一
荒野の景色が凄いスピードで流れていく。右方にはかつてはオアシスだったのだろう、枯れた木々が寂しく立っている。左の彼方に見える砂塵は、六本足の群れが獲物を追ったりしているのだろうか。
ベオニールという名のこの怪物馬は、優雅な動きで滑るように駆ける。背に乗る二人には殆ど揺れが伝わってこない。それでいて、ルナンが今日まで乗っていた馬の十倍は速かった。いや、数十倍か。トラケンに置いてきた馬は、ワズトーの村で最も脚が速かったのだが。
足音は全く聞こえず静かなものだ。ルナンはふと思いついて、キルマの脇から後方を覗いてみた。土埃も舞っていなかった。まさか馬が宙に浮いているという訳でもないだろうけれど。
「じき、お前の村に着く」
それまで沈黙を守っていたキルマが、くぐもった声で告げた。
黒い仮面には話しかけにくかったが、流石にこらえきれなくなってルナンは聞いてみた。
「あの、キルマさんは、ワズトーに来たことがあるんですか」
「ない」
キルマの答えは簡潔だ。
「でも、道が分かってるみたいだし……」
ワズトーの村への道筋を、キルマは一度も尋ねなかった。カイストを求めて都市を巡っていたため、実際のところルナン自身にも正確な方向が分からない。中継する村へ立ち寄らず、街道さえも通らず、べオニールは西へ一直線に進んでいる。
「世界中の情報をデータベースにして、カイストに提供する組織がある。だからワズトーの位置も読み出せる。それにベオニールは『探知士』だ。周囲の地形も隠れている生物も読み取れる。毒物の有無を調べたのもベオニールだ」
あの富豪ゴスメロがキルマの杯に毒を塗っていたというのは、この怪物馬が確認したのか。ちょっと信じられないような気もするが、今日一日で色々なものを見てしまったので、信じるしかないのだろう。探知士というのは色々なことが分かるらしい。
「でも、この馬が、どうやってキルマさんに知らせてくれたんですか」
「念話だ。テレパシーとも呼ぶな。ある程度の距離があっても、考えたことが喋らずに直接相手の頭に伝わる。これもベオニールの力だ」
喋らなくても考えが伝わるという。相手の表情や口調などで何を考えているのかある程度分かったりはするけれども、あの時、ベオニールは厩舎にいた。そこにいなくても伝わるというのは凄いことだ。もしかするとルナンが今考えていることも、伝わっているのだろうか。しかしベオニールは振り返ることもなく、鱗と同じく黒い色をしたたてがみが、荒野の風に揺られていた。
キルマと話せたついでに、ルナンはどうしても聞いておきたいことがあった。聞けばキルマの機嫌を損ねてしまうかも知れない。そんな気もしたが、どうしても、納得いかなかったことがあるのだ。
「あの……一つ、聞いていいですか」
「何だ」
キルマは無感動に応じる。
「あの……ごめんなさい。でも……どうして、あの時、殺したんですか。相手は、降参って、言ってたのに……」
キルマと出会った時。武器を捨てて降参した兵士の首があっけなく飛んだ。降参したのなら、殺す必要はなかったのではないか。
「俺の契約は、彼らを殲滅することだったからだ」
キルマは答えた。怒っている口調でもなかったが、感情を表に出さないだけかも知れない。
「逆に彼らの契約は、俺を殺すことだった。俺は契約を果たした。それだけだ」
ルナンにはよく分からない。人の命をそんなふうに、契約で簡単に殺していいものなのか。互いに憎い訳でもないのに、そんな契約で殺し合えるのか。
しかし、ルナン自身も、キルマに帝国軍を殺すことを依頼したのではなかったか。
「ごめんなさい」
ルナンはそれしか言えず、キルマは「気にするな」と応じた。
以降の沈黙に耐えきれず、ルナンは言葉を探した。
「ええっと……村に着いたら、まず、村長に会って下さい。詳しい事情を説明してくれると思うし、依頼の細かいこととかも決められると思うので」
「言っておくが」
キルマは同じ口調で告げた。
「依頼人はお前だ。村長は関係ない」
その時になって漸く、ルナンは自分の立場に気づいた。それまでルナンは自分が村長の代理人に過ぎないと思っていたが、そうではなかったのだ。このちっぽけで無力な自分が、このカイストの契約者なのだ。
その考えはルナンの心に何か心地良い愉悦なようなものを与えた。ただ、同時にそれは、無数の死を背負う重みとなってルナンにのしかかってきたのだった。
二
結局、商業都市トラケンを出発してその昼のうちにワズトーに到着してしまった。往路では一週間以上かかったというのに。
ルナンの生まれ故郷ワズトーは、三方を山に囲まれた盆地にあった。街道に繋がる東西の入り口以外は木の柵で囲まれている。ただし柵の高さは一メートル半程度で、五年前に六本足の群れが柵を飛び越えて侵入し、大混乱に陥ったことがあったものの、おそらく辺境の村としては平和な方なのだろう。川沿いに並ぶ畑と、飾り気のない木造家屋。ここで休息していく旅人や傭兵達の落とす金で、村はなんとかやり繰りしている。柑橘系の大きな実を結ぶコルンの木は、険しい斜面から幹をねじ曲げて立っている。トラケンの果物屋で見かけたものに比べ、ここの実はまだ熟すまでに間がありそうだ。
