第四章 一騎討ち

 

  一

 

 何事もなく夜は更け、また朝が訪れる。平穏に慣れてしまい、村人達に一時期のような緊張感はなくなっていた。彼らは単調な畑仕事の日常に戻っている。貧しい村だ、いつまでも他のことに目を向けている余裕などない。

 幼いうちに両親を亡くしたルナンは、子供のいない老夫婦に預けられて生活している。水汲みや畑の手伝いや農具の手入れなど、やるべきことは色々あった。それは村の他の子供達と大差ないが、何より老夫婦が自分を厄介がっているように思えるのがルナンには辛かった。彼らはルナンのことを、所詮は去っていく者と思っているらしかった。

 畑仕事が一段落して休憩となり、ルナンは中央の広場へ向かって歩いた。ラ・テロッサがディンゴという将軍によって落とされたことはカイスト達から聞いていた。次はいよいよこのワズトーになりそうだが、カイスト達に不安げな様子はなかった。『エトナ締め』の協定も失敗したらしいのに。

 どちらにしても、村の運命はカイスト達に任せるしかないのだけれども。

 畑の手入れをしている村人達。カイストの姿は見かけない。村の周りを交替で見張ったりしているらしいが、部屋に篭もって何をしているか分からないカイストも多かった。

 キルマはおそらく広場にいるだろう。彼はマクバル・アズスの修行につき合っている時以外は、いつも木の幹に背を預けてじっとしている。キルマは修行しないのか。それをマクバルに尋ねてみたことがある。すると遠くなのに聞こえていたらしく、キルマが直接「契約の間はそれを果たすために集中している」と答え、ルナンはちょっと恥ずかしい思いをしたのだった。

 ディンゴ将軍の軍隊は何処まで近づいただろう。ベオニールならとっくに把握している筈だけれど。歩きながらそんなことを考えていると、背後から誰かが声をかけてきた。

「よーう」

 気さくな感じのする太い声だ。ルナンが振り向く間にその男はさっさと隣に並ぶ。

 綺麗な白い胸当てを着けた男だった。左利きらしく、腰の右側に長剣を下げている。腕は呆れるほどに太い。不精髭を伸ばした野性的な顔立ちだが、威圧的なところはなかった。

 初めて見る男だった。村にいるカイストは全て顔と名を覚えている筈だが、昨日のうちに新しく加わったのだろうか。そうか。協定が失敗したのだから、こちらも新しいカイストを雇えるのだ。

「あの……カイストの方ですか」

 一緒に歩きながらルナンは尋ねた。

「まあそうだな。お偉いさんがいるとこへは、この道でいいのかい」

「ええ、そうですけど。……あの、新しい人なんですね」

「ああ、今来たばかりだ」

 そう言って不精髭の男は笑った。唇の左端だけを僅かに上げた微笑だった。髭の一部は焦げている。

「お嬢ちゃんの名は何て言うんだい」

 キルマ以外のカイストに名を聞かれたことなどなかったので、ルナンは少し不思議な気分になった。

「ルナンです」

「いい名だな。年は」

「十四です」

「そうか。もう二才上なら範囲内だったな。惜しい惜しい」

 なんだかよく分からないことを言って、不精髭の男は天を仰いだ。

 そのまま広場に着いた。相変わらずベオニールは草地に寝そべっている。

 キルマはマクバル・アズスと広場にいた。珍しく、マクバルの武器をキルマが使ってみせている。長く繋がった剣はキルマが振ると全く見えなくなるが、離れた場所に打ち込まれた数本の杭が削り屑を散らしていく。

 キルマのレクチャーを、マクバルは真剣に聞き入っているようだ。邪魔をするのも悪いけれど、新しい志願者の到着を知らせるべきだろう。

「あの、キルマさん」

 ルナンは広場へ声をかけ、二人がこちらを向いた。

 マクバルの涼しげな顔が恐怖に凍りついたのが見えた。キルマがチェーンソードをマクバルに返し、地面に突き立てていた大鎌を掴む。

 圧倒的な緊張感が重い風となってルナンの顔を叩いた。反射的に何度も瞬きしてしまう。

 一体どうしたのか。ルナンは訳が分からないが、とんでもないことになったらしいことは察した。まるで今にも殺し合いが始まりそうな雰囲気だ。村の真ん中なのに。

「よう、あんたがキルマか」

 風をあっさり受け流し、隣の不精髭は気軽な口調で手を振った。

「それとも、スケルトン・ナイトと呼んだ方がいいのかい」

「ルナン、そいつから離れろ」

 冷静にキルマが告げた。いつもより低く、ゆっくりとした喋りが、状況の異様さを語っていた。

 ドンッ、と、村長の屋敷の壁を破って十人近いカイストが飛び出してきた。剣や銃や奇妙な形の武器を構え、凄まじい殺意に目をギラつかせている。

 いや、彼らの顔の歪み具合を見ると、殺意ではなく、恐怖だったのかも知れない。

 気がつくと、この数秒の間に、広場をほぼ全員のカイスト達が取り囲んでいた。外に見回りに行っていた者も素早く戻ってきたらしい。Bクラスのアスラドーンの姿も見える。

「人質を取るとは意外ですね。白銀のディンゴともあろう者が」

 マクバルが穏やかになじる。その額に滲むのは冷や汗なのだろうか。

 白銀のディンゴ、と、マクバルは言った。

 まさか、この人が、敵の将軍だなんて。いい人そうなのに。それに、どうしてたった一人で来たのだろう。

 恐る恐る見上げると、バザム神聖帝国最強の将軍と呼ばれるディンゴは、ルナンに向かって悪戯っぽくウインクをしてみせた。

「人質じゃないぜ。たまたま道で一緒になっただけさ。行きなよ」

 優しく促され、ルナンはディンゴのそばを離れた。大鎌を構えたキルマの方へと駆ける。

「そっちだ」

 キルマが村長の屋敷を指差した。玄関には大頭のランセルズがうろたえ顔で立っている。

「出来るだけこの場を離れろ」

 つまり、ここが戦場になるということなのだ。敵の将軍は何の抵抗も受けず、あっけなく村の中心部まで侵入してしまった。

「な、何故だ。何故探知の網に掛からなかったんだ」

 ランセルズは真っ青になっていた。探知士としての重要な役割を果たせなかったのだから仕方のない反応だろう。しかし、周囲を警戒していたカイスト達にもディンゴが見咎められなかったというのは異常ではないか。ランセルズよりも高級な探知士であるというベオニールさえ気づかなかったらしく、ルナンがディンゴを連れてくるのを放置していたのだ。

