九

 

 キャンプ地に戻った俺達を迎えたのは、涼しげな微笑を浮かべたミクレルだった。

「良かった。丁度間に合いましたね」

 ミクレルはそう言うと、赤い鋼鉄の凶器を俺に差し出した。そう、俺の首刈り出刃。

「取り返してきましたよ」

「助かる」

 俺はその重みをしっかりと受け取った。俺の目的は百八十度変わったが、それでもこの血塗られた凶器は役に立ってくれるだろう。

「どうやってここに来た」

 尋ねると、ミクレルは肩を竦めた。

「色々と大変でしたよ。逃げたと思わせておいて気配を消して隠れ、首刈り出刃を盗み出して全速力で逃げました。それから『再生会』の仲間に連絡を取るため、思念の届く距離まで走り、助っ人を呼ぶように話をつけたら今度はこっちまで走り詰めです。お陰でかなり痩せてしまいましたよ」

 最後の台詞は冗談なのか本気なのか分からない。帯となって分かれることの出来る彼の体は、もしかしたら空洞になっているのかも知れない。

「助っ人だと。『再生会』の戦士はお前だけじゃなかったのか」

「彼は戦士ではありませんが、きっと役に立てる筈です。足が遅いので、合流するまで時間がかかるでしょうがね」

「『ネクロティア』は今何処だ」

 ケンが聞いた。

「日笠の助けがない今、私の力では探知出来ません。ただ、彼らの行く先は分かっています。ヒマラヤ山脈の麓に彼らの本拠地があるのです。今回あなた方によって多数の死者が出たため、彼らは仲間の死体を持ってそこに向かっているでしょう」

 『ネクロティア』の構成員の死体は、黒い堆積物にはならないということか。

「何のために死体を持っていくんだ」

「自分達の目標に、全身全霊、朽ちた肉体の最後の一片までを捧げるためです。つまり、そこに彼らが建設中の『核』があることは間違いないでしょうね」

「詳しい位置は分かるか」

「『希望』派が以前から調査を進めていますが、大体の位置しか分かりません。結界が張られていて、近づいた者は殺されるのです」

「行こうぜ。俺が探し出す」

 躊躇なくケンが言った。

「しかし、助っ人が揃ってからでないと、戦いが厳しいものになるでしょう」

「そいつを待ってる間に奴らが『核』を壊さねえって保証はあるのか。奴らも被害を負って逆に焦っているかも知れねえ。悠長に構えてる暇などねえよ」

 ミクレルは眉をひそめてケンの顔を見つめていたが、やがて頷いた。

「そうですね。確かに時間がない。途中で合流出来るかも知れませんし、すぐに出発しましょう」

 俺達は『ワンダリング・オアシス』のキャンプ地を発つことになった。別にまとめる荷物もない。俺には首刈り出刃があれば充分だ。ただ、背中の軽さが気になった。かつて日笠がいた場所。

 日笠。どうやらお前の期待した通りになっているらしい。俺は救世主にはなれないが、それでも少しくらいは役に立てるだろう。

「もう行くの」

 見送りに来たセネカがちょっと寂しそうな顔を見せた。俺達は緑の中にいた。砂漠の地面に草が生え、育った木々が木陰を作っていた。種類はバラバラだが、いずれは調和して一つの生態系を造り上げるかも知れない。

「ああ、うまく行けばまた会えるだろうさ。うまく行かなけりゃ世界は消滅してお終いだが」

 俺は答えた。

「やっぱり僕も行く。安全なところで傍観している訳にはいかないよ」

「足手まといになるだけだ。ここで、世界が続くように祈っててくれ。世界の行く末は多数決で決まるらしいからな。そっちの方がよほど助けになりそうだ」

「……。うん」

 セネカは俯いた。俺は不意に、この少年を抱き締めてやりたい衝動に駆られ、それに耐えた。

「さっきは悪かったな。傷が残ったんじゃねえのか」

 ケンがセネカに言った。

「いや、大丈夫だよ。それよりもあなた達が仲直り出来たから」

 セネカの右腕と左足は、元通りに白い衣服が覆っている。ただその下で、傷が実際にどの程度治っているのかは分からない。

「それと、気になっていたことがあるんだが、聞いていいか」

 ケンは、少し緊張しているようだった。

「何」

「お前は、何才になる」

 俺はギクリとした。

 ケンも、やはり、気づいていたのだ。

「六才だよ。どうして」

 セネカは無邪気に答えた。

「いや……。俺の昔の知り合いに、お前がちょっとだけ似てると思ったのさ。気にしないでくれ」

 ケンは、それ以上のことは言わなかった。

「じゃあな。お前達も気をつけろよ。ゴドー、後はよろしく頼む」

 セネカの横に立つゴドーに俺は声をかけた。

「ああ。悪いな、一緒に行けなくて。俺は『ワンダリング・オアシス』から離れられない。どんな時でもな」

「いいさ。誰かがここを守っていないと不安だからな。ところでお前の武器は、どんなふうに使うんだ」

 俺は尋ねてみた。

 ゴドーは微笑した。軽く右手を振るとあの細長い武器が一本、顔を出した。それはよく見ると、更に何本かの薄い金属の刃が折り畳まれて出来ていた。

「見てろ」

 ゴドーは傍らにある四、五メートルほどに成長した楢の木に、それを簡単に突き刺した。手首を緩くひねりながら抜くと、どういう仕組みになっているものか、傘のように開いた刃が幹を抉り、大きな空洞が残った。

