闇。
私は闇の中にいる。
深い、底の知れない闇だ。
私は闇だ。
闇そのものだ。
私は何もしない。
私は何も考えない。
私はただ、いる。
そうやって、長い時を、過ごしてきた。
暗い闇の中で、何かが蠢く気配。
私の中で、何かが動いた。
闇の奥から低く響く、苦悶の声。
私は、苦しんでいるらしい。
私は、何もしない。
私は、何も考えない。
私は、ただ、いる。
時の始まりから終わりまで、私は深い闇であり続ける。
私は闇だ。
闇。
第六十二夜 会議
会議室の細長いテーブルが中心を囲むようにして並んでいる。
席には社長と重役以下三十二人の社員が座っていた。
「では、今日の会議を始めます。まず配布された資料を御覧下さい」
眼鏡をかけた細面の重役が言った。
その時、社員の一人が凄い形相で立ち上がった。
「うおおおおおお!」
社員は窓へ駆け出し、ガラス窓をぶち破って地上十六階の会議室から飛び出した。
「うおおおおおおおおおおおおお……」
人々が資料を捲る音に混じり、窓の外の叫び声は次第に小さくなっていく。
ベチャ。
「ええ、まず表紙を捲って最初のページを……」
重役が言った。
第六十三夜 全ての自殺しようとする者達へ
宏はベッドの上で目覚め、そこが病室であることを知った。
「気がついたかね」
目の前で、白衣の医師が微笑んでいた。
死ねなかったのだ。宏は理解した。
「……。何故放っておいてくれなかったんだ」
宏の口調には、絶望と憎悪が込められていた。
「僕は死にたかったから自分で薬を飲んだんだ。なんでこんな余計なことするんだよ」
「そうかね」
医師は無表情だった。彼はそのまま病室を出ていった。
言い過ぎたかな。宏はちょっと後悔した。
いや、僕は本当に死ぬ積もりだったんだ。助けてもらったところで、また自殺するだけさ。僕のこの社会と人間に対する絶望は癒しようがないのだから。どうなろうと知ったことか。
一分後に医師が病室に戻ってきた。
彼が握っている物は、宏を驚愕させた。
医師は、大きな斧を手に持っていたのだ。
「な、なんだよそれ」
医師は微笑んだ。
「死にたかったんだろう。自殺の邪魔をしたお詫びに、私が送ってあげるよ。確実にね」
医師が斧を振り上げた。
「うわっ」
宏は咄嗟に身を躱した。すれすれを斧が掠め、ベッドに減り込んだ。
「死にたかったんだろう。死んで楽になりたかったんだろう。だったら避けるな!」
医師が怒鳴った。
「た、助けてくれ。誰か」
宏は叫んだ。
「死ね!」
医師が叫んだ。
振り下ろされた斧を、宏は腕を上げて防いだ。左腕の半ばまで刃が減り込んで、血が噴き出した。
痛い。痛い。なんでこんな目に遭わなくちゃならないんだ。宏は思った。
宏は斧を持つ医師の腕を必死で掴んだ。医師は宏の腕を振り解こうとする。
二人で斧の取り合いになった。
宏が力を振り絞って斧を奪った。夢中で医師に振り下ろす。
「ぎゃあ!」
医師が叫んで倒れた。斧は医師の首に減り込んでいた。
「……死にたかったと言ったじゃないか……この……嘘つき野郎……」
医師は憎々しげにそう吐いて、息絶えた。
畜生、生きてやる。宏は思った。生きて、生きて、生き抜いてやるんだ。
「キャア、人殺し!」
悲鳴に振り向くと、両手で口元を押さえ立ち尽くす看護婦の姿があった。
しまった。
逃げなければ。
宏は看護婦の脳天に斧を振り下ろした。
「うわあ、人殺しだ!」
廊下を歩いていた患者達が叫んだ。
宏は彼らを追いかけていき、一人残らず殺した。
「うわ、ひ人殺し!」
また誰かが叫んだ。
「うおおお!」
宏も叫んだ。
宏は斧で三十四人を惨殺し、死刑になった。
第六十四夜 醤油
正三は八十四才の寝たきり老人だった。布団から出られなくなっても呆けもせずに十六年にもなる。
五十三才になる嫁の基子が、昼食をスプーンで食べさせていた。この十六年間、彼女が何から何まで、この義父の面倒を看ていた。
自分の手は動かしもせず、正三は渋い顔をしてぼそりと呟いた。
「醤油が……。醤油が足らん」
基子は無言だった。彼女は食事を置いて台所に戻った。
