十三

 

 冷たい風の中、瓦礫の大地を俺は走っている。無人となった地域も、既存の建物を壊すのが好きな連中のため、原型を留めているものは殆どない。

 二○一三年一月二十六日。同じような腐った都市を滅ぼし続け、その数は大小合わせて五十を超える。殺した人数は、どれほどになったのだろう。

 走りながら俺は考えている。俺が殺した壷造り、イラーハのこと。未来を放棄するのか、と彼は言った。諦め、放棄することは、逃げることだ、と。

 何故、あれほどまでに、未来を信じることが出来るのだろう。俺は最愛の恋人を失った。親友を殺した。残っているのは、この世界と人間への憎悪だけだ。それ以外に何がある。

 希望を。

 イラーハの言葉が、俺の中で何度も繰り返される。

 俺は、何をしたかったのか。

 俺は、どうすれば良かったのだろう。

 俺は……。

 そのうちに頭の傷が痛み出し、俺は我に返る。

 俺の堂々巡りの思考に、日笠は何もコメントしない。俺を怒らせて荒野に放り出されるのを恐れてのことか。それとも……。

 日笠はただ、こう送ってきた。

 ……このペースなら、二時間ほどで次の都市に着く。おそらく現在の地球上で五本の指に入る規模の都市だ……

 確かに日笠は役に立っている。

 だが、何故俺にここまで協力してくれるのか。それが分からない。人類の希望を謳う彼が。行く先々で俺がすぐ住民を皆殺しにしてしまうのだから、彼が放送で希望を説いたところで無意味だ。また、日笠はテレパスのネットワークで道筋を調べているというが、殺戮者を案内していると知っても尚、情報提供してくれるようなテレパスはいるのだろうか。もしかすると俺は、日笠によって全く別の目的のために踊らされているのだろうか。そんな疑念さえ浮かんでくる。

「どうなんだ、日笠」

 黙っている日笠に苛立ちを覚え、俺は口に出して聞いてみた。

 ……色々な事情はある。君の望みとは別に、私の願い、協力者達の思惑。しかしそれを今ここで議論しても仕方のないことだ。少なくとも私は、君の望みに沿って手助けしているし、嘘をついているつもりはないよ……

 最初に会った時のように、また、俺の本当の望み云々とか言い出すんじゃないだろうな。

 日笠は別のことを告げた。

 ……これから訪れる都市には、救世主と呼ばれる男がいる……

 

 

  十四

 

 都市の名は『光』といった。二年前に築かれた、争いのない、人々が笑顔で暮らせる理想都市。その噂を聞きつけて、平穏と幸福を求める人々が地球の裏側からでも訪れるという。

 俺はこれまでこの都市のことを殆ど耳にしたことがなかった。日笠の思念放送にも出たことがない筈だ。ここが人類にとって理想の都市であるならば、何故日笠は人々に知らせないのだろう。或いは血に飢えた者達の襲撃を恐れてのことか。

 静かな、美しい都市だった。白い色彩の建物群は、よく手入れされているのか意志力によるものか、染みも崩れもない。舗装された道には死体一つなかった。一戸建てが多く、充分に広い庭には花や木が植えられていた。

 清潔な白い衣服を纏った住民達は、談笑しながら散歩をしたり、のんびりと日なたぼっこを楽しんだりしていた。この都市には太陽の光が届いていた。闇を好むハイエナは存在しないらしい。

 俺の顔に走る大きな傷や血塗れの凶器を見ても、不思議と怯える者はいなかった。

「ようこそ理想都市『光』へ。今夜も中央の広場で、私達の救世主の御言葉を拝聴することが出来ます。是非いらして下さい」

 住民の一人が俺に声をかけた。その笑顔は純粋な善意に溢れていた。

 俺は黙って彼の横を通り過ぎた。無視されても、彼はにこやかなままだった。

 この都市に足を踏み入れた時からずっと、俺は奇妙な違和感を覚えていた。ほんの僅かだが、動く際に空気に抵抗がある。水中で歩く感覚を百分の一に薄めたような。誰かの張った結界に入り込んだのだろうか。周囲の環境を丸ごと意志力で造り上げていたあの葉山の時も、似たような感じはあった。そして、極めて自然で、見事に調和した街並み。何の葛藤もなく整い過ぎたそれは、個性を持った人々の共同生活の場では到底見られないものだ。

 何かが、変だった。

 ……この都市には以前、私の同志がいた。位置を特定出来たのはそのためだ……

 背中の日笠が伝えてきた。

「そいつは今どうしてる。ここを出ていったのか。死んだのか」

 日笠は答えなかった。

 似たような建物の間を暫く歩くと、先ほど住民が言っていた広場に出た。野球場が丸々一つ収まりそうな面積に、白いレンガが隙間なく敷き詰められていた。中央には小さなステージがある。おそらく救世主とやらはそこに立って演説するのだろう。