久しぶりの村は異様な雰囲気を漂わせていた。村の東側の入り口で、槍を持って守備兵役をやっているクレイと出くわした。彼はルナンより四つ年上で、ひょろりと痩せた体躯は他の若者達から馬鹿にされているが、親切でルナンにとっては話しやすい男だ。しかしとぼけた微笑の似合うクレイの顔には今、暗い緊張が張りついていた。帝国の軍隊が迫っているのだから無理もない。
それでもクレイは、速度を緩めたベオニールの乗り手に安堵の笑顔を見せた。
「ルナン、よく無事に帰ったな。カイストを連れてきたのか」
「ええ、キルマさんっていうの。村の守りを引き受けてくれたわ」
黒い鱗に覆われたベオニールの巨体と、大鎌を握る仮面のキルマをどう判断したか、クレイはぎこちない愛想笑いになった。
「それはありがたいな。カイストが二人もいりゃあ、帝国の十万の兵もひょっとしたら防げるかもな」
クレイの報告は、ルナンにとってもちょっとした驚きだった。
「他にもカイストの人が来てるの」
「ああ、フィーナが連れてきたのさ。だがあいつは……」
クレイは顔を曇らせた。ルナンが理由を問う前に、キルマはベオニールを促して村の中へと進んでいった。
「村長の家はこの道を途中から右に曲がって、広場の近くです」
「分かっている」
仮面の下からキルマの声が答えた。
軽快に駆ける騎馬を、道筋にいた村人達が驚き顔で見守っていた。彼らの目には不安と期待が入り混じっている。
自分がこのカイストを連れてきたことを誇らしく思うと同時に、ルナンの心情はやはり村人達と同じだった。
十万の帝国軍を、この黒衣の騎士は防ぎきれるのか。
村長の屋敷は村で一番大きな建物で、旅人や傭兵のための宿泊施設も兼ねていた。ただしその規模も豪華さも、あのトラケンの宮殿には遠く及ばない。
どうやって知ったのか、既に村長は玄関の前でルナン達を待っていた。
「ようこそおいで下さいました。このワズトーの窮地を救うのはあなた方、カイストを置いて他にはありません」
白髪混じりの小柄な村長は深々と頭を下げた。先頭に立って六本足と戦い、食いちぎられた大きな傷痕が左腕に残っている。子供のルナンにはよく分からなかったが、村長はなかなかのやり手という評判だった。
村長の口元は微笑を湛えていたが、その瞳はルナンには、笑っていないように見えた。
「キルマさんです」
ベオニールが自然と身を屈めたため、ルナンは地面に降りてから騎士を紹介した。
「村の者に伝えておくことがある」
キルマは降りず、馬上から村長に言った。
「はい。何でございますか」
揉み手しながら村長が尋ねる。
屋敷の玄関から、ひっそりとこちらを窺う少女にルナンは気づいた。
少女の顔は、右目部分以外は隙間なく包帯で覆われていた。まだ傷が新しいのだろう、包帯は赤く滲んでいる。
それだけではなかった。少女の右腕は肘から先がなく、包帯の巻かれた左手は妙に小さかった。まるで、五本の指が全てなくなってしまったみたいに。
ルナンの視線を受けて、包帯の少女は半ば隠された唇に、寂しげな昏い微笑を浮かべてみせた。少女の背丈と目元に、ルナンは覚えがあった。
「フィーナ……」
自分より三才上の友人の名を、ルナンは呟いた。彼女の身に何が起きたのか。カイストを探す途中で野獣や盗賊に襲われたのか。それとも、カイストとの契約で……。ルナンはさっきのクレイの顔を思い出した。
ルナンはキルマを見上げた。黒い仮面はどんな表情も示すことはない。
キルマは村長に告げた。
「ひとまず、村から出るな。すぐに戻るから待っていろ。おそらく一時間はかからない」
「え、何処に行かれるのですか」
村長が驚いて尋ねた。笑顔に疑念が差す。
「帝国の軍が二十キロ先まで来ている。片づけてくる」
平然とキルマは答え、村長を凍りつかせた。ゼトキア将軍の部隊が既にそこまで近づいているとはルナンにも予想外だったし、村の者も気づいていなかっただろう。だがその十万の兵を片づけてくるなどと、キルマはあっさり言ったのだ。
「流石はスケルトン・ナイト、殺しにせっかちなことだ」
玄関の奥から男の声がした。粘ついた感じの、嫌な声音。包帯姿のフィーナがビクリと肩を震わせた。
フィーナの背後からゆらりと姿を現したのは、色白の痩せた男だった。手足は蜘蛛のように細長い。男の顔は無数の傷痕で埋まり、歪みよじれて見えた。斜めの切れ目が入った薄い唇は冷たい微笑を浮かべている。
男の胸や腰や大腿に太いベルトが巻かれていた。二十本以上のナイフが差してある。短いものから刃渡り三十センチを超えるものまで様々だった。
男は、黒衣のキルマと同等、いやそれ以上の不吉な妖気を滲ませていた。
「俺のことを知っていたか」
キルマが馬上から、呟くように言った。
「この狭いサマルータで、戦場の死神スケルトン・ナイトの噂を知らぬカイストはおらぬよ」
男は喋りながら、だらりと両腕を垂らしたまま歩いてくる。男の視線が自分に向いていることに、ルナンは気がついた。フィーナが何か言いたげにこちらを見守っている。その悲痛な眼差し。
ルナンは思わず一歩下がった。村長は変わらぬ愛想笑いを続けている。
「俺はディクテール。Bクラスだ。ほんの半日前に着いたばかりさ」
「『サドマゾ』か。厄介な男を雇ったものだな」
キルマが無感動に感想を述べると、痩身の男・ディクテールは唇の笑みを深めた。
「へえ、俺の通り名まで知ってくれていたとは光栄だな。しかし厄介とは、ひどい言い草だ。俺だってちゃんと契約は果たす」
「こいつにどんな報酬を約束した」
キルマが問うたのは、ディクテールではなく村長にだった。
