一
風が吹いている。
隣に立つケンの髪が、生き物のように踊っている。
「見えるか」
ケンが俺に聞いた。サングラスの奥で緑色の瞳が光る。黒い服を着ているのは闇に紛れるためではなく、単なる彼の好みだ。
「当然だ」
俺は答えた。
切り立った崖の上から、俺達は巨大な都市を見下ろしていた。今は夜だが、撒き散らされた人工の闇は更に濃く街の姿を隠そうとしている。だが俺達の目にハイエナ共の小細工は通用しない。
都市はこれまで俺が見た中で最大の規模だった。直径は十キロ以上に及ぶだろうか、ここから全体が見渡せないほどだ。都市は分厚く高い壁で囲まれていた。外敵の進入を防ぐためか、或いはその逆か。
……この都市から誰も逃げ出さないように、四天王が造らせたものだ……
リュックの中の日笠が思念を送ってきた。彼はずっと俺の背中にいる。安全を考えれば肉弾戦の不要なケンに背負わせるべきだが、ケンは面倒がって結局このままだ。仕方がないのでリュックの側面と底に鉄板を入れ、中の大福餅の生存率向上に努めている。
……この『蠱毒都市』の人口は二十万とも百万とも言われている。世界最大の都市だが、最も忌むべき都市でもある……
俺の目にもそれは見えていた。狭い路地に溢れる人々の大部分は素っ裸だ。彼らは互いに蛇のように絡み合い、殺し合い、食らい合っている。無数の悲鳴と雄叫びがここまで聞こえてくる。逃げ惑う弱者にハイエナ共がたかり、よってたかって引き裂いていく。そのハイエナ共を強者が殺していく。その強者を別の強者が殺す。その死体をハイエナ共が持ち去る。延々と繰り返される殺戮の連鎖。阿鼻叫喚の地獄絵図が、この巨大な都市のあらゆる場所で繰り広げられている。俺には、この都市全体が醜く蠢動する生き物のように見えた。
……この都市には二百十四ヶ所に『生命の壷』が設置されている。外部から持ち込まれたものだ。一日に五、六万人が生まれるが、それでも追いつかないことはざらだ……
二百十四ヶ所。信じられない数だ。
「誰が何のために持ち込んだ」
ケンが日笠に尋ねた。日笠の思念は勿論ケンにも送られている。
……この都市は、殺戮を楽しむ者達が犠牲者の安定した供給を求めて建設したものなのだ……
日笠の思念には嫌悪があった。
「ふふん。まあ、そんなもんか」
ケンは口元を軽く歪め、皮肉な笑みを見せた。
俺達は、人間という生き物の残忍さを知っている。
……現在殺戮者達の頂点に立っているのは四天王と呼ばれる四人だ。二刀流の冷鬼、巨人カイズ、触手玉のヒューロー、植物人・日光。彼らはこれまでにそれぞれ十万人以上を殺戮した……
「よく調べたな」
俺は日笠に言った。
……君達の相手だからな。気をつけたまえ。彼らは手強いぞ……
「殺られるつもりはない。そんな糞みたいな奴らにな」
「ここでは意志力が全てだ」
俺の言葉にケンが補足した。
「じゃあ行くか」
俺達は一気に崖から跳んだ。八十度の絶壁を駆け降りていく。俺の右手には首刈り出刃がある。この血塗られた凶器は常に俺と共にあった。翻る俺の赤いコートは、元の色が分からなくなっていた。
厚さ一メートルはある鋼鉄の壁を、俺は肩から体当たりしてぶち抜いた。重い破片が吹っ飛んでいく。俺の作ったトンネルをすぐにケンが続く。
「うわああああおああああえああああおおおお」
苦痛と悦楽の悲鳴がまとめて俺の耳に雪崩れ込んでくる。入り組んだ暗い路地を埋め尽くす互いに絡み合い食らい合う血みどろの人間達の連なり。逃げようとする男の足に噛みついた男の背中を突き刺した女の喉笛に食らいつく男の眼球を抉り出す女の内臓を引きずり出す男の頭部を削る男。文化を知らず本能で生きる人間達の狂乱の渦。
「な、何だお前らは」
そのうち少しは知能がありそうな男が叫んだ。これまで外壁を破った者などいないのだろう。
「死神だ」
答えつつ俺は首刈り出刃を振った。一振りで五、六人の首が飛び腕が飛び足が飛ぶ。悲鳴が上がるがそれは都市全体を覆う悲鳴に紛れてしまう。
「うひゃあああああろああああああ」
近くにいた者の三分の一が逃げ、三分の一が逆に向かってきた。残りの三分の一は絡み合った状態から動けない。伸びた牙や爪で襲いかかる彼らを出刃が両断していき、俺は返り血を浴びる。生まれてまだ経験の浅い奴らが多いらしく、大部分の攻撃は原始的で単純だ。この都市では人間の入れ替わりが激しいのだから。中に時折鋭い攻撃が混じる。
……油断は禁物だ。彼らの中にも血みどろの戦いを生き残ってきた者はいる……
日笠が告げる。
「構わんさ」
他の者の体を盾にして長柄の槍を突き出してきた男がいた。俺は大きく踏み込んで穂先を避けつつ、盾になった男ごとそいつの体を輪切りにする。
「ケン、進むぞ」
俺は背後のケンへ声をかけ、首刈り出刃を閃かせながら路地を突き進んだ。肉片が飛び散り、怖じ気づいた者達が我先にと逃げ出していく。ねじくれた壁の表面は粘質な黒で、おそらくは人間の残骸が塗り固められたものだろう。
「まあ頑張りな」