 ……都市の人口は約七万人。その全てが今夜もここに集まる……

「なら、ここで夜まで待つ」

 俺は広場の片隅に腰を下ろした。首刈り出刃は足の下に置き、俺は膝を抱えた。

 

 

 沈んでいく夕陽を俺は眺めていた。死の静寂に満ちた瓦礫の上で見る夕陽よりも数段美しく、そして優しかった。昔、三人で眺めた夕陽は、こんな感じだっただろうか。

 広場に人が増え始めていた。白い服を着た彼らの顔は穏やかで幸福に満ちていた。俺も主役の登場を見るため立ち上がった。凶器を握る俺に、誰一人見向きもしない。

 陽が完全に沈み、夜が訪れた。完全な闇ではない。主要な道沿いには所々に淡い光の球が浮かんでいた。街灯代わりだろう。

 広場は人で埋まっていた。七万の住民全てがこの場に揃っているようだった。場内は静かだった。私語もなく、彼らは無言で救世主の登場を待ちわびていた。

 中央のステージに光が生じた。強い光だ。

 眩さに俺は思わず目を閉じた。

 目を開けた時には、既にその男はステージ上に立っていた。

 ……彼が理想都市を築いた救世主、エリヤ・トルサネスだ……

 日笠の思念が告げた。

 エリヤ・トルサネスは西洋風の白い僧衣を纏った、長身の若い男だった。色白で彫りの深い整った顔は、西洋人なのか東洋人なのか区別がつかない。肩の辺りで切り揃えられた髪は黒だが、物静かな印象の瞳は深い青だった。彼は美しかった。もし女性であったならば、絶世の美女と呼んでも大袈裟ではなかっただろう。それも、外見を取り繕ったような美しさではなく、内面から滲み出るような清楚な雰囲気を持っていた。彼の口元は柔和な微笑を湛え、慈愛に満ちた眼差しを人々に向けていた。

 俺は、息をするのも忘れて、その男に見入っていた。

「我らが救世主」

「エリヤ様」

「私達をお導き下さい」

「我々の享受するこの幸福は、全てあなたのお陰です」

 その時になって、人々が声を上げ始めた。同時に巻き起こった拍手の渦が広場を埋め尽くす。

 少し待って、エリヤが軽く両手を上げて皆を制した。怒濤の拍手がやんだ。救世主の言葉を一言一句聞き逃すまいと、誰もが真剣な面持ちでエリヤを見上げていた。

「今日も皆さんは、幸福な時を過ごされたようですね」

 人々の顔をゆっくりと見回しながら、エリヤが言った。なめらかで美しい声は大きくはなかったが、広場にいる全員の耳に届いていた。

 皆が一斉に頷き、「はい」と答えるのを確かめてから、エリヤは堪らない笑顔を作った。見る者の心を痺れさせるような、完璧な笑みだった。

「およそ十年前より、人類は混沌の時代に突入しました。人々は快楽を求め、終わりなき闘争と殺戮の日々によって文明は崩壊しました。心ある者の多くは殺されるか、生き残るために自らも野獣と化しました。しかし、そんな苦難の年月の間も、希望の火は消えませんでした。皆さんが願い続けた結果として、今ここに真の理想郷が存在するのですから」

 おそらくは、これらの台詞は毎回の演説で使い古されたものであろう。だが一人として退屈そうな顔をする者はなく、エリヤの言葉に聞き入っていた。

「この理想都市には争いは存在しません。皆さんが求めるものは全てここにあるからです。ここには暖かい日の光と、瑞々しい緑と、必要なだけの食料と、そして平和を求める同志がいます」

 彼は完璧だった。その容姿から物腰、話の内容に至るまで、理想的な指導者像を体現していた。彼は平和や愛の大切さ、団結の必要性、そしてこの都市の住民がいかにそれを理解して実行しているかを語り、皆を激励した。その間、俺は瞬きもせずに、彼の姿を見つめていた。