彼女は醤油の大瓶を出した。同時に棚の引き出しの奥から大きめの注射器を取り出す。
基子は、注射器のシュリンジに、醤油をたっぷり流し込んだ。
部屋に入ると、正三は枕に頭を乗せ目をつぶっていた。眠っているのかも知れなかった。
「お義父さん、お醤油ですよー」
ニコニコして、基子は正三の腕に注射器の針を刺し、中身を全て静脈に押し込んだ。
正三は、次第に安らかな笑顔になって旅立っていった。
第六十五夜 ヤドカリ
私は疲れた足を引きずってマンションに帰り着いた。体が鉛のように重かった。
私は洗面所で顔を洗った。鏡に映った自分の顔はやつれていた。
土で汚れた服を脱ぎ、私はシャワーを浴びることもせずにベッドに転がり込んだ。腹は減っていたが、食べる気力もない。
今夜は、とにかく眠ることにしよう。眠って全てを忘れよう。私は目を閉じた。
だが私は寝つけなかった。壁の外でカサカサという音も聞こえていた。排気口に、雀が巣を作っているらしいのだ。
忘れる積もりのことが、目を閉じていても絶えず頭の中に浮かんできた。車内に置きっ放しのスコップのこと。あれは片づけなければならない。仁美との口論。土を掘る音。血の付いたナイフ。魔物が棲むといわれ、誰も近づかない山奥。だから埋めるには……。鋸。愛していたのだ。だが、何故あんなことに……。
壁の外で、カサカサという音が続いていた。下から上へ。私の部屋の、ベッドのすぐ近くの窓の辺りで。
私は目を開けた。
目の前の窓ガラスに張りついて、血の気のない仁美の顔があった。
鋸で切断した首の断面から、数本の甲殻類の足が伸び、窓枠に引っかかって生首を支えていた。仁美の目は虚ろで、何も見つめてはいなかった。その代わりに、半ば開いた口から二本の細い触角のようなものが伸びていた。その先端についた大きな二つの眼球が、私を見つめていた。
「うわあ」
私は叫んだ。
同時にガラスが割れ、そいつが飛び込んできた。私の人生はそこで途切れた。
第六十六夜 連鎖
山の斜面を、ドングリが転がり落ちていく。
そのドングリを一匹の鼠が追っていた。
その鼠を、一匹の猫が追っていた。鼠はドングリを追うのに夢中で、猫には気づいていない。
その猫を、一匹の犬が追っていた。猫は鼠を追うのに夢中で、犬には気づいていない。
その犬を、一頭の虎が追っていた。犬は猫を追うのに夢中で、虎には気づいていない。
その虎を、一人の猟師が追っていた。虎は犬を追うのに夢中で、猟師には気づいていない。
その猟師を、一隻の宇宙船が追っていた。猟師は虎を追うのに夢中で、宇宙船には気づいていない。
地球に巨大な隕石が接近していた。宇宙人は猟師を追うのに夢中で、隕石には気づいていない。
転がるドングリを、鼠が捕まえた。
その鼠に、猫が噛みついた。
その猫を、犬が噛み殺した。
その犬を、虎が食い殺した。
その虎を、猟師が撃ち殺した。
その猟師を、宇宙人が拉致した。
地球に隕石がぶつかり、地球が爆発した。
第六十七夜 心中の海
時夫は妙子と手を繋いで、海を見つめていた。冬の荒れた海。岩にぶつかった波の飛沫が時夫の頬を冷やす。
「寒いな」
時夫は呟いた。
「行きましょう」
妙子は時夫に微笑みかけた。
寒いなどとは言ってられないな。時夫は苦笑した。
これからもっと寒いことになるのだから。
妙子は時夫の手を引いて、自ら波の中へ足を踏み入れた。時夫もそれに従う。
二ヶ月前には、予想だにしなかった運命。全てはこの女との出会いによって崩れた。素性の知れぬ、謎の女のために。時夫は妻から離縁状を突きつけられ、スキャンダルが会社に広まって首になった。時夫には、もう、行くところはないのだ。
そう、この女と共に向かう、二人だけの世界しか。
時夫の体も既に腰の辺りまで海に浸かっていた。
時夫は愛を確かめるように、妙子を見た。
妙子は腐乱した溺死体の顔で微笑んでいた。
時夫は悲鳴を上げた。何だこれは。時夫は手を離そうとしたが、妙子の水で膨れた手は異常な力で時夫の手を掴んでいた。ズルズルと、時夫は沖へと引きずられていく。
「嫌だ。助けてくれえ」
時夫は叫んだ。そして見た。
