第一部 奈落より

 

  一

 

 痛み。

 真正面から降ってきた重い刃が俺の頭頂部に触れる。

 ゴリッ、と、音が直接、頭の中に響く。

 額から眉を伝い、生温かい液体が俺の頬を流れていく。血だ。

 刃が、じりじりと、容赦なく、下りてくる。

 既に頭皮は裂けている。薄い筋膜を割り、刃が直接俺の頭蓋骨に触れている。

 ミリッ。骨が軋む。

 痛み。

 痛みだけが、ここに存在する。

 今まで感じたことがないくらい強い痛み。こんな感覚がこの世に存在したとは。世界が痛みだけになってしまったみたいだ。耐えられない痛みだが、俺の意識がまだそれを感じているということは、結果的には耐えていることになるのだろう。

 俺は動けない。逃れられない。両手は塞がってしまっている。

 嫌な音が、俺の内部に響く。刃がただ、ゆっくりと、確実に、俺の頭を縦に割っていく。

 刃が俺の視界の隅に見える。それは、俺の額の中ほどまでめり込んでいる。

 痛みは更に強くなる。俺は必死になって意識を保っている。流れる血は俺の服を濡らしていく。血に混じって頬を伝っていくものは、涙だろうか。ハッ。笑ってしまう。

 気分が悪くなってくる。吐き気がする。頭が脳ごと割れているのだから当然だ。

 気を失ったらお終いだ。俺はその時点で死ぬことになるだろう。そうなれば……。

 俺の両目の間を、刃が通り抜ける。鼻を縦に二等分していく。舌に刃が触れる。歯と歯の間に刃が食い込んでいく。

 そうなれば、俺は、楽になるのだろうか。

 黙れ。

 刃は、首の根元で止まった。

 真っ二つになった俺の頭が、左右に倒れていく。

 視界が、裂けていく。

 

 

  二

 

 全ては意志の力による。

 

 

  三

 

 遠くで誰かの悲鳴が聞こえている。甲高い、助けを求める声。無駄と分かっていても叫ばずにはいられないのだろう。

 いつもと変わらぬ最悪の目覚めだった。

 頭が割れそうに痛む。

 俺はベッドを起き出し、殺風景な自分の部屋を横切って洗面所に向かう。

 鏡に映る俺の顔は、正中線上を紫色の傷が走っていた。鼻も唇も、正確に等分されている。傷は喉の下から始まり、額を越えて後頭部を通り首の付け根まで続いている筈だ。太い糸で強引に縫い合わせたその傷は、所々で数ミリ程度のずれがある。まだ傷は癒合していない。もしかすると、永遠に治ることはないのかも知れない。

 俺は舌を出してみた。やはり縦に縫い目のある舌も、どうやらちゃんと動くようだ。

 鏡の中の俺は、怒ったような目をしていた。

 もういい。分かっている。俺は自分に告げた。

 この傷は、特別な傷だ。

 俺は顔を洗う。流れていく水は赤い色をしていた。

 汚れたタオルで顔を拭き、部屋に戻る。

 俺の部屋には、パイプ製の古いベッド以外に家具と呼べるようなものはない。壁はコンクリートが剥き出しだ。数年前に放火され、仕方なく自分で補修したものだ。テレビも電話も冷蔵庫も、文明の利器は全て役に立たなくなった。放送する者も電気を供給する者もいないからだ。水道の水は、俺が自分で造ったものをタンクに貯めて使っている。

 空虚な部屋。俺の内界。

 ここに食料はない。最後に食べ物を口にしたのは何年前のことだろう。食料は、生きるための必需品ではなくなった。

 もしかすると、睡眠も、必要ないのかも知れない。

 だが、俺は眠りたい。見る夢がたとえ悪夢でも、現実よりはましだ。

 俺は部屋の隅に目をやった。床に無造作に転がっているのは、刃渡り一メートルの巨大な出刃包丁だった。普通の出刃をそのまま拡大したものではなく、日本刀と包丁を合成したような形で、刃幅は十五センチ、峰の部分の厚さは三センチほどだ。

 俺はこの愛用の凶器を、首刈り出刃と呼んでいる。

 刃の表面には血がこびりついている。古い血、新しい血、黒い血、緑色の血。俺は血を拭かない。その辺りの床には濃い染みが残っている。

 俺は首刈り出刃を手に持った。ズシリとくる手応え。高密度の金属で出来た刃は十キロ近い重量があるが、俺の腕はその負担に耐えることが出来る。包丁に鞘はない。鞘など意味がないのだ。

 ペンキの剥げたドアを開けて、俺は今日も混沌の世界へ足を踏み出した。

 生ぬるい外界の風が、俺の髪を揺らす。

 薄暗い空を見上げる。太陽もこの数年見ていない。街が明るいとやりにくい誰かが、空間に闇を撒いたためだ。対抗策として、住人の多くは闇の中でもはっきり見えるように視覚を発達させている。勿論俺もその一人だ。今が昼なのか夜なのか分からない。時間の感覚はとうに狂っている。

 共用廊下を歩く。隣の部屋はドアが破れている。二年ほど前からこのままだ。時折低い唸り声が聞こえるから、空き家という訳でもないらしい。中にどんな奴が住んでいようと俺の知ったことではない。襲いかかってくるなら別だが。

