第八十一夜 あっ神が

 

「ブーン、ブーン」

 狭山は両腕を上げ、手のひらをパタパタと振りながら会社の階段を登っていた。

 今は昼休みだった。狭山はずっと、この一階から四階までの階段を、奇妙な仕草をしながら往復していた。

「何やってるの?」

 声がして、狭山は立ち止まった。

 階段の踊り場に、同僚の野上恵子が立ち、狭山を見下ろしていた。

「何だか楽しそうね」

 彼女はそう言って微笑んだ。

 と、狭山は恵子の後方を指差して言った。

「あっ神が」

「え?」

 恵子は背後を振り返った。

 狭山はその隙を見逃さず、魔性の疾さで跳躍し、背中に隠していた大斧を横殴りに払った。恵子の首が飛んだ。

 首の断面から血を噴き出しながら、恵子の体は崩れ落ちた。血が、コンクリートの床に広がっていく。

「ブーン、ブーン」

 狭山は何事もなかったかのように、階段の往復を再開した。

「もしもーし」

 その時、狭山の背後から誰かの声が聞こえた。

 振り向いた狭山の首が飛んだ。

 

 

  第八十二夜 フェイント

 

 そろそろ夫の帰ってくる時間だ。容子は自分の心臓の鼓動を感じていた。

 今日は何処から入って来るだろう。二階の窓からか。縁の下を通って床下からか。それとも意表を衝いて、玄関から直接入ってくるかも知れない。

 いや、もしかすると、既に家の中に忍び込んでいて、何処かに隠れているのかも。容子の顔は知らず緊張で強張っていた。

 何はともあれ、夫を探さなければならない。不意打ちを食わないように。用心して。慎重に。

 容子は台所のテーブルに置いていた、四十センチ四方の鉄板を手に取った。鉄板の表面には、無数の傷があった。

 彼女は鉄板を持ったまま、足音を立てないように注意しつつ、家の中を探索していった。

 ただ一振り。

 ただ一振りさえ凌げば。

 夫婦は倦怠期に差し掛かっていた。単調で退屈な、予定調和の日常。

 その無間地獄の日々を打破するために、夫が考えついたのが、この命懸けのゲームだった。

 仕事を終えて帰宅する夫は、斧を持っている。

 一振り。

 一振りのスリル。

 その一振りさえ防ぐことが出来たなら、いつもの日常が待っている。

 ぎりぎりの試練を乗り越えた後で、夫婦は平凡な日常の幸せを噛みしめるのだ。

 ただ、夫は、本気だ。

 その一振りは完全に、彼女を殺すつもりでやっている。これまでなんとか容子は凌いできたが、次第に夫の斧は、スピードもパワーも増していた。

 容子は窓を調べた。いない。

 玄関を注意しながら調べた。いない。

 まだ帰っていないのかもしれない。もしかしたら残業かも。

 そうならば、容子はこの緊張と不安を、持続させていなければならない。一瞬の油断が死を招くからだ。

 早く帰ってきて、あなた。容子は心底そう思った。

 トイレのドアを開けると、そこに夫が立っていた。

「ウオオオー!」

 夫が叫んだ。容子は走って逃げた。

「ようこおおおおー!」

 夫は斧を横に振りかぶっていたが、巧妙にも、なかなかその一撃を出そうとはしなかった。容子はとうとう壁際に追いつめられていた。

 ただ一振りを、見極めねばならない。

 夫の右手が容子の心臓を狙って振られた時、彼女は咄嗟に鉄板を捧げ上げ、胸を庇った。

 これで、今日一日は、二人の愛の生活が戻ってくる。

 だが、鉄板には衝撃は来なかった。

 その時になってやっと、容子は頭上の斧に気づいた。左手に握られた斧に。

 フェイントだったのだ。夫の右手は何も持ってはいなかった。

 避けられない。鉄板も、間に合わない。

 斧が脳天にめり込むその瞬間まで、容子は溢れんばかりの夫の愛を感じていた。

 

