第七章 お決まりのパターン

 

  一

 

 翌日の帝都の空は素晴らしく澄み渡っていた。太陽を挟んで遥か彼方を流れる向かい側の大地が見えそうなほどに。

 そびえ立つ岩山の手前にある広場。敷き詰められた赤煉瓦は、度重なる公開処刑によって幾多の血を吸ってきたことだろう。今、そこには数万の兵士が控えていた。Cクラスのカイストを含む皇帝の直属軍だ。赤い甲冑に身を包み、槍を持った部隊と剣の部隊、そしてライフル銃の部隊に分かれる。

 兵士達は広場の中央に百メートル角のスペースを空け、それを囲むように整列していた。彼らは一様に押し黙り、恐怖と緊張に耐えながらフィールドに立つ男を見守っている。

 『八つ裂き王』フィロスは、首から下を真紅のマントで覆っていた。赤髪はささくれのようにあちこちで跳ねている。迫る敵の刃を髪で感じるためのスタイルかも知れない。このフィロスに刃を打ち込める者がどれだけいるかは別にして。左右に離れ、半ばはみ出した大きな眼球は、ゆっくりと別々に視線を巡らせている。

 広場の岩山側の一角に、高さ五メートルほどの壇が設けられていた。その上に据えられるのは、背もたれが炎のように禍々しくねじ曲がった黒い椅子だ。

 腰掛けるのは、バザム神聖帝国第百七十四代皇帝アンザムメリクだった。彼の瞳は昏い愉悦を湛え、広場のフィロスを見つめている。皇帝の左右で護衛を務める二人のBクラスと壇周辺を守る黒い甲冑の親衛隊達は、『八つ裂き王』を前に不安を隠そうとしているが、あまり成功してはいなかった。

 アンザムメリクの足元に、五十センチほどの大きさの透明な壷が置かれている。

 壷の上にはテロッサ王の下膨れした顔があった。顔を引き攣らせ、助けを求めるように口をパクつかせているが、声帯を切ってあるため声は出ない。首の下から気管や食道や血管が壷の中へ伸び、満たされた液体内を肺や心臓や消化管が浮遊している。透明な壷には、生存に必要な最小限の臓器だけが収まっていた。

 捕虜となって帝都に届けられたテロッサ王を、アンザムメリクはイスメニアスに命じて改造させたのだ。体を失い動くことも喋ることも出来ぬまま、テロッサ王は生けるオブジェとしてアンザムメリクのそばに飾られる。少なくとも彼が飽きるまでは。これが、彼をお漏らし皇帝と呼んだテロッサ王への報復だった。

 この広場に、丞相兼宮廷魔術士イスメニアスの姿はない。

 岩山の上から低く深い鐘の音が響き渡った。帝都全体に届きそうな大音量で、一回、二回、三回。

 正午を告げる鐘だった。

 アンザムメリクが頷くと、真向かいに当たる兵士達の壁が開いた。開いた道から中央のフィールドへ、数百人の男達が入場する。いずれも中年から初老に近い年齢だが、一般人にしては鍛えられた肉体をしている。

 使い込まれた軽装の防具を着け、思い思いの剣や槍を握った彼らは、ディンゴ直属である山賊部隊の兵士達だった。

 彼らもフィロスの噂は聞いているだろう。数十年の鍛練で培った感覚は、相手の力量をある程度感じ取っていたかも知れない。それでも彼らは恐怖を強靭な意志の力で抑え込み、固い覚悟を瞳の底に沈めていた。

 フィロスはまだどんな動きも見せていない。ただ、その薄く広い唇が、ヒク、ヒク、と、痙攣するように踊っている。

 まるで、何かを我慢しているように。

「始めよ」

 皇帝アンザムメリクは深く息を吸い、上滑りする威厳を込めてその言葉を吐き出した。死の緊張で静まり返った広場に、小男の声は意外に大きく響いた。

 声と同時に、山賊部隊の男達はフィロスへ突進しようとした。

 彼らのその勇気ある一歩が、地面を踏むことはなかった。

「ヒャハッ」

 甲高い叫び声はフィロスの発したものだ。無表情だったフィロスの口が大きく歪みめくれ、両端が耳の辺りまで吊り上がった悪魔じみた笑みを作り上げた。それはほんの一瞬で、すぐ無表情に戻る。

 スダドドドドボデ、と、鈍い音を立てて落ちたのは大量の肉片だった。

 フィールドを囲む皇帝直属兵達が恐怖のどよめきを上げた。その場に尻餅をついて動けなくなる者もいる。

 山賊部隊数百名は、一人残らず、バラバラに引き裂かれた肉の塊と化していた。それぞれが最低でも二十以上の部品に分解されていただろう。広がっていく血溜まりの中に、武器を握ったままの手首が、太股が、上腕が、前腕部が、生首が、胸部が、くり抜かれた腹部が、面のように削り取られた顔が、帽子を脱いだように上三分の一の頭蓋骨だけを剥ぎ取られた頭が、立方体に刻まれた胴体が、分解された眼球の破片が、メチャクチャに、散らばっていた。

 分解された男達の死に顔の中で、比較的原型を留めているものは、何故か満足げな微笑を浮かべていた。

 フィロスの真紅のマントが揺れている。その奥から飛び出して怒涛のように男達を呑み込み、あっという間に戻っていった無数の銀光を、どれだけの者が視認出来たろうか。一般人には何も見えなかったろう。Cクラスにも見えた者は殆どいなかったろう。Bクラスならなんとか見えたかも知れない。だが、その銀色の波にどうやって対抗するというのか。戦士達の顔は血の気を失っていた。

 めくれたマントの間から、太さ二ミリほどの針金が一本、伸びている。それは上に向かい、フィロスの顔の前で静止していた。

 針金の先端には、十二センチほどの、勾玉に似た鉤型の刃がついていた。銀色の刃は新しい血で濡れている。

 フィロスが薄い唇を開き、細く尖った舌を出した。

 針金がくねるように動き、鉤形の刃が舌の上に移動する。切っ先から血の滴が、ポタリ、と、フィロスの舌に落ちた。

 フィロスは無表情に舌を引き戻した。血の味を味わうように、ゆっくりと顎を動かしている。

「物足りぬな」

 やがて、低く粘質な声音で、フィロスは呟いた。

 刃のついた針金がマントの中へ引き戻されていく。その時、一陣の強い風が真紅のマントを翻し、その中身を皆の凍りついた視線に晒すこととなった。

 フィロスの痩せた上半身を、銀色に煌めく金属片が鱗のように覆っていた。それぞれの金属片は微妙に形状が異なり、鉤型のものからダガーのように細長いもの、星型をしたもの、鎌状のもの、三叉になったものなど、様々なものが隙間なく、数百は並んでいただろうか。

 それらは、まだ新しい血で染まっていた。

 針金が右胸辺りに引き込まれていく。鉤型の刃がカキリと音をさせて浅い窪みに完全に嵌まってしまい、無数の金属片に仲間入りした。

 彼は細いワイヤーで繋がった無数の刃を、鎧のように胴体に張りつけて確保しているのだ。それが、男達を容赦なく引き裂き、恐るべきスピードで解体してのけたものの正体だった。そういう仕組みの道具ではない。針金も無数の刃も、殺戮のために変質させた彼自身の肉体なのだ。

 フィロスのもう一つの綽名、『千の刃のフィロス』の由来だった。

 異様な形態の胴と違い、病人のように細い手足は人間のものだ。赤いズボンを履いた腰にはサーベルと、湾曲した刃が三方向に分枝した奇妙な剣が下がっていた。

 フィロスの衣服が赤いのは、好んで浴びてきた返り血のためだった。彼のズボンを伝って落ちた鮮血が、足元の赤い煉瓦に染み込んでいく。

「お……おおお……おおおおお……」

 壇上のアンザムメリクが立ち上がり、うわ言のような呻き声を洩らした。彼の瞳の奥に、恐怖は間違いなく存在した。

 だが、それを上回るのは、圧倒的な、歓喜だった。

「す……素晴らしい。素晴らしいぞ、フィロス。素晴らしい」

 皇帝を魅了したのは、フィロスの見せた超絶的な力だけでなく、一片の容赦もない、いや逆に殺戮そのものを愛するその異常性であったのだろう。アンザムメリクがこれまで関わってきた、強さを求めながらも独自の美学を貫く『美しい』カイスト達とは異なり、フィロスはただ破壊と殺戮に飢えた深い闇であった。その闇に、アンザムメリクの心の闇が共鳴したのだ。