 錆びてねじ曲がった螺旋階段を俺は下りていく。俺の部屋は十三階にあり、使えるのは階段だけだ。慣れてしまえば辛くはない。

 下界。半ば廃墟と化した街。所々に炎が見える。県内で一番美しい街と言われた、昔の面影は既にない。住人は、適当にあり合わせの材料を加工して家を建てている。白や赤や黒の壁を持った、奇妙に変形した建物群。自己顕示欲の象徴のように。俺の住むこの高層マンションも土台から傾きかけているが、誰かの意志によって支えられている。

 掃除する者のない通りは薄汚れている。広い道路も車が走ることは滅多にない。機械のメンテナンスと燃料の製造は膨大な知識と意志力を要求するからだ。この間は凄いスピードで走る自転車を見かけた。あれは時速八十キロは出ていただろう。ただ、無数の罠が待ち受けるこの街を高速で走っても得なことはない。

 通行人の数は少なく、何人かが固まって注意深く歩いている。グループを組んで行動するのはこの街で勝ち残るための鉄則だ。隙を見せるとたちどころに襲撃され、命を失うことになる。

 通りの向こう側では三人の男達が一人の少年にリンチを加えていた。単独行動をしていたのか、馬鹿な奴だ。それとも生まれて日が浅く、世界のルールを知らなかったのか。黒いマントとフードをつけた男の袖から無数の触手が伸び、少年の体をがんじがらめにしている。触手に口を塞がれ、悲鳴を上げることも出来ない少年を、他の二人が斧と鋸で解体していた。男達はヘラヘラと笑っていた。と、俺の姿を認めると、三人は慌てて血みどろの少年を引きずり建物の陰へと消えていった。

 俺の知ったことじゃない。

 抜き身の巨大な包丁を握り、俺は腐臭の漂う街を歩いた。

 ……人類よ希望を捨てるな。本日は二○一二年六月十九日、二○一二年六月十九日……

 声が頭の中に響いた。今日も誰かがテレパシーで放送している。何処から放送しているのかは俺も知らない。

 反吐が出る。

 ……四日前、北アメリカの西海岸で二千七百人の住民が団結し、都市国家を形成しました。秩序ある平和な生活を取り戻そうとする試みは、全世界の識者達に評価されています。皆が人類の幸せを願う気持ちさえ持つことが出来れば、理想の世界を築くことが出来るのです……

 だが人間は、自分の幸せしか考えない。それが致命的な事実だ。

 放送の内容が事実かどうかは誰にも分からない。情報の伝達は無線や旅人より得られるものを除き、主にテレパスに委ねられている。彼らの数は極めて少ないし、嘘をついていないという保証は何処にもない。出鱈目の情報をばら撒いて楽しむテレパスもいると聞く。

 だから、世界が今、どうなっているのか、俺には分からない。

 俺が事実として知っているのは、この腐った都市のことだけだ。そして、何処も大差ないことは、旅人の噂など聞かずとも、人間の本質を理解していれば疑いようもない。

 道端には時折、ヘドロのような堆積物が見つかる。雨と風が片づけてくれるのを待つだけだ。

 それは、かつて人間だったものの残骸だった。潔く旅立つことが出来ず、破壊された自分の肉体を修復しようと最期の瞬間まで足掻いた結果が、この醜い塊だ。最近は綺麗な死体など殆どないし、あってもすぐに消える。

「助けて」

 女の悲鳴。起きがけに聞こえたものとは別だろう。ここでは悲鳴など日常茶飯事。気に留める者はいない。

 通りの前方に、二人の人間らしきものが絡み合っていた。一人は服を切り裂かれた半裸の若い女だった。女を四本の太い腕で組み敷いているのは、体毛の濃い獣じみた男だ。男は前にせり出して並ぶ狂暴な牙を使い、泣き叫ぶ女の肩や首や胸の肉を食いちぎっている。