 ルナンは村長の屋敷の前で立ち止まり、ディンゴの方を振り向いた。ここが危険であることは承知していたが、どうなるのかを見届けたかった。村人達も何人か、遠くから広場を見守っている。

 腰の剣を抜かぬままディンゴは答えた。

「俺は剣の修行と同じくらいに『気』の修行を積んできた。簡単に言うと、物理エネルギーと精神エネルギーを繋ぐ技術体系だな。その中に面白い技がある。自分の存在を背景に溶け込ませて、相手の注意を惹かなくさせるのさ。探知士の皆さんは俺がいることが情報として入ってきても、意識出来ないらしいぜ。じかに見られたり、こちらが殺気を出しゃあ駄目だがな」

 ベオニールは相変わらず寝そべったまま起き上がろうともしない。乗り手のキルマは大鎌を構えて隙あらば踏み込もうとしているのに、のんびりしたものだ。もしかしたら、ディンゴに気づけなかったことの照れ隠しかも知れないけれど。

「どうするつもりだ」

 キルマが問うた。彼はまだ一歩も動いていない。同じく、カイスト達は今の場所を動けないでいる。ちょっとしたきっかけがあれば……例えば誰かが咳払いをしたくらいのことでも、瞬時に殺し合いが始まりそうな緊迫感があった。

「降伏しねえかい」

 あっさりと、ディンゴは言った。

「うちの皇帝はテロッサの国民を皆殺しにすると言ってるが、そっちが全面的に降伏すりゃあ、住民の安全は俺が保証する。奴には手を出させん。お前らカイストの命までは知ったこっちゃねえが」

 意外な提案だった。カイストというのは契約を何処までも冷徹に果たすものとルナンは思っていた。ディンゴが将軍として皇帝に雇われているのなら、その命令に従って皆殺しを目指すのが普通ではないのか。

 まず、太い胴をしたアスラドーンが皆を代表して応じた。彼は武器を何も持たず、両手を自然に垂らしているだけだ。

「ばれずに侵入した技量は大したもんだが、たった一人で俺達全員を相手にして勝つ自信があるのか」

「割と、あるかな」

 ディンゴは笑った。唇の左端だけ吊り上げた、さっき見せたものより千倍も強烈な笑みだった。めくれた唇の間から野獣のような犬歯が覗く。

「『ボマー』アスラドーン、お前の投げる爆弾は俺には効かないからな。地面の下で俺を狙ってる奴も充分対処出来る。Cクラスには百人相手でも負ける気がしねえ。問題はキルマとそこのお馬さんくらいだ」

 恐ろしいほどのディンゴの自信だった。

 アスラドーンは口をへの字に歪めた。自分の力がディンゴに通用しないことを彼も自覚しているのだ。

 Bクラスのクラビシの姿がなかった。地面の下でディンゴを狙っているというのは彼のことなのだろうか。

「断ったらどうする」

 キルマがディンゴに尋ねる。降伏のことだ。

 両者の距離は四十メートルほどだった。黒い仮面を見返して、ディンゴは答えた。

「例えば、俺は体内に溜め込んだ『気』を、丸ごと外へぶち撒けることが出来る。ちょっとした『気』の爆発だ。有効範囲はこの村よりちょっと広いくらい。我力は殆ど乗らねえから、Bクラスならまず無傷、Cクラスも半数くらいは生き残るんじゃねえか。だが、村の住民はそうはいかねえ」

 ディンゴが右の掌を上に向けた。そこから白いモヤモヤした光が生じ、周囲の景色が揺れるのが見えた。それが『気』なのだろうか。すぐに引っ込んで消える。

「お前らの中に結界士はいるかい。それか、防御結界を張れる魔術士か。いねえのなら、ワズトーの村は全滅するぞ」

「撃つなっ、ヘセナック」

 アスラドーンが怒鳴りつけた相手は黒塗りのライフルを構えていたカイストだ。彼はビックリした様子で銃身を立てる。

「馬鹿が、知らんのか。ディンゴに銃は効かん。こいつは弾丸やレーザーの軌道を自在に曲げられるんだ。矢もまず当たらんぞ」

 ルナンは幼い頃に聞いた覚えがあった。数千の矢が飛び交う中を、平然と歩く将軍の話。矢が勝手に逸れていくのだという。

 あれは、ホラ話ではなかったのだ。

「白銀のディンゴは仁義に厚い男だと聞いていましたが」

 チェーンソードを手の中に畳み、マクバル・アズスが言った。

「正直なとこ、俺も虐殺はしたくねえ。相手が男だけならまだしも、女子供も無差別なんてのはな。だから降伏しろって言ってんだよ」

 ディンゴがワズトーのカイスト達を見渡しながら告げる。

「まずはそっちが決めろよ。降伏するのかしねえのか」

「降伏はしない」

 村の運命を決める返事を、キルマは即答した。

「どうしてだい。俺が信用出来ねえか」

 驚いたふうもなくディンゴが尋ねる。

「降伏すれば、住民は捕虜として何処へでも引き摺り出せる。お前が帝国内でどれほどの発言力を持っていようと、全ての住民の行く末まで管理することは出来ない。お前の目の届かぬところまでやってしまえば、後は拷問しようが殺そうが思いのままだ」

「俺は住民を村から出すつもりはないぜ」

 ディンゴが人差し指でコリコリと頭を掻く。

「降伏してくれりゃあ俺の部隊をこの村に駐屯させて、俺の名に懸けて帝国軍から守ってやる。ラ・テロッサも同じようにやってるぜ。まあ、あっちは戦闘後の降伏になっちまったし、テロッサ王は縛り上げて帝都に送ったがな」

 あれっ、とルナンは思う。ディンゴも帝国の将軍の筈なのに、帝国軍を敵みたいに語っている。

 再びキルマが言った。

「断る。村の命運をお前の力に委ねる訳にはいかない」

 村長の屋敷の前で見守っていた魔術士ハリハサが、肩に乗った黒鳥を使って喋り出した。

「ディンゴ。今の皇帝はお前さんを嫌っとるから、お前さんが独断で村人の安全を保証したところで皆殺しの命令を翻すことはなかろう。帝国の全軍と全カイストを相手にこの村を守りきるつもりかね」