 涎を垂らしながら皇帝は言った。

「フィロスよ。今の虐殺など、お前にとっては前菜にもならぬのだろうな」

 多くのカイストは、フィロスが無反応であることを予想しただろう。皇帝といえどもたかが一般人、全く歯応えのない最弱の獲物を相手に、『八つ裂き王』が返事をするなど。

 しかし、フィロスは首だけで少し振り返り、大きな右の目で壇上の皇帝を見上げた。

「一口分の水にも足りぬな」

 フィロスの不遜さを皇帝は咎めもせず、逆に笑い声を上げた。

「ははははは。そうか。そうか。この歴史ある帝国を丸ごと滅ぼし尽くすのも、たやすいのだろうな」

「広さによる」

 首だけ振り向いた姿勢のままでフィロスは冷静に答える。

「この国の領土がどれほどか知らぬが、サマルータ程度の広さなら、まあ、七日あれば住民を皆殺しに出来よう」

「……ふふ、ははははは。ならば朕を殺すのも簡単だな。名も価値もなき大勢のクズ共と一緒くたに、小虫でも潰すようにあっさりと殺せるだろう。ははは」

 アンザムメリクの言葉に護衛のカイスト二人は眉をひそめた。フィロスを刺激するなと言いたかったのか、それとも、皇帝に宿る狂気に今更気づいたのか。

「そうだが、そなたには特別に手間をかけても良いぞ。千分割、いや、十万分割してやろう。その時まで、我が覚えていれば」

「ははは、それはいい。だが、なるべく朕は最後にして欲しいものだな。朕の先祖達が三千八百年もかけて積み上げてきたこの帝国が、無人の荒野となるところをこの目で見たいものだ。ははは。ははははは」

 皇帝の自虐的な狂笑は、静まり返った広場に響き渡った。

「どきなよ」

 兵士達の壁の向こうから太い声が発せられ、アンザムメリクも笑うのをやめた。フィロスを前に震えていた兵士達が、慌てて左右に退く。彼らの顔に一抹の希望が湧いたのを認め、フィロスの薄い唇が微笑を浮かべる。

 コツ、コツ、と、硬い金属が煉瓦を打つ音が近づいてきた。

 血肉の海が出来たフィールドに新しい参加者が入場する。元帝国白銀将軍でありBクラス上級の戦士、ディンゴ。

 彼は長袖の丸首シャツを着ていた。左袖を肘までまくり上げ、そこから先の義手は鉤状の分枝がついた剣になっている。右の義足は金属棒の先端に、二本の逆棘がついていた。

 広場に散らばる元部下達の残骸を見ても、ディンゴは一文字に唇を引き結び、表情を変えなかった。

 ただ彼は、感情を押し殺した低い声音で告げた。

「五百二十六人」

「何」

 フィロスが首を戻し、無表情に聞き返す。

「今お前が殺した男達の人数さ。こいつらは、俺の部下だった」

 ディンゴは言った。

「三十年近く、俺についてきた。お前の技を俺に見せるために、自分から捨て石に志願してきた。一騎討ちに手出ししちまってな、その失点を、どうしても取り返したかったんだと。……どうだったかい。一つしかねえ命を捨てて挑んだ、『覚悟』の味は」

「特に感想はないな」

 フィロスは即答した。

「何を思っていようと、肉には変わりがない」

「……そうかい。感想はなしか。ふうん。……なら、俺は全身全霊を懸けて、お前をぶち殺さなきゃならなくなった」

 ディンゴが野獣のように鼻梁に皺を寄せ、歯を剥き出した。

 フィロスは格下の殺気を風と流し、軽く嘆息した。

「我の前でもその手のたわ言を吐く者は多い。全員、細切れ肉にしてやったがな。そなたがその手の輩より、少しはましなことを祈っておるぞ」

 ディンゴは何も言わなかった。

 壇上のアンザムメリクが憎々しげに声をかけた。

「ディンゴ。手塩にかけた部下達への愛情は、実に美しいな。いやはや、美し過ぎて……反吐が出るわっ」

 皇帝の罵倒に、ディンゴは軽く剣の義手を上げて挨拶を返す。

「ディンゴよ。まさかとは思うが、利き腕がないために敗れたなどと、言い訳するつもりではなかろうな」

 ディンゴは左の口角を吊り上げて得意の笑みを浮かべた。

「安心しなよ、アンザムメリク。俺の利き腕はちゃんと残ってる。元々四本あったんでな。右腕と左腕、右足と左足ってな」

 ディンゴの台詞を冗談と思ったのか、アンザムメリクは短躯を仰け反らせ大声で笑った。フィロスは黙って、はみ出した目で正面の獲物を見つめている。

「散らかったゴミを片づけよ。次の処刑を始める」

 皇帝が命じると、山賊部隊の死骸を除去すべく魔術士らしいカイストが動き出す。それをディンゴが止めた。

「いや、このままでいい。こいつらにも見せてやりたいからな」

「お前の死にざまをか。はは。まあ良いわ」

 アンザムメリクは手を振って魔術士を下がらせ、続けて命じた。

「こやつの片割れを出せ」

 兵士達の壁が再び開き、Bクラスの戦士に連れられてキルマが入場した。

 キルマはいつもの黒いロングコートを着ていた。右腕は義手でなく一メートル長の十文字槍で、ちょっと屈むと穂先が地面についてしまいそうだ。左足は黒いブーツで見かけ上右足と変わらないが、歩く動作が僅かにぎこちない。フィロスがそれに気づかぬ筈はないだろう。

 片目の射手・サンタタが、キルマの首に巻かれていたベルトを外した。我力使用を抑制する魔術的拘束器。

 サンタタが差し出した愛用の大鎌を左手で受け取って、キルマはディンゴの横に並んだ。

 表情の作りようがない白い髑髏の顔。瞼のない眼窩に収まった二つの目が、真っ直ぐにフィロスを見据えていた。

 二人の戦士と『八つ裂き王』は六十メートルの距離で向かい合う。まだ遠いが、カイストにとっては一瞬で殺し合える距離だ。

「柄を長く持ってとにかく振り回せ。速いほど曲げやすいからな」

 キルマにしか聞こえない小声でディンゴは告げた。高速移動する物体の軌道を曲げる、彼の特殊能力のことだ。

 キルマは無言で頷いてから、ふと背後を振り向いた。フィロスも気づいたようで、そちらに視線を向ける。

 整列する兵士達の中から、一人が勝手に進み出て、フィールドに入ってきた。槍を捨て、兜も脱ぎ捨てる。平凡な顔立ちの若い男だった。

 兵士達が声を上げたのは、その顔が白い靄に覆われたと見えた次の瞬間、黒い蜥蜴に似た不気味なものに変わっていたためだ。

 皮膚は黒い鱗に覆われ、額には五本の角が並んでいる。大きく裂けた口から太い牙がはみ出し、頭頂部から首の後ろまで黒髪が細い筋となって揺れていた。まるでたてがみのように。

「ベイオニール・トラサムスか。とうに消え去ったと思っていたが、なんとかまだAクラスにぶら下がっておるようだな」

 フィロスが言った。彼が名前を覚えていたということは、相手にそれなりの価値を認めているのだろう。

 『竜人』または『乗り手より強い馬』と呼ばれるベイオニール・トラサムスは、鎧も全て脱ぎ捨ててしまい肉体の変形を始めていた。胴が膨れ首が伸び顔が突き出し、手足が細く長くなる。

 黒馬ベオニールが、そこにいた。

 ディンゴがやや不満げに聞いた。

「こいつも参加したがってるようだが、そっちは問題ないかい」

 フィロスは大きな目を僅かに細めてみせた。どうやらそれは、愉悦であるらしい。

「問題ない。腐ってもAクラス、つまらぬ戦いも少しはましになるだろう。正直なところ、ここにおる全員が相手でも構わぬが」

 屈辱的な台詞だったが、その場にいたカイスト達に怒りはない。真実だと知っているからだ。

 ベオニールがキルマのそばに寄った。乗馬と乗り手の目が合い、キルマは何も言わずベオニールに飛び乗った。ディンゴは不満そうに、同時にちょっと羨ましそうにキルマを見上げる。

「短時間で決めろ。長くは持たねえぞ」

 キルマに言った後、ディンゴは右手を左腰の剣に伸ばし、ゆっくりと、引き抜いていった。昨夜皇城の地下牢でキルマを斬ったものとは違う。両刃の直剣は光を反射せぬ漆黒で、見かけだけでなく自然に滲む存在感に、熟練のカイストなら我力強化品だと察しがつくだろう。それも、相当の高レベル強化だ。

