五

 

 夜が近づいている。

 二キロほど先、緩い起伏のある荒地にハルサの都市が見えていた。人工の闇に包まれたそれは、これまで嫌というほど見てきた獣の街と何の違いもない。歪んだ建物の隙間から絞り出される誰かの悲鳴が、俺の耳に届いていた。

「良かった、間に合いましたね。これで彼らの戦いぶりを観察することが出来る」

 ミクレルが嬉しそうに言った。

 俺達は小高い丘の上に立った。ここから都市の様子が見て取れる。

「もう少し近づいた方がいいか」

 ケンが聞く。

 ……いや、『ネクロティア』はすぐそこまで来ている……

 日笠が答えてから彼らが現れるまで五秒もかからなかった。ハルサを挟んで俺達と向かいの丘に。これまで陰になって見えなかっただけの話だ。

 彼らは千人以上いた。おそらく『ネクロティア』の大部分が揃っているのだろう。或いは全員かも。剣や槍や銃を持った彼らは皆、異形ではない人間の姿を保っていた。彼らの多くは黒衣だった。黒いスーツ、黒いローブ、黒い僧衣、黒いシャツ。葬列者のような彼らの行進による地響きが俺達にも伝わってきた。

「凄えなこりゃ」

 ケンが感心して呟いた。

 彼らは雪崩だった。思い思いの武器を握る彼らは見事に統制が取れていた。彼らは雄叫びも上げず歯も剥かず、黙々とハルサの闇へ突入した。閉じた世界で強さを誇り虐殺に興じていた強者達、物陰で隙を窺うハイエナ達、逃げ惑い泣き叫ぶことしか知らぬ子供達を、『ネクロティア』の戦士達は整然と剣で斬り殺し槍で刺し殺し銃で撃ち殺していった。拳銃やライフルに弾込めをしていないところを見ると、弾丸は自分で生み出しているらしい。

 ……テレパスが何人もいる。全員の意識をネットワークとして繋ぎ合わせ、効率の良い集団戦闘を行っているようだ……

 日笠の思念には畏怖が込められていた。

 それは、圧倒的で静粛な殺戮だった。彼らは無造作にそして確実に相手の心臓や頭部を狙い、首を切り落とし、隠れていたハイエナを引きずり出し、手強い敵には複数でかかって止めを刺していった。僅かな停滞もなく、凄まじいスピードでハルサを征服していく彼らの顔に浮かぶのは、殺戮の悦楽ではなく陰鬱な悲しみだけだった。

 彼らは、何を思いながら武器を振るっているのだろう。

 その光景は、俺を、嫌な気分にさせた。

 波のように広がって突き進む『ネクロティア』は、十分もかけずに人口三万のハルサを壊滅させていた。逃げおおせることの出来た住民は一人もいなかった。

 意志力の支えを失って崩壊していく建物群を尻目に、武器を血で染めた軍勢はこちら側へと飛び出した。中には手傷を負っている者もいたが、平気で走り続けるだけの耐久力を全員が持っているらしい。返り血を浴びた黒衣は徐々に赤い色を吸収していく。

「いやー、凄いですねえ」

 ミクレルが嘆息する間にも、軍勢は凄い勢いで俺達の方へ突進してくる。彼らにとって俺達の存在など、始末すべき有象無象の一部に過ぎないのかも知れない。

「待て」

 俺達との距離が五十メートルほどに達した時、彼らの間から鋭い声が飛んだ。

 その途端に彼らは停止した。最前列の者達が武器を下ろして立ち止まると、後続は適当な距離を置いて扇形に広がっていった。まるで俺達を包囲するかのように。

 立ち並ぶ男達の昏い眼差しからは、俺達に対する感情を読み取ることは出来なかった。

「ようこそ『ネクロティア』へ」

 さっきと同じ声が言った。よく通る、意志の強さと知性を感じさせる低い声。

 軍勢の中心が割れ、小さな道が開いた。その道を通って、一人の男が先頭に歩み出た。

 男は痩身で、教会の牧師が着るような飾り気のない黒い僧衣を纏っていた。ただその胸に十字架はなく、代わりに銀色のペンダントが下がっていた。そして何よりも俺が驚いたのが、男の顔も手も、露出した部分が全て紫色の火傷の痕に覆われていたことだ。爛れて引き攣れた顔は左目が潰れ、頭髪は殆どない。

「お前がゲヘナ・オルセンか」

 俺は聞いた。

「そうだ」

 『ネクロティア』の首領ゲヘナ・オルセンは無表情に頷いた。火傷のために顔の筋肉が動かせないのかも知れないが。

「君達のことは知っている。赤い殺戮者、樫村雄治。黒衣の狙撃手、三島健一郎。『希望』派のテレパス、日笠円蔵。そして『再生会』の暗殺者、ミクレル・ダヤン」

 ゲヘナの右目が、恐ろしいほど怜悧な光を帯びた青い瞳が、俺達を見据えていた。俺は不思議とゲヘナの顔に醜さを感じなかった。

「暗殺者とはひどい言い草ですね」

 ミクレルは微笑を崩さなかった。

「君の目的は分かっている。この邂逅の結果がどちらに転ぼうとも、騒ぎに紛れて私を抹殺することだ」

 淡々と告げるゲヘナに、ミクレルは肩を竦めた。

 ゲヘナは続けた。

「協力者のテレパス達は強く反対し、私に繰り返し進路変更を勧めた。だが私は、樫村雄治、三島健一郎、君達二人に会ってみたかった。君達の噂を聞いた時から、私と近いものを感じていたよ。ゴールはもう目前だが、世界の消滅を君達と共に迎えることが出来ればこれ以上のことはない」

「お前が世界を滅ぼしたいと願う理由は何だ」

 俺は単刀直入に問うた。この男の本質を、見極めなければならなかった。

「絶望。そして、復讐だ」

 ゲヘナは即答した。

「人類は存在すべきではなかった。私がまだ人間というものに希望を抱いていた二○○二年、あの大変革によって全人類が幸福になれると信じた。争いというものは限られたパイを奪い合うために生じるものであり、意志力によって全てが可能になれば地球上からあらゆる争いが消え、人は皆平穏に暮らせるのだと信じていたのだ。それが間違いだということを知ったのは一年後、多くの人々が破壊と殺戮に走り出してからだ。争いを含めたあらゆる醜さは、それ自体が人間の本質だったのだ」

 ゲヘナの目には怒りや憎悪の濁りはなかった。彼の瞳は何処までも冷たく理知的に澄み、そして悲しみと絶望に満ちていた。彼の眼差しは俺の心に染みた。

「それでも私はまだ希望を捨てなかった。私は平和を望む人々を集めて都市を離れ、生活共同体を作った。だが血に飢えた奴らはそれさえも許さなかった。村は全滅した。奴らは私の妻を磔にして笑いながら刺しまくり、火炙りにした」

 その時、俺の頭に連続したイメージが浮かんだ。燃える村。潰れた木造の建物。地面に転がる血みどろの死体。襲撃者は二十名ほどだった。奴らは牙を生やし、獣のような顔をニタニタと歪めていた。ここはまるで歯応えがない。奴らのうちの一人が言った。十数発の弾丸を食らって蹲る男。苦痛に歪む顔を上げた、男の瞳は青かった。男の視線の先には、木の柱に乱暴に縛りつけられた美しい女性がいた。彼女は男の妻だった。血塗れの彼女を、数人の奴らが更に長い槍で突き刺していった。奴らは容赦なく、彼女の胸を腹を首を足を突き刺し、呻き声を楽しんでいた。退屈だ。奴らのうちの一人が呟いた。柱の下には建物の破片が積まれていた。奴らの一人がパチンと指を鳴らすと、その木材に火が点いた。意志力によって生じた炎はみるみる勢いを増し、彼女の足を焦がした。彼女は悲鳴を上げた。ジェシカ。倒れていた男はズタズタの体を引きずり、焼けていく妻の元へ歩み寄っていく。男に出来ることは、燃え盛る柱にしがみつくことだけだった。炎が男の体を包んだ。ははは、馬鹿だ馬鹿だ。奴らは男の行為に笑いながら喝采を浴びせた。既に妻は死んでいた。炎は男の肉を焼いていったが、男の中には別の冷たい炎が燃え始めていた。男の体がただの燃え滓になり、襲撃者が去っていった後でも、男の中の炎は燃え続けていた。

 それはゲヘナ・オルセンの過去の記憶だった。意図を持ってゲヘナ自身が俺に送ったものなのか、それとも協力者のテレパス達が送ったものなのか。いや、ゲヘナの青い瞳から自然に俺が読み取ってしまったものかも知れない。ただ分かるのは、それが疑いなく真実の情景であったということだ。