 俺は直感した。

 きっと、エリヤ・トルサネスが、世界の『核』なのだ。

 彼は特別な存在だ。彼が世界の中心であり、根源の光である。彼を殺せば、世界は消滅するのだ。

 何故だか俺は、心底からそれを信じた。

 首刈り出刃を握る手に、力を込める。

 この血塗られた凶器を振ってエリヤの首を切り落とせば、きっと全ては終わるのだろう。

 しかし。本当に、そんなことが許されるのか。

 エリヤは、スローターと綽名されるこの俺にとっても、完全で、理想的で、冒すべからざる神聖な存在に見えたのだ。また、それ故に、俺は彼を『核』と感じたのだろう。

 そのうちに、俺の頭の傷が痛み始めた。頭部を真っ二つに割る傷は、容赦なく俺を責め立てる。

 うるさい。分かっている。

 その時、エリヤが俺の方を見た。エリヤと俺の目が合った。

「今日もこの理想都市に、真の幸福を求めて来訪された方がいます」

 有象無象の住民に埋もれた俺の存在を、エリヤは最初から感知していたのだろうか。

「ようこそ、スローター。ただ一人で二十万人以上を殺戮し、五十四の都市を滅ぼした最強の破壊者。あなたの噂は聞いていますよ」

 七万の住民が全員、俺の方を見た。俺は凶器を握ったまま動かずにいた。いざとなれば逃げることも、逆にステージに躍り込んでエリヤを斬り殺すことも出来るだろう。

「でもあなたは他の血に飢えた殺人鬼とは違いますね。その力も、その心も。あなたの心の奥には悲しみが見えます。この都市でならば、あなたの求める幸福が得られ、その傷の痛みを癒すことが出来るでしょう。あなたが私達の仲間になるのなら、これほど心強いことはありません」

 エリヤの声は、その穏やかだが力強さも感じさせる表情は、俺が彼に従うことを確信していた。

 頭の傷が痛みを増し、俺を苛立たせた。

 俺は言った。

「お前に何が分かる。お前に、この傷の痛みが理解出来るというのか。俺は世界を滅ぼすために生きている。そのために、お前を殺す」

 オオオオオ。広場がざわめいた。動揺と恐れ、そして俺に対する敵意が、初めて彼らの顔に浮かぶ。もし七万人が同時に俺に襲いかかったとしても、生き残る自信はあった。

「静まりなさい」

 エリヤの一声で、すぐ広場に静寂が戻った。住民達の顔が再び安らかなものに変わっていく。彼らがそれだけエリヤを信頼しているということか、それとも……。

 宣戦布告したばかりの俺に向かい、エリヤは憐れみの眼差しを投げかけた。

「理解出来ますよ。あなたのその傷は、自分でつけたものですね。その巨大な凶器で。あなたは自分の頭を割って、世界を滅ぼすという誓いを立てた。しかし、そうまでしなければならなかったのは、あなたが迷っていたからではありませんか」

 エリヤの言葉が、どんな刃物よりも鋭く、俺の胸を貫いた。俺は思わずよろめき、出刃を杖代わりにして、転ぶのを免れた。

 俺の心を読まれた。しかも、心の最も深い部分に封じ込めていたことを。

 日笠が教えたのか。それとも、エリヤ自身がテレパスなのか。或いはエリヤに協力する別のテレパスがいるのか。

 だがそんなことはどうでも良い。俺は、自分が敢えて目を逸らしていたものを、エリヤによって見せつけられてしまったのだ。

 そう、俺は、きっと、迷って、いるんだ。

 誰のせいだ。人を傷つけることを嫌い平穏を望んだ絵美のせいか。あの壷造りのイラーハのせいか。それとも、このステージの上から俺を優しく見据えるエリヤ・トルサネスのせいか。

「さあ、私の元へ」

 エリヤが、俺に向かって手を差し伸べた。人々はエリヤと俺の間に道を空けた。

 このまま走り寄って、エリヤを唐竹割りにすることは出来るだろうか。彼に戦闘力は感じない。もし実行に移せば、おそらく彼はあっけなく息絶えるだろう。

 だが……。

 傷が激しく疼いて、俺を殺戮へと追い立てる。縫い目の部分からじわじわと腐っていくような、鈍く重い疼き。

 俺は、エリヤの澄んだ瞳から視線を外し、背を向けた。それが、今の俺に出来る唯一の行動だった。

「私は待っていますよ。あなたは必ず同志になります。あなたが求めるものは既にここにあるのですから」

 広場を去っていく俺の背に、自信に満ちたエリヤ・トルサネスの声が届いた。

 

 

  十五

 

 俺は『光』から数キロ離れた平野で夜を過ごした。都市の力が及んでいるのか、この辺は焼き尽くされた筈の地面に草が生えている。ここから都市の淡い灯かりが見える。当てもなく彷徨う旅人にとって、あの灯かりはどれほど救いになることだろう。

 眠気はなく、俺はずっと同じことを考えていた。

 自分がこれから、どうすべきなのかということを。

 ……公平を期すため、知らせておくことがある……

 それまで黙っていた日笠が告げた。

 ……君の思考を私がエリヤに伝えたのではない。彼が自分で読み取ったのだ……

「そうか」

 俺にはどうでもいいことだ。

 だが日笠は続けた。

 ……以前ここに私の仲間がいた。君は、彼が今どうしているかと聞いたな。彼は、エリヤに取り込まれたのだよ……

「何」

 取り込まれたとは、どういうことだ。

 ……エリヤに吸収された。だからエリヤはテレパスとしての能力を持っている……

 それきり、日笠は何も伝えてはこなかった。

 俺は、再び同じ思考に舞い戻る。

 エリヤが世界の『核』である可能性は高いと思う。何故なら、俺がそう信じているから。『核』の仮説をどれだけの者達が信じているかは知らないが、世界の希望を象徴するようなエリヤの資質は、充分その期待に応えられるだろう。彼を殺せば、おそらくこの苦痛に満ちた世界も終焉を迎えるだろう。