 

  第八十三夜 奴が来る

 

 ペタ、ペタ、ペタ。足音だけが、聞こえる。

 

「うう、奴が来る。奴が……奴が、来る」

 男は蒼白な顔で、うわ言のように同じ台詞を繰り返していた。額にはじっとりと脂汗が浮かんでいた。

 穏やかな男の突然の異変に、妻が心配そうに聞いた。

「奴って、誰のことよ。誰もいないじゃない」

 だが、怯えきった男の耳には、愛する妻の言葉は届いていなかった。

「奴が来る。もうそこまで来ている。奴が……うわっ来るな。こっちに来るな。うわっうわっうわっ、く、来るな、来るな、助けてくれ、うわっうわっうわわわ」

 男の声は次第に甲高くなっていった。男は、誰もいない空間を見つめながら後じさり、壁に背をぶつけた。手足は激しく震え、今にも倒れそうだ。

「どうしたのよ、大丈夫?」

 妻が駆け寄って、男の肩に手を置いた。もしかすると、夫は、狂ってしまったのかも知れない。妻はそう思った。

「うわっこっち来るな、うわうわっ来るな。うわっ来るな。うわっうわっうわっうわわわうわわわうわわうわわわわうわわわうわわわうわわうわわわわうわわわうわわわうわわうわわうわわうわうわうわわうわうわうわわわうわわうわうわうわうわうわわわうわわうわわうわうわうわうわうわうわうわうわうわうわうわわわわうわわわわうわわうわうわわうわわわうわわわうわわうわうわわうわわうわわわわうわわわうわわわうわわわうわわわわうわわわうわうわうわうわうわうわうわうわうわわわわうわうわうわわわうわわうわわわうわわわわうわわうわわわうわわわわうわわわうわわわうわうわわわうわわわうわわうわわわうわわわうわうわわうわうわわわうわわわうわわわわうわわうわわわうわわわうわわわうわわうわわわうわわわうわわわうわわわうわわわうわわわわうわわわうわわわうわわわうわわわわうわわわわうわわわわわうわわわわうわわわわわうわわうわわわわうわわわうわわうわうわうわわわうわわわわうわわわうわわわうわわわわうわうわわわうわわわわうわわわわうわわわうわわわうわわうわうわわわうわわわうわわわわうわわわうわわわうわわわわうわわわわわうわわわたたすけウギャー!」

 最後に男は獣のような叫び声を上げた。大きな震えが走り抜け、男は失神したようだった。崩れ落ちる男の体を妻が支えた。

「あなた、しっかりして、大丈夫?」

 すぐに男は目を開いた。その瞳は黄色だった。別人のように冷たい笑みを浮かべた男の唇の隙間に、牙のような犬歯が覗いた。男は両手で妻の頭を挟んだ。

「ハロー、ハニー」

 男は、青い爪の伸びた両手で、妻の頭部をぐしゃぐしゃに握り潰した。

 

 足音は、もう、聞こえない。奴は、いない。奴は、俺。

 

 

  第八十四夜 朝

 

 手探りで目覚し時計を止めて暫く経っても、母は彼を起こしに来なかった。

 いつもなら、そろそろ、二階に上がって来る足音がして、早く起きろ、学校へ行けと責め立てるのに。彼は布団を頭から被ったまま、疑問に思う反面ホッとしていた。

 もっと眠っていたい。いつまでも眠っていたい。

 ああ、学校にも行かず、勉強もせずに生きていけるのなら、どんなに幸せなことだろう。この受験地獄の日々、そして学校には『奴ら』が待っているのだ。彼をストレス解消の道具にしようとして。大人しい彼は、反撃することが出来なかった。