「何が希望だ。何が理想郷だ。何が平和だ。そんなものはこの世界には意味を持たない。人間は、世界は、失敗作であり、消去せねばならない。最愛の者を失った私に出来ることはそれだけだ。『ネクロティア』の者達は皆、私と同じような経験を持っている。破壊と殺戮を破壊と殺戮によって終わらせるのは矛盾だが、それ故にこそ、こんな世界は消滅させねばならないのだ」

 ゲヘナはあの偽救世主エリヤのように上辺も飾らず、美しい言葉も使わなかった。『ネクロティア』の者達の目は、心理操作されている者のそれではなく、自分の行動が自分の意志によることを語っていた。彼らの目は悲しげで、そして、冷たく澄んでいた。

 俺はゲヘナを信じた。かつてエリヤ・トルサネスを見た時に抱いた疑問も、ゲヘナに対しては感じなかった。ゲヘナは本物だった。彼の言うことはこの腐った世界において全面的に正しかった。

 そして、ゲヘナは、俺達と同じだった。

「私達と行動を共にして欲しい。目的は同じ筈だ」

 ゲヘナは俺達を見つめていた。

 ケンは無言だったが、おそらく、ゲヘナの申し出を受けるつもりだろう。

 理想的な状況だ。俺にも断る理由はない。

 俺にも断る理由はない。

 俺にも、断る、理由はない。

 なのに、何だ。

 急に湧き上がってきた、この違和感は、何なのか。

 『ネクロティア』は正しい。ゲヘナ・オルセンの原点は俺達と同じで、その主張は充分に共感出来る。

 いや、俺は彼らに、全面的に共感出来ているのだろうか。

 俺は改めて、ゲヘナ・オルセンと『ネクロティア』の面々を見回した。邪悪さも残忍さもなく、純粋な悲しみに澄んだ瞳。彼らは一片の楽しみも感じることなく、求道者のように粛々と殺戮を続けてきたのだろう。彼らの顔に染みついた陰鬱な翳り。

 彼らの目。俺達を見据えているが、実際には何も見ていない。彼らは自分達の中の悲しみと憎悪を見つめているだけなのだ。

 何か違う。

 俺は、彼らの陰鬱な顔を嫌いだと思った。

 ふと壷造りイラーハの言葉が浮かぶ。君は未来を放棄するのかね。諦め、放棄することは、逃げることだ。

 いや、それは関係ない。イラーハのために動こうとは思わない。『希望』派のテレパスとか『再生会』のためでもない。

 だが、俺は、こいつらが嫌いなのだ。

 だから……。

 頭を縦に走る傷が、久しぶりに痛み始めた。

「雄治、どうした」

 ケンが気づいた。俺の顎の先から滴り落ちる血に。

 頭の傷が出血を始めているのだ。

 それでも俺は大声で答えた。これまで俺達がやってきた全てを否定しかねない言葉を。

「断るっ」

 ゲヘナ・オルセンの隻眼に動揺はなかった。ケンの目はサングラスに隠れていたが、その口元は強張っていた。ミクレル・ダヤンは両眉を軽く上げ、嬉しそうな笑みを見せた。背中の日笠はいつもと同じく何も言ってはこなかった。『ネクロティア』の戦士達はどよめいた。だがそれは二秒もせず冷たい殺意に変わった。

「その理由は」

「何故だ、雄治」

 ゲヘナの問いとケンの声が重なった。頭の痛みは次第に耐え難いものになっていた。

「さあな。ただなんとなくだ」

 俺は答えた。ああ、頭が割れそうだ。吐き気がする。内臓も脳味噌もまとめて吐いてしまいそうだ。目眩。口の中のヌルヌルした感触。傷口に軽く触れただけで、今なら頭が二つに分かれてしまうだろう。

 一年半前に自分でつけた傷は、俺の裏切り行為を知っているのだ。

 それでも俺は続けた。ゲヘナを指差して。

「強いて言うなら、お前の顔が気に入らないんだ」

 その時、火傷痕だらけの顔で、確かにゲヘナは微笑した。何かを懐かしむような、それでいて哀れむような、信じられないくらいに美しい微笑だった。

 だがそれはすぐに消えた。

「この期に及んで何故希望にすがろうとする。もう全てが手遅れであることは、君自身知っている筈だ。自分の本当の気持ちを認められないのか」

「それはお前だろう」

 俺の言葉の意味を、ゲヘナは、理解した筈だ。

「……。では戦うことになるのかな」

 ゲヘナは右手を背中に回した。次の瞬間現れたのは、巨大な鉈のような凶器だった。刃渡りは七十センチほどか、その厚みと刃幅は中華包丁を拡大したような凶暴さだ。おそらく俺の首刈り出刃よりも重い。エッジは先に行くにつれて緩くせり出すように湾曲していた。

「そうなるかな」

「雄治、お前は……」

 ケンが何か言いかけた。

「すまない」

 俺はそれだけ言った。ケンは俺の親友だ。だが、ケンが何をしようがそれは彼の自由だ。かつて俺が彼を殺したように、裏切り者の俺を殺すのもいいだろう。

 ケン、お前は、俺の、親友だ。

 ゲヘナに向かって進み出る俺を、しかし、ケンは黙って見送った。ミクレルは何を考えているのか分からないが、実際に戦闘が始まれば何らかの行動を起こすかも知れない。

 『ネクロティア』の戦士達が素早くゲヘナの前に立った。指導者を守るためだ。

 だがゲヘナがそれを制した。

「一対一の勝負としよう。これは、個々の信念を賭けた戦いだ。そうだろう、樫村雄治君」

「俺はどうでも構わんがね」

 全員でかかれば、すぐに片はつくだろう。それを何故わざわざそんな形の勝負にするのか。

 俺には分かっている。ゲヘナ、お前も分かっている。『ネクロティア』の大部分の者達も、おそらく分かっている。

 お前達も、俺と同じく、世界に対して必ずしも、完全に絶望している訳ではないのだ。それ故にこそ、俺達は同類であり、理解し合えるのだから。

 ゲヘナの前を塞いでいた男達が脇へ退いた。俺は首刈り出刃を両手で握り、正眼に構えた。ゲヘナは鉈を持つ右手を軽く垂らしたままだが、その目は既に戦闘態勢であることを示していた。

「もし、お前が……」

 俺は言いかけて、途中でやめた。

 ゲヘナ、もしお前が世界を救うために生きるというのならば、俺は喜んでお前と共に歩くだろうに。

 俺がそう言えば、おそらくゲヘナは寂しげな笑みを浮かべて答えることだろう。私には無理だ、と。最愛の人を失い、手を血で染めた私には。

 それでも構わないではないか、と俺には言えない。

 ゲヘナがゆっくりと俺の方へ歩いてきた。

「言っておくが、万が一私が倒れたところで、我々の計画が頓挫することはない。残された者達が必ず『核』を造り上げ、破壊するだろう」

「それは違いますね」

 俺の背後からミクレルが口を出した。

「ゲヘナ・オルセン、あなたは『ネクロティア』の『核』でしょう。『核』が破壊されれば当然『ネクロティア』も壊滅します。そうでなければ『核』を造る意味もない」

 ミクレルの行ったのは、ちょっとした言葉の呪いのようなものであったのだろう。そしてそれはその場にいた全員の意識を縛り上げ、法則を造り出した。

 ゲヘナが死ねば、計画は頓挫する。俺達はそれを実感した。

 その法則を唯一打ち破れる存在であるゲヘナ・オルセンは、しかし、ミクレルの言葉を否定しなかった。

「それもいいだろう。だが私をそう簡単に殺せるなどと思わない方がいい。君達の意志力が、私の意志力に勝るなどとは……」

 ゲヘナの体から滲み出る不気味な圧力が、周囲の大気を歪ませていた。

 俺とゲヘナが二十メートルほどに近づいた時、『ネクロティア』の中から声が上がった。

「待って下さい、ゲヘナ」

 ゲヘナがちょっと意外そうに振り向いた。彼が見せた僅かな隙を俺が利用しなかったのは、出来れば彼とは正々堂々と勝負したかったからだ。

 戦士達の中から一人の男が進み出た。全身を黒い布で覆った小柄な男だ。頭からかぶったマスクの両目の部分だけに穴が開き、そこから鋭い眼光が俺の方を窺っている。男は両手に一本ずつ、大きく湾曲した鎌状の刃物を持っていた。

「どうしたサエグサ」

「僭越ながら申し上げますが、ゲヘナ、あなたはこんなゴロつき共に直接かかずらうべき人ではありません。あなたの存在が『ネクロティア』の計画の成否自体に関わってくるのならば尚更のことです。それでもどうしてもあなたが考えを変えないとおっしゃるのならば、まず私とスローターが戦い、それで奴が勝てばあなたと戦えるようにすれば如何でしょう。あなたに望みをかけ従ってきた我々のために、その程度は考慮して頂いてもいいのではありませんか」