 だが。

 それだけに、エリヤは世界を変えるかも知れなかった。彼がこのまま救世主として活躍していけば、その思想と力は世界中に広がっていき、真の幸福が訪れるかも知れない。新しい時代の幕開けだ。

 しかし。

 更に俺は考える。

 この都市の住民達は、果たして真に幸福と言えるのだろうか。

 あそこでは時が停滞しているように見えた。彼らは常に満たされ、何も求めない。彼らの心には苦悩や葛藤がない。

 真の幸福には、いかなる苦しみも存在しないのだろうか。

 いや、そうではない筈だ。ここの住民は安全な囲いの中に保護され、甘い夢を見せられて自分の意志を失っているように見える。俺はあの洞窟の中、粘液の海に浸かった人々の姿を思い出した。目的は違えど、他人によって感覚を与えられているということには違いがない。

 あの壷造りイラーハの、強い意志の輝きを放つ澄んだ瞳。この都市の住民の顔に、彼のような表情は見られなかった。

 ここは、違うのではないか。

 でも。

 再び俺の思考は巡る。

 それでも、この都市が希少な人類の希望であることに変わりはないのではないか。

 だが。

 俺は、この傷にかけて、世界を滅ぼすことを誓ったのだ。ケンとも約束したのだ。世界がこんなふうにさえならなければ、絵美が死ぬことはなかったのだ。

 そして、エリヤを認めてしまえば、これまで俺のやってきた殺戮は、無意味になる。

 俺は悩み続けた。ためらう度に頭の傷が痛み出し、俺を戒めた。

 太陽が昇り、そしてまた西の空に沈みかけた頃、俺はやっと決心した。リュックを下ろし、日笠をここに残すことにする。俺が俺として生き残ることが出来れば、また後で日笠を回収出来るだろう。俺の決断を悟っている日笠は、ずっと黙っていた。

 俺は、理想都市『光』へ向けて、再び出発した。

 

 

  十六

 

 俺の持ち物は首刈り出刃だけだった。無数の人々の肉を斬り骨を断ってきた、血塗られた凶器。着古した薄いコートは赤い染みで埋まり、長い殺戮の日々を語っていた。

 理想都市の住民達は、昨日と同じように中央の広場へ向かっていた。エリヤの説教を聞くために。

 人々の白い衣服は、夕陽のため赤く染まっていた。

 俺を認めた一人が、にこやかに声をかけてきた。

「来てくれたのですね。やはり救世主のおっしゃることに間違いはない。エリヤ様はお待ちかねですよ」

 俺は首刈り出刃をその男の首筋に叩きつけた。微笑を浮かべたまま男の首が宙を飛んだ。

 胴体は、切断面から血を噴き上げながらグニャリと地面にくずおれた。

 近くにいた人々は、その光景を呆然と見守っていた。こんな残酷なことが理想都市で起こるとは、信じられないというように。

 俺はそのまま進んだ。ポカンと大口を開けている初老の男を輪切りにした。後ずさりする女の脳天から股間までを真っ二つにした。漸く俺の意図に気づいたらしく、人々は悲鳴を上げて逃げ出した。これまでの人形のような落ち着きが剥がれ落ちた、人間らしいといえば人間らしい行動だ。

 俺は通りすがりの者をついでに斬り殺しながら広場に向かって走った。

「スローターが暴れ出した」

「彼は我々を皆殺しにするつもりだ」

「エリヤ様、我らを邪悪な敵からお守り下さい」

「うわっ、広場の方に来るぞ」

「エリヤ様を手にかけるつもりだ」

「エリヤ様をお守りせねば」

 口々に言い合うばかりで何も出来ぬ人々。

 恐慌と混乱の中を、首刈り出刃を振りながら一気に駆け抜け、俺は中央の広場に躍り出た。そこには既に住民の大部分が集まっていた。

「エリヤ、殺しに来たぞ」

 俺は怒鳴りながら、逃げ遅れた三、四人を一振りで斬り殺した。

 オオオオオオ。七万人の広場が鳴動した。彼らの顔に浮かぶのは、怒りよりも恐怖。オロオロと逃げ惑うだけで自分では何も出来ない、迷える小羊達。平和のために調整された人格。

 ステージに光が生じ、一瞬のうちにエリヤ・トルサネスは登場した。完全なる救世主。世界の『核』。彼が昼間は姿を見せないのは、一人で都市の維持に力を尽くしているためかも知れない。