そう言いながらケンが軽やかについてくる。俺の背中に目はついていないが、長い戦いの末、後方も近距離なら見えるようになっている。ケンの両手の指先から、機関銃に近い連射速度で小さな骨が飛び、蠢く住民達を殺戮していく。相手の多い時は弾丸を小さくして連射出来るように、ケンも上達した。それでも雑魚なら肉を破裂させる威力を持っている。ケンの口元にはあの皮肉な笑みが貼りついていた。
「うへあああああおえああああ」
ここには狂気がある。血と肉片と憎悪に光る目と鋭い牙と涎とねじくれた刃と触手と悲鳴と雄叫びと酸と爪と骨のカオス。濃い闇の中で踊り狂う歪んだ裸の住民達。
醜い。
大変革から十二年が経ち、人間は、世界は、ここまで醜くなってしまった。
絵美。
俺の愛した女性よ。もし君が今の世界を見たら、何を思うことだろう。
彼女と歩いた美しい街並みを思い出しながら、俺は首刈り出刃を振った。半径二メートル以内に近づいた者は瞬時に肉塊へと変わる。将来の夢を語り合っていた頃を思い出しながら、俺は首刈り出刃を振った。絡みついた血はすぐに引き剥がされ新しい血が付着する。彼女の髪の匂いを、悪戯っぽくそれでいて儚げな笑顔を思い出しながら、俺は首刈り出刃を振った。粘っこい緑色の返り血が左目に入った。やはり血でドロドロになったコートの袖で拭う。
絵美。君は花屋になりたいと語っていた。デザイナーになりたいと語ったこともあった。俺には将来の夢なんて特になかった。
ただ、ずっと君といられればいいと、思っていた。
醜い殺人鬼共よ、くたばれ。
この醜い世界よ、消え去れ。
俺は、ただ、機械のように、首刈り出刃を振り続けた。
背後では、ポポポキュンと小気味良いケンの指先の発射音が続いている。何処までも続く黒い街の風景と狂者の列。
……来るぞ……
日笠の鋭い警告が届いた。
少し広がってきた道の先から、手や足や生首といった人間の部品が舞い上がり、波となって押し寄せてきた。それぞれの肉塊の鋭利な断面に俺は気づいていた。即ち、何者かが人々を滅多斬りにしながらやってくるのだ。俺と同じように。舞い散る肉片の間を閃く二筋の銀光。
「何処から来た、お二人さん。極上の獲物に巡り会えて、俺は嬉しいぞ」
二十メートルほど離れた場所でその男は立ち止まった。擦り切れた着物を着た、骨と皮ばかりに痩せた男だった。その顔は殆ど髑髏と化し、眼窩の奥には冷酷な青い炎が燃えている。男の細長い両腕はそれぞれ長さの違う日本刀を握っていた。男の手は、刀の柄と融合しているように見えた。刀身を包む燐光は、その鋭さと威力を示している。
髑髏の男を認めると、狂乱の住民達は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。髑髏の男は俺達の方を向いたままその両腕だけが閃いて、近くを通り抜けようとする者達を寸断していく。
彼が冷鬼だろう。俺の思考を日笠が肯定する。
「何処から来たかなんてどうでもいいだろう。俺達はお前らを皆殺しに来たのさ」
「それは威勢のいいことだ。クヒャッヒャッ」
俺の返事がお気に召したらしく、冷鬼は不気味な声で笑った。
「どうだい、傷の兄さん、あんたのその分厚い刀と俺の日本刀で勝負をしてみないかい」
傷とは、俺の顔を縦に走る縫い目のことらしい。
「これは刀じゃない。出刃包丁だ」
首刈り出刃を上げて俺がそう答えると、冷鬼はまたクヒャヒャヒャと楽しげに笑った。
「じゃあ決まりだな。手を出すなよヒューロー」
俺達は既に気づいていた。壁の高い場所に張りついた、赤い毛玉。直径は二メートルほどか。蠢く触手はそれぞれ数センチの太さがあり、先端は不気味に尖っていた。触手に覆われ本体が見えない。
「ハ、ハヤイモノガチ、タロ」
ペチャペチャと嫌な音を立てる触手の奥、抑揚のない声音で赤い毛玉が言った。
俺達の周囲から、他の住民の姿は消えていた。皆逃げ出したのだ。残ったのは黒い堆積物に変わっていく無数の死体だけだ。
……全方向に注意を払いたまえ。奴らはもう四人揃っているぞ……
日笠の緊張した思念。
俺達は同時に動いた。ケンの両手が触手玉ヒューローへ向けられる。俺は冷鬼との距離を一気に詰めようと大きく踏み込んだ。と、すぐ目の前に髑髏の顔がある。冷鬼も俺と同じ速度で踏み込んでいたのだ、いや俺より速い。意志力を込めて振り下ろした首刈り出刃を、冷鬼はゆらりと上体を反らしつつ左手の短い刀で受け流し、右手の長い刀が俺の左腕を切り裂いた。滑るような冷鬼の動きだった。
「クヒャッヒャッ。遅い遅い」
再び距離を取り、冷鬼が笑った。
体温をじりじりと奪い去っていくような、左前腕の冷たい痛み。傷は骨まで達していた。
後方ではケンの間の抜けた発射音が聞こえている。だが弾丸はヒューローの体を素通りして壁に穴を開けるだけだ。ケンは指の骨一個を使った最大出力の弾丸を発射しているが、まるで手応えがないのはどういうことだろう。ヒューローはワサワサと触手を蠢かせて壁を下りてくる。ケンの弾丸を凌ぎつつ、途中から一気に加速。意外に素早い動きだ。
……ヒューローの本体は直径五センチほどしかないのだ……
日笠が説明する。ヒューローの不気味な接近に合わせ、ケンが後退する。相手を見据えたまま後ろ向きに走る。
「ケン、代わろうか」
「うるせえ。お前は骸骨を片づけろ」