「そのつもりだがな」

 今度は小指で耳の穴をほじりながらディンゴは頷く。それだと村の守護者が今のカイスト達からディンゴに入れ替わるだけでは。ルナンは訳が分からなくなってきた。

 黒鳥は人間っぽく首を左右に振り、溜め息をついた。

「お前さんは錬金術士の恐さを知らんからそう言えるんじゃ。イスメニアスがその気になればサマルータの人間を絶滅させられる。ディンゴ、戦士のお前さん一人じゃ防ぎきれんぞ」

「降伏はしない」

 駄目押しにもう一度、キルマが言った。広場にいる他のカイストは誰も、異議を唱えたりしなかった。

 ならディンゴはどうするのだろう。『気』の爆発というのをされたらもう村は終わりらしいのだが。ルナンがハラハラして見ていると、ディンゴはその荒削りな顔に微笑を浮かべた。それでルナンにも分かったのだ。この一連のやり取りは、この男の予定通りだったのだと。

「なら、一つ提案がある。キルマ、勝負は俺とお前だけの一騎討ちにしねえか。Bクラス相手の戦いで、俺も部下を無駄死にさせたくねえんだよな。一騎討ちで俺が勝てば村には降伏してもらうし、お前が勝てば俺の軍はそのまま退却して二度とワズトーには手出ししねえ。どうだ、その辺で妥協しねえか」

 一対一の代表戦ということか。

 数秒の沈黙の後、キルマの黒い仮面が頷いた。

「俺はそれでいい」

「他の奴らはどうだ。聞いてないとか後でしらばっくれられると興醒めだから、ワズトーを守ってるカイスト全員に承諾して貰うぜ」

 ディンゴの視線がカイストの戦士達を巡っていく。

「仕方なかろう。ワズトーの命運はキルマに預ける」

 アスラドーンが言った。

「同意する」

 ディンゴの足元の地面から、クラビシの枯れた声が洩れた。

「その辺りが妥当な落としどころじゃろう」

 ハリハサの黒鳥が結ぶと、他のカイスト達は次々に同意の声を上げた。ベオニールも首を起こして頷いてみせる。カイストの何人かは微妙な顔をしていた。折角参加したのに、村の運命に自分が関われないことの悔しさ。

「構わんな」

 いつの間にかいた村長に、ハリハサの黒鳥が念を押した。

「それはもう、カイストの皆様にお任せします」

 村長はいつもの作り笑いで頭を下げた。もしかすると、一騎討ちで負けて降伏することになっても村が安全ならそれでいいと考えているかも知れない。村長はしたたかな人間だ。

 でも、一騎討ちで負けるということは、キルマが死ぬということではないか。ルナンはキルマの勝利を願うしかなかった。

 

 

  二

 

 四時間後、ワズトーの東五キロの草原で、『スケルトン・ナイト』キルマと白銀将軍ディンゴは対峙することになった。

 二人から離れて西側に、倉菱と数人のCクラスが立つ。チェーンソードを腰に下げたマクバル・アズスもいた。武に生きる彼らにとって、二人の戦いを間近で見られることは貴重な体験だ。アスラドーンや他のカイスト達は村の中で、用心のための守りについている。村人の立ち会いはいない。下手に巻き添えを食わないように、キルマが禁止した。

 カイスト達の後ろに、怪物馬ベオニールが立っている。一騎討ちといっても馬に乗ってやる訳ではなく、ベオニールの出番はない。知的な黒い瞳が、友人であり現在の乗り手であるキルマを見据えている。広場にいた時ののんびりした雰囲気ではない。勝利を楽観出来ないことを、ベオニールは知っている。

 二人から離れて東側に、四千人の兵士達が扇状に散開して、自分達の指揮官を見守っていた。どうせなら部下達にも観戦させたいと、ディンゴが頼んだのだ。一騎討ちの開始が遅れたのはそのためだった。とても正規兵には見えない雑多な服装で、山賊部隊と呼ばれる荒くれ者の彼らではあるが、今は全員が下馬して礼儀を守っている。彼らの顔に緊張はあっても恐怖はない。

 兵の殆どが中年であるのは、彼らが戦死せず、ずっと現役でディンゴに従ってきたからだ。それはディンゴの将としての力量を示していた。

 キルマは平板な仮面で顔を隠し、裾の破れた黒いロングコート姿で、無造作に大鎌の柄を握って立っている。野生の獣のような生命力を発散するディンゴに比べ、キルマは感情を削ぎ落とした一個の殺戮機械に似ていた。

「武器は安物を使えってのは、カイストの戦士にとっちゃあ鉄則みたいなもんだが」

 五メートルの距離で向かい合い、ディンゴが言った。

「お前の鎌は、これまた凄え代物だな」

 キルマは黙っていた。ディンゴは腰の長剣を抜き、キルマの鎌と見比べると、ふいと背を向けて部下達の方へ歩いた。

「おい、それと替えてくれや」

 ディンゴは部下の一人に告げ、腰の剣を取り上げた。自分が持っていたものよりも、質の悪い剣だった。

 代わりに自分の剣を部下に渡し、ディンゴは別の部下から槍を引ったくった。いつもは軽口ばかりの山賊部隊も、今日は咳一つしない。

「一騎討ちだからな。お前ら、手を出すんじゃねえぞ」

 ディンゴの言葉に、男達は大人しく頷いた。

 右手に部下の剣を、左手に槍を握り、ディンゴは改めてキルマの前に立った。

「それでいいのか」

 キルマが聞いた。

「ああ」

 ディンゴは答えた。

 二人の間の空気が、少しずつ、密度を増していった。

「俺は百三十八万才だ」

 唐突に、ディンゴが言った。

「俺の出立は、このサマルータだった。だからここには愛着があってな。文明管理委員会なんか入れずに、いつまでも賑やかにやってて欲しいもんだぜ」

 キルマは黙っている。右手の大鎌はまだ動かさない。全身を、一ミリたりとも動かしていない。ただ乾いた風だけが、彼の灰色の髪を揺らしている。

 ディンゴは太い眉をひそめ、考え事でもするように目を斜め上に向けた。

「それで、さっきから考えてたんだが、どうも当時、お前の名を聞いた覚えがあるんだよなあ。出立の時だったから、細かい記憶ははっきりしねえんだが。……百三十八万年前、お前もサマルータにいなかったか」

