第七十一夜 ざまあ見ろ

 

 胃潰瘍が出来た。仕事のせいだ。俺は人間が嫌いだ。俺は自分が弱い人間であることを知っている。ちょっとした人間関係の軋轢に耐えられず、くよくよ悩み続ける人間であることを知っている。

 そして俺の仕事は営業だ。仕事中は自分のことを『僕』と言っている。自分でも向いてないと思う。でも俺にはこれしか道はなかった。俺は『もし』とか『たら』とかを信じない。他の楽そうな道を選んでいたとしても、やはり結果は同じだったろう。

 今日もちょっとした失敗をやらかして、上司に叱られた。そう、勘違いによるちょっとしたミスだ。俺は平謝りに謝ったし、取り返しもつくことだ。その場はそれで片付いた。でも俺はその後、数時間に渡って胃の痛みを覚えた。もう済んだことだ。俺は思った。こんな詰まらないことで。俺は思った。でも胃の痛みは続いた。

 他の奴らには信じられないだろう。こんなに弱い人間がいることを。俺は小さい頃から他人が嫌いだった。奴らは平気な顔で俺の心を傷つける。そしてそのことに全く気づかない。俺は外に出るのが嫌いだった。俺は学校に行くのが嫌いだった。幼稚園にさえ、行きたくなくて布団の中で泣いていたこともある。幼稚園の記念写真では、俺だけ両脇の奴らから押し出されて列の後ろにいる。家での朝食の時間、姉が間違えて俺の味噌汁を飲んでいた。俺はそれを指摘することが出来ずに、泣き出した。なんでそんなことが言えないのか。皆はそう言う。それでも、実際に言えない人間が存在するのだ。

 俺は人間が嫌いだ。俺を苦しめる社会が、この世界が憎くてたまらない。それでも俺は学校を休まなかった。勉強もサボらなかった。仕事も毎日休まず頑張っている。

 何故か。そうしか、生きる道がなかったからだ。俺は思う。俺は余裕を持てなかった。学校をサボったり仕事を休んだり出来るのは、余裕があるからだ。俺は、休んだら取り残されるのではないかという恐怖に耐えられなかった。

 だが俺は学校に行きたくなかった。仕事にも行きたくなかった。毎朝、布団から出ずにこのまま死ぬまでじっとしていたいと思っている。そんな、行きたくない自分をどうやって動かすのか。

 俺は、毎日自分を『突き落として』いた。

 自分から踏み出すことは出来ない。だが、自分を突き落とすことは出来る。突き落としてしまえば、後は知らぬふりだ。迫る状況に精一杯対処する自分を横目で見ているもう一人の自分がいる。

 そうやって、俺はなんとか生きてこられた。相当無理な生き方だった。俺は負けたくなかった。俺は弱い自分を知っていた。だが同時に世界に対する憎しみも強かった。俺は学校が憎かった。会社が憎かった。心の中で憎みながら、俺は精一杯勉強をし、精一杯仕事をしてきた。負けるものか。俺は思っていた。ここで負けて、アル中やノイローゼに逃げる訳にはいかなかった。

 この、憎くて憎くてたまらない世界に復讐するまでは、負ける訳にはいかないのだ。

 もし本当に神がいるのなら、奴は俺を苦しめて楽しんでいるのだ。俺がのた打ち回っているのを見ながら、もっと苦しめ、もっと悶えろと笑っているのだ。

 俺の心は折れなかった。だが俺の体はそうはいかなかった。俺が負けたくない一心で浴び続けたストレスが、全て肉体の方に向かっていた。俺は過敏性腸症候群だった。緊張すると下痢をする病気だ。俺は胃潰瘍だった。時々便が黒くなった。頭痛もひどかった。午前中の仕事が終わると、どっと疲れが出て、午後は寒気がして気分が悪くなった。

