八

 

 撒かれていた人工の闇が消え、数年ぶりに朝陽を見ることが出来た。だからといって、俺には何の感慨もないが。

 俺は廃墟の街を出発した。荷物は首刈り出刃と背中のリュックサックだけだ。俺には、他に何もない。

 崩れかけたアスファルトの道路を俺は辿っていった。道の両側には瓦礫の丘が広がっている。形の残っている建物は殆どない。粉々に砕け散った文明の残骸。生き物の気配はなく、まばらに蔦のような植物が瓦礫に絡んでいるだけだ。八年前に発射された数万発の核ミサイルもこの景色の一因だ。この時に人類の数割は死に絶えたが、事前に都市の周囲にバリアを張ったり、熱や放射能に対する肉体の耐性を高めたりして、一部の人々は生き残った。生き残ったのが良かったのかどうかは別にして。

 荒れ果てた地上に比べ、空は青く澄んでいた。もう光化学スモッグや汚染物質を撒き散らされることはないのだから。

 だが、俺の住んでいるのは、荒れ果てた地上の方だった。

 俺は出来るだけ急いだが、長時間走ることには慣れていないので、かなりの体力を消耗していた。時速にすればどのくらい出ているだろうか。十キロか、二十キロか。

 日笠によると、この道を二百キロほど進めば別の都市に着くらしい。俺のいた街とそことは時折人の行き来があったという。一番近いのがそれとは、やはり世界の人口は激減したということか。

 ……現在の人口は千二百万前後と推定されている。この十年で五百分の一に減ったことになるな……

 日笠の思念が伝わってきた。

 背中のリュックサックに入っているのは彼の体だけだ。多少乱暴に扱っても文句一つ言わないし、外の空気を吸わせる必要もないらしい。彼には、俺や他のテレパスから受信する情報だけで充分なのだろう。現実の感覚からの逃避。

 この千二百万という数を、どう評価すべきだろうか。そんなにも減ってしまったと憂うべきか。あれだけ凄惨な殺戮を経ても尚、そんなに残っていたのかと驚くべきか。一時期など、人類は最後の一人になるまで殺し合うのではないかと俺は想像していたものだ。

 ……それはやはり『生命の壷』によるところが大きいだろう。壷造りは何人もいて、世界各地に『生命の壷』を設置し続けている。君が幾ら一人で奮闘したところで、人類を絶滅させられるとは思えないな……

 のっけから嫌なことを言う奴だ。こいつはちゃんと俺を案内する気があるのだろうか。

「荒野に放り出して欲しいのか。運良く旅人が通りかかったら殺してくれるだろうさ」

 日笠の思念は苦笑しているようだった。

 ……きちんと役目は果たすよ。君が効率良く都市を巡っていけるように考えてもいる。日本列島を北上してからサハリンを経由しユーラシア大陸に渡ろう。ロシアから元中国へ。そこから西進するか、南進して東南アジア・インドネシアへ回るかは状況次第だ……

「海を渡る必要があるな」

 考えてみれば当然のことだ。人類を滅ぼすためには世界中を回らねばならない。俺は首刈り出刃を持ってがむしゃらに泳ぐ自分の姿を思い浮かべ、ちょっとした絶望を覚えた。

 ……それほど長く泳ぐことはない。日本海の海面はかなり下降している。陸続きになっている場所もあるかも知れない……

「どういうことだ。核攻撃で海の水が蒸発したのか」

 ……そうではない。蒸発した水はいずれ雨となって戻ってくるのだからね。これは私達にもはっきりと分かっていないのだ。地球上の全ての海面が下がっている訳でもないらしい。ニュージーランドとオーストラリアの一部は逆に水没したと聞いている……

 大変革と関係あるのだろうか。人間の意志力が海面を動かしているのか。世界は一体全体どうなっているのだろう。

「なんでこんなふうになってしまったんだろうな。まともに回ってた世界が、二○○二年の事件から滅茶苦茶になってしまった。今じゃビッグバンや量子力学なんて、全部嘘っぱちに思えてくる」

 ……大変革の本質については識者達が色々な説を唱えているが、実際のところは何一つ判明していない。暗中模索の状態だ。もしかすると、この先もずっと分からないのかも知れないね。だがそれでも私達は、この世界で生きていかねばならない。手探りで少しずつ進んでいくしかない……

「それは人類に先があればの話だろう」

 ついでに俺は、気になっていたことを確認することにした。

「どうなんだ。世界中の都市も、俺の住んでいた都市と似たようなものなのか」

 つまり、殺人鬼とハイエナばかりの腐った都市。もしもまともな人間がまともな生活を送る都市があるとすれば……いや、そんなものはない。ある筈がない。今生きている人間は邪悪な者だけだ。

 ……正直に言えば、地球上の都市の大部分はそうだ。他人を傷つけることにしか生き甲斐を見出せなくなった人々が、殺し合いながら生きている。次の都市に着いたら、君がその目で確かめてみるといい。それどころか、とんでもない魔物と化した人間が支配している地域もある。その手の噂を聞くと、人間の抱える闇の深さを思わずにはいられない。だが、一つだけは覚えておいて欲しい。こんな絶望的な状況でも、平和と皆の幸福を願って活動を続けている人々は、確かに存在するのだ……

 最後の思念には熱が篭もっていたが、俺にとっては全く実感出来ない主張だった。

「北アメリカの都市国家は二日で崩壊したんだろ」

 俺がそれを言うと、日笠は急に黙り込んだ。ふん。半端者め。

「都市の潰し洩れがないように案内してくれよ。それから、壷造りは優先して殺さないとな」

 ……壷造りにはいずれ出会うことになるだろう。さっきも言ったように、私は役目を果たすよ……

 怒っているかと思ったが、日笠の思念はいつもと変わりなかった。

 ……夜が近い。一休みした方がいい……

 確かに、慣れぬ移動で疲労が蓄積している。都市に着く前に体力を回復させておくべきだろう。

「ああ、そうする」

 俺はリュックを下ろし、出刃包丁を置き、瓦礫の上で横になって目を閉じた。

 

 

 夢。

 或いは、まどろみの中で浮かぶ、古い記憶。

 あの頃の俺が、街を歩いている。

 学生服姿の、人間の闇の部分について何も知らぬ俺。

 自分の内部の闇も知らぬ、手に血のついていない俺。

 学校からの帰り道は両脇に街路樹が並ぶ美しい通りだ。俺の住む町は公園も多く、自然との見事な調和などと新聞に載ったこともある。

 この町に住んでいることを、俺はとても誇りに思っていた。

 俺は本屋に寄って帰る予定で、その日発売になる筈のコミックを凄く楽しみにしていた。何というコミックだったか、今となっては覚えていない。

 心躍らせながら早足で歩く俺は、道路の向かい側に集まった人影を認めた。

 俺よりも幾つか年上らしい、三人の男子学生がいた。あの制服は近くの高校のものだ。後に俺達が通うことになる高校の。

 その三人に囲まれているのは、一人の少女だった。見慣れない制服は、他の町から来たのだろうか。年齢は俺と同じくらいだろう。長い髪、病弱にも見える色白な顔はドキリとするほど綺麗に見えた。澄んだ瞳は優しく大人しい印象を与えていたが、それは同時に、怯える小動物のようなか弱さと儚さを持っていた。

