第五章 血に混じる雨

 

  一

 

 ペネトゥラ・ザクルというカイストが帝国のワズトー攻略軍陣地を訪れたのは、白銀将軍ディンゴが敗北した六日後のことだった。

 精鋭二十万を率いる最高指揮官・鉄心将軍マルカートは、来訪者に冷たい視線を投げてすぐに問うた。

「隠蔽処理はうまくやったか」

「問題ない。これはイスメニアスの隠蔽用コートじゃからな。後で返却しろと言われたわ。ヒョハッ」

 ペネトゥラ・ザクルは灰色のマントを摘まんで奇妙な笑い声を上げた。

 軍はワズトーの西五十キロ地点で宿営していた。帝都で命令を受けてから帝国軍専用のワープポイントを使って東方ターミナルへ着地、この前線に到着して現在に至るまで、継続して結界士による隠蔽処理を受けており、ワズトー側のカイストに少なくとも正確な位置は知られていない筈だ。もし襲撃を受けたとしてもそのまま戦えば済む話だが、時間をかけて連れてきた二十万の兵は肉の煙幕程度にしか役立たないだろう。Bクラス以上のカイストに一般人は歯が立たないため、普通こんな状況ではカイストだけで片をつけてしまうものだ。なのにわざわざ兵を動員するのは、単なる伝統や皇帝の見栄でなければ何か理由があるのだろう。その理由がおそらく、遅れて到着したこのカイストという訳だ。

 七十二億才の剣士であるマルカートは、この不気味な来客が異常性格者だと一目で見抜いていた。

 ペネトゥラ・ザクルの腹は丸く膨れ、手足は骨と皮しかないくらいに細かった。乾いた皮膚には皺が寄り、髪は申し訳程度に生えている。頭部の大きさに比べて顎は細く尖り、落ち窪んだ眼窩から覗く目は、炯々と異様な光を放っていた。戦士ではなく術士、それもかなり暗黒寄りだ。魔術には白も黒もないと言い張る魔術士は多いが、そんな奴らは大抵邪悪に染まりきった醜い顔をしている。肉体を思い通りに調整出来ても、顔つきには自然と本性が滲み出てしまうものだ。

 軍にいるカイストは誰もペネトゥラ・ザクルとは面識がなかった。『エトナ締め』が決裂して新たに雇われたカイストらしい。中立カイスト組織ガルーサ・ネットのデータベースには、ペネトゥラ・ザクルは六億才、Bクラスの統制士であり増強士であると記録されていた。統制士は味方同士の意識を繋いで統率し、最適な集団戦闘を行う能力者だ。増強士は『パワー』とも呼ばれ、触媒様の効果を発揮して味方の我力を増大させる。一般人の部隊がBクラスのカイストを相手にするなら、増強士の助力は必須であろう。

 なるほど、この男がいれば二十万の兵も活躍の余地がありそうだ。丞相イスメニアスは最初からそれを意図して軍を送っていたのか。しかし、帝国の存亡を賭けた一戦で、得体の知れない術士に軍を任せて大丈夫なのか。マルカートはペネトゥラの持参した印状を見直す。

 ペネトゥラ・ザクルに軍の全権を委ね、以後は彼の指示に従うこと。内容はそれだけの簡潔なものだった。錬金術士のイスメニアスは我力の込められた特殊なインクを用いており、彼のサインであることに間違いはない。それ故に渋々、マルカートは指揮権をペネトゥラに譲り渡すこととなった。マルカートの今の役割は帝国の将軍であり、個人的な好悪が入る余地はないのだ。

 そのペネトゥラの最初の命令は、二十万の兵士を全員、自分の前に通すことだった。十列縦隊にして狭いテント内に次々と入れ、『処置』を施して裏口から追い出していく。停滞なく流れ込む兵士達は、テントの中で何が行われているのか知らず、出てきた男達が皆一様に虚ろな表情になっているのに気づく筈もない。

 マルカートら帝国のカイスト達は、魔人の作業を黙って見守っていた。

 ペネトゥラ・ザクルの痩せた指先から、細い緑色の触手が伸びていた。数メートル長に及ぶ十本の触手はワシャワシャと素早く動き、兵士達の首筋に尖った先端を突き刺していく。細い触手の根元から先端へ向けて丸い膨らみが流れている。それがどうやら、兵士達の体内に注入されているらしい。

 十人を処理するのに一秒もかからなかった。ペネトゥラは小さな薄い唇に粘質な微笑を湛えながら、単調な作業を続けていった。

 二十万人を処理し終えた頃には五時間弱が経過していた。ポツポツと雨の降り始めた荒野で、虚ろな顔の兵士達はそれぞれの持ち場へ戻っていく。

 幾分引っ込んだ腹を撫で、ペネトゥラはマルカートに告げた。

「次は、軍のカイストを全員、余の前に集めよ」

 マルカートは嫌な予感がした。

 司令部の赤い大テントに、マルカートを含めたBクラス十一人、Cクラス四百十四人が集合した。指揮官席の手前にBクラスが、それより少し離れてCクラスが適当に座る。整列しないのは異能者としての矜持であり、求められているのが協調性でないことを知っているためでもあった。皇帝の前でもない限り、多少の不躾は許されている。

 Bクラスの内訳は戦士が八人、魔術士が二人、結界士が一人だった。

「揃った。これで全員だ」

 マルカートが言うと、指揮官の椅子にベッチャリとふんぞり返っていたペネトゥラが「ヒョハッ」と笑ってから命じた。

「では、お前ら全員に余の種を植えつける。順番に余の前に歩み寄れ」

 やはり、か。統制士・増強士なら当然考慮すべき選択肢だ。だが兵士の首に何かが埋め込まれる様子を見ていたカイストが、すんなり同意するとも思えないが。

「何だと、俺達もかっ」

 早速怒鳴り始めたのは岩砕将軍ネス・ガラティだ。Bクラスの戦士でマルカートの次に強いと目される彼は、腰に下げた鎖つきの大斧に手を伸ばしていた。

「なんでてめえみたいな気色悪い奴の種とやらを入れられなきゃなんねえんだよ。六本足の小便でも飲んだ方がましだぜ」

「探知士も対象なんですか」

 司令部つきのCクラス探知士が露骨に嫌そうな顔をした。

「反対だ。そもそも、お主の実力が分からない。見たところ兵士達は思考力を失くしているようだが、あれでまともに戦えるのか」

 Bクラスの氷牙将軍エミノクが続く。剣や短槍やナイフを全身数十ヶ所に装備して、状況に応じて使い分ける戦士だ。他人との関わりを避け孤高を装っているが、怒りの滲む口調にマルカートは兵士への気遣いを感じ取っていた。こういうカイストは意外に多い。最初から親しくしなければ、別れの時に悲しむ必要もないのだ。