「こんなもんを使って恥ずかしいが、格下が挑む集団戦として、ご容赦頂きたいね。いずれそれだけの力を身につけたら、正当にタイマン勝負を申し込むつもりだ。それまで待ってくれや」

「構わぬ。もっとハンデを与えたいくらいだ」

 フィロスは平然と返す。

「……。そういえば、俺の部下達を殺した時、あんたは一歩も動いてなかったな」

「それがどうかしたか」

「俺達を相手にしても、一歩も動かずにいられるかい」

 フィロスの唇が珍しく、苦笑を作った。

「安い挑発だ。しかし、我は敢えて乗ってやろう。この戦いで、我は一歩も動かぬと約束する。そなたらが逃げぬ限りはな」

「ありがたいねえ。自分でどんどんハードルを下げて下さる」

「正直、動く必要がないのだ。我の『ブレード・エリア』を知らぬ訳でもあるまい」

 フィロスを知る者なら大概は『ブレード・エリア』のことも知っているだろう。フィロスの本来の二本の腕が操る剣の間合い……彼を中心とした径約三メートルほどの空間内では、あらゆる術が通用しないのだ。正確には、あらゆる術を、フィロスが剣で切り落とす、ということになるか。不可視の呪術も液体気体の散布攻撃も、間合いに入ってしまえばフィロスの目には刃として見えるのだという。そのためフィロスは基本的に、移動して躱す必要がないのだった。

「知ってるさ」

 ディンゴは素っ気なく言い、壇上の皇帝に顔を向けた。

「話ばかりしててもしょうがねえしな。そろそろ始めの号令かけてくれや、アンザムメリク」

 不遜な台詞を投げられ、アンザムメリクはこめかみに青筋を浮かべたが、すぐに異様な笑みを湛えて高らかに殺戮ショーの開始を告げた。

「では、始めよ」

「ところでフィロス、一つ言っていいか」

 アンザムメリクの声にディンゴの声が重なった。フィロスはタイミングを外され、不機嫌に問い返す。

「何だ」

 そしてディンゴは、『八つ裂き王』フィロスに対し、歴史に永遠に記録されることになる台詞を吐いたのだ。

「ばーか」

 その一言で、フィロスの瞳が真紅に染まった。いや、血の色は白目部分にまで枝を広げていく。

「クッ」

 キルマは髑髏の顔で、短く低い笑い声を洩らした。

 フィロスの薄い唇が、その口角がどんどん吊り上がっていき、そして派手にめくれ上がった。

「ヒャハーッ死ねええっ」

 甲高い狂気の叫び。殺戮欲の奔出。瞬間、銀の光が爆ぜた。

 フィロスのマントが開き、本体と針金で繋がる無数の刃が怒涛となって飛び出してきた。刃の群れは百メートル角のフィールド一杯に広がりながら、獲物を八つ裂きにせんと迫る。隙間ない刃の来襲をどうやって防ぎ得るのか。

 ディンゴがいつもの強烈な笑みを浮かべ、左足で地面を強く踏みつけた。広場に敷き詰められた赤煉瓦と土砂が猛烈な勢いで巻き上がり、瞬時に視界を覆い尽くしてしまう。喋っていた間に足裏を通して地中に移しておいた『気』のエネルギーを、一気に爆発させたのだ。

 フィロスが眉をひそめた。百億年以上も殺し合いを続けてきた彼に、煙幕など意味を成さない。光が遮られれば耳を澄ませ、皮膚感覚を使い、気配と殺気を感じ取る。だがこの土埃の煙幕は対戦相手の存在を完全に消してしまっていた。広場の赤煉瓦と土砂は、そのためにイスメニアスが調整強化したものだった。フィロスだけに有効なように。一晩で可能な業ではあるまい。何十年、何百年もかけて練り上げたものに、最後の仕上げとして対象指定を行ったということか。

 五感を制限されても尚、フィロスには膨大な歳月で培った勘があった。土埃の煙幕の中、刃の半数をフィールド上の一点に殺到させる。

「死ね死ね死ねっ」

 ガギギギギ、と硬い響きが針金を介して伝わってきた。

 フィロスは驚愕に目を見開き、叫びを一瞬止めた。必殺の刃が格下に防がれた事実よりも、無数の刃が勝手に逸れていく異様な感触のためであったろう。相手は我力強化した防具を着込んでいる。だがそれだけでなく、何割かは武器によって弾かれたのだ。真紅の瞳に滲むのはある種の感動と、それに千倍する悦楽。

「面白いな」

 呟く間に、猛速で何かが近づいてくる。気配ではなく、フィールド内に張り巡らせた無数の刃が落とされる感触でフィロスはそれを知る。

 空中から急角度で降下してくる。おそらく土埃が撒き上がると同時に高く跳んでいたのだろう。凄まじい加速はベオニールの脚力故だ。

 フィロスはまだ腰の剣に手を伸ばさない。胴から生えた無数の針金はワシャワシャと蠢き、煙幕内の敵を求めている。彼を中心とした直径三メートル強の範囲は、『ブレード・エリア』の効果か土埃が舞っていない。つまり、フィロスを囲む煙幕の壁から何かが顔を出せば、それは即フィロスの剣の間合いということになる。

 最初に現れたのは炎だった。螺旋状に渦を巻いた赤い炎が広範囲にフィロスに降りかかる。口を開いたベオニールの鼻面が見えた。

 斜め上から吹きつけられた炎を、胴から生えた無数の針金は素早く左右へ寄って避けた。炎の舌が顔まで五十センチの距離に達した時、漸くフィロスの右手が動いた。左腰のサーベルを握り、上へ抜き放つ。なめらかで優雅にさえ見える動きだったが、それだけで炎は霧散していた。

 タイミングを計ったかのように土埃から現れたものがもう一つ。鋭い刃が左右にも突き出した十文字槍。

 フィロスは表情を変えず、差し上げたサーベルを軽くひねる。槍を狙ったというより、翻ったサーベルに槍が吸い込まれたようにも見えた。穂の接合部から十センチほどの場所で、スルリと柄が断ち切られた。十文字の刃が回転しながら宙を跳ねる。

 ベオニールの鼻面は『ブレード・エリア』に入ってこず、急降下のスピードをそのままにフィロスの左方へと方向転換する。フィロスの間合いぎりぎりを掠めるように黒い馬体が見えた。既に無数の浮遊刃で刻まれ、血みどろとなっている。『ブレード・エリア』の外でも致死的な空間なのは変わらない。

 その時、フィロスが一歩でも踏み込んでサーベルを振り下ろしていれば、ベオニールの胴は真っ二つとなって勝負は決まっていたかも知れない。しかしフィロスは宣言通り足を動かさず、ベオニールの戦術もそれを見越したものだった。

 フィロスの右方から黒い凶器が滑ってくる。湾曲した分厚い鉄板は、キルマの得物である大鎌だ。まだ柄を握る左手は隠れているが、ベオニールの脚力にキルマの瞬発力を乗せ、フィロスの胴を割るべく最高の速度を発揮していた。

 フィロスは避けもしなかった。再びサーベルが踊り、刃のない分厚い刃とぶつかり合う。高い音が弾け、欠片が飛んだ。欠けたのはサーベルではなく、大鎌の方だった。上に弾かれ大幅に勢いを殺され、大鎌はフィロスの頭上を過ぎていく。

 左右に張り出したフィロスの眼球。右の目は通り過ぎる大鎌を見届けながら、左の目が黒い柄の根元側を睨んでいた。柄を握っている筈のキルマの左手は、まだ煙幕に隠れている。極端に石突側を持っているようだ。

 そのキルマの指が見えたかどうかという瞬間、フィロスのサーベルが閃いた。美しい切断面を晒して飛んだのは、キルマの左手人差し指だ。第二関節で断ち切られて宙に浮いたそれを、胴から新たに遊離させた針金つきの刃二枚が、第一関節をうまく切断し、分かれた部品それぞれを縦に割り、更には丁寧に爪を剥がしてしまった。『八つ裂き王』の余裕たっぷりな手すさび。

 苦鳴を呑み込んだかそれとも煙幕に消されたか、声もなく大鎌は引き戻されていく。そしてフィロスは独りに戻った。

 戦闘開始からここまで二秒。土埃の煙幕効果は少しずつ薄れているようだが、張り巡らせた無数の針金と刃に、騎馬が引っ掛からないため正確な位置が掴めない。最初に刃の殺到を弾いたのはディンゴと思われたが、こちらの位置も分からなくなっていた。ただ、刃の向きが逸らされる感覚がフィロスの胴に伝わっていた。それも全ての刃がメチャクチャに逸らされるため、相手の位置を推測することが難しい。