 通り過ぎながらなにげなく観察するうちに、俺は状況を理解した。不良っぽい三人の高校生が、少女に絡んでいるのだ。少女は困った顔をしているが、きっぱりと断れないようだった。一人は少女の肩に馴れ馴れしく手を置いていた。

 助けに入ろうか。俺は思った。でも、余計なことをすると、彼らに袋叩きに遭うかも知れない。年齢も人数も違うし、喧嘩になったら勝ち目はない。

 だが、迷いはほんの数秒だった。硬質な正義感を持った当時の俺は、すぐに方向転換し、道路を渡った。

「ちょっと……」

 俺は彼らに声をかけた。三人の高校生がギクリとしたようにこっちを向き、すぐにその表情は安堵と嫌悪感に変わった。正義に燃える熱血漢への嫌悪。

 少女も驚いて俺を見た。救いを求めるような、同時に俺の身を案じているような、痛々しい、その目つき。

「何だ」

 一人が聞いた。

 俺は少女の横に並んだ。そして俺は、彼らに何と言えばいいのか分からなかった。

 黙っている俺に、別の一人が苛立たしげな顔をした。

「何だよ。何か言えよ」

「……。や、やめろよ」

 俺は、なんとか、それだけを口にした。

「へー、何だこいつ、正義のヒーローかよ」

 一人が俺の胸を突こうとした。俺は反射的にその手を払った。

「お、やるのか」

 険悪な空気になっていた。

 少女は、目を見開いたまま、凍りついたように俺を見つめていた。

「行けよ」

 俺は少女に言った。

 少女は動かなかった。逃げることも、止めに入ることも出来ず、彼女はただ、立ち尽くしていた。彼女は黙っていたが、その瞳は悲鳴を上げていた。

 高校生の一人にいきなり頬を殴られた。俺はそいつの顔面を強く殴り返した。そいつはウッと呻いて鼻を押さえ、その指の間から血が流れ落ちた。

 後は、行くところまで行くだけだ。

「こ、こいつ」

 他の二人が殴りかかってきた。俺は抵抗したが、腹を殴られて前のめりになったところを地面に倒された。後は鼻血を出した奴も合わせ、三つの足が俺を蹴り続けた。

 苦痛の中、俺は少女の方を見上げた。

 少女は、口元を押さえたまま、泣きそうな顔で俺を見ていた。

「い……行けよ」

 俺は少女に言った。

 少女は動かなかった。動けないのだろう。優しい人だ。俺は思った。そして、弱い人だ。

「いってえ」

 突然彼らの一人が頭を押さえた。顔を歪めてそのまま蹲る。

「何だ、てめえ」

 他の二人が慌てて後方を振り返った。

 そして、俺も見た。

 三人の後ろに立つのは、俺と同じ制服の男子だった。サングラスをかけたその顔には見覚えがある。学校でサングラスが許されている生徒は一人しかいない。

 友人もおらず学年内でも孤高の存在である彼は、三島といった。

 彼は、左の拳に金属の道具をつけていた。メリケンサックとかブラスナックルとか呼ばれている、危険な凶器。

 彼はそれで、一人の後頭部を殴ったのだ。おそらく力一杯。

「お前らよー」

 彼はポケットから何かを取り出した。

「消えろよ」

 パチンと片手で開いてみせたそれは、折り畳みナイフだった。

 彼の目はサングラスのせいで見えないが、口元に浮かぶ皮肉な微笑は、本当に人を刺しかねない恐さを持っていた。それに気づいたのだろう、高校生達は捨て台詞も残さずに去っていった。

 実際、彼は、いざとなれば本当に、刺しただろう。

 埃を払って起き上がる俺に、彼はナイフを収めながら言った。

「やるからには、勝たなきゃな。そうだろ」

 俺は答えなかった。答える前に、少女が安堵のためか泣き出したからだった。

 彼と俺は、顔を見合わせて苦笑した。体の痛みは軽くなり、代わりに甘酸っぱい感覚が俺の中で広がっていった。

 それから俺達は互いに自己紹介をした。彼も俺の顔を知っていた。少女は別の県から引っ越してきて、明日から俺達の中学に転入するのだという。

 少女の名は、新藤絵美といった。

 それが、俺達の出会いだった。

 思えば、彼女が俺を選んだのは、俺が凶器を使わなかったからなのだろう。

 

 

 ……何人かが忍び寄ってくる。こちらに敵意を持っているぞ……

 日笠の思念で俺は現実に引き戻された。

 淡い夢の欠片を払いながら、俺は動かずに感覚だけを研ぎ澄ませた。蜘蛛のように這いつくばった気配が幾つか、瓦礫の上で音を立てないようにして慎重に近づいてくる。

 俺は奴らが数メートルの距離に近づくまで、動かずに待った。

 奴らの黒い体が長い爪を翳して同時に飛びかかってきた時、俺は首刈り出刃を握って横に一閃させた。奴らの胴体がまとめて裂けた。奴らはみっともない悲鳴を上げ、瓦礫の上に転がった。紺色の血を溢れさせ、もがきながら黒い堆積物に変わっていく。

 ……私も少しは役に立つだろう。君が眠っている間、私が敵の接近を感知することが出来る……

 日笠はちょっと得意げだった。ふん、大福餅め。

「別にお前がいなくても構わない。お前ほど敏感じゃないが、俺は近づく者の気配で目が覚める。それに、不意打ちしか出来ないような奴の攻撃なら、一度や二度食らったところで俺はくたばらない」

 ……ところで、何故彼らはこんなところにいたと思うかね……

 意味ありげな日笠の質問だった。

「俺達みたいな旅人を餌食にしようと狙っていたんだろう。ああいった奴らは何処にでもいるさ」

 ……確かにそうだが、それだけではない。彼らは『貝掘り』だ……

「何だそれは」

 初めて聞く呼び名だ。

 ……この果てしない瓦礫の大地には、誰もいないように見えるだろう。だが地下数メートルの深さには、この一帯だけでも数百の『貝』が埋まっている……

「『貝』とは」

 ……現代における人間の、一つの選択肢だよ……

 日笠は答えた。

 ……戦いを好み意志力の強い者は君のように戦士になる。戦いを好むが意志力の弱い者は陰に隠れて機を窺うハイエナになる。戦いを好まず意志力の弱い者は、この現実の世界から逃避する。彼らは殺し合いの続く都市を逃げ出して地中に潜り、独りで丸い殻に閉じ篭もって『貝』になる。彼らはそうやって夢を見ているのさ。醒めることのない、幸福な日々の夢をね。彼らが意志力で出来るのはそれくらいだ……

 それは、なんと虚しい行為だろうか。

 俺の脳裏に、氷漬けになった絵美の姿が浮かんだ。

 ……『貝掘り』はハイエナの仲間に当たる。彼らは嗅覚を発達させ、地中深く隠れている『貝』達を掘り出して殺す。抵抗出来ない『貝』の弱々しい悲鳴を聞くのが彼らの快楽なのだ……