ケンが獰猛な笑みを見せる。冷鬼が再び俺に迫る。
……下から来るぞ。避けろ……
冷鬼に注意を集中していたため、日笠の警告がなければ気づかなかっただろう。地面の微かな震動と枯れた殺意。足元に近づく気配へ向けて俺は地面深く首刈り出刃を突き刺した。
「グッ」
地中から呻き声が洩れ気配が逃げていく。流石に、簡単にくたばるような奴らではない。
……馬鹿なっ、冷鬼がいるのだぞ……
日笠の思念は悲鳴に近かった。冷鬼は既に間合いに入っていた。地面から出刃を引き抜く前に冷鬼の右の刀が俺の左肩へ振り下ろされた。笑う冷鬼。冷たい刃は鎖骨と肋骨数本を切断し、そして止まった。眼窩の奥で青い炎が驚愕に揺れる。俺の筋肉は冷鬼の刀をがっしりと絡め取り固定した。深い痛みに俺は歯を食い縛って耐える。奴の刀は腕と融合している。奴の動きを止めるにはこれが一番手っ取り早かったのだ。俺は右手で首刈り出刃を振った。
「ウヒョッ」
冷鬼の判断は見事だった。左の刀で俺の首を切断するのが間に合わないと悟り、奴はその刀で逆に自分の右腕を切り落とした。上体を反らしつつ飛びのく冷鬼の左足首を出刃が切断する。
「グヒュウ……やるな」
片足で立ち冷鬼が言った。右腕と左足の切り口からはどす黒い体液が滴っている。俺は肩に食い込んだ奴の刀を腕ごと引き抜いた。出血を筋肉の力で押さえ込む。
僅かに後方へ注意を移すと、ケンと触手玉ヒューローの鬼ごっこが続いていた。ケンの顔や肩に細長い針が突き立っているのは、ヒューローの飛び道具らしい。ケンは指先から発射する弾丸を連射用の小さなものに切り替えていた。一発でも本体に命中すれば勝負はつくだろうが、ヒューローは触手塊の内部で本体の位置を巧みに移して避けているようだ。迫るヒューローと距離を保つためにケンは後ろ向きに壁を駆け上った。粘質な黒い壁に足の裏をつけ、地面と平行に立つケンの運動センスは大したものだ。
……壁の向こうだ……
日笠の警告が俺にも流れてくる。ケンが壁を跳躍するとほぼ同時にその壁が爆発した。空気を押し潰しながら通り過ぎたのは巨大な人間の拳だった。握った形で一メートルはある。もし命中していればケンの体はバラバラになっていただろう。灰色の巨人が壁をぶち破って現れた。身長は五メートルほどで拳に比べると小さい方だ。巨人の腕は太く長く、直立していても手が地面につきそうだった。その異常な両腕が巨人の武器という訳だ。腰布を巻いただけの姿で、筋肉ではち切れそうな体を露出させていた。無感動な灰色の瞳が俺達を見下ろす。ケンが左手を向け数十発の弾丸を発射する。巨人は顔の前に手を翳して受ける。掌に豆粒のような傷が出来るだけで殆どダメージを与えられない。
……彼がカイズだ……
「相手の名前などどうでもいい。どうせすぐに死ぬ奴らだ」
俺は言った。そう、殺す。こんな奴ら、ぶち殺してやる。
冷鬼の傍らで地面が盛り上がった。地中から這い出してきたのは黒いコートを着た男だった。土塗れのコートから出た顔と両手はごつごつした茶色だ。よく見るとそれは枝や蔓のような束で構成されている。
「今回は協力しよう。奴は強敵だ」
植物人・日光が枯れた声で冷鬼に囁いた。腕のない冷鬼の右側にさり気なく立とうとして、同時に冷鬼が微妙に体の向きを変えそれを防ぐ。こいつらは互いを信用していないのだ。
「仕方ないな。クヒャーッ」
冷鬼が笑った。ちぎれた左足首を平気で地面に突きながら冷鬼が駆けてきた。既に以前ほどのスピードはない。そのすぐ後ろをピタリと日光がついてくる。左肩を破壊され俺の左腕には殆ど力が入らない。俺は右腕で首刈り出刃を横殴りに振った。重い出刃は左の刀で器用に上へ逸らされ、身を沈めた冷鬼の頭上すれすれを掠めていく。バランスを失って倒れる冷鬼の後ろから日光が跳躍した。袖口から茶色の両手がスルスルと伸びる。逆に俺は日光へ向かって跳んだ。
「むおっ」
日光の驚愕。尖った枝先を躱し、振りかぶった首刈り出刃を日光の脳天目掛け振り下ろす。日光の窪んだ両目から茶色の蔓が延びて出刃へ絡み、頭を割る筈の刃は日光の右肩から先を切り落としていた。枯れ木を割るような感触だ。落ちていく日光の口から小さな何かが飛ぶ。俺は首刈り出刃を翳してそれを撥ね返した。
……気をつけろ、日光の種子だ。食らえば体内で増殖するぞ……
日笠が告げる。
着地先では冷鬼が待ち構えていた。丁度俺の背中を突ける位置だ。リュックの鉄板などこいつには無意味だろう。俺は身をひねって日笠を庇いながら首刈り出刃を振った。出刃の切っ先が冷鬼の顔面を掠り、奴の刀は俺の左脇腹を切り裂いた。俺は怯まなかった。片足で下がる冷鬼へ渾身の一撃を加えようと大きく踏み込む。と、左足を何かに掴まれて俺は体勢を崩した。それは長く伸びた日光の左腕だった。
「クヒャ」
その隙を衝いて逆に冷鬼が踏み込んでくる。最大のチャンスを生かすべく左の刀が俺の首へ。首刈り出刃が間に合わない。俺は首の筋肉に力を集中させた。首を完全に切断されるのと、俺の首刈り出刃が奴をぶった斬るのとどちらが早いか。
冷たい刃が俺の首に触れる寸前、冷鬼の体がビクリと震えた。何が起こったのか分からぬまま、俺の首刈り出刃は冷鬼の左脇腹から右肩までを斬り抜けていた。
