男は思った。また、そんな時には急ブレーキなどかけずにそのまま轢いてしまえばいいのにとも思った。狸一匹の命より、自分の命を優先すべきだ。そうだろ。

 そんなことを考えていた男の車の前に、突然ガードレールを潜って狸が飛び出してきた。

 そら来た。

 男はブレーキを踏まずに逆にアクセルを踏み込んだ。心地よい衝撃が車体を伝って全身に届いた。

 ざまあ見ろ。男は思った。

 でも、車体に傷がついたかも知れないな。男はちょっと後悔した。

 男は運転を続け、漸くインターチェンジに到着した。

 料金所に車を入れた時、そこの職員が「うわっ」と声を上げた。

「どうした」

「あ、あんたの車の前に……」

 死体が引っついていたのか。男は舌打ちした。

「狸だろ」

 男は車を降り、前に回った。

 そして見た。

 車の前面に、ちぎれた子供の生首が引っかかっていた。

 

 

  第七十夜 右か左か

 

 小学三年生の洋次は友達の広一と並んで歩いていた。

 さっきコンビニで買った十円の飴玉を出して、洋次は両手で掴むと、素早く左右に離して拳を握った。左右の拳のどちらかに飴玉が入っている。

「右か左か」

 歩きながら洋次は広一に言った。

 広一は考えるように左右の拳を見比べて、やがて答えた。

「右」

「外れー」

 洋次は拳を開いてみせた。左の手に飴玉があった。

 洋次は飴玉をそのまま自分の口に入れた。

 その時、曲がり角の陰から声が聞こえた。

「右か左か」

 何だろうと思いながらも、洋次はなんとなく答えていた。

「左」

「当たり!」

 突然陰から男が飛び出した。男は左手に大きな斧を持っていた。男は斧を大きく振りかぶり、洋次の頭に振り下ろした。洋次の頭が割れた。

 

 

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