第六章 轍を踏む

 

  一

 

 ベオニールはキルマを乗せて空を駆けている。正確には、荒野の上空五百メートルを。四本の脚が踏み出されるごとに、大地との相対的な位置関係を確保して落下を防いでいる。世界の絶対座標でも特定の物体を基準にした相対座標でも、好きなように意識して自分を固定するのが空間座標確保だ。帝国側のカイストが張り巡らせた探知の網に引っ掛からないように、隠蔽処理が通用する速度をベオニールは選んでいる。

 キルマ達は帝都バザムスに向かっているのだが、サマルータの大地が動いているため特定の場所で絶対座標を確保して留まり、大地に乗って流れてくる帝都を待ち受ける予定だった。帝都に近づくほど探知網は緻密になり、自発的に足を踏み入れるより動かず待った方が探知される危険が少ないと判断したものだ。皇城が流れてくる位置をベオニールが計算してくれている。ただし、皇城に当たる前に網に掛かって隠蔽処理が破綻する可能性も高かった。その場合は皇帝の居城まで強行突破することとなる。皇帝に避難する猶予を与えないよう、隠密状態のままで出来る限り接近しておきたいところだが。

 目標の帝都バザムスは、一万数千キロの彼方で夜の側へ沈んでいくところだった。サマルータでは目さえ良ければ昼側の大地を何処までも見渡せる。太陽を挟んだ向かい側の地表までも。大地がほんの僅かずつながら反り返っているためだ。サマルータは薄っぺらな大地がメビウスの輪状にねじれて浮かんでいる世界だ。輪の中心に太陽があり、大地は少しずつねじれながら回転し、約二十四時間で一周する。随分と昔、一日と一年の長さを四千世界の統一規格に合わせるために複数のAクラスが関わったという話だ。大地が太陽の側を向いている間が昼で、もしカイストが地面から垂直に何処までも飛んでいけば、太陽の横を通って向かい側の大地に近づいていくだろう。大地が太陽と逆側を向いている間が夜であり、大地は緩やかに丸まって遠方が見通しにくくなる。この時大地から垂直に飛び上がれば、メビウスの輪から離脱して空気はどんどん薄く冷たくなっていき、最後は世界の見えない障壁を前に自然減速することだろう。大地の帯、その端に相当する土地は日光を浴びる時間が短く、寒冷地となる。ただし大地は回転方向以外にも少しずつずれており、数百年規模で気候が変化して温暖な土地へ人が流れていく。

 そんなサマルータの性質を理解している住人がどれほどいるだろうか。教育レベルの高い都市の一部の知識人は知っているだろう。だが狩猟や農耕生活を送る者にはどうでもいいことかも知れない。サマルータは文明管理委員会の力が及ばぬフリーゾーンだが、文明レベルが進み過ぎないように誰かが隠然と規制しているとも聞く。或いは、電子機器に必要となる元素資源の少なさが、高度な科学技術の普及を妨げているのだろうか。

 さて。キルマの思考は本題に戻る。襲撃が成功するかどうかは、キルマにも分からない。ベオニールの助力があっても、イスメニアス相手には厳しい戦いとなるだろう。その場その場の瞬発力を頼りにする戦士と違い、魔術士は時間をかけて溜め込んだ我力を術として一気に使うことが出来る。錬金術士は我力を物質に変換出来る分、更にその傾向が強い。特に恐ろしいのが毒だ。魔術士が作る毒とは段違いで、ベテランの錬金術士は数マイクログラムでカイストにも致死的となる猛毒を練り上げるという。帝国の戦士達がその毒を武器に塗れば、キルマが生き残る確率は極めて低くなる。

 また、『エトナ締め』が決裂したため、双方のカイストリストを交換した十日前から今日までの間に、新たに強力なカイストが雇われている可能性もあった。ベオニールが把握する限りでは、際立ったカイストがゲートを通ってサマルータに来た様子はなさそうだが、それも昨日までの情報だ。

 ワズトーの方は大丈夫だろうか。キルマは守るべき村のことを考える。隠蔽処理による隠密状態を維持するため、ベオニールも味方との通信が出来なくなっている。敵主力は昨夜の戦闘で徹底的に潰しておいたし、もし襲撃があってもアスラドーンや倉菱がうまく防いでくれるとは思うが……。

 戦争を終わらせるためとはいえ、守護対象から離れるのはキルマを落ち着かなくさせる。キルマは雇い主の少女のことを思い浮かべた。今も彼女は無事か。ルナン。あの時の少女と同じ名前。

 守りたいのなら、離さないことだ。

 あの時、『彼』は、そう言ったのだ。

 回想に浸りかけ、キルマは自制する。ここは敵地であり、隠蔽処理が崩れて戦闘になってもすぐ対応出来るよう、注意力を維持していないと。

 そんなキルマの脳に、苦笑混じりのようなベオニールの思念が届いた。

 ……もう数時間は大丈夫だと思うよ。まだ敵の網は粗いからね。戦闘が始まりそうになったら起こすから、このまま眠っていてもいい……

 すまないな。でも、眠りはしない。キルマは思考で答えながら、『彼』と初めて会った場面を思い出していた。

 

 

 ヘズゲイルがいきなり姿を消し、「なんとかやり過ごせ」という思念を最後に通信も途絶えてしまった。キルマが何事かと思っていると、そのうちオアシスにやってくる男が見えた。

 男の旅人帽とマントはひどく色褪せ、すり切れていた。革のブーツも随分と傷だらけだ。動きは一見のっそりとしているが、一般人の歩行よりかなり速い。この荒野を馬に乗らず、荷物も持たずに旅するのだからカイストだろう。

 男の顔立ちは整っていたが、何処か奇妙な感じがした。無表情、疲れた顔、といえばそうなのだろう。キルマは一瞬、立ち枯れの巨木を想像したのだ。長く厳しい歳月により、余分な要素が少しずつ削り取られていき、最後には大事な芯までなくなってしまったような、空っぽの残骸。古いカイストにはたまにそういう顔をした者がいる。しかし、本当に空っぽになってしまえばカイストを続けていられる筈もない。彼らは磨き上げた芯を隠しているだけだ。

 ならこの男はどうなのだろう。キルマは男の無表情な顔から芯を感じ取ることは出来なかった。その瞳……キルマを見つめているような、いないような、もしかするともっと遠くを見つめているのかも知れない黒い瞳は、ただ果てしのない荒野を映していた。

 威圧感は……ない。強者の雰囲気を感じない。だが男の容姿と印象から、キルマは背筋を撫でる薄ら寒い不安と共に、名前ともいえない名前を思い浮かべていた。

 『彼』。自分の名を忘れてしまった男。無限の荒野を越えた男。或いは荒野と同化してしまった男。『剣神』ネスタ・グラウドを凌ぐ、四千世界最強の魔人。強さを求め修行を続ける戦士達の最終目標が、発狂した殺戮神だというのは何という皮肉か。

 写真で見たことのある『彼』と同じ顔だったが、それでもキルマには違和感があった。殺気、破壊衝動、自負、欲望。本質が何であれ、強者にはそれなりの空気を纏っているものだ。この枯れ果てた男が、十四の世界を滅ぼした空前絶後の化け物だとは、キルマにはとても思えないのだ。そんな拍子抜け感が、多くの馬鹿なカイストが『彼』を『彼』と思わず攻撃を仕掛け、悲惨な末路を辿った理由なのだろう。

 男が近づいてくる。真っ直ぐこの小さなオアシスに向かっている。逃げるべきか。キルマは考える。いや、下手な動きで刺激すると危険だという話もあった。左から視線を感じる。さっきまで眠っていたルナンがキルマを見上げている。少し不安げな表情だった。そうさせるような顔を、今のキルマはしているのだろうか。「大丈夫だ」とも言えず、キルマはただ少女に軽く頷いてみせた。

 男が草の上に足を置いたタイミングを見計らって、キルマは多くの先達の例に洩れず、馬鹿げた質問を投げた。

「あんたは『彼』か」

 男は足を止め、キルマを見返した。荒野を映した無感動な瞳。

 四秒後に男は言った。

「『彼』というのは、誰のことだ」

 低い、乾いた声だった。ロボットのように無機質ではないが、やはり何の感情も読み取れない。

 男の台詞は、噂に聞く典型的な『彼』の返しの一つだった。

「あんたのことじゃないのか」

「そうなのか。俺が、彼なのか」

 滑稽なやり取り。だが男が無表情に無感動に、尚且つ本気で喋っているらしいことから、キルマは確信する。

 こいつは、本物の、『彼』だ。

 キルマの目標でもある最強の男との初対面は、感激や歓喜に打ち震えるようなものでもなく、不気味で何処か悲しくなる類のものだった。

 左に座る少女は『彼』を見て、それからまたキルマを見上げた。ここは無事にやり過ごさねばならなかった。刺激するのは危険だが、何もしなくても殺されることはあるという。逆に、『彼』に攻撃を仕掛けて生き延びた者もいる。単に、気にも留められなかったということらしいが。それはそれで、悲しいことではある。

 結局は運次第ということか。いや、『彼』の気分次第か。ならば正直に接するのが良いように思えた。相手に威圧感がないことも手伝って、キルマはすんなり尋ねることが出来た。

「何の用だ」

「お前達に、特に用はない」

 立ち止まったまま『彼』は答える。

「ならどうしてこっちに来たんだ」

「オアシスが見えたから、立ち寄っただけだ」

 キルマ達に興味はなかったのか。『彼』が嘘をつくとは思えないが、自分のやっていることを自分で分かっていない可能性はありそうだ。

 俺と糞魔術士を殺しに来たんじゃないのか。そう言いかけて、キルマは表現を変えた。

「誰かに雇われて来たんじゃないのか」

「そうなのか。誰かが俺を雇ったのか」

 『彼』は相変わらず淡々と喋る。

 ヘズゲイルに蹂躙されたエニフェの村の生き残りが、『彼』にも依頼をしたらしいという情報は二日前に入っていた。

 キルマと『彼』との距離は二十七メートル。キルマの剣は鞘ごと左手に持っている。だが、戦いになれば距離も武器も全くの無意味となるだろう。この男が本当に『彼』であるならば。

「復讐を依頼されたかと思ったんだが。それとも、この娘を連れ戻すように頼まれたとか」

 キルマがそう言った時、ルナンが両手を伸ばしてキルマの左腕を掴んだ。すがり、ついてくる。振り払えず、左手に握る鞘をキルマは気にしている。

 『彼』は視線を少女に向けた。

「その娘は、初めて見るな。連れ戻すとは、何処に戻せばいい」

「エニフェの村……いや、ヘズゲイルが身柄を買い取ったから、もう村の所属じゃないな。……何処か大きな町にでも連れていってくれないか。その方が、この子にとってもいいだろう」

 ヘズゲイルが見ているなら異議を唱えることだろう。何か意図があってこの少女を連れ回している筈だから。だがキルマの契約は、ヘズゲイルとルナンを守ることで、逃がすなとはなっていない。なら、彼女を殺し合いの場から遠ざけて普通の人間としての日常に戻すことも、契約から外れてはいない筈だ。

 力を感じる。ルナンがキルマの腕を強く掴んでいる。「離さないで」とでも言いたげに。

「無理だな」

 少しして、『彼』は言った。

「連れていく途中で、殺してしまいそうな気がする。それに、その娘はお前から離れたくないようだ」

 殺してしまいそう、か。それは本心なのだろう。自分の衝動を制御出来ず、喜怒哀楽が全て破壊と殺戮に直結するのが『彼』なのだ。一度始まってしまえば、Aクラスだろうが誰だろうが生き残るのは運任せとなる。

 『彼』の後半の指摘。ルナンがどんな表情をしているかは分かっていたが、仕方なくキルマは彼女を見下ろした。黙って頷く少女の顔は、疲労と不安に強張りながら、少しだけ嬉しそうに見えた。