「いた」

 明快な即答の後、珍しいことに、キルマは戦いの場には不要なことを付け足した。

「百三十八万年前の、サマルータ。あれは、俺にとっても大きな節目だった」

「……そうか。ちょっとしたモヤモヤが消えた。すっきりしたぜ」

 ディンゴはそう言って笑った。左の口角だけを吊り上げた、強烈な笑み。それが彼の癖らしかった。

「じゃあ、始めるか」

 ディンゴの言葉に力みはない。

 キルマもまた素っ気なく応じた。

「ああ」

 その一言で空気が冷たく、重く変わった。山賊部隊の男達だけでなく、ワズトー防衛組のCクラスまでが、反射的に身を固くしていた。倉菱が細い目を更に細めた。

 ディンゴとキルマ。共に、Bクラス上級の戦士。場合によってはAクラスとも張り合えると言われている実力者だ。

 強いのは、どっちだ。

 緊迫した空気を破って先に仕掛けたのはキルマだった。五メートルの距離は一歩の踏み込みと武器の長さで消え、袈裟懸けに振り下ろした大鎌はディンゴの右肩を狙っていた。

「むっ」

 キルマが戦闘中に声を洩らした。滅多にないことだ。

 必殺の刃が勝手に上向きに逸れ、ディンゴが見越していたようにその下をくぐり飛び込んできたのだ。突き出された槍の穂先にキルマは身をひねる。しかし微妙に体勢が崩れ、左脇腹が浅く切り裂かれていた。

「最初から力を使わせてもらうぜ。剣術試合って訳でもねえしな」

 強烈な片頬の笑みを貼りつかせたままディンゴが告げた。カイストだけが聞き取れる、高周波数の圧縮音声。戦闘中など悠長に喋っていられない時に使われる。

 ディンゴは休まず攻撃を続けた。前に出ていたキルマの右足を狙い、異様に低い姿勢になって右手の剣を切り払う。ぎりぎりでキルマは足を引き、同時に手首を返して大鎌を振り下ろした。再び鎌の軌道がずれ、またディンゴの剣が魔法のように方向転換して鎌を弾く。

「おおっ」

 その時点で漸く、異常を認識したCクラスの剣士が驚きの声を上げた。

 ディンゴは、高速で動くものであれば、剣の軌道さえも自在に曲げることが出来るのだ。熟練したカイストの剣速は、音速の数倍から数十倍に達する。彼を相手にした者は、長い鍛錬によって習得した超速の攻撃が勝手に逸れていくことに愕然とし、常識を無視した軌道で襲うディンゴの剣に息の根を止められるのだ。多くのカイストがこの恐るべきディンゴの能力によって、最初の一撃で命を落とした。致命傷を受けずに済んだキルマの技量もまた尋常ではない。

 すぐにキルマは両手で鎌の柄を持つようになっていた。スイングの加速度に頼らず両手で動きを制御していれば、軌道を曲げられる度合も少なくなる。切っ先は前方にポイントされているため、槍のように使っても不都合はない。

 正確に突き込まれた黒い鎌を、ディンゴは剣で横に弾こうとした。その瞬間、キルマが手首の動きで鎌の刃を裏返し、剣を巻き込もうとする。ディンゴは柔軟に腕と手首を回してそれを振り払い、刀身が折れるのを防いだ。しかし長剣の刃が一部砕けて飛散し、ディンゴは口を尖らせる。

 お返しとばかりに、ディンゴの左手の槍が地面すれすれからキルマの股間へと浮き上がった。骨盤を割る筈の穂先を、キルマは後ろにステップして避ける。胸の高さまで泳いだ穂先は、そのまま踏み込みに乗ってキルマの心臓へと伸びる。

 それを払おうとキルマが振った鎌の柄に、ディンゴの長剣が向かっていた。剣が狙うは柄を握るキルマの指だ。キルマは咄嗟に右手を離し、剣が柄に当たって小気味良い金属音を発した。鎌の柄は鋼鉄製で、刃と一体構造になっている。

 軌道を曲げるというディンゴの特殊能力については、出立時点で既に持っていた生まれつきの才能と言われている。天賦の才。しかし、天才は大成しないというのがカイストの常識だ。有利な条件でスタートした者は、地道で過酷な修行に耐え続けるだけの情念を維持出来ないのだ。

 その極めて稀な例外が、ディンゴだった。生来の特殊能力も向上心を損なわせず、膨大な時間をかけて積み上げた真っ当な武術が彼の芯となっていた。正攻法と変幻自在の奇手を使い分けた攻撃が、容赦なくキルマを攻め立てる。

 超高速で繰り広げられる二人のやり取りを、山賊部隊の誰一人として把握出来なかったろう。手首から先の動きはCクラスの戦士にも見えなかった筈だ。それでも男達は固唾を呑んで見守っていた。金属が弾き合う音と、時折散る小さな血飛沫だけが草原を支配していた。

 血飛沫は、キルマのものだった。異常な軌道変化にある程度は対応出来るようになったものの、全身に浅い傷を増やしていく。百三十八万才のディンゴに、それより長い時を生きたキルマが押されていた。カイストは年齢がそのまま力量を示すものではないが、やはりディンゴの強さは百数十万年で得られるレベルを超えている。彼ならば、一千万才になる前に、神の領域と呼ばれるAクラスに達することも可能かも知れなかった。

 僅かなミスが即死に繋がる攻防を繰り広げながら、ディンゴの顔は歓喜に輝いていた。彼は根っからの戦士だった。

 対するキルマの黒い仮面は、髑髏の素顔と同じく何の表情も示すことはない。細い横穴から覗く瞳も、圧倒的な殺意に光りつつ何処か冷めているようでもあった。

 いつ果てるとも知れぬ殺し合いの転機は、キルマが穂先で腕を裂かれながら、ディンゴの槍に右手を絡みつかせた時だった。キルマの右手が柄を滑っていき、ディンゴの左手を掴む。キルマの握力でディンゴの骨が軋んだ。