 彼は、この非常な現実を、戦って生き抜く勇気を持たなかった。彼の人生は、苦痛の連続だった。

 ただ、眠りだけが、彼の安らぎであり、救いだった。

 母が起こしに来るまでは、ずっと布団を出ずにいよう。彼は思った。家族の誰にも、彼の苦しみを理解出来る者はいなかった。

 そして、時間が経つうちに、彼は徐々に不安になってきた。

 今、何時くらいだろう。家族が皆、寝坊してしまって、とっくに始業時間を過ぎてしまっているんじゃないか。いや、意外と大して時間が経っていないのかも知れない。十分くらいを一時間にも感じているだけなのかも。いやそもそも、目覚し時計が鳴ったこと自体が夢であったのかも知れない。

 誰も起こしに来ないなら、このまま寝ていてもいいんじゃないか。たとえ遅刻することになっても、それこそ、望むところではないのか。なのに、この不安は何だろう。社会から取り残されることへの不安なのか。

 やがて彼は、布団の隙間から、目覚し時計を覗き見た。

 時計の針は、十一時二十五分を指していた。

 その横に、三つの丸いものが並んでいた。

 それは、父と母と兄の、血塗れの、生首だった。

 彼はすぐ布団の隙間を閉じた。

 もしかすると、僕が、やったのかも知れない。

 彼は眠ることにした。いつまでも、布団の中で、永遠に、そのまま朽ち果てるまで。

 彼は、涙を流しながら目を閉じた。

 

 彼の布団を跨ぐようにして、殺人鬼が立っていた。

 大きな斧を振り上げた姿勢で、殺人鬼は待っていた。

 彼が目を覚まし、布団をはぐり、殺人鬼に気づいて恐怖の表情を浮かべた瞬間に、斧を振り下ろすつもりだった。

 殺人鬼は、微動だにせず立ち尽くしていた。

 その時が永遠に来ないことを知らずに。

 

 

  第八十五夜 若き日の自殺計画

 

 真島啓三は、拍手喝采で自分を迎える会場の人々を呆然と眺めていた。広い会場には五千人近い客がいた。郊外のアパートでひっそりと隠居生活を送っていた自分が、何故突然こんな所へ連れてこられたのか。真島には訳が分からなかった。

「ようこそおいで下さいました。『魔人』真島さん」

 タキシードの司会者が笑顔で呼びかけた。その声は会場に響き渡り、人々は歓声を上げた。客は、どちらかというと中高年者が多かった。

 『魔人』真島か。確かにそんなふうに名乗っていたことはある。ステージに押し出されながら、真島は思い出した。無政府主義者のニヒリスト、全国を邪悪な熱狂の渦に巻き込んだ小説家として。

 だがそれは五十年以上も前の話だ。今の真島は、八十才の呆けかかった老人に過ぎない。

 それよりも、真島はステージに置かれた機械のことが気になっていた。水平に据えられた、巨大な扇風機の羽根のようなもの。ただし羽は金属製だ。その上に、何かを吊るすつもりか、フックの付いたロープが垂れていた。

「覚えておいでですか。『ミキサー』です」

 司会者が言った。

 昔、真島が小説に登場させた惨殺用機械だが、彼は覚えていなかった。

「そんなものは知らん。それよりわしをどうする気だ」

「……。なるほど。あなたは正しかった」

 司会者は頷いて、懐から一枚の古い紙片を取り出した。

「読みますよ。『俺は長生きする気はない。太く短く生きて、派手に死んでいくつもりだ。だがもし俺がそんな気持ちを忘れ、八十才を過ぎても生きているようなら、どうか俺を飛び切り残酷な方法で殺して欲しい』……これは、あなたが書いた誓約書です」

 会場を埋め尽くす、昔の読者達が再び歓声を上げた。

 司会者は書類を手渡した。真島はその文章を読んだ。確かに、自分の字らしかった。

 だが……。

「ちょっと待て。こんな事を書いた覚えはないぞ。こ、このわしをどうするつもりだ」

「あなたのご意志により、あなたの人生を終わらせていただきます」

 忠実な読者であった、六十八才の司会者はにこやかに宣言した。数人の屈強な男達が真島の体を捕らえた。

「うわっ、何をする」

 抗う真島を彼らは無理矢理縛り、フックにかけてロープに繋いだ。ロープが巻き取られていき、『ミキサー』の真上で止まった。司会者がモーターのスイッチを入れた。鋼鉄のファンが凄い勢いで回り始めた。