「グヒャッ」
胴体の断面から黒い血を撒き散らして冷鬼が吹っ飛んだ。宙を踊るその背の肉が破裂していた。ケンの弾丸による傷だ。礼を言う暇もなく日光へと振り向いた俺の右胸に緑色の礫が突き刺さった。
……いかん……
左足を掴む茶色の腕を切り落とし、俺は日光へと迫った。日光は殆ど動かなかった。首刈り出刃が日光の頭頂から股間までを唐竹割りにした。乾いた音を立てて日光は分解した。異様に軽い手応えだった。
……それは抜け殻に過ぎない……
俺には日笠の言葉の意味が理解出来なかった。
「ケン」
巨人の拳を避けて弾を撃ち続ける相棒に加勢するため、俺は駆け寄ろうとした。ケンの前面には無数の針が突き立っている。心なしかケンの動きが鈍っているのは、その針に毒性の成分が含まれているのだろうか。だが突然強くなった右胸の痛みに俺は跪いた。体の内側を何かが広がっていくような不気味な感触。首の付け根のすぐ右から肉を突き破って現れたのは、瑞々しい緑色をした双葉だった。
「グッ……日光か……」
俺は呻いた。見ているうちにそれは何本もの蔓となり枝となり、人間の顔が形作られていく。若い緑色に変わってはいるがそれは日光の顔だった。
「くかか」
日光はさも可笑しそうに笑った。俺の体を引き裂いて奴の体が成長していく。いや、俺の体を食らって、と言うべきか。陽の差さないこの闇の都市で、奴は寄生植物として生きてきたのだ。俺の腹が裂けて白い根が這い出した。右肩の肉を食い破り緑の蔓が生えてくる。それは足となり手となるのだろう。俺の胸の中で蔓が心臓を掴む。
その時俺の取った行動は、背中の日笠をも驚かせた。
俺は首を精一杯曲げて口を開け、日光の顔に噛みついたのだ。
「うがっ」
日光が悲鳴を洩らす。俺は噛みついたまま激しく首を振った。俺の肩を裂いて日光の体が少し引き出される。
「あぎいいい、やめろ、この野蛮人めが」
もがくその首を、俺は渾身の力で噛み裂いた。バジュッ、と濃い体液が噴き出した。元は俺の血だったものだ。急速に日光の顔が色と潤いを失っていく。右肩を貫いていた蔓がしぼみ、俺は右腕を上げて日光の頭を掴んだ。
「や、やめ……」
俺は自分の体から、日光の体を一気に引き抜いた。既に力を失いつつあった奴の体は、俺の内臓を傷めることなくすんなりと引き出された。
振り下ろした首刈り出刃は、地面に這いつくばる出来損ないの日光を両断した。今度こそ相手の精神を断ち切る手応えがあった。
……いつもながら君の底力には驚嘆させられる……
日笠の思念には答えず俺はケンを振り返った。ケンはよろめきながらこちらへ後退してくる。地面に平たくなってぶち撒けられた赤い触手の束があった。その中に、紫色の液を洩らした潰れた果実のようなものがある。おそらくそれがヒューローの本体だったのだろう。ケンを追う巨人カイズは右膝から下がグズグズに崩れ、右腕を杖代わりにして歩いていた。灰色の肌だが血は赤い。
……彼は全ての肋骨を細かく分解し、胸から散弾として一気に発射したのだ。ヒューローを充分に引きつけてね。逃げ回っていたのは散弾を練り上げるまでの時間を稼ぐためだった……
自分の戦いに忙しかった俺に、日笠が解説した。
……それからカイズを短時間で仕留めることが困難だと判断した彼は、逃げている間カイズの右足だけを狙っていた。君もやったように、敵の足を封じることは極めて有効な手段だ……
だがケンの体は無数の針に覆われていた。肌の色が青黒く変わり、息をするのもやっとのようだった。血みどろの体に鞭打って駆け寄る俺を、しかしケンは制した。
「必要ない。見てろ」
ケンの両手首が、カクンと下に折れ曲がった。そこから発射されたのは二本の白いミサイルだった。前腕の骨を一本ずつ使って練り上げたものだろう。それぞれ顔面と腹部を狙っていた。意外に素早い反応でカイズは両手を上げ、ミサイルを防ごうとした。顔面へ向かった一本は巨人の右手に当たった。腹部に向かった一本を、巨人は防ぎ切れなかった。血と肉の爆発。カイズの右拳が跡形もなく消し飛び、破裂した腹部は筋肉と内臓が全て飛び出して背骨だけが見えていた。
「ウゴオオオオオッ」
カイズが吠えた。
ゴキッ、と、その背骨が折れた。ちぎれた上半身がゆっくりと倒れ、地面を揺らせた。
「まあ、こんなもんだ」
青い顔を俺に向け、ケンが言った。
次の瞬間、巨人の上半身が跳ねた。油断したケンへ左拳を伸ばすその灰色の顔が、初めて鬼の形相を見せていた。
「伏せろっ」
叫びながら俺も跳躍した。拳を失った巨大な右腕が俺に迫る。俺はその腕を踏み台にして更に跳んだ。灰色の顔の前へ。両手で握った首刈り出刃を横殴りに振った。重い刃は巨人の喉に食い込んだ。半ばほどまで。両肩の砕けそうな痛みを無視して、俺は尚も力を込めた。カイズの体は出刃に押され、黒い壁に叩きつけられた。ブヂブヂと肉と骨を裂いて進む手応えがあり、カイズの首が胴体から離れた。切断面から血を噴き出しながら胴体が落ちる。
「ふうう」
伏せていたケンが息をついた。
「大丈夫か」