 相手は地中に潜ったか、フィールドの外に出ている可能性があった。一般人の兵が囲む百メートル角がフィールドであるが、そこから出てはならないという取り決めはない。自主的にフィロスが動かぬと宣言しているだけだ。

 そしてフィロスは、敵を殺すための最適な行動に移った。

「ヒャハッ」

 ねじれた狂笑と共にフィロスの胴が爆ぜた。半分ほど残していた刃も総動員させ、フィールドをはみ出して無差別攻撃を始めたのだ。

「ちょっ」

「おわっげっ」

 Cクラス達の悲鳴。広場にいる兵士達を鎧ごと裂き、腕や足や首を狂乱の刃が切り落としていく。一般人にとっては試合開始した途端に土埃に見舞われ、咳き込み始めた時には自分の体も解体されていたという訳だ。

「死ね死ね死ね、死ね死ね死ね死ね」

 呪詛の叫びは圧縮音声であったため、一般人には聞き取れなかっただろう。彼らはただ、何も分からずに死んでいった。

 フィロスのこの暴挙については後に、検証士が回収した映像を基にして様々なカイストが勝手なことを言っている。意外にも、フィロスを責める意見は少なかった。戦闘に他人を巻き込まないと明言はしていないし、何よりフィロスとはそういう男であったからだ。我力強化した特殊な煙幕を使い、フィロスに無差別殺戮を促したとして、槍玉に上げられたのはディンゴとイスメニアスだった。特に錬金術士のイスメニアスは、そうなることが分かっていて敢えて作戦を選んだ節がある。少しでも勝率を上げるために。それがサマルータの住民を守るためであったという大義名分により、総体として彼らは非難を免れることになった。

「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」

 どんどんどんどん人が死ぬ。血と肉片が広場を踊る。足を切られ、這い逃げるCクラスの首が切断される。アンザムメリクの両脇にいた二人のBクラスが慌てて対応しようとするが、怒涛の銀光に呑み込まれてやはりバラバラになる。刃の一枚をなんとか防いだとしても、それでフィロスに位置を知られてしまいすぐに無数の刃が殺到してくるのだ。アンザムメリクは何が起こったのか分からずにまだキョトンとしている。足元のテロッサ王は壷ごと七枚にスライスされて、長く続きそうだった苦痛に終止符を打った。アンザムメリクに向かった刃が弾かれた。結界士が強力な防御結界で皇帝だけを包んでいたのだ。しかしフィロスが本気になれば数秒と持たないだろう。

「ヒャハーッ、死ね死ね死ね死ね死ね死ねえっ。キャハッ、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」

 『千の刃のフィロス』とは、かなり控え目な綽名であった。彼の持つ刃は一万を軽く超えていたからだ。

 隊列に紛れていた片目の射手サンタタが、つがえた矢をフィロスへと向けた。次の瞬間、押し寄せた刃によって百個の肉片に分解される。死を覚悟して放った矢はディンゴの力によって軌道が修整され、正確にフィロスへ向かった。しかし煙幕を突き抜けフィロスの前に現れた矢は、充分な余裕を持ってサーベルで叩き落とされた。鏃に塗られていた錬金術士の毒が、『ブレード・エリア』でフィロスにどう見えていたかは分からないが、刺さらなければ結局意味はない。

「死ね死ね死ね死ね、死ねえええキャハーアアアアアアッ」

 フィロスの赤く染まった目は殺戮に酔い、眼裂から実際に血を滲ませていた。

「いい加減にしろよ、てめえ……」

 薄れかけた煙幕の中から声がした。フィロスのほんの数メートル先で。ディンゴはなんとか刃をかいくぐり、ここまで近づいていたのだ。

 間髪入れずにフィロスの刃達が飛んだ。軌道を曲げられていることを理解したらしく、数十本の針金を絡め合わせて干渉を受け辛くした太い槍が土埃の中へ吸い込まれる。ドギュリ、と異様な音が伝わってきた。ディンゴが服の下に着けていた強化品の鎖帷子を刃の槍が破り、肉を貫いたのだ。

 深手の感触に笑みを浮かべ、フィロスは近くに浮遊させていた数百枚の刃をディンゴに集めようとした。これで一人の死が決定される。だがフィロスの笑みが凍った。

 胴を貫いた刃と針金の槍が、引っ張られている。

 槍は内臓のどれかを破壊して背中まで貫通した筈だ。その槍をディンゴが掴み、力任せに引っ張っているのだ。フィロスは姿勢を崩し慌てる。一歩も動かぬ約束をしたから耐えねばならなかった。しかしフィロスの得意は殺戮であり、その場に踏ん張ることではない。サーベルを前の地面についてなんとか倒れるのを防ぎつつ、刃を殺到させてディンゴの早急な分解を図る。

「死ねっ」

 その時、右側面からベオニールが飛び込んできたのだ。体中傷だらけで鮮血を散らしながら。フィロスは不利な姿勢から左手で三叉の剣を抜いた。重い一閃でベオニールの腹が破裂した。それが致命傷にならなかったのは、ベオニールが間合いに入ってすぐ上に跳んで離脱したのと、地面すれすれをキルマが足から滑り込んできたためだった。キルマはベオニールから降りていたのだ。

 キルマも鎖帷子を着込んでいただろうが、既に全身血みどろだった。傷だらけの髑髏顔がフィロスを冷たく見上げている。左手の大鎌がフィロスの右腰へ浮き上がってくる。引っ張る力が弱まったためフィロスは地面からサーベルを抜いて鎌を防ぎ、上体をひねって左の三叉剣をキルマに振り下ろした。

「死ねヒャハッ」

 ガギリッ、と、硬い音を立てて剣を止めたのは、キルマが立てた左膝だった。ねじれた刃が半ばまで食い込んでいたが、ブーツの中はイスメニアスが用意した義足だ。そのブーツの底を破って細い刃が飛び出してきた。咄嗟にサーベルで弾いたものの、怪物フィロスにもそれが限度だった。時間差で射出されたもう二本のうち片方が、フィロスの胴を掠ったのだ。

 義足内の射出機構は魔術でなく、我力強化されたバネ仕掛けだった。そして刃には毒が塗られていた。十文字槍の方に毒も仕掛けもなかったのは、ほんの僅かにでもフィロスに油断を生じさせるための布石だった。

「ぬっ」

 流石にフィロスが呻いた。キルマは追撃する余裕もなく横に転がって、殺到する数百の刃を避けた。刃の多くがディンゴの力で方向を逸らしたが、何割かはキルマの肉を削り、槍の柄のついていた右腕が付け根部分で切断された。鎌を握る左腕を庇ったためだ。

 土埃が収まりつつあった。一般人の目にも視界が改善し、戦場の様子が露わになっていく。

 広場は死体で埋まっていた。煉瓦は散乱し、数万の皇帝直属兵の八割以上がバラバラ死体になり、生き残った者達は呆然と立ち竦んでいた。

 ディンゴは全身を血に染めて、フィロスの五メートル前に立っていた。その左腹部に径二十センチほどの風穴が開いている。脾臓と左の腎臓、大小腸の一部が吹っ飛んだ筈だ。剣だった左腕の義手はボロボロに欠け、針金の束を引っ張っていたであろう右腕は切り刻まれて骨が見えていた。血塗れの顔を苦痛に歪め、なんとか立っているという有り様だ。

 同じく血塗れのキルマは、ベオニールに再び跨ってディンゴの右後方にいた。ベオニールの裂けた腹からボダボダと血が流れているが、腸ははみ出していない。キルマはちぎれた右腕断面からの血が止まらず、今も断続的に血を噴いている。

 『八つ裂き王』フィロスは、宣言通り、一歩も動かずにいた。

 全ての刃を送り出したフィロスの胴は、太さ二十センチほどのビニールチューブのような代物だった。半透明の被膜の奥に背骨や心臓やその他の臓器がコンパクトに詰まっている。皮膚も肉も肋骨も存在せず、肩甲骨と鎖骨が両腕を支えている。無数の針金は背骨から密集して生えていた。

 デリケートな被膜が破れ、暗赤色の血液が流れ出していた。一万数千の刃を支えていた針金群が小刻みに震えている。錬金術士の毒は、フィロスの『ブレード・エリア』内でどんな効果を及ぼしたか。