「うわ、助けてくれ。やめろ、お願いだ」

 司会者の顔を、ふと悲しげな表情が掠めたが、彼は躊躇なく、下向きの矢印のついた赤いボタンを押した。それが真島の望む結果だと信じて。

 ゆっくりと、真島の体が下がっていく。

「うわ、やめろ、ウゲゲゲゲ」

 真島は足を上げてミキサーの刃を避けようとしたが、疲れて下がった爪先がたちまち切断され、細かい肉片と化して周囲に散った。

「アゲゲゲゲエ」

 少しずつ、真島の体が減っていく。

 あまりの痛みに気絶することも出来ず、カッと見開かれた真島の目に、正面の巨大な電光掲示板に映った文字が見えた。

 『ざまあみろ。未来の俺』と、それは描かれていた。若い時の『魔人』真島が用意した台詞だった。

 呪ってやる、昔の俺。真島は声にならない声で叫んだ。

 苦痛と憎悪が頂点に達した時、真島の心に劇的な変化が生じ、全体に広がっていった。それは、世界中の全てのものを全身全霊で憎んでいた、若き日の自分の感覚だった。

 ざまあみろ、俺。

 ざまあみろ、世界。

 真島は内臓を撒き散らしながら、喜悦の表情を浮かべていた。

 五千人の熱烈なる元読者達も、真島の表情に気づいて至福の涙を流した。

 やっぱり彼は『魔人』だった。彼らの服に顔に、真島の血と肉片が飛んだが、彼らは逆にそれを喜んだ。

 皆の祝福を受けながら、『魔人』真島は、八十年の激しい人生を終えた。

 

 

  第八十六夜 世界

 