「ああ。肋骨と腕の骨の再生には時間がかかるがな。この手の奴らは完全に息の根を止めるまで安心出来ないってことが、よく分かったぜ」
ケンは体に刺さった無数の針を抜きながら答えた。彼の上着は散弾が通ったせいで穴だらけになっている。
俺は四天王の死体を見回した。左腕と首だけになって転がる冷鬼の眼窩には、青い炎がまだ弱々しく揺らめいていた。
ポキュン。
ケンの人差し指から発射された弾丸が冷鬼の頭部を吹き飛ばした。黒い血と脳の破片が飛び散る。
「これで憂いはなしだ」
ケンは言った。
「後はこの都市の『生命の壷』を残さず潰せばいい」
「まだその前にやることがありそうだ」
とっくにケンも気づいていただろう。
俺達は、蠱毒都市の住人に囲まれていた。多くが殺戮に慣れた熟練者らしく、その異形の姿や持つ武器には強者の威圧感があった。この都市の強者は四天王だけではない。
……彼らは遠くから戦いの結果を窺っていた。四天王を倒して手傷を負った君達を、血に飢えた彼らが見逃す筈がない……
「そいつは良かった」
冷笑するケンに、俺が付け足した。
「ああ。俺もこいつらを見逃す気はない」
再び、血みどろの戦いが始まった。
殺戮は二日間続いた。
二
意志力とは何であろうか。俺は時々、その曖昧な定義について考えることがある。
意志力とは人間の能力の一つであり、体力や知力と同じように、生まれつき個々にその限界が設定されたものなのだろうか。
つまり、俺達が強いのは、俺達がそれだけ頑張っているからなのではなく、結局のところ俺達が元々、それだけの資質を与えられていたということなのだろうか。
すると、大変革といえど、条件が少し変わっただけで、人間の不平等自体は変わらないということになる。
だが、俺は、意志力をそんなものだとは思わない。
俺は、意志力とは、どれだけの苦痛に耐える覚悟があるのか、ということだと思うのだ。
苦痛の感じ方が同じだとすれば、生き残った俺と、死んだ相手とは、何処に違いがあったのか。
それは、何のために苦痛に耐えているか、ということによるのではないだろうか。
自分の快楽のために戦う場合と、何か別の大切なことのために戦う場合では、覚悟の決め方も違ってくるのではないだろうか。
俺は、意志力とは、そういうものだと思っている。
しかし、そうなると、俺は、何のために戦っているのか、ということになる。
それは……
三
二○一四年二月八日。
炎天下、砂漠の只中に俺達はいた。容赦なく照りつける陽光にも慣れてしまい、汗も出ない。
「休憩しよう。朝から八時間以上走り詰めだ」
俺達は砂の上に腰を下ろした。日笠の入ったリュックを外して脇に置く。まだ左肩が痛む。冷鬼に斬られた二週間前の傷。
「今日はお前の番だろ、雄治」
焼けるような砂の上に寝転がってケンが言った。
「そうだな。コーヒーでいいか」
「冷たいのを頼む」
俺は宙に白い陶器のコーヒーカップを造り出した。少し大きめのものを、三つ。空のカップを両手に持って見つめているうちに、中に黒い液体が満たされていく。無から有を造り出すのは、思い通りのイメージを維持するだけの集中力があれば難しいことではない。空中から生み出した氷を二個ずつ加え、カップの一つをケンに手渡した。リュックを開けて大福餅のような日笠を取り出し、その前にもカップを置く。
……ありがとう……
白い大福餅の一部が触手となって伸び、カップの中に先を浸す。
三人での旅が始まってよりいつしか、俺達はちょっとしたティータイムを設けるようになっていた。コーヒーや紅茶やサイダーに、時折パンやクッキーなど簡単な食物をつける。食べ物の姿と味の記憶を頼りに造り上げるので、本来のものとは異なっている。以前アルコールを造ってみたが、とても飲めたものではなかった。完全な自閉を保っていた日笠も、最近は味わうだけなら参加出来るようになった。
荒涼たる世界に生きる俺達の、安らぎの一時。ふと俺は思うことがある。俺は、この殺戮の日々を楽しんでいるのではないか。だとすると、それは何のせいだろう。ケンは親友だ。日笠と知り合ってから、もう一年半になる。彼の思念は不快ではない。
そう。俺達は、この世界に、生きている。
「相変わらず、お前のコーヒーはまずいな」
ケンが軽口を叩く。
「俺に繊細な味覚を期待するなよ」
そう返しながら俺は、この時間が永遠に続けばいいなどと、つまらないことを考えていたりする。
ああ。絵美が去ってから、もう九年が過ぎようとしているのだ。
「しかしこの砂漠は広いな。誰がやったのか知らんが、徹底的に破壊し尽くしたもんだ」
カップを揺らせて氷を掻き混ぜながらケンが言った。
……それはそうだ。元々ここは本物の砂漠だ。今私達はチベットの北方、タクラマカン砂漠にいる……
「随分と妙なルートを通っているな。俺達の走破した地域は、地球全体の何割くらいになるんだ」
俺は聞いた。
……正確には私にも説明出来ないが、大体十パーセント程度だろう……
「世界は広いな……」
寝転がったまま、ケンが呟いた。
「ところで。近づいてくるぞ」
俺は念のため言った。ケンも日笠もとっくに気づいている筈だ。
……相手に殺意はない……
「ならどんな奴か、見てみるのもいいか」