妙子のもう一方の手を、男の水死体が握っていた。その男のもう一方の手を、更に別の女の死体が握っている。その女の死体を更に別の男の死体が……。
時夫達は、手を繋いで何十人もの鎖になっていた。先の方は海中深くに没し、一体何処まで続いているのか見当もつかない。
叫ぶ時夫の口に海水が流れ込んだ。既に時夫の全身が冷たい海水に浸かっていた。
畜生、騙された。二人だけだって言ったのに。時夫は思った。
でも、向こうの世界もあまり寂しくはなさそうだ。他の皆とも仲良くやっていけるだろう。
それに、今度は僕が誰か気に入った女性を連れてくることにしよう。
第六十八夜 見て見ぬふり
地下鉄の駅に列車が到着した。扉が開き、ホームで待っていたよぼよぼの老人が、杖をつきながらなんとか車両に乗り込んだ。
老人は、座る席を求めて車内を見回した。その車両には、立って吊革を掴んでいる者はいなかったが、全ての席が乗客で埋まっていた。シルバーシートも中年の夫婦が占領していた。
誰も、立ち上がって老人に席を譲る者はいなかった。皆、知らぬふりをして横を向いているか、眠っているふりをしていた。
老人は仕方なく、吊革に捕まった。列車が進み出した。その車両では、老人一人だけが立っていた。
車両間の扉が開き、隣の車両からサングラスをかけた男が入ってきた。
男は車内を見回した。そして知らぬふりをして座っている人々と、一人フラフラしながら立っている老人を見た。
男は老人に近寄ると、懐から出したナイフで老人の腹を突き刺した。
「うわあ、助けてくれえ」
老人は倒れながら叫んだ。男は老人にのしかかってグサグサと刺し捲る。
誰も、立ち上がって老人を助けようとはしなかった。皆、知らぬふりをして横を向いているか、眠っているふりをしていた。
老人は死んだ。男は無言でナイフを懐に収め、隣の車両に消えた。
誰も、老人の死体の方を見ようとはしなかった。皆、知らぬふりをして横を向いているか、眠っているふりをしていた。
第六十九夜 狸
男は夜の高速道路を飛ばしていた。長い山沿いの道だ。あと三十分ほどでいつものインターチェンジに着く。
左側のガードレールに看板が立っていた。愛らしい狸の絵と、『動物飛び出し注意』の文字。
フフン。男は含み笑いを洩らした。
同時に男は、今朝の新聞の記事を思い出していた。高速道路に飛び出した狸を避けようとして急ブレーキをかけた車に、後続の車が追突して死者が出たという話。
追突しかねない車間距離で走っていた後ろの車も悪い。男は思った。また、そんな時には急ブレーキなどかけずにそのまま轢いてしまえばいいのにとも思った。狸一匹の命より、自分の命を優先すべきだ。そうだろ。
そんなことを考えていた男の車の前に、突然ガードレールを潜って狸が飛び出してきた。
そら来た。
男はブレーキを踏まずに逆にアクセルを踏み込んだ。心地よい衝撃が車体を伝って全身に届いた。
ざまあ見ろ。男は思った。
でも、車体に傷がついたかも知れないな。男はちょっと後悔した。
男は運転を続け、漸くインターチェンジに到着した。
料金所に車を入れた時、そこの職員が「うわっ」と声を上げた。
「どうした」
「あ、あんたの車の前に……」
死体が引っついていたのか。男は舌打ちした。
「狸だろ」
男は車を降り、前に回った。
そして見た。
車の前面に、ちぎれた子供の生首が引っかかっていた。
第七十夜 右か左か
小学三年生の洋次は友達の広一と並んで歩いていた。
さっきコンビニで買った十円の飴玉を出して、洋次は両手で掴むと、素早く左右に離して拳を握った。左右の拳のどちらかに飴玉が入っている。
「右か左か」
歩きながら洋次は広一に言った。
広一は考えるように左右の拳を見比べて、やがて答えた。
「右」
「外れー」
洋次は拳を開いてみせた。左の手に飴玉があった。
洋次は飴玉をそのまま自分の口に入れた。
その時、曲がり角の陰から声が聞こえた。
「右か左か」
何だろうと思いながらも、洋次はなんとなく答えていた。
「左」
「当たり!」
突然陰から男が飛び出した。男は左手に大きな斧を持っていた。男は斧を大きく振りかぶり、洋次の頭に振り下ろした。洋次の頭が割れた。