 周囲に広がる無限の宇宙空間。遠くには無数の星がきらめいている。どれくらい遠くなのか想像もつかない。

 全く、音がしない。

 私は、真空の闇の中に浮かんでいた。

 私の目の前には神がいた。

 光。

「人は何故生きているのか知っているか」

 神が思念だけで聞いた。

「生きているからだ」

 私は答えた。

 神の表情が動いた。

「では、世界は何故存在する」

「存在するからだ」

 私は答えた。

 それが、五百億年の歳月をかけて、私の出した結論だった。

 そして、ただ一つの真実だった。

 原因はその原因を要求する。その原因は更にまたその原因を要求する。その原因も更にまた……。

 最後に行き着くところは何なのか。究極の原因、絶対の真理は存在するのか。もしあるとすれば、その究極の原因は、その原因となるものがないのにどうやって存在し得るのか。

 故に、突き詰めれば原因など存在しないのだ。そうでなければ、原因の原因はいつしか一周してしまうのだろう。人は生きているから生きており、世界は存在するから存在する。

 それだけだ。

「何を求める」

 神の問いに、私は、長い間心の奥底に抱いていた考えを口にした。

「釈迦の手のひらから飛び出して、その横っ面を張り倒したい」

 神は笑ったようだった。

「いいだろう。神の座をお前に譲ろう。好きにするがいい」

 神は消えた。

 私が神になっていた。

 神よ。私には分かっていた。

 あなたは、無から世界の全てを創造し、あらゆるものの根源であるつもりだったのかも知れない。

 だが、そういうあなたを一体誰が造ったのか、考えたことはあったのかい。

 原因は原因を要求する。

 世界は、存在するから存在する。

 おそらく。

 誰も、釈迦の手のひらから飛び出すことは出来ない。

 創造主であっても、或いは、釈迦自身であってもだ。

 誰もが、誰かの手のひらの上で踊っているのだ。

 それでも。

 私はやってみるつもりだ。

 私は手を伸ばした。

 無限の距離を一瞬で超え、私の手は宇宙の端を掴んでいた。

 私はそれを引っ張った。

 宇宙の一部が剥がれた。

 私は無数の腕を方方に伸ばし、宇宙を内側へ引っ張り、縮めていった。

 世界はあっという間に縮小していき、ついには一つの点になった。

 そして、私自身と共に、世界は消滅した。

 同時に、世界は存在した。

「萩原、おい、萩原、起きろ」

 僕は激しく揺さぶられ、目を覚ました。

「授業中に居眠りしてんじゃないよ」

 杉田先生が、怒ったような、半ば呆れたような顔で僕を見つめていた。

 え、杉田って誰だ。

 僕は、突然の自分の思考に驚いていた。

 すぐに、『記憶』が頭の中に湧き上がってきた。

 杉田先生。物理の教師だ。僕のクラスの担任でもある。

 ああ、そうか。

 僕は『思い出した』。

 あれっ。

 僕は誰だ。僕は萩原って名前なのか。

 またすぐに『記憶』が『甦る』。

 僕は萩原亮一。高校二年生。家族は両親と弟が一人。住所は……。

 なんだ、そうだったのか。すっかり『忘れていた』。

 僕は安心した。

 ワタシ……。

 世界は、存在するから存在する。

 突然、奇妙な言葉が浮かび、消えた。

「どうした、萩原。泣いてるのか」

 僕は驚いて目の辺りに触れた。

 濡れていた。

 なんだか、凄く悲しかったような気がした。

 でもそんな気持ちもすぐに消え、僕はすみませんと言ってシャーペンを握り直した。

 

 

  第八十七夜 アピャッピョー

 

 老人は庭で薪を割っていた。麦藁帽子を被っていても、夏の日差しは容赦なく老人を照らしつけた。

 八十四才になる老人が住むこの片田舎の家では、今でも風呂を沸かすのに薪を使っている。老人が風呂に入る時には、二才年下の妻が外で薪を足してくれる。

 孫が幼い頃は、風呂釜の奥まった暗い部分(火に熱せられる部分だ)を怖がって、風呂に入るのを嫌がったものだ。老人は黙々と斧を振り下ろしながら、淡い思い出に浸っていた。とっくに孫は成人し、滅多に顔を見せることもない。

 斧は柄が一メートル近くある大きなものだった。薄く錆に覆われ、所々刃が欠けている。いい加減、手入れをしなくてはな。老人は思った。

「あなた、そろそろ一休みなさったら」

 妻の多恵子が麦茶と饅頭を盆に乗せ、縁側から声をかけた。

「そうだな」

 老人は縁側に腰を下ろし、額の汗を拭った。

「相変わらず、いい天気ですね」

 多恵子が眩しそうに空を見上げて言った。妻の背は最近急に縮んだように見える。医者によると脊椎の圧迫骨折だとか何とかで、骨訴鬆症が原因だという。

 麦茶は良く冷えていた。老人は饅頭を食べながら狭い庭を眺めた。雑草が伸びている。この間刈ったばかりなのに。

「さて、と」

 老人は立ち上がって斧を手に取った。

 妻は縁側に座ったまま老人を見守っていた。

「アピャッピョー!」

 いきなり老人が凄い形相で叫んだ。両手で握った斧を渾身の力で妻の脳天に振り下ろした。悲鳴をあげる暇もなかった。斧は老妻の鼻の辺りまで減り込んだ。血と脳漿が飛び散って老人の顔にはねた。

 

 

  第八十八夜 ある日

 