 日笠の思念は怒りを含んでいた。

「それが現実というものだろう。生きている限りな」

 俺は言った。

 戦いを好まず尚且つ意志力の強い者は、何をするのだろう。俺はふとそんなことを考えたが、日笠には聞かずにおいた。俺の思考を読んでいる筈の日笠も答えなかった。

 

 

  九

 

 世界の変革後に初めて訪れる他の街の景色は、俺の住んでいた街と大して変わらなかった。不気味な色の歪んだ建物群。闇の粒子をばら撒かれ、黒く濁った空。そして遠くで聞こえる誰かの悲鳴。

 よそ者である俺とその凶器を、数人の男達が鋭い目つきで観察しながらすれ違っていった。弱いと判断すれば彼らはすぐさま俺に襲いかかったことだろう。敵を殺すことしか生き甲斐のない者達。

 ……この街には果樹園がある……

 日笠が思念で伝えてきた。

 俺も果樹園の噂は聞いたことがあった。ものを食べずに生きていけるこの時代に、何故わざわざそんなものがあるのだろうと思っていた。或いは、それ故にこそなのかも知れないが。

 ……果樹園は街の中央だ。このまま真っ直ぐ進めばいい……

「おい」

 徒党を組んだ男達が、俺に声をかけてきた。日本刀を腰に差している長身の男、大きな植木鋏を持った背中に瘤のある小男、巨大な眼球を蟹のように顔から飛び出させた男、両手の全ての指が長い刃になっている男、開いた口から黒い無数の触手を覗かせる男。全部で五人。

「何だ」

 立ち止まるのも面倒なので俺は奴らに向かって歩きながら答えた。奴らの狙いは分かっている。

 俺を八つ裂きにしてみたいのだ。

「その派手な武器はうわギエッ」

 その派手な武器は飾り物か。日本刀の男は、そう言うつもりだったのだろう。

 だが俺は待たず、首刈り出刃を無造作に振った。男は日本刀の柄に触れる暇もなく胴体を両断された。

「うおっこいつ」

 甲殻類の眼球を持つ男を俺は唐竹割りにした。バグンという音がして外骨格の胴体がずれ、白い体液が溢れ出す。別の男の口から黒い触手が伸びて俺の体に絡まる。指が刃になっている男が同時に襲ってきた。俺が軽く力を込めると触手はちぎれ、横殴りに振った出刃は触手の男の腰と、十本の刃ごと持ち主の首を、一気に切断していた。あっという間に自分だけになった植木鋏の小男は、慌てて逃げ出した。その背を血みどろの出刃が串刺しにする。

「アヒイイイイイッ」

 手足を震わせてもがく小男の胴体が爆発し、どす黒い血が飛び散った。

 遠巻きに様子を窺っていた他の住人は、俺の視線を受けるとそそくさと逃げ出した。

 そう。俺のいた街と、何も変わらない。

 俺は絶望し、そして、安心した。

 街の中心に着くまでの間、襲ってくる者はもういなかった。

 果樹園は、約百メートル四方の広さがあった。軽く手を伸ばせば届くくらいの高さに枝を重ねているのが、本来植えられた木なのだろう、林檎に似た果実がなっている。ほんのりと赤い柔らかそうな実は、どんな味がするのだろう。

 ……君がこれまで食べたことのあるどんな果物よりも美味だよ。願いが込められているからね。だが気をつけたまえ、果肉には中毒性がある。一度口にしたらそれなしでは生きていけなくなるのだ。そして、果樹園にあるのはそれだけではない……

 最後の指摘の意味は、俺にも分かっていた。

 外見は木にカムフラージュさせているが、明らかに人の気配として捉えられるものが幾つかあった。果実を求めて入ってきた人々を殺すため、姿を変えてずっと動かずに待ち構えているのだろう。生い茂る草に紛れる黒い水溜まりはおそらく底なし沼だ。木の幹から枝に絡む蔓は、微妙に色の違う果実をならせている。成分は毒だろうと俺は推測し、日笠の思念は肯定した。密集する葉の奥には複数の気配が潜んでいた。

 美しい緑の果樹園は、ハイエナ共の待つ罠の密生地だった。

 ……それでも、果実の味を知った者は命懸けで果樹園に入っていく。罠を張っている者達は新しい獲物を得るために、街の住人へ時折果実を配っている……

 果樹園に潜む者達が向けてくる残忍な殺意に、俺の皮膚がヒリつく。

 間抜けなよそ者が入ってくることを信じているのだろう。奴らのようなハイエナが、獲物を仕留めた時によく言う台詞を、俺は知っている。

 ざまあみろ。奴らはそう言って笑うのだ。

 俺は首刈り出刃を握り締めた。

 ……どうする……

 日笠が尋ねた。

 俺がどうするかなんて、分かりきったことだ。

 無言のまま俺は果樹園に突進した。横に払った首刈り出刃は、木の幹を一撃で切り倒す。驚きの声が上がった。木々に絡みついていた蔓が俺へ伸びる。構わず俺は出刃を振る。俺の動きにつれて蔓が引きちぎられる。その程度の力で俺を縛ることは出来ない。倒れていく木の上から、緑色の皮膚をした男がナイフを持って俺に飛びかかり、下から浮き上がった分厚い出刃に体を両断された。ざわめく黒い沼に俺は出刃を突き立てる。黒い水が赤い水に変わる。木の姿をした男が伸ばした枝を、俺は軽々と斬り払った。相手が木だろうが人だろうが、俺には関係ない。俺のやるべきことは、この果樹園を徹底的に破壊することだ。枝の何本かが俺の背中に刺さり、草陰から襲う刃が俺の右足首を傷つけたが、その痛みを俺は受け止めた。ハイエナ共の半数が俺の出刃に倒れ、残りの半数は果樹園から逃げ出した。蔓は地中に埋まった球根状の本体を抜いて、ズルズルと滑っていく。木に化けていた者達は動きが鈍く、楽々と殲滅することが出来た。遠巻きに見物していた街の住民達が、歓喜に踊りながら果樹園に飛び込んだ。狂ったように快楽の果実を漁る者達も、俺は迷わず殺していった。地に満ちる赤い色彩は、住民の血なのか、落ちた実から漏れた果汁なのか、分からなくなった。