 二人は、俺の進路を塞ぐ場所にいた。

 避けるのも面倒だ。

 近づく俺の気配にも、獣の男は顔を上げず食事に没頭していた。自分の強さに自信があったのかも知れない。

 俺の姿を見ても、男は平気で食事を続けていられただろうか。

 歩きながら俺は首刈り出刃を振り上げ、そして袈裟がけに振り下ろした。

 相手の肉と骨と精神を一気に断ち切る感触が、凶器から腕を伝って俺の脳まで響く。

「アゲエエエエエエッ」

 胴体を斜めに分断された男は、血と内臓を地面にぶち撒けながら倒れた。俺の安物のコートに、また新しい血の染みが増える。

「痛い、痛い、痛い、痛い……」

 男はまだ生きていた。残った二本の左腕が震えながら地面を掻いている。

 俺は体重をかけて男の頭を踏みつけた。

「ギョブッ」

 男の頭が潰れ、脳と髄液が飛び散った。もう、男は動かなかった。

 俺はスニーカーの底を地面に擦りつけ、へばりついたものを落とした。

 ポタン、ポタン、と、俺の握る巨大な出刃包丁から、血が滴っている。

「助けて下さって、あ、ありがとうございます」

 女はよく見ると美しかった。尤も、その気になれば誰だって美しく装うことは出来る。内面を別にして。女の上半身は血塗れだったが、命に別状はないだろう。

 安心したのか、女が泣きながら俺の足にしがみついてきた。

 俺の右足に、鋭い痛みが走った。

 女が舌を伸ばしていた。錐のように尖った長い舌だ。その先端が俺の太股に突き刺さっていた。ピンク色の舌が赤く変わっていく。

 俺の血を吸っているのだ。すり減った生命力を、恩人である俺から回収しようというのだろう。油断していれば、致命傷になったかも知れない。

 だが、俺は、油断しない。

 俺は出刃を振った。

 女の首が飛んだ。五、六メートル先の地面をバウンドして、ゴロゴロと転がっていく。

 良心の呵責などない。

 誰もが他人を殺すチャンスを狙っている、ここはそんな世界なのだから。

 既に獣の男の死体は崩壊を始めていた。変形し、煙を上げながら溶けていく。やがて、腐臭を漂わせる黒い堆積物に変わるだろう。

 俺が再び歩き出すと、背後でワサワサと蠢く気配があった。

 建物の隙間や瓦礫の下に潜んでいた奴らが、まだ生命力の残る二つの死体を食らうために這い出してきたのだ。弱い者達は陰に隠れ、常に機会を窺っている。

 奴らがどんな姿をしているかは知っている。薄っぺらの胴体と細い手足、闇に紛れる黒い皮膚に、そこだけはギラギラと光る目。

 暗がりの奥は奴らの縄張りだ。甘く見て入り込んだ住人は、陰湿な罠と圧倒的な人数で嬲り殺しにされる。暫く獲物がなければ、彼らは仲間のうち最も弱い者を殺して食うという。

 ハイエナ共め。

 奴らが死体の取り合いを始め、通りはちょっとした騒ぎになっていた。

「スローター」

 振り向かず歩き続ける俺に、誰かが声をかけた。

 スローターは、虐殺という意味の英語だ。虐殺者ならスロータラーとなるらしいが、何故か俺の綽名はスローターで定着してしまった。

 滑るように近づいてきたのは、白い服にマントを羽織った長身の男だった。綺麗に整えられた髪は銀色で、腰に提げている長剣の鞘も銀だ。

 男は、顔全体をのっぺりした白い仮面で覆っていた。

「運が良かったな、スローター。今のは正義の行為と正当防衛の範疇に入る」

 法の守護者。男は自分のことをそう呼んでいる。街中をたった一人でパトロールして回り、リンチなどの場面に出くわすと、『罰する』と称し喜んでそいつらを殺戮するような男だ。

 俺は、この男が嫌いだった。

 その白い仮面も。

「だがスローター、いい気になるなよ。私がいつか、お前の尻尾を掴んでやる。覚悟しておくがいい」

 無視して歩く俺に、仮面の男はそう言い残して滑り去っていった。

 

 

  四

 

 台座の上に据えられた、一辺が一メートル半の立方体。

 透明な氷。

 汚れた広場の中央に飾られたそれを、俺は見上げていた。

 氷の塊の内部には、一人の美しい少女が封じ込められている。

 少女は全裸だった。胎児のような姿勢で丸くなり、目を閉じている。

 まるで、眠っているかのように。

「絵美」

 氷漬けの少女に向かって、俺は小さく呼びかけてみた。

 返事はない。

 絵美。

 俺の愛した女性。

 彼女が、こんな形で自分の殻に閉じ篭もってから、もう七年が過ぎようとしている。

 醜く荒み果てたこの世界に、彼女は、耐えられなかった。

 台座の周囲の地面は、人間の黒い残骸で満ちていた。動けぬ彼女を狙って近寄った愚か者達の末路だ。超一流の狙撃手が待ち構えているとも知らず。

「絵美」

 もう一度、俺は呼んでみた。

 左手で、彼女を包む氷の壁に触れてみる。

 ひんやりと冷たい。

 この温度が、外界に対する彼女の拒絶を示していた。

「雄治」

 遥か上の方から声が聞こえてきた。

 誰の声かは分かっている。

 俺は広場に面した高い建物を見上げた。以前は高級ホテルだったが、窓ガラスは殆どが割れ、壁も所々が崩れ落ちている。

 八階の窓から、サングラスをかけた若者が顔を出していた。

「ケン」

 俺は、ただ一人の親友である彼の名を呼んだ。

 かつて三島健一郎と呼ばれていた男は、唇を軽く歪め、彼なりの微笑を浮かべてみせた。

「久しぶりだな。上がってこいよ」

「ああ、そうする」

 長い鉄製の梯子が正面の壁を伝い、ケンの部屋まで延びている。このホテルの住人は彼だけだ。住み着こうとする者は皆、彼に殺される。

 俺は右手に包丁を握ったまま、左手と両足だけで梯子を上っていった。

 ケンの部屋は広い。元々はVIP用の部屋だったという。柔らかそうなベッドに、高級品のソファー。テーブルの上に載っているのは無線機だ。コンセントには繋がっていないが、時々ケンは意志力で電気を供給して使っている。同じように無線機を使って連絡を入れてくる者がいるらしい。ただ、入ってくるニュースは絶望的なものばかりだった。

「どうした雄治、その顔は」

 俺の顔を縦に二分する傷を見て、ケンが尋ねた。心配しているふうでもない。

「別に」

 俺は奥のソファーに腰を下ろした。クッションのよく利いたソファーは、俺の部屋のパイプ製ベッドとは大違いだ。

「包丁に新しい血がついてるな。また誰かを殺してきたんだろ」

「ああ。悪いか」

「この十年で、何人殺した。一万人は超えたろう」

「さあな。そんな細かいことまで覚えていられない」

「俺より多いかな」

「さあ」

「ふふん」

 ケンはすぐに背を向け、窓際の椅子に腰掛けた。彼はいつもその場所から広場を眺めている。糞共が絵美に近づかないように、彼はずっと見張っている。

「今日の放送を聞いたか。北アメリカで都市国家が出来たそうだが」

 俺はケンに尋ねた。テレパシーで誰かが流していたあれのことだ。

「ああ、聞いたさ」

 振り向かずにケンは答えた。

「だがな、その後の話は知らないだろ。俺は無線で確かめたぜ」

「後の話ってのは」

「都市国家は二日で崩壊したよ。指導者間の権力争いが発端だ。些細な口論から始まって殺し合いになり、刺激された住民達の大乱戦さ。五百人以上が死んで、他の者は出ていったそうだ」