「な、何じゃ。どうなった」

 壇上の皇帝アンザムメリクが喚いている。仲間外れにされ、ゲームのルールを教えてもらえなかった子供のように。

 フィロスの柔らかな胴から、一万数千本の針金が抜け落ちた。同数の血塗れの刃が汚れた地面にぶつかり湿った音を立てる。毒によるダメージがそのような形に変換されたのか。

「来るが良い。それとも、我の間合いの外から矢でも射かけるか」

 苦痛を無表情で隠し、フィロスが挑発した。彼の武器は右手のサーベルと、左手の三叉の剣だけとなった。

 ディンゴは歩み寄りはしなかった。実際のところ、はた目からも、一歩も歩けそうには見えなかった。ただ、彼は血みどろの右手をプルプル震わせて、腰の鞘に収めていた黒刃の剣を抜き、ゆっくりと、振りかぶる。

「これ、で……さい、ご……ゴフッ」

 血の混じった息を吐きながら、ディンゴは剣を投げつけた。ブヂブヂ、と筋肉と靭帯の切れる音がして、彼の右腕が肘部分でちぎれ落ちた。

 残った力を振り絞った投擲。しかし、フィロスが防ぐまでもなかった。黒い剣はギュルギュルと縦回転しながらフィロスの二メートル上を過ぎていった。

 ベオニールが静かに駆け出した。馬上のキルマは黒い大鎌をほぼ水平に差し上げている。それを握る左手は傷だらけで、人差し指も失っているため微妙にコントロールが甘くなるだろう。しかし瞼のない瞳に迷いはなかった。前頭骨のヒビから血が滲んで左目に入り込んでも、キルマは揺るがずフィロスを見つめていた。

 フィロスの頭上を通り過ぎたディンゴの黒い剣が、回転しながら戻ってくる。軌道を曲げるディンゴの能力だ。縦回転が水平回転になり、背後から迫る直剣に、フィロスは気づいているだろう。気づいていない筈がない。

 固唾を呑んで見守る兵士達の間から、一際大きな銃声が発せられた。皇帝を含めて多くの者がビクリと身を竦ませたが、戦士達の動きに停滞はない。

 フィロスの首を刎ねるべく、横殴りに振られた長柄の大鎌。

 それを迎撃すべく、フィロスが大きく差し上げた右のサーベルと左の三叉剣。

 ディンゴにコントロールされ、フィロスの背後から襲う黒い直剣。

 瞬間、フィロスが上げた声は狂笑の「ヒャ」のようでもあったし、「ヒュッ」という気合いの吐息のようでもあった。

 ガギュリッ、と、金属のぶつかり合う音が広場に響いた。

 激突したのはキルマの大鎌と、ディンゴの直剣だった。

 その真上をフィロスの首が飛んでいた。二つの刃に挟まれて切断された首。『八つ裂き王』『千の刃のフィロス』『皆殺しのフィロス』と呼ばれる怪物の首が、暗赤色の血を撒き散らしながら、水平回転して高く、高く上がっていく。遠心力で歪められたか、フィロスの不吉な異相は笑っているようにも見えた。

 騎馬がそのまま駆け抜けた後で、首を失ったフィロスの胴が、その場にクタリと崩れ落ちた。死しても尚、フィロスは二刀を離さず、地面からも足を離さなかった。

 キルマの大鎌に食い込んでいた黒い直剣が落ち、地面にサクリと突き刺さった。

 キルマの左脇に、大きな傷が開いていた。鎖帷子をあっけなくぶち破り、肋骨を六本と肺をズタズタに裂いたその傷は、フィロスの三叉剣がつけたものだ。本来は、ディンゴの軌道操作を受けても、大鎌の到達より先にキルマの心臓を抉り抜く筈だった。

 それを妨害したのは、我力強化を施された三十二発の散弾だった。

 兵士達を押し分けて後方から長身の男が現れ、ディンゴに歩み寄った。

「アリ……エ……」

 目だけ動かしてそちらを見、ディンゴが弱々しく呟く。彼の右目は刃によって縦に割られていた。

「はい。兵達の家族をラ・テロッサに送り届けて待機してましたが、フィロスの来訪を聞いたものですから。ガルーサ・ネットの高速移動サービスを使って私だけ帝都に入りました。この高価なオモチャはイスメニアスが貸してくれましたよ」

 将軍であった時のディンゴの副将・アリエだった。色白の優男はフィールドから目一杯距離を取っていたらしく、傷一つ負っていない。彼は単発の散弾銃を片手でクルクル回して弄び、適当に放り捨てた。発射機構から火薬、弾丸に至るまで強化された高級品。ただし、カイストの戦士にとっては恥知らずな武器だ。

「大丈夫ですよ。別にルール違反ではありません。無差別攻撃を始めたのはフィロスで、私は自分の身を守るために引き金を引いた。それだけです。剣士として、こんなのを戦績にしたくありませんしね」

 発射された散弾の軌道を曲げ、別々の方向から時間差を加えつつフィロスへ当てたのはディンゴだった。実際に命中したのは二発だけだが、フィロスの集中力を幾分でも削ぐことは出来た筈だ。

 ディンゴは何か言いたげだったが、もう声を出す余裕もないようだった。にこやかにアリエが続ける。

「このままあなたが死んだら相討ち扱いになりますかね。多対一で勝っても嬉しくないでしょうから、いいんじゃないですか。義理と人情も果たせそうですしね」

 それでディンゴは血塗れの口元を曲げ、いつもの笑みを浮かべた。

「これは……敗れたのか。フィロスが。フィロスが」

 首を失って血溜まりに伏す真紅のフィロスを見つめ、壇上のアンザムメリクが呆然と声を洩らした。

 停止していたベオニールが、再び歩き出した。大量の血を零しながら、キルマもまた左手で大鎌を握り直す。

 アンザムメリクの周囲に、守ってくれる生者はいなかった。皇帝の壇は血肉の海にポツンと立っていた。

「これが、強者の死か。ならば……ならば、次は、朕の番か」

 迫る死を実感し、アンザムメリクの顔が泣きそうに歪んだ。それは更にグニャグニャとねじれて笑みへと変わる。不安と恐怖と絶望、怒りと憎悪と歓喜が入り混じった異様な感情の発露。

「ははははは。は……」

 アンザムメリクは道化らしく胸を張り、高らかに狂った笑い声を上げた。

 ベオニールが跳んだ。常人であるアンザムメリクには、自分の首を切る鎌を見ることが出来なかっただろう。きっと、見たかっただろうに。

 我力を乗せた大鎌は、疲弊した不可視の防御結界をぶち抜いて、バザム神聖帝国第百七十四代皇帝アンザムメリクの首を切り飛ばしていた。

 壇上から転がり落ちる元雇い主の生首を、ディンゴの左目は、特に感情も浮かべず見守っていた。

 力を使い果たしたように、ディンゴの膝がカクンと落ちて、アリエに支えられた。

 皇帝の死に、生き残りの兵士達は恐慌を起こした。カイストの戦士達は放心していて動く気力もないようだ。ベオニールが広場の端に馬首を向け、キルマも少し遅れてそちらを見た。

 丞相兼宮廷魔術士、そしてBクラスの錬金術士であるイスメニアスが立っていた。左脇に抱えているのは回収したばかりのフィロスの生首だ。前髪の垂れた貧相な顔は、今、とろけるような悦楽に緩んでいる。

 イスメニアスの隣に、ルナンがいた。肩を震わせ殺戮場の恐怖に耐えながら、少女はキルマを待っていた。

「返してもらうぞ」

 兵士達の間を進むベオニールの馬上で、キルマは言った。

「どうぞ」

 ルナンを置いてこちらに歩きながら、イスメニアスは言った。

 両者は何もせず、ただ、すれ違った。

 ベオニールは誰にも阻まれず、ルナンの前で止まった。

「キルマさん……こんな……」

 ルナンの瞳には安堵と不安が同居している。キルマが生き残ったという安堵。だが血塗れで今にも死にそうに見えるという不安。

「大丈夫だ。乗れ」

 キルマの言葉はいつも簡潔だった。大鎌の柄をベオニールが咥えてくれ、自由になった左手をキルマは差し伸べた。人差し指の欠けた、傷だらけの手。

 少女の顔が明るくなった。キルマの手を取ると、軽々と鞍に引き上げられる。

「良かった……」

 キルマの胸にすがりつき、少女は泣き始めた。

「良かった……良かった……」

 二人を乗せてベオニールが動き出した。空間を踏んで空中へ。高く、そして速く。守るべきワズトーへ帰るために。

 血の滴を零しながらベオニールが数百メートルの高度に達する。その姿を、仰向けに寝転がったディンゴが左目で見上げていた。

 キルマの髑髏の顔も、ディンゴを見下ろしていた。

 遠ざかっていくベオニールなど知らぬげに、イスメニアスは皇帝アンザムメリクの生首の前で膝をついていた。

「陛下。申し上げることが一つ、ございます。陛下がずっと疑問を抱いておられたことです」

 アンザムメリクの首は、開いた口から舌をはみ出させ、白目を剥いた不様な断末魔を晒して転がっている。イスメニアスはソロリ、ソロリと、囁くように、言葉を続けた。

「あの元服の儀につきましては、私は何の関与もしていません。つまり、あのご失禁は紛れもなく、陛下ご自身の緊張によるもので、ございます」

 死んだと思われていた生首が、グルリと黒目に戻った。血の気のない顔が少しだけ動き、何かを喋ろうとしている。声にならなかったが、イスメニアスは低く伏せて生首の口に耳を当てた。