 キルマは、苦笑するしかない。

「お前は、その娘を守っているのか」

 『彼』が尋ねた。

「そうなるな。契約の一部だ」

「ならそれを続ければいい」

 『彼』はあっけなく告げる。

「俺の雇い主は糞魔術士だ。この子が俺といてもおそらく、良い結果にはなるまい。だから誰か信頼出来る者に保護してもらう方がいいんだ」

「なら、お前がその娘を連れていけばいい。本当に守りたいのなら、離さないことだ」

「……。俺は契約を守らねばならん。魔術士の護衛も契約に入っているのでな」

「契約か。よく分からんが、不便そうだな」

 『彼』は言った。嫌味でなく淡々と本心を語っているようなのが、キルマの胸に痛みを与えた。

 『彼』は動き出した。あっさりとキルマ達の横を抜けて、オアシス中央にある小さな泉の前で身を屈める。

 右掌で湧き水を掬い取り、『彼』はゆっくりと飲んだ。その後はこちらを振り返ることもなく、歩き去っていく。

 やり過ごした。運良く。もう何もせず見送るべきだ。だがキルマは、その背に声をかけずにはいられなかった。

「あんたはどうなんだ。自由に、思う通りに生きているのか」

 要らぬことを言ったと思った。これで死ぬかも。だが、立ち止まった『彼』は無表情なままで振り返り、ただ一言返した。

「分からん」

 それで、『彼』は何も壊さず、誰も殺さずに去った。

 暫くしてヘズゲイルが姿を現して、「わしの名を出したな」と怒った。

「『彼』の前で余計なことを喋りおって。死にたいのか。殺されたかったのか。愚か者め」

 大概のピンチにもケタケタ笑っていた魔術士が、その時は本当に怒っていた。

「糞食らえ」

 キルマはにこやかに歯を剥き出してやった。

 

 

 ヘズゲイルの起こしたあの一連の騒動で、『彼』が再びやってきたのはキルマが死んだ後だった。再会出来たのはかなり経ってからだ。三度遭遇し、一度は「何処かで会ったか」と聞かれて少し嬉しかった。一度は話しかける前に殺された。残り一度は、ぼんやり立っている『彼』を離れた場所から眺め、目が合ったので軽く会釈しただけだ。

 あれから、百三十八万年。

 キルマは相変わらずもがいているが、きっと『彼』もそうなのだろう。

 カイストは延々と、同じことを繰り返している。

 ……眠っていてもいいよ……

 またベオニールの思念が届く。

 大丈夫だ。キルマは頭の中で応じる。

 今の回想を、多分、ベオニールも観ていたのだろう。

 

 

  二

 

 昨日の豪雨が嘘だったみたいに、空は晴れ渡っていた。雨は帝国軍への奇襲が成功しやすいように、魔術士ハリハサが何日もかけて御膳立てをしたのだという。敵陣地だけに降らせると怪しまれるので、ワズトーも土砂降りの雨に見舞われることとなった。

 キリタは強靭な穀物なので、畑の被害は心配ないだろう。ルナン達の毎日の主食でもある。もう少し美味しいものが育てられればいいのに、とルナンは思ったりもする。トラケンの市場で見かけたような甘い匂いのする果物とか。村にそんな余裕がないことも、分かっているのだけれど。

 ぬかるんだ地面を歩くと、泥が撥ねて服の裾につく。背中や腰に悪寒があった。昨日、雨の中をずっと立っていたせいだ。大丈夫、まだ本格的な風邪ではないと、ルナンは自分に言い聞かせる。

 畑仕事の手伝いをひとまず終えて、ルナンは広場に向かっている。帝国に侵入したキルマについて、何か新しい情報が入ったかも知れない。昨夜からずっとそのことばかりをルナンは考えていた。

 そういえば戦争が始まってから、一般の訪問者は完全に途絶えてしまった。以前はテロッサ内を通る商人や旅人が村に立ち寄って、外部の情報をもたらしてくれたものだが。もしかすると、カイストの戦士達が近づく者をこっそりと始末しているのかも知れない。ルナンはついそんなことも考えてしまう。カイストは契約を守るために全力を尽くすのだから。怪しい訪問者は躊躇なく抹殺していても不思議はない。

「やあ、ルナン。顔色悪いぞ」

 広場の手前で出くわしたクレイが手を振ってきた。ルナンは笑顔を返す。

「ううん、大丈夫だから」

「やっぱり風邪引いちゃったんじゃないのか。爺さん婆さんとこの手伝いが終わったんなら、もう休んでたらどうだい」

 クレイの口調に気遣いを感じ、ルナンはそれだけでちょっと救われた気分になる。

「そういや、ルナンのとこの爺さんは厳しいもんな」

 クレイが顔を皺くちゃにしかめてみせ、ルナンは声を上げて笑った。

「よう」

 そこへカートナーが通りかかって合流した。彼はクレイと違ってまだ甲冑姿で剣を持っている。カイスト達が来てから自警団の権威は薄れてしまったが、それでも村人の中で最も頼りになる若者には違いない。

「そっちはなんか変わったことあるか」

「特にないです。ただ、キルマさんがどうなったかな、と思って」

 やはり広場にキルマと黒馬ベオニールの姿はなかった。キルマがいつも背にしていた木をルナンはつい確認してしまう。

 三人で村長の屋敷を訪れてみると、丁度マーフというカイストが茶を飲んでいた。昨日の戦闘に参加した、二人の仲間を抱えて空を飛んでいた人だ。他のカイスト達は奥に引っ込んでいるか、村の周辺を警戒しているのだろう。ルナンは丁寧に挨拶し、キルマの安否について情報が入っていないか尋ねた。

「ない。向こうとの通信は切っているそうだからな」

 村人相手には喋ってくれないカイストもいるが、マーフは違っていた。ただ、疲れているのか気だるい目をしている。

「ガルーサ・ネット経由の情報だと、今のところ騒ぎにはなってないようだ。ああ、ガルーサ・ネットと言ってもお前達には分からんだろうがな。まあ、おそらく、今夜か明日には勝負がつくんじゃないか。成功すれば、丞相辺りと停戦交渉に入れるだろう。結果として、こちらが何らかのペナルティを払うことになるかも知れんがな」

「……でも、それで本当に戦争は終わるのかい。皇帝を殺されたら、やっぱり帝国はメンツにかけてワズトーを潰そうとするんじゃねえかな」

 カートナーの物言いに、横にいるルナンは冷や冷やさせられた。

 マーフは目だけ動かしてジロリとカートナーを睨んだが、怒り出したりはしなかった。

「自分を守ってくれている相手には最低限の敬意を払うものだ。カイストは契約を重視するが、だからといって一般人を石ころと思っている訳じゃない。人に感謝されれば嬉しいし、馬鹿にされれば悔しい」

「す……すまねえ。俺はその……いつもこんな喋り方しか、出来ねえから……」

 カートナーは恥ずかしそうに首の辺りを掻いた。彼の口調に突っ込みを入れたのはこのカイストが初めてだと思う。頭ごなしに言われたら反発したかも知れないが、穏やかに諭されたら流石の彼も降参するしかない。ルナンはちょっと安心した。

 マーフは疲れた顔に薄い微笑を浮かべた。

「なら答えよう。飽くまで俺の見解だがな。おそらく筋としては、停戦が通る筈だ。人道にもとるテロッサ皆殺しを命じたのは今の皇帝だし、『エトナ締め』を断ったのも向こうだ。これで更に戦争を続ければ間違っているのは明らかに帝国側ということになり、大勢のカイストがわざわざサマルータにやってきてワズトー側に加わるだろう。正義の名の下に、帝国を完膚なきまでに滅ぼすことになるな」

 それからマーフは微笑を暗い苦笑のようなものに変えた。

「正義というのは、気持ちいいからな」

 このカイストは、自分から参加したこの戦争のことを、どう思っているのだろう。

 取り敢えず、キルマについての新しい情報はないということで、ルナン達は礼を言って村長の屋敷を出た。

「マーフさんは、戦争があんまり好きじゃないみたい」

 広場を歩きながらルナンが言うと、クレイは首を振った。

「戦争が好きな人なんて、いないんじゃないかな」

 キルマはどうなのだろうとルナンは思う。彼は契約となれば容赦なく敵を殺すが、殺すこと自体は別に楽しんでいる訳でもない気がする。

「カイストって、いいよな」

 カートナーがボソリと言った。

「俺は村ん中じゃあ一番と思ってたけどよ。鎧つけて剣持ってみたところで、こんな戦争じゃあ、何の役にも立たねえもんな」

「そんなことないと、思うけど。私達にとっては、凄く頼りになってるし」

 ルナンは慰めるが、カートナーは何処か遠くを見ているようだった。

「カイストになりてえなあ。キルマみたいによう、単騎で敵のど真ん中に突撃かけられるくらいに」

 キルマが来た日に素顔を見せろと噛みついていたのに、カートナーは彼に憧れているらしい。

「でも強くなるまで何万年もかかるって話じゃないか。カートナーはそこまで我慢出来るのかい、せっかちなのに」

 クレイが冗談めかして言った。痩せて肉の薄い彼は、二メートルを超す巨漢のカートナーにも対等に接しているし、カートナーもそれを認めているようだった。他の若者達はクレイをしばしばヒョロと呼んで馬鹿にしているのに。二人の関係は以前からルナンには不思議だった。

「少なくともお前よりは早く強くなると思うぜ。ああ、今でも強いか」

 カートナーが応じ、三人で笑った。

 その時、近くの畑をいじっていた村人が口を出してきたのだ。

「お前らはあんな化け物になりたいのか」

 和やかだった空気が、一瞬で冷たく凍りついた。

 ゲンドウという中年の男だった。狭い村なので、ルナンも彼が皮肉と嫌味ばかりの男であることを知っていた。

 カートナーが目を細めた。そんな表情をした時、大概数分後には相手は血塗れで転がっている。

「よう、腐れゲンドウ。お前は恩知らずだもんな。自分を守ってくれてる相手には、敬意を払うもんだぜ」

 それはさっきマーフが言った台詞なのだけれども。

 ゲンドウは少し怯みながらも、口を歪めて自分の畑に唾を吐いた。

「あいつらは契約を守ってるだけだからいいんだよ。カイストは俺達を自分の修行のために利用し、俺達はカイストを利用する。それでいいだろ。わざわざ情を移したって損をするだけさ。ルナン、お前はあの骸骨男に入れ込んでるが、奴はどうせ契約が終わったら去っていくんだぞ。お前のことなんか忘れて新しい契約に夢中になってるさ」

 ズキリと来る指摘だった。そうではないと言いたかったが、自分が何を否定したいのかルナンはふと分からなくなる。ルナンは、キルマに入れ込んでいるのだろうか。

 ゲンドウは畳みかける。

「カイストってのは、俺達人間とは違うんだよ。イカレてるんだよ奴らは。『皆殺しのスケルトン・ナイト』と言ってたのはカートナー、お前だろう。俺は頭が二つあるカイストを見たことがあるぜ。人間じゃないのを人間扱いしたってしょうがねえだろ。俺達はあの化け物達を適当に崇めてみせ、事が終わったらさっさとお帰り願う。それが無難だし、お互い幸せってもんだろ」

 あまりな言い草に、ルナンは頭が熱くなるくらいに怒りを覚えていた。でも、他の村人は黙っているだけで、本音はゲンドウの主張に近いのかも知れない。ルナンは特に、村長が時折見せる冷めた表情にそれを感じ取っていた。

 でも、だからといって、ゲンドウを許すつもりもなかった。でも、口ではうまくやり込める自信もない。なら、やることは一つだ。

 ルナンが拳を握り締めて歩み寄るのを、ゲンドウはちょっと意外そうに見守っていた。ぬかるんだ畑の土が靴にまとわりつく。

「お、おい、ルナン」

 クレイが心配そうに後ろから声をかける。ルナンが止まらないので彼はついてきているようだ。

 ゲンドウの頬っぺたを平手打ちしようと思ったが、届くかどうか微妙だった。腹を殴る、しかなさそうだ。ルナンは人を殴ったことがない。ちゃんと出来るかは分からないが、やらねばならないような気がしていた。

「お、どうすんだ、ルナン。そのちっちゃい手で俺を殴ろうってのか。お前がそんなに怒るとは、余程図星を突いちまったらしいな」

 ゲンドウはふてぶてしく笑う。

 ルナンはゲンドウの前で立ち止まった。ゲンドウは鍬を片手にルナンの行動を待っている。鍬が降ってくるかも知れない。大怪我をするかも。でもクレイが止めてくれるかも。いや、それに期待するのは卑怯ではないか。

 とにかく、こいつを殴る。ルナンがそう心に決めて右拳を引いた時、別の場所から軽快な声が届いた。

「はい、そこまでです。怪我をしますからお互いやめておきましょうね。どうしても続けるなら、怪我をせずに痛みだけ味わう方法がありますから、双方にそれを実践させてもらいますよ」