「無理しないで休めばいいのに」

 同僚が言った。

 だが俺は休む訳にはいかなかった。仕事は大嫌いだった。だからこそ、俺は休むわけにはいかなかった。

「そんなことをしていると、体がもたないよ」

 同僚が言った。

 それで結構。俺についてこれないような体なら、壊れてしまえばいいのだ。生きていけないような奴は、死んでしまえばいいのだ。俺がそうなら、死ねばいいだけの話だ。

 熱が出た。三十九度以上の熱だ。俺は仕事をし続けた。俺は仕事が憎くて、憎くて、憎くて、仕方がなかった。

 俺は倒れた。頭が朦朧としていた。俺は助けの手を振り払った。なんとか立ち上がって仕事をし続けた。同僚が救急車を呼んだ。うるさい。俺は抵抗したが捕らえられ、病院へ運ばれた。負ける訳にはいかない。俺は病院を抜け出した。俺は血を吐いた。胃潰瘍からの出血だろう。俺は視界が暗くなってくるのを覚え、真冬の夜の冷たい歩道に倒れた。誰も助けてくれるものはいない。

 仕事を。

 あの憎い仕事を。

 俺は起き上がろうと努力したが、体に力が入らなかった。

 俺は大量に血を吐いた。胃の大きな血管が破れたらしかった。

 何も見えなくなり、段々意識が薄れていく。

 全ては終わった。理解したその時、俺の心に浮かんだ言葉があった。

 ざまあ見ろ。

 自分が何に対してそう思っているのか分からないまま、俺は死んだ。

 

 

  第七十二夜 誕生ケーキ

 

 昼休み、大田雅行は弁当を持って大学の講義室に戻ってきた。いつも大学近くのコンビニで立ち読みした後、その代わりとして昼食に弁当やパンを買っていくようにしている。何も買わずに立ち読みだけするのは後ろめたいからだ。

 講義室は人は少なかった。皆まだ、食堂や購買部にいるのだろう。後ろの方で何人かが集まって何かやっているようだが、雅行には興味がなかった。他人に干渉しない主義だ。決まって座る最前列の席で、雅行は弁当を食べ始めた。

「大田君、ライター持ってない」

 声がして、雅行は箸を置いて振り向いた。同学部の女生徒だった。

「持ってる、と思う」

 雅行はポケットを探って百円ライターを取り出した。彼は煙草を吸わないが、念のためいつもライターを持ち歩いている。

 ライターを手渡すと、女生徒は後ろに戻っていって使うと、少ししてライターを雅行に返し、言った。

「ありがとう。今、岸原さんの誕生祝いをやってるの。大田君も一緒にケーキ食べない」

 岸原とはやはり同学部の女生徒だ。時折雅行も彼女と話すことはあるが、格別親しい訳ではない。雅行は講義室の後ろをよく見た。机の上に誕生ケーキが置かれ、その周りに岸原本人とその友人の男女が五、六人いた。彼らでお金を出し合って、岸原のために誕生ケーキとプレゼントを買ったのだろう。そしてケーキに立てたキャンドルに火を点けようとして、ライターを忘れたことに気づいたらしい。

「いや、遠慮しとく」

 雅行は答えた。

「いいからいいから。弁当食べ終わったら来なさいよ」

 女学生はそう言い残して戻っていった。

 雅行は再び弁当を食べ始めた。だが味がしなくなっていた。彼はずっと考えていた。参加することは出来ない。彼らだけの祝いの場に、無関係で金も出していない俺が図々しく割り込む訳にはいかない。そんなところにのこのこ参加して、平気な顔でケーキを食べられるほど、俺は神経が太くない。では辞退するか。それも出来ない。折角の祝いに参加したくないと表明することは、彼女の誕生日をけなすことだ。

 では、どうすればいいのか。彼は悩んだ。

 自分が悪い訳でもないのに、どうしてこんな状態に填まり込んでしまったのか。誘った彼女も、同じ場所にいる知り合いに、更にライターを借りたとなると、どうにも呼びかけない訳にはいかなくなり、しょうがなく俺を誘ったのだ。最低限の義務を果たしておけば、非難されることはないのだ。状況が、彼女をそんなふうに動かしたのだ。