 それは本当に、一般人に過ぎないアンザムメリクの、消えかけた脳機能の最期の一滴であったのだろう。すぐに生首は動かなくなり、見開いたままの目はゆっくりと、散瞳していった。

「ああ、素晴らしい」

 イスメニアスは嘆息した。

「実に、素晴らしい。その極まった感情の爆発。美味しい。実に美味しいです、陛下。美味しい美味しい。ウヘヘ、美味しい」

 イスメニアスは伏せたままアンザムメリクの生首を抱え、ペロペロとその死に顔を舐め始めた。美味しくてたまらないというように、夢中でペロペロと、ペロペロペロペロと。

 丞相の狂態を、生き残った者達はただ呆然と見守っていた。

 

 

  二

 

「ルナン、そっちの鍋が煮こぼれてるよっ」

 老いた養母の指摘にルナンは慌てて大鍋の取っ手を掴み、竈から離してテーブルの上に置いた。少し遅れて指に猛烈な熱さを感じる。火傷してしまったかも知れない。鍋掴みは用意してあったのに、馬鹿だなあとルナンは自分で思う。

 それでも落ち込んだりはしない。指の火傷なんてどうでも良いことだ。

 村長の屋敷の厨房は、大勢の宿泊客が来た時のためにかなりの広さがある。今は村の女性達が二十人以上も集まって、宴の準備に追われている。今日の食事は味気ないキリタではなく、帝国から贈られた、見たこともない黄金色の巨大な魚や、一房に多くの実がなった良い香りのする果物や、ベヘートという噂でしか知らなかった上等な牛の肉が五頭分など、数えきれぬほどの高級な食材であった。これらが運び込まれる時の村長のホクホク顔をルナンは覚えている。

 三日前、バザム神聖帝国の使者がワズトーを訪れて、和睦を提案する旨の親書を村長に渡した。新皇帝アルザメイノスからのものだった。

 ワズトーの村は帝国に併合される。ただし、ある程度の自治権が約束され、他国にワズトーが攻撃される場合を除いて帝国の軍隊が土地に入ってくることはない。この親書の内容は公式文書としてサマルータ全土に公開され、帝国の威信にかけても守られることになる。既に滅びた小国の一小村でしかないワズトーにとっては、願ってもない提案であった。村の有力者達で話し合った末、その夜のうちに条件を呑むことが決定された。村人達への告知は、広場に皆を集めて村長が行った。

 十四才のルナンにとっては不思議な感じがした。あれだけひどいことをやってきた帝国の一部に、ワズトーはなるのだ。新しい皇帝はテロッサ皆殺しを決めたアンザムメリクと違って聡明な仁君だという噂だし、喜ばしいことではあるのだろうけれど。

 あの皇城の地下牢を出る際に、ルナンはアルザメイノスを見た。牢内に本棚があって、大量の書物が収まっていた。知的な感じのするハンサムな青年だった。あの常にイライラしているような醜い顔の兄とは似ても似つかない。願わくは、その性質も兄と異なることを。

 キルマ以外のカイスト達は、村長が契約の終了を告げると、それぞれのつまらない報酬を受け取って出ていった。何故村長がこんなに急いで彼らを去らせたのか、ルナンには分からない。まさか今日の酒宴に参加させるのが勿体なかったという訳でもないだろうし。

 いや、実際のところ、村人達はカイストというものを嫌っているようだった。村を守るために命懸けで戦ってくれた彼らに、村人達が贈ったものといえばぎこちない愛想笑いだけだ。

「気にするな。俺達は目的のない凶器だ。すぐにまた新しい目的を探しに行くだけさ」

 ルナンが礼を言った時、『ボマー』アスラドーンはこんな台詞を残していった。それでもアスラドーンの顔は、少し嬉しそうに見えた。

 ルナンも、キルマに契約の終了を告げねばならない。だがそれは少なくとも、今夜の宴が終わってからでいい。ルナンはそう考えていた。別れを先延ばしにするように。

 キルマと出会ってから、まだ一ヶ月と少ししか経っていないのだ。

 そういえば奇妙なことがあった。ルナンは昨日の訪問者を思い出した。

 あの白銀将軍のディンゴが、一人でキルマに会いに来たのだ。

 キルマはベオニールに乗らず一人で、大鎌を持って村の外で出迎えた。ルナンはクレイとカートナーと一緒に、少し離れた場所から見守っていた。

「俺は今、ラ・テロッサにいるのさ」

 ディンゴの傷だらけの顔は右目が潰れていた。手足のうちまともに残っているのは左足だけで、右足は鉄の棒、両肘から先は太いフックになっている。不便だが、彼は気にしないだろう。

 対するキルマも片手片足だ。普通に歩いているから見かけでは気づかないが左足のブーツは義足だし、右腕は付け根からないからフックもつけられない。服の下にはまだ包帯が巻かれているし、髑髏の顔にもあちこちに細かい欠けやヒビが見える。

 無言のキルマに構わず、ディンゴは続けた。

「まあ、一応独立国の親玉ってことになるわな。小さな都市国家で、俺の部隊も合わせて国民は七万ちょいってとこだが。こいつらを守るって約束しちまったから、さっさと一般人を王に据えちまっても、百年くらいはそこにいるつもりだ」

 そして、沈黙が落ちた。傷だらけの戦士が向かい合って立つ光景は、なんだか美しく感じられた。二人の戦士は、宿命の好敵手のような、それでいて長年の親友のような、不思議な雰囲気を漂わせていた。

「アルザメイノスにも誘われたんだが、俺は断って帝国を抜けた。……奴は、まあ、聡明な男さ。皇帝として必要なことをやるだろうな」

 ディンゴの傷顔は、幾らか厳しい表情になった。

「そうか」

 キルマが喋ったのは、それだけだ。

 そんなキルマの顔をディンゴは暫く見ていたが、やがて唇の左端を軽く上げて微笑を作り、背を向けた。

「じゃあ、またいつか会おうぜ」

 そう言って左腕のフックを振り、ディンゴは去っていった。

 あれは何だったのだろう。ルナンは竈の番の間にも、たびたびそのことを考えてしまう。

 それでもなんとか失敗して叱られることなく役目を終えた。出来上がった料理を女達が運んでいく。客人向けの広間には大きなテーブルが並んでいて、既に村の有力者達が集まっていた。その中には体格がごついだけで、あまり有力者というほどでもない者もいた。カートナーとクレイは参加していない。クレイはともかく、カートナーは若者達のリーダーだし宴に参加してもいいと思うのに。傷のせいで辞退したのだろうか。ルナンはふとフィーナのことを思い出して胸が痛んだ。

 あんなに仲が良かったのに。皆、それなりに幸せだったのに。あれから色々と、変わってしまった。

 主賓の席に、キルマが座っていた。いつも肌身離さずにいる大鎌は、珍しく宴席に持ってきていない。髑髏の白い顔が、ちらりとルナンに向けられた。ルナンは黙って頭を下げた。

 今夜の宴はキルマのためのようなものだった。村長が丁重に招き、キルマはそれに応じた。ちょっと他のカイストには不公平な気もするけれど、キルマはそれだけ働いたのだからとルナンは思う。また、キルマを怖れ、忌み嫌っているようだった村の人達が感謝の宴を用意してくれたことが、ルナンには嬉しかった。

 豪華な料理がテーブルに並べられるのを、村長は笑みを絶やさずに見守っていた。他の男達の顔は何処となくぎこちない。髑髏の顔を平気で晒しているキルマを前に、緊張しているのだろうか。