 土手からこちらに下りてきたのはマクバル・アズスだった。浅黒い肌で、頭に白い布をかぶったチェーンソードの使い手。彼の靴は殆ど泥に沈まず、音も立てなかった。

「こ、これはマクバル様。あっしは別に……ちょっと、売り言葉に買い言葉って奴でして……」

 途端にゲンドウの口調は卑屈になり、愛想笑いさえ浮かべていた。

 マクバルはいつもの微笑のまま片手をヒラヒラさせた。

「いえ、言い訳は結構ですよ。私は人間に人間性というものを期待していませんから。ただ一つだけ……あなたには教えておきますね。カイストは、耳がいいんですよ。あなたの喋った内容は、この村にいるカイストの大半が聞いていたと思いますよ」

 ゲンドウの顔がみるみる青くなっていった。ルナンはちょっといい気味だと思ってしまう。それにしても、カイストの陰口を言う村人は他にもいたかも知れないのに、彼らはそれを聞きながら平然としていたのだろうか。

「あ、あっしは、そんなつもりじゃあ……」

 ゲンドウの声は弱々しくなり、終いには鍬を捨ててその場に土下座してしまった。マクバルは村人の醜態を見下ろすのではなく、土手の上の方を見やっていた。珍しく、厳しい顔をしている。ルナン達もマクバルの視線を辿って振り返った。カートナーが途中まで土手を下りてきていた。違う。マクバルが気にしているのは彼じゃない。

 バシャ、グジャ、と、泥を撥ねる音が聞こえる。誰かがこちらに駆けているらしい。マクバルが腰のチェーンソードに手を伸ばす。

 人影が、土手の上に立った。

「お前ら、下がれっ。逃げろっ」

 アスラドーンの怒鳴り声を背に、人影は畑に下りてくる。少女の影。

「フィーナ、か」

 あっけに取られたカートナーの横を少女は走り抜ける。一瞬遅れてカートナーがウッと呻き、顔を押さえた。血が。

 それはフィーナだった。ルナンと同じくカイストを探して村を出発し、『サドマゾ』ディクテールを連れてきた、ルナンの友達。ディクテールに体中を切り裂かれてずっと引き篭もっていた彼女が、どうして今ここにいるのか。

 フィーナは素顔を晒していた。何十もの傷痕が左目を割り頬を裂き鼻を削り、口を花びらのように切り開いていた。人間のものとは思えない、凄惨な顔。ルナンは息を呑んだ。

 しかしフィーナの無事な右目は、邪悪な悦楽に酔っていた。裂けた頬と唇も、笑みの形に歪んでいるようだ。

 フィーナの、指のない、傷だらけの左腕が、丸いものを小脇に挟んでいた。

 Bクラスの戦士・クラビシの生首だった。目を開けたままで、死んでも無表情な顔。

 ルナンは信じられなかった。キルマのいない間、ワズトー防衛のリーダー役は彼だった筈だ。冷静沈着でどんな状況にも対応出来そうだったそのクラビシが、何故死んでいるのか。その生首を何故フィーナが……。

 シュホッ、と軽い音がしてフィーナの首筋を矢が貫いた。カイストの誰かが放ったらしい。しかしフィーナは平然と走る。即死でもおかしくなさそうなのに。どんどん速く、こちらに向かってくるっ。

 ルナンを押しのけてマクバル・アズスが前に出た。シャジャッという金属音と、ボズンッという不気味な音が同時に聞こえた。

 マクバルの体が後ろに吹っ飛んでいた。仰向けに倒れる彼の顔に胸に腹に、白い槍のようなものが十本近く突き刺さっている。凄まじい勢いで回転しながらどんどん深くめり込んでいく。血と肉片が飛沫となって撥ねる。

 マクバルの腕が痙攣し、握り締めたチェーンソードがチャリチャリと踊っていた。

 死んだ。マクバル・アズスが死んだ。ルナンを六本足の群れから救ってくれたカイストが。どうしてこんなことに。混乱するルナンの首筋に冷たいものが触れた。振り向くと、フィーナがすぐそばに立っていた。指のない左手でルナンに触れている。クラビシの生首が地面に落ちる。

 ルナンは悲鳴を上げた。

 フィーナの頭の上半分が、なくなっていた。マクバルの攻撃も当たっていたのだ。斜めに切り飛ばされた断面に暗い灰色の脳が覗き、滲み出る血液でみるみる黒く染まっていく。

 人間の血は、こんなに黒くない筈だった。

 既にフィーナは死んでいたのではないか。とっくに自殺していたとか。ルナンはそんな奇妙なことを考えてしまう。どうしてこんなことになったのだろう。未来を失った彼女が追い詰められる前に、友達として支えることは出来なかったのか。この結果は、村の行く末やキルマのことばかり気にしていたルナンの責任でもあるのだ。

 メリメリ、と、フィーナの脳の断面が盛り上がってきた。細い首が太く膨らんでいる。

 バヅンッ。フィーナの上半身が爆ぜた。幼馴染の欠片が、パラパラと周囲に落ちていく。ルナンの頬についたのは血か、肉片か。

 ふらつきながらフィーナはまだ立っている。腰から上は、ぬめるような白い肌の怪物に変わっていた。何百本の触手が生えて蠢いている。

 触手の一本がルナンの首に触れている。いや、もう何本もルナンの体に絡みついている。身動きが、取れない。ルナンはもう悲鳴も上げる気力も失っていた。

 駆けつけてくるカイスト達が見える。と、何十本もの触手が白い槍になって飛ぶ。躱した者もいるが、何人かはまともに食らって倒れる。ワズトーを守るために集まってくれたカイスト達が、あっけなく死んでいく。

 怪物の胴に縦の亀裂が見えた。ビジュリ、と左右に開いて内部が覗く。内臓ではなく、暗く深い闇。穴は人が通れそうなくらいに大きくなっていく。

 触手に引っ張られる。穴に向かっている。呑み込まれるのだとルナンは気づく。どうやら、ここで死ぬことになるみたいだ。ルナンは静かな諦念を抱きながら、目を閉じる。キルマの髑髏の顔が浮かぶ。肉がちゃんとあったら、彼はどんな顔をしていたのだろう。

「ルナンッ」

 必死の叫びにルナンは目を開ける。クレイが、触手を素手で掴んでルナンを引き戻そうとしていた。

「クレイ、危ないから離して」

 ルナンは告げる。冷静な口調が自分でもちょっと意外だった。クレイは黙って首を振り、歯を食い縛って引っ張っている。

 と、素早くうねった触手がクレイの顔を掠め、額に傷をつける。ポロポロと落ちたのはクレイの指だ。何本も。切り落とされて。

 それでもクレイは再び手を伸ばし、残った指でルナンを掴もうとした。額から流れ出た血で顔は赤く染まっている。カイスト達の怒鳴り声が聞こえるが何と言っているのか分からない。

「ルナンーッ」

 クレイは負傷よりもルナンの身を案じていた。彼が自分に好意を抱いていることにルナンは気づいていた。死を目前に、ルナンはただ一言、クレイに言葉を投げた。

「ありがとう。ごめんなさい……」

 次の瞬間、ルナンは闇に呑まれた。

 死。いや、薄暗い。移動している。体には何も触れない。何も聞こえない。落ちている、のとも違うようだがフワフワした感じがする。怪物に呑み込まれた筈が、どうなっているのだろう。夢を見ているのだろうか。それとも、これが死後の世界とか。

 次第に眩暈が強くなってきて、ルナンは吐きそうなのを我慢した。息苦しさを感じる。意識が……。

 気がついた時、ルナンは薄暗い部屋に横たわっていた。

 小さな炎。燭台がルナンを囲むように立っている。冷たい床を見る。直径二メートルほどの白い円と、その内側に奇妙に図形が描かれている。ルナンは、その中心にいるのだった。魔術……だろうか。

「間に合ったな」

 疲れた声がした。マントとローブの老人が、薄闇に浮かび上がる。細い髪がだらしなく顔にかかり、その間から灰色の瞳がルナンを観察していた。

「ある成分を検出不可能なレベルにまで縮小する技術を『不在の在』と呼ぶ。その分、効果は落ちるが。ワズトーに潜り込ませたのは私の端末で、状況把握から対象の選択、術の発動まで時間を要した」

 説明する口調でもないのだが、ルナンに説明しているらしい。ただ、内容はルナンには理解出来ない。

「あなたは……ここは、何処ですか」

 身を起こしてルナンは尋ねる。怪物に食われたと思っていたのにこんなことになっているのは、どうやらこの老人のせいらしい。

「感情は物質化出来る。特に、憎悪から使い魔を作り出すのは難しいことではない。フィーナという娘をうまい具合に利用出来た」

 フィーナを。と、いうことは、フィーナをあんなふうにしたのはこの老人なのか。あんな化け物に……。

 老人は淡々と続けた。

「先程の問いに答えよう。私はバザム神聖帝国丞相兼宮廷魔術師イスメニアス。ここは帝都バザムスだ」

 ああ、とんでもないことになってしまった。ルナンは、攫われたのだ。何のために。まさか人質とか。カイストにそれが通用するとも思えないが。それともルナンが考えつかないような残虐な仕打ちをするのだろうか。ルナンも化け物に改造するとか。イスメニアスの名はカイスト達の会議でも聞いた。恐ろしい錬金術士だと。

 老人はそんなルナンを黙って観察していたが、やがてつまらなそうに呟いた。

「ありきたりの感情だな。価値はない」

 ああ、本当に、とんでもないことに、なってしまった。

 

 

  三

 

 ……探知された……

 ベオニールのその一言でキルマの意識は戦闘モードに切り替わった。時間の流れが感覚的に遅くなり、あらゆる方向に集中する。

 空は雲一つなく晴れ渡り、下は草原、右方に小さな砦、左方に大きな川、そして前方に帝都バザムスの街並みが広がっている。その先にそびえ立つのは岩山の上に建つ皇城。アンザムメリクはそこにいる筈だ。避難していなければだが。距離は三十キロほど。二十八キロだとベオニールの思念が訂正する。ベオニールの脚力なら二分で着く。

 猛烈な加速。空中に無数の光が生じる。十センチほどの赤い光球と、半透明の白い光球。どちらもキルマ達へ向かってくる。赤い方が速く、白い方は細長く伸びながら実体化しているようだ。どちらも防御機構だからろくなものではないだろう。

 ……白い方を片づけて。体に潜り込むからね。赤い方はペイント弾のようなものだ。へばりつくと隠密を不可能にしてスピードを鈍らせる。武器で叩いてもついてしまうよ……

 ベオニールの説明。キルマは大鎌を振り回す。刃が触れると白い糸は簡単に弾け飛んだ。ベオニールはキルマが狙いを定めやすいように直線的に駆けているが、いずれはそんな配慮をする余裕もなくなるだろう。数が多過ぎる。ポツポツと、赤い光球がキルマとベオニールの体に張りついて赤い色を残す。

 ……ある程度へばりついたらまとめて振り落とすよ。それから、カイスト達がやってくる……

 地上の狂騒ぶりがキルマの耳に届いている。殆どは一般兵だから脅威ではないが、砦の上からライフルを構えている者が数人。我力強化された銃弾かも知れない。発射される。一人はカイストらしく、高速移動するベオニールへ弾が正確に向かってくる。キルマは鎌で防ぐ。硬い感触が当たる。やはり強化弾だったか。

 進行方向には無数の光球が待ち構えている。魔術士達が帝都上空にどれだけの手間をかけて設置したものか。間をくぐるようにベオニールが駆ける。キルマも鎌を振って白い光球を消し飛ばす。すれ違った光球はまだキルマ達を追尾しているが、ベオニールのスピードには敵わない。

 矢が。真正面から飛来した三連射をキルマは二つ弾き、一つはベオニールの動きで避けた。相当の手練をキルマは感じ取る。Bクラスのカイスト。帝国側にまだこんな強者がいた。

 射手は皇城の城壁にいた。二十キロ以上の距離で、矢のスピードを変えて連射することでほぼ同時に標的に到達させたのだ。長身痩躯の片目の男。背の大きな矢筒に百本以上の矢が収まっていた。他にもライフル兵が並んでいるが、恐いのは射手だ。