 果樹園であったものは、やがて、黒い堆積物と枯れ朽ちた木ぎれが散らばるだけの荒れ地になった。

 ……果樹園の中心を掘ってみてくれないか……

 破壊と殺戮を黙って見守っていた背中の日笠が、思念を送ってきた。

 俺は従ってみることにした。なんとなく、心の中に引っ掛かっているものがあった。

 この果樹園は、一体、誰が、何のために、造ったのだろうか。

 赤と黒の泥を掻き分け、素手で土を掘り進むうちに、指先が何かに触れた。

 周囲の土を払ってみると、それは、白い木で出来た、女性の顔の彫刻だった。

 ……果樹園の本体だ。彼女はここで眠り、木々にエネルギーを供給し続けた……

 日笠が淡々と語る。

 ……彼女の望みは皆に幸福を与えることだった。結果として無数の寄生虫に取りつかれることになったが……

 白い彫刻の、目を閉じたその顔は、意外に安らかなものだった。

 だが俺が見ている前で、それは急速に色褪せ、朽ちていった。

「俺にこれを見せて、どうするつもりなんだ。お前は、何が言いたい」

 首刈り出刃を拾って立ち上がると、俺は尋ねた。

 ……何も。私は君に一つの事実を見せただけだ……

 日笠は答えた。彼の思念は冷静だった。こちらが苛立たしくなるほどに。

 ……この街にも『生命の壷』はある。どうするね……

「勿論壊すさ」

 俺は答えた。

 それから住人を皆殺しにして、この街を廃虚に変えてやる。

 俺の街と同じように。

 それをずっと続けていくさ。

 

 

  十

 

 瓦礫の領域を越え、俺は不毛の荒野を走っていた。

 二○一二年八月二十三日。

 俺は既に九つの都市を滅ぼし、十一個の『生命の壷』を破壊した。

 殺した人々の数は、もう、見当もつかない。

 走り続ける殺戮兵器の俺を、太陽は容赦なく照らす。ばら撒かれた人工の闇を以前は嫌っていたのに、今は太陽に見下ろされるのを辛く感じるようになった。地上で這いつくばった薄汚い俺達に、奴は独り高いところで自分の正大さを見せつけている。

 草も生えないひび割れた地面が、果てしなく続いている。生き物の気配はない。走る俺の後に砂埃だけが、筋となって残っていく。

 荒野のど真ん中に一つ、尖った岩山がそびえ立っている。その岩壁に開く洞窟が、今回の目的地だった。

 ……向こうがこちらに気づいた。そろそろ来るぞ……

 日笠の思念が届いた。実際、彼は有能なナビゲーターだ。彼のもたらす情報は正確で、指示通りに歩いていれば人の住む都市に辿り着くことが出来たし、彼のお陰で罠や待ち伏せを回避したことも何度かあった。

 だが、行く先々で無差別な破壊と殺戮を繰り返す俺に、日笠は何を思うのだろう。俺の行為に対し、彼は決して感情的なコメントを加えない。

 いや、そんなことを考えている暇はなかった。微かな震動を足に感じる。地中を伝って何かが近づいている。

 乾いた地面を破り、無数の赤い触手が飛び出してきたのは次の瞬間だった。太さは二、三センチから五十センチほどまで様々だ。触手の先端は丸い口になっていて、ギザギザの小さな牙が並んでいた。数百本近くが一気に頭を出し、ミミズのように踊りながら俺に向かって伸びてくる。俺は走りながら首刈り出刃を振った。数十本が切断され、赤い体液を撒き散らす。他の触手も痛みに震えるのを見ると、どうやら本体は一つらしい。信じ難いことだ。相手を捕獲する手段に触手を用いること自体は珍しいことではない。しかし、本体があの岩山にいるとして、まだ一キロ近く離れている。その距離でこれほど大量の触手を送り込めるとは、幾らこんな世界とはいえ、一人の人間の意志力で可能なことなのだろうか。

 一旦怯んだ触手群は、再び俺を追って進み出した。引き剥がされた地面が舞い上がる。前方にも既に無数の触手が待ち構えていた。横殴りの出刃を何本かは器用に避け、俺の足首に巻きついた。俺はもう一度出刃を振り、触手を切断する。

 この触手の量だ、足を封じられれば流石の俺も生き残れないかも知れない。精神を集中させて加速に移る。短時間なら俺は時速百キロ以上のスピードで走れるようになっていた。背後の触手はもう俺に追いつけない。前の触手だけを躱し、斬り払い、息継ぎをせずに俺は突っ走る。肺と心臓が悲鳴を上げているが俺は気にしない。岩山はもう目前だ。切り立った岩壁を駆け上がり洞窟へ……。

 洞窟の入り口には、予め大量の触手が隙間ない壁を作っていた。

 ……うえっぷ。どうする……

 激しく揺れるリュックの中から日笠が問う。

 俺は躊躇しなかった。そのままのスピードで跳躍し、勢いを乗せて首刈り出刃を突き立てた。すぐに大きく抉ると、ちぎれた触手と血が飛び散り、その小さな隙間を俺は無理矢理に押し通っていった。

 薄暗い通路を駆け抜け、俺は洞窟内でも大きく開けた場所に飛び込んだ。

 何だ。これは。

 俺は荒い息をつきながら、そこに広がる光景に圧倒されていた。

 洞窟内一杯に、赤い粘液が満ちていた。その中に、大勢の人間が顔だけ出して浮かんでいる。数千人はいただろう。彼らの顔や頭部には、俺がさっき見た赤い触手が繋がっていた。

 人々の約半分は、極限に近い苦悶の表情を浮かべていた。助けを求めて叫んだり、弱々しく呻いている者もある。

 残りの半分は、逆に恍惚とした表情で悦楽に浸っていた。トロンとした目で、涎を垂らしている者も多い。

 と、俺の見ている前で、快楽に溺れていた顔の一つが別の表情に歪み始めた。眉をしかめ頬を引き攣らせ、歯を食い縛ったそれが示すものは、苦痛だった。

 同様に、苦悶していた顔で、次第に悦楽に変わっていくものが見える。

 彼らはどうやら、究極の苦痛と快楽を交互に感じるようになっているらしかった。

 数千の顔が、赤い粘液の海で、クルクルと表情を変えながら浮いている。

 何だ。これは。

 無数の呻きと苦鳴と悦楽の声を聞きながら、俺は立ち尽くしていた。

「私の領内へようこそ」

 上方から穏やかだが大きな声が届き、俺は今の状況を思い出した。

 洞内の壁はピンク色の肉で覆われていた。それは淡く発光し、粘液の海を赤く照らす。もし侵入者のことを考えるならば完全な闇の方が良いのに、敢えてそうしているのは、中の人々が自分の落ちた地獄を見渡せるようにだろう。

 ピンクの肉は、天井まで隙間なく延びている。一ヶ所に巨大な赤い唇がついていた。それだけで一メートルほどはある。

 俺に喋りかけたのは、そいつだった。

「私の手に捕らえられずにここに入ってきたのは、君が初めてだよ」

 巨大な口が動いた。壁の所々に巨大な眼球が埋まっている。

 つまり、この洞内は全て、一人の元人間の肉体という訳だ。

「お前は何だ。こいつらの飼育係か」

 俺は聞いた。

「その表現は正しくないな」

 天井の唇が不機嫌に歪んだ。

「私は荒野の王であり、人生の師だ。ほら、彼らの顔を見たまえ。歓喜と苦悩の繰り返し、それこそが人生だと思わんかね」

 粘液に浮かぶ人々の顔を、俺は改めて見回した。消耗し尽くしても尚容赦なく加えられる苦痛と快楽に、彼らの髪は白くなり皮膚には深い皺が刻まれていた。

「十年前の大変革によって、人々はこんな簡単な本質を忘れてしまった。だから私は彼らに人生を教えているのだよ」

 調子に乗って喋る口に向かって、俺は言った。

「でも、お前は、楽しんでいるんだろ」

 唇が動きを止め、幾つかの目が見開かれた。

 やがて、巨大な唇は皮肉な笑みを浮かべた。

「その通りだ。ハハッ、ハッハッ。私は楽しんでいる。領民である彼らは、私の気持ち一つで苦痛に悶え、或いは快楽に震える。他人を思いのままに支配するということは、究極の快楽ではないかね。私の体内には今七千二百十四人の領民がいる。君が七千二百十五人目だ」