「そ、それは……」
口篭もる村長に代わり、ディクテール本人が答えた。
「命さえ取らなければ、村人の体を好きに刻んでいいということだ。今さっき、村長と話をつけた。一日に一人ということになったよ」
ルナンが怖れた通り、フィーナの怪我はこのカイストによるものだった。報酬に腕が欲しいと言われれば腕を切って渡せ。村長の言葉をルナンは思い出した。フィーナは忠実に従ったのだ。しかも他の村人達の身も、この狂気のカイストに委ねて。
ルナンはフィーナの不幸を思った。包帯に覆われた顔。美人という訳ではなかったけれど、本人の性格に相応しく、人を安心させる穏やかな顔立ちだった。それが今はどれほど無残に変形していることだろうか。ルナンが養父に叱られて泣いている時、優しく背中を撫でてくれたあの手は、既にない。
村長は額の汗を拭った。
キルマは無言だった。人馬は微動だにせず、何を考えているのか分からない。
ディクテールは、ルナンの正面で立ち止まった。その大きな瞳が、赤い欲情を湛えてルナンを見据えていた。
ルナンは自然と後じさったが、それと同じだけディクテールが踏み出していた。
粘質な、重苦しい空気が、その場を支配していた。
「今日はまだ誰も刻んでないんだ」
ディクテールは言った。
瞬間、風が動いた。
ルナンの目の前に、小さなナイフの切っ先が見えていた。
刺される。反射的にルナンは顔を背けようとしたが、既にナイフは高く跳ね上がるところだった。ナイフを握る、細長い右腕が見えた。
その腕は、前腕の半ばほどで断ち切られていた。血の飛沫が散る。
切断されたディクテールの右腕が、空中をグルグルと回る。金属を打ち合わせる音が立て続けに鳴っていた。
「おおお」
村長の慄く声。二つか三つの何かが凄いスピードで動いていた。姿は淡く霞み、何がどうなっているのか分からない。時折血の霧が洩れる。
と、そこから別のものが飛んでいった。ナイフを握った左手首。高い放物線を描く手首を、ルナンは呆然と眺めていた。
ルナンの目の前で回転していた右腕が地面に落ちた時、金属音と血飛沫と風の中からまた別のものが飛んだ。今度は片足の、膝から先の部分だった。靴の爪先と踵の部分に鋭い刃が生えていた。
宙を飛んでいた左手首が、ルナンの背後に落ちて鈍い音を立てる。それで漸く、異様な出来事は終わった。
ディクテールは、乾いた地面に倒れていた。両手と両足を切り落とされ、体中が新しい傷で覆われていた。裂けた腹から中身がはみ出し、独自の生き物のようにビクビクと動いていた。
その傍らに、ベオニールに跨ったキルマがいた。大鎌を無造作に垂らしているが、ディクテールを解体したのがその黒い凶器であることは明らかだ。
「素晴らしい……」
ディクテールが血の混じった声を洩らした。パックリと裂けた首の傷口から血が噴き出す。
キルマは何も言わなかった。その両腕を血の筋が伝い落ちていく。彼もまた、負傷していたのだ。
黒い仮面に見下ろされ、ディクテールは、恍惚とした表情になっていた。
キルマの大鎌が霞み、ディクテールの首が胴体から離れて地面を転がっていった。キルマは、容赦しない男だった。
ルナンが初めて目にするカイスト同士の戦いは、ほんの数秒で決着がついた。
呆然と死体を見つめるルナンの耳に、村長の呻きが聞こえた。
「ど……どうして……仲間なのですよ……」
「彼女の目を抉ろうとした。俺の役割は村人を守ることだ」
キルマは静かに答えた。彼は契約を果たすため、ルナンを守ってくれたのだ。
村長は何も言えなくなった。ルナンはふと気がついて、フィーナの方を見た。彼女の右目に映る安堵は、ルナンのことを心配してくれたのだろうと思う。しかし同時に、包帯に覆われたその顔は、暗い無念に歪んでいた。体を切り刻まれてまで雇ったカイストが、帝国軍と戦う前に無駄死にしたのだ。ルナンは胸が痛んだ。
他の村人達も広場に集合し始め、遠巻きにこちらを窺っていた。キルマがそちらを向くと、彼らは引き攣った愛想笑いを無理に浮かべてみせた。
平板な黒い仮面は何も語らない。キルマは鞍に吊るしていた布袋を外し、ルナンの足元に落とした。トラケンの富豪から受け取った報酬。
「待っていろ」
ベオニールが風のように駆け出した。優雅に跳躍し、どよめく村人達の頭上を軽々と越えた。
スケルトン・ナイトは西へと消え、そこにはディクテールのバラバラ死体と村人達が残された。
ルナンはただ、その場に立ち尽くしていた。彼女が契約したキルマは、いともあっさりと戦場へ出発した。十万の帝国軍を相手に。怯える人々を置いて。
「こいつを片づけろ」
村長が苦々しげに吐き捨てて、ディクテールの生首を蹴りつけた。
三
バザム神聖帝国赤風将軍ゼトキア・ファルスフォーン率いる十万の帝国軍は、険しい谷沿いの道を進んでいた。細い道は右側が断崖になっている。騎兵には四列が限度で、大軍勢も長く伸びてしまっている。
敵にとっては防衛や奇襲に絶好の地形だが、ゼトキアは全く心配していなかった。テロッサの軍にはそれほどの度胸も余力もないだろうし、探知士である副将のヴィラトーは常に周囲に網を張っている。それに、ゼトキアの力の前では一般人の抵抗など無意味だ。
防衛軍にカイストが混じっていれば、少しは歯応えがあるだろうに。
ゼトキア・ファルスフォーンは七千四百万才の戦士で、カイストとしての地位はBクラスと呼ばれる大雑把な範囲にある。Bクラスの条件は、銃器を始めとする殆どの科学兵器に生身で対抗出来ることだ。