 何はともあれ、エミノクの指摘は正しい。マルカートも前任指揮官としてコメントを加えておいた。

「私の経験した限りでは、統制士も数千人の連携が限度というところだった。Bクラスで二十万人というのは聞いたことがない。その分大きなデメリットがあるのではないか。まして、カイストまで一緒くたに統率出来るとは思えんが。単なる通信センターとしての役割ならともかくな」

 統制士は、意識を繋げた全員の状態を正確に把握し、別々に操作しなければならない。超絶的な情報処理能力があっても、多人数の操作は困難を極めるものだ。

 部下達の反論にペネトゥラは怒るのではなく、ニタニタと陰惨な笑みを浮かべた。

「同時に七十万人までは統べたことがあるが、言葉だけでは信用もされまい。うむ、うむ、ならば、余の力を見せておくべきじゃろうな。ヒョハッ。相手はBクラスでも良いが、王としては有能な駒が減るのを避けねばのう。Cクラスで適当な戦士を一人、見繕ってくれ」

 デモンストレーションに味方をちょっと殺してみせるという訳だ。ペネトゥラの命に、マルカートは数百人のCクラスを見渡し、黄土色の布で頭部から肩まで覆った男に目を留めた。

「ベスパー・タイク」

 名を呼ばれた男は静かに立ち上がる。かぶった布の、そこだけ開いた二つの穴から、感情を抑えた瞳がマルカートを見返している。ベスパー・タイクはCクラスの中では上級に位置する、半月刀の使い手だ。状況次第ではBクラスともそこそこやり合えるだろうし、一般人千人程度なら大した手傷も負わず皆殺しに出来るだろう。

 ペネトゥラが頷いた。

「うむ。良かろう。相手はテントの外に来ておる」

 Cクラスの一人が出入り口の布を開くと、土砂降りとなった雨の中に五人の兵士が立っていた。雨粒に打たれながら瞬きもせず、虚ろな表情でこちらを見ている。装備は三人が槍で、二人が剣だった。Cクラス相手なら銃器も有効だし、強化士が我力強化を加えた弾丸も支給されているため、Bクラスの我力防壁を破る強力な武器となり得る。ペネトゥラも弾丸のことは知っている筈だが、敢えて原始的な武器を選んだことに支配者の自信を感じさせた。しかも、カイスト相手にたった五人とは。流石にベスパー・タイクの目も怒りに細められた。

「五人でいいのか」

 念のためマルカートが尋ねる。

「良い。五人が不満なら三人でも良いぞ、ヒョハッ」

 笑うペネトゥラの顔面にネス・ガラティ辺りが武器を投げつける前に、マルカートはベスパー・タイクに命じた。

「やってみろ。全力で構わん」

 ベスパーは浅く一礼してCクラス達の間を抜け、テントの外へ滑り出た。ほぼ全員の視線がそちらへ集中する。五人の兵士はまだ構えもせず突っ立っている。

 雨の中、ベスパーは腰から半月刀を抜いて即座に攻撃に移った。無駄のない動きで、常人相手なら五人始末するのに一秒もかからなかったろう。

 だが、五人の兵士達はベスパーと同等以上の動きを見せた。狙われている一人が槍を構え、他の四人は素早く回り込む。ベスパーの目に驚愕が浮かぶ。その首や胴を狙って五方向から槍と剣が襲う。

 ベスパーは跳躍した。頭側を下にした見事な宙返りだ。兵士の一人の首を掻き切るために半月刀が閃く。

 その半月刀は弾かれた。続いてベスパーの右腕が別の兵士の剣で切り裂かれる。更に他の二人の投げた槍が背を貫いた。雨音にベスパーの呻きが混じる。致命傷……ベスパーが動ける時間はもう長くないだろう。宙返りを終えた彼は、左手を地面について体を支えようとした。

 その瞬間、ベスパー・タイクの首が飛んだ。待ち構えた兵士の一人が剣を低く薙ぎ払ったのだ。力の抜けた左腕は体重を支えきれず、ベスパーの胴は首の断面で逆さまに着地した。布の外れた生首が血飛沫を撒きながら地面を転がり、火傷痕のある素顔を晒すことになった。

 五人の兵士が再び横に整列した時、漸くベスパーの胴はぬかるんだ地面に倒れ込んだ。彼らは、最初から最後まで無表情だった。

「ヒョハッ。まあ、こんなものじゃな」

 ペネトゥラ・ザクルは満足げに頷いた。

 兵士達の示し合わせたような連携は、統制士の力がうまく働いていた証拠だ。スピードもCクラスの戦士に劣らなかった。ペネトゥラは兵士達を完全に掌握し、強化していた。

「味方の体内に端末を直接埋め込むことで、強力な支配を可能にしているのか。流石のスケルトン・ナイトも、これだけの力量の兵を二十万も相手にするのは難しかろう」

 マルカートは冷静に感想を述べた。これだけでペネトゥラが二十万人をきちんと強化・統制出来ることの証明にはならないが、ある程度の力を見せてもらったからには信用すべきだろう。カイストは基本的に嘘をつかないのだから。

「しかしキルマの乗馬は高速で空を駆けるらしいですよ。Aクラスのカイストとか。サマルータにAクラスが来てるなんて知りませんでした」

 結界士のパクナシャグナが言う。巨大な隠蔽結界を維持するため、彼はずっとこのテント内で身動き出来ずにいた。

 ペネトゥラは動揺なく返す。

「イスメニアスから聞いておる。それへの対策は三つじゃ。一つ、我力強化された銃弾で最低限の対空戦も可能じゃということ。二つ、そのためにお前達カイストにも種を植えて駒に加えること。三つ、この軍は別に、キルマを殺すこと自体を命じられている訳ではないということじゃ。ヒョハッ。キルマを無視して村を襲うこともありじゃろう。逆にそうすれば、キルマも空から降りてこざるを得なくなる」

 斧使いのネス・ガラティは黙って唇を噛んでいた。この胡散臭い上司に反論する言葉を探しているのか。或いは自分があの兵士達を相手にしたらどうなるか、頭の中でシミュレートしているのだろうか。