ケンがコーヒーの残りを飲み干し、氷を噛み砕く。
俺は後方へ目をやった。俺達の通ってきた道筋を辿るようにして、一人の男が歩いてくる。白い布を頭にかぶった姿からすると、アラブ系だろうか。変革以後は人種など殆ど意味を持たなくなったが。男は荷物を何も持っていなかった。俺達の視線に気づいたようだが、特に歩く速度を上げようともしない。ゆったりとした動きからは意外なほどに、歩行は速かった。
俺は日笠が飲み終わるのを待ち、彼をリュックに収めて背負った。俺とケンはどんな状況にも対処する自信があるが、日笠はそうはいかない。
「やあ、こんにちは」
俺達のすぐ側でやっと立ち止まり、朗らかな笑顔を見せて男は言った。
「おやおやコーヒーブレイクでしたか。私ももう少し早く追いつけばご相伴にあずかれたのに」
屈託なく話す男の浅黒い顔は、彫りが深くハンサムと呼べる類のものだ。男の茶色の瞳が帯びる強い意志の光は、これまで俺が出会ってきた魔人達のある種屈折した昏い光ではなく、真っ直ぐで迷いのない光だった。
この男の瞳の感じは、誰かに似ている。
「あんた誰だ」
ぶっきらぼうにケンが尋ねた。
「私はミクレル。『再生会』の一人です」
そうか。ターバンを巻いた壷造り、イラーハの澄んだ瞳が俺の脳裏に甦る。
ただ、イラーハと違うのは、目の前の男が、飄々としていながらもその裏に、刃物のような鋭さを感じさせることだった。
「イラーハが世話になりましたね、スローター。彼はテレパス能力を持たなかったため、危険を避けることが出来ませんでした」
俺を見てミクレルは微笑した。
「壷造りが俺達に何の用だ。わざわざ殺されに来たのかい」
ケンが気楽に問いかける間、俺はイラーハを斬った時の嫌な感触を思い出していた。
「私は壷は造りません。私の役割は組織の中でも特殊でしてね」
ミクレルの纏っていた白い衣の、右袖の部分が包帯のように解けた。軽く腕を振ると、細長い帯は鞭のしなやかさと刃の鋭さで空気を切り裂いた。ピュン、と、美しい音が鳴る。
おそらく、その軽い一薙ぎで、人間の首くらい簡単に落とせるのだろう。
すぐに帯は袖に戻った。
「会が持つ唯一の武力が私という訳で。『再生会』は『生命の壷』を設置して社会の推移を見守るだけで、原則として社会的・政治的介入は行いません。私が派遣されるのはよほど重大な事態が発生した時のみですな」
「なかなかやるようだが、何人くらい殺してきた」
ケンの問いにもミクレルはやはり微笑で答えた。
「それはご想像にお任せしますよ」
「俺達を始末するために来たのか」
俺は聞いた。
「違いますね。状況を説明する前に、まずはあなた方に礼を言っておきましょう。『蠱毒都市』における『生命の壷』の悪用は、会の内部でも議論の対象になっていました。危うくあんな場所に一人で押しやられるところでしたよ。あなた方が片づけてくれて良かった良かった」
ミクレルの喋りにはおよそ緊張感というものがない。それがこの男の持ち味かも知れないが、どうもこちらまで気が抜けてしまう。
「さて、お二人は『ネクロティア』のことはお聞きですかな。同行の日笠は『希望』派のテレパスですし、その存在くらいは聞いていると思いますが」
ミクレルは俺の背負うリュックを見た。
「『ネクロティア』とは何のことだ。それに日笠が何だって」
「ほう、お聞きでない」
ミクレルはちょっと驚いたように片方の眉を上げてみせた。その後で、考え込むような顔になる。いや、何かに耳を傾けているのか。
数秒の沈黙の後、ミクレルは言った。
「いや、失礼。私も一応テレパスとしての力は持ってましてね。日笠はもう少し待っていたかったようですが、実際のところもう時間がない。『ネクロティア』の成長は著しく、破滅はもう目前に迫っています」
「破滅だと」
「そうです。世界の破滅です。いや、消滅と言った方が適切かも知れませんね」
ミクレルは平然としていたが、その瞳は真剣だった。
俺には意外だった。確かに俺達は世界の破滅を目指してきた。だが、今の状況で『再生会』のこの男から聞くべき言葉ではない筈だ。
「俺達は大勢の人間を殺したし、『生命の壷』を叩き壊してきたが、まだ人類を滅亡させるところには届いていない。何故世界が消滅するんだ」
「『核』です」
ミクレルは答えた。
「『ネクロティア』は、世界の『核』を破壊しようとしているのですよ」
「へえ、あれをやってる奴らがいたんだな」
ケンが感慨深げに呟いた。俺は一年半前のケンとの会話を思い出した。そして俺が一時はエリヤ・トルサネスを『核』と信じたことを。あの糞詐欺師。今振り返っても自分の思い込みが恥ずかしくなる。
ミクレルは説明を続けた。
「『ネクロティア』は世界を滅ぼすために結成された組織です。あなた方も目的は同じようですが、その方法は人類の絶滅にありますよね。一方、『ネクロティア』の指導者ゲヘナ・オルセンは、『核』の破壊を選択したのです」
「ゲヘナ・オルセンか。昔その名を無線で聞いたことがある。『核』の理論の提唱者だったと思うけどな」
ケンの言葉にミクレルは頷いた。