 そして、状況が、雅行を追い詰めた。どう動いても、雅行は非難されることになる。面と向かって言われることはないにしろ、憎しみの感情を受けることになる。

 あいつ、なんて図々しい奴だ。

 あいつ、折角の誘いを断りやがって。

 今日、この講義室で弁当を食べようとしたのがまずかったのだ。雅行は考えた。

 いや、大体、奴らが講義室なんかで誕生祝いをやるのが悪いんだ。雅行は僅かに憎しみも感じていた。

 雅行は出来るだけゆっくり弁当を食べようとしたが、とうとう最後まで食べてしまった。

 そして、彼は、何も言わず、静かに講義室を出て行くことにした。出来るだけ、波風を立てないように。本来は、自分の席で休んでいたかったが、しょうがない。

 誰も、去っていく彼に声をかけようとはしなかった。

 これでも、俺は奴らに憎まれるだろう。

 雅行は建物を出て、長い溜め息をついた。

 

 

  第七十三夜 救いの手を……

 

 道を歩いていると突然胸が痛み出した。

 心臓発作か。男は思った。医者にコレステロールが高いと言われたことがある。だが男は薬も飲まず、摂生もせず、ほったらかしにしていた。

 どうしようか。男は考える。胸の痛みは治まるどころか、だんだんひどくなってくるようだ。

 救急車を呼んだ方がいいか。いやまだ大丈夫だ。他人の手など借りたくない。

 男は、これまで、殆ど誰の手も借りずに、生きてきたのだから。

 男は誰にも負い目を負いたくなかった。自分の力だけで生きているということが、男の誇りだった。だが、それは同時に、他人に迷惑をかけることを怖れる、臆病な心の裏返しでもあった。男は自分でもそれをよく分かっていた。

 誰かに救って欲しい。誰かに、そんなに一人で無理しなくてもいい、他人の助けを借りてもいい、人は皆助け合って生きているのだから、そう、言って欲しかった。あなたが誰かに頼み事をしても、それは迷惑ではないから、そう、言って欲しかった。

 だがその願望を、男は誰にも告白することが出来なかった。男の声なき悲鳴は、誰の耳にも届かぬまま、男は五十才になった。

 もう胸の痛みは、堪えきれないほどになっていた。呼吸が苦しい。息が……。

 沢山の人々が道を歩いている。もし助けを求めれば、救急車を呼んでくれ、介抱してくれるだろう。でも、男は、言い出せない。自分で救急車を呼ぼうと考える。二、三歩、進むが、もう体が動かない。

「だ、誰か……救急車を……」

 男は、やっとそれを口にした。同時に男の心の中で、固いしこりが溶けていった。男はそれを、ほっとするような切ないような気持ちで感じていた。

「どうしたんですか」

 前を歩いていた若い女性が、膝をついた男に声をかけた。優しそうな、美しい女性だった。長い間、こんな人に、救って欲しかった。男は思った。

 女性の温かい手が、男の肩に触れた。

 その時、男の中で電撃的にある衝動が走り抜けた。

 それは、崩れ、溶けかかっていた男の意地と誇りの、最後の抵抗だった。

 男は女性の手を左手で強く握り締めた。そして右手を懐に入れ、取り出した鉈を女性の手に力一杯振り下ろした。

「きゃあああ!」

 悲鳴が上がった。女性の手首が切断されていた。

 やっぱり、自分一人で、生きていくのだ。

 救いの手を切り落とした男は、自分の足で歩き出した。十歩も歩かないうちに倒れ、男は心筋梗塞で人生を終えた。

 

 

  第七十四夜 沼

 

 沼。

 澱んだ、絶望の暗い闇の底に、ずっと蹲っている。

 

 何も求めない。

 全てが。

 全てが無駄で無意味なこと。

 

 世界は感覚でしかない。

 自分とは感覚のことであり、自分とは世界のことである。

 