「軽いので素早く動かせる。うまく投げれば相手に刺さった時に傘が開いて内臓を抉る」

 得意げに話すゴドーの頭を、後ろから中年の太った女が叩いた。

「こら、馬鹿ゴドー。折角育てた私の木になんてことするかっ」

 俺は腹を抱えて笑った。ケンもセネカも笑った。ミクレルも笑った。その場にいた他の人々も笑った。

「では、行きましょう」

 ミクレルが言った。

「もう数日したらゴドーの苺が実をつけるよ。帰ってきたら皆で食べようよ。ゴドーはあんな顔してるけど、育てた実はとってもおいしいんだよ」

「あんな顔ってのは余計だがね」

 セネカの言葉にゴドーが苦笑し、そして俺達は出発した。

 

 

  十

 

 振り返ると、もう『ワンダリング・オアシス』のキャンプは遙か彼方に小さくなっていた。あそこは正にオアシスだった。この荒んだ世界の。

 彼らのやり方が完全とは思わないし、このまま順調に行くとも思えない。しかし賭けるだけの価値はある。絶望よりはましだ。

「丸一日駆け続ければ、なんとか着くと思います」

 ミクレルは先頭を軽やかに走る。その後がケン。そして最後が俺だ。

「ついてこれるか雄治。そのなまっちろい体で」

 振り返って後ろ向きに走りながらケンがからかった。分厚かった俺の筋肉は今は未発達で、ケンよりもまだ痩せている。

「大丈夫だ。なんとかする」

 俺は答えた。高速で走る二人についていくのは苦痛だったが、足手まといになるわけにはいかない。敵地に着くまでの間に自分の体を調整しなければならないだろう。そしてそれは可能な筈だ。この世界では意志力が全てを支配するのだから。

「それよりケン。お前はどう思う」

「何をだ」

「セネカは六才と言った。もしあの時点で絵美が死んでいたのなら、もう九年にもなる」

「転生か」

「そうだ。お前もそれを考えていたんだろ」

 かつて、偽救世主エリヤ・トルサネスは、自分を絵美の生まれ変わりだと主張して俺を騙した。今俺は、セネカ・レイが絵美の生まれ変わりではないかと勝手に疑っている。

「……。いや。決めつけない方がいい」

 ケンは首を振った。

「あいつは俺達の顔を見ても何とも思わなかったし、確かめようがない。それに、セネカは絵美とは違う」

 そう。セネカは逃げなかった。

 絵美が死んだのは事実だ。俺は安易に絵美の代わりを探しているだけなのか。いや、俺達は。

「ミクレル。お前もテレパスなら、セネカの心は読めるか」

 俺は先を走るミクレルに声をかけた。彼が俺達の心理を読んでいることを見越して。

「さて」

 走りながらミクレルが振り返った。

「少し冷たいことを言わせて頂きますが、仮にセネカが新藤絵美の転生した姿であったとして、それで一体どうするというのですか。セネカは今の人生を生きています。前世の記憶を無理矢理呼び覚ましても無益でしょう」

「それは、セネカが絵美だってことか」

 ケンが言うと、ミクレルは微笑した。

「私には、彼女の深層心理まで読み取る力はありませんよ」

 ミクレルの言葉に、俺達はあんぐり口を開けた。

「今、彼女、と言ったか」

「おおっと失言でしたな。セネカを彼と呼ぶにも憚りがありましたのでね」

「どういうことだ」

「セネカは両性具有者なんですよ。男性でも女性でもない。と同時にどちらでもある。『生命の壷』からそんな状態で生まれたのは極めて珍しいことです」

「少年だと思っていた」

「『再生会』でも噂になったことがありますよ。元々は女性の面が勝っていたようですけれど。ああいう状態に落ち着いたのは、強さへの憧れのようなものがあるのかも知れませんね」

 ミクレルは言った。

 ケンはその後暫く、何か考え込んでいたようだった。

 両性具有だと知って、狙っているんじゃないか。俺はちょっと不安になり、そんな自分の気持ちにまた驚いた。

 いや、それよりも、まずは『ネクロティア』だ。

 俺達は砂漠を越え、ただ黙々と、荒野を、廃墟を、走り続けた。ヒマラヤの麓にあるという『ネクロティア』の本拠地を目指して。

 

 

  十一

 