 ケンの口元には、きっと皮肉な笑みが浮かんでいるだろう。そして悲しい笑みが。

「……。そうか」

 それきり、俺もケンも暫く無言だった。

「おっ、馬鹿が来やがった」

 やがて、ケンが呟いた。

 俺はソファーに体を預けたまま、ケンの背中を眺めていた。何が起きているのかは分かっている。氷漬けの絵美を狙って、また誰かが広場に入り込んだのだ。

「全く、殺しても殺しても湧いてきやがるぜ」

 ケンは吐き出すように言うと、右手の人差し指を伸ばして下に向けた。

 ポキュン。

 奇妙な音がして、何かがケンの指先から飛んでいった。

「アギョオオオオオオオッ」

 すぐに広場の方から嫌な悲鳴が聞こえてきた。

 ケンが何をしたのか、俺は知っている。

 彼は、自分の指の骨を発射しているのだ。ケンの狙いは正確で、大抵の場合相手を一発で仕留める。頭や胴体をバラバラに吹き飛ばす彼の武器は、ライフルよりも脅威となった。

「そういえば雄治、あの話はどうなった」

 外を眺めながら、ケンが聞いた。

「……。何の話だ」

「分かっているだろ」

 ケンは見透かしていた。

「……」

「俺なりに情報を集めてみたんだが」

 ケンは続けた。

「幾通りかの方法があると思う。まずは『生命の壷』があるよな」

「ああ」

 『生命の壷』のことは誰だって知っている。あの壷から生まれた者もこの街には多い筈だ。

「あれを片っ端から叩き壊していくことだ。今の時代、子供を自分らで産んで育てる奴なんていないからな。『生命の壷』さえなければ、人口は自然に減っていく筈さ」

「でも、壷を造ってる奴もいるだろう」

 俺の疑問に対し、ケンの返事はあっけないものだった。

「そいつも殺せよ。根気良く続けていれば、いつかは果たせるだろうさ」

「……。他の方法は何かあるか」

 俺は尋ねた。

「これは仮説なんだがな、世界自体に『核』があるという話だ」

 何故か声を低くしてケンは言った。

「『核』、か」

「核ミサイルのことじゃねえぞ。あれはもう過去の遺物だ」

「で、その『核』というのはどういうものなんだ」

「世界の存在を支える、根本原理のようなものだという。俺達の体を意志力が動かしてるみたいに、世界を『核』が動かしてるんだろうさ。それを破壊すれば、おそらく……」

「でも、そんなものをどうやって見つければいい。それに、俺達の手に触れられるようなものなのか」

 ハハ、ハハ、と、ケンは笑った。

「知らねえよ。何処にあるのかも、どういう形なのかも分からん。だがこんな世界だ、強く望めば出てくるんじゃねえのか。或いは、自分で勝手に造り出すという手もあるな」

「なるほど」

 なんとなく納得したような気になって、俺は頷いた。

「それで、どうする雄治。やるか」

 俺の頭を二分する傷が、ズキリと疼いた。

「……。俺は……」

「おっとまた新手だ」

 俺の返事を遮って、ケンの指が動いた。また広場で悲鳴が上がる。

 俺は、黙っていた。

「まだ、迷っているのか」

 ケンの声には、感情が篭もっていなかった。

 答えない俺に、ケンは背を向けたまま言った。

「迷いを消してやろうか」

 凄まじい殺気を浴び、俺の全身に鳥肌が立った。俺はケンの言葉の意味を理解した。ケンは世界を憎んでいた。そして煮え切らない俺を憎んでいた。何故なら俺は、絵美を守ることが出来なかったのだから。

 ケンは本気だ。

 俺は躊躇する余裕もなく、反射的に首刈り出刃を振りかぶりケンに飛びかかった。同時にケンが振り向いて両手の指を俺に向けた。高速で発射された十個の小さな骨が、俺の胸を腹を腕を突き破った。予想を超える痛みだった。流石は俺が親友と認めた男だ。俺は爆発しそうな自分の体を意志力で無理矢理に押さえつけ、なんとか成功した。それぞれの傷から血と肉が少量弾けた。俺は渾身の力を込めて首刈り出刃を振り下ろした。血塗れの凶器はケンの首の付け根、やや左側にぶち当たり、そのまま胴体を割って股下まで抜けた。ケンの体は真っ二つになった。血と内臓が噴き出したが、ケンは悲鳴を上げず苦痛に耐えた。床に倒れたケンは、震える右手を俺の方へ向けたが、もう骨を撃つだけの気力は残っていないようだった。

「どうだ……迷いは消えたか」

 ケンの声は消え入りそうに小さくなっていた。サングラスが外れ、緑色の瞳が見えた。

「ああ。やってみる。出発するよ」

「絵美は……どう……する」

 俺は、答えなかった。

 ケンは、俺の意志を察したようだった。

「そうだな……もう……それが、いいのかも……知れないな。本当は……分かっていたんだ……絵美は二度と……戻っては……こないって」

 悲しい微笑をケンは浮かべてみせた。ケンは絵美を愛していた。俺と同じくらい、いやそれ以上に。十五年前に三人が出会った時からずっと。

 ああ、もう一度、あの頃に戻れるならば、俺は、どんな代償でも支払うだろう。

「じゃあ……な……また……会おうぜ」

 それを言い終えると、急速にケンの姿が薄れていった。無駄な足掻きをして精神力を消耗させず、転生に向けて貯えるつもりなのか。前世の力と記憶を保って転生した者は少ないが、彼ならばきっと出来るだろう。いつかは。