 私が存在することは知っている。

 私の体が存在するのかどうかは知らない。

 あなたが存在するのかどうかは知らない。

 現実というものが存在するのかどうかは知らない。

 ただ、私が存在することだけは知っている。

 

 私は、夢を見ているのですか。

 私は、幻を見ているのですか。

 

 誰か、私を救って下さい。

 いや、誰も私を救うことは出来ない。

 誰か、私に真実を教えて下さい。

 いや、どうせあなたの話は全部嘘だ。

 何故なら、あなたは私の夢の登場人物に過ぎないのだから。

 

 私の考えていることは、本当に、私の考えていることなのでしょうか。

 

 この絶望の沼からの声が、誰かに届いているだろうか。

 届いていようといまいと、何の違いもない。

 全ては感覚。何の意味もない。

 ただこの濁った暗い沼の底で、ずっと蹲っている。

 

 

  第七十五夜 不思議な微笑み

 

 大学病院の一室で、外科学の教授と助教授があるリストを睨んでいた。

 肝臓移植の必要な患者達のリストだ。

「誰にしましょうか」

 助教授が言った。脳死状態の肝臓提供者が現れ、来週に脳死肝移植手術を行う予定だった。それで、誰に移植するかを選ばなければならないのだ。

「ふ……ん……」

 教授はパラパラとリストをめくっていった。

「この笠原さんはどうでしょう。このままでは一ヶ月も生きられそうにないですし……」

「うーん、ちょっと駄目かなあ」

 教授は顎を撫でながら言った。

「もう、肝臓の癌が全身に転移している可能性が高いな。第一、手術に体力が持たないだろう」

「……そうですね」

 助教授はいかにも残念そうな顔をして答えた。教授の後ろにいた助教授は、教授がどんな表情をしているのか分からなかった。

「それでは大崎さんはどうですか。彼もかなり危険な状態です。血液型は違いますが、今は免疫抑制剤も良いのがありますし……」

「うーん、ちょっと難しいかなあ」

 教授は顎を撫でながら言った。

「彼はちゃんと薬飲まないし、摂生する気は更々ないって自分で言ってるしなあ。隠れて病院で酒飲んでるし。移植してもなあ」

「……そうですね」

 助教授はいかにも残念そうな顔をして言った。

 そして助教授は一歩前に出て、教授の顔を見た。

 教授は眉をしかめ、真剣にリストを見つめていた。

 しかし、その口元は、奇妙なことに、微笑を浮かべていた。

 ゴウホウテキニ、ザイアクカンヲカンジルコトモナク、ヒトヲコロセルトハ、ナンテスバラシイショクギョウダロウ。

 突然そんな言葉が助教授の頭に浮かんだ。彼はその意味を理解出来なかった。

 助教授は自分の口元に触れてみた。

 やっぱり微笑を浮かべていた。

 

 

  第七十六夜 幸せのダンプカー

 

 ああ今日も、幸せのダンプカーがやってくる。

 悲しみの涙、絶望の溜め息、苦痛の悲鳴の溢れる町へ。

 不思議なメロディーに乗って、あの赤い車が現れる。

 それは幸せのダンプカー。

 人々は、憂いの顔を輝かせ、ダンプカーに走り寄る。

 幸せのダンプカーに、救いを求めて走り寄る。

 幸せのダンプカーは止まらない。

 人々は、ダンプカーの下敷きになって死んでいく。

 血と内臓を撒き散らし、至福の笑顔で死んでいく。

 彼らの赤い血が飛び、幸せのダンプカーを更に赤く染めていく。

 そう、幸福の赤色に。

 人々の死体の上を、幸せのダンプカーは進んでいく。

 全ての人類を幸福にするために。

 今日は、この町で、三千五百二十七人が死んだ。

 幸せのダンプカーは、明日も何処かの町を走り続けるだろう。

 

 

  第七十七夜 病院の死神

 