 夕暮れが迫っている。俺達が『ネクロティア』と遭遇した時のように。

 出発から二十七時間後。俺達は唖然として目の前に広がる光景に見入っていた。

「これがヒマラヤか」

「どうやらそうみたいですね」

 ミクレルは冷静だった。予めこのことは知っていたのだろう。

「ヒマラヤってのは山脈じゃなかったか」

 ケンが聞いた。

「山脈です」

「じゃああれは何だ。俺はヒマラヤ山脈のことはよく知らねえが、あんな形じゃなかったよな」

「そうですね」

 そこに山はなかった。端の方に幾分ささくれのような出っ張りが残っているが、後は大きく抉られた地面が広がるだけだ。

 かつてヒマラヤであった場所は、巨大なクレーターになっていた。荒れ果てた大地をクレーターの縁へと走る俺達は、ちっぽけな存在でしかなかった。

「変革期の混乱の際に、水爆でも落ちたのか」

「いいえ違います。少なくとも二○一三年五月の時点までは、ヒマラヤ山脈は確認されています。『ネクロティア』がやったものでしょう」

「『核』を造るためか」

「さあ、それは……」

「誰か来るぜ」

 ケンが鋭い声で警告した。

 底知れぬクレーターの闇の奥から、一人の男が現れた。

 俺達が猛スピードで接近していることを知りながら、男は悠然とこちらへ歩いてくる。今のところ見えるのは、その男一人だけだ。

 痩身にブラックスーツを着たその男は、病人のように青白い顔をしていた。黒い髪は綺麗に撫でつけられている。常人よりも大きな瞳が、陰鬱な殺意に光っていた。

 俺達は減速しなかった。ケンが片手を軽く上げた。すれ違いざまの弾丸が男をあっさり片づけてくれるだろう。

 五十メートルの距離まで近づいた時、ケンの指から二発の弾丸が発射された。ポポキュンという発射音と同時に、キンという乾いた音が聞こえた。

「うおっ」

 傍らを走り抜けるつもりだった俺は、空気を裂いて迫る何かを避け横に跳んだ。鋭い痛みが走り、俺の右頬が浅く切れていた。

「へえ、驚いたな。まさか俺の弾を撥ね返すとはね」

 ケンが唇を歪めた。

「恐れ入ります。これはほんの挨拶代わりです」

 男は慇懃無礼に頭を下げた。ただし視線は俺達から外さない。

 この男は強者だった。少なくとも俺達と同じレベルにいる。

「初めまして、私はバロッサと申します。この間の会合ではゆっくりご挨拶も出来ず、残念に思っていましたよ。おや、スローター殿は服を新調されたのですね。前の赤い色が似合っておられたのに」

 男の両手の指は先に行くにつれて細くなり、鞭のようにしなっていた。先端は見えない。

 おそらくそれが、ケンの弾丸を叩き落とし、俺の頬を切ったのだ。

「気にするな。すぐにまた赤くなる」

 俺は答えた。『ワンダリング・オアシス』で貰った服の上に、自分で造ったコートを着ている。どちらも今のところは白い。

 今の俺は、ほぼ元通りの体型に回復している。

「お前の仲間達は奥にいるんだろ。どけよ」

「いえ、そういう訳には参りませんね」

「じゃあ死ね」

 ケンの声と同時に俺達は動いた。残り八発の弾丸が一斉に発射され、俺とミクレルが左右から迫った。十本の鞭がうねり何発かの弾丸は弾かれ、残りも器用に体をひねって致命傷を避ける。弾はバロッサの脇腹と肩を削っただけだった。信じられない男だ。

「むっ」

 ケンの驚愕。

 バロッサが走り出した。真っ直ぐケンの方へ。肋骨の散弾はこんな前哨戦で使う訳にはいかないし、何より俺達にも当たる。

 俺とミクレルは間をすり抜けようとするバロッサへ襲いかかった。首刈り出刃を振り下ろす俺の右腕を鞭の先端が貫いた。弱い力だったがぐいと引かれ、僅かにずれた刃の軌道の下をバロッサがくぐり抜ける。俺は風を切る気配に首を反らせた。鞭の一本が俺の目の下に突き刺さりもう一本は俺の首筋を切り裂いた。傷は浅い。ミクレルが舌打ちした。彼の帯の切れ端が落ちる。ミクレルの帯をバロッサの鞭が切断したのだ。だがそれでもミクレルの別の帯はバロッサの左足首を切り裂いていた。アキレス腱を切るまでは行かなかったらしくバロッサのスピードは衰えない。ミクレルの腹部には血が滲んでいた。

 ケンの次弾の装填まで時間がかかる。俺は刺さった鞭を左手で握って強く引いた。バロッサはすぐに抜くつもりだったのだろうが俺が腕の筋肉で締めつけて離さなかったのだ。バロッサの姿勢が僅かに崩れる。他の鞭が迫るのも構わずに俺は首刈り出刃を渾身の力で叩きつけた。俺の右耳が削がれ左手の薬指と小指が落ち右脛が裂かれた。身を庇うために上がったバロッサの右腕を俺の出刃が切り落としそのまま右胸を割った。バロッサには致命傷ではないだろうが肋骨をぶち割った刃は肺まで達した筈だ。飛び退いたバロッサの膝がカクンと落ちた。ミクレルの帯が背後から両膝の関節を破壊したのだ。ミクレルの眉間が割れ頭の布が裂けていたがその顔は会心の笑みを浮かべていた。先に装填の終わった二発の弾丸がケンの指先から発射された。今度はバロッサは避けることが出来なかった。左手の鞭の一本が一発を弾いたがもう一発がバロッサの胸を貫いた。血と肉と骨の爆発。