 そして、ケンは消えた。

 自分が殺した親友の部屋で、俺はただ、立ち尽くしていた。

 野卑な笑い声が聞こえてきて、俺は我に返った。

 広場では、数人の男達が氷塊を囲み、なんとかして中の絵美を掘り出そうと試みていた。一人など長い鉤爪で引っ掻いている。

 彼らの顔には、獣じみた肉欲がへばりついていた。

 俺は右手に首刈り出刃を握り、八階の窓から飛び降りた。落下の衝撃を俺の膝は楽々と吸収した。俺は出刃を振り上げて駆け寄り、手近な場所にいた一人の首を刎ね、もう一人を唐竹割りにした。

 三人目を殺した時には、残りの奴らは逃げ去っていた。

「……絵美」

 俺は血塗れの凶器を握ったまま、最愛の女性に最後の呼びかけを行った。

 醜い欲望に溢れた広場に飾られ、七年間そのまま、清らかな不可侵の存在であり続けた絵美よ。

 君は氷の中で今、何を夢見ているのか。

 俺は跳躍した。両手で握り締めた首刈り出刃を、氷漬けの絵美へ一気に振り下ろした。七年間溶けずにいた氷と共に、包丁は彼女の体を二つに断ち割った。ゴトン、と、分かれた氷塊が台座から転がり落ちた。

 俺は、瞬きも忘れ、それに見入っていた。

 左右に転がった氷塊の断面に、割れた絵美の体の断面も見える筈だった。

 絵美の体は、空洞になっていた。中には内臓も何も、入っていなかった。

 彼女は、とっくに死んでいたのではないか。俺の頭をそんな考えが掠めた。

 この氷に包まれた絵美の姿を維持していたのは何だったのか。もしかするとそれは、彼女を守り抜くことを生き甲斐としていたケンの心であったのかも知れない。或いは、無意識のうちに彼女に救いを求めていた俺自身の。

 それは、幻でしかなかったのか。

 俺達は自分で自分を騙していたのだろうか。自ら望んで幻を見ていたのだろうか。

 絵美の姿は薄れ始めていた。氷と一緒に淡い霧に変わっていく。

 俺の見ている前で、絵美は、空気に溶けて、消えていった。

 彼女がこの世に存在していたという証拠は、何も残らない。

 俺の心の中にだけ、理想化された絵美は眠っている。

 広場に独り、俺だけが立っていた。荒涼とした風が、俺の横を通り過ぎていった。

 俺は泣かない。涙など、とうに涸れ果てている。

 前に進むだけだ。たとえ待つのが破滅でしかないにしても。

 俺は、世界を滅ぼすことを決めた。

 

 

  五

 

 始まりは、十年前のあの出来事だった。

 二○○二年、何だったか詳しい名前は覚えていないが、フランスで世界的な陸上競技大会が行われた。

 その大会の最終日、男子百メートル走決勝で、アメリカ代表のジョージ・ウェイクという選手が、八秒二七という信じられないタイムを出したのだ。

 世界中が大騒ぎになった。計測機械の故障説やドーピング説などありふれたものから、サイボーグ説、遺伝子操作による改造人間説まで飛び出した。その中でも一際話題になったのは、ジョージ・ウェイクが超能力者であるという説だった。録画映像を詳しく分析した結果、地面を蹴って一瞬宙に浮かぶ彼の体は、物理的に不可能な軌跡を描いていたという。

 ジョージ・ウェイクは記者会見の混乱の中で、こう発言した。

「私は何もやましいことはしていない。私はただ、可能な限り速く、誰よりも速く走ることを望んだだけだ。そう、ただ望んだだけ」

 アメリカの研究班が彼の肉体を詳しく調べたが、普通の人間と違うところを何一つ見つけることは出来なかった。研究班の報告を鵜呑みにすればだが。ただ、今となってはそんなことはどうでもいい。

 その間もジョージ・ウェイクは走り続け、非公認の世界記録を更新し続けた。百メートルを五秒三六で走るようになった時、彼は何者かに暗殺された。狂ったファンの仕業とか、他国の諜報機関の仕業とか色々言われていたが、真相は分からない。或いは、この先の展開を予測し、食い止めようとした識者の行動だったのかも知れない。

 だが、それはもう手遅れだった。

 世界中のあちこちに超能力者が出現するようになったのは、その頃からだ。

 グリセリンの話を知っているだろうか。うろ覚えだが、確か、そんな名前の物質だったと思う。昔、化学の授業で雑学として聞いた話だ。

 多くの科学者が試行錯誤を重ねたが、どうやってもグリセリンを結晶化することは出来なかった。

 だがある時ある場所で、偶然にグリセリンが結晶化した。

 すると、その日を境にして、世界中のあらゆる研究室でグリセリンを結晶化出来るようになったというのだ。方法などは何一つ変わっていないのに。

 不思議な話だが、十年前に起こった出来事と、共通する点があるように思う。

 最初のグリセリン結晶と同じように、ジョージ・ウェイクは先駆けであったのではないか。堤防を越える際にヒビを入れ、決壊の手助けとなるような。或いは全体の水位が上がった結果として、最初に溢れた水がジョージ・ウェイクであったのかも知れない。