彼の乗馬は普通の馬よりも二回り大きく、その胴部には鉄板が埋め込まれている。ゼトキア自身も身長二メートル二十センチの巨漢で、分厚い甲冑と背の大剣を合わせた重量を支えきれるのはこの馬だけだった。全身を包む我力の防壁によって銃弾を跳ね返せるため、ゼトキアにとって甲冑は飾り程度の意味しかない。表面の濃い赤色は大量の返り血を浴びてきたためだ。
岩のように荒削りなゼトキアの顔を、古い傷痕が左のこめかみから斜め上に走っている。短い髪を分けて頭頂部付近まで続いているその傷は、五千年前に受けたものだ。その傷を負わせたカイストは、次の瞬間にはゼトキアの大剣に真っ二つにされていたが。
ゼトキアには、剣が全てだった。彼は大抵のカイストと同じく究極の強さを求め、長い年月を修行と殺戮に捧げてきた。今後も永遠に等しい時を、剣のみのために重ねていくのだろう。他のことにかまける暇はないし、そんな自分を後悔もしていなかった。
この世界サマルータに転生してから三十八年、バザム神聖帝国に仕官して十二年が過ぎたが、別に贅沢な暮らしがしたいとか、自分の力を人々の役に立てたいとか考えた訳ではない。単に殺す敵が欲しかっただけだ。殺す状況や相手を選ぶカイストも多いが、ゼトキアはこだわらない方だ。人間など、どうせゼトキアがやらなくてもそこら中で死にまくっているのだから。
殺戮のための殺戮に没頭するゼトキアの性質を先代の皇帝は嫌い、彼は中央から遠ざけられていた。しかし七年前、現皇帝が即位してから次第に将軍位は上昇し、今やゼトキアは最も寵愛を受ける将軍の一人だ。
皇帝の寵愛など、ゼトキアにとってはどうでも良いことだ。カイストでない人間などは虫けらと同じだと思っている。逆に自分よりも強いカイストに対しては羨望と尊敬と、そして嫉妬の念を燃やした。現在サマルータにいる白銀将軍ディンゴはその対象だ。ゼトキアの五十分の一の年齢で、あれだけの強さに到達出来るとは信じ難かった。自分の積み上げた歳月はなんだったのかと気が狂いそうになる。ただし、そのどす黒い苦悩さえもカイストにとっては糧となる。時が永遠で魂が不滅ならば、最終的に努力と報酬、苦痛と快楽は釣り合うのだから。プラスマイナスゼロ。それが、カイストだ。
「後二十キロでワズトーです」
ゼトキアの横を進む副将ヴィラトーが告げた。ヴィラトーの外見は大きな青い目の痩せた青年だ。長い髪は白髪で、後ろできちんと束ねられている。青い衣を纏っただけで甲冑は身に着けていない。彼の馬の鞍にはミサイルランチャーが積まれていた。Cクラスの彼に年齢を聞いたことはなかったが、おそらく数万年かそこらであろうとゼトキアは推測している。科学兵器などに頼るカイスト。しかし探知士は強さを求めている訳ではないため、ゼトキアも侮蔑することは控えていた。
「五時間ほどかかるな。夜になるか」
中天を過ぎた太陽を見上げ、ゼトキアは呟いた。歩兵は頑張っても時速四キロ程度しか出せない。小さな村だ。騎兵だけで先に襲撃してもいいし、正直なところ部下など置いてゼトキア一人でやってしまった方が手っ取り早いのだが、逃げ散った村人を仕留め損なう可能性があった。
皇帝は皆殺しを命じた。だから契約の履行を重んじるカイストならば、それを忠実に実行せねばならない。真実を重ねることは力に結びつくからだ。
彼が任された十万の兵士は、大半が槍か剣を持ち軽量の甲冑を着けた歩兵で、騎馬兵は二万、ライフルを持つ兵は千程度だ。科学兵器の普及度の低いこのサマルータでは、まず平均から少し上のレベルだろう。しかしながら敵にBクラスのカイストが混じれば、カイスト同士の別次元の戦いが主となり、一般人の兵士の存在意義はなくなる。敵の民を皆殺しにする場合には役に立つが。
ゼトキアにとって人間の命に意味がないのと同じく、部下の命にも意味はなかった。ゼトキアは彼らを過酷な連戦に押し出し、しばしば使い捨てにした。脱走に成功した者はいないので、兵士達は生き残るため必死に戦っている。白銀のディンゴは部下を手塩にかけて育てているようだが、その心情はゼトキアには理解不能だった。
「谷を越えたら一旦休息しますか」
「いや。ワズトーを潰してからにする。すぐに終わるだろう」
ヴィラトーの問いにゼトキアは答えた。
そう、あっという間に終わる。テロッサの民は死に物狂いで抵抗してくるが、先陣を切って飛び込むゼトキアには木偶を斬るに等しかった。子供の喧嘩に屈強な大人が参加したようなものだ。たまに敵の中にカイストが混じっているが、彼に太刀打ち出来る者はない。ゼトキアの武器は刃渡り一メートル半、重量八十キロの大剣で、我力を乗せて振り下ろせば大抵の敵は真っ二つとなる。副将のヴィラトーは、部隊に一台だけ支給されている携帯型ミサイルランチャーで重要拠点を吹き飛ばす。後は血に飢えた帝国の兵士達が、じりじりと包囲の輪を縮め、逃げ惑う住民を虐殺するだけだ。ヴィラトーが生存者の有無を確認し、食糧と物資をありったけ略奪して町に火をかけて作業は終了する。
人口七千人のグンザの村を滅ぼしたのは二日前だ。包囲から皆殺しまでに要したのは二時間。テロッサ第二の都市と言われたマズルを滅ぼした時はいささか手間取ったが、後はあっけないものだ。ゼトキアは物足りなさを感じていた。テロッサ王は領内の他都市や村を見捨て、首都ラ・テロッサに防衛力を集中させているという。中立国に亡命する計画もあると聞いていた。馬鹿なことだ。皇帝の怒りを買った張本人を、引き取る国などある筈もない。