「おっ」

 ディンゴが声を出した。

 キルマが左手に持つ大鎌が、ディンゴの左腕を切り落とすため浮き上がる。ディンゴはキルマの右手を払えないと悟り、左腕を見捨てて逆に攻撃に出た。右手の長剣をキルマの頭へ真っ向から切り下ろす。キルマが左右に避けても自在に変わる剣の軌道は、少なくとも肩から胸へと裂き割る筈だった。キルマがディンゴの左手を離さない限り。

 キルマは手を離さなかった。ディンゴの剣を脳天ぎりぎりまで引きつけて軌道修整の余地をなくしてから、上体を右後ろにねじり反らせて躱したのだ。人間としての限界を超える柔軟な動きだった。剣の切っ先が掠め、カツーン、と、硬い音がした。

 キルマの顔から、斜めに割れた黒の仮面がすっ飛んでいった。派手に回転しながら別々の方向に。

 同時にキルマの大鎌が、ディンゴの左腕を前腕半ばほどで切断していた。腕を付け根から切り落とす筈が、上体をひねった際に鎌も引かざるを得なかったためとディンゴの能力で軌道が歪んだのだ。腕の断面から血が噴き出す。

 ディンゴは眉を少ししかめただけで激痛に耐えた。剣を翻してキルマの胸へと向け、体ごと突進する。

 キルマが素早く後退しながら投げつけたのは、まだ槍を持ったままのディンゴの左腕だった。ディンゴの顔に驚愕が湧く。

 その一瞬の隙に、キルマの大鎌がディンゴの右腕を狙って振り下ろされた。体勢を崩しながらもディンゴが腕を引いて避ける。

 だがキルマの鎌はそのまま下へと滑り、湾曲したエッジでディンゴの右足を引っ掛けて、膝下で完全に切断してのけた。

 革のブーツを履いた右足が宙を飛ぶ。槍を持つ左腕が跳ねる。そして、片手片足を失って後ろへひっくり返る白銀将軍ディンゴの姿を、その場にいた誰もが認めた。

 間髪入れずに止めの鎌がディンゴの首を狙い、それを長剣が防ぐ。鎌を押し返せぬままディンゴは草地に背をぶつけた。首にかかる大鎌の刃を、ぎりぎりで長剣が止めている。しかし、湾曲した刃はディンゴの首を浅く裂き、更にめり込もうとする。

「降参するか」

 両手で鎌を押しつけながら、キルマが冷たく問うた。露出した白い髑髏の顔。その額部分の骨に、剣先によって削れた斜めの筋が残っていた。もう少し深かったら、傷は脳に達していただろう。

 戦いが始まってから、実際には一分も経っていなかった。その間に、二人は何百回、いや何千回刃を交えたことか。

「まだこれからさ」

 出血のため青ざめてゆく顔に、しかしディンゴは強烈な笑みを保っていた。負け惜しみなのか、それとも本気でそう思っているのか。少なくとも降参などあり得ないことを、ディンゴの誇り高い目の輝きは語っていた。

 その方針を一変させたのは、ディンゴの部下達だった。

「親分っ」

 将軍の苦境に慌てた兵士の一部が、武器を抜いて駆け寄ろうとしたのだ。一騎討ちに手出しが許されないことを彼らは承知していた筈だ。それが思わず動いてしまったのは、指揮官を慕う気持ち故か。

 しかし、ディンゴ本人の大音声が彼らの動きを止めた。

「参ったあああっ」

 常人なら聴覚が一時的に麻痺しかねないほどの怒鳴り声だった。目を見開いて凍りつく兵士達の前で、キルマは静かに鎌を引いた。剣を投げ捨て、ディンゴがのっそりと身を起こす。

「俺の負けだ。俺の部隊は撤退し、二度とワズトー攻略のためには動かんことを約束する」

 ディンゴの言葉に、キルマは髑髏の顔で頷いた。

「良かろう」

 両者の間に張り詰めていた殺気は霧散した。ディンゴは服の袖を破り、片手で器用に左腕と右足の断端を縛っていく。既に出血は収まりつつあった。熟練の戦士は傷周辺の血管を収縮させて、触れずに止血することが出来る。しかし、そうさせないような傷を負わせる技もカイストにはあるのだ。

「それにしても、凄え指の力だな。左手を掴まれた時、振り払おうとしたのが失敗だった。あれでタイムロスが出来ちまった」

「百三十八万才ということだったな」

 キルマが言った。

「俺がその年の頃は、お前ほど強くなかった」

 髑髏の顔にはどんな表情も浮かびようがない。しかし、キルマが敵に向かってそんな言葉をかけることは、滅多にないことだった。

 ディンゴは苦笑した。

「ふん。不細工な面なのに、意外に口がうまいじゃねえか」

 顔のことをけなされてもキルマは怒らなかった。それどころか、瞳の冷たさが僅かに和んだようにも見えた。

 ベオニールが友を乗せるために歩いてくる。黙って背を向けたキルマにディンゴが声をかけた。

「キルマ、その名は覚えとくぜ。またいつかやろうな」

 キルマは答えず、ベオニールの背に飛び乗った。

 一騎討ちの相手が去ると、山賊部隊の男達がディンゴの元に駆け寄ってきた。

「親分、すまねえ……勝手に体が動いちまったんだ」

「手出ししちゃなんねえのは分かってたんだが、いざとなったら頭が、真っ白になっちまって……」

 中年から老年期にかかるような男達が、まるで子供のように、大粒の涙を零して泣いていた。自分達が決まりを破って動いたためにディンゴが降参したことを、彼らは理解していた。

「まあ、やっちまったもんはしゃあねえわな。アリエがいりゃあ、お前らを抑えておけたろうがな。よっと」

 ディンゴは右手で部下の腕を掴んで立ち上がった。男達はまだ泣いていた。

「これからのことを考えなきゃあな。負けたからって終わりじゃないんだぜ。ラ・テロッサの方は守らにゃならんのだから」

 白銀将軍と、それを支える兵士達を見ながら、倉菱が馬上のキルマに尋ねた。

「ここで始末しておかないでいいのか」

 村を守るために確実を期すならば、彼らを皆殺しにするのも当然考慮すべき選択肢だった。取り決めは、ディンゴと山賊部隊の安全については言及していなかったのだから。ディンゴがもっと用心深ければ、或いは経験を重ねれば、取り決めに組み込んだであろう。