 さて、彼らのことを超能力者と呼ぶのは、正しい表現ではないだろう。

 単に、意志の強い人、と呼ぶべきだ。

 つまり、人間は、意志力次第で、物理法則をねじ曲げることが出来るようになったのだ。

 自らの望む通りに。

 様々な者達が現れた。空を飛ぶ男。若返る絶世の美女。何度でも生き返る男。巨大化する男。念力による暗殺者。本物の魔法使い。自分の分身を量産する男。

 続々と登場する超人達の後を追って、一般の人々も少しずつ、力の使い方を覚えるようになった。食べなくても腹は減らず、病気も怪我も自分で治療し、そして彼らは、働く必要がなくなった。

「素晴らしい時代になった」

「誰もが望むだけで幸福になれる」

「真のユートピアが誕生するだろう」

 皆、はしゃぎ回り、酔ったように自分達の新しい可能性を試していた。

 次の変化は約一年後、人類全体が、物質面で苦しむ必要がなくなった頃だ。

 今にして思えば、制約があるからこそ、人は幸福を感じることが出来たのだろう。

 物質的なあらゆる欲望は、苦労せずに得ることが可能だった。そうなると逆に人間は、物質には価値を見出せなくなったのだ。

 物質以外でこの世界にある特別なものとは。

 それは、人という互いの存在だった。

 人類は、人間同士の関係に価値を見出し始めた。最初のうちは、愛とか友情といった、相手を喜ばせることに自分の喜びを感じる形だった。

 それが飽きられ、闇の方向に転じたのはすぐのことだった。

 一体、関係というものの中における、最大の快楽とは何であろうか。

 どうやらそれは、自分の鍛え上げた強大な腕力で、抗う相手を滅多打ちにして叩き潰すことらしい。

 幸福への希望に満ちていた世界は、血で血を洗う殺戮の地獄と化した。

 政府は崩壊し、通信システムも殆どが使用不能となった。建設的なことに役立つ能力を伸ばしていた善意の人々は、相手を引き裂くことにのみ情熱を傾ける悪意の人々によって皆殺しにされた。

 二○一二年の現在、人類の総数がどれだけになったのか分からない。

 そもそも今が本当に二○一二年なのかも確かめようがない。あの姿なきテレパスの言葉が全面的に信じられるのかどうか。

 俺は、よく、考えるのだ。

 これが全て、俺の見ている悪夢なんじゃないかって。

 目を開ければ隣に絵美が静かに寝息を立てていて、俺は全てが夢であったことにホッとする。そうなるんじゃないかって。

 俺はそれを望みながら、いつも眠りにつく。

 だが未だに、この悪夢から醒めない。

 

 

  六

 

 薄汚い路地を抜け、俺は崩れかけた建物の間を進む。闇が濃くなっていく。地獄の底へと降りていくような感覚。俺は視力を調節して対応する。

 少し広くなった行き止まり。湿気が俺の肌と衣服に絡みつく。

 そこには、出来損ないのドラム缶のようなものが置かれていた。

 高さは一メートル程度。微妙な凹凸がある黒い側面には、赤と青と緑の色彩も混じっている。

 内側にはドロドロした黒い液体が、口の辺りまで満たされていた。時折、中で何かが動いているのか、粘質な水面が揺れる。

 『生命の壷』。

 これが、殺し合いの続くこの街で人口が減らない理由だった。

 いつ、誰が置いていったかは知らない。ただ、この街にもあるという噂はあった。

 ケンと別れてから二日、俺は百人近くを尋問し、拷問にかけ、殺し、漸くこの場所を聞き出した。

 俺は『生命の壷』の前に立ち、血塗れの出刃包丁を振り上げた。

 名も知れぬ作者は、何を望んで、この『生命の壷』を造ったのだろうか。

「何をするつもりじゃの」

 背後から年老いた声が届き、俺は反射的に飛びのきながら振り向いた。全く気配に気づかなかった。滅多にないことだ。

 壁の崩れた部分に、小さな老人が腰掛けていた。ボロボロの衣服を纏い、長い白髪は腰の辺りまで伸びている。皺だらけの猿のような顔が俺を見ていた。ただ、その瞳は穏やかで知的な光を帯びている。

「何をするつもりじゃの」

 老人は、もう一度同じことを尋ねた。俺の持つ凶器を見ても、その口調に怯えは感じられない。

 俺は答えた。

「『生命の壷』を叩き壊す」

「お前さんのことは聞いとるよ、スローター。そんな仰々しい武器を持った男は一人しかおらん」

 老人は言った。

「しかし、殺人鬼の頂点に立つ男が、『生命の壷』を壊してどうするね。人がいなくなれば、お前さんの生き甲斐もなくなろうに」

 俺の頭を二分する傷が、ズキズキと疼き出した。

 そう、確かに、俺は、殺人鬼さ。

「俺の目的は、人類という醜い存在を、この世界から絶滅させることだ。それが不可能なら、世界自体を滅ぼすまでだ」

 ふひゃ、ひゃ、ひゃ。俺の答えを聞いて、老人はさも楽しげに笑った。

「無駄なことじゃよ。『生命の壷』は何百とあるし、幾ら壊しても新しく造られる。お前さんがどんなに頑張ったところで、間に合う筈もない。それに……」

 老人は淡々と続けた。

「人類を醜いと言うたの。確かに、現在人類の大部分は、自分の快楽しか考えぬ貪欲な獣ばかりじゃ。しかし、世界をより良くしようと考える、まともな人間もおる。人類に励ましの思念を送り続ける、あのテレパスのようにの」