 黙って考え込むゲヘナに、俺は言った。

「俺は構わんが」

 ゲヘナはやがて軽く一礼した。

「分かった。君には悪いが、そうさせてもらう」

 ゲヘナが下がっていくと同時に、鎌を持ったサエグサが前に出る。

「気をつけて。奴は何か狙っていますよ」

 ミクレルが珍しく真面目な声で警告した。

 ああ、頭がひどく痛みやがる。

 それは自分のせいなのだ。

 俺は血塗れの出刃を構え直した。サエグサは低い姿勢でじりじりと俺の方に近づいてくる。隙のない素早い動きを得意としそうなタイプだ。俺はこの男に対してさほど脅威を感じなかった。どれほどダメージを受けようが、この男の意志力に俺が屈するとは思わない。ここで負けるつもりはない。絶対に。

 一気に行く。

 俺は出刃を振り上げて、その一歩を踏み出そうとした。

 瞬間、世界が極彩色に歪んだ。

 何が起きたのか俺には分からなかった。今まで見えていた砂漠が人々が目の前の敵が一瞬で消えた。身体感覚がないまぜになり、何もない宇宙空間を滅茶苦茶に振り回されているような気分だった。俺は吐き気と悪寒と苦痛と同時に温かさと心地良さを感じた。同時に無数のイメージが浮かんだ。それは泣き叫ぶ子供であり血みどろになって呻く人々であり闇の中に光る目でありハイエナ達の鋭い爪であり怨嗟に歪む顔であり引き裂かれた恋人達の死体であり嘆きと絶望の瞳であった。それらが何なのか俺には分からなかったが分かっていた。それは世界の真実なのだ。生き残った者達が体験してきた無数の真実なのだ。だがこれは何なのだ。今は戦っている最中の筈だ。俺は自分を取り戻そうと、イメージの奔流の中で必死に足掻いた。

 我に返った時は、暮れかけた赤い空が視界の大部分を占めていた。俺は倒れたのか。視界の隅に黒ずくめのサエグサが見える。サエグサの左腕は肘の辺りから断ち切られていた。俺が無意識のうちにやったのだろうか。サエグサの、二つの穴から覗く瞳には、勝利の色があった。

 俺は急いで立ち上がろうとしたが、体が言うことを聞かなかった。まるで体がなくなってしまったみたいだ。ただ首筋のひどい痛みがあった。

 視界の隅、サエグサの近くに、奇妙な男が立っていた。

 赤く染まったコート。右手に巨大な凶器を持っている。俺の首刈り出刃と似ていた。

 男の奇妙なところは、その男の、首から上が存在しないことだった。首のあるべき部分から、噴水のように血が噴き出していた。

 その時になって俺は気づいた。

 俺は首を刎ねられたのだ。首のない男は俺の胴体なのだ。

 ……やられたっ奴らは敵のテレパス達は事前に申し合わせていた君に大量の情報を送り込み感覚を攪乱したのだこんな手があるとは思わなかった予めサエグサとも示し合わせていたのだ卑怯な……

 日笠の思念は早口でしかも混乱気味だった。俺の胴体が背負うリュックから、白い液体が流れ出しているのが見えた。日笠は瀕死のダメージを負ったらしい。

 ……私は防ごうとしたが奴らの質量が圧倒的に大きかった私の回路は破壊されたすまない私がもっと……

「インチキだっ」

 ミクレルの激高した声が聞こえた。

「テレパス達がサエグサに手を貸したぞ。スローターの感覚を封じたんだ」

「どういうことだ、サエグサ」

 ゲヘナの怒りの声。事は彼を無視して進められたということか。

「私が指示しました」

 別の冷静な声。声の持つ雰囲気からすると組織内でもかなり上の地位を占める男だろう。

「エンジ」

 ゲヘナがその男の名を呼んだ。

「ゲヘナ、私達は万が一にもこんなところで躓いてはならないのです。この二年で『ネクロティア』が殺したのは五百七十万人以上、その中には善良な人々も多く含まれていました。全てを犠牲にし手を血で汚してきたのは、世界を消滅させるという究極の目的のためです。それが叶わねば、これまで流されてきた全ての血が無駄になるのではありませんか。どんな障害も、徹底的に且つ安全に退けねばならないのです。汚い手を使った私を、殺しても構いませんよゲヘナ。それだけの覚悟はいつもしています」

 ゲヘナは少しの間沈黙し、そして言った。

「エンジ、お前が正しかった」

 俺の胴体はまだ立っていた。血は出尽くしてしまったらしく、噴水のようだった出血は止まっている。今まで散々他人の首を斬ってきたが、自分が斬られるのは初めてという訳だ。俺は皮肉な気分になった。

 俺の右手は、まだ首刈り出刃を握っていた。

「三島健一郎、君はどうする」

 ゲヘナが聞いた。

 それは、俺にとっても恐ろしい瞬間だった。

 ケンは言った。

「気に入らねえな」

「……。何についてそう思う」

「さあな。なんとなくかな」

 そんな口調の時のケンの表情は、容易に想像がつく。彼はきっと、皮肉な、そして悲しげな笑みを口元に浮かべているのだろう。

 俺は少し安心した。

「ならミクレル共々死ぬがいい。もう一騎討ちなどとは言わない」

 大勢の気配が動き始めた。ミクレルがどの程度の使い手かは分からないが、ケンと二人だけで彼ら全員を相手に戦えるとは思えない。まして、俺がされたように、テレパス達によって感覚を攪乱されればひとたまりもないだろう。日笠の助けはない。日笠はもう死んでいるかも知れない。

 一番近くにいたサエグサが、ケン達の方へと歩き出した。

 俺は、残りの意志力を振り絞って念じた。

 切り離された俺の体は、なんとか期待通りに動いた。大きく振られた首刈り出刃は、サエグサの胴体を斜めに断ち割った。

「グエッ」

 サエグサは即死だっただろう。黒ずくめの服の下から血と内臓が飛び散る。

「おおおっ」

「まだ生きているぞ」

 どよめきが上がった。畏怖とそして殺意の。

「雄治っ」

 ケンが叫んだ。

 俺の体が滅茶苦茶に踊った。銃を持っている者達が、俺の体に向かって一斉に発砲したのだ。痛みはなかったが、自分の肉体が破壊されていく感触は伝わってきた。続けて槍や刀を持った『ネクロティア』の戦士達が波のように押し寄せる。ポキュンポキュン、と聞き慣れた音がして、奴らの何人かが頭や胴体を破裂させて息絶える。だが敵の数は多く、全員が熟練していた。姿勢を低くして走る黒衣の戦士達は俺の胴体に次々と槍や刀を突き刺していった。俺の体が首刈り出刃を振った。何人かが肉塊に変わり、残りは俺の刃を避けた。奴らは怯まなかった。弁髪の男の青龍刀が俺の左腕を切り落とし、黒い甲冑の男の大斧が俺の右足を砕いた。金髪の男のサーベルが俺の右肩を貫いた時、俺は自分の体に見切りをつけた。最後に残った意志力で俺は首刈り出刃を投げた。回転しながら飛ぶ刃は十数人の胴体を両断して、地面に落ちた。血みどろの年月を共に過ごした俺の武器。俺の分身。そして俺の肉体は無数の刃によって八つ裂きにされた。

 後方から気配が近づいている。ケンか。

 その一瞬。

 黒衣の群れを抜けてゲヘナ・オルセンが凄まじいスピードでダッシュしてきた。ゲヘナはあの大鉈を振りかぶっていた。ポツポツと、僧衣の胸の部分に数ヶ所穴が開く。ケンの弾丸だ。だがゲヘナはびくともしなかった。走り寄るケンの姿が見える。俺の首を拾おうとしているのか。馬鹿、逃げろ。叫ぼうとしたが声は出ない。ケンの渾身の弾丸を十発も受けて尚、ゲヘナの動きは衰えなかった。凄い男だ。ケンの手首がカクンと折れ曲がった。『蠱毒都市』で使ったミサイルを使うつもりなのだ。地面に転がる俺の丁度真上で、ケンとゲヘナは交錯した。同時に白い閃きが視界を掠めた。そして爆発。血飛沫と小さな肉片の粒が俺の顔にかかる。俺は髪の毛を引っ張られ、地面から離れた。視界が回った。それとほぼ同時に衝撃波が俺の顔を叩いた。何だ。何が起こった。

 右手で俺の頭を掴んでいるのはケンだった。近距離ならば全方向を見ることが出来る俺には、肘の上で切断されたケンの左腕が見えていた。ゲヘナの大鉈によるものだ。滴る血をそのままに、ケンは歯を剥き出していた。ゲヘナの腹部が破れ、はみ出した腸が五十センチほどぶら下がっていた。ケンのミサイルによるものだろう。ゲヘナは無表情に立っていた。痛みはある筈だが、彼の強大な意志力が全てを受け止めている。ケンの横に、白い服のミクレルが立っていた。その両腕の部分は数条の帯となって伸びている。腕自体が見えないのは、或いは元々本体のない生き物だったのかも知れない。帯の一本に血がついていた。ゲヘナの左腕についた浅い傷はミクレルによるのだろう。