 ……気をつけて。鏃に毒が塗ってある……

 錬金術士イスメニアスの毒か。鏃が皮膚を掠ればすぐに傷口を抉り取り、ある程度深い傷になれば四肢ごと切り落とさねばならないだろう。

 ベオニールは市街上空に入った。無数の光球に追われて駆ける騎馬を帝都の民が見上げている。銃による対空砲火。幾つかがベオニールの鱗を掠める。処理しきれぬ赤い光球が次々にへばりつき、キルマもベオニールも赤い塗料を頭からかぶったみたいになっていた。

 皇城から誰かが駆け出した。空中を走るからにはBクラスだろう。得物は長柄の斧、いや先端が槍になっているのでハルバードだ。空中で直接迎え撃つつもりか。ベオニールの速度なら普通に振りきれるが、挟み撃ちされないよう一度叩いておいた方がいいか。

 ……そろそろ焼灼結界に入る。防御するけれど、かなり強力な結界だと思うから覚悟して……

 ベオニールの警告。了解した。キルマが思念で答えてすぐに視界が赤く染まった。全身が焼かれる感覚に身を固くする。これほど広範囲な結界で、効果も強いとは。へばりついた赤い光球も関係しているかも知れない。

 熱さに耐えながらキルマは前方に気を配っていた。予想通り、結界発動の隙を狙って皇城の射手が矢を放ってくる。それを集中して、鎌で弾く。

 灼熱感が和らぎ、視界の赤さが収まりつつあった。ただし角膜はある程度ダメージを受けたかも知れない。地上からの射撃で左肩に弾を食らっている。我力強化された散弾だったようだ。カイスト相手には砲弾よりこちらの方が有効だろう。

 ピシィッ、と鋭い音を発して、キルマとベオニールについた赤い色が散っていく。予定通りに振り落した訳だが、まだ光球は追ってきている。

「カアッ」

 空中を駆けるハルバード使いが、すぐそこまで来ていた。穂先をキルマに向けて突き出してくる。キルマは大鎌で払いつつ手首を返し、湾曲した刃に絡めて相手の右肘を切り落とした。

「この糞がっ」

 喚きながらハルバード使いは宙を蹴り体を浮かせた。その動きに違和感。と、相手の股をくぐるようにして矢が迫る。最初から、自分の体で矢を隠すための動きだったのか。ハルバードに集中していたキルマは、陰から飛んでくる矢に気づかなかった。

 しかしベオニールは気づいていた。必要最小限の方向転換で、乗り手の胸に刺さる筈の矢は首の左横を過ぎていった。

 ハルバード使いは後方に取り残された。ベオニールのスピードにはもう追いつけないだろう。彼は左腕を振ってハルバードを投げつけてきた。あれにも毒は塗ってあるのだろうか。キルマは軽く身をひねって振り返りつつ大鎌で叩き落とした。すぐ前に向き直る。また矢だ。避ける。

 皇城までの距離は三キロを切った。地上と城壁からの銃撃は今のところ凌げている。Bクラスは片目の射手以外にどれだけいるか。と、射手の隣に太った男が立ち、大きく口を開けて息を吐いている。カイストのようだが知らない顔だ。術士か。

 ……オー・ンドゥーク。Bクラスの蟲使いだね。見えない毒虫を飛ばすらしい。帝国側のリストにはなかったから『エトナ締め』決裂の後に雇ったんだろう。それらしい気配が近づいたら焼き払うよ……

 射手が次の矢をつがえる。その隙を待っていたキルマは懐からナイフを出して投げた。狙う先は射手ではなく蟲使いの方だ。

 だが射手は矢を放つとすぐに短剣を抜き、キルマの投げたナイフを弾き落とした。太った蟲使いは面食らっている。戦士でないためナイフが飛んできたのさえ気づかなかったのだろう。他にもカイストは……。

 突然胸に鋭い痛みが走った。ゾッとする瞬間。見えない刃らしきものがめり込んでくる。このままだと胸部で輪切りにされる。キルマは目一杯上体を反らしながら大鎌を叩きつける。

 パキーンッ、と、見えない刃が割れた。破片も残さず瞬時に砕け散ったようで、魔術の類だったのだろう。

 ……すまない。僕も気づかなかった。接近して初めて実体化する不可視ワイヤートラップらしい……

 謝る必要はない。ベオニールが咄嗟に減速してくれなかったらキルマは死んでいた。傷は深く、肋骨数本と肺が切れたようだが、致命傷ではない。キルマは自分とベオニールをトラップから守るため、大鎌を斜めに翳した。

 城壁はすぐそこだ。虫が……見えないが分かった。数百匹が一群となって飛んでくる気配。ベオニールが炎を吐く。小さな焦げカスがパラパラと落ちていく。

 射手が矢をつがえる。ベオニールが素早く横っ飛びする。城壁の数ヶ所から無数の光弾が発射された。魔術的防御機構か。ベオニールが慣性無視の全力跳躍を見せた。これまでが制御可能な全速力だと思っていたのだろう、片目の射手も流石に驚いた顔をした。大鎌が狙うは蟲使いだ。開いた口が悲鳴を発する前に、鎌の切っ先はその顔面を貫き後頭部から抜けた。キルマは大鎌をひねって脳を更に破壊しながら横へ振り、蟲使いの死体を射手に投げつけた。射手は転がって避けるが近くにいたライフル兵が十数人、死体に潰される。

 背中に焼けつく感覚。さっきの光弾は追尾式だったらしく何発か食らった。それより城内への入り口は何処だ。

 ……そこを曲がってすぐだよ。今は扉が閉じている。アンチスキャン処理がされていて奥がどうなっているのか読み取れない。扉を避けて適当な壁をぶち抜いて侵入する手もあるけれど、壁自体も我力強化されているから苦労するかも……

 なら扉から行こう。ライフル兵達の首を刎ねながらキルマが思考で答える。左方から殺気。起き上がった射手が十本近い矢をまとめてつがえている。これはまずいか。建物の陰へ。

 まとめて放たれた矢は散弾のように広がって、兵士達を貫いてもスピードを落とさず向かってきた。ベオニールが素早く横に跳び、それでも当たりそうな一本をキルマはなんとか弾いた。カシュ、と毒塗りの鏃が大鎌の柄を擦っていく。危なかった。

 ……扉だ……

 鋼鉄製の両開きの扉。キルマが大鎌を突き出してその中心にめり込ませ、ベオニールの前脚が力ずくで蹴破った。変形した扉が奥へ転がり倒れ、内部への通路が露わになった。

 ……ああ、いけない……

 ベオニールの悲嘆。

 扉の片方が廊下を滑っていき、赤銅色の蔓の前で止まった。

 何百本もの蔓に全身を絡みつかれて立たされているのは、ルナンだった。キルマの雇い主。金属製らしき蔓の一本が猿轡のように少女の口に割り込んでいる。

 ルナンの服は村にいた時のままだ。彼女の泣き腫らした目がキルマを認め、再び涙を滲ませていく。

 ああ、そういうことか。キルマの胸を鋭い痛みが貫く。一瞬、背中から刺されたのかと思ったが、どうやら心の痛みのようだ。

 イスメニアスは、百三十八万年前の出来事を知っていたのだ。だからあの時と同じように、少女を拘束して人質に……。

「止まりなさい」

 あの時のヘズゲイルはケタケタと楽しげに笑っていたが、今回命じる声は疲れ、枯れていた。紺色のマントとローブで身を包んだ、貧相な顔の男。帝国の丞相兼宮廷魔術師であり、Bクラスの錬金術士であるイスメニアス。現在帝国側で最も権力を持つカイスト。彼が右手に持つ金属球から、少女を縛る蔓は伸びていた。イスメニアスの左右と後方には百人を超えるカイストが武器を構えている。Bクラスも混じっていそうだ。

 ……どうするかな。選択肢は大きく三つだ。そのまま戦闘を強行するか、逃げるか……

 お前だけ逃げてくれ。キルマはベオニールに告げた。

 ……そうか。後は運次第になってしまいそうだね。幸運を祈るよ……

 ベオニールの行動は早かった。急停止して馬体を傾けキルマを振り落とすと、反転して全速力で去っていく。

「馬を呼び戻しなさい」

 着地したキルマにイスメニアスが命じた。

「無理だな。彼には俺の言うことを聞く義務がない」

 ベオニールがキルマに協力してくれていたのは単なる好意であって、契約ではないのだ。

「ふむ。サポート趣味のベイオニールも、そこまでの甘さは期待出来ませんか。いいでしょう。武器を離しなさい。そのまま動いてはなりません」

「俺が従えば彼女が助かるという保証はあるのか」

「そこまでは保証出来ません。ただし、少なくとも七十二時間は彼女に一般的な意味での危害を加えないことを、このイスメニアスの名において保証します。その間にワズトー側のカイストが救出に来れば助かる可能性もありますが、あなたがここで拒否すれば見込みは完全になくなります」

 皇帝の命令はテロッサ皆殺しのため、イスメニアスもルナンの恒久的な安全を請け負う権限はないのだ。七十二時間。今いるワズトー側のカイストで、帝都まで侵入して無事にルナンを救出出来る者はいない。ただし、別の世界からやってきた強力なカイストが参加してくれれば、確かに可能性もゼロではなかろう。見込みは薄いが、キルマには選択肢がない。従わなければ錬金術士は今この場で、金属の触手でルナンを八つ裂きにするだろう。

「分かった」

 キルマは大鎌の石突を下に向け、床に突き立てた。ここも我力強化されているらしく、硬い感触だったが五センチほどめり込んで、鎌は倒れなかった。

 カイスト達があっという間にキルマを取り囲み、刃の切っ先を向けた。後ろにはあの片目の射手も来ていた。

 このままあっさり殺されるかと思ったが、どうやら違うようだ。カイスト達も流石に心得ていて、イスメニアスの命令があるまでキルマの喉を裂いたりはしない。しかしもう、キルマの命は完全に握られている。

 契約上は。依頼人であるルナンもワズトーの住民であり、守る義務がある。ただし、他の村人全員の命と天秤にかけると一般的にはルナンの方を見捨てるべきとなる。ルナンが死ねば後払いの報酬は受け取れなくなるが……いやそんなものは単なる言い訳だ。もうキルマは動けない。

 あの場面を避けるため、同じ轍を踏まないためにどうすべきか、キルマはずっと考えてきた。守りたいのなら離すなと、『彼』は言った。

 結局、またキルマは同じことを繰り返している。

 長い杖の先についた針を、カイストの一人がキルマの首筋に刺した。数秒で痺れが広がって、キルマの筋肉は完全に硬直し動けなくなる。

「ただの麻痺毒です。心臓や呼吸筋の動きは保たれますから死ぬことはありません。あなた達も武器を収めて構いません」

 イスメニアスが説明した。カイスト達は剣を鞘に戻していくが、用心してまだ構えている者もいた。

 もういいだろう。彼女を放せ。キルマはそう言いたかったがもう喋ることも出来ない。

 赤銅色の蔓に縛られた少女は、溢れる涙を拭くことも出来ず頬を流れるままにしている。瞳に浮かぶのは後悔と罪悪感。もし蔓の猿轡がなかったら彼女は舌を噛んでいただろう。

 百三十八万年前のルナンも、同じ目をしていた。

 また、あの時と同じ結末になってしまうのか。

 イスメニアスが皺深い手を伸ばし、ルナンの額に触れた。少女の目がゆっくりと裏返り、気を失ったようだ。金属製の触手が掌中の球に引き戻され、倒れる少女をイスメニアスの腕が支えた。

「牢に連れていきなさい。城内地下の、あの牢です」

 親衛隊の印か、黒い甲冑の男達が頷いて、ルナンを抱えて去った。

「では、私達も行くところがあります」

 イスメニアスは踵を返し、先頭に立って廊下を進む。カイスト達がキルマの体を抱えてついていく。一人がキルマの大鎌を引き抜いて持ってくる。

 キルマは眼球も動かせず、正面には綺麗に装飾された天井が流れていくのが見えていた。

 やがて大きな扉の前に到着する。黒い甲冑の男達が扉の両側に立っている。イスメニアスが近づくと男達が扉を押し開けた。

 強い光。先は大きな広間のようだ。それも特別な。天井に並ぶ据えつけられた百個以上の電球。隅の青い炎は魔術の産物か。人の気配。一般人らしき気配も混じっている。官吏か。