「終わりだな」

 ケンが告げた。

「ぐう……確かに……私の負け……です……ね」

 崩れ落ちたバロッサが、血を吐きながら呻いた。

「しかし……我々は……目標を達成……します……あなた方は……判断を誤った……のですよ」

「まさか」

 ミクレルが顔色を変え、すぐに走り出した。クレーターの見えぬ底へ向かって駆け下りていく。

「どういうことだ」

 俺はバロッサの裂けた胸倉を掴んで引き上げた。左手の鞭が蠢いたが、既に攻撃する力はないようだ。

「ここにはもう……『核』は……ありません……皆で……運び出した後なのです」

「何処に運んだ」

「それは……言えませんね」

 バロッサは死相に淡い微笑を加えた。

「今夜のうちに……儀式が始まる……予定……です……私は……血を好む……私の卑しい魂では……『核』を汚してしまうと……思った……だから私は……残ることを……志願したのです……私の思念を仲間のテレパスが……感知して……あなた方が来たことは……伝達されるでしょう」

「『核』を何処に運んだんだ」

 焦った俺はバロッサの腹を掴み、肉を引き裂いた。内臓を引きずり出され苦痛に顔を歪めながらも、バロッサは弱々しく首を横に振るだけだった。

「もぬけの空です。何もありません。何も」

 駆け戻ってきたミクレルが言った。彼もまた動揺していた。

「ミクレル。こいつの心を読め」

 ケンが言った瞬間、バロッサの頭が爆発した。血と脳漿が俺の顔にかかった。読まれないように念を入れて、彼は自殺したのだ。

「嫌な予感がします」

 ミクレルが首を傾げた。

「バロッサの最期の思考に、『ワンダリング・オアシス』のことがありました。もしかすると『ネクロティア』は決定権を強めるために『希望』側の殺戮を……」

「急いで戻るぞ」

 ケンは走り出していた。俺達もすぐに後を追う。

 なんてこった。セネカの無邪気な笑顔が俺の脳裏に浮かんだ。

 戻るまでまた丸一日かかるだろう。どうか間に合ってくれ。どうか……。

 陽は既に落ち、闇が迫っている。

「ぎりぎり間に合ったようです。思念が届きました」

 走っているうちに、突然ミクレルが叫んだ。

「どうした」

「助っ人ですよ。彼は強力なテレパスで、綽名で千里眼と呼ばれています。『再生会』の副議長です。感覚を混乱させる敵の攻撃に対処するために、私が頼んだのです」

「だがそれが、今の状況で何の役に立つ」

「千里眼はスナガに連絡を取っていたようです。彼の移動速度は桁違いですからね。じきに私達と合流出来るでしょう」

 ミクレルは緊張しながらもにっこり笑ってみせた。

 俺達はただ走り続けた。夜の闇に目を凝らしていたケンが、接近するスナガを発見したのは一時間ほど後のことだった。

「急いで掴まれ」

 事情が伝わっているのだろう、宙で静止してスナガが叫んだ。

「だが三人も運べるのか」

 俺が聞いた時には、ミクレルの体が数本の帯に分解を始めていた。

「私の体重はないもどうぜんでスカラ。デハシツレイシテ」

 白い帯は、ケンの首と胴体に巻きついていった。

「なら二人分だ。行けるか」

「やるしかないだろう」

 俺とケンは跳躍し、スナガの左右の腕にそれぞれ掴まった。

「クハ、クハハハッ」

 スナガは高らかに笑うと、大きく翼を羽ばたかせて飛び出した。荒れ果てた地表がすぐに遠くなり、凄いスピードで流れていく。

「出来るだけ体を水平に保て。空気の抵抗を減らすんだ」

 そう言うスナガは何処か楽しげだった。俺は首刈り出刃を体に密着させた。十キロの重量を運ばせて悪いが、こいつはゲヘナと戦うためには絶対に必要なのだ。

「大したもんだな。これで時速何キロくらい出てるんだ」

「六百キロほどだ。あまり喋るなよスナイパー。スピードが鈍る。こっちだって精一杯なのさ」

 それで俺達は黙った。

 スナガはスピードを維持したまま、闇の空を進んでいった。後どれくらいで『ワンダリング・オアシス』のキャンプ地まで着くだろう。無事でいてくれればいいが。

 ……漸く君達にも思念が届く距離になったな。樫村雄治に三島健一郎……

 俺の頭の中に声が響いた。テレパスだ。その思念は日笠のそれよりも強く、硬質な印象があった。

 千里眼か。

 ……その通りだ。喋らなくていい。考えるだけで私にも届く。日笠は気の毒だった。だが彼も悔いはなかったろう……

 千里眼の思念はケンとスナガにも伝わっているのだろう。

 『ワンダリング・オアシス』は無事か。どうなった。

 ……これから私の把握出来る範囲で、皆の意識を私が中継する。相性が良ければそのまま会話出来るし、相手の見ている光景も見えてくるだろう。最初は戸惑うだろうが、私がうまく調節する……

 千里眼の思念がやみ、少しして聞き覚えのある別の声が入ってきた。現実の声に近いのは千里眼が調節しているせいだろうか。

 ……やられた……

 その声は、『ワンダリング・オアシス』のゴドーのものだった。

 ……ゴドーか。皆は無事か。セネカは……

 これはケンの思念。

 俺の中に、一つの光景がイメージとして浮かんできた。破れ、焼け落ちたテント。倒された木々。そして転がる人々の死体。ゴドーの姿がないのは、これがゴドーの見ている光景だからだろう。