 ゲヘナが、後方を振り返って呻いた。

「むう、エンジ」

「来てやったぞ。俺を呼んだ奴は何処だ」

 ゲヘナの視線の先、上空から甲高い声がした。俺の視界の端にも空中に静止する茶と白の色彩が見えた。それは羽毛であり、そいつは二枚の翼を羽ばたかせていた。

 一年数ヶ月ぶりに見るその姿は、鳥人スナガのものだった。彼の鉤爪は誰かの生首を掴んでいた。乱暴に引きちぎられたらしいその男の顔は、驚愕と無念に歪んでいる。生首は俺と違って既に死んでいる。

 どうやらその生首がエンジだったようだ。ゲヘナとケン達の交錯において感覚の撹乱がなかったらしいのは、或いはエンジという男が敵のテレパスのリーダーだったのか。有能なテレパスといえど目の前の相手に集中していれば、遠方から超音速で飛来するスナガに対処する暇などない。しかし、スナガにエンジを狙わせたのは誰だったのだろう。

「おやおやスローター、ざまあないな」

 冷たく嘲るように言うと、スナガはエンジの生首を放り捨てた。

「撃ち落とせ」

 ゲヘナが命じた時、既にスナガは加速に入っていた。ケンとミクレルが距離を取るため後ろ向きに跳躍する。ゲヘナが大鉈を振りかぶってケンを追う。ゲヘナの体は血みどろだが、全く意に介してないようだった。この男の息の根を止めるには骨が折れそうだ。ケンは唯一の手で俺の首を握っているため発砲出来ない。ミクレルの白い帯が惑わすように舞い、そのうちの一本がゲヘナの首筋を切り裂いた。血が噴き出してすぐに止まる。ケンの胸でカキリと奇妙な音がして、服を突き破って無数の弾丸がゲヘナへ向かって飛び出した。肋骨をバラして造った散弾だ。全身に弾を浴びてゲヘナがひっくり返る。だがすぐに立ち上がるだろう。

「スナイパー」

 『ネクロティア』の只中を通り抜けて何人かの首を掻き切ったスナガが、復路に入りつつ声をかけた。誰かの銃弾が命中したらしく、脇腹の白い羽毛に血が滲んでいるが、スナガにとっては大した傷ではないだろう。

「ではひとまずここでお別れです。いずれ合流しますよ」

 そう言うミクレルの体は、数十条の帯となって解けていった。微笑を浮かべたその顔に線が走り、厚みを失って分解していく。

「『再生会』はあなたがたにみカタシマスヨ」

 それぞれの帯が砂の中に潜り始め、あっという間に見えなくなった。

「肩を掴むぞ」

 スナガが低空飛行でこちらへ迫っていた。ケンを引き上げる気なのだろう、そのため速度を少し控え目にしている。

 スナガの鉤爪がケンの両肩を掴んだその時、突然ゲヘナが大鉈を振るい飛びかかってきた。ゾクリとする一瞬。

 浮いたケンの両足がゲヘナに向いていた。足の裏が火を吹いた。脛の骨を使ったのだろう、二本のミサイルがゲヘナの胴体に命中した。血と肉片が飛び、ゲヘナは倒れた。

 傍らを銃弾が掠める。スナガが高度を上げていった。眼下に『ネクロティア』の面々が見える。彼らの受けた痛手はまだ微々たるものだろう。ゆっくりと立ち上がるゲヘナ・オルセンが見えた。胸壁が破れ肋骨が見えていたが、ゲヘナの隻眼は冷たく燃えていた。

「凄え男だなあいつは。時間をかけて少しずつ弱らせ、仕留めてみたいものだ」

 スナガが尖った嘴で喋る。

 ……さらばだ樫村雄治私も悔いはない私は間違っていなかった安心して逝くことが出来る……

 弱い思念が伝わってきた。おそらくは既に死んでいるであろう日笠円蔵の、最後のメッセージ。

 ……私は君を信じていた君もケンも純粋な人だこの一年半は私なりに楽しかったよ実を言えば私自身この現実から逃避したかったのかも知れない君達の実行力には驚かされたすまないが後を頼むまだ人類も捨てたものじゃないそれから最後に一つだけイラーハは全てを覚悟の上で君を待っていたのだ彼は命を懸けて君を説得するために志願したのだよイラーハは報われたと思うではさら……ば……

 日笠の思念は、もう届かなくなった。『ネクロティア』はすぐに視界から消え、赤い空と砂漠の景色が流れていく。

「ところであんた誰だ」

 ケンが尋ねた。鉤爪の食い込んだ両肩からは血が滲んでいる。スナガに丁寧さを期待しても無理というものだ。

「俺はスナガだ。そちらのスローターとは前に会ったな。おいおい大丈夫かスローター、そんなにあっさり死ぬなよ」

 大丈夫だ。俺は唇を動かしたが声は出なかった。

「しかし流石だなスナイパー。全身銃器と呼ばれるだけのことはある。お前の怪我が回復すれば、いずれ手合わせ願いたいものだ」

「今でもいいぜ」

 ケンがそう答えると、スナガはクハハと楽しげに笑った。

「日笠というテレパスは死んだらしいな。地球の裏側からネットワークを使って俺を呼びつけやがった。一度面識があったから繋がりやすかったそうだ。お陰で面白いことに関わることが出来た」

「で、俺達を何処に連れていくつもりだ」

「それは着いてのお楽しみだ。日笠から位置を聞いているが、俺も行くのは初めてだからな」

 彼らの会話を聞きながら、俺の意識は朦朧となってきた。これまでこの状態で生きているので、今更死ぬことはないと思うが。いや、油断するとヤバいかも。忘れていた頭痛がぶり返していた。俺の頭を縦に割る傷。世界を滅ぼすと誓った傷が、燃えるように熱い。

 何故、こんなことになったのだろう。風に揺られながら俺は思っていた。

 俺は、世界の滅亡を望んでいたのではなかったのか。ゲヘナの申し出は正当なものだったのではないか。ゲヘナは俺達と同類だった。ゲヘナの体験してきた地獄は俺達のものだった。

 冷静になってみると、俺はゲヘナを気に入っていたと思う。

 なのに何故、俺は逆のことをやってしまったのか。

 日笠……。彼は死んだ。『ネクロティア』に殺された。

 イラーハ……。俺が殺した壷造り。希望を、という最期の言葉。

 俺は、どうすれば良かったのだろう。

 唐突に俺は気づいた。『ネクロティア』の奴らの陰鬱な顔は、きっと、俺の顔に似ているのだ。そしてケンの顔に。ケンとは長く一緒にい過ぎて分からなかったのだ。

 俺は、自分が嫌いだったらしい。奴らに覚えた嫌悪感は、実際は俺自身へのものだったのだろうか。

 取り留めのないことを考えているうちに、いつしか俺は浅い眠りに落ちていた。

 

 

  六

 

 あれはいつのことだったのだろう。

 俺はリボンのついた白い箱を大事そうに抱えて歩いている。中に収まっているケーキは二週間前より予約しておいたものだ。

 隣を嬉しそうに歩いているのは絵美だった。彼女は薄い水色のワンピースを着ていた。そのあどけない横顔は高校一、二年の頃だったろうか。

 絵美は、バラの花束を持っていた。

 日曜日だった。すれ違う人達の視線に、俺は少し恥ずかしさと誇らしさの入り交じったような気持ちを味わっていた。目的地まではそんなに遠くない。

 俺達が前にしたのは、見上げるほどに大きな洋風の屋敷だった。玄関の表札は三島となっている。これまで何度か遊びに来たことがあるが、この巨大さにはいつも圧倒される。

 絵美がインターホンのボタンを押した。ケンの両親が今外国にいるのは知っている。というか滅多にこちらには帰ってこないとケンが皮肉な口調で言っていた。

「はい」

 やがて、ぶっきらぼうなケンの声が返ってきた。今日は家政婦もいないらしい。

「ケン君、こんにちは。絵美です。雄治君も一緒に来てるんだけど」

 絵美はケンのことを「ケン君」と呼ぶ。不思議な響きだ。

「え……ちょ、ちょっと待って」

 ケンの慌てぶりに、絵美は悪戯っぽい笑顔を見せた。校区では不良達からも恐れられる冷酷な男が、珍しく狼狽していた。俺達の訪問をまるで予想していなかったのだろう。

 少ししてドアが開き、サングラスのケンが顔を出した。髪は寝癖のついたままで、制服じゃない黒い服は、どうやらパジャマらしかった。

「誕生日おめでとう」

 俺と絵美は声を揃えて言った。

「お、俺、さっきまで寝てて……」

 ケンは何を言えばいいのか分からずに、しどろもどろになっていた。

「はい」

 絵美が花束を手渡した。

「いや、俺は、でもなんで……」

「前にさ、お前が言ってただろ。誕生日も独りで過ごすことが多いって」

「そんなこと言ったか、俺は。いつの話だ」

「半年前だ。その時からの計画さ。どうだ、油断してたろ」

 俺は笑った。絵美も笑った。ああ、絵美も、こんなに明るい笑顔を見せる時期もあったのだ。

 ケンが、泣いているような笑っているような顔をした。彼がこんな表情を見せるのは、初めてのことだった。

「ケーキも買ってきてるんだ。飲み物はあるかい」

「あ……ああ、ああ、入れよ」

 ケンは大きく頷いた。

 世界は光に満ちていた。俺達は人生というものが素晴らしいものだと信じていた。

 