後方で誰かの叫び声が聞こえた。音源は下に移動している。連戦で疲労した兵士の一人が、足を踏み外して谷底へ落ちたようだ。だが振り返る者などない。
それまで瞬きもせずに虚空を見据えていたヴィラトーが、やや緊張した声でゼトキアに報告した。
「何者かがワズトーの方角からこちらに向かっています。凄まじいスピードです」
「カイストか」
「まず間違いありません。気配は一つ、いや二つ……む、強い力を感じます。Bクラスでしょう」
「ふふん」
ゼトキアは笑った。一方的な戦闘に飽きていたところだ。少しは退屈が紛れるだろう。
ヴィラトーは両手でこめかみに触れ、眉をひそめている。次第にその声が高くなっていくのが、ゼトキアには気になった。
「一直線にこちらへ走ってきます。時速四百キロ、いや五百に、加速力が異常で……うっ」
突然ヴィラトーが呻いて両目を押さえた。血の筋が頬を流れる。
「どうした」
「カウンタースキャンを受けました。向こうも探知士のようです。感覚の触手が損傷して、暫くは使い物になりません」
苦しげながら、ヴィラトーの返事に停滞はなかった。前後の兵士達が副将の異変にざわめき始める。
ゼトキアが声をかける前に、ヴィラトーはミサイルランチャーを鞍から素早く外した。
「戦闘態勢に入って下さい。敵がすぐに来ます」
ヴィラトーの目は血で真っ赤になっていた。
ゼトキアは背の大剣を抜き、怒鳴り声を谷に響き渡らせた。
「戦闘準備だ、敵を迎え撃つぞっ」
しかし同時にゼトキアは、部下達が何をしようと無駄であることを悟っている。通常の武器ではBクラスの我力防壁を貫けない。しかし、敵の戦闘手段を知る捨て石くらいには使えるだろう。
兵士達が剣を抜き槍を構え銃を取り出した。よく訓練された彼らの動きは一般人なりに見事だった。ゼトキアの位置は部隊の中でも先頭に近いが、それでも彼の前にも兵士達の列は数百メートルに及ぶ。曲がりくねった谷沿いの道は、前方が岩壁に隠れて見えない。
ヴィラトーは短円筒形のミサイルランチャーを右肩に乗せた。華奢な腕で機械の重量を支え、赤く染まった目で狙いを定めると、すぐに発射ボタンを押す。衝撃波を後方に残し、長さ五十センチのミサイルが飛んでいく。自動追尾式、破壊と殺戮のための兵器は、命中すれば三十メートル四方の物体と生物を粉微塵にするだけの威力があった。
相手が、ただの人間であれば、だが。
ミサイルが角を曲がって岩壁の陰に消えると、すぐに爆発音が轟いた。早過ぎる。兵士達の悲鳴が聞こえる。苦痛や恐怖の悲鳴というより、妙に戸惑いがちのものだ。
角の向こうから、黒い影が魔性の速度で飛び出してきた。血の糸を引き摺って。おそらくは兵士達の血だ。
常人の動体視力には捉えきれぬであろう影の正体は、黒い馬に跨った黒衣の男だった。
「こおおっ」
大剣を上段に構え、黒い人馬を迎え撃つためゼトキアは馬の横腹に拍車を当てた。まだ状況を把握していない部下などは構わず踏み潰す。
馬が三人ほど踏み潰した時には既に、数百人の兵士を肉塊に変えて黒い人馬がゼトキアの眼前に迫っていた。馬の性能が違う。降りた方が良かった。ゼトキアの瞬間的な後悔。いや、いざとなれば鐙(あぶみ)を蹴って跳べばいい。
ゼトキアは見た。黒いロングコートの騎士が、黒い平板な仮面を着けているのを。仮面の二つの穴から、冷酷な瞳が自分を見据えているのを。そして騎士が右手に握った武器は、長柄の黒い大鎌だった。
「スケルトン……」
相手に不足なし。全身の血がたぎり、噂に聞いたその綽名をゼトキアが叫ぶ前に、彼の乗馬に百倍する俊敏さを発揮して黒馬が横を擦れ違うように駆けた。
黒馬は、道の右側、断崖になっている何もない空中を、駆けていた。空間座標確保。この馬もカイストか……。
水平に振りかぶられた大鎌の刃が、ついでに引っ掛けていこうとするかのように、丁度ゼトキアの喉元へと向かっていた。
「くわっ」
ゼトキアは両手で握った自慢の大剣を、鎌の黒い刃目掛けて渾身の力で振り下ろした。鎌を弾くか叩き折るかという、彼の予想は外れた。
スケルトン・ナイトの大鎌は、ゼトキアの分厚い剣を、チーズでも切るようにヌテリと切断していったのだ。武器を握る者の、圧倒的な我力の差だった。
馬鹿な。
身を躱す余裕も声を洩らす暇さえもなく、黒い鎌は、熱い痛みを残してそのままゼトキアの首を通り抜けた。彼の視界が回転して大きく跳ねる。
宙高く飛ぶゼトキアの生首は、首を失った自分の体と、それを後ろざまに返す鎌で唐竹割りにしたスケルトン・ナイトの姿を認めた。斬撃に僅かなひねりを加えているようで、割れた胴体がパックリと開く。切断された部分をすぐに繋ぎ合わせて修復するカイストがいるが、スケルトン・ナイトの技はそれに対応したものだろうか。ゼトキアの首が高く飛ぶのも同じ理屈だ。
仮面の騎士と黒い魔馬は止まらずに、細く伸びた軍を駆け抜けていく。兵士達の首や折れた槍や腕や胴体が宙を舞う。その中には探知士ヴィラトーの生首も混じっていた。騎士が通り過ぎた後で生きている者は一人もいない。
ゼトキアの首は更に高く浮かび、視界が広がる。恐慌状態の軍が見える。彼らの悲鳴などお構いなしに、スケルトン・ナイトの死の波は押し寄せ、凄い勢いで血と肉塊を撒き散らしていく。十万の帝国兵を皆殺しにでもするつもりか。
