土砂降りの雨の中を俺達は歩いている。闇を見通す俺の目でも二、三メートル先しか見えない。全身がずぶ濡れで、水中を歩いているような気分だ。
瓦礫の大地。徹底的に破壊し尽くされた建物の破片が年月を経て土と混じり、この雨のため不気味な泥濘を作っている。靴の中に泥が入り、不快さを増す。
「じきに雨の地域を抜ける」
前を行く男が告げた。彼はこのひどい雨でも鋭敏な感覚を保っているらしい。俺は頷いて、彼の後をついていく。この半年間そうしてきたように。
彼が指摘した通り、五分もしないうちに唐突に視界が開けた。背後では土砂降りが続いているが、こちら側は見事に晴れ渡っている。
「妙な気候だ。誰かが意図的にやってるのかな」
俺が言うと、彼は穏やかに笑って首を振った。
「違うだろう。別に攻撃も受けなかったしね。文明と一緒に自然環境も破壊されたから、どんな異常気象になってもおかしくはない。私は気温が三十度を超える場所で雪が降るのを見たことがあるよ」
彼は前方を指差した。瓦礫の荒野の先、小高い丘に緑が見える。
「あそこで一休みしよう。もしかすると、君の仲間達が作ったオアシスかも知れないね」
確かにそうかも知れない。『ワンダリング・オアシス』は今も世界中を渡り歩いている筈だから。
『ネクロティア』との戦いから、既に三年が過ぎた。
再出発した当時の『ワンダリング・オアシス』は、セネカ・レイを中心に俺とケン、鳥人スナガ、そして、『ネクロティア』の生き残り五十三名だった。千里眼によって回路を破壊され混乱していたテレパス達と、ケンとミクレルに瀕死のダメージを負わされ、自決する余力もなかった戦士達。『ワンダリング・オアシス』を皆殺しにした彼らが、セネカの呼びかけに泣きながら頷いたのだ。
皆、本当は、善く生きたいと願っている筈なんだ。その時のセネカの言葉が、ずっと俺の中にも残っている。
俺が離脱した半年前の時点では、『ワンダリング・オアシス』のメンバーは二千八百人ほどだった。今後も増えていくだろう。そして世界中を緑で埋め尽くすために、彼らは歩き続けるのだ。
世界は相変わらず殺戮と混沌に満ちている。失われた秩序がほんの数年で戻る筈はない。『再生会』は幾つかの都市でゲヘナ・オルセンのアイデアを実験しているようだ。俺もマスター役にならないかと誘われ、一度だけ指導者達と会ってみたことがある。正直なところ失望させられた。頭でっかちの傲慢な奴ら。三年前までの俺だったら冷笑を浮かべながら彼らを皆殺しにしていただろう。後でミクレルがとりなすように言った。性格はどうあれ、彼らが人類の未来を考えていることに変わりはありませんから。末端で壷を造っているのは善良な人達なんですよ、と。そんなミクレルに頼み事をして、テレパス経由で連絡が届いたのが半年前という訳だ。
「おや、先客がいるようだ」
濡れたターバンを解いて絞りながら、彼が言った。すぐに俺は彼より前を歩いた。この世界に生きる者の多くは殺人鬼だ。あらゆる脅威から彼を守るのが俺の役割だった。
イラーハ。
かつて俺が殺した壷造りは、最期の言葉通りに転生を果たして『生命の壷』を造り続けている。俺は彼につき従い彼を守り、『生命の壷』の造り方を学んでいる。それが俺なりの、彼への借りの返し方だった。
オアシスの植物は雑多な種類が密集しており、『ワンダリング・オアシス』のものだと分かった。弱い植物も枯れていないし、二、三日しか咲かないクジャクサボテンの花も一部は残っているから、彼らが出発してまだ日が浅いのだろう。
オアシスの中央には必ず湧き水がある。湧いてくるまで根気良く掘るからだ。『ワンダリング・オアシス』にいた間、それが俺の仕事だった。今は誰か腕力のある者がやっている筈だ。
湧き水の周囲の草地に、一人の男が座っていた。俺達の気配に気づき、慌てて立ち上がる。汚れたジャケットを着た、何処となく獣に似た顔をした男。
「念のため聞くが、『ワンダリング・オアシス』のメンバーか」
俺はまず問うた。
「何だそりゃ。俺は休んでただけだ」
答えながら男はせわしなく目を動かして、俺とイラーハを観察している。勝てるかどうか、こちらの力量を探っているのだ。以前は気づかなかったが、こんな奴らの内面に、殺意と同量の怯えがあることが今は分かる。殺さねば殺される、誰もがそんな世界を生きざるを得なかったのだ。
「やる気ならやめとけ。お前程度じゃ……」
俺が最後まで喋る前に、男は攻めかかってきた。右手の爪が一気に伸びて五本の鎌と化す。
俺は愛用の凶器を抜き打ちに一閃させた。十キロの刃があっけなく肉と骨を断ち、男の右肘から先は木々の間にすっ飛んでいった。血の噴き出す右腕を押さえ、男が膝をついて呻く。
「それは……その武器は、首刈り出刃だな。あんた、スローターだったのか。顔の傷もないから、分からなかった」