 自分の席も用意されているのかな。ふとそんなことを考えてルナンは恥ずかしくなった。確かにこんな豪華な料理は、この先一生食べられないだろう。

 そういえば、トラケンの富豪の宴にキルマと参加した時にも、そんなことを考えていたような気がする。あの時は、散々な結果だったが。

 料理が並べ終わり、女達の一人がキルマの前の杯に酒を注いだ。他の男達に注がれるものとは違う、特別な高級品のようだ。

 キルマは黙ったまま、身じろぎもせずに座っていた。

 どうやら自分の席はないらしい。ルナンはちょっとがっかりしながら、広間の隅でそれを眺めていた。キルマも席を勧めてくれればいいのに。

「それでは乾杯と行きましょうか」

 村長がニコニコして立ち上がった。

「二月前、ゼトキア将軍の軍勢がテロッサ領に攻め入ったと聞いた時には、我々ももう終わりかと覚悟したものです。それが、帝国領に組み入れられたとはいえ、こうして被害を受けることなく平和に暮らしていけるのも、全てキルマ様のお陰です。どうか、キルマ様、杯をお取り下さい」

 村長の言葉に、キルマは静かに左手で杯を取った。

 なんとなく、ルナンは違和感を覚えていた。村の宴席にはルナンも給仕役として立ち会ったことがあるが、流れや雰囲気が何かおかしかった。村長が急いでいるように見えたし、村人のぎこちない表情が……。

 いや、でも、あのゴスメロのようなことは、ない筈だし……。キルマは村の恩人なのだから。

「それでは、キルマ様の今後のご活躍をお祈りして、乾杯っ。さあ、キルマ様」

 村長が杯を掲げ、キルマの動きを待った。男達の視線がキルマに集まっている。

 キルマはゆっくりと、陶器の杯を口元に持っていく。歯と顎の骨だけの口を開いて、茶色の中身を流し込む。キルマは酒を、一気に飲み干した。

 村長は満足げな笑みを浮かべ、自分の杯を傾けた。男達も自分の酒を飲んだが、彼らから拍手は出なかった。

 グバッ、と、キルマが妙な声を出した。

 キルマが口から大量の何かを吐いた。それは飲んだばかりの酒ではなく、真っ赤な血液だった。

 キルマの手から空の杯が落ち、床にぶつかってガシャリとあっけなく割れた。

 ルナンは信じられなかった。何が起こったのか。まさか、キルマに毒を飲ませたなんてことはないだろうに。ベオニールもいるのだ。ゴスメロの時、毒が入っているのをベオニールが確認して教えてくれたとキルマは言っていた。それに、普通の毒はカイストには効かないという話だった。だからキルマが毒を盛られた筈はない。村長が、村の皆がキルマを毒殺しようなんてことは……。

「止めを刺せっ」

 村長の叱咤で男達が立ち上がった。キルマもなんとか席を立つが、よろめいて左手は宙を掻く。女達は素早く広間を去っていく。

「早く出るのよ」

 養母に背中を押されたが、ルナンは動くことが出来なかった。あのキルマが血を吐いている。あのキルマが。まさか、本当に酒に毒が。でもどうしてキルマが。どうして皆でキルマを殺さないといけないのか。

 男達の何人かが懐から短剣を抜いた。村では見たことのない綺麗な剣だ。恐る恐るキルマに歩み寄るが、村長に「やらんかっ」と怒鳴られ一斉に襲いかかった。

「どうしてっ、どうしてっ」

 ルナンは叫び出していた。キルマの胸に腹に首筋に、村人達の刃が突き刺さっていく。彼が全力で守ろうとした者達の刃が。

「これが和平の条件だ」

 村長がルナンの問いに答えた。

「わしらでこの男を始末することが条件だった。これ以上戦が長引いても良いことはない。使者はカイスト殺しの毒入り酒と剣をくれ、確実にやれると保証してくれた。だから村を守るためには、やらねばならんのだ」

 キルマは動かなかった。何も言わなかった。人形のように刺されるがままに任せている。壁に押しつけられた背中がズルズルと下がっていく。血の染みが壁を汚す。

 キルマの目が、ルナンを見つめているような気がした。ゾッとする感覚。それは、ルナンが裏切ったと思われたのではないかという恐怖。髑髏の顔では表情が分からない。

「嫌……嫌あああああっ」

 ルナンは叫んだ。叫びながらキルマに駆け寄ろうとした。近くにいた男がいきなりルナンの顔を殴りつけ、そこでルナンの視界は暗転した。

 闇の中で、男達の狂騒が続いていた。

 

 

  三

 

 少女の心も知らず、ワズトーを覆う朝の空は晴れていた。まだ昇りかけの太陽は柔らかな日差しを投げかける。

 ルナンは村外れにある小さな小屋に向かっている。養母が教えてくれた。養父は仏頂面だったが、ルナンのことを心配しているようでもあった。赤の他人とはいえ、もう十年近くも一緒に過ごしてきたのだから。それはありがたくもあったし、今の彼女には鬱陶しくも思えた。

 昨夜殴られた頬は今も腫れ上がってズキズキと疼く。奥歯も一本ぐらついているようだ。でもそんなことはどうでもいい。

 草地から荒れ地へ。村を囲む柵ぎりぎりのところに薄汚い小屋がある。幼い頃、両親との最後の別れにそこを訪れた覚えがある。フィーナだった残骸も、埋められる前はそこにいた筈だ。

 霊安所という呼び名にはルナンは違和感を持っていた。本当に霊魂なんてあるのだろうか。両親は死んだ後、一度もルナンには会いに来てくれなかった。人間は死んだら終わりで、何もかも消え失せてしまうのではないか。一般人も皆生まれ変わるとマクバル・アズスは教えてくれたけれど、彼ももう死んでしまい、二度と保証してはくれない。

 小屋の前にクレイとカートナーがいた。クレイは額に長い傷痕があり、指が何本か欠けている。カートナーも顔にひどい斜めの傷があって、鼻筋にパックリと深い溝が残っている。特にカートナーはもう少しで傷が脳に届くところだったとかで、今も無理は出来ず、甲冑も着けていない。

「ルナン」

 クレイがこちらに気づいて声をかけてきた。ルナンは黙って頷いて、小屋の扉に触れる。

 カートナーが言った。

「昼までに帝国の馬車が来るそうだ。証拠の死体を引き取りにな」

 カートナーは怒っているようで、きつい目をしていた。

「一応言っとくがな。俺もクレイも聞かされていなかった」

「分かってる」

 ルナンはそれから、扉を開けた。

 がらんとした小屋の中央に、キルマは仰向けに横たわっていた。血のついた毛布の上に、黒いボロクズみたいになって。大鎌は壁に立てかけてある。

 キルマの、髑髏の顔。左の目がなくなっている。村人に刺されて、抉られたのだろう、周囲の骨も削れていた。瞼がなく開いたままの右目は、膜を張ったように濁り、乾いていた。

 キルマが死んだ。キルマが動かなくなった。村を命懸けで、守ってくれたのに。なのにどうして、こんなひどい目に遭わないといけなかったんだろう。

 涙が溢れ出して、ルナンは何度も何度も拭った。喉の奥から勝手に嗚咽が洩れた。キルマの無残な姿から、目を逸らしたくはなかった。

 キルマの横にベオニールがいた。添い寝するように静かに寝そべって。黒い怪物馬は、いつもと変わらぬ穏やかな目でルナンを見守っていた。

 何故、ベオニールは、キルマを助けてくれなかったのだろう。ずっとキルマに従って、一緒に戦ってくれたのに。ゴスメロの時は、毒が入っていると教えてくれたそうなのに。どうしてキルマを殺した村人達に復讐せず、こうやって大人しく添い寝しているだけなのだろう。ルナンは納得がいかなかった。

「俺は、ワズトーを出る」

 カートナーが言った。

「ラ・テロッサに行く。俺はディンゴに弟子入りして、カイストになるつもりだ。目的があって、根性さえ強けりゃなれるって話だからな。……もううんざりだ。自分がこんなに弱っちょろくて、何も出来ないってのは。本当に、うんざりだ。強くなってやる。誰よりも強くなってやるよ。こんな糞みたいな茶番を、まとめてぶっ飛ばせるくらいにな」