 Bクラス魔術士のアムランが指摘した。

「動かした兵の消耗は激しいようだが。精々二秒弱の戦闘で、もう倒れてしまいそうじゃないか」

 マルカートが気になっていたのもそこだった。雨の中を立ち尽くす五人の兵士は、明らかに肉の量が落ちていた。艶を失った皮膚を弛ませ、一気に数十才も年を取ったように見える。

「無論、ただでこれだけの力を発揮出来る訳はないわ。彼らの生命エネルギーを消費して、我力の代わりとしておる。全開にすれば、一般人なら数秒で寿命が尽きる。しかし数が揃っておるからそれで充分なのじゃよ。ヒョハッ」

 つまり、敵に接近した者からエネルギーを全開にしていき、消耗して朽ち果てた兵士を次々入れ替えて攻撃を続ける戦法となるのだろう。

「胸糞悪い能力だな。増強士というのは自分の力を味方に分けるものと思っていたが。自分は安全な場所から、味方を使い捨てか」

 戦士エミノクの苦々しげな台詞を、ペネトゥラは黒い笑顔で肯定した。

「その通りじゃよ。カイストにとって最も重要なのは自らの欲望を満たすことであり、次に契約を果たすことじゃ。余はその二つに、真摯に生きておる」

 それはそうだろうな。問題は、ペネトゥラの欲望が他のカイストの志向にそぐわないということだ。マルカートは質問した。

「カイストに使ったとして増強効果はどうなる。寿命が縮むというのは俺達には当て嵌まらないだろう。また、統制下での行動に俺達の自由意思が入る余地は」

「うむ、カイストの場合、無意識に抑制しておる我力の消費配分を高めることになるな。普段よりパワーアップはするが、消耗も早い。また、余の支配下に入れば、お前達の自由意思が入る余地は皆無じゃ。王として、臣下が命令に背くのを許す訳にはいかんからの」

 ペネトゥラはあっさり答え、自らの支配欲を隠さなくなっていた。カイスト達は互いの顔を見合わせる。マルカートにとっては予想内の答えだったが、これを受け入れるというのは困難だろう。

「戦闘では予想外の事態が起こります。一人の意識に全ての戦力を委ねるのは危険ですね。ちょっとしたきっかけで総崩れとなれば立ち直しも不可能でしょう。カイストをあなたの統制下に置くことには反対です」

 カイストの多くが考えたであろうことを、代表して結界士パクナシャグナが述べた。

 そして、ペネトゥラが何と言うか、マルカートには予想がついていた。

「うむうむ、そうであろうとも。お前達は、余に支配されることを怖れておる。それは当然のことじゃ」

 ペネトゥラはニヤニヤ笑いを更に深めていく。欲望丸出しの、どす黒い笑みに。

「しかしのう。残念ながら、今この軍の司令官は余であり、お前達は部下なのじゃよ。お前達が契約として帝国に仕えておるのなら、余の命令に従う義務がある。それとも契約破棄して経歴に傷を残すか。ヒョハッ」

 カイスト達は沈黙した。ペネトゥラの主張は正論だ。帝国との契約にどのような条件を入れたかは個人によって異なるだろう。だがディンゴのように、気に食わない命令は従わなくて良いなどという贅沢な条件を入れた者は殆どいない筈だ。非人道的虐殺の拒否権を持つ者は、そもそもこの遠征軍に参加していない。

 どうしてもペネトゥラに従いたくないなら、死んでみせるしかない。死亡による契約失敗ならよくある話なので、さほど大きな傷にはならないのだ。しかし、そこまでするカイストがこの中にどれだけいるか。マルカート自身は前の皇帝を気に入っていたのと、後四年で契約更新時期となるため、敢えてここで命令拒否するつもりもなかった。

 嫌がる者を支配するのも彼の悦楽なのだろうか、ペネトゥラはしかめ顔のカイスト達をじっくり見回して、また「ヒョハッ」と笑った。

「では、司令官としてお前達に命ずる。順番に余の前に……」

 ペネトゥラ・ザクルはその台詞を終えることが出来なかった。首が胴から切り離されても声を出せる者は滅多にいない。

 新任司令官の首を刎ねたのは激昂した帝国軍カイストではなく、テントの天井を突き破って落ちてきた影だった。信じられないスピードで、マルカートの目でも落下中の姿を見極めることは出来なかった。敵襲だ。隠蔽処理は見破られていたのか。しかし何故敵の接近に気づけなかった。土砂降りの雨などは言い訳にならない。侵入速度が異常過ぎたのか。それにしても探知士は何をしていた。彼らはこんな時のためのレーダーなのに。

 戦士エミノクの腕が飛ぶ、その向こうで探知士達が血を吐き眼球を飛び出させ倒れるのが見えた。カウンタースキャンだ。探知士の感覚の触手を騙し、更に遡って本体にダメージを与える探知士の技術。一斉にあれほどのダメージを受けるとは、探知士としての力量に相当の差があったということか。とっくにこちら側のレーダーは掌握されていて、ダミーの情報を流され接近も隠蔽されていたのだ。

「結界に敵が……」

 遅過ぎる報告を叫びかけた結界士パクナシャグナの胴が、ズッと斜めにずれ落ちていく。やられた。これで隠蔽結界は崩壊し、防御結界も使えなくなった。

 カイスト達は立ち上がっていた。ネス・ガラティが歯を剥き、エミノクの投げたナイフは標的が移動したためテントに穴を開ける。数百名のCクラスは戦闘態勢に入る者とあっけに取られている者が半々のようだ。マルカートは「敵だっ」と圧縮音声を発しておいたが、未熟なカイストは聞き取れなかったろう。

 侵入者は、大型の黒馬に跨った黒衣の男だった。黒馬は額に五本の角を生やし、黒い鱗で全身を覆われていた。男は裾の破れたロングコートを着て、長柄の大鎌を握っている。黒ばかりの容姿に白く浮かぶ髑髏の顔が、帝国のカイスト達へ鋭い視線を巡らせる。

 ワズトー側の最強の駒であるスケルトン・ナイトが、帝国軍の本陣を強襲してきたのだ。

 キルマというカイストに、マルカートは一度だけ会った覚えがある。まだ顔の肉がついていた頃の話だ。少しニヒルなところはあったが、筋の良さそうな若い剣士だった。

 少なくともあの時のキルマは、こんなにキリキリと重い殺気を発する男ではなかった。カイストのスタイルを一変させるような重大な出来事を経験したのだろうか。あまり良い方の経験ではなさそうだが。