「心配は無用です。皆、下がっていなさい」

 静かにエリヤは告げた。僅かな不安も見られない、大した落ち着きだ。逆に俺の心が揺らぐ。この男を殺して本当に良いのだろうか。すぐに頭の傷が痛んで、俺の心を引き戻す。

 人々は黙って俺とエリヤの間に道を空けた。昨日と同じ光景だが、状況は違う。

 だが、エリヤは微笑していた。

「樫村雄治さん。あなたには私は殺せません。あなたは必ず私の同志になります」

「この期に及んで、よくそんなことが言えるな」

 俺は首刈り出刃を振り上げた。何万人もの血を吸ってきた、俺の分身。エリヤとの距離は三十メートルほどだった。一瞬で縮まる距離だ。

 エリヤはふと、憐れみの視線を俺に投げかけた。その眼差しに誰かの面影を感じ、俺は寒気を覚えた。全身に鳥肌が立っている。

 あれは。あの表情は。

「彼女は七年前、絶望の末に自らの命を絶ちました。あなたの必死の励ましと哀願も届かずに。あなたは彼女と共に生きていこうとしたのに、弱い彼女はこの世界に耐えられなかったのです」

 エリヤの声質が変化していた。男の声から、若い女性のそれへと。

「な、何を言っている」

 まさか。

 吐き捨てながらも、自分の意志力が萎えていくのが分かる。頭の傷が激しい痛みで警告を発している。口の中に血の味がした。傷の結合が弱まり、出血を始めたのだ。

「嘆き悲しんだあなたは彼女の死体を氷漬けにして封印しました。何故なら彼女の存在が、あなたの生きていく支えであったから。七ヶ月前、氷漬けの彼女を断ち割るのに、あなたはどれほどの覚悟を必要としたことでしょう」

「や、やめろ。黙れっ」

 俺は叫んでいた。テレパスめ。俺の心を読むな。俺の心をほじくるな。

 だがエリヤは俺に柔らかな笑みを向けたまま、言葉を続けた。

「しかし人は生まれ変わります。彼女が三年前に『生命の壷』より転生していたとしたらどうでしょう。死の平穏に逃げ込むのではなく、今度こそは自分の力でこの世界を変えていこうと決心したとしたら。彼女が前世の記憶を保っているとしたら。彼女が今もしあなたに、共に生きて欲しいと願うならば、あなたは頷いてくれるでしょうか。かつてあなたが望んだように、二人で世界を変えていくことが出来るのです」

 まさか。そんな筈は。

 この男が……。

「お前は嘘つきだ」

 凄まじい頭痛。俺は耐えられなかった。跳躍して一気に間合いを詰め、エリヤの頭へ渾身の力で首刈り出刃を振り下ろす。

 その血塗られた刃が、エリヤの顔に触れるか触れないかのところで止まっていた。

 無意識のうちに止めてしまったのは俺自身だった。

 エリヤの顔が別人のものに変わっていた。

 かつて俺が愛した少女の顔に。

「新藤絵美は、私です」

 懐かしい声で、エリヤは言った。彼女がよく浮かべていた、悪戯っぽいそれでいて儚げな微笑がそこにあった。

「う……」

 嘘だ。こいつは俺の記憶を使って、俺を騙そうとしているだけだ。

 だが、俺は、凶器を振り下ろすことが、出来なかった。

 エリヤの左手が上がり、出刃を握る俺の右腕に触れた。温かい手だった。それだけで、俺の手から首刈り出刃が落ちた。

 エリヤは、俺の手を離さなかった。

 頭の痛みは既に限界を超えていた。傷に沿って頭が割れ、る。縦に走る傷口から血が溢れ出し、俺の服を濡らした。武器を、拾わなければ。

 俺の体は、動かなかった。

 エリヤが右手で俺の顔に触れた。水面を波紋が広がっていくように、静かに痛みが溶けていった。それは甘美で、恐ろしい感覚だった。

 俺の頬を何かが伝い落ちていく。もしかすると、それは血ではなく、涙、なのかも知れない。

 見慣れた絵美の顔が、ゆっくりと近づいてくる。

 一瞬。俺の脳裏に、十年前の光景が甦った。

 

 

 塩気を含んだ心地良い風が入り込んでくる。暑さと涼しさの絶妙のバランス。俺達はエアコンを入れずに、旅館の窓を開け放しにしていた。

 その年の夏休みは、絵美とケンとの三人だけで海辺の旅館へ二泊三日の旅行だった。絵美は両親には、女友達との旅行だと嘘をついていた。

「へへ、見ろよ。百発百中だ」

 縁側に腰を下ろしているケンが言った。夜なのにサングラスをかけているのは、生まれつき目が弱いからだ。視力の問題ではなく、光に対する過敏性の問題だという。

 ケンはモデルガンを持っていた。丸いBB弾の出るタイプだ。旅行先にまで持ってくるのだからよっぽどのマニアだ。彼はそれを人や動物に向けたりはしない。

 ケンは今も庭に並べた空き缶を撃っていた。

「なあ、見ろよ。次は一番右の奴だ」

 俺はケンの傍らに立った。ケンは狙いを定めると、十メートル近く離れた標的へ発砲した。

 空き缶が跳ねた。跳ねたなんてものじゃない。破裂した。粉々になるほどに。

「そう。望んだだけさ」

 ケンがこともなげに言った。

「俺には向けないでくれよ」

 それだけを俺は言った。

 テレビのニュースでは、三ヶ月前に起きたジョージ・ウェイクの暗殺事件についての新事実を語っている。死んでも彼の話題は絶えない。続いて、半身不随の少年が歩き出したとか、空中浮揚の超人が現れたとかいうニュース。近頃はそんな話が多い。アメリカでは三人の行員を殺した銀行強盗が二十七発の実弾を食らいながらも逃げおおせたということだ。『ただ望んだだけ』という台詞は、世界中で大流行になっている。