 

「おい、雄治、生きてるか」

 ケンの冷たい声が俺の意識を少しだけ現実に引き戻した。

 ああ、生きてるよ。多分。

 俺は口だけ動かして答えた。口の中に血の味がする。頭の傷が出血を続けているらしい。

 口の動きを確認したらしく、ケンの声はやんだ。

 傷の熱さと風の冷たさがなんだか心地良くなって、俺はまた眠りに落ちていった。

 

 

「買い出しか」

 道を歩いていると音もなく横に並んできて、ケンが言った。

「ああ。一週間ぶりだな、ケン」

 俺は食料の詰まった袋を抱えていた。スーパーにも物が少なくなった。人間が必ずしも食料を必要としなくなったためと、食料を供給してくれる人がいなくなってきたためだ。皆が自分勝手に生きている。

「最近はどうしてる」

 俺は聞いてみた。ケンは相変わらず黒ずくめの服装だ。一文字に引き結ばれた口元には、張り詰めた感じがあった。

「情報収集さ。どうやら妙なことになっているぜ」

「そういやお前は無線もやってたんだな」

「世界各地で暴動が始まってる。暴動と言うよりは、そうさな、虐殺だ。人種とか宗教とかの対立もあるが、全く理由の分からないものも多いんだ。本当に殺戮のための殺戮という感じさ。国内でも色々あってるようだぜ。政府も大混乱さ。テレビ局も殆どが閉鎖されているだろ」

「そうらしいな」

「絵美はどうしてる」

 ケンが聞いた。さり気なさを装っているが、それが彼の一番気にしていることだということは、俺には分かっている。

「不安がっている。この間、マンションの近くでも通り魔が出たんだ。日本刀で五人ほど殺した。そいつを片づけたのは警察じゃなく別の住民さ。猟銃で撃ち殺したんだ」

「一人にして大丈夫か」

「家の中も安全とは言えないが、外はもっと危険だ。買い出しは絵美の希望なんだ。こんな状況でも、料理をしていたいと言うんだ」

 世界が変わってしまう前の思い出に、すがっていたいのだろう。俺はそのことを口にしたことはない。

 ケンは黙って俺の隣を歩いた。

「なあ、近くに来ないか。この辺も荒んできたし、俺一人だけで絵美を守れるか分からない」

 ケンが俺達に気を遣って離れた場所に住んでいることを、俺は知っている。

 ケンは何も言わなかった。

「お前の方は大丈夫なのか、一人で」

 俺は聞いてみた。

「ああ。こいつもあるしな」

 そう言うと、ケンは懐からモデルガンを取り出してみせた。

「まだ持ってたのか、それ」

「ああ。でも今は本物よりも威力があるぜ」

 ケンは口元を歪めて笑った。冷たい、寂しげな笑みだった。

「お前も何か、護身用の武器を持っていた方がいいぞ。でもな……」

 そこでケンは言葉を切った。

「どうした」

「俺は、これで人を殺した。自分を守るためだったがな。だからもう、絵美には……」

 黙り込んだケンに何と言えばいいのか、俺には、分からなかった。

 やがて、ケンは片手を振った。

「じゃあ、またな」

「ああ」

 ケンは振り向きもせず、別の方向へ歩き去っていった。

 俺達の住むマンションが見えた。電力の供給が途絶えているため、俺は十三階まで螺旋階段を上っていった。最初のうちは辛かったが、逆にそれで体力がついたようだ。

 ドアの前でインターホンを鳴らす。中で絵美が待っている筈だった。

 十秒待っても、返事はなかった。

 どうしたのだろう。俺はドアのノブを握った。

 鍵が掛かっていない。

 ゾクリとする嫌な悪寒が俺の背を撫でた。

「絵美」

 俺が入り口のドアを開けると同時に、中から男が飛びかかってきた。男の右手は変形して刃物のようになっていた。振り下ろされたそれは俺の左肩に突き刺さった。激痛。買い物の袋が落ちた。男の腹に蹴りを入れると、そいつは奥へと転がった。刺さった刃物が抜ける時に俺の肩の肉が裂けた。

「えみいいいっ」

 俺は部屋へ飛び込んだ。

 絵美はぐったりと床に倒れていた。その服が破れ、白い肌が見えていた。腕や首に浅い傷があった。絵美の頬に涙の痕が見える。

 絵美は、犯されたのだ。

 その横に別の男が立っていた。ズボンのジッパーを上げながら、そいつが醜く笑った。唇の隙間から覗く歯は、鮫の歯のように鋭く尖っていた。

「いいところに来たねえ」

 鮫の歯の男は楽しそうに言った。

 俺の視界が、白く変わっていった。

「あろおおおおおお」

 右手が刃物になった男が、叫びながらかかってきた。俺はそいつの顔を鷲掴みにした。凶器が俺の腹に刺さったが構わなかった。俺はそいつの顔を掴んだまま走った。渾身の力を込めて、部屋の壁にそいつの頭を叩きつけた。壁が凹み、そいつの頭も潰れた。感触は覚えていない。

 俺は完全に、頭に血が昇ってしまっていた。

 鮫の歯をした奴が何か言いながら銃を取り出した。銃身を切り詰めたショットガンだった。俺は台所にあった出刃包丁を掴んだ。鮫の歯が発砲した。俺の左腕と脇腹を散弾がズタズタにした。俺は構わず突進した。横殴りの一振りで、そいつの首が殆ど切断されていた。首の皮一枚で繋がった首が後ろにひっくり返り、勢い良く血が噴き出した。血は俺の顔にもかかった。鮫の歯の男の手足が痙攣した。倒れた胴体に馬乗りになって、俺は包丁でその胸を腹を刺しまくった。畜生。よくもよくも。絵美を。よくも。

 俺は、悪鬼の形相をしていたのだろう。

 我に返った時、絵美が俺にしがみついていた。泣きながら絵美は叫んでいた。

「やめて、もうやめてよ」

 俺の下には人間の原型を留めていない、グズグスになった肉の塊があった。

 俺は初めて、人を殺したのだ。

 絵美は泣いていた。俺を見るその目には、痛みと絶望と、そして恐怖があった。絵美がそんな目で俺を見ることは、これまでなかった。

 絵美、大丈夫か。俺が絵美を抱き締めようとすると、彼女は怯えたように体をビクリと震わせた。俺は、自分の両手が真っ赤に染まっていることに気づいた。俺の顔も服も全て、返り血で染まっていた。

 俺は、絵美を抱き締めることが出来なかった。

 おお、絵美、愛してる。お前のためなら何だって出来る。絵美、俺は、どうすればいい。そんな目で見ないでくれ。おお、絵美、愛してる、愛してる、でも俺は。

 絵美。

 愛してる。

 

 

  七

 

 気がつくと、黄土色の天井が見えた。布製のそれは円錐形を作り、床の真ん中には柱が立っている。床は剥き出しの地面になっていて、乾いた砂地が見えている。

 どうやら俺は、小さなテントの中にいるらしい。

 俺の体の下には粗末な絨毯が敷かれ、上には薄い毛布がかけてあった。

 俺の体……。

 身を起こしてみる。腕と白い服を着た胴体が見えた。毛布をはぐる。両足も揃っている。以前の肉体より幾分痩せてはいるが、ちゃんと思い通りに動く。

 不思議だ。受けた傷は自分の意志力で治療しなければならない。特に首だけの状態から全身を再生しようというのだから。

 俺は、治した覚えがない。

 首をひねっているとテントの入り口が開き、一人の男が顔を出した。

 髪の長い、剃刀のように細く鋭い目をした男だった。浅黒く日焼けした肌と引き締まった頬は逞しい。

「目が覚めたか」

 男は言った。冷たいが力強さのある声だった。

 俺は初対面の男に尋ねてみた。

「お前は誰だ。それにここは」

「待ってろ」

 男はすぐに消えた。

 俺は立ち上がってみた。少し足元がふらつく。以前の肉体とは比べ物にならないほどひ弱だが、それは問題ない。全ては意志力によって支配される。

 二、三度膝を屈伸させ、俺はテントの外に出た。もうふらつかなかった。

 外は真昼だった。砂の混じった風が吹いている。ここは砂漠の真ん中らしかった。俺のいたテント以外にも、何十もの小さなテントが立っていた。所々に繋がれているのは本物の駱駝のようだ。