 彼が学校から帰ると、家には誰もいなかった。

 いつものことだ。両親は共働きなのだ。姉は大学の寮に入っている。

 食卓の上に書き置きがあった。母の端正な字で、『プリンが冷蔵庫に入っているので食べて下さい』となっていた。

 彼は冷蔵庫を開けてプリンを出した。皿にひっくり返さずに、そのままスプーンでほじくって食べた。

 食べ終わると彼は二階の自分の部屋に上がった。

 部屋は散らかっていた。床には読みかけのコミックが散乱している。彼専用の小さなテレビに繋がった数台の家庭用ゲーム機達は、コードを複雑に絡ませ合い、さながらジャングルと化していた。本棚にはぎっしりと漫画の本が埋まり、本命であるべき教科書類は隅の方に追いやられていた。

 彼は勉強机に座り、数学の教科書とノートを広げた。明日の授業の問題に彼が当たっているのだ。前に出て黒板に解答を示さなければならない。忘れると、あの冷たくエリート然とした教師に巨大な定規で頭を割られることになる。

 数字と記号の無意味な羅列を、彼は無感情に処理していった。

 彼の部屋の窓からは狭い裏通りしか見えなかった。じめじめした、昼でも薄暗く感じられるような景色だ。よく野良猫に荒らされたごみ袋の中身が散らばっていた。彼は滅多に窓の外を見ることがなかった。

 機械の一時間が過ぎ、彼は数学その他の宿題を終えた。夜になればまた別の勉強をしなければならないが、今は自由時間だ。

 彼はテレビをつけ、ゲーム機の一つにカートリッジを差し込んで、スイッチを入れた。

 やがて陽気な音楽と共にゲームのタイトル画面が現れた。彼はその見慣れた場面を無表情に見つめ、スタートボタンを押した。

 押して五秒も経たないうちに彼は突然ゲーム機の電源を切った。

 彼は別のゲームにカートリッジを入れ替えた。

 再び電源を入れる。

 それも十秒ほどで切られた。

 三度、それを繰り返し、彼は結局ゲームをやめた。

 制服を脱いで普段着に着替え、彼は家を出た。玄関には鍵をかける。

 五分ほど歩くと商店街に出た。

 通りには、下校ついでに友達と何処かに寄っていく学生達や、何かしらの快楽を求めて徘徊する若者や、買い物の主婦達が溢れていた。彼はその中に混じり、人込みの間を泳いだ。

「あれ、……くんじゃない」

 声がした。

 彼が振り向くと、目の前に学生服の女の子が立っていた。同じクラスの、彼が密かに憧れていた娘だった。

「もしかして、今、暇なの?」

 彼は無表情に頷いた。

「暇なら、これから一緒にボーリングでもどう。……くんが良ければだけど」

 そう言うと彼女は、微かに頬を赤らめてみせた。

 もしかすると彼女も、彼のことが好きだったのかも、知れない。

 彼は右手の指でVサインをつくり、それを彼女の両目に無造作に突き刺した。

「アギッ」

 彼女は奇妙な声を上げた。二つの眼球が糸を引いて、血と一緒に眼窩から転がり落ちた。

 

 

  第八十九夜 殺人鬼の死

 