 九十八才の池田源九郎は、病院の個室のベッドに横たわっていた。体中に管を繋がれ、生命維持装置によってただ生き長らえるだけの物体として。既に、意識は、ない。

 傍らには、医師と看護婦、そして源九郎の親戚十数人が立っていた。

 医師が、厳かな面持ちで口を開いた。幾度となく繰り返してきた言葉を、再び。

「池田さんの意識が回復する見込みはありません。既に脳死に近い状態だと言っていいと思います。生命維持装置が働いている限り、当分の間は心臓も動き続けるでしょう。しかし……」

 莫大な、医療費が。

 今現在入院を必要としている、治る見込みのある患者が大勢待っているのに。死人と化した者のために大事な病室を使うよりも……。

 六十三才になる源九郎の娘が答えた。やはり、変わらぬ答えを。

「生きているだけでいいんです。意識が戻らなくてもいいんです。何とか生かし続けて下さい。お願いします」

 自分から、生命維持装置を外してくれなど言える筈もない。他の家族の目がある。世間の目も……。

「そうですか……」

 医師は頷いた。彼だって、患者を見かけ上でも殺すことになるような行動は気が咎める。患者の命を救うことが、医師の使命なのだから。

 医師と家族のどちらもが、世間でそうあるべく望まれている、医師と家族としての本分を果たせてホッとしていた。ただ生ける屍と化した源九郎だけが、無表情に眠り続けていた。源九郎と他の人々とは、一メートルも離れていなかったが、無限の距離に等しかった。四才になるひ孫は事情も知らずミニカーで遊んでいた。

 その時、病室のドアが静かに開き、黒衣の男が現れた。誰もがその男の方を見た。

「死神だ……」

 親戚の一人が呟いた。

 男の顔は、白い無表情な仮面で覆われていた。

 仮面の男はつかつかと病室へ入ってきた。皆、慌てて道を開ける。

 男は源九郎のベッドの横で止まった。男の手には、何か液体の入った注射器が握られていた。

 医師や家族が見守る中、仮面の男は無言で注射器の針を源九郎の腕の血管に刺し、中身を一気に押し込んだ。

 心電図のモニターが容体の急変を伝えた。波が揺らぎ、そして平坦になっていく。

 仮面の男は無言のまま部屋を出ていった。

 医師が言った。

「手は尽くしたのですが、残念です」

 だが医師の顔には、何処かホッとしたような表情が浮かんでいた。それは、源九郎の家族にしても同じだった。死神じゃあしょうがない。我々は精一杯やったのだ。悪いのは死神だ。

 幼いひ孫は、この不思議な光景を、口を開けたまま眺めていた。ふと思いついて、彼は病室を出て、死神の後を追ってみた。

 黒衣の死神は、病院の職員用の更衣室へと消えた。

 

 

  第七十八夜 二つの日常

 

 朝八時。扶川博史は駅への道を歩いていた。二十年も通い慣れた会社への道だ。

 そしていつものように、道の向こうから彼がやってくる。

 彼は扶川よりも幾分若く、三十代の半ばくらいに見える。背広の扶川と違い、彼は赤いTシャツにジーンズという服装だ。ここ数ヶ月、彼は同じ格好をしている。

「おはようございます。今日も早いですね」

 彼も扶川を認め、にこやかに声をかけてきた。

「おはようございます。お互い仕事の方を頑張りましょう」

 扶川も笑顔で返す。

「そうですね」

 赤シャツの彼は頷いた。そして二人はすれ違っていった。

 彼とは、この一年、毎日のようにすれ違っていた。仕事への行きと帰りの道で、必ず扶川は彼を見かけた。いつしか、二人は挨拶を交わすようになっていた。

 彼の名も職業も、扶川は知らない。いつもあのラフな格好で、薄汚れたリュックを背負っている。サラリーマンの扶川とは、全く別の、自由な世界の人なのだろう。

 扶川は駅に入り、ぎゅうぎゅう詰めの列車に乗り込んだ。

 