 カートナーの声音は怒りに震えていた。彼なら、なれるのかも知れない。そんなに力一杯、怒れるのだから。そしてルナンはただ、泣くことしか出来ない。

「ルナン……。人生に、絶望なんかするなよ」

 クレイが言った。彼にしては珍しく、力強くて、決意の滲む声音だった。

「お前のことは、俺が守るよ。そりゃあ、彼に比べれば、俺の力なんて豆粒みたいなもんだけれど、それでも、俺が、全力で、お前を守るよ。……だから、投げ遣りになったり、するなよ」

 ありがとう。分かってる。ありがとう。ルナンは心の中で呟く。でも、もう、ルナンには、何もかも、どうでもいいのだ。キルマは死んでしまった。もう、取り返しはつかないのだ。

 涙が滲む。ベオニールは首だけ起こしてルナンを見ている。キルマが死んだというのに、そんな穏やかな顔で。どうしてキルマを助けてくれなかったの。どうして村に復讐しないの。ルナンは心の中でベオニールを恨んでいたかも知れない。

 ……それがキルマの望みだったからね……

 声がした。ルナンの頭の中に。声じゃなかったかも知れない。でも自分の考えではなかった。

 ……君と契約した内容はワズトーを守ること。キルマはそれを果たすために自分が犠牲になった。村長達の考えも毒のことも全部分かっていたよ。でも、ワズトーの安全のためにはここで殺されることが最善だったんだ。帝国の丞相イスメニアスも、それを見越していたんじゃないかな。ワズトー防衛に参加していた他のカイストも、何人かは予想していたよ。ディンゴもね。本当に、落としどころのつけ方としてはよくあるパターンなんだ。僕は何万回も見てきたし、キルマも百回以上はこうして殺されてきた筈だよ……

 考えがさらりと流れてくる。これがベオニールの念話というものだとルナンは気づいた。クレイとカートナーは相変わらず神妙な顔をしているから、ベオニールはルナンにだけ考えを伝えているのだろう。

 ルナンはディンゴの訪問のことを思い出した。あの時、何か言いたげなまま黙っていたのは、そういうことだったのか。

 でも、ルナンは、納得がいかない。どうしてそこまでするのか。ワズトーを守るためといっても、そのワズトーの人達に裏切られたのだ。それなのに、どうして進んで命を捨てることが出来るのか。

 ……それが契約だからさ。更に言うと、報酬が欲しいからだよ……

 ルナンの考えを読んだらしく、ベオニールの答えが返ってきた。

 ……カイストだって、報われたいんだ。感謝されたい。自分が長年積み上げた努力が無駄だと思いたくない。何かの役に立って欲しいし、誰かの幸せに貢献したい。そのためには命だって捨てられるさ。そのために、カイストをやってきたのだから……

 もしそうだとしたら、カイストの生き方というのは、なんて凄まじいのだろう。

 ……カイストは記憶と力をそのままに生まれ変われるから、君達がそんなに気にすることはないさ。逆に、君達のそれぞれの人生は大切なものだ。簡単に捨てて欲しくはないな……

 ズキリと来る指摘。確かに、絶対に自殺はしないとキルマに約束したのだった。

 報酬。ルナンはまだキルマに報酬を払っていなかった。報酬の内容に、冗談かもと思ったこともあった。でも、キルマが本気で報酬を求めていることも分かっていた。

 キルマは自分が死ぬことで、契約を果たした。

 なら、今度は、ルナンの番だ。

 ベオニールが先の尖った尻尾を左右に振っている。報酬を払うところを見届けますよ、というふうに。

 血塗れのキルマのそばに、ルナンは膝をついた。手を伸ばして、薄い筋肉がついただけの頬に触れてみる。

 硬く、冷たい感触だった。キルマの髑髏の顔は、どんな断末魔も浮かべようがない。

 いや、もしキルマに顔があったとしても、静かで無表情な死に顔であったかも知れない。ルナンにはそんな気がした。

 ルナンは左手をキルマの背中に差し込み、少し持ち上げてみる。沢山の血が流れ去ってしまったためか、意外に軽かった。

 灰色の髪を撫でる。乾いた血がこびりついていたが、汚いとは思わない。ただルナンの胸に、切ない痛みだけが沁みていく。収まりかけていた涙がまた溢れ出した。

 ルナンは身を屈めて、顔をキルマの顔に近づけた。

 唇が、キルマの歯と顎の骨に触れた。冷たいが、不快な感触ではなかった。

 生まれて初めての接吻の相手が、髑髏の顔をした死体であることを、ルナンは後悔しないつもりだった。

 クレイが息を呑む気配。ごめんねと、ルナンは心の中で呟く。

 数秒してゆっくりと唇を離した時、キルマの右の目が動いたような気がした。

「あっ」

 ルナンは思わず声を上げる。キルマが素早く起き上がってベオニールに飛び乗った。ベオニールはそれを待っていたらしく既に立ち上がっていた。

 キルマは生きていたのだ。あれだけの傷を負って。

「確かに報酬は頂いた」

 あっけに取られたルナンに向かい、キルマは左手を振ってみせた。血塗れの手を。

 ハハッハッ、と、キルマが声を上げて笑った。心底気持ち良さそうな、爽快な笑い声だった。

 ベオニールがキルマを乗せて駆け出した。そのまま小屋の壁をぶち破って出ていってしまう。村の柵も越え、素晴らしい速度でみるみるうちに遠ざかっていく。クレイとカートナーは唖然として突っ立っているだけだ。

 ハハハハッ。キルマの笑い声がまだ聞こえていた。

 騙された。

 段々おかしさが込み上げてきて、ルナンの口元は自然に笑みを作りかけた。

 だがすぐに、その場に転がっているものに気づいた。

 キルマが愛用していた、長柄の黒い大鎌。

 ああ、そうか。やっぱりキルマは、もう……。

 また涙がどっと溢れ出してきて、ルナンの視界は歪んだ。

 それでも彼女は泣きながら、微笑を湛えながら、小さくなっていくキルマの背に向かって手を振った。

 キルマが見えなくなっても、ルナンは手を振り続けた。

 

 

  四

 

「しまったな。鎌を忘れてきた」

 駆け続けるベオニールの背で、キルマは呟いた。

「持ってくるべきだった。……悟られたかも知れん」

 もうキルマに、先はないということを。

 ルナンの前で見せた勢いはとうに失せ、キルマは小さな掠れ声しか出せなかった。

 ……仕方ないよ。取りに戻る余裕もないし。それにしてもよく動けたね……

 ベオニールの思念は感心しているようだ。

「無理もするさ……彼女の心に、傷を残したくなかった」

 ……さて、これからどうしようか。帝国に君を運ぶのもなんか嫌だな……

 キルマは内心で苦笑する。

「ラ・テロッサが……いい。ディンゴなら、うまくやってくれるだろう」

 気を利かせてラ・テロッサに埋葬してくれるかも知れない。キルマの死は確認したとディンゴが言えば、帝国も頷かざるを得ない。

 まあ、自分の死体など、どうなっても構わないのだが。『屈葬』をされない限りは。回収しなければならないような大切な持ち物も、特にない。

 ……大切なものは心の中にあるからね……

 うまいことを言う。もう声が出ないので、ベオニールには思念だけで応じる。キルマの上体は少しずつ、前のめりになっていく。姿勢を正そうとするが、うまく力が入らない。

 ……可愛らしい依頼人だったね。残念ながら、百三十八万年前のルナンとは別人だけれども……

 それは関係ない。名前が同じというだけで勝手に重ねてしまったら、互いに失礼になってしまうだろう。だから、彼女にも説明しなかった。

 ……でも、気になってはいたね……

 それはそうだ。

 少なくとも、今回は彼女を守れたし、綺麗に依頼も果たせた。

 ちゃんと報酬も、貰った。

 ……すっきりしたかい……

 ああ、すっきりした。

 キルマの体が横に、ずれていく。感覚がどんどん鈍くなっている。

 ……顔の呪いは、解けそうかな……

 ベオニールがまた尋ねた。彼はうまく胴体をひねって、ずり落ちそうになったキルマを支え直してくれる。

 ああ、もしかしたら、解けるかも知れない。

 なんとなく、そんな気がする。術者が既にいなくなった呪い。キルマの後悔の証。長い間、心の奥底でわだかまっていたそれが、彼女の口づけで、溶かされていくようだ。

 ベオニール。手伝ってくれて、ありがとう。

 考える力も弱まって、キルマは思念の伝達をこれで最後にした。ベオニールの背中は温かくて心地良かった。

 ……どう致しまして。貢献出来たのなら、僕も嬉しいよ……

 ベオニールの思念も温かかった。

 キルマの暗くなっていく視界に、素晴らしい速度で流れゆく荒野が映っていた。

 

 

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