 人の姿も見えた。年齢も服装もまちまちだ。六十近い老人から五才くらいの幼児までいる。女性も半数くらいいた。これは珍しいことだ。砂漠に似合う白い衣から、革ジャンとジーンズ姿の若者もいて、俺は苦笑した。何人かは俺の方を見たが、多くは自分達の作業に没頭していた。バケツを運んでいる者もいれば、地面を睨んでいる者もいる。

 彼らは何だ。何をやっているんだ。

「良かった、三日間も眠っていたから、このまま目が覚めないかと思った」

 若々しさというより幼さを感じさせる声に、俺は振り向いた。

 ゆったりした白い服の少年がそこに立っていた。まだあどけないその顔も背丈も十二、三才くらいに見えた。鍔のない白い帽子からはみ出した黒髪は軽くウェーブして肩の辺りまで延びていた。ポケットも飾りもない服は土で汚れていたが、本人はまるで気にしていないようだ。

 少年の整った顔は、理知的にも粗野にも偏らず、素直な印象を見せていた。ちょっと見には少女と間違えそうだ。少年の瞳は強い意志力を示していたが、それと同時に誰かが支えねば崩れかねない脆さも感じさせた。その光の質は、『ネクロティア』の首領ゲヘナ・オルセンの圧倒的な悲壮感ではなく、どちらかというと『再生会』のイラーハの、あの迷いのない善意に近かった。

 少年の横には、先ほどの鋭い目をした男と、黒衣にサングラスの見慣れた男が立っていた。

「ケン」

 ゲヘナに切り落とされた左腕はもう再生していた。ケンの眉間に寄っている縦皺を見て俺は驚いた。

 ケンがそんな顔をするのは怒っている時ではない。

 迷っている時だ。

「スナガはどうした」

「奴は去った。お前がリハビリを終えたらまた来ると言っていた」

 ケンは答えた。スナガはまた別の戦場を探しているのだろうか。

「そうか。奴には助けられたな」

「彼らは『ワンダリング・オアシス』だ」

 ケンが、ぼそりと言った。

 そうか。日笠がスナガに指示した場所は、彼らの居場所だったのだ。日笠はどういう意図で俺達をここに連れてきたのだろう。いずれ引き合わせるつもりだったと言っていたが。

「外の人達にはそう呼ばれているみたいですね」

 そう言う少年に俺は尋ねた。

「お前は誰だ」

「初めまして。僕はセネカ・レイです。あなたは樫村雄治さんですよね」

 セネカ少年は軽やかに一礼した。思いもかけぬ礼儀正しい挨拶に俺は少々面食らった。

「あ、ああ」

「彼はヒーラーだ。お前の体を再生させたのも、俺の腕を治したのも彼だ」

 ケンが説明した。ヒーラー。治療者のことか。

「そして、我々のリーダーだ」

 鋭い目の男が告げた。その声には誇らしげな響きがあった。

 それには構わずセネカは続けた。

「首から下はなんとかなったけれど、顔の傷は無理でした。不思議な傷ですね。まるで治るのを嫌がってるみたいだ」

 俺は自分の顔に触れた。正中線を割る傷は粗い縫い目と共にそこにあった。痛みはない。

 治るのを嫌がっている、か。その通りだ。

 だが、この傷の意味を、俺は見失いつつあるのではないか。

「それにしても、よく俺達みたいなのを助けたな。俺達の噂を聞いたことがないのか」

「聞いてます。仲間にもテレパスはいるから」

 セネカは俺の顔を真っ直ぐ見上げて答えた。

「僕に出来るのは人を治すことだけです。人の役に立てれば僕は嬉しいし。それに、どんな人だって良いところはあると思うから」

 少年の瞳は、どうやらそれを本気で信じているらしかった。

 だが理想と現実は別だ。

 俺は、無邪気な顔をした目の前の少年に、それを尋ねてみる気になった。

「もし俺達が治った体でお前らを皆殺しにしたらどうする」

「うーん」

 少年は腕組みして考え込んだ。真剣なその表情には何処か愛嬌があった。

「もしそうなったら、僕らは大急ぎで逃げます。まだ死にたくないですし」

 彼なりに、大真面目な答えだったのだろう。

「ハハッハッ」

 ケンが腹を抱えて笑った。鋭い目の男も口元を僅かに緩める。

 セネカは続けた。

「それに、あなた達はそんなことしないように見えたから。そうじゃありませんか」

 そのか細い首は、今の俺の力でも、軽く掴めば容易に折れてしまうだろう。

「ああ……そうだな。取り敢えず、俺の体を治したことには礼を言っておく」

 少年の雰囲気に流されるように、俺は言った。それは不快な感覚ではなかった。

 セネカは悪戯っぽい笑顔を見せた。その表情が誰かに似ているような気がして、俺はドキリとした。

 だがすぐにその面影は消えた。

「ところで僕らのやってることを見ていきませんか」

 セネカが言った。

 俺も、『ワンダリング・オアシス』という集団については興味があった。『再生会』のミクレルが可能性の一つと呼び、日笠が俺達を引き合わせたがっていた彼らは、どんなことをしているのか。

 ケンはもう知っているらしい。彼の笑顔は消えていた。眉間の皺が、俺は気になっていた。

 セネカの後について俺達は歩き、キャンプ地の外周へ出た。そこでは多くの人々が適当に並び、それぞれ作業に従事していた。さっきは彼らが何をしているのか分からなかったが、今ははっきりと見える。

 彼らは、砂漠の土に、草木を植えているのだ。

 携えている袋から数粒ずつ種を取り出し、掘った穴に埋める。土をならした後で水をかける。水はバケツの中に自分達で造り出したものらしい。水芸のように、指先から直接水を撒いている者もいる。水を撒きながら彼らはじっと地面を見つめている。そのうちに芽が顔を出し、見ている間にも丈が伸び始める。撒いている種もまちまちらしく、雑草は成長が速いが樹木は遅い。その中に蜜柑のなっている木を認め、俺は懐かしさを覚えた。作務衣を着た禿頭の男がじっとその木を見つめている。意志力でここまで育てるのに、どれほどの時間をかけたのだろう。

「驚きましたか。これが僕らのやっていることです」

 セネカが嬉しそうに、そしてちょっと得意げに、俺の方を見た。

「なるほどな。『ワンダリング・オアシス』。砂漠の中に緑を植えて回っているのか」

「はい。場所は砂漠だけじゃありません。荒れ地や廃墟でもやってきました。種は、変革後に残ったもののうち、自分が好きなものを撒くようにしています。本当は厳しい気候の中でも生き延びて、おいしい実がなるような種類がいいんだろうけれど、やっぱり自分の好きなものじゃないとやり甲斐もないし」

「何のためにそんなことをする」

 尋ねた後で、俺は馬鹿な質問をしたかと思った。でもセネカはにっこり微笑んだ。

「簡単に言えば、そうするのが好きだから、かな。それだけじゃ納得行かないなら、僕なりの考えを話すけれど」

「ああ、話してくれ」

「人間は、力を尽くす対象がいるんじゃないかな」

 その時のセネカは、少しだけ大人びた理知的な表情を見せた。

「苦労して何かを成し遂げることはとても楽しいと思う。逆に、何の苦労もなく全てが自分の思い通りになってしまったら、人生はつまらないと思うんだ。大変革が起こってから何でも出来るようになって、皆、つまらなくなっちゃったんじゃないかな、きっと。だから思い通りには行かないことに、他人と競い合ったりすることに一生懸命になったんだよ。それが結局殺し合いになっちゃったけれど。今も世界中で殺し合いが続いてるけれど、本当にそれが好きでやっている人は殆どいないと思うよ。だから僕は考えたんだ。難しい目標を作って、それを成し遂げるために力を使えばいいんだってね。僕は、この荒れ果てた地球をもう一度、緑で一杯にすることにしたんだ。協力してくれる人達は皆、欠点もあるけどいい人ばかりだよ。完全に悪い人とか、完全にいい人とか、そんなのいないと思うな」

 世間知らずだな。と、いつもの俺なら鼻で笑っていただろう。もしかすると何も言わずに首を切り落としていたかも知れない。

 だが、この少年の語りには、馬鹿に出来ない説得力があった。そんな考え方もあるのかと思った。そして彼は、本心からそれを信じているのだ。

 俺は、見極めなければならなかった。

「だがこの世界には血に飢えた奴らが大勢いる。お前達が悠長に木を植えているところに、奴らが押し寄せてきたらどうする。あっという間に皆殺しにされるぞ」

「そうはならん」

 鋭い目の男が言った。

「俺達は自衛のための武力を持っているし、戦う覚悟もある。戦闘には向かない者も、何らかの手段で協力する。セネカは瀕死の者を治療することが出来る。これまで幾度も襲撃を受けてきたが、全て撃退してきた。その過程で仲間に加わった者もいる」