こいつならば可能だろう。血を流して左右に裂け崩れる自分の胴体を見ながら、彼は苦笑した。完敗だ。道を外れ谷底の感触を味わう前に、バザム神聖帝国赤風将軍ゼトキア・ファルスフォーンの意識は闇に落ちた。
四
ワズトーの村人達は、息を潜めて待っていた。村は静まり返り、耳を澄ましても聞こえるのは鳥の鳴き声くらいだ。二十キロ離れた戦場で何が起こっているのかは想像するしかなく、人々の不安は高まるばかりだった。
村長の屋敷の前にある広場に、村人の大半が集まっていた。若者達は槍や剣を持っているが、もし帝国の軍勢が押し寄せればひとたまりもないのは明らかだ。
ルナンはキルマから預かった重い布袋を抱え、ずっと待っていた。フィーナは奥へと消えていた。
「カイストを探しに出た、他の人達はどうなったんですか」
ルナンが尋ねてみると、村長は忌々しげに首を振った。
「戻っておらん。どうせ村を捨てて逃げたんだろう。あの恩知らずめらが」
村長は決めつけていたが、彼らは今も何処かで、必死にカイストを探しているのかも知れない。それとも、途中で魔物や盗賊に襲われ、無残に命を散らせたのか。ルナンは陰鬱な気分になった。
村人達が静かに待っていられたのは二十分ほどだった。出ていったカイストの戦士は既にやられてしまったのだろう。土壇場で怖じ気づいて逃げ出したのだ。いや元々帝国軍の回し者だったのだろう。そんな勝手な憶測を口にして互いにエスカレートさせていく。
ルナンは不思議と冷めた気持ちでそれを眺めていた。村長に命じられた時点で、彼女はある程度死ぬ覚悟が出来ていた。それが殺されもせず、フィーナのように切り刻まれもせず、こうして無事に生きているのは偶然の結果だ。
髑髏の顔を持つキルマのことをルナンは思う。不気味な姿も、降参した敵まで容赦なく殺す冷徹さも、一般の人々が邪悪と判断するには充分だろう。
しかし、キルマはルナンを傷つけなかったし、残忍なディクテールのナイフからも守ってくれた。少なくとも、彼が真摯なことは確かに思われた。ルナンはキルマの無事を祈った。
いつの間にか隣に、槍を持ったクレイが立っていた。彼の顔は青ざめていたが、ルナンに微笑してみせた。おそらくはそれが、彼に出来る精一杯であったろう。
キルマが出て三十分が過ぎ、村人達の声は叫びに近くなっていた。迫る帝国軍にどう対処すべきか、徹底抗戦か、それとも敵の情けにすがって降伏すべきか、いや逃げ出すべきだ、終いには、もう望みはないから集団自決しようと泣き喚く者まで現れるに及び、村長が強い口調で一喝した。
「余計なことをぐだぐだ言わずに待っておれ。あのカイストに頼るしか、わしらには道がないのだ。帝国軍が来たら死ぬだけだ。それまでは畑仕事でもしてろ」
鶴の一声で、村人達の恐慌はひとまず収まった。しかしブツブツと暗い愚痴は時折聞こえていた。
窒息しそうな重苦しい空気が動いたのは、四十分が過ぎて漸くキルマが戻ってきた時だった。黒馬ベオニールは音もなく駆け、ルナンの手前で停止した。
人々がどよめいた。それは歓喜だったのか、恐怖のためだったのか。
キルマとベオニールの全身は血に塗れ、グショグショになっていた。
「だ……大丈夫ですか」
ルナンはやっと、それだけを口にした。横でクレイがゴクリと唾を呑む。
「返り血だ」
初めてベオニールから降り、キルマは答えた。その黒い仮面と擦り切れたコートの裾から、滴り落ちた血が地面を濡らしていく。どれだけ殺しまくったのだろう。しかしキルマは息一つ乱していなかった。また、奇妙なことに、彼の握る大鎌には血がついていなかった。
「そ、それで、帝国軍は……」
人々を代表して村長が尋ねた。広場の村人達は瞬きもせず、キルマの言葉を待っていた。
「片づけた。全滅させるまでに少々手間取ったが」
村長が目を見開いた。
「それは、つ、つまり……十万の兵を、み、皆殺しに……」
「そうだ」
キルマは平然と答えた。ルナンにはある程度、予想がついていた。彼は徹底的に役割を果たす。
危機を脱したという事実を知っても、村人達は、死んだように静まり返っていた。先程の重苦しい緊迫感ではなく、冷え冷えとした恐怖が彼らの顔に染みついている。たった一人の男が、十万の軍隊を殺戮してのけたのだ。彼らの多くは血みどろの騎士から目を逸らし、中には後じさりする者もいた。
「す、すると、村は救われたのですね」
噴き出た汗を拭いながら、村長は言った。無理に作ろうとした笑みが引き攣っている。
「まだ終わった訳ではない。いずれ次が来る」
キルマの返事は容赦なかった。
硬直した村長は、それでも数秒後、苦労しながら次の台詞を述べた。
「ま、まずはキルマ、様……血糊を落とされませんか。取り急ぎ、風呂と着替えを用意させますので。それから食事も。夜にはささやかながら酒宴も設けさせて頂きます」
その時、村人達の中から太い声が上がったのだ。
「俺はあんたの噂を聞いてるぜ。皆殺しのスケルトン・ナイト」
村人は一斉に声の方を振り向いた。
進み出たのは、自警団のリーダー格を務めているカートナーだった。まだ二十二才だったが、身長二メートルの屈強な体格で、村では一目置かれている存在だ。ただし、あまりにもズケズケものを言うので煙たがられてもいた。
キルマの仮面が、カートナーへと向いた。