「不要だ」

 キルマは短く答え、魔術士ハリハサの黒鳥が補足した。

「総合的に考えれば、生かしておくメリットの方が大きかろう」

 倉菱はそれ以上追及しなかった。

「あれは、要らないのか。その……」

 見ていた剣士の一人であるティゾ・リショウが、草地に転がる鉄板を遠慮がちに指差した。真っ二つになってしまった、黒い仮面。

 振り向いて、すぐに向き直り、キルマは答えた。

「要らん。村の者は俺の顔を知っているし、お前達も知っている」

 実際のところ、黒い仮面も髑髏の素顔も、無表情で不気味なことには違いない。

 キルマを乗せた黒馬ベオニールは五キロ先の村へと駆け戻る。どんな事態にも即応出来るように、中央の広場で待機するためだ。

 数十秒で到着した。村の東門に、村長を始め村の有力者達が並んで待っていた。巨漢のカートナーと痩身のクレイ、そしてルナンの姿もあった。

 彼らはキルマが素顔を晒していることにちょっと面食らった様子だったが、カートナーは微笑しながら声をかけてきた。

「一騎討ちには勝ったのかい」

「ああ」

 キルマは答えた。

 その場にいた数人のCクラスも含めて、皆一様に安堵の息をついた。ただ村長の笑顔だけは、ややぎこちないものだった。ディンゴが勝った方が、結果的に村の安全が保証されると考えていたのかも知れない。

 ルナンは、黙って泣いていた。キルマの依頼人で、まだ十四才の少女。彼女はキルマの帰還を喜んでいたが、同時にそのまま崩れ落ちてもおかしくないくらい、儚げにも見えた。

 キルマはルナンに何も言わなかったが、両者の視線は確かに交錯した。

 少女の目に触れないように、キルマはコートの裾をたぐり寄せ、無数の新しい傷と血を隠していた。

 

 

  三

 

 際どい戦いだった。キルマは木の幹にもたれ、回復に努めながら考えている。

 ディンゴの言う通り、勝負はまだついていなかった。片手片足を落としてキルマが有利にはなったが、まだ決まってはいなかった。

 ディンゴの部下達は勘違いしたのだ。Bクラスの戦士にとって地面は障害物ではない。ディンゴはあのまま体を沈み込ませてキルマの鎌を避けることが出来た。或いは、瞬間的な気の爆発で地面を吹き飛ばすことも出来た筈だ。

 百三十八万才のディンゴ。奇遇だな。

 百三十八万年前の自分を、キルマは思い出す。

 あの時も、強敵がいた。あの恐ろしい迫力を持つ奴の雄叫びを、今でもリアルに思い浮かべることが出来る。

 

 

「どおあああああああああ」

 キルマは最初、馬鹿か、と思ったのだ。全金属製の長柄のハンマーを両手で大上段に振りかぶり、真正面から打ちかかってくる。力任せで技も何もない。こちらの脳天を狙っているのが丸分かりだ。それほどスピードもなく、全身隙だらけ。まさかこんな間抜けが、Bクラスでも有名な『ダブル・ツェンク』の片割れであろうとは。ブラフか、何か裏があるんじゃないかと勘繰ってしまう。

 どうにでも斬れそうだが、キルマはその時最もオーソドックスな筋を選んだ。すれ違いざまに左斜め上から斬り込んで胴を割ればいい。向こうの鉄槌はキルマに掠りもしないだろう。

 余裕が驚愕に変わったのはすぐだった。キルマは右斜め前にステップした。その筈だった。なのに『力のツェンク』のハンマーは、変わらずキルマの脳天に落ちてくるのだ。

 相手が体の向きを変えたのか。いや、まだツェンクの踏み込みは地面についてさえいないし、あの猛進体勢を丸ごと翻せるとも思えなかった。なのに殺意に燃えるツェンクの顔もその分厚い胸板も、真っ直ぐにキルマを向いているのだ。キルマが動いたつもりで動けていないのか。そういう術に掛かったとか。いや、足はちゃんと動いた。立つ位置が違っていることも知覚出来ている。

 ゾワワワワ、と総毛立つ感覚を、キルマは久々に体験した。

 世界が矛盾している。空間が単純にねじれているのとも違う。それとも幻術なのか。

 いや。これが、強念曲理(ごうねんきょくり)か。

 左耳の後ろにつけたゼリー状の魔術器具が、ヘズゲイルの思念を塊にして伝えてきた。

 ……そう、強念曲理じゃ。『力のツェンク』の唯一の武器よ。無理を通せば道理が引っ込む。あらゆる小手先技を吹き飛ばして必殺の一撃を叩き込んで来るぞ……

 強念曲理はカイストであっても稀にしか見られないものだ。カイストは武器や術に我力を乗せて世界の法則をぶち抜き、望みの効果を生み出す。我力が強ければ強いほど、効果も強くなる。二人のカイストが同じ硬度の武器を打ち合わせれば、我力の弱い方の持つ武器が砕けるだろう。しかし戦いはそれほど単純ではない。小さな我力をスピードのみに費やしたカイストと、膨大な我力を破壊力のみに捧げたカイストが戦えばどうなるか。おそらくは、後者は前者に良いように嬲り殺されることになろう。

 だが、稀に、時速千キロで逃げるカイストに、時速四キロのカイストが悠然と追いついて叩き殺すような異常現象があり得るのだ。他人から見れば逃げるカイストは時速千キロで移動し、追うカイストは時速四キロのままだ。二人の間にだけ、世界に矛盾が生じるのだ。絶対座標を無視して、相対的な位置関係によって時速四キロで追いつくという考え方から、相対化現象とも呼ばれている。こういうムチャは、余程巨大な我力を持たない限りそうそう起こるものではない。何十億年もの間、ただ一つの技だけを磨き続けた究極の強迫神経症者……ワン・スキル・カイストに与えられた特権とも言われる。文明管理委員会が唯一認めるSクラス、戦闘時もそうでない時もただひたすら上段斬りのみを繰り返す『剣神』ネスタ・グラウドのように。または、長さ十センチ程度の細い針を使い、どんな敵も一刺しで殺す『針一本』リエイのように。『力のツェンク』がそれを使うという噂は聞いていた。しかしまだ一億才にも満たない筈のBクラスが、本物の強念曲理を駆使出来るとはキルマも思っていなかったのだ。