 それにしてもテントの天井を破った時の速度は凄まじいものだった。充分な距離を取って加速歩行を使ったか。その超スピードに急制動をかけられるのは乗馬の力量だ。ベイオニール・トラサムス。Aクラスは神の領域と呼ばれ、その能力は大抵何かの分野に極端に突出しているものだ。探知士としても戦士としても強力だとすれば、こいつの存在理由は何なのか。

「てめえっ」

 ネス・ガラティが怒鳴りながら大斧を投げつける。握った鎖のコントロールにより途中で軌道を変えた重い凶器は、黒い大鎌によってあっけなく真っ二つにされた。圧倒的な我力差にガラティが絶句する。

 破れた布天井から激しい雨が降り込んできた。キルマは首のないペネトゥラの胴体に大鎌を振り下ろし、完全に止めを刺した。イスメニアスのものだった隠蔽コートも台なしになってしまった。左右に爆ぜ割れた体内から、黒い内臓に混じって無数の小さな生き物が溢れ出す。柔らかな外皮に体節があり、尻に生えた数本の触手がモゾモゾと蠢く、目のない生き物。ペネトゥラが『種』と呼んだもの。彼の本質は蟲使いだった。主を失った虫達は血溜まりの中を無駄に這い回るだけだ。

 帝国のカイスト達は攻撃を始めていた。無数のナイフと矢と電撃と魔術と超能力がキルマと乗馬に集中する。Cクラスでも数百人いれば軽視出来ない戦力となる。Bクラスのエミノクは片腕で細身の剣を抜き、ネス・ガラティは亜空間ポケットから予備の斧を取り出した。魔術士アムランは酸の海を繰り出し、天井の穴を塞ぐようにテントの内側を這わせている。マルカートも二刀を抜き、味方の誤射に気をつけながらキルマへと回り込む。

 ドンッ、と、殆どの攻撃を飛び越して騎馬が突進してきた。エミノクの胴が鎌に串刺しにされ、その背に味方の攻撃が突き刺さってあっという間に爆散させる。ネス・ガラティは咄嗟に伏せ、馬体が上を過ぎた後で跳ね起きて斧を投げる。その額にナイフがめり込んだ。Cクラスの投げたナイフ。乱戦の誤射ではなく、キルマが意図的に鎌で弾いてガラティに向けたのを、マルカートの目は捉えていた。致命傷ではないと思うが……それより来るっ。

 騎馬が方向転換してこちらに飛んできた。マルカートは二刀で正面から応ずると見せ、ギリギリで身をひねって馬の下へ滑り込む。脚を一本でも斬れば敵の機動力は格段に落ちる筈だ。後は大勢のCクラスで八方から削り殺すことも可能になる。

 だが二振りの剣はどちらも空を斬った。マルカートの太刀筋を読んだかのように、馬が両前脚をうまく折り曲げて躱したのだ。過ぎながら馬が首を曲げて振り返り、口を開く。まずい。炎が見えた瞬間マルカートは左へ転がった。その先に、待ち構えたように黒い刃があった。長柄の大鎌。炎と鎌の挟み打ちだったか。舐めるな。マルカートは意識を集中させ、自分の首筋と鎌の間に右の剣を割り込ませた。ギジッ。剣の刃が欠けたが首はやらずに済んだ。背中の痛み。炎に焼かれ、一部は炭化したのか感覚がない。だが、重傷ではない。

 テントをまた破ってスケルトン・ナイトが飛び出していく。マルカートは後を追いながら現指揮官として叫ぶ。

「テントから出て散開しろっ。非戦闘員は退避……」

 雨に混じって何かが落ちてくる。ゾワリ、と死の予感を覚え、マルカートは目一杯前へ身を投げ出した。

 爆発。爆風に押されマルカートは泥の上を転がる。テントが爆発した。通常の兵器ではない。我力の込められた、カイストを殺せる爆発だ。強化士か科学士か、いや、マルカートはワズトー側のカイストリストに載っていた名前を思い出した。

 『ボマー』アスラドーン。体内に爆弾を溜め込む男。一対一ならマルカートにとって軽くあしらえる相手だが、集団戦闘でこちらが密集していると厄介な敵となる。

 司令部の大テントは消滅していた。地面に直径五十メートルほどのクレーターが出来、周辺に無数の肉片が散らばっている。手足を失ったカイスト達の呻き。雨の中を逃げ走るCクラス。無事だったのは半数ほどか。Bクラスは何人残っている。数人いれば態勢を立て直せばなんとか……。

「畜生……」

 ネス・ガラティの声。クレーターの向こうの縁に転がっていた。顔面は焼け爛れ、右腕は先がないようだがまだ生きている。と、上空からまた微かな風切り音が聞こえ、マルカートは舌打ちしながらクレーターから離れた。

 再び爆発。振り返るとネス・ガラティは跡形もなくなっていた。うまく退避出来たとはとても思えない。

 一般兵士達のテントはひどいことになっていた。ペネトゥラ・ザクルの死亡で体内の虫が暴走したか、皆手足を痙攣させて泥濘をのた打ち回っている。もう使い物にならないし、人間としての復帰も難しいかも知れない。

「ハハッ、七百万年前の借りは返したぞマルカート」

 上空からアスラドーンの笑い声が聞こえた。おそらく空間座標確保で雲の上にいるのだろうが正確な位置が掴めない。隠蔽系の術を使う仲間がついているのだろう。

 こちらも空を駆け上がって殺しに行くか。そう考えた時、高速で近づく気配を察してマルカートは振り向いた。やはり、こちらが優先だな。

 テントを飛び出してからの短時間で相当殺してきたのだろう、スケルトン・ナイトは雨と返り血でびしょ濡れになっていた。

 髑髏の白い顔を大粒の雨が叩く。瞼のない瞳がマルカートを冷たく見据えていた。大鎌の切っ先をこちらに向けて真っ直ぐに突進してくる。

「舐めるなよ。小僧」

 安っぽい台詞を吐いたと内心苦笑しながら、マルカートは目の前の騎馬に意識を凝縮させた。予測される敵の攻撃パターンとそれに対する適切な迎撃法が、電撃的な思考となって脳内を駆ける。黒馬のスピードは凄まじいが、対応出来ないほどではない。