 ……セネカは連れ去られた。ほんの三十分ほど前だ。片目で火傷肌の男が、最後の儀式に生け贄として使うと言っていた。世界を消し去るには、希望を殺さなければならないと。畜生。土手っ腹に大穴を開けてやったのに、奴は平然としてやがった……

 俺の全身の血が逆流した。ゲヘナの野郎。

 ……あれがゲヘナ・オルセンだったのか。『ワンダリング・オアシス』は皆殺しにされた。俺も駄目だ。手足を切り落とされ、内臓も空っぽだ。畜生。セネカ……

 ……奴らは何処へ行った……

 ケンが問う。

 ……西の方だ。詳しくは分からない。頼む。セネカを助けてくれ。世界を……

 ゴドーの思念は小さくなっていき、やがて聞こえなくなった。

 死んだのだ。

 千里眼の冷静な思念が告げた。

 ……大体の方向は私が指示しよう。高度をもっと上げた方がいい。その方が見つけやすい。おそらく我々の位置関係は、君達と『ネクロティア』との間に私がいるような形だ。敵のテレパスは位置を知られないために妨害思念を放射しているが、もう少し近づけば私の力も及ぶだろう……

 

 

  十二

 

 ほんの一、二時間が、永遠に感じられる。

 焦燥感のあまり叫び出したくなるのを、俺はどうにか抑えていた。横のケンも歯を食い縛っている。

 スナガはスピードを維持して飛び続けているが、荒い息をつくようになっていた。かなり消耗しているのだろう。俺達は縮こまって出来るだけ邪魔にならないようにするしかない。

 ……右方の砂漠に千里眼がいます。じきに見えてくると思いますよ……

 帯となったミクレルの思念。声と同じく涼しげだ。

 ……何だあいつは……

 やはり先に認めたのはケンだった。やがて俺の目にも、夜の砂漠を進むものが見えた。

 人影は、二人だった。一人がもう一人を背負って走っている。背負われた方は、痩せこけた全身に包帯を巻いていた。隙間なく包帯で覆われた顔の両目と両耳に、太く長い針金が刺さっていた。特に耳の方は、耳から耳へ貫通しているように見える。

 ……何かを得るためには相応の代償を支払う必要があるとは思わんかね。君達が強さを得て愛する人に去られたように……

 余計なお世話だ。

 包帯の男が千里眼で、それを背負って走るのは『再生会』の仲間だろう。

 ……行くがいい。儀式は進み、既に『ネクロティア』のテレパス達でも隠蔽出来ない段階だ。冷たい高揚感に満ちている……

 ……もう八、九十キロだな。十分もかからずに着く……

 スナガの思念が告げる。

 千里眼の姿はすぐに遠ざかっていく。最後に片手を上げて挨拶するのが見えた。

 彼方の空が白み始めていた。俺は一瞬、夜明けが来たのかと思った。だが北西に向かっているらしい俺達の正面に何故日が昇るのか。

 ……世界の『核』だ。人が造り上げたものが真実と化そうとしている。信念とは恐ろしいものだ……

 千里眼の声にも畏怖が感じられた。

 急に空気の抵抗が増した。結界に突入したらしい。かつて理想都市『光』に入る時にも生じた感覚。

 ……結界自体が凄い勢いで膨張を続けている。まるで世界を覆い尽くそうとするように……

 光量が増していく。それは朝陽の赤みを帯びた光ではなく、青く醒めた光だった。冷たいような熱いような奇妙な空気に触れ、俺は全身に鳥肌を立てていた。

 突然、圧倒的な強さで流入してきたそれは、おそらくは、拡大していく『ネクロティア』の人々の内界だったのだろう。

 それは無数のイメージだった。

 それは並木道を恋人と手を繋いで歩く場面だった。それは教会で生涯の伴侶となるべき相手と口づけを交わす場面だった。それは一つのテーブルで家族が揃って夕食を摂る場面だった。それは運動会の百メートル競争で一等を取り両親が歓声を上げる場面だった。それは雪山の頂上で達成感と共に景色を見下ろす場面だった。それは酒場で古い友人達と酒を酌み交わし語り合う場面だった。それは好きな野球チームが優勝しテレビの前で喜び騒ぐ場面であった。それは長年連れ添った妻と二人だけで初めて旅行に出る場面だった。それは恋人と映画館へ行き薄闇の中で胸をドキドキさせる場面だった。

 それらは、一つ一つが、ささやかな、幸福の欠片であった。

 同時にそれは、殺戮者達の影から家族の手を引いて逃げ惑う場面だった。それはありったけの核ミサイルが発射されたというニュースを混乱の中で知る場面だった。それは協力して生きる集落で一人が突然機関銃を乱射する場面だった。それは牙と爪を生やした男達が犠牲者の内臓を引きずり出して食らう場面だった。それは軍服の男がサーベルで無表情に女の首を切り落とす場面だった。それは追い詰められた者達を斧を持った男が生きたまま解体していく場面だった。それは発狂した妻に背中から刺される場面だった。それは子供同士の喧嘩が血みどろの殺し合いに発展する場面だった。それは、磔にされた妻を、男達が、笑いながら、刺していく、場面だった。