 俺の背後には既に、大小取り混ぜた数千から数万の赤い触手が蠢いていた。肉の壁からも粘液の海からも、無数の触手が湧き出して待機している。奴の本体が何処にあるのか分からない。俺に出来ることはただ、この血塗れの凶器を振り回すことだけだ。

 愛用の出刃を振り上げて、俺は言った。

「究極の快楽を味わってきたのなら、究極の苦痛も味わってみろよ」

 同時に全方向から怒涛の勢いで触手が殺到した。首刈り出刃を握り締めて死を覚悟した俺に、突然視覚的なイメージが閃いた。肉の壁の一角、少し膨らんだ部分を示す光の筋。

 ……彼の脳はそこだ……

 日笠の説明を聞くより先に、俺は首刈り出刃をその方向へ投げていた。意志力を込めた出刃は押し寄せる触手の波を破り、日笠がイメージで示した壁の膨らみに突き刺さった。

「ウゲアアアアアッ」

 天井の口が悲鳴を上げ、洞内が振動した。出刃の刺さった部分が裂け、ブバッ、と、大量の破れた脳髄が噴き出した。俺を掴み上げ食いついていた触手群がビクビクと痙攣しながら外れていく。断末魔の刺激が伝わったのか、粘液の海に浮かぶ住民達は一斉に甲高い叫び声を上げた。耳を塞ぎたくなるような合唱の中、肉の壁から血の気が引いていった。満ちていた粘液は褐色に変わり、人々に刺さっていた触手がちぎれていく。腐った天井の肉がぼろぼろと落ちてくる。眼球の一つが恨めしげに俺を睨みながら、地面に落ちて潰れた。粘液の水位が下がり、人々の全身が露出する。骨と皮ばかりに痩せた全裸の肉体。

「英雄にでもなったつもりか」

 紫色になった巨大な唇が、しゃがれ声で言った。

「お前も私と同じ穴のムジナだろう。一目で分かったよ。お前だって楽しんで……」

 最後まで言うことが出来ぬまま、唇は腐り落ちていった。

 その通りだ。弁解するつもりはないさ。

 洞内を覆っていた巨大な肉と触手と粘液の支配者は腐った水溜まりに変わり、そこには解放された七千人の人々が残された。

「うああああああああああっ」

「ギアアアアアアアアアッ」

 だが彼らは、叫ぶことをやめなかった。彼らは骨と皮ばかりになった体を狂ったように踊らせ、互いの体にむしゃぶりついていった。相手の目に指を突き入れ、腹を裂き、首筋に食らいついていく。彼らは、口が裂けそうなほどに絶叫しながら、互いの肉体を破壊していった。俺が呆然と見守る前で、彼らの人数は勝手に減っていき、ミイラのような無数の屍の中で、血みどろの一人が残った。

「ごああああああああああっ」

 そいつは叫びながら、自分の喉を掴み、そして引き裂いた。破れた穴から空気と血を洩らしながら、仰向けに倒れていった。

 俺が何もせずとも、生者はいなくなった。

 ……彼らは死ぬことも発狂することも出来ず、果てることのない苦痛と快楽に晒されていた。もう彼らには、生き続ける意志も力も残っていなかったのだ……

 日笠が告げた。

 俺は、返す言葉を持たなかった。

 

 

  十一

 

 二○一二年十一月八日。日笠はいつも正確な日付を教えてくれる。

 浅い海を渡り、ここは元中国の東部に当たるらしかった。

 砂の混じった風が絶え間なく吹きつけるため、俺は目を細めていた。

 核攻撃によって立ち枯れになったままの木々。荒れ果てた土地にポツンと存在する村は、或いは集落と呼んだ方が良さそうな小規模なものだった。藁や泥など粗末な材料で建てられた、丸い住居が並んでいる。だからといって彼らが仲良く暮らしているとは思えない。人間の本質はそんな美しいものではない。侵入者は皆で襲って殺し、暇な時は互いに殺し合う。彼らはきっと、そんな生活を続けているのだろう。

 ……何も必要とせず独りで生きられるようになっても、やはり人は独りでは生きていけない。その結果、殺し合いに参加することになろうとね……

 さもなければ『貝』になるしかないか。日笠の思念を俺は補足した。

 血塗れの凶器を持ったよそ者の侵入にも、出迎える者はない。数百の気配が住居の中からこちらを窺っているのは感じられた。

 何かに怯えているようだ。

 俺は構わず奥へ進んだ。中央の小さな広場に、高さ三メートルほどの丸太の柱が立てられている。

 荒涼たる風の中、一人の男が、柱に縛りつけられていた。

 幾重にも巻きついたロープは緑色で、誰かが意志力で造った強力なものなのだろう。男は浅黒い肌とインド系の風貌を持ち、薄汚れた粗末な衣服に、頭にはターバンを巻いていた。男の澄んだ黒い瞳は並ならぬ意志の光を放っていたが、ロープを切る力はないらしい。不思議なことだ。

 俺が、初めて見るタイプの男だった。

「君は旅人のようだが、早くここを離れた方がいい」

 すぐ近くまで来た俺を見下ろして、ターバンの男は言った。流暢な日本語を話すのは日本人であるということか、それとも意志力で日本語を習得したのか。

 ……彼は自国の言語で喋っているだけだよ。思考が音声を介して直接君の頭に伝わっているのだ。伝えようとする意志があればテレパシー能力がなくても簡単に出来る。君も既にやっている……