 男は、丹念に、刃物を研いでいる。

 刃渡り二十センチを超える、使い込まれた剣鉈を。

 木製の柄は、赤い色をしていた。

 いくら洗っても落ちない、こびり付いた血の色だ。

 この刃は、何人の首を掻き切ったことだろう。

 この尖った剣先は、何人の腹に胸に突き刺さったことだろう。

 九十九人。

 男は、自分の殺した人々の数を正確に覚えていた。

 刃物を研ぐ男の目には、陶酔と喜悦の色が浮かんでいた。

 命を奪う感覚。

 他人のかけがえのない人生を、ただの数振りで終わらせることの快感。

 素晴らしい。

 そう、九十九人。

 この四年間に、九十九人だ。

 これは、戦争やテロでなく、ただ刃物だけを用いての純粋なる殺人としては、世界のトップクラスではないだろうか。

 歴史上の殺人鬼の中でも、五本の指に入るかも知れない。

 勿論、男は記録を伸ばしていくつもりだ。

 中研ぎを終え、男は鈍く光る鉈の切れ味を、エッジを指の腹に当てて確かめた。

 その時、急に鼻がむず痒くなって、男は大きなくしゃみをした。

 痛み。

 見ると、左手の人差し指から薬指にかけて三本の指が、きれいに切断されて床に落ちていた。素晴らしい切れ味の鉈だった。

 男は呆然と自分の指を見つめていた。血がポタポタと滴り始めた。

 終わりだ。男は思った。

 自分の殺人鬼としての偉業は、台無しになってしまった。

 どんな殺人鬼でも、自分の指を切ってしまうような馬鹿はいないのだ。

 男は泣いた。

 男は鉈の切っ先を上に向け、自分の喉に突き刺した。

 深く刺さった鉈を大きく抉り、男は記念すべき百人目の殺人記録を自らの命で達成した。

 

 

  第九十夜 勉強部屋にて

 

 須永充はまだ机に向かって勉強を続けていた。部屋の電灯は切って、机の蛍光燈の光だけだ。時計は夜中の一時半を指している。二時になったら寝よう。充は思った。それまでは勉強だ。明日も朝の課外があるから、六時に起きなければならない。つまり、睡眠時間は四時間ということになる。

 充はまだ高校の二年生だったが、大学受験のための勉強を既に始めていた。一年の時から始めている奴もいる。充もうかうかしておれない。

 勉強。何のために勉強するのだろう。休む間もなく勉強して、いい大学に入って、それからどうするというのか。いい会社に就職すれば、それが自分の幸せに繋がるのだろうか。

 分からない。人生とは何なのか分からない。自分が何のために生きているのか分からない。誰も人生の意味など教えてはくれない。人生をいかに生きるべきかなど教えてはくれない。どうすれば幸せになれるのか、大人は誰も明確な答えをくれない。ただ勉強しろというだけだ。勉強しろ、勉強して良い大学に入れ、と。

 充は勉強が嫌いだった。勉強しろという教師を、両親を恨んでいた。充は社会と、人類全てが憎かった。それでも充は勉強し、塾にも通った。皆が勉強をしている。自分だけしなかったら、皆に取り残されてしまう。皆に取り残されてしまったら、自分がどうなってしまうのか分からない。充は漠然とした不安に突き動かされ、生活の全てを勉強に捧げた。勉強だけが自分の存在意義であるかのように。

「ククク、クヘクヘクヘ」

 突然、小さな笑い声が聞こえ、充は凍りついた。自分以外の家族は、もう眠っている筈だ。

 幻聴だろうか。あんまり勉強ばかりしていたから……。

「勉強して、一体何になるんだろうねえ」

 声が言った。あまり人間ぽくない声だった。どちらかというと、昔見ていたテレビアニメの妖怪の声のような……。

 充はこわごわと周囲を見回した。薄暗い自分の部屋は、別世界のような感じがした。

 誰もいなかった。

 やっぱり幻聴……。

 そう思った時、再び声が聞こえた。

「だってあんたはもう死ぬのにねえ」

 途端に、壁や柱の軋む音が部屋中に響いた。壁に亀裂が走り、窓ガラスが割れた。

 うわ、何だ。充は立ち上がった。部屋から逃げようとしたが、歪んだドアはびくともしなかった。音が大きくなった。床が、壁が、天井が揺れている。どんどん、内側に、押し込められてくる。以前映画で見たことがある。自動車が一台、大きなプレス機にかけられて、一メートル四方の塊に変わるのを。充の部屋は、そんな状態になっていた。こ、これは夢なのだろうか。充は思った。既に部屋は二メートル四方くらいに縮み、変形した勉強机に圧迫されて充の足が折れた。そ、それとも、人生とは、こんなものなのだろうか。机やベッドや本棚と一緒になってスクラップにされていく。蛍光燈が消え、もう何も見えない。手足が潰れ、圧迫された胸部がバキバキと音を立てた。充の顔に何か固いものが当たっている。幸せとは……。プキュ。

 

 

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