 正面奥に壇がある。どうやら玉座であるらしい。つまりここは、謁見の間という訳だ。

「そやつがキルマか」

 玉座の男が言った。劣等感と表裏一体となった憎悪が丸出しの、ねじくれた声音。

 カイスト達がキルマの体を立たせる。それで玉座の男の姿が正面に見えた。

 バザム神聖帝国第百七十四代皇帝アンザムメリクは、黒と赤の長い衣を引き摺っていた。額の後退した小男で、目の下の隈も歪んだ鼻筋も彼の人間性を悪い意味で象徴している。一億の民を統べ、五百万の兵を意のままに動かせる男。このサマルータにおいて、最も位の高い一般人。残忍な性格は、週に二日は処刑を見ないと気が済まないという。そして彼の綽名は、決して口にすることが許されないが、誰一人知らぬ者はない。即ち、お漏らし皇帝。

 ルナンを人質に待ち構えていたからには、イスメニアスはキルマの襲撃を知っていた筈だ。なのに皇帝を避難させていなかったとすれば、キルマが人質に屈するのは確実と考えていたか。それとも、防衛力に余程の自信があったのか。

「なるほど、スケルトン・ナイトと呼ばれるだけのことはある。最初からそれでは、顔の肉を削ぐ楽しみがないのう」

 皇帝の残虐趣味に沿うために、すぐに殺さなかったということか。キルマをどのように処刑するか、これから思案のしどころだろう。

「陛下がお望みなら、直にお触れになることも可能です。体を麻痺させておりますので」

 イスメニアスが一礼して奏上すると、アンザムメリクは躊躇なく壇から下りてきてキルマの前に立った。

「お前があのディンゴを破ったのだな。ふふ、良い気味じゃわ」

 アンザムメリクは歪んだ笑みを浮かべる。あの奔放なディンゴには皇帝も手を焼いていたのだろう。

「その鎌がお前の武器か。見せてみよ。なんとも不気味な代物だな。この鎌で何万もの首を刎ね、ディンゴの片腕と片足を切り落としたのだな。この鎌で、朕の首を刎ねる予定であったのか。ふふ、ふふふ」

 アンザムメリクの声音には奇妙な響きがあった。まるで自分の首が刎ねられることを、楽しみにしていたかのような。カイストが捧げ持つキルマの大鎌を、皇帝は悦に入って撫でていたが、「おっ」と驚きの声を発した。

「何じゃ、これは。刃がついておらぬではないか」

 武器は安物を使え。カイストの格言だ。切れ味を武器の品質に頼っていては自分の我力が育たない。だからキルマはそれを徹底することにしたのだ。鎌のエッジ側は峰側とほぼ同じ厚みで、つまるところただの鉄板だ。その気になれば峰側を叩きつけて同じように敵を両断することも出来た。

「カイストという奴らは……」

 劣等感を刺激されたのだろう、アンザムメリクの声音にどす黒い憎悪が滲んだ。

 だが、長い息を吐き、アンザムメリクは言った。

「こやつをどう処刑するかはじっくり考えることとしよう。ディンゴと並べて公開処刑というのも良いな。だが、まずは、ワズトーだ。新たな軍をワズトーに送れ。それから、ラ・テロッサにもだ。テロッサの民は一人も生かしてはおけん」

「ラ・テロッサは現在ディンゴ将軍の部隊が占領しております。派遣した際には彼の流儀に任せる方針でしたが、ディンゴ将軍はキルマに敗北しておりますので、責任を問う形でラ・テロッサを滅ぼしても問題ないと存じます」

 丞相としてイスメニアスが皇帝の考えを補強する。

「うむ。もしディンゴの山賊部隊が抵抗するなら、奴らごと皆殺しにしても構わん。テロッサ殲滅の上で、じっくりキルマとディンゴの処刑にしても良いかも知れんな。ふふ」

「……お待ち下さい。軍を出すのは少しお待ち下さい」

 急に異議を唱えたのもまた、イスメニアスだった。

「どういうことだ。今お前が問題ないと言ったばかりではないか」

 アンザムメリクも眉をひそめ戸惑っている。

「状況が変わりました。帝都に来客があったようです。ひとまずキルマも牢にお入れ下さい」

 イスメニアスの虚無的な顔が一変していた。魔術的通信かガルーサ・ネットの情報更新か、この枯れた錬金術士を動揺させるとはどんな来客か。

 百名以上いるカイスト達も、一部がざわついていた。誰かが口にした名前が、全体をどよめきに変える。

「馬鹿な、奴が来たのか」

「あの『八つ裂き王』が。まずいぞ」

「今こちらに向かっているようだ。帝国に仕官したいとか」

「だから『エトナ締め』には応じておくべきだったのに。……いやどちらにしても奴は殺し回るのだろうな」

 フィロス。

 その名を聞いた瞬間、キルマの麻痺した体も悪寒に包まれていた。

 テクラトンにいるという話だったが、ゲートを通ってこちらの世界に来たのか。このタイミングで。サマルータはこれからどうなる。そしてワズトーは。

 カイスト達の動揺に何を感じたか、皇帝アンザムメリクのこめかみに青筋が浮かび上がってきた。怒り出すかと思ったら、次第に彼の口元はとろけるような笑みに歪んでいく。

 キルマはその時になって気づいた。この皇帝は、狂っている。

「そうか。そうか。よく分からんが、破滅が迫っておるのだな。良かろう。良かろう。……キルマは牢に入れよ」

 数人のカイストがキルマを再び抱え上げ、謁見の大広間から運び出した。ついてきた一人はあの片目の射手で、歩きながらキルマの顔を覗き込んできた。

「俺の名はサンタタだ。覚えておけ」

 自己紹介を済ませると、片目の射手はさっさと離れていった。

 さて。これからどうなることか。キルマは考える。とんでもないことになったが、その分、逆転の目も出てきた。

 後は、錬金術士イスメニアスの差配次第というところか。

 

 

  四

 

 異世界テクラトンと繋がるサマルータ側のゲートは、帝都から三十キロ離れた場所にあった。フリーゾーンであるがゲート自体は帝国の領内にあるため、ゲートを出入りするカイストは名前を記録することになっている。

 帝国所属の記録役であったCクラス探知士マモマノ・ユラキは、激しく震えながら目の前の怪物に確認した。

「そ、それでは、フィ、フィロス様、で、よろしいですね」

「『彼』は来ているか」

 ユラキの問いを無視して逆にフィロスは尋ねた。

「え、ええっと……現在、このサマルータには、来ていません。ここ百二十二日間は、よ、四千世界の何処にも確認されておらず……自分の世界に篭もって、いるのかも知れません、が……」

「そうか」

 フィロスは頷いて、マモマノ・ユラキを八十二分割した。詰所にいた一般の兵士達数十人もついでにバラバラにした。悲鳴を上げる暇も与えない。本来はいざという時のためにBクラスが一人は詰めておくことになっていたが、キルマ来襲への対処で不在だった。ただ、もしBクラスがいたとしても、同じ末路を辿っていただろう。

「では、戦士募集に応じてみるか」

 フィロスは呟いて、陽の落ち始めた帝都……正確には夜の側に回り始めた帝都へ向かって歩き出した。

 『八つ裂き王』フィロスは、細い首から下を真紅のマントで覆っていた。肩の輪郭は狭く細く、屈強な体格とは言い難い。細長い顔は頬骨がやや突出し、そこから下の肉はごっそりと削げて瀕死の病人のようだ。口は広く、唇は極端に薄い。緋色の髪は所々で跳ねている。

 常人の二倍ほどもある大きな目は眼窩から半ばはみ出し、虫のように左右に離れている。死角をなくすために作り上げられた異相であった。

 フィロスは悠然と進みながら、不吉な威圧感を自然に放射していた。そして実際に死を撒き散らしていた。

 街道を下ってきた隊商が全滅した。幌馬車を曳く馬は輪切りにされ、中にいた商人も護衛もほじくり出されて分解された。逃げようとした御者も馬に乗っていた護衛も皆死んだ。

 近くの砦に駐屯していた兵士達は、隊商の惨劇を見ていたが事態を把握出来ず、一部は確認のために近づこうとしていた。彼らが最初にバラバラとなり、一秒後には砦も全滅していた。

 フィロスは帝都に足を踏み入れた。彼の周囲数百メートルにいた者はあっさり八つ裂きにされて死んだ。彼が足を進めるごとに、どんどん死人が増える。道を歩く都民も槍を立てた衛兵も首や手足を落とされ胴を割られた。屋内にいる者も壁をぶち破られそのまま賽の目切りとなるか、外に引き摺り出されて細切れにされた。女も子供も老人も、家畜にも容赦しない。フィロスはただ淡々と、息をするように生き物を殺していく。たまたまその範囲にいたカイストはフィロスに気づいた瞬間に殺されるか、逃げようとして殺されるか、恐怖で身動きも出来ぬうちに殺された。

 殺戮するフィロスの武器は常人の目には捉えられない。ただ訳も分からず死んでいくだけだ。閉じた赤いマントがフワフワと膨らみ、揺れている。何かが出入りしているのか、それとも単に風のせいだろうか。

 帝都の民が三万人ほど死んだ時、大通りを歩くフィロスの前方に一人のカイストが出現した。

 その男は、土下座するようにその場で蹲り、額と両手を地面についていた。その姿勢のまま、動かない。紺色のマントに、頭皮が透けて見える疎らな細い髪。

 バザム神聖帝国丞相兼宮廷魔術師・イスメニアスであった。

 僅かながら興味をそそられたのか、フィロスの薄い唇が暗い微笑を作った。しかし殺戮は止まらず、無数の肉片を散らしながらフィロスは歩く。

 両者の距離が百メートルを切り、漸くイスメニアスが顔を伏せたままで声を発した。

「フィロス様、おやめ下さい」

「何をだ」

 フィロスは歩きながら聞き返す。

「帝都の民を殺すことを、です」

「その望みを叶えることは非常に難しい。殺すことは我の存在理由である故」

 フィロスは答えた。

「帝国に仕官なさるおつもりなら、帝国の害となる行為を控えるのは当然の義務でしょう」

 『八つ裂き王』に対しながら、イスメニアスは飽くまで淡々と告げる。

「そうか。ならば契約は諦めるしかないな。適当に殺して、殺すものがなくなるか飽きれば去るとしよう」

 蹲るイスメニアスの姿が陽炎のように揺らいでいる。ヒュンヒュンという軽い風鳴りが錬金術師の周囲で続き、すぐにやんだ。

 フィロスが立ち止まった。周囲数百メートルの殺戮の嵐も唐突に終息し、赤いマントの膨らみがゆっくりとしぼんでいく。

「存在を薄めておるな。なかなかやる、と言いたいが、もう五歩近づけば我には斬れるぞ」

「分かっています。あなたには二百四十七回ほど殺されましたので。私はイスメニアス、錬金術士です。現在このバザム神聖帝国の丞相兼宮廷魔術師を務めています」

「有象無象の名前など覚えておらぬな。それで、帝国の臣として、我に抗ってみせるつもりか」

 相手を有象無象と呼びながら、フィロスはやり取りを楽しんでいるようでもあった。

「帝国に仕える立場としては、そうせざるを得ません」

「他のカイストを遠ざけ、錬金術士が一人で戦うつもりか」

「私はそれほど自信家ではありません。少し、時間を頂きたいのです」

 イスメニアスの声は、微かに震えていた。

「ほう」

「明日まで待って頂ければ、準備を整えますので。帝国として出来る、精一杯のおもてなしを致します」

 そしてイスメニアスは、額を地につけたまま殺戮者の反応を窺うように、そろりと次の台詞を吐き出した。

「折角食べるのなら、少しくらい時間をかけても美味しい料理の方がよろしいのではありませんか」

「ハッ。我を満足させる料理がそなたに出せるかな」

 フィロスは短い笑い声を発する。眼球のはみ出した異相のため、目元の表情を読み取ることは困難だ。

「少なくともこのサマルータにある最高級の食材を使い、腕によりをかけましょう。ですからどうか、明日のその時をお待ち頂きたく……」

「震えておるな」

 フィロスが言った。

「あなたが恐ろし過ぎるためです」

「そうかな。我には、そなたが喜んでおるように見えるが。何を期待しておる」

 生者のいない大通りでただ一人、『八つ裂き王』フィロスに相対する錬金術士イスメニアスは、全身を小刻みに震わせながら答えた。

「人の感情を物質化して集めるのが私の生き甲斐です。私にとって価値があるのは稀な状況下での稀な感情や、絶対値の大きな、強い感情です。カイスト・チャート百位以内の強者が更なる強者に敗れ、心が折れる際の感情も、幾つか手に入れています」