 馬が更に加速する。正面から蹴り潰す気か。それとも左右を駆け抜けざまに大鎌で引っ掛けるつもりか。どう来る。マルカートは左半身になって左の剣を前方に向け、右の剣を引き気味にして垂らした。一見応用の利かない構えだが、七十二億年の歳月は技術を別のものに変える。

 来たっ。集中したマルカートの目は、黒馬の方向転換を僅かな兆しの時点で捉えていた。左へ。マルカートの右をすれ違おうとする。敢えてこちらを選んだか。まだだ。マルカートの体の中心を狙って突いてくる大鎌の切っ先。我力を左剣の刃に集中させて、弾く。その勢いを駆ってマルカートは足腰、背筋の力で右の剣を振り上げた。我力を込めながらもただただ鋭く、天を貫くように。マルカート最速の剣は、馬体ごとキルマの尻から脳天までを割る筈だった。

 それがガギンという金属音と共に弾かれたのだ。驚愕。何に防がれたというのか。一瞬マルカートは我を失った。意識がそちらに向く。

 鐙(あぶみ)だ。キルマのブーツが踏んでいる金属製の鐙が、マルカートの必殺剣を防いだのだ。瞬間的に我力を込めて防具としたのだろう。しかし、剣を振り上げた時の軌道は鐙を避けていた。キルマがうまくコントロールしたのか。いや、違う。これは馬の方が……。

 瞬間の動揺が時の流れを歪ませ、背中の激痛という結果を生んだ。

 騎馬が後方へ過ぎていく。痛みは右肩から背骨まで達していた。やられた。左の剣で弾いたキルマの大鎌はそのまま腕ごと大回りして、すれ違いざまにマルカートの肩に食い込んでいったらしい。違和感はあったのだ。マルカートが弾くことを見越していたような感触だった。心臓は無事、のようだ。しかし背骨が。振り返りたくても足が動かなかった。

 ヒュルーゥ、と落下音が近づいてくる。どす黒い雲に土砂降りの雨。それに紛れて落ちてくる、紡錘形の黒い塊。アスラドーンの爆弾。直径十センチほどで、奴の発射出来る最大級のものだ。スケルトン・ナイトがマルカートの止めを刺さず通り過ぎていったのはそういうことか。止めなければ。右腕が動かない。見ると剣も落としている。左腕は、動く。マルカートは左肩から先の動きだけで左の剣を投擲した。

 百二十八メートルの距離で狙い通りに命中。切っ先が塊を貫いて爆発が起きる。轟音と爆風がここまで届き、マルカートの体が揺れた。後ろ向きに、倒れていく。大粒の雨に全身を叩かれる。

 再び落下音が聞こえ、マルカートは苦笑した。当然こうなる訳だ。カイストに甘さを期待するのは無理というものだ。腰に小さなナイフがあるからそれを投げれば……。しかし目の前が暗くなってきた。出血多量。キルマにやられた傷は致命傷だったようだ。落下音が、近づいてくる。

 マルカートは爆発に呑まれながら、どうすれば勝てたのか、次に彼らと対峙した時はどのように戦うべきか、高速で脳内シミュレーションを繰り返していた。

 

 

 『ボマー』アスラドーンは戦場の暗い空を旋回した。今の彼は自らの空間座標確保によらず、仲間のカイストに抱えられて移動している。Cクラスのマーフという男で、戦闘力は持たず飛行能力のみに特化しているのだが、アスラドーンを爆撃機にするのに役立ってくれた。正直なところ、アスラドーンは三十三億才にもなるのに空間座標確保が下手なのだ。これだけ年を取ってしまうと苦手意識もそのまま定着してしまい、思いきった自らの再構成をしない限り克服は困難になる。

 アスラドーンの能力は、体内で産生した大量の爆薬を、カプセル状にして指先から発射するものだった。投擲速度は拳銃弾よりも遅いが、我力の込められた爆弾はBクラスの強化された肉体も消し飛ばす。残念ながら我力の一般法則に従い、本体から離れるほど、そして時間が経過するほどに威力は落ちていく。ただし、トラップとして設置して数時間以内であれば、我力の時限爆弾、または遠隔起爆式爆弾として使うことも出来た。

 今は雲の下を飛行して、逃げ惑うCクラス達を殲滅すべく爆撃を続けている。広大な陣地を一般兵士達のテントが並んでいるが、既に兵士は使い物にならなくなっているそうだし、爆弾が勿体ないので放置している。

「右に避けい。下から攻撃が来るぞ」

 マーフの背中に乗っている黒鳥が警告する。マーフがそれに応じて旋回する前に、アスラドーンは弓を構えたCクラスを認めて爆弾を投げつけておいた。爆発。チッ。避けられた。と、その射手の頭を矢が貫いた。アスラドーンと一緒にマーフに抱えられている、クラーネというCクラスで、彼も弓使いだ。破壊力を別にすれば、彼の腕はなかなかのものだろう。

 黒鳥はハリハサの使い魔で、本体はワズトーの村で待機したまま、アスラドーン達の隠蔽処理に貢献している。魔術士もCクラスなのであまり強力な術ではないが、こちらの安全度はかなりましになっている。もしかすると鳥の方が本体ではないかとも思うが、アスラドーンは突っ込まずにいる。仲間の泣き所を明らかにしても良いことはない。

 マルカートには前の借りを返したし、斧使いのネス・ガラティも消し飛んだ。Bクラスはほぼ片づけたか。後はアムランという魔術士が地中に逃げたらしい。これはアスラドーンの手には負えないのでキルマに任せよう。

 スケルトン・ナイトは高速で戦場を駆けている。恐慌状態に陥ったCクラス達をズッパズッパと斬り殺しながら。冷静に待ち構えたり、のた打ち回る兵士に紛れて奇襲をかけようとする戦士もいたが、全て一太刀であっけなく倒された。

 一方的な殺戮だな。爽快なほどに。アスラドーンは敗者に感傷を抱いたりしない。彼らも戦士であり、全て覚悟の上で戦争に臨んだ筈だから。

「もっと高度を上げい。ライフルを持った集団がおる。我力強化された銃弾じゃぞ」

 ハリハサが警告する。雨で視界が悪い中、敵は泥濘に浸っているのか姿を確認出来ない。横でクラーネが矢を放つ。避けようと泥から男が飛び出したので、アスラドーンも爆弾を一個プレゼントしてやった。