 扶川は自分の職場に入り、同僚と挨拶しながら鞄を開け、書類を取り出した。

 赤シャツの男は公園のトイレでリュックを開け、手斧と包丁を取り出した。

 扶川は手帳を開き、今日の仕事の予定を確認した。

 赤シャツの男は地図を開き、今日のルートを確認した。

 扶川はパソコンに向かい、情報を打ち込み始めた。

 赤シャツの男は覆面を被って公園を飛び出し、道行く人々に襲いかかった。

 扶川は女子社員のいれてくれたお茶を飲んで休憩した。

 赤シャツの男は予め決めておいた逃走経路を使い公園に戻ると、血の付いた手を洗いながら水道の水をがぶ飲みした。

 扶川は昼休みの時間、社員食堂のテレビを見ていた。今日も通り魔があって二人が死に、九人が重軽傷を負ったということだ。「近頃は本当に物騒になったな」と扶川は同僚に言った。

 赤シャツの男は公園のベンチに座り、一人で弁当を食べた。食べながら男の顔は笑っていた。幾ら堪えようとしても、自然に笑みが零れてくる。

 扶川は仕事上のミスを上司に咎められた。立たされ叱られ、同僚達の視線を浴びながら、扶川はもっと自由に生きたいと思った。上司に叱られることのないような仕事が。

 赤シャツの男は警察官に怪しまれ職務質問を受けた。危険を感じた男は隙を見て警官を刺し殺した。男はもっと安全な生き方がしたいと思った。

 五時になった。扶川は書類を鞄に詰めて会社を出た。

 赤シャツの男は二度目の出撃を終えた後、手斧と包丁を洗い、リュックに収めた。男は公園を去った。

 

 今日も帰り道、扶川は赤シャツの男とすれ違った。男の血のように赤いTシャツが、夕焼けに染まっていた。

「こんにちは。今日はお仕事はどうでした」

 扶川は男に挨拶した。

「こんにちは。まあまあでした」

 男は答えた。

「また明日、お会いしましょう」

 扶川は言った。

「そうですね。では、さようなら」

 男は笑顔になった。

 そして二人はすれ違っていった。

 

 

  第七十九夜 ニヤニヤ

 

 その謎の男は、松田陽一の人生に度々出現した。

 彼が誰なのか知らない。陽一が覚えている限りでは、彼を最初に見たのは四才の時。そう、保育園での運動会の時だ。あれから六十年以上の歳月が流れたが、男の姿は些かも変化していなかった。

 小学校三年生の時、作文で先生に誉められた時、ふと窓の外を見ると、男は校庭に立ち陽一を見つめていた。

 高校二年、初恋の同級生とファーストキスを交わした時、やはりあの男は桜の木の下で陽一を眺めていた。

 第一志望の大学に合格した時、職場で係長に昇進した時、そういえば陽一の結婚式にも男は現れた。招待した覚えはないのに。

 陽一は、あの男が嫌いだった。

 何故なら、男はいつも、陽一を見てニヤニヤと笑っていたからだ。

 何かを知っているような、陽一を馬鹿にするような、はたまた哀れむようなその笑みは、陽一を不快にさせた。同時に陽一は、心の底から湧き上がってくる得体の知れない不安を感じていた。

 謎の男は、数年に一度の頻度で現れた。どちらかというと、陽一にとって喜ばしい出来事があった時、陽一が幸福の絶頂を感じている時に、冷水を浴びせるように男はニヤニヤしながら顔を見せるのだ。