 おそらくこの男が、『ワンダリング・オアシス』の武力の中核を担っているのだろう。俺達と似た強者の雰囲気が、この男にはあった。地面に紛れるような黄土色の衣服は、元は暗殺者であったのだろうか。

 確かに、彼らはそれなりの武力を持っているのかも知れない。

 だが、相手があの圧倒的な『ネクロティア』であればどうなるのか。

 俺はそれを問う代わりに、別のことを尋ねた。

「もし地球上が緑で埋まり、目標を達成してしまったらどうするつもりだ。結局は力を持て余して、殺し合うようになるかも知れんぞ」

「そんなに先のことは分からないよ」

 セネカは正直だった。

「僕らがこれまで造ってきたオアシスのうちで、僕らが離れた後でも残っているのは三分の一くらいだって。植物が自分だけの力でも生き延びられるように品種改良もやってるけど、目標に届くのはかなり先のことになると思う。十年後か、五十年後か。それでもし、目標が達成したら……」

 そこで言葉を切り、セネカはあの悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「皆で宇宙にでも出ようかな。宇宙を緑で一杯にするってのはどうだろう」

 あっけに取られるような答えに、俺は思わず苦笑した。鋭い目の男も楽しげに笑っていた。

 その時になって、頭の傷が再び痛み出した。

 俺は、自分がこの少年を気に入っていることを知った。

 俺の本来の目的は何だったか。頭の傷は、俺にそう警告しているのだ。

 ケンはセネカの台詞にも笑わなかった。サングラスの奥の表情は分からなかったが、眉間の縦皺は消えていない。

「雄治。ちょっと顔を貸せ」

 ケンが俺に言った。冷え冷えとした声に、俺はこの先のやり取りの厳しさを予感した。

 セネカが怪訝そうにケンを振り返った。だが何か言う前に、メロンを育てていたモヒカンの若者がセネカに声をかけた。

「おーいセネカ、何してるんだ。お前のがほったらかしになって、しおれかけてるぞ」

 彼らはリーダーであるセネカに対し、対等な言葉遣いをするようだった。

「あ、いけない。じゃあまた後でね」

 セネカは舌を出し、元気に人々の中へ駆けていった。

 彼の育てている植物を、俺は見ることが出来た。

 それは、彼の背丈を超えるほどの、大きな向日葵だった。

 俺はケンの後について歩いた。鋭い目をした男は何か言いたげだったが、結局は黙って俺達を見送った。

 作業している集団から離れ、砂漠に出た。ケンは無言だった。張り詰めた雰囲気に、俺も話しかけずにいた。

 ケンがどういうつもりなのか、俺には分かっていた。十七年の付き合いなのだ。

 五分ほど歩いて、ケンは立ち止まった。

「そこで止まれ」

 近づこうとした俺にケンが言った。二人の距離は七、八メートルほどあった。

 俺は従った。そしてそのまま、ケンの言葉を待った。

 数十秒の沈黙の後、ケンが漸く言葉を絞り出した。

「何故だ」

 簡潔な問いだった。

 問いの意味は分かっていた。

 俺がゲヘナの申し出を蹴ったことを、ケンは責めているのだ。

「分かってるんじゃないのか」

 俺は言った。

「いや、分からねえ。答えろよ」

「……。まだ早過ぎると思ったんだ」

「ハッ。もう十年以上も待ったさ」

 ケンが唇を歪めて吐き捨てた。

「まだ十年だ。人間の歴史に比べると大したことじゃない」

「それは理屈だ。真実とは違う」

 ケンの言葉は俺の胸を刺した。

「現実に、世界は救いようがなくなった。だから滅ぼすしかないんだ」

「まだ救いようがないと決まった訳じゃない。俺達が見てきたのは殆どが悪意と残虐性に凝り固まった人間ばかりだった。でもそれ以外の人間もいる」

 言いながらも、俺の頭痛は強くなっていた。軽い目眩を感じる。この十年、俺達の間で議論し尽くされたことだ。それをまた、この期に及んで俺は続けている。

 俺のやってきたことは何だったのか。無数の人々をこの手で殺戮してきたのは何のためだったのか。

 俺は、自分のやってきたことを全て無に帰そうというのか。流されてきた血が無意味であったと。

 しかし、俺は、続けなければならなかった。

「俺が『再生会』のイラーハを殺した話はしただろう。彼は間違いなく善人だった。俺は彼を殺すのが怖かった」

「だがお前は殺した。それが現実なんだ。そんな世界は消し去らねばならないんだ」

 頭痛。

「お前も日笠を知っている。日笠はどうなんだ。彼は悪人ではなかった筈だ」

「あいつは殺人鬼の俺達を手伝った。それが悪人でないと言えるのか」

 なあ、ケン。お前も、本当は、分かっているだろう。

 お前は……。

「俺達は『ワンダリング・オアシス』を見て、セネカに会った。俺は、日笠の言ったように、彼らが可能性の一つだと思う」

 ケンの眉間の皺が深められた。

 だがケンは答えた。

「無駄だ。所詮彼らは弱者に過ぎない。いずれ必ず潰される。創造よりも破壊は簡単で、善と悪では、悪の方が圧倒的に強いんだ」

「なら俺達が守ればいいじゃないか」

 虚を衝かれたのだろう、一瞬、ケンが固まった。俺はたたみかけた。

「もし、本当に世界が救えるのなら、俺はそのために自分の全てを捧げたいと思う。お前は、そうは思わないか。俺は『ネクロティア』の奴らを見た時に分かったんだ。奴らは間違っている。奴らはわざと希望から目を逸らしている。そして俺達も間違っていた。俺達もわざと希望から目を逸らしていたんだ」

 俺は何を言っているのだろう。俺の頭の傷は、俺の主張に最大限の異議を唱えている。

 それでも、俺は、言わねばならないのだ。

 だが、ケンは、低い声で、決定打となる筈の台詞を口にした。

「希望だと。もう、絵美はいない。お前が懸命に何を言ったところで、俺の中では空虚に響くだけだ」

「いいや、それは違う」

 そして、俺は、言ってはならないことを口にした。

「お前だって本当は、救いを望んでいるんだろ。お前は、自分の心に嘘をついているんだ」

「武器を持て」

 ケンは、無表情に、それだけを言った。

「……。やはりそうなるのか」

 こうなることは、最初から分かっていた。

 俺は素振りをするように右手を振った。何度か繰り返すうちに、俺の手の中に細長い棒が形作られていった。それが次第に太さと硬さを増していき木刀になった時に、俺は素振りをやめた。

「そんなもんでいいのか」

 ケンが聞いた。黒色に鈍く光る木刀は鋼鉄に勝る硬度と重量を備えていたが、首刈り出刃に比べればおもちゃのようなものだ。

「ああ」

 俺は答えながら後ろに下がった。

「何故下がる。お前はあの時、十メートルが俺達にとって勝負の分かれ目だと言ったろ。この距離で、その体と武器で、俺に勝てるつもりか」

 今、俺達の距離は十二メートルほどだった。

「構わん」

「……」

 俺がケンの気持ちを知っているように、ケンも俺の気持ちを悟っている筈だった。

「来いよ」

 ケンが言った。

 俺は、造ったばかりの木刀を上段に構えた。両膝にじわりと意志力を溜め、俺はケンに向かって跳躍した。

 聞き慣れた、あの奇妙な音が鳴った。

 十個の弾丸は全て俺の両膝を貫通した。膝が爆発し、バランスを失った俺は前のめりに倒れながら木刀を振った。が、ケンは発砲すると同時に背後に跳んでいた。木刀は空を斬った。俺は地面に転がった。ケンの破壊の意志力をまともに受けた俺の両膝は、短時間では修復しようがない。

「不様だな」

 ケンは唇を歪めた。彼との距離は依然として十メートルあった。そして、この距離は、縮めようがなかった。

「足を封じられたらお前は終わりだ。前に話した時、そんな簡単なことを考えなかったのか」

 しぼんでいたケンの指先が、再び膨らみを取り戻してくる。弾丸の装填が完了したのだ。

「まだ希望はあるんだ。ケン、お前はそこから逃げようとしている」

「馬鹿」

 ケンの指先から発射された弾丸は、木刀を握る俺の右手を吹っ飛ばし、左肩の肉と骨を削り、脇腹を破った。気が遠くなりそうな痛みだ。

 だが、俺は耐えた。

「本当はお前も迷っているんだろう。そんな自分を認めたくないんだ」

 次弾が来た。なんとか体をひねる。左の肘が壊れ、ブラブラになった。首筋の肉が爆ぜた。出血しているが、頸動脈には達していない。腹部にはまともに弾を食らった。痛みで腹に力が入り、腸が外に顔を出した。