 マーフがアスラドーン達を抱えて上昇していく。地上で血飛沫の道が伸びていく。スケルトン・ナイトの勢いは全く衰えていない。

 雨がやむ頃には、ぬかるんだ戦場は死体だけになっていることだろう。

 

 

  二

 

 アスラドーン達三名のカイストがワズトーに帰還した時、既に真夜中を過ぎていた。薄い雲を通った月光の下、広場に村人が集まっている。とっくにハリハサ経由で勝利の報は伝わっている筈だ。喜びに顔を輝かせている者と、眠そうな者が半々くらいだった。自分達の命が懸かった戦争でも、長丁場になると緊張感が薄れていき、他人事のように考え始めるものだ。やがては感謝も忘れ、守ってもらうことが当然であるかのように……いや、やめておこう。アスラドーンがカイストになったのは、威張っている奴らを吹き飛ばすのが好きだったからで、人に感謝されるためではない。

 飛行能力者マーフは二人を降ろし、くたびれた溜め息をついた。相当に消耗したらしく、頬がこけている。体重五百キロのアスラドーンを抱えて空を駆け巡るのは大変だったろう。

 ただし、今のアスラドーンは百キロもない。体内に備蓄していた爆薬の大半を、今日の戦闘で使い果たしてしまった。キルマや倉菱、ハリハサなどはホッとしているかも知れない。アスラドーンは帝国側のカイストよりも脅威になり得る男だった。彼の最後の切り札は自爆であり、最大で半径数キロを消滅させられるのだ。火矢や魔術による誘爆で、仲間や守るべき対象ごと吹っ飛んだことも千回を超える。この数億年でそれなりの対策を講じたが、過去の失敗はそう簡単には払拭出来ないものだ。

 爆薬を消費した分、誤爆のリスクも小さくなった。

「お帰りなさいませ。よくぞご無事で」

 村長が満面の笑みを浮かべて駆け寄ってきた。この男についてはいかにも小集団のリーダーらしい、抜け目のない男という印象しかない。アスラドーンは無難に片手を上げて応じ、「飯をくれ」と言った。栄養に我力を加えて爆薬に変質させ、少しでも弾数を増やしておきたい。長年の慣習として、普通の食事でそれをやるのが合っていた。

 倉菱を始め数人のカイストが広場で待っていた。マーフの背に乗っていた黒鳥も老人の肩に戻っていく。

「お疲れ様でした」

 チェーンソードの使い手マクバル・アズスが微笑した。倉菱はアスラドーンと目を合わせた後は黙って広場を去っていった。また警戒業務に戻るのだろう。無口で無愛想だが、嫌な男ではない。ハリハサも早速村長の屋敷へ戻っていくし、他のCクラス達は気の緩んでいる者、メインの戦闘に参加出来ず悔しそうな者、淡々としている者がそれぞれ同数くらいだ。

 村の子供達は流石に寝かせていたようだが、広場の隅にひっそりと立つ少女がいた。

 十代半ばの、綺麗な顔立ちだが何処か儚げな雰囲気を持つ少女。彼女がルナンという名前で、キルマの契約者であることをアスラドーンは知っていた。その横には二人の若い男がいる。気の強いカートナーという男と、痩身のクレイという男。特にクレイはルナンの顔を心配そうに見ていた。「風邪を引くから、もう帰ったら」と言っている。雨のひどかった間もずっと待っていたのだろう、少女の髪も服もずぶ濡れだ。そして彼女の立つ場所は、いつもキルマが寄りかかっていた木の前だった。

 クレイの言葉にルナンは首を振り、こちらに向かって歩き出した。その張り詰めた表情にある予感を抱きながら、アスラドーンは黙って待った。

 キルマの奴も、彼女にもう少し優しくしてやれば良かったのにな。

「あの……」

 アスラドーンの前で止まり、ルナンはおずおずと声をかけてきた。二人の若者もついてきている。親衛隊みたいだなと、アスラドーンはつまらないことを思う。

「何だい」

「あの、キルマさんは、どうしたんですか」

 やはり、その質問だろうと思っていた。

「奴は馬に乗って帝都に向かった。皇帝を殺して戦争を終わらせるためにな。カイスト達が皆で決めたことだ。帝国軍の主力を潰した今がチャンスなんだよ」

 『エトナ締め』の話し合いでは同席させたのに、今回ルナンに知らせなかったのは、やはりキルマは、彼女に心配をかけたくなかったのだろう。

 ルナンは目を見開いて、何か言おうとするように唇を震わせた。それから目を閉じて、深く息を吸い、改めてアスラドーンの顔を見上げ問うた。

「キルマさんは、無事に、戻ってくれるんでしょうか」

 悪いが、カイストは嘘がつけないんだ。

「正直なところ、分からん。だがここで成功しなけりゃ、後は泥沼になるからな」

 カイストは劣勢な方に加勢したがる。ゲートの通過が自由なフリーゾーンでは特にそうだ。エトナの轍を踏むことにならなければいいが。

 ルナンは再び俯いて、体を小刻みに震わせ始めた。少女の目から涙が流れるのをアスラドーンは見なかったが感知していた。そして、少女が心配しているのは村の運命ではなく、キルマの安否だということも分かっていた。

「ルナン、もう休もう」

 クレイが少女の肩に触れた。村長が「お食事の用意が出来ておりますので」と声をかけてくる。

 センチメンタルなのは苦手でね。アスラドーンは無言で少女に背を向けた。彼に出来るのは、自分の契約を全力で果たすことだけだ。

 

 

  三

 

 バザム神聖帝国第百七十四代皇帝アンザムメリクは、ただ、黙々と、食べている。

 五十人は同時に席につける長いテーブルの片端に、椅子はただ一つだけだ。皇帝専用の椅子は貴金属と宝石の装飾で輝き、適度に沈み込むクッションはどんな姿勢でも不快を感じさせなかった。超一流のシェフが最高の食材をふんだんに使って作り上げた至高の料理達は、手の届く範囲外まで所狭しと並べられ、アンザムメリクが指差すどころか視線を向けただけで、察しの良い給仕達が皿を恭しく引き寄せてくれる。それを無造作にフォークで刺し、口に入れ、何度か咀嚼し、嚥下する。確かに、美味といえば美味なのだろうが、アンザムメリクには何の感動も与えはしない。

 虚しい。

 アンザムメリクは食べながら、同じことを考えている。朝も昼も夜も、夜中に目が覚めた時も玉座で命を下す時も、不始末をしでかした部下の処刑を観ている時も、アンザムメリクは考え続けている。