「正しいことを言う人間が、正しいことをしているとは限らない」

「ふむ。実際、あのテレパスは力不足じゃ。奴の声に耳を貸す人間は殆どおるまい。しかし、だからといって希望の芽を摘むこともないじゃろう。『生命の壷』がある限り、希望はなくならぬ」

 俺は冷笑した。

「より深い絶望が生まれるだけだ」

「お前さん自身は、世界を救おうとは思わんのかね。お前さんほどの意志力があれば、救世主になることも可能じゃろうに」

 俺は、答えることが、出来なかった。

 既に、俺の手は、血で染まっている。

 絵美を失った俺に出来ることは、破壊と殺戮だけだ。

 その時、ガタガタと『生命の壷』が揺れ出した。

「おお、新しい生命が生まれようとしておるわ」

 老人は破顔した。底光りするような目の異様な輝きが、俺は気になった。だが俺も誕生の場面に立ち会うのは初めてだ。取り敢えず、俺は黙って見守ることにした。老人がヒョコンと飛び降りて、俺の傍らに立った。

 黒い水面が盛り上がり、何かが現れた。それは十才の子供くらいの大きさの、人間の腕だった。暗い冥府の闇から生み出された人間の赤子。最初からある程度の肉体と知能を持ち合わせているのは、この修羅の世界で生き延びるためだろう。突き出された腕は、宙を掴もうとするかのように彷徨っていた。

 俺すらもギョッとすることが起こったのは、次の瞬間だった。

 老人が、生まれかけの腕を掴み上げると、その手に食らいついたのだ。顎の関節のずれる音がして、老人の口は顔中がそれになるくらいに大きく開かれた。噛みついたというより、そのまま呑み込んでいる感じだった。

「ギャーッ」

 黒い水をまとわりつかせ現れた顔が早速悲鳴を上げる。ズルズル、ズルズル、と、老人は素麺でも啜るように子供の体を吸っていく。みるみるうちに子供の頭が、裸の胴体が、両足が呑み込まれていった。生まれたばかりの子供は、あっという間に老人の胃袋に消えた。彼の人生は、五秒もなかった。

「ふう、うまいのう。希望を持って生まれ出る赤子をその場で食らうのは、最高の快楽じゃよ」

 老人は自分の腹を撫でた。殆ど膨らんでいなかった。きっとまだ幾らでも入るだろう。

 我に返った俺の心に、老人への嫌悪感が急速に満ちていった。

 正しいことを言う人間が、正しいことをしているとは限らない。

 俺の殺意に、老人は敏感に反応した。

「おおっと」

 振り下ろした首刈り出刃は、しかし一瞬遅かった。老人は猿のように巧みな動きで出刃を避け、逆に俺に向かって跳躍した。急いで返す刃も間に合わず、老人は俺の頭を蹴って背後の壁に跳んでいた。強烈な痛み。そこは丁度、傷のある部分だった。それを見越して奴は踏んでいったのだ。

 振り向いた時には、既に老人は手がかりのない壁を登り、俺が届かない高さにいた。今、老人を追って跳躍しても、奴は更に速い動きで逃げ去ってしまうだろう。

「ケケケケケケケケケケ」

 老人が笑った。説教を垂れていた時の穏やかさとはかけ離れた、邪悪な笑いだった。

「わしはモスク。わしを知る者には残酷な賢者と呼ばれておる。その壷は壊しても構わんよ。また別のを探すからの。わしは鼻がいいんでな。ケケケケケケ」

 老人はスルスルと壁を登っていった。

 俺はただ見上げるしかなかった。

「それから一つ教えておいてやろう。わしのことをお前さんは年寄りと思っとったか知らんが、わしは今年で三才になるんじゃよ」

 そう言い残して、老人は消えた。

 俺は独り、『生命の壷』と共に取り残された。

 首刈り出刃を振り下ろすと、『生命の壷』はあっけなく割れ、中の黒い液体が周囲に零れた。一部は俺の足にも触れた。生温かい水だった。

 

 

  七

 

 街は燃えていた。

 もう、何人殺したのか分からない。

 通りには無数の黒い死骸が転がっている。

 皆、俺が殺した。

 逃げ惑う女を殺し、向かってくる男を殺し、跪いて助けを乞う老人を殺し、右も左も分からぬ少年を殺した。首を刎ね、頭を割り、胴体を輪切りにし、手足を切断し、串刺しにしていった。

 俺は、手当たり次第に殺していった。

 地下に隠れていた黒いハイエナ達がおこぼれに預かろうと、ワラワラと湧き出してくる。死体の部品を引きちぎり、まだ生きて呻いている者の喉を笑いながら切り裂いている。獲物を取り合ってハイエナ共は互いに殺し合いを始める。俺はこいつらも皆殺しにした。

 醜い。

 狭い穴に潜り込む彼らを、俺は壁を破って引きずり出した。この街には善人はいない。善人はすぐに殺されるか自分から街を出ていく。この街に住んでいるのは血に飢えた殺人鬼かハイエナだけなのだ。

 醜い。

「スローターッ。とうとうやったなっ」

 怒鳴り声に振り向くと、白い仮面の男が長剣を抜き、凄いスピードで俺に迫っていた。奴の足はまるでローラースケートでも履いているように、高速でなめらかに移動する。

 奴の声は、嬉しそうでもあった。

 俺は無言で首刈り出刃を振った。奴の光り輝く剣と、俺の血塗れの包丁がぶつかった。首刈り出刃は、圧倒的な質量で長剣を叩き折り、勢いでそのまま法の守護者の首筋を通り抜けた。首が、クルクルと回転しながら宙を飛んだ。切断面から散った血が俺の頬にかかる。