「ああああああ」

 怒号が途切れず続く。力のツェンクのハンマーが迫ってくる。超高速の戦いに慣れたキルマにとっては呆れるくらいゆっくりと、しかし確実に。どうやってこいつに対抗出来る。今更馬鹿正直な力勝負に切り替えても、ずっとそれをやってきたツェンクには敵うまい。

 ……同じ土俵に立つ必要はない。お主とて半端な気持ちで修行を積んできた訳ではなかろう。ただ全身全霊を込めて当たれば良い。それだけのことじゃ……

 邪悪な魔術士のくせに口がうまいな。キルマの考えが届いたらしく、ヘズゲイルの笑う感覚が伝わってきた。

 確かに。魔術士の言うことは正しい。向こうには向こうのやり方があり、こちらにはこちらのやり方がある。キルマの積み上げた千六百万年は、異様な状況で簡単に揺らぐようなものではない筈だ。こいつを全力で倒す。もう一人のツェンクはヘズゲイルに任せ、キルマはただ目の前の魔人に集中した。握り締めた柄の感触。長さや形状は敢えてその都度違うものを選んできたが、キルマが使ってきたのは剣だけだ。剣の修行ばかりを積んできた。その自分を、信じるべきだ。

 剣で、こいつを倒す。

「あああああああああっ」

 力のツェンクの雄叫び。

 閃光。

 対峙。

 踏み込みをどうしたとか剣をどう操ったとか、キルマは覚えていない。ただ全力だった。結果としてキルマは生きており、力のツェンクは左腕を失っていた。

 ツェンクの左上腕は半ばほどで斜めに断ち切られている。岩のようにごつい筋肉の断面から血が垂れている。左腕は落ちて……は、いない。ぶら下がっている。左手がまだハンマーの柄を握り締めていて離れないのだ。

 ツェンクはその角張ったいかつい顔を、苦痛に歪めたりはしなかった。細い目はただ一心にキルマを睨み、再びハンマーを振り上げるのみだ。自分の受けたダメージなど気にせず、ただキルマを殺すことだけに全力を注いでいる。

 強念曲理。片腕になってもツェンクの攻撃が弱まるとは思えなかった。キルマの方はそうもいかない。左肩の痛み。ハンマーが掠った。掠っただけだったのに、肉と骨を潰していった。鎖骨と肩甲骨、そして肋骨も何本かやられた。左腕はもう上げられないだろう。痛み。ただハンマーでぶっ叩くことだけに全てを捧げ尽くした男による、極上の痛みだ。右手で長剣を構え直し、キルマは急に笑い出しそうになった。

 ……後五秒ほど持たせい。毒が効く……

 ヘズゲイルの思念。そう。こいつに貰った毒を刀身に塗り込んでいたのだった。我力の篭もった致死毒。術士共はこういう陰湿な手段が得意だ。剣士としては気に入らなかったが、集団戦では仲間の助力も受け入れるべきだ。糞外道な戦術というほどでないのなら。

 だがツェンクの傷口が淡く光り始めた。止まっていた血が再びだらだらと流れ出す。暗緑色の液体は、毒に冒された腐液か。キルマから視線を外さずにツェンクが言った。

「余計なことをするな、偽ツェンク」

「うるせえ偽ツェンク。集団戦だからお前が死んでも俺の傷になるんだよ。毒を放っといたらあっさりお陀仏だろうが」

 答えたのは空中に立つもう一人のツェンクだ。パーマネントの白髪に、細面で尖った顎の男。茶色のロングコートの裏地にはずらりと小さな杭が並んでいる。通称『技のツェンク』。無数の杭を使う結界士という噂で、実際のところ彼が投げた杭がそこら中に刺さっている。幾つかは宙に静止して、その一つの上に彼は立っているのだった。空間座標確保を道具に適用しているらしい。投擲武器としても使えそうだが、本命の効果は杭同士を繋ぐ光の線だ。これで囲んだ空間を結界にしているのだ。また、力のツェンクの毒抜きをしたのも結界の作用だろう。単純な敵の弱体化や味方の強化だけでないとすると、厄介な敵になりそうだ。

 この二人が、『ダブル・ツェンク』だった。世にも稀な、同じ名を持つカイストのコンビ。

 カイストにとって名前は重要なものだ。長い時をかけて成し遂げたことは、全てその名によって記録されるのだから。よって、カイストは自分と同じ名のカイストの存在を許さない。偶然名前がかぶってしまった場合、後に名乗った方が改名するか、敗北した方が改名すると約束した上で殺し合う。ただし、特に勝負に負けて改名した者は、アイデンティティーの傷から早晩墜滅してしまうことが多い。記憶と能力を失い一般人に戻ってしまう……本当の意味でのカイストの死だ。

 二人のツェンクがBクラスになるまで互いの存在を知らなかったのは、力のツェンクの方が修行に没頭するあまり、カイスト組織のガルーサ・ネットに登録していなかったためだ。そして二人は出会い、名を賭けて殺し合い、今に至るまで決定的な勝敗をつけられずにいるという。大切な自分の名を使っている他人。互いに絶対に消し去らねばならない相手なのに、潰しきれないジレンマは二人の心をどう変質させたのだろうか。結果として二人は共に行動し、しばしば殺し合いながらもコンビとして契約を結ぶことがあるのだった。『ダブル・ツェンク』に出会ったら、二人の強さについて語ってはならない。どちらを持ち上げてもけなしても、二人がかりで殺される。昔キルマが聞いた警句だ。

 技のツェンクも力のツェンクと同様に手ごわいと考えるべきだろう。あっちの相手はヘズゲイルがすると言ったのに、抑えきれていないようだ。二対二の、能力が入り混じる乱戦になるかも知れない。しかし、『ダブル・ツェンク』は連携に慣れている筈だ。こちらはただ契約によって繋がっている、会って数日の糞魔術士と剣士のコンビ。ヘズゲイルは嫌いだったが、それでも契約は果たさねばならない。

 力のツェンクが息を吸っていく。ハンマーが我力を帯びるのが目に見えるようだ。左腕はまだぶら下がったまま。右手だけで振り上げているのにフォームは全く崩れていない。ハンマーを大上段から叩きつける、それだけの動作を延々と延々と延々と延々と続けてきた、化け物なのだ。そんなツェンクの姿は美しかった。