 虚しい。

 朕は皇帝だ。人類の頂点に立つ存在の筈だ。

 なのに何故、朕はこんなに惨めで、救われないのだろう。

 お漏らし皇帝。この決して口にすることの許されない綽名は、十四才時の成人の儀式に由来する。胃腸の弱かった彼は緊張の余りひどい腹痛を起こし、自分のための儀式の最中に、あろうことか大便を失禁したのだ。あれから十九年経つが、思い出す度にアンザムメリクは叫び狂いたい衝動に耐えねばならなかった。

 あの大失敗がアンザムメリクを苛んできたことは間違いない。しかし、あれがなかったら自分は幸せだったか。人類の頂点としての地位を満喫して、余裕のある穏やかな皇帝でいられたか。そうなると、アンザムメリクは分からなくなるのだ。

 どうして、カイストなどというものが存在するのか。

 世界一偉い皇帝が出来ないような奇跡を、どうして奴らはいとも簡単に起こしてみせるのか。

 どうして皇帝のアンザムメリクよりカイスト達が畏れられ、敬われるのか。

 そんなカイスト達が帝国の臣として、アンザムメリクの配下として忠実に職務を果たしている。何故ならそれが契約だからだ。奴らが最も大切にしているのは契約で、真実を積み上げて自分の存在を強固なものにするためだという。つまり、彼らはアンザムメリクに敬語を使い礼儀を尽くしてみせるが、本心では何とも思っていない。いや、ふとした拍子に見せる彼らのちょっとした表情に、アンザムメリクは自分への侮蔑を感じ取ることがあった。彼らは口には出さない。正直にアンザムメリクを面罵してくれるのはディンゴくらいだ。

 アンザムメリクが皇帝として成し遂げたことは結局、カイスト達の力に過ぎない。

 朕はただの、道化だ。ただの飾り物。ただの、中身の空っぽな、人形だ。

 先代の皇帝であった父はかつて、割り切ってしまえばいいとアンザムメリクを諭した。カイストは人間とは違う。カイストは人間にとって神でもあり、道具でもある。どちらにしても、うまく使って臣民の平穏が保たれるのなら、それで良いではないか、と。

 父は偉大だった。だがアンザムメリクはそうではない。お漏らし皇帝としては、もう狂気の道を突き進むしかないではないか。

 そういえばディンゴの処分をどうするか、まだ決まっていなかった。ワズトーを滅ぼしたらじっくりいたぶりながら処刑したい。ディンゴの契約内容で命令不履行による処刑が許されるか、イスメニアスに吟味させている。

 そのワズトーもそろそろ決着がつく頃だ。実力はディンゴに劣らずどんな状況でも適切に対処出来るという将軍マルカートに二十万の兵を持たせ、更にイスメニアスの推薦したカイストを臨時雇いで派遣してやった。とびきり邪悪そうな奴だったが、カイストはあれくらい本性を露わにした方がお似合いだろう。

 アンザムメリクは無感動に口の中の何かを嚥下して、斜め前の器を見た。肉と野菜の入ったスープ。どんな高級食材を使ってどれだけ手間をかけて料理したものか、希望すれば薀蓄を聞けるだろう。だがアンザムメリクは興味がなかった。

 若い女の給仕が皇帝の視線を察してスープの器を持ち上げた。緊張のためか手が震え、アンザムメリクの前に置き直した拍子にスープが少し零れた。テーブルクロスに染みが広がる。

「も……申し訳ございません。ど、どうか、どうか御慈悲を……」

 女給は床に跪いて許しを乞うた。全身が激しく震え、もう涙まで流しているようだ。控えていた他の女給や給仕長も、真っ青になっている。

 正直なところ、アンザムメリクは何も感じていない。一欠片の怒りさえなかった。だがこいつらの態度は残忍な暴君に対するものだ。

 仕方ない。期待に応えねばなるまい。

「処刑しろ。こいつの一族も全てだ」

 溜め息をついてそう命じると、すぐに衛兵達が女給を引き摺っていった。女給は悲鳴を上げる気力さえ失っているようだった。美しい女だったが、もう二度とその顔を見ることもないだろう。

 つまらない食事を再開しようとした時、すぐ後ろから陰気な声がした。

「陛下、お食事中に恐れながらご報告申し上げます」

 丞相兼宮廷魔術師イスメニアスの声だった。おそらく椅子の後ろで伏せているのだろう。近づく気配には気づかなかったが、いきなり声をかけられるのはアンザムメリクも慣れている。

 しかし、食事中に声をかけてくるというのはこれまでなかったことだ。緊急事態ということか。

「何だ」

 振り返らずにアンザムメリクは問う。

「ワズトー討伐のため派遣しました二十万の軍が、ワズトー側のカイストの奇襲を受け壊滅致しました。約一時間前となります。ペネトゥラ・ザクル、鉄心将軍マルカートなど帝国所属のカイスト勢も全滅したものと思われます」

 その時、異様な悪寒が、アンザムメリクの体の芯を上ってきた。

 いよいよか。

 いよいよ、破滅がやってくるのか。

「神聖バザム帝国は滅ぶのか。三千八百年の歴史を誇る帝国が、朕の代で」

「その可能性は非常に低いと存じます。帝国の威信に傷がついたのは確かですが、今尚政治的にも軍事的にも、このサマルータで最大の勢力は陛下の所有なさるバザム神聖帝国でございます」

 イスメニアスは冷静に答えた。

「ただし、ワズトー側のカイストが陛下を暗殺するために帝都へ向かっている可能性がございます。対策は講じておりますが、くれぐれもご用心下さいますよう」

 カタカタカタカタ。テーブルの上の器が鳴っている。スープの水面が揺れている。それによって、アンザムメリクは自分が震えていることを知った。給仕達は、その震えが恐怖のせいだと思ったかも知れない。