 奴は、何者なのだろう。

 何故奴は、あんな顔で笑っているのだろう。

 答えは出なかった。陽一が男を追う気配を見せると、男はすぐに人込みに紛れ、姿を消すのだ。

 そして今、陽一は病室のベッドで最期の時を待っていた。長年連れ添った愛する妻と、子供達、孫達に見守られながら、陽一は旅立つのだ。

 平凡だが、幸福な人生だった。陽一が力なく微笑んだその時、家族の背後にあの男が立っていることに気づいた。

 男は、いつものあのニヤニヤ笑いを浮かべていた。

「お、お前は、一体、何者だ。何故、そんな顔をして、私を笑うのだ」

 陽一は、残った力を振り絞って聞いてみた。家族を不思議な顔をして周囲を見回したが、彼らには男の姿は見えないようだった。

「俺が何者かなんて質問には答えられないね。だが二番目の質問には答えてやってもいい」

 男は初めて喋った。何処か、聞き覚えのある声だった。男は残酷な笑みを浮かべて言った。

「それはな、これが全て、お前の夢だからだ」

 その途端に白石亨は目を覚ました。そして、謎の男が自分自身であることを知った。

 

 

  第八十夜 古い傷

 

 今夜は小学校時代の同級生の同窓会だった。当時の担任の先生は三年ほど前に亡くなったが、揃ったメンバーは二十年の歳月を経ても昔の面影が残り、大原研司は突然あの頃に戻ったような懐かしさを覚えていた。

 額の後退したあいつは井上だ。いつも一緒に登下校していたっけ。まだ三十二才なのにあんなになっちまって。あの太った男は後藤だ。取っ組み合いの喧嘩になって、一週間くらい口もきかないこともあったな。

 今ではいい思い出だけど。大原は微笑した。

 その微笑が、ある人物を認めて凍りついていた。

 西村由香。

 髪はロングになり、顔は随分と大人びているけど、間違いない。彼女だ。

 彼女も、同窓会に来ていたのか。

 思わず逃げ腰になり、そのまま会場を出て帰ってしまおうかとも考えたが、大原はなんとか思い留まった。

 今こそ。

 今こそ、この二十年間引きずってきた苦しみを解決する時なのだ。

 大原は心を決め、ゆっくりと彼女に歩み寄っていった。

 彼女は声をかける前に大原を認めた。

「あら、大原君じゃない。元気そうね」

 由香は言った。彼女が結婚したことを噂で聞いたのは五年前のことだ。

「西村さん。君に謝りたいことがあるんだ」

 大原は真剣な顔で言った。あの頃、大原は彼女が好きだった。だが決してそれを口に出すことは出来なかった。

「あら、何?」

 彼女はちょっと戸惑ったような顔をした。

 そして大原は重い口を開いて、告白した。この二十年間、思い出す度に叫び声を上げ、床を苦悶して転げ回ってしまうような、彼の古い傷を。

「図画工作の授業で、君が作った紙粘土のうさ、うさぎがあったよね。そ、それの耳の部分を間違って壊してしまったのは、僕なんだ」

 大原はどもりながらも、やっとそれを吐き出した。

「謝りたかったけど、ずっと言い出せなかった。ごめん」

 大原は頭を下げた。

 彼女は小首を傾げ、考え込むような仕草を見せた。

「覚えてないわ」

 微笑して彼女は言った。

「覚えてたとしても、許してあげる。そんな昔のこと、よく覚えてたわね」

「ありがとう」

 ほっとして大原は肩を落とした。長い間背負っていた重荷が取れたような気分だった。この二十年間の罪悪感と苦悩がすっかり消え去っていた。

 楽になるのと同時に、大原の心の奥の方から、何かが急速に浮上してきた。まるで、それを押さえつけていた重しが今、取れたように。

 それは、怒りだった。

 なんでこんな馬鹿なことに、二十年間も苦しまなければならなかったんだ。と、それは、言っていた。

 二十年も、俺を、苦しめやがって。

 畜生。よくも。

 大原は近くのテーブルにあったビール瓶を引っ掴み、彼女の笑顔に力一杯叩きつけていた。彼女は悲鳴を上げた。ビール瓶が割れ、ビールと血が噴き出した。大原は鬼の形相になって、倒れた彼女の顔に、ギザギザになった瓶の先端を何度も突き刺していった。その場にいた誰も、大原の行動を理解出来なかった。

 

 

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