 フィロスは大きな目を細め、蹲る錬金術士を見据えている。

「しかし、一度心の折れた強者が超絶的な努力の末に前以上の強者と化し、それが再び折れる時の感情は、まだ私のコレクションにはありません。『八つ裂き王』と怖れられながら『彼』に徹底的に蹂躙され、二十八世界殲滅の行によって這い上がったあなたが、有象無象によって再び転落する時の感情。それは実に、貴重なものの筈です」

 ゆっくりと、イスメニアスが、顔を上げた。薄い髪のかかる貧相な顔は、恐怖とない交ぜになった極大の歓喜に笑み歪んでいた。

「言ったな。よくもまあ、言ったものだ」

 フィロスは怒り出しはしなかった。逆に左右の口角が、キュウ、と、残忍な笑みの形に吊り上がっていった。ぬめるような殺気が冷気と化し、死人の街から色を奪っていく。

「楽しみに、しておこう」

「では、フィロス様。今夜は賓客としてお迎えします。料理をお出しするまでは、摘まみ食いはなさいませぬよう」

 イスメニアスは再び顔を伏せて額を地面につけると、蹲ったままの姿勢で方向転換し、皇城へと這っていった。

 

 

  五

 

 薄暗い牢内にキルマは立っている。一室の広さは五メートル四方で、このフロアには二十室以上あったが、実際に使われているのはキルマのいるここともう一室だけのようだ。

 この地下牢は皇城でも最深部になるだろう。岩山の上に建てられた皇城の下に、岩盤をくり抜いて作られたもの。罪人を入れる牢は城の外が相応しいだろうに、わざわざこんなところに設けているのは、表沙汰に出来ない重要人物のためのものか。

 鈍い光沢のある壁は我力強化を施されており、Aクラスのカイストくらいにしか破れないだろう。十センチ間隔で並ぶ鉄格子も同じだ。肉体を自在に変形させるカイストならば脱出は可能かも知れないが。

 今、キルマの体は壁に固定されていた。大の字に手足を広げさせられ、鋼鉄の枷によってきつく締められている。身をよじることは出来るが、強化された枷を破ることはキルマの力でも不可能だ。

 カイストの戦士達が地下牢の入り口までキルマを運んでくると、後のことは獄吏役のカイストが請け負った。枷を填めた後でキルマの首に針を刺し、麻痺を治す。

 その部屋には既にルナンがいた。一般人の彼女は枷をされておらず、獄吏が出ていくとキルマに取りすがって泣いた。

 ルナンから村で起こったことを聞いた。フィーナが怪物になり、少なくとも倉菱とマクバル・アズスが死んだこと。ルナンは怪物に呑み込まれたと思ったら皇城にいたこと。イスメニアスが時間をかけて行った術であったらしいこと。

 戦士であるキルマには、イスメニアスがどんな術を使ったのか、詳しいことは分からない。フィーナの抱いていた憎悪が怪物の材料になったらしいが、確かにキルマはディクテールに切り刻まれた彼女のフォローを怠っていた。他人の心に気を配るのは得意ではなかったし、加わった他のカイストに任せればいいと思っていたのだ。今となっては悔やまれるが、どうにもならない。

 皇帝がワズトーに軍を送れと言っていたから、その怪物によってワズトーが全滅した訳ではなさそうだ。キルマ対策として、ルナンを拉致することが主目的だったのだろう。だが倉菱が死に、アスラドーンはまだ爆弾錬成中だろうから防衛力は格段に落ちている。ベオニールがワズトーに戻っているかは定かでないし、危うい状況だ。

 しかし、取り敢えずは、ワズトー攻撃のためカイストが送られることはないだろう。ワズトーより優先すべき脅威が、サマルータを訪れたらしいのだから。

 泣きながら「ごめんなさい」と繰り返す少女に、キルマは告げた。気にするな。責任は俺にある。

 それから、頼みがある。お前は、死なないでくれ。

 状況はまだ、どう変わるか分からないが、少なくとも、自分で命を絶つような真似は、しないでくれ。

 キルマの言葉に、ルナンは驚いた顔で暫くの間、キルマを見返していた。

 やがてルナンは涙を拭って頷き、「はい。絶対、死にませんから」と言った。

 絶対に死なないというのは不可能なのだが、ともキルマは思ったが、カイスト視点での突っ込みはやめておいた。

 ルナンは今、キルマの足下で丸くなって眠っている。

 ブーツ越しに少女の体温を感じながら、キルマはあの時のことを思い出していた。

 

 

 再び追ってきたダブル・ツェンクは、おかしなことになっていた。

 コンビだけでの活動を好む筈の二人が、他の数人のカイストを連れていた。こちらに攻撃を仕掛ける前に、『技のツェンク』は頭を破裂させて死んだ。

 片割れの突然の死にも『力のツェンク』は揺るがなかった。強念曲理を生み出す集中力故……ではなく、彼の岩のような顔は虚ろに弛緩していた。キルマを睨む目にも鋭さがない。鋼鉄のハンマーを片手で振り上げ、片足で跳んでくる。

 二度目の勝負はあっけなかった。キルマが恐怖と緊張に震えたあの圧力はなくなり、力任せのただの素人を相手にしたようなものだった。力のツェンクが胴を割られ倒れると、残りの戦士達もキルマへと殺到した。

 彼らの表情も何処か虚ろで、攻撃もフェイントや狡猾さのない単調なものだった。毒塗りの剣でなんとか片づけると、残った敵はただ一人となった。毛むくじゃらで顔まで毛に覆われた、不気味な魔術士。ヘズゲイルがガルーサ・ネットより得た情報だと、匿名で追っ手に参加したらしい。カイストが匿名とは。名を懸けなければ実績にはならないし、無責任な遊び半分での参加か、後ろ暗い目的があるのだろうと解釈されて仲間にも全く信用されない。それでも匿名で参加したのはどういう意図か。

 ヘズゲイルがその魔術士の名を呼んだことが、キルマには驚きだった。

「随分と下手な操作じゃったな、クォックスム」

「ダブル・ツェンクが言うことを聞かぬから、作戦会議が決裂してな。やむなく全員傀儡とした。総合的には勝るかと思ったが、技のツェンクが既にお前の手の内だったとは計算外だった」

 クォックスムという名であるらしい匿名魔術士は、毛の中からペチャペチャと聞き取りにくい言葉を発する。

「恥じることはないぞ、兄弟子よ。頭に忍ばせる爆雷は、発動まで条件があってのう。その分、検出しにくいのじゃ」

 ヘズゲイルはそう言ってケタケタと笑った。

 ということは、このクォックスムという魔術士は、ヘズゲイルと同じくザム・ザドルの弟子なのか。

 だとすると、この追跡劇は、こいつらの出来レースだったということか。

「まあ、この結果については想定内だ。条件にはこれで足りたか」

 毛むくじゃらのクォックスムが尋ねる。

「うむ。充分、師の指定した必要我力量に達した」

「そうか。そこの剣士の血も必要になるかと思ったが。こちらが用意していた予備の方は、少々足りんようだ」

 クォックスムの顔を覆う毛がワサワサと動いて、顎の辺りの皮膚が露わとなった。

 その部分だけ、別人の皮膚を張りつけてあるようで、周辺とは色や質感が違っていた。まだ若い……いや、未成年のものか。

 その皮膚の中央に目が一つあり、斜め上に薄い眉があった。目はギョロギョロと落ち着きなく動き、キルマとも視線が合うと、瞼によって作られた輪郭が少し歪んだ。助けを求めるように。

 皮膚を張りつけているのではなかった。この魔術士は、他人の体を生きたまま自分の体に埋め込んでいるのだった。空間を歪めて全身を入れているのか、手足など余分な部位を削っているのかは分からない。

「ケヒャヒャ、加工したのう。『鍵』として使うには十万アイル以上の我力を及ぼしてはいかん筈じゃが」

 ヘズゲイルは笑いながら言う。取り込まれた少年か少女は、どうやらルナンと同じ立場らしい。だとすればルナンを傷つけずにいるだけヘズゲイルの方がましというべきか。

 究極の黒魔術師ザム・ザドルが、サマルータの砂漠に封印した術式『皆殺しの悪疫』。間違いなくAクラスになれるというその力を手に入れるため、ヘズゲイルはザム・ザドルの定めた条件に従って開封しようとしていて、その鍵となるのがルナンなのだ。生まれた場所と時期、出生時に母体が死亡したことなどなどが条件に合致するらしい。キルマもそこまでは、昨日ヘズゲイルの口から聞いていた。

「我力使用は許容範囲内だ。科学技術を利用した。そちらの鍵は大丈夫か」

「規定内じゃ。雇った剣士が危うい真似もしたが、無事に使える」

「では、ここでやり合うか。それとも、封印を解いてからやるか」

 取り込んだ子供の部分を再び毛で隠し、クォックスムが問う。

「勿論、今ここでじゃな。ケヒャ、ヒャカカカカ……」

 ヘズゲイルが笑う間に、クォックスムの体からどす黒い闇が染み出してきた。蠢く闇は結界か、それとも無数の黒い触手の群れか。それは予想外の速度でヘズゲイルに向かっている。防がねば。キルマは剣を握り駆けつけようとする。ヘズゲイルがどんなにクズの化け物でも、契約は契約だ。守らねばならない。

 ルナンの処遇に関して逆らったら、キルマの右頬に腐敗する呪いを植えつけやがった糞野郎だとしても、契約は契約だ。

 だがキルマの剣が闇を斬る前に、ブビュッ、という湿った音がして、クォックスムの後頭部が破裂していた。『技のツェンク』と同じように。

「な……」

 後方に脳の破片を散らし、毛を血で濡らしてクォックスムは驚きの呻きを発した。眼球がだらり、と垂れ落ちてくる。

「カカ、ヘヒャヒャ。あーあ。愚かじゃったのう、兄弟子よ」

 ヘズゲイルがミイラの顔を歪め、さも楽しげに語る。

「わしがお主の頭に爆雷を仕込んだのは七千万年前の話じゃ。自分以外は全て敵。ザム・ザドルの弟子として、そのくらいの覚悟はしておくべきじゃったのう」

 ヘズゲイルの言葉が最後まで聞こえていたかどうか。広がりつつあった闇は薄れて消え、クォックスムはその場に崩れ落ちた。暗赤色の血を流し、少しずつ、縮んでいく。

 既に死亡したと思われるクォックスムにヘズゲイルは歩み寄った。軽く蹴りを入れると、取り込まれていた子供がはみ出して砂の上を転がった。十代前半で、性別は判断材料がない。顔面は頭蓋骨ごと半分ほど削り落とされ、脳の一部が見えていた。手足はなく、背骨や肋骨もない。心臓や肺や他の内臓も、まとめて透明な膜で包まれている。必要最小限の、人間のパッケージという訳だ。

 子供の片方しかない目が、キルマを見ていた。

 もしかしたら、殺してくれと哀願しているのかも知れなかった。

 キルマは気になって斜め後方を確認した。ルナンは離れた場所に立ち、この惨状を見守っている。目を見開いて、口元を押さえ、少女は悲鳴を上げるのをこらえている。エニフェの村で売り渡されてから、彼女は嫌なものを見過ぎた。それにわざわざ追加する必要もあるまい。