 部屋で静かにテレビを見ていた絵美が、小さく溜息をついた。それは俺達の耳にも届いた。

「そうだ、花火でもやろうぜ。パーッと派手にな。俺、買ってくるよ」

 絵美を元気づけるためだろう。ケンは立ち上がって、部屋を出ていった。

 俺は、絵美と、二人だけになった。

 絵美は浴衣を着ていた。風呂上りの長い髪は艶やかで、俺はドキリとさせられた。

 昼間の海岸で、絵美がいない間にケンが俺に言った台詞を思い出す。

「絵美はお前の方が好きなんだな」

 ケンはまずそう告げた。俺は返す言葉を持たなかった。

「俺は身を引くよ。それが彼女のためだと思うからな。だがな、一つだけ言っておく。絵美を幸せにしてやれ。もし出来なかったら、俺はお前を許さないぞ」

 その時のケンの表情はサングラスの奥に隠れ、読み取ることは出来なかった。でもケンの気持ちは痛いほどに伝わってきた。俺のただ一人の親友よ。俺はお前を尊敬する。もしこれが逆の立場だったら、俺はお前と同じことが言えただろうか。

「世界は、どうなっちゃうのかな」

 絵美が、ポツリとそう呟いた。

「私、最近の出来事を見てると、不安になってくるの。世界は悪い方にどんどん転がっていくみたいで。皆、何も考えずにどんどん先に進んでいって、ためらってる私だけ独り、取り残されてしまいそうな気がする」

 俺には、彼女の不安が、理解出来なかった。世界がなんだか凄いことになっていくのは分かっていたが、俺も他の人々と同じように、その変化を楽しみにしている方だったから。

「何も変わらないさ」

 俺はただ、彼女のためにそう答えた。

「世界がどんなに変わっても、俺達は変わらない。ずっとこのままでいるよ」

 絵美は顔を上げた。その儚げな表情は、彼女には悲しいほどよく似合っていた。

 俺は勇気を出して、次の言葉を付け加えた。

「どんな時も、俺がずっと一緒にいるよ。何があっても、俺が君を守る」

 絵美は立ち上がった。俺は思わず彼女を抱き締めていた。

 顔を上げた絵美に、俺は口づけをした。二人にとって、初めての接吻だった。

 

 

 我に返った時、俺の唇に柔らかいものが触れていた。それはエリヤの唇だった。絵美の顔をしたエリヤ。いや、エリヤは絵美なのかも知れない。

 温かい。

 いつの間にか俺は、エリヤの両腕に包まれていた。

 ズズ、ズズ、と、俺の体が、エリヤの体の中にめり込んでいく。

 取り込まれる、という日笠の言葉を、俺はぼんやりと思い出していた。

 既に俺は抵抗する気力を失っていた。苦痛はない。ただエリヤの温もりを感じていた。

 俺の旅はここで終わるのだろう。悔しいとは思わない。憎しみと苦痛と殺戮の日々は無に帰し、俺はエリヤの中で眠り続けることになる。それは、俺が心の奥底で望んでいたことであったのかも知れない。両手を血で染めた俺には、世界を救うことは出来ない。でも取り込まれた俺の力はエリヤの役に立てるだろう。エリヤは真の救世主だ。その力は世界中に広がっていき、きっと人類の理想郷を造り上げることだろう。

 もう、俺の上半身は、エリヤの中に埋もれていた。そこは光に満ちていた。俺は胎児のように、温もりと安らぎを感じていた。

 全てが、もう、どうでもいいことだった。

 絵美。

 その瞬間、稲妻のように何かが閃いた。俺はかなり中心に近づいていたのだろう。それが零れ出たエリヤの思念であることはすぐに分かった。

 それは。

 ……ハハーッ、ハハハハハ、この馬鹿の力を取り込めば私の力は更に増す、もっともっと勢力範囲を広げてやる、私は救世主になるのだ、この糞汚らしい世界を救ってやるのだ、この愚かな者共、私がお前ら馬鹿共を導いてやる、全くこの世は馬鹿ばかりだ、私がいなければこいつらは何も出来ない、世界を私の色に染めてやる、皆、私を崇めろ、私がこの世で一番偉い、私は神だ、神なのだ、ざまあみろ、私の足を舐めろ、私は永遠に世界の王として君臨してやる、逆らう奴は洗脳するか、存在ごと消し去ってやる、キャーッハハーッ、私は偉い、私は偉大だ、私は神、私は私は私私私……