「俺のことを知っていたのか」
ひとまず相手が戦意を失ったと判断し、首刈り出刃を鞘に戻す。ただ殺すだけだった日々には必要なかったもの。この鞘はセネカが作ってくれた。
「ああ、四年か五年前に、あんたの顔を見た。殺し合いの続くあの町で、俺はそれなりの地位にいるつもりだった。だが、町を潰しに来たあんたは圧倒的だった。まさに赤い殺戮者だ。俺が逃げ延びられたのは奇跡だったよ」
男が話している間に、イラーハが布きれで男の右肘を縛って止血を済ませていた。意外そうな顔で、男はイラーハと俺を見た。
「俺を殺さないのか。甘くなったな、スローター。いつか後悔するぞ。この世界で生き残れるのは無慈悲な者だけだ」
「後悔はしないね。少なくとも、お前が千人いようと俺は全然怖くない」
俺の言葉が本気だと悟ったのだろう、男の体が震えた。
余計なお世話かと思いながらも、俺は付け加えた。
「もし今の糞みたいな生き方を変えたいのなら、『ワンダリング・オアシス』を探してみろ。運が良ければ会えるだろうさ」
皆、本当は、善く生きたいと願っている、か。
イラーハが俺の方を見て微笑した。
男は返事をしなかった。俺達の方を途中で何度か振り返りながら、男はオアシスを去り、瓦礫の荒野を駆けていった。
俺達もまた、水辺に腰を下ろした。無人のオアシスに『生命の壷』を置いても意味はない。『生命の壷』はその土地にいる人々の性質を元にして新しい生命を生み出すのだ。生まれた者の親は壷の作者であり、同時に住民全てであると言える。
久しぶりに『ワンダリング・オアシス』に寄ってみたい気持ちもあったが、俺はそれを打ち消した。ケンの邪魔をしたくなかったからだ。俺が彼らから離れてイラーハの元に来たのは、そのためでもあった。
ケンはセネカを好いている。両性具有のセネカはまた女性側に傾いてきたようで、成長につれ美しくなっている。
セネカが絵美の生まれ変わりであるのかどうか、それは分からない。きっと永遠に分からないのだろう。
俺は絵美を愛していたし、あの時ケンは俺達のことを考えて身を引いた。そして絵美は死に、俺は彼女の思い出を抱いて世界の未来のために生きていくつもりだ。
今度は俺が身を引く番だ。だがケン、もしお前がセネカを守れなかったら、俺はお前を許さないぞ。お前はそれを、分かっている筈だ。
ただ、助けが必要になったら、テレパスを使っていつでも呼んでくれ。スナガほどのスピードは出ないが、地球の裏側からでも駆けつけてやる。
湧き水を手で掬って飲み、イラーハが言った。
「彼らの作ったオアシスを見るのは初めてだが、素晴らしいね。それぞれの植物に彼らの願いが込められているようだ」
「ああ。彼らは全力で植物を育てる。そのうちの幾つかは、環境に適応して生き延びていくだろう。地球が元通りになるまで、何十年かかるかは分からないが」
俺は若干の誇らしさを感じながら答える。
「私達も、人類の幸福を願って『生命の壷』を造り続けよう。いずれはまた普通に女性が出産するようになって、『生命の壷』は不要になるだろうけどね。そうなるのは何十年後かな」
そう語るイラーハの瞳は、希望に満ちている。
イラーハは転生した。日笠もいつかまた転生するのだろうか。いや、思い残すことがなければ転生などしないのかも知れない。ゲヘナは、あのゲヘナ・オルセンはどうなのだろう。人は皆、生まれ変わるものなのだろうか。
俺がその疑問を口にすると、イラーハは言った。
「これは飽くまで私の考えだが、世界は巨大な意識のプールのようなもので、一人の人間というのはその一部が形を取ったに過ぎないのではないかな。人が死ぬと、その意識は世界の意識に溶けて還っていく。明確な意志を持っていれば溶け戻る前に転生することが出来るのかも知れない。ただ、そうならなかったといって、その人間が完全に消えてしまうという訳ではないんだよ。巨大なプールに溶け込んだ意識も、やがてまた一部が人間の形を取って現れてくる。これから生まれる全ての人が日笠で、同時にゲヘナだと言えるのかも知れないね」
それは奇妙な考え方だったが、俺にとって救いにもなった。恵まれぬ人生を歩んだ彼らも、いつかは幸福を味わって欲しいものだ。今はまだ、そんな世界ではないが。
「大きな向日葵だね。一際強く輝いている」
イラーハが指差す先に、二メートル近い丈の向日葵があった。セネカの向日葵。大きな三輪の花が太陽を向いて咲いている。いずれは沢山の実をつけることだろう。
その向日葵の傍らに、小さなバラの木があった。赤い花が五つほど咲いている。
ケンが一番好きな花が、バラだった。あの誕生日に、俺と絵美がプレゼントした時から。
俺は穏やかな気持ちになって、その二種類の花をいつまでも見つめていた。