 もう、反撃も、逃走も、出来ない。

 俺に出来ることは、語りかけることだけだった。そして最初から、それしか方法がないことを俺は知っていた。かつてイラーハが命を懸けて俺にそうしたように、俺も体を張って説得を続けなければならない。

「無駄だ、雄治。お前の言葉は俺に届かない」

「顔が引き攣ってるぞケン」

 俺は言った。いつもの皮肉な笑みではなくなっている口元に、おそらくケン自身は気づいていなかったろう。

「だったら何故早く止めを刺さない。一年半前の時のお前は、もっと容赦がなかった。認めろよ、ケン。お前も『ワンダリング・オアシス』に、セネカに、希望を見ている筈だ」

 答えず、ケンは自分の指を見つめていた。その指先に、次弾が装填される。

 ケンは全ての指を、俺の体の一点に向けた。

「次は頭を狙う。お喋りもこれで終わりだ」

 静かな口調だった。

「……ケン。本当に、それでいいのか」

 ケンは答えなかった。

 その時、俺の背後から声がかかった。

「待って。待ってよ」

 パタパタと駆けてきたのはセネカだった。どうやって俺達のやり取りを知ったのかは分からない。メンバーの中にいるというテレパスが報告したのかも知れない。鋭敏な感覚のケンまでギョッとしたように顔を上げたのは、彼も外界へ注意を向ける余裕がなかったということか。

 セネカは俺を庇うようにして、ケンと俺の間に立ちはだかった。更に後ろから凄いスピードで駆けてくるのは鋭い目の男だ。慌てた様子で、かなり出遅れたらしい。

「やめようよ。事情は知らないけど、とにかく喧嘩は良くないよ」

 荒い息をつきながら、セネカが言った。

 この状況を、喧嘩、か。俺は少し可笑しくなった。

 ケンは苛立たしげに言った。

「どけよ。お前の知ったことじゃないだろう。余計なことに首を突っ込むと、痛い目を見るぞ」

「嫌だ」

 はっきりと、セネカは答えた。

「離れろセネカ、危険だぞ。そいつらは……」

 鋭い目の男の緊迫した声が届く。

「ゴドーは来ちゃ駄目だ。仲直りさせるんだから」

 鋭い目の男・ゴドーは、それでピタリと立ち止まった。

「そこをどいてくれ」

 俺はセネカに言った。

「これは、俺達二人の問題なんだ」

「嫌だ」

 両腕を広げて盾となり、セネカは言った。

 ポキュン。

 一発の弾丸が、セネカの右腕を貫いた。おそらくケンなりに手加減したものだったろうが、白い服の生地と一緒に上腕の肉が弾け、骨が覗いた。

「うわっ」

 セネカは後ろに転がった。倒れかかる彼を、俺は先のない右手首で支え、そして脇へ押しやった。少年の白い服に血がついた。

「信じられないくらい痛いだろう。所詮お前は俺達とは違う種類の人間なんだよ。さっさと仲間の元へ帰れ」

 ケンが冷たく告げた。

「痛い。凄く痛い。うわーん」

 セネカが、声を上げて泣き出した。彼は外見相応の少年だった。彼にはゲヘナ・オルセンのような圧倒的な強さはない。

「スナイパー、貴様っ」

 ゴドーが怒鳴った。両手に数本ずつ、一見自転車のスポークのような細長い凶器を、指の間に握っていた。ゴドーの表情が消えた。戦闘態勢に入ったのだ。

「駄目だゴドー」

 ゴドーを制止したのは、セネカだった。彼は傷ついた右腕を押さえていた。ケンの弾丸だ。幾ら自身がヒーラーとはいえ、すぐに治る筈はない。

 俺は、セネカが離れるかと思った。俺達から距離を取って、ならもう勝手にしてよ、そう言うかと思った。

 だが、セネカは、再び俺とケンとの間に立った。

「喧嘩はやめてよ」

 痛みを堪えながら、セネカはそう言った。

「また撃たれたいか。今度は手加減しないぜ」

 台詞とは違い、ケンは動揺しているようだった。彼も、セネカが逃げると思っていたのだろう。

「撃たれたくない。もう痛いのは嫌だ。でも、このまま見過ごすのも嫌だ。だから、喧嘩をやめて欲しい」

「どいてろ。すぐに片はつく」

 ケンが指を向けた。セネカの体がビクリと震えた。

 怖いのだろう。

 だが、セネカは逃げなかった。

「嫌だ」

「……」

 ポキュン。

 再びケンの弾が飛んだ。弾はセネカの左足の、脛の部分に当たった。骨が砕け、血と一緒に骨の欠片が散った。

「うう……」

 セネカは尻餅をつき、砕けた足を押さえた。今度は彼は呻くだけで、泣き声を上げなかった。顔をしかめて耐えるセネカの頬を涙が伝っていった。

「セネカ」

 ゴドーが両手を上げかけた。

「いや、大丈夫だから」

 セネカはゴドーに言った。強がりであることは明らかだった。

「どうだ。失せろよ」

 ケンの声はしゃがれていた。

「嫌だ」

 なんとかセネカは片足で立ち上がった。全身が、痛みのためか恐怖のためか小刻みに震えている。怯える小動物のように。

 それでも、セネカは両腕を精一杯に広げて立っていた。

 俺の中に、何ともいえない不思議な感情が湧き上がっていた。絵美が去った後、長い間忘れていた感覚だった。

 この、セネカに対する気持ちは、何だろうか。

「殺すぞ」

 ケンの声は震えていた。

「やめてよ。お願いだから」

 涙を流しながら、今にも崩れ落ちそうにして、セネカは言った。

 ケンの十本の指が、セネカの心臓に向けられた。その指も震えていた。

 やめろ。

 俺が叫ぶ前に、突然、ケンの顔が、クシャクシャに歪んだ。泣いているような笑っているような顔になった。ケンは両手で顔を覆った。今の表情が、決して見せてはいけないものであったかのように。

「ケン」

 顔を覆ったまま、ケンは急に背を向けた。そのまま何も言わずに走り出した。遠くへ、俺達から逃げるかのように遠くへ。

 危機的状況を脱して気が抜けたのか、セネカがよろめいた。その体をゴドーが素早く支えた。

 

 

  八

 

 セネカによって治療してもらった俺は、急いでケンの消えた方向へ走った。そんなに遠くへは行っていない筈だ。彼はもう、認めたのだから。

 予想通り、十五分ほど走るとケンの姿が見えた。彼は砂の上に膝を抱えて座っていた。砂漠で独り佇む彼の後ろ姿は寂しげだ。

「ケン」

 俺の呼びかけにも、ケンは振り向かなかった。俺はそのまま彼の横に並び、腰を下ろした。

「木刀は持ってきてないのか」

「ああ。あれはもう使わん。今度はもう少しましなのを造るさ」

 ケンの横顔の、サングラスの隙間から緑色の瞳が見えた。目の下には涙の痕がある。ずっと独りで泣いていたのだろう。

 俺はそれについては何も言わなかった。ただ黙って、ケンが話すのを待った。

「俺は……」

 暫くして、ケンは語り始めた。

「現実に叩き潰されてきた人間なんだ。幼い頃から、俺が求めたものは決して得られなかった。それは、本当に、何でもないものだったのにな」

 俺はケンの大きな屋敷を思い出した。部屋は何十もあるのに、彼以外、誰も住んでいない家。家政婦は交代制だった。

「だから俺は、斜に構えて生きることにしたんだ。社会にも人生にも期待せず、他人に善意を求めない。それは楽な生き方だったが、俺はそれで益々独りになった」

 ケンの顔が、俺の方を向いた。

「お前と絵美は、俺にとって全てだった。絵美が去った時、俺は世界の半分を失ったと思った。……結局俺は、世界を滅ぼすことでその痛みを紛らそうとしていたのかな。世界が救いようがなくなったんじゃなくて、自分の勝手な都合だったんだ。『ネクロティア』に会って同類の姿を見た時、何か変だと思ったのは、そういうことだったんだな。だが、俺はそれを認めるのが怖かった」

 ケンはサングラスを外し、残った涙を拭った。

「迷っていたお前を、血みどろの戦いに駆り出したのは俺だ。すまなかったな」

「いや。いいんだ。俺達はここにこうして生きているし、まだ望みはある」

「ああ。そうだな」

 ケンはサングラスをかけ直して、はっきりと言った。

「『ネクロティア』は潰す」

 俺は頷いた。

 頭痛がいつの間にか消えていることに、俺は今になって気がついた。

 頭の傷に触れてみる。皮膚が繋がり始めているようだ。縫合の糸を引っ張ると、あっけなく抜け落ちていった。

 俺の中の迷いも、消えていた。

 

 

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