「その通りです。彼は自身の理論を実践することにしました。『ネクロティア』が活動を開始したのは約一年半前、丁度スローター、あなたが出発したのとほぼ同じ時期になりますね」
ミクレルは意味ありげな眼差しを俺に向けた。
「……。よく知っているな」
「当然でしょう。あなた方の行動はテレパスネットワークに把握されていますからね。ところで現在テレパスも大まかに二つの勢力に分かれています。この荒廃した世界に再び平和と秩序と求め、光を見出そうとする『希望』派と、逆にこんな世界は消し去った方が良いとする『絶望』派。現実の世界とは異なる次元で情報戦を繰り広げています」
思念の世界に逃げ込んだ者達も、それなりに戦っているという訳だ。
「日笠は『希望』派の中でも特異な立場にいますね。あなた方に協力することはネットワーク内でもかなりの反発があったようですが、日笠はなんとか説き伏せました。そう、本来ならば、あなた方に協力するのは『絶望』派の筈ではありませんかねえ」
ミクレルが得々と喋っている間、日笠は俺の背中で沈黙を守っていた。この一年半、彼の居場所は常にそこだったのだ。
「いやいやその辺のことは別にして。ゲヘナ率いる『ネクロティア』は『絶望』派のテレパス達の協力を得て勢力を拡大しています。ゲヘナは試行錯誤の末、『核』を探し出すことよりも『核』を祭り上げることを計画しました。そして今、実際に彼らがやっていることは無差別な殺戮と『生命の壷』の破壊です」
「それじゃあ俺達と同じじゃねえか」
ケンが冷笑した。
そもそも、ミクレルはどういう意図があって、俺達にわざわざこんな話をしているのだろう。
俺の疑念に気づいているのかいないのか、ミクレルは続ける。
「ただ彼らの場合、人類を絶滅までさせる必要はないのですよ。彼らが地球の人口を減らしているのは、それによって自分達の相対的な決定力を高めようとしているのです」
「どういうことだ」
「大変革以降、人間の意志の、世界に対する影響力が大幅に強まりました。現在世界の趨勢は、人類が全体で支えていると言っても良いでしょう」
「世界の運命を人類の多数決で決められるということか」
ケンの言葉に、ミクレルが得たりとばかりに頷いた。
「なかなか鋭いですなスナイパー。正確には人数ではなく、それぞれの意志力の総計になるのですけどね。現在世界の意志力総量を十とすると、『ネクロティア』を含めた『絶望』側が三、『再生会』を含めた『希望』側が一、自分の快楽しか考えない殺人鬼とハイエナ達が四、自分の世界に閉じ篭もった『貝』達が一といったところでしょうか。識者の考えでは、現在のバランスが少しでも傾けば充分に、『ネクロティア』が世界を消滅させる可能性はあるということです」
ケンがギョッとして身を起こした。
「ちょっと待てよ。その『ネクロティア』とやらの構成人数はどれくらいなんだ」
「推定では千五百人ほどです。現在地球の全人口が六百万弱と考えられていますから、千五百人で総意志力の三割を占める『ネクロティア』は大した組織ですね」
そう話すミクレルは、何処か浮き浮きしているような表情になっていた。強さに対して魅力を感じるのは、やはり彼が俺達の同類ということだろう。
「あなた方はこの一年半で約百二十万人を殺戮しました。ですが『ネクロティア』はその間に、世界中で五百万人以上を虐殺したのですよ」
それは不思議な感覚だった。これまで俺は日笠の最低限のナビの下、闇の中を手探りで歩いてきたような気がする。だが今、曖昧だった世界が急に明確な全体像となって現れたのだ。
この世界に、まだ希望を抱いている者達がいる。
また同時に、俺達と同じように世界を滅ぼそうとする者達がいる。
俺は。
俺は……。
その後にどんな言葉が続くべきなのか、俺は考えないようにした。
代わりに俺はミクレルに尋ねた。
「結局のところ、俺達に何をして欲しいんだ」
「さあて」
ミクレルは肩を竦めてみせた。
「まずは『ネクロティア』をその目で見て、首領のゲヘナ・オルセンに会って頂きたい。後はあなた方次第です」
「……。何故俺達を『ネクロティア』に引き合わせる。『再生会』は『希望』側だろう。俺達の目的と『ネクロティア』の目的は一致するんじゃないか」
希望を……。イラーハの最期の言葉。
「実のところ、『希望』派と『再生会』が何を期待しているのか、私にもよく分かりません。私は会の決定に従うだけですから。まあ、このまま指を咥えていても『ネクロティア』が決定権を手に入れて世界は滅びますから、破れかぶれの選択なのかも知れませんね。ただ、私は楽しみでもあるんですよ。久しぶりに面白いことに出会えそうだ」
フフ、フ、と、ミクレルは笑った。
この男にとって、世界の未来と自分の楽しみと、どちらが重要なのだろう。
「一つ聞いていいか」
俺は既に、ミクレルの誘いを受けて『ネクロティア』を見てみるつもりになっていた。
「何でしょう」
「さっき、世界の意志力の割合を言ったな。でも三、一、四、一で合計は九。後の一つは何だ」
「それはお察しの通り」
涼しげな微笑を浮かべてミクレルは答えた。
「あなた方二人ですよ」
四
「進路を変更します」