 それらは、一つ一つが、石のように固く凍った、絶望と憎悪の断片であった。

 俺は、それぞれを自分のものとして実感した。全身がバラバラに裂けるよりも辛い、彼らの苦痛を俺は感じていた。

 混沌とした彼らの叫びは渦となって周囲に流れ出していた。それはそのまま結界となり、『核』を真の『核』とするために拡大していく。

 ……『核』に近づくにつれて更に思念は強まる。君達が混乱しないようにイメージの流入を遮断しておく。その代わり儀式の情景を、彼らの感覚を総合的に処理して私が送信しよう……

 千里眼の声が頭に響いた。それは同時に、俺達の迷いを恐れたのかも知れなかった。

 ……もう迷わないさ……

 ケンの強い思念が伝わってきた。

 そう。その通りだ。

 俺達の視界に別の光景が重なった。『ネクロティア』のメンバーの感覚を千里眼が取り込んでいるのだ。

 青白く輝く光に最初は目が眩んだ。目が慣れてくるにつれ、周囲の状況が分かってくる。

 荒野に径百メートルほどの巨大な穴が開いていた。それは綺麗な円筒形に抉れ、真下に何処までも延びていた。時折洩れる篭もった赤い光は、マグマなのだろうか。

 ……その穴は地球の中心まで続いている。予め秘密裏に用意していたのだろう。運び出してきた『核』とリンクさせているようだ……

 千里眼が説明した通り、縦穴の途中、地下百メートル付近にそれは浮かんでいた。青白い絶望の輝きを放つそれは、俺にも一目で世界の『核』だと理解出来た。直径は五、六十メートルほどだろう。地球、或いは宇宙に模したほぼ球体に近いそれは、ダイアモンドのようにカットされた無数の平らな面で構成されていた。それはゆっくりと回転しながら、周囲に強い光を放射している。

 ……凄え迫力だぜ。誰が見ても『核』だと納得出来るように造り上げたんだな……

 ケンが慄いた。

 ……『核』に君達を近づけるのは判断ミスだったかも知れない。君達があれを『核』と信じれば、あれを破壊することは世界の滅亡を意味してしまう。君達が望まなくても悪い方に投票してしまうことになるのだ……

 千里眼の後悔。

 だが、行かなければセネカは救えない。俺達に選択の余地はないのだ。

 光景が更に広がる。

 穴の周囲で黒衣の男達が放射状に整列し、中央を向いて立っていた。並び方にも象徴的な意味があるのだろう。

 穴の縁、ぎりぎりの場所に立つのは、黒い僧衣を纏った『ネクロティア』の首領、ゲヘナ・オルセンだった。腹部にゴドーがつけたらしい大きな傷があったが、彼はそれに構う様子もない。右手にはあの大きな鉈のような凶器を持っていた。そして左手は、白い服のセネカの腕を掴んでいた。振り払おうとしても、あのゲヘナの腕力に敵う筈がない。思わず俺の口から呻きが洩れた。

 ……まだ着かないのか……

 ……後二分弱だ……

 スナガも焦っているようだった。彼もセネカには会った筈だ。戦いが生き甲斐という戦士スナガも、もしかしたらセネカを気に入っていたのだろうか。

 奈落を、そして青く輝く『核』を覗き込むセネカは震えていた。

「怖いか」

 ゲヘナがセネカに尋ねた。不鮮明ではあったが俺達の頭にもその声は届いた。

「怖い」

 セネカは常に正直だ。

「悪いが目的達成のために役立ってもらう。君は残された数少ない希望の一つだ。君を殺して捧げることで『核』は完成するだろう。そして私が『核』を破壊し、世界は消滅することになる。痛いのは一瞬だ。そして世界の苦しみは終わる」

 ゲヘナの口調は穏やかだった。

「嫌だ」

 セネカは答えた。

「あなたはずるいよ。あなたは自分の悲しみに酔っているだけで、あなたの論理は独り善がりだ。僕達はまだこの世界に希望を持っているし、まだまだ生きていくつもりだもの。あなたは世界は救いようがないって言うけれど、自分がそう信じたくて現実から目をつぶっているだけなんだ」

「そう。私は悲しみに酔っているかも知れない」

 ゲヘナは微笑した。セネカの指摘にも全く動じていないのは明らかだ。俺達と同じく、彼もまた自分の欺瞞に心の何処かでは気づいていただろうから。

「だがこの酔いは醒めることがない。私に出来るのは、この世界を消し去ることだけだ」

「駄目だよっ」

 セネカは叫んだ。その目に滲む涙は恐怖のためか、或いは憐れみか。

 セネカの細い首を、ゲヘナの左手が掴み上げた。セネカは息も出来ず、手足をばたつかせるが外れない。

 俺には、どうすることも出来ない。

 俺はまた、大事なものを失ってしまうのだろうか。世界と共に。

「滅びを」

 大きな声で告げ、ゲヘナが右手の大鉈を振り上げた。

「届けーっ」

 ……頼む、届いてくれ……

 それまで黙っていたケンが突然叫んだ。同時に祈るような彼の思念も。彼はいつの間にか両手を前方に向けていた。指先から十個の弾丸が発射された。バズッという、これまでとは違う激しい音がした。反動でスナガが揺れた。ケンはさっきから黙って弾に意志力を込めていたのだろう。