「見るな。向こうを向いていろ」

 キルマは告げた。ルナンはぎこちなく頷いて、背を向けた。

 ヘズゲイルはクォックスムのしなびた死体を何度も踏みつけていた。何度も、何度も。口に何を含んでいるのか、クチャクチャと音がする。

 そのうちにヘズゲイルは口を開き、タールのようにドロドロとした黒い液体をクォックスムの死体に垂らしていった。その液体が危険なものだとキルマは直感する。

「このクズめ。わしをこんなふうにしたのは貴様じゃ」

 黒い液体のかかった死体に、憎々しげにヘズゲイルは毒づいた。

「わしを何度殺した。兄弟子の権限を振り翳し、わしを何度実験材料に使った。貴様のせいでわしは変質せざるを得んかった。こんな化け物にな。貴様のせいじゃ」

 ヘズゲイルの声音には、ゾッとするような本物の怨念が篭もっていた。

「クズめ。滅べ。滅び去れ。永遠に地獄をさまよえ。魂の最後の一片まで腐ってしまえ。食われろ。塵まで腐れ。腐れ果てろ。腐れ、腐れ腐れ腐れ腐れ腐れえええっ」

 最後は絶叫に近かった。言いたいことを言ってしまうとヘズゲイルはこちらを振り返り、ケタケタと笑った。

「錯乱したかと思ったかの。心配要らん。これは『屈葬』または『死者への唾吐き』と呼ばれる呪術でな。サネロサが考案し、我が師が改良を加えたそうじゃ。死にたての魂に追い打ちをかけて転生を大幅に遅らせ、うまくするとそのまま墜滅させられる。魔術士同士、特にザム・ザドルの兄弟弟子同士ともなれば、互いに最悪の報復を覚悟せねばならんからの。これくらいの措置は最低限の保険じゃろう」

 カイストは死んでもいずれ転生する。今回の争いでしてやられたクォックスムが、転生した後でヘズゲイルに仕返しをする可能性もある訳だ。戦士でも因縁の相手というのはあるが、魔術士の陰湿さは比べようもないだろう。それにしても、下手をすれば『墜滅』……記憶と能力を失うカイストとしての本当の死を、肉体死後の追加攻撃で与えられるとは。『究極の黒魔術師』ザム・ザドルと『呪殺神』サネロサは魔術界の双璧だが、戦士の想像を絶する技術体系なのだろう。

 だが、それはそれとして、だ。

「片がついたなら、後は封印を解くだけなんだな」

 キルマは立てた親指で後方の遺跡を指して尋ねた。

 ザム・ザドルが砂漠に沈めた巨大な石棺。魔術によって探知士や検証士の目からも隠蔽され、特定の時期に特定の条件でしか近づけず、特定の呪文でしか浮かび上がらない。ヘズゲイルの呪文によって呼び出された石棺は、ただ一つの暗い入り口を正面に開けて静かに待っている。

「そうじゃ。いよいよわしの悲願達成という訳じゃ。我が師が無用と断じて捨てたものも、わしら凡なる術士にとっては希少なる秘宝よ。神の領域に入れるなら手段を選ばぬし、どんな犠牲も惜しくはないわ」

「そんなことはどうでもいい。俺が知りたいのは、『鍵』として使われたら、彼女はどうなるのかということだ」

 ヘズゲイルのミイラ顔が、キョトンとした表情になった。質問の意味が分からない、というように。

「……ああ、そうか。ただの一般人の娘の身を、案じておる訳じゃな」

「守れと言ったのはお前だろう。その時になれば質問に答えるとも言った」

「ふむ。ま、確かにそうじゃの。ならば教えてやろう。鍵としてあの穴に放り込めば、魂ごとすり潰される。それだけの単純な結末じゃ」

 やはり、そういうことか。この魔術士達の流儀を見るにつけ、充分に予測出来たことだ。

「そうか」

 キルマは頷いた。これは賭けだった。キルマの頭にもいつの間にか爆雷という術を仕込まれている可能性があった。ならば、成すすべなく即死だ。だが、わざわざキルマの右頬に呪いの痣を植えつけ、「次に逆らったらそこから腐敗が全身に回って死ぬ」と脅したということは、爆雷は仕込まれていないかも知れない。一度仕込むと何千万年もキープ出来る魔術。そんなものを手当たり次第にばら撒けるとは考えにくい。クォックスムを含むおそらく複数の兄弟弟子に使い、技のツェンクに使い、力のツェンクには使わなかった。なら、本来契約で縛っているキルマに使うほどの空きは、用意していなかったかも知れない。

 リスクを負っても、また、自分の積み上げたものが一部失われると分かっていても、キルマは行動せずにはいられなかった。雇い主が雇った相手に呪いをかけることも、契約に明文化されていなくても常識的には違反行為ではないか。そして何より、もうこれ以上、自分の心に反することをやりたくなかった。

「ならお前との契約は打ち切る」

 圧縮音声で叫びながらキルマは剣を振った。まず切ったのは自分の右の頬。下顎骨と頬骨の一部ごと、多めに肉を削ぎ落とした。ここから腐っていくのなら、最初から切り離していれば死なずに済むということだ。本当はもっと術の根は深いかも知れないが、複雑な術が単純な覚悟でひっくり返せることもあるとキルマは知っていた。

 ヘズゲイルへ突進する。このままルナンを連れて去ることが許されないことは分かっていた。ならば躊躇なく、この邪悪な糞魔術士を殺すべきだ。キルマの頭は破裂せずにまだ動けている。やはりキルマに爆雷を仕込む余裕はなかったか。念話用の魔術器具はとっくに外している。ヘズゲイルが得意の触手を伸ばしてこようが、その先端に毒がついていようが、最速で剣を振るだけだ。その首を、落としてやる。

「娘を見るが良い」

 ヘズゲイルは醜い笑みを湛えたまま告げた。砂の動きとルナンの近くで動く気配を感じ、キルマは不吉な予感を抱く。このまま剣を止めずにヘズゲイルを殺せば……いや、無理だ。そうすれば必ずルナンは死ぬ。

 キルマは振り向いた。

 ルナンは、地中から伸びた何百本もの触手に絡みつかれていた。手足ごと縛られ身動き取れず、触手を噛まされて喋ることも出来ない。一瞬のことに驚いた少女の顔は、次第に状況を悟って絶望に染まっていく。

 ヘズゲイルは、キルマの問いに答える際、こうなることも予想していたのだろう。こっそりと触手を地中に忍ばせておき、ルナンを人質に取ったのだ。

 甘かった。もっと早く、決断していれば。キルマは自分の半端さを恥じながら、剣を下ろした。

「ケカカ。娘を助けたいのか、キルマ。契約を解消して傷を負ってまで、助けたかったのか」

 面白そうにヘズゲイルが尋ねた。

「ああ、助けたい。ついでにお前も殺したい」

「ヒャカッ、ケヒャハッ。二番目の望みは聞いてやれんが、娘を助けることは、まあ、出来んこともないぞ」

 邪悪な魔術士にしては意外な台詞だった。

「どういうことだ」

「鍵の予備が一つあるじゃろう。運が良かったのう、キルマ」

 ヘズゲイルは骨ばった手で、近くに転がる最小限の人間パックを指差した。

「プレイヤーであるクォックスムの死はカウントされぬから、まだ既定の我力量には達しておらん。イベントに参加したカイストの死が必要でな。お主が娘を守りたいのなら、予備の鍵を使えるようにしてくれんと困るの」

「……。つまり、俺がここで死ねばいい訳だな」

「うむ。やるなら早うしてくれぬか。どうもそこの予備は、生命維持装置が外れたらしいの。後二十分もせずにくたばる」

 ありがたい。キルマはその時、本気でそう思ったのだ。

 もっとひどいことを覚悟していたのに、自分が死ぬだけで、解決するとは。

 クォックスムが確保していた子供のパッケージは、一つだけの目でまだキルマを見ていた。

 ルナンの代わりにこの子供の魂がすり潰されるとしても、キルマは構わなかった。世界に理不尽なことは溢れ返っていて、キルマに出来ることは本当に、ほんの少しだけだ。自分を無条件に信頼してくれた少女を守れるのなら、他のことは譲り渡して構わない。

 キルマはルナンを振り向いた。触手に縛られた少女は涙を流していた。二人の会話は聞こえていたのかも知れない。もし彼女が喋ることを許されたなら何と言っただろうか。或いはすぐに舌を噛んだだろうか。それを知る必要はない。触手の猿轡を外さぬヘズゲイルに、キルマは感謝さえしていた。

「心配するな」

 キルマはルナンに声をかけた。それ以上のうまい台詞をキルマは思いつけなかった。彼女を安心させようとして、キルマは余裕たっぷりに微笑んでみせようとした。自分で削ぎ落とした右頬から血がダラダラと垂れて、キルマはしくじったなと思った。

 キルマが向き直ると、ヘズゲイルがゆっくりと歩み寄ってきた。キルマが逆らえないことは分かっていて、無造作に枯れた右手を伸ばす。

「良い顔になったのう、キルマ。呪いを防ぐために自ら顔を削るとは、感心したぞ。これはオマケじゃ。永遠に、その顔でおると良い」

 ヘズゲイルの指先から緑色の煙が昇っていた。キルマは避けなかった。熱さと共に、新しい呪いが額や鼻や左頬に染みていく。肉が溶けて自分の顔が完全な髑髏になるのをキルマは感じた。

「俺が死ねば、ルナンには手を出さないと約束するな」

 最後の確認は、頬も唇も失ったため喋りにくかった。カイストの言葉は重い。もしヘズゲイルが明確な保証をしなければ、ルナンの死も覚悟で至近距離の魔術士を斬り殺すつもりだった。

「うむ。約束しよう」

 ヘズゲイルはニヤニヤ笑いを浮かべながら頷いた。

 よし。いいだろう。

 今、ルナンはどんな表情をしているだろう。だがキルマは振り返らなかった。自分の顔は髑髏になってしまっている。

 キルマはもう何も言わず、長剣の切っ先を上向きにして、自分の顎の裏から脳天までを一気に突き通した。

 

 

 その後の顛末は、検証士の回収した情報による。

 ヘズゲイルは予備の鍵を使って『皆殺しの悪疫』を獲得し、封印の遺跡は崩壊した。

 念願の力を手に入れて高揚し、自制出来なくなっていたのだろう。ヘズゲイルは力を早速ルナンを的にして使おうとした。

 丁度そこに『彼』が到着したのだ。

 依頼のことを思い出したのか、それとも単に通りかかっただけだったのか、検証士は『彼』の思考まで読み取ることが出来なかった。実際の結果として、Aクラスとなったばかりのヘズゲイルは『彼』のただ一撃で殺され、墜滅した。狂気の殺戮神による圧倒的過剰な痛撃に加え、約束を破ってルナンを殺そうとしたことも、魂の傷になったのだろう。

 ルナンは、『彼』に礼を言ったという。

 それから彼女はキルマの剣を取り、自分の胸に突き刺した。『彼』はそれを、黙って見届けて、立ち去った。

 キルマ達を巻き込んで繰り広げられたザム・ザドルの兄弟弟子の争いは、何にもならなかった。クォックスムもその後登場の話を聞かない。墜滅したのかも知れない。

 キルマに残ったのは、術者が墜滅した後も治らない、髑髏の顔だけだ。

 百万年以上も呪いの効果を持続させているのは、もしかすると、キルマ自身の後悔の念なのかも知れなかった。少女は死んだ。彼女を助けるために自決したキルマの後を追い。ならばどうすれば良かったのだろう。どうすれば、彼女を助けられたのか。キルマはずっとそれを、自問し続けていた。

 そして今、キルマの足元には同じ名の少女が眠っている。彼女は当時の少女とは違う。彼女を助けたところで百三十八万年前の少女が救われることはないと、キルマも理解している。

 それでも、キルマは全力を尽くして彼女を助けたかった。

「やっと眠ったようですね」

 二つ隣の牢から若い男の声がした。

「女の子の泣き声もたまには良いものですが、こう何時間も続けられてはたまりません。読書に集中出来ませんでしたよ」

 張りのある澄んだ声で、年齢は二十代前半だろう。気配にはカイストの持つ鋭さも強さもなく、一般人のようだ。

「まあ、どうせ私と違ってすぐに出ていくのでしょうから、そのくらいは許しますけれどね」

 静寂の中、本のページをめくる音がした。ルナンの泣き声に混じってずっと聞こえていたものだ。

 この地下牢に収容されているのは、キルマとルナン、そしてこの若者だけだった。

 二十数秒後、やや物足りなさそうに若者が言った。

「私が何者か、聞いてはくれないのですかね」

「聞いて俺の役に立つことがあるのか」

 キルマが冷たく問い返すと、若者は苦笑したようだ。

「もしかすると役に立つかも知れませんよ。まあ、聞いて損になることもないでしょう」

「では、何者だ」

「アルザメイノスといいます。現皇帝アンザムメリクの腹違いの弟です。ですから皇弟、ということになりますか」

 アンザムメリクに弟がいるとは聞いていなかったが。

「何故その皇弟が、牢にいる」

「兄が私を怖れているからですよ。父である先帝の存命中、私は第二皇太子でしたし、後継に私を推す声も多かったのです。何しろ兄はあの性格ですし、それに加えて元服の儀式中に、歴史に残るとんでもない失態をしでかしてしまったものですから」