 それは気づかなかった。大陸に渡った筈なのにどうも日本語を喋る奴が多いと思っていたところだ。

「お前はここで何をしてるんだ」

 馬鹿な質問かも知れないが、俺は聞いてみた。

「ここの住民に捕まり、生贄にされるところだ」

 ターバンの男は答えた。怯えている様子はない。いや、恐怖は、勿論あるのだろうが、男の真摯な瞳は、生きる意志を捨てていない。

「何の生贄だ」

「彼が初めて村を襲ったのは三日前だ。外に出ていた五人が死んだという。二日前にも現れ、三人が死んだ。昨日は誰も屋外に出なかったが、住居を破壊されて一人殺された」

 男は淡々と語った。

「だから人々は考えた。彼は最低一人は殺さないと満足しないのだろう、と。そして丁度村を訪れた私が捕らえられ、こうして目立つところに飾られているという訳だ」

「彼とは誰のことだ」

「そろそろやってくる時間らしい。君は早く逃げたまえ。村を出た方がいい。さもないと住民達によって、明日の生贄にされてしまうぞ」

「これを見ても、お前は俺にそう言えるのか」

 俺は右手に握った首刈り出刃を軽く上げてみせた。

「君は自分の強さに自信があるらしいが、彼もまた異常な能力を持っている」

 ターバンの男は冷静に告げた。その瞳に動揺は見られない。

 俺には不思議だった。俺の姿を一目見れば、この世界の生者の大部分を占める残忍な殺人鬼の一人だと分かる筈だ。なのに何故、男は俺に忠告してくれるのか。

 男は、俺の目を真っ直ぐに見据えていた。

 こちらが息苦しくなるほどに。

 ……敵が近づいてくる。凄いスピードだ……

 日笠の思念は驚嘆しているようだ。テレパスの彼にしては珍しい。

 鋭い殺気。電撃的に振り向いた俺の傍らを、何かが信じ難い速度で通り過ぎていった。

「クハッ、ハハハッ」

 再び向き直った俺に、風に混じって冷たい笑い声が届いた。

 既に百メートル以上離れた場所にいるその男は、空中に静止していた。

 男の色彩は、白と茶で構成されていた。全身をくまなく覆っているのは鳥の羽毛だ。男の背には大きな二枚の翼が生えており、忙しく羽ばたいていた。胴体は流線型で、細い両足は真っ直ぐ延びて尾翼を形成している。鉤爪のついた両腕はぴったりと胸につけられているが、短く見えるのは空気の抵抗を避けて折り畳まれているせいだ。

「お前の噂は聞いたことがあるぞ、スローター。縦に走る顔の傷と、血塗れの首刈り出刃を持つ殺人鬼よ。今日は良い獲物に巡り合えた」

 男は猛禽類の嘴を動かして器用に喋った。

「獲物か。獲物になるのはどっちだ」

 俺がそう返すと、鳥人は馬鹿にするように笑った。

「クックッ。そういうことは、俺の爪を躱してから言うべきだな」

 今度は俺は、何も言い返せなかった。

 俺の衣服の右脇が裂け、血が滲んでいた。最初のすれ違いざまに、奴がやったのだ。

「俺の名はスナガ。さっきのは小手調べだ。次は本気で行く」

 奴はそう言うと、体勢を垂直からやや水平に変えた。俺に向かって直進する向きに。

 俺は首刈り出刃を両手で握り正眼に構えた。この狂暴な凶器を剣道のやり方で使うのは、数年ぶりのことだ。

 スナガが俺に向かって加速を始めた。俺は奴の動きを見定めようと、風の中で目を凝らす。

 と、突然スナガの姿が消えた。本能的に身を沈めながら振った出刃は空を斬った。左肩に鋭い痛み。鎖骨を破壊されたようだ。

 次の瞬間、耳をつんざくような音と風圧が襲ってきて、俺はよろめいた。

 何だ、これは。

 ……ソニックブーンだ。彼のスピードは音速を超えている。飛行能力者は変革以来多数登場したが、これほどの者はいなかった……

 背中の日笠が告げた。

 俺はまた振り向く。さっきと同じくらい離れ、スナガが浮いている。

「大空を翔ける俺は自由だ。何にも束縛されず、好きなように生き、好きなように殺す」

 スナガが言った。

 肩の痛みに耐え、俺はまた出刃を持ち上げた。

 柱に縛られているターバンの男は、静かに俺達の戦いを見守っていた。彼は何を思うのだろう。

 またスナガが動き出す。俺はまた目を細め、奴の動きを捉えようと注意を集中させる。

 加速したスナガがまた途中で見えなくなった。出刃は再び空を斬る。顔の右側に痛みが走る。鉤爪は俺の右耳と一緒に頭蓋骨の一部を削っていった。

 衝撃波に押された後で、また振り向く。またスナガが浮いている。

 同じことの繰り返しだが、違うのは、俺が少しずつダメージを受けているということだ。今のところなんとか致命傷は避けているが、このままではいずれ殺られる。

 とんでもない男だ。

 だが、俺も、こんなところで、絶対に、死ぬ訳には、いかないのだ。

「俺は戦士だ。戦いこそが全て。自分の鍛え上げたこの力を極限まで行使し、強敵に勝つことが俺の生き甲斐だ。お前はどうだ、スローター」

 スナガは嘴の間から舌を出し、鉤爪についた俺の血と肉片を舐め取った。鳥に似た丸い眼が、喜悦に光っていた。

 俺は両膝を深く曲げ、出来る限り低い姿勢を取った。奴のスピードはまだ俺の目には捉えられない。だがもう少しスピードが遅ければ……。

「次は首を落とす」

 自信たっぷりに、スナガは宣言した。俺は黙っていた。両足に力を貯めて。

 スナガが動いた。加速を続け、一気に捕捉不可能なスピードへ……。

 その瞬間、俺は跳躍した。

 後ろへ。

 俺が動いた分、相対的にスナガのスピードが落ちた。俺の跳躍は音速には遠かったが、それでも奴の動きを目で捉えられるようになるには充分だった。俺の目の前まで急接近しながら慌てる奴の顔が見えた。

 渾身の力を込め、俺は首刈り出刃を振り下ろした。

 必殺の一撃を、スナガは体をひねって避けようとした。頭を割る筈の刃は奴の左腕と左翼の一部を切断した。

「ギヘエッ」

 血を撒き散らしてすれ違いながらスナガは甲高い悲鳴を上げた。翼を損傷し速度の出なくなったスナガへ、振り向きざま俺はもう一度跳躍したが、奴はなんとか急上昇で俺の刃を躱した。

「流石だな、スローター」

 風の中、高みからスナガは声を絞り出した。丸い目には怒りと、そして驚嘆の色があった。右手で左腕の切断面を押さえているが、出血は止まらない。俺の刃を受けて、無事に済んだ者はいないのだ。

「もう一度試してみるか」

 俺は聞いた。止めを刺そうにも、俺の跳躍力では奴の高さまで届かない。

「フン。この翼では戦えぬ。今回は俺の負けだ」

 スナガは答えた。意外に潔い男だ。ついでに地上に降りてきて、自分の首を差し出してくれれば良いのだが。

「もっと鍛えて出直すことにしよう。それまで死ぬんじゃないぞ、スローター。お前を倒すのは、俺なのだからな」

 クハハッ、と、気持ち良さそうに笑い、スナガは風の中へ去っていった。

 ……大した男だったな。巷に溢れるような単なる虐殺趣味の者達とも違う……

「一緒さ」

 俺は言った。相対速度を落とす試みは自分でも驚くほどにうまく行ったが、少しでもタイミングがずれていれば俺は死んでいただろう。そんな俺の気持ちも日笠は読んでいる筈だ。