馬に乗っていなければカートナーの背の方がキルマより高い。彼はキルマを見下ろしながら、一語一語に嫌悪感を込めて喋った。
「相当強いらしいが、あんたには来て欲しくなかったぜ。敵は必ず皆殺し。なあ、あんた、仕事だからって、罪もない女子供をどれだけ殺してきたんだい」
ああ、余計なことを言って……とルナンはハラハラしながら、キルマならやりかねないのだろうと思う。ルナン自身もあの大鎌を目の前に突きつけられたのだし。
「やめろっカートナー」
村長が青い顔で怒鳴りつけるが、カートナーはやめなかった。
「なあ、仮面を取って素顔を見せてくれよ。雇った男がどんな奴か、村のもんも知りたがってるぜ。それとも何かい、仮面をしてないとまずいことでもあるのかい」
彼はキルマの顔のことも知っていたのか。カートナーの傍若無人な物言いにルナンの胸は痛んだ。
「カートナー、引っ込めっ。村を守って下さったお方にその言い草は何だっ。この方がおいで下さらねば、わしらも貴様も今日のうちに屍を晒すことになったのだぞ」
村長が凄い剣幕で怒鳴った。皆はカートナーがキルマに殺されるかと思ったかも知れない。それとも、村長が率先して無礼者を処刑するか。キルマはどうするのだろうとルナンは思う。村人を守るのが契約だから、ここでカートナーを殺したりはしないだろうが。
キルマの反応はあっけないものだった。
彼は何も言わず、黒い仮面を外したのだ。
村人の何人かは、ウッと声を洩らした。
「これでいいか」
白い髑髏の顔で、キルマは聞いた。髪についていた返り血が、彼の白い額を伝い落ちていく。
瞼のないキルマの目は、静かにカートナーを見据えていた。
「……ああ。悪かったな」
まさかキルマが真正直な対応をするとは思わなかったのだろう。カートナーは決まり悪そうに謝罪した。
これで良かったのだろうか。ルナンは思う。カートナーは引き下がったけれど、村人達はキルマの異形を怖れるだろう。いや、でもそれは素顔を見せなくても同じことかも知れない。
「若い者が申し訳ありません。後で厳しく罰しておきますので」
村長にキルマは「不要だ」のただ一言を告げ、仮面を着け直した。
「で、では、屋敷へどうぞ。お前達は解散だ。さっさと畑に戻れ」
村人達は虚脱したみたいにゆっくりと去っていく。物事が一気に進み過ぎた。
ルナンは言っておくべきことがあった。村長に案内されて歩くキルマに、急いで回り込んでルナンは頭を下げた。
「あの、ありがとうございました」
「礼はまだ早い。契約は始まったばかりだ」
キルマは答える。
「それと、これ……」
預かっていた布袋をキルマに返そうとすると、キルマは意外にも首を振った。
「要らん。村の財産にしていい。これから必要になるだろう」
村長が驚いた顔で布袋を覗き込もうとしている。
ルナンは納得いかなかった。
「でもこれは、キルマさんのものでしょ。仕事の報酬で……」
「俺が金を持っていても、使い道がないのでな」
「で、でも……なら、どうして報酬をお金にしたんですか」
「ゴスメロからは欲しいものが特になかった」
キルマはそう言って、ルナンの横を過ぎていった。
お金は必要じゃないのか。大切なものなのに。カイストが何を欲しているのか、ルナンには分からなくなった。それからルナン自身が払うべき報酬のことを思い出した。お金ではなくてそれだということは、キルマが本当に欲しいものなのだろうか。キルマからは、他の男達のような好色な視線は感じなかったけれど。
「お前も休め」
キルマの声が背後から聞こえた。それが自分に向けられたものだと悟り、ルナンは急に旅の疲れを感じた。カイストを探して命懸けで、全てを捧げ渡すことを覚悟しての旅だった。
「ありがとうございます……」
振り向いて礼を言ったが、後半は声が震えてしまった。涙で視界が滲む中、キルマの姿は屋敷へと消えた。
五
ルナンか……。
ベッドの上でキルマは思いを巡らせる。ゴスメロの屋敷の客用ベッドには遠く及ばなかったが、この小さな村では最高級だろう。カイストにとっては寝床の質などどうでもいいし、贅沢は害ですらある。
今回の依頼人の名がルナンであったことを、ベオニールは最初から知っていたのだろうか。キルマのそんな思考も彼には読まれているかも知れないが、テレパシーによる返答はなかった。
あれからもう、百三十八万年も経つのか。
ルナンという名を持つ少女と初めて会った時のことを、キルマは思い出していた。
「わしの魔術の師、ザム・ザドルは、恐ろしいお方でなあ」
村長が戻ってくるのを待つ間、魔術士ヘズゲイルはケタケタと笑いながら語り始めた。
今の雇い主とはいえ、キルマはこの魔術士が嫌いだった。ミイラのなり損ないみたいな貧相な見た目もそうだが、ちょっとした言葉や態度にも邪悪さが滲んでいた。
「聞いたことがあるな。『究極の黒魔術師』とか」
戦士と魔術士は様々な点で考え方が異なる。地道に力を積み上げるのが戦士で、目的のために広く知識を集めるのが魔術士だ。相手の弱点を事前に調べることは、自分の向上心を腐らせてしまうと戦士は考える。魔術士はあらゆる下調べと相手に応じた準備をすることに抵抗がない。だから、同じく『強さ』を求めるカイストであっても、戦士は魔術士に対して軽蔑まではないにしろ、ある種の違和感を抱いているものだ。そんな訳でキルマも、ザム・ザドルがAクラスでさえ避ける類の化け物とは聞いていたが、それ以上の詳しいことは知らなかった。