 スナガに運ばれる俺達と、穴の周りに立つ『ネクロティア』の距離は、まだ五キロ近くあった筈だ。

 その距離を、ケンの弾丸が一瞬で越えた。

 全弾が、奇跡のようにゲヘナの右腕に命中した。肘の部分が爆発し、ちぎれた腕が大鉈を握ったまま地面に落ちた。よろめくゲヘナの左手から、セネカが抜け出した。だがすぐにその背をゲヘナが引っ張る。

「おおおっ」

 『ネクロティア』の者達がどよめいた。俺達の接近は千里眼の力によって隠蔽されていたらしい。

「ラストスパートだ」

 スナガが甲高い声で叫び、スピードが更に上がった。青く染まる世界の中で、次第に肉眼でも彼らの様子が見えるようになってきた。それに伴い千里眼の中継は終わる。

「無駄だ」

 もがくセネカの体を、ゲヘナは片腕で放り投げた。

 穴の中、死の奈落へ。

 おおっ、セネカ。

「ゲヘナ、貴様っ」

「放すぞ」

 俺が叫ぶのとほぼ同時に、スナガは俺達の体を放した。人間砲弾と化した俺は空中で首刈り出刃を構える。スナガのコントロールは見事なもので、俺は一直線にゲヘナに向かって落ちていった。ケンの方は彼らの只中へ飛び込んでいく。ゲヘナが左手で大鉈を拾うのが見えた。

「ゲヘナアアアアアアアアア」

 くたばれ、ゲヘナ。俺の同類よ。

 時速六百キロ以上のスピードが加わった渾身の一撃を、ゲヘナの大鉈が受け止めた。腕が痺れるような重い手応え。途中から折れた刃の先がすっ飛んだ。

 折れたのは、ゲヘナの大鉈だった。だが俺の体も弾き飛ばされていた。なんとか穴の縁に着地する。

「大丈夫だ。拾い上げた」

 疲れてはいるが得意げなスナガの声が、下方から届いた。上昇してくる彼の腕に、セネカが必死に掴まっていた。

 スナガ、助かった。

 セネカ。

「お前達の計画は失敗だ。諦めろ」

 飛びかかってくる奴らを斬り殺しながら俺はゲヘナに叫んだ。ケンは敵の中で、骨を機関銃のように撃ちまくっている。ミクレルの帯が、接近してくる敵を寸断してケンを守る。次々と『ネクロティア』の戦士達が死んでいく。何故か眼球を飛び出させて呻いている者達がいる。テレパスだろうか。日笠が回路を破壊されて死んだように、彼らも千里眼の力によってダメージを負ったのだろうか。

 いや、悠長に周囲を観察する暇などない。

「まだ終わっていない」

 ゲヘナの隻眼は、光を失ってはいなかった。

 先の折れた大鉈を、ゲヘナは逆手に持ち替えた。

「何を……」

 何をする気だ。

 ゲヘナは、自分の胸にそれを突き刺し、一気に下腹部まで引き裂いた。内臓がぞろりと零れ出し、血が噴き出した。

「世界の消滅のために、私自身を捧げる」

 そう叫ぶと、ゲヘナは穴へ飛び降りた。俺は慌てて下を覗き込む。

 青く輝く『核』の上に、ゲヘナは内臓をぶら下げたまましがみついていた。先のない右腕を振り、『核』のなめらかな表面を強く叩いた。

 ピシリ、と、小さな亀裂が走り、俺はゾッとした。同時に地面が、大気が揺れる。青い世界に黒い光の筋が差し込んだ。

 その揺れの規模が、世界の全てに及んでいることを、俺は実感した。

 世界が、『核』と共鳴している。

「いかん、『核』が壊れるぞ」

 俺は誰に叫んでいるのだろう。

「滅びを。滅びををををををを」

 『ネクロティア』の男達が口々に叫びながら、一斉に走り出した。

 穴の方へ。

 彼らは自分の武器で自分の喉を切り裂き胸を撃ち抜き腹を裂いた。そして集団自殺する鼠の群れのように、雪崩となって落ちていく。浮かぶ『核』の横をすり抜けて奈落へ。

 彼らの突進は止まらなかった。

「こいつら何を」

 戸惑い顔でケンが叫ぶ。

 ゲヘナがまた『核』を叩いた。亀裂が大きくなり、世界がまた震動した。差し込む黒い光が太くなる。

 畜生。やるしかないか。

 狂乱の中、俺も意を決して穴へと跳んだ。一歩間違えば横をすり抜けて奈落だ。

 風を切って落ちる俺の体は、なんとか『核』の端に着地した。衝撃で表面に細かいヒビが入りヒヤリとさせる。

 世界を模した『核』の巨大なエネルギーを、その震動を、俺はじかに感じた。

「やめろゲヘナ」

 人間の雨の中で俺はゲヘナに叫んだ。

 ゲヘナはやめなかった。その右腕が三度振り上げられた時、俺は首刈り出刃を振り下ろした。ゲヘナの脳天に打ち込んだ重い刃は鼻の半ばまで食い込んで止まった。硬い。ゲヘナの動きは止まらなかった。右肘が再び『核』の表面にぶつかり亀裂を広げる。ゲヘナはまた右肘を上げた。血みどろの隻眼は爛々と光っていた。

「やめろ」

 俺は出刃を引き抜き、『核』にしがみついたゲヘナの左腕に振り下ろした。頭よりも硬い手応えがあった。痩せた前腕の三分の一ほどしか食い込まない。ゲヘナなりに必死に防御しているのだろう。