「強いな君は。傷は大丈夫かね」

 柱のターバン男が感心した様子で声をかけてきた。

「ああ。この程度の傷なら、数日で完全に治る」

 俺は答えた。

「だがお前はどうするつもりだ。スナガが去ったからといって、ここの奴らがお前を解放することはないだろう。暇潰しの嬲り殺しに遭うだけだ」

 住居の中の気配は用心深くこちらを窺っている。空からの脅威は去ったが、新しく俺という地上の脅威が現れた訳だ。

 勿論、俺が奴らを放っていく筈はない。ただその前に、このターバンの男には興味があった。

「では縄を解いてくれないか。用事を済ませて逃げることにするよ」

 その時になって漸く、ターバンの男は手助けを求めた。スナガが去らなければ、彼は大人しく生贄になるつもりだったのだろうか。

 何のために。

 俺は左手でロープを引きちぎった。解放されたターバンの男は俺に一礼した。

「ありがとう。私はイラーハ。君の名前を聞かせてもらえないか」

 変革以後、こんなことを言われたのは初めてだ。俺は照れ臭い気持ちを隠し、代わりに冷笑を作った。

「さっきの奴に聞かなかったか。俺はスローターと呼ばれている。本名は樫村雄治だが、その名で呼ばれることはない」

 絵美も、ケンも、もういない。

「樫村雄治か。良い名前だ」

 イラーハは穏やかな微笑を浮かべた。

 この腐った世界に、まだこんな男がいたのか。俺は驚いた。

「用事と言ったな」

「ああ。この村に置いていくものがある。今から急いで造らなければな」

「何をだ」

「『生命の壷』だよ」

 男はあっさりと答えた。

 不気味な感覚が、俺の中で広がっていった。冷え冷えとして、それでいて生ぬるい痛み。

 日笠は知っていた筈だ。知っていて黙っていたのだ。

 何故。

「私は『再生会』の一人だし、それを誇りに思っている。私の技はまだ未熟だが、少しでも人類の未来に貢献していたい」

 ……『再生会』とは『生命の壷』を製造し、各地に設置して回るグループのことだ……

 そこだけは日笠が説明した。

 俺の表情の変化に、イラーハは大して驚いた様子も見せなかった。

 告げる俺の声は、何故かしゃがれていた。

「ならば、俺はお前を殺さねばならない」

「何故」

 イラーハは真っ直ぐに俺を見返した。

「俺の目的は人類を滅亡させることだ。『生命の壷』は全て叩き壊すし、造る者は殺す」

「では、何故君は、人類を滅亡させたいのかね」

 イラーハの澄んだ瞳に見据えられ、俺は落ち着かない気分にさせられた。俺の人間としての底の浅さを見透かされているような恐怖。

「善人は皆死に、世界は人殺しの好きな糞野郎ばかりになってしまったからさ。もうこの世界は救いようがない」

 俺は吐き捨てた。

「私はそうは思わないな。憎悪と悪意は人間の本質だが、愛と善意もまた本質だ。確かに前者の勢力が圧倒的多数を占めるが、今はまだ過渡期に過ぎないと思うのだ」

 その落ち着いた声を聞くうちに、俺の傷が疼き出した。俺の頭を縦に割った傷が。

 イラーハは続けた。

「変革が始まってまだ十年だ。いずれは善意と悪意のバランスが取れた社会へと安定していくだろう。だから我々は、その時まで生命を絶やしてはならない。新しく人が生まれくる限り、希望はなくならないのだから」

「希望など既にない。俺は多くを見てきたが、あったのは絶望だけだ」

 俺は唇を歪めてみせた。無数の殺人鬼とハイエナの群れ。貝掘り。果樹園に巣食う寄生虫達。粘液の海に押し込められた人々の苦痛と悦楽の顔。

 イラーハは全く揺るがない。

「いや、希望はある。君がまだ見ていないだけだ。君は世界と人間の本質を、慎重に見極めなければならない。それとも、君は未来を放棄するのかね。諦め、放棄することは、逃げることだ。私は未来から逃げない。私は人間の善意を信じている。これまでそうやって生きてきたし、これからもそうするつもりだ」

 傷がズキズキと痛む。こんなに痛むのは何ヶ月ぶりだろう。

 最初は、こんな甘い男が何故これまで生きてこられたのかと思っていたが、それは違っていた。

 彼は、強い。

 俺は、彼の瞳を、正視することが出来なかった。

 代わりに俺は首刈り出刃を振り上げた。

「ただし、私はこの場からは逃げることにするよ。生き抜くために。人類の希望を絶やさないために」

 真剣な顔で、イラーハは素早く背を向けて走り出した。

 一瞬、俺は躊躇した。彼は殺さねばならない。だが数秒待っていれば彼は俺の視界から消えるだろう。戦わずに生き延びてきたなら、逃げ足は速い筈だ。勿論、彼は殺さねばならない。ただ、その前にこの村の住人を皆殺しにしてから……。

 その時、頭を割る傷が、破裂しそうなほどに痛んだ。

「かあっ」

 俺は叫んだ。俺の足は容易にイラーハに追いついた。振り下ろした血みどろの出刃。一瞬の迷い。痛み。重い刃はイラーハの背中ではなく左足を切り裂いた。彼はもんどり打って倒れ、砂に塗れた。

 見上げるイラーハの瞳に恨みや憎悪はなかった。彼は真摯な口調で言った。

「私を殺しても、まだ『生命の壷』を造る仲間がいる。私もやはり転生した後で『生命の壷』を造り続けるだろう。私は人類の未来を信じている」

 ああ、畜生、どうしてこんなに傷が痛みやがるのだ。

 俺はまた、出刃を振り下ろした。それは逃げようとするイラーハの右足を切り落とした。

 イラーハは苦痛に呻いたが、悲鳴は上げなかった。

「君は、何故、信じ抜けないのかね。信念こそが、この世界を救う、道だ。ここは、そんな、世界なのだから」

「もう動くな」

 どんな気持ちでそう言ったのか、自分でも分からなかった。

 イラーハは両手で地面を叩いて跳躍した。俺は出刃を振った。彼の下半身がちぎれ飛んだ。彼は血と内臓を撒き散らして地面に落ちた。

 乾いた地面を掻きながら、イラーハは呟いた。

「き……希望を……」

 俺はイラーハの頭部を叩き切った。真っ二つに割れた頭蓋骨から脳漿が溢れ、彼は動かなくなった。

 首刈り出刃を握る手に、嫌な感触が残った。

 俺の顎から生温かい液体が滴り落ちていく。

 縫い合わせた傷から出血していたようだ。だがあれほど荒れ狂っていた痛みは、嘘のように消えていた。

 イラーハの死体は黒く変化せず、薄れて消えもしなかった。俺の行為の重さを見せつけるように、そのままの姿でそこにあった。

 俺は死体に背を向け、歩き出した。

 背後で、隠れていた住民達の一部が飛び出した。俺に気づかれないように動いたつもりなのだろう。

 彼らはイラーハの死体に駆け寄り、大喜びで引きずり去ろうとしていた。久しぶりの遊び道具という訳だ。

 世界には、こんな奴らしかいないのだ。

 俺は素早く引き返し、首刈り出刃を振った。牙の生えた男や鉤爪のある男や体中に口のついた女を刃は八つ裂きにしていった。

 村を全滅させるのに、一時間もかからなかった。

 その間ずっと、日笠は無言だった。

 

 

  十二

 

 二○一二年十二月十六日。

 俺は森の中にいた。規模としては小さいが、草木の生い茂った美しい森だった。腐った都市と荒野を延々と歩いてきた俺には、こんな場所がまだ地球上に残っていたことが驚きだった。