「魔術には白も黒もない。魔術を知らぬ者はしたり顔で決めつけるがの。……ああ、恐ろしい。恐ろしい。途轍もなく、恐ろしい」
カタカタカタ、と、ヘズゲイルの椅子が音を立てている。彼の顔は笑っていたが、体は小刻みに震えていた。それでもキルマには、ヘズゲイルが心底楽しげに見えた。
「確かに師ザム・ザドルは、大勢の魂を捕獲して実験材料にした。拷問し、改造し、変質させ、呪いをかけた。同じ魂を拷問して殺して転生後に再捕獲しまた拷問して殺す、というのを何千回と繰り返したりした。……しかし、師が恐ろしいのは、本当に恐ろしいのは……それだけのことをやってのけても、師自身には、一片の悪意すらないということじゃ。……悪意ではない。ただ、研究のために必要だからやっておる。わしには、師が一体何を目的に研究しているのかは分からなかったがのう。あの生真面目さが……わしには本当に、恐ろしかった」
「よく分からんな」
キルマには魔術士の話など興味なかったし、適当に返事をした。村長の気配が戻ってくる。気配がもう一つ。まだ子供のようだ。
ヘズゲイルはまたケタケタと笑った。
「きっと今も、師はわしのことを見ておるんじゃろう。弟子の足掻きも師にとっては結局、実験データでしかないのじゃろうからな。わしの精神はとても耐えられず……兄弟子達に倣うこととなった。ザム・ザドルの弟子は遅かれ早かれそうなる。残酷を快楽と感じるように、自分の精神を改造してしまうのじゃよ」
そんなことが出来るものなのか。しかし自分の嗜好を変えてしまっては、カイストとしては本末転倒では。キルマは薄気味悪さを覚えつつも何か反論しようとしたが、村長が部屋に到着したのでお喋りはやめた。
「お待たせしました」
エニフェの村長は十二、三才くらいの少女を連れていた。整った顔立ちだが、あまり幸せな人生を送ってこなかったのだろう、瞳は暗く、俯きがちだ。
「これがルナンです」
村長が言った。ヘズゲイルはポーチから小さな道具を取り出した。電子機器ではないようだが、ガラス内部で小さな針が揺れている。
「うむ」
ヘズゲイルは道具を戻し、続いて小さな水晶玉を出す。少女の頭上からゆっくりと左右に翳し、ヘズゲイルは真剣に覗き込んでいた。少女はちょっと怯えた様子で固まっている。
「よろしい。条件に合致する。うまく育ててくれたな」
「ありがとうございます。それでは、お買い取り頂けるということで」
よくある人身売買か。どうせろくなことには使わないのだろうが。キルマは少女のことをちょっと気の毒に思いながらも、余計な口出しするつもりはなかった。人身売買など巷に溢れているし、キルマにとっては自分の修行と契約の方が大事だ。
「うむ。報酬じゃ。約束より少し、色をつけてある」
ヘズゲイルが袋をテーブルに置いた。響きからすると金貨と宝石か。村長は喜んで早速中身を確かめている。魔術士は振り返り、キルマに言った。
「守って欲しいもう一人というのは、この娘のことじゃよ。余計な我力を加えるのは許されておらんので、わしの術だけでは心許なくての」
「なるほど」
キルマは頷いた。契約の内容は二人を護衛することだったが、その片割れが、何の力もなさそうな一般人の少女という訳か。
「村長よ。取り引きは成立じゃな」
「は、はい。それはもう、ありがとうございました」
村長はホクホク顔で何度も頭を下げた。
ルナンという少女は黙って俯いていた。自分が売り飛ばされるということは理解しているのだろう。親はいないのだろうか。或いは、いたとしても大金が貰えるとなれば、反対しなかったのかも知れないが。
「それとな、村長よ。取り引きとはまた、別の話になるんじゃがのう」
ヘズゲイルが言った。
「はい、何でしょう」
「エニフェには、滅んでもらわんといかんのじゃ」
「えっ」
ポカンとした村長の顔は黒い触手で引き裂かれた。首も手足も一瞬でねじ切られる。ヘズゲイルのローブの両袖から大量の触手が伸びていた。壁も屋根もぶち破って外へ溢れ出る。触手は道をうねり進み土手を越え、畑仕事をしていた村人を呑み込んだ。民家も中にいた人ごとバラバラに破壊していく。村長の肉塊が小さくなっていくのをキルマは観察していた。触手が吸収しているらしい。これがヘズゲイルの召喚した魔物なのか、ヘズゲイル自身の肉体なのかはキルマにも分からなかった。
大きな村ではなかったが、ヘズゲイルの触手はエニフェ全体を覆い尽くそうとしていた。ケタケタと魔術士は笑う。邪悪な行為を心底楽しんでいるように。
触手はルナンだけは攻撃しなかった。家屋が崩壊し、村人達があっけなく死んでいくさまを前に、少女はただ目を見開いて凍りついていた。その顔が、絶望していた顔が、更なる苦痛に歪み、声にならない悲鳴を絞り出そうとする。
キルマはそこで回想をやめた。
胸の奥に痛みがある。それと、失った顔の痛み。
カイストになったのに。これだけ強くなったのに。
俺は何をやっているのだろう。
今度はうまく、守れればいいのだが。
少し休むべきだろう。熟練したカイストは必要なら何ヶ月も眠らずに過ごせるが、傷を治すためにも休んだ方がいい。『サドマゾ』ディクテールに受けた傷は、決して軽いものではなかった。何かあればベオニールが知らせてくれるだろう。頼りきりになるのは申し訳ないが。
キルマは、目を閉じた。