 やはり、いよいよか。

 皇帝として残虐を尽くして七年。漸く朕に、容赦ない死がやってくるのか。

「何か、お感じになりましたか」

 背後でイスメニアスが尋ねた。政務に携わる際の口調とは違っていた。

 ゾクリ。黒い悦楽が心臓に忍び寄る。鼓動が速まるのをアンザムメリクは感じた。

「片づけよ」

 フォークを置いて給仕達に命じ、アンザムメリクは立ち上がった。

 椅子の後ろに、イスメニアスの姿はなかった。

 アンザムメリクは皇城の廊下を歩く。親衛隊のカイスト達は黙ってついてくる。イスメニアスの配慮なのだろう、親衛隊は表情を決して顔に出さない無口な者達が選ばれている。

 奥の、その奥へ。ごく一部の重臣しか通れない廊下を進み、アンザムメリクは行き止まりの黒い扉に辿り着いた。

「ここには誰も入れるな」

 親衛隊に念を押し、アンザムメリクは扉に手を触れた。掛かっている魔法がアンザムメリクを識別し、自動的に開いていく。

 一人で中に入るとまた自動的に扉は閉まった。前にまた黒い扉がある。内部を絶対に見せないための二重扉構造。また手を触れて開き、アンザムメリクは『安らぎの間』に足を踏み入れた。

 二十メートル四方程度の、窓のない部屋。完全防音で、外部からのあらゆる攻撃も遮断する。ここに押し入れるのはAクラスくらいらしい。だがここは緊急避難用のシェルターではない。

 天井の中央部に吊るされたランプが室内に淡い光を落としている。アンザムメリクの意思と同調するよう作られたそれは、光量を強めて壁に並ぶ作品群を浮かび上がらせた。

 永久に劣化せぬよう特殊な額に収められた絵画達。小さなものは二十センチほど、大きなものは幅三メートルを超える。三時間で仕上げたものもあるし、他の作品と並行しながら二年を費やしたものもある。

 全て、アンザムメリク自身が描いたものだった。暗い森に血の川が流れている絵。首を落とされた何十もの死体が大きな穴に落とされている絵。檻の中で膝を抱えている骸骨の絵。全面をどす黒く塗り潰しただけの絵もあった。絵の師匠はいない。技術も何もない。ただ、煮え滾る暗い感情をキャンバスにぶつけただけのもの。しかしアンザムメリクは自分の作品達が愛おしかった。皇帝としての決められた役割でなく、真の意味での自己表現であり、アンザムメリクの存在した証であるからだ。

 ランプの下に立つイーゼルは、製作途中の作品をこちらに向けている。薄暗い廃墟の隅に朽ちた玉座のある絵。

 これが、最後の作品になるかも知れない。

 室内はアンザムメリクのいない間、完璧に保存されている。殆ど時間が経っていないみたいに。アンザムメリクは絵筆を取り、玉座に主役を描き込んでいった。

 痩せこけ、乾ききった裸のミイラ。胴を描き、手足を描き、ふと思いついて鉄の足枷も加えた。手足のバランスがおかしくなったが気にしない。体内を駆け巡る暗い衝動を、どす黒い苦悩を筆に乗せてキャンバスに刻み込んでいく。内面を吐き出す作業は苦痛でもあり、喜びでもあった。

 夢中で描き続け、何時間が経ったろうか。ミイラの頭まで完成させ、眼窩の陰影をつけて一段落ついたところで、アンザムメリクは斜め後ろの存在に気づいた。

 いつからいたのだろうか。ずっと気配を消していて、アンザムメリクの邪魔をしないように区切りがつくまで待っていたのだろう。

 この『安らぎの間』への入室が許されるのは、アンザムメリク以外では部屋を作ったこの男だけだ。

 丞相兼宮廷魔術師、イスメニアス。

「どうだ」

 アンザムメリクはひっそりと立つ丞相に尋ねた。

「素晴らしいですね」

 イスメニアスの生気のない声音に、僅かに悦楽が潜んでいる。

「うまくなったか」

「多少は上達なさいましたが、絵画の技術自体は残念ながら、美術志望の学生にも及ばないでしょう」

 誰もがアンザムメリクの一挙手一投足に下手なお世辞しか言わない中で、正直な評価がアンザムメリクには心地良かった。

「そうか。では何が素晴らしい」

「貴重な感情が、込められているからです。人として究極の座につきながらも劣等感に苛まれる苦悩と、あらゆるものへ転嫁した憎悪、それを自覚しても尚、地位に縋ろうとする虚栄心。最大の悦楽と最大の苦痛が共存する、究極のジレンマ。それはカイストなどにはなく、有象無象の平民でも決して得られぬ感情です」

「……。この絵が欲しいか」

「是が非でも、頂きたく、存じます。陛下のようなお方の、その究極の感情を、ずっと待ち望んでおりました。私の百七億年かけて集めたコレクションの中でも、十指に入る出来となるでしょう」

 イスメニアスは両膝をつく。その体が小刻みに震えている。貧相な顔が不気味な笑みに歪み、涎を垂らさんばかりになっている。灰色の瞳は今、異様な光を放っていた。

 純粋な、欲望の、光。

 カイストには色々いるが、この錬金術士のようなのも珍しいだろう。アンザムメリクのプライバシーを守るこの『安らぎの間』を作った時、イスメニアスは自らの本性を告白した。感情を形にして保存し、コレクションにしているのだと。その目的のために彼は錬金術士をやっているのだと。そして、アンザムメリクに貴重な感情を生み出す可能性があり、それ故にこそ彼は帝国に仕官したのだと。

 帝国の丞相としての職務をこなしながら、イスメニアスの真の目的はアンザムメリクから煮え滾るジレンマを抽出することだった。

「良かろう。完成したらお前にやる。完成前に朕は死ぬことになるかも知れんが。朕が死んだ後は、この部屋のものは全てお前の好きにするがいい」

 アンザムメリクは大いなる喜びと恐怖と、ある種の諦念を持って告げた。朕の理解者はこいつだけだ。臣下の人間もカイスト共も、何も分かっちゃいない。あの小利口なアルザメイノスも、兄の心を最後まで知らぬままだろう。

 理解者は、この化け物、ただ一人だけだ。

「この上なく感謝申し上げます」

 イスメニアスは震えながら床に額をつけた。

 もしかすると。

 成人の儀で朕を失禁させたのは、もしかすると、こやつの術ではなかったのか。アンザムメリクはそれを疑っていたが口に出すことは出来なかった。そしておそらくその疑惑の念も、イスメニアスは読み取っているのだろう。

「では感謝の証を見せるがいい。朕の足を舐めよ」

 アンザムメリクが告げると、イスメニアスは這いつくばったままでズリ、ズリリ、と足元に近寄ってきた。

 妙に柔らかく湿った舌が足首に触れた時、アンザムメリクは錬金術士の震えが自分に伝染するのを感じた。

 

 

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