 ただ、不思議なのは、虫や小動物など生き物の気配が全くないということだった。そしてもう一つ、植物の状態がこの冬にそぐわないということ。花や緑の色は春の季節を演出し、森の中にいると実際に暖かく感じられた。

 これは、誰かの意志が働いているのだろうか。

 木々の間を抜けると庭が見えた。ツツジやすみれや百合の花が所狭しと咲き誇っている。

 その向こうに、小さな洋式の平屋が建っていた。白い壁の綺麗な建物だ。

 開け放たれたサッシの奥に、ロッキングチェアに揺られ一人の青年がいた。

「やあ、こんにちは」

 俺と目が合うと、青年は人懐こい笑顔を浮かべてみせた。

「人がここを訪れるなんて何年ぶりだろう」

 青年は背が高くひょろりと痩せていたが、不健康な感じはしなかった。丁寧にカットされた髪や清潔な衣服は俺とは大違いだ。

 無邪気に喜ぶ青年につられて、俺はそのまま邸内に招かれていた。首刈り出刃を握り血塗れのコートを着た俺の姿にも、青年は別段驚いた顔を見せなかった。

「僕は葉山陽一といいます」

 青年は言った。ここは東南アジアの筈だが、日本人の彼はわざわざここまで移住してきたのだろうか。

 殺風景だったかつての俺の部屋と違い、葉山の家は色々な家具が揃っていた。明るい色調の壁紙に、綺麗なテーブルや椅子、電気が通っているらしく電灯やテレビ、コンポまで置いてあった。台所には冷蔵庫もある。

 現在の都市の退化した生活空間に比べ、ここは完璧なほどに整っていた。おそらく葉山が一人で全ての設備と電力の維持を行っているのだろう。

 俺がそれを口にすると、葉山はちょっと得意げな顔になって頷いた。

「ええ、そうです。まるで十年前に戻ったみたいでしょう。家の周りの森も、全部僕が造ったものです」

 つまり葉山は、自分の意志力の全てを環境の整備に使っている訳だ。

「TVの放送はもうないですけれど、以前のビデオは沢山持っているんですよ」

 葉山が指差した棚には数百本のビデオテープが並んでいた。映画やテレビドラマの見覚えのあるタイトルが読める。

 そうか。昔はこういうものが流行っていた。

 俺は妙な気持ちになっていた。遠くに去ってしまった筈の世界が、今もここにある。

「CDも多いでしょう。大変革の時期に買い漁ったんですよ。何が起ころうと音楽だけは離したくなかったから」

 棚に隙間なく詰め込まれた千枚近いCDのジャケットに俺は圧倒された。俺の知っているグループの名もあった。

 と、その中にあるタイトルを認め、俺の心臓が数瞬、鼓動を止めた。

「これは……」

「ああ、二○○○年にデビューしたミレニアム・ナイトのアルバムですね。これはかなり流行りましたよね。結局最初で最後のアルバムになってしまったけど」

 葉山はCDを取り出してプレーヤーにセットした。俺の心臓は逆に鼓動を速めていった。

 切なげなイントロが耳に入った時、俺の中にかつての光景が甦った。苦労して手に入れた三枚のチケット。並んで立ち、懸命に手拍子を入れている俺達。珍しくはしゃいでいた絵美。決まり悪そうに立つサングラスのケン。ケンの好みはハードロックの方で、絵美が行くと言わなければ彼は来なかっただろう。手拍子を打ち過ぎて手が痛むがやめてはならない。それは俺達三人にとって崇高な儀式なのだから。

「思い出の曲ですか」

 葉山が尋ねた。

「ああ、ライブに行ったんだ。三人でな。あの頃は……」

 その時俺は気がついた。

 俺は、こんなところで、何をやっているんだろう。

「どうしました」

 葉山が怪訝な顔になった。

「俺は、行かなければならない」

 何故か俺は、葉山に申し訳ないような気持ちになっていた。

「折角だから、もう少しここで休んでいきませんか。僕はずっと独りで生活していたから、話し相手が欲しかったんですよ」

 俺は首を振った。

「絵美はもういないし、ケンは俺が殺した。だから俺は、すべきことをしなければならない」

「僕がすべきことをしてないと言うんですか」

 葉山の顔に翳りが差した。

 ここには十年前までの懐かしい世界が保存されている。俺が渇望した世界の一部が。葉山がこういう環境を造った気持ちは分かる。

 だが、この閉じた世界で、過去の幸福を眺めて時を過ごすことに、何の意味があるのだろう。

 彼は『貝』の一人なのだ。

「僕がやっていることは、無意味だと思っているんですか」

 葉山の頬が引き攣っていた。それは、彼も自覚していたことなのだろう。俺は冷めた気分になって、葉山の変化を見守っていた。

 だが、少なくとも、彼は殺人狂ではなく、誰にも迷惑をかけずに生きている。

 俺に何を言う権利があるだろうか。

「あんたの生き方が、どうやら俺には合わないということだけさ。俺は行く」

「行かないでくれ」

 いつの間にか、葉山の手には拳銃が握られていた。自衛のため日頃から携帯していたものか、それとも今造ったのか。

「何故そんな目で僕を見る。僕の生き方の何処が悪いんだ。こんな滅茶苦茶な世界になって、親も友達も皆死んでしまった。僕は苦労して大事な荷物を、殺し合いの続く町から運び出したんだ。殺されたくないし、誰も殺したくなかった。逃げて逃げて、こんなところまで来たんだよ。平穏を求めて生きることは悪いことなのか」

「さあな。俺には分からない。ただ、なんとなく、俺には違うような気がするだけだ」

 それは本心だった。

 葉山は必死になって自己正当化をしようとしている。

 だが、葉山を責め立てているのは、俺ではなく、葉山自身の心なのだろう。

「俺は行く。撃つなら撃てよ」

 葉山は手を震わせながらも発砲した。一発、二発、三発。俺の胸に二ヶ所、腹に一ヶ所。正確な狙いは意志力で造り上げた拳銃のためか。

 俺にとっては大した傷ではない。血は流れるがすぐに止まる。体内に残った弾丸はすぐに吸収されていくだろう。

 平然と立つ俺の前で、葉山は拳銃を取り落とした。彼は、涙を流していた。

「じゃあな」

 すすり泣く葉山に背を向け、俺は彼の造った屋敷を出ていった。首刈り出刃を振る気にはなれなかった。

 庭を抜けた頃に、もう一度銃声が鳴った。

 ……葉山は自殺したよ……

 それまで黙っていた背中の日笠が告げた。

 俺に何が言いたいのか、日笠。

「何故こんな場所に、俺を案内したんだ」

 ……不思議なことを言う。それを望んだのは君だよ。人類を絶滅させたいのだろう……

 俺は日笠が憎らしくなった。だが、彼の言うことの方が正しかった。望んだのは俺だ。

 俺はもう、後戻りは出来ないのだ。

 ただひたすらに進むだけだ。

 森を抜ける頃には、美しかった花はしぼみ、木々は全て枯れ果てていた。

 

 

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