 お漏らし皇帝という綽名のことは、無論キルマも知っている。

「ただ、先帝が亡くなった当時、私はまだ十五才でしたし、やはり父が定めた皇太子である兄を退けることは不可能でした。後二、三年でも父が長生きしてくれたなら、私にも皇帝の目はあったのですがね」

 アルザメイノスは軽く嘆息する。

「私が幽閉されたのは六年前です。表向きは病死ということになっているようですね。まあ、外に出られないことを除けば、牢での生活もそれほど不自由はありませんよ。獄吏達は私に敬意を払ってくれますし、読みたい本は取り寄せてもらえます。昼間はちゃんとした明かりも点くんですよ。たまには好みの女性も連れてきてもらえますから、性欲の処理に困ることもありません。事の終わった後で彼女達がどうなるかは知りませんがね。丞相のイスメニアスが週に二回はここに来て、世界情勢について教えてくれます。ワズトーのことも、スケルトン・ナイトと呼ばれるあなたのことも知っていますよ。この牢まで来てくれるとは思っていませんでしたが」

 最後の台詞はちょっとした皮肉のようだ。

「それで、お前の存在が俺の役に立つ余地はあるか」

 問いながら、キルマにも薄々予想はついていた。お決まりのパターンの一つに填まり込んだという訳だ。

「流石に六年も過ごせば、地下牢暮らしにも飽き飽きしてきました。イスメニアスは兄に不測の事態が生じた場合に備え、私を確保しているのでしょうが、この先兄に男子が生まれれば状況は変わってくるでしょう。私は不安定な立場にいる訳です。……これは、飽くまで可能性の話になりますが、私が皇帝になった暁には、ワズトーへの攻撃は取りやめるつもりです。物資を援助して街道を整備し、千二百人の村をその百倍の規模に栄えさせることも出来ますよ。ただし村がそれを望めばですが」

「つまり俺に皇帝を殺せ、ということか」

「あなたがそれをどう解釈しようとも構いませんよ。私が皇帝になれば必ずそうする、と宣言しているだけのことです。兄の拡大政策は内外で反発を生んでいるようですし、私の即位は歓迎されることでしょう」

「お前の声は獄吏にも聞こえているぞ」

 牢の出入り口にひっそり立つ獄吏はCクラスだがカイストだ。よく通るアルザメイノスの声を聞き取れない筈がない。

 皇弟アルザメイノスは朗らかに笑った。

「問題ありませんね。イスメニアスが現時点で私を殺すことはあり得ませんから。丞相は常に帝国の安泰に尽くしています」

 カイストにはそれぞれ目的がある。イスメニアスの雇用契約がまともならアルザメイノスの言う通りなのだろうが。キルマはわざわざそんなことを突っ込む気もなかった。

 鋼鉄の扉が開く音がした。このタイミングに驚いたようで、アルザメイノスが息を呑む。

「ご苦労さん。言っとくが、ここで聞いたことは誰にも喋るなよ」

 獄吏に命じる太い声に、キルマは聞き覚えがあった。

 靴音に混じって、カツン、カツン、と硬い音が響く。片足が義足のようだ。

 近づいてくる気配は、アルザメイノスの牢の前で一旦止まった。

「ありゃ、俺が飛ばされた後で死んだと聞いてたが、元気そうじゃないかアルザメイノス」

 義足の主が言った。

「お久しぶりです、白銀将軍。ご覧の通り、それなりに健康に幽閉されていますよ」

「ハハッ」

 義足の主は快活に笑う。

「しかし大々的に葬儀までやったって話だったのに、カイストの大臣連中はどうしてたのかね。だんまりで一般人の奴らに発表を任せてたのか」

 カイストは基本的に嘘をつかない。政治的都合で事実と異なることを言わねばならない場合には、危急の用を理由に代役を立てるか、一般人の影武者を使うらしい。

「私も自分の葬儀の様子は知りませんよ。それで将軍、どういう用件でこの薄暗い地下牢にお越しになったんです。私を解放してくれるためではないようですが」

「ああ、すまんな。こっちの用件の方が深刻でね。それから、もう俺は将軍じゃねえのさ」

 義足の主が再び歩き出し、キルマの牢の前に立った。

「よう」

 古い友人に対するような口調で、ディンゴは無事な方の右手を上げた。不精髭を生やした野性的な風貌。涼しげな瞳の奥には荒々しい本質が垣間見える。プラチナでコーティングされた胸当てはなく、汚れた半袖シャツを着ていた。左腰に下がっている長剣も以前のものとは違う。左足は革のブーツを履いているが、右足は膝下から鋼鉄の棒になっていた。武骨な義足の前後には鋭い返し棘がついている。

 ディンゴの左腕は、肘から先が籠手と一体化した剣になっていた。刃渡り七十センチで、峰の中腹から鉤状の刃が枝分かれしている。

「片腕片足が落ちたくらいで弱くなったなんて、思われたくはねえもんだ。こんなこたぁ俺達にとっちゃあ日常茶飯事だよな」

 面白そうに微笑するディンゴの右手は、親指と人差し指の間に小さな金属を握っていた。

 それは、一本の鍵だった。

「何の用だ」

 キルマは鉄格子越しに問うた。

「公開処刑参加のお誘いってとこかな」

 引っ掛けるところもないのに、ディンゴは人差し指一本で鍵をクルクル回す。

「フィロスか」

「知ってたのか。お前が捕まった頃にテクラトンからやってきたらしい。殺し回りながら帝都に入ってきたところを、イスメニアスが説得して止めた」

「ほう。予想以上にやるな、あの錬金術士は」

 キルマは感心してから、敵側のカイスト相手につい気楽な喋りをしてしまったことに気づく。

 ディンゴは太い眉の片方を少しだけ上げて悪戯っぽい表情を見せた。

「腕によりをかけて精一杯のおもてなしをするので、摘まみ食いを控えろと言ったらしい」

 フィロスが喜ぶ『おもてなし』といえば、殺し甲斐のある獲物の提供しかないだろう。

「その食材に、俺も選ばれた訳か」

「そう。俺もな。敗戦の責任を取らなきゃなんねえからな。処刑されるつもりはなかったが、フィロスを放置する訳にもいかんから引き受けた。名目的には、みっともなく負けた将軍と憎い敵の捕虜を、Aクラスの客人フィロスと戦わせて、もし勝てたら放免する、という感じだな。武器やらはイスメニアスが協力する。ワズトーとのいざこざよりこっちが優先だからな。下手すると帝国どころかサマルータそのものが無人の世界になっちまう」

「……イスメニアスは、本気で勝つつもりなのか」

 フィロス。その名を知らぬカイストは出立間もない駆け出しくらいだろう。『八つ裂き王』とも『千の刃のフィロス』とも呼ばれる怪物中の怪物。ガルーサ・ネットの作成した無差別ランキングにおいて、強者たちの憧れである百位以内を常時キープしながら、誰からも憧れられぬ男。『蜘蛛男』フロウと同じく、味方からも敵からも忌避され怖れられる異常性格者。殺人狂でしかも究極的に強いというのは、手に負えぬ災厄ということではないか。

 『彼』に決定的な敗北を喫したフィロスは、再起の第一歩として二十八世界殲滅の行を己に課した。出現時に十四の世界を消滅させた『彼』に対抗して、二十八の世界の人類を皆殺しにしてみせたのだ。殺戮速度が人口増加速度を下回っていれば永遠に終わらない行。しかしフィロスは達成した。勝手な行のために殺された犠牲者数は十兆を超えると言われている。

 キルマもディンゴもBクラスの戦士としては名の知られた方だ。Aクラスを相手にしても状況次第ではそこそこ戦えるかも知れないし、運が良ければ勝つ可能性もゼロではない。

 だが、相手はそのAクラスの中でもトップクラスの、フィロスなのだ。

 キルマの言葉に、ディンゴはちょっと意外そうに目を瞬かせた。お前は勝つつもりがないのか、とでも言いたげに。

「そのようだぜ。この後イスメニアス本人が来るらしいから聞いてみな。それと、勝った場合の条件についてもきちんと言質を取っとけ。そのお嬢ちゃんの解放とかな」

「直接来るのか。ならお前は何をしに来た」

「んー。俺はな、フィロスとやるんならタイマンでやりたかったんだよな。勝てない相手に複数でかかるってのは、なあ」

 ディンゴは鍵を持った右手で頭を掻いた。誇り高い戦士であればそう思うだろう。強い相手は皆で袋叩きにすればいい、とするならば、自分が強くなる意味がないではないか。

 しかし、今は状況が違う。

「だが、相手はフィロスだ」

「分かってるさ。勝てなきゃサマルータの住民がヤバいってのも分かってる。だから落としどころを考えてたんだ。今俺は片手片足だろ。お前も片手片足なら、足して丁度一人分になるよな」

 ディンゴは剣になった左の義手をヒラヒラさせる。

「そう来るか」

 キルマは内心苦笑してしまった。こだわりの強い男だ。だからこそ、この若さでBクラスの上級まで駆け上がったのだろう。キルマの髑髏の顔は表情を作れないが、ディンゴには読まれたかも知れない。

「別に意趣返しって訳じゃないぜ。動けん相手の手足切り落としたって楽しくないからな。イスメニアスは同意してくれたぜ。なんかその方が都合がいいそうだ。義手と義足も用意出来るしな」

 キルマは頷いた。

「俺は構わん。お前と対にするなら、落とすのは右手と左足か」

「そうしたいとこだが、そっちじゃ困るってことなら妥協するぜ」

「いや、それでいい」

 ディンゴの言う通り、手足を失うことなどカイストの戦士にとっては日常茶飯事だ。

「よし」

 ディンゴが牢の鍵を開けて入ってきた。開錠音と扉の軋みでルナンが目を覚ましたようだ。

「……え……何……」

 慌てて身を起こした少女に、ディンゴは優しい声をかける。

「ちょっとごめんよ。どいてくれねえかい」

「えーっと……」

「ほら、ディンゴだよ。君の村に乗り込んでキルマと一騎打ちした、あのかっこいい男さ」

 野性的な顔に浮かべたディンゴの微笑はある種魅力的ではあったが、この薄闇ではルナンには見えなかったかも知れない。

 名前を聞いてルナンは思い出したようだった。

「えっ……ええっと、じゃあ、キルマさんに負けた仕返しに来たんですか」

 ディンゴはガックリ来たようで微笑が苦くなる。二つ隣の牢ではアルザメイノスの気配が笑いをこらえていた。

「そんなんじゃあないが、やることがあってね。キルマ、我力の防壁を解け。血止めしやすいようにこっちも我力なしで斬る。後でイスメニアスが治療士を連れてくるから、それまで勝手に手足を生やすなよ」

「や、じゃあやっぱりキルマさんを斬るんじゃ」

 立ち上がっていたルナンは、その時キルマを庇おうとしていたのかも知れない。ディンゴはそれより早く右手で剣を抜き、少女の脇から軽く二閃させてすぐ鞘に戻した。キルマの右腕と左足があっさり切断される。右前腕半ばと左膝下、丁度ディンゴ自身の切断箇所に一致していた。後ろに密着していた岩壁には剣の切っ先が触れず、尚且つ皮一枚残していない。痛みも殆ど感じなかった。我力なしでも見事な技量だ。

「あああああ」

 キルマの方を見てルナンが悲鳴を上げた。今にも泣き出しそうな様子にディンゴも慌ててなだめようとする。

「大丈夫、大丈夫だって。ほら、血もすぐ止まっただろ。ほら、こいつの顔を見なよ、平和な顔してるじゃないか。な、な、大丈夫だって」

 ディンゴがキルマの髑髏顔を指差した。そんなことを言われても困るのだが、キルマは黙って頷いてみせる。

「じゃ、また明日会おうぜ」

 ディンゴは右手を上げ、左の口角を上げた強烈な笑みを残して立ち去った。鍵は開けっ放しのままだ。硬い義足の響きが遠ざかっていく。

「期待していますよ」

 賢明にもそれまで沈黙を守っていたアルザメイノスが、ディンゴに声をかけた。いや、それはキルマにも向けたものだろう。

「心配ない。眠っていろ」

 キルマは取り敢えず、ルナンに告げた。

 

 

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