「ほいよ」

 技のツェンクのかけ声と共に視界が歪んだ。キルマも結界の作用を受けたのか。

 違う。大地が歪んでいるのだ。地面の一部がめくれ上がり、壁となってキルマを包もうとしている。いや、やっぱりこれは幻術なのかも。皮膚感覚がおかしい。

 ねじれた壁の間を、唸りを上げて杭が飛んでくる。技のツェンクが投げつけたもの。それは囮だ。キルマは背後から無音で迫る杭に気づいていた。舐めるな。力のツェンクに留意しつつも少しだけ振り返って剣を薙ぐ。白木の杭を両断する筈の斬撃が、チャィンという奇妙な手応えに終わってキルマは愕然とした。斬れずに弾いてしまった。杭が硬かったせいではない。最初から斬らせることを前提にコントロールしていたらしく、刃が届く寸前にはもう引き返していくところだったのだ。囮はこちらの方だった。本命は正面からの奴か。と、地面の揺れに別の震動が混じる。地中から杭が上ってきているのか。技のツェンクはこういう小細工がメインか。杭を食らったらどれほどのダメージになるだろう。背中を這う感触は、ヘズゲイルがつけた触手塊が発動したらしい。防御用の使い魔らしいが、どのくらい役に立ってくれるか。

「どおあああああああ」

 雄叫びが始まった。来る。力のツェンクのハンマー。最初の時と変わらぬスピードと軌道で、キルマの脳天を狙って叩き下ろしてくる。

「カァッ」

 キルマも気合を発していた。もう技のツェンクに構ってはいられない。どれほどダメージを受けようが全力で力のツェンクに当たらねば。

「ああああああああっ」

 剣を。横へ。斜め。足を。

 足が飛んだ。力のツェンクの左足。頭が痛い。掠りもしなかった筈だが。いや少し掠ったのかも。左のこめかみを血が流れる感触。意識は……大丈夫だ。脳にダメージはない。今のところは。

 背中と右ふくらはぎに鋭い痛み。杭にやられたか。あっ、一瞬クラリと来た。まずいかも知れない。いや、結界の感覚操作かも。

 力のツェンクは平然と片足で立っている。ぶった切れた太股の出血もすぐ止まり、結界の力で毒液が排出される。顔や首筋に走る数本の細い傷は、手を伸ばした触手によるものだ。こちらも毒があるとヘズゲイルは言っていたが、やはり効かないだろう。

 大地がうねっている。キルマは空間座標確保で姿勢を維持している。コカカカッ、ビジュリ、と不気味な戦闘音が続いている。技のツェンクとヘズゲイルもやり合っているようだ。魔術士は自分の体を亜空間に退避させ、キルマを矢面に立たせて術を行使している。

 力のツェンクが再びハンマーを振り上げる。切れた左腕はまだ柄を掴んだままだ。なんという執念か。片足がなくてもこいつは変わらず攻撃してくるだろう。キルマはこめかみの出血が気になっていた。血だけではないかも知れない。それと右足の傷。この足で奴のハンマーを避けることが出来るのか。

 ふと、声が聞こえた気がした。圧縮音声でやり取りする高速の流れとは異なる次元の、一般人の声。少女の声。何と言っているのかは分からなかったが、キルマは思わず振り向いていた。

 戦場から離れた丘の上に、ルナンは立っている。少女は心配そうに戦いを見守っている。その心配は誰に向けられたものか。彼女は理解しているのだろうか。どちらが敵でどちらが味方であるのかを。ヘズゲイルに滅ぼされた彼女の故郷・エニフェに生き残りがいて、復讐のために雇ったカイスト達のメンバーが『ダブル・ツェンク』なのだ。依頼内容にルナンの保護が含まれているかは不明だが、おそらくルナンを悪いようにはしないだろう。彼女を苦しめるのはキルマ達であり、救うのが『ダブル・ツェンク』の方なのだ。

 だが少女の意識が自分に向けられているのをキルマは感じていた。心配はキルマのためのものだった。その信頼の眼差しが、キルマの心に重く食い入ってくる。

 契約というだけだ。ヘズゲイルとの契約に、彼女を守ることも含まれていたというだけだ。

 砂漠を一緒に移動していて地面が崩れ、流砂に嵌まりかけたのをキルマが助け上げただけだ。契約だったから。それだけのことで、ルナンはキルマを信頼してしまったのだ。

 重い。

「何を見ている」

 力のツェンクが雄叫びでなく言葉を吐いた。キルマが少女を振り返って思考したのはほんの一瞬だが、ツェンク相手には致命的な隙であったろう。しかし力のツェンクは意外にも手を止めていた。キリキリと極限まで張り詰めていた殺気が去り、細い目がキョトンとした様子でキルマを見つめている。戦いの最中に気を抜くなど馬鹿か。いや、よそ見をしたキルマの方が馬鹿だ。

「気にするな。さっさとかかってこい」

 キルマは圧縮音声で答える。

「お前はあの子供の守護者か」

 これも奇妙な質問だ。戦いの最中に聞くことではない。

「契約では一応な」

「……ならば、お前は悪ではないのか」

 首をかしげた力のツェンクに、キルマは苦笑してしまったのだった。

 

 

 結局力のツェンクの興醒めにより、二人は一旦引き返していった。技のツェンクの方は相棒を散々に罵倒しながらも諦めていたようだ。

 二人が去った後でヘズゲイルは戻ってきて、「うまいことやったの」とケタケタ笑った。

 少女は駆け寄ってきて、キルマの腰にしがみついた。何も言わなかったが、キルマが生き延びたことに安堵しているのは分かった。戦いで負った傷の痛みより、少女の信頼の方が重苦しかった。

 キルマはその重さから少しでも逃れようと、少女に向かって慣れない微笑を浮かべてみせたのだ。少女の未来に不吉な予感を覚えながら、上っ面の、キルマにとっては精一杯の微笑だった。

 今の依頼人である、同じ名の少女のことをキルマは考える。キルマが一騎討ちから戻った時の彼女の眼差しは、当時のあの少女に似ていた。

 今のキルマに顔はなく、微笑を浮かべてみせることは出来ない。

 

 

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