ミクレルが言った。高速で走る俺達を軽々と先導する彼は、まだ余力がありそうだ。何もない砂漠に、俺達の巻き上げた砂塵が筋を残していく。
あれから三日が過ぎた。結局俺達はミクレルの口車に乗ることにして、『ネクロティア』を追っている。
「またか。これで何度目だ」
俺の隣でケンがぼやく。
……『絶望』派のテレパスが偽の情報を撒き散らして、私達を撹乱しようとしている。彼らも君達を『ネクロティア』に会わせたくないらしい。目標が間近に迫った今、僅かでも不確定要素となるものは除外したいのだろう……
日笠は相変わらず淡々と思念を送ってくる。ずっと俺達に隠していた事柄についての、彼からのコメントはない。日笠は今、俺の背中で何を思うのだろうか。
「ここから百キロほどの地点にハルサという都市があります。人口は三万人弱です。どうやら『ネクロティア』の一団はそこへ向かっているようですね」
……幾つかの都市を回った後、私達もそこを訪れる予定だった……
「ところで、『核』を造るというのは、一体奴らはどうやるつもりなんだ」
走りながら俺は聞いてみた。
「さて、どうでしょうか。ただ、『核』の姿は、彼ら自身が納得出来るようなものになるでしょう。巨大で単純で荘厳な、これこそ世界の『核』だと、彼らが心底から信じられるものにね。この世界では信じることが全てです。彼らが今も殺戮を繰り返すのは、そのことにまだ不安があるためかも知れません」
ミクレルは俺達を振り返った。後ろ向きのまま同じ速度で走る。
彼の口元には、何処か面白がっているような笑みが浮かんでいた。
「そういえば、ずっと知りたかったことがあるんですよ。血みどろの殺戮者・樫村雄治と、黒衣の全身銃器・三島健一郎。どちらもこの世界では有名な強者ですが、この二人が戦えば、勝つのは一体どちらなんでしょうね」
思いも寄らぬミクレルの質問だった。
「ハハ、ハハハ」
天を仰いでケンが笑った。勿論猛スピードで走りながら。
「一年半前にやり合った時、負けたのは俺だったが。さあ、今だったらどうかな。あの頃とは違う結果になるかもな」
「距離かな」
考えた末、俺は言った。
「ケンの一斉射撃を避ける自信は俺にはないが、十発くらいまでなら当たっても耐えられると思う。ケンが両手の弾を撃った後で第二弾を装填する前に、出刃の届く間合いまで接近出来るかどうかが分かれ目だろう」
「そんなに単純なもんでもないだろうがな。で、お前は何メートル以内なら勝てると思うんだ」
ケンのサングラスが俺の方を向いた。
「そうだな。十五メートルくらいが限度かな」
「雄治、そりゃ俺が撃ちながら下がることを計算に入れてないだろ」
「なら十メートルくらいか」
「ふふん。まあそういうことにしとこうか」
ケンは笑った。
そんな俺達のやり取りを、ミクレルは楽しげに見ていた。
「ミクレル、そんな悠長に構えていていいのかい。用が済めば俺達に始末されるとは思わないのか」
ケンが唇を皮肉に歪めて言った。
「いつでも覚悟はしています」
ミクレルは微笑した。
「でも私もそう簡単にやられるつもりはありませんからね。こう見えても逃げるのは得意なんですよ」
本気とも冗談ともつかない台詞だった。ミクレルは正面へと向き直った。
「おっ、ありゃ何だ」
ケンが右方を指差した。俺達の中でおそらく最も精細な視力を持つのはサングラスの彼だ。俺は地平線の彼方へ目を凝らした。
その行列の影は、砂漠を進む隊商のように見えた。大きな荷物を載せているのは駱駝だろうか。丁度この辺りはシルクロードに当たるのかも知れない。人々の多くは徒歩だ。どんな姿をしているかまでは、俺の目では捉えられなかった。
「ほう、流石はスナイパー、良い目をしていますね」
感心したように頷きながらもミクレルはスピードを落とさない。
「彼らのことを私達は『ワンダリング・オアシス』と呼んでいます」
ワンダリング・オアシス。彷徨うオアシスということか。
「よくまあ次々と、新しい名前が出てくるもんだな」
ケンが冷笑した。
「彼らは可能性の一つです。『希望』派は『ワンダリング・オアシス』に不必要な干渉を加えないように気をつけながら、慎重に見守っています」
「どういう集団なんだ」
俺は聞いた。
「それは直接会ってみるのが早いでしょうね。なかなか面白い集団です。しかし寄り道をしていたら『ネクロティア』を見失ってしまいますよ」
……『ネクロティア』よりも先に、『ワンダリング・オアシス』を君達に見せたかった。君達をこの地域まで導いたのもそのためだ。丁度君達の進路と『ネクロティア』、『ワンダリング・オアシス』が交錯する時期に来ていた。しかし私にも不安があった。ぎりぎりまで決定を先延ばしにしていたかったのだ……
日笠の思念は何処となく、言い訳がましかった。彼は何を期待し、何を心配していたのだろう。俺達の目的は最初から決まっているではないか。
ケンが言った。
「まあいいさ。まずは『ネクロティア』だ。世界が滅べば俺達の目的も叶う」
そう。世界を滅ぼすこと。それだけだ。
俺はもう一度、砂漠を歩く人々の列を眺めた。朧な影としてしか認められない彼らの姿は、聖地に向かうストイックな巡礼者のようにも見えた。