 地面に落ちた奴の生首は、仮面が外れ、その素顔を晒していた。人殺しの悦楽に肥え太った、青黒い顔だった。

「お前も、殺しを楽しんでいたんだろ」

 俺は地面に唾を吐いた。

 まだ意識があったであろう法の守護者は、黙って目を閉じた。

 おそらく、奴自身も、自覚していたのだろう。それ故の白い仮面か。

 醜い。

 だが、俺は。

 俺は、奴と、どう違うのか。

 街は大混乱に陥っていた。この街に、こんなに人がいたのかと思わせるほどだった。逃げ惑い、泣き叫び、暴れ、踊り、隠れ、狂い、笑い、殺し合い、潰し合う人々のシルエット。

 そして俺は、彼らの狂乱に、次々と、終止符を打っていった。

 醜い。

 返り血を全身に浴び、俺は首刈り出刃を振り続けた。

 醜い。醜い。醜い。

 そして俺は……。

 俺は、彼らと、どう違うのか。

 もう……。

 既に生者はいない筈だ。逃げ延びた僅かな者達は都市を去っていった。血の快楽を得られる、別の土地を求めて。

 誰かが火を放ったのだろう、歪んだ建物群は炎に包まれている。意志力の支えを失い、ゆっくりと、崩れ落ちていく。

 俺達の育った街。俺と、ケンと、そして絵美。

 俺の青春の全て。

 醜く荒れ果てていった思い出の街に、俺が止めを刺した。

 真の廃墟と化した街を、俺は歩いていた。明日には出発するつもりだった。目的を果たすために、世界中を彷徨ってでも。

 だが、もう一晩くらいは、この街で過ごしていきたい。

 ……雄治。樫村雄治。君に頼みがある……

 声が直接俺の頭に届いた。穏やかだが意志の強さを感じさせる思念は、いつものテレパスだった。俺個人向けに発信されたのは初めてだ。

 彼が俺の名前を知っているとは意外だった。俺の思考を読んでいるのだろうか。もしかすると、ずっと以前から。

 ……その先の曲がり角を右だ……

 思念が行き先を示した。俺は従ってみることにした。特に逆らう理由はない。警戒心もあったが、何が待っているのかという興味の方が強かった。

 ……そのまま真っ直ぐ進んでくれ。左側に朽ちかけた黄色の建物がある筈だ。その手前を左だ。細い路地が見えるだろう……

 曲がりくねった路地を抜けると、空き地に出た。何もない、雑草が生えているだけの土地だ。

 ……前に十五歩。右に三歩。もう少し右だ。そう、その場所だ。足元を調べてくれ……

 足を乗せると地面が少したわんだ。下が空洞になっているらしい。

 左手で土を脇へどけると、丸い鉄の蓋が現れた。直径は一メートルほど。

 俺は蓋を持ち上げた。闇の中に、斜めに掘り下げられた階段が見えた。

 何者かの気配がある。

 俺は構わず奥へ下りていった。

 すぐに行き着いたそこは、ちゃんとした地下室になっていた。光の閉ざされた部屋で、壁際に並ぶ本棚や机の上に設置された無線機を俺の目は捉えていた。本棚に詰め込まれた無数の書籍は、宗教や哲学、社会学関係が多い。埃塗れの無線機は、何年も使われていないようだった。この部屋の持ち主には、もう無線機は必要ないのだろう。

 部屋の隅に置かれたベッド。その上に、奇妙な物体が載っていた。

 三十センチくらいの、巨大な大福餅のような白い塊。なめらかな表面は柔らかそうで、少し力を込めて触れれば簡単に凹んでしまいそうに見える。

 ……この姿を見せるのは君が初めてだ。私は日笠円蔵。この街の人々に放送を続けていた者だ……

 この目も鼻もない大福餅が、その日笠であることを、俺は理解した。

「俺に何の用だ」

 声に出して問いながら、目の前の男に対する嫌悪感がムズムズと湧き上がってきた。俺がそう感じたことも、おそらくこいつは気づいているのだろうが。

 ……私を連れ出して欲しい。この街には人がいなくなった。放送する相手がいなくては、私の存在も無意味になってしまう。私は人類に希望を与えなければならない……

「ハッ」

 俺は冷笑で応じた。

「お前は現実から逃避して、思念の世界に逃げ込んでいるだけじゃないか。偉そうなことを言っても、俺には何も伝わらないぜ」

 俺は首刈り出刃を振り上げた。この動けぬ生き物を叩き斬るつもりだった。

 ……私は君の役に立つことが出来る……

 日笠の思念は冷静で、死への恐れや足掻きは感じられなかった。俺は包丁を止めた。

 ……君はどうやって世界中を巡るつもりかね。昔の地図など全く役に立たない。人の住む町を当てもなく探し回るだけでは、千年かかっても目的は達せられないだろう。私にはテレパシーのネットワークがある。世界中に散在するテレパス達から、都市や道筋に関する情報を得ることが出来る。君には私が必要だ……

 声は自信に溢れていた。俺が頷くことを信じて疑わないようだった。

 だが、俺の心を読んでいるなら、俺の目的も知っている筈だ。それはこのテレパスの目的に反することではないのか。目的を曲げてまで、こいつは生き残りたいのだろうか。

 ……我々は、ある程度は協力し合える筈だ。私は、君の本当の望みを知っている……

 俺の疑問に、日笠の思念は答えた。

 それは、どういう意味なのか。

 

 

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