 俺の心に生じた感情の激流は、怒りだったのか、それとも絶望の方が強かったのか。

 俺の中で何かが弾けた。俺を包んでいた光が四散し、一瞬で現実の視界が戻った。

 あっけに取られた人々の顔が見えた。そして、バラバラになって飛び散っていくエリヤの肉片。即死したエリヤの生首は、勝利を確信した満足げな笑みを浮かべたままだった。

「うわあ、エ、エリヤ様っ」

「キャアアアアッ」

 広場に七万人のどよめきが上がった。俺は首を振って頭の中の靄を払い、愛用の凶器を拾い上げた。首刈り出刃。結局こいつから離れることは出来ないのだ。

「エリヤは偽善者だった。ここは理想都市ではなかった。真の幸福を願う者は、他を当たれ」

 俺は叫んだ。

 都市を覆っていた、結界のような空気の抵抗が消えていた。エリヤが死んで、その効力が失われたのだ。

 人々の顔に、自らの意志と感情が戻ってきた。

 悲しみと、絶望と、怒りと、殺意が。

「何故エリヤを殺したのだ。何故放っておいてくれなかった」

 頭の禿げ上がった男が怒鳴った。彼の口から長い牙がはみ出していた。俺を引き裂くための牙が。

「お前さえ来なければ、私達は永遠に幸福でいられたのよ」

 若い女の髪が見る間に数メートル伸び、メデューサのように蠢いた。俺を縛り上げるのに役立つだろう。

「疫病神め。お前は破壊者だ。わしらを元に戻せ。夢のような生活を返せ」

 老人の手には拳銃が握られていた。たった今、意志力で造り出したものだった。

 ステージで仁王立ちしたまま俺は応じた。

「ぬるま湯に浸り、死人のように時を過ごすことが幸福か。真の幸福とは、葛藤の末に掴み取るものではないのか」

 そう言いながらも、俺の胸を罪悪感が冒していった。

 エリヤが、真の救世主であったならば、俺は喜んで、この汚れた魂を捧げていただろうに。

「うるさいこの悪魔」

「八つ裂きにしてやる」

「死ね。俺達の幸福を奪った報いを受けろ」

 狂乱の群衆が、俺に向かって殺到した。

 

 

  十七

 

 朝陽が、昇ってくる。

 俺は血みどろのステージに腰を下ろし、ぼんやりとそれを眺めていた。

 広場は死体で埋まっていた。

 七万の住民の殆どが、ここで死んでいた。逃げた者はほんの僅かだ。皆、自ら死を求めるように、がむしゃらに突っ込んできたのだ。

 俺は、よろめきながらも、なんとか立ち上がった。俺の全身は血で濡れていた。人々の血と、自分の血。

 エリヤが死んだのに、今も世界は存在している。

 俺には分かっている。エリヤは世界の『核』ではなかった。あんな奴が『核』である筈がない。あんな奴が……。

 無人の廃墟と化した理想都市を、俺は出ていった。首刈り出刃だけを持って。

 ……エリヤ・トルサネスの心に傲慢さが潜んでいることは、テレパス達の間では周知の事実だった……

 日笠の思念が俺の頭に響いた。

 俺は日笠の入ったリュックサックを拾い、肩にかけた。

「何故俺を奴にけしかけた。俺が奴を殺すことを望んでいたのか」

 ……これは一つの賭けだった。確かにエリヤは偽善者だが、それでも人類の数少ない希望ではあった。だから我々はエリヤの批判を控えていた。今回、エリヤが君に勝てるようであれば、エリヤにも救世主としての資格があると考えたのだ……

「俺は奴の試金石だった訳だ。だが結果として残ったのは殺人鬼の方だ。お前はこれからどうするつもりだ」

 皮肉な笑みを俺は浮かべてみせた。彼には目がないが、その意図は伝わるだろう。

 ……君は、救世主となって世界を救ってみる気はないかね……

 日笠の問いかけに、俺は、暫くの間、返事が出来なかった。

「俺のことを知っているだろ。俺に出来るのは、殺戮を繰り返すことだけだ」

 ……知っているさ。君の意志の強さも、心の奥に封じ込めたその悲しみも、そして君の真の望みも。君は引き篭もりの葉山を殺さなかった。私が『貝』達のことを教えた時も、君は彼らを殺そうとは思わなかったじゃないか。君の真の望みは人類を滅ぼすことではないのだ。どうして君は、先頭に立って人々を導こうとしないのかね……

 テレパスの言葉は俺の胸を抉った。

 絵美の顔が一瞬浮かぶ。

「俺には、出来ない。俺にそんな権利はない」

 言えたのは、それだけだ。

 イラーハなら、何と言うだろうか。ふとそんなことを思った。

 だがイラーハは俺が殺した。

 