 人間の雨は止んでいた。『ネクロティア』は全員がその身を破滅への贄として捧げたのだろう。

「やめろ、ゲヘナ、やめてくれ」

 俺は知らず、哀願口調になっていた。もう一度左腕の同じ個所に出刃を叩きつける。今度は更に硬く、殆ど刃が進まない。突然ゲヘナの体がビクンと震えた。穴の縁からケンが弾丸を撃ち込んだのだ。背中に幾つもの穴が開いて血が流れ出すが、それでもゲヘナは怯まない。彼は無言で肘を打ち下ろした。また亀裂が広がる。

 空間の揺れが激しくなり、青い世界が黒との斑になっていた。宝石のようになめらかな輝きを誇っていた『核』の、三分の一ほどが亀裂に覆われている。

 世界が、壊れつつあることを、俺は実感した。

「やめろーっ」

 俺は首刈り出刃を横に振った。首を刎ねる筈のそれはゲヘナの首の半ばまでで止まり、それ以上びくともしなかった。ケンは弾を撃ち続けたが、ゲヘナは再び右肘を振り上げた。

 この男は、何故、ここまで……。滲み出た涙で俺の視界が歪んだ。

 これ以上、打撃を受ければ、『核』が壊れる。

 その時、俺の傍らに誰かが立った。

 スナガによって降ろされたのはセネカだった。膝をついて両手で『核』の表面に触れると、亀裂がゆっくりと小さくなり、元通りに修復されていく。

 セネカの強い瞳が、冷たく燃えるゲヘナの隻眼を射た。

「僕達は生きる」

 セネカは言った。

「あなたが生まれ変わる頃にはきっと、世界は変わっている筈だよ」

 セネカを見つめる、ゲヘナの瞳の炎が、心なしか弱まった。

 それでもゲヘナは右肘を振り下ろそうとした。俺はゲヘナの首に食い込んだ首刈り出刃を、両手の渾身の力で引いた。

 刃は少ししか進まなかった。ギャリッ、と、音がして、ゲヘナが首にかけていたペンダントの鎖が刃によって切れた。

 ゲヘナの顔に狼狽が浮かんだ。ずり落ちるペンダントを、左手で受け止めようとした。あれほど強く『核』を掴んでいた左手。

「ジェシ……」

 ゲヘナが何か言いかけた。同時に、引っ掛かっていた首刈り出刃が、信じられないほどあっけなく進んだ。ゴズッ、と、骨を断つ感触があった。

 ゲヘナの首が飛んだ。

 彼の左手が痙攣し、ペンダントの蓋が開いた。

 中には、美しい女性の写真が収まっていた。

 ゲヘナの妻の写真だったのだろう。

 奈落へと落ちていくゲヘナ・オルセンの首は、遥か彼方の虚空を見つめていた。

 その後を追うように、ペンダントを握ったまま、胴体が『核』から離れ、落ちていった。

 ……ゲヘナ・オルセンに出来ることは破壊することだけだった。だが彼も、心の奥底では誰かに止めて欲しかったのだろう……

 千里眼の呟きが聞こえた。

「大丈夫か」

 穴を覗いていたケンが声をかけた。彼の体を覆うミクレルの帯はずたずたに裂け、血で染まっていた。だが動いているところを見ると、どうやら生きているらしい。

 ……いやはや、大変な目に遭いましたよ。スナイパーは頭に血が昇っていて、防御など考えないのですから……

 ミクレルの愚痴が思念になって届く。

「ああ。終わったよ」

 俺はケンに答えた。

 ……ゲヘナは最期の瞬間に、思念でメッセージを残していった。今後社会を維持していく方法の一つとして、地域にそれぞれマスターを置いて結界を敷き、住民の力に制限を設けてはどうかということだ。つまり住民とマスターとの意志力のせめぎ合いという構図にして、力の方向性を秩序内に収めるのだ。彼なりに色々と可能性を模索していたらしいな……

 千里眼の思念は嬉しそうだった。だが俺にはどうでもいいことだ。少なくとも目の前に、セネカが生きている。

「『核』はなんとかなりそうか」

「うん。やってみるよ」

 『核』の表面に触れながらセネカが言った。

「ヒビを直したら、『核』は空気に溶かしてしまおうと思うんだ。誰かが壊したりしないようにね。雄治はもう上がってよ。そうじゃないと、『核』が消えた後、支えがなくなって穴に落ちてしまうよ。スナガだって疲れてるし、二人も持ち上げるのは大変だよ」

 セネカは、俺のことを雄治と呼んだ。まるで長年の知り合いみたいに。

 いや、詮索はすまい。俺達は今後、希望へ向かって歩いていくことになるだろう。俺のこの血塗られた手が綺麗になる訳ではないし、これからも首刈り出刃を使う機会は多いだろう。だが少なくともこのセネカと共に生きていける。今のところは、それだけで十分だ。

「もう少し、ここにいるさ」

 俺は答えた。ケンも下りてきたがっているようだが、そんな馬鹿なことは流石にしないだろう。

 セネカは顔を上げて俺を見た。そしてあの悪戯っぽい微笑を浮かべてみせた。

 

 

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