 

  十八

 

 この不毛の道程を歩んで、どれだけの月日が流れたのだろう。

 ……今日が二○一三年五月六日だから、約十一ヶ月になる……

 いつものように淡々と、背中の日笠は答える。

 俺達は旅を続け、殺戮し、都市を滅ぼし、『生命の壷』を破壊していった。無駄なことかも知れないが、俺に出来るのはそれだけだ。

 日笠はあれ以来、俺に意見することはない。彼はただ次の目的地と、『生命の壷』の位置を指示してくれる。だが日笠も各地のテレパスの協力を得ている筈だから、或いはまだ俺に期待しているのかも知れない。

 ……その角を右に曲がると草地がある筈だ。『生命の壷』はそこにある……

 血に飢えた殺人鬼達とおこぼれを狙うハイエナ達を殺しまくる狂騒の中で日笠が伝えた。俺は逃げ惑う奴らを放ってまずそこへ急ぐ。

 中央に据えられた『生命の壷』。それぞれ微妙にデザインが違うのは製作者の個性故か。百二十七個目になるそれは、赤を基調にして太陽のような黄色が踊っていた。俺がこれまで壊した中に、イラーハの造ったものはあったろうか。

 壷の傍らに、見覚えのある小柄な影があった。

「モスク」

 俺は懐かしさと嫌悪を込めてその名を呼んだ。

 十一ヶ月ぶりの再会だが、残酷な賢者の姿は少しも変わっていなかった。

「なかなか頑張っておるようじゃの、スローター」

 皺だらけの顔を歪め、モスクが笑った。一見、人の良さそうな笑顔。

「まだ赤子食いを続けていたのか」

 俺は首刈り出刃を握り直した。数十万人の血を吸ってきた血塗れの凶器。前よりも俺のスピードは増している。充分にモスクの動きを捕捉出来る筈だ。

 だが、モスクの黒い瞳もまた邪悪な迫力を帯びていた。奴もまた、無数の人間を食らってきたのだろう。

「まあ待つが良い。また一人生まれてくるわい。やり合うのはそれからにしよう」

 平然とモスクは言った。

 『生命の壷』がカタカタと揺れ出した。

 黒い水をまとわりつかせ、右腕が現れた。珍しく、成人に近い腕だった。モスクは俺が見ているのも構わず、その手を掴むと一気に口の中に入れた。

「モスクッ」

 俺は跳躍し、出刃をモスクに振り下ろそうとした。

 その瞬間、予想外のことが起こった。俺の刃が触れるより先に、モスクの後頭部が内側から爆発したのだ。両目が裏返り、手足を痙攣させながら、モスクは地面に倒れた。流石の奴も即死だったろう。煙を上げながら死体が黒く変色していく。

 残ったのは、水面から出た無傷の右腕だった。その人差し指の先端に、丸い穴が開いていた。弾丸が飛び出していったような穴が。

 壷から、続いて左腕が現れた。そして、緑色の瞳を持った青年の顔が。

 指先の穴を見た時点で、俺には分かっていた。

「よう、久しぶりだな」

 ケンが言った。

「戻ってくると思っていたよ」

 俺は答えた。それが、俺達の再会の挨拶だった。

 ケンは『生命の壷』から裸の全身を抜き出した。俺はリュックを下ろし、コートを脱いでケンに渡した。

「やってるみたいだな」

 俺の赤いコートを着ながら、ケンが言った。

「ああ。十一ヶ月で百個以上壊した。『核』の方はまだ見つかっていない」

 『核』という言葉は、俺に嫌なことを思い出させる。

「ならもっとペースを上げよう。一人より二人の方が、能率も上がるだろうさ」

 ケンは空中にサングラスを造り出し、緑の目を隠した。

 ……君の友人も、なかなか強い意志力を持っているな……

 日笠の思念が俺に囁いた。

「なあ」

 俺はケンに言った。

「何だ」

 尋ねてはならないことだったが、俺は尋ねてみる気になっていた。今を逃せば、きっと二度と機会はないだろうから。

「お前は、世界を救ってみる気はないか」

 もう絵美はいない。それでも、絵美の願ったように、世界を変えることが出来るならば。人は皆、生まれ変わる。かつて絵美と名乗っていた女性も、いつかは幸福な世界を享受することが出来るかも……。

 俺達が、ただ、そう望みさえすれば。

 ハ、ハハ。ケンは笑った。それは悲しい笑いだった。

「無理だな。俺達に出来るのは、殺すことだけだ。そうだろ」

 そうだな。その通りだ。自分の首刈り出刃を見ながら、俺は頷いた。俺はケンをよく知っているし、ケンも俺をよく知っている。

 ああ、もし、この世界に真の救世主がいたならば、俺達は血に塗れたこの魂を惜しげもなく捧げることだろう。

 それまで俺達は、果てしのない殺戮を続けるのだ。

 

 

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